living

小川夜宵

 あの頃は楽しかったなーと思いつつも今もなんだかんだ楽しいや、とか考えながら書きました。

1.kitchen

 洗面所で顔を洗っていると、どこからか目覚まし時計の音がする。顔を伝う水をタオルで拭きつつ歯磨きの準備もしていると、まだ眠たそうな莉奈がやってきた。目をぐしぐしと擦りながら彼女も隣で歯を磨き始める。手を動かすたびに栗色の長い髪はふわふわと揺れる。鏡越しに僕は声をかけた。

「莉奈、今日も身長伸びなかったな」
「もう諦めるよ。私は豆です」
「豆で思い出したけど夕飯どうする」

 最近仕事が忙しくなかなか夕飯時に間に合わない莉奈。「外で食べてくる」とだけ聞いて僕が先に洗面所を出た。リビングへ向かうと、キッチンに菜摘、テレビの前に竜二と葉月、庭先に伊織くんがいて、それぞれの朝がすでに始っていた。白くきらめく朝日の下、庭の花壇に水をやる伊織くん。真っ白なシャツが似合う爽やかでスラリとした後ろ姿を見ながら僕はキッチンに入る。

「牛乳ちょうだい」

 化粧もばっちり済ませた菜摘は忙しなく応える。

「自分でやってよ。今手が離せない」
「頼むよ」
「もう、朝食の準備手伝ってよ」

 菜摘はトマトを切っていた手を止め、ポニーテールを翻して僕にグラス一杯の牛乳を用意してくれた。キッチンに立ったままテレビを眺めていると、洗面所から歯磨きを終えた莉奈がやってきた。

 「おはよう」

 張りのない挨拶に、ぼそりと返事をする僕達。彼女は真っ直ぐテレビの前に足を運んだ。

「またやってるね、このニュース」
「そうだな。何日目だよ」

 リビングのソファを陣取っていた竜二は気怠そうに会話に付き合う。その隣、同じく先にテレビを見ていた葉月はなんの返事もしない。まだ寝間着で、ショートカットの金髪は寝癖がすごい。体育座りでぼーっと、神妙な顔のアナウンサーを見つめている。
「お腹すいた」「ごはんまだ?」
 ニュースの話はすぐに終わって、みんなの興味は肉が焼ける香ばしい匂いに集まる。

「はい、おまたせ」

 つやつやのスクランブルエッグに、ハーブが香るジューシーな肉、簡単なサラダとオニオンスープ、焼きたてのパン。菜摘の美味しい朝食を食べると、今日も一日頑張れそうな元気をもらえた。
 


《連続殺人犯の身柄を確保。凶器は肌身離さず持ち歩いており……》

 数ヶ月に及んで流れていた連続殺人のニュースは、犯人の逮捕によってさらなる盛り上がりをみせる。女子供を狙う様子から男と思われていた犯人が、実は女だったのだ。そればかりか、犯人は遺体を丁寧に調理して食していたという。

『みんな仕事終わりにスーパーの惣菜コーナーで何を食べるか選ぶでしょ。それと一緒よ。なんで女と子供だけかって? さあ、私が大人になったからかもね。子供の頃は母親に嫌いなものも食べなさいってよく言われたわ。でも、大人になるとそううるさく言われなくなるものだから、ついつい好きなものにばかり手が伸びてしまったのよ』




 遠くの目覚ましの音を聞きながら洗面所で歯を磨いていると、背後から莉奈に「おはよう」と声をかけられる。「仕事行きたくない」「今日も遅くなる」そんな会話をして先に洗面所を出ると、リビングにはテレビに釘付けの二人と、庭先に水やりをする伊織くんの姿。
 キッチンには、誰もいない。
 グラスを持って冷蔵庫を開けると、庭から戻ってきた伊織くんが優しい微笑みと共に話しかけてきた。

「すぐごはんの用意するね」
「伊織くんが作るの?」
「うん。明日は葉月が作ってくれるって」

 僕がちらっとテレビの方を見ると、何を察したのか葉月がこちらを睨んでいた。

「あたしだって料理くらいできるよ。こないだ竜二に夜食作ってあげたよ」

 葉月の隣でテレビを見ていた竜二はへらへらと笑い出した。

「あれな。食えなくはなかったぜ」

 全く食欲の湧かない感想。葉月の鋭い視線は僕から竜二へ。
 そこへ、歯磨きを終えた莉奈がやってきた。

「あ、美味しそうだね」

 莉奈はフライパンをコンロに置く伊織くんに駆け寄った。

「伊織くんの朝ごはんは久しぶりだね」
「そうだね」
「菜摘のごはんも美味しかったけど」
「そうだね」

 莉奈は「お腹すいた」と何度か呟いてソファーに向かった。



『みんな私を異常者だと思ってるんだろうけど、私からしたらあなたたちの方が異常よ。何を自分は大丈夫みたいな顔で、他人事のようにニュースをみてるわけ? それはテレビの中の話じゃなくて、現実に起きたことだというのに。おたくの冷蔵庫を見てみなさいよ。いつ何時、豚や牛と一緒に人の肉が並んでいてもおかしくないわ』



