VS

VS
                       伊坂 尚仁


見覚えのある風景だった。
道徳がこの住宅リフォームを専門に請け負う会社に入ってから既に七年という歳月が経過していたが、営業担当である道徳が仕事でこの場所を訪れるのは今回が初めてのことであった。今日までこの場所を訪れる機会に恵まれなかったのは、今ではほとんど取り壊し寸前と呼べるようなアパートが密集しているこの地域では、道徳の勤める住宅リフォーム業に対する需要がこれまではほとんど存在しなかったという理由によるところが大きい。それは頑固だったアパートの大家たちが、それまではアパートのリフォーム自体を考慮だにしなかったことが主な原因なのだが、その頑固者の後継ぎたちに経営権が移ると、様相は変化し始める。その建物自体に少しばかりの思い入れも持っていない子どもたちは、昭和の遺物であるそのアパートを、近代化していく街並みに馴染む、現代的で面白味のない建物へとリフォームすることを躊躇しない。情緒を欠いた、まるで住宅模型のようなそうしたアパートたちは実際若い入居希望者を引き寄せる結果につながるため、実利第一に考える大家の後継ぎたちは昭和の面影を色濃く残す木造のアパートを、先を競って取り壊す。そうした経営者が一人二人と現れ始めると、道徳たちリフォーム業の者たちは、自然とその辺りをうろつき始めるようになる。
「この建物は築何年になります?聞くところによりますと、一区画先にあるアパートも思い切ってリフォームしたところ、入居希望のお客さんが、ざっと今までの倍増えたというお話ですからね。やはり、初めての入居を考えられるお客さんは皆、値段の安さよりも安全性と利便性、それよりもなによりも、まずトイレや風呂場といった水まわりの清潔さを求められるようですからね。最近の若い方々には特に、そういった傾向がみられます。彼らは水まわりが汚れているのを極端に嫌がるんですよ」
 アパート経営を引き継いだばかりで、なんとかして空室を埋めようと必死になっている若い家主を狙うのだ。先代の意見よりも自身の直感を優先したいと常々思っている彼らには、彼らの直感を正当化しつつ、彼らの直感の延長線上からリフォーム以外の選択肢を除去してしまうのが目的だ。しかし昼間そうした攻撃をしかけるときには、その肝心の主人たる若手経営者が不在にしている場合も少なくない。そうした場合、大抵二通りの戦局が予想される。
まず一通り目のパターン。これはまだアパート経営に慣れきっていない家主の、さらに不慣れな奥様方の対応に当たる場合で、こういったパターンに当たれば道徳たちとしてはしめたものだ。道徳たち営業担当者の中には容姿に自信を持つ者も少なくはなく、その点はバンド経験者である道徳も例外ではなかった。そうした営業担当者は、まだ歳も若いのに、慣れないアパート経営の手伝いでストレスの溜まっている若奥さん方の話し相手になってやるのを厭わない。そうした奥さん方の中には美しい容貌をした女性も稀におり、結果はともかくとしても、少なくともそのプロセス自体を楽しむことはできるのだ。そのためかこの仕事を生き甲斐にしているホストまがいの若い営業担当者も中にはいるくらいだ。しかしいつも楽しませてくれる相手に当たるとは限らない。問題は二つ目のパターンに当たったときだ。
先代の経営者がいまだ経営権を手放していない場合、また、邪魔者扱いされることを承知で経営方針に口出しするのをやめられない旧経営者が留守を取り仕切っている場合がそれだ。そうした老人たちは、本来経営権を手にしているはずの息子夫妻からの口撃などものともしない。誰であれ経営転換のための支出をせまる者は、決まって自分を騙す輩だと信じて疑わない彼らは、道徳たち営業担当者の拙い口説き戦法など歯牙にもかけない。
「お前さんのような若造の出る幕じゃないよ」
そうした古狸にぶつかってしまった場合には、いかに弁術に自信を持つ者であろうとも奇跡が起こることなど期待せずに素直に退散すべきだ。昭和の中ほどからこの仕事に専念している年寄りに、まだまだ人生経験の薄弱な道徳たちが敵うはずもなかった。
「どこから来た詐欺師だね?お前さんは」
 枯れ果てて脂も浮きではしない、染みだらけの顔。こちらを上目遣いで見上げるその疑り深そうな眼は、長年にわたって繰り返してきた、この種の口論によって築き上げられた遺産だ。その目つきにはこちらの出かたを窺い、場合によっては方針を転換させようなどといった気弱な計算は見られない。その疑り深そうな眼は、たとえ世界が絶滅するようなことになろうとも、絶対に折れることなどないことを表現しきっている。どのみち老い先短い古狸たちにとっては、世界経済が破綻しようが、オゾン層が破壊され人類が紫外線の直射を受けようが知ったことではないのだ。古狸たちにとってなによりも重要なことは「なにがあっても相手に騙されない」これのみなのだ。
オチることなどありえない客を相手にしなければならないことほど、こうした仕事で営業担当者を消耗させることはない。無視しても差し支えない相手であるにもかかわらず、いつものおべんちゃらで一応オトしてみせようと無駄な努力を試みるのは、やはり自分のボスに対して申し開きの道を残しておくためだ。いざボスからの詰問となった場合、「トライしていません」では済まされない。そのため無駄とは知りつつも、疑ることと断ることしか知らない年寄り相手に無駄な駆け引きを試みなければならない。
「三十八歳?ほとんど平成生まれじゃないか。まったく、こんな子ども相手に仕事の話をせにゃならんとは思わなんだ。いったいいつセンズリを覚えたね?去年かね、え?」
しかしこちらは商売だ。たとえ子どもと呼ばれようが間抜けと呼ばれようが笑顔を絶やしてはならない。ケツにキスをしろと言われたら、愛情を込めてその皺だらけのケツにキスしなければならない。平身低頭、養わなければならない家族のために、こみ上げる怒りを抑えに抑え、笑顔を絶やさず、隙をうかがい、いざとなれば靴に飛びつき汚れをなめる。
「そうですか……、残念です。もし、お気持ちが変わるようなことがございましたら、名刺にあります、そちらの番号まで……」
 喋り終わらないうちに、目の前でぴしゃりと扉は閉ざされる。言いようのない怒りは適当な言葉を探し、脳内の温度を上昇させる。
怒りの混じったため息をもらした道徳は、今日の敵である古狸の巣から抜け出すと、臭そうな脂汗の浮き出た首筋をハンカチでぬぐい、誰も見ている者などないのに革靴の底についた塵をあてつけに手のひらではらった。
営業という職業柄こうした目にあうことも珍しくはなかったが、だからといってすぐに気分を切り替えられるほど器が大きいわけでもない。こうした厄日は、さっさと社に帰って、自分よりも営業成績の悪い同僚をつかまえて、安い居酒屋に出かけてワリカンで酔っぱらってしまうのが得策だ。
顔を上げると見覚えのある建物が目に入った。その見覚えのあるアパートは、今回の仕事場となった古狸の巣の斜向かいに建っていた。道徳は「それ」がそこにあることを知っていた。だが、気づかぬふりを続けていたことにこのとき気づいた。
 木造二階建て、外壁にはひびが入り、ところどころ欠け落ちて建物のあばらをさらけ出している。二階につながる外階段は錆でまだらになっており、薄汚れた窓の向こうにはこの古くさい建物とは不釣り合いなほどカラフルなカーテンがかかっている。これはこの崩れかけたアパートにもいまだに人間が住んでいることの証拠だ。
ギターケースを抱えた長髪の若者が、その錆でまだらになった外階段をのぼっていくのが道徳の目に入った。その若者は、手すりを摑んだ片手に全体重をかけて身体を引き上げるように、顔をふせたまま、その崩れ落ちそうな階段をのろのろと、まるで地獄の鬼に強制されて歩かされている亡者のように這い上がっていた。道徳も何度も目にした覚えのある、下を見るとすき間から地面が見える階段を……。
 あれは何年前のことだったろうか、何年前?いや、何年前ではない、二十年も昔の話だ。
 道徳はアパートを見つめる目を細めた。
誰にでもある失敗談だった。懐かしむべき思い出なのかもしれないが、道徳はそれを思い出すと、いつも全裸になった自分を鏡に映し出しているような気分になった。
道徳はアパートから顔をそむけると、あの頃よくやったように道端に唾をはいた。思い出したくもない場所であった。叶いそうもない夢を追いかけ、必死になって自分を見失っていた数年間だった。昭和から平成に変わったばかりのその数年間は、道徳にとっても、また当時付き合っていたバンドの仲間たちにとっても、間違いなく、これ以上ないというほどに無益なものだったのに違いなかった。
 
