アリとキリギリス
アリとキリギリス
伊坂 尚仁
その一 桐山
我、革命を欲す。
闇の中に轟く、人生に見放されたと信じ込んでいる女の悲鳴のようなサイレンは、またも男を安眠から遠ざける。いまだ夢の世界に片足をかけたままでいた男は、薄闇の中に広がる、空き缶とカップラーメンの空容器、灰皿から溢れ出ているフィルターまで吸い尽くされた煙草の吸殻に目をやり、そこが自分の住まいであることを確認した。そこは、よくもこれだけ狭いスペースに人間一人が住めるものだといった手の、六畳一間、便所は共同、風呂はなしのアパートであった。
男は薄闇に浮かび上がる自身の部屋を見やり、格差社会の現実と、一文の値打ちもない思想の軽さを痛感させられる。
共産主義は傷ついた魂を救うことはできないが、資本主義はその魂を慰めることが可能だ。巷に溢れる救いを求める魂たちは、資本主義社会がもたらす黄金の果実に慰めを求め、その果実の中に新たな価値を観念づける。一般的等価形態である貨幣により順位づけられたそれらの価値は、本来気高いはずである思想の安っぽさを浮き彫りにする。
掛けぶとんの丈が足りずに、万年床からとび出している爪先に目をとめると、昨日五年ぶりに道端でばったりと出くわした知人のハンサムな顔が突然眼前に表れた。
豚野郎!
そいつは妻子を伴い歩いていた。美しく太り始めた奥さんと、美しいが意地の悪そうな顔をした十歳くらいの娘と一緒に。
奥さんは愛想よい女を装い微笑んでいた。娘は奥さんの本音を代弁しているかのような蔑んだ目つきで、三十センチ下から男を見下していた。そして旦那は、その家族の主人は、ピンクベージュのパンツに白のポロシャツという、富裕層を目指してがんばっている者たちが好む服装をして微笑んでいた。いや、嘲笑っていた。両膝に穴の開いたリーバイス501のもっと下にある、もとは皮の色をしていたが砂色に変色してしまい、踵が磨り減り地面にぺったりと密着してしまっているブーツを、奴の笑いを含んだ相貌は見つめていた。
「資本主義の豚野郎が!」
男は蒲団の中で、低い声で激しく罵った。
男は思う。こうしたどん底の生活を味わっている人間が日本国内に、いま現在、いったいどれくらい存在するだろうか? 五年前より読み始めたがいっこうに完結する兆しのみえないマルクスの著作をコースター代わりに使用している男は、グラスに三分の一ほど残っている透明の生温かい液体を一口すすった。
「……まずい」
本来アルコール飲料であるはずの液体からは既にアルコールは抜け去り、生ぬるい、ただの液体として嫌な後味を男の口中に残すだけであった。お徳用サイズである、1・5リットルのペットボトルには、その安価なアルコール飲料は既に残っていない。
「クソッ」
空腹だった。この三日間、液体以外男は何も胃に入れていなかったが、男に今必要なものは食物ではなく、アルコールであった。
「飲みたい……眠れない……眠れない……飲みたい」
現在仕事に就いていない男は、肉体的な疲労を感じていなかった。肉体的な疲労を伴う労働に就いていればきっと安らかな睡眠もおとずれるのだろう。こういう場合、睡眠を得るのに必要なのは、男の経験上知り得る限りアルコール飲料だけであった。
「しっかり睡眠をとったところで、どうせお前にはやらなきゃならない仕事があるわけじゃないんだ」
男は自嘲気味に、そっと呟いた。灰皿に山盛りになっている吸殻の中から、フィルターの先に少しでも葉が残っているタバコはないものかと探したが、それは無駄な努力であった。
あいつは……あいつは随分と金回りがよさそうだったなあと、昨日の再会シーンを思い起こしてみる。
「よう、有吉……久しぶりだな」
そう話し掛けた男に対し、五年ぶりに再会した知人は応答してよいものかどうか迷っている様子であった。美しく太り始めた彼の女房は、あなたこの人と知り合いなの?といった困惑気味の表情を浮かべて、左隣で優男風のハンサムな知人の様子をうかがっている。娘は娘で、パパ、この貧乏そうな人ともしかして知り合い?といった疑いの眼差しで、右隣でやはりハンサムな父親の優男風の顔を見上げている。
どうした?なんとか言えよ、この野郎!
「やあ……君の名前は……確か、桐山くんだったね?」
思い出したかい?俺のことを。同期で入社した桐山だよ。覚えているかい?新入社員の歓迎会で、酔い潰れてゲロゲロになったお前を会社の寮まで連れ帰ってやった桐山だよ。同じく同期入社した向井さんっていう女の子が好きだというお前のために、デートコースから女の子好みのファッションまで手広く面倒をみてやった桐山だよ。向井さんに告白して、見事にふられたお前に付き合って、次の日に仕事を控えている身にもかかわらず朝までヤケ酒に付き合ってやった桐山だよ。仕事の覚えの悪いお前に、現場での仕事のコツを特別にレクチュアしてやった桐山だよ。覚えてないのかい?なあ、すっとぼけてないで思い出せよ、コラ!先輩にかまわれているお前を何度もカヴァーしてやったじゃないか、おい!
