雲上の人

                                雲上の人

                                                           伊坂 尚仁

仕事に不満をもっているというわけではなかった。少なくとも彼は、自分の仕事が無意味なものであるとは思っていなかった。ただやはり、少しばかり忙し過ぎるとは感じていたようである。彼にはなるほど何人もの助手がいるが、何ごとに於いても最終的な決断をくだすのは彼本人であるため、そうした責任の重さが忙しさによる肉体的な労苦ばかりでなく、精神的な苦痛をも与えていた。
「ここ最近、この連中もひどくなった」
 白い衣に覆われた逞しい肩をもみほぐしながら、助手の誰にともなく彼は呟いた。
「最近徐々にコントロールが難しくなってきている。こいつらを創ったのは、もしかしたら失敗だったのかもしれぬ……」
 当初設定されていたはずの限界を軽く超えてしまった彼の監視対象である人間たちの数量は、そのまま彼の仕事量の増加を意味していた。時を追うごとに複雑化、凶暴化していくそれら人間たちは、知能の発達とともに寿命を延ばす方法を次から次へと考え出すため、昔のように容易に数量を制限することができなかった。
彼は半ば呆れ顔で呟いた。
「なぜ、いつまで経ってもこいつらは気がつかないのだろう?」
 人間たちは知能をもつようになるとすぐ、自分たちが定めたところの「神」なるものを崇拝し始めるようになった。それはそれで彼も悪い気はしなかった。それに、未知のものに畏怖を覚えるのは、人間という生物にとって決して悪いことではない。ただ、人間たちの解釈に問題があったのだ。何時間も祈りを捧げたために、すっかり彼と親しくなってしまったと勘違いする輩のなんと多いことか。中には彼と対話した、などと大ぼらを吹く輩も現れ、これには彼も顔をしかめずにはいられなかった。
 彼は知っている。彼自身の声が下界にとどかぬことを……。
「まったく、どいつもこいつも何を勘違いしてるんだ。生活のことだけ考えてりゃあいいのに、わざわざ暇をつくっては祈りなんかを捧げていやがる。俺の望んだ通りに振舞ってくれたのは、あの、ハゲのロシア人くらいのもんじゃないか?」
 少しばかり大き過ぎる声でそう愚痴をこぼした彼は、雲のソファーに乱暴に腰をおろした。
「ああ、頭が痛い」
 目頭に手をやりうつむくと、いつものように意識せずに雲間から下界をのぞき見る。これも職業病というやつだ。なんだかんだといいながら、人間たちの動向が気になって仕方がないのだ。
「どうしたのですか?だいぶお疲れのようですが」
 助手である弟子の一人が心配そうな表情で彼の傍らへと近寄ってきたが、無表情で下界をみつめる彼は顔をそちらへ向けようともしなかった。
「俺もとんだ失敗をやったもんだと思ってね」
「人間たちですか?」
 弟子は訳知り顔で応じた。
「そう、人間たちだ」
 弟子は彼のやつれた横顔を盗み見ると、ひとつ咳払いをして声を低めた。
「ええ、わたしも気づいておりましたが、ここ最近ちょっとばかし調子に乗り過ぎているようですな」
 調子にのってひとつ上のレベルでの口論を試みようと思った弟子だったが、彼に横目で睨みつけられるとすぐに口をつぐんでしまった。
「そんなことはどうだっていい!」
 ぴしゃりと、断ち切るような調子で噛み締めた歯のすき間から言葉を搾り出すと彼は続けた。
「人間が、人間として、人間を崇拝することは悪いことじゃない、なんともないことだ、わしがそのように創ったんだから。だがな、人間が人間以上のもの、……ふふふ、つまりはわしのことなんだがね、これを崇拝しようとする、これがいかんのだよ」
 彼の機嫌を損ねてしまったのではないかと不安になった弟子は、おっかなびっくりといった調子でそっと応じた。
「お言葉ですが、あなた様がそのようにお創りになられたのでは?」
「いやいやいやいや、わしはあいつらをそんなふうに創っとりゃせんよ。わしはあいつらが自分たちと同類の中から指導者となるにみあった者を選び出すように創ったはずなんだ。それなのにあいつらときたら、その指導者連中を信用しないときてるんだから」
 彼はボトルのコルクを引き抜くと、やや乱暴気味に金色の杯に鮮やかな紫色の液体を注いだ。乱暴に注がれたその高価な液体は金色の杯から溢れ出ると、白い雲の絨毯に赤紫の染みをつくった。
