暴力的な男
暴力的な男
伊坂 尚仁
「昨日、俺は女房を殴ってしまいました……助けて下さい、牧師。自分でも止められないんです、歯止めが利かなくなるんです。それまでは必死になって堪えていたはずなんです。必死になって怒りの流出を食い止めていたはずなんです。でも……でも、一度手を出してしまったら、止まらなくなってしまうんです。……俺は女房を愛してるんです、本当です。誰よりも、誰よりも深く愛してるんです。でも、だから、だからこそ止まらないんです、止められないんです。もしかしたら女房のことを愛し過ぎているのかもしれないけど……でもそれは悪いことなんでしょうか?」
教会の席にうつむき加減に腰かけている男は、てっぺんの薄くなった頭を上げると牧師のほうへと挑戦的な眼を向けた。
神妙な口調とは裏腹に反省の色がまったくみられない男の眼差しは、この男が本当は助けなど求めてはいないのだということを示していた。故意に犯された罪をそれらしく語っては牧師の反応をみる、こうした落ちぶれた男を演じて喜ぶ輩には牧師も毎回うんざりさせられているのだが、だからといって拒むわけにもいかない。どのような者の話もたてまえ上、一応は聞いてやらねばならないのだ。
「さあ、正直に話しなさい。いったい、奥さんになにをしたと言うのです」
男はなにかを成し遂げた人間が遠慮気味にちらつかせる、自信のあるような、なんともいえない奇妙な表情を浮かべて見せた。
「最初言い合いになったときは、軽く女房の手を払う程度なんです。でも二度目は……、二度目は平手で顔を引っ叩いてしまうんです。そして三度目は……、三度目は、拳で顔を殴りつけてしまうんです。何度も何度も……。女房は鼻から血を流して泣き喚くんです。それを見ると牧師、俺は自分をコントロールできなくなってしまうんです。……俺は悪魔にとりつかれてるんでしょうか?お願いです、俺を救ってください」
まるで自分の手柄話でもするかのように嬉々とした表情で語っていた男の瞳は、興奮でどんよりと濁っていた。
「奥さんは血を流したのですね?」
男は牧師を見上げてにんまりとした。
自身の残虐性を他人にひけらかして喜ぶこの種の男は、決まって小心者であることを牧師は知っていた。おそらくはアルコールの助けをかりてそのような行為におよんでいるのだろう。教会の中へ入ってきたときから男の息が酒臭いことに牧師は気づいていた。
「あなたはそのときお酒を飲んでいましたね」
相手を突き放したかのような口調は牧師のその大柄な体格と相まって、予想通りの展開を期待して待ち構えている男の勢いをくじいた。
「……えっ?……ええ、ええ、確かに飲んでましたよ。でもそんなのはほんの少しだけですよ、ほんの少し。あんなのは飲んだうちに入りませんよ」
「奥さんに暴力をふるったとき、どのくらい飲んでいたのですか?正直におっしゃいなさい」
男は薄笑いを浮かべてうつむくと、頭のてっぺんの、地肌が出ている部分を大事そうに撫でながら牧師の顔を上目遣いで睨んだ。
「俺は異常なんでしょうかねえ?牧師さん。どうか俺のために祈ってくださいよ」
「祈るのは簡単です。が、あなたは信者ではありませんね?」
「ええ、もちろん違いますよ。なにを信じろってんです?一度として神が俺に微笑みかけてくれたことなんかなかったってのに、いったいなにに感謝しろっていうんですか!」
いかめしい顔つきの牧師は、自分の眼を男の目線の高さに合わせると、じっとその濁った瞳を覗き込んだ。
「主は信じる者の傍には常に存在するものなのです」
男は白けた表情を浮かべて牧師から目をそらすと、深いため息を一つついた。
「あなたがその悪癖をやめられないのも、主のせいになるのかな?」
牧師はあくまで冷静な態度で応じていた。大柄で力もありそうな牧師のそうした態度は、暴力的な男を演じることで己の小心さを押し隠そうとしているこの男を更に小さく見せた。
「そんなこと言うつもりはありませんよ、牧師。俺のような男は神に助けを求める権利はないとでも言うんですか?」
「助けを求める前に、まず許しを請うべきではないのかな?人生に安直さを求めてはいけない。他人に頼ってばかりでは、それは既にあなたの人生とは言えないのだ。あなたは自分でわかっているはずだ。なにが自分を暴力に駆り立てているのかを」
「酒がそれだと言うんですか?」
