素晴らしい未来へようこそ

バージョン1.0で公開します。

 君との久しぶりの再会は、空の木箱との出会いでもあった。
 僕の目の前には真新しい木箱が横たわっている。ヒノキ製で新品。丁寧にヤスリ掛けされていて、トゲ一つ、汚れ一つない直方体。木箱の線は100メートル走の白線のように律儀で真っ直ぐ。そして、直線の先、箱の4分の1くらいから穴が空いている。ぱっくりと大きな口を開けている。
 空白。
 いや、違う。箱の中には白い花束が沢山敷き詰められている。箱一杯、底が見えないくらいに菊の花が。菊の花で出来た箱の底は真っ白いラグのようになっている。その上に写真が一枚、ぽんと置かれている。花の上、穴のちょうど真ん中、スーパーのチラシのように無関心に置かれた写真。
 綺麗な女性。
 おおよそ20代、もうすぐ30代。僕の記憶にはない女性。だけど間違いなく君。僕があったことがなくて、若くて、綺麗で、しとやかで、清純で、化粧を知っていて、つい最近まで世の中にいたはずで、明日の朝がやってこないなんて考えもしなかった君。僕の知らない君。
 写真の中の君を見たまま、僕はすっと右手を伸ばす。木箱と僕との間に置かれた台の上に、その上の器に、その中の木片に、手を伸ばす。木片をつまんで、火の付いた炭の上に捨てる動作を三回繰り返す。
 木片を一つまみ。最後に会ったのはいつだろうか?
 木片を一つまみ。最後に話をしたのはいつだろうか?
 木片を一つまみ。最後にどんな顔をしていたんだろうか?
 木片をつまんで捨てる動作を三回終えたら、僕は一歩下がって、木箱に向けて礼をする。木箱の向こうの大きな写真の、僕の知らない君に向けて礼をする。天井のエアコンから吹き出る風が僕の後頭部にあたって、君の写真にもあたって、写真の周りの花にもあたる。きっと壇上の花は揺らめいている。風を感じながら、僕は記憶を漁り、君のことを思い出そうとする。ずっと昔、こうなってしまう前の君を思い出そうとする。
 何も思い浮かばない。
 きっと色々あったはずだ。君と僕の間にはいくつも思い出があるはず。でも、じっと目を瞑って、20度ほど頭を下げて、記憶の中を探っても、君も、君の声も、君の顔も、君の仕草も、何も頭の中に湧いてこない。空っぽ。僕の頭の中は乾いている。からからに乾いて何も育ちそうもない。
 もう、時間か。
 頭を上げて、回れ右をして、会場に顔を向ける。知らない人の群れが目に入る。みんな同じような黒い服を着込んでいる。みんなの視線が僕に向いている。それか僕の後ろの空の木箱、もしくはその先の君の拡大写真に。じっと視線と意識を向けている。僕は視線に返事をするようにお辞儀をする。そして、会場を埋める人々の顔を眺めながら、僕は出口に向けて歩いていく。だけど、知った顔は見当たらない。君の同級生は見当たらない。君の先生も見当たらない、君の母親も見当たらない。君の父親も見当たらない。君と僕の共通の知り合いは誰一人、見当たらない。会場は僕の知らない人しかいない。
 まるで知らない人の葬式のようだ。
 君ではなく、誰か別の人。僕と面識のない、どこか遠い街の知らない誰かの葬式に迷い込んでしまったようだ。そう思ってしまうほど誰も知らなかった。集会所は僕の知らない君の知り合いで埋まっていた。全ての人が他人で関わりがなかった。
 集会所の出口まで行くと、扉を開け、僕は外に出る。蒸しパンのような熱気が僕を包む。夏の夜の熱気。すぐに汗ばむ。額も、脇も、太腿も、うなじも、汗にまみれる。高い湿度のせいで汗は乾く気配はない。汗が肌にまとわりついて離れない。
 そして、誰かの話し声が聞こえた。集会所の塀に沿って、喪服の人たちが数名集まり、話をしている。誰にも聞こえないように輪になってひっそりと話している。でも、やけに声に張りがあって、誰かに聞いてもらいたいようでもあった。少なくとも僕にはよく聞こえた。
 遺体の損傷が激しかった、とか。
 本人か判別がつかないほどだった、とか。
 犯人はいまだにわかっていない、とか。
