ミヤビーフ
ミヤビーフに再会したのは秋のことだった。
俺はその日、ご機嫌だった。
「フンフン~♪」
鼻歌を歌いながら足取りも軽く、なんならスキップだってしそうな気持ちだった。大学での生活は順調で友人もでき、一人暮らしの生活も2年が経ち、自炊にも慣れた。
本日の大学の講義は終了し、明日は土日。
一週間の疲れを癒すためのマイブーム、それは――。
「やっぱ宅飲みでしょ」
俺は駅からアパートまでの帰り道で盛大に独り言を呟いた。駅のシャッター街に俺の声が空しく響く。
俺の楽しみは、風呂上がりにキンキンに冷えた缶ビールを自室で飲むこと。俗に言う、宅飲みだ。
しかも、今日はなんと奮発して用意したローストビーフさんが俺の帰りを待っている。
これが、はしゃがずにいられるか。
故に、俺は浮かれ気分ながらも迅速に帰らなければならない。
――なのに。
大の字に寝ている人と遭遇した。
えっ、ここ歩道っすよ。
その人は何とも気持ち良さそうに眠っており、公道であることを忘れそうになる。
男性であれば、おやすみなさい、と言ってそっとその場を去るが、女性で、しかも若い人だったため、俺はため息をついて声を掛ける。
「お~い」
すやー。
「お~い」
すやー。
「おい!!」
すやー。
こちらの声にびくともしない。
これは本格的に国家権力のお力を借りなければいけないかと考えていると、何の前触れもなく、彼女の目が開いた。
目と目が合うと、そいつは驚いたように辺りを見回した。
「ん……? ここはどこ?」
「ここは中部地方だ」
「……?」
彼女は小首をかしげ、しげしげとこちらを見つめてくる。
妙に近いので、少しドキドキしてしまう。
「な、何だよ?」
「君、まこっちゃん?」
「えっ」
いかにも、俺は朝倉誠(あさくら まこと)だが……。
名前を当てられて、意表に突かれていると。
彼女が可笑しそうに笑った。
「私、ミヤビーフこと、橋本雅(はしもと みやび)だよ。ちょっと変わっちゃったから分からないかな?」
ミヤビーフ? えっ、小学生の頃、同じ塾だった牛肉好きのミヤビーフ?
「お前、変わったな……」
ミヤビーフとは学校が別であったが、男子女子の間無く話せる友人であった。確か小学生の頃はもっと食べることが大好きで、塾主催のバーベーキュー大会はイキイキと牛肉を頬張って、ぽちゃっとしているイメージであったが……。
「こらこら、どこ見ているの?」
悪戯っぽく笑う雅には余裕がある。あの頃、からかっていたのが嘘のようだ。スタイルは一変しており、華奢で出る所は出ている……って俺は久しぶりに会った友人になんて感想を抱いているんだ。
「まこっちゃん、顔、真っ赤」
「う、うるさい」
内心の動揺を悟られないようにしていたが、どうやら表情に出てバレバレだったようだ。
しかし、彼女は随分と活動的な服装をしている。大きな麦わら帽子に、ノースリーブ、ジーンズの短パン。そして大きなリュックを担いでいた。
「雅、お前。どっか旅行にでも行くのか?」
大きなリュックを指さして尋ねると、雅は大きく口を開けて笑った。
「うん、日本一周している途中なの」
「はっ?」
鳩が豆鉄砲を食らった表情をしていたのだろう、雅はまた可笑しそうに笑った。
「あはははは。いいリアクションするね」
彼女は明るく笑った。
「まぁ、積もる話もあるし、まこっちゃん家で話さない?」
「ば、バカ、お前こんな時間に男の家に簡単に上がるなんて言うなよ!」
俺の言葉に一瞬彼女はキョトンとして、それからプッと笑った。
「大丈夫だって。まこっちゃんは襲わないから」
「逆だ、逆!」
その言葉に雅はまた笑った。
そして、深夜。
俺はアパートの自室で久しぶりの友人を不本意ながら招き入れてた。
彼女曰く、終電もなくなり、始発までいさせて欲しいということだった。
無論、最初は断ったが、彼女が再び歩道に座り込み出したので、俺は渋々了承した。
全く、完全に彼女のペースになっているな。
俺がコーヒーをテーブルに置くと、興味津々で辺りをキョロキョロしていた彼女がこちらに微笑んだ。
「ありがとう」
「シャワー使ってもらっていいから。適当にくつろいでくれ。そして始発になったら出てけよ」
