25歳になったら

25歳になったら

   ⅰ

          1

 学生という身分を卒業してから、夏休みなんて風習が恨めしく思えてきていた。小学生たちは今日も沈んでいく太陽を惜しみながら、心行くまで元気に遊んでいる。
 八月。暑苦しさの残る夕方、東の空にようやく夕立が過ぎ去っていって、濡らされた地面からは蒸気が立ち込める。
「やっと止んだかな」
 唐木翔汰(からきしょうた)はそんなことをぼやきながら、仕事の帰途、傘を持っていなかったばかりに駆け込んだ本屋から、疲労の色を滲ませて出てくる。
 地方の出版社に勤める社会人三年目。順調に、出世ルートからは外れている。言いたい放題の上司のことや、使い物にならない部下のことを思うと溜息が漏れる。会社の外でさえ仕事に頭を悩ませる自分には、もっと嫌気が差す。
 夏の暑い中でもむさ苦しいスーツを着なければならず、急な雨に降られてただでさえ鬱陶しいものが体にひっつく。どこからか聞こえてきた救急車の音は、苛立った翔汰の頭の中で反響する。
「あっつい……」
 もっと他に言いたいことは山ほどあった。だが愚痴を聞いてくれるような相手もおらず、誰に言ってもどうにもならないようなことを呟いてみる。
 夏が特別嫌いというわけではなく、救急車の音にトラウマがあるわけでもなく、翔汰はひとえに、漠然とした不安に追われているだけだった。
 それもこれも、駅から自宅までの距離が遠いのが問題なのだ。電車内は通勤ラッシュとは言えどクーラーは効いている。しかし駅から自宅までの徒歩の区間はどうやったって外気に当てられるしかない。思考も悪い方向に向かって当たり前だ。
 そんなうんざりするような気温と湿度の中には、似つかわしくないものがある。
「……?」
 見覚えのないセーラー服、薄い水色のリボン、腰ほどまで伸びるあざとい黒髪、細い線、バス停の屋根の下の隅っこでさっきまでの夕立が過ぎ去るのを待っていたのだろうか、道路脇の縁石に腰掛けて、体育座り。顔を膝と膝の間に埋める。見た目から女子高校生の姿は、この辺りでは風俗以外そう見かけない。いや、それも今頃はない。
 何か物珍しくて、どこか勿体なくて、どういうわけか胸騒ぎがして、翔汰はつい彼女に声をかけてしまった。
「君、こんなところで何してるの? 大丈夫……?」
 肩が強張って、おそるおそる頭が上がってくる。長い睫毛、色白い顔。薄く施している化粧が、湿気のせいだろうか、取れかかってしまっている。翔汰を映す瞳は大きく開かれて、黒くどこまでも澄んでいる。
「え……」
 彼女の口から小さな音が漏れた。声をかけたのは、やっぱり失敗だったろうか。
「ご、ごめんなさい、ちょっと気になっただけなんだ。じゃあ、これで……」
「待って!」
 控えめに右手を出して、彼女は逃げ出そうとする翔汰を呼び止めた。
「あなた、私に話しかけてきたの?」
「……そのつもり、だけど」
 この子にはそんなにも人に話しかけられる機会がないのだろうか。もしかすると、お前みたいな腑抜けた人間がどのツラ下げて女子高校生に話しかけてきてんだよというニュアンスかもしれない。
 そして彼女は俯いて、縁石から腰を上げた。前髪が顔にかかってその表情は分からない。
「本当、だったんだ……」
「はい?」
 すぐ手の届く距離まで接近して、彼女は翔汰の左手を取る。柔らかな両手で硬い手を包み、伏し目がちに、上目遣いで懇願する。
「助けてください」
「た、助ける? いったい、何から……」
 突然の嵐のような夕立が過ぎ去った後、まだ強い日差しのもとでは陽炎が揺らめいている。
「帰る場所が、ないんです。だからあなたの家に泊めさせてください」
「そんな、急に言われてもさ、」
 少女の手を解こうとするも、彼女は必死にその手を離すまいと抵抗していた。
「俺たちは縁もゆかりもない他人同士だから、急にそういうわけには……」
「あなたしか、いないんです」
 困った。実に困った。翔汰は項垂れてそこで完全に心が折れてしまいそうになる。しかし、何の事情も、まさか名前も知らないような女の子を家に泊めるわけにはいかない。
「……君、名前は?」
「つきは。池園月芭(いけぞのつきは)。あなたは?」
 月芭は希望の色が混ざる瞳で、そんなことを尋ねる。
「俺は唐木翔汰。それで、池園さんは……」
「月芭って呼んで。私は、翔汰さんって呼びます」
「そんな、呼び名なんて」
「呼んでください」
 理由も知れぬ気迫に押されて、翔汰は引き攣った顔で首を縦に振った。
「じゃあ月芭……ちゃんは、どこから来たの?」
「ずっと遠いところからです」
 板についたようなはぐらかしの言葉。翔汰の反応に微かな希望を感じているのか、今度は板についたような作り笑顔を向けてくる。
「それくらいはわかってる。この辺りで月芭ちゃんが着てるセーラー服は見たことがない。ということは君、家が遠いはずだ。そこまで送ってあげるくらいは責任持ってしてあげるから、ちゃんと教えてもらいたい」
「私、お金ありません。け、携帯もないです。このバッグに入ってるもので全部です。だから帰れません」
「わかった、お金くらいは出す。親に連絡しないといけないなら俺のを使えばいい。じゃあ帰ろうか」
「嫌です。翔汰さんの家に泊めさせてください」
「……どうして」
「いま家に帰っても、意味がないからです」
 翔汰は冷たいくらいの冷静な自分自身を自覚している。だから彼女を自宅に来さすわけにはいかない。
「よく考えてくれ。俺はもうとっくに成人した社会人、君はまだ成人もしてない高校生。これは俺の保身だけど、そんな状況になって変な噂とか立てられるのは御免なんだ。君にとってはようやく声を掛けてくれた俺が貴重かもしれないけど、あまりに短絡的だとは思わないか」
 月芭は素朴な瞳を真っ直ぐ翔汰に向けて、スカートの裾を握りしめていた。
「……それは、一度周りを見渡してみても言えますか」
 と、翔汰は怪訝な顔をして少女から目を離した。
「あのぅ君、さっきから誰と話してるんだい? 独り言かい?」
 奇妙なことを言う中年男性がそこにいたからだ。
「誰と? 独り言? それってどういうことですか」
「いや、こっちが聞いているんだ。バス停の前でそんな不気味なことされたら、おっかなくて並ぶに並べないよ」
「不気味……」
 翔汰はそして、中年男性以外の周囲の状況を把握した。通りがかる全ての人が漏れなく、翔汰のことを奇妙な目をして見ている。
 すかさず、月芭へ視線を戻す。そこには小首を傾げて翔汰の顔を覗き込んでくる少女が確かにいる。
 狐か狸か猫に化かされたのでなければ、これは何だ。
「状況が変わった。……とりあえず俺んち来て。話はそれから」
「はい」
 声を弾ませるその少女の手首を掴んで、翔汰は足早にその場を離れた。

          2

 何から話を進めるべきか、山積する問題にどう片を付けていくか。頭を抱える翔汰を見て、その空気を読むように月芭は「シャワー、借りてもいいですか?」と提案した。
 時間を与えられた翔汰だったがしかし、自宅のシャワーを高校生の女の子が使用している淑やかな流水の音が、彼の心をかき乱す。考えがまとまるはずもなかった。
「お借りしました」
 月芭は脱衣所からリビングの方へやってくると、シャツの中身が見えてしまわないように左手で首筋を押さえながら、深くお辞儀した。
 制服のままでいさせるわけにもいかないので、適当なシャツと、下はステテコ。翔汰の物だ。
「……女の子に質問していいことじゃないだろうけど、身に着けてるものは色々大丈夫かな」
「はい、大丈夫です」
 色々というニュアンスをたぶん彼女は理解した。屈託のない笑顔に背徳感を抱く。
「そっか。まぁ適当にくつろいで。お構いできないけど」
「何かするんです?」
 少女の口調には特徴がある。言葉の意味の区切れで一拍待つような、物腰柔らかな語り。
「とりあえず、夕食かな。ただの男飯だけど、家に上げたからには何ももてなさないわけにはね」
「それなら私に任せてください」
「いや、それは申し訳ないよ」
「無理を押し通してお願いしてるのは私の方ですから、できることはなんでもやります」
「いや、年下の女の子にご飯作ってもらってるようじゃ、まるで俺ダメ男みたいじゃないか」
「私がします。私にさせてください!」
「……わ、わかったよ」
 世間の目は許してくれないかもしれないが、お天道様は許してくれるだろう。翔汰は月芭自身の状況に鑑みて納得する。
「でもご飯も炊いてないし、そんなに食材があるわけでもないし」
「翔汰さんは、ゆっくりテレビでも見ながら待っててくださいっ」
 お風呂上がりの上質な香りを漂わせて、翔汰のすぐそばまで近寄り、彼女は半ば強引に座椅子に座らせる。タオルを首にかけて踵を返す様があざとい。
「じゃあごめん、お願いします」
 そして月芭は、どこか満足そうにキッチンへ向かう。
 翔汰の住むマンションは1Kという間取りになる。玄関から入って左側のキッチン、その反対側には距離を取ってトイレや風呂場という配置。奥に進んでスライド式の扉がある敷居を過ぎると十畳のリビングが広がり、テレビにベッドに二人掛けくらいの座椅子ソファと、一人暮らしには余裕を持って過ごせる空間になっている。
 自室から見えるキッチンに立って女の子が料理している姿を見るのは初めてだったと、ふと気付く。恋愛からは随分と遠ざかったものだ。遥か遠くの記憶のようで、思い出すのにも心のどこかが痛むようで、無意味な感傷に浸っていると月芭が呼びかけた。
「冷凍のごはん出していいですか?」
「その辺りにあるものなら何でも使ってくれていいよ」
 消費期限ギリギリの卵とか牛乳とか、息抜きの缶ビールとかチューハイとか、そういう物を見せられて、表情ひとつ崩さない。
 互いに無言のまま沈黙をかき消すようなテレビ番組が流れる。しだいに油が跳ねる小気味良い音が騒がしくなり、煮詰められた醤油や生姜の香ばしい匂いが部屋中を包む。
 月芭の作る料理に期待で胸を膨らましていると、彼の携帯が着信音を鳴らした。
「姉ちゃんか」
 発信元を確認して呟く。月芭もその様子を見ていた。
「もしもし、どうかした?」
「あんた、元気してる?」
 電話口の姉の声は、いつものように弟に対しても攻撃的だった。
「これといって変わりはないよ」
「そ。それであんた、お盆には実家に帰るのよね?」
「休みが取れればね」
「八月に入ったのにまだ休み取ってないって帰る気ないじゃないの」
「いや帰る気はあるんだけど、俺だって忙しいし、それにべつに今年じゃなくてもさ」
「そう言い続けてもう三年ね。この間家に顔出したら、お父さんもお母さんも翔汰はいつ帰るんだって聞いてきたわよ」
「姉ちゃんが頻繁に帰りすぎなんだよ。もう社会人なんだから、これが普通だって」
「急に常識人ぶらないでよ。あんたは大人になったつもりでも、親にとって子供はずっと子供のままなんだから」
「姉ちゃんこそ妙にわかったような口ぶりしてるよ。まだ子供いないのに」
「私にはあてがある、あんたにはあてがない。この差ね。あんたも結婚すればわかるのよ」
「わかったよ、休みが取れれば帰りますって」
「実家にはちゃんとあんたから電話しなさいよ」
「はいはい」
「それから、今度あんたの家行くから」
「は? またどうして」
「お父さんとお母さんに頼まれたからよ」
「はぁ、めんどくさ……」
「ちゃんと実家に顔出さないあんたが悪いんじゃないの」
 正論を叩きつける姉、出来上がった麻婆豆腐を優しくサーブする月芭。翔汰は、この少女を前にして何の気なしに姉と電話してしまったことを後悔することになる。
「ちょっと甘口にしてみました」
「翔汰! いま! 女の声! 聞こえたよね!」
 頭を斜めに向けて微笑む月芭、電話口で絶叫する姉。どちらか一方を選べと言われれば翔汰は迷うことなく肉親を切り捨ててしまえる。
「いまのナシ! 今のは姉ちゃんの幻聴だから! じゃあおやすみなさいっ!」
 誤解を解くにも下手な弁明をするにも、一から会社を立ち上げるくらいの労力がかかりそうで、翔汰は早々に電話を切ってしまう。
「いまのはお姉さんですか?」
「……うん、そうだよ」
 月芭の顔を見て苦い顔をする翔汰は、目の前の美味しそうな麻婆豆腐を見てやっぱり溜息をつきたくなった。でも、空気を読んでくれよなんて口が裂けても言えない。
「何の話をされてたんです?」
「家族の会話だよ。帰って来いって言われたり、今度うちに来るって話だったりさ」
「翔汰さんのお姉さんって、どういう人なんですか?」
「中学校の英語の先生をしてる。口調は厳しいし正論ばっかり捲し立ててくるけど、まぁ普通の人だよ。俺より三つ上で、まともに結婚もしてるし」
「今の電話の感じからすると、そんなに仲が良さそうには思えなかったんですが」
「特に悪いってわけでも……、ってかこんな話して楽しい? 折角作ってもらったのにご飯が冷めちゃう」
「じゃあ続きは食べながら聞かせてください」
 翔汰は上手く話題を逸らせなかった。


 女子高生と隣り合わせで、彼女の作ってくれた夕食を食べる。二人掛けの座椅子ソファ。簡単に手が届いてしまう距離。どんなに願ったって、そんな都合の良すぎる夢は見られる気がしない。夢で叶わないようなことが現実で叶うはずがない。
 いや、ともすればこれは、紛れもない現実を突きつけられているだけなのか。
「おいしいですか?」
「おいしいね、お世辞とかじゃなく……」
「お世辞は嫌です」
「はい、美味しいです。以上です」
 純粋な言葉だけ。余計な言葉はいらない。まるで余計な調味料を使わず整った味に仕上げられているこの麻婆豆腐のように……。それで月芭は満足そうな笑顔を見せてくれる。ならば翔汰も、気を遣っている場合ではない。
「あのさ月芭ちゃん、そろそろ君自身のことについて教えてくれないかな」
「私は高校三年生の受験生です。志望大学はまだ決めかねてます。頭はあんまり良くありません。学校でも下から数えた方が早いと思います。でも料理とか洗濯とか、家事全般はとっても得意です。だから翔汰さんのお役に立つと思います」
「……ごめん、なんか色々言いたいことあるけど一番肝心なことが抜けてる」
 率直に話すべきなのだろうと翔汰は気付いた。遠回しなニュアンスで伝えようとしても彼女のペースで話させてしまうだけだ。
「何を言えばいいですか? 具体的に質問してください」
「――どうして俺以外には君の姿が見えなかったんだ?」
 夢ならば、嘘ならば、冗談ならば、もう十分だ。いつもはあんなに居心地の良い我が家が、ゆらゆらふわふわして、落ち着かない。焦点が定まらない。
「私は、未来から来た翔汰さんのお嫁さんです。タイムマシンで過去に来た未来人は、その時代の人たちとの接触を最低限に抑えないといけないんです。だから、未来の特別な技術を使って他の人には見えないように……、」
「ウソつけ」
「……」
 月芭は不満げにそっぽを向く。
「そもそもその理屈からして俺に会いに来たんなら、最初俺が声を掛けたときの反応が矛盾してる。本気で驚いてたよ。あれは見えるはずがないのにって反応だった。と言うか、ごめん。そんな突拍子もない話、信じられるわけがない」
「……そういうことなんです」
 翔汰が指摘すると、彼女は元も子もないことを言いだす。
「そういう?」
「翔汰さん、私が何を言っても信じてくれないですよね」
「え……」
「私が本当のことを言っても、翔汰さんは認めてくれない。私はたぶん、邪魔者だから。翔汰さんの部屋にとっては、余計なインテリアだから」
 彼女の言葉に心臓が跳ねる。歓迎されない空気というのは、当人は隠しているつもりでも、やっぱり伝わってしまうんだろう。翔汰もそれを知っている。
「……本当のことを言っても認めないっていうのは、誤解があると思う。いくらなんでもちゃんと辻褄の合った説明をされたら、俺だって信じるしかない」
 自分で補足してから気付く。他の人間には姿が見えない理由を、辻褄が合うように説明できるわけがない。それはノーベル賞を取るような科学者にだって不可能なことだ。
「余計なインテリアを否定してはくれないんですね……」
 月芭は今にも消え入りそうな声で言った。噛み合わない会話に、翔汰は天井を仰いだ。
「ごめん」
「……っ」
 一瞬、翔汰は何をされたのか理解できなかった。綺麗な黒髪。今までで一番近くに月芭がいる。彼女は自分のおでこを翔汰の肩に押し付けていた。
 そんな至近距離のせいで、抗いようのない匂いがする。女の子独特のその良い匂いには、翔汰の家のシャンプーの香りも混ざっていて複雑極まりない。
「ちょ、月芭ちゃん……」
「お願いです。私は翔汰さんを信じるしかないから、翔汰さんも私のことを信じてください」
 その声は今にも泣き出しそうで。
「俺を……」
 俺を、信じるしかない、のか。
 最後の砦。存在を認めてくれる唯一無二の人。
「おねがいします」
「――これは最終確認くらいのつもりで答えてほしい。……さっき俺の姉ちゃんからの電話で月芭ちゃんの声が向こうにも聞こえてたよね。でも、バス停にいたときは誰も声すら聞こえてなかった。それって、どういうこと?」
 人を本気で信じるつもりになるなら、人の良い翔汰にだってそれなりの覚悟がいる。リスクが伴う。心の引っ掛かりは、少ないに越したことはない。
「……翔汰さんが見つけてくれたからだと思います」
「俺が見つけたってだけ?」
「翔汰さんが見つけてくれるまで、誰も私に気付かなかった。見向きもしなかった。もしかしたら見えている人もいたかもしれないけど、声を掛けてくれないなら同じです。見えている人が他にもいたんだとしたら、お姉さんが私の声に気付いてもおかしくはないかもしれません」
 翔汰は数秒黙って聞いて、
「そっか」
 と相槌を打った。
「今の説明で本当にいいんですか? 全然、根拠も何もないのに……」
 月芭は肩から額を離して、翔汰を下から見上げる。
「それが違っていようが正しかろうが、今は確かめようがないよ。それならまずは、月芭ちゃんの感覚を信じてみるしかない」
「翔汰、さん……」
 甘く、優美な囁きに、翔汰は体が反応してしまう。
「と、とにかく、事情をちゃんと整理できるまではうちにいてもいいから、もうちょっと離れてくれ」
「ご、ごめんなさい……」
 慌てて髪の乱れを直しながら、月芭はさっと翔汰から離れる。
 翔汰は話題を戻す。
「……それにしても、姉ちゃんに聞かれたのは本当にマズいかもしれない」
 身の危険があるという意味で一番の問題は、おそらくそれ。
「ごめんなさい、聞こえないだろうって、聞こえてもイタズラで済むだろうと思って……」
 月芭は少し乱れた前髪を直しながら、気弱そうに謝ってくる。
「いいよ、大丈夫。料理を任せてこんなとこで電話してた俺も失礼だったし、女の子の声が聞こえたところで、月芭ちゃんを見せない限りごまかせるだろうし」
「でも、最後の方で翔汰さんの家に行くって言ってましたよね」
「それが問題なんだよねぇ……」
 翔汰は心の中で憤慨した。この世界のどこら辺に、今更姉から私生活について小言を言われなきゃならない道理がある? もう二十五歳なんだから、放っておいてくれていい。ここまで来たら赤の他人も同然だろうに。
「翔汰さん、他に兄弟は?」
「俺は姉一人だけ。歳もまあまあ離れてるから、あんまり兄弟げんからしい兄弟げんかもしてこなかったけど、無駄に世話焼きでね。正直鬱陶しい」
「お姉さんの名前は?」
「静恵(しずえ)。静かさの欠片もない人間だけど」
「それ、お姉さんの前で言えるんですか?」
「言えるわけない。プライドが無駄に高いから」
「大変そうですね……。ちなみに私は一人っ子です」
「へぇ、いや、イメージ通りともなんとも言えないけど、そうだね。そういう情報をこれからも教えてくれると助かるかな」
「私を信じるために、ですか?」
 そうそう、と頷いて翔汰は食事を再開する。さっきまでのやりとりですっかり湯気が消えてしまったが、麻婆豆腐の美味しさは変わらない。
 箸を置く月芭にもう食べないかどうか確認を取り、翔汰は一篇に麻婆豆腐と白飯をかき込んで平らげてしまう。美味さに再度感心しながら気付く、今日これはソファで寝るパターンだ。ソファベッドと言うくらいだから、寝ても問題はないのだろうが。
「……あのさ月芭ちゃん、明日になったら家に帰れる可能性っていうのはあるわけ?」
「今のところは、ないです」
「さっきの会話を聞かれて、俺が言えた立場じゃないけど、親御さんは心配してるよ」
「……ほんとにそれ、言えた立場じゃないですね」
「事情があるなら、言える範囲でいいから聞いておきたい」
 柔らかく苦笑する月芭。酷だろうか。むしろ、そんな優しさは無用だっただろうか。
「――私、本当に小さいころから、ずうっとおばあちゃん子だったんです。一緒には住んでませんでしたけど、おばあちゃんの家に行ったときは、本当に楽しくて……。その頃の思い出は、私の宝物です」
「そのおばあちゃんって今は……」
「大丈夫です。おばあちゃんは、私がここにいることを知ってます。今、私を見ることができるのはたぶん、翔汰さんとおばあちゃんくらい……」
 踏み込む加減が強くなって、余計な勘繰りまでしてしまった自分を翔汰は戒めた。彼女を追いこむ物は純粋に彼女を追いこむ物その物であってほしい。勝手な想像や、希望的観測、他でもない翔汰自身の失言が、ただでさえはっきりしない彼女の中の敵を、真っ暗なモヤで隠して大きくさせてしまってはいけない。
「……月芭ちゃんは、おばあちゃんのことが大好きなんだね」
「私の、世界で一番好きな人です」
 翔汰は、彼女のその確信を持った目を見て、少し安心した。


 取りとめもない会話を続けながら食器の片づけも終わる頃には、夜もすっかり更けてしまった。翔汰は妙な気を起こさぬよう冷水シャワーを浴び、気を引き締める。体を拭いて寝巻きに着替えている途中で玄関に置かれた月芭の鞄に目が行った。
 リビングに戻り、その話題を出す。
「あのバッグって、学校指定のものだよね?」
「はい。そうですね」
 黒と深緑色を基調にしたスクールバッグは、さほど容量を持たない手提げタイプの物。若干の使用感が見られるそれは、右下に校章の刺繍がある。
「私立桃李(とうり)高校だね。良い学校だ」
 もっと注意深く観察しておきべきだった。校章の下には、活字体ではないが、高校英語止まりの翔汰にも読める字体でTORIと。
「私立桃李だと、ここから電車で四駅ってところかな」
「……学校に連行するってことですか」
「ん」
 面食らってしまって無言のまま月芭を見つめる。
「えっ、ち、違うんですか?」
 翔汰は言葉の選び方を間違えたようだ。早とちりしてしまった月芭は、だんだんと頬を赤く染めていく。
「ちがうちがう。ごめん、そういうつもりじゃなかった。まぁどうせ分かることならもっと早く言ってほしかったってのはあるけど、連行も連絡もする気はないよ」
 ならどうして、と言いたげな月芭を制して、翔汰は続ける。
「把握できてるだけで安心できるからね。どこに通ってるのかも知れない女子高生と、県下の有名私立に通う女子高生とじゃ、聞いた時の全然印象が違う」
「そんなに良い高校でもないんですけどね」
「じゃあ悪い高校なの?」
 翔汰は何の気なしに尋ねてしまうが、女子高生の諸事情はもっと考慮すべきだった。
「……だって、女子はみんな腹黒いし、男子は何も考えてないバカばっかりだし、彼氏彼女の一人もいないと余計なお節介されるし、変に個人的なことまで入り込んでくるし。何よりそれが正常な状態みたいに要らないアドバイスしてくる教師がどうしようもないし、」
「おーけー、大丈夫。月芭ちゃんにとっては居心地の良い場所じゃないってことは理解した」
 翔汰にとっては彼女がそんなことを言いだしたのは意外だった。体面では穏便に済ませていても、心の底ではマグマが煮えたぎるほど苛立っている。
 長話になりそうだと察知して、翔汰は月芭の座っているソファベッドの方へ行く。
「でも、高校三年生の夏にもなると、どんなに怠けてた人も危機感が出てきて、みんなピリピリしだすんです。人間関係もぐちゃぐちゃで。大半は明日から二泊三日で勉強合宿に行くんですけど、私は行きません。代わりに、こっちの塾に来ることにしたんです」
「なるほど。今日こっちの方に来てたのも、その塾に行くためなんだよね?」
「はい。塾の夏期講習は今日からでしたから」
「それは月芭ちゃんの家から毎日電車で通う予定だったんだよね?」
「……まぁ、そうです」
 一瞬言い淀んだ月芭だったが、ほぼ違和感なく肯定する。
「姿が見えないんじゃ、夏期講習も行きようがないね」
「行ったところで成績が上がるとも思えません。時間の無駄をしなくて済んだんです」
「勉強は苦手って言ってたけど、何が苦手なの? もしかして全般?」
「理系科目なら学校の平均くらいはできます。でも、文系科目が全然できなくて」
「文系科目だったら、俺が教えてあげてもいいよ」
「……それ、本気で言ってますか?」
 月芭のニュアンスは、翔汰の自惚れを嘲笑するものではなくて、単純に彼の発言に対してその本気度を確かめるためのものだ。
「これでも国立大の文学部は卒業してるもんでね」
 翔汰には、文系科目の衰えはないという根拠のない自信があったのだった。
「お願いできるなら、お願いしたい、です。……ううん、ぜひお願いします!」
「よし、なら明日の夜からは俺と文系科目の勉強だな。勉強道具はカバンに入ってる?」
「最低限しか……。教材が入るほど大きなカバンではないですから」
「じゃあそれは俺が買ってこようか。せっかくならちゃんと計画を立てて教えたいし。……あと必要なものと言うと、」
「あの、そもそも私、ずっと翔汰さんの家にいるわけにはいきませんよね……。昼間は出てなきゃいけないから翔汰さんの帰りを待たないと」
 立ち現れた問題も、翔汰には些末事に感じられた。何を月芭との線引きにするべきか、翔汰は掴み始めていたのだ。
「そうか……、じゃあ合鍵を渡すよ」
「え、いいんですか?」
「君のカバンの、一番大事な物をしまっておく場所に入れておいてくれればいい」
「わかり、ました……」
 翔汰の発言は無自覚のものだ。他意も本意もない。
「まぁ遅くなりそうだったら電話かメールで……、って携帯失くしたんだっけ?」
「あ、それ、嘘です……」
 彼は頭を抱え、目を閉じて嘆息する。少女の必死さがもたらした罪なき嘘は、二人の関係の不安定さを象徴している。
「俺の気を引き留めたい一心で?」
「ごめんなさい。でも財布にお金は全然入ってないし、携帯の充電も切れてたし、……騙すつもりはなかったんです」
「状況を整理できてないか、まだ言える段階じゃないかのどっちかなら、俺も無理に追及はしないよ。でも、嘘は良くないな」
「ごめんなさい……」
 萎れていく少女から、翔汰は視線を逸らさずにはいられなかった。
「……携帯の充電だけはしておこう。俺のアンドロイドだけど大丈夫かな」
「わ、私もアンドロイドなので、大丈夫だと思います」
 月芭が体を反転させながら立ち上がって、カバンの方へ向かう。動くだけで立ち上るような香りを印象付けてくるのは、もはや犯罪に近い。
「充電器、使えそうですね」
 カバンを持ったままベッド付近の充電器で試してみる月芭。
「他の持ち物には何か大事な物はある?」
「そんな大事な物はないと思いますけど……」
「一応確認しておきたいから、何かあるなら見せてほしい」
 それは女子高校生にとって、地雷に近い発言だった。
「だ、ダメです! 女の子のカバンの中身に興味があるなんて、変態みたいですよ!」
「へ、ヘンタイ……。いや、あくまで必要事項だからね、少しでも把握しておきたいと思っただけでね……」
「嫌です! 翔汰さん、これだけは譲れませんよ!」
 これだけは、と叫び直しながら、バッグを胸で抱きしめて見せる月芭。女の子の機微がわからない男は、就寝時ソファベッドの上でこのことは一生覚えているだろうと思った。
 これが唐木翔汰と池園月芭の出会いの日だった。