 不穏な話だった。色々な声が聞こえてきたけど、どの声にもよくない単語が含まれていた。きっとどれも君の話だった。空の木箱にいなくて、どこかで眠っているはずの君についてだった。でも、どの話も現実感がなかった。僕の知っている君に起こった話ではないようだった。どこか遠くの世界、画面の向こうのニュースキャスターが読み上げるニュースのように別世界の話だった。
 ただ、僕は何か言いたくなった。
 聞こえてくる話に現実感はなかったし、それに君とは明言してはいなかったけど、僕は彼らに対して何かを言いたくなった。何かを言わなければいけない気がした。彼らのそばを通り過ぎるとき、僕は立ち止まった。
 でも、言葉は出てこなかった。
 何を言うべきかわからなかった。何も言うべきことが思い浮かばなかった。大きな君の写真の前で頭を下げていたときのように、何も湧いてこなかった。何かを言おうとして、頭の中で言葉を探し回ったけど、何も出てこなかった。言わなければいけないことがわからなかった。ただ、何かを言う代わりに、僕は彼らの方に顔を向けた。おそらく真剣な顔で。プロポーズをするときのような表情で。彼らは僕に気づき、僕を見て話を止めて、集会所へと戻っていく。暗い建物の中へと消えていく。さっきまで騒がしかった話し声は聞こえなくなり、辺りは静かになる。
 何かを言うべき相手は僕の目の前から消え去った。残ったのは集会所から漏れる明かりと夏の夜の熱気だけだった。
 僕はさっきまで進んでいた方に体を向け、歩き始めた。進む先、視線の先にはいくつも団地が立ち並んでいた。夜の闇の中に団地が並んでいた。
 数年ぶりの団地だった。君と僕の住んでいた団地だった。

 僕の目の前にある団地の上部には大きく20の数字が書いてある。
 20号棟。僕と君が住んでいた団地の棟。
 最初は迷わずたどり着けるか心配だったけど、歩いてみたら迷うことはなかった。集会所から20号棟までの道は昔と変わっていなかった。数年ぶりとはいえ、目を瞑ってもたどり着けるほど単純で変化がなかった。
 団地も昔と変わっていなかった。
 五階建てで、一棟に五つの階段、一つの階段に十世帯、一棟で五十世帯。マジックハンドとベルトコンベアー、それにプレス機で量産したような平凡なデザイン。この国に一番勢いがあったときに一番流行っていた建物。いまでは昭和の墓標のように見える。疲れていて、寂れている。君と僕が長い年月を過ごした建物。
 僕は団地の歩道を歩き、道路側の一番端の階段まで行く。僕の住んでいた家があった階段。階段の入り口に備え付けられたポストを見る。
 半分以上が知らない名前。
 ポストに貼られているシールには知らない名前ばかりが書いてある。ほとんどの名前に見覚えがない。僕の家のシールが貼られていた場所も一緒。シールには記憶にない名前が書いてある。僕と関わりのない誰かの名前。シールの四つの角はきっちりとポストに貼り付いていて、新しくて汚れ一つない。貼られてから大して時間が経っていないことがわかる。僕の家だった場所に貼ってある真新しいシールを見て、僕は時間の重みを感じる。
 僕はその見知らぬ名前を数十秒眺めたあと、道を戻って棟の反対側まで歩いていく。君の家があった階段。道路側の僕の階段とは反対に位置している。最西端の階段。階段の下まで行き、さっきと同じようにポストを見る。
 ほとんどの家が知らない名前だ。僕の家があった階段ではないから、知らなくて当たり前か。ただ、ところどころ見覚えのある名前もある。僕の家があった階段の名前に比べると僕には馴染みのない名前ばかりだけど。
 君の名前は、あった。
 君の家の場所のシールには馴染み深い名前が書いてある。この名前を忘れることはない。記憶の中にある懐かしい名前。シールは何十年も前に貼られたままだ。サインペンで書かれた名前は掠れていて、シールは剥がれかけている。郵便配達の人が迷わないくらいには名前は読める。広告が詰まりポストの口はふさがっているから、名前がわかっても郵便配達は出来そうもないけど。
 君の名前を確認すると、僕は20号棟から離れる。団地の中にある公園まで歩いていく。懐かしい公園。公園には誰もいない。僕は入り口近くのベンチに腰を下ろす。タバコを取り出し、火をつける。ゆっくりと深く息を吸い、煙を飲み込む。肺に溜まった煙を吐き出し、暗い公園に視線を向ける。