「わかってるって」
彼女はあぐらをかいて嬉しそうにコーヒーを啜る。
「うまいですな」
「お粗末さん」
「そういえば、まこっちゃんて彼女いるの?」
なんか急に鋭い質問が飛んできた。
「い、いないけど」
内心の動揺を悟られず応える。
「ふ~ん、まこっちゃん。別に顔も悪くないのに不思議だね」
「そりゃ、どうも」
「あっ、嘘だと思っているでしょ」
「違う、社交辞令と捉えている」
「一緒じゃん」
雅が唇を尖らせているのを無視して、バスタオルを投げつける。
「うわっ」
「さっさとシャワー浴びてこい」
彼女は観念したように立ち上がる。
浴室に向かう途中、こちらに振り返る。
「覗くなよ」
「はよ行け」
彼女は、はーい、と笑って、浴室に向かった。
彼女が浴室に入っている間、テーブルを退けて予備のタオルケット等を出す。誠に遺憾ながら、ベッドは彼女に明け渡す予定だ。
それよりも重要な懸念事項が一つある。
今も冷蔵庫で眠るローストビーフのことだ。
雅のことだから冷蔵庫にローストビーフがあると聞けば、わーい、食べる! 食べる! と目を輝かせるに違いない。
それは避けなければ。
あれは俺が独り占めするべきものだ。
他の奴に渡していいものではない。
俺はシャワーから出た雅がすぐさま眠れるように準備を整えた。
しばらく浴室からシャワーの水音が聞こえる度に、胸のざわめきがうるさかったが、気合いで無視した。
彼女が半乾きの髪にTシャツと短パン姿で出てくる。
「お先です」
「ん。じゃあ、もう寝るか。ベッドを好きに使ってくれ」
「えっ、いいよ。まこっちゃんが使いなよ」
彼女が唇を尖らせる。
「一応、お前は客人なんだから。気にするな」
「えー、じゃあ一緒に寝る」
「却下だ」
「えー」
「少しでもこっちに来たら追い出す」
「人を獣みたいに言わないでよ」
彼女の非難の声を無視した。
「あっ、そういえば――」
彼女はまるで自分の部屋のように冷蔵庫を開けて、目を輝かせた。
「やっぱ、風呂上がりはアルコールでしょ。おっ、ビールもあるじゃん! あっ! ローストビーフもある! まこっちゃん、分かってる~」
しまった、あまりの自然な動作に制止することなくローストビーフが見つかってしまった。
仕方がない、プランBだ。
「悪い。そのローストビーフは賞味期限を一週間ぐらい過ぎているから、やめておけ」
俺は努めて冷静に言う。
フッ、さすがに一週間を過ぎているものを食べる奴なんて――。
「あっ、大丈夫、大丈夫。私、お腹は丈夫だから!」
雅はお腹を叩きながらにっこり笑う。
ちっ、雅、なんて逞しい子。
こうなったら、強行策だ。
「俺のローストビーフに触るなあああああっ!」
「きゃっ!」
俺はローストビーフを奪おうと手を伸ばす。
彼女はすぐさま飛び退き、俺の手は空を切る。
「み、雅、貴様ぁぁ!」
「ちょっ、まこっちゃん! 急に来られると、私だって準備ってやつが……」
何故か、雅が急にモジモジと恥じらい始める。
「何勝手に勘違いしているんだ。そのローストビーフを寄越せって言っているんだ!」
「えっ」
雅はキョトンとして、ローストビーフと俺を交互に見比べて、しばらくした後、眉を吊り上げた。
「ちょっと、まこっちゃん。私よりローストビーフの方がいいって言うの!?」
「いいに決まっているだろう!」
「即答かよ!」
雅は更に顔を真っ赤にした。
「私の女としての価値がこの牛肉に負けたってこと?」
「そのおつとめ品はずっとスーパーで狙っていたんだ! はよ返せ!」
「私、おつとめ品に、負けた、の……?」
雅が暗い表情を一瞬したが、すぐさまキッと言い返してくる。
「さっき私を客人って言ったじゃない!」
「食べ物は別だ!」
「じゃあ一緒に食べればいいじゃない!」
「俺は独り占めして食べたいんだよ!」
「うわっ、小っちゃ! まこっちゃん、器小さすぎるよ」
非難を受けながらいつでも飛びかかれるように距離をジリジリと詰める。雅もそれが分かっているようで、こちらの様子を伺っている。
一進一退の攻防が続く。
クッ、なんていう緊張感だ。
俺達は睨みあい、そして、意を決して一気に距離を詰めた。
「雅ーー!」
「っ!?」
雅は身を固くしている。今だ!!