   二
当時、道徳はアパートに鍵をかけたことがなかった。もちろん在宅中は、という意味であるが。たとえ眠るときでも扉に鍵をかけるようなことは、普段ノックもせずに勝手に部屋に上がりこむ習慣のあるバンドのメンバーたちが留守だと勝手に思い込んで帰ってしまうのを防ぐためにも決してできなかった。扉に鍵をかけることは、舞い込んでくるチャンスをこちらから拒否するような気がしてできなかったのだ。
携帯電話も普及していなかった当時、バンドのメンバーはノックもせず、また在宅を確認することもなく勝手に上がりこんでは、勝手に煙草を吸い、勝手に冷蔵庫を開けては貴重な缶ビールを飲んで酔っぱらっていた。連中がただで提供されるビールの代わりに差し入れてくれるものは、曲のアイデアの入ったテープに猥談、そしてごく稀に不細工な女の子。
懐かしくも思い出したくもないバンドのメンバーたち。それは連中にとってもきっと同じであろう。
道徳はフィルターぎりぎりまで吸い尽くしたマールボロを、邪魔臭いゴムタイヤで周りを囲ってあるダンロップの灰皿でもみ消した。
幼稚園からの幼なじみであり、バンドをやりたいと言い出した張本人でもある、長身でハンサムなアキラ。バイト先で知り合った、チャラチャラしたところがやたらと鼻につく敏秀。アキラと同じく幼なじみでありながらも幼かった頃の記憶はほとんど残っていない、へヴィメタル・オタクのすすむ。あいつらは今頃どうしているだろうか?
道徳は過去を思い出し、懐かしもうとする人間がみなそうするように、故意に作り出した感傷めいた想いを当時にめぐらしながら、わざとらしく虚ろな表情をしてみた。
いつもは二日に一箱だけと決めているマールボロの最後の一本に手を伸ばした。電気代の節約のためアパートのキッチンは常に薄暗い。いつも煙草のにおいに不快をしめす妻は風呂に入っており、まだ親の命令を耳にすることにそれほどの不快を示さない息子は子ども部屋で勉強と称して、ゲームのあい間に漫画本を読み漁っていることだろう。
普段一人でいるときもテレビ中継された野球を観るなどして、極力音楽番組を観ることを避けてきた道徳だったが、この日は別だった。今夜それを思い返してみようと思ったのは、仕事先で思い出の場所にたまたま立ち寄ったせいで自身の拙い過去と対峙する準備ができたからとか、なにかそういった高尚な理由からではまったくなかった。ただ、あれからちょうど二十年経っているのだということにこのとき気づいたからであった。仕事先でたまたまあの場所を訪れたその日が、ちょうどあれから二十年経った当日なのだということに気づいたからであった。
あれから二十年……。
道徳の息子は十歳であったが、息子が三十歳になった姿を想像してみて道徳は思わず身震いした。
息子が三十歳?
相対的な意味における二十年という年月の早さと、その二十年という一般的にみればある程度の長さをもつ年月の初期の頃に費やされた時間は、現在の道徳にとってはほとんど意味をもたないものであった。本来貴重であるべきはずのその時間に得られたものは、現在の道徳の生活には実際的な価値を与えてはいなかった。
この薄暗いアパートのキッチン。キッチンの壁に描き出された雑然とした影絵たちが道徳の生活、この二十年間で築き上げてきた道徳の人生を表す総てであった。
これがご褒美かい?この薄暗いキッチンが人生の成果なのかい?
あの頃の予定では、今ごろバンド結成二十周年記念のボックス・セットを発売し、ロスのスタジオでニュー・アルバムのプリ・プロダクションを行なっているはずであった。フェラーリ・デイトナにファイア・パターンのパン・ヘッド。ツアーのあい間には山ほどの曲を作るがドラッグはほどほどに。
ワイシャツの袖についた薄黄色の染みが道徳の目にとまった。ターンブル・アンド・アッサーのシャツなどからはほど遠い、二千円以下で購入可能な硬く四角いシャツの袖のむこう側に、二十年前の映像の断片が映し出されようとしていた。
どうにかこうにかしてメンバーを揃え、粗末な器材しか備えていない安スタジオで自意識過剰な練習を繰り返し、初めて人前で下手クソな演奏を披露したのがちょうど二十年前の今日だったのだ。ビールと煙草と香水とゲロのにおいの染み付いた場末のライヴ・ハウスのステージに立ち、学校の教室やベッドで描かれた妄想を現実のものにした瞬間。

