さらさら、雨のあとで

月瀬 ゆう

相合い傘をして帰る二人の男女の恋愛模様。

さらさらと、ほそい雨が流れるように降っている。
その中を、ふたりの男女が一本の傘をさして歩いている。
男の側は、黒い傘を持って、やたら視線を彷徨わせている。女のほうに、目線をやることはめったにない。
女は女で、身を縮こませて、窮屈そうに濃茶色の鞄を両手で持っている。
車道側に男、民家の壁際に女がいる。

「ごめんね」
口を開いたのは女だった。消え入りそうな声だった。
車が一台、水を撥ね、ふたりを避けながら、通り過ぎていった。
男が若干、女の側に近づいた。水をかけまいとの配慮だったのだろうが、女は気づかない様子である。
車の水は、男にかかることはなかった。
「な、なにが?」
男は、どもったように声を発した。何かに気を取られている、そんなふうだ。
「傘」
傘、入れてもらって、と小声で女がつぶやいた。
「ううん、いいんだよ」
二人は学生だった。男の側は、窮屈そうに学生服に身を包んで、左の肩のあたりが濡れている。
それでも彼女に向かって「濡れた」だの、「冷たい」だの言うことはなかった。彼女の側はそれに気づいていない様子だった。
気づいていようが、いまいが、彼にとってはどうでもよかったのだ。

彼が見たのは、ある日の彼女の姿だった。
今日と同じ雨の日。
締められた、商店街のシャッターの前に置かれていた、汚れた蜜柑箱。その中から、微かな鳴き声が聞こえてくる。
それは、みぅ、とちいさな鳴き声を漏らして、心細く鳴いていた。
彼はそれを見つけていたけれども、どうしよう、ああしようか、こうしようか、家に連れて帰っても、母親に怒られるかな、でも、ずっとこのままおいておいたら、その中のイキモノは、フラフラ車道に歩いて行って、車に撥ねられるかもしれない。ああ、それでは寝覚めが悪い。そう思うと、その箱の前で、何をすることもできなかった。
商店街に人気は無い。ただ、無情の雨が音を立てて地面を打ち付けるだけだった。
日はどんどん暮れていって、このままブラックアウトしてしまいそうに光を失っている。
彼は不安になった。
その時、白い足が目に入った。
彼女だった。
今日と同じ鞄を傘代わりにして、ばたばたと走ってこちらに向かってくる。
彼の心臓は高鳴った。
雨に濡れた長い髪がぴたぴたと彼女の肩を打つ。
水分を潤沢に含んだシャツ、スカート。それが妙に色っぽくて彼は視線をそらした。
「あ、潤くん」
大きなふたつの瞳が、自分を見つめている。彼女は照れたように笑った。
まるで、どこかの炭酸飲料のCMのような爽やかさを纏った彼女に、潤は気おくれした。
「未海ちゃんも、傘、忘れたの?」
未海は、えへへ、と笑ってから、ちいさく、うん、と頷いた。
そっか。潤は、話題をつなげられないような返事をうってしまったことに後悔した。
そのあとは会話が続かない。秋雨のさらさらという音と、段ボールのなかで、子猫が動いている音がするだけ。
すこし暗くなってきたあたりを、雨を照らしたヘッドライトがやってきて、通り過ぎる。
あ、と潤がちいさく息を漏らす。
その気持ちも、吐息も未海には聞こえず、彼女は箱に目をやる。
「それ」
「ああ」
潤が、段ボールの前から、二三歩、歩をずらす。
彼女の石鹸の良い香りがふわりと漂った。
距離が近くなって、遠くなった。
近くなったとき、とくりと、鼓動が高鳴る。
彼女の存在をとなりに感じたから。
潤は、変だ。と思った。
ただ単なる下心なんだと思った。彼女のシャツから透けて見えるしろい下着。それを僕はいやらしく見ているだけなんだ。
でももう一方で、それを人に知られたくないとも思った。人も同じことを思うだろう。それがいやだと純粋に思った。それは偽善的感情であるし、自分だけがこんな感情を抱きたいと思うだけの、自己中心的な感情なのだろうとも、潤は思った。

彼女は白くほそい手で、子猫を抱き上げた。
雨で濡れ鼠になった髪をはらうこともせずに、彼女は、微笑した。

「かわいい」

それから、彼女は、彼のほうに向かって、

「ねっ?」

とくしゃくしゃの微笑みを見せた。

潤は未海のそんな姿を自分だけが独占できているような気がした。それはどんな感情よりも宝物だと思った。齧れば甘い、持てばすきとおるきらきらした感情。それはほのやわらかくて、あたたかい。胸に抱きしめれば、自分の鼓動と呼応するような、どきどきするような気持ち。
潤は、ああ、とも、うん、ともつかない返事を返して、彼女から目をそらして、そしてまた彼女を見た。

未海は、ふんわりと微笑んでいた。
たとえそれが自分に向けられたものでなくても、なぜか嬉しかった。
雨は以依然勢いを増したままだったけれど、彼の心の中は、虹のような輝きで満ち満ちていた。


