妹ファンクラブ(仮)

プロローグ

 僕の妹は美人だ。
 おまけに頭も良く成績も学年トップクラスで、運動神経抜群で中学時代は陸上競技の名選手だった。クラス委員で生徒会の副会長も兼任し、クラスでは常に中心人物となって周囲からの信頼も篤い。
 背中で切りそろえた癖一つない天然の金髪。
ぱっちり開いた大きな目と風に棚引くほど長い睫毛。
 小さく可愛らしい鼻筋。
 ぷっくらと膨らんだ薄紅色の唇。
 全身のシルエットは細くけれども健康的で、華奢な四肢は少女らしく程好く肉付いている。本人は胸が薄いのを気にしているが、それも彼女の大いなる魅力だ。
 そう評するのは何も僕が彼女の身内だからではなく、僕の周りの男子女子の言うところだ。つまり、客観的に見ても彼女は美人なのだ。
 容姿端麗。沈魚落雁。天香国色。
 そんな四字熟語の一切は、きっと彼女の為に作られたに違いないと、僕は信じて疑わない。
 僕、笹川悠介はそんな彼女を誇りに思っているし、彼女に一番近しい身内であることが周囲に対する優越感でもある。
 そして今日も僕はそんな優越感に浸りながら、彼女の為に弁当を作っている。
 今日の弁当はだし巻き卵に鮭の塩焼き、昆布の佃煮に彼女の好きな唐揚げを三切れ。ごぼうサラダとポテトサラダを添えて、ご飯の上には焼き海苔と明太子。うん。我ながら完璧だ。完璧な愛情弁当だ。
 彼女と僕の分を弁当箱に盛り付けて、テーブルに置き、冷ましておく。その間に僕は階段を上がり、彼女の部屋に向かう。そしてドアをノックして、声をかける。
「未来―。そろそろ起きろー。朝ごはんの用意できてるぞー。未来―?」
 返事がない。どうやらまだ寝ているようだ。
 僕はドアノブに手をかけ、ドアを開けた。
「未来―入るぞー? もう入ったぞー?」
 再びの呼びかけにも応えない。見ると彼女は掛け布団を両手両足で抱きしめ、ぐっすりすやすやと寝息を立てている。
 じーっとその寝顔を眺めてみる。
 うん、やっぱり美人だ。
 こうやって彼女の寝顔をじっくりと見ることができるのは、僕の役得だ。ずっと眺めていたいね。マジで。
 しかしそういうわけにもいかないので、名残惜しくも仕方なしに僕は彼女に声をかける。
「未来―、朝だぞー? 起きろよー。朝ごはん冷めるぞー?」
 再三に渡る呼びかけにも無反応。ふむ。こうなっては致し方ない。
 僕は唇を舌で舐めて湿らせると、彼女の桃肌のような頬に近付ける。
「ぅむにゃ…………っ!?」
「あ、未来、起きた?」
 目を覚ました彼女と目が合う。途端彼女は顔を引き攣らせ、ばちこーん! と僕にビンタした。
「あ、あああ、あんた何やってんのよ!? 勝手に人の部屋入り込んで!」
 僕は左の頬を押さえながら、
「何って、おはようのキス。それに勝手に入ったんじゃないぜ? 何度も声かけたけど返事なかったから入ったんだ」
 事も無げに言った。
「それを勝手に入ったって言うのよ! あんたまさか、ほんとにききき、キスしたんじゃないでしょうね!?」
「したかったけどな」
「Jesus!! 真顔でキモいこと言うな!」
「キモいとはなんだキモいとは。昔はよくほっぺにキスしてくれたじゃないか」
「そんな昔のこと覚えてないわ! とにかく出てけ! 変態!」
 背中を蹴られ部屋から追い出される。ばたん! と勢いよくドアが閉められた。まあとにかく彼女は目を覚ました。僕にとってはそれでいいのだった。
「あぁ~……寝覚め最悪」
 彼女は目玉焼きの黄身を箸でつつきながら溜め息を吐いた。
「顔色悪いな。どうした?」
「あんたがキモい起こしかたしたからでしょうがっ!」
「酷いな。美女の眠りを覚ますのは王子様のキスって相場が決まってるだろ?」
「さっぶ! 本気で寒くなってきた!」
「つれないなぁ。昔は『おおきくなったらお兄ちゃんのおよめさんになる』って言ってくれたのに」
「だからそんな昔のこと覚えてないっての! ……頭痛くなってきた……」
「大丈夫? 薬出そうか?」
「誰のせいだ誰の! もういい! 学校行く!」
 箸をばん! とテーブルに叩きつけて、彼女は席を立つ。僕は食べかけのベーコンエッグにラップをかけて、弁当箱を包み、彼女の後を追って家を出た。
「………………………………………………………………………………ついてこないでよ!」
 家を出てしばらく、彼女の後ろをつかず離れずの距離で歩いていた僕に彼女が言った。
「そんなこと言ったって、同じ学校なんだから仕方ないだろ?」
「違う道で行ってよ!」
 無理を言う彼女だった。
「未来さん、おはようございます」
 その時、十字路の角から黒髪をポニーテールに結った女の子が現れた。
「鼎、おはよう」
 黒髪ポニーテールの女の子はにこっと笑う。そして僕の方に振り向いて、
「お兄さんも、おはようございます」
「おはよう、澤尻」
 垂れた細目が特徴的なこの黒髪ポニーテールのグラマラスな女の子は澤尻鼎。近所に住む幼馴染で、僕のことを『お兄さん』と呼ぶ、言葉尻からもわかる通り物腰の穏やかな女の子だ。
「鼎、あんなやつと口利かないほうがいいわよ。魂が穢れるから」
「うふふ。今日もお二人は仲がよろしいのですね」
「鼎、今度いい眼科を紹介するから受診しなさい……」
 澤尻は未来の嫌味を軽く受け流し(昔から続くやりとりだった)、僕と未来の腕を取って、
「この時間に登校されるということは今日は生徒会のお仕事はお休みなのでしょう? でしたら久しぶりに三人で参りましょう」
 にこにこ笑顔で僕たちを引っ張って歩き出した。
 澤尻をクッションに他愛ない会話をしながら学校にたどり着く。僕たちはそのまま昇降口で上履きに履き替え、揃って2年3組の教室へ入った。
 不思議に思った諸兄の為に説明すると、僕と妹の未来は年子の兄妹なのである。僕の誕生日は四月二日、未来の誕生日は翌年の三月二七日。つまり同じ年度内に生まれた同学年の兄妹なのだった。
 ちなみに両親は健在で、揃って大手自動車工場に勤めている。僕が毎日の食事と弁当を作っているのは、単に僕の趣味が料理だという理由なだけである。
 教室に入ると澤尻は、
「ではお兄さん、また後で」
 と言って自分の席に着いた。ちなみに未来と隣同士の席なので、僕と別れた後も二人で談笑している。僕は名残り惜しさを感じつつ、二人から離れた自分の席に着いた。すると、
「おはよう悠介。今日も朝からシスコン全開でお熱いことね。」
 後ろから嫌味たっぷりな挨拶が届いた。
 振り返ると、長い黒髪を腰で結い、前髪を瞼で横一線に切りそろえた無表情な、体躯の小さい日本人形のような美少女が、色彩のない黒い瞳で僕を見詰めていた。
「おはよう浜菜。相変わらず僕は冷たくあしらわれてるよ」
 嫌味に屈することなく僕も言う。浜菜――浜菜禊は温度のない黒い瞳で僕を見詰めながら、
「実の兄がシスコンだと気付いた少女の気持ちを鑑みれば、至極当たり前の反応だと思うのだけれど。」
「伊邪那岐・伊邪那美の国生みからして、この国では兄妹婚は所々で行われてきた。古代天皇家なんかその最たる例じゃないか」
「古代天皇家の婚姻制度と現代日本のシスターコンプレックスを同等に扱うのはどうかと思うのだけれど。」
「何も違わないさ。そこにあるのは純然たる愛情。それだけだ」
「その包み隠さず悪びれもせず臆しもしない開けっ広げな姿勢だけは敬意を表するに値するわ。」
「そりゃどうも。ところで一時限目の英語、どの辺りが当たると思う? 訳教えてくんない?」
 僕は鞄から英語の教科書を取り出し、浜菜に尋ねる。浜菜は僕の教科書を覗き込んで、
「32ページの三段落目。『ジョージは妹のキャシィの誕生日にバラのブローチを贈りました。キャシィは大層喜んで、毎日そのブローチを身に着けていました』。」

