魔法技師 雷夜の異動

(400字詰め原稿用紙換算376枚)

1.砂映・Kの異動

「へい。松岡・デラックス・魔法カンパニーです。はあ、お世話になっております」
 オフィスの中では机が島をなし、あちこちで電話が鳴る。みながそれぞれに動き回っている。FAXを配る人。伝票をタイプする人。部長席の前で報告をしている人。立ち話をしている人。一心不乱に呪文を書きなぐっている人。魔法陣の下書きをしている人。書き上げた魔法陣を試験稼動している人。呪符を箱詰めしている人。
「へい。え?ちょっと待ってください。ちょっと今仕様書を確認します。……あ、へえへえ。ごもっとも。ん、そうですね、『火柱(ひばしら)』はちょっと特殊な魔法なんで、『樹氷(じゅひょう)』をあわせて、ちょっとその、縦方向の熱量を削ってやらないといけないんですよ。へい。そう。そういうことですそういうことです」
 砂映(さえい)・Kは顎と肩の間に受話器を挟み、書類をめくりながら話をしていた。顔の造形だけ見れば、鼻筋の通ったかなりの男前である。加えて長身でもある。しかしどうにも、二枚目という雰囲気からは程遠い。表情に、精悍さというものがない。
「へい。そう。あ、よかった。へへ。いえいえ。なによりです。そんなそんな。それじゃあまた。何かあったらまた訊いてください。へへ。とんでもない。それでは。ありがとうございます。失礼します」
 へこへこと頭を揺らしながら受話器を置き、手にしていた書類を脇に置く。その途端、同じ島の事務職が声を上げる。
「あ、砂映さん。平塚エンジの芽羅(めら)さんから、お電話二番です」
「へい」
 砂映は電話をとりながら脇の引きだしを開ける。平塚エンジニアリング向けの案件で、質問を受けそうな事項があった。たぶんそれだ。
「お待たせしました。へい。お世話になってます。はあぼちぼち。へい。え?」
 あたりをつけて取り出した書類は脇に置き、砂映はメモ帳にペンを走らせる。火ねずみ。くらげ。700トルク。加速結果。
「ええと、試験成績書が手元にあるんですか?その下の欄見てもらっていいです?そうそう。『火鼠(ひねずみ)』の加速度が30、ああ、そこに『海月(くらげ)』の冷却損失、あ、いえ、その計算式でなくて。魔法動力はそこ、1.5になるんで。そしたらその値になりません?ああ、よかった。へ。へへへ。はあ。え?『つらら』?」
 砂映はいったん保留ボタンを押し、受話器を置く。
烙吾(らくご)さん、去年平塚エンジさん向けで納入した電動機効率化魔法陣、なんで『つらら』が組み込まれてるのかって質問出てます」
「値の調整で必要だったって答えておけ」
「前にそう聞いたけど、それはどういうことだって訊いてます」
 砂映の向かいの席の烙吾は、じろりと砂映をにらみつけた。撫でつけられた黒髪が、整髪料でてかっている。
「あのな砂映。要領のいい応対をするのも仕事に必要な技術だ」
「はあ」
「相手の質問にいちいちくそ丁寧に答えるな。最低限で答えておけ。言ったって、どうせわからないんだから」
「へえ。わかりました」
 ぼんやりとした表情で答えると、砂映は受話器をとる。
「あの、ちょっと確認してから折り返しお電話します。あ、いえいえ。ちがいますよそんな。へい、今日中に。了解いたしました。へえ。失礼します」
 向かいの席から烙吾は砂映に不快そうな視線を投げる。しかし口を開く前に、また別の電話が砂映宛に回された。「砂映さん。お電話一番です」
「へい。どうもどうも。いやあそうだといいんすけどね。いえいえ。ああ、あのちょっと待ってくださいね。昨日の見積っすよね。そう、そこ、『風神(ふうじん)』を『又三郎(またさぶろう)』にすると、ちょっと安くなると思うんですけどね。効率が違ってくるんで、どっちがいいか、難しいところですよ。そう。そうです。手数的には『又三郎(またさぶろう)』の方が断然シンプルなんで、楽なんですけどね。『いわし』?いや、『いわし』はここには使えないっすね。へへ、よくご存知で。へえ、たしかに。へえ、そそ。ああ……そ、すんません、ただね。同じ風系ですけど、ちょっと構成要素がちがうんで。へえ。へ?うう……そのお値段だと、完全に出血です……いや、そこの工数は削れません。ご勘弁を。へい。あ、そうっすね。へい。も一度見積……そこ?いえそこはもう。あ、じゃあ熱効率のグラフをつけて送りますんでご確認をば。へい。へい。ふへ。失礼します」
「砂映さん、三番お電話……」
「砂映!」
 事務職の女性の声をさえぎるように、烙吾が声を荒げた。受話器を持ったまま次の電話をとろうとしていた砂映は、事務職に軽く頭を下げ、ぱちくりと烙吾を見る。
「あのな砂映。おまえの仕事はおしゃべりじゃないって、わかってるな?」
「へえ」
「明後日据付の魔法陣の詳細設計、あとおまえの分だけなんだけど」
「すんません」
「今日中にはできるんだろうな。おまえのができないと、魔法陣が書けない。万が一遅れたら、プロジェクトマネージャーの俺の責任になる」
「……ほとんどできあがってます。すんません」
「もうちょっと、さっさと電話を切り上げる方法を覚えろ。誰にでもいい顔して丁寧に答えるから、些細なことでみんなおまえに電話するようになるんだ。もう十年も会社にいるんだから、わかるだろいい加減」
「すんません」
 砂映は首をすくめ、大袈裟なほどしょげた表情をした。烙吾はため息をついて手元に視線を落とす。その瞬間、ぱっと芝居を切り替えるように表情を戻すと、砂映は電話の保留ランプに手を伸ばす。

 電話攻勢がやっと途切れたのは、定時の十七時半をとうに過ぎ、十九時を回った頃だった。砂映はふうっと息をつく。喉はからから、空腹で目がくらむ。今日は昼食も食べ損ねた。このまま仕事を続けるのは、まずい。
「あ~、烙吾さん。ちょいとコンビニ行ってきますけど、よかったら何か買ってきますよ」
 電話が途切れた途端逃亡を図ったと見なされても困るので、言い訳を兼ねて声をかけた。一応、迷惑をかけている身としての心遣いもないわけではない。
 他の人が設計した魔法陣の呪文のチェックをしていた烙吾は、ちろりと目だけ上げて砂映を見る。砂映はとりあえず愛想笑いを浮かべる。烙吾は不快そうな顔をしながら手元の紙にすぐに目を戻した。しかしそのまま低い声で言う。
「缶コーヒーのブラックと、なんか激烈に甘いような菓子パン買って来い」
「へい、了解しました」
「あ、じゃあ俺のも頼む。サンドイッチと炭酸」
 横から別の先輩が言った。「へい」砂映が快く答えると、
「あの、僕もいいですか。なんか無性にココアが飲みたくて。それと、なんかスルメみたいな」
 魔法事典をめくりめくり呪文を書いていた後輩が言う。
「ちょい待ち。覚え切れんそんなに」
 砂映はメモ用紙に、言われたものを書き始める。
「あの、じゃあ私もいいですか。たぶん健康食品の棚にあると思うんですけど、カルシウム添加ウエハースと、あと、ビタミン炭酸と」
「……みなさん変わってますね……俺は普通におにぎり食べたい……」
 他の後輩や事務職も次々に希望を口にする。ここまで来たら、逆に全員に声をかけないと申し訳ない。あと一人残業している事務職に、砂映は訊ねる。
熱海(あたみ)さんは何かいるものない?」
 ウエーブの髪を揺らして顔を上げ、小さく首を傾げるように砂映をじっと見ると、熱海さんは形のよい唇を開く。
「じゃあティラミスかチーズケーキお願いします。もしなかったら、ヨーグルトとプリン以外で、あんこの入ってないコンビニスイーツのどれかで」
 最後にほんのり微笑むと、また手元の書類に目を落とす。
 ティラミスorチーズケーキ、×ヨーグルト×プリン×あんこ。
 メモを終え、砂映はポケットに手を突っ込んで歩き出す。広いオフィスの中は、昼間と違いがらんとしている。時期によっていろいろだが、ここ数日は、砂映の島の残業率が高い。他の島には残っていても一人か二人。力の入った前屈みの背中に長い髪を垂らしている、二つ隣の島の唯一の残業者は、砂映の同期である。
涼雨(りょうう)サン。コンビニ行くけど、何かいる?」
「……いらないわよ」
 伝票から顔も上げず、険のある声が返ってきた。砂映は首を縮めて「さいですか」と呟き、ぶらぶらと出口を目指す。

 今日中と言われた魔法陣の呪文を完結させ、ひととおり魔力を通してうまくできているか確認し終えたのは、二十二時を過ぎた頃だった。砂映の部署で、他に残っている者はいない。フロアの中を見渡しても、三人、四人。その程度だ。
「おさきに失礼します~」
 その残っている人たちに何となく声をかけ、返事が返ってきたり返ってこなかったりしながら、砂映はフロアを出た。終電まではまだ二時間ある。このまま帰ったら間違いなく家に着くなり寝てしまうだろう。それを避けるために、砂映は駅の近くのコーヒーショップに寄った。
 総務部以外の総合職は毎年受験しなければならない魔法技術者試験。それが一週間後に迫っている。日々進歩する技術についていくためには、勉強を怠らないことが大切だ。試験結果は昇進や昇給に関わる――そして試験結果があまりに悪いと、開発の仕事をはずされることもありえる。下手をすると、解雇コースまっしぐらだ。

 テキストをめくりながらカフェラテをすすっていると、断りもなく向かいの席に女が腰を下ろした。 
「おつかれさま」
「あいよ。おつかれ」
 涼雨だった。砂映が帰る時には、もうオフィスにはいなかったはずだが。どこか別の場所に寄ってでもいたのだろうか。トレイの上にはコーヒーの紙コップと共に、サンドイッチの包みも乗っている。夕ご飯は今かららしい。涼雨はちろりと砂映に目をやると、
「見てて腹が立った」いきなり言った。
「へ?」
「どうして後輩にまでパシリさせられてるのよ。なにあれ?普通あの状況だったら、後輩の誰か一人くらい、僕も一緒に買いに行きます、って言わない?先輩がメモとって全員分の買出しに行って、がさがさと袋持って帰ってきて、なんとも思わないのあいつらは」
 なんだか彼女はいつも怒っている気がする。砂映は小さく首を縮めた。
「あ、でもさ、金は全員ちゃんと払ってくれたし」
「そういう問題じゃないのよ」
「そういう問題じゃないのか……」
「どうしてそう、あなたは腰が低いのよ。図体でかいくせに。なんで怒らないのよ」
 彼女はなんでいつも怒っているのだろう。砂映にとってはそちらの方が不思議だが、そんなことを口にしたらますます怒られそうだ。
「すんまそん」
「なんで謝るのよ」
「いや」
「私に謝られても困るわよ」
「すんまそん」
 涼雨はむうう、と不本意そうに砂映をにらみつけた。
 砂映はぽりぽり頭を掻き、とりあえず、テキストに目を戻す。

「なあ、子どもの頃……魔法使いに憧れたりせんかった?」
 数問解いて、もはや脳が働く気を失っているのに気づき、砂映は口を開いた。正面に座り黙ってサンドイッチをかじっていた涼雨が怪訝な顔をする。
「俺はさあ。時計を分解して中に組み込まれた魔法陣に目の色変えるような子供ではなかったんだけど……お話の中の魔法使いにすごく憧れてたわけですよ。就職のこと考えてる時にふっと思い出して……ちょっと関われたらいいな、って軽い気持でこの会社受けた」
「ああ。あなた、たしか法学部だったわよね。大学で魔法学んだわけじゃなかったんだっけ」
「そ。だから総務部に入るはずだった。まさか開発部署に回されるなんて思ってもなかった」
「でもそれで何だかんだで開発の仕事続けてるのはすごいんじゃないの?」
「だって、使えないからクビ、って初日に言われたから。魔力だってぎりぎりだけど、それはどうしようもないし。死ぬ気で勉強しましたよ。今も毎日死ぬ気ですよ」
「ふうん」
「……なんかでも、ふと思うわけですよ。あんな、子どもの頃憧れた魔法使いにはほど遠いし、そんな魔法使いはどこにもいないんだな、っと」
「どんな魔法使い?」
「そりゃ、手からごおっと炎出して一瞬で悪者を倒したり。手を地面にかざしたら大地が一瞬で凍って、敵を全員足止めしたり」
「普通に考えて、まず日常に『悪者』やら『敵』やらはいないでしょ」
「いや、そうなんだけど」
「なに?暴力に飢えてるの?」
「そうでもなく」
「なんなの?」
「なんていうか、その……困難な事態を、こう、一瞬で鮮やかに解決するような、特別な力、みたいなものに……憧れたんだ」
 砂映はカフェラテをすする。塩が入っているはずはないと思うのだが、ミルク部分がほんのりしょっぱいような気がする。
「でも、魔法を構築して、お客さんにとってより便利なもの……事態をよくするものを作る……んだから、同じでしょ。私はうらやましいわよ」
「同じ、ねえ。お客様のご要望に沿って呪文組み合わせて魔法陣書いて……要件を満たすものができていたら、それでいいんだけど……なんだろう。なにか、こう」
「仕事、いやなの?」
「え?」
「そういう、考えても仕方のないことをうだうだ考えるのは、逃避だと思う」
「考えても仕方のないこと」
「うん。ちがう?」
「そっか。そうなんかな……」
 砂映は視線を遠くにやる。
 三十も過ぎて、今の自分は一体何をやっているんだろう。
 子どもの頃は、三十過ぎなんて、もう十分すぎるほどの大人に見えていたのに。
 視線をふと遠くにやった砂映は、そこで「あれ?」と目を止めた。オフィス街の中にある、午後十一時近いコーヒー店。店内にいるのは、会社帰りらしいスーツ姿の男や、OL風の女性たちばかりだ。だがそんな中、中学生くらいの少年が、一人ぽつんと席にいる。
「あんなところに子どもがいる」
 砂映が言うと、涼雨も振り返ってそちらを見た。すぐに砂映の方に向き直ると、
「何言ってるの?」涼雨は呆れたような顔をした。
「え?まさか……俺にだけ見えてる?」
 不安に駆られた砂映をよそに、涼雨はため息をつく。「違うわよ」
「じゃあ……」
「あれ、うちの社員よ」
 砂映はもう一度その少年、いや、少年にしか見えない男を見る。黒いTシャツに、黒いジーパン姿。……確かに、砂映の会社は私服勤務可だ。いつ客先に行くことになるかわからないので、総務部や退職間際のご隠居たちを除くと男性で私服勤務している者などごくわずかだが。……が、そういう問題ではない。だってどう見ても中学生だろう。高校生、といわれても、ちょっと疑うかもしれない。あまりにも童顔すぎる。あんなまっさらな顔の大人の男がいるものか。
「……ええと、誰かの子どもが特例で入社したとか?」
「馬鹿」
 なんとかつじつまをあわせようと考え出した理由は一蹴される。
「ええと、本当に、普通に社員?」
「あなた新年会での新人紹介、覚えてないわけ?」
「……覚えてない」
 自分の部署に入る新人ならともかく、直接関係のない新人の紹介など、真面目に聞いたためしがない。
「普段は見てなくても、あの年は結構話題になったのに」
「なんで?」
「なんでって、今のあなたと同じよ。なんで中学生がいるんだってことで、みんな壇上に大注目したのよ」
「やっぱり中学生なんだ」
「ちがうわよ。本人もわかってるんだわ。自己紹介の時、わざわざ生年月日を言ったもの。出身大学も普通に言ってた。確か今年で入社三年目、二十五のはずよ」
「にじゅうご」
 まじか。まじなのか。
「だけどおかしいな」驚きを隠せない砂映を尻目に、涼雨は首を傾げる。「なんでこんな時間にこんなところに」
「そりゃ、俺たちと同じように残業してたんでないの」
 彼が社会人だということも、さらに同じ会社だということも信じられないが、少なくともそこが事実なら、当然ここにいる理由は明白だろう。
 と、砂映は思ったが、涼雨は首を振ってみせる。
「彼、今、仕事を干されてるはずなのよ」
「へ?」
「というか、入社したての実習期間の後、まともに仕事を与えられていないはずよ」
「……ええと、なんで」
「平たく言うと、嫌われてるから」
 そんな理由で仕事を干されてる?二年以上も?
「そんなことがまかり通ってんの。というか、なんでそんなこと知ってんの」
「事務職の情報共有を甘くみないことね。それに私、技術第一部だし」
 技術第一部というのは、魔法陣設置の際に「エネルギー源」として嵌め込む「石」、すなわち賢者の石を扱う部署だ。人の魔力を使わなくても賢者の石があれば魔法を稼動させ続けることができる。同業他社も似たような働きをするものを販売しているがそれらは厳密にはすべて異なり、製法はどれも企業秘密となっている。自社の魔法陣に組み込むのは大抵どこも自社製の賢者の石だし、石の交換も普通は技術者が出向して行うので、技術第一部の取引はほとんどが社内売である。当然社内の人と広く面識があり、情報が入ってきやすいのだろうが……それにしても。
「……正しいことだとは思わないけど、ちょっと仕方ないかも、っていうのが大方の見解よ」
 怖いなあ。自分の情報もそんな風に出回ったりしていることがあるのだろうか。そう思ったが、何となく恐ろしいので砂映は慌てて考えを自分の中で消去する。
「仕方ないって、なんで。そんなに使えないの?」
「使えない……って言ったら使えないかも」
「部署は?」
「開発第一部」
 開発部署の中でも、大規模案件や新規開発を手がけることが多い、花形部署じゃないか。
「干されてるのにずっとその部署?普通使えないなら異動とか。それでも使えないなら総務部異動で、それでも駄目なら『自主退職』ってのがうちのお決まりコースなんでないの」
「そうだけど。能力はあるから」
 意味がわからない。
「能力ある?のに干されてんの?」
「嫌われてるのよ」
「いや、会社ですよ?」
 確かに人は好き嫌いで行動する。しかし誰もが認めるほど能力があるなら、通常は上の誰かが何とかするだろう。部署に在籍するだけで、人件費は発生する。定年間近とかならまだしも、二年目や三年目の若手をそんな風に遊ばせておくなんて、聞いたことがない。
「だいたい、使えないのに能力はあるって、なんでわかるの」
 砂映が訊ねると、涼雨は人さし指で砂映のテキストを指さした。「それ」
「え?」
「魔法技術者試験。毎回、ほぼ満点だって」
「ええ?」
 それはいやだ。
 砂映は顔をしかめた。魔法技術者試験は、合格不合格ではなく、点数制だ。千点満点だが、千点採る人間なんて、全国でもいるかいないかのレベルのはずだ。大学で魔法を学んだ者の、卒業直後の平均がおよそ四百点前半、仕事として魔法に携わる人間は、とりあえず五百点後半から六百点台を目指して勉強する。砂映は一度も六百点に届いたことがない。五百五十点を下回ると、ちょっと技術者としては低レベルと見なされる。万が一五百点を下回ると……魔法技術者としては、ちょっとやばい。そんな試験だ。
「な、それは、なんというか、知識だけあるというか……魔法マニア?」
「まあ、マニアにはかわりないと思うけど。すごくきれいな魔法陣を書くんだって」
「魔法陣にきれいも汚いもあるかい。発動すればいいっしょ」
「そう?よく知らないけど。魔法文字って汚いと発動しないんでしょ?」
「ええと。発動しないほど汚い魔法文字を書く魔法技術者はいないと思われる」
「言ってた子も詳しいわけじゃないけど。何となく、シンプルで、きれいで、気持のいい感じのする魔法陣なんだって」
「あのさ。決まったとおりに線引いて、線の間に設計どおりの文字を埋める、そんだけですよ?」
「何むきになってんの?」
 長い髪をかき上げながら、涼雨が言った。
 砂映ははっと我に返る。
 むきに?なってる?
「……別にむきになってるわけじゃありませんよ」砂映はぶつぶつと口の中で言う。「まあさ、俺もよく知らない時は、何かこう、魔法陣って模様みたいな感じするから、きれいとかごちゃごちゃして汚いとか、思ったことありましたよ、そういえば」
「きれいな方が、やっぱりいいんじゃないの。どんなものでも」
「素人さん考えですよ。関係ない」
「何よ急にプロぶって」
 そうこうしている間に、件の「少年」は先ほどの席から姿を消していた。満点なのに仕事干されている、それはつまり、余程扱いにくい性格とか、そういうことなのか。
「そういえば今度、新しい部署ができるって噂が……」
 話を切り替えた涼雨に視線を戻し、砂映はおう、と軽くのけぞった。涼雨の後ろを、黒い服の「少年」が、今まさに通り過ぎようとしていた。近くで見ると、ますます二十歳を過ぎた大人には見えない。あどけないつるんとした顔。やけに大きな目をしている。が、そんな幼い造形にも関わらず、なぜか妙に冷たい印象がある。黒い服のせいなのか。変に作り物めいた顔のせいなのか。
「!」
 凝視していたので当然といえば当然だが、目が合った。真っ黒い深淵のような目が、まっすぐにこちらを向いた。砂映は内心気まずく思いながらも、同じ会社なら、と思い笑みを浮かべて会釈した。しかし相手はにこりともせず、立ち止まって砂映の手元に視線を向けている。答え合わせで間違った部分に書き込みをし、真っ赤になった魔法技術者試験テキスト。砂映は無意味な愛想笑いを「少年」に向けた。
「……凄まじいな」
 眉をひそめるようにして、少年は呟いた。砂映の笑いは思わずひきつった。そのまま少年はふっと視線をはずすと、出口に向かってすたすたと歩いて行った。
「今のって、褒めたわけじゃないわよね……?」
 涼雨が言った。
「わかってるから、言わんでよろしい」
 砂映はがっくり頭を下げた。
 
 
 その日は朝からさんざんだった。魔法陣の、砂映の設計した部分にミスがあり、その部分の修正が他の人の担当部分にまで影響をおよぼすものであったため、砂映のせいで全体の工程が大幅に遅れることになった。砂映はひたすら謝り倒した。そうして、数日前に受けた魔法技術者試験の結果も返ってきた。
「げ」
 砂映は目を疑った。……四百二十二点?
 確かに今回、あまり勉強する時間がとれなかった。前日は早く寝ようと思ったが、妙に目が冴えて眠れなかった。与えられた条件で魔法陣を構築する実践的な問題が大半だから、ちょっとしたうっかりが容赦なくマイナス点になる。しかし。
 五百点なかったら、魔法技術者としてはちょっとやばい。
 四百点台の前半ともなると。 
「どうでした?」
 後輩が覗き込むように訊いて来た。砂映は慌てて通知の紙を握りつぶす。「ああ、いやあ、はは」
「やっぱり今回も駄目でした。五百五十点の壁はきついっす」
「そっか」
「砂映さんは六百ありました?」
「いや……」
「仕事で経験積んだつもりになってても、点数は伸びないものなんですね」
「はは。仕事で得る知識と試験は別物だからなあ」
「でも、査定にかなり影響するんですよね」
「え?うん、まあ、うちの会社の制度はね。うん」
 いやな汗をかきながら話していると、部長に呼ばれた。
「ちょっといいか」
 その場での話ではなく、会議室に連れて行かれた。

 扉を閉めると、まあ座れ、と促される。きっちりネクタイに七三分けの部長は、当然部内全員の試験結果を把握している。
「ひどい点数だったね」穏やかに、部長は言った。
「申し訳ありません」
 とりあえず謝りつつ、考える。点数が返ってきたのは今日だ。いくらなんでも今日の今日で、開発部署をやめてもらうとは言わないだろう。いくらなんでもまさか。
「実はね、君に異動の話がある」
「え」
 そのまさかなのか?
 さすがに砂映は全身の血が凍りつくのを感じた。
「あ、いや、点数が悪かったのは関係ないよ」
 部長は察してそう言った。いや、でもじゃあ今回の試験以前に、すでに能力に問題があると見なされていたと?
「そ、総務部ですか?」
 ついに開発部署ではなくなるのか。
 いや、元々総務部に入るはずだったのだ。今さらと言う気もするが、総務部で役に立つ人材になれれば、それはそれでいい、はずだ。いい……本当に?
「確かに総務部だ。けど、君の考えているのとはちょっとちがうよ」
 諭すように部長は言った。
「新しい部署が作られる。部署というか、チームだね。とりあえずは総務部所属という形になるが、今後どうなるかはわからない。実験的なチームだから」
「実験的」
「まだ詳細は言えない。というか、決まっていない。とにかく来週あたりに辞令が出る。とりあえず今は、それだけ言っておく」

「ああ、それってカスタマーサービス室のことじゃない?」
 人事に関することは基本的に辞令が出るまで口外禁止だ。砂映は自分が異動ということは伏せて、総務部に新しいチームができるらしいけど、と話を振ってみた。いつものコーヒー店。向かいに座った涼雨はなぜだか知っていた。なんだ、涼雨はどれだけの情報を常日頃握っているのか。それとも事務職の情報網とやらで、すでに周知のことなのか。実はみんな知っているのか。社内の情報に、自分が疎すぎるだけなのか。
「か、かすたま?」
「おっさん臭い言い方しないでよ」
「いや、なんか小じゃれてて恥ずかしいっつうか。きれいな声のオペレーターのお姉さんとか出てきそうな名前じゃないですか」
「出てくるのかもしれないじゃない」
 出てくるのかもしれない。はじめだけ。裏に控えているのは、崖っぷち総合職のおっさんですが。
「あ……どんな経緯でそんな部署が作られることになったのか、って知ってる?」
「ああ、なんかね、社長が推し進めたらしいよ。各開発部署にまかせていると、やっぱりクレームフォローはおろそかになりがちだ、って。売った後にもちゃんと責任を持ってフォローする体制を整える必要がある、とか言って。まあ、もともとそういう部署が必要なんじゃ、っていう声はところどころから上がってたらしいけど」
 社長がそんな風に。
 ということは少なくとも、使えない技術者の掃き溜め……もとい、受け皿として作った部署ではない、と思っていいのだろうか。
「でも、私にはよくわからないんだけど、そもそも保守メンテナンス契約範囲だったら納めた開発部署が対応するはずなのに、どうやって線引きするのか疑問だ、って意見も聞いた」
「あ……それはたしかに」
「なんか微妙な感じらしくて。現実的にはどの開発部署も戦力を手放したくはないだろうし、なんか結局いらない人の集まりになるんじゃないか、って聞いた」
 ……社長の理想はともかく、やはり結局はそうなのか?
 そうして「あっても意味ないな」と部署を閉鎖するに伴って、メンバーは全員「自主退職」願う、というパターンか?
「……なんでそんな難しい顔してるの?」
「あ、いや別に」
「そういえば試験どうだった?」
「のーこめんと」
「……大丈夫?」
「のーこめんと。……その、誰がそのチームに入る予定かって、知ってる?」
「さすがにそこまでは。あ、でも」
 涼雨はさすがにためらう様子を見せて、砂映に顔を近づけるようにして声を落として言った。
「ここだけの話ね。社長の甥っ子がそこに入る、っていう噂は聞いた」
……ああ。
 社内に社長の甥がいる、というのは、伏せられているが、もう公然の秘密のようになっている。ただし、誰が、ということは砂映は知らない。
「知ってんの?誰がその、社長の甥っ子なのか」
「ううん、それは知らない」
 さすがの涼雨も、そこまではつかんでいないらしい。
「でも、ということは部署閉鎖に伴って自主退職パターンはないってことか?」
 思わず口に出して言ってしまい、涼雨がきょとんとした顔で砂映を見た。
「あ、いや。新しい部署作って、その閉鎖の時にメンバーの大半も退職する、ってパターン、今まであったから、今回もそれかと」
「ああ……うん、やっぱりそうなるんじゃないの」
 砂映の気も知らないで、涼雨はあっさり言う。
「いや、えええ?社長の甥っ子いるなら、そんなことしないでしょ」
「そう?これは私が考えた説じゃないけど、社長の甥っ子が誰なのかいまだにわからないのって、なんでだと思う?」
「へ?それは、特別扱いされないように、っていう社長と本人の意向でしょ」
「入社当初はそうだったと思うわよ。でも、仕事をする上で、たとえばお客さんの信頼を得るとか、関係会社とやりとりする上で、社長の甥ってことは、すごく有利になるはずよ。だから彼が入社してたぶん三年か四年が経ってるはずだけど、ちゃんと仕事できているなら、そろそろ明かしたって、マイナスにはならないと思う」
「それはつまり……」
「ちゃんと仕事できてないから、明かせないんじゃないかって」
 たしかにその線は、ありうる。
「今の上司はいやでしょうね。社長の甥っ子を退職に追い込むようなこと、したくないんだと思う。総務部への異動さえさせづらい。でも、社長が提案した新規部署への異動なら、全然問題ないじゃない?そこの上司は自分じゃないし」
「『そこの上司』は誰になるか決まってんの?」
「さあ。たぶんみんないやがって、なすり付け合ってると思うけど」
 そうか。誰も座りたがらない椅子なわけか。
 その上司の下で、自分はこれから働くことになるわけか。
「ふふふ」
「どうしたの?」
「いや、なんでも」
 砂映はカフェラテをすする。
 なんだかやはり、しょっぱく感じた。

2.君がいないと

「つうわけなんで」
 忙しい毎日を過ごしているうちに、あっさりと辞令は公開された。辞令が貼り出されたからといって、今の部署とすぐさまおさらばするわけではない。公表されてはじめて、異動に向けての行動がおおっぴらにできる。今の部署で引継ぎに与えられた期間は、一週間。
「まじですか。増員なしですか。何考えてるんですか。今このチームの残業がどんだけ増えてるか、まるでわかってないんですか」
 仕事を引き継がれることになった後輩は動転してまくしたてる。自分がこの部署でなくてはならない存在だった、という気はないが、一応一人分の仕事はそれなりにこなしていたはずだ。決して暇ではない今の状況で、一人減るのは相当きついに違いない。
「悪いねえ……」
 自分だって好きで異動するわけではないのだが。
 とりあえず同情の念はあるので謝ってみる。
「引継ぎ書、この分は作ったから。これに沿って説明してくから」
 保守契約案件が六件。クレームや問い合わせ対応中のものもある。見積案件は、受注確度が低いものも合わせると数十件。プレゼン要請のあった新規引き合いが二件。進行中の受注済案件で砂映が設計を受け持った術式は七件。ただし期限が先の、まだほとんど手をつけていない分については、それぞれのプロジェクトの責任者が受け持つことになった。つまり後輩だけでなく、先輩たちにも負担がかかる。
 電話やら何やらで謝ることの多い砂映だが、今日ほど謝った日はなかった。何を言っても二言目には、「すいません」だの「悪いね」だの、「迷惑かけます」だの言っていた。心にもないわけではないが、みんないらいらしてる中、自分のせいではないのに、と言いたい気持も募ってくる。
 いや、それとも、やはり自分のせいなのか?
 試験結果か、仕事のやり方か、何が直接の原因か知らないが、異動になるようなことをやらかした自分が悪いということか?
「砂映くん」
 区切りのいい状態で渡すために昼休み返上で魔法陣の設計書と格闘していると、頭の上から声がした。顔を上げると、見慣れない男が立っている。エセ紳士、ということばがぴったりくる風貌だ。ひょろりとした体格で、仕立てのよいスーツを着ている。鼻の下にちょろりと二本ヒゲを生やし、その下の口は猫みたいだ。
「え、はい」
 まったく見覚えがないが、こんな風に自分の名前を呼ぶということは、おそらく社内の人間なのだろう。目上の人間と話す礼儀として、砂映は慌てて立ち上がる。しかし一体誰なのか。こちらが覚えていないだけで、話したことのある人間なのだろうか。
薮芽(やぶめ)です」
 男は言った。
 名乗るということは、会ったことのある人間ではないのだろう。
 男は自分の名前だけ言うと、猫みたいな口元をにんとさせたまま黙っている。それはつまりあれなのか。顔は知らなくてもよいが、名前は知っていないといけないはずの人だと、そういうことか。
「ええと。あの」
 猫背の砂映と相手の顔は、ほぼ同じ高さにある。ぴんと姿勢のいい紳士は、小さく眉をひそめた。やばいだろうか。やばいかもしれない。しかし、知らないものは仕方ない。
「その……」
 どうにか口を開こうとすると、
「君、異動通知見てないのかい」
 男は言った。
「あ、今日貼り出されたのは知ってます。けど」
 自分の名前をわざわざ確認に行くほど暇ではない。他のメンバーは気になるが、同じ社内でも接点のない人間についてはほとんど知らないので、たぶん見たって何もわからない。それよりは、涼雨か誰かに説明つきで教えてもらえばいい。そう思っていた。
「あ、じゃあ」
 この口ぶりはつまり、新部署の人ということか。
 年齢から言って、部長クラス。つまり、「誰も座りたがらない椅子」を押し付けられたのがこの人、というわけか。
「カスタマーサービス部の部長の薮芽です」
「カスタマーサービス、部?」
 総務部内のチームと聞いていたのに、部?
「ぶ、というのがおかしいかい」
「いえその、総務部内のチームと聞いてたので」
「ぶ、だよ。誰が何と言おうと」
 誰かは何か言っているのか?
「で、砂映くん。他の部員は現場に行ってるんだ。君にもすぐ行ってもらわないと困る」
 ひげを撫でつけながら、薮芽部長は猫みたいに笑ったままの口元で言った。
 配属は、一週間後の十月一日。
 砂映の異動前現在の部長はそう言った。通常そういった配属日は、部長同士の相談の上決められる。
「あの、一週間後だと私は聞いてるんですが……」
 おずおずと訊ねる砂映に、
「そんなことより、今すぐ行ってもらわないと困るんだよ」
 穏やかな口調のままで部長はなおも言う。
 そんなことより。……ということは、配属日が一週間後だとわかったうえで今行けと、そう言っているのか?
「あ……」
 立ったまま、砂映はちらりと自分の島を見る。
 パニック状態で引継ぎ書をめくっている後輩。乱暴に魔法陣にペンを走らせている先輩。いつもより横柄に出される彼らからの指示にちょっと気を悪くしている事務職。そうして自分の机の上に広げられている、書きかけの呪文。
「あの、ちょっとそれはさすがに……」
 砂映がそう言うと、薮芽部長はむにゅ、と拗ねた子供のように顔をしかめた。
「すみません。その、引継ぎでこちらも忙しいんで、だから」
 何とか納得してもらいたくてことばを継ぐ砂映を、薮芽は拗ねた子供の顔のまま無言で見ている。
「あ、その、まだ正式に発足してはいないはずですし。今回は、今までどおり開発を担当した部署で対応いただくわけには」
「……でももう行っちゃったんだ」
「あ、では!その方たちだけで今回は対応……」
「駄目なんだ。君がいないと駄目なんだ」
「ええっ」
 そこまで言ってもらえるのは大変にありがたいことではある。
 けれどこの状況でそんな駄々をこねるように言われても。
「う、その」
 向かいの烙吾が一瞬顔を上げ、刺さるような視線をこちらに向けた。後輩も、吠えつきそうな顔でたびたび顔を上げてこちらを見ている。事務職が、砂映への電話を「ただいま打ち合わせをしていますので」とつながずにいてくれている。……もしもここで去ったら、今自分が手をつけている術式の設計は、他の誰かがやらなければいけなくなる。
「その、でも……っ」
 その時だった。
 ふわり、といい香りがして、とんとん、と肩を叩かれた。
 見ると、ウェーブの髪の熱海さんがすぐ傍に立っている。
「砂映さん」
 砂映は何度もまばたきして、どこか夢のように立っている熱海さんを見た。
 彼女はやわらかく微笑むと、A4の紙を砂映に差し出して、
「これ、よかったら」
 訳がわからないまま手を出して紙を受け取った砂映を置いて、髪を揺らして向かい側の自分の席に戻っていった。
 見ると、部内回覧用の通知書のコピーだった。


  異動通知 十月一日付
 薮芽・S (新)総務部(カスタマーサービス室)室長 (旧)北部支店長

 砂映・K (新)総務部(カスタマーサービス室) (旧)開発第三部
 秋良・M (新)総務部(カスタマーサービス室) (旧)開発第二部
 雷夜・F (新)総務部(カスタマーサービス室) (旧)開発第一部


 砂映は思わず熱海さんを見た。
 彼女は自分の席に着き、机の書類に目を落としている。
 どういうつもりなのか。……新しい部署でがんばって、という、そういう応援の気持で、これを渡してくれたのか?
「……」
 知らない人の名前の羅列。これだけ見ても、何もわからない。
 でも、これから一緒に働くことになる。
 部長を除けば、たった三人のメンバー。
 同じ境遇で、これからやっていくことになるこの「秋良(あきら)」と「雷夜(らいや)」の二人は、すでに「現場」に行っていて、砂映が来るのを待っている。
「……っ」
 がさがさと書類を引っ掻き回す後輩。ぶつぶつと呪文を呟き、荒々しく手をかざして設計書を確認している先輩。電話応対の声に苛立ちが混ざり始めた事務職。一人女神様のように、静かに仕事している熱海さん。
 薮芽部長は脇に立ったまま、ただじいっと砂映を凝視している。
 砂映は下を向いて自分の足元をにらんだ。
「……あの、どこに行ったらいいんでしょうか?」
「ん?」
「その、現場って、どこですか」
 薮芽はぴんとしたひげを引き延ばすようにして微笑んだ。
「一階のフロアで待っていなさい。書類を持って行かせるから」
 烙吾を始めとする先輩たちも、後輩たちも顔を上げて目を剥いている。信じられない、というような事務職の顔も見える。砂映は彼らに深々と頭を下げた。
「……今日は徹夜しますから、許してください」
 そういうと、ばたばたと机を片付け、必要なものを鞄に突っ込んで、砂映はオフィスを飛び出した。

