沈んだ彼方

朝妻 空

愚かしくてしかたないものの名前を、俺は知らない。

愚かしくてしかたないものの名前を、俺は知らない。

「君はなんでも、物事の悲観的な側面を見すぎなんだよ」
と、目の下に濃い隈を浮かべた先輩は、俺の考えをそういった。それも、中学校の図書室の机の上に座りながら。
その時俺は、中学二年生だった。
先輩は一つ上の三年生で、受験生だった。
受験生だけど、先輩は頭が良くて、ひまだとしきりに口にしていた。
今にして思えば、先輩は勉強する必要もなかったのだろう。先輩は普段から勉強が好きだったし、未来予知にも似た高度な未来予測によって、ある程度のことは知っていた。
いや、それだと語弊があるかもしれない。
むしろ正しいのは、逆だ。
彼女は、知っているがごとく、予想できていた。
その精度は、当時でさえ著しいものがあった。
そのために彼女はあらゆる情報を知りたがり、また無意味な質問もたくさんした。
俺はそんな先輩とは、部活が同じでも何でもなかった。
彼女はただの図書委員で、いきなりわけのわからない質問を投げかけられたのが始まりだった。
わけのわからない人だ。
今でも、そう思う。
それは冬の、寒い時期だった気がする。
俺は図書室で、休んだ分のノートをまとめていた。
先輩は女だけど、神さまだった。
いつも調子が悪そうで、病気がちな雰囲気があった。
神さまであることと病気がちなことは関係がないと言っていたが、今になって思えばそんなことはないのだろうと思う。先輩の未来予知にも匹敵する精度の情報処理は、たぶん相当に負担がかかっていた。
それでも先輩は普段から平然と使用していたので、それは体も大変なことになっていたのだろうと思う。
先輩は未来予知ができるから神なのか、といえばそれはわからない。けれど少なくとも俺はその異常精度の未来予測は、人の領域を超えているとは、思っていた。
神足るのは、たぶん、未来予知だけではないのだろうが。
それでも俺はやっぱり、神だといわれても、なんだそれという感じだった。
だって先輩は、まるきり人間だった。
いつもにやにやとしていて、よく笑えるなと、思っていた。
そんなただの人間にしか思えなかった。
「あと、愛想がないね。笑っていればどうにかなることは、山ほどあるのに」
俺の愛想のなさを笑い、そして俺の悲観さを笑う。
先輩は、きれいでも何でもなかった。
なまなましい人間で、自分のことを神だという先輩は、どっかおかしいだけの、人間だった。
「泣いても笑っても、どうにもならないことは、どうにもならないですから」
そんな風に、返した気がする。
それをやはり、先輩は笑った。
そしてどこからか小さなメモ帳を取り出すと、何かを書いて、ちぎって俺に差し出した。
俺は、それに目を向け。
「なんです」
「君は、おそろしいものに出会うだろう。そのとき、沈んでいたものを、そこから引き上げないとならない」
そのときのための、連絡手段だよ、と先輩は言った。
受け取ったそれは、フリーメールアドレスだった。
「・・・予言ですか、それ」
「ちがうよ、事実だ」
先輩は、やはりにやにやと笑っていた。
俺はちっとも笑わず、メールアドレスを受け取った。
「なくすかもしれません」
「なくさないよ」
先輩は、ただの予知を、そう言い切った。
「だって、君、困るから」
ああ、いや、違うな、と先輩は笑った。
「君は、面白いから。助けてあげるよ。困ったら、連絡してくれていい」
俺はその紙を受け取った。
人を信用するとかしないとかではない。俺は先輩の未来予知の精度を知っていたから、たぶん俺は恐ろしいものに出会うんだろうと思った。
そのとき、助けを求めるかは別として、俺はただ単純な事実を受け取った。
あれから、何年たったのか。
いまだに思い出すそのくだりを、俺は抱えている。
というのも、俺はそんなに恐ろしいものに出会っていないからだった。いや、多少の嫌なものには出会った。
クソな教師とか、常識が欠けすぎている同級生とか、でもそれはその程度だった。
どいつもこいつもクソみたいだと言ってしまえばそれまでだ。
人間は腐り落ちているみたいに、大人になればなるほど出来上がって、どうしようもねえと思う。
熟れすぎた果実が、ぐちゃりと形を崩して落ちるように。
俺もたぶん、出来上がっている大人の一人でしかない。
人間は、長く生きすぎなのだ。
熟れて食べれたものではないまま、生きて、出来上がってゆく。
素晴らしいものになったかどうかはわからない。
それでも後にづつく存在が目に入れば、俺は大人になってしまったと思う。
なりたい人間にはなれなかった。
バカみたいに鈍い人間になりたかった。
けれどたぶん、そんなものにはなれなかった。
たぶん俺は、中学生のときの自分が思い描いていたような、楽そうな人間にはなれていない。
大人になればどうにかなると思っていたのに、俺はたぶん、中学生の頃の自分を引きずったまま、どうにもなっていない。
俺は自分が多少神経質な自覚はある。人を知れば知るほど、面倒さとあくどさを知るばかりで、人嫌いになる自分も知っている。
でもそんなことを考えてしまうのも、知ってしまうのも、俺ぐらいなのだ。
世の中は意外と鈍い色でしかできていない。
気が付けば、生きるのがつらいと思うような大人になっていた。
そして他人に、自分を隠すことが、うまくなっていた。
まあ、けれど大学生にもなって、自分を隠せないほうもどうなんだと思わなくもないから、俺はたぶん間違ってはいないのだろう。
正しくも、ないのだけれど。
盛大に間違っているわけでも、ない。
俺はそんな風にできてしまった。
良いも悪いもあまり関係がない。
そうして思うたびに、自分が大人になってしまったと感じて、思う。
あの人は、どうしているだろう、と。

