Aquarium
・プロローグ:向日葵畑が似合う向こう岸のあなたへ
・深海魚の貞操主義について:大人の夜の深海を知った君へ
・竜の落とし子:パパとママがだいすきな君へ
・プレモの夜:純愛では無い初恋をした君へ
・魚の兄弟が水中遊泳する時:発達障がいの兄弟を持つ君へ
・ドルフィンは片目を開けて夢を見る:両目を閉じて眠るのが怖い君へ
・エピローグ:青色が似合う水族館の貴女へ
プロローグ
「それでは、向こう岸で待ち合わせですよ。」
そう云ってあなたは先に泳ぎ出しました。
後から追いかけて私は必死に手足をばたつかせましたが、
向こう岸など私にはやってきませんでした。
目を開くと見えたのは、こちらを眺める人々の目玉たち。
藍色の水に透かされて、ほのかにグレーに輝いていました。
何か言葉で伝えねばと私は口をぱくつかせましたが、
目と鼻の奥に塩素が沁みるばかりで、
「あ」の音一つ出ませんでした。
御免なさい、どうやら私の到着地点はこの硝子張りの水槽のようです。
あなたのように遠くを見つめ続ける事は、私にはどうにも不可能のようで。
私を四方から取り囲む、この分厚い硝子壁だって
人工照明に照らされるとまるで陳腐なびいどろのようで
私が浴びる脚光など、これでもう十分なのだと満足してしまうのです。
あなたは笑い声だと云いました。
私は泣き声だと云いました。
あなたは日の出だと云いました。
私は日没だと云いました
あなたは海の音だと云いました。
私は魚たちが死んでいく音だと云いました。
私は「少し休もう。」と云いました。
あなたは「まだ泳げる。」と云いました。
私は自分に失望した素振りで、あなたに背を向けましたが
本当はあなたに嫉妬していたのです。
あなただけが何時も幸せであるような気がしたから。
そして間違いなくそれはあなた自身のエネルギーの産物であり、
あなたが羨ましくて堪らなかったのです。
「どうぞ、御先に御行きなさい。私は後から追いかけますから。」
あの時、私もあなたと一緒に泳ぎ続けていたならば
私が今見る景色は陳腐なびいどろなどでは無くて
太陽の光を一杯に浴びて育った向日葵畑だったのでしょうか。
私もあなたと同じように、向こう岸の世界を見られたのでしょうか。
「お母さん、あの御魚、泳がないね。」
小さな指先はきっと私を指したに違いありません。
私にとっては十分に大きな水槽でしたから
事実、他にも私と同じように感じた方がいるかもしれませんが、
あの子は確かに私を指していたように思うのです。
ええ、泳ぎませんよ、ちっとも。
だって貴方たちがグレーの瞳で私を睨み付けるんですもの。
塩素が目と鼻に沁みるんですもの。
硝子壁が私の行く手を阻むんですもの。
あなたは向こう岸へ行ってしまったんですもの。
今更私は追いつけないんですもの。
幾ら目を固く閉じたところで
青い光は瞼を押し通して、私の瞳孔に捻じ込まれるのです。
その光さえ受け入れられない私は
水槽に溶け込む藍色の泪を流したのでした。
今あなたの目に飛び込んで来るのは
明るい橙色の光ですか。
柔らかな空気を肺一杯に呼吸して
伸びやかに海の唄を歌うのですか。
あなたのその口元を思い描きながら私も口をぱくつかせますが、
目と鼻の奥に塩素が沁みるばかりで、
「あ」の音一つ出ないのでした。
深海魚の貞操主義について
深海387メートル。
心の傷の深さまで。
お母様が云いました
深く潜り過ぎちゃ駄目よ。
深海には恐い生き物が住んで居るからね。
お前の其の弱い心何て、一口で飲み込まれて仕舞うんだよ。
私は弱くなんか無い、
ムッとした私は夜の街へ潜りました
其処には初めてが輝いて居ました
何時しか小学校で習った、
あの黒い小さな魚の物語の様に
深海には面白い物が一杯でした
唯、あの魚とは違って率いる仲間の居ない私は
独りでより深く海へ潜りました
其処で出会った、見掛けばかり大きなマグロは
お母様が云った通り、一口で、一晩で私を飲み込みました
それでも私は痛くも苦しくも有りませんでした
嗚呼、此れが深海か。
きっと此処が海の底で、
此れ以上深く潜る事何て無いんだなあ。
ふと、お母様の顔が浮かびました
お母様は私の音読を毎日褒めて下さいました
其れなのに今、私が読み上げる言葉の数々は
何の意味も持たない、欲情を規定の箱に流し込んだだけの音
お母様、今やっと解りました
深海に潜ると謂う事は
程よく太陽の光が当たり、
水面がきらきらと薄瑠璃色に煌めく
お母様と謂う海を捨てる事何ですね
だからお母様は私に深海へ潜るなと云ったのです
私と謂う、小さく弱い魚を喪うのが淋しいから
大丈夫です、お母様
私はつい最近バタ足を覚えたのです
深海に居れば居る程、日光が恋しいのです
そして私が自由に泳ぐ事が出来るのは
一番広い貴女の海なのです
お母様、心配なさら無いで
深海魚は貞操主義なのです
竜の落とし子
パパは守ってくれたんだよね
だからママは居なくなったんでしょ?