 キッチンカウンターの前に立ったまま牛乳を飲んでいると、伊織くんが「あ」と声を漏らした。伊織くんは冷蔵庫の中から肉の塊を取り出し、僕に言った。

「菜摘が毎朝焼いてくれてたお肉、シチューとかにしたらきっと美味しいよ」



『一家団欒の暖かなリビングは、いつだって血の海になりうるんだから』




 犯人の声明が流れるリビングに目をやると、葉月と竜二が仕事終わりにジムに行く話をしていた。莉奈は、じっとテレビを見ていた。

「……そうだね、シチューにしようか。莉奈は帰りが遅くなるみたいだから、残しておいてあげようよ」

 僕が言うと、伊織くんは「わかった」と言って肉をしまった。




 朝川菜摘、二十四歳。殺人罪および死体遺棄により、死刑。

2.garden

 僕は町外れにあるシェアハウスで暮らしている。大きな古びた洋館で、森の中の開けたところにぽつんと佇んでいる。僕の他には、伊織くん、竜二、葉月、里奈の四人が暮らしていて、家事は分担制というより、伊織くんを中心にみんなが手伝いをするような形でなりたっている。そんな中でも、外の花壇の水やりは伊織くんだけの仕事だ。

「庭にいっぱい花とかハーブ植えてるけど、伊織くんが一番好きなのはどれ?」

 晴れた日曜日の午前中。僕はハーブティー片手に庭のベンチに座っていた。花壇の草むしりをしていた伊織くんは顔を上げ、うーん、と考えながらも僕の問に答え始めた。

「苺も好きだし、バラも憧れるなぁ。でも……そうだね、スイセンかな」

 少し伸びた薄茶色の髪が、日差しを反射してさらりと靡く。伊織くんは前髪を寄せながら、向こうにある鉢植えを指差した。

「ほら、あれだよ」

 草しかない。僕が感想に悩んでいると、伊織くんが笑顔で振り返った。

「もうすぐ咲くよ。そしたら家に飾るから」

 人にも花にもそうだけれど、全てにおいて優しい彼。花になんて興味はなかったけれど、そんな彼の"一番"は何か気になった。
 もうすぐ咲くよ、と日差しのように温かな笑顔を向けられて、僕は柄にもなく植物の成長に胸を躍らせていた。

 冬の寒さが本格的になり始めた十二月。忘年会シーズンというのもあり、皆それぞれ忙しくなって家をあけることが多くなった。その日家に戻ると、リビングで一人カップラーメンをすする竜二がいた。「おう、おかえり」と、ぶっきらぼうにこちらも見ずに言った。
 僕がコートを脱ぎながら「うまそー」と呟くと、竜二は「食う?」と湯気が立ち上る麺を掬い上げて差し出してきた。僕は箸で折り返した麺の束を口に含み、スープをはねさせないよう慎重に、一気に啜りあげた。

「うん、たまに食べるとうまい」
「男は黙って豚骨」

 僕はラーメンの味と熱さを噛みしめ、そのまま着替えに行こうとした。

「なあ、伊織は?」

 竜二にきかれて足が止まる。そういえばここ数日姿を見ていない。

「僕は何も聞かされてないよ」
「ふーん。ランチで伊織の職場の前通ったら警察がわんさかいてよ。なんかあったのかなーと思って」
「今の時期、酔っ払いの相手で警察はどこでも大忙しだ」
「それもそうだな。気にすることないか」

 僕が再び部屋に戻ろうと一歩踏み出すと、玄関が開く音がした。

「さむいさむい」

 帰ってきたのは葉月だった。マフラーで鼻まで隠し、いそいそと靴を脱いでいる。僕と竜二はそれぞれに「おかえり」と声をかけた。葉月はマフラーの奥に籠った震声で「ただいま」と応え、「ねえ、伊織は?」と続けた。

「知らねー」

 ラーメンのスープを熱そうに啜り、竜二が答えた。僕も首を横に振ると、葉月はマフラーをほどき、「知らないならいいけど」「別に気にしてないし」などと不満気にをぼそぼそこぼし始めた。

「なんかあったのかー?」

 竜二がカップの底をほじくりながら聞く。

「昨日の夜に知らない女から電話がきて、伊織とどんな関係なのかしつこく聞かれた」
「うっそ、修羅場ー」

 ケラケラとふざけたように笑う竜二。葉月はその隣にどっかりと座った。スープも飲み干し、竜二は前髪の生え際に滲んだ汗を手の平で拭う。伊織くんのことには興味なさそうだ。しかし、僕は違った。

「伊織くんて彼女いたの?」

 誰に聞くわけでもなく呟いてみると、二人が僕の方を振り返った。
 僕たちが不思議そうに顔を見合わせていると、玄関が開いた。重めの金属が擦れる音に目をやると、きょとんとする里奈がいた。

「みんな、どうしたの?」

 僕らにじっと見つめられたものだから、里奈は不安そうだ。ブーツを脱ぐ里奈に、伊織くんの所在がわからないことと、葉月にきた電話の話をした。里奈は「伊織くんなら、」と話し出した。

「しばらく帰れないって言ってたよ」
「は? 何で」

 葉月はいらだちを隠せない。里奈はそれでも顔色一つ変えずに言った。

「仕事だって」

 それなら、仕方ない。葉月は腑に落ちないといった顔をしていたけれど、僕と竜二は一報あったならそれでいいので、伊織くんの話は一段落してクリスマスと年越しの話に移った。ディナーや年越し蕎麦、初詣など。決めなくてはならないことはたくさんある。今年のケーキは伊織くんが選ぶ予定だったのだが、どうしたものか。チョコレートケーキかショートケーキか。悩みどころである。