 一階フロアで、砂映は一人ぽつんと立っていた。他の社員たちがはっきりと目的を持った動きで行きかう。彼らを眺めながら、砂映は記憶を反芻する。
 書類を持って行かせるから。
 そう薮芽さんは言った。言ったはずだ。
 嵐のような忙しさから抜け出してこんなところに今所在なく立っている自分は、何かまちがっているのではないだろうか。一体何をまちがえた。聞き間違い?勘違い?またはそもそも、選択自体が大間違い?
 持って行かせる、ということは、部長本人が持ってくるということではないだろう。
 でも、「他の部員は現場に行った」と言っていたのだ。異動通知に事務職の名前はなかった。一体誰を来させるというんだ。手近な他の部署の子に頼んだ?そうしてその子が、そんな余計な雑用は後回しにしているとか?
 時間にしてみれば十分程度。しかし焦る気持の中でただ待つだけの十分間というのは、ひどく長い。
 階段をのぼって、オフィスに戻るべきだろうか。
 でも、あんな風に飛び出しておいて自分のデスクの辺りには行きにくい。そもそも薮芽部長の座席はどこなのだろう。「カスタマーサービス室」の島は、すでにあるのだろうか。あるとしたら、どこにあるのか。
 猫背をさらに丸めるようにして考え込んでいると、そんな自分をじっと見ている存在に気がついた。こどものような背丈。見下ろす形で砂映はそちらに視線を向けた。こどもではない。皺くちゃ顔の、老人だ。
「ほおお」
 口をすぼめて息を吸い込むようにして、目の前に立った老人は声を発した。皺くちゃの顔に埋もれそうな小さな目で、じっと砂映を見つめている。どうしてこんな老人が会社のビル内にいるのか、砂映にはわからない。食堂目当てで散歩ついでに入ってきたのか。いやでも、こんないかにも部外者な老人が入ってきたら、入り口で警備員が止めるはずだ。
 考えながらも、目が合ったので砂映はにんと笑みを浮かべて見せた。老人は笑い返しもせず、さらに数歩近づいて、ほぼ真下から砂映の顔を見上げた。
「あの……?」
 遠慮がちに訊ねると、
「しょぼい魔力じゃなあっ」
 老人は、突如唾を飛ばしそうな勢いで言った。
「は?」
「しょぼい魔力じゃ、と言った」
「いえ、その」
「しょぼい魔力じゃ」
「いえそれはいいんですけど、その、なんで」
「よかあない」
「はい。よくはありませんが」
 魔力というのは通常は計測用に組んだ魔法陣で測るものだ。向きあった相手の魔力の程度がわかるという人がたまにいるが、砂映は眉唾ものだと思っている。砂映の魔力がプロとしては「しょぼい」のは、まあ事実だが。しかし見知らぬ相手に突如そんなことを言われる筋合いはないような気もする。
「ええと、すみません。何か御用なのでしょうか」
「御用かじゃと?失礼なやっちゃな」
「すみません」
「まあいい。おまえさんの魔力には不安しかないが、雷夜がいるから問題ないだろ」
 そう言うと、老人は後ろ手に持っていたらしい、A4書類が入るサイズのぶ厚い茶封筒を差し出した。
「へ?」
 とりあえず手を出して受け取る。封はされていない。
 中の書類を取り出して見ると、完了した案件としてキャビネットに保管されているような、いわゆる一件書類の一部をコピーしたものだった。客先要件一覧、仕様書、概要設計書、詳細設計書、概要図、完成魔法陣の写し、検査成績書。
「えっと、これってもしかして、俺が今から行く現場の……?」
「それ以外何だっちゅうんじゃ」
「あ、あの、あなたは」
「わしのこと知らんのか」
 やばい。
 もしかして、知っていないといけない人なのだろうか。
「はい。すみません」
「まあ大抵の奴はそうだがな」
「へ?」
「わしは普段資料室にいる。だがめったに姿は見せん。気に入った奴が来た時以外は」
 砂映は改めてまじまじと老人を見た。
 それって、小人とか妖精とか、そういった童話の中の人外のものみたいじゃないか。森の中とかにいて、気に入った相手が来たら現れる、みたいな。
「ええと、その」
 そうやって見ると、本当に、白いひげを生やした小人にそっくりだと思えてくる。
「ありがとうございます」
 とりあえず砂映はそう言って深々とお辞儀をした。
 なんにせよ、丁重に接した方がよさそうな気がする。
 砂映が頭を下げると、老人はまんざらでもない顔をした。
「礼には及ばんよ」
 照れたように目を逸らすと、くるりと踵を返して去っていこうとする。
「あ、あの」
 その老人を、砂映は呼び止めた。
「なんじゃ」
「あの、ええと、僕はどうしたらいいんでしょうか」
「さっさと行け馬鹿者」
「……どこに行ったらいいんでしょうか」
「……」
 老人は振り向くと、皺くちゃの顔で砂映をにらみつけた。わかっていないといけないのだろうか。さっきの茶封筒の中に、そういった指示内容の紙も入っていたのだろうか。
「あ、えーと」
 砂映は慌てて再び茶封筒の中身を取り出した。と、老人はその砂映の様子をきびしい目つきで見上げながら自分のズボンのポケットに手を突っ込み、ごそごそして、何かつまみだした。
「忘れとった。これ」
 そらとぼけた声で言いながらしわくちゃの手が差し出したのは、小さく折りたたまれたA4の紙だった。かがむように近づいてそれを受け取り開いてみると、手書きのメモをコピーしたものらしい。昨年納入 PJNO.65124―884552 異常音・異常光が発生。たまに火花のようなもの。棚卸作業時、コンベヤを近くに置いたのが原因?すぐ来てほしい。有償対応。現場で要概算見積、作業前に。ナルタケ工業 西工場 熱処理一課 朝比(あさひ)様  TEL ×××―×××―××××
「……」
 紙を見ている砂映を、老人はどこか子供のような顔でじっと見上げている。
「……ありがとうございます」
 とりあえず、砂映は再び礼を言った。老人は白い眉をぴくりと持ち上げ、まじまじと砂映を見た。
「……しょぼい魔力じゃ」
 老人は、再び言った。
「すみません」
 砂映が言うと、老人は再び砂映に背中を向け、小さな身体で歩き出した。
「まあ、おまえさんにはおまえさんの何かがあるから、選ばれたんじゃろ」
 一瞬立ち止まってそう言うと、老人は、行きかう他の社員たちに紛れ、見えなくなった。

 ――選ばれた。
 この異動は、そんな風に思ってもいいものなのだろうか?
 タクシーに乗って流れる外の景色をぼんやり眺めつつ、砂映は考えた。そうしてはっと我に返る。こんな風に悠長にしている場合ではない。今から行く事案の内容を、把握しなくては。さっきのメモを見る限り、クレームではなく有償修理だ。費用が発生するとなると、客の方も作業のやり方には厳しい目を向けてくる。 
 砂映は茶封筒の中身を取り出した。内容をてっとり早く理解するには魔法陣の概要図を見るのが一番早い。ダブルクリップで留められた一件書類はその概要図が表紙になっていて、上端に管理ナンバーと完納日、下端に部署名が印字されている。開発第一部の案件だ。一件書類のぶ厚さが、内容の規模を表している。さぞかし利益もよかったことだろう。
(六芒星型魔法陣か)
 なぜ先に行った二人だけでは駄目で砂映が必要なのか、それでわかった。六芒星型魔法陣は、簡単に言うと六つの異なる術式を統合したものである。六つの術は、すべてが稼動している状態で安定が保たれるよう作られている。修正を行なうためにその一つに対して力を加えるとバランスが崩れ、他の術が暴走を起こしてしまう。それを起こさないためには、一つの術の呪文に修正を加えながら、その値の変化に合わせて他の魔法陣の状態を調整してやる必要がある。シンプルな、二つ程度の術式を組み合わせた統合魔法陣なら、修正作業ともう一つの調整、一度に一人でできないこともない。けれど六つを組み合わせた六芒星型魔法陣、しかも仕様内容を見る限り一つ一つの術式自体がいくつもの術の複合であるおそろしく複雑な高エネルギー魔法陣、下手すると三人でも事故が起こる可能性がある。二人だけでは絶対に無理だ。
(多少面倒でも、いったんバラした方がいいかも)
 砂映だって技術者として一人分として数えていい程度の技能はあるが、仮に砂映とまったく同じ能力の三人での作業だとしたら、ほんのちょっと不安がある。バランス調整を二つ分受け持つのはまあ問題ないにしても、修正作業者は、変更を加えつつ他方の値の調整をするという、まったく別の術の行使を同時にやらなければいけない。魔力の配分、コントロール能力もいるし、よほどの経験を積まないとかなり難しい作業だ。慎重にことを進めると、下手をすれば解体再形成より時間がかかるかもしれない。異動通知の並びから見て、他の二人は砂映よりも年下である。能力はわからないが、リスクを冒すより、再形成の方が確実だろう。幸い納入時の詳細設計書は揃っている。頑張れば三人×三日ほどの作業で完了させることができるだろう。
(とりあえず、詳細設計を読み込んでおこう)
 頭に内容が入っていれば、その分現物の状態を見た時に異常点も発見しやすい。一から再形成するにしても、どこがどうなっていたのかは報告書に書かなくてはならないのだし。
 砂映は足元に置いた鞄から、ハンディ版魔法辞典を取り出す。詳細設計書に書かれた呪文を読みながら、わからない単語をパラパラと調べる。
 ……もし三日作業になるとしたら、毎日会社に十八時頃戻るとして、それから引継ぎ関連の仕事をして、それで……
 徹夜でコンディションが悪くても、そんなのは言い訳にならない。技師一人分としての仕事はこなさないと。いや、他の二人がどんななのかはわからないけれど(老人のことばを信じるなら、少なくとも「雷夜」というのは強い魔力を持っているらしいけど)、場合によっては一人分以上こなさないといけないかもしれない。
 窓の外に目をやると、ため息が漏れた。
 このままどこか遠くに連れて行ってください。いつまでも、こうやってぼんやり、ただ車に揺られていたいんです。
 タクシー運転手につい言ってみたくなっていたところで、無情にも目的地に到着し、車は停止した。
「着きましたよ」
「どうも……」
「お客さん、眠そうですね」
「……へへ」
 お金を出して領収証を受け取ると、砂映は身体を丸めるように車から降りた。

「すんま、せーんっ」
 門の脇にある小さな小屋のような構内入門受付所を覗くと、中には誰もいなかった。門は閉まっているので車両は入構できないが、人だけなら受付所を通り抜ければそのまま構内に入ってしまえる。しかし入ったところでどこに行ったらいいのかはわからない。受付の人がいないというのは、困る。
「すんま、せーんっ」
 とりあえず、大きな声を出してみる。どこかから、返事をしながら誰か走ってくるのを期待する。しかしあるのは沈黙だけだ。
「……」
 砂映はその場にしゃがみこんだ。薄汚れたタイルの表面を見つめていると、構内の方から、ざかざかと小屋に近づいてくる足音が聞こえた。
「おらあっ」
 野太い声とともに、下を向いていた砂映にまともに人がぶち当たり、そのまま派手に床に転がった。どうやら人間が、放り込まれてきたらしい。砂映は衝撃でつんのめり、カエルのようにタイルに手をついた。そこにもう一人放り込まれてきた人間は、たたらを踏んで砂映の背中にがっと手を置き踏んばった。しかしそれだけでは勢いを殺せなかったらしい。背中を押さえつけられているのでとりあえず顔だけ上げた砂映の、今度はその後ろ頭に叩く勢いで体重を乗せたので、砂映はそのまま顔からずべしゃと地面に潰れこんだ。たたらを踏んでいた人間は、砂映の頭を地面に押し付ける形になりながらぱっと体勢を直し片膝をついている。黒いズボンに包まれた、少年めいた細身の脚。
「異常がある」
 その脚の主が、声を発した。
 どこかで聞いた声だ、と砂映は思う。
「あのな、こどもの遊び場じゃないんだよ。ここは立入禁止だ」
「異常がある。直さないと困るのはそっちだ」
「訳のわからんことを言うな」
「事故が起きてからでは遅い」
 その時、はじめに放り込まれた方の若い男が、うめき声を発しながら身体を起こした。
「ぼ、僕たちは!呼ばれたんですよっ!」
 裏返った声で彼はそう叫んだ。野太い声がうるさそうに「ああん?」とそれに答え、若者は座り込んだままうろたえるように後ずさりする。
「なんなんだ。ユーレイとか、そういう話か?」
「ちが、依頼でっ」
「誰に依頼されたんだ」
「え、その、それは……」
 頭上で口ごもる声。
「あ……」砂映はうめいた。頬をタイルにこすりつけ、わずかに顔を傾けて呟く。「あさひさま……」
 自分の手が人の頭を床に押し付けていたことにそこでようやく気がついたらしく、黒いズボンの少年の手が、ふっと砂映の頭を離れた。
「なんだいつの間に一人増えたんだ」
 野太い声の男が言った。
 砂映はよろよろと立ち上がった。ゆらりと懐に手を入れる。
「すんません。松岡デラックス魔法カンパニーの砂映・Kといいます」
 名刺を差し出すと、野太い声の男――ガタイもいい――は胡散臭そうな目で砂映を見た。
「はい?こいつらの、お仲間さんですかい?」
「お仲間さんです。同じ会社の技術者です。ええと、熱処理一課の朝比さんに呼ばれて来ました」
 男は砂映を、上から下までじろじろ見た。砂映がめずらしく姿勢を正すと、その男より背が高かった。
「ちょっと確認しますのでお待ちください」
 そう言うと、男は砂映の名刺を持って受付の奥に消えた。

 砂映が再びしゃがみこんで唸るように一息吐いていると、先ほど声を裏返していた若者がぼそぼそ話す声が聞こえてきた。
「そうだ、なんで思い出せなかったんだろう、朝比さんだ、朝比さん……」
 砂映を床に這いつくばらせた黒いズボンの――ついでに言うとTシャツもジャケットも黒い――「少年」の方は、色の白い無表情の顔のまま相手のことばに頷いている。声を裏返らせていた若者の方も、襟付きのボタンシャツと多少フォーマルな雰囲気の高級そうなジャケットを着ているとはいえ、ビジネスマンの装いではない。誰が見たってこのコンビ、「ちょっとお坊ちゃん風の大学生とその弟の中学生」だと思うだろう。
 砂映はげんなりした。黒ずくめの「少年」。前にコーヒーショップで会った、涼雨いわく「魔法技術者試験ほぼ満点」の、「仕事を干されている」三年目だ。あの日砂映の間違いだらけの魔法陣を見て「凄まじいな」と呟いた声は、悪夢のように砂映の耳に残っている。そうしてもう一人も、「少年」同様、技術や知識があるのかは知らないが、今の様子を見る限り、社会人としての常識はあまり期待できそうもない。
「……」
 俺は大人だ。一緒に仕事するのだし、コミュニケーション、大事。
 ごほん、と砂映は咳払いをしてみた。
 黒ずくめ少年に変化はなかったが、声を裏返らせていた若者の方は目を合わせないもののこちらをかなり意識していたのだろう、びくりと大きく肩を揺らせて反応する様子を見せた。
「あのさお二人さん。とりあえず、自己紹介でもせんですかい」
 ことさら間延びした口調で言ってみると、声裏返りの方は一瞬だけ砂映の方を見た。すぐに視線をそらすと、これは独り言ですよ、とでも言わんばかりに下を向いて「名刺が、まだないんですよ」とぼそぼそ言った。
「ああ、うん。まだ新しい部署のはもらってないな」
「え、さっき出してたのは?」
「今……ああいや、前の部署の」
「それ、僕はないんですよ。あと、その、この会社の担当者の名前を書いた紙、なくしてしまったんです。その、だからどうしようもなくて。僕が悪いとわかってるんですけど。その」
「いや、別に責めてるわけでなく」
 若者は上目づかいで砂映を見た。ずいぶんと気が小さいんだなあ、と砂映は思った。まあこの様子なら、慣れたらうまくやれるかもしれない。
 それより問題は。
 声を裏返らせる若者とは対照的に、大きな黒い目でこちらがいたたまれなくなるほどじっと見据えてくる、「少年」。
「ええとさ、俺は砂映っていうんだけど」視線を返しながらそう言ってみると、
「知っている」
「少年」は揺らがない漆黒の瞳をじっと砂映に向けたまま、無表情に口だけを動かしてそう言った。
「うん。あのさ、『人に名前を訊く時は自分の名前を先に名乗る』っていうことば、聞いたことありますか」
「ある」
「そう。それはよかった。それでさ、俺が名乗っているということは、どういうことだと思いますか」
「少年」は、考える表情をした。
 やがて口を開く。
「訊かれる前に名乗っている」
「……」
 砂映は酸っぱいものを食べたような顔をした。
「もういい。雷夜くんと秋良くん、だよね。どっちが雷夜くん?」
 目を合わせない若者とじっと見つめる少年、二人に目をやりながら、砂映は訊ねた。
 黒ずくめ少年が、口を開いた。「砂映」
 呼び捨てかい、と砂映は思ったが、「ん」と目線でそれに答えた。
「受付。戻ってきた」
 しゃがんだまま振り返ると、がたいのいいさっきの男が背後に立っている。ああどうも、と砂映は立ち上がった。
「あの、朝比さんに確認できましたんで」
「それはよかったです」
「けど、その」
「はい?」
「その、この二人は本当に、同じ会社の技術者なんですか?」
「ええ」
「その、おたくの会社は、未成年者を雇っているんですか?アルバイトにしたって、その……若すぎやしませんか」
 男がそう言うと、少年はズボンの後ろからすっとパスケースを取り出し、中から二枚のカードを取り出すと、がたいのいい男に差し出した。社員証と、国の発行する身分証明書だった。雷夜・F。そうかこっちが雷夜か。横から砂映は確認する。
「そっか社員証……!」
 また声を裏返らせて、もう一人の若者――秋良・Mが叫んだ。
受付の男が視線を向けると、慌てたように目をそらす。男は雷夜に二枚のカードを返すと、秋良に向かってごつい手を差し出した。
「そちらさんも見せてもらえますか。社員証」
「へぇう、え、はい」
 秋良はわたわたと上着の内ポケットを探った。そちらの社員証もまじまじと見ると、受付の男はむくれるような顔をした。くるりと背を向けると、「そんじゃついてきてください」と歩き出す。


「足元気を付けて」
 案内は、途中で受付の男から作業服の若い男に替わった。時折注意を促されながら、工場内の通路を歩く。両脇に並ぶチューブや配線だらけの金属製の機械、そうしてその下のコンクリートの地面や壁に配置された数々の魔法陣。たんなる模様のようにひっそりと刻まれたそれらの線が、機械の振動に合わせてときおりほんのり光を放つ。
「それにしても広い工場ですねえ」
「もうそろそろ着きますよ」
 砂映も気づいた。通常の機械の音とは異なる、かすかな高音と、低く不安定にうねる虫の羽音のような低音。開け放して固定されている金属の扉の向こうから、それらの音は聞こえてきた。
 そうして、その扉を抜けた瞬間だった。それまで無表情で歩いていた雷夜が、突然ひどく緊張した顔つきになった。白い顔に朱が差し、目に妙に強い光が宿ったかと思うと、少年は突然走り出した。
「ここの……えっ」
 唐突な行動に、案内してきた男もびっくりしたようだった。雷夜は居並ぶ巨大な機械の一つに突進すると、突然激しい勢いで、コンクリートと見た目はほぼ大差ない、魔法陣の刻まれた床の上に身を投げ出した。六芒星の中心部に設置された機械の下にうつぶせにいったんもぐりこみ、這いつくばって出てくると、腹を地面につけたまま、ぼおっと脈打つように光を放つ魔法陣の表面を手の平でまさぐっている。
「ら、雷夜、くん……っ?」
 度肝を抜かれつつ、砂映は呼びかけてみた。が、案の定ではあったが、返事も反応もない。真剣な表情で雷夜はごろんと向きを変え、今度は片耳を床につけるようにした。確かに異常音は、その魔法陣が発している。まあ光の様子を見る限り、それなりに稼動状態を保っているようなのだが。
「どうもお待たせして。熱処理一課の朝比です。……えっ」
 奥の事務所から出てきた担当の朝比さんも、遠くで一人床に寝そべっている黒い少年の姿に唖然とした。彼はすがるような顔で砂映に目を戻す。
「……あの、……はい。彼もうちの技師です。その、彼は仕事熱心でしてね。あまり時間もありませんので、先に魔法陣の状態を確認しております」
 何とか笑みを浮かべて、砂映はそれに応えた。隣の秋良は口をぽかんと開けたまま、まだ雷夜の方を眺めている。
「あ。あ……そうですか。その、異音と異常光なんですけどね、それがなぜか、ちょっと前から収まって、今は調子よく稼動しているんですよ。今朝はたまに火花が出たりして、ああ、こりゃもう駄目だ、と思ったんですが、今は落ち着いたもんです」
 朝比さんが大人でよかった、と砂映は思った。視界の隅の変な少年について、ありがたいことに彼はそれ以上追及しなかった。
「ああ、そうなんですか。でも一度そういった異常が出たのなら、どこかが狂っているのは間違いないので……一度解体して再形成させていただきたいと思っているんですが」
 砂映はにこやかに相手に合わせた。ほぼ魔力もなく訓練もしていない人と魔法技師との間には、感覚に大きな差がある。今響いている異音は、どうやら一般の人には聴こえないレベルのものらしい。
「それなんですけど、だいたいおいくらぐらいかかりそうですか」
「そうですね。あの規模の魔法陣だと、三人で一日八時間の三日作業、なんで……あ、ちょっとすんません」
 砂映は鞄から紙とボールペンを取り出し、その場でしゃがみこむと簡単に見積を書き始めた。作業費、特殊技術加算、書類作成費、交通費、諸雑費……
「あの、あ、お名前なんとおっしゃるんでしたっけ」
「砂映です」
「砂映さん。あの、一応見積を確認してから作業をお願いしたいと思ってるんですが」
「もちろんです。概算ですけど今お渡しします。ちょっと待ってください」
「あの、あの人何かやってるんですけど、あれは作業とは別ですか」
「えっ」
 しゃがんだまま、砂映は振り向いた。
 白い紙の人形。人の手は二つしかないので、複数の箇所に魔力を送る時の受信媒体として使われる魔法具の一つだ。魔法陣の中央部に設置された機械は元気よく稼動中で、ごおんごおんと揺れている。黒い服を着た少年は、魔法陣の六つの角の五つまでに、その紙人形を置いたところだった。そうして人形を置いていない手前の角に両手を載せると、素人目にもはっきりと見えるほどの黒いオーラがその体から立ち上った。
「ちょい待……っ」
 砂映は思わず叫んだ。紙人形を置けば確かに理論上、統合魔法陣の同時調整も可能となる。でもそれはあくまでも理論上だ。まったく異なる五つの術式を同時に制御する、そんなことは普通無理だ。それを一つの術式に修正を加えながら一人の人間が行うなんて、そんなことはできるわけがない。魔法陣は暴走するだろう。そして暴走が限界を超えると、魔法陣は魔法爆発を起こす。魔法爆発の人体や物体への影響はまだほとんど解明されていないが、「よくない」ことは確かである。しかも、機械の電源も切っていない。魔法爆発が、物理的な爆発をも引き起こすかもしれない。そうなったら、少なくとも工場のこの一角は吹き飛ぶだろう。
 雷夜から立ち上るオーラが一気に濃さを増し、吸い込まれるように床に置いた手に向かって流れた。目には見えないが、六芒星の他の五点にも、同じタイミングでエネルギーが放たれていたにちがいない。エネルギーだけでなく、細やかなコントロールがその異なる五点に同時に働いていた、はずだ。一瞬で修正を済ますほどの凝縮した影響力、その行使だけでもありえないのに、それに対応した複数の調整もその同じ瞬間にやってのけた。そんなことができるなんて信じられるものではない。けれどもできた、のでなければ、訪れた静寂に、理由がつかない。
「なんですか、今のは」
 朝比さんは相変わらず人のよさそうな顔で、のんびりと砂映に訊ねた。
 三人×三日の技術員人件費。
 消耗品の魔法具代、対応法の調査費などの特殊技術加算。
 三人×三日の交通費。
「ええと」
 砂映は自分が書いたばかりの見積書に目を落としながら言いよどんだ。なんだ今のは。そんなのこっちが訊きたい。
 今のですべてが済んだのか。そういうことなのか?
 そうだとして……けれど今のこれに対して、いったいどれくらい費用を請求したらいいのか?中堅技術者三人×八時間×三日がこの規模の異音事例対応ではあくまでも妥当なはずだ。それがなんだ、一人×十分足らずだ。技術者一人の単価をどれだけ上げたらいいんだ。社内でスペシャリスト認定を受けている技師だって、単価は新人の一.八倍程度だ。さっきの瞬間で消し炭になった五つの紙人形の実費と、交通費。そもそも三人分の交通費……請求できるのか?
「ああ、今のは、その」
 短時間で済みました。手間も少なく済みました。事故も起こらず、費用は安く、みんなハッピー。そう言いたいけれど、それで済まないのが仕事なのだ。今回これで済んだという前例を残すと、今後同じような修理の依頼を受ける時には、同じくらいの金額で、と言われるのだ。相手がわかっていないだけなら、今回のはちがうんです、と資料を作って説明して、何とかする。しかし今回のこれがこんなあっけなく済んで、次回、同様の修理で桁のちがう見積書に難癖つけられた時に、説得できる気がしない。こんなことはありえない。自分だって十年近く魔法技師として仕事して、経験だってそれなりにある。こんなことは、ありえない。
「その……今のは単なる点検でして、その……」
 嘘をつくのはストレスが溜まる。いつだって、まじめで正直な誠意あふれる技術者でいたい。でも、今回の例を認めてしまうわけにはいかない。この会社の今後の修理すべて、常に雷夜が赴いて常に彼が奇跡を起こせるわけではない。ない以上、これはもう、なかったことにした方がいい。今ので完全に直っているにしても、あと二日、ここに通って作業をするふりでもした方がいい。勤め人としての砂映はそう判断した。が、ためらいながらつこうとした嘘は打ち砕かれた。
「すごい!直った!」
 無邪気に声を裏返して、秋良が叫んだ。すたすたと歩いてきた雷夜は、つまらなさそうな顔で砂映を見ると、「早く帰りたい」と呟いた。 
「あの、どういうことですか」
 朝比さんがやや不安そうに砂映に訊ねる。
 俺だって早く帰りたいわ、と砂映は心底思った。思ったが、そうは問屋が卸さない。
「朝比さん。……異常に気がついたのは今朝なんですよね?」
「ええ。早朝にコンベヤの修理業者が来ていて、その部品類を近くに置いたんです。それが原因かなと」
「それは……非常にいけないことです。魔法陣の影響下で稼動していた機械の部品を稼動中の別の魔法陣の近くに置くのは、大変まずいことです。そういったことをする場合には、魔法技師の指導が必要です。その作業の時に、魔法の知識のある人間はいなかったんですか?」
「ああ、それぐらいいいかな、と言って……火花が出て、初めてうわあってなりまして……魔法に詳しい人間は誰もいませんでした」
「その後も?」
「え?」
「おたくの社内で魔法に詳しい人に見てもらったりとかそういうことは?」
「うちの課は疎い人間ばかりで……」
 砂映は神妙に頷き、
「繰り返しますが、今後二度と、そういったことはなさらない方がよいです。立ち合い費用なんて微々たるものです。ご一報くだされば技師が向かいますので」
「はい」
「しかしですね」
 そこで砂映は、一瞬ちらりと天井を見上げた。高い天井は、鉄筋が剥き出しで、配線が縦横を這い回り、そこかしこに護符が嵌め込まれている。
「今回に限って。本当に奇跡的なことなのですけどね。ほんの少し狂いが出た程度で、当該魔法陣に異常はなかったようですね」
 隣に立っていた雷夜がその瞬間口を開きかけたのを察して、砂映はがっとその首に腕を回すと抱え込むようにしてその口を塞いだ。少年は暴れたが、ここは体格の差で砂映に分があった。あっけにとられている朝比さんに、
「ああ、すみません。ちょっとね、気分が悪くなったみたいです彼」
 腕に力を込めながら、砂映はにこやかに言った。
「ともかく。朝に異音や異常光が出ていたのは、部品の影響を受けた直後だったからでしょう。収まったのなら、もう心配ありませんよ」
「あの、でも……」
「え、なに言って……」
 朝比さんと秋良が同時に言った。秋良は少し離れた場所に立っていたので口を塞ぐことができない。かわりに砂映は横目でぎょろりと秋良をにらみつけた。それで秋良は黙った。
「……朝比さん」
「はい?」
「ちょっとですね、上司への報告をする必要がありまして。電話をお借りしたいんですが」
「じゃあ事務所の」
「いえそれが、うちの規定上、公衆電話じゃないといけないんですよ」
「じゃあちょっと遠いですよ。来た道を戻って、途中の廊下にあるんですが」
「ありがとうございます。ちょっと失礼します」
 雷夜を引きずるようにしながら砂映は出口に向かいかけ、また戻ってくると秋良の肩に空いている方の手を置いた。ぽかんとしている朝比さんを気にしつつ早口でささやく。
「秋良君。今の魔法陣の扱いについて、ちょっと上司に相談してくるから。あの魔法陣については何も言うな。適当に他の魔法陣をチェックでもしとけ。いいな?」
 気迫に押されて秋良が頷いたのを確認すると、砂映は振り向いて、へらっと笑って朝比さんに会釈した。雷夜を小脇に、今度こそ扉を抜け、廊下に出る。

「死ぬかと思った」
 公衆電話の脇でやっと砂映の腕から解放された雷夜は、平坦な声で呟いた。どう聞いても実感のこもらない声だったが、顔を見ると白い顔がさらに白くなっている。砂映は口を開きかけたが、その時電話のコール音が途切れた。
「あ、もしもし。ええと、開発第三部の砂映ですが。お疲れ様です。その、薮芽さんに連絡をとりたくてとりあえずそちらに電話をしたんですが、どこにおられるかわかります?」
 総務部の事務職が、ちょっと待ってください、と言って、そのまま隣の誰かに相談している声が聞こえてくる。やぶめえ?という総務部長の声もした。どうもあまり好かれているような感じではない。
「あ、お待たせしました」
 女の子の声が、受話器の近くに戻って来た。今から繋いでくれると言う。ふう、ととりあえず息を吐いていると、雷夜はいつの間にか砂映の足元にしゃがみこんでいた。砂映は口を開きかけたが、そこで保留の音楽が止まった。
「あ、お疲れ様です。砂映です」
「ご苦労様。大変だったんじゃないか?それで、うまくいったのかい」
 思いがけず優しい声に、砂映はほろりとした。なんだ、いい部長じゃないか。他のメンバーはともかく、上司には案外恵まれたのかもしれない。
「それがですね、ちょっとご相談がありまして」
 砂映はざっと事態を説明した。魔法陣は明らかに修理を要する状態となっており、修正作業は三人がかりで三日か四日はかかるだろうと判断したこと。それなら一度解体して再形成する方が早いと思っていたこと。しかしそれを、雷夜は一人で一瞬にして直してしまったこと。あの規模の魔法陣の不具合をこんな風に簡単に直してしまう前例を残してはのちのち困るのではないかと自分は考えていること。前例を残さないために、今回は無償対応とすべきだと判断したこと。
「すみません、正直、頭が混乱しています。うちの部署がどういったスタンスで……どういった予算で運営されることになっているのかも自分はよくわかっていなくて。それと雷夜くんの能力が規格外すぎてそれをどう扱っていいのかもわかりません」
 目を向けなくても、黒い瞳が足元からじっとこちらを見ているのが感じられた。気まずいが、仕方ない。
「今ならまだ別の説明もできるので、部長の判断を……」
 砂映は真剣に訴えたつもりだった。
 が、受話器の向こうからは、なぜか吹き出したような息の音が聞こえてきた。砂映は耳を疑った。いや、今のはきっと気のせいだ。気のせいだ。と自分に言い聞かせていると、
「ははは。好きにしていいよ。はは。大丈夫大丈夫」
 がちゃん。
 そこで電話は切れた。
 砂映はなおも受話器を握りしめ、しつこく耳を澄ませ続けていた。しかしどんなにがんばっても、もうそこには、つー、つー、という通話終了後の音しか聞こえてこない。
「……」
 なにげなく視線を下げると、雷夜の大きな黒い目と合った。
 砂映はへら、と笑った。
「素敵な上司だよ。素晴らしい部長だ。好きにしていいんだって」
 大袈裟な身振り付きで歌うように言うと、
「よかったな」雷夜は真顔で答えた。わかった上で言っているのかまるでわかっていないのか、砂映には判断がつかない。
「あのね雷夜くん」ともかく砂映は言ってみることにする。
「雷夜くんはすごい。すごいと思います。でもさ、何かする時は、他の人の意見も聞こうよ。上司なり先輩なりにお伺いを立てようよ。一人で黙ってするんでなく、みんなで協力するのが大事なのよ会社は」
「緊急事態の時は?」大きな丸い目で、雷夜は訊き返した。
「緊急事態の時は……事態を何とかするのが優先だけど」なんとまあお利口な切り返しをするものだ、と思いながら砂映が内心ため息をついていると、
「さっきのは緊急事態だった」
 まっすぐな目を砂映に向けたまま雷夜は言った。
「あ?」
 いささか腹も立ってきて、ぞんざいに砂映は問い返す。しかし相手の目は、どこまでも澄んでいた。
「あと十秒遅れていたら、魔法爆発を起こしていた」
「でまかせいうなよ」
「本当のことだ」
「そんな兆候なかっただろ」
「わからない方がどうかしている」
「あの程度の不具合で爆発なんて起こるはず」
「どうしてわからないんだ」
 砂映は顔をしかめた。
 雷夜がムキになっていたなら、ああ、単にへそ曲がりのガキなんだな、と思える。こっちは大人らしく、先輩として振る舞える。
 だが雷夜はあくまでも冷静なのだった。子どものような顔なのに、黒い瞳はどこまでも静かで興奮のかけらもない。ただありのままそこにある暗闇のように、変化する気も歩みよる気もなく、本気でそうだと信じているし、本気でこちらがわからないことを不思議がっている。
 ……不毛だ。
 砂映はため息をついた。「へいへい」議論をしても仕方がない。
「緊急事態以外の時は、ご相談ください。頼んます」
「わかった」
 生真面目な顔で、雷夜はうなずく。
「……とりあえず戻るけど。余計なことを言わないでいただけると助かるんで」
 持ったままだった受話器を置きながら砂映が言うと、
「何が余計で何が余計でないかは難しいな」
 真剣な表情で雷夜は呟いた。

 廊下を歩いていると、途中で雷夜が大きな目をさらに大きくした。森に住む小動物とかを思わせる奴だな、と砂映は思ったが、しばらくすると砂映にも雷夜のその反応の意味がわかった。異音が聞こえる。それも、かなりやばい感じの、金釘でガラスでもひっかくような不協和音だ。
「秋良くん?」
 フロアに入ると、三つ並んだ円型魔法陣の真ん中の一つに秋良がしゃがみこんでいた。そうしてその異音は、その魔法陣の両隣含む三つの魔法陣から発生しているらしい。
「……あ」
 振り向いた秋良の顔は、今にも泣きだしそうだ。
 その場に朝比さんはいなかった。案内してきた作業着の男が一人、困惑したような様子で秋良の方を眺めている。
「その。ちょっとこの機械、最近性能が落ちてるから見てほしいって言われて。この真ん中の魔法陣が摩耗して弱まっているから、再刻印をしようと思って……可変状態にしたらこの機械が変な動きをして、それでこの音……っ」
「可変状態にする」というのは、魔法陣における線や文字を自由に書き換えることができる状態に戻す、つまり「一度固めた粘土を再び柔らかくする」ようなことだ。
 円型魔法陣それ自体は、先ほどの六芒星型なんかに比べるとかなりシンプルな構造ではある。けれどそれがいくつか連結されている場合、やはりその調整は他との兼ね合いでかなり難易度の高いものになる。そもそも、固定状態で稼動している連結魔法陣の一つを可変状態に変えたりしたら、バランスが崩れて全体が暴走し、他の魔法陣もろとも制御不能になる。技術者として、常識レベルのことである。
 ……というようなことを、今説明している場合ではなかった。
 これは実際に魔法爆発を起こしかねない。なにかがずれているような違和感が空間に満ちている。機械の輪郭が時折歪んでおかしな膨張を見せたりしている。
「ともかくまずは機械の電源を切って……」
「それが、電源切れなくて。スイッチがきかなくなっててっ」
「『石』を外して魔法陣の方のエネルギーをとりあえずゼロにして」
「同化しかかっててとれないんですっ」
 砂映は駆け寄って、赤やら青やら紫やらめまぐるしく色を変化させて発光している魔法陣に手をついた。痛いほどの熱さと冷たさとしびれが同時に手の平を突き刺す。砂映は魔力が弱いので、咄嗟にうまく皮膚を守ることができなかった。
「ともかく強制断絶が最優先だから、一人一つずつ、せーので魔力をぶつけて……っ」
 砂映たちは金属をこすり合わせるような大音響の中にいたが、作業服の若者は、ぽかんとした顔で秋良や砂映を眺めていた。魔法に関する訓練を受けていない人間には、ほとんど聞こえないか、別の小さな音として認識されているのだ。声が大きくなりすぎないよう注意しながら砂映は秋良に指示をした。秋良は慌てて魔法陣に両手をかざしたが、雷夜はあらぬ方を向いて立ったままでいる。
「おい雷夜!」
 聞こえていないのだろうか。砂映が少し大きな声を出すと、雷夜はやっと振り向いた。
 笑っている。
「他の魔法陣も共鳴してる」
「あ?なんだって?」
「この工場にあるすべての魔法陣が共鳴してる」
 ひどく愉しそうだ。砂映には、理解できない。というか今はそれどころではない。
「いいから、こっち来て手を貸せ!」
「余計なことかもしれないけど、今の状態で魔力を加えると魔法陣三つともばらばらになって壊れる」
「いいから。雷夜!」
「雷夜さん、お願いします!」
 魔法陣の上は方向の定まらない風が吹き荒れ、小さな埃が舞い踊っている。明らかに常軌を逸した色合いの光が砂映と秋良のまわりを乱れ踊り、異音はますます音量を増している。魔力のない作業員の若者にも、顔をしかめて風になぶられている二人の姿は見える。異変を察して不安そうな目をしている若者の脇で、しかし音も光も誰より強く感知できているはずの雷夜は、平然とした顔で砂映と秋良を眺め、
「ばらばらにするよりいい方法がある。緊急事態じゃないから、説明した方がいいか?」と言った。
「そんな場合じゃない!」
 思わず砂映は叫んだ。
 すると雷夜はすっと笑いを消し、砂映たちに背を向けてすたすたと歩き出した。作業員の男は、風の渦を巻き起こしている魔法陣と雷夜を見比べてあっけにとられている。雷夜は上着のポケットから魔法陣用の紙の切れ端とペンを取り出すと、歩きながら何やらさらさらと書き始めた。広々としたフロアの中、すべての機械と魔法陣から距離をとると、雷夜は手にした紙をくしゃくしゃに丸めて無造作に空中に放り投げた。
 じゅん!
 その瞬間、異常を起こしていた三つの魔法陣から、光も、音も、風も、発生していた何もかもがその紙屑のようなくしゃくしゃの魔法陣に吸い込まれた。砂映と秋良にもその強烈な「引っ張る」力は感じられたが、実際には何の影響も受けなかった。ただ突然、自分たちを取り巻いていたあらゆるエネルギーが消えたのだった。砂映にも秋良にも、何が起こったのかわからなかった。
「……どうしたんですか?」
 呑気な声で訊ねたのは、異変に気づいて奥の事務所から出てきたらしい朝比さんだった。
 落下してきた紙玉を片手で受け止めると、雷夜はそれをポケットに突っ込んだ。砂映は激しく瞬きをし、朝比さんと作業員の若者が説明を求めて自分を見ているのに気がついた。無理やり口角を上げてとってつけたような笑みを浮かべると、
「……なんでもありませんよ」
 砂映は何とか言った。
 雷夜は無言で戻ってくると、沈静化したもののいまだ「可変状態」にある魔法陣に手をついた。刻印に水が流れるように魔力が行き渡り、今の暴走で変化した文字列や摩耗によって変形していた文字が、本来のものに戻る。それを確認して、雷夜は一瞬不思議そうな顔をした。一度手を離し、再び静かに触れ直す。魔法陣は「固定状態」に戻り、魔法技師の手からの魔力ではなく、「石」からのエネルギーで通常の稼動を開始する。
 そのさまを、砂映と秋良はただあっけにとられて見ていた。
 何も知らない朝比さんは、にこにこしながら首を傾げていた。 