 何も変わっていないな。
 赤いブランコ、コンクリート製の滑り台、乾いた砂場、花の枯れた藤棚、水のみ場にジャングルジム、僕が座っている木のベンチ。どれも変わっていない。公園の中の遊具や設備は昔のままだ。
 ただ、僕の指の間にあるタバコは違う。これはあの時にはなかった。盲目の犬みたいにさまよう煙も、汗ばんだ肌にまとわり付く臭いも、暗闇に溶ける灰も、あの頃にはなかったものだ。記憶の中の公園にはない、ちょっとした違い。
 そうだ、それにもう一つ違いがある。
 僕しかいない。
 君はいない。
 これは、大きな違いか。
 曖昧な記憶ばかりだけど、ここでは君とよく遊んだはずだ。
 大きくブランコをこぐ君、滑り台を駆け下りる君、蛇口に口をつけないように水を飲む君、ベンチに座ったまま藤棚を仰ぐ君、一緒にジャングルジムを昇る君。そんな君がいたはず。公園で元気に遊び周る君が。でも、今はどの君もいない。いるのは僕一人だ。煙を吸いながら、ぼんやりと公園を眺める僕一人だけだ。
 君はいない。それは事実だ。正しく理解している。それは現実。でも、全てが僕の頭の中の話でショーケースの中を見ているみたいだ。実感がわかない。本当のことだと信じることができない。
 もう何も残っていないのかな?
 もう一度、僕は公園を眺める。昔と変わらない公園。いまは暗くて誰もいない。公園を囲む団地からは明かりが漏れている。黄色い明かり、白い明かり、それに橙色の明かり。暖色系の明かりが公園を照らしている。いろんな音も聞こえる。家族の団欒、子供をしかる声、テレビから漏れる効果音、スピーカーから流れる歌声、セミの鳴き声。いろんな音が混ざり合って、公園の中は少し騒がしい。どれも昔からあるもので、どこにでもありそうなものばかりだった。ただ、どこか馴染みがなかった。関わりもなかった。僕の知っているものとは少し違っていた。僕が知っているものは残っていなかった。
 本当に何も残っていないのか?
 僕自身にきいてみる。何も残っていないのか? 声に出してみる。自分の内側を探るように、確かめるように、そっと言う。そうすると、心の底から答えが返ってくる。頭の中に一つのイメージが湧きあがる。
 不気味で真っ黒な円盤。
 そうだ、あのシール。あのシールならまだ残っているかもしれない。
 僕は立ち上がり、自分が座っていたベンチの裏に回る。膝を落としてベンチの裏側に顔を近づける。よく目を凝らす。ベンチの一部が白くなっていて、そこだけ隠されたように木目が見えない。
 あった。シールだ。
 表面も角も剥がれていて、綺麗だったひし形は見る影もない。だけど、あの時貼ったシールに間違いなかった。シールの表面は剥がれていて、元の絵柄は全くわからない。でも、ところどころ、UFOらしき巨大な円盤の面影は残っている。あのときのシールだ。昔から変わっていない、僕の知っているものがあった。

 夏休みに入ってすぐのことだった。
 終業式の次の日、夏休みの初日。普通の小学生ならば、これからの楽しい夏休みのことで頭の中が一杯のとき。ヘリウムガスでパンパンの風船のように、期待と楽しみで頭の中が膨らんでいるときのことだった。
 僕の頭は空っぽだった。
 夏休みの予定は空白。特に期待も楽しみもない。その夏、どこかに行く計画はない。この団地から出ることなく、暑い夏を過ごすことが決まっていた。
 例年通りだった。
 特に落胆はなかった。共働きの家では当たり前のことだから。それに僕はそれなりの年齢だった。夏休みが空白であることを納得できるほどの年齢。文句ひとつなかった。僕は家の中で夏休みを過ごすことを心に決めていた。
 机の上に置かれた500円玉。それが夏休みの記憶。
 それは親がいないときの決まりごとだった。お昼ご飯代わりの500円玉。お昼を用意する時間も余裕もなかったから、近所で買って来いという母親からのメッセージ。
 その日もそうだった。賽銭のように無造作に500円玉が置かれていた。僕は母親からのメッセージをしっかりと受け取り、12時を過ぎる頃、500円玉を握り締めて、お昼ご飯を買いに出かけた。