「娘さんか?大きくなったじゃないか」
パパ、誰なの?この人。
男、桐山の耳にも、娘と見られる小生意気な女が放つそのような囁きが、風に乗って薄っすらと流れてくる。
いいからここはパパに任せておきなさい、といった調子で娘をあしらう元同僚を、桐山は睨みつける。
「なんだか、あの会社でのことは、全部忘れちまったみたいだな」
有吉はその問いかけに気弱な笑みで応えた。現場作業の手際の悪さで、先輩に追及されたときも同様の笑みを浮かべてやり過ごしていたことを桐山は思い出していた。いっそ、カミさんや娘の前でお前のとろ臭かった昔の様を暴露してやろうか?などと、桐山は表情を険しいものへと変化させた。
「同期?だったよね?確か」
思い切り疑問形で応じる有吉を、桐山は絞め殺してやりたい衝動に駆られる。
「ああ、そうだよ。思いっきり同期だよ」
有吉はいま顔と名前が一致したとでもいうような、本気ではない微笑み方で応じた。
「君はいま、どこの部署にいるのかな?」
桐山はこの攻撃には思いの他冷静だった。五年前の大掃除が行なわれたとき、同期入社の連中の、誰が生き残って、誰がはじかれたか、当時総合管理職の道を歩み始めていた有吉が知らぬはずはない。それとも、デブなカミさんや、小生意気な娘の前で自分の優位さをわざわざ披露して楽しみたいのかな?
「わざとらしくボケるなよ」
おそらく、管理職、管理職候補の間で回されることになる人事ファイルに目を通し、リストラのゴーサインにも迷わず首を縦にふったことだろう。一応自主的に退社したことになってはいるが、どの道ゆくゆくはリストラの憂き目にあったであろうことは間違いない。四十間近になった者にとって五年前というのは、そうした事実を思い出せなくなるほどの遠い過去というわけではない。
「そうか……そうだったんだ」
わざとらしくボケた有吉は家族の前で爆弾が炸裂した場合、上手く逃げ切れるよう、ほとんど素性を知らぬ人間だという態度を崩さない。これでは桐山がかつては知り合いだったと力説してみても、かえって分が悪くなるばかりだ。
「なあ、有吉。お前、いま、時間あるか?」
単なる思いつきであった。他人のふりをし続けるこいつがどういった反応をみせるだろうかと。おそらくこいつは応えるであろう、今日は家族が一緒だからね。そうだ、また今度一緒に飲まないか?連絡先を教えてくれよ。
「ああ、今日はうちの連中も一緒だからね。今日いっぱいは彼女たちに付き合わなけりゃならないんだ」
有吉の態度はよそよそしいものから、徐々に打ち解けた様子へと変化していた。僕は昔の同僚に冷たくあたったりはしない、僕はいい人なんだよ、とでも言いたげに。
「はっはっは、今度時間ができたら一緒に飲もう。きみの連絡先を教えてくれないか?」
「それより、お前の電話番号を教えろよ」
逃げ道は与えなかった。桐山は有吉から聞き出した番号に電話をかけ、相手の携帯が反応するのをしっかりと確認した。
「きみの番号も登録しておくよ」
そう応じる声が少しだけ震えていたのを、配偶者である飽食気味のこの女と過保護に育てられた生意気な小娘は気づいたであろうか? 自分の夫が、父親が、本当は怯えているのを。小さな優越感はしかし、桐山の空腹を満たしはしなかった。
二人が同期入社したのは今から二十年も昔の話であった。お互いに高卒であり、お互いが社会に対してはまるっきり無知であった。有吉の家庭も桐山の家庭も特別貧しいというわけではなかった。ただ有吉も桐山も共に次男坊であり、次男であるが故に彼らの両親は教育に金と手間をかけようとは思わなかったようである。そして彼らの両親ともが高度成長期の申し子であり、ただ勤勉であることこそが美徳であると固く信じているくちだった。
寄らば大樹の影。口にこそ出さなかったが彼らは、特に桐山のほうは両親の態度をそうしたものだと受け止め、またそれを実践するよう教育されたと信じ込んでいた。
とにかく真面目に働きなさい。特別に偉くなる必要なんかないの。普通でいいの。他人に迷惑をかけることのない、普通で正しい人間になりなさい。普通ほどいいものはないのよ。ね?
桐山は幼い頃、母親によくこう説かれたことを思い出していた。
普通が一番。高望みすればそれだけ深く落ちることになるのよ。普通に生きて、普通に死んで、普通に葬られる。これほど普通なことって、この世にあるかしら?
