幸せの在処







『これからはずっと傍にいるよ』


霞む視界の中、微笑んだ











柔らかい風が木々の緑をゆする。
ぽかぽかと暖かい陽射しが少し鬱陶しく感じてくる、季節。
いつものように病室のドアを開けると、入院着を着た彼が「おはよう」と言って微笑んでくれた。

彼に言葉を返そうと口を開いた瞬間、窓から吹いてくる風が強くて思わず顔を顰める。
全開になっている窓からは外を歩いていた時よりも強い風が病室へと入ってきていて、棚の上にある花瓶が強風に煽られ今にも飛んでいきそうだった。
ため息をつくと、不思議そうに首を傾げる彼にまた、ため息をついた。

「窓を少しだけ閉めても良い?」

「え、暑いし閉めなくても…」

彼の言葉を最後まで聞かずに窓を閉めると、花は揺れるのをやめて病室の陽の光が半分になる。
窓を閉めたことに不満そうに口を尖らせる彼に当たる光はなくなった。

「やだって言ったのに、結局閉めるんじゃんか…」

「看護婦さんに言われたからね」

きっと窓を全開にしているから、体に障ると悪いので半分くらいにして下さい…って言ってたよ。
そう言葉を続けると、彼は参ったとばかりに肩を竦めてみせた。



いつも通りのやり取り。
彼が幸せそうに笑ったのを見て、私もつられて笑った。












紘さんと初めて出会ったのは病院だった。


おばあちゃんが入院していたのでお見舞いに行こうと学校帰りに病院に寄った日。
看護婦さんに病室番号を教えてもらったのに、場所が分からずに困っていた時に声をかけてくれたのが紘さんだった。
怪しい人かと思って思わず睨むと慌てて弁解し始めるもんだから、なんだか面白くて笑ってしまったの。
警戒しているのが馬鹿々々しくなって、素直に事情を話すとおばあちゃんの部屋を知っていて部屋まで案内してくれた。

色素の薄い黒髪に瞳が男性にしては大きくて、儚い印象を持った人だと思った。
背が高くて、声がとても低くて、とにかく優しい人。



おばあちゃんの部屋までの間、紘さんと色んな話をした。
自己紹介から始まり、病院にいる理由、趣味、そして家族のこと。

話していて分かったのは紘さんが愚直なまでにお人好しで、明るい人だということ。
そんな紘さんの存在がなんだか心地良くて、それからというもの彼に会いに病院に通うことが多くなった。


学校が終わってから日が暮れるまで、紘さんと色んな話をしたけれど病気について教えてくれることなかった。
どんな病気かも、治療経過も、治る病気なのか、治らない病気なのかすら、私は知らない。


病気の辛さを知らない私が紘さんを励ます言葉をどんなに並べたって綺麗事にしか聞こえないと思った。
体調の悪さや怪我の痛みが他人に伝わらないのと同じように、病気の彼の辛さは本人にしか分からない。




結局、紘さんの病気について何も知らない私は、ただ寄り添ってあげるということしか思い浮かばなかった。



私には何も出来ないかも知れないけど、困らせてしまうかも知れないけど、病気について知りたいという言葉を口にすることはなかった。





出会ってから数ヶ月の間、紘さんと毎日のように会っているけど、この不思議な関係は出会った当初から変わらない。

変わったことと言えばここ最近体調が優れないみたいで、外出は暫く禁止だと言われているらしく、病室から見える景色を羨ましそうに眺める姿を見る時間が増えたことくらい。
外出が出来ない変わりなのか、まだ夏には早いけれど紘さんの希望で病室の花瓶には向日葵が綺麗に咲き誇っていた。


淡く太陽の光が直接部屋に射してきていて、目を細める。
夏にはまだ早いからか、その光はとても心地良かった。




「病気治ったら海に行きたいな」


紘さんが何の脈絡もなくそんなことを言ったから驚いて振り向くと、紘さんは私の方を見ていて、目が合った。
海、と言っても病院から海まではバスで数十分くらいの比較的近いところにあって、私も小さい頃はよく家族と一緒に海へ行っていた。

とは言っても、きちんと整備された海辺ではなくて海の水は青ではないと言っても過言ではないほど濁っていて、浅瀬で水浴びすることくらいしか出来なかった。


「海か、小さい頃にしか行ったことないなぁ…」



私は海が嫌いだ。
しょっぱいし、足がベタベタするし、髪型が崩れるし、何より日焼けする。


「瑠奈は海が嫌いなの?」

「まぁ…あんまり好きではないかな」

「はは、正直だなぁ」


私の表情を見て紘さんは楽しそうに笑った。


「海、楽しいよ」

「一人じゃないなら…行きたいな」

「…ん、じゃあ今度一緒に行こう?」

「うん」


紘さんの視線の先には、ここからは見えないはずの海の方を見ていて。
一緒に行こうと紘さんが言ったのに何故かあまりにも苦しそうに笑うから、紘さんにそんな顔をさせる海が、また嫌いになった気がした。

















