夜道

たんぎゃ

その夜ほど眠れない日はなかった。

 その夜ほど眠れない日はなかった。
いくら目を瞑っていても、いくら酒を飲んでも、眠気は一向にやってこない。
それどころか、時が経つにつれ睡眠から遠ざかっていくような感覚すらあるほどだ。如何なる手段を用いようとも、脳裏に焼け付いたあの光景は消えない。まるで夢でも見ているかのようだ。そんな皮肉めいた考えすら浮かぶ。あぁしかし、頭の中は俺の意思とは関係なく、自然とあの出来事を思い出す・・・。

 仕事も終わり、時間は午後11時を過ぎている。日付が変わるのも近い時間帯に、私は家路に就いていた。
「はぁ、もう少し早く帰れるはずだったんだがなぁ・・・」
独りごちりながら歩く。というのも、帰宅時間がこの時間になったのも、上司から仕事を押し付けられたせいだからだ。定時に帰るはずが、まさかこうなろうとは・・・。
そんなことを考えながら歩いた先に、いつもの分かれ道が現れた。本来であればここを右に進むのがいつもの帰り道だが、
「たまには左にするかな」
と、気まぐれで今日は左に曲がった。特に意味はない。ただ、少し歩きたかったのだ。時折吹く涼しい夜風や、不意に香る金木犀の香りに、心が安らぐ。そう気持ちよく歩いていると、前方の街路灯下にいる一人の人物に気が付いた。目深に帽子をかぶっており、その容貌まではよくわからない。ただ、こんな時間に一人佇む姿がどこか怪しげに思えるのは私だけだろうか。不審に思いながらも、気にしていない様子を演じながらその者の前を通り過ぎようとする。声をかけられたのは、丁度その者の目の前を通り過ぎようとした頃だった。
「ねぇお兄さん。今帰りなの?」
その声は、まだ中高生ほどの少年の声に聞こえた。こんな時間に出歩くなんて、不良か不登校なのか・・・?しかし一体、突然何を聞くのだろう。そもそも君には関係ないだろう、そう言いたかったが、さすがにそう返すと相手が萎縮してしまうのでは、と思ったので比較的穏やかに返答した。
「あぁ、やっと仕事が終わってね。帰ってる途中なんだよ」
ここで私は話を終わらせるつもりで歩く速度を上げた。しかし帽子の彼は終わらせるつもりはないらしい。私の歩調に合わせ歩き出し、また話しかけてきた。
「そっかぁ。じゃあ、お兄さん結婚は?家に誰か待ってる人いるの?」
「いや、いないよ。結婚もしたいけどね」
なんなのだろう。この少年の目的がわからない。ただの雑談だと思いたいが、わざわざこんな時間に、こんな場所で、通行人と雑談するために立っていたのか?到底理解できない。先ほどの不審さが不気味さに変わるのを感じた私は、早々に会話を切り上げて帰路を急ぐことにした。
「さ、早く帰って寝るといい。お兄さんも帰るから」
そう言って立ち去ろうとする私に、少年はまたしても声をかける。だが、今回のそれは今までの質問とは違うものだった。
「そっかぁ、家には誰もいないのかぁ・・・。じゃあ、帰ってこなくても誰も心配しないよね」
「は?」
そう言うや否や、彼はポケットに手を入れ、何かを取り出した。その手に握られているのは・・・一本のナイフ。それを見た途端、私は質問の意図を瞬時に悟った。そうか、この少年は元々そのつもりで・・・。
 一人納得し、妙に落ち着いた思考で
(逃げなきゃまずいだろうな)
と冷静に考えた。少年の目は明らかに獲物を狙う獣のようになっている。私は彼の不意を突くように即座に走り出した。当然彼も私を逃がすつもりはないらしく、数瞬遅れて追いかけてくる。しかし、そこはやはり運動不足気味の社会人とは違い、その差は段々縮まっていた。
あと少しで・・・お互いがそう感じた瞬間、交差点から一台のバイクが二人の間に突如飛び出した。
「うおっ!おいコラ、危ねぇだろ!」
突然飛び出すほうは危なくないのだろうか。だが、その危険運転がまさに自分の身を救ったと考えれば怒りなど浮かぶはずもない。どうやら私を追っていた彼もそのことに驚いているようで、視線は私ではなくバイクに向けられている。しめたと言わんばかりに、私は再び走り出した。後ろのほうで何やら声が聞こえたが、バイクの排気音で内容までは聞き取れなかった。



 家に着き、盛大に息を漏らす。極度の緊張のせいか、足が少し震えていた。まさかあんな目に遭うとは・・・。もしバイクが来なかったら、そんなたらればには意味がないことは重々承知だが、そんな考えが自分の意思とは関係なく頭を埋め尽くす。埋め尽くしてはそれらを振り切るように頭を振る。それの繰り返しだ。そんなことをしながらようやく着いた我が家。明かりも点けず、真っ暗な玄関で一人誰に言うでもなく呟いた。

「クソ、あそこで逃げられなきゃ・・・」

夜道

夜道

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-17

Public Domain
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