『誰でもいいわけではなかった。あなたは誰とでもセックスをしますか? しませんよね。この人なら、と心に決めた人としますよね。僕だってそうです。この人なら、と心に決めていたんです』



 クリスマスイヴの朝。キッチンには二つのケーキの箱と、花瓶にささった一本のスイセンがあった。箱の中身は、ホールのチョコレートケーキとショートケーキだった。僕ははっとしてバタバタと玄関を出た。
 朝露がしたたる庭先。水やりがされたあとがあり、たくさんあったスイセンが綺麗に取り払われていた。伊織くんが誰も寄せつけずに世話をしてきた花壇。その土の膨らみに、これ以上近づく気にはなれなかった。



『騙していたつもりもありませんでした。あなただって、恋をするのは生涯に一人の相手というわけではありませんよね。また、結婚するのはそのうちの一人ですよね。僕だってそうです。複数の人に見初められ、そのうちの一人をたまたま殺してしまったんです。死体ですか? スイセンの近くに埋めましたよ。どこのって……そんなの、教えませんよ』

 クリスマスイヴの午前一時頃。結婚詐欺、並びに殺人の容疑で男が捕まった。男は被害者達の家を転々としており、住所は不定。

『結婚の話をしていて別れる二人なんて珍しくない。僕が詐欺罪だというなら、恋もまた詐欺です』

 複数人の女性と結婚を前提に付き合い金銭を受け取っていた男に、一人の女性が執拗に結婚を迫ったあげく、尾行をした。その結果、彼女は彼の触れてはならない部分に触れたために殺されたという。共犯者の存在を疑われたが、それらしき人物は見つからなかった。

『時として、恋は嘘から芽生え、人は嘘で絆を繋ぎとめる。そして熱く燃え上がる気持ちはいつでも、一瞬で、殺意を纏った愛になるんです。知らないとは言わせません。子供でもわかることです。恋愛なんて所詮、長い目で見れば騙し合いなのです』




「クリスマス、おめでとう!!」

 竜二の謎の音頭でパーティが始まった。ロゼのシャンパンをみんなが一杯飲みきった頃、小気味よいオーブンの音が鳴った。

「できたみたい!」

 小走りにキッチンへ向かう里奈。スパイスのきいた香ばしい匂いがする。竜二と葉月がそれを嗅ぎつけて目配せをし、更に盛り上がりだす。

「お待たせー」

 莉奈が持ってきたのは大きな皿に乗った七面鳥の丸焼きだ。綺麗に飾り付けられ、これぞクリスマス、といった雰囲気。

「うまそー!!」
「すごーい!!」

 竜二と葉月の興奮も最高潮。里奈は嬉しそうに微笑んで、

「伊織くんが用意しておいてくれてたんだよ。ケーキも楽しみだね」
「さすが伊織! うわ! 中もいい匂い!」

 竜二はさっそくど真ん中に穴を開けて食べようとしていた。

「ほら、どうぞどうぞ」

 里奈に促され、僕も七面鳥にフォークを伸ばした。
 天井に届きそうな大きなツリー、赤と緑のテーブルランと、金の燭台のキャンドル。肉メインの料理がズラリと並び、今晩飲む予定の酒も種類を問わず選り取りみどり。そして、テーブルの真ん中にはささやかにスイセンが飾られていた。
 今日はクリスマス。世界中が愛と嘘で溢れる聖なる日。



 花澤伊織、二十四歳。詐欺罪並びに殺人罪、死体遺棄により死刑。被害者の遺体はいまだ見つかっていない。

3.bathroom

 まだ少し肌寒いけれど、陽射しはほんのりと暖かい。この時期になると休日の午後は決まって庭のテラスで読書をする。普段から本を読むほうではない。春先や秋口の過ごしやすい時期に、外で森の風情を感じながら空想の世界に浸るのが好きなのだ。

「何読んでんだよ、エロ本?」

 風情もへったくれもないことを言いながら竜二がテラスへやってきた。僕は静かに本を閉じ、「違う」とこたえて横目に睨んだ。

「なんだ違うのかよ。文字だけの本なんか読んで面白いか?」
「そりゃあ絵があってもいいけど、文字だけだからこそ面白いこともあるよ」
「ふーん」

 僕の隣に並んで座って庭を眺め、「春だな」と呟く竜二。彼も季節を感じたりするのだな、と失礼な考えが頭を過ぎる。

「また、冬に向かって日々は巡るんだな」
「竜二がなにやら文学的なことを……」
「そうでもないだろ」
「そうでもないな」

 実際のところ、風情ある景色の中で竜二と馬鹿馬鹿しい話をするのも好きなのだ。時間を忘れられるというか、大人であることを忘れられるというか。無邪気で奔放な彼といると、青春のあの頃に戻ったような気持ちになる。
 あの頃は時間が有限であることの認識が甘かった。自分はいつか死ぬけれど、それはずっと先のことだと思っていた。しかし気付けばもう、平均寿命の三分の一程を浪費している。あっという間だった。死ぬまでもきっと、あっという間なのだろう。だからこそ、ゆっくりと流れるテラスでの時間がとても愛おしいのだ。

「梨菜ー、おかえりー」

 石畳みの道を歩いてくる梨菜に竜二は手を振った。梨菜は「ただいまー」と遠くから声を張り上げた。今日はこの後、葉月が食べたがっていた有名店の豆大福でお茶をする予定だ。梨菜はそれを買ってきてくれた。葉月はというと、家の中でお茶の準備をしていた。
 梨菜は通りがけに僕達に話しかけてきた。

