女神

暖かい空気に眠気を誘われて、瞼が閉じてしまいそうになる。あと二十分か。目が覚めたら、降りそびれていたなんて事は御免だ。重たい瞼に、ぐっと力を入れて見開いてみる。鞄から携帯を取り出すと、白い紙切れが一緒に出てきた。なんだっけ、これ。買い物リストか何かのメモだろうか。
ぼやっとした頭で考えながら開いてみると、拙い文字が目に入った。すべて平仮名で並べられていたので、読み終えるまで少し時間が掛かったけれど、私の涙腺を壊すのに時間は掛からなかった。



「食べたら早く着替えてね!ママね、今日は掃除当番の日なの」
洗い終わった洗濯物を、カゴに入れながら声を掛けたが返事はなかった。
美優は食卓の椅子に座って、まだ床に着かない足をぶらぶら遊ばせながらテレビに夢中になっている。
片手におにぎりを持ったまま、手も口も動いていない。
「みーゆーうーさーん」
テレビの前に塞がる様に立つと、少しバツの悪い顔をして、握りしめていたそれを食べ始めた。
洗濯物を干し終えて、中に戻ると嬉しそうにウインナーを食べていた。
今日は美優の好きな、タコさんウインナーにしたから喜んでもらえたようだ。


私は二十歳で美優を産んだ。いわゆる「出来ちゃった結婚」というもので、二十二歳の時に「価値観の違い」というもので離婚した。若い二人が一緒に暮らし始めて、それまで見えていなかった一面が次から次へと湧き出てくる事に耐えられなかったのだ。ただ若かったという言葉で表せてしまうけれど、それだけじゃ言い表せられないような気もする。なにより、美優から父親を奪ってしまった事が一番苦しかった。まだ二歳になったばかりの美優が、いなくなってしまう父親に無邪気に手を振る姿が辛かった。
親の勝手な都合で、彼女の人生を変えてしまえる事に恐怖さえ感じた。ただ、そう思うのに、若い夫婦にはもう戻る事は出来ないほどの溝が出来てしまっていた。
二十四歳になった私は、保険会社の契約社員として働いている。夕方まで美優を幼稚園で見てもらえるようになったので、やっと契約社員になれた。
生活のためにアルバイトを三つかけ持ちした事もあったが、一ヶ月も持たずに辞めてしまった。
仕事内容を覚えられない上に、二週間でガクンと体重も減ってしまって仕事どころではなかった。
だからこうして契約社員で働ける今が、本当にありがたいのだ。これからの事を考えれば、お金はいくらあっても足りないが、今はこれで精一杯だった。

「きょうね、あやちゃんとね、」
美優は幼稚園での出来事を毎日聞かせてくれる。
新しい友達ができたことや、誰が怒られたや、誰が誰を好きということまで。
「おうちかえったら、みせてあげるね」
「うん。楽しみにしてるね」
あやちゃんと絵を描いたらしく、それをお披露目してくれるようだ。私が返事をすると、嬉しそうにこちらを見つめた。どんなに仕事で疲れていても、この笑顔には敵わないなと思う。
「今日はカレーだよ」
「やったー!おはなの、にんじんいるかな?」
「どうだろうねー。いるといいねえ」
「うん!いるといいなあ」
繋いだ手を大きく振りながら、悩ましいというような顔で前を見つめている。
小さな手は暖かくて、少しだけ力を込めて握りなおした。