『親愛なる、我が友人の孫へ―――』

始まりをそんなふうに書いた、筆記体の英文を、俺はのんびりと眺めた。
ふう、と煙草の紫煙を吸いこみ、その毒気に酔う。
大人になって覚えた味は、逃避の味だった。昔は知らなかったその毒気の心地よさを、逃げに使える。
大人はずるい生き物だ。
でもこれは、逃げることが難しい大人の、わずかに残された逃げ道なのだ。
それを思えば、俺は煙草を吸ったり、酒を飲みすぎたりする大人たちを批判する気にはならない。

『今は雨が降っていて、とても心地よい音がする。ヒロは雨が好きだったね。君はどうだろう』

「・・・俺は、雨がキライだよ」
手紙相手にそうこぼした。
俺は窓辺で、英文の手紙を読んでいた。晴れ間がのぞく、午後の穏やかな時間。次の講義までに時間があって、暇を持て余した俺は、サークルの部室へと足を運んだ。
部屋にはほかに人がなく、俺は人がいないのをいいことに煙草をふかして異国の知り合いからの手紙を読んでいた。
つらつらと書いてあるのは、古英語やラテン語交じりの英語の文。とはいっても、最近はこうだったとか、どうだとかなどしか書いていない。
変わりない近況報告を、目で追っていた。
つらつらとつづく見慣れた文字に、自然と口角が上がっているのがわかる。

