放課後の夜に

 同じクラスの玲奈はクラスの女子たちの中でも特に男子に人気があり、彼女に告白して振られた同級生が数しれずいた。彼女は一年生の時、サッカー部のエースの三年生と数か月付き合っていたらしいが、それ以来男関係の話は聞かなかった。
 僕と玲奈は一年生の頃から文芸部で知り合いだった。彼女の第一印象はどこかのお嬢様のような気品や清楚さがあって、僕は彼女を一目見て興味を抱いたのを覚えている。文芸部はもともと人気のない部活だったし、僕以外に男子生徒はいなかった。一年生の頃は僕と玲奈しか新入部員がいなかったので、僕たちは必然的に仲良くなった。
 僕は玲奈の後姿を席から眺めていた。彼女は背が高くて体は細く、黒い髪がすっと背中まで流れていた。
 僕は一時間目の授業が終わると、彼女の元へ行った。
「二時間目の数学の宿題やってきた?」と彼女に話しかけた。
「やってきたけど」
 そういって彼女は机の中からノートを取り出した。僕は彼女からノートを受け取ると、ページをぱらぱらとめくった。とても綺麗な字で数式がノートに書き込まれていた。一つ一つの証明が丁寧に書かれていて、彼女の性格を表しているようだった。
「これ借りてもいい?」
「しょうがないわね」
 僕は彼女から借りたノートを急いで休み時間の間に書き写し、授業のチャイムが鳴る直前に彼女に返しに行った。彼女は僕からノートを受け取ると、次は自分でやってくるようにと言った。
 僕が席に着くと、後ろの方で男女のグループが楽しそうに会話をしていた。チャイムが鳴ると同時に先生が教室に入ってきて、彼らは急いで自分たちの席に戻って行った。
 その日の授業の間、僕は玲奈の黒髪や外で体育をやっているクラスや前の方で先生に見つからないように携帯ゲームをやっている人たちを眺めていた。相変わらず授業の内容はさっぱり頭に入ってこなかったし、そんなことはどうでもいいように感じた。

 僕はその日の授業を終えると、玲奈を誘い部室に二人で向かった。彼女は黒の革のバッグを肩に掛けて、僕はグレーのリュックサックを背負って、階段を上っていた。新しい校舎ではなかったので、階段の床は傷がついていたし、壁はところどころはがれていた。
 部室の前に着くと、僕は制服のポケットから部室の鍵をとりだして、ドアを開けた。部室の中は窓が閉まっていて、生暖かい空気が淀んでいた。僕たちは部室の電気をつけて、窓を開けた。冷たい風が部屋の中を満たしていった。
 部室の中には大きなテーブルと椅子が置いてあり、棚や本棚もあった。奥の方には簡易のベッドが置いてあり、ここに泊まることもできた。その横には小さなテーブルとソファがあった。四人しかいない部活だったが、ここが唯一の活動場所ということもあり、十分すぎるほど広かった。
 僕たちは制服のブレザーを脱いで、椅子の背もたれに掛けた。彼女は白いワイシャツとスカートだけの姿になり、シャツの下のピンク色の下着が少し透けて見えていた。
 彼女は鞄からノートと教科書をとりだして、勉強を始めようとした。僕たちは今年受験生なのでお互い大学に進学するため勉強をしていた。普段の部活では本を輪読したり、読んだ本の内容をまとめて発表したりしていたが、他の部員が来るまでは勉強をしていることが多かった。
「せっかくだからソファで勉強しようよ」と僕は提案した。
「かまわないけど」
 彼女は教科書とノートを手に持ってソファの方へ移動した。僕たちはソファに並んで、座った。彼女の太ももが僕の太ももに触れて、僕はどきどきしていた。彼女はそんなことを気にもせず、教科書を広げて、熱心に読んでいた。僕も彼女の隣で参考書を広げて、問題を解き、答えをノートに書いていった。
 しばらく勉強していると「ちょっと寒くなってきたね」と彼女が言った。
 僕はベッドの上に置いてあった毛布を持ってきて、彼女と僕の膝に掛けた。僕は彼女の横で、彼女の体の温かさを感じていた。そうしていると少しずつ体はリラックスしてきた。僕は彼女の方に体を傾けた。
「何?」と彼女は少し驚いたように言った。
「玲奈」
 僕はそういって彼女の肩を抱いた。彼女は一瞬拒もうとしたが、僕の腕を握ったままそのままにしていた。僕は彼女の方に身を乗り出して、両手で彼女の体を抱いた。彼女の頬は紅潮していて恥ずかしそうに僕から目をそらしていた。僕は興奮を感じながら体にじっとりと汗をかいていた。
 僕は服の上から彼女の体を触っていった。彼女の胸のふくらみは柔らかくスカートに手を伸ばすと、彼女は僕の手を握った。僕たちは口づけをして、彼女のスカートの中に手を入れた。下着の上から彼女の性器の近くを撫でると、彼女の下着は濡れていった。僕は彼女に口づけをしたまま、彼女のスカートのホックを外し、スカートを脱がせていった。彼女はうつむきながら荒く呼吸をしていた。僕の額には汗がにじみ、顔の輪郭に沿って垂れていった。
「ちょっともう無理よ」
 彼女はそういって僕の腕を手で押さえつけて、引き離した。僕の口には彼女の柔らかい唇の感覚が残っていた。
「わかったよ」
 僕はそういって彼女から体を離した。僕たちの体は汗だくだったので、近くにあったタオルで汗を拭いた。彼女はそのままの姿で僕のことを見ていた。