 昼休みになった。
 四時限目の授業の終了のチャイムが鳴ると、澤尻が小ぢんまりした手のひらサイズの弁当箱を持って、僕の席にやってきた。
「お兄さん、お弁当ご一緒してもよろしいですか?」
「ああ、いいよ」
 特段断る理由も見当たらなかったので、僕は承諾した。すると澤尻は、
「よかった。未来さん、お兄さんが快く承諾してくださいましたよ。こちらでお弁当にしましょう」
「鼎っ! あたしは今朝忘れたお弁当をもらってきてってお願いしたんだけどっ!?」
「お弁当はみんなでいただいたほうが楽しいでしょう? さあ、こちらにいらっしゃいな」
「嫌よ! なんであたしがそいつと――」
 その時。未来のお腹がぐうぅ~と鳴いた。
 未来の顔が見る見る紅潮していく。
「ほらほら未来さん、こっちで一緒にいただきましょうよ」
「~~~~っ…………こっ、今回だけだからね!」
 そう言って未来は僕の前の席にどかっと腰を下ろした。僕は鞄から二つの弁当箱を取り出し、小さい方を未来に渡した。
「浜菜さんもご一緒にいかがですか?」
「そうね。ご相伴に与ろうかしら。」
 僕たちは机を引っ付けてお弁当することになった。
「まあ、今日もお兄さんのお弁当、おいしそうですね」
「本当に。彩りもよく栄養バランスにも気を遣っていて目にも舌にも身体にも美味しそうだわ。だけどこういう場合は期待させるだけ期待させ、いざ食べてみたら残念な味だった、とうのがお約束というものよ。」
「なんだ、僕の料理の腕前をバカにしてるのか? 自慢じゃないけどうちの食事は毎食僕が賄ってるんだ。少なくとも残念な味ってことはないね。食べてみろよ」
 浜菜の前に弁当箱を突き出す。浜菜は『じゃあ遠慮なく。』と言ってからあげをつまみ上げ、咀嚼する。
「どうだ?」
「冷めているのに衣はパリパリして歯切れよく、火の通りも鶏肉の食感を殺さない絶妙なさじ加減で、何より下味の和風出汁の香りがいいわね。」
「つまりおいしい、というわけですね」
「ではお礼に私のからあげも食べなさい。」
「いいのか? じゃあ遠慮なく……」
 浜菜の弁当箱からからあげを失礼して口に放り込む。
 うん、美味い。
 僕のと違って厚めの衣はカリカリサクサク。ほのかに口に広がる生姜の風味はハーブ鶏の香りと高次元で調和していて、噛めば噛むほど溢れてくる肉汁はとってもジューシー。さすが駄菓子屋からミシュラン三ツ星レストランまでを経営する浜菜ゼネラルフーズのお囲いシェフ。勉強になるなあ。
「別段驚くことでもないわ。できて当然の人間が調理しただけよ。」
「いや、でも勉強させてもらったよ。ごちそうさん」
 浜菜はつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「お兄さん、あーんしてください」
 澤尻がフォークに刺したからあげを突き出してきた。僕は何の考えもなしに大口を開け、そのからあげを頬張る。
「うん。素朴な味だけど味に味があるな。澤尻も料理するんだ?」
「いいえ、これは冷凍のからあげです。お恥ずかしながらわたし、お兄さんほどお料理は得意ではないので」
「えっ? これ冷凍なの? その割りにはふっくらしてておいしかったけど」
「揚げるときにちょっとしたコツを加えればこうなるんですよ」
「へえー。コツってどんな?」
「『おいしくなーれ、おいしくなーれ』って呪文を唱えながら揚げるんです」
「へえー。今度やってみるよ。ってやらねえよ」
 てへへ、っと舌を出し笑ってみせる澤尻。いい笑顔だった。
「でもでもこちらのつくしのお浸しはわたしが作ったんですよ。是非食べてみてください」
 勧められるままつくしのお浸しを失礼する。
 おお、これはこれは。
 丁寧にあく抜きされていてクセがなく、すうっと喉を通っていく。これならいくらでも食べられそうだ。
 ところでさっきから一言も喋っていない未来は何をしているかというと、ただひょいひょいとおかずを口に運び咀嚼していた。
「? どうした未来? さっきから黙って」
 と言った僕の顔をジト目で睨みつける未来。そして箸で僕を指差し、
「あんた……キモいんですけど?」
 と、言われても。
「何がキモいんだ?」
「お弁当しながらおかず突き合ってってのは女の子同士でやることなの! あんた男としてのプライド無いわけ!? マジキモいんですけど!」
「酷いこと言うな。昔はよく二人でおままごとやお医者さんごっこしたじゃ――」
「だーかーらー! そんな昔のこと覚えてないってぇの!」
 喰い気味に言ったなあ。覚えてるからこその反応だわな。
「ねぇ!? 鼎もキモいと思うわよね!?」
「いえ、わたしは特に。お願いしたのはわたしですし……それにわたしはお兄さんのことが好きですから……」
「っ!? ちょっと、マジで言ってんの!?」
 薄らと頬を染める澤尻と、驚愕の表情で青褪める未来。
「聞き捨てならない台詞ね。この私を差し置いて悠介を好きだなんて、一体どの口から出た戯言なのかしら。貴女がその気なら仕方ない、今私は全身全霊を以てここに宣言するわ。悠介、私の男になりなさい。」
「ちょっ!? 禊まで何言ってんの!?」
「ツンツンするしか能のない家事の出来ない女子力ゼロのヘタレは黙ってなさい。」
「かっ、家事ができないのは今は関係ないでしょ!?」
「どれほど陸上七種の得点が良くても家事全般が出来なければ女として無価値だわ。もういっそ女を捨てて尼になりなさい。そうすれば少なくとも葬祭のときくらいは持て囃されることでしょう。」
「禊だって家事ぜんっぜんダメじゃない! 人の事言えないでしょうに!」
「私には腕の確かなお手伝いさんが仕えてくれてるわ。無論このお手伝いさんたちは私の未来の殿方のお手伝いさん、という事になるわ。」
「むっきぃー! 何で家事ができないだけでここまでバカにされなきゃなんないのよ!?それに話の方向がずれてってるし! 鼎っ! なんとか言ってやって!」
「ダメですよ、浜菜さん。確かに未来さんは掃除・洗濯・炊事・裁縫、何をとってもダメダメダメなダメっ子さんですけれど、それを人前で言ってはいけません。例え本当の事でも当人が損害を被れば名誉毀損罪に問われることになりかねませんよ?」
「鼎の方が酷いっ!」
 頭を抱えて悶絶する未来。けれども気丈に机を叩いて、
「そんな事よりっ! さっきの発言は本気なの!? 二人とも!?」
「さっきの発言とは何の事でしょうか?」
「ふ、二人が、ここ、この……」
 未来はわなわなと震える手で僕を指差して、
「このキモ男を好きだなんて……!」
 言い切った。さすがに傷つくなー、この言い方。
 言われた澤尻は胸の前で両手のひらを合わせて、
「ええ、好きですよ。わたしの想い人はずっとお兄さんです。あの台風の日からずっと、これからもずっと……」
 目をキラキラさせながら言う澤尻だったが、僕はいつの台風の日なのか全く心当たりが無い。
 他方の浜菜はいつもは無気力な瞳をぎらつかせ、
「私も好きよ。例え駿河問いに掛けられても、例えガリレオ・ガリレイが地動説を破棄したくなる程の拷問をこの身に受けようとも、決して揺らぐ事はないわ。」
 僕と浜菜の間にいつフラグが立ったのか、これまた全く心当たりが無い。っていうか例えが分かりにくい。
「ねえ、お兄さん……お兄さんは……」
「悠介は、どっちを選ぶのかしら。」
「どっちも選ばねえよ?」
 僕は弁当の最後の一口を口に放り込むと弁当箱のフタを閉じ、両手を顔の前で合わせる。
「ごちそうさまでした」
「…………」
「…………」
「…………」
 …………。
「「ええぇ――――――――――――――――――――――――――――――――!?」」
 三人が揃って驚きの声をあげる。
「え、え、え、え、え、え、ど、どど、どうしてですか……?」
 珍しく目に見えて動揺する澤尻と、
「悠介……あんた、ちゃんと話聞いてたの……?」
 困惑の余り口調が変わる浜菜と、
「ちょ、おにいちゃん、ほんま何聞いてたん……?」
 キャラ崩壊した未来に見詰められた僕は事も無げに言った。
「だって僕は筋金入りの、自他ともに認めるシスコンだぜ? 未来以外考えられないよ」
「…………」
「…………」
「…………」
 …………。
「「じゅ……重症だ……」」
 三人がハモって失礼な事を言った。かと思ったら三人は顔を寄せて内緒話を始めた。
「確かに知ってはいましたけど……」
「ここまで重症だとは思っていなかったわ。」
「どうしよう……あたしの貞操超ピンチなんですけど……」
「こうなりましたら手段は選んでいられませんね……浜菜さん、ここは一旦共同戦線を張るという方向でいかがでしょう?」
「共同戦線?」
「ええ。わたしと浜菜さんでお兄さとお付き合いして行動を監視、抑制するんです。そうすればお兄さんも妹ではない一般女性に興味を持たざるを得ないでしょう。そうなれば未来さんの貞操も守られます」
「なるほど、それは良い案ね。」
「でしょう? わたしも浜菜さんもお兄さんも未来さんも、みんなが幸せになれます」
 両手を組んで目をきらきらと輝かせる澤尻。何を話し合ってるんだか。
「そ……そりゃあいつが真人間になるのは大歓迎だけど……でもいいの? そんなことしたら鼎と禊の貞操も危ないわよ?」
「貞操が怖くて恋なんかできないわ。望むところよ。」
「わたしも……お兄さんになら……」
「はあ……そこまで言うのなら……」
「と、いうわけでお兄さん」
 澤尻は僕に向き直り、こう言った。
「今日からわたしと浜菜さんの二人とお付き合いしていただきます」
「いや、だから僕は未来以外はって、二人と!?」
「はい。二人とです」
「でもそれは倫理的にマズいんじゃないか? 二股ってことだろ?」
「シスコンが語る倫理観ほど薄っぺらい物もないわね。とにかくこれは決定事項よ。観念なさい。」
「ええー、そんなこと言われてもなあ。困ったなあ」
 しかし澤尻、浜菜の目は僕の苦言を許さないといった雰囲気だ。まあ、いっか。何の遊びか知らないが、適当に付き合ってやればそのうち飽きるだろう。
 僕がそう納得すると、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

 そして放課後。
 僕は澤尻、浜菜の二人に、
「早速デートいたしましょう」
「無論、拒否権などないのだけれどね。」
 両腕を引っ張られる形で学校の近所の『ベルシティ』に連行された。
『ベルシティ』は市内で一番の規模を誇るショッピングモールで、多種多様な専門店や飲食店、ゲームセンターに映画館がテナントを構えている。
「とりあえず映画でも観ましょうか」
「今どんな映画やってんの?」
「ええと、今の時間丁度いいのは……『妹×恋』? あまりいい予感がしないのだけれど。」
「まあ一番時間近んだしそれでいいんじゃない?」
「そうですね。他のは上映始まったばかりですし」
「じゃあ僕チケット買ってくるよ」
「じゃあこれ、私の分のお金。」
 言って財布からお金を取り出し差し出してくる浜菜を制して僕は、
「いや、いいよこのくらい。僕が出すよ」
「お兄さん……かっこいい」
「……不覚にも一瞬ときめいてしまったわ。ではお言葉に甘える事にしようかしら。」
 僕は三人分のチケットを買い、三人で上映室へ入った。
 映画は二歳離れた妹に想いを寄せる兄が、恋心と倫理観の間で葛藤する様子を描いた笑いあり涙ありの二時間アニメだった。
 やがて上映が終わり、席を埋め尽くしていた人影が出口へと向かう。
 僕はうーんと伸びをして、隣に腰掛ける浜菜を見遣る。浜菜はハンカチで目尻を押さえていた。
「浜菜? 泣いてんの?」
「ええ。こんなに感動したのは何年振りかしら。」
「そうですね……妹さんを想う兄の心情が涙なしではいられませんね」
 隣を見ると、澤尻も涙していた。
 しかし僕は涙の一滴も流れていない。つまらないとは言わないけれど、別段涙を流すほどでもなかったような……
 けれど二人はとても盛り上がっていて、帰りにパンフレットまで購入していた。その後寄ったファミレスでも、二人は『妹×恋』の話ばかりしていた。
「真実の愛の前には倫理や常識なんて有って無きようなものなのね。」
「そうです。人はみな、自分のあるがままに生きるのが幸せなんです」
 何かを悟った二人だった。
「わたし、この原作のライトノベル買います」
「なら私はテレビアニメシリーズのDVDボックスを買うわ。澤尻、読み終わったら貸してもらえないかしら? 私も観終わったら貸すから。」
「ええ、もちろんよろしいですよ。そうと決まったら善は急げです。本屋さんへ行きましょう」
 こうして僕らはベルシティ内の本屋さんにやってきた。入るなり澤尻はライトノベルコーナーへ行き、『妹×恋』を探し出しレジへ直行した。他方の浜菜はDVDコーナーで『妹×恋』のDVDボックスを手に取り、レジへ向かった。
「ライトノベル全13巻で八○○〇円はまあ分かる。けどDVDボックスに三万八〇〇〇円っていうのはどうよ?」
「大丈夫よ。いざという時の為に父からカードを預かっているから。」
「DVDの大人買いがいざという時なんだ……」
「そういう貴方は興味を惹かれないの? 同じシスコンとして感じるものはないのかしら。」
「感じるものねえ……」
 確かに劇場用作品だけあってストーリーは練り込まれてたし、キャラクターに感情移入できる場面も多々あった。けれどそれは物語として面白いのであり、あくまで『この物語はフィクションです』っていう前提があってのことだ。実際自分のクラスにシスコンの兄が居てみろ。みんな揃ってうちの妹みたいにキモいって思うはずだ。――まあ僕のことなんだけど。
「実際はあんなにキャッチーで甘いもんじゃないよ」
「なんだか……」
「貴方が言うと重みがあるわね。」
「それだけの覚悟が僕にはあるってことだよ。で? 次はどこ行く?」
 その後僕たちはゲーセンでプリクラのハシゴをしたり、服を見たりして回った。ちなみに僕はプリクラには一枚しか写ってないし、見た服も女物だけで、且つ本とDVDは終始僕が持っていた。はしゃぎすぎだろ、お前ら。
 そして時計の針が午後六時を指した頃。
「悪い、僕そろそろ帰って夕食の用意しないと」
「あら、もうこんな時間ですか。楽しいひと時はあっという間ですのね」
「ではそろそろ帰ろうかしら。」
 こうして僕らはベルシティを後にした。
 中学も同じ学校だった浜菜とは帰り道も大体同じ。僕らは揃って夕暮れの街を歩く。澤尻と浜菜は片手に荷物を持ち、もう片方の手を僕の腕に絡めている。どうやら僕を誘った時に言ったデートという言葉を覚えているようだ。と言うか本当にデートのつもりでいるらしい。
「じゃあ私はこっちだから。さよなら、悠介、澤尻。」
「ああ。気をつけてな」
「浜菜さん、お気をつけて」
 控えめに手を振る澤尻と僕を一瞥して、浜菜は交差点を曲がっていった。それから他愛ない会話をしながら歩き、僕と澤尻も別れた。
 僕の自宅の前まで来ると、庭先に二台の乗用車が停まっていた。僕は慌てて玄関を潜り、リビングの扉を開け、中に居る人物に声をかけた。
「ただいま。ごめん、すぐに夕飯の用意するから」
 リビングに居た人物――父と母は僕を見付けて、
「おかえり、悠介」
「おかえりなさい。悪いわね、いつもお料理任せて」
「いいっていいって。趣味のうちだから」
 僕はブレザーを脱ぎハンガーに掛けると、エプロンを着けて冷蔵庫を開けた。
「あちゃー、何もないな……」
 冷蔵庫はほぼ空っぽで、辛うじて野菜室に半切りキャベツとシイタケが、冷凍庫に豚バラの冷凍が入っているだけだった。
そうだった、今朝の弁当で食材を使い切ったんだった。学校の帰りにスーパーに寄ろうと思っていたのに、今日は色々あって忘れていた。
「ごめん、今日買い物してくるの忘れた。野菜炒めでいい?」
「ああ、いいぞ」と父。
「悠ちゃんの作れるものでいいわよ」と母。
 キャベツをざく切りにシイタケを薄切りに、解凍した豚バラ肉をマイ中華鍋でごま油で火を入れる。次いでシイタケ、キャベツの順に鍋に入れ、時間がないので粉末中華出汁と塩コショウで味付け。同じく時間がないので大皿に盛って出来上がり。
 野菜炒め(どっちかっていうとキャベツ炒め?)を食卓に置き、全員分のご飯を用意して、二階の未来に声をかける。
「未来―、ご飯だよー」
 返事もせず、無愛想に未来が階段を降りてくる。そしてそのまま食卓に着いた。
「「いただきます」」
「うん。やっぱり悠ちゃんは料理が上手ね。どう? 卒業したら調理の専門学校行く気ない? 悠ちゃんなら向いてると思うんだけど」
「いや、所詮僕は『ちょっと家事のできる長兄』ってだけだよ。僕は自分のレベルと限界を知ってるから」
「そんなことないぞ? 会社の食堂飯の何倍も美味いのに。それに自分の限界を自分で設定するのは感心しないな」
「そうか。じゃあ進路として考えとくよ」
「ところで未来、さっきから黙ってるけど、どうしたの?」
 母の言葉にも無反応で、未来は無言で箸を動かしている。時折箸を止め僕をジト目で睨んでは、また箸を動かす。なんなんだ、一体?
 食事を終え、僕は食器を洗い洗濯物を畳んでいた。すると風呂に入っていた未来が、
「お母さーん、バスタオルがないよー」
 と声を張り上げたので、僕は畳み掛けの洗濯物の中からバスタオルを持って、脱衣所の扉を開けた。
 そこには、金髪を艶かしく湿らせ、日焼け一つない白い肌を晒した、一糸纏わぬ姿の未来が居た。
「…………」 
 凍りつく未来。しかし僕はノーリアクションで、バスタオルを手渡そうとする。その僕の手の動きにびくんと反応した未来は光の速さで浴室に戻り、
「あ、あああ、あんた何やってんのよ! 何勝手に入ってきてんのよこの変態!」
 罵声を浴びせた。そんな事言ったってなあ。
「バスタオル持ってこいって言ったのは未来だろ?」
「普通ノックするか声掛けるかするでしょ!?」
「何照れてんだよ。昔は一緒に風呂入ってたじゃないか」
「昔と今とでは勝手が違うでしょうが!」
 勝手が違うらしい。
「それより他に言う事あんでしょうが!?」
「…………お前、相変わらず胸薄――」
 言い終わる前に洗面器が飛んできた。
 気を取り直して洗濯物を畳み終え、僕と未来の分を持って二階に上がる。未来はジト目で僕から洗濯物を奪い取ると、自室に篭った。
 何なんだ、今日はやけに機嫌悪いな。
 僕は洗濯物を仕舞うと部屋を出て、階下に降り、玄関を出てコンビニへ向かった。そしてハーゲンダッツのバニラを二つ買い、家に戻る。
「未来―、アイス買ってきたぞー」
 未来の部屋のドアを叩きながら声をかけると、さっきのジト目のまま未来がドアを開けた。
「ハーゲンダッツ。食べるだろ?」
「……ちょっと話があるんだけど」
 珍しく自分から僕を招き入れる未来。かと思うと僕からハーゲンダッツを奪い取り、無言で咀嚼し始める。何かを言いたげにチラチラとこちらを盗み見しながら。
 そしてハーゲンダッツを半分ほど平らげると、
「あんた……本気であの二人と付き合うの?」
 こんな事を訊いてきた。
「二人と同時に付き合う……つまりは二股って事でしょ? 倫理的に問題あると思わないわけ?」
「それ昼間僕が言った台詞じゃん。僕はどっちとも付き合うつもりはないよ」
「じゃあどっちか片方となら?」
「それは……」
 正直、そんな発想はなかった。
「鼎と禊、どっちかとなら問題はないわよね?」
 未来の言う通り、どちらかとなら倫理的な問題は確かになくなる。
 澤尻か、浜菜か。
 澤尻は物腰穏やかで相手を立てる事を知っている、淑女とも言えるいい子だ。対して浜菜は少々口が悪く態度も冷たいところがあるが、そここそが浜菜の魅力とも言えよう。出るところが出て引っ込むところが引っ込んでいる澤尻と、発育途上の幼さを残した浜菜。見た目も中身も相反する二人ではあるが、僕個人から言わせてもらえば、二人にはそれぞれの魅力があると思える。それがイコール恋愛感情かといえばそうではないのだが。
 などと考えていると、
「何マジに考えてんのよ……キモっ」
 問題提起してきたのは未来なんだけどなあ。
 けれど、ふと思う。
 もし僕に妹が居なければ。居たとしても、僕がシスコンでなければ。
 あの二人のどちらかの申し出を受けたんだろうか。
 ――何を考えてるんだ僕は。未来の居ない人生なんて考えられないし、シスコンでなければ僕ではなく、僕が僕である限り僕はシスコンでないといけないのだ。それが未来の為なんだから。
 僕はそう納得して、ゆるくなったハーゲンダッツを口に運んだ。

第一章

 翌日。
未来が生徒会の用事があると言って早くに家を出たので、僕は一人のんびりと学校へ向かった。すると――
「あ、お兄さん。おはようございます」
「おはよう、澤尻。未来ならもう学校行ったぞ?」
「存じてます。今日はお兄さんをお待ちしてました」
「僕を? 何で?」
「あら、忘れてしまったんですか? わたし達お付き合いしてるんですよ?」
 ああ、そういえばそんな設定だったっけ。
「恋人同士は揃って登校するものです」
「そっか。じゃあ一緒に行こうか」
「はい」
 にっこり笑って僕の隣に並ぶ澤尻と他愛ない会話をしながら歩く。やがて校門に着くと、そこには浜菜が立っていた。
「おはよう、悠介、澤尻。」
「おはようございます、浜菜さん」
「おはよう浜菜。何してんの? こんなところで」
 浜菜は肩にかかった長い髪を手で払いながら、
「貴方を待ってたのよ、悠介。」
「何で? 教室じゃダメなのか?」
「貴方と揃って歩くために待ってたのよ。私達、付き合ってるのだから。」
 ああ、そういえばそんな設定だったっけ。
「そっか。じゃあ一緒に行こうか」
 無表情のまま僕の隣に並ぶ浜菜。僕ら三人は並んで教室へ向かった。途中、生徒会で使うであろう資料の束を抱えた未来と出会う。
「未来さん、おはようございます。お仕事ごくろうさまです」
「鼎、禊、おはよ。もう朝から忙しくって」
 それだけ言ってパタパタと廊下を駆けていった。生徒会の仕事も大変そうだなあ。

 そうして、昼休みになった。
「お兄さん、ご一緒してもよろしいですか?」
「ああ、いいよ。浜菜も一緒に食べるだろ?」
「もちろん。ご一緒させていただくわ。」
 机を引っ付けて弁当箱を広げる。ちなみに未来は生徒会のメンバーと生徒会室で食べるのだそうだ。さっきそう言って僕から弁当箱を引っ手繰り、教室を出て行った。
「そう、澤尻。『妹×恋』のDVDを観たから後で貸すわ。」
「本当ですか? ありがとうございます。わたしも小説持ってきたので後で交換しましょう」
「二人とも、全部見たのか? 昨日一日で?」
「ええ。」
「はい」
「DVDは分かるけど小説あれ13巻あったろ?」
「実はわたし速読できるんです」
「へえー、すごいな」
 一冊一時間で読んでも一三時間かかる計算なんだが……もしかして寝てないのだろうか。それとももっと早く読めるんだろうか。まあいいや。
「ところで……悠介の今日のお弁当、珍しく質素ね。何かあったのかしら。」
「ん? ああ、昨日の晩から冷蔵庫が空っぽでさ。そうだ、今日帰りに買い物してかないと」
「買い物までお兄さんがしているんですか?」
「そりゃ僕が毎食作ってるからね」
「うちはお手伝いさんとシェフが交互に作ってくれているわ。」
 すげえな、浜菜家。きっと毎食豪華なんだろうな。
「では放課後三人でお買い物に行きませんか?」
「それは名案ね。デートにもなって一石二鳥だわ。」
「よろしいですか? お兄さん」
「いいけど行くのはうちの近所のスーパーだぜ? 澤尻はともかく浜菜はちょっと遠くなるぞ?」
「構わないわ。私もそのスーパーとやらに行ってみたいわ。」
 スーパー行ったことないんだ……さすが浜菜グループのご令嬢、箱入りの度が違う。

 放課後。
 僕ら三人は僕の家の近所のスーパーへ向かった。
「ここがスーパー……」
 入るなり浜菜が感嘆の吐息を漏らした。どこに感動したんだ?
「悠介、見なさい。野菜がこんなにたくさんあるわよ。そしてこのミストは何かしら。お肌によさそうね。」
「そりゃスーパーだからな。このくらいの品揃えは当たり前ってかこの店はチェーン店の中でも規模が小さい方だよ。あとそのミストは野菜が乾燥しないために噴霧してるんだから浴びちゃだめだぞ」
「うふふ。浜菜さん、子供みたいですね」
「驚いたわ。牛乳一つ取ってもこれだけの銘柄があるだなんて。」
「最近は高級牛乳が流行ってるらしいからな。地方の銘柄もけっこうあるな」
「こっちはお肉ね。豚、牛、鶏……どれも細切れで薄っぺらいわね。これ本当にお肉?」
「お前の家ではどんな肉食ってんだよ。庶民の肉はこんなもんだ」
 浜菜がいちいち感動するのが面白くて、気付いたら結構いい時間になっていた。僕らは店を出て、長く東に伸びる影を連れて歩く。
「すっかり遅くなってしまったわね。」
「そうですね。お腹が空いてきちゃいました」
 てへっ、と笑ってみせる澤尻。
「二人とも、よかったらうちで食ってくか?」
「いいんですか?」
「いいよいいよ。買い物付き合ってくれたお礼だから」
「ふむ。たまには庶民の食事に付き合うのも悪くないわね。そういうことならご相伴に与ろうかしら。ちょっと待ちなさい。今家に電話するから。」
 浜菜はケータイ(浜菜はガラケー派だった)を取り出して、実家に電話をした。夕飯は要らないと言っているようだ。隣では澤尻が同じ事をしていた。
「了承を得たわ。さあ行きましょう。」
「わたしもオーケーです」
 というわけで揃って僕の家へ向かった。
「散らかってるけど……まあ上がってよ」
「お邪魔するわ。」
「お邪魔します。お兄さんの家、久しぶりです」
 二人をリビングに通した僕はお茶とお茶請けを用意して、買ってきた食材を冷蔵庫に詰める。そしてブレザーを脱ぎエプロンを着ける。
「二人とも、嫌いな食べ物ある?」
「私は何も。」
「あ、わたしも特にないです」
「おっけ。じゃあ適当に用意するよ」
 適当に、とは言ったものの家族以外に料理を振舞うのは久しぶりなので、下ごしらえする手にも気合いが入る。
「何かお手伝いすることはありますか?」
 澤尻が寄ってきた。
「いいよいいよ。座ってテレビでも観ててよ。そのうち未来も帰ってくると思うし」
「では未来さんが帰ってくるまでお手伝いします」
「そうか? じゃあエビの尻尾取ってくれるか?」
「かしこまりました」
 エビの尻尾を沢尻に任せて、僕は米を研ぐ。すると手持ち無沙汰になったのか、浜菜までキッチンにやってきた。
「私にも手伝わせて頂戴。」
「じゃあ澤尻と二人で尻尾取り頼むよ」
「分かったわ。澤尻、少し詰めて頂戴。」
 座っててくれていいのに。これじゃお礼になってない。まあ楽しそうだからいいか。
 米研ぎが終わり、炊飯器にセットして炊飯ボタンを押す。次は油鍋に油を入れて温めて、今のうちにエビに衣を付けていく。
「ただいまーって誰か来てんの?」
 未来が帰ってきた。
「鼎に禊じゃない。何やってんの?」
「お兄さんにお夕飯お呼ばれしたんです」
 澤尻が手を洗い、未来の元へ駆けていく。
「浜菜ももういいぞ。あとは一人でできるから」
「そう? ならこれで。完成を楽しみにしているわ。」
 と言って手を洗い、未来のところへ行った。さて、油も温まったしそろそろかな。
「未来さん、今お仕事忙しいんですか?」
「そうね。体育祭の準備が始まって忙しいと言えば忙しいわね」
「体育祭……私には縁遠い言葉ね。」
 縁遠いね。浜菜は運動からっきしだからな。
 衣を付けたエビを油に通す。ジュワッっと小気味良い音が弾ける
「今日の晩ご飯何? エビフライ?」
 未来が訊いてきたので、
「いや、エビチリにしようと思って」
 と答えた。
「またあんたは凝ったもんを作るわね」
「何だよ、エビチリ嫌いか?」
「別に嫌いじゃないけど」
「ならいいじゃん」
 言いながらエビをじゃんじゃん揚げる。父母の分を入れて六人分だから量も多い。油の温度を下げない為に少量入れては上げ入れては上げを繰り返し、やっと六人分を揚げ終える。
 次は愛用のマイ中華鍋に油を引いてエビと特製のチリソースを和える。こちらも量が多いので数回に分けて調理する。エビを全て和えたら大皿に盛ったレタスの上に乗せて完成。
 試しに一つ食べてみる。
 うん。チリソースもいい感じにピリ辛で衣はふわふわ、エビはプリプリで我ながら上出来だ。そしてうまい具合にごはんも炊けた。父母はまだ帰ってきていないが、まあいいか。
「さて、父さんも母さんも遅番だから先に食べようか」
 エビチリを乗せた大皿をテーブルに置きながら言う。と、三人はぞろぞろとテーブルに着いた。
「まあ、相変わらず美味しそうですね」
「こっちの春雨サラダも彩り鮮やかで実に美味しそうね。」
「まあ料理の腕だけは一流だからね」
「お褒めに預かり光栄です。ごはんどのくらい食べれる?」
「わたしは普通でお願いします」
「私も普通で。」
「あたしも」
「了解」
 四人分のごはんをトレーに乗せて、それぞれの前にお椀を並べる。すると未来が先陣を切って、
「じゃあ食べよっか。いただきまーす」
「いただきます」
「頂きます。」
「はい、召し上がれ」
 談笑しながら食事は進む。……はずだったのだが、僕、澤尻、浜菜が談笑しているのを見て未来が眉根を顰めた。
「あんたら、本気で付き合ってるわけ?」
「ええ、そうですよ」と澤尻。
「何を今更。昨日そう宣言して、貴女も了承したでしょう。」と浜菜。
「いや、僕はそんなつもりはないんだけど」
 という僕の反論は未来の耳には届かないようで、
「あたし考えたんだけど……やっぱり二人と付き合うっていうのは倫理的に問題があると思うのよ」
「そうは言いましても……これも未来さんとお兄さんの為、延いてはわたし達二人の為でもあるんですよ?」
「その通りよ。現時点では誰も損害を被っていないわ。いえ、将来的に見てもこれはどう考えても利益の方が遥かに大きいわ。反対する理由が見当たらないでしょう。」
「もう一回訊くけどあんた達、本気でこいつが好きなわけ?」
「はい」
「もちろんよ。」
「その相手がよ? 二股掛けてるわけじゃない。言ってしまえば。そんなので本当に納得できるわけ?」
「何が言いたいのかしら?」
「あたしもね、自分の兄貴が二股掛けてるなんてとてもじゃないけど人に言えないのよ」
「ならどうしろと言うのかしら? 別れろとでも?」
「そうじゃないけど……ねえあんた」
 と、ここで僕に話を振ってきて、
「どっちか一人、選べないの?」
 んなこと言ったってなあ。僕はどっちとも付き合ってるつもりはないんだけど。
「はっきりしないわね。男らしく決めなさいよ」
 そう言ってもなあ。
「何度も言うけど僕は未来以外興味ないよ。だからどっちとも付き合わない」
「あんた……どうしてそんなとこだけ男らしいのよ……」
「けれどこれじゃ計画倒れだわ。どうにかしてこのシスコンを矯正しないと。」
「そうですね。どうにかしてお兄さんに全うな道に戻ってきていただかないと」
「なんか……ごめんね。こんな兄貴で……」
 未来が申し訳なさそうに目を伏せる。と、突然顔を上げて僕を睨みつけ、
「こうなったら何が何でもどっちかと付き合ってもらうわよ。明日は鼎と二人きりでデート、明後日は禊と二人きりでデートすること! それでどっちと付き合うか決めなさい! いい? これは命令だからね!」

第二章

 と、言うわけで。今日は澤尻と二人きりでデートの日。別に僕が望んだわけでもないのに、だ。
 しかし約束した(わけでもないのだが)以上は約束は果たさなければならない。僕はお気に入りの春服の身だしなみを整え、リビングに降りた。すると母が、
「あら悠ちゃん、お洒落してお出かけ?」
「うん。澤尻とちょっとね」
「あら、鼎ちゃんとデートなの? あんまり遅くならないようにね」
「夕飯外で食べるから。悪いけど適当に食べといて」
「はいはい。行ってらっしゃい」
「じゃ、行ってきます」
 お気に入りのスニーカーを履いて玄関を出る。と、門扉のところに澤尻が立っていた。
「澤尻……何してんだ? 待ち合わせここじゃないだろ?」
「いえ、その……少しでも早くお兄さんと会いたかったものですから」
 淡いミントグリーンのワンピースに白いカーディガンを羽織り、はにかんで笑った顔はとってもキュートで、天使みたいで、気を抜くと恋に堕ちてしまいそうで、僕は結構本気で正気を保つのに必死だった。
「? お兄さん、どうかされましたか?」
「いや、何でもない」
 僕は澤尻の顔を直視できず顔を背けながら、
「じゃあ……行こうか」
 澤尻を促すと、
「はい……」
 薄く笑って僕の隣に並んだ。
 とりあえず僕らはベルシティを目指した。その道すがら、
「こうしてお兄さんと二人で歩くの、珍しいですね」
「そうだな。二人きり、ってのは珍しいよな。大体未来や浜菜が一緒だからな」
「未来さんとも小さい頃から一緒でしたからね」
「そうだな」
「未来さん、小さい頃からお兄さんにべったりでしたのに」
 そう。未来は小さい頃から、お兄ちゃん子だったのだ。どこへ行くのも何をするのも一緒。部屋も一緒ならお風呂に入るのも一緒、ベッドで寝るのも一緒だった。
 そんな未来がどうして今のように僕を毛嫌いするようになったかというと……いや、この話は今はしないでおこう。澤尻とは関係ない話だ。
 天使のような澤尻と喋りながら歩いていると、ベルシティに着いた。
「どうする? とりあえず映画でも観る?」
「そうですね。上映時間を確認して、時間があるようでしたらその間にウインドウショッピングでもしましょう」
 というわけで映画館で映画の上映時間を確認する。
 といっても一昨日観に来たばかりなので上映作品は代わり映えしておらず、相変わらず『妹×恋』もレギュラー上映中だ。
「何観る? 一昨日観なかったやつがいいよな?」
「そうですね……これなんていかがです?」
 そう言って澤尻が指差したのは『神様、もう少しだけ』。上映時間は今から一時間後。僕はぶっちゃけどの映画でもよかったので、この映画を観ることにした。
 僕はチケット売り場でチケットを二枚買い(澤尻が自分の分は払うと言ってきたが断った)、とりあえず映画館を出た。
「澤尻、見たい服とかある? 付き合うよ」
「いいんですか? でしたら見たいお店があるんですけど……」
「いいよ、そこ行こう」
「ではこちらです」
 澤尻はにっこりと嬉しそうに笑って僕を先導した。
「夏物の服がこんなに……どれも可愛らしいですね」
 目をキラキラさせながら陳列してあるキャミソールやらワンピースやらに見入る澤尻。すると一つの商品を手に取って、自分の肩に宛てがい僕に振り返る。
「ど……どうですか?」
 手にしていたのは白のノースリーブのシャツ。襟元にはライトグリーンのネクタイが着いていて、袖口や裾にもライトグリーンのラインが入っている。可愛いけれど、なんだかほわほわした澤尻のイメージとは少し違う感じがするな。
 そんな僕の表情を察したのか澤尻は少ししゅんとなって、
「やっぱり似合いませんよね……」
「いやいや、似合ってるよ。ただ普段のイメージと違うからさ」
 普段の澤尻ならそうだな……
「こっちのレース付きのノースリーブなんかどう?」
 言いながら澤尻の肩に合わせてみる。襟元と裾にレースをあしらい、首元の細いラインの青リボンがアクセントになってなかなか可愛らしい。
「澤尻はこういうのが似合うんじゃないか?」
「そう……ですか? あの、できれば試着なんかしてみても……」
「ああ、いいよ」
「ありがとうございます!」
 にぱっ、とたんぽぽのように笑う澤尻。澤尻はそのまま試着室へ入っていった。
 そして待つこと数分。試着室のカーテンを開けて出てきた澤尻は頬を薄ら朱に染めながら、
「ど……どうでしょうか?」
 グラマラスなボディラインがはっきりと分かる服なのに嫌味は感じられず、さらけ出された白い手足は健康的な色気を感じさせる。背中に羽でも付けたら本当に天使と見紛うんじゃないだろうか。
「うん……何て言うか、可愛いよ」
「そんな……照れてしまいます……」
 言いながら頬を押さえる澤尻。その仕草もまた可愛らしい。並みの男なら恋に堕ちてしまいそうなほどに。そんな澤尻を見て僕は、
「その服、買ってやるよ」
「え!? でも、そんな……」
「いいからいいから。ほら、脱いでこい」
 僕は澤尻の背中を押して試着室に押し込む。澤尻の喜ぶ顔が見たかった。というかこの格好の澤尻をもっと見たかった。
 会計を済ませ服屋を出る。澤尻は笑顔で服屋の紙袋を抱えていた。いい事したなあ。
 その後僕らは服屋を二軒廻って、映画館に戻った。
 チケットをもぎってもらい上映室に入る。程なくして照明が落ち、映画本編が始まった。


 映画に見入って泣いてしまった。
 映画は不治の病に冒された少女とその少女を懸命に看病していた青年が、余命幾ばくかの日々のうちに恋に堕ち、喧嘩して、仲直りして、愛を育み、やがて少女は――という話。
 あらすじではイマイチ伝わらないかもしれないが、本気で感動した。こんなに感動したのはいつ振りだろうか。こんなことならハンカチを用意してくるんだった。
 と、僕が洟をすすっていると隣の席からポケットティッシュが差し出された。
「澤尻……ありがとう」
「いえ……わたしも……すごく感動して……ぐすん」
 澤尻も目尻をハンカチで押さえ、洟をすすっている。見渡すと上映室の所々から洟をすする声が聞こえた。やがてエンディングテロップが流れ終わり照明が点いても、誰ひとりとして席を立つ者はいなかった。
 そうして五分ほど経ってからようやく、観客たちが席を立った。
 僕らも人波に乗って映画館を出て、食事をしに一階のパスタ専門店に入った。
「お兄さんは何になさいますか?」
「そうだな……ナスのトマトソーススパゲティとミートピザにするかな。澤尻は?」
「ではわたしはカルボナーラのハーフサイズで」
 注文を終えて料理が運ばれてくる間、僕らは他愛ない会話をした。
「お兄さんの泣いているところなんて初めて見ました」
「そうか?」
「はい。昔三人で遊んでいた頃も見たことありませんでしたし。いつもしっかりしたお兄さんだなあって思っていたんですよ」
 しっかりした、か。一応未来の手前そう振舞ってはいたけれど。
「ずっとお兄さんみたいなお兄さんが欲しいなって思ってたんです」
 それは……中々に無理な注文だな。弟や妹が欲しいっていうなら分からないでもないけど。
「だからずっと……お兄さんに憧れていたんです」
 と、澤尻は僕を真っ直ぐに見据え、微笑んだ。
 それから食事をしてまた少し談笑して、僕らは店を出た。
「まだ時間あるけどこれからどうしようか?」
「そうですね……南部丘陵公園なんてどうですか?」
「丘陵公園か。久しぶりに行ってみるか」
 僕らは電車とバスを乗り継ぎ、隣街の南部丘陵公園にやってきた。
 ここ南部丘陵公園ではヒツジやヤギ、クジャクやアヒルなんかの数種の動物や鳥が飼育されていて、その全てを無料で一般公開している。規模は小さいけどこの牧歌的な雰囲気が意外と人気で、休日はそこそこ人の出入りがあったりする。
「久しぶりに来たなあ」
「そうですね。お兄さんと来るのは幼稚園の頃以来でしょうか」
「そんなに来てないっけか」
 言いながら僕らはクジャクを見たりアヒルを見たりインコを見たりしながら歩いた。
ウサギ小屋にやってくると丁度、餌やり体験の希望者を募集しているところだった。
「澤尻、餌やってみるか?」
「やりたいです」
 またにぱっ、と笑う澤尻。僕は澤尻のカーディガンを預かり、柵の外からその様子を見守ることにした。
「うさぎさーん、ご飯ですよー」
 ちぎったキャベツを片手にウサギに話し掛ける澤尻。するとあっという間に十数羽のウサギ達に囲まれてしまった。
「あら、いっぱい来ちゃいましたね……そんなにご飯は持ってないんですよー」
 諭しても諭してもウサギはわらわらと澤尻に抱き着いたり飛び付いたり。困り果てててんやわんやしている澤尻もなんだか可愛らしくて、僕は自然と頬が緩んでいた。

そして最奥部のヒツジとヤギのブースにやってきた。
「お兄さん、あちらを」
「ん?」
 澤尻の指差す先を見遣る。
「『ヒツジの赤ちゃんが生まれました。お名前募集中です』ですって」
「へえ。『青い印が男の子、赤い印が女の子です』か」
 囲いの中を見ると、母親と思しきヒツジに寄り添うように、腰の辺りにマーキングされた二匹の仔ヒツジが見えた。
「可愛らしいですね」
 言いながら澤尻は備え付けのプリント用紙を取り、同じく備え付けの鉛筆で文字を書く。
「じゃーん。できました」
 にっこり笑顔で両手を前に伸ばし、僕の顔の前に誇らしげにプリント用紙を見せつける。そこには、
「男の子・悠介、女の子・未来……?」
「お兄さんと未来さんです。ダメですか?」
「ダメじゃないけど……僕らはあんなに仲良くないぜ?」
「わたしから見たらお二人は今でも仲良しですよ」
「そうか? 大概嫌われてるけどなあ」
「そんな事ないですよ。未来さんは今でも、お兄さんを尊敬していらっしゃいます」
「……そうか」
 だとしたら僕の策は失敗しているのかも知れないな……
「? お兄さん?」
「あ、いや、何でもない。じゃあ僕はメーテルと鉄郎にしとこうかな」

「今日は楽しかったです。一日中お兄さんと居られて」
「そりゃ何よりだ」
 あの後丘陵公園を出た僕らは、折角だからと市街に繰り出しウインドウショッピングをして、いい塩梅に陽も沈んでお腹が減ってきたので、今はちょっとお洒落なイタリアンレストランで夕食中だ。
 僕は一足早く運ばれてきたエスカルゴのオーブン焼きにフォークを突き立てながら、
「でも何か悪かったな。未来のせいで一日付き合わせて」
「そんなことありませんよ。大好きなお兄さんと居られてわたしは……すごく、幸せでしたから」
 男冥利に尽きる台詞だなあ。
「もしお兄さんと正式にお付き合いできたら……毎日こんなに幸せなんでしょうね」
「僕はダメだよ。誰かを幸せにできるような甲斐性はないよ」
「そんなことないですよ。わたしはずっと、あの台風の日からずっとお兄さんに憧れていたんですから」
「それなんだよ。台風の日っていつの事だ?」
「覚えてらっしゃらないんですか?」
「全く」
「それでも仕方ありませんね。ずっと昔の事ですから――あれはそう、わたし達が小学一年生の時の事です――」
 それから澤尻はポツポツと語りだした。
 僕らが小学一年の時、澤尻と未来が大ゲンカしたことがあったそうだ。台風が迫り暴風警報が発令される中、澤尻は家を飛び出していった。
 神社の祠の中で泣いている澤尻を見つけたのは僕だった。
 吹き荒ぶ風雨の中、僕は澤尻の手を引いて家に帰った。そして澤尻と未来を引き合わせて仲直りさせたのだという。
「あの時のお兄さんの手はとても暖かくて、その背中はとても大きくて頼もしかったです。それにお兄さんが居てくれなければ、今も未来さんと仲違いしたままだったかもしれません。だから――」
 澤尻はそこで整った姿勢を更に整えて、
「ありがとうございました」
 深々と頭を下げた。
「気にしないでいいよ。僕は覚えてない事なんだから」
「やっぱりお兄さんは優しいんですね」
「優しいんじゃなくて忘れてるだけだよ」
「わたし……そんなお兄さんが……と、ダメですね。抜け駆けしては浜菜さんに申し訳ないですね」
 てへっ、と舌を出して片目を瞑る澤尻。けれどその瞳は真剣だった。と、ここで頼んだ料理が来たので、話は一旦途切れた。

「今日はありがとうございました。一日付き合っていただいて」
 澤尻の家の玄関前で、澤尻がまた頭を下げる。
「いや、こっちこそ。悪いな、あんまり盛り上げてやれなくて」
「そんな事ないです。とても楽しかったですよ」
「そうか? ならよかった」
「はい。またお兄さんと二人でデートできる日を楽しみにしています」
 と言って微笑んだ澤尻の表情は、やっぱり天使みたいに可愛かった。


「と、言うわけで今日は一日私と付き合ってもらうわよ。」
 翌日。
待ち合わせの校門前で顔を合わせて第一声、所々にフリルのあしらわれたゴシックドレスに身を包んだ浜菜が言った。
「澤尻とどこをどう回ったかは知らないけれど、今日は私のプロデュースに則ってもらうわ。」
「プロデュース?」
「ええ。今日一日私の考えたコースでデートしてもらうわ。澤尻には悪いけれど、今回ばかりは本気でやらせてもらうから。覚悟なさい。」
 覚悟なさいって、僕に何をさせる気だ?
「何もしなくていいわ。ただ黙って私の隣に居て、私の一挙一動に一々感激していればいいのよ。」
 えらい言いようだなあ。
「分かったよ。じゃあまず何をしてくれるんだ?」
「まずはお昼を食べましょう。近くに馴染みの店があるの。」
「浜菜の馴染みの店か。気になるな」
 僕が腕を組みそんな事を考えていると、目の前に音も無く黒塗りのプレジデントが停まり、運転席から黒いタキシードを着た初老の紳士が降りてきて、浜菜に頭を下げた。
「お迎えに上がりました、お嬢様」
「ありがとう、西園寺。こっちが私の学友の笹川悠介。」
 西園寺と呼ばれた紳士は僕に向き直り、改めて頭を下げた。
「私、禊お嬢様の執事の西園寺と申します。笹川様のお話は重々伺っております。狭くてご不便をおかけしますがどうぞ車へ」
 紳士に促され僕はプレジデントの後部座席に乗せられる。続いて浜菜も乗ってきて、車はまた音も無く発進する。
「しかし執事さんが居るとは……やっぱ浜菜ってすごいんだな」
「すごいのは私ではなくて父よ。会社も家も車も全部父の物。私の所有物なんて数える程しかないわ。――まあその父の所有物で貴方を饗そうとしているのだから文句は言えないけれど。」
「随分棘のある言い方だな……やっぱ親父さんとは上手く――」
「着きました、お嬢様」
 僕の台詞の途中で西園寺氏が割り込んできて、車を停める。礼も言わず下車する浜菜に続いて車を降りると、そこにはいい感じに寂れた和風の建屋が居を構えていて、『天麩羅・大葉屋』という暖簾が掛かっていた。
「一時間程流してきて頂戴。さあ入るわよ、悠介。」
 浜菜は言って暖簾を潜っていく。僕は西園寺氏に頭を下げ、浜菜に続いた。
「いらっしゃいませ、禊お嬢様。どうぞ、奥のお座敷へ」
 白衣を着た店主と思しき男性と和服を着込んだ三人の中居さんに頭を下げられる。しかし浜菜は鼻をふんと鳴らすと、
「畏まらないで頂戴。今日はプライベートで訪ねてきたのだから、一般のお客様と対等に扱って頂戴。」
 白衣の店主は困り顔で、
「そうは仰られても私共にも立場というものがございまして」
「杓子定規ね。まあいいわ。悠介、突っ立ってないでこちらにいらっしゃい。」
 浜菜に促されて僕は座敷に着く。すると店主が膝を折り、
「今日は特別に良い食材を仕入れておきましたので」
「余計な真似を。」
「恐れ入ります」
 浜菜に頭を下げて店主は下がっていった。
手持ち無沙汰な僕は店内を見回す。外装と同じく味のある感じに寂れた店内はひどく落ち着いていて、BGMの代わりに食材を揚げる音が静かに響き、一層の高級感を漂わせている。こんな店、浜菜と一緒じゃなきゃ来る機会なんて無かっただろうな。
「この店が馴染みって言ってたけど、よく来るのか?」
「馴染みの店、という表現は少し違ったわね。ここの店主と馴染みなのよ。よくうちに賄いに来てくれているから。」
「そんな人にさっきから冷たく当たってるじゃないか?」
「所詮彼は仕事でやっているだけよ。私との関係はそれ以上でもそれ以下でもないわ。」
「人脈は宝だぜ? 武田信玄も言ってただろ。『人は城、人は石垣、人は堀』ってさ」
「私には縁のない言葉だわ。」
「そう言うなよ。お前にも友達は居るじゃないか。少なくとも僕も未来も澤尻も、お前の事を友達だと思ってるぜ?」
「…………」
「どうした? 顔赤くして」
「……何でもないわ。」
 とか言っていると料理が運ばれてきた。皿にはえび、きす、しいたけ、れんこん、ししとう、なす、かぼちゃ、おおばのてんぷらが豪勢に盛られている。
「こういう店って初めてなんだけど、食べる順番ってあるんだよな?」
「手前に盛られてる、味の薄いものから順に食べるのが基本だけれど。」
「そうか。じゃあえびからだな」
 一番手前のえびを箸で取り口に運ぶ。衣はサクッと身はプリプリで、けれども芯は僅かにレアな絶妙な火加減。お見事、としか言い様がない。
「美味い。さすがは浜菜グループだな」
 僕の賛辞に浜菜はふんと鼻を鳴らして、
「高いお金取ってお客に食べさせてるのよ。この位できて当然よ。」
「お前毎日こんな良い物食べてんの?」
「仕方ないでしょう。父に頼まれて作りに来るのだから。頼んでもいないのに。」
「罰の当たりそうな物言いだな。でも親父さんも浜菜の事考えてるんだと思うぜ?」
「さて、どうかしら。」
「きっとそうだよ」
「……まあいいわ。この話はこれでお終い。冷めないうちにいただきましょう。」

「有難うございました。是非またお越し下さい」
「気が向いたらね。」
 店頭で頭を下げる店主と中居さんを一瞥して、浜菜はそう言った。そして店の向かいで車を停めていた西園寺氏に向き直り、これまた一瞥して車に乗り込む。
「ほんとによかったのか? 全額出してもらって」
「いいのよ。私がプロデュースしているのだから。」
「でもなあ……二人で一万八〇〇〇円だぜ?」
「どうせ父のお金よ。さっき払ったお金も父の会社に入るのだから、プラスマイナスゼロよ。」
「それはそうかも知れないけど……じゃあせめて次の店は僕に出させてくれよ」
「そこまで言うのなら仕方ないわね。なら喫茶店でお茶でも奢ってもらう事にしましょう。西園寺、次の場所へ。」
「畏まりました」
「で? 次はどこへ行くんだ?」
「黙っていても着くのだから黙っていなさい。」
「ひどい言い様だな……」
 相変わらずの浜菜節だった。
 車は国道をぐるりと周り、やがて海沿いの堤防を走っていた。そして堤防から一本逸れた小高い丘の上にある洒落た趣のログハウスの前で停まった。
「すぐに済むから待っていて頂戴。」
 と西園寺氏に言い残し、浜菜はログハウスに入っていく。僕も浜菜を追ってログハウスに向かった。
 カランコロン、とドアベルを鳴らして中に入ると、香ばしくほのかに甘い香りが鼻を突いた。
「いらっしゃい。おや、禊ちゃんかい。よく来たね」
「ええ。また寄らせてもらったわ。」
 長身で小太りの男性と浜菜が挨拶を交わす。男性は顎鬚をさすりながら僕を見遣ると、
「そっちの男前は禊ちゃんの彼氏かい?」
「今は違うわ。学友の――」
「笹川悠介です」
「俺は古前田。見ての通りこのコーヒーショップの店主だ」
 なるほど。この香りはコーヒー豆の香りか。よく見ると古前田マスターの前のカウンターには数種のコーヒー豆が陳列されている。
「まあ突っ立ってないで座りな。何飲む? 禊ちゃんはいつものでいいかい?」
「いえ、今日は豆を貰いに来たの。」
「そうかい。この前渡した豆はどうだった?」
「私はもう少し苦味がある方が好みね。」
「そうかそうか。ならちょっとだけ手を加えておこうか」
「ええ。お願いするわ。」
 マスターが鼻歌を口ずさみながら豆を計量する。その間店内を見回してみると、南の壁に古いエレキギターが掛けてあるのが見えた。
「ラージヘッドのローズ指板にこの杢目はアルダーかな? これ、69年スタイルのストラトキャスターですね」
 僕がぽつりとそうこぼすと、マスターは嬉々を満面に浮かべて振り返り、
「お? 分かるのかい?」
「少しだけですけど。タイムマシンですか?」
「いや、本物のヴィンテージだよ。親父の形見でね」
「すごいですね。本物なんてネットでしか見たことないですよ」
 僕は思わず感嘆の溜め息を漏らす。と、隣で会話を聞いていた浜菜が怪訝そうな表情で、
「悠介、何の話をしているのかしら。」
「ああ、このギターの話だよ」
「溜め息を漏らすほど凄い物なの?」
「そうだな。これは一九六九年、だいたい五〇年くらい前に作られたギターでな、いわゆるヴィンテージって呼ばれるギターなんだ」
「ただ古いだけなんじゃないの?」
「今みたいに大量生産できない時代に作られて、壊れず捨てられずに現代に残ってるっていう事に意味があるんだ。まあ他にもピックアップの磁力が弱まって、枯れた抜けの良い音になってるっていうところもミソなんだけどな」
「いける口だね、男前。音出してみるかい?」
「いいんですか?」
「その語り口からして素人じゃないんだろ? そっちにJCM900があるから好きに鳴らしな」
「ありがとうございます」
 アンプの電源を入れ、真空管が温まったのを確認してからギターをアンプに繋いでゲインとイコライザーを調整する。そしてギターとアンプのボリュームを上げて、Emのコードを鳴らす。
「うわ、すっげえいい音!」
「だろ?」
 コード一つ鳴らしただけですぐに分かる。ボディ鳴りも素晴らしく良いし使い込まれたネックグリップは手の平に吸い付くようで、ピックアップもいい感じに枯れてる。まさに至高の一本だ。
 気分が良くなった僕はあれこれの曲のイントロやサビのフレーズを弾いてみる。
「久しりに聴いたけどやっぱり上手いのね。」
「そうでもないさ」
 しかし調子に乗って掻き鳴らしていると……
「痛っ……!」
 指が絡まって痛んだ。
「悠介、やっぱり腕が……」
「うん、ちょっとな……どうもありがとうございます」
「もういいのかい?」
「はい。堪能させてもらいました」
 ギターを元あった壁に戻す。と、丁度ローストが終わったらしくマスターが豆を入れたアルミの袋を持ってやってきた。
「お待たせ。ブレンドは前回と同じでローストだけ深くしておいたよ。また感想を聞かせてくれ」
「ありがとう。お代はこっちからもらって頂戴。」
 と言って浜菜は僕を見遣る。そうだった。さっき次の店は僕が出すと言ったんだった。
「いくらですか?」
「一八〇〇円だね」
「じゃあこれで」
 二〇〇〇円渡してお釣りをもらう。
「毎度。禊ちゃん、またおいで。男前もまたギター弾きにおいで」
「はい。是非」
「じゃあマスター、これで。」
「ああ、気を付けてな」
 店を出て西園寺氏の車に乗り込む。
「あの店も浜菜グループなのか?」
「いえ。彼の個人経営よ。」
「ふーん。で、次はどこに?」
「折角だから豆が新鮮な内にいただこうかしら。西園寺、次の場所へ。」
「畏まりました」

 と言って着いたのは浜菜の家だった。
 浜菜の家、とは言っても会長である浜菜のお父さんが住む豪勢な本宅ではなく、浜菜が一人暮らししている小さな2K平屋建ての寂れた借家だ。
「相変わらず寂しいところに住んでるなあ。実家はもっと豪華だろうに」
「私の家庭事情を知っていて言う台詞じゃないわね。それにそれほど寂しくもないわ。ほら。」
 と言って浜菜が玄関を開けると、廊下の奥からトタバタと小刻みに足音が近づいてくる。
「わんっ」
「ただいま、チェルシー。良い子にしてたかしら?」
 チェルシーと呼ばれたバセットハウンドは一通り浜菜にじゃれると僕に向き直り、
「わんっ」
「久しぶりだな、チェルシー。何歳になったんだ?」
「三歳半になるわ。さあ悠介、上がりなさい。美味しいコーヒーを淹れてあげるわ。」
 言いながら浜菜はキッチンへと下がっていった。僕は勝手知ったる他所の家とばかりにチェルシーを伴って居間に入った。
 そしてチェルシーと戯れながら待つこと一〇分余り。浜菜が香ばしい香りを携えてやってきた。
「お茶請けはカステラでいいかしら。」
「ありがとう。いただくよ」
 高級そうな包を解いてカステラを切り分ける浜菜。
「食べなさい。貰い物だけれど。」
「じゃあいただきます」
 一口頬張ると口一杯に柔らかい甘味が広がる。僕はお菓子は作らないから詳しくはないが、やはり高級な物だという事はすぐに分かる。
「美味いな、これ。これも浜菜グループの物なのか?」
「ええ。系列の洋菓子店の物よ。」
「いいよなあ。てんぷらもそうだけど、いつでもこんなに美味いもの食えるなんて」
「そうでもないわよ。むしろ辛い――悲しい事の方が多いわ。」
 そう言ってコーヒーを口に含む浜菜に倣い、僕もコーヒーに手を付ける。
「ん。コーヒーも美味いな」
 口に含んだ瞬間芳醇な香りが鼻腔に抜けてゆき、深い苦味はえぐさを感じさせず、酸味は口腔をすっきり爽やかにする。これならいくらでも飲めそうだ。
「流石、味の分かる男ね。」
「お前、コーヒー淹れるの上手いんだな」
「マスターの豆が良いのよ。私自身、これを趣味にしだしたのは最近だから。」
「古前田さんって言ったっけか。あの店、浜菜グループじゃないんだって?」
「そうよ。彼個人が趣味でやっている店で浜菜とは点の繋がりもないわ。」
「どこで知ったんだ?」
「チェルシーを連れて浜を歩いていた時に見付けたのよ。それで豆の挽き方から淹れ方まで色々と教えられたわ。」
「ふーん。お前が気に入るくらいだからひょっとしたら、親父さんに教えたらグループに欲しがるんじゃないか?」
「父に教える気は毛頭ないわ。」
「よっぽど嫌いなんだな、親父さんの事」
「当然よ。父のせいでどれだけ辛い思いをしたか。」
 浜菜は目を伏せ、下唇を噛んだ。
 ――浜菜とは中学一年の三学期に知り合った。僕は一学期から知っていたが、口を利いたのは三学期が初めてだった。
 小学校は別だったからよくは知らないけど、聞いた話によるとずっと友達が居なかったそうだ。実際三学期に僕が話し掛けるまでもずっと独りきりだったから、嘘や誇張ではなかったのだろう。
 浜菜が敬遠されていた理由は単純だった。浜菜の名前が大きすぎたのだ。
 無論そんなこと、小学生には関係のない話のはずだったのだが、浜菜の小学校の教師連中は揃って浜菜を特別扱いしたらしい。
いつしかそんな雰囲気を感じ取った周りの生徒達からも特別視され、やがて敬遠されるようになった。らしい。
 そんな浜菜に最初に話し掛けた時。浜菜は心底驚いたような顔をして、こう言った。

『貴方、私が誰だか分かっていて言っているのかしら。』

「? 何を笑っているのかしら?」
「いや、何でも。ところで、これからどうするんだ? どこか出掛けるのか?」
「そうね……悠介、お腹減ってないかしら。」
「うん、まあ、正直てんぷらとカステラだけじゃあんまり膨れてはないな」
「ならもう少し待ちなさい。直に西園寺がコックを連れて戻ってくるわ。そうしたら晩ご飯にしましょう。」
 それから小一時間程談笑していると、西園寺氏がシェフを伴ってやってきた。
 ミシュラン二ツ星のチャイニーズレストランを任されているという件のシェフは浜菜と僕に一礼すると手狭なキッチンに食材とともに引っ込み、しばらくすると居間に料理を持ってやってきた。
 テーブルに並べられたのはハムチャーハン、卵スープ、帆立貝の炒め物、そして牛肉の広東風ステーキ。さすがに金華ハムやフィレ肉は使ってないようだけど十二分に豪華なメニューだ。
「さあ悠介、食べなさい」
「あ、ああ。いただきます……」
 まずはスープから頂く。鶏がら出汁に薄口の醤油がよく合っていて、ふわふわの卵がまた良い。
 帆立も食感が良くXO醤が効いていて味に深みがある。
 チャーハンはもちろんご飯がパラパラで各具材の味が高次元で融合している。
 そしてステーキ。オイスターベースのソースは程よい酸味で、肉は柔らかいのに適度な歯応えも残している。
「どうかしら?」
「うん……美味いよ……」
「ちょっと、何泣いてるのよ。」
「人間って……美味しい物食べると涙が出るんだな……」

 夕飯をご馳走になった後、僕と浜菜はチェルシーを連れて近場の公園にやってきた。ひとしきりチェルシーと戯れベンチに座る浜菜の元へ戻ると、浜菜は自慢気な顔をして、
「たまには家事を忘れてチェルシーと戯れるのも悪くないでしょう?」
「そうだな。リフレッシュした気分だよ」
「貴方が私を選べば毎日チェルシーと戯れる事だって可能なのよ。チェルシーだけじゃないわ。父の店も古前田のコーヒーショップも貴方の好きに使っていいわ。」
「…………」
「悠介が望むのなら私の躰を差し出すこともやぶさかではないわ。」
「…………」
「好きなだけ陵辱していいのよ?」
「……僕を特殊な性癖の持ち主にしないでくれ……」
「妹にしか興味がない時点で十分特殊だと思うのだけれど。」
「なあ浜菜、少しだけ、考えさせてくれないか?」
「好きなだけ悩みなさい。四年もの片恋慕を思えば易いものよ。」
「……悪いな」

第三章

 澤尻、浜菜とデートしてから一週間が経った。その間、澤尻も浜菜も一切その事に触れることなく、一緒に登校して、弁当を食べて、下校してと、今までと変わらない態度で接してくれた。
 しかし、未来は違った。
 あからさまに僕に冷たく当たり、気が付けばジト目で睨み付け、目が合えば舌打ちし、すれ違いざまに足を踏み、買い置きしたモンスターエナジードリンク(緑)を勝手に飲み切ったりした。まるで小学生の嫌がらせだ。
 とは言ってもこれも未来の平常運転と言えば平常運転だ。
 僕=シスコン。
 未来=兄嫌い。
 この関係を築くのにどれだけ苦労したことだろうか。
 お兄ちゃん子だった未来が僕をディスるようになるまで。そして、どうして僕が必要以上にシスコンなのか。
 澤尻と浜菜との事を考える合間に、ふとそんな事を思い出してみた。
 話は二年前、僕らが中学三年の頃に遡る。


 当時、僕の趣味は家事の他にもう一つあった。エレキギターだ。
 学校が終わるとギターを背負って仲の良かった友達の家のガレージに行き、日が暮れて近所の強面のおじさんに叱られるまで友達三人とセッションしていた。
 街の楽器屋主催のコンクールで受賞した事もあったし、高校生やおじさん達の輪に入ってギターを弾く事もあった。
 両親もその趣味を理解してくれていたし、応援もしてくれた。もちろん、未来も。
 そして、中三の秋のある日。僕は進路の事で父に相談事をしていた。
僕は一冊のパンフレットを父に見せ、
「どうしてもこの学校に行きたいんだ」
「京都リバティスクール……芸能・音楽の勉強をしながら高校の単位も取得できます……か。でも高校出てから専門学校に行っても遅くはないだろう?」
「それはそうだけど……」
「高校に通いながらでも音楽はできるだろ?」
「こんな田舎じゃチャンスが廻って来ないんだよ。それにデビューは早い方がいい」
「そうは言ってもなあ」
僕は真剣だった。だから何度でも食い下がった。
進路希望書にも京都の学校一つしか書かなかったし、三者面談の時も、
「僕は京都以外考えてません」
「そうは言ってもな、笹川。お前の成績なら県内のどこだって余裕だぞ? 人生は最終学歴で決まるんだ。ここは一つ進学率のいい高校に入ってだな。音楽なんか大学のサークルでやればいいじゃないか」
「音楽なんかって言うな!」
「さ、笹川……?」
「悠介……」
「……すみません。でも、やれる時にやれるだけやっときたいんです」

 三者面談の帰り。車を運転しながら父が言った。
「悠介が怒るなんてな。初めて見たぞ」
「ごめん」
 すると父はなぜか嬉しそうに、
「それだけ真剣になってるってことだろう。謝ることはないさ。やれる時にやれるだけ、か。俺にはできなかったことだな」
「?」
「父さんな、絵描きになりたかったんだ。日本画のな」
「初耳だよ」
「初口だからな。母さんにも話した事はない。小さい頃から絵を描くのが好きでな。本当は芸大に入って画家の先生に弟子入りしたかったんだが――当時は会社勤めの正社員で働く事こそが美徳とされた時代でな。父さんの行きたかった道はアウトローが行く道だったんだ。そんな道に一歩を踏み出す勇気がなくてな。親や教師に言われるままに進学して今はサラリーマンだ」
「後悔してんの?」
「いや、後悔はしていない。母さんとも出会えたしお前や未来も生まれたしな。でもお前の話を聞いて怒鳴り声を聞いてふと思ったんだ。『ああ、俺には覚悟が足りなかったんだな』ってな」
「覚悟……」
「そう、覚悟だ。何もかもをかなぐり捨てて茨の道を進んでいく覚悟が、お前にはあるか?」
「あるよ」
「そうか。なら京都でも東京でも行ってこい。なんならニューヨークだっていい。好きな道を好きに進め」
「父さん……」
「その代わり、絶対に逃げ帰ってくるな。負けても挫けても何度でも立ち向かえ。いいな?」
「うん。分かった」
 こうして、僕の向かうべき道は決まった。入学資金と授業料は出世払いとしてもらって、願書も取り寄せ、母も担任教師も説得し、取り敢えずの障害は無くなった。
最後の一つを残して。

「未来さんは進路はどうなさるんですか?」
 昼飯時。一緒に弁当を食べていた澤尻が未来に尋ねる。
「あたしは宇都木野にしたわ。偏差値も丁度良いし家から近いから」
「あら、浜菜さんと同じなんですね」
「そういう鼎は? やっぱ宇多?」
 澤尻は弁当箱を膝に乗せて、
「未来さんもお兄さんも宇都木野ならわたしも宇都木野にしましょうか」
「そんな、もっと上行けるんだからもったいないって。いくらあたし達と同じがいいって言っても……ねえ、お兄ちゃん」
 未来が箸を咥えながら僕に向き返る。
「ごめん。言ってなかったけど、僕、卒業したら京都に行くから。父さんと母さんも了承済みだから」
「え……?」
「京都、ですか?」
「うん。京都で音楽の勉強してくる」
「そ、そうなんだ。じゃあ専門学校まで離れ離れ……なんだ?」
「いや、そこを出たらそのまま東京に行く。多分、もうこっちには帰ってこない」
「そんな……」
「お、お兄さんが決めたのなら……わたし達に言えることはありませんね……浜菜さんには?」
「言わなきゃなんないよな。あいつ、今日に限って休みだなんて――」
「お兄ちゃんのバカ!」
 突然の……いや、僕にとっては予想していた通りに、怒声と弁当箱が飛んできて顔に当たり、中身が散乱する。
「何でそんな大事なこと話してくれなかったの!? 一言相談してくれてもいいじゃない!」
「未来、さん……」
「お兄ちゃんのバカ! 知らない!」
 弁当箱をそのままに走り去っていく未来。おかずまみれになった僕に澤尻がハンカチを差し出しながら、
「お兄さん、どうして未来さんに相談しなかったんですか?」
「言ったら一緒に来るって言うだろ。何を放っても。僕は全部を捨てる覚悟ができたけど、未来にはさせたくない。未来には大切なものが沢山あるから」
「お兄さんは手先は器用なのに生き方は不器用なんですから」
「そう……だな……」
 僕は床に散らばったおかずを片付けながら、
「澤尻……未来の事、よろしくな」

「未来―、ご飯だぞー」
 二階の未来に呼び掛ける。だが返事も降りてくる気配もない。僕は階段を上がり、未来の部屋のドアをノックする。
「未来?」
 返事はない。代わりに僕の部屋から物音がした。
 僕は自分の部屋のドアを開け、明かりを点けた。すると――
「未来……何してるんだ?」
 どこから用意したのか未来が鉈を手に、僕のギターの前に立っていた。
「未来?」
「こんな物があるから……」
「…………」
「こんな物があるからお兄ちゃんが遠くに行っちゃうんだ!」
「じゃあ壊せよ。それでも僕は京都に行く。それは変わらない」
「じゃああたしも一緒に行く!」
「ダメだ」
「何で!」
「お前には、ここに大事なものが沢山あるだろ。それにお前まで茨の道に来ることはない」
「どうして! 何でよ! 何であたしと一緒に居てくれないの!? そんなにあたしの事が嫌いなの!?」
「嫌いなわけないだろ。でも僕は音楽がやりたいんだ。今やれるうちにやれるだけ、悔いのないように」
「あたしより……こんな物の方が大事なんだ……?」
「…………」
「こんな物……こんな物っ!」
 両手で鉈の柄を掴み振り上げる未来。しかしバランスを崩し――
「危ないっ!」
 僕は未来の身体を受け止めようと咄嗟に両腕を伸ばし――

 ――何かが千切れる感覚がした。

 全身をつんざくような激痛の中、奥歯を噛み締め目を開けると、血塗れの未来が青褪めた顔で僕を見詰めていた。
 一番痛みの激しい左手に目を遣ると、手首がパッカリと口を開け、裂け目から白い脂と薄ピンクの――いや、血肉色の筋肉がピクピクと痙攣しているのが見え、一際太い血管からは際限なくドス黒い血液が溢れ出てきていた。
「お、お兄……ちゃん……」
 血塗れの未来が小刻みに肩を震わせながら僕を呼ぶ。
「……未来……怪我、してないか?」
 ふるふると首を横に振る未来。
「そか。なら、よかった……」


 目が覚めたらそこは、見覚えのない六畳ほどの小奇麗な部屋だった。上体を起こそうと腕に力を入れると、全身に激痛が走る。
「――――――――!」
 思わず奇声が漏れる。上体を起こすのを諦めて首を横に向けると、壁からコード伝いにクリーム色のボタンの付いた筒があった。
「……ナースコール……病院か?」
 とりあえず事情が知りたかった僕はナースコールを押してみた。すると天井から、
『笹川さん? どうされました? 気が付きましたか?』
 と声がした。
「はい、目覚めました。誰か状況を説明してください」
『すぐにドクターと行きますから、安静にしていてください』
 宣言通りすぐに白衣の医者と看護師が二人、やってきた。医者は僕の眼球にペンライトを当て何かを確認するとうんと頷き、
「ご家族に連絡を」
 看護師にそう指示した。
「あの、状況を説明してもらえませんか?」
 僕の問いに看護師が答えた。
「ここは市立中央病院の病室です。あなたは昨日の晩に救急搬送されてきました」
「救急搬送?」
 医者と看護師がちらりと僕の左腕を盗み見た。不審に思って僕も左腕を見る。
 真っ白な包帯が痛々しく巻かれていた。
「なんですか、これ。めちゃくちゃ痛いし……」
「動かさないで!」
「…………?」
「君は昨夜、左手首の屈筋腱を損傷してここに運ばれてきた。覚えてないのかい?」
 昨夜?
 昨夜は……そうだ、未来が鉈を振りかぶって、それでバランス崩して、それで……手首に……手首に……?
「くっきんけん……損傷?」
「簡単に言うと指を曲げるための腱だね。薬指に伸びる腱と神経が完全に断裂された状態で搬入されてきたんだ。あと静脈もね――ところで、趣味がエレキギターなんだって? コンクールで賞をもらったこともあるそうだね」
「? ええ、まあ……」
 突然趣味の話をされて僕は訝しむ。と、
「術後の経過とリハビリの成果にもよるが……まあ趣味は個人で楽しむものだからね」
 医者のその一言で、僕は全てを悟った。
 包帯の巻かれた左手首を見る。手首から先の感覚が無かった。
「リハビリすれば日常生活には支障ない位までは回復するはずだから、気を落とさないように。とにかく今は安静にして――」
 医者の言葉は耳に届かなかった。

 気がついたらもう、夜だった。
 僕は病室を抜け出し、ふらふらと一階のロビーに向かう。ロビーから隔離された喫煙ブースでは、中年のおじさんが一人、黙々とタバコを吹かしていた。僕はおじさんに近付き抑揚のない声で、
「すみません、一本、いただけますか?」
 おじさんは僕を一瞥すると何も言わずにタバコを一本くれた。もらったタバコを唇に宛てると、おじさんがライターで火を点けてくれた。けど――
「?」
 火が点かない。僕がよく分からないまま困惑しているとおじさんが、
「火を当てたら吸うんだよ」
 と教えてくれた。言われた通りに火を当てて、息を一杯に吸い込む。
「げほっ! げほげほっ!」
 盛大にむせ返った。
「何だ、お前さん、初めてか?」
「……はい。げほっ……」
「やめとけやめとけタバコなんて。タバコが美味いと感じた時は大抵人生のドン底だ。お前さんはまだそんなんじゃ――ってその手首……コレかい?」
 と言っておじさんは右手で手刀を作り、自分の左手首に当てて見せる。
「いえ、ちょっとした事故で……趣味がギターだったんです。高校も音楽の専攻学校に進学が決まってて、一生ギターを弾いてたかったんですけど」
 おじさんは渋い顔で煙をくゆらせながら、
「そうかい。どうだ、タバコは美味いかい?」
「……めちゃくちゃ不味いです」
「だったらまだ人生捨てたもんじゃねえぜ。ギターが弾けねえくらいなんだ。楽器が弾けねえ音楽プロデューサーだって居るじゃねえか」
「もう音楽は辞めます。じゃないと負い目に感じる奴が居ますから」
「誰でい、そいつは? その傷を付けた奴か?」
「妹なんです。僕が音楽を続けたら、きっと妹は罪の意識に苛まれ続ける。だからもう、音楽はきっぱり辞めます」
「お前さんはそれでいいのかい?」
「それが妹の為なんです」
「お前さんは、って訊いてるんだよ」
「……いいんです」
「そうかい」
「すみません。一方的に話して勝手に自己完結しちゃって」
「構わねえよ。子供の愚痴を聞いてやるのも大人の仕事だ」
「ありがとうございます」
 礼を言って僕は病室に戻った。

 翌日。
 朝一番に両親がやってきた。心底心配そうな両親を見て僕は、
「大丈夫だよ。命に別状はないんだから」
 気丈に振舞ってみせた。しかし父は眉間にしわを寄せたまま僕を見て、
「しかしお前、その腕じゃもう……折角先生も説得して進路を決めたのに」
「もういいんだ。普通に進学して、その間にまたやりたい事を見付けるよ」
「……でもリハビリ次第じゃ――」
「もう、いいんだ」
 その後父と母は看護師と二、三話をして、やがて帰っていった。父母が帰ると別の看護師が来て、
「笹川さん、包帯替えましょうね」
 手早く包帯を解き、脱脂綿で傷口を消毒する。その脱脂綿が触れる感触も、左手首は感じなかった。
「リハビリの計画は聞きましたか? 来週から少しずつ指を曲げる練習をするんです」
「それは退院してから、ですよね?」
「そうですね。リハビリ外来って事になりますね」
「別にもう……動かなくったって……」
「ダメですよ、そんな弱気じゃ」
「…………」
 コンコン、と扉をノックする音が聞こえた。扉を開けて顔を出したのは、未来だった。
 未来は片手に学生鞄を、もう片手には見舞いの花を持って、申し訳なさそうな顔で入ってきた。
 僕は未来に聞こえないように一息吐くと努めて明るく笑顔を作り、
「よう、未来。ちょっと待ってな。今包帯替えてるから」
 未来は無言で頷いた。
「妹さん? おいくつですか?」
 と看護師。
「同い年です」
「あら、双子さん?」
「いえ、同年度生まれの年子です」
「そう。可愛らしい妹さんね。そうだ、妹さん。よかったらお兄さんのシャンプーしてもらえないかしら?」
「あ、はい……」
「ありがと。シャンプーとリンスはそこのドレッサーにあるから。今タオル持ってくるわね」
 言って看護師は僕にウインクして病室を出て行った。
 未来は頭を下げて看護師を見送ると僕に向き返り、
「……お兄ちゃん、立てる?」
「ああ。大丈夫」
 僕の手を引いてシャンプードレッサーに向かう。
「お湯は……このくらいでどう?」
「ん。大丈夫」
 髪を濡らしてシャンプーを付け、ゴシゴシと洗う未来。しばらく無言でそうしていたのだが、やがて重たく口を開き、短く言った。
「……ごめんなさい……」
「何がだ?」
「……全部……」
「気にしてないよ。だからお前ももう気にしなくて――」
「気にしないわけないじゃない……あたしのせいでお兄ちゃんの手が……夢が……」
「過ぎた事だよ」
「そんなわけにいかないよ……」
「いいんだよ、もう」
「…………なる……」
「ん?」
「あたしがお兄ちゃんの左手になる」
「……それは……物理的に無理だろ」
「じゃあせめて何か言って。何でもするから……」
 どうあっても負い目に感じるんだな。でもこの分じゃ何をしてもらっても未来の罪悪感は拭えないだろう。
「……だったら……」
「……うん」
「セックスしよう」
「…………え?」
 手にしたシャワーヘッドを取り落とす未来。お湯が噴水のように溢れたのを見て、未来は慌ててお湯を止めた。
「ご、ごめん、聞き取れなかった……」
 僕は上体を上げ、髪から雫を滴らせたまま未来に向き直り、
「だからさ。セックスしよう」
「ちょ、ちょっと……何言ってるの……?」
 後ずさる未来と詰め寄る僕。
 やがて未来の逃げ場はベッドに遮られ、そのままベッドに腰を落とした。
「何でもしてくれるんだろ? だったらいいじゃないか」
 未来に詰め寄り、震える肩を押し倒し、その薄ピンク色の唇に自分の唇を近付ける。
 バシン。
 と、平手打ちを喰らった。
 未来は瞳一杯に涙を溜めながら、病室を駆け出て行った。そして未来と入れ替わりに看護師が入ってきた。看護師は一部始終を聞いていたようで、開口一番僕を叱責した。
「何てこと言うのよ。妹さん、心配してくれてたのに」
「あいつ責任感強いから。多分何したって一生負い目を感じて過ごすと思うんですよ。だったらいっそ嫌われてしまえばいいんです。嫌いな人間を傷付けたって大して気に病まないでしょ?」
「あなたはそれでいいの?」
「……いいんです」
「不器用なのね」
 看護師は僕の頭にタオルを被せながらそう言った。
「友達にもそう言われました」
 そうして翌日。僕は退院して家に戻った。
 僕の思惑通り未来は僕を避けるようになった。学校でも一緒に弁当を食べることもなくなったし、家で会話することもなくなった。

 それから僕は未来の為に、キモがられるためにシスコンになった。
 これで少しでも未来の罪悪感が消えるのなら。いや、完全に消え去るまで、僕はシスコンでなければならない。嫌われ続けなければならない。
 それが、未来の為なのだから。

「笹川、聞いたぞ。残念だったな。進路はどうする? 京都には芸能科もあるみたいだが」
「宇都木野にします。家から近いし、妹も居るんで。その間に他にやりたい事を見付けます」
「お前なら宇多でも余裕なんだがなあ。まあいい。願書、提出しておくよ」
「よろしくお願いします」

「お兄さんも宇都木野になさったんですね」
「ああ」
「なら春からも同じ学校という事ね。まさか悠介も澤尻も入試で落ちるなんて事はないでしょうから。」
 昼飯時、僕、澤尻、浜菜と集まって弁当を食べながら進路の事で話をしていた。けれどここに未来の姿はない。
「それにしても……最近未来さんいらっしゃりませんね」
「ケンカしたんだ。って言うか一方的に嫌われた」
「あの妹が悠介を? 一体何があったのかしら。」
「セックスしてくれっていったらビンタされた。それ以来口利いてない」
「「ぶっ!」」
 二人が同時におかずを噴く。そして目を見開いて僕を見詰め、というか睨んで、
「お兄さん……まさかとは思いますけど……」
「貴方……シスコンだったの?」
「そうならざるを得ない事情があるんだよ」
「「?」」
「じゃあ僕はリハビリに行くから。先生に伝えといてくれ」
「分かったわ。」

 それから僕らは宇都木野の入試を受け、見事全員合格した。その頃には僕の指はある程度は回復したものの、やはり以前のようにはギターは弾けなかった。
 僕は未来の目に付かないように楽器関係の品をすべて処分し、同時に憧れた夢も捨てた。
 感慨はわかなかった。多分、全てを捨てる覚悟をしていたからだろう。まさか始まる前に捨てるとは思わなかったけれど。
 高校に入ってからも未来は僕を避け続けた。そして僕のシスコン度合いは加速度的に増していった。


 回想を終えると僕はベッドから這い上がり、未来の部屋のドアを叩いた。
「…………何よ?」
「話があるんだ。入っていいか?」

妹ファンクラブ(仮)

妹ファンクラブ(仮)

僕・笹川悠介は自他共に認めるシスコンだ。きょうも妹の未来のために弁当を作って学校へ行くと、幼馴染の澤尻鼎と中学からのクラスメイト浜菜禊に突然告白を受ける。いや、そんなこと言われても僕はシスコンなんだけどなあ…… ※タイトルは仮です。片手間に書いた作品なんでいつ完結するか、そもそも完結するかは、それは作者のやる気次第……

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ
  2. 第一章
  3. 第二章
  4. 第三章