「馬鹿らしい!レーナード・スキナードの歌じゃあるまい。死ぬまで搾取され続けなければならない労働貧民になることを、若い息子が望むと本気で思っているのか?」
たとえ受け売りではあったにしても、それは実際に働き始めた桐山の本音であった。もっともそうした、搾取などといった単語を使い始めるようになったのも、仕事を辞めたここ数年の話なのだが。
グラスのコースター代わりに利用しているマルクスをわきにどけると、蒲団の中で百八十度転換し、枕の上に両足を投げ出した。桐山は眠れない夜、よくこうして両足から熱がひくのを待った。こうしたからといって眠りがおとずれるようなこともなかったのだが、基本的に桐山は、意味ある行為よりも無意味な行為の中にこそ意味があるものと信じたがっていた。それは、自分の存在そのものが意味をもたないことを認めている証拠でもあった。
桐山は空腹感の中で記憶をもてあそび始める。ああ、あの頃はよかったなあ、と。
有吉と桐山が同期で入社したのは、食品などに使用されるビニールの袋に施される印刷を手掛ける会社であった。桐山がその仕事を選んだことになんらかの意義をもっていたというわけではない。ただ、日本経済がまだ堅調だった当時はその会社も昇り調子であり、したがって普通こそが最大の目的であるとの教育を受けてきた桐山にとっては候補の真っ先に上がるような会社であった。二人の他にも男性社員が三名、女性社員が三名の新卒採用者がいたが、みな似通った環境で育った者たちばかりであり、新鮮さといったものは一切感じられなかった。それは桐山にとっては学生生活の延長であり、自分を支配する者が両親や教師から資本家に代わったというだけの話であった。
「絵里子は元気かな?」
桐山は、そっと声に出してみた。
「いまじゃあいつも、子持ちのデブいおばさんさ」
絵里子という名の女性は、有吉や桐山と同期で入社した女だった。同期入社した新入社員の間ではとびきり遊び人風の容姿をもった、桐山好みの女であった。出会った頃この絵里子には学生の頃より付き合っていた彼氏がいたはずだったが、そんなことは桐山にとってはなんの意味も持たなかった。社会人としての始まりの始めである新人研修のときに、桐山は既に絵里子に唾をつけていた。比喩的な意味ではなく、物理的な意味で。
「絵里子はおっきな胸をしてたなあ……」
空腹を紛らすため官能的な思い出に浸りながら、桐山はしみじみと呟いた。下半身は思い出に反応していたが、腹が減り過ぎてマスをかく気力さえ湧いてこない。
「いろんな場所でヤッたっけ。夜のダムとか会社の空調設備室とか、夜のプールサイドとか飲み屋街の公衆便所とか……」
絵里子とは二年半付き合ったはずだが、セックスの回想シーンを除くと、空腹の桐山の頭に浮かんでくるのは、二人で食事をとっているシーンばかりであった。
「二人きりでアパートで過ごして、夜中にとんこつ醤油を売りにしている国道沿いのラーメン屋へよく出かけたっけ……」
彼女の気持ちは別として、桐山には彼女との関係をその後も続ける意思などまるっきりなかった。彼女には家事一切をこなすことは不可能に思われたし、桐山はもっともっと色々な女と遊びたかったからだ。
「ベーコンエッグ一つまともに焼けないんだから……。その点、陽子さんは別だった。彼女は大人の、いい女だった……」
同じ会社に勤める総務課の先輩である二つ年上の陽子という名の女との朝食を、桐山は思い出していた。カリカリに焼いたベーコンに、フォークを突き立てると黄身が溢れ出す卵。添えられたレタスはシャキシャキとみずみずしく、ネルドリップでいれられたストレートコーヒーは香りで存在を主張する。まさに理想の朝食。黒髪で、長身で、知的な彼女の尻を追い回し追い回し、彼女の部屋で朝食を食べられるようになるまでに半年は費やした。
「アレが終わった後、陽子さんはよくローストビーフのサンドイッチを作ってくれたっけ。それから彼女のお気に入りのイタリアンレストランで食べた、オマールのラヴィオリの美味かったこと……」
桐山は空になったグラスを眺めると、ため息混じりに呟いた。
「陽子さんは、ワイン通だったなあ……」
グラスを自分の目の前まで近づけると、グラスを逆さにし、グラスの中へ自分の舌を突っこんで内側に僅かだが残っている水滴を舐め始めた。
「クソッ、腹が減ったな!酒が飲みたいな!」
自身の行為の愚かさに気づきながらも、桐山は貧乏臭い舌の動きを止められなかった。
結局彼女、陽子は、いつまでも現場作業者に甘んじている桐山に見切りをつけて開発部に席をおく年長の男と結婚してしまった。いずれにしても彼女のような女の場合、ただの賃金労働者という立場では、真から絶頂に達してくれそうにはなかったのだ。
「それに比べて……知恵ちゃんは古風な女だったなあ……」
一年遅れで入社した女である知恵と付き合いだしたのは、陽子と別れた直後のことであった。
「朝も夜も外食も米の女だったっけ……彼女は野暮ったいところがあったけど、可愛い娘だったよなあ、……それに、日本人はやっぱり米だよなあ」
べろべろに酔っぱらって彼女のアパートに押しかけた夜、空腹を訴える桐山のために彼女はよくお茶漬けと、母親に習ったのであろう自分で漬けた漬物を出してくれた。
「あったかい女だった。俺の浪費グセをよく叱ってくれたっけ」
外食するときもスパゲッティやパエリヤなどを頼む桐山と違い、決まって定食を頼んでいた知恵とは、結局半年で別れてしまった。
「千恵ちゃんは、ほんとに心のあったかい女だった……」
万年床の上で転がると、カップラーメンの容器を手に取った。容器に顔を押しつけ貪るように匂いを嗅いでいると、容器の内壁に干からびたネギがこびりついているのを発見した。桐山は小指の爪でグリーンのそのカスを削ぎ落とし、爪についたその物質を吸うようにして味わった。
「美咲ちゃんなら、こんなときおごってくれるだろうな、彼女は今ごろ……」
そこまで口に出し、桐山は辞職する半年も前に彼女が結婚したことを思い出した。
「よりによってあんなくだらねえ野郎と!」
毒づいた桐山は、灰皿に山盛りになっている根元まで吸い尽くされた煙草を手にとると、なかなか点かないライターでフィルターの端っこをあぶった。そうすることでフィルターの角にごく僅かに残されている煙草の葉の、燃える匂いを嗅ぐことができるのだ。桐山は目をつむり、鼻腔から毒気を吸い込んだ。
「アレは下手だったけど、彼女はよく尽くしてくれたっけ」
少年のように骨ばった身体に、夏休みに会う小学生の姪っ子のように浅黒い肌。桐山はしかし、彼女の献身さに打たれた。
「新橋で食べた本マグロ……」
桐山はうわ言のように呟いた。若い彼女は金の使い道を知らないのであろう、だらしのない酒飲みの年上の男に食事をおごることも厭わなかった。
「ねえ、桐山さん。ボーナスが出たら、なにを食べたい?」
「う~ん、ステーキ……かな?」
心の優しい娘だった。しかし桐山は彼女の献身が、男を知らないことによる無鉄砲さからくものであることは知っていた。彼女の色黒の顔と、彼女の払いで最後に食べたステーキを桐山は頭の中に思い描いた。ジュウジュウと鉄板の上で音をたてる肉。牛肉の脇で控えめな香りを放つフライドポテト。しなしなと寄り添っているタマネギと、甘く匂い立つニンジン。
パン、or ライス?