 突然、部室のドアが開く音がした。僕たちは驚いてドアの方を見ると、下級生の加奈が部屋に入ってきた。彼女は一年生で今年入部したばかりの新入部員だった。僕と玲奈は急いで、何事もなかったかのように取り繕った。
 加奈はソファにいる僕たちに気付いて、呆然とした様子で見ていた。僕はソファを立ち上がり彼女の方へ行った。スカートはソファの横に掛けてあり、玲奈は近くにあったタオルケットを腰に巻いた。
「何してたんですか?」と加奈は僕に訊いた。
「玲奈のスカートにコーヒーをこぼしちゃったから乾かしていたんだ」
 加奈は疑い深そうに僕の目を見ていた。玲奈の方をちらっと見ると彼女は気まずそうにしていた。
 加奈はテーブルの上にバッグを置き、席に座った。僕は腰に手をあてたまま、そこに立っていた。玲奈はタオルケットを腰に巻いたまま立ちあがった。僕たちの方へやってくると「ちょっと用があるから、行ってくるね」と言って部室のドアを開けて出て行った。
 玲奈が部屋を出て行ったあと、僕は加奈の正面の席に座った。
「本当は何してたんですか?」と加奈は訊いた。
「何もしてないよ」
 加奈は納得がいかない様子だった。

 僕たちは何も話さずただ向き合っていた。僕は加奈から目をそらし、窓の外でサッカー部が練習しているのを見ていた。小さな赤い三角コーンが二つ並べられていて、その間にボールを通すとゴールということらしく、二つのチームが試合をしていた。時折緑のゼッケンを付けたチームがゴールを入れ、その度に声が上がった。加奈は携帯電話をいじっていて、誰かにメールを打っているようだった。
「とりあえず、部活を始めよう」
 しばらくして僕はそういって、鞄から一冊の本をとりだした。
「何の本ですか?」と加奈は訊いた。
「小説の書き方っていう本だよ」
「小説書くんですか?」
「今度の文化祭に文芸部は短篇小説集を出すんだ」
「私、小説なんか書いたことないですよ」
「僕もだよ」
 僕は席から立ち上がり、部屋の奥に立ててあったホワイトボードをテーブルの前に持ってきた。黒いペンのキャップを開けて、自分がその本で読んだ内容を加奈に説明していった。登場人物を決める、プロットを書くなど基本的なことをホワイトボードに記していき、口で簡単に説明した。
「ちょっと書いてみたくなってきました」
 説明が終わると、加奈がそう言ったので、僕は鞄の中から原稿用紙の分厚い束を取りだした。昨日学校の帰りに買ったもので原稿用紙を買ったのは中学校の読書感想文以来だった。僕は原稿用紙の束から三枚切り離して彼女に渡した。
「とりあえず、書いてみよう」
 僕たちは二人でテーブルに向き合って座って、原稿用紙に小説を書いていった。時折加奈は首を傾げたり、悩んだりしていた。僕は小説なんて書いたことはなかったが、とりあえず人に見せても恥ずかしくないものにしようと努めた。
 部室の中は静まり返り、窓の外を見ると、夕焼けのオレンジ色の空が見えた。グラウンドで練習していたサッカー部は片づけを始め、運動部の掛け声は聞こえなくなった。部室の前の廊下をちょうど部活動を終えた吹奏楽部が通って行った。
「なんか疲れちゃった」
 そういって、加奈は両手を上にあげて背筋を伸ばした。彼女の原稿用紙は文字でびっしりと埋まっていて、三枚目の原稿用紙をちょうど書いているところだった。
「ベッドに横になる?」
 僕がそう提案すると、彼女は一瞬黙った後、小さな声で「はい」と言った。