「もっと将来自分の実になるようなことを覚えなさい」
 高校生になりギターを弾き始めた当時、居間であろうと台所であろうと所構わずギターをかき鳴らしていた道徳は、父親からよくその種の注意を受けた。ロック・ミュージックに限らず音楽全般に対し否定的だった道徳の父親は、CDプレイヤーに搭載されているピック・アップを製造する会社で課長を務めていた。
「何事も極めようとすれば、いつかは必ず壁に突き当たる。そのときもし、その壁を乗り越えようとするだけの気力が湧いてこないようであれば、それはそもそもの初めからお前が望んでいたものではなかったという証拠だ」
 あの頃父親から受けた説教は正論であった。それはその当時、道徳が既に正論であると認めていたことであった。少年野球も途中で投げ出し、中学に入ってから部活動でやり始めたバレー・ボールも卒業するまでは続かなかった。それはなんにでも熱し易く覚め易い自分に対する年寄りの厭味だと当時は思いたがったものだが、それは父親の息子に対する心配からきているものだということは知っていたし、それを別段不愉快に感じていなかったことも確かだった。ただ、そうした大人の意見には反発しなければならないのだという、妙な使命感のようなものをもっていたのも確かだった。しかし今思い返してみれば、それは使命感と呼ぶよりは義務感と呼ぶに近かった。
まもりに入っちまった大人の意見なんかクソくらえさ!
 自身の経験を語るのは簡単なことだ。長く生きてきた経験から語られる貴重な教えは、経験則であるがゆえにどのようにも装飾のしようのないものであるはずだ。それは嘘を含んでいない言葉であるがゆえに、経験値の少ない者たちからは疎んじられるケースがほとんどだ。
 道徳の場合もそれだった。強がりは実測値をねじ曲げ、無能者の妄想を助長する。
道徳には壁を乗り越えるだけの気力がなかった。それは、乗り越えなければならないほどの壁でもなかった。それは、そもそもただの遊戯であったはずだ。それが、いったいいつ頃から壁に見えるようになってしまったのだろう。
道徳は一度深くマールボロの煙を吸い込むと、その煙をしばらくのあいだ肺にとどめ、静かに眼をつむった。
あのバンドでの全ての記憶は、道徳にとって自分自身の拙い人生そのものを映し出す鏡であった。目の前にある玩具に夢中になり過ぎ、通り過ぎていくチャンスには少しも気づかない。力を蓄える面倒から逃避するため、自身の無様な裸体をさらけ出す。
過去の自分に現在の自分自身が復讐されるのだ。
「いつか俺たちでさ、こんなノリのいい音楽やれたら、なんて思うよな!」
 高校生の頃、アキラの部屋でポイズンというバンドの「ナッシン・バット・ア・グッドタイム」という曲を聴いていたとき、アキラがふとそう洩らしたことがあった。思い起こしてみればあの一言がそもそものきっかけだったような気がする。
辛い受験勉強を終えてなんとか人並みの高校に入り込んだのはいいものの、落ちこぼれまいとなんとかこなす試験と追試の日々。教師は教師で生徒の将来への不安を煽ることで出来の悪い生徒をなんとか勉学に勤しませようとする手合いばかり。息子のために堅実な将来を歩ませたがる両親は、世間との協調姿勢をとりつつも、世間よりも頭ひとつ抜き出てほしいと無理な期待を押し付ける。二重まぶたでいつもすねたような口元の可愛い彼女には、このまま交際を続けることの無意味さを説かれた翌日だった。憂鬱なことばかりの日々をいっときでも忘れ去り、楽しいひとときを過ごそうと歌うその曲は、道徳の中に渦巻いている重苦しい靄を、その時たしかにほんの一瞬だけ吹き飛ばした。
なんていい曲なんだ!
英語をまったく理解できない道徳は、それでもその曲のもつ明るい雰囲気と、その曲が本来もっているメッセージをしっかりと受け取った。よくあるロック・ミュージシャンのインタビューで、自身の音楽のルーツを訊ねられたときの答えと同じ台詞が道徳の頭の中を占領した。
これで俺の将来は決まったも同然だったね!
それまでに道徳が耳にしてきた音楽は、ロックとは言ってもポップスと呼ぶほうがしっくりとくる種類のものばかりであった。ワムやカルチャー・クラブ、ペット・ショップ・ボーイズやサマンサ・フォックスなどといった手合いは、たしかに耳に馴染み易いメロディーで洋楽への扉を開いてはくれたが、第三者によって作り出されたかのようなそのイメージは、将来への不安を抱える少年道徳の代弁者とはなりえなかった。それとはうって変わって素人臭く、テクニック指向とは言い難いポイズンの音楽は、その親しみ易いメロディーの他にも思春期だった道徳の心を鷲摑みにする「あるもの」を持っていたのだ。バンドが自分の化身となりえるマジックを。
ポイズンは世界一のバンドさ!
ポイズンが手始めとなり、幼なじみで親友でもあるアキラの部屋でロック・ミュージックを聴き漁る日々が始まった。ラットにモトリー・クルー、ホワイト・スネイクにデフ・レパード。二人ともがそれらの曲をかっこいい、クールだなどと評しながら聴き入っていたわけだが、道徳にとってポイズンほど等身大のスターと感じられる存在は他になかった。それはロック・ミュージシャンを志す若者がセックス・ピストルズを聴いたときに感じる、あの「安心感」とはまた別のものであった。
その後知らず知らずのうちに、アキラとの間ではバンドを結成することが目標となっていった。長身でハンサムなわりにでしゃばることをしないアキラは、道徳を煽りはしても具体的なプランは提示しなかった。とにかく道徳をその気にさせて夢を具現化しようとするその手法は、根っからでしゃばりで何事にも熱し易い道徳の性格とは確かにマッチしていた。高校の同級生からほとんど使った形跡の見当たらない中古のエレキ・ギターを購入すると、余暇の時間のほとんどをその楽器を征服するための時間に捧げるようになる。FだのGだのといったコードとアキラが格闘している間に、道徳はペンタトニックのスケールなどを習得し、自分には才能が具わっているなどと勘違いし始める。トリルを覚えて速弾きギタリストの仲間入りを果たしたと勘違いするのは、もう少し先のはなしだ。
 いまだバンドというフォーマットで楽器をプレイしたことのない二人の間でバンドの方向性は次々と決められていく。
とにかく悩みから解放されるような音楽をやるバンド、これが第一の目標であった。ポイズンのように複雑に考えることなどなく、聴いた瞬間から楽しめるバンド。厭なことなんかは何もかも忘れて、誰でも一緒に騒げるバンド……。
 一度でいいからあんな曲をみんなの前で演奏し、みんなの暗い顔を一変させ、大騒ぎさせてみたい。人生なんて楽しむためにあるもので、複雑に考えている時間なんてもったいないぜ!さあ、みんな一緒に騒ごうじゃないか!さあ!さあ!
始めのうち、道徳たちの目標は小さなものだった。それはまだ夢という形を成してはいず、(現実化するためのきちんとした手順が築かれていなければ世間一般では夢とは呼ばれず、それはただの妄想と呼ばれる)目標と呼ぶよりは衝動と呼ぶに近かった。 
道徳とアキラの二人はそうした衝動に押されつつ、自然と第三の力がそこに加わるのを待ち望みながら、残りの高校生活をギターの練習と夢見ることに費やした。もっともアキラのほうは道徳よりももう少し現実的な視線で世間を眺めていたようである。それは高校卒業後アキラが就職した会社が音楽とは無関係であり、次世代の情報文化を視野に入れた会社であったことからも明らかである。表面上は夢に浮かされつつも、アキラはしっかりと地に足をつけたA型の男だった。
 対するB型の道徳はいま現在ほど新卒の就職率が悪くなかったにもかかわらず、いや悪くなかったからこそ、あえてフリーターの道を選んだ。定職をもつことがロック・ミュージシャンである自分の経歴に傷をつけると考えたわけでもなかったのだが、定職をもつことで自身がその場に定住してしまうことを恐れての、それは選択であった。少なくとも道徳自身にとっては、常に自由でいられることで自分の夢に対し誠実でいられる気にはなっていたはずである。
仕事はあくまで、夢を現実にするまでの間の生活の手段に過ぎない。俺は資本主義の体制に取り込まれることに反発するロッカーなんだ!
道徳は自分自身に向かってそう言い聞かせながら、元は入門セットの一部であったフェルナンデスのギターをかき鳴らした。
いまだバンドを組むというごく初期の目標さえ達成できていない道徳にとっては、そうした強がりも日増しにヤケクソ気味になっていった。
そんなある日、高校卒業以来酒屋のバイトを続けていた道徳の前にひとりの男が現れた。そのバイト先で知り合った男の名は、敏秀といった。現代的な服装をした敏秀という名のその男は痩せ型で、見るからに女の子の注目を浴びそうではあった。一見チャラチャラとしていて首をひょこひょこと動かす癖のあるその男に最初のうちは嫌悪感をもった道徳だったが、スポーツなど愛好しそうにない敏秀の容貌から、もしかしたらバンド経験者なのではないかといった期待が生まれた。
その敏秀という名の男が高校生の頃ドラマーをやっていたと道徳が知ったのは、二人が出会ってから一週間目のことであった。いまや時間が最優先の要素であり、この際そのドラマーがどういった種類の音楽を志向しているのかといったことは二の次であった。
道徳がその事実を知った瞬間、夢は実現への射程距離圏内に入っていく。そうした偶然は夢を現実のものとするために自分から具体的な行動を何ひとつとして起こさなかった道徳にとっては、たしかに運命に思えた。
「あいつと仲良くなれば、バンド結成も夢じゃないぜ!」
 道徳は早速、当時唯一のバンドメンバーであるアキラに報告したのだが、アキラは共に喜ぶというよりは、むしろ茶化すような調子でこう答えただけだった。
「まあいいんじゃないの。お前の望みのドラマーならね」
 アキラはそう突き放したが、ギタリストを探すのとは違い、ドラマーを探すのは実際骨が折れた。バンドの顔であるヴォーカリストやギタリストになりたがる人間はごまんといたが、ドラマー志望の人口は圧倒的に少なかったからだ。しかしヴォーカルやギタリストの良し悪しは素人の耳にも比較的容易に判別できるが、ドラマーのプレイを評価するとなるとそれなりの耳と知識を必要とすることになる。そこが問題だった。
正直なところ、道徳にとってはどのようなドラマーでも構わなかった。細身でルックスもそう悪くはない敏秀の登場は、この時点でアキラはともかく道徳にとってはベスト・ドラマーとなったのである。
ドラマーをやっていたような人間は、自分よりも確実に音楽を理解しているのだ。ロックなら尚更だろう。なぜってドラムはロックの骨格だから。
「おまえはどんな音楽聴いてるのよ?」
 このチャラチャラとして態度の大きい自称元ドラマーは、道徳がどのような種類の音楽を聴いているのかといった質問を投げかけたとき、逆にそう質問してきた。
「ポイズン……かな?」
「ポイズン?随分子供っぽいのを聴いてるじゃん。それにあいつら下手っぴだろ?」
 この敏秀という名のチャラチャラとした男は、薄笑いを浮かべた表情でそう返した。自身の好みのバンドによって相手にはったりをかますといったテクニックをまだ身につけていなかった道徳は、瞬間恥じ入るような表情を浮かべたが、すぐさま反撃に転じた。
「じゃあおまえはどんなのを聴いてるんだよ?」
「パープルとツェッペリンかなあ……」
 少し間をおいてではあるが敏秀はそう答えた。敏秀が何気ない表情で名をあげたこの二つのバンドに関して、実は敏秀自身ほとんど知識をもっていないことを道徳が知ったのは、随分と後になってからのことであった。だがその当時、得体の知れない大物を知っているこの自称元ドラマーは凄い奴なのだと、道徳は勝手に思い込んでしまったのだ。敏秀が名をあげたその二バンドは、伝説のバンドとして、実際の音は別にしても名前はたしかに耳にしたことがあった。それは道徳やアキラの青春を体現している八十年代のロック・ミュージックのように装飾華美なキラキラとしたものではなく、そうした音楽を生み出すきっかけとなったルーツであり、通好みで重苦しい雰囲気を道徳に与えていた。
 これを知っていれば洋楽通だ……。
こいつは知っている、俺やアキラが知らない何かを知っている。こいつは持っている、俺やアキラにはない何かを持っている。
 これは後々わかったことだが、敏秀が高校生の時分に在籍していたバンドは、ジュン・スカイ・ウォーカーズという日本のバンドのコピーバンドであり、ディープ・パープルともレッド・ツェッペリンとも無縁の生活をおくってきたそうだ。しかしドラマー獲得に燃えている当時の道徳からは、ホラをホラと判断するだけの集中力は失われていた。
「今度一緒にやってみようぜ!」
 スタジオでセッションした経験などまったくない道徳は無謀な誘いを、このえせ洋楽通に押しつける。
「一緒にやるっていったって、いったいどんな曲やるつもりよ?」
 敏秀は苦し紛れでこう言い返したのであろうが、実際こう返されると道徳は無力であった。道徳とアキラには、二人の定番となり、しかも二人とも演奏可能な共通の曲が存在しなかったのだ。どちらがリードでどちらがリズムかといった区分けすら決まっていなかったし、二人ともがバンドスコアを見て演奏にトライはしてみるのだが、複雑なパートは後回しとするため、バンド用のコピー曲はいつまでも手付かずのままであった。
 バンドを組む計画は一時的に暗礁にのりあげた形となったが、アルバイトで敏秀と顔をあわせる度に二人の間の音楽的なすき間を埋めようと、道徳は共に演奏できそうな曲をあげていった。
「やっぱり最初はパンク・ソングが簡単でいいんじゃねえの?」
 本当は洋楽の演奏経験のない敏秀は、道徳が音楽の話に引き入れようとするのに毎回抵抗したが、それでも自分の得意分野を披露することにもなるはずのバンドの結成話には少なからず興味の色をみせてはいた。洋楽の知識のなさを露呈することになりかねないそうした会話は敏秀にとって危険であったが、危ない箇所にくるとやはり経験からくる知識がものをいった。
道徳とアキラにとっては妄想のまま、敏秀にとっては強がりのまま、バンド結成の話は平行線を辿っていたわけだが、ここに第四の力が加わることで話は現実化の方向へと一気に傾き出すこととなる。
その第四の力は、自然とむこうからやって来た。
「やあ、道徳くん……だよね?」
 常連となっていたレンタルビデオ店で恐る恐るといった調子で声をかけてきた男に、道徳は確かに見覚えがあった。-
「ああ、小学校のときの……」
 だが、それ以上続かなかった。ただ唯一気になったのは、その、見覚えはあるがはっきりとは思い出せない元同級生の抱えていたビデオ・テープだった。それは、レッド・ツェッペリンの「レッド・ツェッペリン/狂熱のライヴ」というタイトルのビデオ・テープだった。
「そのバンド、好きなのか?」
「うん、好きってほどでもないんだけどね、前から興味はあったんだよ。なに?こういうの好きなの?」
「まあね……、俺もパープルやツェッペリンに興味はあったんだ。本当はガンズ・アンド・ローゼズとか、他にはポイズンっていうのかな?その辺が好きなんだけどね」
 道徳は敏秀の、あの否定的な反応に接した後では、ポイズンだけが好きだとはどうしても言い切れなかった。
「ガンズかあ……、ポイズン?うん、俺も好きだよ。他にもモトリー・クルーとか……、特にメタリカが俺は好きだね」
 頭に一瞬なにかが閃いた道徳は、この、顔は覚えているが名前を思い出せない、外観も十分に野暮ったい元同級生に更に質問を重ねてみた。
「もしかして、なにか楽器を演奏できたりする?」
「うん、ギターならね。中学の頃からやってるよ」
 道徳もアキラもギタリストだった。いまバンド結成に必要なのはベーシストなのだ。
「そうか……。でも、まさか、ベースなんて弾けないよな?」
「ベースも弾けるよ、もちろん。あんまりいいベースじゃないけどね、一本持ってるんだ」
 カチッと音をたてて総てがあるべき所に収まった。突如として、総てが向かうべき方向に向かってきちんと整った。道徳の脳裏には一瞬にして、未来のバンドのあるべき姿が描き出された。このとき一瞬にして、未来のバンドがスタジアムで演奏している姿を想像することができた。
Thank you, good night! See yeah!
「なあ、実はバンドをやろうと思ってるんだけどさ、どうしてもベーシストが見つからないんだよ。……どうだろう?やってみる気はないか?」
「いいよ」
 快諾だった。その、傍目にはオタクにしか見えない元同級生は、道徳のこの誘いに顔を輝かした。もしかしたらオタクからバンドメンへと飛躍できるチャンスに思えたのかもしれない。
「ところでさ、名前は、なんていうんだっけ?」
「すすむだよ」