          3

 次の日、出勤した翔汰は寝不足も吹っ飛ぶ慌ただしさの中に放り込まれていた。
「先方に謝罪の電話してないのかっ  もういい俺がやっておく!」
「ひとまず一刻でも早く発送すんのが道理だろうっ。トラックの手配? んなもの相談してくる前に駆けずり回って探して来い!」
「そこをどうにか……、えぇ、四分の一……いや五分の一でも結構です。どうにか回していただけないでしょうか……っ」
 普段も静まり返っている職場というわけではない。しかし、平常時の五倍は電話が鳴り、おっさん連中が全身を汗で濡らし、まだ仕事慣れしていない新人社員に全く居場所がない状況というのは、ある意味壮観だった。
「えっ、トラックの担当者ですか? こ、こちらでもその個人との事情聴取まではさすがにまだ……。あぁいえ、確認作業は行っているんですが、なにぶん警察も関わっていることなのでその辺り後回しにされてるみたいで……。ほ、本当に申し訳ありません!」
 出勤直後から、簡単な説明だけされて翔汰も対応に駆り出されている。
 出版業界には、出版取次業者という所謂「卸売り業者」がいる。出版社と小売店の間で、注文、返品、在庫など様々な面倒を引き受ける流通業者のことである。
 翔汰の勤めるのは特にこの取次への搬入を行う部署、つまり出版物を世に送り出す出版社の窓口のような立ち位置である部署である。
 現在の混乱はこの流通に、ある問題が発生したために引き起こされた。
「先輩ぃ、もう僕はダメかもしれないですぅ」
「担当者が後始末を放棄してどうするんだよ! お前がやめたところで誰かに仕事が降りかかるだけなんだ、黙ってやれ!」
「そんなこと言ってもトラックの事故なんて僕にはどうしようもないじゃないですかー。防ぎようも責任の取りようもないですよー」
 弱気の後輩・柳(やなぎ)が、上司である翔汰に泣きつく。普段は傲岸不遜な態度が鼻につく自信家で大卒一年目とは思えぬ要領の良さで部署内では一定の評価を受けている。が、そういうやつに限って外的な要因の混乱には弱い。
 その外的な要因というのはしかし、生意気な後輩にも同情したくなるものではある。
「だって、玉突き事故でトラックの積み荷が台無しになるって、どう考えたって運転手のせいじゃないですか!」
「取次に出す本がなくなったことは事実だ! ないものはない! だからあるものを探せ!」
 取次業者と一口に言っても、もちろん一つに限られているわけではない。ビールや携帯電話に見られるような寡占市場ではあるが、出版社側はそのいくつにも出版物を委託している。
「唐木! お前のとこはどうだっ?」
 汗だくの上司が翔汰を呼ぶ。
「せ、先方が激怒してます。書籍の状況を知りたいから取次のトラック運転手のことを教えろとまで言いだす始末で……」
 翔汰は、出荷が遅延する旨を、贔屓にしてくれている大型書店へ説明していたのだが、書店側としても売れ筋商品が確保できないという状況にあり、簡単に遅延を納得するわけにはいかないようだ。
 今回に限らず、ある地域の書店に本が届けられない状況になると、解決策は二つある。一つが別の地域や別の取次業者に配る予定だった本を分けてもらう。そしてもう一つ――。
「唐木、こっちも駄目みたい。夏商戦の真っ只中に増刷を引き受けてもらえるわけがなかったけど」
 歯切れよく翔汰に話を回すのは、同期の秋坂(あきさか)だ。語気こそ男勝りに聞こえるが、種も仕掛けもない、れっきとした女性だ。翔汰の主観では顔立ちもなかなかに整っている。
 その秋坂が言っているのが、二つ目の手段、強行的な増刷である。しかしこれをこの時期に通すというのは、強行も強行、無理も無理だ。
 夏のコミックマーケット。今や日本の夏の風物詩の一つと言っても差し支えない大規模イベント。日本津々浦々の印刷所は、無謀なサークルの締め切り一杯のスケジュールに付き合わされ、ただでさえ余裕がない。現在ではコミケ専用の入稿枠ができるなど、混雑緩和が図られているが、お盆時に動いているのは何も出版のシロウトだけではない。
 要するに、普通の出版社だってお金の動くお盆を狙って上手く儲けたいのだ。彼ら出版のプロは、低迷する紙の本の売り上げに歯止めを掛けるためにも、一冊でも多くの本を売る使命を担っている。それが、出版業界の夏商戦だ。
「えっ、もういらないって……、か、勘弁してくださいよ。保証はありませんが、増刷できないものじゃないはずなんですから!」
「本当に申し訳ありません! 二週間……、いや十日中にはなんとか……。えっ、ちょっと、切らないでください!」
 電話口で切羽詰っているプロたちにはもはや、その面影は微塵も感じられない。とそこで、
「唐木さん、秋坂さん、ちょっと抜けませんか」
「なんだよ柳」
「このままじゃらちが明きません。一回僕らだけで作戦会議がてら休憩です」
「柳、あんた、ここから逃げ出したいだけじゃないでしょうね」
 秋坂の棘のある口調の釘差しに、柳は不自然に口角だけを上げて見せる。
「他に落ち着いたスペースがないからこそ休憩室でするという名目の作戦会議です」
 翔汰は女同僚と顔を見合わせ、短く嘆息した。


「一番の問題は、不足分をどう補うかってことです」
 床面積にして八畳ほどの休憩室には、流し台とコンロ、お茶入れ時にも使える机椅子が備えつけてある。年下の柳が最初にそそくさと腰を下ろし、どこか癪に感じた翔汰と秋坂は壁を背もたれにして立ったまま。
「そんな基礎も基礎の話はいらない、わかりきっているから」
 簡潔さを求める秋坂の口調はたまに怖い。しかし、柳はそれを物ともしない。
「それは現状把握がきちんとできている場合です。子供が駄々を捏ねるみたいにあちこちに電話をかけまくることが正常な状態だとは到底思えません。つまりですね、このまま取次や小売店に在庫を分けてもらえないか頼んでいてもほんの一部のお人好ししか聞き入れてくれないのに、それでもやり続けるのは効率が悪すぎるって僕は言いたいんです。別の方法だと増刷に期待するのもありますけど、こっちもお人好しがいないと無理です。印刷所にとってはハイリスクローリターンですから。この状況に鑑みるに、これは僕たちの商品価値の低さに原因があるはずです。無理を押し通せるほどの価値がないなら、自分たちで価値を見出すしかない!」
「……一理ある」
 翔汰は思わず頷いていた。
「でしょう! だから例えばですね、夏商戦の新しい目玉を打ち出すとか!」
「待って。柳の情熱と理屈はわかったけど、それはどうやって実現するつもり? 私たちの仕事は営業。既にある商品を売り込むこと。編集や企画とはそもそも職種が違う」
「そ、そうだそうだ」
 秋坂の指摘に翔汰はあっさりと賛同する。
「いやいやいやいや先輩方! そんな他人頼みでいいんですか? 僕らのミスは僕らでなんとかしなきゃダメでしょう! 僕らには営業で磨いた手腕そして丈夫な足腰があります。体だけは頑丈なんですから、これを活かさない手はないでしょう!」
 後輩の直情的な精神論に軽く気圧されながらも、翔汰は改めて疑問を投げかける。
「なぁ柳、お前の熱意と理論にはだいたい賛成できるんだが、お前自身は具体的な案を思いついてるのか? どういう系統で勝負するとか、新規層獲得にしても何から始めていくとか」
「それについては、これから考えようっていう……」
「肝心なところノープランかよ」
「び、ビジョンならありますっ」
「どんな」
「先輩方もきっと知ってるでしょう、うちの出版社の黄金期! 直木賞作品を世に輩出し、本格派文学作品を中心に隆盛を誇った八十年代! しかし今となってはライトノベルやコミックレーベルに押され、売り上げ部数は年々右肩下がり。僕はですねぇ、あの輝かしい時代をもう一度この手で復活させるためにこの出版社への就職を選んだんです」
「志望動機を聞いたんじゃない」
「あっそうでした。だ、だから、そのイメージなんです。できることなら、今回を機に、僕の目標達成の足掛かりになるような、大きな企画を立ち上げたいんです。って言うか、先輩方は二人とも、営業がやりたくて出版社に入ったんですかっ? 少なくとも僕は違いますよ。出版社と言えば内容に関わる編集の仕事でしょう。その素質があるって今回のことで認められれば取り立ててもらえる可能性だって見えてくる。これは願ってもないチャンスなんです!」
「じゃあ兎にも角にも内容ね。具体的なモノを持ってきたときは改めて話を聞いてあげる」
 大言壮語を言ってみせる柳に、秋坂は冷たいとも思える激励。
「おいこら柳っ、担当のくせして悠長に休憩とはどういう了見だ!」
 そこに通りかかった上司が柳に喝を入れた。翔汰と秋坂にも同じ事が言えるはずなのだが、まさに渦中の人物がいるためか、二人へのお咎めはない。
「ああ、ちょっ、まだ話が終わってな……。じゃ、じゃあお二方! 近いうちに、できれば明日! 具体案を用意しておきますのでしばしお待ちをぉ」
 強制連行されながらも最低限の要件を伝える柳はとても楽しそうに見える。
「――どう思う? 柳くんの提案」
 秋坂は連れて行かれる柳の方に顔を向けながら、翔汰を一瞥する。
「どうもこうも、現実的じゃない。理想論だし、普通に考えて叶いっこない。でもな……」
「ちょっと乗ってみたい気もする、でしょ」
 彼女は顎に手をかけ、挑発的な笑みで翔汰を嗾(けしか)ける。
「……しかしまぁそれにしたって内容がなさすぎる。あいつ、本当に勢いしかなかっただろ」
「要は『失った信用を取り戻す』ことを重視すべきなんでしょ。柳は夏商戦を主眼に置いていたけれど、今からだと到底間に合わないわね。大型作家の未発表の作品を私たち自身で見つけられるなんて、夢のまた夢ね。都合よすぎる。きちんとしたヒット作を作りたいのなら、時間をかけて、作家との相談を繰り返して洗練させていかなくてはならない。これを一足飛びにしようだなんて、プロのすることじゃない」
 プロとしてのプライド、物作りに対するこだわり。
「違いない。そうでないと、人の心は動かせない」
「柳はあの調子だから本気で私たちを納得させるために案を持ってくるでしょうね。でも、この夏で勝負しようって考えてるうちはまずまともな案は無理。だからこれは私たちで彼を操作してあげるべきだと思うわけ」
「……操作するかは置いといて、秋坂はあいつの案に賛成なんだな?」
「私は唐木に任せようと思う」
「え? どうして」
「私だけが乗り気でも意味がないから。柳は唐木に相当心を開いているから、あなたが積極的に協力しないなら、彼にとっては意味がないのよ」
「そ、そうなのか……」
 気に入られることと舐められることは紙一重である。翔汰はそう理解する。
 翔汰には秋坂の内心が大方わかる。本当はやってみたくて仕方がないのだ。ただ、彼女の守っているキャラクターとか建前とかがすんなりとそれを許さない。翔汰のあとひと押しで彼女は簡単に動き出す。
「じゃあ、やってみようか」
「決まりね」
 生来の気質、先天的な性格。彼女のそれは、斜に構えたような生ぬるいものじゃなくて、貪欲な好奇心の塊、赤ん坊のような純真さである。それが垣間見える瞬間、翔汰はなんだか、彼女のことが可愛いらしく思える。
 ひと息つくと、彼女はその対極にあるようなものをスカートのポケットから取り出した。
「あら、ライターがない……。唐木、持ってない?」
 煙草である。
「持ってるわけないよ。俺吸わないし」
 使えないわね、と毒を吐かれ、翔汰は眉間にしわを寄せる。
「おいおい、そもそも社内は禁煙だろ。休憩室だからってタバコ吸おうとすんな」
「おじさん連中はいつもここで吸ってるけど?」
「……これでもお前の体を思って言ってやってるんだ。女性がタバコを吸ったら将来取り返しが付かなくなる」
「男が吸っても取り返しは付かなくなるじゃない」
 屁理屈じみているが、正論には違いない。しかし、女性蔑視とかそういうところから来る感情にほだされたわけではないと、彼女が正しく理解しているとは思えない。
「――でも、私のことを心配してくれたなら、最低限は言うわ。ありがとう」
 秋坂は如何ともしがたい翔汰の感情を汲み取ってくれるような笑顔を見せた。
「……よっぽど、タバコが好きなのか」
「かっこ良いもの」
「ずいぶん子供っぽい理由だな」
「人の好き嫌いなんて大概かっこ良いかかっこ悪いかで決まるでしょ」
「お前は体を悪くしてまで、格好良くなりたいのか?」
「愚問じゃない? それ」
「ぐ、愚問……」
 依存症などとは全く別の次元で喫煙しているという自負でもあるのだろうか。
「タバコを吸う幸せとそれ以外の幸せは、たとえ同時に成立しなくとも、別物だから」
 彼女の口調には、翔汰がまだ見ぬ優しい芯の強さが表れている。翔汰はそれに否応なく惹きつけられてしまって、しかし、喫煙者のこだわりを、彼は知りようもなかった。
「……じゃ、タバコも吸えないことだし、私は仕事に戻ろうかな。唐木も戻るでしょ?」
「あ、あぁ。……トイレ行ってから戻るよ」
「そう」
 顔が洗いたい気分になって、休憩室を出て秋坂とは反対側へ進む。

          4

 池園月芭という少女を棚上げしておくわけにはいかない。
 今朝、ソファベッドで覚醒した翔汰は、薄く施した化粧と朝食の支度を完璧に仕上げている少女を目の当たりにした。
 えぇ、と驚きの声をあげた翔汰に、おはようございます、と微笑みかけた月芭。朝食の並んだ机を挟んで女の子座りをしていた。お、おはよう……、と翔汰の返事が尻すぼみになってしまったのも仕方のないこと。
 それからごく当たり前のように朝食を向き合って食べながら、翔汰は一つ質問した。
「今日はこれからどうするの?」
「日中は自分で時間を潰そうと思ってます。他の人に姿が見えなくても、何もすることがないってわけでもありませんから。私自身のことを色々調べてみることにします」
「そっか。構ってあげられなくてごめんね」
「寝る場所とご飯の材料をもらっているだけで、私は十分ですよ。……あ、でも、一つだけお願いがあって」
「お願い?」
 月芭のお願いとは、お昼ご飯のお弁当を作らせてほしいということだった。もちろんそれ自体は問題ない。が、月芭が翔汰のお弁当も作りたいと言い出したことが問題で、それでは同僚に面倒な追及をされてしまうと却下された。
 ――午後六時、自宅の最寄り駅に到着した翔汰は、昨日も雨宿りで立ち寄った書店へ赴いた。
 国語総合と英語の記述式テキストをよくよく見分しながら、社会の選択科目のことを失念していたことに気付く。しかし、昨晩根拠のない自信に満ちていた翔汰も、それは国語と英語に限られる話であった。
 書店の後、スーパーで食材の買い込みをする。二人分の材料というのに戸惑いながらもどうにか買い揃えるが、想像以上の出費に財布が青ざめている。
 そして夜七時に迫るころ帰宅した翔汰は、玄関の扉が開いている事実にドキリとする。
「た、ただいま。帰りました、よ」
「あ、おかえりなさい。お邪魔してます」
 玄関をくぐると、中から少女の声と、塩コショウと野菜の合わさったような鼻孔をくすぐる匂いが出迎えてくれる。部屋は冷房がよく効いている。
 廊下兼キッチンには保温してある鍋が鎮座している。リビングからは月芭が顔を出す。
「もうご飯作ってくれてたのか。ありがとう」
「どういたしまして。買い物してきてくれたんですね。教材も買ってきたんです?」
「うん、社会系はまだだけど、国語と英語をね。国語と英語は夏で完成させないと入試までに間に合いっこないから」
 冷蔵庫に食品を入れつつ、得意げに大学受験の基本を口にしている。
「ありがとうございます。じゃあ勉強は夕食を食べてからにしませんか」
 翔汰は頷いて、キッチンの棚から茶碗や平皿を取り出してくる。
「今日は何を作ってくれたの?」
「ロールキャベツです」
 尋ねながら鍋の蓋を持ち上げると、月芭の声とともに今日の主役が現れる。透き通るようなみずみずしいキャベツとそこから薄っすら見える、赤のような茶のような……。肌色と言うべきか、中身はベーコンである。翔汰は思わず感嘆の声を上げる。
「おー、俺、ロールキャベツは大好物だよ」
「ふふっ、満足してもらえそうで安心しました。はい、これ、菜箸です」
 そのまま鍋から食べてしまいそうな勢いの翔汰に、月芭は胸を撫で下ろす。
「じゃあ月芭ちゃんはご飯よそっておいてよ」
 この日テーブルに並んだのは、ご飯とお味噌汁、メインがロールキャベツと湯煎で解凍した東坡肉(トンポーロ―)だった。ロールキャベツだけでダルビッシュのような大エースが君臨しているにも関わらず、東坡肉とくれば田中将大まで連れてきたようなものである。
「いただきます」
 リビングで手を合わせ、生産者のみなさんに感謝。ロールキャベツにかぶりついていく。ロールキャベツから溢れてくる濃厚なスープが、血流のように巡って体中を温めてくれる。
「ほんとにお世辞とかじゃなく月芭ちゃんは料理が上手だね。これは美味しい」
「ありがとうございます」
「で、東坡肉は、こうやって一回ご飯の上に乗せて、タレを吸わせてから……」
 東坡肉とは、豚の角煮のこと。ご飯と一緒に、その肉の塊を一気にかき込んでいく。こういった瞬間に、「生きているんだ」と感じずにはいられないのが翔汰の性分である。
「そっちは冷凍食品なんですけどね」
「俺が解凍して自分で食べるより、ずいぶん惨めな気分にならずにすむよ」
「褒めてるつもりですか、それ?」
 率直な感想は、もちろん必ずしも月芭を満足させるものとはならず、翔汰は味噌汁を一口啜ってから、別の話題を切り出す。
「それで、今日一日は何をしてたの?」
 月芭の方はご飯を少量口に運んで、返答がないことを不満に思いつつも、質問には答える。
「今日は言ってた通り、街を回っていました。それで、なんですけど……」
「何かあったの?」
「――何人かの人には私のことが、見えている様子でした」
「……これはもちろん、良い事、なんだよね」
 少女の姿が見えないという事実は、あまりにも掴みどころがない。短絡的に彼女の姿が見える人間が増えたことを「良い事」だとしてよいものか、翔汰に確信はなかった。
「良い事だとは思いますよ。人混みの中で誰とも目が合わないのも、寂しいだけですし……」
「そうだよね。ごめん、なんか分かんなくなってた」
「大丈夫です。今は翔汰さんが私の作るご飯を美味しそうに食べてくれますから」
 頑なに月芭は、自分の役割を探していたようだ。
「……食べ終わったら、勉強しよう。受験生なんだし」
 それで彼女の救いになるというなら、翔汰は喜んで手を差し伸べよう。
「はいっ。よろしくお願いしますね」
 月芭が笑う。少女の寂寥感は、傷口にかさぶたが出来上がるように少しずつ治り始めている。
「今日、月芭ちゃんの姿が見えたらしい人っていうのは、どんな人たちだった?」
「目が合ったような気のする人が何人かと、実際に話しかけてきた人が一人でした。話しかけてきた人は、中年くらいのサラリーマンの男性でした。まだ昼前の時間帯で駅近くを歩いていたんですが、おじさんが私に道を聞いてきたんです。この辺りの地形にはあんまり詳しくないので答えられなかったんですが、会話は普通に成り立ちました」
「おじさんには月芭ちゃんの姿が普通に見えてたんだね」
「はい。あとは、四、五人しっかりと目が合ったような気がしました。でも全員が全員、話しかけてきたようなおじさんばかりだったんです」
「若い人ほど、認識してくれてなかった気がするってことかな」
「そういう風に感じられたんですが……」
「これはどうにも、確定的なことは言えないね」
 月芭のことを認識している人間というのは、実際、かなり限られた人間だけだ。翔汰と翔汰の姉の静恵、それから数人の中年男性。これらに見られる共通点を挙げるとすると、人間であることくらいしかない。
「いろいろ実験してはみるんですけど、これといった結果は出ませんでした」
「そっか……」
 月芭の今日の成果は、それくらいのものだった。話題も自然と場つなぎ的なものになり、食事が終わるまでもやもやとした空気は継続された。
 遠足が自宅に帰るまでなら、食事は食器を片づけるまで。それが終わると翔汰は、おもむろに書店名がプリントしてある袋から、本を二冊取り出してきた。
「月芭ちゃんのレベルがわからないから、まずは地方国立大レベルのものを買ってみた。冒頭に十五分目安の文章題があるから、とりあえず英語と国語、一題ずつ解いてみて」
「りょ、了解です……」
「じゃあ同じ空間に居ても邪魔なだけだろうから、なるべく静かにシャワー浴びてくるね」
「りょ、了解です」
 月芭の表情は強張っている。翔汰はシャワーを浴びながらその様子を思い浮かべては、今日も今日とて水流の温度を人肌以下に設定する。
 ややあって風呂から上がり、着替えを済ませてリビングに戻ってくると、月芭はまず国語の問題を解き終えているようだった。英文を前に沈思黙考の様相を呈している彼女を横目に、翔汰は国語の答え合わせを始めた。
「ん……?」
 採点の途中で青年から疑問符が漏れる。月芭がまだ英語の読解に精を出している最中、集中力を乱すような反応は慎むべきだと頭ではわかっているが、そういう非難はこの国語の答案の前ではさほど意味を成さないだろう。
「……」
 筆者の主張をいかに理解し、その内容をどう自分自身の言葉で表現できるか。評論文が苦手だというのは、理解力と表現力の二つのポイントにおいて不十分なのである。
 しかし、月芭の文系不得手は、その限りではなかった。
「え、英語、終わりました……」
 苦しそうな声をして、机に突っ伏してしまう月芭。体力の消耗が激しい。
「これでそんなに疲れてたら本番はどうやることやら」
「ね、眠いのもあるはず……です!」
 本番だって昼食後は眠くなるよ、とは言わない翔汰だった。
「眠いところ申し訳ないけど、記憶の新しい内に国語の見直しをしよう。月芭ちゃんがどういう状況にいるか、大方わかったよ」
「はい……」
 月芭は重い頭を上げるが、後ろめたそうに顔を背けてしまう。翔汰は「いいかい?」と、口調だけ幼い子供を諭すようになる。
「単純なことからいこう。月芭ちゃんはこの評論文を読んで、何を感じた?」
「感じたこと、ですか?」
 そうそう、思ったこと。……その手の質問は、散々小学校で受けただろう。
「特に、ありません……。あえて言うなら、この人、なに言ってるのかなって」
「だろうね」
 まともに正解と言えるのは、漢字と簡単な抜き出しだけ。正答率が低そうな漢字の書き問題を正解していることと、非の打ち所がないほど字が上手なことだけが救いか。
 筆者の、核心となる主張の見落とし。指示語へのおざなりな対応。全体構造の把握不足。記述問題が頭でっかち、まとめきれていない。無理やり字数を伸ばしたせいで主語と述語が捻じ曲がってしまった文が神経を逆撫でる。
「ひどいです……」
「酷いというべきはこの答案そのものだろうに」
 追い打ちをかけるようで、自ら嫌われに行くようで、胸を押し潰す感情と翔汰は対峙しなければならない。
「じゃあ、どこを直せばいいんですか」
 月芭は怒りの色を声音に滲ませて投げやりに尋ねた。
「――月芭ちゃん、本、読まないでしょ」
「そ、逸らさないでください!」
「逸らしてないよ。大事なこと」
 落ち着き払ってみせて、ゆっくりとしたトーンで、力強い瞳をもって、翔汰は国語が苦手な少女を見つめる。
「……読みません」
 根負けしたみたいに彼女はちょっと不貞腐れてそっぽ向いてみる。あっさりと負けを認めたのは、彼女自身がその異常さを知っているからだ。
「確かに本を読めば現代文の得点が劇的に上がるっていうわけじゃないよ。でも文字を読む根気と体力がなくちゃ、受験勉強もまともにできない。……それに、こっちが本音なんだけど、思春期の間に文章を読む楽しさを知らないままでいるのは、ちょっと勿体ないよ」
「翔汰さんは、文章を読むのが楽しいんですか?」
 月芭は上目遣いで訊く。質問を受けた翔汰はわずかながら面食らったように目を見開いて、顎に左手を当ててしばし考える。おもむろに立ち上がり、リビングのキッチン側にあるクローゼットを背にする。その扉に手をかけ、
「これを見てくれたら、わかるんじゃないかな」
 誇らしげにその中の、天井まで届く棚を月芭に披露する。
「なかなかすごいでしょ」
 今度は照れ臭そうに破顔して見せて、なかなか、情緒不安定だ。
「すごい……」
 上から下まで、カラフルに並ぶ文庫や新書、ハードカバー、マンガなどの背表紙。無造作さが、不格好さが、何故か様になる。
「まぁここにあるのも実は一部なんだけどね。実家にはこれの二倍くらいコレクションが置いてあるよ」
 そして次は自慢。自分はこんなもんじゃないというプライドだけは富士山より高い。しかし自慢するだけの圧倒的な量がある。ざっと見ただけで三百には十分足りているだろう。二列に仕切られた棚は、クローゼットの中で衣類を端に追いやりながらこの空間の主であるかのようにふんぞり返っている。
 翔汰はその棚に向き直って、黙考の姿勢。ごそごそとそこから取り出してくる。
「月芭ちゃんはまず、文字を読む習慣をつけるべきだと思う」
 差し出したるは、三冊の文庫本である。作者も出版社もジャンルも違う、どう頑張っても一括りにはできないような三作品。
「これを読むんです……?」
 大人しそうに腕を伸ばして手を膝の上に置いている月芭には、戸惑いの色が見える。
「三冊とも読むには、ちょっと時間が足りないかな。だから一冊だけ。……どれがいい?」
 一冊は、ファンタジー色の強いSF小説。ゲームの世界に閉じ込められた主人公がヒロインと共に元の世界に戻るためにゲームクリアを目指す、というお話。
 もう一冊は、ライトノベル風味の強い恋愛小説。複雑な家庭環境を持つ高校生が主人公で、自立を志しながらヒロインたちと駆け引きしていく、というストーリー。
 最後の一冊は、なんとも形容しがたい不思議系小説。少女が主人公で、コミカルなキャラクターの喋る自転車と現実世界ではない世界を旅する、という内容。
 三冊の概要を大まかに説明し終えて、改めてどの本を読みたいか尋ねる。すると月芭は最後の本を凝視して押し黙ってしまう。
「……」
「どうかした? 最後の本がいい?」
「――い、いえ、なんでもないです。……二つ目の本で、お願いします」
「そうだね、この三冊の中じゃ、一番とっかかりやすいかな。読書経験がない人がライトノベルを足掛かりに物語の面白さに気付いてくれるのは良い傾向だと思う」
 聞かれてもいないのに堂々と物語が云々言ってしまうのは職業病に近い。
「あの、三つ目の本、なんですけど……」
「あぁ、この本、もしかして知ってた? 作者がわりと有名な人だから。直木賞作家の、池渕洸太郎(いけぶちこうたろう)。かなり晩年の作品だね。だけど俺はこれが一番好きなんだ。雰囲気がすごく良い。二冊目が読みたくなったら、是非これをおすすめするよ」
「か、考えておきます」
 月芭はまた、顔を伏せてしまう。
「……現実を突きつけるようで申し訳ないけど、月芭ちゃんはもっと言葉の世界を知らないといけない。日本語もまともに黙って読めないような人が、英語を読めるようになるとは思えないよ。英語の解答、だいたい見てみたけど、やっぱり概要把握が不十分すぎる。でも単語とか文法は正解できてる。単語は一朝一夕で身に着くものじゃないから、それは月芭ちゃんの努力の成果だよ。だけど、まるで文章から逃げるみたいに内容が捉えられてない。作者と全く向き合おうとしていない。それじゃあ、問題文が泣いちゃうよ」
「問題文、が……?」
「いや、まぁもちろん比喩だけど、せっかく読まれるためにある文章が何も理解されずにいるのは可愛そうだなって。人間だってそう。せっかく関わり合いを持ったのに、何も相手のことを理解しようとしないのは不自然なことじゃない?」
「そんな風に考えたこともありませんでした」
 月芭は驚きの表情ではなく、憔悴したような顔をしていた。
「文章を読むことが楽しめたらさ、受験勉強だってきっと楽しくなるよ。もしそうなれたら、文系科目は月芭ちゃんにとって得意科目にだってできると思うよ」
「――ありがとう、ございます」
 表情が曇っているのは、翔汰がきつく言いすぎたせいだろうか。例えそうだとしても、彼自身はこの件に関して訂正する気など皆無だった。それが事実であり、彼女のためでもあるからだ。……しかし月芭の愁い事は、そこにはなかったのである。
「じゃあ、それはそれとして、今日の勉強の続きしようか」
「うっ……」
 翔汰は肩を震わせる少女を横目に、国語と英語のテキストのページをめくった。

   ⅱ

          1

 日本の社会はいつのまにか一等賞ではなく特別賞を求めるようになった。「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」である。「二位じゃダメなんでしょうか?」である。
 過度な競争を憎み、個人の能力格差を疎む社会は、そういった煩わしさから逃れるかのように、「個性」という文言を前面に押し出すようになった。そこから生まれ出るのは、ゆとり教育の申し子たちである。これは単純な学力の問題ではない。常識の質の問題である。何が許されて何が許されないのかが分からないわけではない。何が許されて何が許されないのかという線引きからしてそもそも違っているのだ。
 若者は他人と比較されることを嫌う。自分が劣っていると周囲に知られることが怖い。だから同じような人間を見つけ、取り繕い、コミュニティに安全な地位を築き上げる。一等賞を目指さなくなった人間たちが行き着く先は「個性」の楽園ではない。「没個性」の失楽園である。
 唐木翔汰はそういう人間の一人である。
 何か特技があったわけではない。個性が際立っていたわけでもない。平凡に良い成績を取って、平凡に得意不得意分野というものを見分け、平凡に生きてきた。こういう人間のことを凡夫というのだろう。しかしながら、個性がないことが個性だと言えるほどの個性的な無個性でもないのである。
 強いて言うなら、国語が好きだった。物語が好きだった。物語が紡がれていくこと、そして物語を紡いでいくことが何より好きだった。きっかけは子供の頃読んだ絵本や児童文学だと翔汰自身は確信している。
 卓越性を持たない単なる性癖は、段階を踏むにつれて、次第に卓越性を望むものになった。それが翔汰の、一つ目の過ちである。
 物語を紡ぐという途方もない一人旅は、凡庸な人間には苦行以外の何物でもない。中途半端な平凡さは中途半端であるが故に、時々不思議な錯覚を起こさせる。自分は、平凡ではない、何者かの特別な存在になれるかもしれない、と。漠然と抱いていた夢は、いつしか小さく彼方に見える目標に豹変した。そこへ続く一本道は、あまりに狭く、あまりに脆い。誰かと比べることも、誰かと競うことも、この道の上ではできない。それはまた、孤独な旅路なのだ。
 翔汰は物書きになりたかった。
 普通の学生がスポーツに打ち込むように、ギターやベースを弾き始めるように、芸術に精を出すように、自らの唯一の表現方法として、翔汰は当たり前のように文章を書き始めた。
 何が楽しかったのかなどと、問うまでもない。何が楽しくて、何の得があってそんなことをするのかと言う人がいるなら、そっくりそのまま言葉を返す。
 損得勘定を抜きにする若人の情熱は、ただ真っ直ぐ、ひたすら真っ直ぐ、これと見定めたものに、実直に伸びていくのである。
 しかしいつしか少年は現実を見るようになる。自分の足元を見るようになる。自分で自分の揚げ足を取って、墜落していく。
 就職とともに自らの目標を断念し、出版という中途半端な形でそれでも文章に執着したことが、翔汰の二つ目の過ちだった。
 背に腹は代えられぬ、大学卒業までに物書きとしての芽が出なかったら、そのときはすっぱりと諦めよう。きっと両親だってうるさく反対する。成功する保証はどこにもない。翔汰にできることは、未練が残らないように、きっぱりと縁を切ることだけだった。
 気付けば、仕事にもすっかり慣れた社会人三年目。二十四歳。あと数日で誕生日が来る。子供の頃描いた二十五歳像はどんなだっただろう。
 二十五歳になったら、何かが変わるのだろうか。

