アリアンロッドの豚
この世でもっとも美しい処女として名高いアリアンロッドは、深い森の奥にそびえる小さな古城に住んでいた。黒い木々の間を縫って城に至る街道は、にぎやかな往来が一日も絶えることがない。森の女王に求婚しようと、世界中の王や騎士たちが従者を連れて集まってくるからだった。
城に入ることを許されるのは、美しい布、優れた宝石、高価な香油など、主を喜ばせる珍品を持参した者だけだった。女王は世界中の宝石で飾ったドレスをまとって大広間に現れる。肌はどんなアラバスターよりも白く、髪はどんなプラチナよりも艶やかで、瞳はどんなサファイアよりも輝いていた。居並ぶ男たちは彼女が噂以上に美しいことに驚いてしばし見とれ、我に返った順から口々に熱烈な愛の言葉を捧げるのだった。
女王はそんな一人ひとりに歩み寄り、つま先からつむじまでまじまじと品定めして告げる。
「あなたは“骨おおかみ”」
「あなたは“豚の酒だる”」
「あなたは“首吊りガチョウ”」
あだ名をつけてからかったあげく、結局は誰にもなびかぬままに男たちを追い返すのが常だった。しつこく言い寄る不埒者があるときは、女王の忠実なしもべであるグウィディオンが、怪力にものをいわせて相手を城から放り出した。
恋に破れた諸侯らは故郷に帰り、言葉を尽くして女王の美しさを語り広め、与えられたあだ名すらも自慢した。こうしてアリアンロッドの名はますます高まり、森の城は豊かに栄えていた。
ある夜、いつものように男たちをからかい終えたアリアンロッドは、ふいに沈んだ表情になって寝所へ閉じこもった。食事にも手をつけぬまま羊毛のソファに身を横たえる女王を見て、家臣らは巣を壊された蜜蜂のようにうろたえた。
「どこかお加減が悪いのですか」
「不届きな客がいたのですか」
主は何も答えず悲しげにうつむくばかり。すると、彼女の足元にじっと平伏していたグウィディオンがのそりとにじり寄り、小さな銀の鍵を差し出した。
女王は細い眉をひそめた。
「これがわたしの悩みを除いてくれる、とでもいうのか?」
大男は熊のようなひげ面を頷かせた。
城の主になって久しいアリアンロッドにも見覚えはないが、何の鍵かと尋ねても大男は黙って首を横に振るばかり。
他の家臣たちが「錠前探しならばわたくしめが」と差し出す手を払いのけ、女王はみずから宝物庫に足を運んだ。自身を含め歴代城主が積み上げた何百もの宝箱を一つひとつ試してみたが、合う鍵穴はどこにもない。次に何十もある城の扉の錠を試してみたが、結果は同じだった。
「おまえはわたしをからかったのか」
居室に戻ったアリアンロッドは腹立ちまぎれに、ひざまずくグウィディオンの頭を足蹴にした。屈強な大男は無様によろめき、女王愛用のソファを倒した。するとその下の床から、銀の引き輪と銀の錠前がついた大理石の扉が現れた。女王も初めて目にするものだった。
鍵を差し入れると、錠は澄んだ音を立てて開いた。重い扉の下には、狭い階段が闇に向かって延びていた。女王はグウィディオンから受け取った燭台を握りしめ、地下水に濡れる長い石段を下った。
階段の底は小さな部屋になっており、正面には金銀宝石を身にまとった絶世の美女が一人、ひたとこちらを見つめていた。よく見れば、一点の曇りもなく磨き上げられた銀の円盤が、壁に穿たれた祭壇に掲げられているのだった。
女王は顔を近づけ、そこに映る自分の姿にうっとりと見ほれながらもため息をついた。
「このわたしも、いつかは醜く老いて死ぬのだろうか。永遠の若さを得る方法が、この世のどこかにないものか」
