あの夢の夜 後

「はいりますよ」
 玄関の方から声がしたので、眠っていた双葉の目が覚めた。部屋の中はまだ暗い。廊下へ出て階段を降りると、居間の明かりが点いていた。
「にいちゃん」
 双葉が居間に向けて声をかけると、
「双葉、頼む」
 兄の声がそう答えた。玄関に出てくれ、ということだろう。双葉は居間の扉を背に、玄関のほうへ向き直ると、訪問客を迎えるために歩き始めた。これまでに双葉が、こうして一人で玄関に出たことはない。
 玄関のドアノブに手をかけた。すりガラスの向こう側は明るく、自動車が一台、人通りの少ない昼の道を走っていった。双葉の目線が音の方向を追う。
「だれですか」
 そう言いながら、双葉は玄関の扉を開いた。するとその隙間から、すうっと首が入り込み、するすると長く伸びてきて、呆然とする双葉の顔を覗きこんだ。
「きりんさんです」
 そうしてきりんさんは、扉の隙間に脚を入れ、家の中に入ろうとした。双葉はそれに気付いて慌てて扉を閉めようとしたが、もうきりんさんの体は半ば以上入り込んでいて、扉を閉じるに閉じられなくなってしまっていた。
「にいちゃん!きりんさん!」
 双葉は焦って、居間に向けて兄の助けを求めたが、返事はない。見ると、先ほどまで点いていたはずの明かりが消えて、部屋の中は暗く、誰もいないようだった。きりんさんのほうへ振り返ると、もはやその体全体が家の中に入り込んでいた。双葉がまごまごしている間に、玄関の扉が静かに閉じる。そこで一息ついたきりんさんは、再び双葉の顔を覗きこんだ。
「お兄さんは?」
 双葉はうつむいて首を振った。
「さいとうさんは?」
 もう一度、双葉は首を振った。
「誰もいないの?」
 続けての質問には、双葉は答えなかった。きりんさんはそれを、肯定と受け取ったようだった。
「そうか。ふたばちゃんはひとりぼっち。ぜつめくきぐしゅだね」
 きりんさんは納得したように言った。そして双葉は、自分がこれからどうなるかのを思い出した。
「もうあえないの?」
 それは、もう兄や泰に会えないのか、という意味だったのだが、きりんさんにはきちんと通じたようだった。
「会えないよ」
 きりんさんは悲しそうに答えた。
「・・・おそとは?」
「出られないよ」
 きりんさんは同じ顔のままで答えた。
「なんで?」
 双葉は聞こうとしたが、「教えてくれない」ということを思い出して、質問するのをやめた。
「ぜつめくきぐしゅ、やだ」
 代わりに双葉は抗議してみた。しかし、きりんさんは相変わらず同じ顔をするだけで、何も言わない。気のせいか、どこかで聞いた悲しい音楽までが聞こえてくる。それが双葉の気持ちを更に盛り上げた。
「やだ!」
 どうして良いのかわからず、双葉はただ「やだやだ」を繰り返した。やだと言うたびに悲しさが募り、音楽の音量も上がり、そうやって高ぶった悲しみが涙に変わるまでに、そう時間はかからなかった。