「二人で何してるの?」
「エロ本読んでんの」

 僕は竜二の頭を叩いた。梨菜が「まだお昼だよ」と言って笑った。夜ならいいのか。

「もうそろそろじゃない? 中に入ろうよ」

 梨菜は軽く手招きをして玄関を開けた。僕と竜二は小突き合いながら中に戻った。
 リビングのテーブルには、緑の茶葉が踊る透明なポットと、それとセットの透明なティーカップが置いてあった。

「梨菜おかえり。ちょうど今セッティング終わったところ」

 取り皿などを整え、葉月はエプロンを払った。

「ありがとう! 食べよ食べよー」

 莉奈はガサゴソと紙袋の中から箱を取り出してテーブルに置かれた大皿に並べる。それを見て、竜二が「おお」と声を出した。

「豆大福だな」

 竜二の捻りのない感想に、お茶をいれていた葉月はムッと顔を顰めた。

「このなんの変哲もなさそうなのがすごくおいしいんだからね」
「へー……」

 竜二はじーっと大福を見つめる。ティーカップに緑茶が注がれ、みなそれぞれに豆大福を頬張った。すると、

「うめえ!!」

 目を見開いて叫ぶ竜二。その隣で、葉月は「でしょ?」と得意気な顔をしている。

「豆の塩気がたまんなーい」

 にやける梨菜。僕も、「今まで食べた豆大福の中で一番美味しい」と言った。すると竜二が、

「いやほんとそれ。うますぎてほら、無意識に握りつぶしそうだ」

 確かに、竜二が持つ食べかけの大福はあんこが漏れ出しつつあった。馬鹿だ。

「お茶とあんこのマリアージュがたまんなーい」
「どの茶葉にしようかすごく悩んでコレにしたんだ。京都のお茶の中でもさらっとしたやつ」
「葉月すごーい」

 梨菜は顔も言葉もとろけてしまっている。ソファーの背もたれに寄りかかり、竜二は言った。

「いやー……老後もこんな感じで過ごしてぇなあ」

 竜二の言葉に、梨菜と葉月が笑った。

「まだ若いくせに、何言ってんの」

 葉月が言うと、竜二は流し目で外の庭を見た。

「若いからだろ、こんなこと思うのは。俺たちは一分、一秒単位で変わっていってんだからよ」

 無邪気で奔放な彼といると、時間を忘れられるというか、大人であることを忘れられるというか……そんな、気がしていたのだけれど。緩やかな時の流れに微睡む僕の隣で、彼は刻一刻と流れ落ちる砂時計の砂粒を見つめていたのかもしれない。庭を見る彼は、いつ、何をきっかけに変わってしまうかもしれない日常に、少し怯えているかのようだった。



『一人目? 確か……同じ中学の先輩だったな。死体なら河原に放っておいたけど、次の日には俺、引越ししてたしな。ニュースなんか見てなかったし、死んだやつのその後なんか知らねぇよ』



 その日の夜。葉月に晩酌に誘われてリビングへ向かっていると、風呂場から竜二の歌声が聞こえてきた。

「うるさいよね」

 先に始めていた葉月が眉間にしわを寄せて言った。僕は苦笑いしながら葉月の隣に座る。

「いつもは烏の行水だけど、今日は葉月と梨菜の豆大福でご機嫌なんだよ」
「うわ、スイーツでご機嫌とか乙女」

 葉月はうざったそうにしながらも僕のグラスに白ワインを注いだ。



『殺した時のこともよく覚えてねぇよ。映画やなんかだと、頭の中で死ね死ね呟やきながら首しめたりしてるけどそんなの唱える余裕もなかった。視界が黒く狭くなって、息も上がってきてよ。酸欠みたいに震える手足が言うことをきかなくなるんだ。前頭葉のあたりが熱く重苦しくなって……熱が冷めて視界が開けた頃には、まあ相手が死んでるわな』



 僕が飲み出してから十分ほどで、風呂上りの竜二がやってきた。

「白? 俺にも俺にも」
 
 葉月は舌打ちをして竜二のグラスを取りに行く。入れ替わりでソファーに座った竜二は「なんで舌打ちしたあいつ」と、タオルで髪を拭きながら首を傾げた。

「竜二の美声がうるさくてだよ」
「美声なのにうるさいってどういうことだよ」

 僕たちはこそこそと葉月に聞こえないよう話した。笑いを堪えるのが大変だ。馬鹿なことを言って、こいつは何年先もこうなんだろうな、と思っていた。




『昔からだった。頭に血がのぼると手がつけられなくてよ。そんな自分がこわかった。大事な人まで殺しちまうんじゃねえかってな』

 桜が少し咲き始めた頃、マンションの浴槽で複数の男性の死体が見つかった。被害者同士に面識はなく、犯人が死体置き場として使っていたようだった。

『特に風呂に入ってる時だな。考え込んじまう。俺は今、"どっち"なんだろう、って』

 死体は顔の骨が砕ける程に殴られており、供述中の落ち着いた雰囲気からは考えられない残虐な死に様であった。明るい素直な人柄であり、淡々と自白をする様子からも、彼が犯人であることをなかなか信じられなかった、と当時の弁護士は言っていた。