 僕と加奈は二人でベッドに潜り込んだ。ソファの上に置いてあった毛布を持ってきて、首まで掛けた。僕は体を横にすると、今までの緊張がなくなり、体が休まる気がした。玲奈とのことや小説を書いたことで僕は疲れていた。加奈は僕に背を向けて横になっていた。彼女の丸い背中がワイシャツ越しに見えた。僕は彼女の体から伝わってくる熱を感じ、自分の胸が鼓動を打っているのが聞こえた。
 加奈は寝返りを打って、僕の方を向いた。彼女の頬は赤くなっていた。
「こうやって誰かと寝るのずいぶん久しぶりです」と彼女は言った。
 彼女のふっくらとした顔つきはどこかにまだ少女のような子供っぽさが残っていた。僕は彼女の方に身を寄せた。加奈はじっと僕の目を見ていた。僕は徐々に彼女の方に手を伸ばしていき、彼女のお腹あたりを触った。彼女は一瞬身を縮めた後、少しずつ体の緊張を解いていった。僕は少しずつ彼女のお腹をさすっていった。彼女の体は柔らかく、手に感触が伝わってきた。
 僕は彼女のお腹から手を離し、首筋のあたりに触れた。彼女はくすぐったそうにしていたが、しばらくすると気持ちよさそうに身をまかせた。僕は肩から下にかけて、ゆっくりと手で彼女の体を確かめていった。僕が彼女の胸のあたりを触ると、彼女は恥ずかしそうにうつむき、体を震わせた。僕は外から内側にかけてゆっくりと彼女の胸を揉んでいった。
「こんなことするの初めてです」と僕のワイシャツの袖を掴みながら彼女は言った。
「彼氏とはしたことないの?」
「私、彼氏いたことないんです」  
 僕は彼女の胸から徐々に手を下にずらしていき、彼女のスカートの上から下腹部の辺りを優しく指で撫でた。彼女は荒く呼吸をしながら、声を上げるのを我慢しているようだった。
「気持ちよかったら、声を出していいよ」
「そんなことしたら、誰かに聞かれちゃいますよ」
「まさか、部室でこんなことをしているなんて誰も思わないさ」
 僕は彼女のスカートの中に手を入れ、ショーツの上から性器を指で撫でた。彼女は体を縮ませ、少女のような喘ぎ声を上げた。僕はもう片方の腕で彼女の体を抱きしめ、彼女の唇にキスをした。

 窓の外は暗くなり、廊下の電灯が明るく光っていた。グラウンドには運動部の姿がなく、一人残らず家に帰ったようだった。
 僕たちはベッドから降りて、靴を履いた。彼女は立ち上がり、髪の毛を整えて、ワイシャツのボタンを留めていた。僕は彼女の体を眺めながら、まだ興奮を抑えることができずにいた。
「加奈」と僕は彼女のことを呼んで、彼女の小柄な体を抱きしめた。
 彼女は僕の背中に手を回し、僕の体を優しく抱いた。僕たちは二つ年が違うが、僕は彼女に身を委ねたかった。
「初めてだったんですからね」と僕の胸に顔をうずめながら加奈は言った。
 僕は彼女からそっと手を離し、彼女の頬をさわった。彼女は僕の目をじっと見つめていた。
 僕は彼女とソファのところまで行った。
「紅茶でも淹れてくるよ」
 そういって僕は部室の奥にある水道のところまで行った。テーブルの上には使い古した白いポットが置いてあったので、僕はそれに水を入れてスイッチを押した。しばらくすると、ポットのお湯の温度が上がり、水が沸騰する音がした。
 僕は近くの棚の中から紅茶の入った缶とティーカップを二つ取り出した。缶からティーバッグを取り出してカップの中に入れ、ポットのお湯を注いだ。僕はこぼさないようにそれを加奈のところへ持っていった。
「いい匂いですね」と加奈は言った。
 紅茶からは甘い果実のような匂いが立ち込めていた。
「私、文化祭のために頑張って小説書きますよ」とソファに座りながら加奈は言った。
「どんな話にするの?」
「先輩とのラブ・ストーリーにします」
 加奈はそういって笑みを浮かべながら僕のことを見ていた。僕と加奈はまだ知り合って数か月だし、二人っきりで話をしたこともあまりなかった。それでもまるで昔からずっと一緒に居たような気持ちがしていた。
「お腹空きましたね」と紅茶を飲みながら加奈は言った。
「確かに」
 僕たちはお昼から何も食べていなかった。時計で時間を見るとちょうど八時を回ったところだった。窓の外はすっかり暗闇になっていて、鏡のように僕たちの姿を映していた。
 僕たちはソファで紅茶を飲み終わった後、部屋の中をきれいに片づけて元通りにした。僕は机の上に散らばっていた筆記用具や原稿用紙を鞄にしまい、彼女はベッドの毛布を綺麗にたたんだ。それが終わると僕は彼女に荷物を渡し、二人で部室を後にした。
 外の廊下には一人も歩いている人はいなかった。他の教室は鍵が閉まっていて、電気が消えていた。僕たちは並んで階段を下りて行った。僕たちの足音が人のいない校舎に響いた。
 僕たちが校舎を出ると、誰もいないグラウンドと風に揺れる木々が見えた。空は暗い青色で、大きな灰色の雲が浮かんでいた。風が時折強く吹き付けてきて、そのたびに彼女は身を縮ませた。僕は胸に鼓動を感じながら、彼女と校門まで歩いて行った。