 豆電球のほかには灯りの無い暗い部屋の中で、双葉は眠りから覚めた。目のまわりが濡れている。
「にい、ちゃ、ん、うううう・・・っく、」
 泣いたはずみで横隔膜が痙攣し始め、ひっく、ひっくと双葉の胸を押し上げる。
「っく、にいっ、ぢゃあん!」
 自分ではコントロール出来ないそれを疎ましく思いながらも、なんとか双葉は兄を呼んだ。しかし返事はなく、下階から誰かが双葉の部屋まで上がってくる様子もない。
「ひっく、っく、うう・・っく、んんんんー!」
 双葉は涙をパジャマで拭い、なんとかしゃっくりを落ち着けようと、出来る範囲で呼吸を整えると、ベッドを降りて、部屋のドアを開けた。その隙間から廊下の明かりが差し込んで、暗い部屋の中を照らす。部屋から出て行く双葉を、床に転がったままのキリンのぬいぐるみが、表情の無い顔で見送った。
「にいちゃあん・・・」
 上階から下階を覗きこんで声をかけるが、やはり返事はない。一段ずつ階段を降りていき、居間の様子を見ると、そこに明かりは点いていなかった。夢の中で見た光景を思い出し、それがそのまま双葉の中に、嫌な予感として浮かび上がった。
 恐怖をこらえ、おそるおそる居間の扉を開けた。しかし、やはりそこは真っ暗で、電源の入っていないテレビが、廊下からの光に照らされて奇妙に光り、扉のほうに立つ双葉の影を映し出していた。視線を落とすと、めくれた炬燵布団が、あたかも洞窟の入り口のように中の様子を覗かせている。その内部はいっそう暗く、得体の知れない何かが隠れ潜んでいそうな、不気味な場所に変わっていた。部屋の明かりを点けようとしても、双葉の背丈ではスイッチに手がとどかない。双葉だけがいるこの世界は、夢の中よりも暗く、静かだった。そしてその暗さと静けさが、双葉の嫌な予感をさらに強くした。
(誰もいない)
 『ぜつめくきぐしゅ』という言葉が双葉の脳裏に浮かぶ。真っ暗の居間の中に入るのも、自分の部屋に戻るのも不安で、心細くなった双葉は、廊下に立ち尽くしてしまった。冷たい板張りの床が、裸足の双葉の体温を奪っていく。
「にいちゃん・・・」
 いつの間にか、しゃっくりがおさまっていた。
「さいとうさん・・・」
 頭の中はすでに、先程夢に見た内容でいっぱいになっていた。きりんさんが来る。そう思うと、悲しい気持ちがこみ上げてくる。せっかくおさまっていたしゃっくりが、少しずつぶり返し始めていた。
 その時玄関から、ドアノブを回すガチャガチャという音が聞こえてきた。双葉は驚いてその場で小さく飛び跳ねると、玄関へと急ぎ、扉のほうを見た。外からチャラチャラという金属音が、小さく聞こえてくる。
「やだ・・・やだ・・・かえって・・・」
 双葉は強く拒絶して、玄関の向こうのきりんさんに向かって大声を出したつもりだったが、恐怖のためにうまく声が出せなかった。そうこうしている間に、上下にふたつある鍵のうちの、上側が音を立てて開く。
「やだ・・・ひっく・・・ぜつめくきぐしゅやだ・・・」
 ほどなくして、下側の鍵も開いた。これで扉が開く。ドアノブが回り、いよいよ扉が、開き始めた。
「ぜつめくきぐしゅやだああああああああああああああああああああああ」
 それと同時に双葉の涙の堰が切れた。先ほどまで恐怖でうまく出せなかった分も合わせて、大きな大きな泣き声だった。そして、その声に出迎えられて扉から顔を出したのは、

「双葉、起きたのか」
 樹だった。泣いている双葉を見て、手に持っていた鍵を慣れた手つきで玄関横にしまうと、泰を家に入れた後、双葉を素早く抱きかかえる。
「やだあああ・・・っぐ、ぜつめく・・・ううう」
「はいはいはい寂しかったなー双葉。よしよし・・・あー重いなーお前、よしよし・・・あ、鍵頼むわ」
 樹は双葉の頭を優しく撫でながら、声だけで泰に戸締まりを頼んだ。
「にいちゃ、んっく、ん、ふたば、ひっく、ぜつめ、っく、ぐしゅ、や、だ」
「あーもう何言ってるかわからんけど、双葉は俺が守ってやるからなー、よしよし・・・」
 そんな兄妹の姿を、コンビニの袋を提げた泰は、苦笑しながら見た。そして頼まれたとおりに、玄関のふたつの鍵を閉じる。双葉が泣き止むまでは、まだずっと時間がかかりそうだった。そう、実際にあれから、それはもう大変で・・・