『数ヶ月で背が伸びるとか、数日で傷が治るとか、そんなじゃなくてさ。一瞬で俺は別の俺に変わっちまう。めまぐるしい内側の変化に、俺は頭がおかしくなりそうだった』




 竜二のグラスも用意され、テーブルには夕飯の残りで簡単なつまみも並んだ。葉月に酒を注いでもらい、竜二はグラスを掲げた。

「葉月のティータイムに乾杯!」

 こんなことを言われては、苦情も言いづらくなる。葉月は照れくさそうにしながらも、「いつでもできるんだから大袈裟にするな」と竜二の頭を引っ叩いた。

「じゃあ絶対またお茶会しような。今度は洋菓子で」

 『絶対』。
 何にも執着のない竜二が言うと、そこはかとなく切なさが感じられた。



『俺はいつから俺でなくなるのかな。それとも、俺はもう……』



 彼は笑いながら叩かれた頭を抑える。そんなふざけた彼の笑顔は、いつだって僕の時間の流れを緩やかにしてくれる。いつまでもこのままでいられるような、そんな錯覚をみるほどに。


 長谷部竜二、二十二歳。殺人罪により死刑。精神疾患を疑われるが、反省の態度もなく、問題行動が多いために翌年死刑が執行される。

4.rooftop

 人生で何回言ったかわからないが、今年も言わせて欲しい。

「なんで夏はこんなに暑いんだ!」

 かき氷にスプーンを刺しながら言った。理名がきょとんとした目で僕を見る。葉月はレモン色のかき氷をかき混ぜ、呆れ笑いで言った。

「あんたは夏になると声のボリュームが上がるよね。ネガティブな意味で」
「冬もだよー。外でいきなり、寒い!って怒るからびっくりするもん」

 どこか困った風の理名。そんなに驚いたのだろうか。

「このまま暑さに負けてテンションが下がるのは嫌なんだよ。冬もそう」
「普段おとなしいくせにそんなところで頑張らなくても」

 葉月の言い分に理名が頷いている。僕が元気だといけないのだろうか。

「でも確かにこの家は暑い。リビングがこんなに広いのにおんぼろクーラーが一つだけだし、自室は狭くて寛げないし」

 程よく混ざったかき氷を、さらにぐるぐると混ぜながら葉月が言った。悪口を言われたせいか、日頃からうるさいクーラーが急に低い呻き声のような音を出し始めた。おんぼろだ。
 真っ赤なかき氷を銀のスプーンですくい上げ、思い出したかのように理名が言う。

「この家の間取りって変なところあるよね。リビングもそうだけど、やけに狭い部屋とか、階段の踊り場にある物置とか、なんでここに置いたんだろうって感じの柱とか」
「屋上もバルコニーがあるからいらないよな」

 僕の言葉に、スプーンを口に運ぶのをやめて理名が首を傾げた。

「え、いらないかな」
「僕はいらないと思う。理名は屋上使ってる?」
「うん。たまに」
「森しか見えないのに?」
「そうだけど、屋上っていいよね。お空が近くて」

 理名の緩んだ唇は、いちご味のかき氷のせいか赤く艷めいて見えた。




 遺書は、見つからなかった。



 屋上の存在を思い出した僕たちは、日が暮れてから花火を始めていた。理名は両手に花火を持って振り回しながら屋上を走る。葉月は花火より理名を避けるのに集中している。僕はというと、打ち上げ花火の準備をしていた。




『前から、死ぬことに憧れがありました。でも、生きてる時間も貴重でもったいないことはわかっているので、まだ死にたくはないです。それが、私が今生きている理由です』



「いくぞー」

 打ち上げ花火に火をつけた。葉月と理名の視線がこちらへ向く。ぱちぱちと音を立てて短くなる導火線。そして、軽い破裂音とともに空へ一筋の光が伸びてゆく。暗闇へ消え、大きな光の花になった。

「おっきーい!」

 理名がとても嬉しそうなので、僕は並べた打ち上げ花火にどんどん火をつける。次々と空へ弾ける閃光たち。華やかに咲き、儚く散る。

「綺麗! ほら、空がもっと近くなった!」

 燃え尽きた花火で空を指し、理名は嬉しそうに笑っていた。




『だから、もし私が自ら死を選んだ時はきっと、この世に思い残すことがなくなった時かもしれません』

 人は生を選べない。しかし、時として死を選ぶことはできる。雑踏の中にいる時は考えもしないことだが、一人になるとふと、思い出す。自分もいつか死ぬのだと。自らその道を選んでゆく人はきっと、理由はどうあれそういったことを思う時間が普通の人より多いのだろう。ただ、それだけの違いなのだろう。
 空が近いことを無邪気に喜んだ彼女は、翌週金曜日の夜に自殺した。職場の隣のビルの屋上から飛び降りた。遺書もなく、何の前兆もなかったことから事件性も疑われたが、借りていた寮はからに近い状態で綺麗に整頓されており、自殺の線が濃くなった。



「ねえ、」

 花火の片付けを終え、リビングで一息ついていた。理名はうつむき加減に言った。

「私といて楽しい?」

 愛の囁きでも始まるのだろうか、と思ったけれど。なんとなく違うと予感した。彼女の表情が、嫌に穏やかだったから。

「楽しいよ。葉月だってそうだと思うよ」

 何を思ったのか、僕は彼女を引き止めるのかのようにそう言った。しかし理名は顔色一つ変えずに「そっか」としか言わないのだ。ああ、行ってしまうのだな。でも、こんなに満足そうなら止めることも無粋だ。