   三
「こんなリフがあるんだ」
 すすむが道徳のアパートを訪れ、フェンダーのギターを手にしてこう言い出したとき、道徳にはすすむの言っていることが瞬時には理解できなかった。
 リフというと?
様々な音楽雑誌を読み漁る道徳は、その単語自体は目にしたことがあったが、その単語が具体的に楽曲のどういった部分を示す単語なのかということを知らなかった。
だが、すすむに面と向かってそうは言えなかった。この服装も野暮ったく、ロック・ミュージシャンというよりは生活費の足りない大学生とでも呼べそうな、ロングヘアーにしじゅうフケを浮かべている新メンバーに音楽に関する自分の無知ぶりを披露する気にはなれなかった。バンドスコアを開いてはみるもののタブ譜を追うのに忙しく、曲解説などに目を通している暇などなかった道徳は、その語がもつ意味を推測してはいたのだが、その語がそうなのだと言い切る自信がなかった。
「なにそれ?もしかしてお前が作ったの?」
 すすむの弾くギター・リフとやらを耳にした瞬間、道徳にとってすすむはエリック・クラプトンになった。つまり、ギターの神様になってしまったのだ。そのギター・リフがモトリー・クルーの曲のパクリであることに道徳が気づくのは、まだ、もっとずっと後になってからのことであるが、このときは、このメタルオタクのすすむは道徳にとって、スラッシュでミック・マーズでジョー・ペリーだった。そしてギター・リフというものがギターパートのどういった部分のことをいっているのかを、すすむに直接質問することはせずに理解した。
「オープニングのリフが終わったら、基本はEで進んでさ、D、E、D、Eを繰り返して、サビはこんな感じでさ……」
 耳で音を拾って曲をコピーした経験をもたない道徳の目には、その場その場でフレーズをつなげていくすすむの演奏法はプロのミュージシャンのように映った。
「いや待てよ、サビにいく前に、なにかもうワン・フレーズ欲しくないか?」
 それまで耳から流し入れていただけの音楽による影響が、図々しくもギター初心者である道徳に口出しさせていた。
「こんな感じか?」
「いや、そういうのじゃなくてさ、もっとこう、飾りみたいな音」
 あくまでパワー・コードの組み合わせで曲を構成しようと試みるすすむだったが、耳だけは様々な洋物ロックで潤っていた道徳は、メタルオタクのすすむ好みな、直線的なその曲にもう少し曲面をつけたがった。
「なんかこういった雰囲気のさ」
 道徳はそう言いながらフェルナンデスのギターを手にし、危なっかしいチョーキングと音が途切れがちなトリルのシンプルなフレーズを披露してみせた。ジョー・ペリーのギター・プレイから無意識のうちにパクってきたそのフレーズは、道徳の演奏では、エアロスミスといよりはドリフに聞こえた。
「おお、なかなかいいフレーズだな」
 すすむにとっては自分のほうがギターの先輩なのだといったようなけち臭い拘りはなかったようである。バンドによる演奏というよりも、それまでの人生で友だちそのものに飢えてきたすすむにとっては、第三者と曲を創ること自体が驚きの出来事だったのかもしれない。それに、自身の得意分野を披露できる唯一の相手である道徳に対しエゴを発揮しなければならない段階には、まだとてもではないが及んでいなかった。
「そのフレーズをそのままギター・ソロのメイン・テーマにもってくれば曲の方向性が決まるな」
 アパートの狭い部屋にとじこもり、むさ苦しい長髪の男二人が頭を寄せ合っている姿はたしかに無気味だ。だがそれまでスコアに合わせてギターを弾く程度で、音楽に関する知識など無に等しかった自分が曲作りに参加しているのだという事実に道徳は興奮した。それは期待を裏切られるパターンの多い、女性との初体験などとは比べ物にならないほどの興奮であった。
「歌メロは道徳が考えてくれよ」
「ああ、いいよ。AメロはTレックスっぽくしてさ、サビにはビッチって単語を入れたいな」
 Tレックスっぽいどころではない。AメロはTレックスの「ゲット・イット・オン」そのままだったが、すすむはそれを知ってか知らずかなにも文句は言わなかった。
この時点でソング・ライティングの担当は決まってしまった。つまり、すすむが曲の骨格を作り、道徳は歌メロとアレンジの担当というわけである。初心者ではあったが初心者なりに、この配役はこの二人の性格にぴったりだった。忍耐強く粘ることのできるすすむはパクリではあっても最後まで曲をつなげることはできたし、なんにでも口を出したがる道徳は一旦骨組みが出来上がった曲を自分の好みにあわせていじくり回していくことが楽しかったからだ。
 その一週間後、このバンドの原型がレンタルスタジオに集まり、初めて演奏した記念の曲は、そのオリジナル曲であった。あれから道徳とすすむはアパートの部屋にこもり、隣の苦情を覚悟しながら、ギターにベースに、ちっぽけなドラム・マシンをラジカセに重ねて録音し、ダビングしたテープをアキラと敏秀に自慢顔で配って歩いたのだ。この曲のベーシック・トラックを完成させるのに要した時間は、十二時間であった。午後一時にアパートを訪ねてきたすすむは、深夜一時に帰宅した。
「すげえじゃん!」
「おい、なんか俺たちプロになったみてえだよな!」
 アキラも敏秀も大絶賛だった。バンドのメンバー全員が、これほど簡単にオリジナル曲が形になってしまうなどとは考えたこともなかったのだ。全員がこの結果に満足し、全員がこのバンドを誇りに思った瞬間だった。そしてこの、初期のエアロスミスを意識したハードロック・スタイルの曲調は、その後にバンドが作り出す総ての曲の原型となった。
 だが、大成功に終わったこのセッションの後、バンド内で極めて当然ともいえる問題が浮上する。リード・ヴォーカリストの不在である。セッションの間は道徳自身が、でたらめな英語の歌詞を適当につないで歌っていた。サビの部分だけはきちんと歌い、他の部分は知っている英単語をでたらめに口ずさむという方法で、である。
 道徳を音楽の世界に引きずり込んだそもそものきっかけであるポイズンは四人編制であった。すすむのお気に入りのバンドであるメタリカもモトリー・クルーも四人編制であった。この手のロック・バンドは、道徳たちのような四人編制か、シンプルな三人編制、あるいはリード・ヴォーカルを加えた五人編制となるのが普通であるが、口にこそ出さなかったが道徳にはシンガーを加える気などさらさらなかった。
「エゴの塊のようなシンガーを加えることでこのバンドの結束力を弱める気はなかったね!」
 道徳は、このバンドがビッグになり、音楽雑誌にバンド結成当時の経緯についてインタビューを受けることになった場合、こう答えるつもりでいた。
 表向き道徳が用意していた答えはそれであり、バンドに知り合いができる度に、訊こうとも思っていない相手にそのような説明を繰り返していた道徳だったが、事実はもっと単純で利己的なものだった。道徳は自分が歌を歌いたかったのだ。
道徳にとってギターはバンドを結成するための手段であり、目標はヴォーカリスト、つまりバンド内でもっとも目立つポジションに就くことだった。
 道徳にとって好都合だったことは、他のバンドメンバーがヴォーカリストの加入を欲しなかったことだ。すすむは編制について道徳に意見することなどできなかったし、アキラは編制がどうなろうと自分が楽しめればそれで構わないらしかった。敏秀に至っては、この集合体は単なるセッション目的の集団であると信じていたらしく、そもそも人前で演奏する機会がやって来ようなどとは夢にも思っていなかったようである。
「俺は自分が作った歌を他人に歌わせたくはなかったね」
 道徳は、バンドがビッグになり、音楽雑誌に、自身がヴォーカルをとることになった経緯について尋ねられた場合、こう答えるつもりでいた。
 しかし当時なら絶対に認めなかったことであるが、今ならやはり道徳はこう断言することができた。自分は歌がおそろしく下手クソなのだと。
楽器の演奏とは違い、歌の上手い下手は、いくら親しくとも注意しづらいものである。道徳はそれを利用したのだ。

 指先まで燃え尽くしてしまったマールボロを灰皿に押しつぶすと、買い置きの煙草の封を切った。普段は決して開けることのない二箱目の煙草である。禁じられている煙草の先端に火を点ける道徳の表情は険しかった。