「自分と同類ではなく、あなた様を信じようとする人間たちの気持ちも、わからないではないような?気もしますが?」
 弟子はどのように応じてよいのか決めかねているような調子だった。
「へえ、どうして?」
 彼の馬鹿にしたような口ぶりに、助手としての経験の浅いこの弟子はうっかりと口を滑らせてしまったことを後悔した。頭がきれるとはいい難いこの弟子は、前言を取り繕うような調子で慌てて付け足した。
「彼らも、人間たちもうんざりしているのだと思います。自分たちのために立ち上がったはずの者たちが、結局は自分一人のことしか考えていない輩ばかりでございますから。人間たちにしてみれば期待を裏切られたと感じるのは、当然のことと思います。しかも次から次へと現れるそうした輩が決まって裏切り者ときているのですから……」
 睡眠不足で充血している彼の眼に射抜かれた弟子は、その場の空気が緊迫したものに変化したことを察すると慌てて口をつぐんだ。
仕事の経験が浅いため、実際の業務にそれほど深く携わっているというわけではないこの弟子のような立場にある者にとっては、そのときの彼の機嫌一つが自分の進退を決することになりかねない。
「それならそれで連中は、更に優秀な指導者か、それでも気に入らない場合は自分自身で指導者となるがよいのだ」
 意外とも思える彼の落ち着いた口調に、弟子は幾分かほっとした。
「ほら、いただろう?ほんの少しばかり前に登場させた、戦闘服を着込んだ髭面の男のようにさ。指導者となるべき者はああじゃなきゃいかんよ」
 このうぶな弟子は、とりあえず愛想笑いを浮かべて見せた。
「ええ、そうですね」
 今では彼に具合を訊ねてみたことを少しばかり後悔し始めていた弟子は、この会話を打ち切って早いところ自分の持ち場にもどりたかった。
しかし彼の愚痴は続く。
「だが他の連中を見てみろよ。なんだかんだとくだらん理想を作りあげてそれを実行してみるんだが、結局は途中で投げ出してわしに助けを求める。そんな願いが叶うとは自分でも信じていないくせにな!」
 酒気を帯びた彼の語調は、いささか激しくなり始めていた。
「自分たちの望んでいたはずのものも総て手に入れたくせに、いったん満足してしまうと今度はその指導者たちの陰口ばかりだ。望みのものが手に入った途端、もっと欲しい、もっと欲しいだ。まったく人間どもの強欲さには呆れるね!最終的には、あいつらは、自分たちの目には見えない不確かなものしか信用できなくなってしまうのだよ」
 短いあいだではあるが、初めての仕事として監視してきた人間たちにいくらかの愛着をもつようになってきていた弟子は、彼の自分勝手ともとれる発言をいくらか不快に感じ始めていた。
人間界の通説とは違って、彼も完全というわけではない。彼自身の失敗を思い起こさせる必要を感じた弟子は、一度静かに咳払いすると、そっとさぐりを入れてみた。
「しかし、えこひいきはやはり良くないかと思いますが?少しばかり前の話になりますが、あなた様が特別に生き返らせた者があったでございましょう、ほら、あの長髪の……」
 彼は弟子に鋭い一瞥を投げかけると、前方に向き直り深いため息をついた。
「もっ、もうしわけありません!」
 その場の空気を瞬時にして読み取った弟子は飛び上がって、床となっている雲に額をこすりつけた。感情が少しばかり先走りして大胆になってしまったことを後悔して。
「おっ、お許しください!生意気なことを申しました!」
 弟子の詫びる様子を冷めた目で見ていた彼は、ふたたび深いため息をもらした。
「いや、いいんだ。頭を上げろよ」
 弟子はおそるおそる頭を上げると、あらぬ方向を見上げている彼の顔を眩しそうな表情で仰ぎ見た。
「わかっているさ、わしもあれはまずかったと思ってるんだ。ちょっとばかし悪のりし過ぎてしまったとね。でも後になって気づくことって誰にだってあるだろ?気づいたときはもう遅過ぎるのさ。わしもあのときは少しばかり酒が入っておったから、ちょっとしたいたずら心からあの青年を生き返らせてしまったんだ。うん、反省しとるよ」
 彼は少しばかり恥かしそうな微笑を浮かべると、皮肉者らしく口の右端をつり上げた。
「別にえこひいきなんてつもりはなかったんだ。後悔しても始まらんが、……たしかにあれはまずかったよ。ほれ、見なさい」