『私にも、君と変わらない年齢の孫がいる。ぜひ君に会いたいと言っていた』

と、その文字を目にしたとたん、俺はふは、と息を吐いて笑った。
『いやいや、ジェット・・・そのうち、結婚相手に、とかいいだすんじゃねーだろーなあ』
くく、と一人で笑っていれば、がらりと部屋の扉が開いた。
くっく、と喉を震わせていれば、扉を開けた人物は目を丸くしてドアを閉めた。
「・・・どうしたんだ、珍しいな」
はすっぱな口調で、部屋の中央にあるパイプいすに腰掛けたのは、黒と赤のコントラストで覆われた女だった。
鴉の濡れ羽色のように、美しく黒い髪。それはできる限りショートカットにしていた。
大きな目はアイラインでさらに強調するように彩られており、彼女にきつい印象を植えつけている。
赤い唇は、扇情的を通り越して滴る血の色をしている。何かを食べたと言われれば納得してしまいそうだった。
黒いワンピースはすらりとしている彼女によく似合う。
『俺だって笑うことぐらいあるさ。久しぶりの手紙なんだ!』
「・・・いや、頼むから日本語でしゃべってくれ。私は半分もわからない」
と、そういった彼女に、俺は肩をすくめた。
それでも、半分は分かっているのだろうとなじりたくもなり。
「英語だぞ」
「ラテン語と英語を併用してるやつの言ってることがわかるか」
はあ、と彼女は手にしていたバッグから煙草を取り出して、呆れた表情で口にくわえた。
「ラテン語は教養だ。鴉百合だって、文学部なんだから、英語ぐらいできるだろ?」
「崩し字はできても、英語なんか無理に決まってる。英文学科と同じにするな」
ぼ、とくわえていたたばこに火をつけて、彼女はふう、と白い煙を吐く。
毒気の孕むそれを好む者同士である。彼女に対する警戒心は薄い。
俺は『何てことだ』とつぶやいて、くく、と笑った。
「・・・いいことでもあったのか、各務さん」
鴉百合は呆れた顔でそう言って、よく笑う俺を不思議な目で見ていた。
俺はあまり笑わない。
愛想がないのは昔からだ。もっとも、俺に英語を教えてくれたあの人が生きていたころまでは、それなりに笑っていた気もするのだが。
もう、覚えてもいない。
あの人が、どんな顔だったか、思い出せも、しない。
「ああ、そうだな。ペンフレンドが、久しぶりに手紙をくれたんだ」
正確には、ちがうけれど。
あの人の、ペンフレンドだった人だけれども。
「ペンフレンド?」
「そう。外国にいるんだ。会ったことも、ないんだけどね」
会ったことないのか、と鴉百合は不思議そうな顔をした。
このときなんとなくそんなことを口にしたのは、本当に気まぐれだった。
「祖父の友人なんだ」
普段だったら、絶対に口にしないはずだった。
たぶん相手が鴉百合であったのと、このときの俺は、自分が思っている以上に気分が良かったのだろうと思う。
「それを英語でやり取りしてるのか?」
あたりまえだろ、と俺はタバコをふかした。口にくわえたまま、筆記体のそれを見下ろして、目を細める。
「相手は、日本語なんてわからない」
ふーん、と鴉百合は興味のなさそうな顔をしながら、俺を見ていた。
そのような顔をしているだけで、この後輩は好奇心が旺盛で、いろんなことに対して貪欲だった。
「各務さんほど英語ができれば、そんなことも可能なのか」
むしろ逆なのだと、俺はそれを口にせずに煙草の紫煙を吸った。
この手紙は、はじめ、祖父がやっていたことなのだ。
今にして思えば、祖父は相当な知識人だったとわかる。あの当時、戦争すらあった時代に生きて、英語がすこぶる堪能だったのだ。
祖父がどのような人物だったのか、それを詳しく知るすべはもうない。
けれど祖父は穏やかだった。
俺をとてもかわいがってくれていたと、今ならわかる。
もう、あの人の顔すら、思い出せないけれど。
そんな年に、なってしまったけれど。
あの時は、俺の中で生きているとそう思う。
もちろん知識人だけあって、相当風変りであったこともまぎれもない事実だった。
なにせ、あの人の部屋に並ぶ英語の本を、英語で俺に読み聞かせていたのだ。大学でやるような、専門的な本の数々を、である。
俺は英語についてはほとんど祖父から習った。できるうちにやっておいたほうがいいと、いろいろなことを教えてもらった。
だから英語だけはすごく楽しかったし、家でも祖父の本を読むために努力した。
それに祖父はすごいねえとほめてくれるので、俺もうれしくなってやりまくったのだ。
しかし、そんな生活も長くは続かなかった。祖父は高齢なだけあって、ペンを持つのが難しくなっていった。
だから、祖父に頼まれてペンを持ち、手紙の代筆をしたのが始まりだった。
あのひとが、なくなってしまってからも、続けることを提案したのは祖父の友人のほうだった。
「・・・そういえば」
俺は手紙を丁寧に折り畳み、封筒に戻してから、鴉百合を見た。
「あいつら、ようやくくっついたんだってな」
は、と鴉百合は口元を吊り上げて笑った。
くく、と笑うさまは、どこか幼い少女のように無邪気だった。見た目は強烈な女という印象を与えこそするものの、彼女はその性格の通り、純粋な笑顔をこぼす。
「ああ、なんだ。各務さんも知ってるのか」
「というか、まだくっついてなかったんだな」
ぷかり、と白い紫煙を吐き出して、こぼせば、鴉百合は面白そうな顔をして首を傾げた。
「うん・・・?やっと動き出したという感じかな。まだ、完全にくっついてはいないみたいだな」
まだなのかよ、と感想をこぼした。
けれど後輩たちの幸福を思えば、苦くとも笑えるというものだ。
後輩二人は残念ながら男同士なのだが、それでも異常に仲が良く、そして片方が『そういう』意味で相手を好きなのは明白だった。
サークル内ではいつになるのかと、本人たち以外が話していたぐらいには、周知の事実だった。
そして俺に、男同士だからとか、そんな偏見はないのだった。