          2

 前日の慌ただしさから、翔汰の努める営業部は若干の落ち着きを取り戻していた。しかし、トラック事故での影響を書店等に謝罪し、在庫状況を方々に確認し、たまに怒鳴られる作業は精神的に来るものがある。具体的な対応が印刷所の順番待ちしかない現状、何も言い返せないのだ。
 午前中さえ乗り切れば、午後は営業に出られる。夏の蒸し暑さの中、普通なら嫌がる営業の仕事だが、こちらの方が幾分か融通が利いた。
 昼休み、翔汰はコンビニで買ったおにぎりを持って、昼食を食べる場所を探していると、嬉々とした表情をして、後輩が駆け寄ってきた。
「唐木さん!」
 少し離れて後ろからは秋坂も歩いてくる。
「なんだなんだお揃いで」
「早速、企画の具体案を持ってきました! 作戦会議しますよ!」
 暑苦しい。
「作戦会議はいいけどどこでやるの? 外は嫌よ。暑いから」
 秋坂は真顔で嫌がるようなことを言うが、作戦会議自体を拒否しているわけではないのだ。
「昨日の作戦会議室が空いてます。さっき確認しましたっ」
「作戦会議室って、休憩室のこと? まぁ、それならいいけど」
 秋坂の胸を撫で下ろす様が、翔汰には簡単に見て取れた。
「なんだかんだやっぱり乗り気じゃないか、秋坂」
「……そんなこと言われると、興が冷めるわ」
 興って……、と当たり障りのないことを言いながら、柳を先頭に作戦会議室へ向かう。
 休憩室では、昨日と同じ配置。いの一番に柳が真ん中のテーブルに陣取り、翔汰が流し台側にもたれ掛かる。反対側の壁に秋坂がいる。
「単刀直入に言って、即座にこの問題を解決させるような案は出てきませんでした」
 あまりにあっさりとした敗北宣言に、先輩二人は目を丸くして感心していた。
「その心は?」
 テンポよく秋坂の合いの手が入る。
「まず、この夏商戦に主眼を置くというのが間違いでした。焦りから目先の利益しか考えられないのは、全体の利益には繋がりません。本来の目的であるところの、会社の信頼を回復させるということは、結果的に業績を地道に積み上げていく以外に方法がありません。冷静に考えて、この方法自体を改善させることは、さすがに権限と能力が追い付かないです。だからあくまで狙うべきは、この信頼回復への布石、起爆剤でしょう」
「起爆剤か……」
 簡単には言うが、それを見つけるには、運と実力が両方要求される。
「具体的な例で言うと、以前、芸人さんが芥川賞を取りましたよね。でもあの作品は受賞前から文芸書で出版されていた。最終候補に残ったところから爆発的に売り上げが伸びた印象ですけど、芸能人の作品ってだけでもともと結構話題にはなっていました。起爆剤、爆発力っていうのは、ああいうことなんだと思います」
「でも、内容の面白さで話題になるのが一番なんじゃない?」
 秋坂が試すように尋ねる。
「この場合、面白さというのは、二の次なのかもしれません。完成度より話題性です。去っていった客を戻さない限り、本は売れない。名作と呼ばれるものを急ごしらえで作れるなら最初から苦労はしません。僕らにはまだ将来があるんですから、名作はこれから十年二十年かけて作ればいい。僕はそう思います」
「見通しはそれでいいと思う。でも柳、今日は具体案を持ってきたって話だったろ?」
 翔汰のつれない態度は、冷淡さから来るものではない。乗りかかった舟に惰性で乗り続けるほど、翔汰は甲斐性なしではないのだ。
「安心してくださいって。基本線は起爆剤探しってことで話を進めますけど、具体案は三つあります。一つ目は編集部から作家さんに問い合わせてみる案。でもこれだとあくまで既存の枠を重視することになって成果はあまり見込めません。と言うか既に編集部が十分やってないとおかしい。二つ目を僕はおすすめしたいんですが、書店さんに今どんな本が売りたいか、まず聞いてみるという案です。これなら、営業という仕事の枠を超えることはありませんし、かつ企画提案の発端にもなります。そうなれば僕らの業績も上がって一石二鳥です! そして最後の三つ目が、新しい文学賞を設置する案です。……これは正直、実現は難しいかもしれません。経費、期間ともに一番かかります。でも成功すれば話題性、将来性、実力、の全てを手に入れることができます。……どうでしょう」
 捲し立てて、柳は翔汰を窺い見た。
「……うん、二つ目でいこう」
 しばし考えてから翔汰は頷いた。
「ちょっと待って。私は外回りあんまり行かないから分からないんだけど、書店の希望って普段から聞いてるんじゃないの?」
 すかさず秋坂が意義を唱える。
「うん、まぁそうなんだけど、柳が言ってるのは、本来とは逆なんだよ。ある意味、逆転の発想だと思う。うちの本を提案したいから書店さんに希望を聞いて、該当する本を売り込む。普段やってることはこれだけど、そうじゃなくて、まず書店さんに希望を聞いて、ぴったり希望に合うものをこっちが作るんだ。店舗ごとってわけにはいかないけど、地域ごととか、なんなら出版業界全体に求められてる傾向を見ることになるかもしれない。下手に文学賞を設置するより、成功の可能性は高いよ」
「その通りです!」
 柳が乗っかる。その胡散臭さは生まれつきのものだろう。
「ふぅーん。じゃあそれでいいんじゃないかしら」
 しかし秋坂はと言うと、どこかつまらなさそうだ。
「な、なんか不満でもあるのか?」
「べつに、ないわよ?」
「ないならいいけどさ」
 不毛な口論を柳は大人しく聞いていた。
「それより、二人は早く昼ご飯食べた方がいいんじゃない? 午後は外回りの営業なんでしょ?」
 そう言えば、と気付かされて、男二人は視線を合わせる。今日は二人で取引先の、それもトラック事故の影響をもろに食らった書店に、お詫びの挨拶と営業に行くのだった。
「早速、作戦決行ですかね!」
「どうでもいいけど、作戦って言い方はなんとかならないか」
 興奮する二人をよそに、秋坂は静かに煙草を取り出していた。


「あー……、うー……、あー……」
「恥ずかしいからやめろ」
「いいじゃないですか、空いてるし。あー……」
 電車のクーラーが自分を向くたびに柳は気持ち良さそうな声を出し、逆に反対側を向くたび苦しそうな声を出している。平日昼の電車内はさすがに空いていて、よほど奇特な人間以外に立っている人は見受けられない。
 会社の最寄りから電車で迎える範囲で、トラック事故の影響を受けた書店には直接説明と謝罪しに行くことになったのだが、ついでに営業をこなして来いと言うのだから抜け目ない。二兎を追う者は一兎をも得ず、でなければいいが。
「これから謝罪しに行くんだから、もうちょっと緊張感を持ったらどうなんだ」
「今から緊張しても無駄ですよ。お腹が空くだけです」
 翔汰は眉を潜めて嘆息する。柳が姿勢を若干正して、言葉を継いだ。
「先輩って就活のときとかもガチガチに緊張してたタイプだったんじゃないっすか?」
「お前は緊張しなかったのかよ」
「僕はしませんでしたよ? 自信ありましたから」
 あっけらかんと柳は言い放ってみせる。
「気楽でいいなぁ、柳は」
「唐木さんには気楽になれない懸案事項でもあるんですか?」
「……いや、ないけどさ」
「今ちょっと考えましたよね? なんかあるんすね? 仕事のことですか、それとも恋愛のことですか。ねぇねぇ教えてくださいよぉ~」
「黙っとけ」
 柳の脳天にチョップを食らわす。効果はいまひとつのようだ。
「痛いなぁ、もう……。それで実際、先輩は彼女とかいないんですか?」
「今はいないよ」
 妙なところを探られないように、翔汰は素っ気なく答える。
「じゃあ秋坂さんはどうなんです?」
「ど、どうって。どうもこうもないだろ。ただの同僚だよ」
「ただの同僚にしては仲良いですよね。僕には同期入社でお二人みたいな仲の人はいませんけど」
「お前に協調性がないんだよ」
「僕の性格が悪いことは今は放っておいてください。僕はお二人の関係に興味があるんです」
「――何が言いたいんだ?」
「秋坂さんは先輩のこと、たぶん良く思ってますけど、そのことに先輩はちゃんと気付いてあげてるのかなってことです」
「……」
 突然の指摘に、翔汰は押し黙る。言われてしまえばずっと前から知っていたことのようで、でも、いざ現実のこととして捉えるには覚悟が欠けすぎていて。
「さっき、秋坂さんがちょっと不機嫌になった理由、わかってます?」
「……わからない」
「外回りで今回のことを解決させようっていう作戦を唐木さんが賛成したからですよ。外回りがほとんどない秋坂さんは、この作戦じゃほとんど参加できない」
「それはそもそもお前が考えた案だろ」
「そのときの秋坂さんへのフォローは、唐木さんがしなきゃいけなかったはずです。僕がしたんじゃ意味ないですもん。正直、先輩には失望しました」
 面と向かって、後輩に失望された。翔汰は顔を背けて、歯噛みした。
「彼女もいないなら、誠実に秋坂さんと向き合えばいいじゃないですか。先輩、秋坂さんを晩飯に誘ったこととかあります?」
「ねぇよ」
 翔汰には珍しく、乱暴な口調だった。自分の立っている場所を自分自身に説明するために、柳の言葉は左から右へ通り過ぎていく。
「先輩の恋愛観がどうかは知りませんけど、すぐそばにある好意を見て見ぬ振りするのは、俺の目の届く限りでは許しませんからね。翔汰さんがずっとどっちつかずだから、だから……っ」
 苦しそうな後輩の言葉を遮って、翔汰は口を開く。
「――姉がいるんだ」
「は、はい?」
 柳らしくない、戸惑った声だった。
「俺には一人、姉がいるんだ」
「そ、それがどうかしたんですか……?」
「今年で二十八になる姉だ。中学校で教師をやってる。立派な姉だ。自分の弱みを認めて、強くあろうと自分を戒める人間だ。子供の頃から、自分はああはなれないって思ってた」
「……」
 翔汰の言葉を柳は真剣に聞き入っていた。
「二十歳になって、タバコを吸い出したんだ。色々とストイックな人間だから、そういう反社会的なことはしないって俺は思ってた。けど今じゃ、結構なヘビースモーカーだ。一回、なんで煙草吸うんだって直接聞いたことがある。そしたら姉は、『私がそうしたいから』って答えた。どういうことか分かるか? たぶん姉にとっては、タバコを吸うことが既に姉の一部になってるんだよ。……でも俺にとっての姉は、そんなことはしない人間なんだ。だから姉がタバコを吸ってる姿には、違和感しかなかった」
 そこで翔汰は一度言葉を切り、静かに息を吸ってから、また口を開いた。
「……俺の中で姉が、尊敬の対象から畏怖の対象へと、一瞬で変わったんだ」
「そっか、秋坂さん、タバコを……」
 柳が、はっとして呟く。すぐさま表情を歪め、視線を足元に落とした。
「秋坂と姉ちゃんはなぁ……、なんか、俺の中で被るんだよ」
「それって、タバコ以外の部分も、ですか?」
「いや、もし秋坂がタバコを吸ってなかったら、たぶん今よりはどうにかなってると思う。あいつの本性は、姉ちゃんみたいな『得体の知れないもの』じゃなくて、たぶんもっと純粋なものなんだ。だから、さ、そういうところ俺は嫌いじゃないけど、でも……なぁ?」
「……俺にとっての先輩は、思ってた通りの先輩だったみたいです。失望したとか言ってすみませんでした。ちょっとだけ見直しました」
「ちょっとってなんなんだよ。全面的に尊敬しろ」
「それは無理ですね!」
 柳が胸を張って宣言する。潔ければ全てが許されるわけではない。
「黙っとけ。ほら、もう着くぞ」
 気付けば、目的地の駅構内に電車が進入していた。翔汰は柳の肩を叩き、先に席を立つ。
「先輩って彼女いない歴何年です?」
「は?」
「ちなみに俺は三か月です」
 席を立ちながら何気ないように言うが、それはあまりに突拍子もない。
「二年くらいだけど……、いや、何の話なんだ」
「あー、と言うことはやっぱり大学卒業とともに別れたパターンですか」
「三か月ってことは、お前もそうなのか」
「はい。お仲間です」
 柳は神妙な面持ちで頷いている。電車が止まって、扉が開いて、翔汰は前髪をくしゃくしゃと掻いて、歩を進めた。
「バカな話はここまでだ。これから営業しに行くサラリーマンが、恋バナしててどうする」
「恋バナ、楽しくていいじゃないですか」
 翔汰だって、恋バナが楽しいことを否定する気はない。だが、ここでする話ではない。営業の直前だったら、もっと緊張感がなければならないはずだ。しかしそういう常識が通じないのが柳という人間なのだ。就職活動の面接で緊張しないような男が、慣れた上司との営業で緊張するとは確かに思えない。
 翔汰は慣れた歩みで、駅構内を進む。ここは、彼がいつも通勤で使っている駅。今、女子高生に鍵を渡してしまっているあの家に近い、いつもの駅だった。今日の営業先とは、昨日参考書を買ったあの本屋で、翔汰としてもプライベートと混同してしまいそうで不安なのだ。
 そこへ来て、相方が柳である。ここまで緊張感のない営業も、彼には初めてだった。だからこそ引き締めたいのだが、能天気な後輩が、なかなかそういう雰囲気にさせてくれない。
「作戦、どういうふうに進めますかね?」
「あれは余裕があれば、だ。実際の営業の方が疎かになったら元も子もない」
「確かにそうっすね。でも、その余裕ができたときに、どういう切り口で訊くかぐらいは決めておいてもいいんじゃないですか」
「……アンケート形式だろうな」
「アンケート? 特に質問用紙も何も作ってきてませんけど」
「いや、そんなに細かな質問をするわけじゃないから、口頭で大丈夫だと思う。一問一答形式で、回答についてさらに掘り下げていく方法がいい。『どういった本が売りたいですか』なんて漠然とした質問で、具体的な回答が出てくるとは思えないからな」
「それだとやっぱり、質問する前にこちらの意図を説明した方がいいですよね。『今回の事故を受けて、私たちは信頼回復に努めています。そこで、出版社と書店の関係改善、ひいては出版業界全般の活性化を目指すべく、より読者の方々に近い書店さんに「売りたい本」についてアンケートを行っています』って感じの」
「うん、言い回しはそんなところだろう。話を切りだすタイミングはお前に任すよ」
「わかりました」
 全く言い淀みなく了承する柳。翔汰は目を見開いて眉を上下させる。
「行こうか」
 改札を抜けると、屋外の熱気が二人を襲う。真夏の午後三時、この時間のアスファルトの上は瘴気に満ち満ちている。歳を重ねるたびに、夏の暑さが体にこたえるようになる。
「あづいです……」
 柳が虚ろな目をして、死にそうな声を出している。
「言葉にすると余計熱くなる」
 改札を出て、徒歩十分。ようやく書店に着いたとき、二人はすっかり汗だくだった。翔汰には書店の空調が効きすぎているようにも感じた。でもそんな意識はほんの一瞬のことだった。
「はぁ~、涼しい~……。あれ、先輩?」
 店に入って正面奥、文庫本のコーナーの一角に、彼女の姿があった。
「おぉ……」
 そうだ、よく考えていれば心の準備はできたはずだ。ここは翔汰が住む街であり、同時に彼女が今住んでいる街でもある。
 不意打ちを食らった翔汰は、己の不安定さを、ここへ来てようやく自覚したのである。
「え、唐木さん? マジでどうしたんすか」
 訝しむ柳が、翔汰の目線の先を見る。黒髪が綺麗な女子高生が、朴訥として本に目を落としている。柳は、ますます理解不能に陥った。だがそこで、彼女がこちらを向いた。
「……っ」
 驚いたように瞬きを繰り返し、それから微笑んで、翔汰に手を振った。翔汰は落ち着きなく視線を泳がせて、鼻で深呼吸してから、控えめに手を振り返した。
「え、え、え?」
 柳が困惑を極めている。続けて、茶化すように言った。
「だ、誰ですあの可愛い子は! 唐木さん、秋坂さんというものがありながら!」
 当たり前のことが当たり前のこととして起きている不自然さを翔汰は見逃さなかった。
「……お前、あの子のこと、見えるのか?」
「なっ! ご、誤魔化そうたって、そうはいきませんよ! 幽霊なんて僕は信じてませんし! 先輩にはたった今、説明責任が発生しました!」
「本屋さんで騒ぐなって子供のころ教わらなかったのか」
 見えることが当たり前のことであるべきなのだ。翔汰は、そう自分に言い聞かせて首を横に振った。
「親戚の子だよ、あの子は。夏休みでこっちに遊びに来てるだけ」
「いや、だって、めちゃくちゃ可愛いじゃないですか、あの子っ。先輩の親戚? 信じられません! いや、仮にそうだったとして、それなら僕に紹介してくださいっ。高校生なら最大で八歳差だから……、いけますよ!」
「お前だけはないって前言ってた」
「既にフラれてたっ!?」
「わかったら仕事に戻るぞ」
 翔汰は月芭に向けて軽く手を上げて、書店のレジの方へ向かう。今は月芭のことよりも、自分自身のことよりも、仕事をしっかりこなすべきなのだ。
 柳はちょっとした放心状態にいたが、数分もすれば、いつも通りに戻っていた。

          3

「スーツ、預からせてください」
 翔汰が帰宅してリビングで落ち着こうかとしているときに、月芭はそう言った。
「着替え、手伝ってくれるってこと? それはありがたいけど……、どうしたの?」
「こういうの、憧れだったんです。ドラマとかでやってるのを見て、自然とそういうことができる奥さんっていいなぁって」
「ちょっと古臭い感じがしなくもないけどね」
 月芭が翔汰の背中に触れ、そのスーツを脱ぐ動作に合わせて、丁寧に取り上げる。
「それに今日、仕事をしてる翔汰さんを見て、なんだか労ってみたくなって……」
「……帰れば女の子がご飯を作って待っててくれてるんだから、俺は十分労われてるよ」
「……っ」
 月芭が顔をすっかり紅潮させて、預かったスーツを両腕で締め上げていた。
「月芭ちゃん、しわになっちゃうから」
「あ、あれ、なにか硬いものが」
 力いっぱい抱きしめたせいで、ボタンにでも当たったのかと思いきや、そうではない。彼女はスーツの中で芯のようになっていたそれを取り出した。
「――万年筆、ですか?」
「あぁ、それは……。うん、万年筆だね」
「お仕事で使われるんです?」
「いや、違うんだ。それはなんというか……、お守り、かな」
 翔汰の視線が下に向く。
「じゃあ実際に使うものではないんですね。どうしてまた、万年筆が?」
「……。話すと長くなるな」
「気になります」
 万年筆と月芭を交互に見て、翔汰はあっさり彼女の熱意に負けてしまう。話したところで、何かが壊れるわけではない、まして何かが始まるわけでもない。ただ、昔話をするのは少しだけ照れ臭かった。
「高校一年生の夏休みに……」


 子供の頃から、翔汰は毎年のように、現在住んでいる土地を訪れていた。実家から電車で一時間半ほどのこの土地に、彼の祖父と祖母が暮らす家があったからだ。しかし高校一年生の夏休みは、例年と一つだけ違うことがあった。それは、姉が不在だったということ。大学に入学し、免許合宿に行っていたタイミングが被ってしまったのだ。
 日中、手持ち無沙汰になってしまった翔汰は、ぶらぶらと街中を歩いていた。毎年来ているから、街の構造も覚えている。もともと本が好きだったこともあり、彼は吸い寄せられるように、いつもの書店に向かっていた。
 この書店の文庫本コーナーは、品揃えがなかなか豊富だ。最新作から既にこの世を去った作家のものまで、力を入れている様子が窺える。翔汰がひと通りその辺りを物色していると、目に留まる光景がある。
「よい、しょ……」
 おばあさんが大量の本を抱え、苦労してレジまで運ぼうとしている。曲がりかけの腰、心もとない足。見ているだけでいつ転んでしまわないかと不安になった。
 レジまでの距離はそう遠くなく、なんとか辿り着いたが、翔汰は不安を拭えなかった。おばあさんは、どうやってその本たちを家まで運ぶのだろうか。おばあさんが会計を済ませ、さて帰ろうとしたところで、翔汰の足は向かっていた。
「おばあさん、家まで運ぶの手伝いましょうか」
「あら……、ありがとう。でも、私の家までは少し歩きますよ?」
「それなら尚更です」
「ありがとうございます……」
 おばあさんが会釈する。その格好になるだけで、おばあさんは倒れてしまいそうだ。
 文庫本は二十冊ほどで、紙袋にまとめて入れられていた。重量にして五キロ。おばあさん一人では途中で何度も地面に置いて、底に穴が開いてしまいかねなかった。
 外は泣く子も泣き叫ぶ夏さ。こんな中でおばあさんが一人重い荷物を抱えて帰る姿を思い描くだけで、あってはならない事態を想像してしまう。
「今はもう生きる楽しみと言えば、本を読むことと孫に会うことくらいになってしまってね」
 おばあさんはたおやかな笑みをして、翔汰に語りかけた。その声音は、しわがれ始めてはいるが、かつては聞き入ってしまうような美声だったのだろうと思わせる上品さを持っていた。
「一緒に住んでらっしゃる方はいないんですか?」
「主人は数年前に他界してしまってねぇ。今はお手伝いさんが来てくださってますけど、趣味の本は自分で選びたいですから。荷物持ちのために呼びつけるのも、気が引けて」
 太陽からの直射日光は、老人でも関係なく平等に降り注ぐ。しかし、おばあさんは発汗が少ない。代謝が悪いのだろう。
「……そう言えばまだお名前を伺ってなかったですね。教えてもらってもいいかしら」
「唐木翔汰といいます。高校一年です」
「唐木さん……。この辺りにも確か、唐木さんがいらっしゃったような」
「はい、それがうちの祖父と祖母だと思います。僕もこっちには住んではいないんですけど」
「それはそれは。孫というのは、特別な存在ですからねぇ……。どうか大切にしてあげてください」
 彼女は、とても優しい瞳をしている。
「祖父と祖母の家は好きです。あそこは、いっぱい本があって、ちょっとした図書館みたいなんです。二人とも本が好きで。本が大好きな祖父と祖母のことが僕は大好きなんです」
「……」
「おばあさん?」
 目を伏せて、おばあさんが少しだけ悲しそうな顔をした気がした。しかしそんな様子も、しっかり認識する前には消えてしまって。
「……いえ、嬉しくなってしまってね。そんなふうに本を好きでいてくれる子は、ここ最近、少なくなってしまいましたから」
「少なく……。そうですよね、周りを見渡しても、僕みたいな人はいません。でも思います。どうしてみんな、そんな毛嫌うみたいに本を読まないんだろうって」
「本を読むことはとても力を使うことですからね。その使った力以上のものを得られると、一度でも体験できればいいのだけれど……」
「どうしたら物語の面白さを上手く伝えられるんですかね……?」
 翔汰の顔を見て優しく微笑みながら、
「――翔汰さんは自分で物語を書いてみようとは思わないのかしら?」
 おばあさんは、さも当然の流れのように提案した。それが翔汰には大きな衝撃だった。
「自分で物語を……」
 今まで想像もしたことがなかった。本の中にあるような物語を自分が作るということを。本というのは、最初からそこにあって、自分たちには想像もしえない苦悩と葛藤の上に成り立っていて、背を伸ばしても到底届きはしないものではないのか。
 しかしその瞬間、翔汰には、それが自分にもできてしまうような気がした。単なる錯覚ではない。見えない力に突き動かされるような、圧倒的な確信。自然と手に力が籠る。
「疲れてしまいましたか? 家はもうすぐそこですから、お願いします」
「あ……」
 気付けば、立ち止まってしまっていたらしい。
「いえ、平気です。行きましょうっ」
 踏み出す足が、さっきより軽やかに感じる。こんなにも、こんなにも体が軽く思えるのは、自分が心の底から感動しているからだと、翔汰は分かっていた。
「楽しそうですね」
 機嫌の良さが表情にも言動にも出てしまっている。その様子をおばあさんに笑われている。
「はいっ。俺、わかった気がするんです。自分が何をすべきか。おばあさんのおかげです」
「それはよかった」
 おばあさんが微笑ましく翔汰を見守り、翔汰が一方的に物語の魅力を語る時間がしばらく続いて、じきにおばあさんの家に着いてしまった。
「こ、これは……」
 上機嫌な翔汰の口が開きっぱなしになる。それは立派な日本家屋のお屋敷だった。
「敷地はそんなに広くないのですが、主人の物好きで」
「立派なお屋敷ですね……」
「ではお礼に、中でお茶でも飲みながら、もう少しお話をしませんか?」
「お、お邪魔させていただきますっ」
 恐縮しながら、上がらせてもらう。敷地は広くないと言われたが、一般家庭の基準からすればおそろしく広い。内装は質素で落ち着いた雰囲気で、翔汰の緊張を解いてくれる。女性のお手伝いさんらしき人が、緑茶を出してきてくれる。涼やかな縁側のある部屋でお茶を飲みながら、二人は話の続きを始める。
 こんな時間が、永遠に続いてほしいと思った。作家とは、こんなふうに翔汰をわくわくさせてくれる職業なのだと思った。おばあさんと話せば話すほど、そこへの憧れは強まるばかりだった。
 日が暮れてきて、そろそろ現実に戻らなければならなくなった。今日は夕立が来ない。
「遊びに来たくなったら、いつでも来てくださいね。直接玄関からじゃなくても、ここの縁側からでも、自分の家だと思って来てください」
「はい! 絶対来ます! 今日はすごく楽しかったです!」
 翔汰が立ち上がると、おばあさんが呼び止める。
「そうそう、翔汰さんにこれを差し上げます」
「これは……」
「翔汰さんが良い作家さんになれるように、お守りにしてください」
 上質な万年筆をおばあさんは手渡す。
「こんな良いもの、本当にもらっていいんですかっ?」
「はい、あなたに貰ってほしいんです」
 おばあさんの表情は真剣そのものだった。翔汰にその万年筆の価値はよくわからない。それでもこの万年筆に相当の想いが込められていることくらいは想像がつく。
 想いのバトン。誰かの大切なものは、それに込められた願いが消え去ることはなく、続いていく。これはそのリレーの一部。
「……わかりました」
「翔汰さんが作家になる日を、待っていますね」
 翔汰は今でもその万年筆を肌身離さず持っている。


「それから、そのお家には行ったんですか?」
 一通りのあらましを喋ると、月芭が食いついて尋ねた。
「……次の年の夏に、遊びに行ったんだけど、おばあさんには会えなかった。足を悪くして入院してるってお手伝いさんが教えてくれた。それからは一度も行ってないよ」
「そのおばあさんは今、どうしてるんでしょうね……」
「さぁね、元気になったかもしれないし、もう亡くなってるかもしれない。でも確かめるのが怖いんだ。目標を失くすのが、怖いんだ」
「……翔汰さんは、小説家になりたかったんですね」
「言ってなかったかな。今はもう諦めてるけど、昔は目指してたよ」
「でも、目標を失くすことが怖いままなら、完全に諦めたわけじゃないのかもしれませんね」
「だから、今は出版社で働いてるんだ」
「作家さんと一緒に、お話を作ってるんです?」
「いや、俺は営業の仕事をしてるから、今はまだ違うよ。でもいつかはそうなりたい……」
 恥ずかしくなるくらい自然に、翔汰は青年期の夢を語っていた。
「ご、ごめん、辛気臭い話だったね」
「――翔汰さんのこと聞けて、私は嬉しいです」
 月芭が万年筆を優しく握りしめる。
「いやぁ、恥ずかしい限りだよ……」
 うっかり卒業アルバムの文集でも見られてしまったみたいに、翔汰は恥ずかしがる。
「私、仕事のことも、昔の話も、翔汰さんのこと何も知りませんでしたから……」
「あぁー……」
「もう、どういう反応なんですか、それ」
 翔汰の中途半端な応答に、月芭は不満の色を見せる。
「ごめん。……いや、お互い様だったんだなって思って」
「お互い様、ですか」
「月芭ちゃんは自分のことを話したがらないって思ってたけど、俺も自分のことは話そうとしてなかったんだなって」
「あ……」
 彼女は気まずそうに視線を下にする。
「まぁいいよ。話すのは話せるようになってからでいい。例えば実は月芭ちゃんが俺を騙そうとしてて明日になったら金目のものと一緒にいなくなってても、それは俺のせいだから」
「そういうものなんでしょうか……」
 二人の関係性は、まだ互いを信頼しきらない位置にある。翔汰はそれをきちんと理解していて自惚れない。自惚れてしまったら、戻れなくなるからだ。
「でもべつに、月芭ちゃんのことを信用してないわけじゃないよ。ただ単に全幅の信頼を置けるような、それこそ恋人同士みたいな関係にはなれないってだけでさ」
「そう、ですよね……」
「うん、そうなんだよ」
 月芭が落ち込もうとも、翔汰はそのスタンスを崩すつもりはない。あくまで保護者としての立場を貫き通さねばならぬ。彼自身はそれを強く胸に刻み込んでいる。
 運命的な出会いをした翔汰と月芭だが、恋人になる運命にあるわけではない。そこに何か意味を求めるのはお門違いも甚だしい。運命的な出会いという原因が恋人になるという結果を生み出すのではない。恋人になる原因は、他にあって然るべきだ。
 翔汰は今、とてつもなく不安定なところにいる。接点も共通点も何もない二人の女性を、天秤に掛けようとしている。そういう自分が、許せないのだ。
「あの、翔汰さん」
 月芭が控えめに呼びかける。
「どうしたの?」
「明日も夕方には帰ってきてくれますか?」
「明日は土曜日だよね。うちは日曜が休日だから、場合によっては残業があるけど、たぶん大丈夫だと思う」
「……この辺りで夏祭りがあるのって知ってますか?」
 近くの神社で毎年やっている夏祭り。翔汰も子供の頃、一度だけ行ったことがある。
「あぁ、知ってるよ。あれ、ひょっとして明日?」
「はい。……だから、一緒に行きたいなって」
「そういうことなら、早く帰れるようにするよ。夕方の六時に帰れば、そこからまだ回る時間は十分あるかな」
「よかった。話の流れ的にも断られないか心配だったんですけど……」
「いや、そういう誘いを邪険にするつもりはないんだけどね……」
 なにぶん言葉足らずなもので、彼の感情は月芭には上手く伝わっていない。彼女は嘆息してどこか楽しそうに、言葉を継ぐ。
「無駄に私を不安にさせた分、謝ってください」
「ごめんなさい」
 翔汰は十五度くらい頭を下げる。
「足りません」
「申し訳ありませんでした」
 今度は四十五度。
「……はい。もういいですよ。ありがとうございます」
「謝ってお礼を言われるのは初めてだなぁ」
「じゃあ、ご飯にしますか? もうできてます」
「そこは本当に本当にありがとうございます」
 頭を九十度に下げると、月芭は嬉しそうに笑っていた。