 弟子は彼にそう促されると、彼の足下にある雲間から下界をのぞいて見た。
 彼が顎で指し示してみせたのは、とある宗教団体の集会が開かれている体育館のような会場であった。
「はあ、どうやら盛り上がっている様子ですね」
 弟子は壇上で演説している男の隣のソファーにふんぞりかえっている、髭面で長髪の中年男性に目をとめた。むくんだ顔も、太り過ぎの体型も、そして太り過ぎた猫のようにふてぶてしい態度も、あの長髪の青年とは似ても似つかなかったが、この中年男性があの青年を意識しているのであろうことは、この経験不足の弟子にさえすぐに見てとれた。
「あの男はどうやら大層偉い人物のようですが、いったい何を成し遂げたんでしょうか?あのデブ……、失礼しました、あの太り過ぎの中年男性は?」
 人間たちを観察するときに見せる少しばかり愛情のこもった、それでいて少しばかり意地の悪そうな表情を浮かべた弟子は、間の抜けた声で彼にそう訊ねた。中身のあまりつまっていそうもない金色の頭をかいているこの弟子は、当分はただの助手という立場に縛られそうだ。
 こうした仕事に就く者にあってしかるべきである鋭い洞察力といったものを欠いたこの弟子の横顔を見ていた彼は、軽くおくびをもらした。
 彼らが人間たちの考えを知るには、通常地上で用いられる声のように、空気を振動させて相手に言葉をとどけるといった原始的な方法は用いらない。神に願いをかける者の数を考えれば当然のことだが、何千、何万といった声を一度に聞かされるのでは、いかに彼といえども耐えられるわけがない。自分の声がとどいていると思い込みたい人間たちの期待とは裏腹に、実際はときどき彼の気の向いたときだけ、ランダムにピックアップした者の思考を彼がのぞきこむといった程度のことしか行なわれなかった。まあ彼にしてみれば、そうした行為も人間たちの動向をさぐるためだけにとっているのであって、ある特定の人間の願いを知って、その者の願いを聞き入れてやる気などはさらさらないのであるが。
「君にはもっと修行が必要なようだな、もっともっと沢山のね」
 弟子は初々しく整った色白の顔を赤らめると、伏し目がちに彼を見た。
「はあ、……すいません」
「連中の思考をのぞきこむまでもないよ、わかりきったことだ。あのデブは別に何も成し遂げとりゃあせんよ。それだけじゃない、あの会場の様子を見れば、あのデブがこれから何をやろうとしているのかも見当がつこうというものだ」
 今では彼の顔は少しばかり上を向いていた。それは、経験不足の相手に自分の得意分野を披露してやるときに人が見せる、勝ち誇った表情であった。
 弟子はそんな彼を大して羨ましいとも思わなかったが、年長者の彼の機嫌を損ねぬよう一応は驚嘆の表情を浮かべてみせた。
「ううむ、さすがだなあ。僕なんかは、やっぱりまだまだですね」
 弟子の拙い演技に顔をしかめた彼だったが、弟子の立場もわからぬではない。彼はまた一つため息をつくと、仕方ないといった調子で説明しだした。
「あのデブはなあ、集まった連中から財産をまきあげようという魂胆なのさ」
 弟子は特に期待していたわけでもなかったが、彼の説明が余りにもありきたり過ぎるものだったために言葉を失ってしまった。その程度の詐欺行為ならこの弟子も何百回、何千回と目にしてきたことだ。いかにこの、世間を知らぬ弟子といえども、彼の説明を受けてあらためて驚くような事柄でもない。いよいよ彼も耄碌してしまったのではないかと、弟子は一瞬不安に駆られた。
 そんな弟子の心を瞬時に読み取った彼は、ボケ老人と思われてはたまらぬと慌てて付け加えた。
「つまりあの青年が生き返ったことで、人間どもは自分たちの身の周りでも奇跡は起こりえるものなのだと信じるようになってしまったのさ。あのデブが何かつまらん手品を披露するだろう、するとそれを奇跡と勘違いしたあほな人間どもは拍手喝采してあのデブの配下になるって仕組みさ」
 なるほどといった調子で頷いた弟子だったが、それでもどこか納得できないといった調子で、遠慮気味に意見した。
「人々の信頼を勝ち得るには、少しばかり古くさい手のようにも感じられますが……」
「ところがどっこい、いつまで経っても人間どもはこの手にひっかかるんだ。だがそうしたトリック自体は大して重要なものでもない。あのつまらん手品の後に多額のお布施とひきかえに行なわれる、魂の救済、これがポイントなんだよ」