すると盤の面が水のように揺れ、中の女が赤い唇を動かした。
「森のはずれ、岩屋に住む隠者に尋ねよ」
地下から戻ったアリアンロッドは、すぐさまグウィディオンを使者に立てて森の岩屋に向かわせた。彼が連れてきたのは、うす汚れた皮衣をひきずって歩く、齢も知れぬ老人だった。
「そなたは、人を永遠に若く美しくするすべを知っているか」
女王に尋ねられた老人は、長い白髭を撫でながらうっすらと笑みを浮かべた。懐から小さな銀の壷を取り出し、熟した乳酒のようなものを銀の杯に注いで差し出した。
「これを飲み、月の満ち欠けを数えなされ。陛下に若き命が宿るでしょう」
アリアンロッドは杯からただよう異臭に顔をしかめながら、どろりと甘いそれを一口で飲み干した。とたんに胸がかっと火照り、足の爪から耳朶の先まで熱い血が駆け巡るのを感じた。彼女は深々と満足のため息をついた。
「なるほど、あの円盤の言葉は偽りでないようだ。誰か、この老人に最上の酒と料理を、そして欲するだけの財を与えよ」
しかし幾月も経たぬうちに、女王は自分の腹が少しずつ大きくなってくるのに気がついた。再び城に呼ばれた隠者は平然と答えた。
「みずからの血を子へ、さらに次の子へと永遠につなぐことこそ、人に許された命のすがたではありますまいか。必ずや陛下に劣らぬ、いや増して美しい御子が生まれましょう」
女王は色を失った。
「子などいらぬ。溶かす薬を早くこれへ」
「どんな薬もせんなきこと。御子には良い名をお与えなされ」
悠々と城を去る老人の背中を睨みつけたアリアンロッドは、押し殺した声で屈強な下僕に命じた。
「あの年寄りを捕らえて八つに刻み、森の狼どもに与えよ。その証として心臓だけは持ち帰るのだ」
グウィディオンは頷き、大斧を手に老人の後を追った。まもなく森から戻った大男は、斧と甲冑の汚れをぬぐおうともせず、女王の前に証拠の品を差し出した。女王は温かい血のしたたる塊をつかみあげ、城の豚小屋に放り込んだ。飢えた豚たちは寄ってたかって奪い合い、それをあとかたもなく平らげた。
あらゆる手を尽くしたが甲斐もなく、アリアンロッドは一人の女児を産んだ。
女王はすぐさま忠実な下僕に命じた。
「赤ん坊を八つに刻み、森の狼どもに与えよ。その証として心臓だけは持ち帰るのだ」
グウィディオンは黙って頷き、赤ん坊の頭をわしづかみにして森に消えた。戻った大男が証拠の品を差し出すと、女王は桃色の小さなそれをつまみあげ、豚小屋に放り込んだ。豚たちは嬉々として、あとかたもなくむさぼった。
つぎに女王は、地下への階段を指さした。
「忌まわしい銀盤を砕け。あれはわたしに偽りを告げた」
グウィディオンはのっそりと暗がりをのぞきこんだが、こんどは背中を小さく丸め、初めていやいやをしてみせた。
「剛力で並ぶ者のないおまえが、地下の闇ごときをなぜ恐れる」
アリアンロッドは他の家臣を呼び、鞭や鉄棒で下僕の尻や背中を責め立てたが、大男は根を生やしたように動かない。彼女は仕方なく、ふたたびみずから地下へ赴いた。
蝋燭の光をかざして銀盤をにらむと、そこに映った女はいった。
「処女から生まれた処女の心臓を食らうがよい。これぞまことの永遠の秘薬」
息を切らして地上に戻ったアリアンロッドは、すぐさま臣に命じて小屋のすべての豚を殺し、腹を割かせた。しかし赤ん坊の心臓は、すっかり溶けたあとだった。
森の女王アリアンロッドが父のない子を産んだとの噂は諸国を駆け巡り、求愛に訪れる男たちの数は半分に減った。