「ねぇ、幸せってなんだろうね」

「幸せ…?」



返答に困り、私は黙り込んだ。

太陽が真上に上がった心地よい陽気の昼下がり、紘さんの大好きな天気のはずなのに紘さんの表情は朝から少し陰っていた。

答えがあるような、ないような、そんな質問をされたから困惑する。
紘さんは私の返答は聞かずに言葉を続けた。

「幸せって何かはよく分からないけど、瑠奈がいるから幸せかな」


苦しそうに、そして、あまりにも無邪気に笑うから、思わず顔を背けた。

海に行きたいと言った日から紘さんの様子はどこかおかしくて、悲しそうに笑う紘さんの顔が頭から離れない。 
どこか瘦せたように感じる四肢から悲壮感を感じたが、自分の気のせいだと緩く頭を振った。



「あ、ありがとう…」



私は、そう言うのが精一杯だった。
紘さんのことが急に分からなくなった気がした。

ちょうど良いのか、悪いのかのタイミングで医師が診察の時間だと呼びにきた。
小さく手を振って病室を出る紘さんの姿が見えなくなると、私はそっと息を吐き出す。



幸せの定義なんて私には分からなかった。
幸せの定義なんて人それぞれなのは分かっているつもりで。

戦争だとか、紛争だとか、世の中には不幸なことで溢れているんだよ、私たちは恵まれている、感謝しろと周りから言われたって、自分が幸せだと感じたことは少なかった。
生きたくても生きられない人がいる中で、真逆の死にたくても死ねない人がいるというのを悲しいながら感じていた。

家族と仲が悪いわけでもなく、学校にも行けて、友達もいて、幸せなんだと思う。いや、きっと私は幸せすぎた。
何もない毎日がつまらなかったし、何もないなら死にたい、そう思ったことすらあった。
ただ生きているだけなら、ただ酸素を消費する存在だったら、死んだほうが自分はよっぽど価値がある存在に思えた。

自分は驚くほどに何の役にも立たなくて。
自分の変わりになる人は探せばどこにでもいたし、自分が一番にはなれっこないことは分かっていた。
諦めなんかじゃなくて、悲しいほどにリアルな現実である。

あの頃の私は、自分が可哀想な子だと思っていた。
救いようのないほどに幼稚だった。

誰か一人の一番になりたかった。私だけを見て欲しかった。
他の誰でもないただ一人、私を、愛して欲しかった。愛されたかった、ただそれだけ。



控えめに開かれたドアの音で我に返った。
診察を終えた紘さんが戻って来たということにすぐ気が付いた。

俯いていた顔をあげると、紘さんは困ったような表情で私を見ていた。
私は今、どんな顔をしているのだろう。紘さんを困らせている。そんな自分が酷く腹立たしかった。

「ごめんなさい」と、つい小さい声でそう言うと、紘さんは徐に私の頭を撫でた。

私が暗い気持ちの時、いつも紘さんは私を撫でてくれる。
恥ずかしくて俯いちゃうけど、紘さんはいつも頭を撫でながら穏やかに笑うの。





「瑠奈」


「ん…?」


「あの、さ。俺…」


「…」


「……やっぱ、何でもない」


「えぇ、気になるじゃん」


「大したことないからいいよ」


「そっか、それならいいや」


「それよりさ、花瓶の水変えて貰ってもいいかな」


「ん、いいよ」





彼が笑ったから、私もつられて笑った。















おじいちゃん先生が淡々と文章を音読しているのを顔を伏せてガッツリ寝て、その日最後の授業は終わった。
チャイムの音と同時に、そそくさと逃げるように去っていく先生を隣の席の友達と少し笑って。
運動部の馬鹿が走って部活へ向かうのを視界の端に捉えながら、授業中は電源を切っていたスマートフォンを起動した。


いつも通りの平凡な日常


スマートフォンを開くと、着信がありました、の文字が出た。
名前を見ると紘さんで、留守番電話もあるみたいで私は首を傾げる。

紘さんとは頻繁に連絡をとっていたけれど留守番電話なんて初めてだった。
いや、電話自体初めてかもしれない。何かあった時のために、なんて言って電話番号を交換したけれどメールでのやり取りの方が紘さんに気兼ねなく送れたから…。
スマートフォンを耳に当てて再生を押した。