 夜の街は静かで住宅の玄関の明かりと街灯の光がぼんやりと道路を照らしていた。緑色のガードレールで車道と歩道は区切られていて、僕たちは細い歩道を二人で並んで歩いていた。
「今日は遅くなっちゃいましたね」と加奈は言った。
「普段はこんなに遅くまでやらないしね」
「さっきお母さんにメールを送っておきました。今日は友達と遊ぶから帰るのが遅くなるって」
「じゃあ、どこかで食事でもしようか」
「はい」
 僕たちは駅まで歩いて行った。駅の近くには居酒屋やファミリーレストランが連なっていて、人がたくさんいた。中には制服の高校生の姿もあった。僕たちは普段から入り慣れているファミリーレストランに入った。
 店内は黒いスーツを着たサラリーマンや僕たちと同じ学校の制服を着た女子学生のグループがテーブルに座っていた。店員は僕たちを奥の方の席へ案内した。
 席に座ると僕たちはメニューを開いて、彼女はスパゲティを僕はハンバーグとライスを注文した。料理が運ばれてくるまで、僕たちは文化祭のことについて話していた。
「去年の文化祭では文芸部は何を出したんですか?」
「確かこのあたりの地域の歴史について調べた本を出したよ。例えばどんな野菜が作られてきたのか、街並みはどんな感じだったのか、みたいな」
「ずいぶん、大変そうですね」
「街中の図書館を回って資料をさがしたんだ。古くて分厚い本も多かったし、読むのも大変だったよ」
 料理が運ばれてくると、彼女の前には白い皿に載ったナスとトマトの入ったスパゲティが僕の前にはハンバーグとコーンの載った鉄板とライスが置かれた。彼女はフォークを手に取って、丁寧にスパゲティを絡め取って口に運んだ。僕はナイフでハンバーグの端を切って、フォークで刺して食べた。味はいかにもファミリーレストランといった感じだったが、まずくはなかった。
「この前玲奈さんとここに来たんですよ」
「そうだったんだ」
「玲奈さんここの料理一口食べて、まずいって言ってました」と加奈は笑いながら言った。
「玲奈の家、お金持ちだから普段からいいものしか食べてないんだよ」
「私の家だって、結構お金ありますよ。でも私ここの料理好きです」
「人それぞれなんだね。僕も嫌いじゃないよ」
 僕たちは食事を終えると、食後にコーヒーとデザートを注文した。店内の時計を見るとちょうど十時になったところだった。店内では相変わらず女子学生のグループが大きな声で話をしていた。加奈は時折髪を指で触りながら、僕の方を見ていた。
 小さなカップに入ったコーヒーが二つ運ばれてきたので、僕たちはそれを少しずつ飲んだ。デザートが運ばれてくると、加奈は嬉しそうにそれを食べた。大きなガラスの窓の外を見ると、駅の近くの交差点が見えて、たくさんの車が信号の前で止まっていた。信号の色が変わると、いっせいに車は動きだし、また色が変わると、車の列ができた。

