白昼に夢を見る

画面に映る出来事は何時だって他人事だと思っていた。

川沿いの砂利道を己の意思とは関係無く一対の革靴はゆっくりと前後する。呼吸を整えようとするが上手くいかない。
右手に温かい感触を感じて視線を向ける。恐る恐る正面に手を向けると手首まで真っ赤に染まった己の右手が現れた。
恐怖でその場に尻餅をつきそうになるのを必死に耐え、急ぎ川辺に向かい右手を川へと浸すと、川の流れに乗って赤は徐々に薄くなりやがて消えた。
ばしゃばしゃと大きな音を立てながら何度も何度も右手を擦る。どうしてこんな事になってしまったのか。
空を見上げながら時計の針を数時間前へと巻き戻す。

「クビ…ですか?」
その瞬間自分にとって上司では無くなった男はこちらを見もせず答える。
「仕方ないだろ。大きなプロジェクトも終わり、契約の出番は終わったんだから。」
「しかし、私以外は」
「その答えは言わんでもわかるだろうが。」
社内にクスクスと笑う声が聞こえ陰湿な空気が広がる。
昨日まで共に仕事をしてきた連中は皆揃って下を向いていた。
「ですが、」
「何度言っても無駄だ!上が決めた事だ!忙しいんだ。出てってくれ。」
恫喝され悔しくて涙が出そうになったのは初めてだった。
肩を落とし自分が荷物置きとして使用していたデスクへと向かう。
以前勤めていた会社を都合により辞め、この広告代理店に五年間契約社員として働いてきた。もう少しで正社員になれるという話まで出ていたが、自分より勤続が長い契約社員を快く思わない正社員は一人では無かった。
この春に新しく上司となった若い男は単純に契約社員という形態が気に入らないらしく、事あるごとに嫌味を良い女性の契約社員にはセクハラめいた事を繰り返す。一度我慢が出来ずに注意してからはその標的は俺一人になった様だった。
それでも一縷の望みと生活の為に我慢に我慢を重ねなんとかやってきた結果がこれか。途方に暮れたまま荷物を背負い、もう二度と来る事の無い部屋の扉を開けた。
外に出てからは当てもなく歩き続けていたがふいに妻から頼まれた買い物を思い出しそれを買ったりしてから再び当てもなく歩き出したりした。
何がしたかったのかと問われればわからない。
そろそろ帰宅しようかと駅近くの裏路地へと入る。
この路地はビルとビルの隙間を抜ける地元の住人でも知る人ぞ知る駅への近道で、短い一本道ではあるが人と人のすれ違いさえ困難なほど狭い。通常路地に入る時には、滅多に無い事ではあるが先に中に人がいないかを確かめてから入る。ぼんやりしていた事もあって先に路地の中を携帯電話を触りながら歩いていた若い女性がいた事に気づかず肩と肩が触れ合い彼女は尻餅をついた。
咄嗟に手を伸ばし支えようとしたが間に合わずばつが悪そうに右手だけが残った。
大丈夫ですか?と口を開こうとしたが視線を送った先のやや怯えながら睨みつける捕食動物の様な無言の瞳に無性に腹が立ち嗜虐的な思想に陥る。
何故かこの時は不思議と黒い激情が身を包んだ。
この女性が先刻の上司だった男と同年代くらいだったからかも知れない。
この場で裸にひん剥き罵詈雑言を浴びせながら暴行してやろうか。それとも鞄からカッターナイフを取り出しその自慢の顔に傷を付けて醜くしてやろうか。幸いこの路地に人が入ってくる事は少ない。さぁどうやってこの目の前の女をいたぶってやろうか。
そう頭の中で想像し目の前の女性を再び見た。女性は先ほどの尻餅の体制から身体を守る様に丸くなり動いていない。倒れた時の打ち所が悪かったのか?そんな平和的な考えでいたが異様な鉄臭さを感じ右手を見る。
女性を支えようと伸ばしていたはずの手はぬめりとしていて赤みがかっていた。女性の丸めた背には何やら木の柄の様な物が刺さっていた。
しばし状況が把握出来ず立ち尽くしていたが時間が経過するに連れ鼓動が早くなる。先ずは救急車か?いや、でもこの様子だとまず助からない。なら警察か?でもどうしてこうなった?俺がやったのか?倒れた拍子に何かが刺さった?自分はこんなにも短絡的で頭の弱い人間だったのだろうか。
幸いにも此処は人通りがほとんど無い道だ。意外にも冷静に路地の入り口と出口に目をやりながらスーツの上着を脱いで木の柄に被せ引き抜こうとした。
が、中々抜けない。
前後へ動かすと柔らかい肉の感触が手に伝わりぬちゃっぬちゃという音と鼻に伝わる鉄臭さで食道へと胃酸が込み上げてくる。堪らずに急ぎ上着を袋状に丸めてその中へ嘔吐した。
この路地に入ってからどのくらいの時間が経過したのだろうか。いくら人通りが少ないとは言えそろそろ誰か通りかかってもおかしくは無い。
丸めた上着を抱えて路地の出口へと急いだ。不自然にならない様にすればするほど不自然な動きをしている気がする。
路地から抜けると数人の人間が道を往来していた。その全ての視線が自分に向けられている気がして早歩きでその場を離れ始め再び胃液が逆流し始める感覚を得た所で女性の悲鳴を背後に聞いた。全速力でその場から離れる。