          4

「ゼロジャンル?」
 秋坂が首を傾げる。
「うん、十年くらい前に新城カズマって作家が提言したジャンルなんだ。一般小説とライトノベルの隙間を埋める新しいジャンルのことだよ」
 翔汰は頷きながら自らの知識を辿る。
「へぇ~、そういう言い方をするんですね。だから今のレーベルで言う、電撃のメディアワークス文庫だったり、講談社タイガ文庫だったり、新潮文庫nexだったりのところですか」
「うん、そうそう」
 柳がその知識に感心しながら補足すると翔汰もそれに頷いた。
 いつも通り、作戦会議は休憩室行われていた。三人の配置も変わらない。話は昨日の営業で訪れた書店でおこなった、口頭でのアンケートが中心になっていた。
 今はコーナーが分けられるほどではないが、ライトノベルでもない、一般小説とも一線を画する、比較的最近になって見られ出したジャンルが、この頃新レーベルの立ち上げによって注目され始めているのではないか。それが今回のアンケートで得られた一つの答えだ。
 物腰柔らかな書店の店長さんが「ゼロジャンル」という単語を使ったわけではない。しかしその人はしっかりその傾向を捉え、翔汰と柳に伝えた。
「結局それって、ライトノベルより一般小説に近くて、一般小説よりライトノベルに近いって定義なのよね? それ、曖昧じゃないかしら」
 秋坂が素朴な疑問を呈する。
「いや、そこまで定義は曖昧じゃないよ。そもそもの発祥はライトノベル側からで、一般小説に見られる色んなジャンル、SFだとか推理モノだとか、そういう分かりやすいものを持ってきて、ライトノベルに近い表現をしていたら、これが体系化されちゃったって感じ。結果的にテーマがライトノベルほど軽々しくならないから、普通に質の良い青春小説が出来上がっていったんだ」
「具体的に言うと、あさのあつこ、西尾維新、有川浩、桜庭一樹ってところですか。特に桜庭さんは直木賞も取ってますから、ゼロジャンルの筆頭株って感じがしなくもないですね」
「うーん、特にゼロジャンルの狙う十代後半から二十代にうけてるって印象では、西尾維新とか有川浩の方が代表的にも思えるけど、んまぁそれはいい」
「で、このジャンルを私たちはどうしようってわけ? 柳の企画通りなら、この希望に沿うようなものを私たちで作んなくちゃいけないわよね? それって現実的なのかしら」
「俺はできると思ってる。と言うか、やっていかなくちゃ、この先うちの会社自体が出版業界で通用しなくなっていくようにも思う。データを揃えて、対応してくれそうな作家をピックアップして、改めて企画書としてまとめる。その過程で、ゼロジャンルの必要性は絶対に証明されるはずだ」
「まだアンケートが取れたのは一つよね。じゃあ他の書店にも聞いて確かめてみないと。本当にこの方向性で私たちの企画を推し進めても大丈夫かどうか」
「うん、それも同時進行だ。でも少なくともこのジャンルを否定するようなところは出てこないと思うよ。いや、出てきたとしたらその書店はよっぽど最近の傾向を分かってないんだよ」
 ついつい翔汰は熱く力説してしまう。
「なんか先輩、嫌に気合入ってますね。ゼロジャンルに特別な思い入れでもあるんすか?」
「……いや、純粋にそういう小説が好きなだけだよ」
「えぇー、でも『ゼロジャンル』ってそんな有名になった言葉でもないですよね? 専門用語まで知ってるのは、熱心に勉強したって証なんじゃないんですかぁ?」
 柳は語尾をわざとらしく上げて、じっと翔汰を見つめてみる。彼なりの愛情表現だ。
「う……」
「出版社に入って編集を志す人間なら、そういうのを勉強していたって何もおかしくないじゃない。それが個人的な関心からって言うなら、まぁ納得できるでしょ」
 言い淀む翔汰に、秋坂の助け舟が出向く。
「第一、そのジャンルが本当に最近できたものなのかどうかも怪しいわ。呼び方や括りという意味では近年になって作られたものなんでしょうけど、そういう青春小説に関しては、昔からあるように感じるし。例えば『坊っちゃん』は夏目漱石の作品の中でもかなり大衆向けに書かれている。かと言ってライトノベルの初期なんて言い方をすれば非難轟轟よ。田中芳樹の『アルスラーン戦記』は最近になってメディアミックスが進んでるわよね。……あとうちの会社で言うと池渕洸太郎はどうかしら? 彼が直木賞を受賞したのは昭和期のことだったけど、平成に入ってからの晩年の作品は、より若年層向けの青春小説に変遷しているように思う」
「おぉ! 池渕さんですか! 僕が目指してるのはまさにそこです! そういうことなら俄然ゼロジャンルへの関心が高まりますね!」
 その名前が出た途端、柳が過剰な反応を示した。翔汰としてもここで秋坂の口からその名前が出てくることには驚いた。彼女の俯瞰的な分析は冷静で、今後の指針となるに違いない。しかしそう素直に彼を理想形と位置付けてしまうのもいただけない。
「先走るな。まずはデータの収集が先だ。その中で池渕洸太郎も含めて見ていけばいい」
「じゃあ池渕さんの分析は俺がやりますからね! それで手を打ちましょう」
「べつにいいけど……、お前こそ嫌に池渕洸太郎にご執心だな」
 柳は、にいっと厭らしく笑みを作り、自信満々に表明する。
「俺、池渕さんがいなかったら今ここにいませんから! 彼の作品を読んで、こういうものが僕も作りたいって思ったんです。特に大きかったのは彼の『自転車旅行』ですねっ。かなり晩年の作品ですけど、あの世界観と登場人物のやりとりがもうたまりません! 池渕の心境小説にすぎないなんて消極的な批判もありますけど、この作品はもっと評価されて然るべきだと僕は思います!」
 聞きながら翔汰は「おいおい」と横槍を入れそうになった。『自転車旅行』、聞き覚えがあるなんてレベルじゃない。それは先日、おすすめの本だと言って自らが一人の少女に勧めたものだった。
「まじかおまえ」
「え、どうしました唐木さん……。あ、ひょっとして先輩も『自転車旅行』のファンだったりするんですかっ? そうなんですかっ? そうなんですねっ!」
「うるさい。黙れ。俺とお前は違う」
「違くないですよ! 最近のネット用語でこういう共通の趣味を持つ人たちのこと何て言うか知ってます? クラスタって言うんですよ。僕たちは同じ、池渕洸太郎クラスタなんです!」
「妙な括りにぶち込むな! 気持ち悪い!」
「気持ち悪いとはなんですか! 同じ穴の狢……じゃない、えーっと、とにかく同胞を煙たがってどうするんです! 仲良くしましょうよ~!」
「それが気持ち悪いって言ってんだよ!」
 べたべたと執拗に近寄ってくる柳を払っていると、秋坂が呆れ顔をして溜息をついた。
「私は先に戻るわ。じゃあ二人とも仲良くねー」
「待て、秋坂! まだ話は終わってない!」
「こんなに脱線したらもうおしまいよ。はい、さようなら」
 そう言って、秋坂はそそくさと仕事に戻って行ってしまう。
「やっと二人きりになれましたね……。池渕さんについてとことん語らい合いましょう!」
「もういいって。ほら、俺たちもそろそろ仕事に戻るぞ」
「……はーい」
 妙に聞き分けの良い柳は、翔汰にはむしろ気味が悪い。
「まったく……。社会人なんだからもうちょっと落ち着きを持てって」
「――じゃあ、帰るまでにちゃんと秋坂さんへのフォローしといてください。昨日の分も含めて、ちゃんと。社会人としての責任を持って」
 言い捨てて、柳も翔汰を残して休憩室を去っていく。
「な、なんだよ急に……」


 十七時。正規の退社時間。残業も出ず、翔汰は胸を撫で下ろしていた。しかし、それ以外の懸案事項が一つ。柳の言い捨てた言葉が、彼への重しとなっていた。
 翔汰と秋坂の関係がどうこうなったわけでもないのに、柳が干渉してくる。それが翔汰には理解不能だった。分からないなら考えなければいいのだが、しかし考えないようにすればするほど、不思議とそればかり考えてしまう。
 仕事にも身が入らず、午後はぼんやりとただ時間が過ぎるのを待った。
 言わずもがな、急いで帰らねばならぬ理由が翔汰にはあった。しかし、この心の引っ掛かりをほっぽりだして、呑気に女子高生と夏祭りに行くような性癖は持ち合わせていなかった。
「秋坂、お疲れ」
 専用のデスクで帰り支度をする秋坂に声を掛けると、彼女は翔汰を一瞥する。
「……あぁ、お疲れ。何か用?」
「なにかってか、いや、俺はなんでもないんだけど……」
「どういうこと、それ」
 眉を顰め、翔汰を睨む。
「あー、いや、柳がな……」
「柳がどうかしたの」
「柳――、のバカみたいな話に毎度毎度付き合わせて悪いなー、って……」
「今更もういいわよ。それに、十分有意義な話し合いにはなってると思うけど。……唐木はそうは思ってないの?」
「いや、方向性もだいぶ見えてきたし。すげぇ有意義だと思う。その、だから……、」
「……帰りながら話しましょ。駅まではどうせ一緒なんだし」
 要領を得ない翔汰を急かすようなことはしない。そもそも退社時間に翔汰の方から秋坂に話しかけに行くこと自体が珍しくて、彼女はそれだけで妙に嬉しかったのだ。
「そうだな。すまん」
 考えてみれば、二人が帰路をともにするのも、指折り数えられるくらいの回数だった。その新鮮さがくすぐったくてたまらない。
「何か後ろめたい話でもあるの? お姉さん怒らないから、言ってみなさい」
 秋坂が珍しくおどけてみせている。
「昨日、柳と俺だけで外回り行ったろ?」
「行ってたわね」
「三人で話し合いしてたのに、お前は外回りあんまり行かないから、なんか仲間外れにするみたいで、申し訳なくてさ……」
「……それ、ひょっとして柳に差し知恵されてない?」
「うえっ?」
「図星なの? あきれた……。何かまともな話があるんじゃないかって期待したのに」
 秋坂は天を仰いで驚き呆れる様子を表現し失望している。
「す、すまん……」
「仲間外れにされたような気分になってちょっといじけたのは認めるわよ。でも一日経ってもまだフォローされなきゃいけないほど引きずってはないわ。心外」
「柳が、フォローお願いしますってうるさかったから。どうにも気になってな」
「――唐木は、もうちょっと野心を持った方がいいんじゃないの」
 秋坂が刺々しく言う。
「なんだ、藪から棒に」
「人から好かれる能力はあるくせに、そうやって寄ってくる人間を、全然上手く利用しようとしないじゃない。のし上がろうとか、成り上がってやろうとか、そういう心持ちはないの?」
「もちろんあるよ。俺だって営業より、編集の仕事がしたいさ。編集になったら、作家さんと一緒に面白い物語を作りたい」
「……私にはさ、唐木の本心がそこにあるような気がしないの」
 彼女は意気消沈していた。翔汰には皆目、見当もつかない。
「本心だよ。嘘なんてつかない」
「嘘とは言ってないわ。でも、唐木の一番やりたいことって本当に編集の仕事なの――?」
「……それ以外に、何があるんだよ」
「……」
 秋坂は答えない。翔汰にも答えられない。
「今日言ってたゼロジャンルって言葉は、どうやって知ったの」
「ゼロジャンルって言葉を知ったのは、大学生のときだよ。古本屋で見かけた本に載ってた。それ以前から、そういう傾向を持った作品群は好きだったよ。だからこそ、そういう物語を作っていきたいって思った」
「そういう人って、まずは作家を目指すものよね?」
 おそるおそる彼女は尋ねる。
「……秋坂は違うのか」
「私は違う。漠然と本が好きで、出版業界を目指しただけだから。自分が書くなんて、考えたこともない」
「そうか……」
 駅前に近づいて、人通りが一層慌ただしくなる。小声では相手まで届かない。
「私、ちゃんと唐木と喋りたい」
 だから、秋坂はしっかりと翔汰に聞こえるような声を発した。
「え……」
 聞こえなかったわけではない。声を張った秋坂に、翔汰は面食らったのだ。
「――だから今日、夕食でも行かない?」
 秋坂は少し赤面しながら、たどたどしく提案する。コロコロと表情を変える秋坂は、普段のキャラクターを守れないでいる。そんな彼女を愛おしんでしまう翔汰は、身を焦がされるような思いでいた。
「どうして……」
 翔汰はその天秤をどちらかに動かさなくてはならない。
「え、今、なんて」
 秋坂が困惑の表情をする。当然の反応だった。
「……ごめん、今日はもう先に入ってる予定があって」
「そう……」
 彼女の残念そうな表情が、翔汰の胸をキリキリ締め上げる。そして翔汰は、柳の言いたいことが分かった気がした。「秋坂へのフォロー」とはつまり、「食事に誘え」ということだったのだろう。
「ごめん。また今度行こう」
 今度という言葉が秋坂には気に食わない。本気で女性の心を自分に留めようとする人間が、そんな言葉を使うはずがない。そういう気が元々ないのか、自己評価が低いだけのか。
「唐木、あんた最近さ……。ううん、なんでもない」
 いや――、それ以前の可能性を秋坂は感じ取っていた。
「気になるな……」
 言うだけ、彼女には何の得もない。観念して、秋坂は無理やりにでも笑みを作った。
「はいはい、じゃあ今日はこれでお仕舞。また来週ね」
「おう……」
 秋坂は歩みを速めて、翔汰を引き離す。困った様子のその男を見て、ざまあみろと心の中で呟いてみる。笑顔が崩れる前に、人混みに紛れてしまうことにした。

          5

「どうです? これ」
 アサガオ柄の浴衣がはためく。目にも鮮やかな水色に見とれ、翔汰は思わず息を飲んだ。
「に、似合ってるね」
「へへっ」
 月芭は締まりのない表情をしてなおも左右に浴衣を振っている。
「でもそれ、どこから持ってきたの?」
「……秘密ですっ」
 含みを持たせるように月芭は小首を傾げる。
「さ、さすがに気になるなぁ……」
 帰宅した翔汰を待っていたのは、綺麗に浴衣を着こなした月芭だった。突然のことにまずは目を奪われてしまった翔汰だったが、冷静に考えれば状況の異常さに気付く。月芭はどこから浴衣を持ってきたのだろうか。そしてどうやって着たのだろうか。詳しくは知らないが、浴衣を一人で綺麗に着るというのは結構な労力だったはずだ。
「いいから、行きましょうっ。もう六時になっちゃってますよ」
 追及する隙を与えてはくれず、翔汰は月芭に腕を引っ張られて連れ出される。神社までは徒歩十五分ほど。少しでも長くお祭りを楽しみたいのだろう。
「草履まで……。本格的だね」
「でもこれ、そんなに歩きづらくないんですよ」
 マンションを出て、月芭がさりげなく見せてくる。最近の草履は、もはや草では作られていない。月芭の履いているものは、底もあまり厚くはなく重心が不安定にならないので、歩いていて鼻緒のところが痛くなる心配もなさそうだ。
「いっぱいお洒落して、よっぽど楽しみだったんだ」
「最近あんまりお祭りに行ってなかったので。あ、私、男の人と一緒にお祭り行くの、初めてですよ」
「俺、シャツのまま来たの、なんか申し訳なくなってきたな……」
「翔汰さん、着替えたかったですか?」
「いや、俺はいいんだけど、月芭ちゃんが気合入ってるみたいだから、申し訳ないなぁって」
「これはこれで危ない匂いがして私は好きです」
「……まぁ、月芭ちゃんがいいなら俺は構わないんだけどね」
 何気なく隣を歩いてしまっているが、よくよく考えればかなり危険な図だった。親子ほど歳が離れているようには見えないし、兄弟にしても少し無理がある。なにより、会社帰りの男子と浴衣の女子ではアンバランスすぎる。職質されたときのことを考えて不安になる翔汰だった。
「……付き合ってもらってありがとうございます。翔汰さんはゆっくりしたかったですよね」
「いいや、ゆっくりしたかったなら最初から断ってるさ」
「……そうですよね」
 月芭は嬉しそうに、でも恥ずかしそうに俯いて笑っている。一方の翔汰に臭いセリフを吐いた自覚はない。彼はまだこの構図について考察していた。
 社会的な体裁を考慮したとき、翔汰はどうやっても言い逃れできない。お巡りさんにも月芭の姿は見えるかもしれない。たとえお巡りさんには見られなくても、誰かしら常識人の目は、その異常さを見逃さないだろう。
 そして同時に、翔汰は保護責任者でもある。もしも月芭がチンピラにでも絡まれそうになったら、守らなければならない。
 持ちたくもない責任を自然と背負い込むようになったのは、いつからだろうか。
「そう言えば月芭ちゃん、お金ないよね? 俺もいま手持ちはそんなにないんだけど……」
「あ、いえ、二千円だけあります……」
「んー、二千円あれば、まぁそれなりに楽しめるかなぁ。足りなかったら言って」
「はい。申し訳ないです、そんなことまで……」
「いいよいいよ。高校生はお金の心配なんてしなくて大丈夫だから。大人になってから痛感すればいいだけの話」
 恐縮です、と月芭はかしこまって、続けて質問する。
「お仕事ってやっぱり大変ですか?」
「力の抜き方を覚えるまでが大変だね。力の抜き方を覚えたら、次はサボり方を覚えてくる。でもあんまり手を抜いてやってても面白くないんだ」
「楽しみながら仕事できるのが一番ってことですか?」
「そうだね。俺も一応、自分が楽しんでできる仕事を選んだから。第一希望のところではないけど、本に関わる仕事なら満足かな」
「出版社の営業って、具体的にはどういうお仕事をするんですか?」
「自社の商品を売り込むことだね。だから実際に本作りに携わることは、ほとんどないんだ」
「昨日は実際に本屋さんに売り込みに行ってたってことですね」
「そういうのを外回りって呼んでるんだけど、この時期は昼間暑いから、結構過酷でさ」
「お疲れ様です……。あっ、そう言えば今日、一冊目の本を読み終わったんですよ!」
 月芭が嬉々として報告する。
「おー、早かったね。どうだった?」
「面白かったです! 高校生のお話だったんで、共感できるところが多くて。ラストの告白シーンはちょっと泣きそうになりました」
「あれ、終盤はいっぺんに読んじゃうよね」
「はいっ。翔汰さんの言った通り、私、物語の面白さに気付けた気がします! 今まで読んでこなかったのが、本当にもったいなく感じました」
「うんうん。その調子で俺がおすすめした二冊目も読んでみる?」
 それは例の『自転車旅行』のこと。一瞬、柳が脳裏に浮かぶが、翔汰はその部分の記憶を抹消することで解決した。
「そ、そうですね……。読んでみます……」
 月芭が目に見えて戸惑っている。最初に紹介したときにも、こういった反応だった。つまりそれは、何らかの確執があることを示している。
「あんまり気が進まない理由があったりする? 好みに合いそうにないなら読まないのも手だけど……」
「――いえ。私、読みます」
 一転、力強く翔汰に宣言する。瞳が揺れている。月芭は何かと戦っている。葛藤している。挫折してきた何かを前に、それを懸命に乗り越えようとしている。
「おっけい。じゃあ、頑張ってみて」
 物語を大海原に例えるとき、よく読書はその海を渡る航海だと言われる。その孤独な旅は誰の助けも借りることはできない。自らの力で着実に進めていく他ない。その航海が、月芭にとってどれだけ辛いもので、悲しみを伴い、達成感を得られるものなのか、翔汰には想像もつかない。しかしその旅は、人として生きる上でなくてはならない経験となる。
 読書は受験勉強の糧になると月芭に教示した翔汰だったが、現実的な方法ではない。本を楽しみながら読むだけで読解が上手くなるなら、誰も苦労はしない。読書量で読解力を上げるつもりなら、並大抵の高校生では時間が足りなさすぎる。だから、翔汰が本当に月芭に望むことは、読書の面白さを知ってから大人になってほしいという、ただそれだけのものだった。
 そもそも本気で月芭の受験勉強を応援するなら、夏祭りになど行ってはいけないわけで。
 月芭と翔汰が一緒にいられる時間は、きっと限られているから。
「ここですか」
 適当な雑談をしていると、二人は神社の鳥居前に到着した。石の階段を十数段上がり鳥居をくぐると、境内への道沿いに露店が並んでいる。
「お腹空いたね。まずは何か食べようか」
「焼きそば食べたいです」
 人混みは想像より酷くなかった。境内への道は、乗用車がすれ違えるくらいの十分な広さがあって、人の通行には全く支障がない。これなら月芭が誰かとぶつかったり、はぐれてしまう可能性もないだろうと翔汰は胸を撫で下ろした。
「とりあえず俺が二人分買うよ。露店の人はおじさんが多いけど、みんながみんな見えるわけじゃないだろうから」
 月芭は小さく頷く。
 見れば、浴衣で来ている人もちらほらいる。月芭が妙に浮いてしまう心配もない。
「焼きそば、二つください」
「はい、毎度」
 一つ三百円は良心的な値段だが、焼きそば売りのおじさんは、月芭に一瞥もくれない。
「歩きながら食べようか」
「はい。ありがとうございます」
 月芭が落ち込んだような様子はない。もはや慣れっこなのだろう。
「あ、私、紅ショウガ苦手でした……」
「ははっ、真っ先に食べたがったのに、盲点だった? いいよ、もらう」
「すみません……」
 恥ずかしがりながら、月芭は笑っている。翔汰は月芭の焼きそばから紅ショウガを持ってきて、自分の麺と一緒に一口。
「うん、うまいっ」
「おーい、そこのアサガオ柄の浴衣のお嬢さん! 寄ってかないかーいっ? ご一緒のお兄ちゃん、特別に一本分の値段で二本あげるよっ」
 声を掛けてきたのは綿菓子売りのおじさん。二百円で二本はお得だ。
「欲しい?」
 尋ねると、月芭は目をキラキラさせて何度も頷く。
「じゃあお願いします」
「よしきた、ありがとね! お仕事ご苦労様!」
 おじさんは綿菓子を二本渡しながら、翔汰を労う。おじさんの目には、どういうふうに映ったのだろうか。
 袋付きの綿菓子。ある程度は時間が経っても品質に問題はないが、あまり持ち歩くものでもない。二人は近くでやっていた大道芸を眺めながら食べることにした。
「……月芭ちゃんのこと見えない人にはさ、その焼きそばとかどう見えてるんだろうね」
 ふと浮かんだ疑問を翔汰は口にした。
「私のことが見えない人は私が触っているものも認識できなくなるみたいです。見えなくなるんじゃなくて、気にしなくなるって言うか……。あんまり実験してみてはないんですが、私が触る前から見つめ続けているとさすがに浮いてるって気付くみたいで」
「へぇ、微妙な判定だね」
 言うなれば、ガノトトスの亜空間タックルのような。認識できないだけで、そこには確かに何かが存在している。例えば焼きそば売りのおじさんがその焼きそばの行方をずっと見つめていれば、浮いている様を認識できたかもしれないのだ。
「だから迂闊に行動できないんです。本を読むにしても、いちいち誰も見てないか確かめてからじゃないといけなくて……」
「月芭ちゃんには、誰が見えてて誰が見えてないのか分からないのが面倒だね。って言うか、こうしてる今も大半の人には俺が独り言を言ってるようにしか思えないわけだ」
「はい……」
 月芭が焼きそばを食べきってしまう。先に完食していた翔汰のケースと重ねて持っておいて彼女には綿菓子を手渡す。
「まぁいいよ。……やっぱり俺はさ、見えることが異常なんじゃなくて、見えないことの方が異常なんだと思うから。だって月芭ちゃんは確かにここにいるもの。俺にはどうやったって月芭ちゃんの存在を否定できないよ」
「ありがとう、ございます……」
 月芭の小声が、大道芸の観衆の拍手でかき消される。大道芸人は不安定な梯子の上で華麗にジャグリングを決める大技を披露しており、騒がしくなるのも致し方ない。
「人が集まってきたし、ちょっと離れようか」
 彼女の現状を思えば、不運の接触は先手先手で避けることが望ましい。後手に回って、もし身動きが取れなくなってしまったら、妙な騒ぎになる可能性だってある。
 時刻は二十時を回ろうとしていた。夏祭りは、宴もたけなわといった雰囲気。二人は人が少なくなる奥の境内の方まで行って、適当な石に腰掛けて涼むことにした。
「おいしい……」
 月芭が空を見上げながら、綿菓子の感想を呟いた。今日は快晴。さそり座がよく見える。
 そのとき、
「お……」
 地面から見上げていた空に、光が揺れながら上がっていき、星空の中で弾ける。花火だ。
「きれい……」
 一発目の特大の花火の後、二発三発と連続して打ち上げられていく。色も大きさも形も様々な花火たちが、空の中で踊るように現れては消えていく。普段は情趣の分かる人間ではない翔汰も、つい見とれてしまう。
 しばらく、こんなふうに空を見上げていなかった。翔汰もこの美しさを既に知っていたはずだ。それなのに、初めて花火を見た子供みたいに、どうしようもなく感動してしまう。
 大人になるということは、こんな些細な幸せさえ失ってしまうということなのだろうか。何かに縋っていないと生きられないで、孤独に押し潰されてしまいそうで。周りを見渡せばいくらでも美しいものがあるというのに、わざわざ汚いものばかりを見るようになって。
 現実と向き合うことが、必ずしも正解ではない。正解を見つけるための遠回りの何が悪い?
 大人になりたくないと言うのは、子供の証なのだろうか。
 少なくとも翔汰は、自分に率直でいたかった。
「拓真(たくま)――?」
 月芭は花火から目を離して、正面を向いていた。その視線の先には、少年が一人。
「やっぱり。月芭か」
 呼吸すら忘れてしまうような、衝撃。
 花火の音に、翔汰と月芭の日常が崩れる音すら、かき消されてしまう。
「なん、で……」
「俺は親の手伝いだよ。って言うか、それはこっちのセリフ。隣のスーツの男、誰?」
 突然現れた一人の少年が、翔汰を指差して言う。
「どうだっていいでしょ。拓真には関係ない」
「前も言ったけど、その喧嘩口調やめろよ。月芭に関係ないとまで言われる筋合いもねぇし」
「うるさい! どっか行ってよ!」
「俺はまた妙な男に引っかかってるんじゃないかって心配して声をかけてやったのに、まともに取り合おうともしねぇのな。浴衣なんか着て、浮かれちまって。――おい、スーツのおっさん、警察に通報されたくなかったら援交まがいのことすんじゃねぇぞ」
 彼は忌々しそうにそれだけ吐き捨てて、賑わう祭りの中に消えていく。いつの間にか、花火も終わっている。
「ううっ……!」
 月芭の強気が決壊して、涙が溢れた。せっかくの浴衣が濡れてしまう。
「月芭ちゃん、これ、ハンカチ。とりあえず泣き止んで」
「ごめんなさい……! ごめんなさい……! でもっ、でもっ……!」
 押し殺す泣き声が痛々しい。翔汰は意を決して、そっと月芭の肩を抱く。彼女はそのままハンカチを顔に当てて、翔汰の肩で泣いていた。
 人目の少ないところで本当に助かった。助かったが、それは不幸中の幸いというだけ。根本的な解決のためには何の助力にもならない。
 翔汰は必死に動揺を隠そうとしていた。それが月芭に伝わればもっと不安にさせてしまう。しかし月芭を抱いていない方の左手が震え続けている。
「少し落ち着いたらまず家に帰ろう。来た道を戻らなくとも、脇道からでも帰れる」
 なるべく人目に触れないように。それが月芭にしてあげられる、翔汰の精一杯だった。
 ようやく立ち上がれるくらいに回復して、それでも不安定な少女を支えながら、翔汰は人のいない道を選んで帰った。歩みは遅い。行きは十五分以内だったところを、帰りは三十分近くかけた。
 彼女の取り乱し方は、度を超えていた。可愛がっていたペットが死んでしまったときだってここまでの泣き方はしない。心の奥底に封印していた悲しみを蒸し返されたようだ。
「ごめんなさい……。ごめんなさい……っ」
 帰り道の途中、やっと言葉が発せるようになったかと思うと、出てくるのはひたすら謝罪の言葉だけだった。それが翔汰に向けてなのか、何に対するものなのかは、分からない。
「ほら、着いたよ」
 翔汰のマンションに辿り着いて、まともなのは綺麗に着付けた浴衣ぐらいだった。
「ごめんなさい……」
「もう謝んなくていいから。草履脱いで」
 翔汰は状況把握のできない苛立ちから、冷たく突き放すような口調になってしまう。それではいけないと、頭では理解している。
 リビングのソファにまで連れて行き、落ち着いて泣かせる。エアコンをつけて、それから電気もつけようとしたが、そこまで酷にはなれなかった。今日の明かりは、月明かりだけだ。
 月芭の前髪はぐしゃぐしゃで、いつもの艶は失われていた。目の周りは赤く腫れ上がり、薄く施した化粧は完全に落ちていた。それでも彼女の頬は白く透き通っている。こんなになっている彼女を儚げで美しいなんて思ってしまう自分自身を殺してしまいたかった。
「ごめん、なさい……」
「まだ、話せないの」
 翔汰もソファに座り、話しかける。
「……」
 急かすまいと翔汰は誓った。急かして月芭の抱える問題が解決するわけではない。しかし悲しみに暮れる月芭を前にして、急かさずにはいられなかった。翔汰に出会う前、彼女は何をしていたのか、何故家に帰れないのか、どうして翔汰にしか姿が見えなかったのか。手を伸ばせば届きそうな位置に来た真実を純粋に知りたいと思ってしまった。
「あの男子は、月芭ちゃんの同級生?」
「……はい」
「もしかして、元彼、とかかな」
 涙を滲ませながら、月芭は懸命に首を縦に振る。
「……あの人は、私を捨てたんです」
「喧嘩別れになっちゃったんだ」
「あの人が、悪いんです……っ」
「拓真くん、だっけ。口は悪かったけど、そう人が悪そうには見えなかったな、俺には」
「……もちろん悪人なんかじゃないですけど、私のこと、受け入れきれないって、一方的に私から距離を置いて。私は、あの人のことを、信頼したのに……っ」
 翔汰はため息をついて、涙をこらえる月芭を凝視する。主観が感情によって偏ってしまうこともある。
「月芭ちゃんからすれば、裏切られたも同然なんだよね。その気持ちは、よく分かるよ」
 喧嘩別れをしたとき、相手に裏切られたような気分になるのは若ければ若いほど仕方のないことだと、翔汰も一応理解はしている。
「翔汰さんは、私の味方ですよね……?」
 月芭にとって拓真くんは敵なのだ。敵に立ち向かうためには味方が必要になる。
「いつでも、じゃないよ」
 率直な思いだけを伝える。それは月芭を傷付けるかもしれない。
「私は一人じゃないって、証明してください」
 その言葉が意味するところは、翔汰にも伝わっている。月芭はその肩に縋ろうとする。
「駄目だよ」
「大丈夫です。……私、初めてじゃありませんから」
「そういう問題じゃないっ。そうやって逃げるから解決しな……っ」
 叫ぼうとして、口を押さえられる。夏だというのに、彼女の体温は下がっている。唇の感触がそのことをしっかりと教える。
 キス自体、久しぶりだった。最後に付き合っていた人と大学卒業前にしたきりだから、およそ三年ぶり。心地よくて、やるせなくて。どんなにきつく閉じ込めていても、人間の欲望とはこうも容易く引き出されてしまうものなのか、と。
「……駄目、だからっ」
 快楽に身も心も委ねてしまう直前で、翔汰は押し留まった。月芭を引き剥がし、ソファに座らせ直す。息を吐きながら頭を左右に振って、立ち上がる。キッチンへ大股で足を運び、リビング側はつけずそこの照明だけをつけてコップに水を注ぐ。一気に飲み干して、叩き割るような勢いでコップをシンクに置く。
 そこまで来て、鼓動の早まりがどうにか治まる。ゆっくり肩で呼吸するように心掛け、気持ちも次第に落ち着いてくる。
 気を紛らわそうと周りを見渡す。玄関には脱ぎ散らかされた翔汰の靴と草履。靴箱の上には月芭の鞄も置いてある。
 翔汰のいるキッチン側は、まだ冷房が効いておらず暑い。今日は熱帯夜だろう。エアコンをタイマー設定にして寝ないと、きっと暑苦しくてたまらない。
 翔汰が現実逃避をしていると、タイミング悪くインターホンが鳴る。電気を全て消していたら居留守を使ったところだが、キッチンの電気をつけてしまっているから出るしかない。
「はい、どなた……」
「久し振り」
 せめて、誰が来たのかを確認するべきだった。来訪者は、翔汰の姉・静恵。まさに最悪のタイミングだった。
「姉ちゃ……ん!」
 姉と認識するや否や、勢いよくドアを閉める。が、そこは姉弟。弟がこういうとき何をしてくるかなどお見通しで、既にガッチリと腕で扉を押さえている。
「まあまあ、そう嫌わずに。べつに取って食おうってんじゃないんだから、落ち着きなさい」
「今日は、マジで帰ってくれ、今すぐ」
「ん? 女がいようと私は気にしないよ。話は玄関で済ませるし」
 翔汰の鬼気迫る懇願も、姉の耳には届かない。
「じゃあ三秒で話を終わらせてくれ」
「いやいや、さすがにそれは無理だって。私はあんたを説得しに来たんだから」
 先日、電話したときのことを翔汰は思い返す。そのうち家に行くと姉はのたまっていた。
「実家に帰れっていう話なら分かったよ! なんなら明日にでも帰る! だから頼む、帰ってくれ!」
「なによ、やけに聞きわけが……」
 姉の言葉が突然停止する。その視線は翔汰の後ろに向かっていた。
「あ、あ……」
 おそるおそる振り返ると、月芭が暗いリビングから顔を出していた。
「女の人……?」
 明らかに泣いた痕の残る少女。浴衣は若干、着崩している。
「翔汰、あの子、ひょっとして高校生?」
「……」
「だって、そこの鞄、桃李高校よね?」
 これは誤解ではない。正当な理解だ。常識人の目が、今まさに二人に注がれたのだ。
「――明日、休みなら日帰りでいいから帰って来なさいって。本来なら父さんと母さんからのその伝言と説得だけのつもりだったけど、さすがにこれは父さんたちに言うから。ちゃんと言い訳考えておきなさいよ。じゃあ」
「姉ちゃん、まっ……」
「いや、どんな事情があってもこれはアウトだから。まだ見られたのが姉だっただけ良かったじゃない。裁判所じゃなく家族会議送りなんだから。社会的にはだいぶ生き延びられたわよ」
「……はい」
「じゃ、そゆことで。またねー」
 膝から崩れそうになる翔汰を横目に、彼女は颯爽と去ってしまった。