やがて森には狼が増え、城を訪れる者の数はさらに半分に減った。年月が経つとさすがの女王も容色が陰り、とうとう森の城を訪れる男は一人もいなくなった。
客のないアリアンロッドは家臣たちを広間に並ばせ、一人ひとりに毎日ちがうあだ名を付けて日々をすごした。重臣たちは貢ぎ物が絶えた城を次々と見限り、ついに女王の相手をする者は口をきかぬ大男だけになった。
「おまえは“のろまな樫”」
「“毛深き斧”」
「“口なし砦”」
思いつく限りのあだ名を並べ、並べ疲れたアリアンロッドは、みじろぎもせずひざまずく彼の背中にもたれてささやくのだった。
「やはりおまえは、わたしの忠臣――グウィディオン」
そんなある日、一人の若者が城の門を叩いた。単衣の腰に革帯を締め、肩から猪の毛皮を羽織った小柄な狩人だった。
「あらゆる男を一顧だにせぬ、世界一の美女とはどんなものか拝見したい。女王にお目通り願おうか」
門を守っていた衛兵が、見慣れぬ相手に槍を突きつけた。
「口を慎め。名を名乗れ」
若者は動じる様子もなく、涼しい声で応じた。
「名乗るような名は持たぬ。どんなあだ名なりと、女王から頂戴したいものだ」
「珍しき手土産はあるか。陛下の御身を飾る品々を」
若者はせせら笑った。
「紅や宝石にすがる女が、果たしてどれほど美しいやら。ぼくが持参したのは、この身一つよりほかはない」
衛兵から知らせを受けたアリアンロッドは、窓の陰から若者を盗み見た。彼の身なりはいままでのどんな客より野卑だったが、その顔立ちと銀髪の輝き、蒼い瞳はたとえようもなく美しかった。女王には、その容姿をおとしめるどんなあだ名も浮かばなかった。
「あの者を城の中に入れておやり。決して帰してはならぬ」
彼女はそう命じると、一日かけて化粧をし、もう一日かけてドレスを着飾り、さらに一日かけて髪を高く結い上げた。それが終わると地下に下り、銀の盤をのぞきこんだ。
「わたしはいまも美しいかしら。あの若者をとりこにできるほど」
盤の中の女が、ゆらりと笑った。
「おまえはとても美しい。豚もガチョウもかなわぬほどに」
女王は悲鳴をあげて円盤を床に叩きつけ、護身用の短剣を抜いて狂ったように突き立てた。しかし盤は割れるどころか傷ひとつつかず、アリアンロッドは冷たい床に泣き崩れた。
円盤を抱えてようよう地下から這い戻った女王は、グウィディオンの足元にそれを投げて命じた。
「どこでもいい、二度とわたしの目に触れぬ所へ捨てておくれ」
そして彼女はドレスを脱ぎ捨て、代わりにつぎあてだらけの麻衣をまとった。髪をほどいて化粧をぬぐい、顔や手足に泥を塗って使用人の姿に身を変じると、若者が待つ城の庭に下り立った。
「女王様は、おまえのような卑しき者には会わぬとおっしゃる」
若者は胸を張って言い返した。
「遠くからはるばる来てやったのだ。女王の顔を見るまで帰らない」
「ここにはもう、そなたのような不逞者に与える部屋も糧もないわ」
若者はせせら笑った。
「たった三日で客用の糧が尽きるとは、女王の城も堕ちたものだ。では情け、日を改めて出直そう」
門へときびすを返した彼に、グウィディオンの巨躯が立ちはだかった。アリアンロッドは声を張り上げた。
「わが主へ無礼の数々、罪は重いと心得なさい。客としては遇せぬけれど、かわりに豚小屋で飼ってあげる。それがいやならおまえを八つに刻み、豚のえさにするだけよ」
無口な大男が若者の首へ鎖を巻きつけ、彼を獣のように引き倒した。