3.横分の鯉留さん

 深夜のオフィスで、砂映は一人残業していた。他の部署の人間は全員消灯して帰っていったので広いフロアはほぼ闇、砂映のいる場所だけが、ぽっかりと白い明りに照らし出されている。やらなければいけないことは山積みだ。集中しなくてはいけない。わかってはいる。しかし。

 あれはなんだったのだろう、とつい考えてしまう。「魔法のようだ」ということばは、「ありえないような不思議なこと」を指したりする。魔法のしくみをしらない人間にとって、それは「ありえないような不思議なこと」だ。でも、魔法という技術についてきちんと学べば、そこにはしくみや法則というものがちゃんと存在している。できることとできないことが、確実にある。それが、砂映にとっての常識だった。
 帰りのタクシーの中で、砂映は雷夜に訊ねた。あの魔法陣の暴走をどうやって止めたのか。一体何をやったのか、と。「相殺」を使ったのだ、と雷夜は答えた。たとえば「水」の属性を持つ呪文に対して、「反対」の構造を持つ「火」の属性を持つ呪文をぶつけると、どちらの現象も発現せずに消失する。あの魔法陣の、あの時の「暴走状態」の「反対」構造の魔法を作って、風系魔法で吸引しつつ「相殺」したのだ、と。
 こともなげに言う雷夜に、思わず砂映は食ってかかった。魔法技術者のはしくれとして「相殺」くらい知っている。しかしそういう問題じゃないだろう、と。「鳳凰(ほうおう)(火)」という術に対する「竜神(りゅうじん)(水)」だとか、「野分(のわき)(風)」に対する「岩男(いわお)(土)」だとか、基礎知識レベルの単一構造魔法の「反対」であれば、瞬時に構築できたっておかしくはない。しかし六芒星型などに比べればシンプルだとはいえ、あの円型魔法陣もかなりの量の呪文が書きこまれていた。設計書も読まずにすぐに把握できるほど単純な構造ではないようだったし(第一あの時、雷夜はあの魔法陣をまともに見てさえいなかったのだ)、それに暴走中のあの時の状態は「魔法陣どおり」ですらなかったはずだ。ただ同じものを再現するのだって数週間はかかるだろう。ましてやそのまったく反対の構造を持つ魔法陣を完璧に構築するなんてことは、数か月かけたって砂映にはできる自信がない。しかもその反対構造の魔法は、普通に考えればあの魔法陣と同量の呪文を必要とするはずなのに、雷夜が魔法用紙に書きつけたのは、せいぜい七語か八語程度だったではないか。
「『省略』とか『置換』とか、知らないか?」
 きょとんとして、雷夜は訊ね返した。
 だから、そんなことは知っている。まとめすぎるとわかりにくくなったり後で修正がしづらくなるので通常は加減するが、やろうと思って頭を捻れば結構呪文を短くできることも、知ってはいる。
 知ってはいるが、あの膨大な量の情報をあの一瞬であそこまで短くまとめるなんて、普通はできることではない。確かに自分には知識や能力について足りない部分があるし、技術者試験の成績だって悪かった。でも、それでも十年近く魔法技師として働いてきたのだ。ありえることとありえないことの区別くらい、つくつもりだ。
 けれど砂映の問いに対し、雷夜はやはりぽかんとしていた。子どものようにあどけない、心底不思議そうな顔で、「なんでできないのかがわからない」と言った。不毛だった。一体あの「少年」魔法技師をどう考えたらいいのか、砂映には、わからない。わからないといえば、そういえば秋良の方も、よくわからないところがある。帰りのタクシーの中で、秋良はほとんど口を利かなかった。「報告書は二件分僕が作ります」とだけ強い口調で言った。魔法陣の暴走を引き起こしたことで落ち込んでいたのだろうか。しかしいくら経験が浅くても、魔法技師として会社に所属している人間が、あんな基礎的なミスを犯したりするものだろうか。

 がたん!
 誰もいないはずのオフィスで、その時大きな音が響き渡った。我に返り、砂映は思わず身体を緊張させた。暗闇の中から、しゃっくりの音が聞こえた。
「やっぱりいた!さえいくん~おつかれさまぁ」
 誰かと思ったら、烙吾先輩だった。髪はきっちり七三に整ったままだが、顔も手も真っ赤になっている。タコのようにへなへなとして、見知らぬ坊主頭の男の肩に掴まりながら何とか歩いている。飲み会の時にだって、ここまで泥酔した烙吾を見た記憶は砂映にはない。
「だ、大丈夫ですか」
「あのねえ。ひどいよ。ひどいよさえいくん」
「はい?」
「いきなり異動なんてきいてないよ~」
 普段とはまるで違うトーンの声に、砂映はうろたえる。「す、すみません」
「さえいくん~」
「はい」
「なんで異動なの~?」
「俺が訊きたいですよ」
「らいやとかさあ、あきらとかさあ、やぶめとかさあ。みいんな評判悪いんだよ~なんでそんなとこにさえいくんいっちゃうのさ~」
 ひくっと大きなしゃっくりをしたかと思うと、烙吾はそのままぐらりと傾き、見知らぬ男もろとも床にひっくり返った。砂映は慌てて二人に駆け寄る。
「あの、すみません、あなたは」
 むくっと起き上った男に、砂映は訊ねた。
「ああ、かれはねえ、よこわけまほうけんきゅうじょのこいるくんだよ~」
 床に横たわってぐにゃぐにゃしている烙吾が答えた。坊主頭の男はどこか爬虫類を思わせる顔を砂映に向けて微笑むと、
横分(よこわけ)魔法研究所の鯉留(こいる)です」と言った。
 ああ、それはそれは。
 横分魔法研究所にとって、砂映たちの勤める松岡デラックス魔法カンパニーは重要顧客である。砂映たちが使う魔法に関連する消耗品、呪文を書くペンや魔法用紙や呪符用紙、聖水やら石板タイプの魔法陣の材料となる砂やら、護符用のクリスタルやらは主にここから仕入れている。必要な時には設備や施設の用意などをしてもらうこともある。部署によっては他の会社を利用しているところもあり、その選択は各部署の担当管理職の判断に任されている。だから魔法具メーカーの営業担当者たちは何とか彼らと良好な関係を築こうとし、最新技術や業界動向の情報をくれたりちょっとした便宜を図ったりしてくれるのだ。これはその一環として……いわゆる接待をしてもらっていた、ということだろう。
「すみません、ご迷惑をおかけして」
「いえいえとんでもないです。烙吾さんにはいつもお世話になっているんで」
 細い目をさらに細め、響きのある妙にいい声で男は言った。一緒に飲んでいたのだと思うが、男には酒に酔った様子は微塵もない。
「あの、もう帰っていただいていいですよ。あとは俺がどうにかするんで」
 男はいえいえ、と恐縮していたが、砂映がさらにそう言うと、ではこれを、とタクシーチケットを差し出した。砂映は断ったが、いやいやこれは経費として申請済なので逆に受け取ってもらわないと困るのです、と強硬に言われたので、押し切られて受け取った。
「急に異動になったとお聞きしましたよ、砂映さん。それでこんな深夜まで。お疲れ様です」
「いえ、その……自業自得なんですよ」
 頭を掻きながらそんな風に言うと、
「雷夜さんという方は、大変優秀だと窺っています。その同じ部署に異動だなんて、あなたもさぞ凄いんでしょうね」
 すっと引いた切り口のような目を頬で押し上げるように笑いながら、鯉留は言った。
 そんなことはないんですよ。ぜんぜんなくて。はあ、ともかくお疲れ様です。あの、お気をつけてお帰りください。ここで水飲ませて、様子見てから送っていきます。はあ、本当にお気になさらず。とんでもないです。はあ。では。
 しゃがみこんだままぺこぺこ頭を下げる砂映に対してすっと一礼すると、坊主頭の男は、闇の中に消えていった。

 タクシーで烙吾を送っていき、アパートの自分の部屋に帰って一時間だけ仮眠をとると、砂映は会社に戻った。変わらない暗闇の中で、今度はそれなりに集中できた。窓から明かりが差し込んで、事務所の中がいつの間にかほんのり明るくなっていた。目をしょぼしょぼさせて何度もまばたきをしながら、砂映は書き終えた呪文を簡易魔法陣でくくって指でなぞる。テスト稼動した魔法は光に変換され、青や赤の光がひらひらと舞った。すっとそこに影がさしたので、砂映は顔を上げた。
「あの」立っていたのは秋良だった。
「お、おう」目をしばしばさせながら、砂映は秋良を見上げる。
「おはようございます」
「おは。……早いね随分と」
「はい。その、昨日の報告書作ったんで、砂映さんの机に置こうと思ったんです。そしたら、その……」
「なに」
「なんでいるんですか」
「なんでと言われても。仕事があるから」
「……そんなに仕事があるんですか」
「まあ、なんつーか」
「……」
 秋良はひどく顔をしかめ、砂映の机の上をにらみつけるようにうつむいた。なんだ。なんなんだ。砂映にはその理由が見当もつかない。
 とりあえず、受け取った報告書にぱらぱらと目を通す。はじめの不具合を隠ぺいしなければいけないことも含め、いろいろと修正を入れなければいけないと思っていたのだが。
「……完璧じゃねーの」
 砂映は思わず感嘆の声を漏らした。定型フォーマットに、几帳面な文字が並んでいる。雷夜が直したはじめの不具合はなかったことにする、点検して問題なかったという内容で作るように、ということは、確かに帰りのタクシー内でしつこく伝えていた。でもここまでちゃんと作ってくるとは、正直思っていなかった。「当初発生した異音については、一時的な共鳴作用によるものであり、構造に作用するほどの影響はなかったと思われる」などと、かなりもっともらしい説明がなされている。四年目や五年目の砂映の後輩たちの報告書は、誤字脱字を含めて朱を入れるといつも真っ赤だ。こんなにしっかりとした報告書を書く奴はあまりいない。
「すごいな」
「いえ、そんなことないです」
「すごいよ。ほへえ、こんな書き方があるんだなあ。へえ」
 しかし砂映が褒めても、秋良はかけらも喜んだ様子を見せない。なお一層顔をしかめ、自分の足元をにらんでいる。
 ふと気づいて、砂映は訊ねた。
「あれ、このハンコは?」
 報告書の右上には認証欄がある。担当者枠には秋良のハンコが押されていたが、その斜め上の欄外に、「途季」という名前の印がある。
「……誰?」
 砂映に他意はなかった。
 しかしその瞬間、秋良はびくりと肩を揺らした。
「ん?」砂映はおや?と秋良を見た。秋良は無言だった。そのまま、何も言わずにすっとその場を去っていく。
「え?おい……」
 思わず立ち上がったが、走って追いかけるほどの気力は、砂映にはなかった。
 手に残った報告書をまじまじと見る。……ともかくよかったではないか。一つの仕事がスムーズに済んだのだから。
 提出は郵送でもよいか、先方に訊き忘れていた。持参して、他の魔法陣もちゃんと見せてもらって、話をいろいろ聞き出して、点検や置き換えを提案して商機に繋げるのがいい……と思ったりもするけれど、はたして「カスタマーサービス室」がそれをするのは余計なことではないのか、そもそもどういうスタンスで仕事をしていったらいいのか、まだよくわからない。今回の魔法陣を作ったのは開発第一部だから、もしかしたらすでに強固な関係性が築かれているのかもしれないし。何かあったらご相談、それに対してご提案、の形がすでにあるのに、自分たちが横からしゃしゃり出ているという、その構図である可能性だってある。それなら今回自分たちが頼まれたのは不可解ではあるが。というかそもそも、余計なことをして別件を背負いこむ余裕など、今の砂映にはない。
 ……とりあえず、責任者欄を埋めないといけないな。
 あの放任主義の部長に、ハンコをもらいにいかなければ。
 ため息をつきながら、砂映は椅子に座りなおした。
 他の社員が出社してくる時刻まで、もう少しある。
 この術式の確認が終わったら、次は問い合わせに対する回答資料の作成をして、それからやりかけの呪文の構築があと二つ。片方は大まかな術の選定しかできていない、もう一つはどうにもうまくいかない部分があるのを、何とかしなくては……
「食べる?」
 突然降って来た女性の声に、砂映はばっと顔を上げた。
 立っていたのはこんなに早朝でも美しい――いや、朝の光の中でますます美しく見える熱海さんだった。ほっそりとした身体に淡い色のカーディガンを羽織り、そして手にはコンビニの袋を持っている。なぜか熱海さんが持つと、コンビニの袋までが何か神々しいものに見えてくる。
「え?あ……へ?」
 突然女神さまが降臨してきたら、きっとこんな感じだろう。咄嗟にまともなことばなど出てこない。ただでさえ睡眠時間が足りていないのだ。何も考えられず、阿呆みたいに口を開けてただ目を丸くしている村人一。許していただきたい。待て。落ち着け。
「……なんで」
「うん。ちょっと仕事が残ってて、でも昨日は予定があったから。砂映さん、きっといるんだろうなと思って、多めに買ってきました」
 いたずらっぽく微笑んだかと思うと、突然くるっと背を向けて、どこか普通の人と違う重力の中にいるような軽やかさで歩き去って行った。え?あれ?これってもしかして夢なのかな。まあ、ちょっとくらいいいか。そんな風にぼんやりとその背中を見送り、姿が見えなくなったので、改めて手元の魔法陣に目を戻す。しかしそこで自分が猛烈な空腹に襲われていることに気がついて愕然とした。やばい。眠気と空腹のダブルパンチでくらくらする。しかもなんだ、味噌汁のいいにおいがしてきた。なんだこれ、幻覚か。
「はい。あったかいものがいいかと思って」
 ご丁寧にお盆に載せられて、お茶とインスタントの味噌汁とコンビニおにぎりが現れた。熱海さんの笑顔つき。なんだ。夢が。夢が帰って来た。
「……あ、ありがとうございやす」
 口の中でぼそぼそ言いながら受け取ると、自分の机の上は散らかり過ぎているので、隣の後輩の席を拝借していただくことにする。熱海さんは自分の机でおにぎりのビニルを剥き、小さな口をすぼめるようにして食べ始めた。ぼうっとそれを眺めながら砂映は味噌汁をすすり、涙が出そうになった。
「あの」
「ん?」
「熱海さんも忙しくなってしまったのかと。その、俺のせいで」
 熱海さんは入社年度は砂映の一年先輩である。けれども砂映は大学に入る時に一年浪人しているので、年は同じだった。そうして事務職は、基本的に業務中は総合職に敬語を使ったりする。だからことば使いをどんな風にしていいか、いつも砂映は迷ってしまう。きっと、だからこんなにどきまぎするのだ。
「そんなことないよ」
 熱海さんはにこっと笑って否定した。気遣いなのか実際そうなのかわからない、たださらりとそう返した。
 砂映はこの珍しい二人きりの機会に、できればもっと熱海さんと会話を交わしたかった。けれど適当な話題が思いつかない。
「あ、ええと、熱海さん」
「うん?」
 訊き返してこちらを見る、それだけでなぜ、こんなに胸を打つほどに魅力的なのか。
「熱海さんの家って、A区なん?」
 数日前の男だけの飲み会で、そんな話題が出たのだった。その席での会話の内容は、決して本人にはお聞かせできないようなものだったのだが。
「うん」
「あのへんって高級住宅街だよねえ」
 ずずず、と味噌汁をすすりながら、砂映は自分でも、この会話でどこに向かいたいのかわからない。
「そう言われてるね」
「熱海さん家も豪邸なんだ」
「さあ、どうかなあ」
 にこにこしながら熱海さんは曖昧に答え、おにぎりをかじる。砂映も目をしょぼしょぼさせながらむさぼる。ああ、甘辛いおかかが沁みる。
「熱海さんは実家だよねえ」
「うん。砂映さんは一人暮らしなんですよね」
「ん」
「ご飯とか、いつもどうしてるんですか?」
「ん……てきとう……」
 二つ目のシャケのしょっぱさも感動的だった。味噌汁を飲み干し、緑茶を飲み干すと、妙な充実感があった。
「はあ、ごち」
 何となく手を合わせると、袋の中にゴミを収めて近くのゴミ箱に突っ込む。そうして自分の席に戻ると、改めて魔法陣を手に取った。

4.席がない?

 さて、部長にハンコをもらいに行こう、と席を立ったのが九時半頃だった。とりあえず総務部のある四階――砂映が今仕事をしているのは三階である――に向かう。けれどもフロアに立ってみて、砂映は呆然とした。「カスタマーサービス室」の島は――どこなのか。
「座席がさあ、ないんだよね。悪いけど」
 そうのたまったのは総務部所属の砂映の同期、呉郎(ごろう)。取引先のお坊ちゃんだとかで、入社前の内定式の時点ではいなかった。彼がいなければ砂映は今頃総務部にいたわけだが……。ともかく呉郎はずんぐりとしただるまのような体形で、でん、と間延びしたように告げた。砂映は耳を疑った。新部署の座席がない?そんなことがありえるのか。
「ええと、それは、十月一日にならないとって意味だよね」
「いや。別に座席なんていらないだろうって」
「ど、どなたがそんなことを仰るの」
「うちの部長が」
 総務部長が。そんな馬鹿な。
「その、じゃあ薮芽さんはどこに」
 薮芽は転勤でここに来たはずで、だとすれば座席はないということになる。そう訊ねると、呉郎は面倒臭そうにたぷんとした顎でしゃくってみせた。示された場所は、パーテーションで仕切られた四人掛けの商談スペース。隅にいくつか並んだその一つに陣取って、薮芽は悠々とカップを傾けながら新聞を読んでいる。
「……でも、じゃあ、異動後も元の部署の机で仕事ってこと……?」
 まったく関係ない仕事をしているのに今と同じ席に着くというのは、そんなの想像しただけで気まずすぎる。部か室か知らないが、メンバー全員席がバラバラというのもひどい。かといって道具や資料だってあるし、常に商談コーナーで仕事というわけにはいかない。
「ちょ、ちょっと待って。……え?」
 混乱している砂映を置いて、呉郎は仕事に戻ろうとする。お、おい待て、と砂映ははちきれそうなその背中に追いすがる。
「それはさあ、ちょっと困ると思わん?」
「さあ。でも、準備しなくっていいって言われたから」
「いや、だって。どうすりゃいいのそれ」
 席がないなんて。そんなのまるで、今すぐやめてほしい、と、そう言いたげではないか。つまりやっぱりそういうことなのか?異動と見せて、これは退職勧告なのか?
「……僕は暇じゃないんだ」
 むっちりした顔に埋もれるような小さな目で、呉郎は不機嫌そうに言った。
「も、申し訳ない。でも」
「ここのところ急な退職者が多いんだ。人事の調整が大変なんだよ。当面は各部署で何とかしたり派遣社員や出向者で補ったりしてるけど、新人説明会開き直したり、中途採用募集したり」
「そ、それは開発第一部と第二部も?」
「開発第一部と技術第一部、技術第二部だけで合計四人やめる。あと開発第一部から第三部の、君らの分も減るわけだから、その分の補充もいる。変化がないのは総務部と営業部だけ」
「そ、な……」自分が退職者と同列で語られていることに震撼しながらも、砂映はそこは考えまいとする。「な、なんでそんな、人が減って大変なのに新しい部署ができたんだ」
「知らないよ」
 呉郎はため息をつき、これ以上聞いてられない、とばかり頭を振って去って行った。砂映は呆然と立ち尽くす。退職者が多くて人が足りない?なのになぜ、急に意味のわからない新部署が作られたのか。なぜこんな退職勧告まがいの仕打ちを受けるのか。そんなに自分は役に立たない存在なのか。試験の成績はたしかに悪かった。でも、たしかに要領はそんなによくなかったかもしれないが、能力もいろいろ足りていないのは認めるが、結構それなりに仕事をこなしていたはずなのに。なぜだ。なぜいきなり、こんなことになったのか。

 両手をだらりとたらしながら、目も口も半開きで、砂映はゆらゆら歩く。総務部と営業部だけのこのフロアは、他の階に比べるとみんな妙にはきはきして姿勢がいいように見える。もしも自分が総務部に入っていたら、今頃しゃきっとここで働いていたのだろうか。ところどころ、島の端っこの席に暗い顔のおじさんがいる。開発部や技術部から送ってこられた崖っぷち。でも、彼らでさえも、座席はあるのに。
「……薮芽さん、おはようございます……ハンコいただきにまいりました」
 商談コーナーで一人優雅なティータイム然と紅茶を飲んでいた薮芽は、ぬらりと死にそうな声で報告書を差し出した砂映を面白そうに見た。
「ああ、砂映くん。おはよう。どうしたんだい。お疲れかい」
「はあ……」
「ハンコだね?ふふ。ハンコはここに持っているよ」
 薮芽は脇に置いてあった革製の鞄に手を伸ばし、妙に洒落たデザインの印鑑ケースを取り出した。パチッと音を立てて印鑑を取り出し、丁寧に朱肉を付ける。慎重に紙に押し付けると、得意げに砂映に差し出した。内容を確認する気はまったくないらしい。
「ほら、きれいに押せただろう」
「……どうも……」
「砂映くんのおかげで昨日は本当に助かった。ありがとう」
 にん、と笑って見上げている薮芽の顔を、砂映はうつろな目のまままじまじと見た。それから思いきって訊ねたみた。
「あの、カスタマーサービス部は座席がないと聞いたのですが」
 薮芽は一瞬目を見開き、数回ぱちくりとさせた。それからふっと微笑んで、夢見るように言った。
「考えてみてごらん。この社内、どこで仕事をしようと自由だということだ。このオフィスすべてが、我々のものなんだよ……!」
 ど、と砂映は肩に何か乗って来たような重力を感じた。このまま気を抜けば、いとも簡単に倒れることができる。倒れてそのまま眠りたい。何も考えずにただ眠れたら、どんなにいいか。
「……失礼します」
 しかし倒れこむ勇気はないのだった。砂映は薮芽に軽くお辞儀をすると、ハンコをもらった書類を手に、フロアを出た。

 廊下には、人気がなかった。陰気に静まり返っていた。手すりで体を支えながら、砂映は階段を降りた。脚も手も、どうも自分のものではないような感じがする。いつもの高さ。いつもの身体。別に何も変わってはいないはずなのに。
「あ」
 階段の途中で、廊下を横切ろうとする涼雨を見つけた。向こうも砂映に気がつき、こちらを見上げてはっとする。けれども次の瞬間、彼女は不機嫌そうに顔をしかめて目をそらした。そのまま足早に行き過ぎようとする。
「涼雨サン?」
 彼女の怒りの理由は、いつも砂映には見当がつかない。心底面倒くさい女だ、と正直砂映は思う。思うのだが、このまま放っておくのも気分が悪い。
「涼雨サン?おーい」
 追いかけるのはしんどかった。人がいないのをいいことに、砂映は階段の下の廊下にしゃがみこむ。一度目の呼びかけで、涼雨は足を止めた。二度目の呼びかけで、こちらに振り向く。通常よりずいぶん低い位置にあった砂映の目線にびっくりしている。
「……気分悪いの?」
 少し硬い声音で、眉をひそめるように涼雨は訊ねた。砂映はへら、とただ笑う。
「顔色悪いわね」
「寝不足なもんで」
「忙しいの?」
「そりゃもう」
 涼雨のしかめられた顔から、険が消える。かわりに心配そうな色が浮かぶ。「そう。……そうよね。急に異動が決まったら、大変よね」
 砂映は手に持った書類をぱたぱた振った。涼雨が訊ねる。
「それは?」
「新しい部署で昨日した仕事の報告書」
「……配属はまだ先でしょう?」
「でももう仕事をぶっこまれた」
 廊下の隅に埃が溜まっているのを眺めながら答えていると、涼雨が近づいてきて、砂映の手から書類をとった。事務職らしく内容に目を通していたが、押されたハンコに驚いたような声を上げる。「……途季(とき)さん?」
「ああ、それなあ。誰なんだろ」
 やっぱり普通気になるだろう。辞令にそんな人は載っていなかったし。……と同意のつもりで見上げると、涼雨はあきれた顔で砂映を見下ろしていた。
「……なんかおかしいこと言いました?」
「言いました」
「なに」
「やだほんとに……ほんとに知らないの?」
「何が」
「途季さんよ」
「……知ってないとおかしい人?」
「おかしいわよ」
 首を傾げている砂映の前で、涼雨はため息をついて言った。「毎年新年会でネタになっているじゃない」
「……なんで?」
「挨拶してもらおうとして、でも会場にいらっしゃいません、って」
 なんなんだそれは。
 というか雷夜の件といい、自分は毎年新年会に参加しているはずなのに、どうしてこんなに知っていることに差があるのか。
「……で、誰」
「前の社長のお兄さんよ。現社長のお父さん。今は会長。でも変わり者で滅多に人前に姿を見せないから、社内のほとんどの人が顔も知らないって」
 砂映はぽかんとした。……偉い人だ。それはもう、おそろしく偉い人ではないか。
「……なんでそんな人のハンコがここに押されてるんでしょうか」
「だからこっちが訊いてるのよ」
 こっちだって訊きたい。
 確実に知っているのは秋良だが……しかし早朝のあの様子だと、訊くのはどうにもためらわれる。
「そういえば、さっき怒ってた?」
 ふと思いつき、砂映は涼雨を見上げて訊ねた。書類を手にうーんと考え込むような表情をしていた涼雨は、ちらりと砂映に目を向けると、澄ましていれば相当に美人ともいえるその顔をひん曲げるように歪めて答えた。
「別に怒ってないわよ」
 大抵そう言う。そして実際に怒っていなかったということもあるが、実際は怒っていたということもある。
「ならいいけど」
 面倒臭いので砂映はそれ以上追及せず床に目をやった。
 恨みがましい顔で涼雨は砂映のその様子を見ていたが、やがて自分を落ち着かせるようにふう、と息を吐いて言った。「でも、安心した」
「なんで?」
「薮芽さんが室長だっていうから……」そこまで言うと、涼雨は突然しまった、というように口をつぐんだ。「あ、ええと、なんでもない」
「どういうこと」
「え?うん」
 目をそらした涼雨を、今度は砂映がじっと見る。
「言わない方がいいと思うわ」
 涼雨は軽く笑みを浮かべて目をそらしている。
「気になるので言ってもらえんですかね」
「やめておきます」
「途中でやめんでいただきたい」
「なによ、自分だって、異動のこと黙ってたくせに」
「関係なかろう。それにあれだ、辞令出るまで他言禁止」
「そうね。そうよ」
 どうやら怒りの原因はそれだったらしい。涼雨の顔に不機嫌の色が戻る。言いたいことを抑えるかわりに、顔中に憤怒の表情が広がり始める。
「面倒くさ」砂映は思わず呟いた。ぴくり、と涼雨の眉が動いた。
「今『面倒くさ』って言ったわね」
「……気のせいです」
「はっきり聞こえました」
「……だって自分でそう思わん?」
 頭上が静かになったので、砂映は顔を上げた。
 涼雨の顔の歪みっぷりは、先ほどとは比べものにならないほど激しいものになっていた。唇はぎゅっと引き結ばれている。行き場を失ったいろいろな感情が、顔面筋肉を使って自己主張合戦を繰り広げている。いくつかの怒りといくつかの悲しみ、そしてそれらを繕おうとする微妙な笑み。
「び、美人が台無しですよ」
 気を遣ってそう言ってみた。じろり、と冷たい視線が落ちてくる。
「……聞いたらショックを受けるだろうから、言わないでおこうと思ったのに」
 押し殺したような声で、涼雨は言った。
 ならやっぱりいいです、と言う間もなかった。
「カスタマーサービス室の室長で辞令出てた薮芽さん、『首切り役人』として有名よ。あの人が行った支社や支店、たいてい人数が半分になるか、閉鎖になってる。大っぴらじゃないけど、たぶんそういう仕事を割り当てられてる人なのよ。そういう人が室長ってことは、つまりそういうことなのよ」
 そう言うと、涼雨はヒールを鳴らして去って行った。報告書を、投げつけるように返された。
 砂映は呆然とその場にしゃがみこんでいた。
 ……どうしよう。
 立てない。

 とはいえ実際にいつまでも廊下に座っていられるわけもない。通りがかった他部署の部長に不審な目を向けられつつ、そそくさと砂映はその場を去った。戻ってくると、砂映の机はFAXと電話メモで埋め尽くされていた。これだけの人が、自分に何かを求めている。けれどもきっと砂映がいなくなれば、その要求は他の人に回るのだろう。砂映は引継ぎ相手の後輩に目をやった。後輩は、話しかけるなというオーラを全開にしてがりがりと呪文を書いている。砂映は観念した。ともかく今は、自分がやるべきだ。求められている仕事をして、せめてもの責任をまっとうすべきだ。やるべき仕事もまだ山のように残っている。
 資料を調べながらFAXに回答を書き込んだり、事務職に指示を出したり、電話をかけたりしているうちに午前中が終わった。時折射るような視線を感じ、顔を上げるとそれは烙吾のものだった。ひどく険しい表情だが、それはおそらく二日酔いのせいだろう。あんなになるまで飲んだのだから無理もない。
 昼休憩の時間になり大半の人が席をはずした中、仕事を続ける砂映に烙吾が話しかけてきた。「その、悪かったな」向かいの席から険しい形相のまま、ばつが悪そうに言う。
「覚えてますか?」
「覚えてない。が、うちのが言うには、おまえが送りに来たと」
 はは。砂映は少し笑った。可愛らしい奥さんは寝ずに待っていて、見たこともない泥酔した夫の姿におろおろしていた。
「しかしおまえはここで残業してたんだよな。なんで俺は夜中にオフィスに戻ったりしたんだ?」
「さあ。あの、横分魔法研究所の人と一緒でしたよ。坊主頭の」
「え」
 烙吾は苦虫を噛み潰したような顔をし、きょろきょろとあたりを見回した。情報漏洩に厳しい昨今、みだりに社外の人間をオフィスに入れるなと注意喚起が通知されたところだ。応接室や商談コーナーではなく技術資料や顧客の工場設備の配置図なんかがそのまま机の上に置かれていたりする座席スペースへ、しかも夜中に、なんてことが発覚したら、見せしめに降格やら減俸やらされかねない。
「今度奢る」
「それはどうも」
「俺は何を言ってた」
「ええと」
 砂映は少し考えて、
「僕が今度行くカスタマーサービス室のメンバーが、みんな評判悪いと」
 そう言って烙吾の顔を窺った。烙吾は考え込む表情になった。
「そんなこと言ったのか」
「はい。そんなこと言ってました」
「……そうか」
「そんなに。そんなに評判悪いんですか?」
 それにしてもどうしてみんな社内の噂に詳しいのだろう、と砂映は思う。本当に、自分が疎すぎるのだろうか。
「……おまえは昨日、雷夜に会ったんだろ」
 烙吾は言った。「どうだった」
「……変わった奴でした。でも、技師としてはもの凄いです。もの凄すぎてどうしていいかわからない感じでした」
 砂映のことばに、烙吾はうんうん、と頷いた。「俺の同期が開発第一部にいて、そいつに聞いたんだがな」
「はあ」
「雷夜の指導員をしたのが、まあ当時五年目くらいのやつでな。そいつも悪いと言えば悪いんだが、入りたての新人の雷夜に、何も教えずに術式の構築をやらせたらしい」
 何も教えずに。
 ……何一つ専門知識を持たずに入社した自分で想像すると、とりあえず誰かを捕まえて何か教わらなければ呪文の一単語も書けなかったに違いない。が、大学で魔法を学んでいれば、個人差もあるが単純な二つ三つの複合術式くらい書けるだろう。砂映も指導員の経験があるし、同じ部署の後輩の様子から知っている。
「おそろしく複雑なやつだ。見積時点の見通しで、十四の術を複合させることが想定されていた。しかも連結型だと」
 砂映の考えを見越したように烙吾はそう説明した。げ、である。十年近く開発の仕事をしている砂映でも、十を超える術の複合が必要な呪文を構築することになったら、正直うげ、となる。複合というのは、異なる術の呪文を単純に並べて書けばいいわけではない。相殺と増幅の作用を考えて、こっちの値の調整をしつつあっちの帳尻を合わせ、不要な重複は削除しつつ、「一つの完結した魔法」を作らなければいけない。三つの複合なら満たさなければいけない条件も少ない。しかし数が多いと……すべてがぴたりと収まる解を見つけるのはなかなか容易にはできない。知識と経験をフルに動員して単語の置換やら値の増減を繰り返し、ちまちまと調整を重ねた末にやっとすべてが許容範囲に収まればしめたもの。結局構築できず、術選定からやり直すはめになることも少なくない。加えてそれが連結用魔法陣だとするなら、そこにはさらに必要な項目がいろいろと出てくるわけで……。
「それはいくらなんでも」
「そう、いくらなんでもだ。俺の同期が二週間後期限でその指導員に渡していたその仕様書を、新卒の雷夜は何の説明も受けずにぽん、と渡されたわけだ。まあ、態度が悪かったらしいから、とりあえずやらせてできないことを思い知らせて、鼻をへし折って指導しようという、そういう魂胆だったんだろうがな、その指導員は」
「でも、できちゃったと。そういうことですか」
 昨日の雷夜を見ていれば、それは容易に想像がつく。仕事を干されていたという話だから、会社で積んだ経験はほとんどないはずだ。それであれなのだから、それはつまり、新人の頃からあんなだったにちがいない。
「できちゃったわけだ。しかも半日で」
 ……それは夢のような話ではないか?
 魔法陣の開発コストの大半は人件費、かかった時間と人数だ。昨日のような出向修理では言い逃れできないが、社内での開発であれば客にばれるおそれはない。新人半日のコストを、堂々と中堅×十日で計算して請求できる。部署としてはボロ儲けではないか。
「まあ単純に考えれば、そんな逸材を手に入れられてラッキーだという、そういう話だ」
 そういう話に……けれどもどうしてならなかったのか?
「けどその魔法陣は、開発第一部が数十年前提案して工場設備用魔法陣すべて一式納入した現場の新規追加案件で、術式には専用の特殊仕様が必要ということになっていたらしい。仕様書には慣例で記載がなく、そして指導員はそのことを教えず、プロジェクトマネージャーもなぜか気づかずに雷夜の書き上げた呪文をそのまま魔法陣に配置して納入した。検査用術式になんでチェックが組み込まれてないのか、なんで上司も気づかないのか、はっきりいって体制の不備だと俺は思うがな。ともかくその魔法陣自体はそれで完結していて据付試運転も滞りなく済んだらしいんだが、数か月後工場内の別魔法陣が立て続けに不具合を起こして、その原因がその仕様の欠落の影響だということが判明した。点検修理はもちろんすべて無償、さらに部長謝罪に始末書提出の大ごとになったってことだ。もちろんこの話を聞いて雷夜が悪いと思う奴はいないだろうし、新人雷夜に誰も責任の話なんて出さない。そもそも新人が責任なんてとりようもない。プロマネは減俸処分、指導員もまあこっぴどく怒られたらしい。ただ、そういった表側の処置の裏側で、実はプロマネはわざと気づかぬふりをしたのではないか、指導員がそんな行動に出たのもやむをえないのではないか、そのくらい雷夜はいけすかない、という解釈が『感情的に』まかり通った、らしい。以降誰も雷夜の面倒は見たがらず、どんなに忙しくても仕事を回そうとはしなかった。そういうわけで、雷夜は仕事を干されることになった。ほとんど島の机にも寄り付かなくなったらしいが、何か上の取り決めがあるのか、解雇にも転勤にも異動にもならず、籍はずっとそのまま開発第一部にあった、ってことだ」
 砂映はぽかんと口を開けて烙吾の話を聞いていた。
「……ほんとうに?」
「ほんとうに。そんな状況でなんでずっと開発第一部に籍があったのかは謎だ」
「そうじゃなくて。ほんとうに、誰もその能力を活用しようとは思わなかったんですか?」
 思わず必死になって砂映は言った。
 烙吾は目許をしかめて砂映を見る。
「だってそんな、金の……黄金の卵を、そのへんに放っておくような真似……誰も、もったいないと思わなかったんですか?」
 なおも訊ねた砂映に、烙吾は険しい目つきのまま、口の端を歪めるようにしてわずかに微笑んだ。
「まあ、会社にはいろんな奴がいるがな。開発第一部はうちの会社で最も技術力のあるメンバーが揃ってる。全員プライドがある。聞いた話だと、まあ他人が作った魔法陣にも雷夜はあれこれ言ったらしい。何年か開発をやったことのある人間なら誰でもわかることだが、術式の解は一つじゃない。はっきり言って時間との闘いだ。許容範囲の値が出せる解が出ればそれでよしとする、それが会社の仕事というものだ。それを横から新卒に、もっといい解があるだろう、としたり顔で言われたら、おまえどう思う。しかも自分が数日かけて苦労して構築した術式について、一目見ただけの新人がすらすらと『もっといい解』を並べ始めたら」
「……むかつきますけど」
「だろう」
「でも、それこそ、仕事だと思って我慢すると思うんですけど。だってそれに従ってその呪文を直したら、よりいいものができるんですよ?」
「それは誰の得になる。値段はもう決まってるんだ。許容範囲の中で効率が若干上昇する、術の構造がシンプルで扱いやすいものになる、それで誰の得になる」
「……そりゃあ、お客さんにとって……」
「客が気づきもしない得をする。そのためにおまえがむかつく。それがほんとうに『いい』ことか?」
 砂映は黙る。
「……まあ、はっきり言ってしまえば、開発第一部は人手が足りていたんだろうよ。そしてそんな奴に仕事を与えた日にゃ、自分たちはやることがなくなってしまう。そう感じたんじゃないか」
 砂映は憮然とした表情になった。
 ――うらやましい話だ。
 まっさらな工場に魔法の有用性を説いて設備全部に魔法を組み込む一大プロジェクト。そんなカッコいい仕事がメインの開発第一部と、こっちはあの会社から買った魔法陣、あっちはあの会社から買った魔法陣、と機械ごとになりゆきやしがらみでちゃちな魔法陣を設置しているつぎはぎな工場向けの、魔法磁場の干渉性や影響力、他社製呪符との互換性や機械との相性などに神経を使わなければいけないせせこましい仕事が大半の開発第三部。しかもそういった、魔法環境的にややこしい状態になっている工場を持つ会社というのは、主に予算かつかつの中小企業だ。開発第一部にいたことがないので実際のところは知らないが、大手の客先はきっとそこまで金額交渉(ネゴ)も厳しくないのではなかろうか。多くの場合値切りに値切られて、はなから到底不可能な期限で無理やり構築を迫られているこちらとは、根本的な感覚が違うのだ。時間がないのに答えが出ず、頭を捩じりまわしながらひいひい徹夜している時に、瞬時に最適解を教えてくれるような人間が傍にいたら、砂映はその人を拝んでもいいと思う。死ぬほど頑張っているのに見積で設定したより大幅に時間がかかってしまって赤字覚悟、しかも納期遅れで客はカンカン……なんて事態は、雷夜一人いればすべて回避できる。まるで救世主ではないか。
「……じゃあたとえば、うちみたいな部で開発の仕事やってくれたら……」
 砂映が何気なくそう口にすると、
「もうおまえの部じゃない」
 烙吾は冷たく言い放った。
 砂映は思わずむっとして唇をへの時に曲げる。
「……もとい、開発第三部に。もしそんな奴がいたら、かなりありがたくないですか?」
「うちはそんな奴いらない」
 烙吾はきっぱりと言った。
「会社っていうのは、人と協力して仕事をする場所だ。話を聞く限り雷夜という奴には協調性がない。それにそんな奴がいたらまわりはやる気を失ってしまう。いくらそいつ一人優秀だとしても、それは部としてはマイナスだ」
 ……せっかく。せっかく人並みはずれた素晴らしい能力を持っているのに、誰にも評価されず、歓迎されず?
「……そういうものですか」
「そういうものだ」
 烙吾は立ち上がった。「ああ、蕎麦くらいなら食えるかな」独り言のように呟く。時計は十二時半を指していた。中断していた手元の仕事を再開した砂映に、烙吾は独り言の続きのように言った。「おまえはよかったのにな」
 行きかける烙吾を、砂映は呼び止めた。
「あのお。烙吾さんは、『途季さん』ってご存知ですか」
 新年会のネタの人、という答えが返ってくると思いきや、烙吾は別のことを言った。「ああ、資料室のじいさんだろ」
「……資料室のじいさん?」
「俺は会ったことないがな。噂で聞いたことがある。『資料室のトキさん』は資料について熟知しているが、気に入った人間の前にしか姿を現さないらしい」
 なんだか似たような話を最近聞いた気がする。
「会長は資料室にいるんですか?」
「会長?」
「途季さんって、会長なんですよね。社長のお父さんだとか」
「……ああ」
 烙吾は初めて気づいた顔をした。「トキさん」と「途季さん」を結びつけて考えてはいなかったらしい。「途季さんって、そうか。あの新年会で毎年言ってる途季さんか」
「……別人ってことですか?」
「さあな。で、途季さんがどうしたんだ」
「あ、いえ」
 会社の物凄い偉い人が、カスタマーサービス室の書類にハンコを押してくれていた。ということは……
「まあ、だから何という話でもなく……」
 ということはつまり、どんな関わりがあるのか知らないが、少なくとも彼は味方だということではないのか?ならばその人の力をもってすれば、メンバー全員席も与えられずに解雇への道を歩まされるなんて事態は、避けられるのではないか?あるいは今カスタマーサービス室の置かれている状況を、この人は知っているのではないか?
「……!」
 突然目を輝かせた砂映に、烙吾は不審な目を向けた。
「なんとかなるかもしれない」
「なにがどうした」
「いえ、ちょっとしたピンチが、なんとかなるかも」
「なんだ、いい解でも浮かんだか」
 実をいうと今取り組んでいる呪文は泥沼にはまっていた。はっきりいって集中できず、何度も後回しにしては別の仕事を先に片付けることを繰り返していた。しかしこういったものは気分の問題も大きい。気持が晴れれば、もう少し集中できるかもしれないではないか。
「いい解は浮かんでないんですが、浮かぶかもしれない」
「なんだそれは」
「いえ。ええと」
「その設計は明日十時までだったよな?できないとこっちは困る」
「がんばります」
 砂映はがたん、と立ち上がった。
「おまえも蕎麦行くか?」
「いえ!」
 砂映はそのまま烙吾を残して走った。資料室は地下にある。三階から、砂映は階段を一気に駆け下りた。