   ⅲ

          1

 唐木家は代々文系一家というわけではなかった。翔汰、姉・静恵、母親は文系だったが、父親は根っからの理系人間だった。文系理系の特徴が直接的に遺伝されるとはなかなか考えにくいが、家庭環境によってある程度、影響は出るだろう。
 翔汰の母親は保育士だった。そのため、実家には絵本が多く置いてあり、翔汰と静恵はよく読み聞かされた。静恵にも母親の影響は大きかったのだろう、姉は母親と同じような職業・中学教諭という道を選んだ。そして翔汰には、言わずもがな影響している。
 父親は証券会社で働いていた。仕事人間で、出世も早かった。そのおかげで唐木家は経済的に余裕があり、父親には威厳があった。父親は普段、多くを語らない人間だったが、子供の不義を見逃すような大人でもなかった。
 姉は二十五歳で結婚した。相手は大学の教育系サークルで知り合った、当時院生だったという五つ上の先輩。六年ほどの交際を経て、入籍の運びになった。世の中的には理想形なのだろう。二人に今のところ子供を作る予定はないらしい。喫煙者の宿命――と言うか、最初からそんなつもりすらなかったのかもしれない。
 そんな家庭環境の中にいて、翔汰は比較的健やかに育った。人並みの勉強をして、人並みの大学に入って、人並みに恋愛もして、人並みに生きてきた。
 だから、真っ当だったはずの息子が高校生の少女を家に連れ上げたとなれば、両親の受けた衝撃もひとしおだっただろう。
 翔汰の家から実家までは、電車で一時間半ほど。その気になればいつでも帰れるからこそ、あまり帰ろうという気にはならない。帰ったら帰ったで、面倒な追及が待っている。
 電車に揺られる翔汰は憂鬱だった。暇つぶしに文庫本を一冊持ってきたが、内容が全く頭に入ってこない。挙句、気持ち悪くなってしまう始末。翔汰の隣で読書に没頭している制服姿の少女の方が、どっしり構えられているように見えた。
 『自転車旅行』を黙読する彼女の表情は、真剣そのものだった。ついさっき読み始めたばかりだと言うのに、五十ページほどに差し掛かっている。物語に触れることが月芭に何かを与えているのなら、翔汰にとってこれ以上のことはなかった。
 昨晩、静恵が帰った後、月芭はいつもの聞きわけの良い子に戻っていた。
 風呂に入って、着替えて、歯を磨いて、エアコンのタイマーをかけて……、当たり前のことがとても面倒になってしまって、翔汰はそのままの格好でベッドに吸い込まれる。月芭は何か言いたそうな目をしながら、何も言わないでくれた。咎めず、彼女は蒸し暑いキッチンの方でシャワーを浴び、浴衣を着替える。
 月芭に責任はない。それで彼女が心を痛めているのなら、お門違いもいいところだ。
 朝。目覚めると、月芭がいつものように先に起きて、朝食を作ってくれていた。こればかりはちゃんとお礼を言って、有り難くいただく。今日の予定は一つしかないから、翔汰が彼女に尋ねることは簡潔だった。
「今日、一緒に来たい?」
「……ご迷惑で、なければ」
 月芭の言葉に頷いて、翔汰はようやく実家に帰る覚悟ができた。
 ――電車に乗っているときから、二人の間に会話は少なかった。月芭が本を読んでいたということもあるが、本来の原因はもちろんそこではなかった。
 昨日の夜は、色んな出来事が一遍に起こりすぎた。そのせいで翔汰はあの少年のことについて話を聞き出すタイミングを完全に見失ってしまった。
 翔汰の中の池園月芭という少女が、どんどん謎に包まれた存在となっていく。触れないようにしていたブラックボックスは、もはや触れられるものではなくなっている。
 実家の最寄り駅まで到着して、翔汰はそれとは別の重要な案件について話を切り出した。
「今日、実際に父さんと母さんには会わせられないよ。当たり前だけど」
「見える保証もありませんもんね……」
「申し訳ないけど、うちに着いたら隠れててほしい。家には入れるように俺がしておくから、気を付けて」
 月芭は首を縦に振って、目を伏せる。
「どうしてご実家に誘ってくれたんですか? ご迷惑になるのなら、私は来なかった方がよかったのに……」
 弱々しい彼女を元気づけるでもなく、心に寄り添うわけでもなく、翔汰は率直に答える。
「月芭ちゃんには俺と俺の両親が話してるとこを、ちゃんと聞いててほしい。たぶん、一方的にやられるだけだけど、言いたいことは言うつもりだから……。月芭ちゃんの方こそさ、こうなることは分かってたろうに、どうして来てくれたの」
「私も、翔汰さんのお話をちゃんと聞きたかったので……」
「たぶんほんとに、一方的だよ?」
「それでもいいんです」
 伏したその目が翔汰に向けられる。その目は不安で揺れている。
「……うん、ありがとう」
 翔汰の気持ちは彼女のおかげでずいぶん軽くなっていた。どうしようもない敵、得体の知れない敵、絶対かないっこない敵に相対しても、仲間がいるから強くなれると言うRPGの主人公の心情は、おそらくこういう状態なんだろう。


 駅からバスで十五分ほど移動して、そこから五分。翔汰も、実家は久しぶりだった。
 時刻はちょうど十二時頃。お腹が空き始めていた。
「じゃあ月芭ちゃんはここで待ってて。大丈夫そうだったら連絡する。たぶん話をするなら両親揃って玄関を入ってすぐ左の応接間だと思うから、その部屋の外で聞き耳立てて。母さんとかが部屋から出そうになったら、頑張って引き留めて時間を稼ぐから、すぐ近くのクローゼットにでも隠れて。見つかる危険性もあるから、靴は自分で持ってて。……じゃあ、また後で」
「はい。頑張ってください……」
「ははっ。……頑張ります」
 戦場に赴く兵士のような表情をしている翔汰を、月芭は精一杯励ます。その方法はなんだか気が抜けて、翔汰は笑ってしまう。親に説教されにいくだけで、こんなにカロリーを使う時が来ようとは、思ってもみなかったのだ。
 翔汰が十年以上暮らしたこの家は、あのおばあさんの家と比較するのもおこがましい、一般家庭の一軒家だった。庭には家庭菜園のトマト、茄子、きゅうり。きっと偶然だが、色合いが鮮やかでつい見惚れてしまいそうだ。花壇には夏の風物詩ひまわり。隣にはキキョウ。その周囲には雑草のように生えているカタバミ。もうちょっと統一感があっていいだろうと翔汰は姑のようなことを考えてしまう。
 玄関の上には、ツバメの巣が作ってある。さすがにもうツバメはいないが、巣を壊してしまわないよう、慎重にドアを開ける。玄関に入ると懐かしい匂いがする。
「ただいま」
 言いながら、靴を脱ぐ。コートの類が掛けられたクローゼットには人ひとり入るスペースが十分にあることを目視で確認する。
「……おかえり」
 奥から声がして、心労の様子が伺える母親が出てくる。少し見ない間に皺が増えたかもしれない。
「父さんは?」
「応接間でもう待ってるから、荷物だけリビングにでも置いて、すぐ来なさい」
 リビングだけで翔汰の部屋に近い広さがある。一人暮らしと実家の違いをしみじみ感じている間もなく、翔汰は説教されに行かなければならない。
「ただいま、父さん」
 ふすまを開けて応接間に入ると、計算通り母親も座っている。
「おかえり。座りなさい」
「あ、ごめん、一応会社から連絡とかないか、確認だけさせて」
 適当な嘘をついて、携帯を取り出し、月芭に「いいよ」と簡単に連絡する。
「うん、大丈夫みたい」
「そういうことは先にやっておきなさい」
 母親が口を酸っぱくして言いながら、お茶を差し出してくれる。座って、一口だけ啜る。
「失礼しました」
「翔汰、本題に入るが、大丈夫か」
 父親が改めて確認する。
「はい。問題ありません」
「状況の整理からしようかな。とにかく現状だと、静恵から電話で伝えられた内容しか父さんたちにはない。それが正確だとはとても思えないから、まずはお前と静恵の話をすり合わせるところからだ」
「うん。……何から話せばいい?」
 月芭はもうそこにいるのだろうか。後ろが気掛かりで、父親の話が半分ほど入ってこない。
「最初に聞きたいのは、本当にその女の子は高校生なのかどうか、だ」
「正確かどうかは分からないけど、桃李高校の三年生で合ってるはずだよ」
「桃李……。あのお金持ち学校の?」
 母親が驚いて質問する。そこまでの情報は伝えられていなかったようだ。
「いや、今の時代だ、もう金と家柄だけの学校じゃない。東大も出すような進学校になった」
 父親が諭すように答えると、母親も納得したようだ。
「でも桃李って翔汰の家からも遠いわよねぇ? そんなところの子が、本当にどうして……」
「翔汰、その子とはいつどこで知り合ったんだ?」
 母親が絶句しているが、父親は冷静に話を進める。
「四日前かな……。駅前でうずくまってたから、声を掛けて」
「その間、ずっと翔汰の家に泊まっているのか」
「……うん、そう」
 気まずそうに翔汰が返答すると、父親が首を傾げた。
「四日はちょっと長いなぁ……。その子は家出しているということでいいのか」
「うん、事情が複雑そうなんだけど、家出してるってことでいいと思う。本人が言うには、こっちに来たのは塾に通うため、だとか」
「まさか翔汰、ちゃんと状況を把握してないんじゃないだろうな?」
「……できてない」
 考えるまでもなく、翔汰は月芭のことを何も知らない。これ以上の情報と言えば、一人っ子で、おばあちゃん子で、文系科目が苦手で……、そのくらいだ。
「信じられない。そんな子をよく泊めさせる気になったわね」
 呆れ果てて頭を抱えてしまう母に翔汰はある種の苛立ちを覚える。しかしそれは事前に翔汰も予測していたはずのものだ。必死に取り繕う言い訳を考える。
「事情も全部考慮し出してたら、人助けなんかできないよ」
 それが母親の逆鱗に触れたらしい。
「あんたのねぇ、そういう横着なところがこういう事態を招くの! 自己管理が甘すぎるわ、本当に。たとえあんたは心からその女の子を保護してあげようって気持ちだったんだとしても、一般の人から見たら、成人男性が女子高校生を不純な動機でそそのかしているようにしか思えないの。見られたのがお姉ちゃんでよかったわよ。もし家に一緒にいるところを誰かに見られてたら、警察のお世話になるところよっ!」
 姉にも同じようなことを言われた気がする。翔汰は、呑気にそんなことを考えた。それが真実であり、正論であり、絶対に踏み越えてはならない線引きでもある。翔汰だってそれが理解できないような人間ではない。
 翔汰は己の正義に反するようなことをした覚えはない。唐木翔汰という男の持つ物差しをかざして、その範疇から逸脱する物事を、彼は拒否した。そういう自負がある。母親の言いたいことを拒絶する意図はないが、そういう一般論を重々受け止めた上でこうなっているというニュアンスに、できることなら理解を示してほしかった。
 翔汰は歯噛みして悔しさを滲ませる。
 しかし、子の心親知らずを実感するときは、決まって反対のことが起きている。
「――翔汰、お前どうしてこんな話をされているのか、理解しているか」
 父親が意を決したように口を開いた。
「……? そりゃあ、高校生は問題があるって……」
「それも正しいが、これはお前の使命感の問題なんだ」
「使命感、……」
「大人には果たすべき使命があって、大人である以上、お前も例外じゃない。仕事をすることと納税は国の義務だ。結婚して子供を作るとか、選挙に行くなんてのは使命だろう。義務と使命は違う。使命は、お前の使命感があってこそ生まれるものだ。そういう使命を、お前はちゃんと持っているか?」
「ごめん、よく分かんない……」
 父親は嘆息する。
「……その女の子をすぐにでも家に届けてあげることが、お前の使命なんじゃないのか。家出をしているからって何も聞かずに泊めてあげることは、その子のためにはならない。家出というのは、彼女自身の現実問題から逃避している以外にはあり得ない。そういう子は、現実と向き合わせなければならない。でもお前は、その子が現実と向き合う邪魔をしているだけなんだ。……分かるか?」
 子供は、いつまで経っても親にとっては子供のままだ。それと同じように、親はいつまで経っても子供にとっては親のままで、翔汰はそれを痛いほど理解する。
 月芭が、彼女自身の現実と向き合うということ。それを思うだけで、翔汰はこの身が引き裂かれるような苦痛を味わう。少年の冷たい言葉。月芭の悲鳴のような反抗。孤独を埋めようとする彼女がどれだけ苦しそうな表情をしていたか……。
「俺の、使命は……」
 翔汰の掲げるべき使命はどこにある。何をすればいい。どこへ行けばいい。
 空っぽで、何もできなくて、そんな危機にも気が付かずにいた。
 それが、翔汰の、三つ目の過ちだったのだろう。
「あんた! 昨日の!」
 翔汰がようやくそれに辿り着いたとき、玄関から、そこにいてはならない人の声がした。
 その女が帰宅してきた気配に、翔汰は全く気付かなかった。しかし、そこで起きている事態を翔汰はすぐに飲み込んだ。
「月芭ちゃ……っ」
 背中を捻って、縋りつくように扉を開ける。玄関には駅前の大型百貨店の紙袋を持った姉の姿。その目線の先に、瞳から一筋の涙を流す少女。
 翔汰の不注意で一度ならず、二度も彼女を姉の前に曝してしまった。
「どういうこと? 実家に連れてきて、一体どうなりたいわけ……?」
 静かで冷たい静恵の視線が、今度は翔汰に注がれる。彼女の理解は完全に限界を超え、怒りにも近い感情を誘発する。弟が実家に初めて女を連れて来た。制服姿の女子高生を。
「……っ!」
 月芭は翔汰の言い付け通り抱えていた靴を持ったまま、静恵の制止も振り切って、玄関から飛び出していく。
 背後から両親の怒号が聞こえる。呆気にとられる姉を払いのけてでも、翔汰は彼女を追わないわけにはいかなかった。
 玄関を出ると、何十メートルか先に月芭の姿を捉えることができた。バス停の方向だ。何度も何度も翔汰は彼女の名前を呼ぶ。しかし止まってくれない。
 男女の脚力差で、二人の距離はどんどん縮んでいく。もはや聞こえていないはずがないくらいの距離になってなお月芭が逃げている事実に翔汰は気付かされた。
 月芭が、何から逃げているのか。
「……くっ!」
 理由は分からない。しかし錯乱にしては長すぎる。彼女のそれは、意志を持った逃亡だ。
 バス停まであと数十メートル。反対車線にはバス停がある。二人の距離も二十メートル以内に縮んでいる。月芭は歩道橋を駆け上り、反対車線の方へ。その階段を駆け下りる前で、彼女は踵を返し、止まった。
「来ないでください!」
 翔汰がちょうど階段を上り切ったところで、月芭が叫ぶ。それに気圧されて、翔汰は出しかけた足をひっこめた。
「どうして」
 率直な疑問だけを彼は口にする。額からは汗が噴き出す。
「これ以上翔汰さんに、迷惑を掛けたくないからです」
「迷惑なら、いくらでも掛けてくれていい。これから先、月芭ちゃんが俺に掛けてくれる迷惑は、俺の贖罪になるから」
「私は、もう翔汰さんのお世話になるわけにはいかないんですっ」
「身勝手だよそんなの。責任を感じているのは、月芭ちゃんだけじゃない」
 翔汰は自覚していた。身勝手なのは、彼自身も同じだ。それでも譲れないのは、月芭を失いたくないという一心からだった。
 彼女は息を整えるように一拍置いて、翔汰を真っすぐに見据えて言う。
「それじゃ、駄目なんです……。翔汰さんは、私を私自身の現実と向き合わせようとするでしょうっ? ここにいる理由を聞いて、あの人のことも追及して、私に家出をやめさせようとする……っ。昨日までの私は、翔汰さんの力を借りて、時間を掛けてそうしようとしてたんです。でもそれじゃ意味ないって、やっと気づきました」
 月芭は、自らの運命と向き合おうとしていた。必死に生きようとしていた。覚悟の定まった少女を前に、いまだ覚悟の定まらない男が、何か言えるはずもない。
「――私は、ちゃんと私自身の力で現実と向き合います。だから翔汰さんも自分のやりたいことをしてください。翔汰さんの小説家になる夢、私は応援しています。好きな小説の話をするあなたは、ステキでした」
 後生だから、そんな優しい言葉を言わないでくれ。悲しい別れを美しくしないでくれ。
 翔汰はただ茫然と立ち尽くして、その姿はきっとかっこ悪い。
「頼りっきりで、本当にごめんなさい! もっと、あなたに何かをあげられるような私になりたかった。……翔汰さんの教えてくれた本、絶対、最後まで読みます。それが私にとって、現実と向き合うことですから……。さようなら」
 深く下げた頭を戻した後、体を反転させて歩道橋の階段を下りていく。黒く艶のある髪は、汗で首筋にくっついて鬱陶しそうだ。それでも月芭は清々しい表情で、気丈を装っている。前を向き、胸を張り、堂々としていて。
 歩道橋を下りて、すぐにバス停がある。タイミングよくバスが来て、月芭は翔汰に一瞥もせず、乗り込んでしまう。ふと、彼女はお金を持っていただろうか、と思い至るが、夏祭りのとき持っていた二千円のことを思い出す。あれがあれば、家に帰れるのだろう。


 家に置いたままの荷物を翔汰は取りに帰らねばならなかった。これほど気まずい帰省もない。
 どんな顔をして姉に会おうか。この際、全ての事情を話してしまおうか。彼女は一部の人間にその姿が見えないようで、翔汰は匿っていただけなのだ、と。それでもなお叱責を食らうようなら、そんな親族はこちらから縁を切るつもりでいる。
 家までの短い時間にそんな段取りを考えるが、実家に戻った途端に、冷静になってしまう。そんな話は誰も信じてくれない。
 いっそ用がある、財布と文庫本の入った鞄だけ取って、逃げ帰ってしまおう。
 しかしその段取りも、一瞬で砕かれる。
「おかえり。早かったわね。でもあの子は一緒じゃないみたいね」
 玄関前で扉に寄りかかり、煙草をふかす姉。その手には翔汰の鞄。
「……」
「財布の入った鞄が置いてあったから、どうせ帰ってくると思ってたわ。つくづくわかりやすい子ね、ほんと」
「かばん返せ」
「返したらすぐにでもどっか行っちゃいそうな顔して、偉そうに姉に命令してんじゃないわよ。まだ翔汰は、説明責任を果たしてない。それが嫌なら、絶縁でもなんでもしなさいな。今、ここで、私の目の前で決めなさい。説明するか、絶縁するか、どちらか一つよ」
 静恵は憤慨していた。しかしその理屈は筋が通っていて、なおかつ簡潔で、翔汰の心情すら完全に見通しているようだった。
 こんなふうに話し合いのとき理詰めで事を進める女性を、翔汰はもう一人知っていた。そう、秋坂はちょうどこんなふうに目頭がきつくて、容赦がなくて。でも、二つに一つの絶対的な選択を迫ってくるのは、姉の厳しさしかあり得なかった。
「……説明は、できることなら、したくない」
「じゃあ絶縁ね」
 翔汰の説明責任はそれほどまでに重いのだという意味合いを込めた「絶縁」の言葉は、彼女の気迫によって現実味を帯びる。本当にそれが二者択一の問題であるかのような。
 煙草の火が上っていって、じりじりと灰を作る。静恵が人差し指を振ると、その燃えかすが地面に落ちる。煙草を口に当てて、吸い込んで、吐き出す。ただそれだけの行為が、翔汰を正常ではなくさせる。
「……タバコ、やめろよ」
「煙草?」
 彼の体温を上げるものは、照り付ける日光ではない。空虚な怒りだ。
「お前が、タバコをしてなかったら……。お前さえ、もっと違う人間だったら……」
 だったら、どうなるんだ。もしも静恵が煙草を吸う人間でなかったら、執拗なほど弟に気に掛けてくるような姉でなかったなら、翔汰の人生は、どうなっていた――?
「あぁ……」
「それと今回のことと、何が関係してるわけ?」
 静恵は翔汰に非難の目を向ける。そんな目をされなくとも分かっている。こんなものは、妄想で、現実逃避で、八つ当たりで……。
 敵のいない物語などどこにもない。もしもRPGのラスボスがいなければ、そもそも主人公たちの冒険は始まっていない。もしも小説の敵役がいなければ、主人公たちに葛藤は生まれていない。翔汰は、彼女に生かされている存在なのだ。
「……姉ちゃん、俺、悪いことをしたとは、全く思ってないよ」
 翔汰にできることは、思いを包み隠さず言うことだけだ。
「あんたに悪意がないことくらい、最初から分かってるわよ。でも、あんたはあの女の子の保護者じゃない。保護者じゃない人間にその子を匿う権利はない。どんな事情があっても」
 先回りをするように、静恵は翔汰の逃げ道を摘んでいく。つまりは、月芭の置かれた状況がいくら例外的なものであろうと、翔汰の犯した罪は揺るがないのだ。
 翔汰は姉に観念する以外、初めから選択肢はなかったのである。
「……俺は、何を説明すればいいの」
 静恵は一瞬だけ厳しい表情を崩す。すぐさま目つきを鋭くさせ、次の言葉を発する。
「翔汰が、あの子をどうしようとしてたか」
「どうしようとって、どうもしようとしてないよ。あの子には他に行き場がなかったから」
「本当に、不純な気持ちは一切なしに、匿っていたの?」
「不純な気持ちって、なんなんだよ」
「セックスしたかって聞いてんの」
「せ……っ! し、してねぇよっ!」
 今までなんとなく伏せてきた単語を、あっさりと言われてしまった翔汰は、全く動じない様子の姉を前に、自分の方が恥ずかしくなってしまう。
「じゃあ、昨夜のあの雰囲気はなんだったわけ。どう見ても、事後だったわよ」
「か、彼女の方が寂しくなったみたいで、だからっ、せ、迫ってきただけ。き、キスは拒めなかったけど、それ以上はしなかった。そしたら、姉ちゃんが突然来て……」
「ふーん、そう。それが本当なら、私としては安心なんだけどさ」
 煙をもう一度深く吸い込んで、溜息でもつくように、彼女は音を立てて吐き出す。一気に吸い込んだ煙草本体は半分近く削れてしまって、静恵は携帯灰皿を取り出して、火を消してしまう。そこで終わりかと思いきや、二本目をつける。
「ねぇ翔汰、なんで今回のことがこんなに追及されてるか、わかる?」
 それと似たことを、翔汰は数十分前に父親から問われていた。
「父さんが言ってたのは、俺の使命感の問題なんだって」
「使命感?」
「うん。どうやってでも彼女を家に帰してあげなければならないっていう使命感が俺には欠けてたから、こういうことになったんだって」
「あー、違う違う。私が言いたいのはそういう精神的なことじゃなくてね、もっと具体的な、身体的な話」
「……ごめん、分かんない」
「姉ちゃんね、あんたの気持ち、すごくわかるんだ。私も旦那は五つ上で、大学生で付き合いだしたときは、周りから年の差カップルなんて揶揄されたものよ。どうしてだと思う?」
 鼻で嘲笑うようにして質問する静恵に、翔汰は戸惑いながらも答える。
「大学生で五歳差は、確かにでかく感じるから……」
「うん、だって、大学一年生と大学院二年生よ? サークル内で見た時に最下級生と最上級生じゃ、そう言われて当たり前。でも、五歳差の夫婦なんて平安時代からごろごろ存在してるわ。要はね、そういう物差しは、印象と見えてる範疇で決定されちゃうってことなの。高校生と社会人って聞けば、誰もが偏向的な印象によって断ずるべきだという方向に動く。最下級生と最上級生の恋愛なら、見えてる範疇では一番あり得ない組み合わせだから、規制すべきだと誤解してしまう。本当は、大したことないのに……」
 小さく煙を吸い込んで、少しだけ吐き出す。それを二、三度繰り返す。翔汰には、静恵の煙草を吸う姿が、ぎこちなくなっているように思えた。
「――考えてもみてごらん、あと三年もすれば、あんたとあの子の関係がどうなろうと、それをとやかく言うようなことは誰にもできなくなる。子供は得てして不安定だから、時に選択を間違える。間違えて悪い大人の餌食になることを、社会は良しとしない。なら、あんたが悪い大人じゃないって証明してやればいい。社会的に対等とは見なされない二人が対等になろうとすることは、とても労力と時間を必要とする。でも、あんたにその気持ちさえあれば、きっとできる」
 どこか遠くに行ってしまった姉が、今はとても近くで見守ってくれているように感じた。翔汰は、姉の背中を見て憧れていた子供の頃を思い出していた。
「その上で、聞くよ。……あんたは、あの子をどうしたい?」
 天秤がどちらに傾いているかなど、もはや問うまでもない。比較ではなくて、翔汰が今すべきことは、それを表明することだった。
「今この場で、あの子のことを好きだと言えないなら、すぐに手を引きなさい。好きだと言えるなら、誠実なあんたなりのやり方で、それを表現してやりなさいっ」
 しかし、否。翔汰は自信を持って首を縦に振れない。
「でも、断られたんだ。責任を取らせてほしいって伝えたのに、これ以上、俺に迷惑かけられないからって……」
「バカ! あんたが責任を感じるべきことで泣いてくれる女の子なんて、あんたに惚れ込んでるに決まってるでしょう! どんなに強がってても、強引にでも連れてってほしいに、決まってるじゃないの!」
「強引に、」
「強引に惚れた女の一人も連れ戻せないなら、あんたはもう男じゃない」
 姉の口調に、一切の緩みはない。厳格な物言いと鋭い眼光。でもそれがあの憧れた姉の一部なのだと、翔汰はようやく納得した。
「俺は、あの子のことが、月芭ちゃんのことが好きだ。だから……」
 唐突に、胸に衝撃が来る。乱暴に投げつけられた鞄を翔汰はなんとか受け取る。
「じゃあ追いかけなさい! それで今度は堂々と自分の彼女だって、私に紹介してみなさい」
「……ありがとう、姉ちゃん」
「さっさと行け! クズ!」
 踵を返し一言お礼を言うが、そんなものはいらんとばかりに怒号だけが返ってくる。火のついた煙草でも投げつけられる前に、早々に退散した方が賢明だ。