なぜなら、あの人も。
「恋、ねえ・・・?」
俺の祖父もまた、思う相手が、いたからだ。
結婚した、伴侶以外の、死ぬまで愛したひとを。
俺は、知っている。
「なんだ、各務さんも、恋でお悩みか?」
相談に乗るぞ、と明るく笑う後輩に、煙草で口を塞いで毒気を吸う。
肺に満たしたそれにくらくらとしながら、そうであったら、どんなによいだろうかとさえ思う自分がおかしかった。
それでも、笑えず。
「・・・It's better to have loved and lost than never to have loved at all」
としか、こぼせない。
目の前の後輩は、不思議な顔した。
「なんだ?」
はあ、と白い煙を吐いて、ゆっくりと立ち上がる。
「俺の、嫌いな、言葉だよ」
ぐしゃり、と中央のテーブルに置かれた灰皿に煙草を押し潰して、鴉百合を覗き込んだ。
「俺は、こっちのほうがすきなんだ。The most beautiful thing in the world is, of course, the world itself・・・まったく、お前に懸想するあの監督にあげたいような言葉だが」
それでも、俺はこの世で生きていかねばならず、そしてそれを美しいと思いたくて仕方ないのだ。
鴉百合は不愉快そうな顔をした。
きつい顔がゆがむのは、なかなか迫力があるが、俺は機嫌よく目を細めた。
「物語に、つまっているのか?」
彼女は、すう、と甘い煙を吸い込んだ。
彼女が吸うジョーカーは、甘くて、きつい香りがすると思う。
「・・・まあ」
麗しい後輩のスランプに、そして彼女の隠しようのない才能に、俺はやはり息苦しさを覚える。
英語ができても、俺はこの後輩にはかなわない。
机に寄りかかって、テーブルの上に置きっぱなしの、彼女の煙草の箱から一本抜きとる。
「・・・各務さん?」
「今月厳しいんだ。一本くれ。代わりに、話に付き合ってやるから」
机を挟んで同じようなパイプいすを引っ張り出し、彼女の向かいに座る。
口に彼女のシガレットケースからくすねた煙草を口にして、火種を探した。
「・・・ん」
俺がポケットからライターを取り出そうとすれば、彼女はぼんやりとした目で、くわえていた煙草を差し出してきた。
甘い、白い煙を放つ火の元は、ちろちろと鈍く赤く点滅を繰り返す。
俺は消えそうなそれに、いまだ火のついていない煙草を近づけた。先を押し付けられれば、火が移り、ジジ、とゆるく煙が流れる。
「・・・あっま」
ぷかりと煙をくゆらせば、体に満ちる甘い毒は、死に至るような気さえした。
「各務さんが勝手にもらったんだろ」
「あぁ・・・たまにはいいかと、思ったんだが」
ダメだな、と目を伏せれば、向かい側からの視線を感じた。
ちら、と目を向ければ、いつも不敵に笑う彼女は、置いてけぼりを食らった子供のように、所在がなさそうにこちらを見ていた。
これが、あの黒崎アカネなのだから、彼女を慕う監督は見る目がないと思う。
ペンネームは黒崎アカネ。恐ろしいまでに感情的なものを文字であらわすことのできる、彼女は紛れもない本物の、作家だ。
憎しみでも愛でもいい。名前のつかない激しい感情を表すことにかけて、彼女はとても美しい世界を見ていると思う。
人間の恐ろしさや、醜さを理解する一方で、それでも人がいとおしいのだという。
弱さも抱えて、悪意もあって、それでも人間が嫌いにはなれないという。
俺はそんな彼女の物語を読んだとき、涙がこぼれそうになった。
この、目の前の後輩は。
「・・・各務さんは、美人だよなあ」
く、と喉を震わせて笑う後輩は、感情が豊かだ。
そこまで、感情が理解できてしまうなんて、この目の前の後輩は、この年でどんな恐ろしい人間模様を見てきたのだろう、と。
俺は、短い彼女の半生を思って、苦しくなった。
「・・・男に使う言葉じゃねえなあ」
ぷかり、と口の端に煙草をくわえて呟けば、彼女はにし、と歯を見せて笑った。
「関係ないんだ。人の生き様はさ、顔に出るだろう。その人の人生が、顔には出てるよ」
俺は、それではどんな顔をしているのだろう。
激情を書くことに長けている、俺の後輩。復讐も悲劇も、美しくて書かずにはいられないという彼女が、美しいと思うような。
そんな彼女にうつくしいと、評されるそんな顔とは。
鴉百合はうつむいて、煙草をふかした。彼女はなかなか本題に入れず、そして俺はそれをのんびりと待った。
彼女は、言葉をとても大切にしている。だから自分の中で言葉を作って考えるのに、時間がかかるのだった。
「・・・なあ、私の物語は、そんなに利用しがいがあるのか」
悲しみが炎のようになっている言葉だった。怒りというには、寂しすぎて、困っているような感触だった。
「・・・あの監督か」
彼女が作った物語は、それこそ独自の世界観が濃い。感情の大部分は理解できないような連鎖もあるだろう。だからこそ、読み手を選別し、好き嫌いがわかれるような作家でもある。
彼女はいま、同じ大学の映画サークルに原作提供をしていた。
最初は脚本家に、と誘われた。だが、すでに脚本家がいるということで、彼女は脚本家としての参加は拒んだ。
そもそも、参加自体に乗り気ではなかったのだが。
どうしても、と言ってきたのは、業界からも注目されつつある監督だった。
彼は、黒崎アカネの作品をほしがった。
あまりにしつこかったのと、鴉百合は同情して、結局、原作提供という形にはなった。鴉百合としては提供するから好きにやってくれ、と放りだしたのだが彼女はしょっちゅうその監督に撮影現場に呼び出されている。
明るく無邪気な、美しい世界にあこがれる青年を思い出せば、向かいに座る鴉百合は苦々しく笑った。
「利用されてるように、思えてならないんだ。映像になってゆくごとに、私の書いていた人間たちは、仮面をかぶって、動き出す」