 僕たちは店を後にして、駅まで歩いて行った。若い男女のカップルが居酒屋の前で何やら喧嘩をしていた。スーツを着た女性がちょうど居酒屋から出てきて、何事もなかったかのように彼らの横を通り過ぎていった。その近くでは大学生と思われる集団が円になって何かを話していた。
 駅の改札のところで、僕は家に電話をしようと思い、携帯電話をさがした。バッグの中や制服のポケットの中を隈なく探したが、それは見つからなかった。
「携帯を部室に忘れてきちゃったみたいだ」
「取りに行きます?」
「何かあるといけないし、今から行ってくるよ。加奈は遅くなるといけないから、先に帰っていて」
「わかりました」
 そういって僕たちは改札の前で別れた。加奈は学校のバッグを肩に掛けて、駅のホームへと歩いて行った。彼女の後姿を僕は見送ってから、学校までの道を引き返した。
 さっきまで加奈と歩いていた道を僕は反対方向に歩いていた。普段なら朝にこの道を通って学校に通っているが、夜に学校へ向かうのは初めての経験だった。周りには生徒の姿は見えないし、すれ違う人もずいぶん少なかった。
 通りに出て、信号を待っていると、向こう側から大きなトラックがやってきて僕の前を通り過ぎて行った。車の通りも少なく、車道には車の姿が見えなくなった。
 住宅やマンションに面した道を通っていくと、高校の建物の一部が見え始めた。建物の窓は暗くて、電気が点いていなかった。学校まで着くと、校門は閉まっていたが、その横の小さな扉が開いていたので僕は中に入ることができた。グラウンドには誰もいなくて、時折吹く風で砂埃が舞っていた。夜は日中よりも空気が冷たくて、僕は寒さを身に感じながら校舎に入った。
 校舎に入ると、下駄箱の辺りは外の光で見ることができたが、その奥に続く廊下は真っ暗で奥が見えなかった。僕は足元を見ながら慎重に階段のところまで歩いて行くと足元だけ小さな明かりがついて、先に進むことができた。真っ暗な校舎はとても不気味で奥から何かが出てくるような気すらした。途中で引き返して、明日の朝、携帯を取りに行くことも考えたが、ここまで来てしまったので先に進むことにした。手すりにつかまりながら階段を上がっていくと、文芸部の部室がある階についた。
 僕が廊下の方に出ると、ぼんやりと明るく、奥の部屋から光が漏れていた。近くまで歩いて行くと、そこは文芸部の部室だった。僕はおそるおそる部室のドアを開けた。中を覗くと、玲奈が部室のソファに座って本を読んでいた。玲奈は僕の方を向くとにっこりと笑った。
「こんなところで何してるの?」と僕は聞いた。
「スカートを取りにきたの」
「家には帰らなくていいの?」
「もうこんな時間だし、私の家ここからはちょっと遠いから今日は学校に泊まろうと思って」 
 僕は部室の中に入り、携帯電話を探した。携帯電話は玲奈の座っているソファの前のテーブルの上に置いてあった。
「携帯を取りにきたんだ」と僕は言った。
「さっきまでベッドの上に置いてあったわよ」
 彼女はそういって僕のことを見た。僕は少しの気まずさを感じながら、彼女の横に座った。
「寒くなってきたね」と僕は気まずさを紛らわすため言った。
「そうね」
 彼女はそう言って、視線を本から離さず、僕の隣で本を読んでいた。時計の秒針の音が聞こえるほど部屋の中は静まり返っていて、外からもほとんど音という音が聞こえなかった。僕はすることもなく、ただソファに寄りかかり、部屋の中を見ていた。玲奈が時折体を動かし、その度に僕は胸に鼓動を感じた。しばらくして、僕が携帯で時間を見ると、ちょうど日付が変わった頃だった。
「十二時になったけど、玲奈はまだ起きてる?」
「私はもう少し起きているから、先に寝ていていいわよ」
 僕は部室の水道のところへ行って、コップの中に立てかけてあった歯ブラシで歯を磨いた。水道で口をゆすぐと、冷たい水で歯がしみた。僕は制服のブレザーを脱いで、テーブルの椅子に掛けておき、僕はベッドがある方の電気を消した。
 僕がベッドに横になると、玲奈がソファで本を読んでいるのが見えた。僕の方の電気は消えていて、彼女のいる方は電気が点いていた。僕はしばらくの間目を閉じていたが、眠ることができなかった。僕の頭の中では今日のことが記憶に残っていて離れなかった。僕はそのことを思い出すたび、興奮を感じ、また自分が不誠実であるような気がした。
 僕は目を開けて、玲奈のことを見ていた。彼女はオレンジ色の光に照らされていて、昼間よりもずっと綺麗に見えた。長い黒髪や形のよい顔の輪郭、細くてすらっとした体が魅力的だった。僕がそうやって彼女のことを見ていると、彼女は本から目を上げて、僕の方を向いた。
「眠れないの?」と彼女は言った。
「うん」
 彼女はソファから立ち上がり、本を小さなテーブルの上に置いて、僕の方へとやってきた。彼女は僕の寝ているベッドの端の方に腰掛けて、僕の顔を見た。僕は彼女を見上げていた。彼女はそっと僕に近寄り、僕の頭を撫でた。彼女は規則的なリズムで優しく僕の髪を触り、僕は彼女の方を向きながら目を閉じた。彼女の香水のような匂いと頭に触れる手の感触を感じながら、僕は少しずつ眠りに落ちていった。