「せんぱーい、何見てるんですか?」
 部屋に入ってくるなり、久戸瀬双葉は齋藤泰に声をかけ、その声によって、齋藤の思考は中断された。あの時から、はや十五年が経つ。幼い少女だった双葉も、今やあの時の齋藤や兄の樹と同じ二十歳だ。そして相対的に齋藤も同じだけ歳を得て、今年で三十五歳になった。
 齋藤が黙っていると、双葉がその背後から、齋藤の手元のタブレットを覗きこんだ。表示されていたのは、とある絶滅した動物の写真と、それに関する博物的な内容の文章だった。そしてその容姿は、どことなくキリンに似ていた。
「また動物ですかー。好きですねえ」
 双葉はそれだけ言って満足し、齋藤のそばを離れる。
(お前も昔は好きだったんだぞ、動物)
 齋藤はそう思っただけで、口には出さなかった。双葉にとってその『昔』が、ただの思い出話以上の意味を持つことを、重々承知しているからだ。あれからしばらくして、双葉の兄、樹は、この世を去った。何気ない思い出話をきっかけに、そのことを無闇に思い出させてしまうのを、齋藤は意識して避けているのだった。
「ホラ、いろいろ買ってきましたよー」
 そんな齋藤の気遣いをよそに、当の双葉は明るい顔で、コンビニの袋の中から戦利品を取り出しては、齋藤のデスクの上に並べていく。
「焼きそばとお茶は?」
 デスクの上のラインナップを見て、齋藤が双葉に聞いた。それらはコンビニに行く前の双葉に頼んでおいたもので、あの時は確かに元気な返事を聞いたはずだったのだが。
「えっ、無いですか?おかしいなあ、まあ、いいじゃないですか。お昼は・・・これにしましょう!」
「・・・」
 齋藤の前に差し出されたのは、しば漬け味のポテトチップスだった。そして次の瞬間齋藤の頭の中で、今日の昼食は近所のラーメン屋に決まっていた。黙って席を立つと、椅子にかけていた背広をつかんでドアに向かう。
「あっ、先輩、待ってくださいよ、どこ行くんですかー!」
 背後から抗議の声が聞こえたが、齋藤はそのまま振り返らず廊下を歩き続けた。バタバタという音と、焦った双葉がその背後に続く。齋藤に置いて行かれたことに怒っているふうでもなく、双葉はなにごとか楽しげに話している。
(昔と違って明るくなったな)
 齋藤はまた『昔』を思い出していた。それは主に、あの時のかわいげのあった双葉と、今の傍若無人っぷりの甚だしい双葉との差についてであった。明るくなったと言えば聞こえは良いが、齋藤の手に余ることもしばしばで、時々で良いからあの頃を思い出して欲しい、と思うこともなくはなかった。
(あの時の双葉は『ぜつめくきぐしゅ』じゃあなくなって、本当に『ぜつめく』したのかもな)
 柄にもなくそんなことを考える。その時ふと、感傷にも郷愁にも似た感情が浮かび上がり、いきなりのことに齋藤の心は戸惑った。双葉と『ぜつめく』を結びつけたのは、あくまでも冗談交じりでの考えだった。しかしそれだけに無防備に、『あの頃には戻れない』ということが連想されてしまたのだった。齋藤の心の中を哀愁が広がっていく。自分の思っている以上に『昔』に囚われていることを、あらためて自覚していた。
「先輩?」
 双葉が齋藤の顔を覗きこんでいる。
「入らないんですか?招来軒(しょうらいけん)」
 考え事をしている間に、目的であったラーメン屋についていたらしい。少しの間だけその前で立ち止まり、ぼーっとしていたのだろう。齋藤は内心恥ずかしくなったもののそれは顔には出さず、一言だけ、
「入るぞ」
 と言ってから、のれんをくぐった。双葉がそれに続く。
「どれにしようかな?」
 双葉が、券売機の前で悩み始める。齋藤はもう何にするか決めていたので、双葉が決めてしまうのを待っていた。
「先輩、さっきの動物いたじゃないですか」
 急に脈絡のない話題を振られ、齋藤は一瞬混乱した。先ほどのタブレットに映っていた動物のことを言っているのだろうか。齋藤の返事を待たず、双葉が券売機を見ながら続けた。
「本当に絶滅しちゃったんですかね、あれ」
「そうらしいなぁ」
「本当の本当になんですかね」
「多分なぁ」
 齋藤が深く考えずに答えていると、双葉がいきなり振り返り、彼の顔を見た。
「絶対、なんですかね」
 やけに双葉の顔が近く、なぜか目は真剣で、そんな態度で聞かれると、齋藤としては、生返事を返す余地が無くなってしまった。
(そんなのよりはやくメニュー決めてくれ)
 齋藤はそう思いつつ、
「まあ、絶対はない、かもな」
 と答えてみた。すると双葉はにっこり笑って、
「私、キャベツ炒め定食にします」
 と言うと、券売機の前を離れていった。
(なんだったんだ)
 気を取り直して、齋藤は券売機にお札を二枚入れると、キャベツ定食のボタンと、味噌ラーメンのボタンを押す。そしてなんとなくそのまま、券が印字されて出てくる様子を眺めた。
(もし双葉の言うとおり、絶滅危惧種の動物が、例えばめでたく檻から出られたとしても、外の世界で平和に生きていくのは難しそうだがな)
 眺めながら、そんなことを考えた。運良く生き延びたとしても、もともとの滅び行く運命は変わらない。彼らがのんきに楽しく暮らす様子は、なかなか想像出来なかった。
「先輩、はやくー」
 店の奥から齋藤を呼ぶ声がする。その声の主は、のんきにテーブルに座って、楽しそうにこちらに手を振っている。その様子を見た齋藤は、
(ああ、もしかしたら、あいつがそうなのかもしれないな)
 と、ふと思った。

あの夢の夜 後

あの夢の夜 後

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-19

CC BY-NC-ND
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