とても。

見て、いられない。

と、彼女は小さくこぼした。
紫煙に包まれた彼女はまるで牢獄に入れられた少女のようだった。
こんなに広くて自由な世界なのに、がんじがらめの鎖を引きずっている。ここは暗くて、息すら楽にできやしないと嘆くようだ。
「私は、感情を美しいと思う。夜叉姫の話は相変わらず魅力的だ。でも、それは」
紙面上で、ありもしないからこそ、美しいのであって。
「映像化なんて、とんでもない。だめだ。生々しくて、あれは」
あんなものは。
「とても」
とても。

「おぞましい」

と、彼女は小さくこぼした。
ふう、と甘い煙を吐き出して、俺はタバコを指に挟んだままうなだれる後輩を眺めていた。
この後輩は、哀れで、そしてとても未熟だった。
そんな吐露を聞いてしまって、やはり、彼女を思い出す。
神だと名乗っていた、あの先輩を。
この目の前の哀れな少女に、お前が書いているのはそういうものだと言ってしまうのは本当に簡単だった。
けれどそれがとても残酷なことであることも、俺は正確に理解していたのだった。
彼女は、映像化、なんてことを考慮せずに書いていた。当然だ。彼女は学生の身分でしかなく、本物の作家ではあるが、本気で作家を目指しているわけではない。
巻き込まれた、といえばそれまでだった。彼女は不幸に巻き込まれただけである。
だが、才能とは、そういうものなのだ。
人を幸福から遠ざけ、哀れに引きずり込む。そんな不思議な力を持っている。
これが、我らがサークル長ならば、監督をあらゆる手段で抹殺してしまうのだろう。彼女が認知するまでもない。そして後輩の男カップルならば、素直に監督に文句をたれに行くのだろう。
はあ、と息を吐いた。
ゆっくりと立ち上がる。
俺は、そのどれでもないことをする。
彼女も、ほかの誰でもない俺の前でそんなことをこぼすのはつまりそういうことなのだ。
他の人ならば、何かしらの行動が起きてしまうとわかっているうえでの行動だ。
俺は彼女のそういう利己的な部分が嫌いではなかった。
他人を利用して、気を紛らせようとするその癖は、少し、俺に似ている。
「・・・鴉百合」
名前を呼べば、彼女は顔を上げた。
泣きそうな、けれど寂しくて仕方ないというような、そんな顔をして俺を見上げていた。
かわいそうに。
素直に、彼女に対してそう思った。
俺は彼女が指で挟んでいた煙草を取りあげた。彼女が座る、パイプいすの背もたれに手を置き、顔を近づける。
「せ、ん・・・」
すう、と言葉を奪うように、唇に唇で触れる。ゆるく押し付ければ、べとりと彼女の口紅が俺の口にもついてしまったのがわかる。
すこし離れて、ふうと彼女が息をするために口を開くのを許す。そうして開いた口の中に舌を滑り込ませて、べろりと舌でまさぐった。
性的なことをするつもりは、もとからない。
すぐにはなれて、短くなった彼女の分の煙草を灰皿でもみ消した。
鴉百合はびっくりしたように黒い目を丸くしている。女子高校生みたいで、俺はこの後輩をかわいいと思った。
だから非難されても、殴られてもいいと思った。
俺はそれだけのことをしたのだった。
「・・・The most beautiful thing in the world is, of course, the world itself.お前はね、物事の悲観的側面を、見すぎなんだよ」
いつか言われた言葉を、俺は哀れな年下の女の子に向ける。
「ほら、俺の口紅、にあう?」
煙草をくわえてから、口の端をなでる。文句を言うかと思えば、ふは、と彼女は笑った。
「・・・せんぱいは、やっぱり」
「くずだろ、しってる」
は、と息に笑いを混ぜながら、彼女から離れて窓辺に立った。
ふう、と外に向かって白い煙を吐けば、がたりと彼女は立ち上がった。
「うん!見方変えてくる!」
ふふん、と不敵に笑うので、俺はそうかと目を伏せた。
そこに、弱っている少女はいなかった。
だから、まあ、いいかと俺はほんのりと笑った。
「・・・俺のことは殴ってかなくていいわけ?」
そう言えば、彼女はにいと、口紅のずれた口を曲げた。
「罪悪感でも?私の口紅は高いぞ」
彼女は楽しげに笑って、それこそいつものように、かつかつとヒール慣らして出ていった。
出ていく直前、一度立ち止まって。
「机の上にあるケース、各務さんにあげる」
じゃ、というだけ言い置いて、さっさと出ていく。
はあ、と息交じりに煙草の紫煙を吐いて吸う。
まったく手のかかる後輩だ。どいつもこいつも。すう、と思いっきり甘いそれを吸い込めば、強い毒気にやられてくらくらとした。
そうすれば音もなく、またサークルメンバーが顔を見せた。
「あれ?各務さん?」
ひょこ、と顔をのぞかせたのは髪を金色に染めた、後輩だった。
「おー。ナルちゃんじゃん。どうした?」
「いえ、なんかサークル長に言われて、人を連れてきたんです。それ、霞さんのですか?」
人工的な色にした髪の間から、大きめの黒い目をきょろきょろして室内を見ている。
甘いこの煙は、鴉百合が好んでいるので、彼女の存在を探しているのだろう。
「そうそう。鴉百合からもらってさ。あいつはもう行っちゃったけど」
ふう、と口元を抑えたまま、白い煙を吐き出す。
「各務さんも吸うんですね、甘いの」
鳴海はそんなことを言いながら入ってきた。
俺は一緒に入ってきた人物は、同じサークルのメンバーで彼の友人だろうと思って、目を伏せた。うつむいて、ふらふらとテーブルに近寄る。
この毒気がたまらないのだと、そう明るく笑う後輩に言うことができずに、俺はすぱーと煙草をふかした。
「・・・金欠なんだ。だからもらいもの」
ふーと息を吐いて、さすがにそろそろ出ていこうかと考えて、煙草を灰皿に押しつぶす。
「んじゃ、俺、次の講義行くね、な」
るちゃん、と俺は彼に挨拶をしようとした。そして一緒に入ってきた人物にも同じように言葉をかけるつもりだった。
けれど。
ぐい、と顎を持ち上げられて、俺の顔は持ち上がって、言葉を阻まれた。
大きく見開いた、青い目と、俺の目がかち合う。
「な・・・」
ひゅ、と俺は大きく息を吸い込んでしまい、けれど、相手の男は俺の顔を正確に認識したのか、へにょりと相好を崩した。
「リーオ」
その低い声を、俺は懐かしく思った。

『・・・あいたかった』

英語を耳にすれば、二、三年前の出来事が鮮やかによみがえる。
俺がいた高校に留学してきた、外人の男だ。来た当初は日本語が不自由で、俺は祖父が亡くなった痛みを抱えたままだった。その痛みをどうにかしようとして、でもできなくて、たまにくるペンフレンドの存在がために、英語を勉強しまくっていた。
おかげで、英語以外はからっきしだったわけだが。
今になって思えば、だいぶ困った生徒だと思う。
英語だけは本当にずば抜けていた。それこそラテン語は教養だと思って、俺は国語をそっちのけにラテン語なんかを勉強していた。
大学生になれば、それがどれだけおかしいことか、よくわかる。
そんな俺に、日本語の不自由な留学生を紹介してきたのは教師だったわけだが。
俺を、好きだと言って、母国へ帰って行ったはずだった。
俺は、何も返せなかったし、何も返さなかった。