 その後もセッションは繰り返された。演奏曲目にも、道徳とすすむの処女作であるミドル・テンポの曲の他に、ガンズ・アンド・ローゼズの「イッツ・ソー・イージー」のパクリが一曲、スキッド・ロウの「エイティーン・アンド・ライフ」のパクリのバラードが一曲追加された。
「そろそろライヴをやってもいい頃じゃないかな?」
 例によってアパートの部屋での曲作りの最中、すすむが遠慮気味にそう洩らしたとき道徳は違うことを考えていた。
曲作りではアレンジ担当であり、歌詞は総ての曲で手がけている。ギタリストでありヴォーカリストでもある。そんな道徳がバンドのリーダーを自覚するようになるのにもそう長い時間を必要とはしなかった。アキラとバンドを結成することを夢見ていた頃、小指の先くらいの大きさしかなかった道徳のエゴは、セッションを繰り返すうちに、拳ほどの大きさにまで膨れ上がっていた。
「なあ、すすむ。ギターの音なんだけどさ、もう少しタイトなほうがいいよな」
 結成当時のラインナップは、ヴォーカル兼リード・ギターの道徳、リズム・ギターのアキラ、ベースのすすむに、ドラムの敏秀である。音楽的な知識を身に付け始めた道徳の耳は、濁った音にも敏感になっていた。
「すすむ……、お前、ほんとはギターをやりたいんじゃないのか?」
 共に曲作りを進める中で、道徳はすすむのギター・プレイを何度も耳にしてきたが、アキラのそれと比べて遥かに上手いことは演奏を耳にする前からわかっていたことだった。友だちの少なかったすすむは中学生の頃から部屋にとじこもり、独りでギターをずっと弾き続けてきたのだ。上手くならないほうがおかしい。道徳はバンドの音をメタリカとまではいわないまでも、よりタイトなものにするためリズム・ギタリストの交替を提案した。
「どのバンドもそうなんだけどさあ、ベース・プレイヤーって、背が高くてハンサムな奴のほうが絵になるよな、絶対。ガンズのダフもそうだしさ、L・A・ガンズのケリー・ニッケルズもそうだろ?モトリー・クルーのニッキー・シックスとミック・マーズを見てみなよ。誰がどう見たってアキラがニッキーですすむがミック・マーズだよ。ルックス的には……、アキラは絶対にベーシスト向きだよな」
 アキラはすすむからベース・ギターの貸与を条件に、この提案をのんだ。なんにでも熱狂的になることのないアキラは、このときもクールに振る舞っていたが、幼稚園からの付き合いである道徳にそうしたアキラの演技が見抜けないはずがなかった。おそらく、そのときアキラの落ち込む気持ちを知りえたのは、道徳ただ一人だけだったろう。

 道徳は煙草を灰皿に押しつぶすと、乱暴に立ち上がった。苛立っているのは自分でもわかっていた。年末に叔父から貰ったスコッチのボトルがサイドボードに納まっているのを思い出した道徳は、その酒をとりに立ち上がった。そのボトルはバランタインの十七年ものらしく、値段もそれなりにするので普段あまり口にすることはなかったが、今夜は飲まずにいられなかった。この酒を飲む場合、道徳はウィスキー・グラスに半分ほどしか注ぐことがなかったが、今夜は若い頃のようにグラスになみなみと注いだ。思い切り酔っぱらってしまいたい気分だった。

 こうして新たな編制となったバンドは演奏もグンとタイトになり、よりメタル色を強めていくことになる。
「俺はこんな音をやりたかったんだよ!」
曲調はより鋭さを増し、音はより重さを増していった。無理をして購入したギブソンのレス・ポールを使い出した道徳は、ストラップを長めにして、ギターの上からベルトのバックルが見える位置ほどでギターを構え、カッティングもダウンピッキング主体を心がけるようになっていた。
「誰でも楽しめるロック?そんなもの、お子様ランチみたいなもんだろ?そんな軽々しい音楽じゃなくてさ、もっと激しくてさ、観てる連中が尻込みしちまうほどへヴィーなやつをやりたいよな!」
 すすむとの間で興奮気味に交わされていたこのやりとりを聞いていたアキラから笑いながら放たれた一言は、当時は気にもならなかったが、後々何度も道徳の記憶をかき混ぜることになった。
「ははは、ポイズンはもう卒業かい?」

   四
 初めてのギグは当然のことながらチケットノルマを支払っての出演だった。出演バンドは三バンドあり、道徳たちは一番目であった。トップバッターは緊張する時間も少なく、そういった意味では気が楽だった。他バンドの上手い演奏を耳にした後では、自然ステージに上がる足の動きも鈍くなる。その日道徳たちが演奏した曲目は、バラードを含めたオリジナル曲が五曲にカヴァー曲が三曲と、三十五分程度の短いショーであった。カヴァーで演奏した三曲はエアロスミスの「ママキン」と、ブラック・サバスの「パラノイド」、かのヤードバーズの演奏で有名な「トレイン・ケプト・ア・ローリン」を超高速で演奏したヴァージョンであった。いずれもシンプルな曲ばかりであったが、演奏経験の少ない道徳たちにはうってつけの選曲であった。
 結果は、初めてのライヴとしては大成功であった。演奏技術の未熟な道徳たちは、チューニングの狂いも気にせずがむしゃらに突っ走っただけだったが、逆にその粗雑さが受けたのだ。特にラストに演奏した「トレイン・ケプト・ア・ローリン」では、長髪の頭を思い切り振り乱し、足を思い切り踏み鳴らし、それまでの人生の鬱憤をギターの六本の弦に叩きつけた。観客も道徳と同様、頭を降り続け、足を踏み鳴らし、その収容人員百名にも満たない小さなライヴ・ハウスの全員を一つにまとめあげることに成功した。それを証拠にその日のメインアクトである、渋い選曲で定評のあるブルースバンドの演奏時には、客席では私語を交わす者ばかりであり、帰ってしまう客もちらほらとあった。
「物凄く下手っぴなんだけどさ、なんかこうロックの魂みたいなものを感じたよ!」
 ショウがはねた後の、このライヴ・ハウスの店主の一言に、このとき既にバンドリーダーであることを完全に自認していた道徳が有頂天にならないはずはなかった。
「テクニックがどうとか言ってみたところでそのバンドにロックのアティテュードが感じられなかったら、そいつらはロックなんか辞めてジャズに転向すべきだと思うね」
 道徳はバンドがビッグになり、バンドの演奏技術について批判を浴びたらそう答えるつもりでいた。
 初めてのギグで観客を沸かした道徳たちが次にするべきことは、バンドの知名度を上げることと支持層を増やすことである。道徳たちも当然、そうしたフォーマットにのっとって行動を開始した。つまり、セッションとギグの繰り返しの日々である。
 道徳たちがよく利用していた貸しスタジオは飲み屋街を少し外れたところに建っていた。そのため、練習終了後、下戸のすすむ以外はみな自然と飲み屋のほうへ足が向かうこととなった。当時きちんとした仕事に就いていたのはアキラだけであり、道徳も、また敏秀もその月に稼いだ貴重なバイト代を躊躇することなく喉の奥へと流し込んでいった。フリーターの身である道徳たちが浪費を本気で躊躇しなかったわけではなかったが、飲んだくれて物を壊すような生活をおくらなければロッカーとしては失格なのだと、道徳たちは本気で信じていたのだ。もっともその生活を本気で成就させようとしていたのは、三人の中でも道徳だけだったようである。それを証拠に敏秀は道徳たちを決して自分の家には招かなかったし(道徳はけっきょく敏秀の住居を最後まで知ることがなかった)、実家で暮らすアキラにしてもそれは同じことであった。ボロかったがボロいぶん、扱いに関しても粗雑で構わなかった道徳のアパートは自然、さんざん飲んだ後のメンバーが自宅へと辿りつく前の中継地点になった。飲み屋街からついて来た女の子たち(そうした女の子たちに声をかけるのは敏秀の役目と決まっていた)が一緒に上がりこむこともあり、そうした場合は翌朝まで空しい騒ぎは続くことになる。そうした自堕落な生活はロックそのものであって、そうしたライフスタイルが音楽そのものに磨きをかけるのだと道徳は信じたがったが、メンバーによっては優先順位が入れ替わり始める。
 きっかけは、とあるギグで起こった。その頃バンドで、必ずラストに演奏することに決めていた「トレイン・ケプト・ア・ローリン」の最後の最後、繰り返しの部分で敏秀がバスドラの回数を間違えたのである。
練習のときにも走ったり遅かったりすることが増え始め、道徳は次第に機嫌が悪くなることが多くなっていった。そのうちに練習にさえ遅れて現れるようになる。二時間の予定で借りているスタジオに一時間三十分遅れで現れるのだからたまったものではない。アキラはそれほど気にしているふうでもなかったが、バンド活動を真剣なものとして考えていた道徳とすすむの二人は、複雑な表情を交わしあった。
「わりい、わりい、俺、スティック忘れちまったしさ、今夜はもうこれで終わりにして飲みに行こうぜ!」
 道徳はこの雇われドラマーに怒りの混じった笑顔で応えながらも、この非常事態への対策を考えていた。
バンド存続に危機を与えるこのドラマーをこれ以上使うことはできない。だがクビにした場合、このチャラチャラした野郎とバイト先で顔を合わせ続けるのも気がひける。まあ、それはそれで仕方がない。バイトだったら他にもみつかるだろう。バンド存続のためなんだ、こいつはクビにしよう。元々好きな奴じゃないんだから。でも、後任のドラマーをどうしたものか?
このとき日本経済の失速は既に始まっていたが、道徳のように社会情勢を知ろうとする意欲の欠如した若者が真顔で焦るほどには、まだ街頭から仕事は消失していなかった。