「魂の救済とは、またなんとも抽象的な表現のようにも感じられますが……」
 おそるおそる疑問を口にした弟子を横目でみつめる彼は、意地の悪い笑みを浮かべて答えた。
「そこがミソなんだよ」
 天国産の上等なワインの酔いも手伝い調子が出てきた彼は、弟子のほうへと身を乗り出すと酒臭い息で説明しだした。
「わかるかね?これは人間特有の言い回しなんだ。ざっと聞いてみただけでは何をいいたいのかよくわからん。だがじっと耳を澄ませて聞いてみても、やはり何をいいたいのかよくわからん。だけど人間たちには、特に政治家や宗教家たちには、ああやって現実をぼかしておく話し方が好まれるんだ。だいたいああいった説教の後にくるのが、免罪符の発行と昇天する際の注意事項の説明さ」
 経験不足で思慮の浅い弟子も、さすがにこれには驚いた。死後、天国入りする者の資格は厳密に定められており、この資格を得ることのできる者など、現代の人間たちの住む世界に於いてはみつけるのが非常に困難なのである。このため、人間界を何度も生まれ変わらねばならない者たちばかりになってしまい、そこに新たに追加される命と合わせた結果、人間界の定員オーバーという事態になってしまっているのだ。
「昇天ですって?つまりは、あのデブは勝手に天国生きのチケットの発行を約束してやってるってことですか?」
 何も知らない者に説明するときに見せる意地の悪い笑みを浮かべた彼は、このうぶな弟子に説明してやりたくてうずうずしていた。
「そう、愚かな人間たちは長く生きることを望む。そして、もっと愚かな連中は不死を望む。それよりももっともっと愚かな連中は、死後天国へ行くことを望むんだ。笑っちゃうだろ?笑っちゃうよね!はっはっはっはっはっ」
 驚き顔の弟子を尻目に、天国産のワインを杯に注いだ彼は嬉しそうに先を続けた。
「連中が自分たちで、いいかね、自分たちで勝手に決めたルールではね、へっへっへっ、どうやら死ぬ前にかさねた善行がそのまま天国行きのチケットを手に入れるためのポイントになるらしいんだよ。もっともいま見たあのデブは、善行の代りに多額のお布施を要求するんだがね」
「しかし、人間たちはそのようなことを本気で信じているのでしょうか?つまり、善行というのでしょうか?それをかさねた結果、天国への扉が開かれるというような御伽噺じみた話を」
 天国入りできる者の条件というのは、実際には人間たちの解釈とはだいぶ異なっている。善行をかさねることがこれに値すると人間界では古くから通説となっているようであるが、天国の門に座る審査官の見方はそれとは若干食い違っている。
 この審査官のチェックするときのポイントとなるのは、その者がその者自身の本能、生まれつき備わっている本能に従って生きてきたかどうか、これにかかっていた。慈愛の本能が働き他人を助けることに生き甲斐をもって最後まで生きた人間。こうした者には天国行きのチケットを発行することが許された。また、子孫を残すという本能に突き動かされ、女人を追い掛け回し、最後の最後までそのことばかりを考えて生き続けてきた男。こうした者にも天国行きのチケットは発行された。とにかく自分自身の本能、生まれつき備わっている本能に従って生きてきた者には、ケチることなく天国行きのチケットは発行されたのだった。
 天国行きのチケットが発行されないのは、次のような場合であった。
 たとえば自分の欲を抑えこみ、自らを律することで苦しみながらも清らかな生涯をおくった者。意外と思われるかもしれないが、こうした者には天国の扉は開かれなかった。また、自らの欲に突き動かされ、他人から搾取し、大豪邸で安楽な生活をおくってきた者。こうした者にもやはり天国への扉は開かれなかった。人間たちにするとそうした基準がどこにあるのかわかりづらいのだが、要するにその者を動かす動機が本人にあるのか、あるいは他人の目にあるのか、ということになるようである。自らを律して清く正しい人間であろうとした前者は、他人にそう見られることを強く望んだために天国の扉が開かれなかったのだし、自分の欲のまま金儲けに奔走してきた後者の場合も、一見自分の本能に従っているだけのようにも見えるが、実はこれが他人を打ち負かし、その世界でのトップの座につくことで人々の尊敬を勝ち得ることが目的で行なわれた場合、やはり前者と同じく天国への扉は開かれない。こうした基準はとかく人間の理解を超えているらしく、天国行きのチケット発券所の前で憤慨したり、肩をおとしたりといった姿が毎日みられる。こうした例を日常から目にしている弟子にとっては、勝手に、なんの保障もなく天国入りを約束する人間の図々しさが信じられなかった。