『・・・俺は、会う予定なんてなかった』

笑いもしなかった。
会う予定も、何もない。
俺は今の今まで考えもしなかった。
この目の前の男の存在を。
「だろうね」
と、目の前の男は、苦笑した。
薄い血管のような青い目も、久しぶりだった。
根元にこげ茶がる金色の髪は相変わらずだ。すこし、前髪が伸びたようだと、そんな風に思う。
『・・・どうしても、君に直接会って、伝えたかったんだ』
今更、何を?と俺は結構本気で首を傾げそうになった。
目の色がわかるほど近くに顔を固定されていて、身動きが取れない。なるちゃんはキスさえできそうな距離感に赤くなって目をそらしていた。
「なに」

『なくなった』

は?と顔をしかめれば、彼は痛ましそうに、目をつぶった。
『ジェットおじいさまが、亡くなった』
何が、と思ったのに、その言葉を聞いた途端、ジェット、という言葉を聞いた途端、誰だがわかってしまって、俺は。
俺は、わけがわからないのに、息を止めた。
「・・・」
はあ、と止めていた息を吐く。
「・・・じょん」
と、目の前の男に呼びかければ、目を伏せて、せつなそうな顔をした。青い瞳は感情が強い分だけ、色をまして濃くなる。
そんな現実を理解しながら、理解できなかった。
触れられているはずの手の、感触はどこかへ行く。
わからない。
『・・・本当に、昨日のことだったんだ。いきなりで、一昨日までは、元気で、それで』
わからない。
『おじいさまは、最後まで、君のおじいさんの名を口にしていた』
わからない。
『そして君のことを、すごく心配していて、俺は』
わからない。

わからなかった。

「・・・っからね・・・」
『リーオ』

「わからねえよ!!!!」

俺は、本当に久しぶりに、大声を上げた。

「なにいってっか、ぜんっぜんわかんねえ!!!!!」

どん、と俺は目の前の男を突き飛ばした。
がーと体温が上がる感覚がした。
俺は相手の顔なんて見れなかった。近くにいるはずのなるちゃんに対する配慮もできなかった。
うそだ。
と、ようやくそんなことを、俺の頭が認識する。
「・・・リーオ」
そんな。
そんな声で呼ぶな。
苦しそうな、かなしそうな声で呼ぶな。
ジェット。祖父の愛しい人。死ぬまで愛したひと。俺のペンフレンド。
愛してくれた祖父がいなくなって、俺はどうしたらいいのかわからなくなった。
大事なものはなくなってしまった。
俺はくれた愛だけしか返せない。だから、祖父が骨になって、冷たく黒い石の下に入るとき、感情も一緒にそこに埋めてきた。
それ以外に、できるすべなんてなく。
でも。
それでも地球は回って、歳月は過ぎて、もう、十年近くも、たったのに。
今でも。
泣きながら、祖父が愛したひとに、訃報を送った日のことが、忘れられない。
涙は出ない。
笑えもしない。
だけど、くるしい。
俺は、ここにいてはいけない、と思った。
ふらふらと、歩き出す。
「リーオ!」
何かが、手首に触れた。
それを、振り払う。
「か、各務さん・・・」
いきなり現れて、英語で何か言われたら俺が大声を上げるなんて状況はめちゃくちゃなはずなのに、なるちゃんは気遣いを滲ませて、俺に声をかけた。
俺は視線だけを彼に向けた。
「なるちゃん、ちょっと、聞かなかったことにして?ね、おねがい」
彼は心配そうにしていたけれども、こくりと頷いてくれた。
気遣いに、笑えた。
だから笑って、後にした。

『君は、おそろしいものに出会うだろう』

そんな声を思い出した。
俺は、登録したままのフリーメールアドレスに、メールを送った。
すぐに、携帯が震えた。
『近くのデパートの、屋上がいいよ。そこで待っているね』
いつもと変わらない、先輩の文字だった。
五年ぶりとは、とても思えなかった。
俺は素直に、屋上のあるデパートを思い浮かべて、そこに向かっていった。