ママは毎日僕をいじめた
宿題しなさい
片付けしなさい
早く寝なさい
そしてママは毎日僕に
無理矢理美味しい御飯を食べさせて
無理矢理シャボンの良い匂いの服を着せたんだ
だからパパはママから僕を守ってくれたんだよね
パパは愛してくれたんだよね
だから僕にお金を握らせたんでしょ?
僕は毎日コンビニへ行った
カップラーメン
炭酸飲料
週刊少年漫画を買って
十円足りない
百円足りない
千円足りない
だからパパは次々とお金をくれたんだよね
パパはよく見てくれたんだよね
だから僕のおもちゃを捨てたんでしょ?
白い飛行機は翼が欠けていた
青い新幹線には傷が付いていた
そしてテレビゲームは僕の目に悪いから
だからパパは僕のおもちゃを捨てたんだよね
パパは僕に新しいママを見つけてくれたんだよね
だから若くて綺麗な女の人を連れて来たんでしょ?
僕はママの柔らかい掌が好きだったから
僕はママの長い髪が好きだったから
そして僕はもう一度
ママと一緒に眠りたかったから
だからパパは新しいママを連れて来たんだよね
パパは僕を強くしてくれたんだよね
だから僕を家から追い出したんでしょ?
男の子は独りで生きていけないと駄目だから
僕の声が大人になったから
十三歳はもう立派な大人だから
だからパパは僕を追い出したんだよね
パパは僕を育ててくれたんだよね
竜の落とし子のオスがお腹で卵を暖めるように
パパは僕を暖めてくれたんだよね
ママが邪魔だった訳じゃない
御飯を作るのが面倒だった訳じゃない
おもちゃが邪魔だった訳じゃない
新しい女に惚れた訳じゃない
僕が邪魔だった訳じゃない
そうでしょ?
きっとパパならそう言ってくれるよね
パパは竜の落とし子のオスみたいに
僕を育ててくれたんだよね
プレモの夜
クワガタムシがプププして
ジンベイザメがプレモする夜
僕は君と公園のブランコを揺らす
「月まで届かないかなあ。」なんて
在りもしない戯言を並べて
自分を着飾る君が嫌いだ
テントウムシがプププして
バショウカジキがプレモする夜
僕は君と缶コーヒーの缶を開ける
「心まで暖まりそうだね。」なんて
有り触れた平凡な戯言を並べて
僕に媚びる君が嫌いだ
僕はそんな言葉を聞きに来たんじゃない
ブランコに乗りに来たんじゃない
缶コーヒーを飲みに来たんじゃない
この夜の公園で
プププよりも深くて
プレモよりも甘い
プラナスを君とする為に来たんだ
魚の兄弟が水中遊泳する時
どうしてお前は何時も気付かないんだ
後ろから大きなサメが近付いていると謂うのに
どうしてお前は何時も気付かないんだ
ウミウシのおじさんが
今にも角を出して激怒しそうになっていると謂うのに
どうしてお前は何時も気付かないんだ
お前がそうやって尾びれを振り振り泳ぐのを見て
他の魚達が後ろ指を指していると謂うのに
どうしてお前は何時も気づかないんだ
お前が毎日追いかけているのはダイアモンドなんかじゃない
ただの水の泡である事に
お前が毎日話しかけているのは陸から来た恐竜なんかじゃない
命すら持たないただの岩である事に
どうしてお前は何時も気付かないんだ
俺が毎日こうやって、お前の事を心配している事に
「お兄ちゃんにはきっと、何もかもが見えすぎているんだ。
ボクはただ、お兄ちゃんが見る世界が怖いものであって欲しく無いんだ。
お兄ちゃんが見る世界に、素敵な物が溢れていて欲しいんだ。
ボクは、お兄ちゃんと楽しく水中遊泳をしたいんだ。