「理名の笑顔はいつだって、僕たちを元気にしてくれたよ」

 僕がそう言うと、理名は照れ臭そうに笑った。

「……よかった」

 そして少し寂しそうに、笑うのだ。




『大事な人たちに会えなくなるのは……嫌だけど。それでも、私はいつかきっと踏み出してしまう。そんな気がするんです』



 彼女の実家に残されていた日記の内容から、自殺と断定された。しかしその理由は依然として曖昧であり、周囲を困惑させた。人は当たり前のように生きるからこそ、死には真っ当な理由を望むのだろうか。それが彼女の、本当の自由に対する漠然とした羨望になっていたのかもしれない。




 中川理名、二十三歳。自殺によりこの世を去る。

5.entrance

『家族を殺すなんて信じられないとか言ってる連中がいるけど、そいつらは何もわかってない。そんなの、嫌いなやつが他人ならまだしも、家族だからぶっ殺したに決まってんじゃん』




 土の匂いが乾いてきた。木々のざわめきも軽くなった気がする。僕は秋が嫌いだ。夏と冬も嫌いだけど。暑いとか寒いとかじゃなくて、なんだって秋はこんなに物悲しいのか。落ち葉で覆われた道を歩くたびに、かしゃかしゃと屍を踏み歩いているような気持ちになる。それでいて空は晴れ渡っているものだから、余計に儚さを感じてしまうのだ。
 それを葉月に言ってみた。

「じゃあ冬眠したら? 夏寝て、春に起きる。あたしが起こしてあげるし」

 ワインで晩酌していた葉月の返答がこれだ。僕はワインボトルを手に固まっていた。

「一年の四分の三寝てろってのか」
「熊を超えてるね。でも人生の三分の一は寝てるんだよ? 人の人生大概寝てるんだよ」
「諭すにも無理やりが過ぎる」

 僕と葉月のやりとりを聞いていた莉奈が噴き出して笑った。

「二人はいつもくだらないこと真剣に話してるよね。仲良いなー」
「仲はいいけどそこまで真剣でもない」

 葉月の言葉に僕は激しく頷き、自分のグラスにワインを注いだ。

「えー、楽しそうだけどなあ。友達というより、家族みたい」

 莉奈が言うと、葉月の表情が曇った。

「私兄弟とかいないし、親も早くに亡くしたからなんだか羨ましいよ」

 ここは莉奈に同情するところなんだろうが……

「なんか酔っ払った。寝るね」

 葉月は飲みかけのワインを置いて、リビングから出て行ってしまった。その様子に不安気な表情をする莉奈。僕はボトルをテーブルに置き、言った。

「莉奈、葉月には家族の話はしない方がいいよ」
「もしかして、葉月も天涯孤独?」
「違うよ。葉月には家族がいる」
「……じゃあ、なんで?」

 莉奈はワイングラスを両手で握りしめ、聞いてきた。僕は言おうか言わまいか迷ったが、後で気にして詮索してしまわないよう言うことにした。そうすれば、葉月に家族の話をすることはなくなると思ったから。

「葉月は虐待を受けていたんだ」




『知らないやつに一発殴られたって、もう会わなきゃ殴られない。でも殴ってくるやつが家にいるとさ、家にいる限り殴られる。でもそこが家だから帰らなきゃいけない。帰りたくなくても、帰らなきゃいけない。子供だったし一人ぼっちになるのも怖かったんだよ。どんな親でも、離れるのが怖かった』

 同じ家族でも、何故こんなにも違うのか。それはやはり、親も子供も一個人であるからに過ぎない。親には親の人生が、子供には子供の人生があるからだ。

『大人になっていざ離れてみるとさ、今度はふつふつと長年の恨みが湧き上がってきたんだよね。それで終わりならよかったよ。でも、あいつら生きてんだもん。たまに金の催促しにくるし、ゴミがまとわりついてくるようで鬱陶しかった。顔見るたびに頭を過ぎったよ。こいつらがいる限り、あたしは幸せになれないって』



 莉奈は悲しそうな顔をして、「そうなんだ」と呟く。この顔。これを見ても、葉月は腹を立てたに違いない。

「莉奈。確かに葉月の境遇は可哀想に思えるけど、だからといって僕たちは葉月の心の傷を取り除くことはできないし、苦しみを理解してあげることもできない。葉月が望んだ生き方ができるように、いつもどおりにするのが一番だよ」
「でも、話を聞いてあげるくらいなら」
「聞いてあげるくらいならいい。だから葉月が言いたくなるまでは問いだしたりしないでほしい。誰にでも触れられたくないことはある」

 莉奈は申し訳なさそうに俯いた。

「わかった。私は何も聞かなかったし、家族の話もしないよ」

 僕は莉奈の頭を撫でた。

「優しいね、莉奈は。僕と葉月が家族みたいと言ったけど、莉奈だってそうだよ」

 莉奈は安心したように微笑んだ。
 晩酌もお開きに、森すら寝静まる深夜零時。豪雨に屋根が叩かれる音が響く中、細く玄関の呼び鈴が鳴るのが聞こえた。僕は目をこすりながら階段を降りて、玄関を開けた。