そう思って手を伸ばしたが――。
ドンドン!
突然、壁を拳で叩く音が響き、すぐさま壁越しの声が響く。
「うるせー! お前ら今何時だと思っているんだっ!!」
…………。
「……すみません」
俺は小さな声で謝罪した。
その後、俺達はアパートを出て、コンビニの袋と缶ビールを持って歩いていた。
「全く、お前のせいで」
ぶつぶつ呟いている俺に、雅はジト目で振り返る。
「全部、まこっちゃんのせいでしょう」
「うっ」
そんな事ない、と言おうとしたが、やめた。
なんだか急にバカらしく思えてきた。
「はぁ、もういい。始発まで付き合ってやんよ」
俺の諦めのため息に雅がやっと笑った。
「やっと、非を認めたね。よし、じゃあ海行こうよ」
海はここから十数分ぐらい歩いた所にある。
「別にいいけど、そんな綺麗な所じゃないぞ。この辺は工場の近くだし、匂いもするぞ」
「いい、気にしない。行こう、海」
彼女が笑って俺の手を引いた。
「はいはい、せかすなよ。海は逃げないって」
彼女の機嫌があっという間によくなった事に少し驚きながら、俺達は海岸まで歩いていく。
真っ暗な闇の中にひっそりと灯るオレンジ色の街灯。
時々、聞こえるトラックの排気音。
その音に紛れて聞こえる彼女の「海は、広いな~」の鼻歌。
静かな夜を俺達は歩く。
しばらく歩くと、潮の匂いが鼻孔に届いた。
「おっ、海が近い」
彼女は嬉しそうにはしゃいで、辺りを見渡した。
数分も歩くと、彼女は更に目を輝かせた。
「うわ~」
漆黒の闇に聞こえる波の音、猫の額ほどの砂浜、遠くで明るく輝くのは工場の灯りだ。
「海、綺麗だね」
彼女が嬉しそうに微笑む。
俺達は砂浜の前の堤防に腰掛けて、缶ビールを開けた。
「かんぱーい!」
缶ビールをぶつけると、鈍い音が鳴り、彼女はおいしそうにビールを飲み干した。
「ぷはー! うまい!」
「ほらよ」
俺はコンビニの袋からもう1個缶を取り出し、彼女に差し出した。
「サンキュ」
彼女は嬉しそうに受け取った。
そして、俺はコンビニの袋からローストビーフを慎重に取り出し、口に運ぶ。
うまい。
ビールもあおる。
うめー。
「まこっちゃん、私にもちょうだい」
「あっ!?」
「ほら、あ~ん」
雅は口を開けていたが、俺はそれを無視して、食べ続ける。
うまー。
「ちょっと、どんだけそのローストビーフを楽しみにしていたのよ。こらっ、抱え込まないように食べないでよ。もう取らないわよ!」
彼女が呆れ顔で呟く。
俺、WIN。
「ドヤ顔するな、器の小さき男よ」
そうやってじゃれ合いながら俺達は話をした。
彼女は俺の大学生活に興味を持って聞いてくれた。
何にも面白くない話だったのに、ちょっと意外だった。
「へぇ、大学には空き時間もあるんだ」
「そ、講義と講義との間に空き時間ができることがあって、その時は図書館に行くなり、友達と学食で喋るなり、自由に過ごしているな」
「いいな~学生は」
雅は羨ましそうに目を細めた。
「お前の方こそ、高校卒業して就職決まったんだろ。社会人はどうよ?」
「うん、しんどい」
彼女は笑顔で応えた。
「私の職場さ。自動車保険のオペレーターでさ。全然華なんかなくて、クレームばっかり」
「クレーム対応か、大変だな」
「学生さんには分からないでしょう」
「へいへい、あっしには社会人の辛さは分かりませんよ」
俺が軽口を叩くと、彼女は、ほんとだよ、と小さく呟いた。
「オペレーターって割と女性が多くてさ。女性の職場って陰口が多くて、ホント大変なんだからね」
「うわ、現代版の大奥みたいな?」
「そうそう、お局様に睨まれたら終了なんだから。私は必死でニコニコして、いい子演じて、先輩に取り入って、何とか乗り切ってきたんだけど――」
彼女の表情が陰る。
「今年の4月に入った子が私と同じ高卒で、真面目で頑張り屋だったんだけど、素直な分、世渡りが下手でさ。クレーム対応も上司に電話すぐ取り次いで怒られて、よく泣いていたんだ。それでお局様から目を付けられて、夏に辞めちゃったんだよね」