分厚い牛肉を押さえつけ、手にしたナイフで押し切る。脂分は店内の照明で光り輝き、断片の赤さをより劇的に映し出す。
ああ、その切り取られた肉片が、自分の口の中へ放り込まれる瞬間。
ああ、ああ、ああ、ああああ、腹減った。
キュ~ッと、空の胃袋を内側から絞るような音に耐えかね、桐山は自分の頭皮の脂分を含んだ枕を腹に押し当てた。少しの間でも空腹であることを忘れられるように。
ここはソマリアじゃないんだ。現代の日本で餓死するなんてことがありえるだろうか。
桐山は海老のように丸くなり、食べ物のことは考えないよう努めた。
「有吉さん、どうも品質管理のほうへ移るみたいっすね」
気がつくと桐山は、同期入社した仲間の内では唯一の現場作業者となっていた。同期でも大卒で入社した者が出世の階段をのぼっていくのを見るのは、それほどつらいことではなかった。しかし仲間内でも一段と下にみていた有吉の品質管理への移動には、正直面食らった。品質管理は会社の最重要部門とも呼べる、まさに花形職であったからだ。仕事は厳しく高いレベルを要求されるが、その代わり昇進は保証されている。
「なにが品質管理だ、くだらねえ!」
後輩相手に愚痴をこぼしながら居酒屋で生ビールを飲み続ける桐山は、どこの会社にも必ずいる邪魔な先輩になりつつあった。
「ああ、ビールが飲みたい……」
悔しさよりも、思い出すのは、まず冷えたビールだった。ジョッキに冷たい汗をかき、ほどよく苦く、乾いた喉を刺激する、炭酸の黄色い液体。
「ビールと焼き鳥と……そして、焼き鳥とビールと……」
やがて有吉が係長に就任するという話を耳にする。
あの、ドン臭くて要領の悪い、童貞の下戸野郎が?
有吉が係長に就任するということは、桐山の直属の上司になるということを意味している。それはつまり、トロ臭くドン臭い童貞の下戸野郎の命令に従わなければならなくなるということだ。
桐山は、日本経済が衰退していく様を横目で見つめながら、自身はその世界からの離脱を図ろうと考えるようになる。
「こんなクソ仕事、やってられるか!」
ヤケになった桐山は、次第に風俗店に入り浸るようになる。ローションにまみれたマットの上で、桐山は心優しい風俗嬢たちに社会の不平等を説き始めた。
「俺がお金を払って、きみと一発ヤルだろう?きみはお金を受け取り、俺からはお金が離れていく。人間、どこかで誰かが儲けたとしたら、その分はどこかで誰かが損をしているということなんだ。日本が戦後これだけ急成長した裏には、逆にそれだけ貧しく落ち込んだ国が存在するということを意味しているんだ」
「ええ~っ、わたしむずかしいはなしよくわかんな~い」
その頃マルクスの著書を読み始めていた桐山は、得意になって風俗嬢に向かって力説していた。
桐山がそうした種類の本を読み始めたのにも大した理由があったわけではない。ただ歳も歳だし、なにかちょっとばかり難しい本でも読んで、他人に知識をひけらかしてやろうというスケベ心からだけであった。しかし徐々に、独りで読書を続けている人間にはありがちなことだが、他人の思想を自分の思想と思い込むようになっていく。
この社会は、完全に資本家どもによって食い物にされている。弱者からの略奪はやむことを知らず、生まれながらにして取引の手段をもたない者は、永久に資本家に従属させられる運命にあるのだ。……などなど。
しかし一般作業者のレベルでは風俗店通いなど続けられるわけはない。しかも会社は二年連続の大赤字で、そのレベルは会社創始以来初といった深刻さであった。
「桐山君、君はまだ若いよね。聞くはなしだと、やっぱり三十五までなんだよねえ、新しい仕事がみつかるのって」
おいおい、俺の後輩たちのほうがもっと若いだろうに。そんなこと、誰にだってわかることじゃないか?
「三十五って歳は、やっぱりターニングポイントになる歳なんだろうね、僕ももう少し若かったらなって思うよ。だってこんな危ない会社じゃあ、この先心配だもんね」
じゃあお前が辞めろよ!と、喉元まで出かかる言葉を桐山は飲み込んだ。三十五が限界って、俺はもう三十四だぞ、オイッ!