「無礼はどちらだ。ここの主はこんな仕打ちを許すのか」
若者の叫びに答えることなく、アリアンロッドは手近に茂っていたサンザシの枝を折り、したたかに彼を殴りつけた。若者の首の皮が裂けるのも構わず、みずから鎖を引いて豚小屋に押し込んだ。
それから毎日、女王は豚番に身をやつして小屋に通った。誰の手も借りず、自分の晩餐の残りを桶いっぱいに盛って彼に与えた。城の主がみずから手を汚して肥を片付け、敷き藁をとりかえる姿に、わずかに残っていた衛兵や召使いたちはあきれ果てた。使用人たちは一人またひとりと城を去り、ついに女王のほかは無口な忠臣と豚の若者だけが残った。
鎖につながれた若者が暴れもがくたび、アリアンロッドはその手足をサンザシの枝で打ち据えた。若い豚が力尽きて倒れ伏すと、傷ついた肌に貴重な薬と高価な香油を惜しげもなく塗りこんだ。
夜が更けると、豚番は彼をひざに抱き、世界中の男たちが女王にどんな愛を贈ったかを語って聞かせた。そしてときどきため息をついた。
「幾万の愛の言葉も、あの方の心には届かなかった。そんな女が、誰をどうして愛せるかしら」
初めは憎々しげな目を向けていた豚も、やがて静かに豚番の言葉に耳を傾けるようになった。彼女が諸国の王から聞き覚えた歌をうたってやると、豚はうっとりと目を閉じ、ひざに顔をうずめて眠るのだった。
ある日、アリアンロッドは若い豚を森の泉に連れ出した。水のほとりに腰掛け、豚の髪をなでながらいった。
「美しい豚よ。女王に代わって、わたしが名前をつけてあげる。あなたの名は“フリュウ・フラウ”」
彼の汚れた服を脱がせ、泉の水をすくってその体を洗おうとしたとき、指が相手の胸のふくらみに触れた。
女王は後ずさって叫んだ。
「おまえは牝か。たばかったな」
娘はすらりと立ち上がり、すっかり泥が落ちた豚番の白い手を取った。
「母上こそ、森の女王ともあろう方がなぜこのような姿をしておられるのです」
アリアンロッドは青ざめた。
「わたしに夫も子もあるものか。わたしを母と呼ぶおまえは何者か」
フリュウ・フラウはほほ笑んだ。
「わたしは岩屋の賢者に育てられた娘。子に命を与えて名を与えず、娘の心臓と野豚のそれの区別もつかぬ人の顔を、ひとめ見たくて戻ったのです」
「わたしを嗤いにきたのだな」
「そのつもりでした。でも」
母親は娘の言葉をさえぎった。
「ひとつきく。おまえは男と交わったことがあるか」
フリュウ・フラウはしばらくの間相手をじっと見つめ、静かに答えた。
「いいえ、一度も」
アリアンロッドは顔をそむけ、大声でグウィディオンを呼ばわった。
「この者から心臓を奪え。いまこそわたしの若さを取り戻すのだ」
娘は訴えた。
「やめてください、お母様。わたしはもう、憎しみをこの泉に流したいのです」
「何をしている、わが忠臣よ。はやくこの豚を屠るのだ」
主の叫びにグウィディオンはゆっくりとうなずいて歩み寄ると、斧を振り上げてアリアンロッドの身体に突き立てた。唇を震わせて何かを言おうとする女王に構わず、彼女の白い胸を深々とえぐり、真っ赤な塊をつかみ出した。いつのまに忍ばせていたのか、銀の円盤にそれを載せてひざまずくと、フリュウ・フラウに差し出した。
娘は、まだかすかに鼓動する母の心臓を両手に抱き、口づけをしてつぶやいた。
「わたしの名はフリュウ・フラウ。もう少しだけ、あなたの豚でいたかったのに」
やがて、森の街道はふたたび賑わいを取り戻した。
【終わり】
アリアンロッドの豚