「ふ~ん」
俺の気のない返事に非難もなく彼女は続ける。
「辞めた後に、職場のみんなは、仕事が遅かったから仕方がないとか、若い子は仕事を舐めているとか、そんな勝手なことばっかり言ってさ」
「そうか、それは大変だったな」
「そう、大変だった。私も嫌われないように必死でゴマすって頑張ったよ。でも、職場から帰って化粧を落としていたら、鏡に映った私は、まだ笑っていて、それ見て泣けてきたんだ。自分を守るために必死すぎて、がっかりした」
「……」
俺は彼女の悲痛な声を聞いて何も言えなかった。
「だから、辞めてやった! 朝、お局様があの子のことを小馬鹿にして笑っていたから。人の陰口で笑うのって最低ですね、って言ってやった。あの時の顔、見せてあげたかったな。何を言われたのか最初、分からなくて何も言えないでいたけど、その後茹でダコみたいに真っ赤になってさ。痛快、愉快って感じ。その後、辞表を叩きつけて、働いて貯めたお金で現在も自分探し中」
「そっか」
彼女はずっと楽しそうに笑っていた。
でも、そんなの嘘だとすぐに分かった。
これから先のことを不安に思っていないわけがない。
辞めた後悔と、減っていく貯金。
それでも彼女は気丈に笑っている。
彼女はきっと自分を好きになりたいんだろう。
偽りに紛れて、人に合わせるばかりの生活が日常になっていたから。
――だったら、俺にもやれることがあるだろう。
「ミヤビーフ」
「ちょっと変なあだ名で呼ぶのやめてよ」
彼女はちょっと迷惑そうに表情を歪めさせたが、気にせず続ける。
「せっかく海に来ているんだ。泳ごうぜ!」
「バカ、もう秋だし。水着なんて持って来てないわよ」
「関係ない、俺は泳ぐぞ!」
俺は勢いよく堤防の階段を駆け下りて、靴を脱ぎ捨てて、海にダイブした。
水は冷たくて、身体の体温をあっという間に奪っていく。
でも、俺はクロールをして、笑顔で雅に叫んだ。
「超気持ちいい! 秋の海は最高だぜ!!」
雅はそれを呆けたように見ていたが、立ち上がって叫んだ。
「バッカじゃないの!」
そう言って彼女も勢いよく履いていた靴を脱ぎ捨てて、砂浜を駆けてくる。
彼女は海に勢いよくバシャバシャと入ってきて、顔をしかめた。
「うわっ、ちょっと何が最高よ。秋の海、冷たすぎでしょ」
「ハハ、間違いない」
「本当、バッカみたい!」
そう言って彼女は俺に盛大に水を掛けてきた。
顔面でそれを受ける。
「アハハハ!」
彼女は今までと違って大きく口を開けて、歯を出して笑う。
ほら、な。
雅は笑い方を忘れていただけだ。
今まで使ってなかっただけで、なくなったわけじゃない。
だって、あの時と同じ顔だ。
雅の顔は小学生の頃、バーベーキュー大会で牛肉をおいしそうに食べる笑顔と全く同じだった。
その後、ひとしきり泳いだ後、びしょびしょのまま急いでアパートまで
帰った。
雅にもう一度、シャワーを浴びさせ、俺もすぐさまあったかいシャワーを浴びた。
シャワーから上がると、雅はもう身支度を整えていた。
窓の向こうはうっすらと明るくなり始めている。
遠くの方で電車の音が聞こえた。
「じゃあ、もう行くね」
「おう、気をつけてな」
俺は玄関で彼女を見送った。
「ねぇ」
彼女はドアノブに手を掛けたところで振り返った。
その瞳に今まで写らなかった彼女の素が見えた。
「……また、来ていい?」
不安そうにこちらを伺う表情に俺は笑った。
「もちろんだ。また今度も飲もうぜ! 約束な!」
俺は小指を差し出す。
彼女も遠慮がちに小指を絡ませてきた。
隣に聞こえないように、俺達は小さな声で秘密の約束をした。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ま~す……指切った」
それを聞き、彼女は嬉しそうに瞳を潤ませて笑った。
「ありがとう」
俺はいつもと同じように笑った。
「その時は、ローストビーフを一緒に食べような」
「……うん!」
彼女はあの時と同じ明るい笑みを浮かべて、元気よく頷いた。
ミヤビーフ