          2

 夏の炎天下の中を闇雲に探し回るほど、翔汰も余裕がないわけではない。バスを待つ間に出る望みもほとんどない電話を試みて、十回コールしたところで諦めた。短い言葉で連絡しても、既読は付かない。バスの中で頭をクールダウンさせつつ、次の対策を考える。できることと言えば、月芭の行きそうな場所を当たってみることくらいだ。
 自分の力で現実と向き合う、と月芭は言った。だから、そのままの姿で帰宅してしまった可能性もある。それで親にも見えなかったとしたら、きっとそれが最悪だ。月芭が家出まがいのことをして既に四日以上が経過している計算になるが、その間に親が捜索願を警察に提出している場合も考えられる。その可能性を考慮すると、目撃者として情報を警察の方から仕入れることも選択肢の一つではあるが、警察にも見えないのならそれこそ意味がない。
 そもそも月芭は何故その姿が認識されないのだろうか。見える人、見えない人、そのどちらが異常なのかによって、その性質は変わってくる。それは、特定の人間が「見えない」のか、それとも特定の人間だけが「見える」のか、ということ。翔汰が発見して以降、見えるのが翔汰だけではないということは既に認められた。その傾向は主に中年男性に偏っているようだが、中年男性ならば例外なく月芭の姿を捉えられたというわけでもないらしい。その他、確実に見えている個人は、静恵、柳などが挙げられる。つまり、中年男性というヒントは謎を究明するためにはあまり役立つ情報でもないのかもしれない。しかし翔汰は、特定の人間だけが「見える」のだろうと直感的に考える。
 自宅の最寄り駅に到着した翔汰は、まずいつもの書店に立ち寄る。店内を一通り回り、アンケートに協力してくれた店長さんに尋ねてもみるが、月芭らしい女子学生は見ていないと言う。念のため一度帰宅するが、ここにもいない。翔汰は気を引き締めるために冷水シャワーを浴びて次の策を考える。
 思い当たる場所は全て行くべきだったが、ある場所に思い至って、翔汰は一瞬躊躇った。しかし頭に浮かんだが最後、一筋の希望が見える限り、そこへ行かずにはいられなかった。
 翔汰は、夏祭りの行われた神社を訪れていた。まだ昨夜の撤収が行われているこの場所に、月芭がいる可能性はほぼ0だ。
 あの時「拓真」と呼ばれていた少年。月芭の元彼と思われる人物。月芭に至る道筋は、きっと彼から繋がっている。
 露店のおじさんがあちこちで作業をする中、一人、明らかに年齢の低い少年がいる。月芭と同じ高校三年生だとしたら、少しばかりサイズが足りていない。日本人の平均身長ほどの翔汰より十センチ以上は小さいかもしれない。彼には「少年」という呼称がぴったりだった。
「こんにちは」
「……だれ、おじさん。見ればわかるけど、俺、手が離せないんだけど」
 首にタオルを巻いた少年はこちらに見向きもしない。機嫌が悪そうだ。彼は中腰でテントの上に被せる天幕をしまう作業を忙しなく行い、本当に手が離せるような様子もなかった。
「池園月芭って名前は、わかるよね」
「……っ、あぁ、昨日の」
 眉がぴくっと反応する。その動揺の色を隠して、彼はようやく翔汰を見やる。
「単刀直入に言うけど、その月芭ちゃんのことを少し教えてほしいんだ」
「はっ、なに、早速フラれたの? お気の毒に」
「うん、フラれた」
「……なに。マジで俺忙しいから、邪魔なんだけど」
「それが片付けばいいの?」
 言って、翔汰はテントの金属のパイプ部分に手を付けた。
「ちょ、やめろ! 素人が手を出しても余計時間かかるだけなんだよ!」
「ふんっ……! か、かた……」
「だから言ったろ。こういうのは力じゃねぇんだよ。技だ、技。支柱の一番力がかかってるところを一瞬の力だけで畳むの! 俺がやるから、どいて」
 翔汰を退けて、彼はテントを器用に畳んでいく。イベント用のテントは近くの高校から借りてきたもののようで、わりと年季が入っている。金具は錆びかけ、コツを掴んでいないと実際難しいのだろう。
「ほんとだ、上手い……」
 その手際の良さに、翔汰も思わず舌を巻く。少年も得意げになる。
「子供の頃からやってたらこんくらい当然! ほら、お前の出る幕なんてねぇんだ。わかったらさっさと帰れ」
「は、話を聞くまでは帰れないんだ」
 引き下がろうとしない翔汰を見て、少年は忌まわしそうに舌打ちする。
「だから……、もう俺とあいつは関係な、」
「あぶっ……」
 少年がよそ見をしている間に、テントが傾いた。彼が手を滑らせたのだ。テント全体がその傾いた方向、少年に向けて圧し掛かろうとする。翔汰の手が出たのは反射的なものだった。
「ない!」
 受け止めて、テントの動きが止まる。咄嗟のことに目を閉じてしまった少年は、呆気に取られて目を瞬かせている。が、翔汰がその重みに耐えられるのもほんの数秒の間だけ。
「お、おも……」
「おい! どうした、大丈夫か!」
 その限界に到達する手前で、異変に気付いた露店のおじさんが一人駆けつけてくれる。祭りの男はさすがに力強い。一人でテントの重みを支えて、翔汰たちを逃がしてくれる。どっこいしょ、という掛け声とともにテントを地面に下ろす頃に、少年は状況を把握できたようだ。
「あ、ありがとうおじさん。……お、お前のせいだぞ!」
 おじさんに礼を言ったかと思えば、翔汰には厳しく当たる。
「おいおい、拓真くん、そりゃあねぇよ。この兄ちゃんはお前を助けてくれたんだろ。それに、一人でテントを片付けてたのはおめぇの方じゃねぇのか。子供一人で片付けんなって最初に注意されただろうが」
「そ、そうだけど、俺だって、こいつに気を取られなきゃ……」
「おうおう、わかったから、ここは俺が片付ける。子供は休んでていいぞ」
「こ、子供扱いすんなって!」
 おじさんが肩を叩いてやろうとすると、少年は嫌って払いのける。微塵も気にかけない様子でおじさんは翔汰に話す。
「兄ちゃん、こいつに用があるならどこぞに連れてってくれて構わねぇよ。拓真くん、恩人には誠意を示せ」
「うるせぇ」
 投げやりに彼は返答する。つまらなさそうにそっぽを向いて、その場を離れようとする。
「あ、ありがとうございます、おじさん」
 改めて露店のおじさんにお礼を言ってから、翔汰は拓真を追いかける。
「拓真くん、待って」
「フラペチーノおごれ」
「え?」
 予想外の単語に聞き返してしまう。耳を赤くしながら、拓真はもう一度言った。
「駅前のスタバでフラペチーノ奢るんならそれまでの間だけ話をしてやるって言ってんだ!」
「ふ、フラペチーノでいいのか……?」
 口に馴染まない言葉を発して、翔汰はいくぶん不思議な感覚に陥った。しかしそれで月芭の話が聞けるなら安いものだ。
「あ? ドーナッツも付けてくれんのか? 気前いいじゃねぇか、このやろ」
 いつの間にか注文が増えている。
「そ、それでよければ、こちらこそ、なんだけど」
「勘違いすんなよ。手が空いたから付き合ってやってるだけだ。休憩がもらえてなけりゃ、お前なんぞ眼中にもない」
「そ、そうか……」
 気分は良くないが、ここは下手に出るのが正解だろう。拓真を手前に置く形で翔汰がついて歩けば、きっと彼自身の気分は良いだろう。
「それじゃあ拓真くん、池園月芭って女の子のことは、よく知ってるんだよね」
「……おい、誰が拓真くんだ、おっさん。俺の苗字は五十嵐(いがらし)だ。気安く名前で呼ぶな。それと、お前自身がまず名乗れ。じゃないとおっさんって呼び続ける」
「あぁ、ごめん。俺は唐木翔汰。この近所に住んでる」
「じゃあ唐木、最初に聞くけど、お前、月芭の何なんだ」
 呼び名や態度の問題が頭から綺麗さっぱり消し去ってしまうような威圧感。ドスの利いた三白眼が翔汰を捉えて離さない。妙なことを言えば殺される。翔汰はそんな恐怖さえ覚えた。
「……恋人でもなんでもない。ただ、昨日まで彼女を家に泊めてた」
「さっきフラれたって言ってたのは何だ?」
「言葉の綾だよ。正確には、決別されたんだ。いま彼女がどこにいるのかも、俺には分からない」
「へえ。ま、結論から言って、俺はあいつがいま何をしてるのかも、どこにいるかも知らねぇぞ。そういう情報が知りたいなら、他をあたれ」
 フラペチーノは奢ってもらうけどな、と付け加えながらも、拓真は無表情を作っている。
「いや、そんな簡単に月芭ちゃんまで辿り着けるなんて、さすがに甘い考えは持ってないよ。俺は月芭ちゃんがどういう女の子なのかを知りたいんだ。……それからできれば、五十嵐くんと月芭ちゃんの関係についても」
「ほざけおっさん、下心見え見えなんだよ。要はただのストーカーだろ。フラれても付きまとってるだけじゃねぇか」
 拓真は自分が何故こんなにもムカついているのか、正確には分からなかった。それでもその怒りの勢いのままで、ぶつけてやればいい――。
「第一さ、泊めてたってのも濁してるだけで、金渡して援交してたんじゃねぇのかっ」
 拓真が言葉をオブラートに包むはずもなかった。それは第三者の立場として一番言いたいことであり、また、彼自身の感情の発露でもあった。
「お金なんて渡してないよ。家出をやめるまでは寝るところを確約する代わりに、ご飯を作ってもらってただけ。それ以上のことは、……まぁしてない」
 翔汰の逡巡を、敏感になっている拓真のセンサーは見逃さなかった。
「嘘だ。それ以上のことも、やってんだろ」
 怒りは頂点に達しそうなのに、激昂には程遠い。拓真は知らず知らずのうちに、怒りを制御していた。
「……キスまでだ」
 翔汰の観念したような声。それが事実なのだと、受け入れるべき現実なのだと理解すると、次に込み上げてくるのは、悲しみだった。
「本当、なんだろうなっ?」
「それ以上は、間違ってもしてない」
「……じゃあそれは、月芭が望んだことだったのか」
「俺自身は望まないことだったと言えば嘘になるけど、少なくとも俺から提案はしてない」
 その男がありのままを話しているのだとしたら、悔しいが認めざるを得ない。拓真は、震える声を振り絞るようにして訴えた。
「月芭はそんなにもお前に心を開いてたのに、じゃあなんであいつは、お前の前からいなくなったりしたんだよっ……!」
 非難の声は掠れていて、翔汰にも彼の動揺がありありと伝わってくるようだった。翔汰は小さく息を吸って、答えた。
「……あの子は、現実と自分自身の力で向き合いたいって言って、俺のもとを離れていったんだ。俺に心を開いたままじゃ、それができないと悟って……。辛いだろうけど、拓真くんには、彼女がどんな現実と向き合おうとしているのかを、教えてほしいんだ」
 立ち止まって突然、まるで夕立のように涙があふれ出した。悔しくて、ありがたくて、悲しくて、嬉しくて、今までに味わったことのない感情が、拓真の胸の中には湧き起こっていた。
「五十嵐くん……」
「こっち見んな、くそっ。涙腺が故障しただけだよっ」
 翔汰は五十嵐拓真という少年の中の優しさを垣間見たような気がして、つい微笑んでしまう。
「なに笑ってんだ、このやろっ。フラペチーノのサイズ、ベンディにするぞ、くそっ」
「――拓真くん、月芭ちゃんのこと好きなんだね」
「す、好きじゃねぇよっ! あ、あんな身勝手な女、どこへでも行っちまえばいいんだ……っ」
 自然に拓真の隣に立つ。
「故障の方は自分で直せそうか?」
「黙れ! もう一度でもその口を開いたら、蹴とばしてやる」
 蹴とばされる前に翔汰は口を閉じた。一生懸命に首に巻いていたタオルで涙を拭き取る少年の背中をそっと押して、もう一度歩きだす。
 駅前に近づいてきて、スターバックスの店舗が見える頃には、拓真も落ち着いていて、涙の痕は残るが、普通に会話はできるようになっていた。
「マジで奢ってくれんのな」
「まぁこれでも一応大人だし。じゃあ、キャラメルフラペチーノのベンディでいいか?」
「いや、トールでいいよ。よく考えたら、そんな食えねぇし」
 ちゃんと話せば、高校生とはやはり可愛らしいもので、彼の身長とも合わさって、弟がいたらこんな感じだったのだろうかとも夢想してしまう。
「スタバにはよく来るの?」
 フラペチーノとドーナツ、翔汰の飲むコーヒーを注文して待っている間に、ふとした疑問を投げかけた。
「普通は来ねぇ」
「じゃあどうしてスタバって言ったの?」
「……高いもん奢らせた方が威嚇になると思ったから」
 拓真は居心地悪そうに視線を逸らしている。が、何度も言うようだが翔汰にとっては気を遣われるような出費でもない、ということは、言わないでおく。
 商品を受け取って、店内のカウンター席で横並びに座る。拓真は小腹が空いていたのか、一口でドーナツを半分は食べてしまう。その様子を見ていると、翔汰の腹が鳴った。
「あ、俺、昼飯まだだったんだ……」
 昼食前に実家に到着して、そこからは時間の経過を忘れていた。
「これはやんねぇぞ、もう俺んだから」
「奢ってあげたものを貰ったりしないよ……。ちょっと買ってくるね」
 言って席を立ち、腹に少しでもたまりそうなドーナツを買って、戻ってくる。
「五十嵐くんは、さ――」
「拓真でいい」
 ドーナツの残り半分を咀嚼しながら言う拓真。翔汰も話を遮られて悪い気もしなかった。
「拓真くん、今日はずっと夏祭りの片付けの手伝いしてたの?」
「十時くらいからだな。昼飯がおにぎりだけだったから」
「親の手伝い、なんだっけ?」
 拓真とのファーストコンタクト、昨夜に彼はそんなことを言っていた。
「そう、昨日は金魚すくいの番やってた」
「へぇ……」
「……うちの親、テキ屋だから、そっち方面の人間とも面識あるんだ」
「えっ」
「さっき助けてくれたおっさんいたろ? 実はあの人もそうなんだよ」
 翔汰も噂にも聞いたことはある。夏祭りの露店などは、反社会的勢力が仕切っていて、その収入は彼らの資金になっている、とか。そういう世界が、翔汰の身近なところでも繰り広げられていたのか。
 あの、人の良さそうな綿菓子売りのおじさんも、他人に対して関心がなさそうだった焼きそば売りのおじさんも、もしかするとそうだったのだろうか。
「みんな良い人だよ。子供の頃からずっと親に付いて行って、できることだけでも手伝ってたから、よくおじさんたちに可愛がられて……。俺、生まれつきか知らないけど目付きが悪いからさ、冗談半分で言われんだよ。そのツラなら十分こっちの世界でもやっていけるって」
「わりと冗談じゃないな……」
「俺はずっとそういう世界で生きてきたから、もう慣れてる。と言うか、世の中そういうことだらけなんだ」
 翔汰にとってそれは妙な言い方に感じた。はっとして、身を乗り出して尋ねる。
「そんな危険な目にあったりすることがあるのか」
「ちげーよ。俺が言いたいのは、桃李高校のこと。――あそこはずっと金持ち高校だったから、そういうところとは切っても切れない関係だった。悪い伝統は学校の方針が変わっても断ち切れない。みんな家柄のことなんて普段話さないけど、クラスメイトの何人かは、そういう家の出身なんだ」
「桃李が……」
 翔汰のイメージでは、もっと気品あふれる清楚な学校という印象だった。近年では東大も出すような進学校になった、とは父親の弁。
「意外か? ……まぁだからこそ話したんだけど、なんつーか、キモイんだよ、みんな」
「どういうところが?」
「プライドとか外聞とか他人からの評価とか、みんなバカみたいに気にしちゃってさ。彼氏彼女もいないなんてかわいそーとか、童貞処女は捨てるのが早い方が勝ち組とか、旧帝大未満は低学歴だとか、意味わかんねーの。そういう生き方が、性根まで染みついてやがる」
 目を細めて、拓真は翔汰の知らないどこかを見つめていた。その苛立ちを、翔汰は一人の少女にも垣間見たことがある。
「拓真くんは、月芭ちゃんと同じ三年生でいいんだよね」
「うん、もちろん」
「今頃ほとんどの三年生は、勉強合宿に行ってるって」
「ハハッ……、あぁあれね。キモイよな、何がこの夏で一皮剥ける、だ。剥けすぎて二度と戻んなくなればいい」
 嘲笑し、拓真はフラペチーノを啜る。さっきから、こんなコーヒーの良い匂いが香る場所でするような話ではなかった。
「月芭ちゃんも、友達関係には不満を持ってる様子だったよ」
「あいつのことを思うと、俺なんてまだマシな方なんだ……。確かにもともと俺みたいな不満を持ってはいたけど、三年生になってからは、もう完全にクラスから孤立してた。どうしてかわかるか?」
「……みんな、受験で焦りだしたから?」
「まぁ大雑把に言えばそうなんだけど、理由はもっと具体的なんだ」
「それって?」
 月芭の日常。彼女が普段何を考えて、何をして生きていたのか。
 拓真は、その全てを知っている。翔汰を、解に導いてくれる。
「唐木は、池渕洸太郎って知ってるか?」
 しかし、その解がこんなにもすぐそばにあるとは、思ってもみない。
「池渕っ? し、知ってるよ、もちろん」
「もちろん、か。じゃあ『自転車旅行』も知ってる?」
「俺の大好きな本だ」
「なら、話は早い」
 拓真は翔汰の食いつきぶりを知ってから知らずか、彼をいなすようにゆったりとした口調で話す。息を吐いて、翔汰に真実を告げた。
「月芭は、池園月芭は、直木賞作家・池渕洸太郎の実の孫娘だ。そして池渕の『自転車旅行』、あの主人公の少女はたぶん、月芭をモデルにしてる。自分の運命に抗って、孤独と闘う月芭の未来を、祖父の池渕は、予見してた。――愛する孫娘に何もしてやれない自分自身を憎んで、物語に想いをしたためた。俺は、そう確信してる」
 室内だというのに、翔汰は強い風を正面から受けているような感覚だった。
 息もできない風の中で、しかし翔汰は、力強く立っていた。
 いや、立っていなければならなかった。
 その真実を受け入れるためには、自分が彼女にしたことを、そしてそのときの彼女の反応を、全て思い返さねばならない。
 翔汰は、文系の不得手を克服させるために、半ば強制的に読書を勧めた。初め、彼女は池渕の本を見て、戸惑っていた。しかし一冊本を読破したことで、池渕の本にも挑戦していた。そして翔汰に言った。その本を最後まで読み切ることが、彼女自身の現実と向き合うことになる、と。
「そうか、池渕が、」
 震える手でコーヒーを口に持っていく。少しでも己を落ち着かせて、もっと色んなことを知りたかった。しかし焦りは拭えなくて、当然のようにむせた。
「唐木、落ち着けっ。バカやろうが」
「ご、ごめんごめん……っ。だ、大丈夫だから、話の続きをお願い」
 拓真は心配そうに口を曲げて翔汰を見つめるが、鼻で小さく笑ってから、続きを始めた。
「……みんなが受験を意識するようになってから、あいつの特に現代文の出来が目立つようになったんだ。あいつの祖父が昭和の大作家だって話はそれなりに有名だったから、じゃあなんで学年最下位レベルなんだよって誰かが言い出して、養子だとか劣性遺伝だとか、適当なことを噂してみんな面白がってた。実際はそんな簡単な話ですらないのに……」
「そんな、適当な……っ」
「自分が追い込まれれば、周りを蹴落としてでも上がろうとする。そういう根性してやがるんだよ、あいつらは」
「月芭ちゃんは、それに反抗したんだね……」
「ああ。一度、クラスの女子が、面と向かって月芭に言ったんだ。なんでそんなに現代文ができないのって、おじいさんは大作家なのにって。月芭は怒った。おじいさんが作家だろうと私には関係ない、そんなふうに比べられる筋合いはないって。異様だったよ」
 その異様さは、又聞きの翔汰にさえ伝わった。
 祖父と比べられる筋合いはない――。明確な拒絶だった。
「比べられる筋合いがないわけがないんだよね、普通は……。遺伝で現代文ができるようになるとは言い切れないけど、全くできないというのは、どう考えても違和感がある」
「そ。それでみんな彼女を避けるようになった。先祖に感謝しない、傲慢女だってな……。でもべつに月芭は、おじいさんのことを嫌ってるわけでもねぇんだ。問題があったのは、月芭の両親の方」
 拓真が苦い表情になる。
「池渕の子供、月芭の父親は文学研究者で、母親は絵本作家だった。その血統が、月芭に異常なまでのストレスを与えた。桃李に通わせることも決定事項。そんな環境じゃ月芭だって、自分が本当にしたいことを見つけられるはずもない。――月芭の両親は、文学に対する興味が月芭にはないと知るや否や、月芭を見捨てた。孤独に追いやった。ろくに月芭に、自由も与えないまま……っ」
「……」
「この話を月芭から聞いたのは、高校二年の最後、付き合いだして一年くらい経ったときだった。その全てを話して、あいつは俺に、助けを求めた。俺だって、あいつのことを全力で受け止めようとした。あいつの求めることは大体叶えてやったし、休日はなるべく一緒に出掛けてやった。でも、池渕の『自転車旅行』を読んだ瞬間に、悟ったよ」
 拓真の表情は険しく、苦虫を噛み潰したようだった。
「俺に月芭を助けてやることはできない。親に大切にされない辛さを、俺は、理解してやれなかった……っ。俺の周りにいる人は、ずっと俺を肯定してくれていた。社会的に見れば、嫌われている人たちなのかもしれないけど、俺を肯定してくれる人たちを、嫌いになれるわけがなかった。それが、月芭と俺との決定的な差になった――」
「拓真くん……」
 翔汰は何も言ってやれなかった。彼の悲しみを、苦しみを、改めて理解したからだ。
 しかし拓真は、ふっと安らかな表情をした。
「……でも月芭に、自分の力で現実と向き合う覚悟ができたなら、俺は嬉しい。あいつをそういう気にさせてくれたお前にも感謝したい」
 その言葉に、翔汰は拓真の喜怒哀楽を感じ取る。
「俺は、本を読ませようとしただけなんだ。その中の一冊に、偶然『自転車旅行』が入ってた。だから偶然なんだよ。俺が月芭ちゃんを現実と向き合わせることになったのは」
「偶然でもなんでもいいさ」
 拓真には、肩の荷が下りたという表現がぴったりだった。しかしそれはそもそも、少年が抱えられるような荷物ではなくて、言い方は悪いが、拓真が月芭から手を引いたのは、最良の選択だったのかもしれない。
「……月芭、俺のことを何か言ってたか?」
 板についたようなタメ口で拓真は尋ねた。年齢差は実は七歳もある。
「あの人は、一方的に私を捨てたんだって……」
「はぁ……、まぁ、そういうことになるよな……」
 今度は少年らしくいじけてみせて、ずるずるとフラペチーノを飲む。
「未練がある?」
「バーカ、さっきも言ったけど、もうあいつのことは好きでもなんでもねぇ。別れてからは話しかけても無視するしさ、答えても喧嘩腰だしさっ」
 拓真の中にも、後悔と罪悪感があって当たり前だった。その罪滅ぼしのように、別れてからも彼自身からの行動は積極的にあったのだろう。しかしそれで受け入れられないと来れば、反発してしまうのが男心か。
「もう俺は、取り返しがつかないから、あいつのことは、お前に譲ってやるよ」
 そっぽ向いて、拓真は恥ずかしそうに何か言っている。強がりだろうか。
「ごめん、最初からそのつもりなんだ」
「黙れ! くそが!」
 苛立ちをこれでもかと詰めた拓真の咆哮。翔汰は笑ってごまかす。
「……それで拓真くん、もう一つだけ聞かせてほしいんだけど、月芭ちゃんの実家とかって知ってる?」
「知らねぇ。俺は行ったことないから」
「よ、弱ったなぁ……」
 最初から拓真は月芭の居場所を知らないと言っていた。だから仕方ない。
 翔汰は次なる手掛かりを自力で探し出さなければならないのかと覚悟したのだが。
「でも池渕洸太郎の家だったら知ってる」
「えっ、そんなのがあるの?」
「って言うか、ここらじゃ有名だろ。歩いても行けるしさ。――ほら、見たことないか、駅前の書店の脇道をずっとまっすぐ行って十分くらいのところにあるお屋敷」
「お屋敷……」
 翔汰の記憶が彼自身に知らせている。その場所に行ったことがある、と。
「お、お屋敷!」
「おおぅ、どうした急に。気持ちわりぃな」
「あぁ、ごめん。……た、たぶん知ってるんだ、そこ」
「んじゃ行ってみればいい」
「って言うか、行ったことあるんだ、そこ……」
「は? それ、上がったってことか? なんでお前が」
「話すと長くなる。――ごめん、そうと分かったらすぐにでも行かなきゃ。拓真くん、本当に色々ありがとうっ。またどこかで……、あ、会えるか分かんないけど、月芭ちゃんには拓真くんの想いを伝えておくからっ」
「よ、余計なことすんな!」
「じゃあ、元気で!」
 残していたコーヒーとドーナツを一口ずつ腹に入れて、忙しなく翔汰は席を立つ。
「お、おう! つ、月芭によろしく……っ。もう行っちまった」
 残された拓真はやれやれと頭を抱えながら、フラペチーノを飲み干す。
 微笑みながらも一粒だけ流れた涙を、拓真は誰にも気づかれないように拭い去った。



         3

 池渕洸太郎の『自転車旅行』は、少女が喋る自転車と世界を旅行する、不思議な物語だ。彼の晩年の作品で、かなり、若者でも読みやすいように書かれている。
 出版されたのは、今から十二年前。翔汰は十三歳で中学一年生のことだ。そしてその二年後、池渕は他界した。享年は七十一歳だったという。
 翔汰は彼が既に亡くなった後、中学三年生の頃に『自転車旅行』に出会った。姉の部屋にあった様々な本を当時読み漁っていたため、その本も例外なく読んでいた。
 その本は間違いなく翔汰の人格を形成する、一つの要素だった。
 主人公は翔汰とも歳が近い少女。作品は唐突にその少女が喋る自転車と旅をしているところから始まる。現実とは違う『自転車旅行』の中の世界の街々は、不思議な風習や妙な人々で溢れている。最初はそうった人達とのやりとりが軽快で、どんどん読み進んでいける。
 しかし話題は次第に、人の生き方を問うものになっていく。そして明かされる、少女の過去。彼女はとある国の名家の出で、将来はどこかの国の王子様に嫁いで、お姫様となるような、誰もが羨む立場にいた。だが彼女はそれを良しとしなかった。
 決められた席。予定された未来。それらの決定事項は全て、彼女にとってはしがらみでしかない。もっと自由な世界を求めて、何にも縛られない未来を求めて、少女は旅に出たのだった。
 ――その境遇は、その立ち振る舞いは、まるで月芭のようだった。
 池渕がそれを執筆した時、月芭はまだ小学一年生だ。しかし改めてそのストーリーを思い描けば、拓真が言っていた通り、それ以外には考えられない。
 彼女がそのモデルとなっているのならば――。翔汰の推測は、次の段階に移る。
 翔汰、静恵、拓真、そして柳。特定の人間だけが「見える」ことは、これによって説明がつくのかもしれない。つまりは、
「『自転車旅行』を読んだことのある人間だけが、月芭の姿を見ることができる……?」
 それは科学的根拠も裏付けもない、仮説にすぎなかった。しかし、池渕の作品を読んでいたであろう比較的年齢を重ねた人が見えていたことに鑑みても、その見えていた割合を考えても、全ての辻褄が合ってしまうのだ。
 足早に、翔汰は屋敷に向かう。