 目的地は団地の中のスーパーだった。バス停に併設された団地で唯一のスーパー。歩いて数分の場所にある。僕は500円玉を握り締めてそこへ歩いていき、いつものものを買った。おにぎり二つに、アイスが一つ。それが僕の昼食。一人で家にいるとき、決まって買うものだった。夏休みに限らず、土日に500円玉が置かれていれば、いつも同じものを買っていた。
 おにぎりはシーチキンと鮭。決まっていた。
 好き、と言うよりかは習慣だった。なんとなくいつも同じものを買って、いつも同じものを食べていた。味に不満はなかった。お腹一杯になればそれでよかった。
 アイスはソーダ味のアイス。これも決まっていた。
 キャラクター物のシールが一枚入っているアイス。そのシールを集めていたわけではなかった。キャラクターも見知ったアニメや漫画、ゲームのものではなかった。そのアイスのオリジナルのキャラクターだった。魅力がなく、愛らしくもなかった。
 でも、僕は買った。
 そのアイスもいつも買っていたから。おにぎりと一緒だった。習慣だった。一度買い始めてしまったから、買わないという選択肢はなかった。それ以上の理由はない。アイスは美味しくも不味くもなく、ただ甘かった。
 そして、スーパーの帰り道、僕は君と会った。団地の下で。君は階段から下りてきたばかりで、どこかに行こうとしていた。でも、どこに行くかは決まっていないようだった。足を踏み出しては止まり、辺りを見回し、右に行くか、左に行くか迷っていた。
 その頃、君とあまり話をしていなかった。
 気恥ずかしさがあった。
 君に特別な感情があったわけではない。でも、女の子と話すのは気恥ずかしい年齢だった。もう高学年で年齢も二桁を超えていたから。女の子と仲良くしているとからかわれる年齢だった。それを気にせず話ができるほどの年齢でもなかった。
 ただ、その日は違った。
 僕らは話した。夏休みで辺りに誰もいなかったからだと思う。特に気恥ずかしさもなく、僕らは自然に話した。
 話しかけたのは君からだったのか、僕からだったのか、よく覚えていない。
 話の内容はなんとなく思い出せる。
 やあ、から会話が始まったこと、僕は夏休み暇であること、君も夏休み暇であること、僕はお昼ご飯を買いに出かけていたこと、君が鍵を忘れて家を出たこと、そのあと母親が外に出てしまったこと、夕方まで母親が帰ってこないだろうといったこと、そういったことを話した。
 話の流れから、君は僕の家に来ることになった。真夏の日中に、何時間も外にいることはつらいから、君は僕の家に避難することにした。昼食をぶら下げた僕のあとを君はついてきた。
 ドアの前まで来ると、お邪魔しますと言って、君は玄関に入り、次に久しぶりと言ってて靴を脱いで、二年ぶりくらいかなと僕にきく。僕はうんと言い、部屋の灯りのスイッチを入れる。パチンと音がなって蛍光灯がつく。真っ昼間だったせいか、つけるまえと部屋の明るさは大して変わらなかった。
 部屋の中を見ながら、変わっていないねと君は言う。
 僕はうなずき、冷凍庫にアイスを入れて、テレビをつける。
 テレビからはワイドショーが流れてきた。僕らが普段見ることはない司会者の顔がテレビに映っている。夏休み限定の関係。二学期になったら忘れている顔。僕らはワイドショーにも司会者にも興味はなかった。すぐにチャンネルを回した。他のチャンネルは刑事ドラマの再放送かメロドラマ。どちらかだった。ワイドショーと合わせて三択。どのチャンネルも違う番組なのに、どこか似ていた。面白そうではなかった。何週かチャンネルを回して、結局最初のワイドショーにチャンネルは落ち着いた。ワイドショーを眺めながら、僕らは一人、一個、おにぎりを食べた。はじめ君はおにぎりを遠慮した。だけど、お腹が空いていたようで、僕からおにぎりを受け取った。僕らは食べながら話をした。たぶんくだらないこと、記憶にも残らないようなこと。小さいころのようにいろいろと。
 そして、話をしていてわかったことがある。