「葉月、いるんだろ」

 そこには傘をさしながらもびしょ濡れの女が一人。見覚えはないが、その冷めた目つきは誰かに似ていた。

「母さん......」

 葉月の声。振り返ると、寝ていたはずにもかかわらず私服のままの葉月がいた。女は僕を押しのけて土足のまま上がり込み、葉月の肩をつかんだ。

「話がある。来なさい」
「あたしも母さんに話があったんだ」
「そんなのあとにしな。さあ、早く」

 葉月の手を荒々しく引っ張る母親がドアノブに手をかけた瞬間、

「ここに来たからには、どうなるかわかってるよね」

 そう言って、葉月は後ろポケットから取り出したナイフで母親の背中を刺した。家中に響く女の叫び声。ドアに押し付けられたまま滅多刺しにされ、母親は崩れ落ちるように倒れた。

「何......これ......」

 震える声は、階段の方からだ。叫び声を聞きつけた莉奈は、驚きと恐怖で動けなくなっていた。
 葉月は荒い息を整えながら莉奈を横目で見つめる。

「け、警察......」

 手すりに寄りかかりつつ部屋に戻ろうとする莉奈に、僕は言った。

「何もしなくていいよ、莉奈」

 莉奈は今にも泣き出しそうな顔で振り返り、「え?」と困惑の声を漏らす。
 僕が葉月に視線を送ると、葉月は鼻で笑って言った。

「じゃ、玄関汚したままで悪いけど、あたしは行くね」
「いってらっしゃい」

 いつものように僕が送り出すと、葉月は大雨の中、傘もささずに死体を引きずりながら出ていった。寂しげに響く玄関のベル。暗闇の中、床やドア、壁についた血を見て僕は溜息を漏らした。

「莉奈、悪いけど掃除を手伝ってくれるかな」

 僕が言うと、莉奈はまだ困惑しているようで怯えたように立ち尽くしている。

「葉月はこれから警察に行くつもりだ。僕らにできることはない。まずは玄関を片付けよう」

 自主するということに少し納得がいったのか、莉奈は小さく頷いてゆっくりと階段を降りてきた。僕達は血のあとを綺麗にしてから、リビングでコーヒーを飲むことにした。あまりに衝撃的なものを見たせいか、莉奈はまだ身体が強ばっていた。莉奈の正面のソファーに座り、僕は一口コーヒーを飲んだ。

「葉月のことだけど」

 僕が話し出すと、莉奈の表情に緊張が走る。

「あの人、葉月の母親だっだみたい。何をしに来たのかはわからない。ここまで来たから葉月はああするしかなかったんだと思う」

 莉奈は何か少し考え、絞り出すように言った。

「あのさ.....ここまで来たから、って何?」

 僕はカップをコースターに置いた。

「思えば、最初から、変だよ。あなたと付き合ってここにくることになった時も、この家のことは誰にも言っちゃダメって言ってたよね。郵便物はあなたの持ってる別の家に届くし、さっきだって、あんな.....人、が、殺されてたら、普通は掃除より先に警察呼ぶよね。なんか......変だよ、この家」

 この莉奈は、なかなか面倒な莉奈だ。
 視線を合わせようとしない彼女をそのままに、僕は言った。

「最初からおかしいと言いながら、君は今日まで葉月と僕との生活を楽しんでいたじゃないか。葉月とお茶や晩酌をしたり、庭でバーベキューやらピクニックをしたり、裏の畑や庭の花壇をみんなで整えたり」
「楽しんでた......けど」
「秘密も含め、それが僕らの生活だった。葉月が人を殺したのだって、ここではその一部にすぎない」

 莉奈の表情がみるみる恐怖に染まってゆく。

「何を......言ってるの?」
「そもそも僕はね、何をもって異常とするのかがよくわからないんだよ。全て誰かの日常の中で起こっていることじゃないか。しかも一度や二度の稀なことじゃないなら、それって莉奈の言うところの『普通』だよね?」

 ついに莉奈は、何もしゃべらなくなってしまった。
 翌日、あんなにも激しかった雨は止んで、灰色の雲の切れ間からは伸びやかな朝日が差し込んでいた。家の中もいつもと変わらない。ただ、玄関に少し湿った匂いが残っていた。




『別に自分が特別不幸だなんては思ってない。金持ちの子や両親のいない子がいるように、あたしにはあのゴミクズみたいな親がいたってだけで、当然、幸せになる機会はいくらでもあると思ってた』

 大雨の夜。母親の死体を連れた娘は自宅へ戻り、ドアを開けた父親を玄関で刺殺。二人の死体を投げ出すように置きざりにして、警察へ自主した。

『誰にでも自分のゴミみたいな日常を壊せる力があるんだよ。自分を幸せにできるのは自分しかいなくて、あたしはそれを勝ち取ったんだよ』


 合田葉月、二十三歳。殺人の罪により懲役七年。しかし、服役中同室者を二人絞殺。死刑を宣告される。

6.living

 あれはちょうど十年前。僕の嫌いな冬の真っ盛りに彼女と出会った。

「ねぇ、一緒に帰ろうよ」

 下校時に雪の降る校門で突然話しかけられた。彼女の長い髪、大きな目。可愛らしい見た目に合う女の子らしい雰囲気。僕は話しかけられる以前から彼女が好きだった。「莉奈」と名前を呼ぶ度に、その名前さえ愛しく思えてたまらなかった。
 しかし、交際して数年経った頃、彼女は僕に内緒で違う男と会っていた。
 これだってよくある話だ。街で彼女と男が密着しながら歩いているのを見かけたのだった。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 リビングで正座になり泣きながら謝る彼女は、なんだか別人のように思えた。責める気もなかったし、別れる気もなかったのに。僕の知っている愛しい莉奈じゃない。でも何故だろう。泣いて怯えるその姿は、狂おしいほどに愛おしかった。僕は衝動が抑えきれず、リビングでそのまま彼女を押し倒し、抱いた。すると、許されたと思ったのか彼女の表情が緩んでゆく。別人と成り果てた莉奈の喘ぎ声を聞いて、僕はぼそりと呟いた。