「あなた、お酒飲んでるの?ちょっと、それ新しい煙草じゃないの?なんで吸ってるのよ!一日一箱だけって決めてあるでしょ!後で買ってくれって頼んでも絶対に駄目だからね!」
同い年の妻は、風呂あがりの醜い裸体をさらして凄んで見せた。結婚して十年になるこの妻を、道徳はいまだかつてこれほど醜いと感じたことはなかった。
道徳は妻の攻撃を無視すると、サイドボードにウィスキーのボトルを取りに行き、次の煙草に火を点けた。

曲作りに関して最も意欲的だったのは、すすむだった。ハードでヘヴィな曲からスローでブルージーな曲まで、次から次へと新しいアイデアをカセット・テープに吹き込んでは道徳のアパートを訪ねてきていた。
「次はこんなの作ったんだ。ちょっとジェフ・ベックっぽいけどさ、今までやったことがない感じで新鮮だと思うよ」
 ぽい、どころではない。ソロ活動し始めた頃のジェフ・ベックそのままであった。
そのジェフ・ベックのイミテーションに限らず、すすむが曲を作る場合、通常エレキ・ギターをまず録音し、次にベースを録音、最後におもちゃみたいなドラム・マシンでちゃちなドラムを入れるというやり方で道徳に視聴させるデモ・テープを作るのが通例だった。道徳はそのちゃちなドラム音に目を、いや耳をつけたのだ。
「なあ、すすむ、この曲は、そのう、なんて言うか、ジャズっぽくて跳ねる感じだろ?それにギターのカッティングの裏(のリズム)をとってるしさ。……こんな難しそうな曲のドラムを敏秀がこなせると思うか?」
 軽いジャブだった。姑息な手段でこのすすむという名の、へヴィメタル・オタクで道徳の他に友人のいない、野暮ったい容姿をしたバンドメンバーをドラムに転向させようと考えたのだ。

深く吸い込んだマールボロの煙に、道徳は軽い吐き気を覚えた。いったいどれだけ偉くなっちまったんだよ、おまえは……。

「だけどそれじゃあギターが一本になっちまうだろ?」
「ニルヴァーナだってそうじゃないか」
 時代は既に九十年代に突入しており、道徳たちが追いかけてきた洋楽シーンも変化の兆候を示していた。グランジの登場である。
道徳たちの耳にも徐々に流れ込むようになってきた、アメリカはシアトル出身のニルヴァーナという名のトリオ・バンドの出現によって音楽シーンは一変してしまった。八十年代の、俗にいうL・A・メタルに影響を受けて音楽活動を開始した道徳たちは、それまで追いかけてきた道標が時代遅れの遺物となりつつあるのを肌で感じ取っていた。
 このカルテットがトリオに移行するのに、ニルヴァーナの出現が助けになったことは否定できない。しかも超ハイテク・バンドではないお手本の登場は、道徳たちに限らず、当時のメジャー・デヴューを目指すロック・バンドにとっては心強い存在となったはずだ。道徳たちも当然、そうしたムーブメントに乗っかることを考え始める。
「大事なのは複雑な曲構成なんかじゃないぜ。ギターの音が沢山重なった曲よりもさ、もっとシンプルでインパクトのある曲のほうがこれからは受けるんだ。俺たちなら三人編制でも十分立派にやっていけるさ。だいたいドラマーが作曲しているバンドほど強いバンドはないのさ。トミー・リーは言ってるぜ、いやフィル・コリンズだったかな?ソング・ライティングをドラマーがやることほど心強いことはないって」
 どこかで読んだ音楽雑誌の記事を、記憶もあやふやなまま流用していた。
「お前がドラムをやってくれれば、俺たちはもっと強力なロック・バンドになる、絶対にな!」

 グラスに満たされていた二杯目のスコッチを一息に飲み干した。ここ最近こういったウィスキーの類を、これほど乱暴に喉の奥へ流し込むようなことはなかった。だいたいが仕事の延長で、居酒屋でビールの後に焼酎といったパターンであり、洋酒を飲むこと自体が稀であった。
グラスに三杯目のバランタインを注ぎながら、当時はよくジャック・ダニエルをラッパ飲みしていたことを思い出した。ロッカーはジャック・ダニエルを飲むものなのだ。スラッシュもそうだったし、トミー・リーもそうだった。ドッグスのタイラもそうだった。それがロッカーのあるべき姿なのだ。
「焼酎なんておやじの飲み物さ!」
 グラスを手にしたままの道徳は、若かった頃の自分自身の叫びを聞いていた。

   五
 トリオになった道徳たちは、曲作りやセッション、またギグをこなすにしてもフットワークが軽くなり、数多くのステージをこなすようになっていった。その頃にもなると道徳たちもライヴ・ハウス等ではそれなりに顔を知られるようになっており、そうした理由もあるためか、当時流行っていたグランジの路線を追ってトリオ化したように思われることは道徳たちの、いや道徳のプライドが許さなかった。他のバンドの連中や観客連中にそう思われることを恐れた道徳は、カヴァーの演奏曲目もジミ・ヘンドリックスの曲やモーター・ヘッドの曲といった渋めの選曲を心がけ、自分たちがグランジ・ブームから派生したバンドではないということをアピールするよう努めた。
「俺たちは時代遅れのグラム・ロックでもないし、グランジとかいう意味不明のムーブメントともなんの関係もないぜ。俺たちをなにかの枠にはめ込もうったって無理な話さ。どうしてもカテゴライズしたいっていうんなら、六十年代のハード・ロックをベースにしたメタル・バンドとでも言って欲しいね」
 道徳はこのバンドがビッグになり、音楽雑誌にバンドの方向性についてのインタビューを受けた場合、こう答えるつもりでいた。

 道徳はグラスに四杯目のウィスキーを注ぐと、またしても一息にあおった。ウィスキーを一気飲みしたときの燃えるような喉の熱さが、そのまま過去の自分への怒りに変化するように思えた。
「ああ、そうさ。俺たちは最初からこういった音楽を目指していたんだ。ポイズン?ああ、聴いたことはあるよ、一応ね」
 自身の吠えた過去の台詞がそのまま聞こえてくるようだった。
 自分はいったい何を信じていたのだろう?なにがきっかけで、それをやることになったのだろう?
「ははは、ポイズンはもう卒業かい?」
 ケタケタといった調子のアキラの笑い声までもが、すぐそこから聞こえてくるようだった。

「今度の曲なんだけどさ、へヴィーなバラードって調子なんだ。おまえの弾くイントロのアルペジオのバックにスライドギターを入れてみたんだ。聴いてみてくれ」
 勢い込んだ調子でカセットデッキのスタート・ボタンを押すすすむを、道徳は白けた表情で見守っていた。素晴らしいアレンジであることは道徳も認めていた。だが、曲としては完璧であっても、それをステージでどのように再現するかのほうに道徳の注意は向けられていた。
「なあすすむ。いったい誰がそのスライドギターを弾くんだ?」
 トリオ化した道徳たちのバンドからは複雑なアレンジの曲は自然と減少していった。シンプルな曲が増え始め、ライヴそのものは疾走感のある、所謂ノリのいいものにはなった。しかしそうしたシンプルな曲を増やさなければならないという強制は、それまで曲作りで様々な実験を行なってきたすすむの創作意欲を削ぐ結果につながった。それでもと、テンポチェンジやブレイクの回数などによって曲調に変化をつけようと必死になっていたすすむだったが、日に日にそうした意欲が萎縮していくことに道徳自身も気づかないわけではなかった。
「まあいいじゃないか、すすむ。ああいった曲はレコードを作る段階になったら試せばいいんだ。とりあえずの間はライヴで映える、シンプルで、ヘヴィーで、スピード感のある曲を作ることに専念しようじゃないか」
「……そうだな、やってみるよ」
 むくんだ顔に無理やり笑みを浮かべたすすむは、そう言い残すと道徳のアパートを立ち去った。
 道徳自身も何度か作曲は試みた。しかしそうして出来上がった曲の原型は、どれだけひいき目にみてもすすむの作ったものには到底及ばなかった。たとえパクリであろうとも、耳に引っかかるリフを作り出すすすむの才能には道徳も敬意を払ってきた。しかし時代の変化に即応せずに、時代遅れのへヴィ・メタルに固執し続けるすすむには閉口することも多かった。
「あんな曲をいくら作り続けたからってなにも変わらないぜ」
 部屋でアキラと缶ビールを飲んでいた道徳はそう愚痴った。
「俺たちはギター一本のバンドなんだし、ステージで再現できないような曲ばかりもっててもしょうがないじゃないか。それにアルバムの曲をステージで再現するためにサポートメンバーを入れなきゃならないなんて、なんとなくフェアじゃないような気がするんだ」
 ビールの缶を口元までもっていきながら、アキラは無関心な調子で答えた。
「そこまで真剣に考えることもないじゃないか。どうせ遊びなんだから」
 アキラは作曲にはまったく関わっていなかった。曲作りはもっぱらすすむと道徳の仕事であり、アキラは道徳たちが作った曲の吹き込まれたテープを聴き、ベース・ラインを覚えるだけだった。当時、正社員としてフル・タイムの仕事に就いていたのはアキラだけであり、気ままにスタジオの時間やギグの予定を組むことが出来る道徳にとっては、アキラの存在は徐々に負担となりつつあった。
 アキラ自身バンドはあくまでお楽しみとして割り切っていたようなところがあり、当時仕事で出世のチャンスを摑みかけていたアキラは、セッションをキャンセルする回数も増えていた。
「アキラ、お前、仕事とバンドとどっちが大事なんだ?」
 道徳がこう質問したとき、アキラは明るい調子で冗談めかしてこう答えた。
「仕事に決まってるじゃん。そんなこと、訊くまでもないことだろ?」
 道徳はそれに笑いで応えただけだったが、腹のうちでは新たなベース・プレイヤーについて思いをめぐらせていた。
道徳はメイン・ギターをギブソンのレス・ポールからファイアー・バードへと持ち替えていた。この選択は音に関するこだわりとか、何かそういった専門的なものではまったくなく、ただフェンダーのストラト・キャスターや、ギブソンのレス・ポールなどに比べて使用人口が少なかったからに他ならない。特殊な形状のギターをプレイすることで注目を集めるつもりだったのだ。
アキラはフェンダーのプレシジョン・ベースを使用していたが、道徳はアキラに何度かギブソンのサンダー・バードを使用することをすすめてみたことがあった。ギターのファイアー・バードとベースのサンダー・バードはメーカーも同じギブソンで同じデザインをしていたため、ステージで映えると考えた道徳は、アキラに自分と同デザインのベースの使用をすすめたのである。