5.途季老人の地下資料室

 階段を下りきると、扉がある。
 資料室、と書かれたプレートがドアの上についている。
 中は真っ暗だった。紙とインクのにおいがする。人の存在を感知して灯がつく方式となっていて、一歩入った途端、自分のまわりの空間だけがぱっと明るくなる。
 砂映はここに、入社時の案内でしか来たことがなかった。よく使う専門書は自分で持っているし、部で購入したものもある。過去の案件の書類はここに納める前にコピーを取って五年は部で保管しているし、砂映の部署でそれより古い資料を必要とすることは滅多にない。図書室の開架のような空間を抜けると、移動式の書棚がびっしりと並んだ倉庫のようなフロアに入った。管理上、書籍や書類を持ち出す時は台帳に記入することになっているが、司書のような人間がいるわけではない。受付カウンターのようなものはあったが、常に無人だ。
 それにしても、おそろしく広い。
 音を吸収するカーペット敷きで、自分の足音すらしない。空間はしんと静まり返り、ただ砂映が進むごとに、暗闇が消えて一定範囲の書棚が浮かび上がる。砂映が通り抜けた後の灯は、一応ついたままだ。背中の常に明るいことが、砂映には救いに思えた。ぎっちりと並ぶ書棚を右手に砂映は奥に向かって進んでいたが、つきあたると壁と書棚の間を平行に通り抜けた。すると眼前の灯がつぎつぎにつき、これまでとは違う角度の並びで、奥までずらっとまた書棚が並んでいる。そういったことを何回か繰り返すうちに、どこをどういう方向に進んでいるのか、砂映はわからなくなってきた。うちの会社は何年設立だったろう?と砂映は考える。魔法というものは昔からあるが、今のように工業技術に応用され専門の会社ができたりするようになったのはせいぜい四十年か五十年前のはずだ。業界の中では老舗だとはいえ、それより古い会社であるはずはない。これまでに扱った案件のすべての資料を集めたとしたって、いくらなんでもここまでの量にはならないのではないか。
 試しに砂映は手近な書棚を引き出し、手前の書類を取り出してみる。技術第二部の前身、呪符量産部の二十年前の一件書類。何か取り決めがあるのだろう、客先の仕様書は記号化されていて、読んでも意味がわからない。呪符は単一魔法にしか使えないから、設計書はシンプルに一枚のみだった。検査成績書も一枚。あとは発注書や伝票の控等。書類全体がとても薄い。ともかく砂映は書類を戻す。別に自分は資料を見に来たわけではない。そうではなくて、途季(とき)老人に会いに来たのだ。資料室には椅子もない。ここにいつもいるのだとしたら、それはたぶん事務所のような別室があるのだろう。そう踏んだのだが、どこに突き当たってもあるのは壁ばかりだ。本人が昨日言っていたように、本当に、向こうがその気にならない限り、こちらからコンタクトをとることはできないのだろうか。
 無意味、ということばがじわじわと頭に広がり出した頃、遠くの方に灯りが見えた。まさかぐるっと回って自分がすでに通った場所に戻って来たというわけではないだろう。自分以外の誰かがいるということだ。砂映は早足で、その灯のともった一角に向かった。
 ぽっかりと照らしだされた空間。
 隙間なく並んだ書棚の横、決してきれいとは思えない灰色のカーペットの上に、あぐらをかいて座りこんでいる人影がある。
 脇に積みあがった、幾冊もの分厚い一件書類。彼は屈みこむようにして書類をめくりつつ、時折片端のノートに一心に何かを書き込んでいる。来年高校受験か?と訊いてやりたくなるその風貌。やはり今日も黒ずくめである。

 人の気配に気がついて、雷夜は顔を上げた。無言のまま、大きな目でじっとしばらく砂映を見る。数秒後、「あ」と小さく声を上げた。
「……昨日の人か」
「遅いだろ」
 思わず砂映はつっこんだ。少年の表情に変化はない。しばらく目が合った状態が続いたので、砂映は小さく咳払いして言った。
「あ、ええと、とりあえず、昨日はお疲れ」
「別に疲れてない」
 資料に再び目を落としながら、少年はどうでもよさそうに言う。反抗期みたいな切り返ししやがって、と砂映は思いつつ、自分は大人なんだと自分に言い聞かせる。
「あのさ雷夜くん、君はよくここに来るんだよね」
 雷夜は顔を上げずに資料をぺらりとめくりながら「ああ」と答える。
 先輩に向かってその態度は何ですか、と言いたい。言いたいが、そんないやな先輩にはなりたくない。
「そのさ、途季さんって知ってますか」
 雷夜は膝の上のノートに何やら呪文の断片らしきものをメモっている。砂映の問いには答えない。
「知らん?知らんってこと?」
 やはり無言だった。なんですか、これから同じ部署になるという先輩に向かって、無視ですか。
「このガキ」
 思わず砂映が吐き捨てると、雷夜はぱっと顔を上げた。砂映の方が、その反応に逆にうろたえる。
「あ、いやその」
「すいません、聞いてませんでした」
 黒々とした目をまっすぐに向けて、真顔で雷夜は言った。
(ちょっとは悪びれろ)
 やはり彼の指導員は、充分すぎるほどかわいそうな人だ。
 そう思いつつ、砂映は口の端に笑みを乗せて小さな子供に訊ねるように質問した。「途、季、さ、ん。知ってる?」
 雷夜は表情を変えずに、じっと砂映の顔を見ていた。はいかいいえかもまったくそこからは読み取れない。
「知ってる。知らない。どっちかな?」
 満面の笑みを作り、やけくそで砂映は問う。
 雷夜はつまらなさそうにまた資料に目を戻した。左手で持ったペン――どうやら雷夜は左利きらしい――をぺこぺこ振って、自分の右手を叩いている。「『樹氷(じゅひょう)』、『空蝉(うつせみ)』、『(つき)うさぎ』……」魔法の名前をいくつか呟き、考え込むように目をぐるっと動かして、それから唐突に、
「ああ、じいさんのこと」と呟いた。
「そうだ。じいさんのことだ」
 自分の部署の座席に寄り付かない雷夜は、おそらく就業時間の大半をここで過ごしていたのだろう。昨日会った老人は、雷夜の能力に信頼を寄せているようだった。あの老人が途季さんなのだとすれば……雷夜は途季老人のお気に入りであるに違いない。
「そのじいさんに用事があるんだ。雷夜くん、その、呼んだりはしてもらえんかな」
 前のめり気味に砂映は頼んだ。
 雷夜はまた手元に目を落とすと、ふいに一枚ノートのページをめくり、そのページにペンを走らせた。なんと贅沢な、会社の備品としては置いていない高級品、中の紙がすべて魔法用紙のノートである。さらさらと図形が描かれ、その中に呪文が書き込まれていく。「すごくきれいな魔法陣を書くらしい」という涼雨のことばを砂映は思い出した。確かに妙にすっきりと整っていて美しい。魔法文字など、テキストのお手本のようだ。
 魔法陣を書いたページを、雷夜は破り取った。
(発動する気か?)
 砂映はやや後ずさる。 
 効力を光に変換して確認するテスト稼動の場合は、専用の呪文を追記するものだ。魔法技師が社内で魔力を使う場合というのは、八割そのテスト稼動である。しかし砂映が見たところ、その専用の呪文が配置されるべき箇所に、その文言はなかった。据付時の陣の形成や昨日のような修正・調整の場合には「技師が自身の魔力を魔法陣に流す」こともするが、工場での本番稼動や一般の電化製品では通常賢者の石を用いる。人間の魔力では、魔法陣を用いたところでそう大したことはできないものだ。そう、「普通」はそうなのだが……魔力には個人差がある。雷夜が「普通」かどうかは疑わしい。そして今書かれた魔法陣がどのような作用を発現するものなのか……砂映は呪文の内容を読み取るのが苦手だった。この単語がここにあってこの並びで、ああだからこの意味に……と部分ごとに考えないとわからない。ぱっと見た限り、どうも闇にまつわる魔法のようであるが。
 雷夜は床に広げて手をかざすことはせず、破った紙を無造作に手に持ったまま小さく呪文を唱えた。紙がほのかにエネルギーを帯びて輝き出す。
 次の瞬間、天井の灯がすべて消えた。一拍置いて、雷夜と砂映の真上の数本だけが、ぽ、ぽ、ぽ、と点灯した。
「な、なにしたん?」
「電気を消した」
 どうやら即席で、そこらすべての灯の制御魔法を「可変化」してコントロールする魔法陣を作ったと、そういうことらしい。
「な、なにゆえ」
「じいさんに会いたいんだろう」
「うん」
「魔法制御で光量が増幅されているといえ、消費電力はゼロじゃない。賢者の石だって限られた資源だ」
「な、なんの話?」
「もったいないだろう」
「それはそうだけど、それは途季さんと関係のある話ですか」
「老人というのはもったいないのが嫌いなんだ」
「そうかもしれんけど。あ、ということはこれはお出迎えの準備みたいなものですか」
「なんでじいさんに出迎えの準備なんているんだ」
「え?いやその。……どういうこと?」
「質問が多いな」
 雷夜はそのまままた手元の資料に目を戻した。
 砂映は呆然と立っていた。呆然と雷夜を見下ろし、まばたきを繰り返していた。……首が痛い。こきこきと頭を左右に揺らし、手を首の後ろにやっていると、
「肉まんがふかせた」
 足元で突然声がした。
 見ると目の前に、昨日書類を持ってきた、例の小さな老人が立っている。
「ああっ」
 思わず砂映は大声を出した。
「なんじゃやかましい」
「あ、あ、あの、あー、あ、昨日はありがとうございます」
「はあ?」
「あの、すんません、あなたは途季会長でいらっしゃいますか」
「ならなんじゃ」
「その」
 突然現れたので、頭の整理が出来ていない。
「その。……」
「しょぼい魔力には肉まんはやらん」
「ええと、肉まんはいいのですが」
「泣きそうな顔をしたってやらん」
「ええと、ですから肉まんはよくて」
 老人はひどく不快そうに砂映を一瞥した。それから雷夜に目を向けると、途端に表情をほころばせ、「さあさあ」と目を細めて促す。雷夜は面倒臭そうな顔をしながら、膝に置いていたノートを脇の積んだ書類の上に載せて立ち上がった。小さな老人はにこにこと雷夜の背中を押す。
「す、すみません。途季さん。その、カスタマーサービス室のことを、ちょっと教えていただきたいというか、その、待遇について力を貸していただきたいというかっ」
 焦って言い募る砂映の顔に、ぱしん、と紙屑がぶちあたり、そのまま落ちてころころと床を転がった。
「……」
 単に投げつけただけのものではなかった。
 風の魔法で加速がつけられていた。
 放った老人は皺の奥の目を細め、にやにやと笑いながら言った。
「その魔法、発動してみ」
 砂映は黙って、くしゃくしゃに丸められた紙を拾い上げた。B5サイズの紙に、三つの円を連結した魔法陣が描かれている。やけに癖のある文字だ。一区画の中に入れるには長すぎる呪文がそれぞれの図形の中に収まっており、全体がやけに黒々としている。
「……なんでしょうかこれは」
「見てわからんのか」
 老人は呆れた目を砂映に向けた。「いいから発動してみ」
 テスト稼動用の呪文は……書かれていない。火系統らしき呪文が主体になっている。水系、土系で調整されているけれど、見たこともない単語がたくさん入っている。これはどういう……
「早くせい」老人は言った。
 こんなところで発動させて本当に危険のないものなのか、砂映にはわからない。
 まあでも、自分程度の魔力では、そもそも物や人に多大な影響を与えるような現象を発現させることはできない。魔法陣に組み込まれた術に対して、供給する魔力が必要量に達していない場合――それはたとえば、工場設置の魔法陣に嵌め込まれた賢者の石の寿命が尽きた時なども同様なのだが――そういった時は、単に「術が発現しない」という状態になる。魔法陣のどこかにねじれやつまりが発生していて魔力が全体に行きわたらない、というような状態は危険だが、単純にエネルギーが足りていないなら、それは単に「うまく発動されない」だけで、暴発等の危険は普通はない。
 ふう、と砂映は息を吐いた。
 雷夜のように手に持ったまま発動しようとすると、魔力を魔法陣の設定どおりにうまく行き渡らせるのに、呪文の詠唱が必要になる。そんな器用なことは砂映にはできない。砂映はカーペットの床に膝をつき、くしゃくしゃに丸められていた紙の皺をできるだけ丁寧に伸ばした。たぶん術は発動しない。でも、種類によっては低エネルギーモードで何かが発生することもある。
 砂映は紙の上に手をかざした。呪文は詠唱しないが、無意識に低い唸り声が口から洩れる。魔法陣に記された図形の線と呪文が、光を帯びて浮き上がってくる。
「う……う、え?」
 手の平に集中していた意識が、異変に感づいてぶつん、と途切れる。集中が切れた場合、砂映の微々たる魔力の放出はあっさり止まる、のが通常だ。
 けれども止まらなかった。
 感じたことのない吸引力が魔法陣から発生している。目に見えるものではない。けれどたとえば水中で排水口に手をかざした時のような、強烈な吸い込む力が確かにある。砂映の手の平から放出される魔力が勢いを増した。手の平に感じられる特有の「熱」のようなものが普通ではない。
「ちょっ。えっ」
 身体の中のエネルギーが、ずるずるずる、と手から無理やり引きずり出されるような感触だった。吐き気に似た強烈な眩暈がする。頭のあちこちに痛みが閃き、わんわんと耳鳴りがする。反射的に手を魔法陣から離そうとする。けれども身体の自由が効かない。手の平は、痺れたように開かれたまま、ぐうにして魔力放出をさえぎることもできない。
 魔法陣の光は強さを増す。ゆら、と炎に似たものが立ち上りかけ、砂映は霞む視界で目をこらす。ちょっと待て。自分の魔力でそんなものが発現するわけはない。もしも発現したとしたら、そんなもの……きちんと据付設置した魔法陣でもないのに、ちゃんと制御できる自信はない。
 ぐぐぐ、と砂映は奥歯を噛みしめた。
 やばい、本当に吐きそうだ。
 痺れたような手の平の、魔力放出している部分だけが熱く、指先は冷気に突っ込んでいるかのようにひんやりする。視界がもやがかってきた。かざした両手の腕が、ぶるぶると震えだしたかと思うと、突如ぶちん、と何かが切れたように解放された。何か発生しかけていたものが、それで瞬時に消え失せて、砂映は後ろにひっくり返った。
「あほか」老人が言った。「しょぼいと思ったが、これほどとはの」
 老人は砂映に背中を向けると、雷夜に向かって「いかん、肉まんが冷める!」と大声を出した。雷夜も老人に続いて歩き出したが、ちろりと砂映の方を振り返ると、手に持ったままだった魔法陣をふいと持ち上げて天井に向けた。
 空間を走るように、次々と灯がついた。さきほど消した灯だろうか。雷夜が例のリモコンでつけたらしい。
「雷夜は優しいなあ。さすがわしの孫じゃ」
 老人のことばが、ひっくり返ったままの砂映の耳を打った。

 肉まんの、蒸した水蒸気のにおいがした。
 ぼんやりとした視界の中、何かを抱えて心配そうにこちらを覗いているその顔は、……熱海さん?
「あの……大丈夫ですか?」
 熱海さんではなかった。
 さほど低くはないが、男の声だ。
 砂映は目を凝らした。徐々に視界の鮮明さが戻ってくる。身体を起こし、改めて相手を見る。身を屈めて立っているのは、秋良だった。
 砂映はむくっと上半身を起こした。一瞬めまいがしたが、すぐに消えた。まばたきをしながら、まわりを見渡す。それから秋良に視線を戻す。
「そうか……秋良くん、そういうことか」
「え?」
「秋良くんもよくここにいらっさると?」
「え、ええまあ……」
 秋良も、きっと途季老人のお気に入りなのだろう。
 そんな雷夜と秋良が配属されたカスタマーサービス室。座席なんていらない。なんせ元から彼らの居場所はこの資料室なのだから。
 でもじゃあ、なぜ自分はそこに入れられたのか。
「あの、そんな泣きそうな顔しないでください。肉まん、砂映さんにもあげますから」
 秋良は言って、抱えていた白い包みをがさがさと覗いた。
 断じて途季老人のふかした肉まんなんぞほしくない。そう砂映は言いたかったが、気がつくと腹がえぐられるように減っていた。混雑する昼休みを避けてコンビニに行こうと思っていたのだ。遠くの時計が一時半を指している。
「あの、ちょっと待っててください」
 二人分には足りないと判断したらしい、秋良は来た道を取って返し、小走りで去って行った。向こうに彼らの「居場所」があるらしい。……が、今砂映が行ったところでどうせ途季老人はこちらの話など聞いてはくれないだろう。
 しばらくすると、息を切らすようにして秋良が戻って来た。
「自動販売機のコーナーにベンチがあるんです。僕はそこで食べようと思ってて」
 座りこんだ砂映の前で、秋良は横の空間をにらむように言った。その肩に、こわばった緊張が見て取れる。人と接するのに慣れていないんだなあ。砂映はそんな風に思った。けれどそれでも懸命に、自分を気遣ってくれている。
「うん……ここでクサっててはいかんよなあ」
「え?」
「うん、いかんいかん」
 ぐっと手をつくと、力を込めて立ち上がる。
 自動販売機のコーナーで、砂映は秋良に烏龍茶をおごった。まだぬくもりの残る肉まんを包みから取り出し、秋良は砂映に渡した。誰がふかそうが肉まんに罪はない。そして誰がふかしたかに関係なく、肉まんは充分すぎるほど美味かった。
「え、じゃあ砂映さんは、会社に入るまでまったく魔法構築に関わったことなかったんですか?」
「ん」
「それでどうやって?どうやって今まで」
「ええとだから、入ってから教えてもらって。いろんな人に教えてもらって。いろんな人捕まえて無理矢理教わって。わからんかったらともかく訊いて。今でもわからんことあったらそうしてて」
「ああ、それで……!あ、いえ」
「それでそんなにいろいろしょぼくていろいろ足りてない感じが」
「そ、そこまで言ってませんよ」
 話すうちに秋良の緊張がほぐれてきたのが、砂映には嬉しかった。
「秋良くんはいつから魔法学んでんの?」
「あ、ええと……その、だいぶ昔です」
「昔?え、もしかして子どもの頃から?」
「ハイ」
「おお、そうなんだ。すごいなあ。魔法塾に通ってたとか」
「それは……はい。その……でも、小さい頃から習ってたんですけど、逆に頑張ったのは子どもの頃だけっていうか。私立の中学受験して、そこの魔法学科コースで大学までエスカレーターで、その……すごい子もたくさんいたんですけど、僕はあんまりで、あんまりでも、卒業できてしまう感じだったので、その」
「そっかあ。逆にそういうとこにいると、凄い人がいすぎて大変そうだなあ」
「特待クラスの子が僕たちに講義をする、なんてこともあったんですけど、何言ってるかさっぱりわからないんですよ」
「ハハハ。雷夜はもしかしてそんな感じだったのかなあ」
「いえ、雷夜さんは、学校で魔法を学んだことはないって言ってましたけど……」
「そんな馬鹿な。うちの会社はほぼ魔法学部出身でしょ。いや俺みたいなのもいるけど。だいたい、じゃあどこで」
「大学は魔法学部らしいですけど、そこで学んだわけではないって」
「それはつまり、俺様は元が凄いから、誰かに教わるようなことは何一つなかったぜっという……そういうこと?」
 雷夜くんはほんとすごいなあ、何様かなあ、ハハハハ、と砂映が乾いた笑い声を上げていると、秋良がうろたえたように砂映の後ろを指さした。
 んあ?とそっくり返るようにして、ベンチに座ったまま砂映は振り向く。そこに立っているのは、黒ずくめ中学生男子、もとい話題の雷夜・F。
「あ。あ……あ、雷夜くん。や、やっほー」
 雷夜は砂映を一瞥すると、無言で自動販売機に向かった。何の感情も読み取れない真っ黒い目の無表情、それが砂映には怖い。
「雷夜くんは凄いなあ、と今言ってたんだよ、うん」
 一応嘘ではない。
「あ、雷夜くんも肉まん食べる?あ、違うか。もう食べたよね」
「……」
 砂映たちには背を向けて、自動販売機の前で雷夜はじっと立ち尽くしている。飲み物のボタンを押すこともせず、というか硬貨すら入れず、微動だにしない。どうしよう。実は傷ついているのだろうか。砂映は気まずく考える。悪口というほどの悪口ではないと思うが、好意的に話していたとは言い難い。些細なことかもしれないが、これから同じ部署だというのに、こういうのは、よろしくないのではなかろうか。
「あ、えっと……雷夜くん、その……」
 かたまったように動かない雷夜に、砂映は再び呼びかけてみる。秋良は脇で固唾を飲むように、雷夜と砂映を見比べていた。
 雷夜は振り向きもしなかったが、かなりの間を置いて、ふいに言った。
「コーヒー百二十円」
「へ」
「コーヒーは百二十円なんだな」
「……ああ、うん」
「お茶は百円」
「うん。……うん?」
 そのまま雷夜は口をつぐんだ。
 砂映たちには背中を向けたままなので、その表情はわからない。
「雷夜くん。その……どったの?」
「……」
「雷夜くん」
「……お茶なら買える。コーヒーは買えない。でも俺はコーヒーが飲みたくてここに来た」
「雷夜くん、ええと」
「選択肢は二つある。一.お茶を買う 二.何も買わないで戻る。そして選択肢二はさらに二つに分岐される。a.コーヒーは諦める b.お金を取り、再びここに戻る。
 この第二の選択は、コーヒーを飲みたいと言う欲求と、往復するのは面倒くさいという気持と、どちらを優先するかの問題になる。だが二の分岐を考える前に、まず第一の選択をしなくてはいけない。お茶を買って戻り再びここに来てコーヒーを買うという選択肢はない。よって一を選べばその時点でこの問題は終了する。結果から見た選択肢設定をした方がこの場合シンプルかもしれない。一.お茶を買う 二.コーヒーを買う 三.何も買わない それぞれにメリットとデメリットがある。それぞれを数値化して検討する必要がある。その場合、俺がどれほどコーヒーを飲みたいかということをまず考えなくてはいけない」
「ちょっと待て雷夜くん!」
 砂映が大声を出すと、初めて雷夜は振り向いた。
「ええとつまり、百円しか持ってないけどコーヒーが飲みたいんだな?」
 砂映が訊ねると、雷夜は表情を変えずにこくん、と頷く。
 百円硬貨一枚だけを握りしめてやって来たなんて、まるで子どものおつかいだな。しかもお金が足りないとか。なおかつ素直に他人に頼ったりもできないとか。正直、ちょっと微笑ましいじゃないか。
「うん。よし」
 砂映は立ち上がると、自動販売機の中に硬貨を入れた。
「先輩がおごって進ぜよう。どのコーヒーがいいん?」
 訊ねると、雷夜は顔をしかめた。「いや。おごらなくていい」
「なんだよ。遠慮しなくていいよ」笑いながら砂映が言うと、
「やたらとおごりたがる奴にろくなのはいない」
 ぼそりと言い放ち、雷夜はブラック無糖を躊躇せず押した。
 呆気にとられる砂映の前で、雷夜はかがんで缶を取り出すと、先ほどまで砂映が座っていたベンチに押し付けるように百円硬貨を置き、
「二十円は今度返す」
 振り向きもせずにそう言って、すたすたと歩き去った。
    
 自動販売機コーナーを一歩出たところで、雷夜は異変に気付いた。廊下の先に資料室の扉がある。扉は閉まっているけれど、灯りが漏れている。先ほど出る時に、すべて消したはずだ。老人か?いや、途季老人が入り口付近の電気を点ける可能性は低い。……他の誰かがいる、ということだ。別に社内の誰かが来ることはあるし、閲覧者がいれば灯りがついているのは当然だが、けれど……それにしては静かすぎる。自然に動く、人の気配というものが、感じられない。
「おひさしぶりですねえ」
 扉を押して中に入ると、脇から湿った声がした。首を傾けるようにして、雷夜はそちらに目を向ける。開架の本棚を背に、爬虫類を思わせる、坊主頭の長身の男が立っている。
「……どうも」雷夜は短く答えた。
「お元気そうでなによりですよ」
 男のさらなる挨拶には、雷夜は何も返さなかった。男はにいと笑うと、「いや、それにしてもねえ」棚にもたれ、長い脚を投げ出すようにしながら言う。
「雷夜、あなたはなにをやってるんですか」
 無言のまま面倒くさそうに目を細めた雷夜に、男――鯉留はなおも言う。
「聞きましたよ。入りたてで失態を犯して以来仕事を干されているとか。ねえ、何をやってるんですか。時間は無限にあるわけではありませんよ。あなたは自分の人生をなんだと思ってるんですか」
 雷夜はまばたきをした。何か言おうとするように口を開きかけたが、結局、何も言わなかった。大きな黒い目を鯉留の坊主頭に向けただけだった。そのまま脇を通り過ぎようと雷夜が踏み出すと同時に、頭上の灯りがいくつか点く。
 その時、鯉留がひら、と何気なく右手を振った。と同時に、今点いたばかりの灯が消えた。
「!」
 雷夜はぱっと振り向いて鯉留を見た。鯉留の手には魔法陣も何も握られていない。手に何かが書かれている、ということもない。呪文の詠唱だって聞こえなかった。それなのに、灯りが消えた。
「何をした?」
 目を大きく見開いて食いつくように訊ねた雷夜に、鯉留は微笑んだ。「新しい技術ですよ。あなたの大好きな」
 雷夜は鯉留に突進すると、先ほど鯉留が振った右手を両手で掴んで持ち上げた。遠慮を知らない子どものしぐさでその手の指をこじ開ける。人差し指と中指のくっつきを引き離すと、挟まれていた米粒大のものが、ぽろりと一つこぼれ落ちた。
「おやおや。小さいので、どこに行ったのかわかりませんね」
 なすがままで笑っていた鯉留が愉しそうに言うのを無視して、雷夜は身を屈めた。灰色のカーペット敷きの床から、今落ちたものを迷いなくつまんで拾い上げる。
 指に挟んで目を凝らして見ると、小さな白い硬質の素材に、肉眼ではほぼ読むことができないような小さな黒い文字が書き込まれている。形からしてどうやらそれは魔法文字であり、内容はおそらくここの灯の作動に干渉するものだ。
「いろいろと可能性のある技術だと思うんですけどね。それ一粒の値段、聞いたらびっくりしますよ。そこまでの大きさに縮小することもだし、その白い粒の素材そのものもね、まだコストがかかりすぎるし、正直なところまだ実用化に耐えるものではない。そこまでの小ささに縮小しても力を発揮する精度の魔法文字を書ける人間は、技師をやってる人間の中にもそうはいないしですし。……あなたの書く魔法文字なら十分有効でしょうがね」
 雷夜はしばらく白い粒を光にかざして見ていたが、じきに飽きた。文字が読めないので、それ以上、観察のしようがない。魔法に関わる道具や素材に対してマニアックな興味を持つ技師もいるが、雷夜はそうではなかった。手に押し付けるようにして、鯉留にそれを返す。
「ここの灯りの制御魔法はここ特有のものだ。それはここでしか使えない。……金をどぶに捨てたのか」
「どぶに捨てたつもりはありませんよ。だってそれのおかげで、あなたと会話が続いている」
 にっこり笑って鯉留が言ったので、雷夜は顔をしかめた。
「わかってますよ。あなたの興味はこういうものにはない。でも、あなたがやりたいことを、あなたはこの会社でできているのですか?」
 雷夜は答えなかった。かわりに別のことを――根本的なことを訊ねた。
「何しにここに来た」
「この地下の資料室に――ということなら、答えは一つ。あなたに会いに来たんですよ。このビルに、ということなら、それはいくつかアポがありましたがね。なんせ松岡DMCは弊社の重要顧客ですから」
「ここは社内の人間しか入れないようになってるはずだ」
「方法というのはそれなりにあるものですよ」
「……俺に用事があるなら、さっさと用件を言ってくれないか」
「つれないですねえ。久しぶりにお会いできたのに」
 大袈裟にため息をついて肩をすくめてみせる鯉留に、雷夜は背を向けて歩き出した。灯りがつかなくても、別にかまわない。たとえ真っ暗でも奥の事務所に行ける程度には、歩きなれている。
「……いいんですか?私みたいなのを、こんな重要書類の宝庫に野放しにしておいて」
 歩き出した雷夜に、鯉留は愉しそうに呼びかけた。雷夜は無視して歩き続ける。すると背後で、鯉留は大声で笑い始めた。
「思ったとおりだ!あなたはこの会社に何の愛着もない。そうでしょう!」
 雷夜は立ち止まった。資料室には他に誰の気配もない。途季は事務所にいるはずだし、秋良と砂映はまだしばらく自動販売機のところにいるだろう。誰もいない。誰も来ない。
「だったら、意味はない。ちがいますか?会社への愛着、それはすなわち一緒に働く人間への愛情だ。あなたはこの会社の人間たちが困ろうがどうしようが、知ったこっちゃない。ねえ、ならなぜいつまでもここにいるんです?あなたの失態、何があったか想像がつきますよ。あなたを妬み足を引っ張ることしかできない、そんな人間ばかりのこんな会社にいて、一体何の意味があるんです?
 うちに戻れば、あなたは好きなことができる。あなたは特別な人間だ。その能力を最大限発揮できるよう、私たちは万全のサポートをする準備がある。私はあなたにそれを言いに来たんです、雷夜。こんなところで不本意な待遇を受けているなんて、心底腹が立つ。あなたは自分の価値をわかっていない。あなたのその才能は、こんな会社で腐らせていいものではない!」
 いつもの資料室が、別の空間のように雷夜には思えた。
 暗がりの中にぽっかり浮かんだ光の中で、鯉留は滔々と訴え続ける。
「いつだって構いません。何も気にしなくていい。何の気兼ねもいりません。今日でも明日でも明後日でも、一週間後でも一か月後でもいい。研究所の電話番号は、今でも覚えているでしょう?電話一本で、いつでも迎えに行きますよ」
「……俺は」
 暗がりの中に紛れるように立ちながら、雷夜は口を開いた。
「異動したんだ」
 自分の発した声の頼りなさに、雷夜は自分で驚いた。もう少し、堂々と言えたっていいはずなのに。
「それがどうしたんですか?」見透かしたように鯉留は言う。
「ねえ雷夜、それがどうしたんですか?どうなんですか、異動したらあなたは人と和気あいあいと仕事ができるんですか?できそうなんですか?あなた自身、とてもそう信じているようには見えませんよ?ねえ、ぜひとも聞きたいものだ。室長薮芽。入社十年目の砂映・K。入社四年目の秋良・M。たしかその三人でしたよね。どんな感じなんですか?あなたの能力にまるで嫉妬せず、あなたの内面を理解し、ありのままを受け容れてくれたりするんですか?」
 雷夜は返事をしなかった。鯉留は構わず続けた。
「話をしましたよ、砂映・Kとね。彼の前で試しにあなたのことを褒めてみたら、顔をしかめていた。そういうものですよ。そういうものです」
 雷夜は暗闇の方を見つめた。鯉留に背を向けて、そのまま黙って歩き出す。
「何も心配はいりませんよ。すぐに昔みたいに仕事ができます。あなたの才能をこんなところで浪費しないでほしい。どうです、まだ今すぐには決心できない?結構です、電話一本、それでいい。待っています。いつもいつまでも待っていますよ」
 雷夜は足を止めなかった。けれども紙とインクのにおいに満ちた資料室の中に、鯉留の声はいつまでもこだましていた。