「そのうちこいつらにわしの立場も乗っ取られちまうかな?」
 天国産ワインでしたたかに酔っ払った彼は、弟子に向かってウィンクしてみせた。
 弟子は彼のウィンクを非常に気色悪いものと感じたが、こみあげる吐き気を抑えて彼に提案してみた。
「このままにしておくのはまずいのではないでしょうか?いっそ、人間たちなど絶滅させてしまったらどうでしょう?」
しかし、この経験不足の弟子や人間たちの考えるほど、彼の人間界への介入は簡単なことではなかった。勿論もともとの設計者は彼自身なのだが、途中で大きな変更を加えることはプログラムを新たに作り替えることを意味し、これは彼自身にとっては大変な根気と労力を要するのである。人間たちの想像するように、フッと一息で世界を創りかえるというわけにはいかないのだ。もし人間たちが本当にそのように考えていたのだとしたら、それは買い被りというものだろう。彼にそこまでの力はない。
歴史を創りかえるには、まず非常停止ボタンを押して歴史を強制終了させる必要があるのだが、これをやると相当量の後始末が必要になる。何日も連続で徹夜して、苦労して創りあげたはずの登場キャラクターが一瞬にしてパアである。それだけではない。後付けではあるが登場キャラクターが全滅してしまうことになるだけの理由を考え出し、しかも登場キャラクターが存在していたはずの痕跡を、後世にごく僅かだが残さねばならないのだ。一言で片付けてしまうと簡単に聞こえるかもしれないが、実際はそれほど簡単な作業ではない。千人にもおよぶ彼の弟子たちを総動員してみても、数日間に及ぶ徹夜作業は免れない。
以前その手を使ったのは恐竜の時代を強制的に終了させたときのことで、これは彼にとって記憶に生々しい厭な思い出だった。
そのとき歴史を非常停止させたことに何か特別な意味があったというわけではない。知能の少ない恐竜たちを監視し続けることに退屈してしまっただけの話なのである。彼一人の気まぐれによってそうした事態を招いてしまったため、このときは弟子たちの手前、一億五千万枚にもおよぶ始末書を提出した覚えがあった。普段は弟子の報告書を読むという立場にある彼は、慣れない書き仕事などをしたものだから、腕は腱鞘炎を起こし、頭の中は原稿用紙を埋め尽くしたはずの反省の言葉で埋め尽くされてしまった。あんな思いはもう二度と味わいたくはなかった。
それよりも更に厄介だったのは、後始末が終了した直後に当該星を支配することになる新たな主要キャラクターを設定しなければならないという、もっとも重要な作業が残されている点だった。このときばかりは彼も疲れのピークであり、持病の腰痛をごまかすため仕事中ではあるが飲まずにはいられなかった。新たなメイン・キャラクターのデザインをどうしても思い付かなかった彼は、高級な天国産ワインによる酔いにまかせて、自分の姿に似せて新たなキャラクターを創りあげてしまったのだった。
これが間違いの始まりだった。
最終的に到達することになる知能レベルも、彼自身を基準に設定したため高過ぎるほど高くなってしまった。このため、自分たちを絶滅させるほどの兵器を考え出すことはできるが、保身のためにそれをなかなか使わないといった状況が生まれてしまったのだ。おまけにその新たな登場キャラクターたちは、自分たちの生きている環境、すなわち当該星の保存にまで気を使うようになってしまったではないか。これではこのキャラクターは繁殖する一方であり、衰退のきっかけも見つけられないというありさまであった。
 彼は自分の飲酒癖を呪った。
 通常、歴史を補正するためには創りかえなどといった面倒な手段を用いるようなことはせず、騒動を起こすことになりそうなキャラクターを投入してやって歴史に歪みを加えるといった手法がとられる。自分たち自身を破滅させるだけの新型兵器を考え出す人物を登場させたり、情熱をもって殺戮を行なう独裁者を登場させたりといった具合に、である。