それから川沿いの道まで歩き、途中でゴミ捨場に上着を捨てた。此処に辿り着くまでに道中三回程は嘔吐したと思う。己から生じる胃液の酸っぱい香りと先ほどの映像で再びこみ上げそうになるのを必死に堪えた。
全身を隈なく観察し血液の残りを探すが見当たら無い。
このまま宛もなく歩き続けていても仕方がないと感じ帰宅をする事にしたが、どうしても電車に乗る気にはなれなかった。
川沿いの道から街中へと入りなるべく人目に付きにくそうな場所を探してタクシーを停めた。
想像していたよりも随分と長い間歩き続けていたらしく自宅までは数分だった。見慣れたマンションの外壁が今日はいつもより安心させてくれる。マンション入り口の扉を慣れた手つきで開けエレベーターへと乗り込む。
自宅のドアノブに手をかけた所で先ほどまでの安心感とは異なり急に言い知れない不安に襲われた。このドアを開けた先に大勢の警官に囲まれ顔を覆い涙する妻がいるのでは無いか。
手の平にじっとりとした汗をかく。握ったままのドアノブがしっとりとしていくのがわかる。
そのままの体制でどれほどの時間が経過したのだろう。恐らく実際は数分だったのだろうが何時間にも感じられた。意を決してドアノブを引く。
開かない。
鈍くガチャという音を立てるがドアは開かない。
そうか。先ずは鍵を開けなくてはドアは開かない。そんな単純な事さえ忘れてしまったのか。鞄から鍵を取り出そうとして初めて気づいた。
鞄は見当たらなかった。
常に肩にある筈の仕事用の鞄が何処にも無い。幸い財布はズボンのポケットに入れていたのだが、それが逆に鞄の行方に気づくのを遅らせてしまった。
鼓動が再び早くなる。
何処で落とした?駅の路地か?それとも上着を捨てた時か?川で手を洗った時だろうか?タクシーの中か?
思い返そう思い返そうとすればするほどわからない。
その時突然目の前のドアが開き驚いて後ろの鉄柵まで後ずさりする。顔を出したのは見慣れた表情だった。
「どうしたの?鍵は?」
茶色のエプロン姿で化粧っ気の無いいつもの妻の姿だった。どうやら奥にも他に人の気配は無い。
「あっ…うん。失くしたみたい。」
「というか鞄と上着も無いじゃん。まさかそれも?」
そう言いながら玄関のドアを押さえ俺が入るスペースを作ってくれる。ぎこちない動きで玄関の中へと入った。妻がドアから手を退け大きな音を立ててドアが閉まる。
安堵感からか膝から崩れ落ちた。
「ちょっと!大丈夫?」
心配して妻が駆け寄って来る。自分でも驚くほど全身が震えていた。
「大丈夫…大丈夫。ちょっと体調が悪いみたいで。先にシャワー浴びるわ。」
そう言いなんとか両足に力を込めて立ち、壁に手をつきながら移動する。
脱衣所にある洗面台の鏡に映った見慣れた筈の自分の顔は誰だかわからなかった。たった数時間で人の顔はこんなにも変わってしまうのだろうか。
服を脱いでいると妻がスーツを片付けに来た。妻に変わった様子は無い。
「あれ?」
ワイシャツを手に取った妻が不思議そうにそれを広げている。
「ねぇ何処か怪我でもした?」
ワイシャツの右手の袖口から肘にかけて赤い線が一本入っていた。
「触るな!」
咄嗟に叫びワイシャツを妻の手から奪う。妻は驚いて立ち尽くしていた。
全身を隈なく探していたつもりだったが気づいていなかった。妻は不思議そうにこっちを見ている。動揺を隠す事は出来なかったが不自然な笑顔を作ってみせた。