「君はまだ、独身だったよね?知ってるとは思うけど、まず既婚者の雇用を考えたいよね」
鈍くて理解力の乏しい人間だと思われることを不快に感ずるのは、ごく普通の反応であろう。桐山は上長の、まるで幼稚園児でも相手にしているような優しい口調に腹が立った。しかし腹が立ったからといって、辞めてやると言いきってしまえるほど怒りも感じていなかったし、また度胸ももっていなかった。この不景気の時代に自分から会社を辞めようとは、いかに将来を見通す能力に欠けている桐山といえども軽々しく口にはできることではなかった。
「この俺様が同期入社の奴の部下だと?しかも、あんな下戸野郎の?あんな童貞野郎の?」
後輩と出かける焼鳥屋で、桐山はいつものようにくだをまく。
「飲み過ぎですよ桐山さん。それに有吉係長は既婚者……」
「うるせえっ!俺はあんな奴の下じゃ、絶対に働かんぞ!」
「先輩、あんまり先走らないほうがいいですよ。なにせ、こんなご時世なんだから」
「おい、俺が今この国になにが必要か教えてやろう……革命さ」
悪酔いした先輩ほど性質の悪いものはない。辞職を思い止まらせようと、後輩も一応は気遣ってみせるも、本音はこんな先輩いなくなってもらったほうがよっぽど会社のためになろうというものだと思っていたに違いない。
「市村、俺はあんなつまらん会社は辞めてやるぞ……辞めて……クーデターを起こすんだ」
焼鳥屋の表で具合が悪くなりしゃがみこむ先輩の背中を、市村という名の後輩は律儀にさすってやった。おそらくは、こんな人間にはなりたくないものだと思いながら。
「どいつもこいつも、くたばっちまえ!」
両親は兄夫婦と同居しているために頼れない。また、幼い頃より父親と折り合いの悪かった桐山は、父親をあてにする気などさらさらなかった。失業手当の支給日を心待ちにしつつ、薄汚れたアパートの部屋で独り、焼酎をすすりながら「資本論」を読みふける。頭の回転が速いとは言い難い桐山は、その本を感心深げに何度も何度も読み返しているように見えるのだが、実際には何度読んでもいっこうに理解できないため、何度も何度も一度読んだところへ立ち返って読み直す、といった作業を繰り返しているだけであった。頻繁に出てくる注釈の部分を読んでいると、既に本文の内容を忘れてしまっているといった有様であり、第一巻から先へなかなか進めなかった。ただ桐山が理解していたことは、会社が略奪者であり、自分は搾取の対象であるということだけだった。
ああ、俺は被害者なんだ。俺ってなんてかわいそうなんだろう!
かわいそうだろうが被害者であろうが、人間は生活手段(食べ物と、人によってはアルコール飲料)がなければ生きてはいけない。それはわざわざ本を買ってまで教わる必要のない、身体が自然に教えてくれる現象であった。風俗店通いが祟って働いている期間にためた貯金もごくわずかになってしまっていた桐山は、法に外れた解決策も考慮するようになる。
こんなのはどうだろう?オレオレ詐欺を装って、自分の両親から金を騙し取るっていうのは?
名案かと思われたが、その案が使い物にならないことに桐山はすぐに気づいた。たとえ本当のトラブルであっても、あの父親が息子のために金を払うわけがないと。おそらく、息子とは縁を切ったの一言で終わりだろう。
「それにしても、腹が減ったなぁ……」
桐山自身、まさかこのような就職難が現在まで続くとは思っていなかった。労働者市場から商品である労働者は溢れ出し、安易に職を選択すると、賃金の安さで労働力の搾取度を示される。足繁く通うハローワークには長蛇の列ができ、表通りでは若い女が彼の目の前をBMWで通り過ぎる。
「俺たち、底辺の人間は死ぬまで搾取され続ける運命なんだ。それは生まれたときに既に決められている。問題は、この社会、資本主義のこの社会構造にあるんだ。今こそ、革命を!」
桐山は人差し指を振り上げて演説し、自分が革命指導者となる様を空想しては喜んだ。
だが、まず必要な物は生活手段。食料か酒であった。できれば両方あるのが望ましい。アパートの家賃は三か月分滞納しており、大家の爺さんと出くわすことはできなかった。ああ、誰か助けてくれる人はいないかなあ。できれば女、でなかったら男でもいい。
桐山は金を貸して(できれば永久に)くれそうな知人を片っぱしからリストアップしてみたが、意外と、というか当然というか、そうした人物は自分の周りにはいなかった。
なんてこった……。資本家は俺から総てを奪い去ってしまった。
桐山にとって自分の不幸の原因は、総て資本家によるものであった。
有吉……、あいつはどうだろう。
俺はあいつが酔い潰れたとき、最後まで介抱してやった。それに、あいつがのぼせ上げた向井さんとのデートもセッティングしてやった。先輩との飲み会で、面白がった先輩が酒の弱いあいつに酒を注ぐのを阻止するために、自分からすすんで酌を受けたこともあった。
「桐山くん……ありがとう」
「バカ、気にするなよ、同期じゃないか」
それはとってもヒューマンなおこないだったはずだ。感謝してもらいたいわけじゃなくて、自分がそうすべきだと思ったからそうしたまでのことだ。今こそ、あいつは、有吉は感謝すべきなんじゃないのかな?どこかの詩人も言ってたじゃないか。人は生きている間は、借りを作り続けているんだとか……。
そうとも。あいつは俺に借りがあるんだ。借りはしっかり返してもらわないと!