美優との毎日はあっとゆう間だ。立ちどまって振り返る時間はないけれど、成長に驚かされることが沢山ある。やっと歩き出したと思ったら、話せるようになって、今ではそんな言葉どこで覚えたのかというような事もある。
この間なんて、私が恋愛ドラマを観ていたら横にやって来て「このひと、このおんなのひとが、すきなのね」なんて言うもんだから笑ってしまった。
女の子は、小さなうちから立派に女の子なんだなと実感した。
「ママは、かみがきれいね」
お風呂から出て髪を乾かしていると、私の髪を触りながらにっこりした。
「美優もきれいだよ」
「ママみたいにながくしたい!」
「それはもうちょっと時間かかるかなあ」
「えー!そっかあ。どんくらい?」
「うーん。美優が五歳になるまでかな」
「ゴサイは、いつくるの?」
「春と夏と秋と冬が終わって、また春が来たら美優は五歳だよ」
「ふーん」
分かったような分からないような顔をしながら、私をじっと見つめるその顔は純真無垢そのもので、なんだか愛おしいような切ないような気持ちになる。
ぎゅうっと抱きしめると、彼女なりの精一杯の力で返してくれるので、それがまた愛おしかった。
「もう寝ないとね」
そう言うと、元気に返事をして布団へ向かった。
小さなエネルギーを最大限に使って生活している美優は、寝るまでのスピードが早い。
静かに寝息を立てる寝顔を見ながら、私も眠りについた。

契約社員の仕事は、正社員とそう変わらないと思う。何かあった時に責任を問われるのが正社員だと思っていたけれど、そうではない。
契約社員だろうが、任せられる仕事の量は正社員と変わりないし、内容だってそう変わらない。
ただ、これだけは正社員の人しか関与出来ません、というボーダーラインや、資格があるだけだ。私は少なくとも、そう思っている。
その日は、朝から顧客からの問い合わせの電話が多かった。契約内容の見直しや、契約内容に関しての質問。皆が、それぞれに忙しそうにしていた。
慌ただしい一日を終えて、幼稚園の迎えに行こうとしていた時に事件は起こった。
「佐伯さん、調整書類知らない?」
部長に声を掛けられて足がとまる。
「デスクに置きました」
「置いたのっていつ頃?」
「えっと。昼前です。休憩前に」
そう答えると、困ったように眉を下げて、
「ないんだよねえ。調整書類」
「えっ、けど確かに置きました」
嫌などきどきが走る。でも、間違いなく部長のデスクに置いたのだ。
「あれ、明日の本社会議に持っていくんだよ」
そう言いながら、ぽりぽりと頭を掻くと辺りを見回した。
「私も自分のデスク探してみます!」
「ごめんね。なかったらもう上がってくれていいから」
部長の言葉を遠くに感じながら、引き出しの中を探す。デスクに並べたファイルを開いてみても見当たらない。確かに置いたはずなのに。そう思いながら言えない苛立ちを感じた。
「やっぱり無かったです」
そう言うと、いかにも残念そうな顔を作って
「そっか。僕もバタバタしててデスク散らかってたから」
なんて言うわりに、私が悪者という雰囲気を醸し出す。
「ちゃんと手渡しすれば良かったですよね。すませんでした」
頭を下げると、それを待っていたかの様に喋り出した。
「いやいや。僕も声を掛けられた時に、すぐファイルにしまえば良かったから。お迎えあるのに悪かったね」
そこに嫌味はないように感じたけれど、結局私のせいにしたかったのだなという理不尽さに溢れていた。
「いえ。お先に失礼します」
急いで幼稚園に向かいながら、晴れない気持ちでいっぱいになる。社会に夢を見ていたわけじゃないが、理不尽な事に慣れなんてないのだ。
あれこれ考えると、朝からの忙しなさに加えて一気に疲れる。
「ママー!」
幼稚園の門まで行くと、中から美優が手を振っていた。先生に連れられてこちらに向かって来ると、
「ちょっと、ちこくね!」
いたずらっぽく私の腕を引っ張った。
他の子はもう居ないようだった。
「ごめんね。帰ろう」
私が手を伸ばすと、にこっとしながら
「かえる!」と言って手を伸ばした。
そのまま、いつものように幼稚園での話しをしてくれたけれど、仕事の事が頭から離れずにいた。
「ママ!」
声を掛けられて、はっとなる。
「ママ、どうしたの?」
「ごめんね。ママ、考えごとしてたの」
「なに、なに?」
美優にとって、考えごとは楽しい時に使う言葉のようで、きらきらした目で私を見上げる。
「うーん。今日はなに食べようねえ」
「ごはんね!んー。カレーは?」
「カレーは食べたばっかりじゃん!」
「じゃあ、オムライス!」
「オムライスいいねえ。オムライスしよう」
「うん!にこちゃんの、かお、かいてね!」
卵にケチャップで顔を書くのが好きみたいで、にこちゃんマークと呼んでいる。
「じゃあママは、ハートにしようかな」
「じゃあ、みゆうがかくね!」
そう言うと嬉しそうにスキップする。
どっと疲れた心に、その姿が染み渡った。