「中央病院の者です。相沢紘さんの容態が急変致しました。至急…」



最後まで聞かず、私は、通話を切った。












信号は私の行く手を阻むかのように全部が赤で、私はそれを全部無視した。
いや、赤じゃなかったかもしれない。ただ、車のクラクションがやけに耳に響いていた。



早く、早く、

早く行かないと、紘さんが…、


何でこんなに悪寒がするの



何で、まるでもう会えないかのような、そんな、

そんなこと、あるわけないじゃん

だって、昨日まで普通に話して…

これからも今まで通りの紘さんと話して笑って…

そんな日常が崩れてしまう、

確証はないのにそんな漠然とした不安が襲ってくる




瑠奈がいるから幸せだよ



ふと紘さんの言葉が、頭を過った

今、ぐっちゃぐちゃに後悔している

伝えられなかった

私も紘さんがいて幸せだよ、って



紘さんのこと好きです、って…



伝えなきゃ、

いつの間にかこんなにも彼のことが好きだったんだ。



「紘さん…っ!」

病室のドアを開けると、数人の医師が彼を囲っていた。

嘘だ

 

「…最善は尽くしたのですが、」



嘘、だ

こんなの、嘘に決まって… 


「そん、な…」


それだけ言うと医師達は去って行った。
いつの間にか動いていた足が彼の眠るベッドへと向かっていた。


涙は出てこなかった
実感が湧かなかった


お願い、たった一言だけで良いから、あなたの声が聞きたいよ。

いつもみたいに、目を細めて笑ってよ、

嘘でしょう?

紘さんが、死んだ…、なんて、嘘だ。

やっと、この気持ちに気づいたのに、この気持ちは一体どこに吐き出せばいい…?

もっと一緒にいたかった

もっと、色々な話をしたかった

返してよ…っ なんで、なんで…っ?

なんで紘さんが死ななきゃいけなかったの…

なんで、紘さんなの…?


こんなにも大好きだったなんて、私、全然知らなかったよ…


無意識に触れていた紘さんの手が、あまりにも冷たすぎて、私の頭を撫ででくれていた手を同じはずなのに、全く違う手のように感じた。
恐怖と、不安と、絶望、
ぎゅ、と握った手が握り返されることはなかった。

いつもと同じ寝顔、気持ちよさそうに寝ているだけなのに、どうして、どうして手は固く閉じられているんだろう。
昨日みたいに私の頭を撫でて下さい、私の話を聞いて下さい…。

私を見て、なんて贅沢、言わないから、


そんな些細な願いも、もう届くことのない遠い世界に旅だってしまった。



変わって、あげたい。
そう、思った。



今まで、たくさん、たくさん、後悔してきた


あの時こうしていれば今の自分はもっと良い人生送っていたとか

タイムマシンで胎児からやり直したいとか

やってはいけないと分かっていたのに甘い誘惑に負けて手を伸ばしてしまったとか

八つ当たり、とか



考えても、考えても終わりはなくて、考えた所で時間が巻き戻るわけでもない

分かってる、もう紘さんは…、




窓が全て開いていて、風が私の髪を攫う。
花瓶の花は床に散乱していたがそれでも綺麗な形を保っていた。

不意に棚の上から一枚の紙が落ちて来た。
表紙には『るな』の文字 恐る恐るそれを開くと、それは手紙らしかった。

死に際に書いたらしい淡泊な文字。
それを読んだ途端、頬に一筋の涙が伝った。



どこまで行けば私は満足出来るのだろうか。

そしてその先に、何が待っているのだろうか。

辿りつく先はどこなのだろうか。

人生って、

疑問だらけでお金はかかるし本当に面倒だ。

考えても考えても答えは見つからない。

誰かに答えを求めてもどれが正解なんて分からないし決められずに結局苦しむ。





窓から見える空は、


悲しいほど暗いのに、恐ろしいほど澄んでいた





夜、

周りに遮る物が何もなくて、風が寒く感じた。

足元をさらう冷たい水が私の心を溶かしていく。

やっぱり、海は嫌いだ。




紘…、さん

今からそっちに行くね

いつまでも傍にいてよ

いつまでも傍にいるから


本当に愛しています

泣いて、泣いて、泣き叫んでも

きっとこの世界では、空があまりにも遠くて言葉は届かないから、

だから、もう、




手紙がひらひらと空中を彷徨いどこかへ落ちた





海につれて行けなくてごめんね

幸せになれよ





手紙の文字が水で滲んで読めなくなる

涙か塩水か、私には到底判断できそうにもなかった



幸せになれよ…か、

うん、私幸せになるよ

いや…違うね、一緒に、一緒に幸せになろうよ


だって、













































あなたのいない世界に幸せなんてない

幸せの在処

読んで頂きありがとうございました。実体験も含め、泣いてもらえることを目標に書きました。
少しでも心に響く言葉があれば幸いです。

幸せの在処

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-12

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