 朝僕は目覚め、目を開けると、隣で寝ている玲奈の後姿が見えた。ベッドの端で体を丸くして彼女は静かに寝息を立てていた。僕は彼女を起こさないようにベッドから降りた。窓の外からは朝の陽ざしが差し込んでいて、電気のついていない薄暗い部屋の中を照らしていた。時計を見るとまだ七時で校舎の中には人がいなかった。
 僕は部室の水道のところまで行って、顔を洗い、歯を磨いた。水道から水が落ちる音が部屋の中に響いた。タオルで口元を拭き、僕はポットでお湯を沸かした。お湯が沸くまで、僕はテーブルの椅子に座っていた。
 ふと思いついたように僕は鞄の中から原稿用紙を取りだした。僕は加奈が書いた小説を読んだ。彼女の丸い文字が原稿用紙を埋めていた。高校一年生とは思えないほど立派な文章で、淡々と日常の高校生活が描かれていた。僕はしばらくの間彼女の小説を読み、ポットのお湯が沸くと、紅茶を淹れた。
 紅茶からは甘い匂いが立ち込めていた。僕はティーカップにそっと口をつけ、やけどしそうなくらい熱い紅茶を少しずつ飲んでいった。空っぽの胃の中に熱い紅茶が落ちていくのがわかった。
 ベッドの上では玲奈が眠っていて、彼女が呼吸をするたび、ほんの少しだけ体が動いていた。きっと彼女も昨日から疲れていたのだろうと思った。
 僕は部室のドアを開けて外に出て、静かに閉じた。廊下には誰も人がいなかった。きっと先生達もまだ学校に来ていないのだろう。僕は階段を下りて行って、一番下の階の下駄箱のところまで行った。使い古された、木の下駄箱の中にはたくさんの生徒の白い上履きが入っていた。僕は上履きを脱いで、下駄箱から靴を取り出した。靴を履いて、校舎の外に出ると、心地よい涼しい風が吹いてきた。空は晴れわたっていて、日差しがまぶしかった。僕は誰もいないグラウンドを眺めながら校門まで歩いて行った。
 学校から五分ほど歩いたところにコンビニエンスストアがあった。コンビニのガラスの壁の中では店員がレジで客が来るのを待っていた。雑誌の並んでいるところでは一人の中年男性が立ち読みをしていた。のどかな朝の景色だった。まだ街に人は少なく、人が眠りから覚めて活動し始めたばかりだ。コンビニに入ると、一昔前にはやった音楽が流れていた。僕はそこで飲み物とパンをいくつか買って会計をした。財布から千円札を一枚出して、おつりをもらった。
 店を出ると、僕と同じ学校の制服を着た生徒が学校の方へ歩いているのが見えた。彼は大きな黒いギターケースを抱えていた。僕は学校までの道を歩いた。途中主婦がゴミを出していたり、若い女性が犬の散歩をしていた。学校まで着くと、数人の生徒が校門に入って行った。少しずつ学校には人が増えていった。僕は校門を抜けると、グラウンドにはジャージを着たサッカー部がいて、朝の練習をしていた。
 気持ちのよい朝だった。空気は澄み渡っていて、遠くでは木々が風に揺れていた。空には薄い白い雲が青空に広がっていた。僕は今日一日の学校生活が楽しみだった。
 僕は校舎に入り、靴を履き替え、階段を上って行った。途中何人かの生徒とすれ違った。彼らの中に知っている人はいなかった。部室のある校舎は下級生の教室しかないので、それも当然だった。
 僕が部室のドアを開けると、玲奈がテーブルの椅子に座って本を読んでいた。昨日、彼女がソファで読んでいた本と同じだった。
 玲奈は僕が入ってきたのに気付くと「おはよう」と言った。彼女の髪の毛は少し乱れていて、彼女は片手で必死に直そうとしていた。
「おはよう」と僕も言った。
「昨日はよく眠れた?」と彼女は訊いた。
「疲れていたからよく眠れたよ。玲奈は?」
「あなたが眠った後、ソファで遅くまで本を読んでいたから、あまり寝てないの」
 そういって彼女は両手を上げて、背筋を伸ばした。彼女のシャツの上の方のボタンは開いていてラフな格好をしていた。
「朝食買ってきたけど、食べる?」
「うん」
 僕たちはテーブルに座って、パンのビニールの袋を開けた。彼女は一口食べると、おいしいと言って笑みを浮かべた。僕はパンをかじりながら窓の外の景色を眺めていた。緑色の葉が生い茂った木々が太陽の光に照らされていた。グラウンドの横の道をちょうど学校に来た生徒たちが歩いていた。友達と楽しそうに話したり、一人で音楽を聴きながら歩いていたり、中には参考書を読みながら歩いている生徒もいた。
 授業が始まるまでまだ時間があったので、僕は飲み物を飲みながら、彼女に文化祭のことについて話した。
「今度の文化祭で出す短編小説集だけど、玲奈はもう書いた?」
「私はまだ書いていないわ。最近受験勉強しかしていなかったから。それに部員が全員そろう機会もあまりなかったし」
「今、原稿用紙を渡すから、来週あたりには書いてきてほしいんだ。後で印刷もしないといけないしね」
「わかったわ」
 僕は鞄の中から原稿用紙を取りだして、彼女に渡した。彼女は僕から原稿用紙を受け取ると、それを大事そうに自分の鞄に閉まった。
「私、小さい頃から小説を書いていたのよ」と彼女は言った。
「知らなかった」
「本を読むのも好きだったし、それで文芸部に入ったの。そういえばあなたはどうして文芸部に入ったの?」
「ほかに興味のある部活がなかったからかな」と僕は言った。
「私、あなたがどうして文芸部に入ったのかずっと不思議だったのよ。だって当時は男子生徒はいなかったし、部員だって少なかったでしょ。それにあなた別に本が好きっていうわけでもなさそうだし」
「特に理由なんかなかったんだよ。しいて言えば一番楽そうだったからかな」
「でもその割にはあなたが一番活動している気がするわ」
「確かにね」
 僕たちは授業が始まるまで部室の中にいた。彼女は着ていた服を整えたり、髪の毛をとかしたりしていた。始業のチャイムが鳴ると僕たちは部室を後にした。