桐山は六年前に中古で手に入れた携帯電話を手に取ると、昨日登録したばかりの番号に発信した。
そのニ 有吉
セミダブルとシングルをつなげて一つにしてあるフランスベッドで眠りを貪っていた有吉は、サイドテーブルの上でブーブーいっている音で半目を開いた。
「誰だよバカ野郎……」
そううめく有吉が塗り壁を模した白っぽい壁紙にかけられた丸時計に目を転じると、時計の針は午前三時を指し示していた。
午前三時?管理職である有吉がまず疑ったのは、連絡元が会社からかどうかといったことであった。睡魔の誘惑を断ち切り携帯電話を手に持った有吉は、眉根に皺をよせた不機嫌そうな顔でディスプレイに表示されている憎らしい名前を声に出して読んだ。
「キリヤマ……?」
しばらく不信な表情で携帯の画面を見つめていた有吉だったが、やがて強張らせた表情を緩めた。
「なあに?……あなた……だあれ?」
砂浜に打ち上げられたアザラシのようなかっこうで隣に横になっていた彼の女房は、水分を含んでいないスポンジのような肌をした顔をセクシーに歪めながらうめいた。
「うん、仕事の電話だよ。大した用事じゃないと思うから、おまえは寝てなさい」
有吉は結婚十一年目になるトドに優しく声をかけると、ベッドから降り立ち廊下に出た。携帯電話の振動は止む気配をみせなかった。10コール目。もう少しじらしてやろう。有吉は新築の家の階段を下ると、一階にある便所に入って鍵をかけた。真新しい便座に腰掛けると、20コール目が鳴り止むのを待ってから電話に出た。
「もしもし」
我ながら事務的な、抑揚のない声だなあと感心した。
「……よう、有吉」
桐山の声には、苛立ったのを無理に抑えつけたような調子が表れていた。
「どうしたんだい?こんな夜中に」
「遅かったな。寝てたのか?」
「まあね。だけど気を遣うことはないよ。夜中の電話には慣れてるからね。夜間勤務者から夜中に電話がかかってくることもよくあるんだ」
「そうかい」
面白くなさそうに返事をする桐山の声を聞いて、有吉はニヤリと口元をほころばせた。
「きみのほうこそどうしたんだい?眠れなかったのかい?」
有吉は努めて優しい口調で、相手を気遣う風を装った。
「ベッドからかけてるのかい?横に寝てる奥さんは起きるんじゃないのかな?」
この問いかけに桐山は応えなかった。有吉は昨日会ったときの服装から、桐山が結婚していないことを予想していたが、無言の返答が有吉の予想が正しいものであることを示していた。それにおそらくはベッドではなく、床に敷かれた万年床から電話をかけてでもいるのだろう。どうひいき目に見ても昨日の桐山は金を持っているようには見えなかった。
「もしもし?桐山くん?そこにいるのかい?」
「うるせえ野郎だなあ」
ようやく桐山は面倒臭そうに答えた。自分からかけてきておいて、うるせえ野郎はないだろう。しかし予想通りの反応をする桐山に対し、哀れみを通り越した親しみの念を有吉は覚えた。
「……なんか気に障るようなこと言ったかなあ、僕」
「相変わらず鈍い野郎だなあ、オメエはよう」
やれやれ、間抜け役を演ずるのも楽じゃない。
「気を悪くしないでほしいな。電話で話すのもいつも仕事のことばかりだからさ、他人の気持ちを推し量るのも上手くないんだ。特に管理職に就いてからは、寝ても覚めても仕事仕事だからね。あ~あ、僕もたまにはゆっくりと眠りたいよ。なにも考えずに一日ずうっとね」
チクチクとした攻撃がいかにも自分らしいなあと、有吉はニヤニヤした。昨日の恰好からも明らかであったが、桐山はきっとほとんど浮浪者に近い生活をおくっているのだろう。
入社当時は服装にも抜かりはなく、常に気取った態度を崩さなかった桐山。新入社員の分際で多額のローンを組み、中古ではあったが有吉も憧れていた黒のトヨタ・ソアラを乗り回し、同期入社した女の子の中でもとびきりの女の子を連れて遊びまわっていた桐山。そんな桐山が好んでぼさぼさの髪をして、意図的にではなく穴の空いてしまったジーンズをはき、底が擦り減った有吉にも見覚えのあるブーツを履いて街を歩くことなど考えられないことであった。その理由としては経済的に困窮しているのだとしか考えられない。
「仕事……忙しいのか?」
桐山は根負けしてしまったのか、割りと素直な調子で質問してきた。
「まあね」
強要されてではなく、相手が自発的に質問してきた場合は素っ気なく突き放すほうが相手により大きなダメージを与えることを、有吉は経験上知っていた。
「収入も大したものなんだろうな?」
「まあ、そうだと言ってもいいだろうね」
来たな?目的がはじめからバレバレだっつうの!
