追い雨

 上方から下方へ、天から地へ、ばさばさと、水の幕が降りる。
 幕を透かして、朧になった陽光は揺らめき、半透明の影を足元に落とす。薄い水の向こうに見える景色は、輪郭を伴わない絵画の様で、その素朴な美しさに、思わず目を細める。
 雨上がりの午後の事だった。旅人は急なにわか雨に見舞われて、手近な木陰でやり過ごしていた。やがて曇天は割れ、懐かしい陽の姿を認めた矢先の事、やれやれ、先を急ごうかと、そう考えていた所、眼前に水の幕が垂れたのだ。どうやら、自分を雨から守ってくれた、この木を取り囲むように形成されているらしい。
 巨大な樹木だった。見上げると遙か頂点から、喇叭を逆向きに取り付けた様な枝が広がり、その先には松葉色の長い針葉が束となって垂れる。白練色の幹は中央付近で緩やかに膨らみ、縦に幾筋も走る皺は、精巧に描かれた縞模様にも見える。
「旅の方で御座いますか」
 齢にして十六、十七と見える娘が、幹の裏より現れた。娘もまた、この木の下で先刻の雨をやり過ごしていたのだろう。線の細い、何処か儚げな姿だった。目を離せば、その隙に煙と消えてしまいそうな、その様な、不安な佇いだった。
「ええ。この先の山を超えて、越境をする心算であったのですが。此処で随分、時間を食ってしまいましたから、陽のある内に辿り着けるかどうか」
 旅人は、そうは言ったものの、本心では別段に気に掛けてはいなかった。越境を果たせなければ、それはそれで、良い。岩屋か古木の虚を寝床として、一晩、星を読んで過ごせば良い。それよりも、この奇妙な水の幕の事ばかりに関心を寄せていた。
 娘の纏う空気が、笑みを含み、和らいだ。その表情は、何時からそうだったか、ずっと以前から、自分の知らない、ずっと過去から、微笑の造形だったか、解らない。ともかく、娘は何を笑ったのだろうか。本心に在らぬ返答を、見透かされたか。
「しかし、これは一体どうした事でしょうね。水の、垂れ絹とでも申しましょうか。この様なものは、初めて見ます」
 堪らず、言い加える。旅人は、実直な男だった。理屈よりも感性が先に来る、不器用な男だった。その為に、これまで幾つ泥を被ったか知れない。人の世に生きることが難しい、哀れな男だった。若くにして、世俗から離れ独り、波の隙間を漂っていた。
「今暫く、お待ち頂かなければいけませんわ。これは、水を降らせる木で御座います。地下水を吸い上げて、雨の通った後に、葉の先から、身の内の水を吐き出しますの」
 木の幹に、お耳を当ててご覧になって、と、娘に促され、旅人はそっと、耳をつける。うっすらと湿って、心地良い冷たさを感じた。すると、幹の奥から、微かに水流の反響が聞こえる。成る程、こうして水をその幹に貯め込んで、雨が降る度に入れ換えているのだな、この水の幕は、何時かの雨の再現なのだ。
「追い雨(おいさめ)と、申しますの」
 美しい名前だと感じた。それは、娘に抱いた印象と通じるものがあった。
「不思議な時間ですね。景色が洗われて、その本来の色を取り戻している様に見えます。古来より、人々はこうして、雨の後は、追い雨の元で過ごしたのでしょうか」
「きっと、そうですわ。この薄い水の幕一枚を隔てて、忙しない日常と切り離された時間で御座いましょうから」
 何か、懐かしいものを見る様な、在りし日を憧憬し、思いを馳せる様な顔だった。旅人は、その様な娘の表情に暫し見惚れ、そうして再び、水の幕の向こう、そこに在る筈の乾いた旅路が、束の間、清浄な水に満たされる景色に目を移した。
「旅の方。宜しければ、その道すがらの見聞を、私にお聞かせ下さいませ。生まれてこの方、この土地より他の事を知りませんから、こうして道行く方を呼び止めては、そのお話を、お聞かせ頂いておりますの」
 屈託の無い物言いだった。この娘は、心底から自分の話を聞きたいのだ、ただそれだけなのだと、旅人はそう感じた。
 そうして、旅人は娘に、無為の漂流の中で立ち寄った様々な土地の、人々の慣習や、文化、心奪われた風景、産物や食の事などを、話して聞かせた。旅人は決して、話の得意な人間では無かったが、各々の情景を、なるべく詳細に、丁寧に伝えるように努めた。娘はその様な旅人の話を、時々、相槌など挟みながら、安らかな心地で聞いている様に見えた。
 気が付くと、陽が落ち始めていた。すっかり話し込んでしまった、最早陽のある内に山を超えることは出来そうもないと、旅人はその内心でひとりごちた。
 それにしても、水の幕は相変わらず眼前に垂れ下がり、暮れ行く景色をぼかしている。何処か、退廃的な美しさを孕んでいた。伸び来る山陰が直ぐそこまで迫り、もう幾刻もしない内に、夜の帳が降りてしまう筈だった。
「一向に、水の流れは止まりませんね。しこたま溜め込んでいたと見える」
 返事は無かった。その気配は、最初に感じた様に、実体の希薄な、不確かなものだった。振り返り確認することすら、憚られた。果たして、自分は誰と語らって居たのだろうか。娘など初めから、存在しなかったのではないか。そう思わせる程に、ひどく寂しい心持ちとなっていた。何しろ、この場所に辿り着くまで、山村や集落はおろか、人影の一つも見ていないからだ。
 誰そ彼、と言う言葉が、脳裏を過ぎった。しかし旅人は、昼間の穏やかな時間が、嘘であって欲しくは無いと思っていた。それは、少しばかり以前、山を超えた先の国との戦禍に巻かれ、焼け果ててしまった土地の話を聞いたことがあったからだった。その土地は、豊かな水源に恵まれ、慎ましやかな人々が、静かに暮らして居たと言う。
「長い時間、引き止めてしまいましたわ」
 何処からか、娘の声がした。
「とても、愉しいお話でした。本当に、有り難う御座いました」
 不意に、水の幕は、旅人の前から流れ落ちて消えた。後には、橙に染まった雲と、青藍の空を背景に、遠く雄大な山々と、その輪郭を縁取り沈み行く夕陽が現れた。息を飲む程に鮮明で、刺す様に美しい、現実の風景だった。
「どなたかに、ご覧になって頂きたかったのです。最早、誰も知る由の無い、忘れ去られたもので御座いますから。貴方を一目見た時、この方ならばと、思い至ったのです」
 これは、遠い昔の記憶なのだ。土地の記憶が作り出した、現し身だ。旅人は、そう思った。追い雨も、あの娘も、かつて、確かに此処に在ったのだ。
「白昼夢では、無かったのですね。話を聞かせて貰ったのは、どうやら私の方であった様だ」
 旅人がそう言って振り返ると、そこには、疾うの昔に焼け焦げ、炭となった巨木の残骸が、その身を地に預けていた。もう二度と、娘の声が聞こえる事は無かった。旅人は少し泣いた後、娘の為に祈った。(了)

追い雨

最後まで読んで頂き、有り難うございました。

追い雨

旅の途中で、不思議なものを見た男の話です。 「小説家になろう」様にも掲載しております。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-04-07

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