 教室に入ると、僕は後ろの方の自分の席に座った。玲奈は小走りで自分の席に向かい、彼女の黒髪が揺れていた。先生が教室に入ってくると、話をしていた生徒たちは静かになった。先生は僕たちの前に立って、一通り教科書の内容を説明した後、黒板に字を書いていった。僕はそれにならって、ノートに黒板に書かれた文字を写していった。時折前の方で男子生徒が話をしていた。先生はそれに気づくと、その度に注意をした。そんな風にして、僕は昼まで授業を受けていた。
 昼休みになると僕は部室へ行った。部室のドアを開けると、そこには二年生の文芸部の部員の由里がいた。彼女はバレー部と文芸部両方に所属していて、バレー部が休みの日だけ、文芸部に参加していた。
 彼女は僕に気付くと「久しぶりです」と言った。
「最近部活に来てなかったね」と僕は言った。
「大会の前なんで練習が忙しかったんですよ」
 彼女は髪が短くて肌は日に焼けていて黒かった。僕は彼女が一年生のときから知っているが、他の文芸部員に比べて活発なので印象が強く残っている。
「そういえば、今度の文化祭で文芸部は短篇小説集を出すから、由里も書いてよ」
「小説を書くんですか」と由里は驚いたように言った。
 僕は鞄から原稿用紙を取り出し、彼女に渡した。彼女はそれを受け取ると、原稿用紙を広げて机の上に置いた。そして肘をつきながら何かを考えているようだった。
「上手く書けるか心配です。それにみんなに見せるなんて少し恥ずかしいですね」と彼女は言った。