 しかし何度か試みた歴史の補正も、ことごとく不本意な結果に終わっていた。少し前に登場させた天才物理学者の理論も、殺戮兵器としてよりも新時代のエネルギーとして重宝がられるようになってしまったし、同じ頃登場させたチョビヒゲの情熱家も、一民族を滅亡させるどころか、登場キャラクターたちの意気を統合させるという結果に終わっていた。つい先ほども人間界を滅亡させる可能性を秘めた、超大国の指導者となる頭の出来があまりよろしくない男を投入してみたのだが、人間たちは難なくこの男を排除してしまった。
 つまり、彼の細工はことごとく失敗に終わっていたのだ。彼の投入した登場人物たちは歴史に亀裂を入れるどころか、かえって人間たちの結束力を高め、人間たち自らの生命を温存しようとする方向へ向かわせる結果を生み出してしまう者ばかりであった。  
その人間たちが結束する段階でいつも利用する名目が、人間たちの目には決して見えない高貴な者、すなわち、彼なのであった。
「はあ……、あの長髪の青年を生き返らせるなんて、わしもつくづく余計なことをしたものだよ」
 ため息混じりに唸った彼は、金の杯に満たされている液体を一息で喉の奥へと流し込んだ。
「……失礼ですが……、あの青年をあなた様がお選びになったのは……、そのう、何か特別な理由があったのでございましょうか?」
 この弟子の問いかけに、彼は黙りこんでしまった。前方のあらぬほうを見つめる彼の目は、彼が素面のときに見せる厳しいものとは違い、弟子の見たこともないような柔和なものであった。
「わしも歳をとったということさ」
 横顔に弟子の視線を強く感じていた彼は、一度うつむくと、思い切りよく顔を振り上げた。
「本当はあそこまで献身的な男に設定したつもりはなかったんだ。嘘みたいに聞こえるかもしれんが本当のことさ。ただ、いくらか、ほんの少しだけ、人間連中をまとめるためのきっかけを与えるつもりだったんだ。それなのにあの青年ときたら……」
 彼は懐かしい笑みを浮かべた。
「あの青年は特別だったのですね……」
「わしも歳をとったということさ」
 先ほどと同じ台詞を口にした彼は、天国産のワインボトルを愛しそうに撫でていた。
「それなのに、人間どもときたら!」
 収拾のつかなくなってしまった人間界を見下ろすと、今度は金の杯を用いずにボトルのままワインをあおり、弟子に淀んだ視線を投げつけた。
「なぜあの腐れ人間どもはそんなにまでして天国入りを望むのだろうな?わしは人間どもの気が知れんよ!」
天国といっても人間たちの想像とは違い、そこは光に溢れて安らかではあるが、決して楽しい場所というわけではない。人間界で例えるならばそこは、どちらかといえば養老院といった雰囲気に近く、衰え、疲れきって、動くのも億劫に見える連中が、一日中ハープの音に耳を傾けているような場所なのだ。
「だがもっと哀れなのは生まれ変わることを望む連中さ。そんなことなら別に善行など積まなくとも、いくらでも、好きなだけ生まれ変わらせてやろうというに!」
 彼のいうように、生まれ変わるには特別な資格が必要となるわけではなかった。どのような者でも、自ら命を断った者でさえも簡単に生まれ変わることはできた。この場合、人間たちの想像とは違い、生前の行為などといったものは後に生まれ変わることとなる者の境遇や性格にはなんの影響も及ぼさない。そうしたことは総てオートメーション化されており、分別機の中へ投げ入れられた魂がベルトコンベアーで流れてくる新たな生命に、機械によって無作為に埋め込まれていくだけなのだ。よい境遇への生まれ変わりを望み、善行を重ねる人間たちの気苦労を彼が笑うのはこの点にあった。
「だがね、もっともっと哀れなのは、自分が地獄に堕ちまいと必死になって善行なるものをかさねている人間たちさ。そこまでいくと哀れ過ぎて何もいえんね。連中は、自分たちが既に地獄にいるのだということに気づいていないのだよ」


                                                   -了ー

雲上の人

雲上の人

神様から見た人間界のおはなし

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-04-08

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