「どうしたの?なにか相談事でもあるのかい?」
このわざとらしさ!我ながら恥かしくて顔が赤らんでしまう。
「遠慮なくどうぞ」
有吉は殊更に冷たさを強調しながら言った。
「僕にできることなら協力するつもりだよ。僕にできることなら、ね」
このような応答には桐山が反応しづらいことを有吉は知っていた。桐山は生まれつきの図々しさをもった男だが、人一倍プライドが高い男でもある。若い頃より女に不自由せず、自分の小さな周囲の中だけで中心人物として振る舞ってきた者は大抵そうである。こうした人種は、自分が一段下ととらえている人物に冷たい態度をとられると、それだけで平衡感覚を失ってしまう。それまで自分に敵対する者が周りにいなかったせいだ。周りにいなかったというよりは、そうした者を避けて生きてきたからだ。自分を恨む者がいることを知ってはいても、そうした人物とは接触しないのがこうした人物の特徴だ。自分に都合のよいものは見、自分に都合のよい言葉には耳を傾ける。有吉からみて、桐山はそうした人種の代表格であった。
「電話で話すのもなんだ。そのう……一度どこかで会わないか?」
「会わないか?」
有吉は鸚鵡返しに言った。
「はっはっはっ、まるで恋人に話し掛けでもしているみたいだね」
おそらく桐山のプライドはズタズタに違いない。コケにされたと感じ、いきり立っていることだろう。有吉には桐山の思いが手にとるようにわかった。次にかけてくる言葉は、多分脅し文句か、それに近い文句であろう。
「どうやら少しばかり調子にのってるみたいだな」
案の定桐山は、少しばかりトーンを抑えた低い声で、まるで高校生がイキがって脅しの文句を垂れるような調子で反応してきた。
「どこかで食事でもしながら話そうか?早いほうがいいんだろ?キミも」
有吉は興奮し始めた桐山を無視し、他人行儀な調子を強めて訊いた。
「食事……?か」
「僕が家族でよく使うステーキハウスがあるんだけど、そこで会うことにしようか」
「ステーキハウス……?か」
興味なさ気に問い返したつもりだろうが、桐山のよだれを垂らしている音が有吉には聞こえてきそうだった。
ステーキなんかここ何年も食べてないだろう?そらそら、鉄板の上でジュウジュウ音をたててるサーロイン・ステーキを想像してみろよ、相棒。
「明日の、明日というよりはもう今日だね。今日の夕食時はどうかな。ちょっと早過ぎるかな?」
「いや、そんなことはない、そんなことはないが……お前が指定した店ってのは、そのう一体どこのことだ?」
払いのことを気にしてるんだろう?相棒。
「心配することはない、おごるよ」
「そうか……まあ、いいだろう」
プライドだけで腹は満たされないもんな、相棒。桐山くんよう、お前さんは、かつて自分が小ばかにしてきた男のごちそうになるんだ。満腹になった頃、お前さんは羞恥の念にまみれることになるだろうよ。
不意におとずれた復讐の機会を、有吉はみすみすと逃す気はなかった。
「やあ、久しぶり」
ライトグレーのスーツにブルックス・ブラザーズのボタンダウンといったいでたちの有吉は、約束の時間より若干遅れ気味に、昨日とまるっきり同じ、両膝に穴の空いたジーンズをはいた桐山の前に姿を現した。
「ちょっとばかり遅れたかな?」
ふてぶてしい態度で椅子にもたれる桐山を、立ったまま上から見下ろすようなかっこうで有吉は弁解した。
「先にビールかなんか注文してもらってても構わなかったんだがね」
「そうかい」
桐山は面白くなさそうに返事をした。脅しをかけているつもりだろうか、目つきは憎々しげなものであったが、有吉は余裕の笑みを薄く浮かべると桐山の向かい側に腰をおろした。
大昔、同期として入社した頃、有吉は桐山のことがどことなく怖かった。その恐怖感は上辺だけのものであることに当時から有吉も気づいていたが、同期の中で幅を利かせていたように見える桐山に対しては、確かに気後れしていた。しかし何年かぶりに再会した桐山は、あの頃よりも卑しい顔つきに変化してはいたが、あの頃のような恐怖感は微塵も与えなかった。ただ、哀れな愚か者が一人、目の前に腹を空かせて座っているだけであった。
「それじゃあ、再会を祝して乾杯といこうか」
「ほう、家に帰ってから俺のことをはっきりと思い出したようだな」
有吉は桐山の皮肉を無視して、ビールの入ったグラスをカチンとあわせた。いくら強がった皮肉をとばしてみたところで、身体の欲求には勝てないと見える。グラスになみなみと注がれていたビールを、桐山はほとんど一息で飲み干してしまった。対する有吉は、グラスにほんの少し口をつけただけであった。
やがて、ジュウジュウと音をたてながら運ばれてきた300グラムのサーロイン・ステーキを目の前にすると、桐山は黙りこみ、目からよだれを垂らし始めた。
「さっ、遠慮なく食べてくれ、この食事は僕のおごりだから」
冷たい口調でそう言い放った有吉を、ナイフを握った桐山は睨んだ。表情は迷っているようにも見えたが、口元は震えていた。有吉がにっこりと微笑み、肉にナイフを入れると、待っていたかのように桐山もナイフを前後に動かし始めた。
「ところで、どういった用件なのかな?」
肉切れを口へ入れようとする瞬間に質問を差し挟むのを、有吉は忘れなかった。
「用件ってほどの用でもないさ」
さあさあ、食べたくて仕方がないんだろう?目の前の肉を口に入れることができるんだったら、君はなんだってするんじゃないのかい?そらそら、きみの腹からはまるで車が急ブレーキをかけたときのような音が聞こえてくるよ。
「いや、待ち構えていた食事を中断するなんて野暮な真似をしたものさ。さあ、遠慮なく食べてくれ」
待ちきれなかったのだろう桐山は、今度は躊躇せずに肉片を口の中へ押し込んだ。肉を噛みしめるときに桐山が涙を流すことを期待していたが、さすがにそれは期待はずれに終わった。始めは有吉を注視していた桐山だったが、肉を何度か噛みしめるうちに、自然と目を閉じた。有吉は冷めた視線で添え付けのニンジンにフォークを突き刺した。
どうだい?美味いだろう?