 静まり返ったオフィスの中で、砂映は一人で残業をしていた。時計の針は十一時をまわっていた。構築中の術式の問題解決方法は、まだ見つかっていなかった。頭を切り替えるために、砂映はそれを中断して、マニュアル作りの作業を始めた。注意事項を書き込むために資料をコピーし、戻ってくると机の脇に雷夜が立っていた。
「うえっ」思わず砂映は声を上げた。この前もそうだが、仕事を干されているはずなのに何でこんな時間までいるのだろう。資料室で魔法陣を書き写したりしている、あの作業をこんな時間までしているのだろうか。残業手当、なんてものはもちろんもらってはいないだろうのに。いや、もしかしてもらっているのか。というか社長の血縁なら、そんなことはどうでもいいのか。
「こんな時間まで残業してるのか」自分のことを棚に上げて、雷夜は非難するように訊ねた。「仕事が多いのか」
「ああ、まあね」昼のことで若干気まずさを覚えつつ、砂映は応える。「その……雷夜くんはこんな時間までなにしてらっさったの」
「さっきまで、十三年前の案件を見ていた。過去の事例を研究しているんだ。この会社の魔法陣の構築の傾向やくせについて」
「へ、へえ」
「無駄に冗長で非効率な魔法陣が多い。例えば『炎玉(ほのおだま)』を使っていることで『みぞれ』の冷却効力がゼロになっているものがあった。炎系の動性エネルギーが必要なら、そこは『炎玉(ほのおだま)』ではなくて『(おど)()』を使用すれば無意味な相殺が発生することもなく、しかも動力は二倍になる。『(おど)()』の拡散性が過剰で制御の必要が出てくるが、それは呪文を二分割して間に『はにわ』でも挟み込み、数値調整すれば何の問題もない」
「そうなんだ」
「全体に、この会社で作られている魔法陣は大雑把すぎる。数値調整せず、魔法事典に載っている基本形の値のまま無理矢理組み込んでいるものが驚くほど多い。相乗や相殺はよく使っているが、呪文の分割や一部使用は滅多に見られない。そして同じ術ばかり選定するきらいがある。火系が必要なら『火鼠(ひねずみ)』『鳳凰(ほうおう)』『火柱(ひばしら)』『炎玉(ほのおだま)』、よくて『漁火(いさりび)』『カグヅチ』、特に『火鼠(ひねずみ)』だ、馬鹿の一つ覚えみたいにどれもこれも『火鼠(ひねずみ)』だ。もっと適切な術があるのになぜそれを使わない。『流星(りゅうせい)』『ほたる』『くすぶり』『熾火(おきび)』『走馬(そうま)』あたりをこの会社の資料で見かけたことは一度もない。そんなマイナーな術でもないはずだ。今年の魔法技術試験にだって『ほたる』の名前は例文に出ていた」
「そうなんだ」
「風系魔法と炎系魔法の動性に関する基本的な誤解もよく見られる。炎系魔法の動性の本質はランダムなものだ。たとえ直進設定がされている『走馬(そうま)』であっても、術の成り立ちから考えればそれは追加仕様的なものなのに、それがわかっていなかったりする。移動要素を取り入れるために炎系魔法を組み込むなんて愚の骨頂だ。無駄が多いし魔法陣の脆弱性にもつながる。根本への理解がなってない。『ヒガンバナ』と『花火(はなび)』を混同するような、厳密さの軽視が招くいびつさについて考えが足りな……」
「あ、ええと」
 抑揚のない口調で語り続ける雷夜に対して、砂映は何とか口を挟みこんだ。
「その……あのさ、ごめん。何の用?」
 雷夜は口を閉ざすと、大きな黒い目でまじまじと砂映を見た。あまり感情が出ない顔つきで、けれどもそこに、ほんの少し、拗ねた子どものような色がある。砂映はもう一度謝った。「あ、いや、悪い。たださ。その……話が見えんもんだから」
「この会社で作られた魔法陣はお粗末だという話だ」
「へ、へえ……」砂映はぼりぼり頭を掻く。「なんでその話を今俺にするんだろう?」
「……」
 雷夜は一度目をそらし、再びまじまじと砂映を見ると、
「二十円を返しに来た」と突然机上の散らかった書類の上に硬貨を二つ置いた。
 どこからも取り出した様子はなかったので、どうやらずっと手に握りしめていたらしい。
「あ、り……律儀にどうも……」
「じゃあな」
 あっけにとられる砂映に背を向けて、雷夜は去ろうとする。
「あ、おい、待て」砂映は思わず呼び止めた。
「なんだ」雷夜は振り返らずに答える。
「ああ……ええと」砂映自身、なぜ呼び止めたのか自分でもわからなかった。ただ何となく、いつもよりほんの少し前屈みな少年めいた背中に、呼び止めてほしそうな気配を感じてしまったのだった。
「あ。あ……そうだ。これ。この術式って、どうしたらいいと思う?」
 振り向いた雷夜に、砂映は呪文の下書きを差し出した。さっきまでやっていたがどうにもうまい解が見つからない、例の分だ。期限は明日だというのに。
「……なんでこんなことしてるんだ?」紙を受け取って一瞥すると、雷夜は言った。
「あ、と、それはどういう意味」
「『みぞれ』と『関取(せきとり)』の値調整がうまくいかないのはわかるが、そもそもなんでここに『関取(せきとり)』を配置するのかわからない。何がやりたい魔法なんだ。仕様書はないのか」
「……これ」
 ホッチキスで留めた仕様書を手渡すと、雷夜はカーペット敷きの床の上に座りこんだ。その辺の誰かの椅子に座るよう砂映は促したが、雷夜は反応さえしない。学生みたいな紺の肩かけ鞄をごそごそすると、中からノートと筆記用具を取り出し、屈みこむようにして猛然とペンを走らせ始める。
 砂映はしばらくそのさまを眺めていたが、やがて自分の作業に戻った。他に残業している人間はいないのでフロアは真っ暗で、砂映の島だけがぽっかりと灯りのもとに浮かび上がっている。子どもの頃のことを、砂映はふと思い出した。砂映は一人っ子だが、従弟たちがしょっちゅう砂映の家に遊びに来ていた。砂映が机に向かって勉強しているその足元で、一番年下の従弟はよく鉛筆を握りしめて寝そべっていた。「もうちょっと待て。あとちょっとで宿題終わるから」一緒に遊ぼうとしつこくせがむ従弟にそう言って待たせていたのに、いざ砂映が宿題を終えて声をかけても、その従弟は絵を描くのに夢中になって砂映の声に反応すらしない。砂映は本か雑誌に手を伸ばし、そのうち飽きて別の部屋に行ったりする。戻ってくると日が暮れて部屋が真っ暗になっていて、なのにその真っ暗な中で、目を凝らさないと手元もちゃんと見えないだろう状態で、従弟は鉛筆を動かし続けていた。灯りをつけても顔も上げない。声をかけても返事もせず、一心不乱に自分の世界に没頭していた。
 雷夜が現実に戻って来たのは、およそ二時間が経過してからだった。席をはずしていた砂映が戻ってくると、雷夜は顔を上げ、今がいつでここがどこかわからないような表情で呆然とまわりを見回していた。給水器で汲んできた水の紙コップを差し出すと、小動物のように両手で受け取ってすぐさまそれを飲み干した。大きな黒い目で何度もまばたきし、しばらくしてようやく自分が人間であることを思い出したらしい。
「……ん」
 ややバツの悪そうな顔で、雷夜は呪文を書いた紙を砂映に差し出した。端正な魔法文字が、びっしりと並んでいる。砂映が九割まで書き上げていた呪文とは、使われている術からしてほぼ別物だ。
 ……砂映がこの案件に着手したのは十日前だった。魔法事典やハンドブックの助けを借りつつ仕様書とにらめっこして術を選定し、呪文を書き出してあっちを書き換えこっちを書き換え、最後の調整段階に入ったのが今朝。もちろん他の仕事も並行しているしずっとやっていたわけではないが、それでも合計すれば、問題にぶち当たるまでの段階で十時間、いや十五時間くらいは費やしているだろう。それが全部無にされた。二時間で、まったく別のものにされてしまった。
 紙を握りしめ、ふう、と砂映はいったん大きく息を吐く。
 それからへら、と笑った。
「あのさ、これ……ここ。ここにくっついているの、何ですか?」
「『黒点(こくてん)』を分散させている。これと、これと、これ。この部分は『ほたる』と『(かすみ)』と『土竜(もぐら)』に影響して、別魔法陣との連結を安定させると同時に出力温度を下げる働きをする」
「ええと、こっちは?」
「『ヒル』の後半の呪文だ。『ヒルの尻尾』と呼ばれてる部分で、力の流れに垂直の動きの制御に影響する。これを入れておくと『なだれ』がスムーズになる」
 砂映はあれこれ質問した。自分の担当分としてこの設計書を提出するからには、せめて内容を理解していなければならない。予想に反して馬鹿にされることもなく、雷夜は細かく説明してくれた。確かに自分はまだまだ知らないことがある、とは思っていたが、それどころではなく、魔法そのものについて、根本から認識を改めさせられる部分がたくさんあった。「へえ」とか「ほお」とか、何度感嘆の声を洩らしたかわからない。気がつくと、窓の外がうっすらと白み始めていた。
「うわあ、やべえ……」
 差し込む光に気がつき、砂映は目をしょぼしょぼさせた。雷夜も魔法陣から顔を上げ、窓の外に目をやる。相変わらず人形のように無機質に整った幼い顔で、眠そうな様子は微塵もない。
「徹夜つきあわせて悪かった。とりあえず俺は始発でいったん家に帰るけど……」机の上を軽く片付けながら砂映は言った。
「そうだな。俺も」
「そういや家ってどこ」
「……東」
 言うと雷夜は筆記用具やノートを鞄につっこみ、立ち上がった。
「あ、灯り消して施錠入力するからちょい待……」
「じゃあな」
 肩に鞄をかけ、窓を背に立った雷夜は、影そのもののように見えた。
 大きな黒い目がじっと砂映を映していた。逆光のため、実際はその表情も、もちろん目も、砂映からは翳って何も見えてはいなかった。けれどもなぜか、そのような感じがした。
 一瞬の後、雷夜は一人で歩き去った。

6.雷夜の失踪

 朝一番。開発第三部での砂映の引継ぎは本日入れてあと二日、という九月二十七日木曜日。いつものように砂映が家に帰って仮眠をとり、多少身なりを整えて出勤した直後の午前九時のことである。
「困るんだよねえ」
 でっぷりと肥った総務部所属の砂映の同期、呉郎は現れるなりそうのたまった。
 大変珍しいことだ、と砂映は思った。総務部のある四階から、開発や技術の部署がある三階に呉郎がやって来るなんてことはめったにない。提出書類の不備などがあれば、呉郎はいつも内線で呼びつける。それなのに自らやって来るなんて。たぷんとした顎を上向けるようにして不遜な顔でこちらを見下ろしているが、その実これは、平身低頭モードなのだろう。
「ああ……おはよ。ええと、何が?」
 立つと上から見下ろすことになるので、敢えて座ったまま砂映は訊ねた。見上げる砂映の机の上に、呉郎は折りたたんだ紙を放り投げた。
「辞表」
「へ」
「言っておいてくれないかな。いきなり総務部に出されても受理できないって」
「え?」
「上司認証がいるんだよ。しかも彼、異動の辞令が出ているじゃない。異動前の上司と異動後の上司、両方のハンコを貰わないと」
「ちょ。ちょい待って。辞表って、誰の辞表」
「開いて見ればいいじゃない」
「え?あのさ。他人の辞表、見ていいの」
「いいんじゃないの。内容ほとんどないし」
 いいのか?
 不信の目で呉郎を見つつも、指でつまむようにして三つ折りの紙を開く。総務部の脇の棚に置かれている、会社の所定用紙だ。書き込まれているのは、名前だけだった。

 退職願

 一身上の都合により、 月  日  をもって退職いたしたく、お願い申し上げます。

    年  月  日

    名前:雷夜・F
    所属:
      
松岡デラックス魔法カンパニー 
          殿

「普通はさあ、上司経由で総務部に話が来て、総務部と面談してから書くわけ。で、上司認証してから、こっちに回ってくるわけ。『一身上の都合』じゃない具体的な退職理由も一応面談で訊いておかなきゃいけないし、説明しないといけないこととかもあるわけ。まあ、いいよ?いきなり会社来なくなる奴だっていないわけじゃないし。だけどこれ」
 呉郎はさらにもう一枚紙を放った。今度は折りたたまれてもいなかった。「誓約書」。会社をやめても、この会社で得た情報はよそにもらさない、という内容だ。
「総務部長命令。これがないと困るって。……今までももらえなかったことはあると思うんだけどね。なぜか今回は血相変えてた。しかもハンコだけじゃ駄目。面談の場を設けるから本人連れて来いって」
「ええと、それは俺に言ってるの」
「だって同じ部署じゃない」
「あ、いや、でも。……会社には来てんの?」
「さあ。いるならすぐに連れてきて」
「え、いや、だから」どこかおかしいと思うのにどう言っていいのかわからずに必死でことばを探す砂映に、
「……僕は親切なんだ」
 呉郎はそう言うと、なぜか照れたように微笑んで目をそらした。呆気にとられる砂映を尻目に続ける。「一昨日君が座席がないことを気にしていたから、あの後念のため部長に確認したんだよ。『カスタマーサービス室の座席は本当にいらないんですか?』って」
「!それでなんて言ってた」
「いらないって」
「あ、そう……」
「でも、今朝になって言い出したんだ。雷夜を連れてきたら、カスタマーサービス室の座席を用意しようって」
「……え?」
 一瞬喜びそうになる。
 あれ、でも、それって何だか、おかしくないか?
 会社の座席、しかも一部署の島全体が、そんな総務部長の気まぐれで用意されたりされなかったりするものなのか?そんな、個人の雑用のご褒美的なものなのか?
「へ、ということは、雷夜を連れてくるようにって、総務部長が俺に言ってんの?」
「当たり前だよ。いくら僕でも、総務部の仕事を独断でおまえに押し付けたりなんてしないよ」
「ええと、でも、悪い、よくわからないんだけど」
「僕だってわからないよ」
 呉郎はずんぐりした頭を、起き上がりこぼしのだるまのように左右に振った。肩と頭部の境目の、おそらく首が埋もれているあたりをとんとんと叩くと、
「ともかく雷夜を連れてきて」
 そう言って、ふわあとあくびをし、たぷんたぷんとあちこち揺らして去って行く。
「ちょ、え?ちょい待って」
「僕は忙しいんだ」
 もはや呉郎は振り返らない。
 退職願と誓約書、二枚と共に座席に残された砂映は、開発第三部の面々の視線を感じて顔を上げた。全員が、さっと目をそらした。
 例外は、熱海さんだった。
 彼女は今日も美しく、しかし今日の彼女は微笑まず、潤んだ目で何か言いたげに砂映を見つめている。何だかよくわからないが全身の血がたぎるような感じがして、砂映はぶるぶると肩を震わせた。視界の中で熱海さんだけが大写しになっている。いかん。視界を平常モードに引き戻し、その時になってようやく、砂映はもう一人の例外に気がついた。いつもどおりの苦虫を噛み潰したような表情の、烙吾だ。
「……ちょっといいか」
 作業をせずに油を売ったりしていたら怒られること必至だ。一気に脳を冷された気分になって慌てて書類を引き寄せていると、いつの間にか回り込んできた烙吾が砂映の肩を叩いた。呆気にとられる砂映に、烙吾は空いている会議室の一つを指し、来い、と促す。
「え?」
 部の面々の視線が、また一斉に向けられている。その中で、ひときわ輝くもの言いたげな熱海さん。いや、だからそんな場合ではなく。
 砂映は慌てて烙吾の背中を追いかける。

「仕事の状況は、どんな感じだ」
 砂映が扉を閉めると同時に、烙吾は口を開いた。
「あ、ええと」
 椅子を引いて烙吾の向かいに腰掛けながら、砂映はざっと説明する。引継ぎ書の作成はあと少し。回答の必要な問い合わせが十件くらいある。作らなくてはいけない見積が五件ほど。開発案件については残り一件が、概要設計を終えたところで今から呪文の細かい調整に入るところ。
「保守案件の細かい注意点について引継ぎ書に入れておきたいんですが、それは今日中に終わらせます、あと……」
「いやもういい」
 話を遮る口調で言われ、砂映は目をぱちくりとさせた。
 烙吾は苦り切った顔で黙り込んでいる。
「あの……?」
 砂映が訊ねると、
「おまえはもう、出て行っていいから」
 テーブルを睨みつけるようにして、烙吾は言った。
「え?」
「今ある仕事は全部置いていけ。あとは俺がやる」
「どうして」
「そういう指示があった」
「ど、どこから」
 砂映の問いかけに烙吾は目だけを上げ、押し殺したような声で言った。
「熱海だ」
「へ。え?」
「熱海がそう言ってきた。おまえが自由に動けるようにと」
「ちょちょ。ちょっと待ってください。え?烙吾さんと熱海さんって……でででデキてたんですかっ」
「阿呆」
 吐き捨てるように烙吾は言うが、砂映には訳がわからない。
 なんで今の話で熱海さんが出てくるのか。年齢的にも職制的にも烙吾の方が上である。なのになぜ、熱海さんが指示をして、それに烙吾が従うのか。
 うろたえる砂映に、烙吾は顔を上げた。むしろ意外そうな顔をしている。
「おまえ何も知らんのか」
「なにって、なに……」
「熱海が頼んでくるぐらいだから、おまえ自身はてっきり……」
 烙吾はじっと見極めるように砂映を見た。「そうかおまえ。ほんとに何も知らないんだな」烙吾の顔に同情の色が浮かんだ。
「……これからおまえに教える人間がいるかわからないからな……」そう言うと、ため息をつき、「管理職なら大抵……役付ならまちがいなく知っている公然の秘密ってやつだ。ただし不用意な口外があったら首が飛ぶ。いいか?肝に銘じておけ。絶対表に出すなよ」鋭い目をして言う。
 烙吾の真剣さに、砂映はとりあえずこくこくと頷いた。いまいち頭がついていかない。慢性睡眠不足、それだけが理由とは言い切れない。
「熱海はうちの現社長の娘だ」烙吾は言った。「普段はそんなこと特に意識してないし、彼女は事務職としてよくやってくれている。俺がチーム長になってから……熱海がそうだと知ってからも、こんな風に実際に上から物を言ってきたことなんてこれまで一度もなかった。今回が初めてだ。だからよくわからんが……会社にとって、何か大変な事態が起きているんだろう。その大変な事態の渦中に、おまえはいるってことだ」
 熱海さんが社長の娘?
 雷夜が社長の甥のはずで、ということは、雷夜と熱海さんは従姉弟同士?
「社長の、娘……」
「だからって態度を変えてやるなよ」
「それは、そうですけど……」
 熱海さん。素敵な熱海さん。社長の娘。そうか、社長の娘なのか。あふれる気品はそのためか。いつも上品な佇まいなのはそのためか。ええと、それで……それで……なんだろう。
 その時、扉がノックされる音が響いた。間を置いて、同じチームの事務職の子が慎重に顔を覗かせる。
「お話し中すみません。砂映さんに高倉ディーゼルさんからお電話で……すごく急ぎと言われて、その」
「俺が出る」
 烙吾が立ち上がった。伝えた事務職が目を丸くしている。
「おまえはさっさと行け。資料は机にあるんだろう?勝手に見させてもらう」
「行くって、どこに?」
「知らん」
 烙吾はそのまま出て行った。開け放されたままの扉から、みなが忙しく立ち働くいつもの風景が覗く。
 砂映は動けなかった。
「行くって、どこに?」
 もう一度、一人で呟いた。
 オフィスの中では机が島をなし、あちこちで電話が鳴る。みながそれぞれに動き回っている。FAXを配る人、伝票をタイプする人。部長席の前で報告をしている人。
 どうして自分は今その中にいなくて、こんな風に、外側から、彼らのことをどこか遠く感じながら眺めているのだろう。
 やがて目をそらすと、砂映は扉に背を向けた。座ったままだらんと肩を落として背中を丸め、会議室の奥の窓から覗く、陽の光に輝く街路樹の緑を見やる。
 緑は少し揺れている。風に吹かれて揺れている。
 空は青い。

「なにやってるんだい砂映くん」
 ふいに、声をかけられた。ばたん、と扉の閉まる音。
「内線をもらってね。砂映くんが会議室から出てこないと聞いたんだ」
「へえ。誰にですか」
「お姫様」
「お姫様って誰ですか、って、訊いた方がいいですか」
「訊いた方がいい。君の部署のお姫様だよ」
「……熱海さんですか」
「熱海さんだよ」
「ふうん」
 砂映は背中を向けて座ったままだった。やって来たのが上司、自分のこれから所属する部署の長だということはわかっていた。その上司が扉の前にいて、立ったままで話していることもわかっていた。上司が立っているのに自分は座っていて、しかも背中を向けたままこんな風にぞんざいに言葉を返すなんて、到底あってはいけないことだとわかっている。わかってはいるのだが。
「すみません」
「なにがだい」
「すみません。何が何だかわからないし、ここを出てどうしたらいいのかもわかりません」
「おやおやそれは困ったねえ」
 わかっていないとおかしいのだろうか。
 何もわからず、どう動いたらいいのか見当もつかない自分は、どうしようもないやつなのだろうか。
「動く気力も湧きません。どうしたらいいんでしょう」
「どうしたらいいんだろうねえ」
 薮芽の声は愉しそうだった。砂映はだらんと腕を垂らし、彼に背を向けて座ったままでいる。
「昔はねえ、妻と子どものことを思え、と言ったものだよ。でも今は結婚してないのも増えたからねえ。困ったねえ。砂映くん、無職になりたい?」
「……なりたくないです」
「それはよかった。なりたくない気持があるなら、大丈夫だ」
「どう大丈夫なんですか」
「だって解雇されたくないだろう」
「……されたくないです」
「うんうん。よしよし。解雇されたくなかったら、僕の言うことを聞いてもらおう。どうだい?」
「……はい、わかりました」
「素直だなあ。気持ち悪いなあ」
「すみません」
 頭がひどく重く感じられてきて、砂映はうつむくように首を下げた。抱えていた仕事を、突然しなくていいと言われて……気が抜けてしまったのかもしれない。溜まっていた疲れが、急に全身に襲い掛かってきたように思える。
「重症だねえ。……よし。いいことを教えてあげよう。私は魔法のことはまるでわからない。しかしある一つの能力については、絶対的な自信があるんだ」
「はあ」
「なんだと思う?」
「……さあ」
「教えてあげよう。この薮芽・S、人を見る目だけは自信がある」
「へえ」
「カスタマーサービス部を立ち上げるにあたって、君のことを推した人間は、誰だと思う?」
「……それが薮芽さん?」
「ぶーっ!はずれえ。ひっかかったねえ。配属が決まるまで君とは会ったことなかっただろう?君のことなんて存在すら知らなかったよ」
 薮芽の高らかな声に、砂映はますます肩を落とした。これではいけない。いけないと思うのだが。
「答えはねえ、お姫様。熱海さんだ」
「熱海さんが」
「そう。熱海さんが君をカスタマーサービス部に入れることを提案した」
「なんで」
「信頼できる人だと言ってたよ」
 ぴくり、と砂映の肩が小さく揺れた。
 けれども頭を重く垂らしたまま、砂映はのろのろ口を開く。
「……ありがたい話ですけど、どうやってその信頼に応えたらいいのかわかりません」
「ははは。そうかもねえ」
「……そもそもカスタマーサービス室って何なんですか」
「ぶ、だよ」
「……カスタマーサービス部って何なんですか」
「なんだと思う?」
「わかりません」
「言ってみればね、闇に紛れて生きるヒーローってやつだ」
「意味がわかりません」
 砂映はそのままの姿勢で、けれども何とか顔だけは上げて、すうっと大きく息を吐いてみた。吐き切って、吸い込む。
「ここは会社ですよね」
「そうだね」
「そして薮芽さんは僕の上司ですよね」
「うん」
「駄目社員で申し訳ありませんが……何か、指示をいただけないでしょうか」
 陽の光に満ちた外の景色を眺めながら、砂映は言った。
「そうだねえ」もったいぶるように薮芽はいったん言葉を切ると、
「とりあえず、資料室に行って途季さんに会って来るといい」
 そう言って、ヒゲを撫でつけながら微笑んだ。

7.いじわる老人とへぼ探偵

 地下への階段を下りながら、砂映は考えていた。
 自分が今やらなければいけないことというのは、雷夜を探してくること、なんだろうか。
 烙吾は直接はそうは言わなかった。熱海さんがそう言ったとも言わなかった。薮芽部長も言わなかった。けれどもそれ以外、自分が今日するように促されたことというのが思いつかない。途季さんに会って来るように、というのも、まずは資料室に雷夜がいないか確認して来い、いないならどこに行ったかの手掛かりを途季さんから得て来い、ということなのかもしれない。
 けれどおかしい気もする。
 途季さんは、雷夜は自分の孫だと言っていた。雷夜が噂の「社長の甥」、熱海さんの従弟だとするなら、どうしていなくなったりするのだろう。誘拐とかならば確かにあんな風に心配するのもわかるが、退職願を出して会社に来なくなったのなら、それは本人の意志だ。
 そもそも、どうして雷夜は会社をやめたのだろう。
 一昨日の夜会った時、そんなことは一言も言っていなかった。そんな風には見えなかった。あの時点でやめることは決めていたのだろうか。やめることを決めた会社の仕事について、あんな風に文句をつけたりするものだろうか。いや、魔法に関して常に何か言いたい奴だという可能性も否定できないが。
 しかし自分の一族が創業した会社、自分の伯父が現社長である会社を、どうしてやめたりするのだろう。これまでおよそ二年半、雷夜は仕事を干された状態で在籍していた。実際は資料室に通って好き放題研究をしていたようだから、不満はなかったように思える。たとえば一族への反発だとかそういうものがあったとしたら、もっと早くやめていたのではないだろうか。今まではやめず、いきなりやめることにした。なら、理由は最近できたことになる。最近生まれた理由といえば、カスタマーサービス室への配属以外は考えられない。
 配属への不満だとすれば、待遇か仕事内容かメンバーか、そのあたりだが。
 待遇と言えばまず座席がないことだが、元々雷夜は開発第一部の自分の席には寄り付きもしていなかったわけだから、それは考えにくい。給料云々……は異動によって変わる話は自分だって聞いていないし、社長の親戚がそんな措置を受けるとも思えない。
 そして仕事内容だが……結局薮芽部長にもまた煙に巻かれてしまった。カスタマーサービス部が実際何をどういうスタンスでやっていく部なのか、いまだによくわからない。もしかして、雷夜はそれを知って、そこに反発して退職を決意したのだろうか。それはあり得ないことではない。好きに研究のできた今までの状態が快適すぎて、先日のようによその会社に出かけて行って修理をしたりするのがいやだ、とか。
 あとはメンバー。……例えば俺に不満があるとしたら、一昨日の夜あんな風に親切にあれこれ教えてくれたりはしないだろう。しないだろう……と、思いたい。こっちのレベルに失望していた可能性は十分にあるが、魔法の理論をあれこれ説明している雷夜は、まんざらでもなさそうに見えた。もう一人、秋良については、以前からそこそこつるんでいたような雰囲気があったわけだし……
 そういえば、秋良は今どこにいるのだろう。
 なぜ総務部長がわざわざ自分を名指しして雷夜捜索を頼んだのかわからない。けれどもしも同じカスタマーサービス室だからというのであれば、秋良だって立場は同じはずだ。
 もしかして、秋良は資料室にいるのだろうか。一昨日もいたし、秋良もあそこに入り浸りのようだから、その可能性は高い。
 仲間がいれば、心強い――

 砂映が階段を下り終え、資料室に一歩足を踏み入れた瞬間だった。
 砂映の頭上の灯りがすべて消え、資料室全体が真っ暗になった。と思ったら、次の瞬間、見える限りのすべての電灯が赤くともった。異常な赤い空間が一瞬発生し、すぐさま消えて闇に戻った。かと思ったらまた赤い灯がつき、そしてすぐまた消えた。またついた。消えた。めまぐるしい点滅に、平衡感覚までおかしくなりそうになる。なんだ。何が起こってるんだ。
 点滅の中で、一瞬前まではなかった影がふいに砂映の正面に浮かび上がる。ひどく小柄な人間。
「しょぼい」
 光の点滅の中から、しわがれた声が響く。
「しょぼい、魔力、じゃなあっ」
 老人の視線は、砂映の足元に向いていた。その時になって、砂映ははじめて自分の足元の模様に気がつく。いや、単なる模様ではない。砂映は直径一メートルほどの、魔法陣の上に立っていた。
「その魔法陣、発動してみい」
 老人は言った。
 何の魔法なのか。何の説明もないのか。どうしてそうしなければいけないのか。
 質問が喉から出かかったその瞬間、肩に痛みが走った。
「あちっ」
 見ると老人が、一昨日の雷夜のように手にした紙――おそらく魔法陣――を、砂映に向けている。普通であれば呪文の詠唱が必要なはずだが、ここを何らかの結界空間にすることで省略可能にしたのかもしれない。熱光線を指定した方向に発する――まあそれ自体は、ちょっと魔法をかじったものなら誰でもできることではある。人に向けてやっていいことではないが。
 赤い光の点滅はいつしか収まり、灯は通常のものになっていた。しかしそれに気づくと同時に、砂映は自分が円筒形の檻の中にいつの間にか囚われていることにも気がついた。砂映が今立っている魔法陣、その円周上から天井に向かって青い縦向きの光線が、格子よろしく並んでいる。こちらの光線は熱ではなく、冷気を発していた。手をかざすと、氷に手を近づけた時のようにひんやりする。だが実際にそこに手を入れた場合、「冷たい」だけで済むかどうかは疑問だ。曲がりなりにも魔法技師である砂映は、魔法の威力というものを知っている。悪意を持って術を構築すれば……相当に危険なものだって、作ることは可能だ。
「早く発動せんか」
「そ、その……この魔法陣を発動したら、何が起こるのでしょうか」
「見てもわからんたわけなら、試しに発動すればいいじゃろ」
「でもほら、上に立って発動すると危険な場合も多々ありますし」
「気にするな」
「いえその、すみませんが気にします」
「しょうもない。……どいつもこいつもしょうもない」
「ど、どいつもこいつもって、他に誰のことですか」
「カスタマーサービス全員じゃい。まったく名前どおりのカスじゃった」
「え、雷夜……くんもですか?」
「雷夜が一番のカスじゃっ」
 老人は噛みつくように言うと、手にしている魔法陣を再び砂映に向けた。
「いっ」
 熱光線が、今度は砂映の左腕をかする。シャツが焦げ、小さな穴が開いている。大した威力ではないけれど……火傷の痕が出来ている。痛いものは痛い。
「その……雷夜くんは、途季さんのお孫さんなんですよね?」
「誰が言うたんじゃそんなこと」
「え。一昨日途季さんが仰ってましたけど」
「阿呆かっ。そんなことは言うとらん。あの男がわしの孫なんて、そんなわけあるか」
「本当に違うんですか?」
「ちゃうわい」
 ぼそっと吐き捨てながら、再び老人は熱光線を放った。砂映の左腕にまた火傷が増える。
 ひりひりする痛みに顔をしかめながら、砂映は一昨日雷夜に接していた老人の、にこにこ顔を思い出す。老人はたぶん今……裏切られて傷ついているのだ。そうしてなんというか、現在のこの自分の状況は――つまるところ八つ当たりか。
「途季さん、先ほど私は薮芽部長から、途季さんのところに行くようにと指示を受けました」
「ほお。あいつもおかしなやつじゃな」
 熱光線が右腕をかすめる。痛い。痛いが、当たった瞬間を過ぎれば、さほどのものでもない。ない、と思い込んで、肩の力を抜く。死ぬようなものではないのだ。そう自分に言い聞かせ、身体が恐怖でこわばらないようにする。
「今朝、雷夜くんが退職したと聞きました。総務部長が僕に彼を連れてくるように言っていたとも聞きました。他の仕事を全部放り出させてでも僕が自由に動けるようにしてほしいと……そう、あなたの綺麗なお孫さんが仰っていたそうです。あなたの知っていることを教えてください」
「知ってること?わしの知識はこの書庫の資料の数より膨大じゃ」
 老人はひどく愉しそうな顔をして、手にした魔法陣を砂映に向けた。続けざまに発せられた光線が、腕と肩、さらに脇腹をかすめる。
「雷夜くんはどうしていきなりやめたんでしょうか」
「さあこっちが訊きたいところじゃなあ」
「一昨日、何か話してませんでしたか」
「はてなあ」
「どうして今になってやめたんでしょう」
「はて」
「秋良くんが今どこにいるかはご存知ですか」
「さあなあ」
「カスタマーサービス室というのは何なんですか?」
「知らんなあ」 
 一言答えるたびに、老人は無邪気な子どものように光線を放つ。まともに会話をする気がないのだ。このままでは、埒が明かない。砂映はすっとその場にしゃがみこんだ。ええいもういい。魔法陣を発動しろと老人は言ったのだ。あいかわらず知らない単語だらけで、どういう内容の魔法陣かは読みきれない。発動……するかわからないし、発動したらどうなるのかもわからない。が、やってやろうではないか。
 砂映は前屈みになって魔法陣に手をつくと、まずは大きく息を吸った。そうして少しずつ息を吐く、その呼吸とともに手に意識を集中させる。手の平がじわりと熱を帯び、水が流れていくように、魔法陣を描いた線が徐々に光を放ち始める。
 やがてその光の描く魔法陣の線から、赤く揺らめくものが立ち上り始めた。一昨日の魔法陣と違って、魔力を無理やり吸い込まれる気配はない。が、
「うわちあああああっ」
 砂映の魔力では到底発現できないはずの、巨大な火柱が突如砂映を包み込んだ。反射的に立ち退いた砂映は青い光の格子に肩から突っ込む。刺さるほどの冷たさ――いや実際に刃物で突き刺されたような強烈な痛みが、脳天やら頬やら肩やら腿やらを次々に貫く。そのままもんどりうってカーペット敷の床に身を転がし、砂映は意識を失った。

「おぬしには、牙というものがないんか」
 老人の声がした。
「社会人になってから……牙を剥くとろくなことにならないんですよ」
 床に伸びて目を閉じたまま、砂映は答える。
「それはおぬしが馬鹿で無能だからではないのか?」
「……そうかもしれないですね」
 腕や肩がひりひりする。身体全体が、重たい物体のように感じられる。どこも一ミリたりとも動かしたくない。動くという気もしない。
「雷夜もどこか、おまえさんに似とるのかなあ」
 老人が言った。「憎しみとか、敵意とか、そういうものをまったく表に出しよらん。何を考えとるのかわからんかった」
 すっとまた、砂映の意識が遠ざかった。背中のカーペットが、ほんのりとぬくもりを含んでいるように感じられた。