目をつむったままでいた道徳は、煙草の煙を吐き出しながら、またもや深く大きなため息をついた。面白くないことばかりの人生だが、自分の過去の失敗を突きつけられるほど面白くないことはない。もしも過去の自分に声をかけることができるのなら、どれだけ汚い言葉で罵ろうとも、それだけではまったく足りないような気がした。

アキラにバンドを続ける意思の確認を冗談口調で行なったその翌日、道徳はライヴ・ハウスや楽器店をまわり、階段に貼りだされているベース・プレイヤーの加入希望の広告を探した。
なるべくならギブソンのサンダー・バードを愛用しているベーシストで、へヴィ・メタルからファンクまで、あらゆるスタイルの音楽に対応可能な、長身の美男子。曲作りに関しては、ベース・ラインをアレンジすることができ、セッション中もアドリブにはアドリブで対応できるような、音楽的な許容範囲の広い男。それでいて積極的に作曲には携わらない男。つまり、道徳のわがままに対応可能な、ハンサムで長身のベーシストを求めたのだ。
「バンドを維持していくためなんだ。仕方ないだろ?」
 道徳は既にいっぱしの経営者にでもなったつもりでいた。
 その演奏を観た者総てを興奮させるようなバンド。そのバンドのアルバムがあれば即座に購入したくなるようなバンド。ロックをロックらしく、技巧的かつ衝動的に演奏するバンド。マニアックでありつつ、皆の支持を集めることができるバンド。最終的には、全世界で一千万枚を超えるレコード・セールスを記録するようなバンド。
 その総てを兼ね備えることが無個性であることに気づくには、一度バンドという名の船から降りる必要があったのだが、道徳は一度も下船することなく、ただがむしゃらにバンドの成功を追い求めて突っ走っていた。いや、バンドではない。自分自身の成功を、だ。
本来、世間一般に反発するはずであるロックなのだが、道徳にとっては、世間一般にどれだけ受け入れられるかが重要なこととなりかかっていた。世間体がなによりも大切なバンド。
音楽、特にロック・ミュージックの価値とはなんぞや?
当時、道徳は自分自身に向かって、何度もこの問いを繰り返してきた。そうした問いに対する答えは、いつも決まって一つだけであった。
曲の、アルバムの、バンドの良し悪しを決める手掛かり?それはそのバンドが、スタジアムを満員にするほどの集客力をもっているかどうかだ。アルバム・セールスの枚数によって、バンドの良し悪しといったものは簡単に計ることができるのだ。つまり、チャートで好成績をあげることができるバンドが、本当の意味での素晴らしいバンドなのだ。
だって他に計りようもないじゃないか!
メタリカは世界で何千万枚売り上げた?ガンズ・アンド・ローゼズは何千万枚売り上げた?ヴァン・ヘイレンは?ビートルズは?
「俺たちの反抗の美学ってものを見せつけてやろうじゃないか!」
「ははははははははははは、誰に対する反抗だよ?」

お前の言うとおりだよ、アキラ。いったい誰に対する反抗のつもりだったんだろう?
 現在の道徳は、当時のアキラに同調した。

五杯目のウィスキーに口をつけた道徳からは先ほどまでのしかめ面は消え去り、今では微笑みが浮かんでいた。微笑まずにはいられなかった。
高校生の頃、同級生たちとアキラの部屋にたむろし、ポイズンやモトリー・クルーのアルバムを聴き漁った日々。あの頃はギターなんてほとんど弾けなかった。悩み事を吹き飛ばすような、ポイズンのあっけらかんとした姿勢に共鳴し、バンドを結成することを夢見ていた日々。やがてはポイズンのように、悩んでいる連中に、一時の開放の場を与えることのできるバンドを結成すること……。
小指の先ほどの大きさしかなかったエゴは、いつのまにか自分の頭よりも巨大なものへと膨れ上がり、その重さに自分自身でも耐えられなくなってしまっていた。自分たちの音を見つけだす前に、時代を追いかけ、へとへとに疲れきってしまっていた。

その後、アキラには内緒で二人のベーシストとセッションを試みたが、どちらも理想的とは言い難かった。パンク・ソングしか演奏できないシド・ヴィシャスのレプリカ。テクニックは抜群だが演奏中やたらと飛び跳ね、道徳の気を散らせたスキンヘッドの筋肉マン。いずれも、それなりのバンドならば力を発揮するだろうと思えるミュージシャンではあったが、道徳たちの、いや、道徳のバンドには不向きなメンバーであった。
土曜日の夕暮れ時には、いつも勝手に道徳のアパートに上がりこんで、勝手に冷蔵庫のビールを飲んでいたアキラは、もう二度と道徳のアパートの扉を開けることはなかった。 
ギイイイと、不快な音を吐き出しながら内側に開く、鍵のかかっていないその扉を、道徳はいつ開くかと思いながら、ただ見つめて何時間も過ごした。
「自分が何になりたいかじゃない、何をやりたかったのかを思い出すんだ」
あるとき、どこかの誰かが背後から、自分にそう語りかけていたことを思い出した。

   六
 デモ・テープ作成の話をもちかけてきたのは、常連になっているライヴ・ハウスのオーナーである、浦沢という三十代半ばの男であった。
「これからも続けていくつもりなら、自分たちのレベルは把握しておいたほうがいいよ。それにデモ・テープを作っておけば、バンドのプロモーションにも有利だからね」
 しかし道徳は、ベーシスト不在でのレコーディングは気が乗らなかった。ベース・パートは元々すすむが考えたものであるから、オーヴァー・ダヴィングすれば楽曲としては問題ないはずであったが、そうしたやり方は道徳に疑問を投げかけた。
 果たしてこんなやり方でよいのだろうか?これが望んでいた方法だったのだろうか?そもそも誰と、こういった総てを始めようとしたのであったか?
道徳が気乗りしなかった理由はベーシストの不在などではなく、かつての親友であるアキラの不在であった。
四曲五万円という、浦沢という名の胡散臭い男の提示する額でデモ・テープのレコーディングを開始してみたが、そこには何かが欠けていた。
半日がかりで録音したテープを聴き返した道徳は唖然とした。それまでにもライヴ演奏をテープに録音したことなどもあり、自分自身の歌声はよく把握しているつもりであった。それは上手いとは言い難いが、ライヴ向きのパワーのある歌声であると、自己評価をくだしていた。しかしミキシング・ルームに流れていたのは、ノリもパワーもなく、音域の狭い日本人の男が無理をして英語の歌を歌っている、そうした表現がぴったりの歌声であった。すすむは興奮しているふりを続け、ミキシングに関してあれこれと要求を突きつけていたが、道徳は、とてもではないがその場に居続けることができなかった。
突如としてバンドに関する全過程が、なにも知らない若者たちに対する詐欺行為のように思えてきたのだ。頭に突如として冷水を浴びせかけられたようなものだった。
すすむはデモ・テープの出来にもある程度は満足している様子だったが、道徳にはそれが本心からだとはとても思えなかった。すすむの態度は、バンド存続のために無理をして自分たちの作った物に満足しているようにしか、道徳には見えなかった。
道徳にとってあのデモ・テープは、自身が排泄している様を見せつけられているような、恥かしさと趣味の悪さがないまぜになっていているような、まるで悪夢の中で起こる出来事のように、二度と目に、いや、耳にしたくない代物であった。できることであれば、五万円を支払って作りあげたその排泄物を、この世から消去してしまいたかった。

その後もすすむは、新しいリフの入ったカセット・テープを持っては、ちょくちょく道徳のアパートを訪れていた。
「今度の曲はちょっと変わってるんだ。お前がラップっぽい調子で歌って、サビの部分でグンとメロディアスにするんだ。メロディはこんな感じでさ」
 サビのメロディをハミングするすすむを、道徳は苛立たしげに睨んだ。
「こんなのレッチリのパクリじゃないか!」
 すすむの持ってきたその曲が、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのパクリであろうがなかろうが、道徳にとっては、既にどうでもよくなっていた。毎回毎回のミュージシャンごっこに飽き飽きしてしまった、ただそれだけのことであった。それを続けたいがためにない物をある、と信じ込むことに疲れてしまったのだ。
才能の欠如はもっと早くに、おそらくはバンド結成の時点で既に気づいていたのかもしれない。いくらそのことに気づかないふりを続けようが、あれだけ見事な証拠を目の前に突きつけられた後では認めないわけにはいかなかった。それは確かに厳しい発見であった。それまでの努力が、実は自分自身の無能さを証明するための努力でしかなかったことに気づいてしまったのだから。