「あ、あのさ」
潤は、過去の回想を断ち切って、未海に話しかけた。
時間は、永遠にあるような気がして、逆に、一瞬しかないような気もした。
このチャンスを逃していいのだろうか。
雨粒が天上から、地面に落ちるそのひとときさえも、無駄にしたくないような気持ちと、このまま、未海と雨音を聞いていたい気持ちがぐるぐるとまわる。どちらがいいのだろう、どちらがいいのかな、心の中で唱えるけれども、当然のように答えは返ってこない。聞こえるのは、雨のさあ、という無機質な音だけだった。
答えなくてもいいよ、と思いながらもそれはあっさりと破られる。
「なに?」
「こないだの、猫、どうしたの」
無理に引きずられるように答えをひねくりだす。
やっぱりこのまま、ふたりで雨音を聞いていたかった。いや、でも彼女の声も聞きたいと思った。それは、贅沢だ。
対向から自転車がやってくる。
未海に水跳ねが来ないようにすこし、彼女のほうに寄る。
今日の未海の髪は濡れていない。さらさらした、髪のひとたばが、肩から胸に落ちる。
彼女の顔を直視することができない。
未海は、潤を見て、えへへ、と笑った。
「今、募集中」
潤はあらぬことを一瞬考えて、慌てて取り消す。
そして当たり障りない、会話を紡ぎだした。
「家にいるの?」
猫は、と付け加える。
「そうだよ~」
未海は答えた。

貰われていく身であるのに名前が気になった。
「名前、つけたの?」
そう聞くと、未海が、うん、と頷いた。
鞄についた、クマのチャームに目をやる。彼女らしい、セレクトだ。
彼女らしい、なんて、どういうことだろう。自分は、未海の何を知っているのだろう、と潤は思った。ただ己は、自分の中で「未海」という像を作っていて、それが今の彼女に当てはまれば、それで満足してしまう、ただそれだけなのではないか。彼女の事を昔からよく知るといった、幼馴染でもない、ただのクラスメートなのに。それで偶然、この間、あのような出来事があって、たまたま今日もこんな雨だっただけなのではないのか。
偶然。というには出来過ぎている気もする。
自分は浮かれているだけなのではないのか。
”偶然の雨の日”なんて都合のいいタイトルをつけて、自分一人で喜んでいるだけなのではないのだろうか。

まさか、自分の名前じゃないよな。と潤は心の中でひとり言葉を飲み込む。
そうであってほしいような、それであってほしくないような。
そうであったら、自分に気があるような気がするし、そうでなければそんな気はないようなそんな勝手な賭けが頭をめぐる。
「ななこ」
「え?」
「まだ、貰い手さん、決まってないでしょ。だから名前は付けないことにしたんだけど……呼びにくいから、ななこ」
「なんで、ななこなの?」
「名無しっ子」
「えぇ…、ひどくない?」
潤は苦笑した。
「だって…愛情がついちゃうもの」
そういって、未海は、悲しそうにうつむいた。
そうか、潤は納得した。これからずっと飼うなら愛情を込めて名付けをするのだろうが、そうだと、離れる時につらい。だから、あえて素っ気ないようなそんな名前にしたのだろう。

未海の家もマンションだと聞いた。それでのことだろう。本当はどんな名前を付けたかったのだろうか。潤は気になった。
「本当はどんな名前にしたかったの?」
と、潤が訊くと、未海は、笑いを含みながら、「えぇっ」と答えた。

「ん~…ずっと飼うなら…そうだね、その時にならないとわからないね、好きなアイドルとかの名前をつけたのかも!」
そういって、未海は、傘の中から飛び出して、んーっと背伸びをした。
雨はいつの間にか止んでいた。
未海は駆け出した。そして、振り向いて、

「じゃあね。潤君!」

と、屈託のない笑顔を見せた。

「あ」

潤は大きな声で「待って」と未海を呼び止めた。
未海がさらりと振り向いた。その表情から否定的な感情を読み取ることはできなかった。もしかしたら…

「あのさ、未海って、今、好きな人、いるの?」

自分で言っておきながら、心臓がどくりと高鳴る。
その反応として、当然と思われたが、キョトン、と未海は、その場に立ち尽くした。
そして「あはは」と笑った。それは、ふんわりと花がほころぶような微笑みだった。

「いない!募集中!」

はーい、と手をあげる未海。
それを見て、潤も微笑んだ。

雲の切れ間からまぶしい光の筋がきらきら降り注いでいる。その光を浴びた彼女の姿はとても美しかった。

「おれも」

そういって、潤は傘を畳み走り出した。
走って、彼女の手を包んで、走り出した。
さきの事は、考えなかった。

ただ雨上がりの鼓動が、はやく、はやく、走っていた。

さらさら、雨のあとで

さらさら、雨のあとで

  • 小説
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更新日
登録日
2015-09-12

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