 焦点の合わない視界で、はじめそれは、秋良かと思った。目の辺りがそっくりだ。けれども秋良にしては妙に輪郭がくっきりとしていて睫毛も長く、洗練された印象だと気づいた。鼻や口は全然違う。小造りで、上品で、整っていて……ああ、どこをとってもひどく綺麗だ。
「熱海……さん?」
 呻くように、砂映は訊ねた。
「ごめんね」
 優しく微笑むようにして、熱海さんは言った。そうだ、どうして気づかなかったのだろう。秋良と熱海さんは、とても似ている。「社長の甥」は、さっき老人が言ったように、本当に雷夜ではなくて……
「秋良……くんって、熱海さんの従弟?」そう訊ねると、砂映の傍らに両膝をついた熱海さんは、潤んだ目で微笑んだままこくん、と頷いた。
「そっか……」
 熱海さんの前で、いつまでもみっともなく横たわっているのは気がひけた。床に着いた肘に力を入れると、火傷の箇所がひりひりと痛んだ。けれどそのまま身体を起こし、何とか座る体勢にまで持ち込む。そういえば、火傷は痛むのだが、それはすべて老人の熱光線にやられたものだった。炎に包まれたのだから広範囲の服や皮膚が焼けていてもおかしくないのに、そういった痕はどこにもない。青い光の格子によって痛みを感じた箇所――頭のてっぺんや頬や首筋、太腿なども触ってみたが、そこには何の変哲もない、通常どおりの感触しかなかった。
「祖父から説明してもらおうと思ってたのだけど、まさかこんな」
 熱海さんはもう一度「ごめんなさい」と言った。砂映のシャツには丸い焦げ跡がいくつもつき、破れた箇所からは赤く腫れた皮膚が覗いている。
 熱海さんは、そっと手を伸ばした。戸惑う砂映に小さく微笑みかけると、傷痕にゆるく触れる。ひんやりとした心地よさが患部に広がった。
「……熱海さん?」
 その手には、魔法陣が握られているわけでも呪符があるわけでもなかった。何も持っていない。それなのに、何かが発せられている。
「ごめんね。治せるわけじゃないの。でも、少しましでしょう?」
「そうですけど。その」
「そういうことなの。うちの会社のそもそもは、世間一般でほとんど認知されてない、呪文を媒介としない魔法について研究してた団体が元なの。体質というか、持って生まれたものというか……うちの一族はそういう能力を持つ者が生まれやすかったから、だから」
「じゃあ社長とか、途季さんも」
「父にはそういう能力はないわ。この会社を創業した、祖父の兄も能力はなかった。祖父はそう、特殊な力を持っていた。それで昔、いろいろな人に利用されたり、裏切られたりしたみたいで……。この資料室にはね、古くからの文献も含めてうちの研究のすべてがあるの。祖父はそのセキュリティを一手に担ってる。いろいろな仕掛けを施しているから、一般の社員は古い文献の棚には辿り着くこともできない。誰が来てどの資料を見たかも、祖父はすべてを把握してる。錯覚系の術を駆使して、暇な時は来た人をからかったりもして……」
 熱海さんの手からは、冷気のようなものが放たれている。それなのに、それが熱海さんの手だということで、砂映は手をかざされているその箇所が火照るように感じていた。明らかに、火傷のせいではない。ふわりといい香りがする。ひどく近い場所から自分のことを見上げている顔にも、すぐそこにある華奢な肩にも、その下にあるふくらみにも、きゅっと揃えられた膝にも……心拍数が上がるのを感じる。砂映は目をそらし、天井を仰いだ。
「雷夜くんのことは、実際気に入ってた……んですよね。途季さん」
「うん、もう一人の孫だ、なんて言って」
「じゃあ、急にやめられてしまったから、やっぱり相当ショックだったってことでしょうか」
「うん……でも、ただやめただけならそうでもなかったかもしれない」
「え」
 思わず熱海さんの顔に目を戻す。間近で目が合って、砂映は思わず耳が赤くなるのを感じ、慌ててそらした。
「雷夜さんのことをどう思う?」
「どうって」
「……彼が新人の時に赤沢重機の案件で『設計ミスをした』っていう話は知ってる?」
「ああ……特殊仕様が必要なのを指導員が伝えてなかったとかいう。それで雷夜が仕事干されるようになったって……」
「その話には続きがあるの。資料室に入り浸るようになった雷夜さんが何をしていたのかというと……赤沢重機のこれまでの案件の書類、片っ端から調べてたんだって。修理案件や定期点検の報告書から製作年次を辿ったりして……一番初めに赤沢さんに魔法陣の組み込みを提案した時の書類、その時の膨大な量の設計書を見つけ出してからは、朝から晩まで座りこんでひたすら読み込んでたって。その頃に祖父が興味を持って話しかけたらしいんだけど。雷夜さんいわく、『特殊仕様』を組み込んでいなかったせいで他の魔法陣に不具合を起こさせたのはわかるけど、そもそもあの特殊仕様が必要になること自体がおかしいんじゃないかって」
「……負けず嫌いそうだもんな」
「祖父はまあ……久々にマニアックな話のできる相手が見つかって嬉しかったみたい。技術論を戦わせたり、資料読むの手伝ったりしてたらしいの。まあ、こんなことを私が言うのは何だけれど、不必要な仕様が既納品に組み込まれてしまってたら、後続案件でも組み込まないとしょうがなくなる、っていうことは……あるじゃない?はじめにその仕様が組み込まれたのも、まあ作った誰かさんがそれは必要と思い込んでたとか、そういうちょっとしたミスとかが原因だったりして」
「ん。まあ、それは技術者としてはほんとうにすんません、としか言えませんが」
「仕様が一つ多く組み込まれていたとして、そのせいで後続案件の工数がちょっと増えてしまったり、ということはあるかもしれないけれど……そこまで大きな害とはいえないし、企業としては減らす努力は必要かもしれないけれど許容範囲だと思う。ほら、有名な魔法技師の言葉だ、って、よく烙吾さんが引用する」
「『限られた時間の中でベターは出せても常にベストは出ない。だが常にベストを尽くせ』と」
「そう。だから祖父も、雷夜さんのこだわりを若さゆえの完璧主義だ、なんて思って、単に面白がってたらしいの。でも雷夜さんがそれで引っ張り出してしまったものは、そんな他愛無いレベルのものではなかった」
「それって」
「赤沢重機さんの社内に、魔法に関する知識を持つ人は当時いなかったんだと思う。三十年くらい前だし……今よりももっと、魔法という技術は未知のものだった。それでもうちの会社を信頼して、システム一式納入の提案に乗ってくれたんだと思うのに……そこには、不必要な呪文がほとんどすべての魔法陣に組み込んであった。魔力消費量を増やして『石』の劣化を早める以外何の意味もない一文や、小さな不具合を誘発する文言、エネルギー効率を悪くする組み合わせ。過失で起こるレベルではないことは、一目瞭然だった。初めがそれだから、だからそれに対応する妙な『特殊仕様』が必要だったの」
「そ、それ、わかってどうしたんですか」
「雷夜さんは、それを見つけて祖父に伝えた。祖父はほら、あんな性格だから……『マスコミに言おう』なんてふざけて焚き付けたらしいけど、でも雷夜さんはとりあわなかった」
 まあ、普通自分の会社の不祥事を発見していきなりマスコミに垂れ込んだりはしないだろう。というか……会長?
「雷夜さんはただ、『直したい』と主張した。ごちゃごちゃと余計なものがついた魔法陣を放っておきたくない、と」
 熱海はそこで少し言葉を切り、砂映の様子を覗うようにじっと見つめた。砂映がそれに気づいて戸惑っていると、熱海は再び話し始めた。
「でも、すべての初期案件とその後続案件から『余計なもの』を取り除こうと思ったら、本当に大ごとよね」
「そりゃあ、考えただけでめまいがしそうな作業すね」
 取り除きたい仕様があったとする。その場合、呪文の該当箇所を削除すれば済むかといったら、そういう問題ではない。複数の単語で呪文の一文ができていて、その文のかたまりで「鳳凰(ほうおう)」「火鼠(ひねずみ)」といった一つの術ができていて、それをいくつかを組み合わせて一つの術式ができていて、さらにその術式をいくつか組み合わせて「統合魔法陣」は作られている。その統合魔法陣は連結されて「連結魔法陣一式」となり、さらに連結されていないその「場」の魔法陣が相互に影響しあうことで効果を高めているのが「システム一式納入」だ。それぞれの段階で、組み合わせの際には値や文字を調整している。一つの文言が抜けたら、それはすべてに影響するのだ。あっちを抜いてこっちを抜いて、その上ですべてが丸く収まるように調整するのは……難問だ。難問だし、それに実際の作業として、工場すべての魔法陣を解体して再形成するのは……一体どれだけの工数がかかるか、正直見当がつかない。
「作業をするには工場稼働を一定の期間止めてもらう必要がある。でも、三十年前うちが悪意あるシステム構築をしてました、その後もずっとそれに合わせて不要な仕様を加えていました、なんて……」
「確かにそれは言いにくい」
「会社の信用問題ももちろんあるし、こんなの卑怯な言い訳かもしれないけれど、もしもマスコミに取り上げられて世間に話が広がったら、うちの会社だけでなく、『魔法技術』そのものについて疑いを持たれる風潮になってしまうかもしれない。そうしたら、業界全体が危うくなる」
 整った眉をひそめるように熱海さんは言った。砂映は神妙に聞いていた。
「それではじめは、『改造』として提案したの。使用エネルギーの削減ができて効率化になる、という資料を作って。こちらが悪かった部分を直すのに、騙してお金までもらうのはどうかとも思うけれど……でもそれなら堂々と作業できる。そういう話に会議で決まった。でも」
「……赤沢重機の業績が、よろしくなかったら……」
「そう。そんな大がかりな設備投資にお金をかける余裕なんてない。うちはあくまでも『改造の提案』という名目だから、あまりにも安い値段を提示するわけにもいかない。社長と部長数人で商談に行ったけど、結局だめだった。それで打つ手なしってことで、これまでどおり放置して、追加があったら特殊仕様を入れ続けるしかないということで役員会議でまとまってしまった。……私も後から聞いたのだけど」
 ああ、そうだよな、と砂映は少し胸を撫で下ろした。
 話を聞いていて、熱海さんは役員会議に常に出て主導権を握ってるのかと思えてきていた。しかしよく考えたら、彼女は普段は事務職として働いていて、そんなしょっちゅう長時間、席をはずしたりはしていなかったはずだ。
 でも、それなのに自分のことみたいに話すのは、そこに責任を感じているからなのだろうか。社長の娘だから、責任を感じたりするのだろうか。
 こんな、見る者をこんなにも幸せにしてくれるほど綺麗な女の人が、そんなこと考えなくたっていいのに。
 砂映が考え込む表情をしていると、熱海さんが不安げに下から覗きこんできた。砂映はどぎまぎし、唇を引き結んで横を向く。熱海さんの手は、話しながらもずっと触れるか触れないかの距離で砂映の患部に添えられていた。右肩、右腕、左腕、右脇腹。時折すっと空気の上をすべるように手を移動させ、別の火傷に冷気を当ててくれる。冷気が当たると心地よい。
「……結構悩んでたの、私」
「うん」
「そうしたらね。雷夜さんが、『細切れの作業でできるようにすれば、夜中に忍び込んで何とかできるかもしれない』って言ってくれたの。ううん、実際には、そんなことさせるわけにはいかないから、やめてって言ったよ。でも、事態の改善のためにそこまで考えてくれてるのは……嬉しかった」
「はあ」
「結局はね、元赤沢重機の社員で……赤沢重機の人事部にいた人がいるからその人に相談しようということになって。それが薮芽さんなんだけど」
「薮芽さん……」
 思いもよらないところで名前が出てきた。そうか、薮芽さんは中途採用でうちに入って来たのか。道理で、こういっては何だが……社内でどこか浮いているような感じがする。いや、それだけが理由というわけでもないかもしれないが。しかしどういう事情でうちに来て、「首切り役人」なんて言われるような仕事をするようになったのだろう。それはそれで気になるところではある。
「赤沢重機の売上が落ちているなら、むしろ長めの電力休暇でもとってもらって、その期間に実験場として工場を貸してほしいと持ち掛けてみよう、って薮芽さんが言って。あっという間に赤沢重機の社内に根回しして、双方のメリットと保障内容を提示して契約書を取り結んでくれて。そうはいっても夏休みの電力休暇を十日から十五日に延長してもらっただけではあったんだけど、あとは雷夜さんが……話が決まってから半年の間にすべての魔法陣を再構築した設計書を書いて、作業計画を立てて、何とかその日数で全部完了させてくれた。……秋良も多少手伝ったりしていたけれど」
「それが……去年?」
「うん、去年の夏」
 去年の夏、そんなことが起こっていたなんて。
 砂映は社内事情に疎いが、そういう問題ではない。
 裏でそんなことが起こっていたなんて、一般社員のほとんどは知らないだろう。みんな、「雷夜は仕事を干されている」と思っていたのだから。
「すごいと思った」
「へ」
「私は、すごいと思った。すごいと思ったし、うちの会社に、そういうことをしてくれる人たちがいるのが、とても大事だと思った」
「うん」
 熱海さんはずいぶん雷夜を買っているらしい。
 ほんのり、砂映の中に複雑な気持が生まれる。仕方のないことだとわかってはいるが。
「父と話したの。父も同じ意見だった。それで『問題解決室』という部署を作ろう、って話になったのよ。はじめは、雷夜さんと秋良と薮芽さんで考えていた。今の部署に在籍したままでひそかに存在させようって、はじめはそういう話だったの。でももう一人くらいいた方がいいってことになって、いろいろ考えて砂映さんがいいかな、と思って、話したら父も賛成で。でもそうしたら今の部署に在籍したままでは難しいだろうってことで……今みたいに辞令を出して新規部署にする形になった」
「その……」勇気を出して、砂映は熱海を見つめた。自分なりに二枚目の表情というものを意識する。「どうして俺を?」
 熱海は小さく首を傾げるように砂映を見つめ返した。砂映は真剣な顔をとりあえず維持し続ける。
「……砂映さんは潤滑油、かな」熱海さんは言った。
「潤滑油?」
 雷夜さんは「すごい」で、自分は潤滑油?
 問い返す砂映に、熱海は軽く吹き出すように微笑みかけると、
「ふふ。こんな話長くて面倒くさい女は嫌われるね」
 軽やかに視線をはずして言った。そんなことは、と砂映が言いかけるのをいたずらっぽい笑顔で横目で見ると、熱海はふっと表情を曇らせた。砂映ははっとする。
 そうだそもそも、どうして今こんなところにいて、こんな話をすることになったのか。
 今朝、どうして熱海さんはあんなに暗い表情で、柄にもなく烙吾に上から指示を出すようなことをしたのか。
「私はね、雷夜さんは信頼できる人だ、と思ってたの」
「うん」
「でも、わからなくなった。どうしていいのかわからない。砂映くんは何か解決の糸口を見つけられるかもしれないって、そう思って……」
 熱海さんのすがるような潤む目に、砂映は胸が熱くなる。けれどもその熱くたぎる胸が、一方でひどく痛んでいることにも、気づかないわけにはいかない。
「それは、つまり、雷夜くんがいきなりやめてしまったことについて……?」
 それが、そんなにもショックだったんですか?
 熱海さんは、まっすぐに砂映に目を向けた。砂映はさらなる痛みがくることを、覚悟した。けれども熱海さんは言った。
「そのことはいいの」
「へ?」
「そんな風に言ったら変かもしれないけれど。……雷夜さんがうちにいてくれたら、すごくありがたいと思うよ。でも、彼はなんというか、専門に特化した人だから……ほら、うちは技術職と営業職が分かれてないでしょう?雷夜さんみたいな人は、技術だけに集中できる職場の方が力を発揮できるんじゃないかと思うし、どちらかというと、研究職とかが向いてるんじゃないかな。だから、この会社をいきなり去ったとしても、それは本人のキャリアの問題だし、それを妨害する権利まではないと思う。もちろん、秘密保持契約を結ばなきゃ、とか、そういう総務部長の心配はわかるけど」
「じゃあどうして」
 熱海さんは、すっと顔をそむけてうつむくと、一瞬だけ、泣きそうな顔をした。それから顔を上げて言った。
「秋良がいなくなったの。昨日の朝、雷夜さんが秋良を連れて行って。それっきり。秋良はうちに帰って来ない」

 へ?
 とぼけた声を上げそうになり、砂映は何とかそれを抑えた。
 なんだ、どういうことだそれ。
 子どもじゃないんだぞ。というかむしろ雷夜の方が見た目子どもみたいなのに。いやまあそれはいいとして。……家出?誘拐事件?社長の甥なら、身代金要求とか、そういうのもあり得て、だから誘拐事件?でも、それを雷夜が?雷夜が犯人で?秋良の意思は?
「え?連れて行ったって……」
「昨日の早朝、雷夜さんが迎えに来たの。私も父も起きていた。あ、秋良は子どもの頃からうちで暮らしてて……」
「迎え?その、別に無理やり連れてったわけじゃないんですよね」
「うん。呼び鈴が鳴って、まず家政婦さんが出て……。秋良は彼女に呼ばれる前に出て行ったわ。今思えば、少し元気がないようにも思ったけれど」
「あ、昨日の早朝って……な、何時頃」
「五時半……を少し過ぎたくらいだった」
「あの、会社から熱海さんの家までって時間はどのくらい」
「三十分程度かな」
 それはつまり……こちらの残業に朝までつきあったあの足で、雷夜はそのまま秋良を迎えに行ったと、そういうことなのか。
「その、迎えに来るってのはしょっちゅうあったの?」
「ううん、どうせ会社で会うんだし……これまでそんなことなかったんだけど。その、カスタマーサービス室のことで何か二人で相談でもあるのかな、とその時は思って」
「ええと……あれ?昨日雷夜と秋良くんは会社にいなかったってこと?」
「祖父は見なかったって言ってた。今、資料室の監視システムを確認してる」
「その……雷夜の退職願が置かれてたのは今朝だよね?」
「それが、昨日の朝らしいの。総務部長が昨日は終日出張で……部長机の上に裏向きに二枚重ねで置いてあって、他の人も確認しなかったみたいで」
「二枚重ね?」
「うん。……退職願は雷夜さんだけじゃなくて。……秋良の退職願も一緒に置いてあったの。ハンコも押してあったけど、両方とも雷夜くんの字だった。封筒にも入れずに、そのままで置いてたみたい」
 ……はあ?
 頭が混乱してきた。
「どういうこと」思わず砂映は言った。
「わからない」熱海さんは微笑むことなく答える。
「その……つまり昨日、秋良くんは家に帰って来なかった」
「うん」
「雷夜の方は?あいつって一人暮らし?」
「ううん、昨日の夜おうちに電話したら妹さんが出られて。でも、前の日から帰って来てない、って仰ってて。帰って来ないのはよくあることらしいの。しっかりした感じの子で……帰って来たらすぐに連絡させます、って言ってくれたのだけど」
「その……雷夜と無関係に秋良くんが何か事件に巻き込まれたとか、そういうことはないんかな。警察には言ったん?」
「……まだ一日だし、あまり大ごとにはしたくなくて」
「あ、それはそうか」
 確かに、成人男性が一日帰ってこないくらいで警察に言うのはちょっとどうかという感じもする。松岡デラックス魔法カンパニーは大手企業ではないが、業界の中では老舗でそれなりに知名度もある会社だ。下手な形でマスコミに漏れると、妙な取り上げ方をされる可能性だってある。
「秋良単独で事件に巻き込まれた可能性もないわけじゃない。でも、じゃあどうして退職願が出されてたのか、どうして雷夜さんも行方不明なのかの説明がつかない気がして」
「確かに……。あ、あの二人、普段はいつも資料室にいるの?他にも居場所あるんだったら、もしかしてそこに隠れてるとか。じゃなかったら、社内じゃなくても、行きそうな場所って探したん?なんかこう、二人で仕事へのやる気を失って、どっかの公園にいるとか……川べりとか……」
 頭が整理できないまま闇雲に喋っていると、ふいに背後に気配を感じた。身体を捩じるようにして振り向くと、そこには途季老人が立っていた。座った砂映よりは、さすがにその背は高い。
「このへぼ探偵が」老人は言った。「さっきから聞いておれば、ろくなことを言いよらん」
 だ、だって探偵じゃないし。という反論が砂映から出かかったが、ろくなことを言っていないのは事実なので何だか憚られた。老人はとことこと歩いてくると、冷気を発し続けていた熱海さんを無理に立ち上がらせて退かせた。かわって皺くちゃの老人が、砂映に向き合う。
「あの、この火傷、結構痛いのですが」控えめに砂映は言ってみた。
「そのおかげで熱海にいいことしてもらったんじゃろ。むしろ感謝せい」
 老人には、悪びれる様子は微塵もない。「いいこと」というと何だか語弊がある気もするが、確かにそれも否定できないので、砂映は黙る。熱海さんは困ったように脇に退いて、その場に立っていた。老人は両手を伸ばすと、突然砂映の頬を、両方から挟むようにばん、と叩いた。
 痛みよりも驚きで砂映が目を見開いていると、老人は砂映の顔を押しつぶすようにしながら睨みつけて言った。「おぬし、腑抜けている場合ではない。今から横分に行って来い」
「よこわけ?」
「横分魔法研究所じゃ。雷夜はおそらくそこにいる、そうしてたぶん、秋良もな」

8.女神さまですよ

 行け、と言われても。
 横分魔法研究所になど行ったことがない。
 アポなしで行って、果たして入れてもらえるのだろうか。
 かろうじて知っているのは鯉留の名前だが、途季さんの話によると、雷夜に接触していたのはその鯉留だという。資料室の監視映像に残っていたらしい。雷夜は松岡DMCに入社する前、横分魔法研究所で働いていた。そうして鯉留に、執拗に戻ることを促されていた。そうして戻ることを決めた。そういうことではないかと、途季老人は話した。
「でもそれで、どうして秋良くんまで連れてったんでしょうか……」
「決まっとる。価値があるからじゃ」老人は断言した。
「価値?」社長の甥だから誘拐事件で身代金、という発想しか、砂映には出てこない。しかし老人には別の考えがあるらしく、憎たらしい顔で砂映をねめつけて言った。「おぬしにはない価値じゃ」
「はあ」
「おぬし、ナルタケ工業で秋良が魔法陣の暴走を起こしたことについて、どう思った」
「へ?どうって」
「秋良は苦しい説明をしておったじゃろうが」
 ……苦しい説明。
 ああそうだ。あの時秋良は、連結魔法陣の一つを、稼動している状態のままで刻印し直そうと可変化した、と言っていた。連結魔法陣というのは、基本的にすべての魔法陣を同じ状態に保っておかなければバランスを崩して暴走を起こす。一人で複数の魔法陣を可変化してコントロールするのは至難のわざだから、普通はエネルギー源である賢者の石を一度取り外して、稼動を停止させた上で修正作業を行う。連結されている以上、固定化と可変化はすべての魔法陣が同時でなければいけないのは「絶対」だ。それは砂映だって入社して間もない時に教えこまれたし、魔法学校でだって、初歩段階で指導する常識レベルのことのはずだ。
 なのにそれを、秋良は知らなかったような言い方をした。
「あの魔法陣が暴走した時、雷夜は魔法陣ではなく、発現した魔法そのものを見て『相殺』を行なったんじゃろ?そしてその後で実際の魔法陣を見た。たとえ暴走したにしても出てくるはずのないパターンが発生していたことに奴は気づいた。一昨日奴は、あの魔法陣と類似の案件をあさっておったようだからな。『ありえない』ことを確認しておったんじゃろう」
「ええと、秋良くんの説明は実際と違うってことですか?」
「咄嗟に無理な言い訳をしたと言っておった。……熱海にさっき聞いたんじゃろ?呪文を媒介とせずに魔法を発現できる『特殊能力者』というのは、『ありえないこと』、つまり学校で習うような『魔法の法則』に反する現象を、起こしてしまえる。そのコントロールに、秋良は失敗した。そのせいで魔法陣の暴走が起こった」
「それって……そんな簡単に『法則外の不具合』を起こしてしまうなんて……その、『特殊能力者』の人って、技師とかやっていけるものなんですか?」
「やってる奴はたくさんいる。だが、コントロールに失敗するとなれば、話は別じゃな。そんな奴は技師として不適格じゃ。あいつにもそう言った」
 老人はそっぽを向いた。
「それって……それで秋良くんは会社をやめたってことでは?で、プラス家出で……」
 砂映は熱海さんに目を向けながら言い、そして後悔した。
 熱海さんは、秋良がそんなミスを犯したこと自体、初耳だったらしい。大きな目をさらに大きく見開いて、まるで自分が傷つけられたような顔をしていた。
「あ、いやでも、わからないです。わからないですけどね。まあ雷夜といるんだろうし、雷夜が何考えてるのか、ってことですよね」
 大慌てで砂映は言う。熱海さんにそんな顔をさせてしまうなんていたたまれない。
「ああ、その、途季さん、その……そういう『特殊能力者』の存在って、魔法技師の間では普通に知られてることなんですか?」
「そんなわけあるか。『法則外』じゃぞ?どんな扱いを受けると思っとる。ひた隠しに隠してみんな生きとるんじゃ」
「じゃあ雷夜は、『ありえない』ことに興味を持ったってことでしょうか」
「その可能性は高い」
 横分魔法研究所は、最新技術を使った魔法具だけでなく、「研究所」の名前のとおり、さまざまな研究が行なわれていると聞く。オフィスビルとは別に実験棟があり、そこで何が行なわれているのかは、謎に包まれているとかいないとか……
 砂映はこわごわと熱海さんに目をやった。熱海さんは、白い顔をしてうつむいていた。

 ともかく横分に行って……どうしたらいいんだろう。うちの秋良来てませんか?雷夜くんいますか?と訊いたら、会わせてもらえるのだろうか。門前払いだったらどうしよう。実験棟に勝手に入ったら……怒られるだろうな。いや、怒られるだけではすまないだろう。
 あれこれと考えながら砂映は階段を上り、ロビーに出た。人のまばらに行きかうロビーの端のところに、涼雨の姿がある。一人ではなく、誰かと向かい合って話している。やけに笑顔だ。すらりと姿勢のいい男は後ろ姿で、誰かわからない。砂映が見ていると、涼雨も気づいたようで、にこやかな笑顔が「げ」と言わんばかりに一瞬歪んだ。砂映は思い出す。ああそうだ、この前怒らせたんだった。
 明らかに涼雨が挙動不審になったので、相手の男は何かと思ったらしい。肩越しにこちらを振り返った。やけに小ざっぱりした感じの、砂映の知らない男だ。涼雨が大慌てで相手に向かって「なんでもない」というようなジェスチャーをしている。こちらから顔をそむけるような、妙な目線の動かし方をしている。……と思ったら、突然ばちっと見て、目を見開いた。相手に小さく頭を下げたかと思うと、砂映に向かって突進してくる。
「ちょっと!」
 物凄い形相で走って来たので、砂映は後ずさった。「な、なんでしょうか」
「それ、どうしたの!」
「へ」
「それよ、破けて……やだ、火傷してるの?」
 勢いこんで訊ねられ、砂映は一瞬きょとんとした。
 ……ああ。
 いつの間にか忘れていた。シャツがあちこち焦げて破れている。このまま外に出ると……変な目で見られるかもしれない。
「ああ、ちょっと……」
「ちょっとじゃないわよ!」
「うん、ちょっとじゃないか」
「ふざけてる場合じゃないわよ、手当しなきゃ、それにシャツ……」
「うん、このまま出かけたら恥ずかしいところだった。恩に着ます」
 怒りが再発しないよう、砂映は丁寧に言ってみた。それはそれで不本意だったらしく、涼雨は複雑な表情になった。が、火傷のおかげで「それどころではない」モードになってくれているらしい。
「その、とりあえず……」
 涼雨が焦って何か言いかけたところに、先ほど涼雨が話をしていた男がこちらにやって来た。「どうしたんですか?」とにこやかに訊ねる。
「あ、その……」
 涼雨がうろたえている。男は来館カードを首からぶら下げていた。どうやら社外の人間だったらしい。涼雨の顔つきが微妙によそいきに戻る。
「あ、私の同期の、砂映です。こちらは横分魔法研究所の明水(あすい)さん。その……うちの部署の魔法具を横分さんから買ってて、私は発注担当だから、それで」
 妙なあたふた感を漂わせながら涼雨は二人を紹介した。そこそこ堅苦しくない間柄なのか、明水は感じのいい笑顔で「同期の仲がいいんですね、うらやましいな」などと言った。涼雨は動揺で顔を赤くして、「あ、仲良いとかはなく、その」ともごもごしている。
「……涼雨サン。あの、お願いなんだけど、購買で、俺のシャツ買ってきてもらっていい?」
 砂映は言った。涼雨の方を見ずに、自分の財布を押し付ける。
「え?」
「今着てるこれと似たようなのでいいから」
 砂映の眼は、死んだように見開かれていた。無表情で涼雨に頼む。
「え、うん、いいけど……」
「俺はここで待ってるから。明水さん、明水さんも一緒に待っていただけますか」
「え、はい」
「頼んだよ。涼雨サン」
 明らかに様子のおかしい砂映に涼雨は戸惑う様子を見せたが、頼まれてノーとも言えず、ちらちら振り返りながらも走って行った。明水はにこやかな表情を崩さない。
「……」
 空洞のような目をして、砂映は立ち尽くしていた。
「あの、よかったらそこの椅子にでもおかけになりますか?」
 さすがに変に思えてきたらしく、明水が気を遣って訊ねた。砂映はまるで寝起きのようにまばたきをしながら、今初めて気づいたように明水を見る。
「技師さんはお忙しいですよね。体調お悪くないですか?」
 感じのいい笑みを浮かべたまま、明水は重ねて訊ねた。砂映は明水の顔を凝視したかと思うと、突然だらん、とうなだれるように頭を下げ、そしてばっと顔を上げた。目がらんらんとし、鼻がやや、膨らんでいる。
「明水さん、すみません」
 昂ぶりを抑えるような調子で、砂映は口を開いた。
「すみません。僕の挙動不審ぶりに、驚かれているかもしれません。しかもこんな格好で、ひかれても無理もないと思います。はい、まったく仕方のないことだと思います」
「いえ、そんなことは」
「お気遣いなく。明水さん、明水さんは天からの授かりものです。天から舞い降りられた天使です。いえ、神様です」
「だ、大丈夫ですか?」
「いえ、あのですね。今僕には、あるミッションが課せられているんです。それはですね、とても重要なミッションなんですが、正直僕は途方に暮れていました」
「はあ」
「それがですね。明水さん。あなたのおかげで、光明が見えました。明水さん、あの、お願いです。助けると思って、助けてください」
「さ、砂映さん。つっこんだ方がいいんですか?」
「つっこみたかったらつっこんでください。つっこみたくなかったらスルーしてください。僕は明日から明水さんに足を向けて寝られません。明水さんがどの方角にいらっしゃるか、僕はこれから毎日確認して就寝しなくてはなりません」
「ええと、砂映さん、まだ僕は何もしてませんし、するとも限りませんよ?」
「していただきます。あ、もちろんタダでとは言いません。何でも言ってください。僕にできることなら何でもします。魔法事典を引く早さには定評があります。呪文の書き写しもいくらでもやります。プレゼンの原稿の代筆もします。魔力は自信ないですが、倒れるまでは試験発動でもなんでもやります。ええとあと……あ、掃除でもいいです。草むしり。子守もできます。他は……ああ、お金とか。貯金はあまりありませんが、分割払いなら何とか」
 勢い込んで言う砂映に、明水は穏やかな笑みを浮かべたまま、「まあまあ」と抑えるように両手を上げた。
「落ち着いてください。あの、ミッションと言うのは会社からの指示によるものではないんですか?」
「そんな感じです」
「なら、あなたがそんな風に個人的になにかを負担するのはおかしいのでは」
 穏やかにそう言われて、砂映ははた、と明水の顔を見た。
「……ほんとうだ。ほんとうですね」
「そうですよ」
「いやあ明水さん。黙っていれば僕からお金を巻き上げることだってできたのに、いい人ですね」
「ははは。わかりませんよ。そもそも、何をお願いされるのか教えていただかないことには何とも」
 言われて砂映は、明水を改めて、上から下まで見た。年は砂映と同じくらいに見えるが、物腰からいって、少し年上かもしれない。身長は砂映よりやや低いが、姿勢がいいので目線は同じくらい。ストレートの短髪に、小ぎれいなスーツ、あくのない、さわやかさに程よく落ち着きが配合されたような顔つき。何だろう、こういうのを、営業マンの鑑というのだろうか。初対面が十人いたら、九人は確実に、良い印象を抱くだろう。社内での評判まではわからないし、砂映自身がどこまで信頼していいのかはわからないが、そこはもう、賭けるしかない。すべて言うわけにはもちろんいかないが、何もかも隠していては、協力してもらえるものも協力してもらえないだろう。
「そのですね。……ちょっとした、退職に関するトラブルがありまして」
 砂映は慎重に切り出した。
「彼らが今、御社にいるのではないか、という状況なんです。とりあえず僕は彼らと話をしたいのですが、御社に知り合いもいなくて、いきなり行っても門前払いを食らうのではないか、と困っていたわけなんですよ」
「あれ、砂映さんって総務部だったんですか?てっきり魔法技師の方かと」
「あ、いや。ええと……技師は技師です。今はまあ、総務部かもしれないですが……総務部内の新部署というか、その」
「あれ、もしかしてカスタマーサービス室ですか?」
「……え?」
 ぽかんと口を開けているところに、涼雨が袋を抱えて走ってきた。
「……ありがと」砂映は押し付けられた袋を受けとり、財布を尻のポケットに突っ込む。
「あの、涼雨さん。こちらの方に、カスタマーサービス室の話したの?」
「え?」
「あ、いや。こちらの方が、カスタマーサービス室のことご存知だと」
「私そんな、社内のことをぺらぺら喋ったりしないわよ」
 きつい口調で言ってから、涼雨は「あ」と口を押さえ、明水に対して取り繕うような笑みを向けた。それからまた砂映に視線を戻し、
「私は言ってないけど、でももし言ったとしたって別に問題あることでもないでしょう?」
 輪郭のくっきりした目に、静かに怒りを宿して言う。
「あの、涼雨さん。俺は別に訊いただけですよ」
「非難のニュアンスで訊いたわよね」
「いや、本当に訊いただけで」
「考えもなしに立場もわきまえず、ぺらぺら情報まき散らしてると思ってるんでしょう?」
「そんなことは」
「……人のこと信用できないから、配属のことも教えてくれなかったんでしょう?」
 淡々と、涼雨は言い重ねる。
 やばい。いつの間にか話題が前回の怒りの元となった件になっている。
「あのね涼雨さん……」
 焦る砂映に対して、しかし涼雨は思ったよりは冷静だった。
「お見苦しいところをお見せして、失礼しました、明水さん」
 よそいきの顔を作って明水に向き直ると、涼雨は深々と頭を下げた。笑みを浮かべて二人を眺めていた明水は、「こういうやりとりを見るのは楽しいですよ」とブラックなコメントを発し、そうしてのほほんとした笑顔のまま、砂映に向かって言った。
「砂映さん、僕がカスタマーサービス室のことを知ったのは、別の人から聞いたんですよ。雷夜くんって……同じ配属なら、ご存知ですよね。元気にやってますか?彼」
 砂映はさきほどよりさらに大きく口を開け、ぽかんとした。何度か口をぱくぱくさせて何か言いかけ、それから抱えた袋にはたと目を落とし、
「あ、ちょっと着替えて来るんで。すんません。その、涼雨さん、一生のお願いですから、僕が戻ってくるまで明水さんをここにいさせといてください。ええ、もう、涼雨さんは女神さまですよ。救いの女神さまです。毎日拝んでもいいですよ。ともかく、ちょっとお願いします。明水さん、頼みます、死んでもここにいてください」
 うつろな顔でそうまくしたてると、そのままトイレに走って行った。

 ありがたいことに、明水さんはこれから横分に戻るということだった。他の会社に回る予定はないらしい。
「社有車を、今日は後輩にとられてしまったんで」
 どうしても外せない用事があった松岡DMCにだけ来たのだと言う。ありがとう社有車を使った後輩君、と砂映は心の中で呟きつつ、タクシーを呼んだ。お客様会社の方より先には乗れない、と言う明水とタクシーの座席に関して一悶着あったが、結局は砂映の説得に折れる形で明水が奥に座った。車が発進し、砂映はしばらく呆けたように、ただ車に揺られていた。
「さっきの話ですけど……正直なところ、ちょっと僕には信じられませんね」
 明水が静かに口を開いた。砂映はシャツを着替えた後、涼雨を丁重にオフィスに帰らせ、いくつかのことは伏せたりぼかしたりしつつも、ほとんどの事情を明水に説明したのだった。明水はあまり口を挟まずに、表情豊かな目の光をゆらめかせてそれらの話を聞いていた。今、流れる車窓の景色を背に、明水はその目をじっと砂映に向け、やがてすっと前方にそらした。
「僕が雷夜くんから異動の話を聞いたのは、本当に最近のことです。確かそう……先週の金曜だったかな。一緒に飲みに行ったんです。月曜に辞令が出ると言っていた。新しい部署で、どんな感じで仕事していくことになるのかまださっぱりわからないけれど、と言って」
 砂映は空中を見据えるようにして顔をしかめた。雷夜が誰かと飲みに行ったりする。元バイト先の上司と飲みに行き、自分の話をしたりする。バー?居酒屋?何だかうまく想像ができない。
「……ああ、飲みと行っても、家族連れもいるような餃子屋ですよ。彼はお酒が好きではないんで、飲んだのは僕だけです」
 明水が冗談めかして言った。……ああ。砂映は想像を修正する。なんだ、単に中学生がなんちゃってサラリーマンしているような絵が浮かんだ違和感だったのだろうか。餃子屋だと、若く見えるお父さんと息子みたいな図になるが。というか、傍から見たら完全にそんな感じだっただろう。父と少年の男同士の話。いやまあとりあえず、ビジュアル的な想像は脇に置こう。
「異動に関して、前向きな様子でした?」
「そうですね。あんまりそういう感情を出さない子ではあるけど……ちょっと期待しているように見えましたよ。あんまり僕も詳しいことは聞いていないけど、以前の部署では、チームで仕事するようなことがほとんどなかったんですよね?」
「あ、ええと……」自分がミスをした(ことにされた)件は話していなかったらしい。まあ雷夜が、そういう話を自分からぺらぺらするとも思えないが。「そうですね。はい、あんまり集団で仕事したりは、なかったかもしれないです」
「……雷夜くんは、優秀ですよね。うちの会社も彼に正式に社員になってほしいということで、かなり引き留めたんですよ」明水は言った。「でもまあ、縛りつけて働かせるわけにもいかないし。説得は失敗して、最後には僕も笑顔で送り出しましたけど」
「そんなにうちを希望してたんですか?一体なんで……」
 決まった時間や慣れた場所、定まった人間関係……雷夜のような研究者タイプは、自分が興味のある物事以外の「余計なこと」は、極力変化がないことを望むような感じがするのだ。もちろん仕事は趣味ではないから、給与体系やら雇用形態やら、そういったメリットデメリットを考えて別の会社を希望したというのもありえるとは思うが……横分魔法研究所は「成果主義」の個人評価制度でほぼ給与が決まり、社内での給与格差が激しいと聞いたことがある。雷夜のような「優秀」な社員なら、横分で働く方が遥かに高い給料をもらえるような気がするのに。
 砂映が訊ねると、明水はややさみしげに微笑んだ。 
「雷夜はたぶん……悩んでいたんでしょう。うちの会社の研究職は、みんな一人一つずつ研究室を持っている、ちょっとした個人経営みたいなところがありましてね。研究内容によってはプロジェクトチームが組まれることもありますが、その場合は下請け会社からメンバーを集めることがほとんどで、うちの研究職がほぼ間違いなく『リーダー』となります。
 研究職には社内の人間……営業職がアシスタントとしてつくんですけど、営業職の一年目でまずはじめに与えられるのが、例外なくこの仕事なんです。営業マンの研修みたいな意味合いもあって。要はいかに研究者の気持を理解して至れり尽くせりサポートできるか、その技術を、社内の人間で学ばせてもらうような感じです。つまりうちの会社の研究職というのは……一人でいるか人の上に立つかのどちらかで、気を遣われ大切に扱われ、意見は常に尊重される。もちろんそれで成果が出なければ、その結果はすべて本人に返るわけですけど。……そんな立場に、雷夜くんは十二歳の頃からいたんです」
「じゅ、十二歳……?」……って、小六か中一ではないか。それは法律的に大丈夫なのか。そんな小さい頃から、何故?と思ったが、話の腰を折るわけにもいかない。とりあえず砂映は続きを待つ。
「僕は入社二年目の時に、彼のアシスタントになりました。……僕は研究職として入社したんですが、結果が出せなかったので営業に職種変更したところで……その時雷夜は十四歳でした。それから七年くらい……通常の社外への営業の仕事もしつつ、僕は彼の担当も続けていました。アシスタントは一人とは限らないので僕以外の営業も何度かついたりして、ほとんど関わらなかったプロジェクトなんかもありましたけどね。
 彼は中学校、高校、と籍はあったはずだけど、たぶん最低限しか出席してなかったんじゃないかな。同年代の友達がいるという話も、聞いたことがなかった。大学はうちと提携しているところに入ったから、研究室で研究していれば単位の心配はなかっただろうし、おそらく入学式と卒業式くらいしか行ってないでしょうね。僕が彼の担当をはずれたのは、あれはたしか彼が大学三年生の時だったと思いますが、彼のアシスタントは入社したての新人営業職数人となりました。厳密には雷夜の方が年下ではあるんですけど、そのアシスタントたちは、つまり雷夜と同世代だったわけです。担当ははずれても、雷夜と僕はたまに時々飲み……いえ、さっきも言いましたけど、飲むのは僕だけです……に行って話をしていたんですけどね。年の近い人間と接することが増えて、いろいろと思うことがあったようです。『自分はどこかおかしいのではないか』というようなことを、たまに口にしていました。そうして卒業を機に別の会社に就職する、ということを、突然言い出した」
「それってつまり……」
「いくつかの会社を受けたらしいけど、かなり苦戦したようですよ。純粋に知識や技術を問われる研究職ならまだしも、彼が入社を希望したのは言ってみれば『チームプレイ』を重視する社風の会社ばかりでしたからね。そんな会社での面接となると……まあ、接したことがあるなら、砂映さんにもわかると思いますけど」
 それはもう。
 と砂映は頷きつつ、内心、僅かながら動揺に襲われてもいた。
 そんな風に敢えて馴染んだ場所を離れて、人と関わって自分を変えようと新しい世界に飛び込んだというのに、雷夜は結局は受け入れられず、一人で資料室に通い、一人で調べ物や研究を続けていた。自分が特別扱いされないような「チームプレイ」が、新しい部署ではできるかもしれないと……彼は思っていたのだろう。思っていて……けれども彼は、それは結局無理なのだと、失望したのかもしれない。雷夜は秋良を連れて行った。ということは、失望されたのは、他の誰でもなく、
(俺か……?)