ミディアム・レアの牛肉が逃げると思っているのだろうか?桐山は中断することなくポテトとオニオンと牛肉の間で、ナイフとフォークを動かし続けた。
「そろそろ聞かせてくれてもいいだろう?きみの用件ってのを」
食事も終盤に差し掛かった頃、有吉はビジネスライクな調子で相手が答えるのを促がした。桐山は有吉の問いかけを無視し、肉汁をポテトですくい上げるのに集中していた。やがて最後の肉の一切れを口の中へゆっくりと挿入すると、桐山は、じっくりと、時間をかけて噛みしめた。何度も、何度も。
有吉は目の前にある、ほとんど手をつけていないステーキを脇にどけると、顔の前で手を合わせるようにしてテーブルに肘をついた。
「金、かい?」
口の中に噛む肉がなくなってしまうと、桐山はようやく応じた。
「そうだ。金を貸してほしいんだ」
腹が満たされたからであろうか、桐山は最初よりもふてぶてしさを増したように見えた。どうやら自分が図々しい人間であることを思い出したようだ。
「もちろん。いいとも、友だちじゃないか」
有吉が冷ややかに答えると桐山は胡散臭そうに睨んだが、有吉はビクともせずに続けた。
「担保になるような物があるならね」
「この……資本主義の豚野郎!」
凄みを利かせた低い声で、桐山は罵った。
有吉は悲しかった。敵の用意していた武器がそのような陳腐な理屈だとは。
「桐山くん。君は、コミュニストかい?」
「お前のような連中が、世界を滅亡へと導いているんだ。気づいてないのか?お前がこうした食事をすることができるってことは、どこかで誰かがその分だけ損をしてるってことをさ」
有吉は嬉しくなってゾクゾクしてきた。頭の悪い貧乏人を蹴落とすこの瞬間!
「つまり、こういうことかな?僕らが得ているものは、他の誰かの損失分だと。だから僕らの利益は世の中を平準化するために、世間に還流させなければならないと?」
質問の意味を理解できなかったのだろうか、桐山は有吉を睨んだ。昔からそうだ。自分に都合が悪くなると、すぐに睨みを利かせ、物理的な力があることを強調しようとする。そんなことだから出世できないんだよ、きみは。
「人間は……動物よりも偉い存在だと思うかい?」
「はっ?」
有吉の問いかけに、桐山はまるでバカを相手にしているとでもいったようなとぼけた顔をして見せた。
「つまりさ、人間はあらゆる動物を自由にする権利を持っているのかと訊いてるのさ。例えば、君が今たいらげたステーキ。この肉切れが元は生きた牛だったってこと知ってるよね?」
有吉の小ばかにしたような調子に、桐山は一瞬顔を赤くした。思った通りだ。
「何を言いたい?」
「つまりさ、弱者からの搾取を君は問題にしているみたいだが、牛だって慣れ親しんでみれば愛着がわくのは当然さ。だけどステーキをたいらげる立場としてみたら、そんなのはきれいごとに過ぎなくなるんだ。もしも動物と人間を同程度の生物として捉えるなら、搾取の対象となっている国の人々に対する共感もたんなるきれいごとに過ぎなくなるはずさ。君の主張は、交通渋滞に巻き込まれて、自分もその渋滞の一部をなしているにもかかわらず、なんてひどい渋滞なんだ!って嘆く自分勝手な人間のものと一緒だよ」
有吉は一息に喋ると、まだほとんど手をつけていないステーキの載った鉄板を、静かに桐山のほうへと押しやった。
「腹が減ってるんだろ?良かったら僕のも食べてくれよ」
じっと動かず、有吉を睨み据えていた桐山だったが、テーブルにかけられたその指は、少しずつステーキの載った鉄板のほうへと伸びてきた。有吉は優しい笑みを桐山におくった。
「人間はいつでも、どんな時代でも、自分の欲によってしか動かないものなんだよ、桐山くん」
桐山は有吉の食べかけであるその肉に、ナイフを入れた。それを見つめていた有吉は、にっこりと微笑んだ。
それは、勝利の微笑だった。
「さあ、しっかり食べるといい。こんな機会は二度とないと思うから……」
その後も桐山から何度も電話はかかってきたが、有吉は頑として出ようとしなかった。多い日は三度も四度もかかってきた。おそらくまたステーキをごちそうになろうという魂胆なのであろう。しかし有吉はその機会を与えなかった。
ある夜、有吉が家族で食卓を囲んでいると、またもやかつての同僚である桐山から電話がかかってきた。有吉は嫌な顔もせず携帯電話のディスプレイを見やると、そのままほうっておいた。
「あなた、誰から?」
「ああ、ほら、昔の同期の、桐山くんだよ」
「ちょっと、出てあげたら。冷たいんじゃない?」
「ほっといて構わないよ」
「その人働いてないって、あなた言ってたじゃない。ほんとに餓死しちゃったら、あなたどうするの?」
妻の心配そうな風を装った表情を見つめると、有吉は静かに口をひらいた。
「ああいった連中は仕事が欲しいんじゃなくて、本当は楽をしたいだけなんだ。常に受動的に生きてきた彼らにとっては、市場は搾取される場であり、労働は苦難なんだ。できれば働きたくないが、生きるために仕方なく働いている、彼らはそう言うだろう。そして、ビジネスの世界でもトップクラスに居座っている人間も、みな自分たちと同じように感じるのだと考えているんだろう。彼らは他人が自分と違った考え方をしているなんて夢にも思わないんだよ。他の人間が仕事を楽しんでいるなんてね。彼らは仕事ではなく、その結果にしか興味が無いんだ。笑っちゃうよね。共産主義を賛美しながらも、本当は金が欲しくてしょうがないんだ。あいつらは景気が良くなれば資本主義を賛美するし、景気が悪くなって仕事にあぶれるようになれば共産主義を賛美するたんなるご都合主義者なんだよ。さあ、つまらない話はもう終わりだ。食事にしよう!」
有吉はさわやかな笑みを妻に投げかけると、コート・ロティのコルクを勢いよく引き抜いた。
ー了ー
アリとキリギリス