          4

 変わらぬ荘厳な門。翔汰に与える威圧感は、昔と変わらなかった。
「池園……」
 到着して翔汰はまず、表札を確認した。以前は注意してなかったため記憶にもなかったが、確かにその木目調の表札には、見知った名前が彫られていた。
 ここが池渕洸太郎の家。月芭の祖父の家。だとすればあの人は……。
 翔汰はインターホンを押す。が、しばらく待っても応答はない。
 数年前、おばあさんは足を悪くして入院していた。以前それを教えてくれたお手伝いさんも、既にいないのかもしれない。
 しかし、翔汰には奥の手があった。
「よい、しょっ……」
 それは完全に不審者。門の脇の窪みがついた塀をよじ登る。そんなやんちゃは小学生ぶりで、罪悪感よりは懐かしさが勝っていた。それくらい切羽詰まっているのだから仕方もない。
 まんまと敷地内に侵入すると、翔汰は玄関ではなく、庭の方へ回った。十年近く前の記憶でも、その人が言った言葉は一言一句覚えている自信があった。
 彼女は確かに言ったのである。「遊びに来たくなったら、いつでも来てくださいね。直接玄関からじゃなくても、ここの縁側からでも、自分の家だと思って来てください」と。
 その言葉を、翔汰は手放しで真に受けたのだ。
 縁側の方へ回ると、こちらは玄関周りと違って、手入れが行き届いていない様子だった。草は夏の日光を浴びて元気に成長し、地面が見えない。先に人が踏み入れた様子もない。不名誉な前人未踏だった。
 庭の池は管理もされず、黒く濁っていた。魚がいる様子もない。立派な屋敷も、人が住まなくなればその威厳を失っていくのだ。
「あれっ?」
 もはや誰も人は住んでいないのだろうと思ったのは、早とちりだった。
 縁側の戸が、開いている。
 草を力強く踏みしめて、開いている窓に向かう。ただ放置されているだけの家なら、換気など必要ない。まさか閉め忘れということもないだろう。
 窓に縋り寄って、力を込めて翔汰の通れそうな広さまで戸を開ける。立て付けは悪い。
「お、お邪魔します……」
 ここへ来て翔汰の臆病が顔を出す。ひょっとしたら人はいたのかもしれない。玄関は普通に開いていて、ただ単にインターホンの調子が悪かっただけかもしれない。
 そんな翔汰の不安は一瞬で吹き飛ぶ。
「こんにちは」
 部屋の中は暗く、すぐには目が慣れてくれない。しかし、その声に聞き覚えがあった。
「おばあさん……?」
 徐々に目が慣れてくる。その人は和室の中央で小さな机を前にして座椅子に座っていた。
「やっと来てくださったんですね……。ずっと待っていました」
「おばあさん……」
 それを感動の再会と呼んでいいのか、翔汰には分からなかった。でも、とにもかくにも嬉しくてたまらない。
「はい。なんでしょう」
 優しい瞳。綺麗な声。丸まってしまった腰。全て変わっていない。
「お、俺のこと、覚えてくれてるんですかっ?」
「覚えていますとも。唐木翔汰さん、ですよね」
 感動で息を飲みながら、翔汰は靴を脱ぎ、部屋に上がる。
「ま、まさかここに本当にいらっしゃるとは思ってなかったので……! か、体の方は大丈夫なんですかっ?」
「はい。今は大丈夫です」
「以前伺ったときは、入院してるって聞きました。ご病気の方は、もう大丈夫なんですか」
「ええ、もう病院にお世話にはなっていないのですが、すっかり足を悪くしてしまって。家からは出られない状況です……」
「それじゃあ、外出は……」
「はい、今では自分で本を買いに行くことも叶いません。高いところに置いてしまった本すら取れなくなってしまって……。こんな生き地獄もありませんね……」
 おばあさんは至極残念そうだ。
「普段の生活にも支障がおありなんじゃないですか?」
「今は住み込みではなく三日に一度の頻度で、お手伝いさんが来てくださっています。作り置きをよくしてくださるので、それほど問題はありません」
「そう、ですか……」
 おばあさんの生活がそれで成り立っているならば翔汰からは何も言えないのだが、彼女に生き地獄とまで言わせてしまう状況は、とても安心できるものではなかった。
「今まで来れなくて、本当にごめんなさいっ。俺は、俺は……っ」
「おやおや、翔汰さんはここへ、謝りに来たのですか?」
 頭を下げかけて、はっと気付かされる。懺悔も反省も、翔汰の自己満足にしかならない。彼にはもっと他にすべきことがある。
「おばあさん、俺、」
「いえ、あなたがここへ来た理由は分かっています。月芭ちゃんのこと、ですよね?」
 え、と言った口のまま、翔汰は表情を変えられなかった。
「どうして知っているのか、と言いたそうな表情をしていらっしゃいますね。単純なことです。月芭ちゃんに聞いたのです」
「月芭ちゃんが……。あっ、じゃあ月芭ちゃんはここに来てたんですねっ?」
「はい。その通りです」
「そ、それで今はどこにっ?」
「ごめんなさい。それは私にも分かりません」
 先走って一番知りたいことから尋ねてしまうが、その質問は不発に終わる。肩透かしを食らったような格好になってしまったが、いや、彼女に翔汰を拒絶する意図があったなら、たとえ敬愛する祖母であっても行き先を教えない可能性は十二分にある。
「そこで、なのですが、唐木さんにはお伝えしなければならないことがあります」
 おばあさんが柔和な表情から、神妙な面持ちに変わる。
「な、なんでしょうか……」
「落ち着いて聞いてください」
 彼女の真剣な目つきは、翔汰の不吉な想像を誘う。
「月芭ちゃんが、交通事故に遭いました」
「え……」
 その不吉な想像の一つ。絶対に正解してはならない答え合わせ。視界が揺らぐ。
「それが――、四日前の出来事です」
 彼女は至極当然のことのようにそう告げた。
 涙がすうっと引いていく。翔汰に仕向けられた二つの混乱は、全く方向性が違ったのだ。
「四日前……? お、おばあさん、ど、どういうことですか……?」
「これは事実なのです。四日前、月芭ちゃんは事故に遭っていたのです」
「でも、俺はずっと月芭ちゃんと一緒に……」
「唐木さんが一緒にいてくださった月芭ちゃんも、確かに月芭ちゃんなのですが、その一方で重傷を負って病院に搬送された月芭ちゃんがいたことも、事実なのです」
「そ、そんな……。じゃあ月芭ちゃんは二人いたって言うんですかっ!?」
 興奮しておばあさんに食ってかかるような体勢になる。
「正確には、そういうことではないと、私自身は思います。唐木さんとずっと一緒にいた月芭ちゃんには、制約があったはずです」
「それはっ……。特定の人間だけにしか、彼女の姿は見えなかった」
「はい。……実は、搬送された月芭ちゃんは重体で、今も意識が戻っていません。その意識が既に体には残っていないのだと考えれば、唐木さんと一緒にいた月芭ちゃんこそが、その意識ということなのかもしれません」
「月芭ちゃんの、意識……」
 あまりに突飛で、オカルト好きが聞いたら飛び跳ねて喜びそうな内容だった。
 四日前。それは、翔汰が彼女を見つけたあの日と重なる。だとすれば、翔汰が見つけ出した月芭は、事故に遭った直後の意識だけの状態だったということになる。
 「意識」だけの存在が「見える」という異常さ。しかし、その異常さに行きつく道筋を、翔汰は知っている。
「――おばあさん、ここに、『自転車旅行』はありますか」
「はい、ありますが……」
 おばあさんは眉をしかめて、俯いてしまう。しかしすぐさま首を振って、
「いえ……、唐木さんなら構いません。隣の部屋にあります。申し訳ありませんが、肩を貸してくださいませんか?」
 どこか吹っ切れたような表情になって、翔汰に申告した。
「は、はい。大丈夫ですか」
 数年前の夏は、一人でもちゃんと歩けていた。今はもう、簡単に立ち上がることもできない。悲しくて当たり前のことが、翔汰の心には重く圧し掛かった。この人はこんなになっても翔汰のことを信じて、ずっと待っていてくれたのだ。
 ゆっくり、時間をかけて隣の部屋に行って、その襖を開けると、本の良い香りが漂う。
 おばあさんに注意を払いながらも、翔汰は呆気に取られてしまった。
 壁一面の本棚。翔汰のコレクションなど、足元にも及ばない。膨大な本は、棚にも収まりきらず、床や机の上、立てられた本の上など、あらゆるところに積み上げられている。
 六畳間の和室の中央には、奥ゆかしい雰囲気を漂わせる机。年季の入った椅子。小さな電球の照明が置いてあって、その下には、ペンと原稿用紙。
「こ、ここは……」
「はい、主人の部屋です」
 昭和の大作家・池渕洸太郎の部屋。ここで池渕は小説を書いていた――。
「は、入っても大丈夫、なんですか」
「普段は、お手伝いさんも気を遣って入りませんが、唐木さんなら構いません。主人が亡くなってから、何一つ物を動かしていませんが、もう、いいのです……」
「もういいって、だ、駄目ですよ。そんな大事な部屋に、文庫本を一冊取り出すだけの目的で」
「いえ、いい加減、回顧を心の支えとしている場合ではないのです。それより、あなたに動かしてもらうことにこそ、意味がある」
 おばあさんの声は、とても力強かった。その決意に触れて、たじろいではいられなかった。
「……わかりました」
 おばあさんをその場に座らせて、翔汰は本棚へ向き合う。威圧感に、手が震える。
「右から二番目の棚の、下から三段目あたりのはずです」
 背後からおばあさんが教えてくれる。その場所を見ると、本はタイトルの五十音順に整理されていて、すぐに見つけることができた。
「『自転車旅行』」
 本の上に指を掛け、手前に引く。いつもは何気なくしている挙動が重く感じられた。微かに埃を浮かせながら、その本は翔汰の手中に収まった。
「この本の主人公は、女の子なんです」
 そしておもむろに語りだす。
「その女の子のモデルになったのは、月芭ちゃんなんだと、俺は思っています」
「ええ、なるほど」
「月芭ちゃんと一緒にいて、彼女の姿がどんな人間に見えるのか、色々と考えました。辿り着いた唯一の答えが、この本だったんです。……おそらく、この本を読んだことのある人だけが、意識だけの存在であった月芭ちゃんを認識することができた。彼女の孤独を、葛藤を、共有してあげることができた」
 十二年前に出版されたその文庫本は、日に焼けているが、紙の状態は悪くない。それでも翔汰は、そっとページを開く。
〈少女は、旅に出ていた。行き先も知れぬ、旅行である。自転車が語り掛ける。「そろそろ次の街に着きそうだよ」と。〉
 何度も何度も読んだ本。翔汰はその冒頭を暗唱できるくらいに読み込んでいる。
「全部、全部、この本のおかげなんです……。月芭ちゃんと出会えたのも、彼女が自分の力で現実と向き合う決意をしたのも、何もかも……」
 おばあさんの方へ向き直る。彼女は微笑んで翔汰を見つめていた。
「やっぱり……」
「や、やっぱり?」
 ふふっ、とおばあさんは、たおやかに笑い、恥ずかしそうに語る。
「やっぱり唐木さんは、若いころのあの人と、佇まいがそっくりで……」
「そ、そうなんですか……?」
 若いころの池渕というのを翔汰は知らない。彼女にそう言われることは複雑な気分がした。
「……でも、それで私はあの人と唐木さんを勝手に重ねて、――夢を、託してしまった」
「夢……」
 彼女の夢、翔汰の夢。それが一致するならば、つまり……。
「もう一度、あの人がここで小説を書いている姿を見ていたかった。私は、唐木さんにその可能性を見出してしまった。この人が彼の代わりをしてくれる、と。私の願いを、夢を、叶えてくれる、と。……私は本当に、身勝手なことをしてしまいました」
 その懺悔は、許していいはずがなかった。翔汰の中にいまだ眠る夢は、彼女に押し付けられたものではない。彼女から受け継いだものだ。
「……そんなこと、そんなこと、ないっ! おばあさんが、謝る必要はない! 謝るべきは、俺の方なんです!」
 バカみたいだった。子供みたいに喚いて、こんな姿を姉に見られたら、きっと怒られる。
「俺は心から、小説家になりたいと思った! おばあさんは、身勝手なんかじゃない! 勝手に感動して、勝手に得意になって、勝手に諦めて……、身勝手なのは、俺の方です! あなたは、俺に、かけがえのない夢を与えてくれた……! 生きる目的を与えてくれた! あなたにそれを後悔されたら、俺の夢は、散り散りになってしまう!」
 本当に翔汰がしたいこと。翔汰の野心。翔汰の――、使命。
 何をしなければならないのか、そればかりを気にして、自分が本当にしたいことを見失ってしまっていた。
 そんなことは、自分が一番よく知っていたはずだ。でも翔汰は、それに向き合おうとしなかった。現実と理想を天秤にかけて、無理やり現実を重く扱っていた。
「唐木さん……」
 おばあさんは涙ぐんで、肩に力の入る翔汰を静かに見上げていた。彼のその目からは、ぼたぼたと大粒の涙が流れている。
「俺は今でも、小説家になりたいと、心から思っています! 俺は今、出版社に勤めていますが、それが、いい証拠じゃないですか! どんなに、どんなに断ち切ろうとしてもっ、現実を見て諦めようとしてもっ、できなかった……っ! それくらい俺にとっては、なくてはならないものになってしまってるんです……! だからお願いです……っ。そんなことは言わないで、もう少しだけ、俺のために、待っていただけませんかっ?」
 揺らぐ視界の中央に、彼女を見据える。それが翔汰の精一杯の誠意だった。
「……はい」
 何か告白みたいで、翔汰は恥ずかしかった。しかし相手が違う。いや、違わなくはないのだが、年齢が五十歳以上も離れた女性に対して、こんな感情を抱くとは考えてもみなかった。
 だがこれで晴れて、翔汰は後戻りできなくなった。しかし彼の心に湧き起った感情は、不安より期待の方が大きかった。
 二人は微笑み合って、翔汰はごしごしと、おばあさんはそっと、それぞれ涙を拭く。
「……唐木さんは、どういった物語をお書きになるんですか?」
 ややあって、おばあさんが翔汰に尋ねた。
「俺は……、池渕さんのような作品を書きたいと思っています。少年少女の個人的な葛藤、特に孤独と闘う彼らの姿を、ありありと書きたいんです。まさに『自転車旅行』のような青春小説が作れたら、と」
「それは素敵ですね」
「でも、先人の功績が大きすぎて、やっぱりどこか心の片隅に不安があるんです……。何かを成さなければならないと、自分自身が急かすんです」
 何かを成さなければいけないという使命感。何もしていないという無力感。何かが成せるはずもないという虚無感。翔汰は、それらとずっと闘ってきた。
 おばあさんは、そんな彼に優しく微笑む。まるで翔汰を包み込むように。
「最初から、何かを成せる人などいないのですよ。何かを成していると言う人があれば、その人はそれ以上何事もすることはできない。自分は何かを成したのだろうかと問うのであれば、何事も行った上で、つまり、すべてのことをし尽くしてから、死ぬ間際で構わないのです。そこで何事か、し残したことがあれば、それは未練と呼べばいい。未練は死んでから果たすものですから」
 彼女の言葉が、翔汰の悩みを一蹴する。それはたぶん、今ここにいる彼女でしか言えないことだったのだろう。
「……はい。肝に銘じておきます」
「ところで唐木さん、以前渡した万年筆は持っていますか?」
「万年筆……、も、持っていますっ。えぇっと」
 翔汰はそれをどこへ行く時も必ずお守りとして携帯していた。いつもはスーツの内ポケットに入れているそれも、今日は鞄の中だ。
「あ、ありました」
「大切に持っていてくれて、ありがとうございます……。やはり、あなたに託して正解でした。実はこれは、主人の、池渕洸太郎の形見なのです」
「えっ……、この万年筆がっ?」
 上品な万年筆。美しい光沢を帯びたキャップ。軽く握るだけで扱える首軸。美しい曲線を描いて膨らんでいる中央部の胴軸。翔汰にはその物の正確な価値は分からないが、とにかく高価な物なのだということくらいは理解できる。
「ま、ますますいただくのが申し訳なくなってきました……。本当に貰ってしまっていいんですか?」
「形見と言っても、実際に主人が使っていたものではありません。お恥ずかしい話ですが、昔、あの人が私にプレゼントしてくださったものなのです」
「も、もらいにくいです……」
「いえ、もう私が持っていても、意味がないのです。これはあなたが持っていて、その万年筆に込められた想いを、繋いでいってほしいのです」
「……分かりました」
 翔汰は頷いた。想いを、受け継いだ。
「あと、もう一つ、唐木さんに貰ってほしいものがあります」
「ま、まだあるんですかっ?」
 彼女の押しつけがましさは、どこか彼女の孫娘を思わせる。しかし、そういう振り回され方は、翔汰も嫌いではないのだ。
「唐木さん、机の上の原稿をよく見てみてください」
「えっ、これですか?」
 電球の下の原稿。こちらも全く手が付けられた様子はない。埃もうっすらと被っている。
「『自転車紀行』……。これは、続編っ?」
「主人の遺作です。どこの出版社にも、その存在すら教えていません。それが主人の遺言でした。……月芭ちゃんが自分の運命と向き合う覚悟ができたとき、発表してくれ、と。唐木さんの出版社は信用問題が立ち上がっていると伺いました。その信用回復のためにも、ぜひ」
 こんな都合の良い話があっていいものなのか。突然転がり込んできた話は、絶対にあり得ないことと前提した可能性の一つだった。
「こ、こんな貴重なものを……。し、しかし、この作品の存在を知ってしまった以上、プロとして、み、見逃すわけにはいきませんっ。恐縮ですが、いただきます!」
「ふふっ。はい、よろしくお願いします」
 おばあさんが頭を下げたのを見て、翔汰は慌てて土下座をした。


「最後に改めてお尋ねしたいのですが、やっぱり月芭ちゃんが入院しているという病院は、おばあさんは知らないんですか」
 玄関までは見送りたいと言うおばあさんの意志を尊重し、翔汰は彼女を玄関まで連れて行き、座らせた。
 日が落ちてきて、少し談笑をした後、帰宅することにしたのだ。
「申し訳ありません。それは分かりません……」
 翔汰は彼女のその言葉に微かな違和感を感じながらも、人生の恩人にこれ以上の追及をするわけにはいかなかった。そこで引き下がる他ない。
「はい、了解しました。……では、池渕さんの形見と原稿は確かに」
「お願いします」
 外ではまだ蝉が騒がしく鳴いていた。その声も、二人の間に落ちた沈黙の前には無力だ。
「……おばあさん、また、ここに来てもいいですか」
「えぇ、私はいつまでも待っていますよ」
 翔汰には何故か、これが今生の別れとなってしまうように思えて。
「絶対、ですよ」
「はい」
「俺も、絶対に池渕さんみたいな、偉大な作家になりますから」
「……はい」
 おばあさんはずっと笑顔でいた。翔汰を心配させないように、苦しませないように。若人の夢への門出を、老人の悲しみで台無しにするわけにはいかないから。
「じゃあ、行ってきます」
「さようなら」
 内側から門の鍵を開け、帰りは正式に出る。翔汰が門を閉めるその瞬間まで、おばあさんは優しく手を振っていた。

          5

 寂しさで押し潰されそうだった。
 一人の料理。一人の食事。一人の片づけ。一人のくつろぎ時間。冷水シャワーを浴びる必要もない。一人の歯磨き。一人の就寝。
 一人の、生活。
 今まで一人でいることをこんなにも寂しいとは、感じたこともなかった。
 月芭がいた光景。当たり前の日々。帰ればエアコンがついていて、夕食ができていて、彼女が出迎えてくれて。彼女はもはや、この部屋にとって余計なインテリアなどではなかった。翔汰がこの部屋に帰ってくる意味そのものだった。そんな幸せを翔汰は、平然と過ごしていた。
 もっと早く、彼女を理解してやれたはずだ。もっと優しく、彼女に接することができたはずだ。
 それを後悔にしないために、未練にしないために、翔汰は動かなければならない。
 それが今の翔汰の使命だった。
「月芭ちゃん……」
 机の上に置かれていた、アサガオ柄の浴衣。きっとおばあさんの家から持ってきて、お手伝いさんか誰かに着付けてもらったのだろう。
 月芭のことが恋しくもなり、納得する部分でもあり。
 月芭の着物の出どころは分かったが、一つの疑問がにわかに発生する。
 なぜ月芭は、こんなにも近くにある祖母の家に住まわなかったのか。
 その理由は彼女に問いたださねばならない。
 唐木翔汰、二十四歳最後の日に、彼は男になれるのだろうか。

   ⅳ

          1

 出勤が久しぶりなように思えてしまった翔汰は、相変わらずの慌ただしさの中にいて、いつも以上に疲労を感じてしまう。
 何かフワフワした感覚だった。自分だけが誰も知らない秘密を知っているという背徳感。
 分かりやすく言えば翔汰は、浮ついて仕事も手に付かなかったのである。
「唐木さん」
 だから昼休みになって柳がいつものように声を掛けてくる瞬間が待ち遠しかった。
「よしっ、作戦会議だ」
 手を叩いて、翔汰はノリノリで答えてしまう。
「え、あ、は、はいっ、さ、作戦会議です!」
「なんだよ、テンションが低いぞ」
「いや先輩が高いんじゃないですか。作戦会議だなんて、今まで言ってくれなかったのに」
「……い、いいから行くぞ。秋坂も連れてこい」
「了解ですっ――」
 小さく敬礼し、柳が秋坂のところへ早足で行く。その顔は心なしか緊張している。翔汰は先に作戦会議室へ。封筒に入れた原稿を持って。
 休憩室のいつもの場所に陣取り、一応封筒の中身を確認する。これを見た二人の反応を想像しただけで、翔汰はニヤついてしまう。
 首を振って、自らを戒める。こういうものは出し惜しみをしてこそだ。
「連れてきましたよー……、先輩、なんかニヤけてません?」
「断じてニヤけてない」
「えぇー……」
 怪訝な目を向けながらも、柳は大人しく指定席に座る。翔汰はそっぽを向いて、無表情を心掛ける。
「おつかれ……、唐木、なんかニヤけてない?」
「ニヤけてないっ」
「そう?」
 翔汰は咳払いをした後、仕切り直すように話し出した。
「……柳、今日は何の話し合いをするんだ?」
「何のって、唐木さん、一昨日話し合ってたじゃないですか。ゼロジャンルについてのデータ収集と分析ですよ。せっかく休日を挟んだんですから、その間に色々調べ始められたはずです。まさか先輩、何も準備してきてないんですか?」
 眉間にしわを寄せ、顎をしゃくれさせ、柳は顔全体を使って不満を表現している。
「その顔を向けるな。……この週末俺だって何もしてなかったわけじゃない。でも俺の発表はまだだ。秋坂を先にしろ」
「うーん、まぁいいでしょう。秋坂さん、どうです?」
「私はゼロジャンルについてあまり知らなかったし関心も薄かったから、一度ネットや書籍に当たって大枠を調べてみたわ。それについて話すわね」
 柳には一切視線を向けず、秋坂は右上をホチキスで留めた資料にだけ目を落として、ゆっくりと話した。
「まず提唱は二〇〇六年。新城カズマの著書『ライトノベル「超」入門』から。一般文芸的なライトノベル、またはライトノベル的な一般文芸を指す言葉で、この対立的な分野の隙間を埋める新たなジャンルとして期待されている――。
 ここまではこの間の唐木の説明のままね。ここから先が私の補足情報。……一時は取り沙汰されたゼロジャンルも、現在はほぼ使われていない言葉になっている。死語と言うほど広まってもいない。業界の間ではそれなりには知られてるでしょうけど、いまさら個別の作品をゼロジャンルとして取り上げる人間もいないわ。でも注目すべきは、そういった作家・作品が近年人気を博してきているということ。もともとはライトノベルのレーベルから発売されていたものが、一般の文芸書として再版されているのが分かりやすい傾向ね。その辺の代表をいくつか挙げると、村山由佳『おいしいコーヒーの入れ方』、橋本紡『半分の月がのぼる空』、有川浩『塩の街』などなど。逆に文芸書として刊行されていたものがライトノベルに近い評価を受けるきっかけになったのが、講談社ノベルスね。代表は西尾維新の『戯言シリーズ』。私個人の意見としては、こちら側からのアプローチがゼロジャンルの定立を手助けするように思えるけど、どうなのかしら。
 まぁ、と言うかそもそも、一般文芸的なライトノベル、またはライトノベル的な一般文芸っていう注文を作家にどう渡すのかに問題があるわ。私たちでこういった作品を作ろうって話をしても、こんな中途半端なジャンルを作家が上手に理解して社会が求めているものに仕立て上げられるとは、到底思えない。そのためには作家・編集の技量はもちろんのこと、その双方の完璧な意思疎通が実現していないと不可能ね」
 資料から目を離し、翔汰を見て肩をすくめる。秋坂の分析が加わっただけで、一気に問題点が浮かび上がってくる。それだけでも大きな収穫なのだが、その問題点を絞り込むところから始めなければならないという問題も浮かび上がり、つまりは、何から始めて、何を目標とすべきなのかが、突然曖昧になってしまったのだ。
「あー、秋坂さんありがとうございます……。唐木さん、なんか意見あります?」
「そこで俺に振る?」
「唐木さんの得意分野ということで、ぜひ」
「うーん……。と、とりあえず作家への伝達は棚に上げておくとして……」
 うなる翔汰は段階を踏んで話を進めたいのだが、秋坂はおいそれと納得してはくれない。
「棚上げしちゃうのね」
「うん、とりあえず棚上げしといてさ、秋坂のおかげで、ゼロジャンルの立ち位置の不安定さはある程度浮き彫りになったと思うんだ」
「そうね」
「そもそも児童文学と一般小説の隙間を埋めるはずのライトノベルが、一般小説と隔絶された。これは一種の事件なんだけど、そのままではあり得ない。ここで登場するのがライトノベルと一般小説の隙間を埋めるゼロジャンルってことになるんだけど、まぁこの言い方からして、ゼロジャンルと一般小説の間に隙間ができないとは言い切れない。これが永遠と繰り返されて、結果的にジャンルや括りだけでは表現できない部分が出てきてしまう。じゃあそれはどう埋めるんだって話になると、これはやっぱり個々の作品に求めていくしかない。つまり、作家が作り出すものに、読み手が勝手に見出していくことになる。でもそれじゃあ、今までとやってることは同じになるんだ」
「それで、どうするわけ?」
「うん、だから俺たちがやるべきは、まず、俺たち自身の指標となる作品を生みだすことだろうと俺は思う」
「私たちの指標?」
「俺たちだって掴めてないものを、作家に求めるのは失礼だ。でも、作家が作ってくれないものはこの世に生まれようがない。だから、まず一つ、指標となる作品・作家を生みだす。それを核として、俺たちも改めてレーベルとしての商品価値を高めていくべきなんだろう。現に、ゼロジャンルが生まれたのは編集の成果じゃない。作家の成果なんだ」
「へえ……」
 珍しく秋坂が感心したような声を出す。間髪を容れず、柳が反応する。
「それ、池渕洸太郎の出番なんじゃないですかっ?」
「出番って、池渕はもう故人だぞ」
「先輩、頭固いですよ。たとえ池渕洸太郎はいなくなっても、彼の作品がなくなるわけじゃありません。彼の作品を指標にすることは、僕らにも可能です。……そこでっ、僕がこの日曜日にまとめた池渕の成果を、発表させていただきたいと思います!」
 柳はたぶん、自分の趣味を語りたいだけ。翔汰は、ぐっとそのツッコミを飲み込む。
「池渕洸太郎、本名・池園洸平は、奇しくも三十五歳のとき直木賞を受賞します。この受賞作を出版したのが当時のうちの会社で、まさに黄金期だったと言っても過言ではありません。この頃からの伝統で、うちの出版社では一般大衆の生活に根差した作品を扱うことが多くなっています。池渕はこの傾向にまさにぴったりで、この他にも数多くの作品をうちから刊行しています。中でも特徴的なのが池渕の後期、彼が還暦を過ぎた頃からの作品群は、それまでの彼の人生経験を基にして作られたと思しきものが多くなっています。しかしそれは時に「私小説」としての一面を見せ、文学性に欠けるとの批判を受けるようになります。時代の趨勢を見極めるような作品――大情況を捉えたのではなく、個人的な感情や経験――小情況を重視したのです。しかしおそらく池渕自身は気付いていたのだと思います。文学がもはや大情況のみを求める、いわば学問としてのあり方を否定し始めているということに。文学、特に物語を読むということは、もっと生活に根差したものであるべきだ、と。
 ここまでのまとめで、お二人にも池渕洸太郎の魅力と、それから僕が言いたいことが伝わったかと思います。池渕は図らずもゼロジャンルの先駆者として日本の文学界に登場していたのです。これを僕たちの指標として、再発見していくのはどうでしょうか。作品の再版や、彼の伝記等を出版するのも面白いかもしれませんっ。ぜひ!」
 力強く頷いて、柳のプレゼンは終了した。ただの趣味語りだったが、しかし、その要旨には彼の情熱以上に、具体性が見受けられる。
「結構ちゃんと分析してるわね、柳」
「あっ、ありがとうございます……」
 秋坂が柳を褒める図も、お先十年は見られないだろうに、この後輩はもっと喜んでいいだろうと翔汰は思ってしまう。
「で、最後は唐木ね。まさか、さっきの補足で全部、なんて言わないわよね?」
 挑発的な女同僚、苦笑いするバカな後輩。機は熟した。ここしかない。
「まさか。とっておきは最後に残しておくもんだ」
 大切に持っていた封筒を力強くバーンと、机に叩きつけて見せつけてやりたい気分だったが、翔汰はそっと真ん中の机の上に置く。
「先輩、これは?」
「池渕洸太郎の未発表の遺作だ」
「え……、えぇえぇっ  う、うそ! さすがに! そ、そんなことって!」
「嘘じゃない。中を見てみろ」
 促して柳に封筒を開けさせる。その手は震えている。
「『自転車紀行』……って、まさか『自転車旅行』の続編ですかっ?」
「そうだ」
 その動揺した姿は、翔汰が期待した通りのもの。
「ちょ、ちょっと待って。それ、本物だって証明はあるの?」
 戸惑いながらも秋坂が質問してくるところまで、計算済みだ。
「ははっ、それが、一番上の原稿の裏が直筆の遺言書になってて、必要なことは全部書いてあるんだ。この作品は自分が書いたこと、色々事情は省いて書いてあるんだけどともかく時期が来たら発表すること、その判断は妻に任せること、それから日付と本名、実印に拇印もきっちり。ご丁寧に、当時使ってたサインまで」
「うっひょぉー! か、感動だ!」
 柳は本物だと分かるや否や興奮して原稿を掲げ持つ。
「おい柳、丁重に扱えよ。十年近く前の原稿なんだ、破損しやすいに決まってるだろ」
「僕がこんな宝物を粗雑に扱うとお思いですか! 自分の命を投げ打ってでも、この原稿だけは守り抜く所存であります! 閣下!」
「誰が閣下だ」
「というわけで僕はこれから読書タイムに入るのであとはよろしくお願いします」
 異常な程の早口と切り替えの早さで柳は休憩室から逃げ出していく。
「おいバカ! まだ話は終わってな……、行っちゃったよ」
「本当に自由ね、柳は」
「まったくだよ」
「……で、唐木にはそんな貴重なものをどこで手に入れたのか、説明してもらわないとね」
「昔のつて、だよ」
「なにそれ。昔って、何年前の話よ」
「詳しくは話したくない。でも、原稿は本物だ。どの出版社もその存在自体知らない。これを俺たちの指標として出版できれば、大きな目玉になる」
 翔汰の目には、決意が見えていた。
「ええ、そうね。内容はどうなの」
「昨日読んだけど、面白かった。最高傑作だ。前作で完全に解き明かされてはいなかった謎と主人公の葛藤が上手く噛み合って、前に進んでいく。後味の良い青春小説だった」
「上にもまだ言ってないのね?」
「言ってない。お前たちに一番に見てほしかった。と言うか、何も考えずに上に渡したら、俺だけの成果になる。この作品は、三人の成果にしたい」
「……なんか、お人好し」
 秋坂はとてもつまらなさそうに言う。
「これでも結構、この三人でいること自体は、気に入ってるからな」
「ふ、ふぅーん」
 彼女の頬が微かに赤らんでいく。反抗するように秋坂は言葉を継いだ。
「でも、これでもう目標は達成しちゃったじゃない。三人でこれ以上何ができるわけ?」
「うん、それなんだけどさ」
 これが、秋坂への償いになるのかは分からないけれど、翔汰の野心を、彼女には見せなければならなかった。
 あのとき答えられなかった答えが、今なら出せる。
「池渕みたいな作品を、これからは俺が書く。だからそのとき、秋坂と柳には、俺の担当編集になってもらいたいんだ」
「……唐木が、作家になるの?」
「うん。高校生のときからずっと夢だった。一度は諦めたけど、もう一度、目指そうと思う。編集の仕事も憧れるけど、やっぱり自分自身で作りたい。それにこれなら、三人が関われる」
「簡単なことじゃないわよ?」
「それはよく知ってる。もちろん、今すぐこの仕事をやめてまでってことじゃない。しばらくは仕事を続けながらになる。でも最終的には作家一本で立てるようになりたい」
「……」
「秋坂?」
 俯いて、彼女の髪はその表情を見えなくしてしまう。
「なんでもない。ただちょっと、安心しただけ」
「それなら、よかった……」
 安堵の様子に安心する翔汰を見て、秋坂はなんだか可笑しくなってしまった。心の重りがストンと下りたようで、自分でも顔が緩んでいるのが分かる。
 だからこの際、気持ちの整理を全て済ませてしまいたくなった。
「唐木、あんた最近さ、ひょっとして女でもできた?」
「え、えぇっ? なんだよ、藪から棒に……」
「だって、妙に良い匂いがして、ネクタイが整ってて、仕事へのやる気もあって……。今日はそうでもないみたいだったけど、これって女ができた時の特徴よね? それに、この間夕食を断られたのだって、その女との予定があったんだとしか思えないもの」
 それは、女の勘というやつか。翔汰はちょっと恐怖を覚えた。
「い、いやー、そ、そんなふうに見えてた? こ、困ったなー」
「わざとらしいわね。どうなの、答えて」
「……はい」
 妙な言い訳をすればするほど、自分自身を追い込んでいくぐらいなら、正直に認めてしまうのが正解だ。
「はぁ……、やっぱり。今までは女の影なんてこれっぽっちも見えなかったのに、なによ」
「ご、ごめん」
「なんで謝るのよ」
 睨まれた翔汰は、しゅんと縮こまる。何一つ言い返せなかった。秋坂は声を出して溜息をついて、休憩室の入り口とは反対側の窓を開け、煙草を取り出す。
「ごめん、吸うね」
 失意の中にいる彼女に、翔汰が掛けてあげられる言葉はない。
「うん」
 せいぜい、大人しく相槌を打つだけ。
「……唐木は、タバコを吸ってる私なんて、嫌いだもんね」
 窓の外の景色を眺めながら、煙草を吹かす秋坂は寂しそうで、翔汰は見ていられなかった。
「秋坂の将来のためにはならないって言ってるだけだ。嫌いとか、そういうんじゃない」
「……そう」
「タバコ吸ってると、落ち着くのか」
「手持ち無沙汰にならないためよ。スマホいじってるのと、変わらない」
「そういうもんなのか」
 喫煙者の心情。翔汰はそれを、ずっと理解してやれないでいる。
「私ね、大学の先輩で憧れの人がいたの。自分の芯があって、何ものにも屈さない強い女性。サークルの新歓で初めて会った時は、人目惚れみたいな衝撃を感じたわ。一年生で出会ったその人は当時すでに四年生で、一年しか被らなかったけど、彼女がいた時間は、私の宝物だった。彼女の生き方に、少しでも近づきたいって思った。彼女のかっこよさを私も身に着けたいって思った。だからその人がやってたみたいに、タバコを吸って、口調も変えて、強い女性を演じて……。でも私は、あの人にはなれない。あんなにかっこいい女性には、なれないの……」
 秋坂の後ろ姿が、あの人に見えてしまって、翔汰は頭を左右に振る。
 もしそれがただの幻覚でないとしたら、運命とはどこまで数奇な物なのだろうか。
「その人の名前って……」
「唐木静恵さん。もしかしてなんだけど、彼女ってあなたのお姉さん?」
「……うん」
「そうよね。……だって、よく似てるもの」
「に、似てるか?」
「顔よりも、生き方が似てる。誰にも諂(へつら)わないで、自分の信じた道を行く。今のあなたは、まさにそういう人。――あなたに認められれば、私は理想の私に近づけると思ってた。あの人に、静恵さんに近づけると思ってた。でもそれが、私の弱さ。うっかりあなたのことを、好きになってしまったんですもの」
 突然の告白。しかし彼女の気持ちは、もはや分かっていたことのはずだ。そうにも関わらず、翔汰の鼓動は速くなる。
「……ごめん」
「だから、謝らないでってば」
 様々な人間関係が交錯し、相互に干渉し合い、常に動いている。そういう運命めいた現象は、未来が一つではないことを、翔汰に教える。
 きっとこれだけは言える。
 何かが少しだけでも違っていれば、結果は、見違えるくらいに変わっていたのだろう。
 この選択は間違っていないなどと、誰が証言してくれようか。
 ただ翔汰は、自分の思う選択だけを選ぶしかないのだ。
「あともう一つね、……柳くんに告白されたの」
「……。は、はぁっ!?」
 一拍遅れて、翔汰は素っ頓狂な悲鳴をあげる。
「い、いい、いつっ?」
「一昨日。駅前で別れた後、柳が私をつかまえて、そのままご飯に連れて行かれた。私たちのこと、見てたみたい。唐木に想いが通じない私を見て、いたたまれなくなったんでしょう」
「そ、それより返事はっ?」
「そんなの、断ったに決まってるでしょ」
 至極当然のことのように、秋坂は言い放つ。
 翔汰の想像の遥か上を行った柳には、むしろ賞賛の言葉を送ってやりたい。そして同時に、合点がいく。柳がしつこく二人の関係に茶々を入れてきたのには、そういう思惑があったのだ。
「一昨日断って、で一日開いて、今日か……」
 多少の違和感も、翔汰には些細なことに感じられていた。それを押し隠す辺りは、さすがの二人とでも評しておきたい。
「大人だもの」
「そ、そういうもんかぁ?」
「でも私たちだって、現にもう普通に会話できてるでしょ?」
「それは色々うやむやになったせいと言うか……」
 赤面して、翔汰は秋坂から視線を逸らす。
「男らしく堂々としてたらどうなのよ、ばか」
「うぅ……」
 翔汰よりは、秋坂の方がよっぽど男らしい。さすが、静恵に憧れただけはある。
「でも、柳くんもあれはあれで色々考えていると言うか、ただの能天気な人じゃないからね」
「バカを装うバカが一番タチ悪いんだよ」
「馬鹿は馬鹿でも、鋏の使い方は弁えている馬鹿よ」
「結局バカだ」
 秋坂が煙草を一本吸い終わる。携帯灰皿にしまい、もう一本は吸い始めなかった。
「私は彼、結構な苦労人だと思うわ。って言うか、不幸体質?」
「むしろ、なんで普段あんなに元気なのか、時々、理解不能になる。仕事で振り回されて、告白してフラれて、池渕の遺作がなければ、今頃死んでるんじゃないか?」
「トラック事故の担当だったの、相当な不幸よね。でもあれがなければ、私たちも集まらなかった。……でしょう?」
「あぁ、確かに……」
 翔汰は頷いて、頭の中に言葉が反響していることに気付く。これは、この予感は、何だ。
 トラック事故がなければ、三人が集まることはなかった。いや、それどころではなく、翔汰のここ最近の五日間は、なかったことになっていたかもしれない――。
「あれ? トラック、事故……」
「唐木、どうしたの?」
「なぁ秋坂……、あの事故があった場所ってどの辺りだったか分かるか?」
 宙を見つめて質問する翔汰を不審がりながらも、秋坂は答える。
 その答えは、翔汰の住む街だった。
「柳……、柳!」
 その手掛かりの繋がる先は、あのバカが知っているはずだった。
「ちょっと、唐木っ、どこ行くの!」
「ごめん、急用ができた。午後は有給でも無給でもいいから、休みにしといてくれ!」
 柳を探さなければならない。ただそれだけを考える翔汰の脳裏に、一瞬だけ、秋坂の顔が映った。
「それと――、明日、飯行くぞ」
 相手の予定も聞かず、翔汰は一方的に告げる。
「そ、そんな急に言うな、ばか!」
 秋坂は、その背中に向けて罵声を浴びせる。