それだけでボクは幸せだから。」
魚の兄弟が水中遊泳をする時、
尾びれを振り振り泳ぎます。
大きなサメが近付こうとも
ウミウシのおじさんが激怒しようとも
他の魚達が後ろ指を指そうとも
二人の目に映る景色は
他の誰にも見る事が出来ないのですから。
ドルフィンは片目を開けて夢を見る
ドルフィンは片目を開けて夢を見る
もしも両目を閉じているうちに
敵に襲われたらいけないから
ドルフィンは片目を開けて夢を見る
もしも両目を閉じているうちに
お父さんとお母さんが喧嘩をして
お母さんが出て行ったらいけないから
ドルフィンは片目を開けて夢を見る
もしも両目を閉じているうちに
今日学校で靴を隠された
妹がメソメソ泣いていたらいけないから
ドルフィンは片目を開けて夢を見る
もしも両目を閉じているうちに
知らない怖いおじさんが来て
みんなを殺してしまったらいけないから
ドルフィンは片目を開けて夢を見る
もしも両目を閉じているうちに
彼女が他の男と出かけたらいけないから
ドルフィンは片目を開けて夢を見る
もしも両目を閉じているうちに
妻と子供が夜逃げをしたらいけないから
ドルフィンは片目を開けて夢を見る
もしも両目を閉じているうちに
死神が命を奪いに来たらいけないから
大丈夫、追い返しやしないよ
君が逃げてしまわないよう
片目を開けて待っていたんだ
ドルフィンは両目を閉じて夢を見る
エピローグ
わたしはずっと信じています。
貴女は本当は泳げる事を。
そして泳ぎたいのだと謂う事を。
「それでは向こう岸で待ち合わせですよ。」と
約束してしまったけれど
わたし独りで向こう岸まで行きたいとは
どうしても思えなかったのです。
わたしは橙色の光が好きです。
貴女は青い光が好きでした。
そして私は青が似合う貴女の事が
大変羨ましかったのです。
わたしは怒鳴り声だと云いました。
貴女は謝る声だと云いました。
わたしは日食だと云いました。
貴女は月食だと云いました。
わたしは雨の音だと云いました。
貴女は魚たちが躍っている音だと云いました。
わたしは「もう待てない。」と云いました。
貴女は「落ち着こう。」と云いました。
きっと貴女の方がわたしなんかよりも
ずっと遠くまで泳いで行ける筈です。
だってこの海の青い色は
わたしなんかよりも貴女の方が似合うんですもの。
それでも貴女が今の居場所は
大海原を渡った向こう岸では無くて
陳腐なびいどろの、この水槽の中だと云うのなら
わたしの居場所もきっと同じ
この藍色の塩素水の中でしょう。
脚光が太陽の光では無くて
人工LEDだったって良いじゃないですか
目と鼻に沁みるのが磯の香りでは無くて
塩素だったって良いじゃないですか
わたしたちの居場所が
最果ての無い大海原では無くて
四方の硝子壁で限られた
この水族館だったって良いじゃないですか
貴女の云う通り、
疲れたのなら少し休みましょう。
わたしたちには未だ未だ時間が沢山あります。
向こう岸へだってその気になれば
何時でも辿り着くことが出来ます。
小さな狭い水槽の中で
グレーの目玉たちに見つめられるのだって
悪くないじゃないですか。
彼らはきっと、わたしたちに拍手を浴びせる
一番最初のお客さんです。
排水管を通り抜けて
もうすぐ貴女の所へ行きます。
貴女と同じ
青い光を浴びに行きます。
だって海の青が似合う貴女は
わたしの最初で最後の憧れですもの。
Aquarium