「…ごめん。ちょっと何処かに引っかけただけだから大丈夫。これはもう捨ててくれ。」
そう言いながらワイシャツを丸めて妻へと返す。妻は何か言いたそうにしているが言葉が出ないらしい。怯えの混じった瞳が先刻の女性と似ていた。
「わかった。とりあえず入っちゃいなよ。それと鞄と上着は探した方が良いと思うよ。」
妻はやっとの事でそう絞り出し台所へと戻って行った。
心の中で何度も妻に謝罪と贖罪を繰り返しながら頭から流水を被る。全て剥がれて洗い落ちてしまえばいい。そんな期待を込めて必死に何度も身体中を擦る。何度も何度も擦る。
風呂場から出るといつもの寝間着が外に用意されていた。いつもと変わらない風景がこういう時は一番安堵するのだなと気づく。
リビングへと行くと妻は夕食の支度を終えソファに座って雑誌をめくっていた。俺の姿に気づいたが此方を見もせずに雑誌の続きを見る。
「ご飯どうする?」
視線はそのままで問いかけてくる。
「今日は、良いかな。食欲無くて。」
「そう。」
妻も先ほどの様子から何やら異変を感じているのだろう。普段ならばいらない時はもっと早くに言えと怒るものだが今日は嫌に落ち着いている。
「もう今日は寝るよ。おやすみ。」
外はやっと暗くなり始めた頃合いだが早く横になりたかった。立っているのがこんなにも辛く感じるとは。
寝室へと入りベッドへと潜り込む。途端に全身へと一気に疲労感が広がっていきほどなくして意識は途切れた。
途切れた先で俺は果ての無い道をひたすらに歩いていた。周囲には何も無くただただ伸びる一本の道を。その途中何度か躓き転びもしたがそれでもその度に立ち上がり歩みは止めなかった。ふと目の前に大岩が現れる。人の身体ほどの大きさの岩は一本の道を完全に塞いでいた。なんとかよじ登ろうと手をかけた時にそれが岩では無く女性の横たわる死体だと気づく。
そこで目を覚ましベッドから跳ね起きた。全身にびっしょりと汗をかいている。
「どうしたの?」
横で眠っていた妻が寝惚け眼で此方へと視線を送る。
全身の震えは止まら無い。両腕で肩を抱え込み涙すら溢れて来た。
「ねぇ、大丈夫?」
心配して気遣う妻の左手を払いのけベッドへと押し倒す。乱暴に妻の衣服を剥いだ。
「ちょっと…待ってよ。そんな気分じゃ…。」
妻の抵抗を聞かずに下着へと手をかけた。妻はため息を一つ吐き、観念したのか柔らかく首の後ろへと手を回してくれる。その暖かさのみを今は信じていたかった。妻をキツく抱き締め柔肌へと何度も爪を立てる。妻は乳幼児をあやす様に優しく何度も頭を撫でてくれていた。そのまま上下を入れ替えお互いに求め合い、朝を迎える頃には自然と眠りについていたらしい。
ベッドの横に落ちた俺の携帯電話から不在着信を知らせるランプが点灯していた事には遂に朝まで気づかなかった。

白昼に夢を見る

白昼に夢を見る

全3章の短くまとめた短編です。 人間の心に潜む願望や多くの人間がそうである様に 物語の主人公では無い人間の末路を描きたいと思っています。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-17

CC BY-NC-ND
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