          2

 柳は別の休憩室でニヤニヤしながら原稿を読んでいた。胸倉を掴んで、問い質す。
「トラック事故の会社を教えろ!」
 困惑しながらも絞り出した回答を聞くや否や、翔汰はその休憩室も飛び出す。
 携帯でそのトラック会社に電話をかけ、脅迫に近い剣幕でその事故の担当者を呼び出す。
「事故の被害者がどこの病院にいるか、教えてください!」
 その勢いに押されはするが、個人情報だと言って渋る担当者。翔汰は社外に出てタクシーを探しながら、さらに叫ぶ。
「池園月芭! 桃李高校三年生! これで合ってるでしょうっ 」
 担当者はとうとう折れ、病院名と病室を伝える。翔汰はタクシーでその病院に向かった。
 病院までの移動時間が、とてつもなく長い。
 月芭は、意識が回復していないらしい。それが彼女の生死にどういう影響を与えるのか、それが掴めないことが、翔汰に底知れぬ恐怖を覚えさせた。
 もしも彼女が、そのまま目覚めなかったら、
 もしもそこにいる彼女が、翔汰の知っている彼女ではなくなっていたら、
 もしもあの池園月芭に、もう二度と会えないのだとしたら、
 翔汰は生きる意味を、半分も失ってしまうのだ。


 タクシーが到着すると病院に駆け込んで、受付で面会を申請する。午後の面会時間まであと五分あると渋られ、翔汰は地団駄を踏んだ。
 しかし、
「この患者さん……、池園月芭さんの容体はどうなっていますかっ?」
「全身打撲の状態ですが、外傷に大きなものはありません。ただ、意識が回復していないので、面会時はお静かにお願いします」
 その興奮した様子に釘を刺されつつも、翔汰はまず最悪の結果を回避できそうなことに安堵する。
 面会を許可され、七階の病室に上がる。常識が勝ったか、ただ単に落ち着きを取り戻したのか、病室までは歩く。
 個室。プレートに「池園月芭様」とだけ書かれている。
 ここにいる。ここに、その人がいる。しかし、それが翔汰の知っている月芭だという保証は、どこにもない。
 扉にかけた手が震えた。その恐怖を振り払って、ゆっくりと扉を開ける。
 室内は、弱く冷房が効いていた。心拍数の上がった翔汰には物足りない。仕切りのカーテンが半分開いていて、その足側だけが見えている。
 唾を飲み込んで、奥へ進む。体の線に沿って、掛け布団が膨らんでいる。
 前にお見舞いに来た人が飾ったのであろう花が、ベッドの横のテーブルの上に生けてある。
 包帯にくるまれた腕。軽く固定された首。
 月芭は、まるで作り物のようだった。
「あぁ……」
 どこかで翔汰はおばあさんの言ったことを疑っていたのだと思う。そうでなければ突然、一筋の涙がこぼれてくるようなこともない。
 心の準備なんてするだけ無駄だった。あんなに元気だった彼女が死んだようにベッドに横たわっている光景は、翔汰を苦しめる。
 ひょっとして寝ているだけなんじゃないのか。そんなふうにも見えてきて、近寄る。
 胸が上下して、鼻から呼吸音が聞こえて、本当にただ安らかに眠っているだけで、その肩を揺り動かせば、目を覚ましそうだった。
 しかしその姿は痛々しい。胸から下は見えないが、腕、首、頭を見ただけで、そのほとんどの箇所に包帯が巻かれている。
 看護師さんは全身打撲だと言っていた。欠損はないにしろ、トラックにはねられて意識のない状態というのは、本当なら相当危険な状態なのではないのか。
「……」
 翔汰はベッドの右側に置かれた椅子に座る。
「月芭ちゃん」
 ふと呼びかけてみても返事はない。顔以外で唯一包帯の巻かれていない右手を掴むと、確かに温かかった。
「すぐ来れなくて、ごめん……」
 翔汰は彼女の胸辺りを見つめて囁く。
「君がこんなところでこんなことになっているなんて、想像もつかなかった」
 月芭を見つけたあの日、翔汰は救急車の音を聞いていた。その音が、翔汰には耳障りだったことを覚えている。
「俺は、俺自身の不安定さも、漠然としか知らないで……。ただ君といることを、心地良く感じてしまって……。危機感なんていつの間にか、頭の片隅に追いやってた……」
 翔汰の手に力が入る。月芭の手を、しっかりと握る。
「俺にもう一度だけ、君と向き合うチャンスを与えてくれ……っ。今度は、初めから君の全てを知った上で、君を好きになる。だから、だから……っ」
 翔汰は誠意を見せなければならなかった。
 社会が嫌う不誠実さと恋愛が嫌う不明確さを排除して、それを彼女に伝えなければならなかった。
 キスほど絶対的ではなく、結婚指輪ほど重苦しくなく、愛の言葉ほど曖昧ではないもの。
 翔汰を救うのは、最後まで池渕洸太郎の存在だった。
 胸ポケットに入れた万年筆を、翔汰はそっと取り出す。月芭の右手にその万年筆を握らせる。
「これは、月芭ちゃんのおばあちゃんから貰った万年筆だったんだ。でもおばあちゃんも、君のおじいちゃん、池渕洸太郎から貰ったものだったんだって」
 万年筆に込められた想い。昭和の大作家から妻へ、未亡人となった妻から作家の卵へ。
 それぞれの想いは異なる。しかし、一つだけ言えることがある。
「君への想いを全て、君に受け取ってほしい……」
 月芭とともに、彼女が直面する現実に向き合いたい。
 両親との関係、それから家柄のこと。受験勉強。友人関係。
 死んで、全てを清算できるはずがない。それは負けを認めているだけだから。
「……月芭ちゃん」
「翔汰、さん?」
 弱々しく翔汰の名を呼ぶ。それは翔汰のよく知る声だった。
「月芭ちゃん!」
 思わず抱きつこうとして、すんでのところで止まる。病人を乱暴にしてはいけない。
「いた……」
「ご、ごめんっ」
「いえ、違うんです。体中、痛くて……。やっぱり私、トラックにはねられたんですね……」
 月芭は自分の状況をかなり把握しているようだった。
「記憶はあるんだ?」
「はい。ぜんぶ、あります。トラックにはねられた瞬間のことも、よく覚えてます。でも、痛みを自覚するのは、今が初めてです……。けっこう、痛いですね……」
「こ、これ、ナースコールした方が良いよねっ?」
「そ、そうですね。お願いします……」
 彼女の声がどんどん苦痛に悶えるものになっていく。あまりに痛々しい声音に、翔汰は慌ててナースコールのボタンを押した。


 感動の再会を満喫する暇もなく、看護師さんは主治医を伴って飛んでやってきた。意識不明の患者が入院する個室からのナースコールともなれば、かなりの優先度なのだろう。
 翔汰は病室から追い出され、廊下の椅子で待たされた。近くの自動販売機でコーヒーを買って、一息つく。ああそうか、と翔汰は思った。喫煙者はこういうとき、タバコを吸うんだ、と。
 十数分の待ち時間も、それほど長くは感じなかった。暇のお供にするなら、ニコチンでもブルーライトでもなく、翔汰はカフェインを望む。
 白衣姿の先生と看護師さんが月芭の病室から出て来て、翔汰に微笑む。
「お兄さん……にも見えないですね? 患者さんには痛み止めと点滴を打っています。おそらくすぐ眠くなってしまうでしょうが、兎に角どんな理由があれ、絶対安静にさせてください」
「わ、わかりました」
 これは釘を刺されたのか? 翔汰は歩いていく先生の背中を見ながら、首をひねる。
 再び病室に入ると、テレビがついていた。月芭は体を起こし、そちらに体を向けている。
「今日は、月曜日なんですね……」
 月芭がテレビ横のデジタル時計を見つめながら呟く。
「うん、色んな人に話を聞いて、月芭ちゃんに辿り着くのに一日かかった」
「あ、いえ、私としてはもっと時間が経ってるかなって、思ったんです」
「……昨日からの記憶はないの?」
「昨日、翔汰さんから逃げて、実家に向かおうとしたところまでは覚えてるんですけど……。電車で眠ってしまったんでしょうか。そこから先は……、夢を見ていました」
「どんな夢?」
 月芭は体を動かして翔汰を見やる。翔汰は尋ねながら椅子に座る。
「おばあちゃんの夢です。昔の夢。子供の頃、おばあちゃんの家に遊びに行って、おままごとの一環で、裁縫を教わったり、料理を一緒に作ったりしたんです。夏休みの短い間だけでしたけど、私にはかけがえのない時間でした」
「月芭ちゃんが料理上手なのは、おばあちゃんのお陰なのかな」
「そうですね……、大きいと思います。そういう大切な時間を、ずっとずっと繰り返す夢です」
「そっか」
「昔からいてくれたお手伝いさんと、大好きなおばあちゃんと、私だけで……」
 月芭のその決意は、きっとどこかで揺らいだ。逃げ出したいと強く思ってしまった。
「おばあちゃんの家に泊まる最後の日が終わっても、また次の日には、最初の日に戻ってるんです。でも飽きたりなんかしない。もちろん違和感もない。……それを、ずっと」
「うん」
 相槌を打つ翔汰。
「でもある日、おばあちゃんが私に言ったんです。ほら、お迎えが来たわよ、って。おばあちゃんと別れるのは寂しいはずなのに、なぜか私、嫌でも何でもなくて、むしろ嬉しくて……。それで、瞬きをしたら、目の前に翔汰さんがいたんです。私は何をしていたのか、翔汰さんの顔を見た瞬間に理解できました」
「うん」
「私、一人で現実に向き合うって言ったのに、やっぱり怖くて……っ」
 月芭に立ちはだかる壁を、今の翔汰は知っている。だから言える。教えてあげられる。
「大丈夫」
「……」
「拓真くんに直接会って、色々話を聞いたんだ。月芭ちゃんの身の回りのこと。拓真くん自身のこと。拓真くんと月芭ちゃんの関係のことも。だから、今の俺なら、月芭ちゃんのことを全部知った上で、君を受け止めてあげられる」
「……っ」
 月芭の瞳に涙がたまる。彼女もそうそう簡単に涙をこぼしたくはなかった。
「拓真くん、とっても良い子だったね。プライドが高いのが玉に瑕だったけど、綺麗にやろうとしてるのに泥臭くて、それでも必死で、誠実で……。月芭ちゃんのことを、最後の最後まで理解しようとしてた」
「……はいっ」
 涙を流すまいと懸命に目を閉じて、月芭は頷く。本当にこの二人は、好き合っていたんだなと、翔汰は思い知らされる。
「でも、月芭ちゃんを思う気持ちは、拓真くんより俺の方が強い」
「……っ!」
 翔汰は頬を赤く染めながらも、月芭を見つめる。
「全然反省してないように思われるかもしれないけど、俺、月芭ちゃんのこと好きだから。だ、だから、月芭ちゃんには俺のことを信頼してほしい。頼ってほしい。君が現実と向き合えるように、力を貸してあげたい」
「……私も、好きです。翔汰さんのこと。私も、あ、あなたと、ずっと一緒にいたい」
「うん、ありがとう」
 月芭の手を握る。それ以上のことは、今はまだいい。
 こらえきれなくなって、月芭の瞳からは、涙がこぼれていた。
「……でも、どうして私のこと」
「えっ。す、好きになった理由?」
 彼女は涙を拭きながら、上目づかいに翔汰を見やり、二、三度、首を縦に振る。
「そっ、そんなん、かわいい女の子が毎日ご飯作ってくれて一緒に生活をしてたら、好きになるに決まってるだろっ……」
 我ながら、情けないことを言っているように思えた。しかし、事実なのだから仕方ない。
「ふふっ」
「わ、笑うなって」
「以前、おばあちゃんが教えてくれてたんです。男を掴むならまずは胃袋からだよ、って。おばあちゃんの言った通りでしたね」
「お、おばあちゃん……」
 孫になんてこと教えてるんだ。もう一度会えたら、そう言いたい。
「すごいですよね、私のおばあちゃん」
 月芭は泣き痕の残るままで、満面の笑みをしていた。しかし翔汰には恥ずかしさしかない。
「こ、この話はもういいっ。月芭ちゃん、実はもう一つ報告があって」
「はい」
「俺、もう一度小説家を目指そうと思うんだ」
「小説家を……」
「うん、……月芭ちゃんのおじいさん――池渕洸太郎は、俺の憧れだった。一番好きな作家だった。昨日、あのお屋敷に行って、池渕の部屋を見せてもらった。衝撃だった。敵わないって思った。でも、だからこそ、もう一度、やってみたくなった」
「おじいちゃんの……」
「おばあちゃんとも会って話して、約束したんだ。作家になってみせるって。彼女は俺を後押ししてくれた。……俺が作家になれるその日を、心待ちにしてるって」
「おばあちゃん……」
 月芭の表情には驚きの色が表れていた。
「そこに、万年筆があるでしょ?」
 その驚きの表情のまま、月芭はテーブルに置かれた万年筆を見つけ、右手で掴む。
「こ、これって……」
「うん、俺のお守り。月芭ちゃんのおばあちゃんに貰った。でもそれ、おばあちゃんも池渕に貰ったものだったんだ」
「そう、だったんですか……」
「それ、月芭ちゃんにあげる」
「えっ?」
「さっきまでそんなふうにして、俺が握らせてたんだ、その万年筆。そうしたら、月芭ちゃんが目覚めてくれた。きっと、不思議な力があるんだよ」
「私に、ですか」
「うん、月芭ちゃんのお守りにしてほしい」
 受け継がれる想い。それが今度は、作家の卵から、彼の未来のお嫁さんに渡る。
「おじいちゃんと、おばあちゃんの……。で、でも、これ、翔汰さんにとっても大事なものなのに」
「違う。大切なものだから、月芭ちゃんが持ってることに意味があるの」
「は、はい……」
 翔汰はそのセリフを恥ずかしげもなく言い放つ。こういうとき決まって恥ずかしくなるのは、言われた側なのだ。
「月芭ちゃんには俺の夢を応援してくれると嬉しい」
 月芭は万年筆から翔汰へと目線を移し、慌てて答える。
「も、もちろん応援はします。させていただくんですが、えぇっと……」
「えぇっと?」
 翔汰は首を傾げる。
「さっき、翔汰さん、おばあちゃんと会って話したって仰いましたよね。それって、昨日、なんですか……?」
 月芭はおかしなことを言う。そういう前提の話だっただろう。
「もちろん、そうだけど」
「そんなはずが、ないんです。……だっておばあちゃんは、二年も前に亡くなっていますから」
「え」
「確かにお屋敷の方は今も三日に一度、お手伝いさんが来てくださって、掃除や建物の管理等をしてくださってて、以前、浴衣を着た時には、その方に手伝ってもらったんですが……。少なくともおばあちゃんは、もう亡くなっています……」
「わ、悪い冗談だよね?」
「じょ、冗談なんて言いません! ひどいです!」
「いやっ、だって、俺、会話したよ? 肩貸してあげたよ? 一緒に泣いたよ? 俺が作家になるまで、待ってくれるって……。え、ほんとに?」
「本当です」
 彼岸の季節とは言え、たいそう丈夫な幽霊だった。月芭は翔汰を不満そうに睨みつけ、頬を膨らませている。
「マジか……」
 ベッドに両肘をつき、こうべを垂れて頭を抱える。
 その人はもうこの世にはいないという事実は、翔汰に無念さと恐怖を与えた。
 もはや涙も出なかった。理解不能だった。
 しかし、一つだけ分かったことがあるとすれば、そういう状況にあって、月芭があの家に住まわなかった理由だ。あの家は月芭にとって思い出がありすぎる。そして何より、現実をありありと突き付けられてしまうのだろう。逃避しているという現実に。
「で、でも、翔汰さんが本当に会ったって言うんなら、私は信じます。信じたいですっ」
「あ、ありがとう」
「私自身だって、この五日間は、不思議な状態でしたから。わ、私があんなふうにいられたなら、おばあちゃんが翔汰さんの目の前に現れても、不思議じゃないような……、えっと」
「……月芭ちゃんが俺の前に現れたみたいに、おばあちゃんが俺の前に現れても、不思議じゃない?」
「そ、そうです! 私、実は事故に遭った直後に、おばあちゃんの声を聞いてたんです。あなたを助けてくれる人が、必ず現れますよ。それまでのもうちょっとの辛抱です、って」
「そんなことが……」
 月芭はあの日、翔汰に話しかけられて最初は驚いていたが、すぐに助けを求めた。祖母の言葉を信じたのだ。
「だ、だからやっぱり私と翔汰さんが出会えたのも、おばあちゃんのお陰なんですかね……」
「はは……、なんだそれ」
 翔汰と月芭は、おばあさんの手のひらの上で踊らされていたのだろうか。いや、彼女はあくまできっかけを与えただけ。道標を立ててくれただけ。
 月芭を救うことが、彼女の未練だったのだとしたら、きっとそれを晴らすために彼女は二人の前に現れたのだろう。
「あの、向こうにある鞄の中身、見てもらってもいいですか?」
 月芭は指差して、反対側の壁沿いに置いてある椅子の上を指差した。
「あぁ、あの桃李の鞄?」
「そうです」
 彼女が持っていたのと同じ鞄。以前は中身を見るなと言っていたのに、今度は見ろと言う。
 ベッドの方に持ってきて開ける。何かを探すわけでもなく、それはすぐに見つかった。
「あ、『自転車旅行』」
「よかった、ちゃんと入ってた……」
「月芭ちゃんが、ずっと持ってた鞄じゃないのに……。遺留品としてずっとここに置かれてたはずなのに……。ちゃんと、入ってるんだ」
「全部、読みましたよ。面白かったです。――私、おじいちゃんの記憶はほとんどないんですけど、おじいちゃんの人柄が、伝わってくるようでした。……私のことを、おばあちゃんみたいに、ずっと見守っててくれたんですね」
「これ、実は続きがあるんだ。『自転車紀行』って続編が」
「ほんとですかっ? 読みたいですっ」
「うん、また今度、持ってくるよ」
 翔汰は無性に嬉しかった。この本を読むことが、彼女を現実と向き合わせる。月芭はそれを分かっていて、読み切った。彼女が前に進むための階段は、一歩ずつ上ればいい。次は、『自転車紀行』を読む。ただ、それだけでいい。
「月芭ちゃん、体に痛みはない?」
「今はありません。痛み止めもしてもらったので……。でも退院は夏休みが終わる頃だって」
「うん、それでいい。ゆっくり休んだ方が良いから」
 月芭は嬉しそうに微笑む。翔汰も笑みを浮かべて、そして口を開く。
「――これからゆっくり体を治して、そこから受験勉強をして、行きたい大学へ行って、やりたいことをして、ちゃんと、現実と向き合う。……その間ずっと、俺が傍にいるよ」
「翔汰さんが作家になれるよう、私もずっと応援します」
「うん。……たぶんそれが、俺の使命だから」
「使命、ですか?」
「そう、義務でも強制でもなくて、俺自身の使命。俺自身が、したいこと。何かを成そうとするんじゃなくて、何かに挑戦すること。野心を持つこと。この歳になって、ようやく、それが分かった」
「翔汰さん、とっても清々しい顔をしてます」
「うん、実際、すごく清々しい気分だよ」
 月芭と翔汰は声を出して笑い合った。それが面白くて、また嬉しくなってしまう。
 と、病室がノックされる。返事をする前に、扉が開いて、女性が入ってくる。
「月芭!」
 飛び込んできた女性は、四〇代くらいの綺麗な人。その面影は、月芭と共通するものがある。
「お、お母さん……っ」
 月芭は驚きの表情を見せる。しかし、彼女が来て当然だった。正式な保護者のところへ意識が回復したと連絡が真っ先に行くべきだろう。
「ずっと、ずっと意識が戻らないで、本当に心配してたんだから!」
 月芭の母親は躊躇わず月芭に抱きつく。
「お母さん……」
「ごめんね、月芭。お母さんたち、あなたのことを放っておいてしまって……っ。あなたを失ってしまうかもしれないと思ったら、私たちがあなたに何をしてきたのか、どれだけ苦しめていたか、本当によく分かった……っ。ごめんね。ごめんね」
「……お母さん、私のこと、そんなに心配してくれてたの――?」
「うん、本当に、心から、心配だった……っ」
 娘の素朴な疑問は、あってはならないものだった。そんな不自然な状況にいたことに、彼女の両親は、ようやく気付いたのだろうか。
 翔汰は、彼女の両親のことを、一番の目の敵のように思っていた。でも、親子のわだかまりが氷解していく様を見て、そんな思いはどこかへ消えていた。
「お母さん、い、痛いよ……」
「ごめんなさい。嬉しくて、つい……」
 月芭の母親も少し落ち着きを取り戻してきたようで、そこでようやく見知らぬ男の存在に気付いた。
「あ、あなたは、誰……?」
 もっともな疑問だ。
「この人は、私の命の恩人だよ」
 月芭が答える。
「えっ?」
 しかし、彼女の疑問は晴れない。それもそうだ。
「僕は唐木翔汰と申します。月芭ちゃんにずっと付き添っていたのは事実なんですが、説明が難しくて……。ぼ、僕もこの子には助けられていて」
「えっ、えっ?」
 さらに困惑する母親。その様子が可笑しくなってしまって、月芭が吹き出すのを皮切りに、翔汰と二人で笑い合う。
「まあいいわ。あなたが無事なら。……唐木さんも、この子のために何か尽くしてくれたなら、本当にありがとうございました」
 平静が装えない母親は、細かいことなどどうでも良くなってしまう。
 きっと彼女には、いつか事情を説明するのかもしれない。しかし、このお母さんになら、理解してもらえるような気が翔汰にはした。
「ではお母さん、僕はこの辺でおいとまします。親子の時間を、どうか大切にしてください」
「……はい、お世話様です」
「じゃあ月芭ちゃん、また、お見舞いに来るよ」
「はい。……約束、ですよ?」
「約束」
 小指を絡めて、指切りげんまん。微笑み合って、翔汰は病室を後にする。
 息を吐いて、時計を見る。午後休みにしてもらったが、今から戻ればまだ仕事はできるだろうか。
 仕事へのやる気が満ちている。秋坂の言った通りだ。


 ――明日、翔汰は二十五歳になる。
 二十五歳になったら、翔汰は、己が掲げた使命を全て遂げてみせようと思う。

25歳になったら

参考文献
新城カズマ『ライトノベル「超」入門』
日本版wikipediaより「ゼロ・ジャンル」の頁から一部抜粋

25歳になったら

夢を諦めた25歳の男と不思議な女子高校生のお話。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-17

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