いらない、という言葉が、好きだ。
つらいことも悲しいことも、初めからいならない。
幸福を知らなければ、そんなことを知る必要もないから。得てして失うことが、怖くて仕方ない。
俺は思い悩みながら大人になってしまっていた。だから当然のように、永遠なんて言葉がないと知っているか。
何事も、すべては失われていく。
友情も、愛も、形あるものだけでなく、目に見えないものでさえ。
同じであり続けることなんて、なく。
神の形でさえ、同じではいない。
だから、何もかもすべて失われてしまうのなら、そんなものは、はじめからいらない。
その時点で、俺ははじめから間違っていた。
俺は幸福を知ってしまった。
笑い方を知ってしまっていた。
だから、なにもいらなかったのに。
それなのに。
気が付けば俺は。
捨てられないものばかりに囲まれている。
墓場まで持ってゆくものばかり、この手に抱えてしまっている。
がちゃん、とデパートの扉が開けば、そこは休憩スペースらしかった。
自動販売機と、ベンチがいくつか置いてある。あとは夜間ようにだろうか、照明が立っていた。落下防止のための背の高い柵。
それは意味があるようで、あまりないのではないかと思った。
落ちる時は落ちる。
青い空と、向こうに広がる無機質な建造物の群れは、まるで俺に手を差し伸べているようだ。
ただ、俺の目の前に人が一人いるだけで、ほかに人はいなかった。
「・・・」
とても、五年ぶりには思えなかった。
俺は一瞬、目の前の彼女が、俺の記憶の中にいる彼女に思えて、言葉を失った。
「せん、ぱ・・・い」
先輩とは違う、髪の色。彼女とは違う髪の短さ。そして、俺が進んだ高校の制服。
まるで、先輩は年を取らずにその場にいるかのようで。
「・・・ッう」
俺は、なぜだかすごく。
「あ・・・ぅ」
すごく、さみしいと思った。
「・・・はじめまして」
彼女は、先輩に似て、けれどあのひととはちがう笑い方をした。
にやり、としながら。
苦しそうに、眉を寄せた。
そうして、笑う。

「あなたが、わたしの、父様ですね」

彼女は、先輩ではなかった。
ぼくよりも若い、どこか先輩に似た少女だった。
先輩と違って髪は濁った金髪で短い。
ただ、目鼻立ちはほんとうによく似ていた。
姉妹か何かだと言われれば、それで納得してしまいそうだ。
あるいは、本人だと、そう言われれば。
「きみは、せんぱいじゃ、ないんだね・・・」
俺は自分よりも背の低い少女に問いかけることの滑稽さに、笑った。
煙草がほしくて仕方なくて、親指で唇に触れる。手についた赤い紅が、まるで熟れた果実のようだと思った。
「はい。母様は、もう、いません」
その言葉に、俺はますます笑った。
ここに、先輩はいない。
そうだろう。
五年も持つはずがない。
彼女の姿を思い出す。
病気がちなことをにおわせる白い肌。鴉の濡れ場色のような黒い髪は肩を過ぎていた。色素の薄い瞳。
あの先輩には、もう会えない。
それが寂しくて、かなしくて、俺は泣いてしまいたかった。
でも、涙が出なかった。
だから、顔の筋肉のこわばりのままに、笑った。
笑うしかなかった。
おそろしくておそろしくて。
差し出された言葉を拒絶したいのに、そんなこともできない。
いらないと、そう言いたいのに。
できない。
五年前の、あの日と同じに。
「・・・んで。なんで、せんぱい。助けてくれるって!そういったのに!!!」
俺は、そんなことを言うつもりはなかった。
けれどなじるように口にしまって、立っているのがつらくて、立てなかった。力が抜けて、コンクリートの地面に膝をつく。
どさり、と落ちたひざが痛かった。
けれど痛みにこらえる涙も、でない。
はい、と先輩に似た少女は、俺の前に立った。
「だから、私があなたを助けに来ました」
見上げた彼女は、あわれなものでも見るような目をしていた。
似てない、と思う。
先輩は、もっともっと、恐ろしく笑う人だった。人を人とも思わないように人間を見ていた。
俺を、興味深そうな目で見ていた。
『君は、恐ろしいものであうだろう』
その言葉を思い出すのは、ちょうどタイムリミットだったから。
「・・・きみも、かみさまだって、いうのかい」
神さまだと名乗った先輩。
異常精度の予知は、やはり体に負担がかかる。脳をフル回転させているからだ。
だから、中学の時の先輩のリミットは『持って五年』だった。それも、以降未来予知をほぼ使わずにいたら、の話だ。
「あの、神のような、ばけものだって?」
そして先輩は、人の身をした怪物だった。
人の生き血をすすり、長い時を生きる、怪物だった。
俺はそのすべてを知っている。ただびとでしかない俺に、彼女はすべてを明かしたのだ。
『それでも、あなたは、気にも留めないんでしょう?』
すべてを明かしてなお、そう言ってほほ笑んだ。
彼女は中学の時から五年、異常精度の未来予知を使わなければ、普通に生活していくことができたはずだ。彼女は人の身を超えた化け物で、長い寿命を持っていたのだから。
いわゆる教会のような神の家ができる前から存在している彼女に与えられたリミットは、休息までに生きる時間だ。
膨大な知識量を入れて導き出す確実な未来としての結果は、脳に負担を与えすぎる。だから彼女は、まるで仮死状態のような、長い長い眠りについてしまうのだ。
彼女が目覚めるころ、きっと、俺はいない。
「はい。母様によって、作られたのが私です」
彼女はそう言って、俺の前に膝をついた。
「あなたは、私の父様です。ですから」
私は、あなたをたすけます。
と、彼女は笑みもなく、どこか緊張したように俺を見た。
なにそれ、と俺は苦笑した。
「・・・母様が、おっしゃっていました」
家族は、助け合うのだと。
「母様は私にたくさんのことをしてくれました。困ったとき、絶対に助けてくださったのは、母様でした。それは、家族だからするのだとおっしゃっていました」
俺は、かつての祖父を、思い出してしまった。
俺に家族なんてたいそうなものは語れない。だけど、唯一、大切だと言えるのは、祖父の存在だ。
顔も思い出せないのに。
美化もされているだろうに。
俺は、どうしても、その思い出が大切で。
「無条件に、何かをすることができるのは『血』というものだと、そういう理由で十分なのだと、母様が、おっしゃっていました」
あの人は自分の娘になんてことを教えてるんだと、そう思った。
笑えそうで笑えなくて、煙草の毒気が恋しくて仕方ない。震えそうな体は、ひどく寒い気がした。
「母様は、今日この日に会うあなたが、私の父様だと、そして私が助けるのだとおっしゃっていました」
血がつながっていないことなど、重々承知なのだと、そうでも言いたげだ。
「たとえ『他人』でも、私はあなたの娘として、そばにいることだって、できます」
彼女の、どこか緊張したような表情に、ああそういうことかとなぜだか納得する気持ちが湧き出てきた。
俺もおそろしく、また彼女も恐ろしいと思うこと。
「・・・お前は、いらないと、思わないのか」
受け取ってしまえば、手に入れてしまえば、いずれ朽ちて失われてゆくのに。
俺はそれが、とてつもなく。
「でも、ずっと一人でいるのは、とても」