 砂映の動揺をよそに、明水はあいかわらず、「僕にはやっぱり信じられませんね」と繰り返していた。悩んだ末にあれほどの決意で入った会社だ。しかも願っていたのとは違う状態で丸二年以上も我慢して、ようやく新しい部署への配属が決まったのに突然辞めて横分に戻るなんて、タイミング的にもありえない。なにか事情があるのではないか。
「ところで砂映さん、雷夜に接触していたのは、鯉留なんですよね」
「そうらしいです」
 明水は眉をひそめていた。砂映の視線に気がつくと、繕うように笑みを浮かべた。
「ああ、まあ当然と言えば当然ですけどね。松岡DMCの担当は、基本的に鯉留ですし」
「基本的にはって……何人かいるわけじゃなくて、鯉留さん一人が担当なんですか?あれ、でもじゃあ、明水さんは」
「ああ、技術第一部は、その……こういう話はなんですけど、ちょっとしたクレームがあって、他社に乗り換える話をされてしまって……担当者を変えるから取引を続けてほしい、とお願いして、何とか契約を継続してもらったんです。それで急遽担当になったのが僕というわけで」
「クレームですか」
「あ、まあ……担当を変えただけで継続してもらえたので、ありがたい話ですよ。すみません、生々しい話をして」
「いえ。……ちなみに、そのクレームってどういうクレームですか」
 明水は少し考え込むように口を閉ざした。あれ、まずかったのかなあ、と思った砂映は、慌てて茶化した。「あ、すんません。なんか鯉留さんって少し怖い印象で……ちょっと弱味を知りたいなあ、なんて思ったりしたもんで」
「怖い印象、というのは正しい感じ取り方ですよ」明水は生真面目な表情のまま、呟くように言った。「自社の人間の悪口を言うようで何ですが……彼は手段を選ばないところがあるので」
 迷う表情をしている明水が口を開くのを、砂映は車に揺られながら待った。
「クレームというのは」やがて明水は言った。
「御社の『賢者の石』の秘密に関することを嗅ぎまわったから、という理由です」
 賢者の石を製造・販売している会社は、現在いくつかある。そうしてその製法はどの会社も企業秘密としている。松岡が納入した魔法陣には基本的に松岡の石を組み込むし、石の寿命が来れば大抵は同じ会社製の石と交換する。魔法関連企業において、自社製の石があるかないかで収益の安定性は大きく変わるし、もし石を製造できる会社が今後一社でも増えれば、それだけで業界の構図は一気に変わる可能性がある。それくらいの重要機密で……砂映はもとより、賢者の石の販売を取り扱う技術第一部所属の涼雨だって、その製法についてはまったく知らないはずだ。このことに関して、会社はとても神経質だと聞く。
「それは……それでよく、『技術第一部の担当を外す』だけで済みましたね……」
「すべての担当からはずすよりも、利害関係を残す方が動きを封じるのに有効だという判断だったのかもしれませんね」
 明水はひどく深刻そうな顔をして、また考えこんでいる。砂映も考えてみる。鯉留さんは「賢者の石」を横分で製造したい、と考えている?それは雷夜に接触してきたことに関係あるのか?雷夜なら、何だか何でもできてしまいそうな感じは確かにある。石の開発の研究をしてもらいたくて、鯉留は雷夜を口説いたのだろうか。
「……一緒にいなくなった秋良さんという方も、魔法技師なんですよね」明水がふいに口を開いて言った。
「え?あ、はい」
「……何か『魔法の法則』を無視したことができるといった、そういうことはなかったですか?」
「ふえ?」
 その部分は伏せて話していた。伏せていたし、それにそういう人の存在は、そもそも一般に認知されていないはずではないのだろうか。なんで明水さんは知っているのか。
「あ、ええと……僕は知りませんけど……」
 目を泳がせながら砂映は言った。すべてを見透かしているような、明水の視線が少し怖い。そう思っていると、明水の表情がふっと緩んだ。
「失礼しました。普通は隠しますよね。軽々しく口にしていいことじゃない」
「いえそんな……こちらこそすみません」
 自分の返答の仕方は、そのまま秋良についての肯定になってしまう、とも思ったが、どうしても、隠せる気がしなかった。しなかったし、……しなくても、大丈夫なように、思えてしまってもいた。明水はすっと窓の外に視線を移し、話す。
「うちの会社は元々、『法則外』……彼らのことをそんな風に呼んでいるのですが……の人たちの能力を生かして利益を上げようという、そういう施設だったらしいです。あ、利用というより、『法則外』の人というのは普通の人の一段上にいる方たちだ、という考えで……今の『研究職』の立場にあたるのが元々は『法則外』の方たちだったわけで、だからそういう上下関係みたいなものが、今も根っこに残っているんです。実際今も、『研究職』には『法則外』の方が多い。うちの会社では、特に隠したりもしていません。『法則外』の存在は当たり前にみんな知ってるし、それはむしろ強みとして扱われている。まあ、社外の人は信じなかったり胡散臭がったりするので、あんまり外では言わないですが」
「……雷夜もその、『法則外』なんですか?」
 雷夜の魔法に関する能力は、桁違いだと砂映は思う。しかし明水はあっさりと首を横に振った。
「雷夜には、『法則外』の能力はありませんよ。『天才』だとは思いますけど。……彼の作り出す魔法はすべて科学的な法則に則っている。おそろしく高度ではありますが、すべて理論で説明できる現象です。同じやり方をすれば、誰でも術を再現できます」
 違うのか。少しがっかりしている自分に砂映は気づく。
 生まれつきの才能の差、なのは同様なのに、その技術が「誰でも勉強すれば身に着けることができる」科学的なものだというだけで、悪いのは努力不足の自分だという気持にさせられる。雷夜が『法則外』だというなら、自分はそうではないのだから仕方ない、と思えるのに。
「……ただ、雷夜自身は『法則外』ではないのですが、彼は『法則外』の現象にとても興味を持っているので……」
 明水はそこまで口にして、再び考えこむ表情になった。
「秋良を実験材料に、とか……?」続きそうな仮説を砂映は言ってみた。別にそれほどひどいものをイメージしていたわけではない。でも、「実験材料」ということばは、発してみるとえらく非人道的な響きがした。「まさかね」自分のことばにうろたえて、砂映はとりあえず否定する。明水は静かな目をしていて、砂映のことばを否定も肯定もしなかった。
「とりあえずは、雷夜とその、秋良くんを探して、話をしなくてはいけませんね」
 気を取り直すように、明水は言った。
 よろしくお願いします、と、砂映は深々と頭を下げた。車が揺れを増していた。舗装の悪い道に入ったらしかった。

9.炎

 タクシーの支払で再び一悶着があったが、経費だから、それに座席はこちらが譲歩したのだから、と押し切られて、砂映はお金を出せなかった。そう言われると、むしろ奥の座席に座ってくれたのは支払をさせないためだったんじゃないか、とすら思われてくる。
「というか正直なことを言うなら、僕個人としても、雷夜の問題は放っておけない。砂映さんが僕に恩を感じる必要なんて、微塵もありません」
 ソフトに見えて、この人結構頑固だな、と砂映は思い始めていた。
 まあ、頑固な人は嫌いではない。
 細くて急な坂道を上ると、見上げるような高さの鉄格子の門がそびえていた。暗い色の緑が道の両脇にうっそうと繁り、その奥に無機質なコンクリートの建物が見える。ふわあ、と砂映が眺めている間に、明水は脇の読み取り機にパスケースをかざした。ピ、と電子音がしたかと思うと、古めかしい門がぎぎぎ、と横移動して開いた。「あ、すぐ閉まっちゃいますから」明水がひょい、と通り抜ける傍から、幅一メートルほどの門はゆっくりとこちらに戻り始めている。砂映も慌てて通り抜け、横分魔法研究所の敷地の土を初めて踏んだ。
 人の会社のことをとやかく言うのは気がひける。しかし……
「辛気臭い建物でしょう?」
 砂映の心を読んだように、明水がいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「まあ、正直言いますと、はあ。まあ、趣があるというか」
「うちは会社設立自体は松岡さんほど昔じゃないんですけどね。母体となった研究所が古かったみたいで」
 話しながら、ツタの絡まる建物の中に入った。
 内装は意外に新しく、小ぎれいなオフィス然としていた。ロビーの脇には商談テーブルが並び、向かい合って話すビジネスマンがちらほらと見える。その中に、突き出るような坊主頭。鯉留がいた。何か察したのかふいに彼は振り返り、砂映ともろに目が合った。
 砂映はびくりと肩を震わせた。
 ちょうど話が終わったところらしかった。相手も社内の人間だったようで、じゃあ、という感じで奥の階段へと去っていく。鯉留はテーブルの上の資料を手早くしまうと立ち上がり、砂映たちの方へずんずんと歩いてきた。砂映は思わず逃げ出したい衝動に駆られ、脇に置いてある観葉植物の裏にでも走り込もうかと思った。が、そうこうしてる間に、鯉留はもう目の前に立っていた。
「おやおやおや。砂映さんがどうしてうちに?どうなさったんですか」
 芝居がかったような大声で言う。「ええと、こんにちは。お世話になっております」砂映がためらいがちに言うと、鯉留は響く声で妙にはきはきと、「いえいえこちらこそ、お世話になっております!」ぐんと大柄の身体を折るようなお辞儀をした。にいと笑った顔が爬虫類のようだ。何もかも知っているような、そんな感じに見える。
「雷夜くんがこちらに来ていると聞いたんですけど、どこにいるかご存知ですか」
 どう出るか決めかねていた砂映のかわりに、明水が横から訊ねた。内心の見えにくいにこやかな顔で、いきなり真向斬りこんだ。
「……え?雷夜ですか。懐かしい名前ですねえ。こちらに来ている?へえ。それでどうして、私が彼がどこにいるのか知っていると思うんですか」
「ただ、ご存知かなと思っただけですよ」穏やかな笑みをたたえたまま、明水は言う。
「砂映さんがそう仰ってるんですか?」
 線のように細めた目を、鯉留は砂映に向けた。「あ、ええとその、なんというか」砂映がしどろもどろしていると、
「鯉留さんはしょっちゅう松岡さんに行ってるから、最近雷夜に会ったんじゃないかと思って」明水がにこやかに言った。
「ははは。そりゃあ松岡さんにはよく行っていますけどね。行ったからといって、そうそう会ったりはしませんよ。それより明水くんの方こそ、いつから砂映さんとお知り合いに?」
「今日初めて会ったんですよ」
「あなたの担当は技術第一部だけのはずですよねえ」
「ええ」
「私の仕事の邪魔をしないでいただきたい」
「それはもちろんです。鯉留さんのお邪魔をしたいなんて、一度たりとも思ったことはありませんよ」
 砂映は会話する二人を交互に見ていた。二人とも笑顔だ。なのに妙に不穏なものが漂っている。
「ではこれで僕たちは失礼します」
 切り上げるように明水は言った。しかし鯉留はそれを許さなかった。
「砂映さんをどちらへ連れて行くんですか?」
「どちらって……砂映さんには応接室でお待ちいただきますよ」
 明水はあっさりと言った。へ?という顔を砂映は向けたが、明水は落ち着いた笑みを崩さない。
「待つって何を待つんですか砂映さんは」
「彼は雷夜くんがうちに来てると思ってるんですよ。だから僕は彼を探さないといけない」
「いるわけないでしょう。部外者は、申請して許可が出ないと実験棟には入れない。元研究員だって同じです」
「僕は実験棟に雷夜くんがいるなんて、一言も言ってません」
「オフィスの中なら砂映さんは同行してもいいわけだから、待たせるということは実験棟だと私は思ったまでですよ。明水くん、あなた私のことを疑ってるんですか?」
「疑うって、何を疑うんです?」
「私が雷夜の所在を知っていると……」
 その時だった。制服を着た事務職らしき女性が、メモを持って鯉留のところに走ってきた。息を切らせ、「お話し中申し訳ありません」と前置きしつつ、三人の前で一気に言った。
「実験棟504の雷夜さんから急ぎのお電話が入ってます」
 言い終えると、彼女は走り去った。鯉留は目を見開き、こめかみに筋の浮きそうな表情をしていた。明水と砂映は無言のまま鯉留の顔を見て、それから互いの顔を見合った。しばしの後、鯉留はふいにすっと力を抜くと、「失礼」と言って早足で歩き出した。競うように、明水も歩き出した。砂映もその後ろに慌てて続いた。鯉留は手近な応接室にずかずかと入っていくと、電気を点け、隅に置いてある電話機を手に取った。荒々しくボタンを押し、「ここに回せ」と言っていったんがちゃんと受話器を置く。すぐに呼び出し音が鳴った。鼻息を出し切るように呼吸して、鯉留は受話器を手に取った。
「待たせてすまないね。どうしました」
 砂映は鯉留の脇で耳をそばだてた。相手は雷夜のはずだが、その声は聞こえない。
「聖水?ああ、そんなのはお安い御用ですよ。すぐお持ちします」
 がしゃん。
 受話器を置いた鯉留は、いつの間にか自分の足元にしゃがみこんでいた砂映に気がつくと眉をひそめた。
「明水は?」
「明水さんは実験棟へ。僕はここで待つように、と」
 鯉留は舌打ちをした。明水が雷夜に接触するのは快くないのだろう。が、その一方でそれほど焦る様子もない。
「お構いもせず申し訳ありませんが、そうしてください。というか、待っても無駄ですがね」
 ため息をつくように、鯉留は言った。
「……あの、鯉留さん」
 会議室を去りかける鯉留に、砂映は呼びかける。
「雷夜の他にもう一人、うちの社員来てませんか」
 鯉留は表情を変えずに切れ長の目を砂映に向けた。「さあ」
 砂映は上目づかいで鯉留を観察する。……だめだ。何の感情も読み取れず、嘘をついているのか本当に知らないのかもわからない。
 鯉留が出て行き、扉が音を立てて閉まった。砂映は懐からメモを取り出す。「504」と「8113」。記憶力に自信がないので、すぐに書いておいた。一つは雷夜がいると言っていた、部屋の番号。そしてもう一つは、鯉留が話していた電話の電話機に、表示されていた番号。……独自の内線ルールがあり、たとえば頭に特定の番号が必要で、それは表示されないのだとしたら、それでもうアウトなのだけど……。
 砂映は立ち上がると受話器を持ち上げ、四桁の数字のボタンを押した。呼び出し音が鳴り、番号が「有効」であったことがわかった。かといって、誰かが取るとは限らないし、雷夜が取るとは限らないし……。
「もしもし」
 五回の呼び出し音で、相手が出た。
 比較的高めの、少年めいた、けれど妙に落ち着いた硬質な響きのある、すべての音を明瞭に発音するような、声。 
「雷夜……くん?」
 確信があったにも関わらず、時間稼ぎのように訊ねていた。返事は返ってこなかったが、わずかな息の音が、肯定の意思表示のように聞こえた。
「その」
 砂映の頭の中はぐるぐるだった。訊きたいことが山ほどあったはずだ。いやでも、今はそれを優先するべきではない。いつ切られてしまうかわからないのだ。ちがう、まず一番に伝えるべきことは……
「その。俺は……おまえと一緒に働きたい。俺は、おまえと一緒に働きたいと思ってる」
 我知らず、耳のあたりが熱くなっているような気がした。頭がぼうっとする。受話器からは、相変わらず何の声も返って来ない。けれども通話は繋がっている。切られてはいない。相手はちゃんと、聴いている、はずだ。
「おまえの知識とか、技術とかとはレベルが違うとは思うけれど。でも、あれだ、せっかくカスタマーサービス室に配属になって、まだろくに仕事もしてないんだし、今やめるなんて、ちょっと早すぎるんじゃないかと、そう思うんだ」
 沈黙。雷夜がどんな顔をして、どう思っているのか、まるでわからない。
「まあ、おまえがどうするかはおまえの自由だと思うし。俺がとやかく強制することはできないけど。その……もうちょっと松岡でがんばってみてもいいんじゃないかと、俺は個人的に思うというか……あと、ちょっと話聞いたんだけど、おまえはうちの会社を救うレベルのことしたんだよな。それで、ちゃんと特別報酬とかもらったのかなと。もらってないなら請求していいんじゃないかなと。もっとふんぞり返っていいくらいじゃないかなと。で、その凄いことでうちの会社はもっとおまえを優遇すべきだったと思うんだけど、その一方で、おまえはうちの重要機密を握っている立場ともいえるわけで、うちの会社はちょっとおまえのことを恐れているんだ。……いや、もちろん悪いのはちゃんとしてない会社側だと思う。おまえに非があるわけじゃない。で、とりあえず会社はそのあたりをちゃんとしたいと思ってる。だから一度来てほしいんだ。あの退職願はまだ受理されてない。あんな紙切れ一枚で、会社との縁ってのは切れない。そんな簡単には済まない。ちゃんと話をして、双方納得のいった状態で、自分の意思を通すべきだと思う。だからともかく、今から一緒に帰ろう」
 やはり沈黙。
「それともう一つ……その、秋良が行方不明なんだけど、そのことについて何か知ってることがあったら、教えてほしい」
 沈黙。砂映は待った。受話器の向こうの雷夜の思いも状況も、何もわからない。けれども言うべきことはひととおり言ったつもりだ。辛抱強く、砂映は耳をそばだてる。
 唇か、舌か、喉か。生体のどこかがわずかに動いたような、そんな音があった。
「頼みがある」
 通常と変わらない、淡々とした雷夜の声がした。
「一階オフィスの入り口から入って左手の壁の一番奥に鍵の保管庫がある。そこからB302の鍵を取って持ってきてほしい。オフィス棟から実験棟に移動するルートはいくつかあるが、地下三階の廊下を渡って来て、入り口で内線0751で呼んでくれ。秋良のために必要なことだ」
「ちょ、待て。どういう……」突然の一方的な指示に、砂映は面食らった。何がどうなってるんだ。秋良は一緒にいるのか、いないのか。
 質問が頭の中にあふれたが、それよりも、まずは今の内容を確保しなくてはと思い直す。
「悪い、ちょっと待て。メモするからもう一回」砂映は急いで受話器を肩に挟み込み、メモ帳にペンを走らせた。「鍵が、左手の壁?で鍵はええとB……」
「302」
「で、地下三階。内線番号が」
「0751」
「わかった。B302。地下三階の入り口で内線0751。その……秋良は今、一緒にいるわけではないのか?」
「ない」
 ない……
「でも、ええと、その建物にはいるのか?」
「いる」
 一文字でも間違えると正常に機能しない、魔法陣と問答しているような気分になる。まあ、雷夜なので仕方ない。とりあえず、秋良もいるのなら、よかった。
 電話を切る前に、他に確認しておくことはないだろうか。訊きたいことは山ほどあるが、絶対今訊いておかないと困ることは……
「あ……ええと、あ、鍵って、俺みたいな部外者に渡してもらえるのかな。おまえの指示って言ったらいいのかな」
「こっそり取る以外ないだろう」
 ええ?
「いやちょっと待て。それって泥棒……」
 受話器の向こうで、くぐもったノックの音が響いた。
 ――雷夜、ここにいるのか?
 わずかに聞こえたのは、明水らしき声だった。
 そうしてその瞬間、断りもなく通話は切られた。
「……え?」
 自分の手に残ったメモを、砂映はもう一度見直す。
「ええと?」
 よそ様の会社で、皆さまが働いてらっしゃる日中に、オフィス内の保管庫から鍵泥棒。
 そんなことに挑戦したら、確実に手が後ろに回る。
 砂映は先ほどの内線番号を必死の勢いでもう一度押した。
 呼び出し音が鳴り響く。
 けれどもいつまで経っても、もう誰も、電話に出てはくれなかった。

 とりあえず、砂映は走ることにした。
 息せき切って有無を言わさず頼まれると、人は断りにくいのではないだろうか。そんな思いつきにすがることにした。ついでなので地下三階の下見をすることにした。ロビーの奥に階段を発見し、駆け下りた。薄暗い廊下の左手は壁、右手に会議室か何かの部屋が並んでいる。人の気配はまったくなく、あたりはしんと静まり返っていた。砂映は突き当たりまで走り、コーナーを曲がった。まっすぐ先にねずみ色の扉がある。あれが実験棟への扉だろうか。扉の傍に、数字ボタンの並んだ装置がついている。ふむふむ、と足踏みしながら確認して、また走り出す。角を曲がって無機質な廊下を突き進むと、下りてきたのとは別の階段があった。そこを駆け上がる。上り階段三階分は、寝不足運動不足の身体に堪えた。抑えようとしても抑えられないほどに息が上がってきた。よし、この勢いで突っ込んでやる。
 行き来する人たちに何度もぶつかりそうになりながら、砂映はぜえぜえと走った。オフィスに入るには社員証を読取装置にかざさなくてはいけないようだったが、ちょうど入ろうとしている人がいた。「あ、すんません」砂映が続いて入ろうとすると、その人は親切に扉を押さえてくれていた。その人の後について、よろよろと人々が働く空間に入り込む。等間隔で机の島が並び、スーツや制服を着た人たちが着席して資料やら伝票やらに向かっている。時折電話やFAXの電子音が鳴りはするが、松岡に比べてえらく静かだと砂映は思った。話し声はないわけではないが、トーンがおとなしい。電話で話している一人は、口元を手で覆うようにしている。扉が開いて誰かが入ってきたからといって、顔を上げてこちらを見るような人もいない。机の上に目を落とし、淡々と仕事をこなしているように見える。こんなところに鯉留がいたら、声の響き一つとっても、目立って仕方ないのではなかろうか。明水さんなら、それなりにうまく溶け込んだりしそうだけれど。
 誰もこちらに関心を持っていないようなので、確かに雷夜の言う通り「こっそり取る」ことができそうな気もした。件の保管庫もすぐにどれかわかった。しかし、もしも誰かに訊ねられたら、「他社の保管庫の鍵を無断拝借」の非常識を、どう言い訳していいのかわからない。やはり当初の予定通り、誰かに頼むことにしよう。そう思ってフロアを見渡す。ちょうどよく、島の末席、つまり部長席側と反対の、こちらに近い方に、先ほど鯉留に雷夜からの電話があったことを告げに来た事務職の女性を発見できた。
 まだ荒い息を残しながら、砂映は彼女の席に近づいた。すぐ横に立っても、彼女は顔も上げない。時折電卓を叩きながら、書類に数字を書き込んでいる。中断すると厄介な作業なのかもしれない。砂映はしばらく彼女の席の脇に立ち続けて、待った。彼女のまわりの人たちも、特に砂映に注意を向ける様子がない。
「すんません。その」
 数字を書く手が紙の下まで達し、彼女が軽く息を吐き出しながらページをめくろうとした瞬間に、砂映はようやく声をかけた。彼女はおかっぱ頭を揺らし、やや不機嫌そうな顔をして、砂映を見上げた。
「なんでしょうか?」
 言いながら、億劫そうではあるものの、立ち上がる。
「その……鯉留さんに、急ぎで鍵を取ってくるように頼まれたんです。あ、私は松岡デラックス魔法カンパニーの砂映・Kと言います。ちょっと急いでまして。鍵はそこにあると思うのですが、勝手にとってもいいものでしょうか」
 砂映がそう言い終えるか終えないかのタイミングで、彼女は椅子と机の間から出ると、後ずさって避けた砂映に一瞥もくれずに鍵の保管庫に向かった。その手には、オフィスに入る人が読取にかざしていた社員証らしきものが握られている。彼女はずんずん歩いていくと、保管庫の横の壁にある読取装置に社員証をかざした。どうやらそれがないと開けられないらしい。やはり「こっそり」は無理だったじゃないか、と砂映は内心雷夜に悪態をつく。いやまあ雷夜なら、その場で解除する魔法を構築して開けるくらいのことをしてしまいそうでもあるが。
「どこの鍵ですか」
「あ、ええと、B302、B302です」
 片手のメモに念のため目を走らせながら、砂映は慌てて言った。彼女は迷いない手つきで該当の鍵を掴むと、砂映の手に押し付けた。「返す時は、私に返しに来てください。私が不在の場合は、他の人に預けて伝言ください」
「あ、その、お名前を教えてもらってもいいですか」
(べに)といいます。紅・Aです」
「わかりました。どうもありがとうございます」
 ぺこりとお辞儀をすると、砂映は出口に早足で向かった。扉の前でもう一度振り返ってお辞儀したが、紅はもう、こちらを見てもいない。しかしどういう場所の鍵かよくわからないが、こんなに簡単でよかったのだろうか。セキュリティ的に問題ではないのだろうか。紅さんに後で迷惑がかからないといいが、と砂映は思った。まあとりあえず、今は一刻も早く地下三階に行くことだ。

 先ほど下見をした地下三階の扉の前に行き、メモを片手に内線番号を押そうとした瞬間、がたん!と勢いよく扉が開いた。「うおう」前にいた砂映に、金属製の扉は容赦なくぶち当たってきた。
「遅い」
 尻餅をついた砂映を見下ろして、黒ずくめの「少年」は短く言った。え、ちょっと、なにそれ。謝るとか、せめて驚くとか、そういうのはないのか。いやその前に、今日散々、「どこにいるのか」「何をしているのか」「何を考えているのか」と思っていた「雷夜」、その本人があっけなく目の前にいるけれど、自分は何をどう思ったらいいのか。
「え、俺まだボタン押してなかったのに、なんで」
「そっちから入る場合は誰かに開錠してもらう必要があるが、こちらから開ける分には問題ない」
「俺が来たのわかったんだ」
「音がした」
「あ、その……ええと、何から訊いたらいいもんか、その」
「明水に会った。明水の読みはほぼ当たりだ」
「へ?」
「問題は、秋良がどこにいるかだ」
 そういうと、雷夜はさっさと歩き出した。砂映も慌てて立ち上がり、扉をくぐって後を追う。
「どういうこと?その……秋良とおまえは一緒にここに来たんじゃないのか?」
「一緒に来た。鯉留に言って、うまいこと『検査』もできた。ただ、鯉留にばれた。俺の責任だ」
 少年めいたその顔は真剣だ。大きな黒い目は、突き通すようにまっすぐ前を向いている。
「『検査』ってなんだ。何がばれたんだ?」
「俺も迂闊だった。鯉留は契約書にサインするまで秋良を誰にも会わせない気だ」
「だから何がばれて、なんで」
「話すと長い」
 あんまりな返しに砂映は鼻白む。ひっそりと静まり返った薄暗い廊下は、どこまでも続いているように見える。
「……三年前ミモフタ魔法化学が倒産した。賢者の石の生産と販売を中止した結果だ。副社長が亡くなったのはその半年前だった」
 ちろりと砂映を一瞥すると、雷夜は唐突に話し出した。さっきの質問の答えなのかまったく別の話かわからないが、とりあえず砂映は相づちを打つ。
「賢者の石の生成は『法則外』の魔法によるものではないかという仮説を、明水も鯉留も立てていた。『法則外』の存在がここまで世間に隠ぺいされるのも、そしてそれがかなり成功しているのも、賢者の石の成り立ちを隠す意図が働いているためではないかと」
「ええと、つまり、その『石を作れる法則外』の人がいなくなったら、もう製造できないってこと?」
「そうだ。だから鯉留は、俺に賢者の石を作れと言っている」
「『だから』?」
「……俺がここでしてた研究の内容は聞いたか?」
 だんだんと、雷夜の歩く速度が落ちていることに砂映は気がついていた。とりあえず砂映もその歩みに合わせる。「いや、聞いてない」
「『法則外』の魔法を、法則下の科学的な魔法で再現する、ということを長い間やっていた。たとえば魔法陣なしで火を出せる者がいたとしたら、その火の成分や働いている魔力の構成を分解して、同じ性質の火を発現する魔法陣を構築する」
「それはすごいな」ナルタケ工業で、魔法陣は一切見ずに「現象」から逆魔法陣を構築してみせた雷夜を思い出す。魔法陣を読んでどんな魔法が出るかわかる魔法技師はたくさんいると思うが、よほど単純なものでない限り、その逆のことはなかなかできるものではない。まあ砂映の場合、「魔法陣を見てどんな魔法が出るか判断」するのでさえ危うかったりするのだが。
「それで何人か死んだ」
「へ?」
 どこにどう話が飛んだのか。砂映はとっさにわからなかった。何の話になったんだ。
「縄でぶら下がったのもいれば、自分の火で自分を燃やしたのもいる」
「ちょ、ちょい待って。何、自殺の話?」
「『彼らにしかできない仕事』を、俺が『誰でもできる仕事』に変えてしまったから。彼らは『存在意義』を奪われたと感じたのだと、聞いた。でも悪いが、俺にはよくわからなかった。できることはもっと他にたくさんあるのに」
「そ……」
「秋良は悩んでいた。自分の魔法の内容を解明して自分で把握できれば、コントロールはしやすい。俺も自分が構築した検査魔法陣の内容をすべて覚えてはいなかったから……ここに来れば手っ取り早いと思った。松岡の社員のままではここに入れてもらえないだろうから、とりあえず形だけ辞めたことにしようということになった。秋良はすぐ松岡に帰るつもりだった」
 ……「秋良は」って。おまえは?
 いつの間にか、雷夜は足を止めていた。砂映も立ち止まった。人形のようにつるんとした顔で、雷夜の表情は相変わらず読みにくい。目をそらすようにそっぽを向いている。
「鯉留は俺に、秋良の魔法の『再現』をさせる気だ。秋良の魔法はまだ、本人がきちんと形にして発動したことのないものがほとんどで、複雑でなにかの断片のようなものばかりの、見たことのないパターンだ。検査魔法陣の結果を見ても、まだよくわからない。秋良の『存在意義』が、自分でも知らなかったようなそんなところにあるとは思えない。思えないが、俺にはよくわからないから」
「ええと、まあそれは、秋良にしかわからないと思うけど……」話に必死でついて行きながら、砂映は敢えて間延びした調子で言った。
「つまりその……秋良の『法則外』の魔法が、賢者の石を作るものだってこと?」
 思い切って、砂映は一歩進行方向に踏み出してみた。雷夜はつられるように足を出すと、何事もなかったように、半歩先を行く早足で歩き始めた。
「仮説の上の仮説だ。でも鯉留はそう信じてる。万が一そうでなくても何か価値のあるものが出るだろうと見てる。秋良が松岡一族の人間だと知っていた」
 灰色の廊下はやっと突き当たりに来た。角を曲がると、頭にBをつけた大きな三桁の数字の書かれた緑色の扉がずらりと並んでいた。
「B302には何があるんだ?そこに秋良がいるってこと?」
 鍵をちゃりんと言わせながら砂映は訊ねた。
「いや」雷夜は短く答えた。B302号室はすぐにあった。砂映は鍵を渡そうとしたが、雷夜は砂映が開けるのが当然とばかり腕を組んでいる。仕方なく、砂映は前屈みになってレトロな鍵穴に鍵を差し込んだ。がちゃり、と開錠の手応えがあった。