 君は大して変わっていないし、僕も大して変わっていないということ。僕らの間の会話は昔と変わらなかった。同じ速度、同じ感覚で会話は進んでいった。当分話していないからといって、僕らに大きな変化はなかった。昔と同じように話すことができた。
 おにぎりを食べ終えると、僕は冷凍庫からアイスを取り出した。これも二人で食べた。二つに割って、棒の付いている方はそのまま、棒の付いていない方は小皿に乗っけてスプーンで食べた。君は小皿に乗ったアイスを食べた。ブルーの小皿に乗った青いアイスは未来的な感じがした。少しお洒落でもあった。
 僕らはワイドショーに飽きると、またチャンネルを回し始める。無目的に何週も。チャンネルを回すこと自体が目的のように何週も回した。リモコンの次ボタンを押した。テレビから流れる映像が目まぐるしく変わった。風見鶏のようにぐるぐると回った。
 何週か回したとき、あることに気づいた。ワイドショーでも、刑事ドラマでも、メロドラマでもないものが始まっていた。見慣れない映像がテレビから流れていた。ちょっと古いアニメ。
 そこで、僕らはチャンネルを止めた。

 最初は東京、新宿都庁の真上だった。
 何の予告もなく、それは出現した。音もなく、影もなかった。予告も、予兆も、予言も、何もなかった。気づくと都庁上空に現れ、あっという間に昼間の新宿を闇の中に飲み込んだ。
 出現するまで誰も気づかなかった。
 気象衛星も軍事衛星も、天体望遠鏡も、イージス艦のレーダー網も、羽田の管制塔も、ヘリコプターのパイロットも、天文学者も、NASAも、超高層ビルの窓ガラスを掃除している人も、誰も気づかなかったし、知らなかった。観測されることもなければ、大気圏突入の摩擦で輝くこともなく、いつのまにか都庁の真上に出現していた。それまで誰も気づかなかった。新宿の街が真っ黒で巨大な影に覆われたとき、やっと人々は気づいた。
 それが出現すると、まず空が暗くなった。はじめは誰も気にしなかった。分厚い雲で日の光が遮られただけだろうと思った。一瞬のことだと。でも、光はいつまで経っても戻ってこなかった。暗闇は続いた。大分時間が経ってから、数人が異変に気づき、空を見上げた。
 銀色の円盤だった。
 都庁の上空に銀色の円盤が出現していた。馬鹿でかくて丸くて、ウェイトレスが抱える銀のお盆を何万倍にも巨大にしたようなものが空に浮んでいた。全身がぎらついていた。水銀のような銀色。丸みがあり、輝いていた。不気味だった。窓は一つもなく、目に見える推進装置もなかった。シンプルな形の銀の円盤、ふらつくこともなく、都庁の上にじっと浮んでいた。
 すぐに街中は騒がしくなった。一緒にいる人と話している人もいれば、携帯電話で話している人もいた。ぶつぶつと独り言を言う人もいれば、じっと無言のまま円盤を見つめている人もいた。街中がざわめき出した。
 ただ、危機感からではない。みんな好奇心から騒いでいた。恐怖から騒ぎ出した人なんて、一人もいない。
 あまりにも現実感がなかった。みんな映画のワンシーンを見ている気分だった。とてつもないものを見ているんだと思いながらも、自覚はなかった。今、何が起こっているのか理解している人はいなかった。ぼんやりと空を眺め、何かが起きているぞと、小さじ一杯程度の興味を上空に向けていた。
 そして、起きている事態に自覚を持ったとき、もう遅かった。
 円盤の上にポツリと小さな穴が開いた。最初は爪楊枝程度の小さな穴だった。次第に穴は広がっていった。爪楊枝からマンホールとなって、マンホールから東京ドームとなった。東京ドームから新宿、23区、東京全域と広がっていった。さらに大きくなり、埼玉南部、千葉東部、神奈川北部まで広がり、最終的には関東全域を包むほど、大きな穴となった。
 新宿にいた人は悲惨だった。円盤の近くは吸引力が強かった。穴が広がると、あっという間に穴の中に吸い込まれていった。何かを理解することなく、体が中に浮いたかと思うと、凄いスピードで上空に引っ張られ、穴の中に吸い込まれた。
 それで終わり。