さみしいです。

知っている。
体が震えるくらい、寒くて、さみしい。
けれど失う悲しみは、深く、傷となって、抱えてゆかねばならないことも、大人になるまで生きてしまった俺は知っている。
「変わることを恐れては、何もできません。傷は、分かち合ってゆけばいいと、そう思います」
そうだろうか。
本当に?と疑ってしまう自分を自虐する気持ちがわく。
彼女のきれいな言葉を素直に受け取れないのは、俺がいきすぎているからだろうか。
「・・・かあさまに、きいていたとおりです」
彼女は目元に力を込めて、何かをこらえるようにまっすぐと俺を見つめた。
あるいは懐かしい面影を探すように。
「・・・父様は、かなしいことを考えて、悲しまないようにと思ってしまうほど、おやさしいです」
「そんな、こと」
あるわけがない。
「・・・せんぱいに、よく言われた」
俺は。
「物事を悲観的に見過ぎだって」
俺は、手を伸ばした。
目の前の彼女の肩を抱き寄せる。
そして、強く。
強く、強く、抱きしめる。
「と、」

「かなしいんだ」

お、さま、と小さな声をかき消すように、叫ぶように強く。
俺は、生まれたての赤子のように、感情をこぼした。

「さみしいんだ」

「みんな、俺を置いてゆくから」

変わることは、仕方がない。
なくなってゆくことも、仕方がない。
でも、それでも。

「どうしても、さみしいんだよ」

変わらずにはいられない。
それがさみしくて、仕方ない。
まるで自分だけ、画面の一枚向こうにいるように。
「父様は、他人から与えられる好意に鈍いんですねえ」
よしよし、背中をなだめるようにたたかれて、気が付けば泣いていた。
久しぶりにこぼれた涙はたいそう息がしずらいものだと思い出す。
「大丈夫ですよ、父様。母様は父様が大好きでしたし、私も愛してます、こころから」
ぐす、と鼻をすすりながら、少しだけ拘束を緩めた。そして、俺は彼女の顔を覗き込む。
「無表情で泣くかお、私わりとすきです」
そう言って涙さえぬぐってくれるので、俺は割合まともに。
「養子縁組する?」
と、提案してみた。
彼女は首を傾げて。
「それ、なんです?あと、その言葉を聞いた途端、さっき来た人が、すごい形相でこちらをにらんでいるんですが」
そう言われて首を後ろに向ける。
そこにいたのは、ジョンだった。まるで犬のように息を切らせている。
「話がまったく、読めないんだが、ともかく、養子縁組は反対だ」
「そんなこと言ったって、この子は俺の娘だし」
『はあ!?』
「あ、はい。私、各務さんの娘です」

落としてしまった。

暗い海の底から、俺はかつて黒い海の底に埋めてきたものを引きずり戻す。

まだ、うまくは泣けないけれど。
「んー・・・まずはお互い、いろいろ話してからかな。ところで君、名前は?」
「そうですね。私、来栖、澪といいます」
彼女は、ふ、と表情を緩めた。
「みお、という私の名前、ぜろという漢字に、さんずいなんです」
へえ、とつぶやくと、彼女は俺にのしかかるように首に手を回して抱きついてきた。俺はうまく彼女を受け止めることができずに、そのままコンクリートの上に倒れこむ。
「ゼロから、あなたが綴れるように、です。さんずいは、ペンの意味だそうです」
嬉しそうに呟く彼女に、ああ、と俺は笑ってしまった。

「俺の名前、憶えてたんだな」

ジョンはうまく発音できずに、リーオと呼ぶのだ。
文字を書くことを意味する漢字をもとに、祖父がつけてくれた名だ。
ああ、つながってゆくことも、あるのかと。
俺は抑えられない涙を、こぼし続けた。

沈んだ彼方

名前が付けられない関係が好きです。
逆に、ちゃんと名前がついているのに、ほかの人には理解されないようなものが。

沈んだ彼方

『こぼれたゆくえ』『口にせずにはいられない』の登場人物が出てきます。 愛することは知っていても、愛されることに鈍いひとのお話です。 すこし同性愛的な表現があるかもしれません。苦手な方はご注意を。 人がなくなるなのは、いつまでたってもかなしい。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-19

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