「なぜアルコールを口にするのです?それはあなたが自分自身をごまかす必要を感じているからだ。自分を信じてみなさい。自分を信じることができるようになれば、きっと主はあなたに微笑みかけてくださることでしょう」
「でも牧師。俺、そんなに大量に飲んだわけじゃないし、それに……」
「誰でもそうです。普段からアルコールを飲みなれている人は皆そう言うのです。自分はたいして飲んでいないと、信じたがるものなのです。それはアルコールの力をみくびっているのではなく、自分を過信している証拠なのだ」
「俺は別に過信などしていません、ただ……」
「あなたはお酒が強いほうかな?」
「そりゃあ、まあ、弱いほうではないと思いますが……」
「泳ぎなれている者は、泳ぎに疲れてきてもまだ大丈夫だと思いたがるものだ。泳ぎが巧い者は、自分だけは決して溺れることはないと信じている。アルコールも同じです。このぐらいの量なら酔うはずはない、そう自分に言い聞かせ自分に飲酒を許すのだ。そして自分を過信するあまり、自分でも気づかぬうちに、沼の底へ底へと沈んでゆくことになる」
大柄な牧師は立ち上がると、座席で小さくいきりたっている男の肩に優しく、そのいかつい手をおいた。
「悪いことは言わない。まず酒をやめることから始めてみなさい」
「いきなりやめなくても、量を減らしていけばそのうちやめられるんじゃないでしょうかねえ?」
男は断酒を迫られたアルコール中毒の人間が、当然みせるであろう反応をした。つまりごく少量でも構わないので、アルコールを飲むことができる道を自分のために残しておこうというのだ。この種の男は、節酒では問題が解決しえないことを自分でも知り過ぎるほどに知っている場合が多い。
「だめです、ぴたりとやめてしまうほか道はない。甘えてはいけない!いいかね?はじめの一杯を飲んだら、それで終わりなのだよ。まず、家に置いてあるアルコールを一掃することから始めることだ」
「そんなこと……」
「暴力をふるわれた経験は?」
体格のよい牧師は重々しく呟くと、静かに袖をめくりあげた。その筋肉のついた逞しい太い腕には、まるで鞭で打たれた跡のような太くて赤いみみずばれが斜めに入っていた。それは男が戦争映画でしか見たことのない、捕虜が拷問で受けた傷跡にそっくりであった。
教会の雰囲気が醸しだす荘厳な空気が、その場の沈黙をより一層重いものへと変えていた。その沈黙の重みからさっさと解放されることを望んだのか、男は立ち上がると、へりくだった調子で何度も頭を下げながら、教会の外へと慌てて逃げ出て行った。
牧師は深いため息を一つつくと、自室に入り、窓辺に歩み寄った。枯葉が風で踊っている教会の庭に、道路へと急ぐ先ほどの男の後ろ姿が見えた。秋風を防ぐためネルシャツに薄くなった頭を縮めて歩く男の後ろ姿は、寒そうで、そして貧乏臭かった。
「アルコールに脳を侵されたサディストが!」
牧師は低い声でそっと罵った。重い足取りで机に近寄ると、一番下の引き出しから黄色のラベルに船の絵が描かれているグリーンのボトルを取り出した。ボトルのキャップを捻って開けると、中の液体をボトルから直接喉の奥へと流し込んだ。
「ああ……うまい!」
その液体が、身体の中へ染み入ったのを確認するかのように牧師は眼を閉じると、先ほどよりも大きなため息をつきながら、肘掛け椅子にその大きく重い尻をねじ込んだ。
先ほどの男の告解を思い返していた牧師は、どこか身体の一部の反応に突き動かされたように勢いよく立ち上がると、机の中から最新型の携帯電話を引っぱり出し、慌ててダイアルした。
じりじりした様子で電話が通じるのを待っている牧師の表情はいかめしく、その大きな身体は興奮を抑えてでもいるように小刻みに震えていた。
ようやく電話が通じたのであろうか、先ほどまでの硬かった牧師の表情は途端に崩れ、だらしのないニヤニヤ笑いへと変わった。話し声も気味の悪いほどに柔らかく、まるで可愛がっているペットの子猫に話し掛けてでもいるかのようにだらしのない調子に変わった。
「やあミホちゃん、元気い?今夜のプレイなんだけどさあ。……ぼく、今夜はいつもの(M)じゃなくって(S)のほうを試してみたいんだけど、いいかな?
―了―
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