 その日の放課後、僕はまた部室へ行った。部室の中には人はいなかった。玲奈は今日は用があるらしく部活には来ないと言っていた。加奈は昨日駅の改札で別れて以来会っていなかった。僕は部室のテーブルに座り、特にすることもなかったので、鞄から原稿用紙を取りだし、小説の続きを書いた。窓から午後の日差しが差し込んでいて、部屋の中は暖かかった。
 僕は一人の女の子が主人公の小説を書いていた。彼女は僕がまだ小学生の頃に初めて恋をした女の子だった。彼女は真面目な性格で学級委員などを進んでやるようなタイプだった。クラスの誰にでも優しかったし、友達も多かった。僕はよく学校でいたずらをして、その度に彼女に怒られたのを覚えている。彼女はまるで僕の姉のような存在だった。その頃から僕は女の子に対して興味を持つようになった。
 僕は原稿用紙五枚分の小説を書いた。それが出来上がると、初めから読み直してみた。ところどころ文章が読みにくかったり、誤字があったりしたが、全体的には人に見せても問題がないものに仕上がっていた。
 僕は鞄から小型のノートパソコンを取り出した。家族で共有しているパソコンで家から持ってきたものだった。僕は原稿用紙に書いた小説をパソコンに打ち込んでいった。
 しばらく作業をしていると、僕は眠気を感じ始めた。紅茶でも淹れようと思い、席を立つと、部室のドアが開く音がした。僕がそちらを見ると制服を着た由里が部屋に入ってきた。
「どうしたの?」と僕は訊いた。
「今日部活が早めに終わったんで、小説を書こうと思って」
 彼女は手に青いボストンバッグを持っていて、そこから原稿用紙と筆記用具を取り出した。彼女は袖をまくっていて、日に焼けた筋肉質な腕が見えていた。彼女はテーブルに座ると、原稿用紙を広げて、シャープペンシルを取り出した。僕は彼女が小説を書いている間に紅茶を淹れていた。ティーカップにお湯を注ぐと白い湯気が上がった。僕は彼女の前に紅茶の入ったティーカップを置き、紅茶を飲みながらパソコンに打ち込む作業を続けた。
「小説書くのって難しいですね」としばらくして由里が言った。
「適当に書いても大丈夫だよ」
「正直、何を書いたらいいかわからないんです」
「じゃあ初めにどんな話にするか紙に書いてから書くといいよ」
 彼女は僕の言うとおりにして、バッグからノートを出して、それにプロットを書き始めた。僕は彼女の様子を眺めながら、紅茶を飲んでいた。部屋の中の時計は五時を指していた。窓の外は夕暮れになり、遠くに橙色の太陽の丸い輪郭が見えた。
 彼女と僕は六時になるまで小説を書いていた。僕はその間に小説の大部分をパソコンに打ち終わり、彼女も小説を中盤まで書き終っていた。
「疲れたね」と僕は言った。
「疲れましたね」と彼女は言って、あくびをした。
 僕たちは二人でソファのところまで行った。ソファには昨日玲奈が使っていたタオルケットが背もたれに掛けてあった。僕たちはソファに並んで座った。僕は彼女の胸の鼓動が伝わってくるような気がした。僕たちは近くにいて、お互いのことを意識し始めた。僕は彼女にそっと体が触れ合うくらい近づいた。彼女は前を向いたままそのままにしていた。僕が彼女の腰に手を回すと、彼女の体の感触が手に伝わってきた。彼女は僕の方を向いて、戸惑っていた。
「由里」と僕は彼女の名前を呼び、彼女の体を抱いた。
 彼女はそっと僕の背中に手を回し、僕たちはしばらくの間抱き合っていた。
「ずっと君のことが好きだった」と僕は言った。
「私、彼氏いるんです」と彼女は言った。
「それでも構わないから」
 僕は彼女から手を離し、彼女のシャツのボタンを外した。彼女は僕の肩に手を置いたまま、じっと僕の胸のあたりを見ていた。僕は彼女のボタンを外し終わると、そっとシャツを脱がそうとした。しかし彼女は僕の手を掴んで、それを押しとどめた。
「やっぱり、駄目です」と彼女は言った。
 彼女の前のボタンは開いていて、白いキャミソールが見えていた。僕は彼女の胸のふくらみに手を伸ばした。僕が彼女の胸に触れると、彼女は僕の体を手で押して引き離した。僕は彼女の方を呆然と見ていた。彼女はワイシャツのボタンを手で止め、上から玲奈が使っていたタオルケットを体に羽織った。
「悪かったよ」と僕は言った。
「いきなりこんなことしないでください」と彼女は言った。
 僕たちはソファに離れて座り、しばらくの間、何も話さず部屋の中を眺めていた。テーブルの上には彼女が書いていた原稿用紙や僕の使っていたパソコンが置いてあった。昨日玲奈と寝たベッドには毛布が綺麗に折りたたまれて掛けてあった。
「私、先輩と出会った日のこと覚えていますよ。確か、新入部員が私以外いなくて、一人でこの部室に来たのを覚えています。初めてだったんで緊張しましたけど、その時先輩が優しく話しかけてくれたんで、私この部活に入ろうって決めたんです」
 彼女はそう言ってタオルケットを自分の膝の上に掛けた。
「私、先輩と初めて会った時から好きでした。きっと先輩はいろんな人から好かれると思います」
 彼女は膝に手を置いたまま、僕のことを見つめていた。僕は彼女の言ったことを考えていた。その言葉にどんな意味が含まれているのか、それがいったいどんな現実を示しているのか、僕自身はいったいどんな存在なのか、そんなことが頭の中をめぐった。
 不意に僕の頭の中でどこかで見た風景が鮮明に蘇ってきた。あれは僕がまだ小さな頃、両親と一緒にどこかの草原へ行った時のことだった。草原には風が吹いていた。両親に挟まれ、二人の手を握っていた僕は、どこか別の世界に来たような気がした。その時両親が何かを話しているのを僕は聞いた。それがどんな内容だったのかは思い出せない。ただそれが何か重要なことで、僕自身の未来を示唆しているような気がした。
 僕は彼女と一緒に部室を後にした。二人で並んで、廊下を歩いていた。窓の外はすっかり暗くなっていて太陽は沈んでいた。僕たちは階段を上って校舎の屋上まで行った。屋上の扉のドアノブをひねると外に出ることができた。
 校舎の屋上は緑色の古い金網で周りが覆われていた。辺りを見渡すと都会から離れた郊外の街の景色が見え、遠くにはビルがあってその窓一つ一つに明かりが灯っていた。空を見上げると、小さな星の粒が真っ暗な空に広がっていた。想像もできないほど遥か遠くある星の光が地上まで降り注いで、銀色に輝いていた。僕たちはその光景をずっと眺めていた。彼女は僕の方を向いて、僕の手を握った。僕は彼女の手を握り返した。風が時折吹き付けてきて、それが今は心地よく感じた。遠くでは木々が風に揺れる音がした。

放課後の夜に

放課後の夜に

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-19

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