次の日出勤すると、正社員が総出で書類を探していた。
「あっ、佐伯さんも一緒にいい?」
デスクに荷物を置くなり声を掛けられたので、
パソコンの電源だけ入れて探し始めた。
もう神頼みしかない。手当たり次第探した。
肝心の部長は、本社に行くので書類が見つかり次第ファックスをするように、との事だった。
「佐伯さん、あまり気にしないでね。失くしたのは部長だし」
必死に探している私を不憫に思ったのか、正社員の田中さんが声を掛けてくれた。
「すみません。朝から探していただいて」
申し訳ない気持ちから、それ以上の言葉は出てこなかった。
「俺たちは正社員だから。まあ、うちの会社の場合は、正社員と契約社員の違いってどこだよって感じなんだけど」
その言葉に思わず苦笑いになる。
「だから気にしないで。って言っても、しちゃうと思うけど」
そこまで言うと、部長のデスクの電話が鳴ったので会話は終了された。
重たい気持ちを抱えながら午前は過ぎていった。
そして神頼みも虚しく、帰らなければならない時間になっても書類は見つからなかった。
やっぱり神様なんていないよな、と思った。
会議はとっくに終了しているし、今更どうすることも出来ない。
「今回の件は、管理の仕方の見直しという事で何とかなったから。また明日、皆にも詳しく話すよ」
部長の声は、特に怒っているような感じでもなく、むしろその逆だった。上手く切り抜けられたことと、会議が終わったことの解放感だろうか。
なんとなく晴れない気持ちなのは私だけで、あれこれ心配して考え過ぎていたのも私だけだったようだ。すっきりしない頭のまま、とりあえず美優を迎えに行かなければと駅へ向かった。

まだ春とは言いきれないこの時期は、昼間は暖かく感じても、夕方は肌寒い。
電車に乗り込むと、暖かい空気が流れていて、疲れた身体に自然と睡魔がやってくる。
このまま眠ってしまえば、美優の迎えは間に合わないだろう。目が覚めたら、降りそびれていたなんて事は御免だ。重たい瞼に、ぐっと力を入れて見開いてみる。 鞄から携帯を取り出すと、白い紙切れが一緒に出てきた。なんだっけ、これ。買い物リストか何かのメモだろうか。
ぼうっとした頭で考えながら開いてみると、拙い文字が目に入った。すべて平仮名で並べられていたので、読み終えるまでに少し時間が掛かったけれど、私の涙腺を壊すのに時間は掛からなかった。


ママへ
だいすきだよ
みゆうとままは ずっといっしょ
おしごとがんばってね
みゆうままのことまってるね

こんなふうに涙を流すのはいつぶりだろう。
いつの間に、美優は手紙を書けるようになったのだろう。守っているのは私だと思っていたけれど、私の強さを守ってくれていたのは美優の方だ。
ずっと、一人で頑張っていると思っていたことに気が付く。寂しさやわがままを、小さな身体で感じながら、それを私にぶつけることもせずに我慢していたのに。ごめんね。
声にならない言葉が涙になって溢れる。
一刻も早く会いたい。早く迎えに行って、抱きしめたい。
ぼやけた視界の中で、指で文字を撫でる。
神様はいなかったけれど、女神はこんなに近くにいたのだ。
私だけの小さな女神様。

女神

女神

母と娘。 シングルマザーの奮闘と、親子の絆の物語。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-19

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