 昭和と平成の間に挟まった時間に動き出したこのバンドは、平成という年号がすっかり定着する頃、徐々に歩む速度を緩めていく。ミュージック・シーンの移り変わりと共に変化を繰り返してきた道徳の音楽性は、その変化についていくだけの気力と、変化しなければならない表向きの理由を失ってしまった。時代の波に飲み込まれたのではない、バンドの、そもそもの存在理由が軽過ぎたのだ。
「俺、どこか遠くに行こうかと思ってるんだ」
 メンバーの一人であり、メインのソングライターでもあるすすむの口からそんな決意の言葉を聞いたのは、道徳が二十四歳の誕生日を迎える前日のことであった。
 それはすすむの、事実上の脱退宣言であった。電話で交わされたその会談は、終始和やかな調子で進み、どちらかが声を張り上げるような場面もなかった。
 四人が三人になり、三人が二人になり、やがて二人が一人になる。それは熱狂の終焉であった。道徳は無人島に取り残されて初めて、自身の計画の拙さに気づいた。自分自身の幼さに気づいたのだ。

時は過ぎ、家庭を持ち、考えも変わる。音楽に聴き入ることもなくなったし、ギターを弾くような気は、まるで起こらなかった。
時代は変わったのだ。
もし、いまあの時の自分自身に声をかけてやることができたらと、道徳は歯がゆい思いがした。ああした、流行に即した音楽をやるためにバンドを始めたはずではなかっただろうと、こう声をかけてやりたかった。
迷うな。自分が目指していたものを変えるくらいなら、それはそもそもの初めから自分が望んでいたものではなかったはずなのだと。
一番初め、自分がなにに感動し、何故これをやろうと決意したのかを思い出せ。どんなことがあっても、絶対に周りに流されては駄目なのだと……。
道徳は当時悩んで、ころころと方向性を変えていた自分自身にこう声をかけてやりたかった。
道徳自身、そうすれば成功できただろうなどとは全く思わなかった。どれだけの幸運が転がり込んでこようとも、そうしたものを利用できずに終わったに違いない。道徳にもそれはわかっていた。ただ、いま道徳が思い返すようには過去を思い返さなくなるだろう。後悔と空虚がないまぜになったような今の感覚とはまた別の感覚でもって、当時を懐かしむことができるようになるだろう。そう、成功はしなかったが、やれるだけのことはやったのだという、一種の満足感をもって当時を思い返すことができたはずだ。

道徳はウィスキー・グラスを握りしめて、目をつむった。頭には熱を感じ、胸にはむかつきを覚えた。
「あなた、いつまで飲んでるの?明日も早いんでしょ!」
 妻の耳障りな喚き声が、不意に道徳の耳に飛び込んできた。
二十年前に想像した生活はレコーディングとツアーに明け暮れる日々だった。だが決してそれだけではなかったはずだ。
スタジオのある邸宅、フェラーリにハーレー・ダヴィウッドソン。美しい妻にモデルの不倫相手。印税での生活は、世界の何処へでも自由気ままに出かることのできるチケットを提供してくれる。そういった贅沢こそが目的になってはいなかっただろうか?
道徳は、いまウィスキーを飲んでいる狭い自宅の台所を見回した。
何を追い求めていたのだろう?バンドをやって、楽しめればそれで満足だったはずではなかったのか?いったいいつから、レコード・デヴューやスタジアムでの演奏、レコードの売り上げによる印税生活が目標となったのだろう?
レコード会社の目にとまるように、流行の要素をいち早く取り入れ、バンドを始めたそもそもの理由さえも場合と相手によっては作り変えてきた。
 そんなのは当時毛嫌いしていた、世間体を意識する大人たちと一緒じゃないか!
 道徳はその高価なスコッチを飲み終えると、グラスをテーブルの上に乱暴に叩きつけ、立ち上がった。

CDラックに並べられた「レッド・ツェッペリンⅣ」やストーンズの「ギミー・シェルター」といった通好みのアルバムは、他人に見られたときのために並べられたもので、それらをありがたがって拝聴する機会は、今ではほとんどなかった。
 通好みのアルバムだけを残し、他をほとんど処分してしまっていた道徳は、あのアルバムがまだ残っているとは信じられなかったが、かすかな期待を込めて階段下の戸棚にしまってある段ボール箱を引っ張り出した。
「ちょっと!何を始める気?」
 ゴトゴトと、道徳のたてる物音に不審を抱いた妻の口からは、音楽によって鍛えられた者の耳には耐え難い、ざらついた高音域の雑音が溢れ出した。道徳はその不快音に反応しなかったが、このとき妻が自分のステージを観たことは一度もなかったのだという事実を思い出した。
「おまえには、なんの関係もないことさ!」
 道徳は、妻と音楽の無関係さを強調するような口調で、妻を現在の時間の中へ置き去りにした。
 道徳はガムテープを引き剥がすと、中に詰め込まれてあるガラクタを漁った。それは、今ではほとんど見られなくなったVHSのテープの間にはさまっていた。その赤色の、悪趣味なジャケットに目をとめた道徳は、思わず顔をほころばせた。プラスティックのケースにはヒビが入っていたが、銀色のディスクは指紋で汚れていたが、歌詞カードはいたるところでちぎれそうになっていたが、それは確かにポイズンの2ndアルバムだった。
 居間に行き、DVDプレイヤーにそのディスクを入れると、スタート・ボタンを押した。音が鳴り出すのとほとんど同時に、寝室から音楽とは無縁の女の喚き声が聞こえてきたが、道徳は無視した。
二曲目のイントロを耳にした道徳は、左手を口に当てて、泣き声が洩れるのを防いだ。

週末、道徳はあの、思い出のつまったアパートへと足を運んだ。そこに行き、具体的になにをしようとは特に考えていなかった。もしかしたら、あの場所へ赴き自分の愚かさを再確認することが、当時ないがしろにしてきた友人たちへの罪滅ぼしになると考えついたからかもしれない。
忘れ去ろうとしていた道順は、努力して思い出そうとせずとも勝手に思い出された。
見上げると道徳の頭上には、あの古びたアパートが夕陽を浴びながら、落ちぶれた娼婦のような表情で道徳をみつめ返していた。
道徳はごく自然と、アパートの外階段をのぼり始めた。階段のすき間から地面の見える外階段を。
錆びた階段に足をかけた道徳の耳に、昔よく耳にしたアコースティック・ギターの音がかすかに聞こえてきた。
道徳も今のようなオレンジ色の時間帯、夜を迎える準備をしている空の下、この同じアパートの一室で下手なアコースティック・ギターでバラードを作り出そうと苦心していたものだった。バラードの似合う黄昏時に作曲すれば、その曲は名曲になるとの迷信を信じているように、何も浮かんでこない空っぽの頭を一生懸命使って作曲に励んだものだった。
決して上手いとは言えないそのギターのしらべは、メジャー・コードを多用した優しいバラードであった。そうした曲調は八十年代を彷彿とさせ、道徳は当時に戻ったような錯覚に陥った。
当時住んでいた部屋の前で立ち止まった道徳は耳を澄ました。下手くそなギター音は、かつての自分の部屋から流れ出ていたのだ。
道徳は驚かなかった。むしろそのほうがずっと自然な気がした。そして、まるで当然の権利ででもあるかのように、ドアノブに手をかけると、ゆっくりと回した。
その扉にはやはり鍵はかけられていなかった。
ギイイイと、当時と変わらぬ不快な音を発しながら、その扉はゆっくりと内側に開いた。
西を向いたその部屋の中はオレンジ色だった。六畳間の畳の上には、長髪の若い男がギターを抱え、道徳に背を向けて座っていた。
「やあ、あんたの来るのを待ってたんだ」
 その若い男はギターを弾いている手を休めると、顔を上げたがこちらを振り向きはしなかった。
「で?どうなんだろう。あんたはいま、印税生活をおくってるのかい?」
 その声は期待を含んでいるというよりは、こちらの答えを聞くのを怖れてでもいるような調子だった。その男の息を吸い込む音が、道徳の耳にもはっきりと聞こえた。
「成功を望んでいるのか?」
 若い男にそう質問し返した道徳の口調は、自分でも驚くほどに冷静だった。
「なによりもね!」
 その男が興奮し始めているのは、声の調子を耳にせずとも明らかだった。逆光に映し出された男の若い肩に力が入っているのは、離れて立っている道徳の場所からもよくわかった。見つめたくはなかった失敗を、いま、背後に感じとっているその若い男が哀れだった。
「俺はどうしたらいい?」
 伝えたかった言葉は山ほどあった。伝えなければならない言葉は多過ぎた。だが、それを一々と伝えてみたところで、この男の耳に届きはしないのだろうということもよくわかっていた。若者の荒い息遣いは、若者がまるですぐ傍にいるかのように道徳に伝わってきた。手を伸ばせば、若者の緊張に手が届きそうなほどであった。
「自分が何になりたいかじゃない、何をやりたかったのかを思い出すんだ」
 道徳が口にしたのは、もっとも基本的な、もっとも忘れてほしくないことであった。
 自分の思いを口に出して伝えた道徳はほっとしたが、その思いは若者に伝わらないであろうことも知っていた。
そして道徳は、それ以上は何も喋らずに、不快な音を奏でるその扉を閉めた。
階段を下りる道徳の耳には、アコースティック・ギターの音はもう聞こえてこなかった。
様々な人間によって度々繰り返される言葉というものは、それだけに普遍的な意味が込められているということに違いない。しかしそのようにして繰り返される言葉は、あらゆる場面で度々使われるために、既に、人を動かす力を失ってしまっている。無駄とは知りつつ、そうした言葉を使い続ける、年老いた人の気持ちが、今なら道徳にもよく理解できた。
伝えずにはいられないのだ。

若者はこれから先何年間も、鍵をかけずに待ち続けることだろう。向こうから、勝手に転がり込んでくる成功を。



                                                   ー了ー

VS

VS

夢は叶えることが目的なのか、あるいは?

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-04-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted