表象コミュニケート

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寝小次郎(刹那翼)

日も落ちかけ、空は満面の橙色に満ちて、黄金に光る太陽と反対の方角は、徐々に黒を深めていた。
仕事帰りの疲れ切ったサラリーマンと学校帰りのまだ元気な学生が入り乱れた、そこそこ混んだ電車はゆっくりと揺籠のように揺れ、敷かれたレールを進んでいく。
季節は秋。富み栄えていた青々とした木々も、だんだんと赤く色付いていく。蒸しつけるような暑さもいつの間にやら、爽やかな涼しさに変わっていた。
高宮涼は友人と他愛もない会話をしていた、いつもの車内。それは学校に行くと共に課せられる使命だが、普段とは様子が違っていた。
「ーーーーー」
ある同年代の、漆黒の長い髪の少女が話していた。それは普通だった。見た目は日本人だが、まるで何を言っているかわからない。発音では、似た人種の中国や韓国だけでなく、英語やスペイン語といった言葉ではない。ハウリングのようでもあり、声を吸い取られたようでもあり、形容し難いものだった。
「なぁ、平岡。あの女の子、日本語喋ってるよな?」
「え?あの長い髪の子?」
平岡は不思議な顔をした。涼は頷くと、平岡は馬鹿にするように笑った。
「何言ってんだよ。当たり前だろ」
「だよなー」
何事も無かったような顔をして、話に戻る。もう一度、彼女の方を見ると、彼女も不思議な顔をしていた。少し幼さを残した顔立ちの女の子だった。

その女の子は今まで気付かなかったが、決まって同じ電車に乗っていたようだった。涼も基本的に同じ時間帯に乗るので、帰りの電車は必然と一緒になった。そして、お互い皆が降りた後も少し一人の時間を過ごすのは一緒だった。涼が降りる時にまだ彼女は乗っているので、涼より遠い駅らしい。
何日も同じ電車に乗っていると、気が気でなくなって来た。
そこで、友達と別れた後、彼女に話かけようと決意した。
ーー無理だ。何の関係も無い人が話しかけてきたら、どうだろう。不審者にしか思わない。それにどんなことを話し掛けて良いのかもわからない。
こんな時、優柔不断な自分の性格を恥じる。
「ーー、ーーーーーーーーー」
耳鳴りが鳴るような音が響く。
目の前に制服を着た、あの少女が立っていた。
「えーと、今なんて言いました?」
涼は出来るだけ丁重に聞き直した。彼女は顔を顰めて、ゆっくりと首を傾けた。そして右耳をトントンと叩いていた。その後、指でもう一回と示された。涼はこれ以上の艱難を感じたことはなかった。それもそのはず、尋ね直したところで、もう一回お願いしますと懇願され、もう一度聞き直す愚脳は居ないだろうと踏んだからだ。
涼は数秒考えて、メモ帳を出して、筆談しようと思いついた。
『やっぱりオレの声聴こえない?』
普段汚い文字の上、揺れる電車内という悪状況の中、そういう旨を出来るだけ綺麗に書くと、彼女は驚いたような顔をした。メモ貸してもらっても良いですか、と言わんばかりにメモ帳を二回タップするように指差し、首を傾げていた。涼は頷き、ペンと一緒に渡すと、彼女はサラサラと文字を書き始めた。
『もしかして、あなたもですか?』
彼女の字はとても綺麗だった。流麗、清澄、そんな言葉がピタリと合っていた。その返答に、書く必要性は無いと思った涼はコクリと頷いた。
すると、彼女は思い出したようにメモ帳に焦って書き始めた。書き終えると、赤くなった顔をして、
『八代かえで』と書いたメモ帳を両手で涼に見せた。どうやら彼女の名前らしい。
涼はメモ帳を貰い、自分の名前を書き相手に見せると満足そうな顔をした。
海の中にいるような、不思議な感覚だった。声が出ないわけでも、耳が聞こえないわけでもない。なのに、筆談をしているのだ。声も届かない、相手の声も掴めない、莫大な海で悶えている気分に陥っていた。

友人が降車した後、かえでと筆談する日々が続いていた。それは学校のことだったり、普段の生活だったり。そこで知ったことはかえでは涼より一つ年下だった。同級生だと思っていた涼は驚愕した。こういった関係をしているものの、携帯のアドレスは交換はしていなかった。お互い踏み入れるのは怖かったのだと思う。踏み越えてはならないような一線。踏み越えると壊れそうな関係。涼とかえでは近いようで遠い。深いようで浅い。強いようで脆い。そういうような関係なのだ。
しかし、お互いが特別であった。同じ言葉を話しているのに、言葉がわからない。その特別さがお互いの心を強く引いた。赤い糸と似たようなものだと思う。そういった関係だから、涼とかえでの万有引力はとりわけ強いのだろう。

時折、彼女はメモ帳を使わない。ただ、涼の横で立っている時があった。腕と腕の距離は数センチ程度。しかし、気持ちは全く分からなかった。喋りもしなければ、書きもしない。更には、顔も合わせない。
涼は彼女にどうしたの、と聞けなかった。触れると消える、雪の結晶のようで触れるのが怖かった。彼女は花のように可憐であり、雪のように脆弱なのだ。
側にいて欲しいのか、果たして声が聴こえない関係が嫌なのか。涼には判断がつかなかった。

ある冬の日、涼は思い切って、自分が抱えた気持ちを伝えてみた。これはお互いの関係の為であって、どんな辛いことがあっても、彼女の決めたことに是非はつけられない。それは涼が決めることではないのだから。
その日は彼女は笑顔だった。
『オレといるの、辛い?』
そうメモ帳に書いてみた。見せた時、涼はしまったと思った。もう過ぎた時間は戻せない。水晶のように澄んでいて、脆くすぐに壊れそうな関係は、崩壊寸前だった。
彼女の笑顔はすぐに消え、俯いてしまった。メモ帳を渡そうと促しても、首を横に振った。
彼女は瞳から雫を落とした。涼は自責の念に駆られた。何故、彼女を傷つけかねない訊き方をしたのか。何故、訊いてしまったのか。涼はメモ帳にごめん、と書いたが、彼女には見せられなかった。
涼は代わりにハンカチをかえでに渡したが、彼女はそれを握り締めるだけだった。
涼の最寄駅に着いたが、降りなかった。彼女はやっと涼と顔を合わせた。驚いた顔と泣いた顔が混じった顔だった。お淑やかな顔立ちが台無しだった。
「ごめんね」
届かないはずの言葉を出来るだけ気持ちを込めて言う。言葉の重み。それを初めて実感した。言葉は気持ちを乗せ、相手に運ぶ。それは相手を喜ばせることもある。しかし傷つけることもある。今なら思える。彼女に言葉は届かなくても、届くものはきっとある、と。
彼女は声が聴こえたのか、涼は判断出来ないが少し笑った。
彼女の最寄駅は涼が降りる次の駅だった。意外と近いんだな、と思いホームを踏み締めた。ベンチで話すのも寒いので、誰も使っていない待合室を使うことにした。
相変わらず、メモ帳は拒否した。しかし、彼女は手を繋いできた。ずっと数センチ離れていた手。それがゼロになった。その掌はとても温かくて、とても、寂しかった。
数分経った頃、かえでは口を開いた。
「聴こえるかわからないけど、言うね。涼君、私ね、涼君と居る時が何故か一番落ち着けるの。友達と居る時は何処か距離を感じる。何か、隔たりがあるような。でも、涼君は違った。言葉が無くても、何処か繋がっている気がしたの。変だよね、まだ会ってからそんなに時間経ってないのにね」
初めて、彼女の声が聴こえた。彼女の声は思ってた以上に大人びていて、穏やかで、お淑やかで、優しかった。そして、初めて名前を呼ばれた。名前は教えていたが、筆談の時は名前を書く必要がない。寧ろ書く手間がかかる。お互いの呼び方は知らなかったことに初めて気付き、驚いた。
「そんなこと、ないよ。俺も同じこと思ってた。かえでのこと、俺から見ても、特別だった。でも、気持ちがちゃんと分からなかった。怖かったんだ。ごめんね」
彼女は首を振った。言葉は届いている。
それから、口を開いても、また涼とかえでの言葉は届かなくなった。しかし、もう言葉は不要だった。彼女と繋ぐ掌。それが、気持ちを伝えてくれる。
それは幸せな温かさを含んでいた。

それからは、筆談はやめて、携帯の画面を見せ合う、という方法に至った。それを提案したのは、涼からで理由は勿論面倒臭くもあり、電車内で恥ずかしかったからだ。かえではすんなりと受け入れてくれた。そして、メールアドレスも交換した。
しかし、時折彼女は不思議そうな顔をする。
『かえで、不思議そうな顔してるけどどうしたの?』と訊いてみると、かえでは少し微笑んで、
『私、初めて会った時、名前平仮名にしてたんだね。改めて、私の名前は、八代楓です』といった旨を見せてきた。
涼はそんなことだったのか、と思ったが、同時に嬉しくもあった。

言葉は届かなくても、距離はどんどん近付いていった。

いつしか、涼は彼女に恋心を抱いていた。ある春の日、また彼女の最寄駅まで乗って行って、気持ちを告げようと思った。しかし、楓は一度涼の最寄駅で降りてみたい、というのを思い出した。なので、彼女に涼の最寄で降りない、と尋ねてみると、彼女は快く了承してくれた。
彼女は少し楽しそうだった。どうやら、此処に来るのは初めてらしい。
桜並木の道、彼女は先を歩く。彼女は速度を速めたり、遅くしたりと気まぐれなリズムで影を進めた。
彼女と桜はこれ以上無いくらい、似合っていた。名前は楓なのにと、ふと笑いが込み上げてくる。そんな彼女の制服が仄かにピンク色に染まっている。
涼はどうせ届かないと思って、彼女の背中に向かって、思いを告げる。
「楓、大好きだ」
すると、楓は涼の方を向き直した。聴こえない、はずなのに。
「私も、好きですよ」
悪戯っぽい声色で、あの時聞いた声と雰囲気が違った。声変わりとは違った。きっと彼女との関係の変化があったからだ。今なら、もう、手は届く。
「楓、ずっと一緒に居てくれないかな」
「うん」
二人はピンク色の道を手を繋いで、歩いていく。歩幅を合わせて、進んでいく。

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高宮涼は不思議な体験をした。それは八代かえでという同年代の人の声が聞こえない。異なる言語、ということではなく、同じ言語を話しているのに、ハウリングを起こしたようにまるで聴こえない。それは彼女の立場でも同じようでーー。

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更新日
登録日
2015-09-14

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