 中は、物置部屋のようだった。奥行きは十メートルくらいはありそうで、扉から入って手前のスペースは空いている。奥の壁はスチール製の棚が置かれて天井まで達しており、その前には段ボールが山積みになっている。バスケットボールや縄跳びの縄、薄汚れた軍手やホワイトボード、ちりとりなどが、ごたごたと寄せるように床に置かれている。その脇には、ストーブと灯油缶が並んでいる。
 雷夜は迷いのない足どりで歩を進めると、器用に段ボールとストーブの間を抜け、奥の棚に手を伸ばした。背表紙に魔法文字の書かれたファイルの一つを手に取り、ぱらぱらとめくる。
「それを見に来たのか?」
 立ったまま読み始めた雷夜に砂映が訊ねると、
「ああ、違った」と答えて、雷夜はすぐさま棚にそれを戻した。奥から出てくると、砂映の顔を見て、並んだ灯油缶を指さした。
「え、あれを持って行くってこと?」
「そうだ」
 砂映は物を踏まないように足場に気をつけながら、灯油缶のところまで行き、手前の一つをぐっと持ち上げた。満タンではないらしく、思ったよりは軽い。片手に提げて戻ってくると、雷夜はくるりと背を向けて、先に部屋を出た。……まあこちらの方が図体もでかいし、いいのだが。いいのだが……。
「何に使うんだ?これ」
 灯油缶をいったん廊下に置き、鍵を閉めながら砂映は訊ねた。
「ああ、ちょっと」
 雷夜はまともに答える気がないらしい。見ると、いつの間にか手に、魔法用紙とペンを持っている。さらさらと、魔法陣に文字が書き込まれていく。砂映は目を凝らすが、何だかあまり見たことのない形式で、どうもよくわからない。
「何を書いてるんだ?」
「ああ、ちょっと」
「これからどうするんだ?これをどこに持って行くんだ?」
「持って行くのは五階だ。そこで鯉留と話をする」
「え」
「聖水を頼んだ。『ここにいろ』とメモを置いておいたから、待ってるはずだ」
 そこに砂映も行くのはまずい。部外者である砂映は、「実験棟に入ってはいけない人間」なのだ。見つかったら、どうなるのか。
「それは……俺は行かん方がいい感じだよね」
「そうか?」
「いや、だって、許可がないとこの実験棟には入ったらいけないって言ってたし」
「俺の許可があるからいいんじゃないのか」
「え?そうなの?申請がどうのって言ってたけど」
「そんなものは後でどうとでもなるだろう」
「いや……」
 事前申請の重要性について、新人研修で教わらなかったのだろうか。説明してやりたい気もした。が、今はそういう事態ではない。そういう事態ではなくて……
「その……もしかして秋良は、閉じ込められているとか、そういうことなのか?」
「おそらく」
「それって犯罪じゃないのかな」
「かもな」
「警察に連絡するのがいいんでないかな」
 ちろりとこちらを見た雷夜の目に、馬鹿にしたような色が浮かんだ。
「鯉留がしらばっくれて終わりだろう。あやふやな情報で、しかもいなくなってたった二日で、警察がここに来るかさえ怪しい」
 ああそうか。熱海さんとも、そういえば似たようなやりとりをしたのだった。捜索願が出ているわけでもないし、そもそも「法則外」であることや石のこと、なんかが万が一騒ぎに乗じてマスコミにでも知れたら、それこそよろしくない。……けど、そこまで冷やかな目をして見なくてもいいのではなかろうか。
「じゃあどうするんだよ。……というか、契約書にサインして、出してもらって逃げたらいいんじゃないのか?そんな監禁されて書かされたサインなんて無効だろ。無視したら」
「サインしてもここからは出られない」
「へ」
「サインしなくてもここから出られない」
「どういうこと」
「サインしたら、プロジェクトに参加するのでしばらく帰れない旨の通知を家族や知人に送ることができる。サインしなかったら、外部への連絡は一切できない。そういう選択肢だ」
 なんだそれは。
「その……横分はいつもそんなことやってんの?『法則外』をさらって監禁して、無理矢理研究に協力させたりしてんの?」
 さっき、明水さんは「法則外」の人を優遇する体制になってる、というようなことを言っていなかっただろうか。こんなのは、あまりにもひどい。人権無視もいいところだ。
「……『法則外』だからというわけではない。それに監禁ではなくて軟禁だ。必要があればさらってでも連れてきて協力を要請することはある。でも相応の報酬はもらえるし、プロジェクトが終わればその後の身の振り方は自由だ」
「でも、本人の意思ってものがあるだろ」
「そうだな。俺は考えなかったが、普通はある」
「……『俺は』って、おまえさらわれてここに来たのか?」
「昔。でもその後は自由だと言われた。家に帰れるようになったし、それに転職もできた」
 ……なんじゃそりゃ……。
「秋良は何て言ってたんだ?」
「わからない」
「そうなの?」
「だから俺が迂闊だった。検査魔法陣の上に秋良を置いて、その結果を解析魔法陣にかけている間に、秋良は連れていかれてしまった。鯉留に訊いても別室にいるの一点張りだ」
「じゃあさ、俺はその秋良がいる場所を探したらいいかな」
「ここは松岡の地下資料室並に、空間を誤認識させる魔法がかけられている。おまえには無理だ」
「でも、じゃあ」
「部屋の鍵に、その部屋に至る誤認識を解除する設定が組み込まれている。その鍵は鯉留が持っている。俺が話をするから、おまえが鍵を受け取れ」
「……わかってもらえそうなんか?」
「鯉留はああ見えて小心者だ。何とかなる」
 そうは思えないけどなあ……。
 ともかく雷夜が歩き出したので、砂映も灯油缶を持ち上げて従った。中の灯油がとぷとぷ揺れる。それなりに重い。
「何に使うんだよ、この灯油」
「さあな」
「『さあな』って……人に持たせておいてそれ」
「使うかどうかわからない」
「いやだから、そういう人の気力を挫くようなことを……」
 えっちらおっちら階段を上る。雷夜は澄ました顔をして、交代を申し出るような気配はまるでない。
「そのう、それでさ」
 何とか五階に到着し、砂映は一度灯油缶を置いた。ふへえ、と身体を折って息を吐きながら、口を開く。
「おまえは今、松岡に戻る気でいるんだよな?」
 砂映の横で足を止めた雷夜は、表情の読みがたい顔でちろりと砂映に目を向けて、考えを秘めるようにすっとそらした。
「そうでないなら、俺はおまえに協力できない。秋良を探して連れ戻すことも大事だけど、おまえも連れ帰らないと意味がないんだ。例えばおまえが、秋良を諦めさせる交換条件にここに残るとかそういうことを言うなら、作戦を考えて出直すことにする」
 膝に手をつきながら、砂映は横からにらむ勢いで雷夜に告げた。雷夜は涼しい顔のまま、
「……別におまえの協力が必要だとは思ってない」
 砂映の方など見ずに言う。
「な、おまえ、なんちゅう……」
「まあでも、戻りたい、と思ってはいる」
 遠くを見るような目をして、雷夜は言った。そのまますたすたと歩き出す。
「『思ってはいる』って、ずいぶん歯切れ悪くないか、何考えて……」
 砂映は慌てて灯油缶の持ち手を掴み、ふぬ、と持ち上げて追いかける。歩き出した廊下の、手前から四つめの扉の前で、雷夜は足を止め振り向いた。
「砂映」
「んあ?」
「いやなんでもない」
 え、こんな時に言いかけてやめるとか勘弁してほしいんだけど。
 と砂映は言いたかったが、口を開く前に雷夜はその扉を開けた。リノリウムの床の奥行きのある部屋で、学校の理科室を思い出させる。奥は大小の戸棚や机、椅子、丸めた書類や段ボールなどがごたごたと並び、物置のようだ。すっきりとした手前には実験テーブルが一つ置かれ、テーブル上には、紙切れと、ペットボトル入りの聖水が一つ。そしてテーブルの六つの丸椅子の一つに、どこか所在無げに両脚を広げて前屈みに腰掛けた、鯉留の姿があった。
「おや、やっといらっしゃいましたか」
 ぬうっと顔を上げて、鯉留は言った。疲れたような顔をしている。
「なんとまあ砂映さん。部外者は立入禁止と申し上げたのに、なぜここにいらっしゃるんですか。重要顧客会社の方だからと言って、そのようなふるまいをされてはこちらもただで済ますわけにはいかないんですけどね」
「俺の客だから」
 雷夜が短く言う。鯉留は切り口のような目を細めて、顔を歪ませるように笑う。「変わりませんねあなたは。けれどそのように仰るということは、少なくとも雇用契約書にサインはしてくださったんですよね?」
「いやしてない」
 雷夜の無言の指図に従い、砂映は灯油缶を抱えて部屋の奥まで行った。目の高さの戸棚にビーカーやフラスコが並んでおり、本当に理科準備室みたいだなと思った。いろいろな物があるが、灯油ストーブがあるわけでもないし、一体なぜここに灯油を持ってくる必要があったのかは、見当もつかない。椅子の脇に灯油缶を置くと、雷夜は扉の方を指さした。出てけ、ということかもしれなかったが、砂映は扉の横まで行って、断固ここにいるぞという意思表明をするように腕を組んで壁にもたれた。雷夜の視線はそれを確認していたが、それ以上指図するそぶりはなかった。むしろ痛いのは、おそろしく不愉快そうに砂映を上から下まで舐めまわす、鯉留の視線だった。
「サインしてない?どういうつもりです」砂映から雷夜に目を戻し、鯉留が言う。
「俺も秋良も、横分に転職するのはやめにした」
「はい?今さら何を仰ってるんですか。そんなわがままがまかり通ると、本気で思ってるんですか雷夜」
「思ってる」
 雷夜は物置スペースに歩いていくと、脇の資料棚からファイルを一つ取り出して、片手に持ち、ぱらぱらとめくった。
「言っておきますが雷夜、その資料は横分のものです。社員でない、社員になるつもりのないあなたに、見る権利はない」
「そうだろうな」
 そっけなく答えながらも、雷夜は資料をめくる手を止めない。目はその文字を追い続けている。
「気にしない。そうですか。警察を呼んだり裁判に訴えるような面倒な真似を、こちらは決してしないだろう。暴力に訴えるということも、あなたを損なう危険性を考えるとするはずがない。とするとあなたは何をやっても自由だと、そう思ってらっしゃるんですね。何のしがらみもなければ、どう思われても構わなければ、何をやってもいい。精神が強ければこんなにも人は自由だ。素晴らしい。でもあなたはそれでいいとして、秋良はどうなんでしょう。あなたは秋良のことはどうでもいいと、そういうことですか?」
「そうでもない」
 顔も上げずに、雷夜は答える。
「『そうでもない』とは?秋良がどこにいるか、あなたはご存知ないのでしょう?たとえ見つけ出せたとしても、鍵がなければどうしようもない。魔法制御ならあなたは何とかするかもしれないが、物理的な障壁に対してあなたは無力だ。やりたいことがあるのなら、他人に何か要求するのなら、それなりの礼儀や態度というものは必要なのですよ雷夜」
「そうかもな」
 言うと雷夜は、手にしていたファイルをぱたんと閉じた。さして急ぐ様子もなく、棚の元の場所に返す。こちらに向き直り、見守る鯉留に一度まっすぐに目を向けたかと思うと、すっと膝を折り、床に両手をついた。
「何の真似ですか雷夜。土下座でもするつもり……」
 その瞬間だった。
 床のリノリウムに魔法陣が浮かびあがった。雷夜が手をついた場所、そこから次々に光が流れ、三つ、四つ、五つ……最終的に六つの魔法陣が次々に光を放って発動した。魔法陣の上に床と同じシートを敷いて隠していたらしい。しかし一体どういう魔法なのか。今のところ何も起きている気配がない。
 雷夜は立ち上がった。ひどく愉しそうな顔をしている。ポケットから取り出したのは、マッチだった。しゅ、と擦って手を放す。端の魔法陣の上に落ちたそれは、床に触れた瞬間ぼおっと火の勢いを増し、床の魔法陣の上をまたたくまに走り抜けた。狂気のような笑みを浮かべて、雷夜は足元の炎が描く半円を眺める。かと思うと、おもむろに体をひねって傍らに置いてあった灯油缶の上に屈みこんだ。
「やめ……っ」
 砂映は思わず駆け寄ろうとした。しかし魔法陣のところに見えない障壁のようなものがあり、弾き返された。尻餅をついた砂映の前で雷夜は灯油缶を傾け、床の上にだばだばとぶちまけた。炎はすぐさま飛びついて、ますますその勢いを増す。目の前の炎の熱気に、砂映は顔が焼けるような熱さを感じた。目がしょぼしょぼする。炎と雷夜の近さは、砂映の比ではない。もはや炎の中にいるといってもいい状態の雷夜が、なぜ平気そうなのか。なぜ、涼しげにさえ見えるいつもどおりの顔をして、平然としているのか。砂映にはわからない。
「今は、これ以上炎が広がらないよう魔法陣で制御している」
 揺らめく炎に下から照らし出されながら、今にも笑い出しそうな声で雷夜が言った。
「秋良のいる部屋の鍵を砂映に渡せ。そうすれば、ここだけに留める。もし渡さないなら、炎を解放する。そうすればこの実験棟は丸焼けだ。中にいる人間は全員避難させざるをえない。秋良も含めてな。……秋良を殺す気はないんだろう?どちらの被害が少ないか、考えた方がいい」
「あ……あなたという人は……」鯉留はぎりぎりと歯を軋ませた。今となっては単なる口実のためだったとしか思われない、雷夜が頼んだ聖水のペットボトルに手を伸ばし、潰す勢いで握りしめる。蓋が飛んだ。鯉留はそれを力いっぱい投げつけた。
 障壁に弾き返されるかと思ったのに、そうはならなかった。ペットボトルはとっさに顔を手で覆った雷夜の手首に当たり、水をまき散らしながらごとんと床に落下した。口から液体が流れ出し、床の上に聖水が溜まる。安物のペットボトル入りの聖水は、ほぼ普通の水と同じようなものだ。しかし何も変化がない。火はあいかわらず何の影響も受けずに燃えており、水は蒸発する気配もない。
「は。ははははは!」それを見て、鯉留は笑い出した。
「そういうこと。錯覚系の魔法というわけですか。なかなか面白い、手の込んだ術があるものですね。こちらに伝わるこの熱気、この煙、このにおい、音、まるで本物のようです。危うくだまされるところでしたよ。しかしどうします?奇しくもあなたが頼んだ聖水で嘘がばれましたね。そういうものですよ。さあ、馬鹿げたことはやめて、契約書にサインをすれば、秋良の件については譲歩してもいいですよ。どうですか?」
 雷夜は答えない。炎の中で、突っ立っている。
「さあ、いい加減、子どもじみたわがままはやめなさい。取引というものは、まったく負担を負わずに成立させることはできないのですよ。秋良の魔法の検査結果がほしい。秋良はこれまでどおり松岡で働く。石の秘密はこれまでどおり。あなたも松岡に帰る。そんな虫のいい話がありますか?こちらとて、こうなったらすべてとは言いません。不本意ではあるが、秋良のことは諦めてもいい。そのかわりあなたはここに留まり、賢者の石の研究をする。いいじゃないですか。何も松岡の製法を盗めと言っているのではないのですから。他にも賢者の石を販売している企業はある。別に裏切りじゃありません。あなたはあなたの方法で、賢者の石を作り出せばいい。あらゆる魔法研究者の夢ですよ、これは。賢者の石が誰にでも作り出せるものになれば、きっと世界は変わります。あなたの名前は歴史に残るかもしれない。あなたにとっても決して悪い話ではない。どうです?」
 燃えさかり踊り狂う幻の火の中で、雷夜はしんと立っていた。ぽかんとして、まさしく子どものようだった。
「だいたい私は納得がいかなかったんです。あなたが横分を出て松岡に移ったこと。そんなことはすべきでなかったと、まちがいであったと、この期に及んでわかっていないあなたが私は口惜しい。あるべきものがあるべきところに帰るだけ。この取引は、むしろ存在しないに等しい。あなたがうちに残るのは必然だ。明水が何を言ったのか知らないが、あなたの能力が最も発揮できるのはここだ。あなたはここにいるべきです。わかりませんか?閉じ込めて、強制した方がいいですか?自分のことはわからないものですからね。私がすべて、あなたにとっていいように、すべて整えて差し上げますよ」
 嬉々として鯉留は語る。
 砂映は口を挟みたくなった。
 挟みたくなった。けれどもできなかった。
 鯉留は自分の利益だけを考えているのではない。雷夜のことも、思って言っている。そう、感じられる。
 松岡デラックス魔法カンパニーに入って、雷夜が不遇の時を過ごしたのは事実だ。
 自分が実際、雷夜にやりにくさを感じたりすることも事実だ。
 松岡に戻って、これからはすべてうまくいくなんて保証はどこにもない。
 そんな責任を、砂映は負えない。
「……鍵を」
 放心したような顔をして、雷夜が口を開いた。
「秋良のいる部屋の鍵、今持っているか」
「ええ、持っていますよ。ほら」
 鯉留は勝ち誇った顔で、懐から鍵を出して振ってみせた。
「さっき言った取引。……秋良は返す。それは守ってもらえるんだな?」
「もちろんですよ。私は嘘はつきません」
「じゃあ、その鍵を砂映に渡してくれ」
 泣きつかれた子どものような顔をして、雷夜は言った。
「おやおや。あなたこそ、約束は守るんでしょうね?」鯉留は愉しげだ。砂映は動けずにいた。口を開くことができない。
「出口はそっちにある。閉じ込めようと思えば閉じ込められる。そうだろう?」
 雷夜が言った。
「まあ、それもそうですね」
 そう言うと、鯉留はテーブルの上にじゃら、と鍵を置いた。雷夜は砂映に目で促した。
 砂映は立ち上がり、鯉留が手放した鍵を掴んだ。求めていた鍵を、手に入れた。手に入れたが、けれども。
「その、雷夜、おまえ……」
「余計なことを言わないでいただきたいですね砂映さん。あなたの勝手なふるまいは本来看過できるものではない。けれども雷夜に免じて、放免にしてもいい。そのぐらい、私は今気分がいいんだ。邪魔はしないでもらいたい」
「雷夜おまえ、それでいいのか?」
「さっさと出て行ってもらいたいですね砂映さん。私の気が変わらないうちに、秋良を連れてとっとと帰ったらいい。本来の形に戻るだけだ。雷夜はもともと横分の人間です。秋良が協力すれば相当研究の助けにはなったと思うが……」
「社長の甥を、いつまでも軟禁なんてできるはずがない」砂映が言った。
「そんな無茶なこと、できるわけがない。ここにいることがはっきりとわかれば、松岡の人間にだっていくらでもできることがある。それだけのことを、秋良のためならするだろう」
「ええ、そうですね。あなたのためには誰もそんなことしないでしょうけど」
 鯉留の茶々を、砂映は無視する。
「雷夜。おまえのためだって、おまえの意思さえはっきりしてるなら、俺は松岡の他の人間を説得して連れてくる。何としてでも入り込む。俺だと、俺一人だと、空間誤認の魔法だのなんだの、無理かもしれないけど、松岡にだってそれなりにできる人間はいるんだ。説得なら、俺はする。だから、おまえの意思を聞かせてくれないか」
 雷夜は一瞬澄んだ目を、砂映に向けた。
 それから傍らに置いてあった灯油缶をひっつかみ、残っていた灯油を突然頭からかぶった。すっとポケットに手を入れてマッチを取り出し、あっという間に火を点けた。ぶわ、と一気に炎は雷夜を覆い尽くした。性懲りもなく駆け寄ろうとした砂映は、途方もない力に弾き飛ばされ、ドアの外にもんどり打って転がった。
 腹の底から絞り出すような、鯉留の絶叫が響いた。
 はじめに魔法陣に落としたマッチによる本物の火は、実際には魔法の効力で瞬時に消され、幻の炎が巧妙に取って代っていたのだろう。魔法陣は、発動さえしてしまえばあとは流れに従って稼働を続ける。術の継続のためのエネルギーの供給は、魔法陣にじかに触れていなくても可能ではある。けれども、それなりに集中する必要はある。
 雷夜は灯油をかぶり、自らに火をつけた。自身を火で焼かれながら魔法を行使できる人間などおそらくいない。火を魔法で消すことも幻の火を出すことも不可能なはずで、だから雷夜を包む炎は、本物でしかありえない。

10.おまえは正しい

「僕が悪かったんです」
 秋良は言った。
「みんなを心配させたいという、子どもじみた思いがなかったといえば嘘になります。自分の存在価値とか、そういうことをあれこれ考えていて……甘えた考えがひょこっと湧いた。それで雷夜さんに、退職願を出すことを提案したんです。僕が言ったんです。検査魔法陣を使わせてもらうのに、社員になるんだといえば横分の人だって文句はないだろうって」
 タクシーの後部座席に揺られる秋良は、疲れたような白い顔をしていた。食事もちゃんともらっていたし部屋の居心地は悪くなかったと言っていたけれど、不安や緊張は相当のものだったはずだ。
「その検査魔法陣の管理責任者が鯉留さんで……雷夜さんが電話をしたら、すぐに来ていいと言ってくれました。雷夜さんは、検査が終わったらとりあえずすぐに実験棟を出た方がいいって、僕に言ってくれてたんですけど……雷夜さんが結果を解析している時に、僕は鯉留さんに呼ばれて。話しやすい場所がいいと言って、宿泊室に連れていかれて、それで契約書の内容を説明されて、そのまま気づいたら鍵をかけられた部屋の中で一人になってて……」
「それは、『賢者の石の研究』に協力しろ、って内容の契約書だったのか?」
 助手席から砂映は訊ねた。秋良はためらうような顔で一瞬砂映の顔を見て、それからこくんと頷いた。「僕は、自分にそんなことができるとか、わからないし、というのがまずあって……」
 それに僕は、やっぱり、帰りたいと思った。
 家族を裏切るようなことはできない。
 だからサインはしなかった。
 食事を持ってくるのをやめますよ、と最後に言われたけど、それでも。
「でも、僕のせいで雷夜さんが」
 秋良は口をへの字に曲げていた。砂映は首を振った。「いや、秋良くんのせいじゃない。雷夜は勝手にやったんだ」
「でも、僕の部屋の鍵を渡させるために」
「その前に鍵はもらってた。その後で、雷夜は灯油をかぶったんだ」
「だけど」
「だけどじゃなくて……雷夜が好きでやったんだ。そもそも火の錯覚の術だって、多少目的はあったにせよやってみたかったからやったに決まってる。やってるうちに、意地でも鯉留をびっくりさせたくなってあんなことしたんだ。好きでどろどろになったんだ。そうだろ、なあ」
 砂映は身体をねじり、真後ろに座る雷夜に声をかけた。
 本人は、寝ているのか、寝たふりなのか、目をつぶっていて返事をしなかった。とりあえず拭いたものの、その髪の毛は浴びた灯油でぐっしょりとしている。衣服の方もとりあえず絞れるだけ絞って、秋良がいた部屋から拝借した毛布で身体をぐるぐる巻いている。タクシー運転手はかなり渋ったが、汚した場合は車内クリーニング代を出すということで、何とか頼み込んで乗せてもらったのだった。
「雷夜くん、寝てるの?おーい」
 砂映はわざとらしく呼びかけてみた。するとやはり眠っているわけではなかったらしい、雷夜は億劫そうに目を開けた。しんどそうな顔のわりに、開かれた目は平常と変わらない。妙に強い精気を放って砂映を見ると、
「おまえは正しい」
 と一言言って、目を閉じた。
 ……開き直り過ぎではないのか。
 大袈裟に眉をひそめて口をとがらせ、砂映はおどけた顔で秋良に同意を求めた。秋良は思わずぷっと噴き出して、「あ、ごめんなさい」と言った。それを見て、砂映も笑った。

 雷夜が灯油をかぶって砂映が駆け寄った時、弾き飛ばされる一瞬前に砂映の視界に入ったのは明水の姿だった。雷夜の横や後ろには机や段ボールがごたごたと置いてあったわけだが、その机の下に、明水は長身を丸めて入り込んでいた。彼は床に手をかざし、床の上に張り巡らされた魔法陣を制御してエネルギーを送り続けていたのだ。廊下の壁に叩きつけられて呻きつつ、砂映はそのことを理解した。鍵を握りしめながら起き上がり、見ると、雷夜を包む火柱が次第にその勢いをなくしていき、やがて完全に消えた。ぽたぽたと灯油をしたたらせながら雷夜は鯉留に近づいた。
 目を開けたまま、鯉留は気絶していた。
 明水も机の下から出てきて、やれやれ、といった顔をしながら奥の棚の引き出しを開けた。タオルを取り出し、雷夜に放る。「灯油なんかかぶって、後で皮膚がかぶれても知りませんよ」
 雷夜は風呂上がりのようにごしごしと頭を拭いたり身体を拭ったりした。ここの始末は自分がやるから早く秋良くんを連れて帰りなさい、と明水は言い、砂映はとりあえず頭を下げながら雷夜を促した。「早めにちゃんと石鹸で洗うんですよ雷夜」母親のような言い方をする明水の声を背に、砂映と雷夜は秋良のいる部屋へと向かった。三人で外に出て見つけた公衆電話でまずタクシーを呼び、それから砂映は会社に電話をして、薮芽部長に大まかな事態を報告したのだった。

「あ」
 ポケットに手を入れて、砂映は思わず声を上げた。
「どうしたんですか」秋良が訊ねる。
「鍵、持ってきちまった」
「え、僕のいた部屋の鍵はドアに差してきましたよね」
「いや、別の鍵」
 雷夜に頼まれて持ってきた、灯油缶のあった部屋の鍵だ。紅・Aさん、ごめんなさい。彼女が責められたりしないといいのだが。
「とりあえず明日、部長でも連れて謝りに行かないとな。その時に鍵も返そう」
 砂映が言うと、秋良はびっくりしていた。「え、明日横分に行くってことですか?」
「なんでそんな驚くの」
「だってそんな、人を閉じ込めたりする会社ですよ?」
「いやまあ、誰がどこまでそれをわかってるのか知らないけど。とりあえず実験棟の部屋一つ灯油まみれにしたし、明水さんに迷惑かけたし、鯉留さんにもちょっと申し訳なかったし。手土産でも持ってご挨拶して、できれば上の人も出してもらって、謝罪しつつきっちり話つけといた方がいい」
「そういうものですか」
「そういうもの。明日小島ロールでも買いに行くことにして……」
 砂映が半ば独り言で呟いていると、
「砂映さん、ロールケーキはだめです!」突然秋良は大声を出した。今度は砂映の方がびっくりする。
「へ?なして」
「あ、すみません」謝りつつ、秋良はしどろもどろ言う。「その、あ、姉が」
「姉?」
「あ、その、熱海姉が」
「うん」
「あ、いややっぱりいいです」
「ええ?」
 なんなんだ、と思っていると、なぜか雷夜が目を開けて、「話せ」と秋良に促した。
「その……」妙に言いにくそうに秋良は言う。「ロールケーキは切るのが面倒だから、会社でお土産に持って来られると事務職は嬉しくないって」
「え?熱海さんが?」
 以前みんなが忙しかった時、部長が小島ロールを買って帰ってきたことがあった。事務職はみんな大喜びをしていた。していた、ように見えたのだが。
「ほんとに?」
「本当です。『分けるのに手間のかかるお土産を買ってくる人は二流』って言ってました。その、かなり怒ってました」
「熱海さんが?」
「はい」
 熱海さん、そんなこと言うのか。そんな風に腹を立てたりするのか。にこにこしてケーキを配っていたのに。そんなことを。
「あの、僕が言ってたってこと、言わないでくださいね」
「え?」
 見ると秋良は、言ってしまったことに怯えているようだった。
「ああ、うん」
「雷夜さんも。言わないでくださいね」
 雷夜は寝たふりをしていた。しつこく言われ、目を閉じたまま頷く。
 そうこうしている間に、タクシーは松岡のビルの脇に到着した。

 雷夜と秋良を先に下ろし、運転手さんと後ろの座席が汚れていないことを確認してから、砂映は支払をして車を出た。裏口から入り、喫煙コーナーから雷夜を遠ざけるようにしつつ階段を上る。こちらを見る人がいないでもなかったが、小柄な雷夜を両脇から挟むように歩いていたので、さほど目立ちはしなかった。会社に戻ったらとりあえず来るように言われていた三階のはずれの会議室。ノックをすると、薮芽部長の声が返ってきた。「どうぞ」扉を開けると、薮芽部長、熱海さん、総務部長の三人がいて、熱海さんが駆け寄ってきた。
「よかった!」
 脇目も触れず、秋良をぎゅっと抱きしめる。
 うん、感動の場面だな、と思いつつ、ほのかな嫉妬が砂映に湧かないこともない。秋良はやけに迷惑そうな顔をして、それでもしばらくなすがままになっていた。
「とりあえず、雷夜。シャワー浴びて着替えてきなさい。すごい匂いだ」薮芽部長の言葉に、熱海さんが我に返ったように秋良から離れ、テーブルの上に置いてあった大きなビニル袋の包みを雷夜に手渡した。タオルや着替えについて、砂映が電話であらかじめお願いしていたのを買ってきてくれたものらしい。
「シャワー室どこかわかるか?」砂映が訊ねると、
「シャワー室なんてあるのか」大きな包みを抱えたまま、雷夜は訊ね返す。
「ああ、その、残業続きの人とか用に」
「そうか」
 言ったきり、雷夜はそのまま突っ立っている。わからない、教えて、という気はないのか。砂映は顔をしかめて雷夜を見る。雷夜は涼しい顔で、ただそこに立っている。早くしなさい、という視線を、薮芽部長は雷夜にではなく砂映の方に向けてきた。へいへい、と心の中で呟いて、砂映は場所を説明する。こくんと頷き、雷夜はすたすたと歩いていく。
「扉、閉めてくれるかな」
 薮芽部長に言われて、砂映は「ハイ」と戸を閉めた。口の形に置かれた会議室のテーブルの、手前に薮芽部長、直角の位置に総務部長、そしてその正面側に熱海さんと秋良が座っている。「お腹空いてない?お茶飲む?」熱海さんは心配そうに秋良の世話を焼いている。砂映は誰にも着席を勧められなかったし、さりげなく座れそうな場所もなかったので、扉の前に立ったままでいた。部長たちは口を開く気配もない。間の抜けた時間がのろのろと進む。
「……あの、薮芽部長」
 砂映が口を開くと、薮芽は「ん?」と猫のような口をして砂映を見上げた。総務部長は椅子にふんぞりかえるように腰かけて、やけに不愉快そうな目で横から砂映を見ていた。姿勢を正して立ちこうやって上司たちに向き合うと、なぜか自分が「サラリーマンを演じている」ような気分になる。
「電話で報告したとおりなんですが……明日、横分を訪問したいので、ご同行願えますか。できれば手土産でも持参して」
「ううむ」薮芽は目を細めておもちゃのように首を揺らす。「いや、君は来なくていいよ」
「え」
「明水さんという人の名刺あるかな」
「え、はい」
「くれる?」
「え、でも」
「大丈夫、あとで返すよ」
 砂映が戸惑っていると、
「君はこれ以上この件に関わらんでいい」横から総務部長が横柄な口ぶりで言った。
 砂映はとりあえず、指示に従って明水の名刺を薮芽に渡す。
「来週からよろしくね」にん、と笑って部長は言った。
「砂映、口外していいことと悪いことはわかるな?」総務部長はねめつけるように口を挟む。「明日君にも秘密保持契約に判を押してもらうが。君は一社員として知るべきでないことまで知ってしまっている。大変遺憾なことに」
 砂映は総務部長に目をやった。自分は何か、彼を怒らせるようなことをしたのだろうか。
「あの、呉郎くんに……今日の件、総務部長が僕への指示を出したとお聞きしたのですが」
 そう言うと、総務部長の顔は突如ゆでダコのように赤くなった。「私の判断ではない。いいか、君の首を切るのは簡単なことなんだぞ」
 さらに怒らせてしまったらしい。
 しかし砂映には、訳がわからない。
 どうして会社というのは、こう、訳のわからないことが多いのだろう。裏で誰が何を言っていて、どういう利害が働いているのか。砂映には、知りようがない。
「肝に銘じておきます」
 ともかく害意がないことを示すべくぐんにゃりと身体を折ってお辞儀をして、顔を上げて気づく。ああ、今ここで、自分は今、招かれざる客みたいになっている。
「そいじゃ私は失礼します」
 儀礼的に頭を下げて、砂映は扉を開けた。
 するとちょうどそこに、シャワーから戻ってきた雷夜が立っていた。ネクタイはしていないが、白いシャツにズボンのスーツ姿だ。サイズがまるで合っていない。ズボンはだぼだぼで裾は折り返され、シャツも肩のあたりがごわごわと余っている。
「今だけだ」砂映の視線に気づいて、雷夜は言った。
「今だけか」砂映はその言葉を繰り返した。
 雷夜を中に入れ、砂映は外に出て扉を閉めようとした。そこに熱海さんがやって来て、隙間から顔を覗かせ「ごめんなさい」と言った。
「あの、ごめんなさい砂映さん。その……秋良を連れ帰ってくれて、ほんとうに、ほんとうにありがとう」
 下からまっすぐ見上げてくるその目が、潤んでいる。やっぱりすごく、綺麗だと思う。
「俺、何もしてないし」
「そんなことない」
「灯油を運んだだけ」
「え?」
 砂映は口の端で笑って、静かに扉を閉めた。
 腕時計を確認すると、十六時過ぎだ。オフィスに戻って、烙吾に押し付けた仕事を少しでも片付けよう。その前に地下の食堂にでも行って、うどんでも食べようか。昼食を、食べ損ねていたし。
 ポケットに手を入れて、気がついた。
 紅・Aさんに返すべき鍵を、渡すのを忘れていた。
 ここで戻るのはなんというか恥ずかしいが、仕方ない。砂映はくるりと踵を返し、はっきりと伝わるように少し強めにノックをした。
 しばらく待ったが何の返答もないので、おそるおそる扉を開ける。
 全員が、こちらに注目していた。特に総務部長は、射るような視線でこちらを見ている。彼は手元の紙を隠すようにしていた。総務部長と薮芽の間の位置に腰かけた雷夜の手元にも紙がある。見る気はなかったのに、目に入ってしまった。「年棒」という文字と、砂映の年収より一桁多い金額と。
「……あ。ええと、すんません。その、薮芽さん。明日横分に行った時に、これを返しておいていただけないでしょうか。まちがえて持って来てしまったんです」
 砂映は薮芽に近づき、テーブルの上に鍵を置いた。
 薮芽はにん、と笑って頷く。
 砂映はお辞儀をして、すぐさま出て行こうとした。「砂映くん」それを薮芽が呼び止める。
「カスタマーサービス部の座席は、明日設けられるそうだ」
「あ、はあ」
「十月一日月曜日から、晴れてみんなでスタートだ」
「はあ」
「楽しみだねえ」
「はあ」
「楽しみだろう?」
「え、あ、ハイ」
 失礼します、と砂映は会議室を出た。
 眠かった。家に帰って眠りたい、と思った。
 でもそうせずに、座席に戻り、血走った目の烙吾に声をかけ、資料のかたまりを引き取った。

 金曜日の夜のコーヒーショップは、そこそこ賑わっていた。ふう、と息をつきながら、砂映はカフェラテをすする。開発第三部最後の一日は、とりあえず無事に終わった。残っていた見積書はすべて提出できた。問い合わせは、ほぼ烙吾が対応してくれた。開発案件は、プロジェクトリーダーに現状を伝えて渡した。保守案件は引継ぎ書を後輩に渡し、「わからないことがあったら電話して」でほぼ済ませた。同じ社内にいるのだから、まあ、何とかなるだろう。いなくたって、いざとなったら何とかなる。
「おつかれさま」
「おうおつかれ」
 向かいの席に、涼雨が現れて腰を下ろす。彼女も残業していたらしい。定時の終業時間頃に部員達の前で形だけの異動挨拶をした砂映を、離れた島からにらむように彼女は見ていた。何か文句を言われることを覚悟していたが、特に何か言い出す気配はない。単に注目していただけなのかもしれない。
「来週から、別のフロアなのよね」
「ああ、うん」
「そういえば、辞令の貼り紙が訂正されてたけど」
「へ?」
「カスタマーサービス室、の『室』に二重線が入って、『部』になってた。回覧用の配布まではなかったけど」
「へえ」
 よくわからないがこだわっていたから、薮芽部長が変えさせたのかもしれない。総務部所属ではないということになるのか。それによってどう変わるのか。というか月曜から何をするのか。……よく考えると、わからないことだらけだ。
「そういえば、昨日のことだけど」
「はい。ああ、そうだ、涼雨サンのこと毎日拝まないといけないんだった」
「……いいわよ。そうじゃなくて」
 まずいなあ、と砂映は思う。話さないことをまた責められるのだろうか。でも昨日のことに関わる事情は自分の辞令どころの話ではなく口外できないことばかりだし、それを伏せて辻褄を合わせて話すのは……だいぶ面倒だ。
「あのねえ」砂映の表情に気がつき、涼雨はため息をついた。「人を鬼みたいに思うのはやめてくれない?」
「へ」
「別に何でもかんでも無理やり聞き出そうと思ってるわけじゃないんだから」
 あれ?そうなのか?
 でも、この前怒っていたのは、話さなかったから怒っていたのではないのだろうか。
「うん」
「それはいいんだけど。……今日、明水さんが夕方に来られて」
 薮芽部長は昼過ぎに先方に行ったと言っていた。ということは、その後にこちらに来たということか。
「手に火傷してた」
「え」
 火傷。ということは、雷夜の裏方で魔法陣の制御をひそかにしていた時に違いない。どういった範囲で効力を発揮する魔法陣なのか、砂映ははっきりとわからなかったけれど。瞬間では消し損ねた火が、当たってしまったのかもしれない。
「どうしたんですか、って訊いたら、砂映さんに訊いたらわかると思いますよ、って」
「ええ?」
 何を言ってくれてるのだろうか明水さん。
 薮芽部長が訪問した後だということは、当然こちらの事情もわかっていると思うのだが。それでそんなことを。
「ええと。何でそんなこと言うかな明水さん」
 砂映は目を泳がせる。「その、あれだ、雷夜が馬鹿な実験をしたとばっちりで」
「馬鹿な実験?昨日、横分に行ったのよね。何してたの?」
「何してた、って言っても難しいんだけど」
「なんであんなに明水さんと引き合わせたの喜んでたの」
「そのお、それは、横分に行くつてがほしくて」
「なんで?」
「ええと、なんつうか、その」
 砂映が困っていると、涼雨は急に、噴き出すように笑った。
 砂映があっけにとられていると、涼雨はくすくすと笑いを引きずりながら言う。
「明水さんが、『訊いたら砂映さん、困ると思いますよ。多少困らせてみたらいいと思いますよ』って言ってて」
 な。なんでそんなことを言うのか明水さんは。砂映はぽかんと口を開け、やけに愉しそうな涼雨を見る。何なんだ。それは、何らかの腹いせなのか。
 砂映が憮然としていると、涼雨は笑いながら「ごめん」と言った。「昨日、大変だったのよね。おつかれさま」
 涼雨はどこまで知っているのだろう。それも謎だ。謎だが、こちらの情報を伏せてそれを聞き出すのはフェアではないし。
「明水さん、『砂映さんによろしくお伝えください』って言ってたよ」
「今さらそう言われても」
「『雷夜くんにいい同僚ができてよかった』とも言ってた」
 顔を上げると、ちょうど涼雨の後ろに立った人物と目が合った。砂映はのけぞりそうになった。いつから店内にいたのか。近くにいたのか。まるで気づかなかった。……明らかに、こんな夜のオフィス街のコーヒー店では目立つ風貌なのに。
「え」涼雨が身体をねじるように振り返って見上げる。
 今ちょうど名前を出した人物がそこに立っているのを見て、涼雨は絶句した。
「……『風神(ふうじん)』の発動は完璧だったから俺に害はなかった。吸引後の『みぞれ』の発動にコンマ一秒時間差が生じる設計ミスが原因だ。『風神(ふうじん)』に混ぜ込んだ『海月(くらげ)』だけでは冷却が完全ではなかった。『関取(せきとり)』の数値調整が甘かった」
 抑揚のない口調でそれだけ言うと、雷夜は去って行った。トレイの置かれている、少し離れたテーブルに着く。涼雨はそんなに大きな声で話していたわけではないはずなのだが。
「……え、今、よくわからなかったんだけど、何を言ってたの?」涼雨が眉をひそめるようにして砂映に訊ねる。
「ええと、たぶん、明水さんの火傷の原因を説明してくれたんだと」
 今のこの会話も聞こえているのだろうか。なんというか……地獄耳?
「びっくりした」
「そうでしょうとも」
「変わってる」
「うん」
「でも、わざわざ教えに来てくれるって……親切?」
「大変親切ですよ彼は」
 砂映はカフェラテをすする。「雷夜にとっていい同僚」、その部分に、雷夜は文句をつけなかった。よかったではないか。
「ところで、試験はだいぶ先よね?」
 涼雨が砂映の手元を見て、訊ねる。
「まあ、そうだけど」
「なのに今から?」
「うん。もっと勉強しようと思って。勉強は、大事だなあ、と思って」
 涼雨が首を傾げる。砂映は魔法技術者試験の問題集を広げていた。書き込んで、真っ赤になっている。魔法の世界は途方もない。信じられないくらい途方もない。けれどすくんでいるわけにもいかない。できるところから、地道に、やっていくしかない。
「がんばってるのねえ」
「がんばりますよ」
「月曜から新しい部署だものねえ」
「まあ、それだけが理由でもないですが」
 書き込みを再開した砂映を、涼雨はしばし眺めていたが、「あ」と突然思いついたように大声を出した。
「ねえ、なんか説明するの好きそうだったし、雷夜氏に教えてもらったらいいんじゃないの?」
 言ったかと思うと、涼雨は立ち上がった。「こっちに呼んでこようよ」
「え」
 砂映の返事も待たずに、涼雨は立ち上がり、雷夜のテーブルへと向かっていった。……すごい行動力だ。
 しばらくすると、雷夜はトレイを持って涼雨の後ろから歩いて来た。ごく平然と、当たり前のようにやって来た。照れとかそういうものはないらしい。ちょうど空いたところだった隣の席に涼雨は自分のトレイを置き、砂映の隣に腰かけた。雷夜は砂映の正面に座る。
「おす」砂映はとりあえずそう言ってみる。
「ああ」雷夜はよくわからない返事を返す。
「ええと、この人知ってる?」涼雨を指して、砂映は訊いてみる。
「前に見た」
「……ああ、そうだろうなあ」
「涼雨・Lです」にっこり笑ってみせながら、よくわからないノリで涼雨が挨拶した。
「雷夜・Fです」なぜか雷夜も律儀に名乗る。前に砂映が名乗った時は一向に名乗らなかったのに。
「あれ、砂映さん」
 そこに、がやがやと席を立って返却口に集まっていた集団から一人が離れてやって来た。秋良だった。ほんのり顔が赤いのは、お酒が入っているせいかもしれない。いつもどこかしら漂っている緊張感も、今はほとんど見られない。
「あ、今日、部の壮行会だったんです」
 秋良はテーブルの脇に立ち、「砂映さん、昨日はありがとうございました」とおぼつかない動きで深々と頭を下げた。それから手前に座った雷夜に初めて気づき、「うわあ」と大袈裟にのけぞった。
「み、みなさんで何をされてるんですか?」
「何っていうか」
 なんだろう。砂映にもわからない。というか何でこんなに人が集まってくるのだろうか。
「あっちはもういいの?」
「はい。先ほど解散したので」
「……よかったら、そこ」
 席を勧めると、秋良は素直に着席する。
「お二人は、壮行会は別の日だったんですか?」秋良が訊ねた。異動などの場合、普通は壮行会を行う。あまりよろしくない、例えば左遷のような異動の場合は有志だけでひっそりとしたり、まあそれは、状況等によっていろいろ変わってくるわけだが。
「俺は来週」砂映は答える。異動後に壮行会なんて普通に考えるとおかしいが、ありがちなことだ。異動前は何かと忙しい。
「雷夜さんは?」
「……さあ」雷夜は首をひねる。ない、のかもしれない。誰も言い出さなかった場合、それもありえないことではない。
 秋良はしまった、という顔になった。「そうだ、新しい部署の発足会もしたいですよね」慌てたように話題を変える。
「雷夜、は酒飲めないんだっけ?」たしか明水さんが、雷夜はお酒が嫌いだと言っていた気がする。砂映がそう訊ねると、しかし雷夜はむっとしたような顔をした。「いや」
「二十歳過ぎてるんだから飲めるわよ」横から涼雨が非難めいた口調で言った。いやちがう、からかいの意味ではなくて、別に普通に訊いたのに。なぜここで悪者扱いされなくてはいけないのか。
「いや、その、あんまり好きじゃないのかと」
「そんなことはない」
 なぜか雷夜はがんと言い張る。
「その、明水さんが、雷夜はお酒が好きじゃないとか言ってた気がするんだけど」
 悪いのは俺じゃない、とばかりに砂映が言うと、「ああ」と雷夜も納得したようだった。
「明水には飲まないように言われている」
「え?なんで」
「わからない」
 秋良と砂映は顔を見合わせた。それはぜひとも飲ませてみなくてはなるまい。
 ざわめく店内で、とりとめもなく砂映たちは話した。涼雨はあまり遅くなるのも、と途中で帰った。砂映の手元の問題集が話題に出ることはなかった。ふとそのことに気づき、……とりあえず明日がんばろう、と砂映は問題集を閉じた。
 閉店間際に、店を出た。
「月曜から、よろしく」別れ際に、砂映は言った。こんな年になっても、不安と期待がうずくように胸にある。それをごまかすように、殊更に軽く言う。
「よろしくお願いします」
 秋良は生真面目に返す。
 雷夜は無言だった。そういう奴だと、もう砂映にもわかっていた。全員が解散する駅前で、じゃあおつかれ、と砂映は歩き出そうとした。
 その瞬間、雷夜は身体を折り、深々と頭を下げた。
「お、」
 砂映も秋良も、思わず呆気にとられて雷夜を見た。
 雷夜は姿勢を戻すと、そのままくるりと背中を向け、何も言わずに歩き去っていった。砂映と秋良は顔を見合わせた。そうして、どちらからともなく笑った。
「じゃあなお疲れさん」
「お疲れ様です」
「気をつけてな」
 秋良が去り、砂映も歩き出す。駅にはたくさんの人がいた。仕事を終えた勤め人が、これから家路に向かおうとしている。さまざまな人が、さまざまな表情をして、そこにいた。



                                                            (おわり)

魔法技師 雷夜の異動

最後まで読んでいただいた方、本当にありがとうございます。

魔法技師 雷夜の異動

松岡デラックス魔法カンパニーで働く、入社10年目の技術者砂映・K(32歳)。技術者試験で酷い点数をとってしまい落ち込んでいた砂映は、突然異動を言い渡される。異動先の新しい部署には、何やら秘密を抱えているらしいお坊ちゃん風の秋良・M(26歳)、そして天才技術者と言われながらなぜか仕事を干されているという雷夜・F(25歳)がいた。新しい部署への異動は、解雇への布石なのか?おののく砂映の知らないところで会社はある危機を迎え、砂映はそれに巻き込まれる。……とるに足りない一社員砂映、替えはきくかもしれないけれど、やる気を失うこともあるけれど、それでも必死でがんばります。働く人に読んでほしいファンタジーです。 ※「小説家になろう」にも投稿しています。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-12

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 1.砂映・Kの異動
  2. 2.君がいないと
  3. 3.横分の鯉留さん
  4. 4.席がない?
  5. 5.途季老人の地下資料室
  6. 6.雷夜の失踪
  7. 7.いじわる老人とへぼ探偵
  8. 8.女神さまですよ
  9. 9.炎
  10. 10.おまえは正しい