「違うだろ」

 僕は思わず、彼女を殴っていた。彼女は再び目に涙を溜める。
 ああ、なんて可愛いんだ。僕の莉奈。泣いていても可愛い。怯えていても可愛い。顔がアザだらけになっても可愛い。痛みで痙攣していても可愛い。
 気付けば、情事もそっちのけで彼女が動かなくなるまで殴っていた。彼女の腹を踏みつける僕の足元には、白い液体が散らばっていた。
 この事は祖父が処理してくれた。莉奈は強姦にあって死んだことになっていたが、死んだ人にもう興味はなかった。ただ、あの夜の滾る思いだけが下腹部を熱くしていた。

 それから僕は『りな』がいないとだめになってしまった。叔父の使わなくなった別荘を『りな』と過ごすためだけに借りた。動かなくなった『りな』は裏の森に捨てた。
 すると、三人目の『りな』が伊織くんを連れてきた。

「こんにちわ、突然すみません」

 男と二人で歩いてくる姿に最初の『りな』を彷彿とさせたが、挨拶をされた時に彼は彼女と何もないとすぐにわかった。他の女、特に大人っぽい女がよく使う香水の匂いがしたのだ。それも、たくさん。
 昔のバイト先の先輩で、家探しに困っているようだから見つかるまで空き部屋を貸してあげないか、という話だった。彼の生活的にも彼女と二人きりになることはなさそうだったので、僕は快く招き入れた。
 それをきっかけに、バーで意気投合した竜二や、竜二と地元が同じ葉月、不動産の広告でシェアハウスを見ていた菜摘に伊織くんが声をかけるなど、どんどん人が増えた。
 叔父からタダで借りていることもあり特に家賃などはもらわなかったが、住人たちはその分この家やみんなで過ごす時間を大事にしようと心がけてくれているようだった。
 人が増えることで『りな』との生活が脅かされるなんて、そんな不安もなかった。何か不都合が生じたなら裏の森に捨てればいいと思っていたから。しかし、僕はみんなに驚いていた。とても仲良く過ごしているというのに『りな』がいなくなっても平然とし、新しい『りな』が加わることも当たり前のように振舞っていたからだ。
 それはきっと、『りな』が僕の触れてはいけないないことだと察していて、みんなにもそれぞれの秘め事があったからだと思う。だから否定もしないし、さして興味も示さない。微妙な距離感があったからこそ僕らは穏やかに、幸せな日常を過ごせていたのだろうと思う。

 すっかり静かになった今。僕は新しい『りな』を探す気になれなかった。
 お母さんのような菜摘がよく作ってくれた朝食。
 優しい伊織君が手入れしてくれた庭。
 明るい竜二の歌が聞こえてきた風呂場。
 面倒見のいい葉月が酒を土産に帰ってきた玄関。
 『りな』と語り合ったリビング。
 探しても戻らないものが多すぎる。これは、『りな』を見つけたところでどうにもならない。
 リビングで一人寛いでいた僕は、飲みかけのコーヒーをテーブルに置いて重い腰を上げた。
 玄関の鍵をかけ、庭を見ながら家を後にする。



『僕から語れることはもうありません。人を殺したことや人殺しと暮らしたことについて? いや.....そうですね......うーん......すみません。考えても何も浮かびません。なんせ生活としては普通に楽しかったので。遺族の悲しみ? 今となっては申し訳ないことしたな、と思ってますよ』




『ただ、忘れないでください。愛情や哀しみと等しく殺意も立派な感情です。怒りを抑えて生きる人がいるように、殺意も普段は抑えられているだけです』

『あなたの家のリビングだって、明日には惨劇の舞台になっているかもしれないですよね?』




『......ね?』



 僕が死刑宣告を受けたあとも、あの洋館はまだ森に佇んでいる。また、誰かの思い出の舞台になる日を待っているかのように。



fin

living

 最後まで読んでいただきありがとうございました。

 備忘録として曖昧なところの設定と反省を。
 語り手の主人公については特に名前も何も明かさぬままにしておりますが、事件などを揉み消せて別荘を借りれるような権力のある家系の男性とだけ決めています。

 『りな』についても曖昧な表現にしております。何人もの同じ名前、似た雰囲気の女性を見つけ出しては連れ込んだ、というのをあからさまに書くのはあまりに赤裸々すぎる気がしてやめてしまいました。結果、私の表現力のなさが赤裸々になりました。

 洋館についてもですが、住人の大半が自分の家は他にあり、洋館に住みついていたことになっています。自宅にはみな重大な秘密を抱えていたので、洋館の穏やかな日常とは区別したかったものとしています。

 穏やかな雰囲気を壊さないように秘密を表現することや、日常に織り込んだ供述も他にやりようがなかったかなど、たまに読み返し、修正してみたりして、伝える力を見直せたらいいかなと思っています。あと個人的にご飯やお酒を美味しそうに書きたいです。

ありがとうございました。

living

「あなたの家のリビングだって、明日には惨劇の舞台になっているかもしれないですよね?」 森の奥にある洋館で共同生活をする六人の男女。そのうち五人が死刑を宣告され、洋館を去るまでの日常を描く。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2015-09-18

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