 掃除機のスイッチを入れて埃を吸い込むように、みんな消えていった。一瞬の出来事だった。一人残らず消えた。円盤が出現してそれっきりだ。音信普通。家族にも、同僚にも、恋人にも、友達にも、親戚にも、旧友にも、恩師にも、最愛のペットにも、誰にも会えなくなった。誰も彼らにさよならを言えないまま、彼らは消えていった。
 新宿から離れた場所にいた人も似たようなものだった。穴に吸い込まることはなかったけど、他の理由でこの世から消えていった。
 大人は長くは生きられなかった。おおよそ20歳以上の人間。理由はわからない。ウィルスが原因だろうか? 正気を保つことができず、ばたばたと大人は倒れていった。死んでいった。大人は誰もいなくなった。
 残った子供、20歳未満の人間も似たようなものだった。まず外に出ることはできなかった。黒い穴の下の外側、正常な世界に逃げ出すことはできなかった。簡単に外から穴の中に助けに行くことも出来なかった。そうなるとあとは時間の問題だった。残っている食料もたかが知れていたから。あっという間に子供もいなくなった。
 そうして、かつて首都だった場所、この国の中心だった場所から人は消えていき、この国の中心は消えてなくなった。
 この国の中心がなくなり、人が消えると、代わりに生き物のような何かが地上を歩くようになった。灰色で顔がない巨大なのっぺらぼう、全身が輝く水晶で出来た人形、生々しい人間の皮膚を持った植物、その他多数の不気味な生き物。
 穴の下の世界は誰も住めない真っ暗な世界になり、多くの人が消えた。かつて国中のものが集まった繁華街も、国の意思決定を行っていた機関も、きらびやかな高層ビルも、国内最大のテーマパークも、巨大な電車網も、全て真っ暗な世界に消えていった。外側の人間にはどうすることもできなくなった。
 ただ、残された人々は何もしなかったわけではない。調査を進めた。この事象について、暗黒に包まれた空間について。あらゆるデータを集めて、侵入を試みて、失敗を繰り返して、調査を進めていった。調査を進めるにつれて、わかったことがある。おそらく円盤の中には誰かがいて、意志がある。そして、その意思を魔王と呼ぶことにした。

 なんだか気持ち悪いね。それが君の感想だった。
 僕はうんと答えた。ほとんど君と同じ感想だった。
 気持ち悪くて、不気味。それにちょっと怖かった。僕らの感想。いま見たアニメへの率直な気持ち。
 アニメの映像はどれも気味が悪かった。人間によく似た巨大なのっぺらぼうも、誰もいない真っ暗な街中も、人がのっぺらぼうに飲み込まれるシーンも、フランス人形の壊れた破片が街中に転がっているのも、ところどころ叫び声のような、うめき声のような効果音が挿入されていることも、不気味で気持ち悪かった。
 だけど、僕らはテレビの前から離れなかった。
 チャンネルを変えることなく、テレビを見ていた。放送が終わるまでの間、ずっと。君はアイスが乗っていた皿とスプーンを持って、僕はアイスの棒を咥えたまま、同じ姿勢でテレビを見つめていた。その間、僕らに会話はなかった。画面に集中していた。気持ち悪いと思いながら、夢中でテレビを見ていた。
 アニメが終わり、ワイドショーが始まり、無意識的にチャンネルを変えて、ドラマの再放送にチャンネルが落ち着いたとき、君は感想を呟いた。
 気持ち悪いねと。
 そのときテレビからはドラマが流れていた。一昔前のドラマ。大学生くらいの若者が何人か集まっていた。スキーに行く計画について話していた。その当時の流行の最先端のカッコをしている若者だった。今見ると、古臭さばかりが目立つカッコだった。
 君の感想はドラマについての感想のようだった。
 でも、実際はさっき見たアニメの感想だった。
 ドラマでは三角関係が二つ発生していて、スキー旅行でその関係の決着をつけたいようだった。特に面白いドラマではなかった。30分後には忘れていそうな内容だった。印象の薄い、図書館の隅に置かれた脚立のようなドラマだった。
 君はテレビを眺めながら、そうだ、と興味なさそうに呟く。
 これ、と言うと、僕に青いお皿を渡した。
 シールが一枚お皿の上に乗っている。
 ついてた。と君は言う。
 いる? と僕は聞き返す。
 ううん、と君は言う。続けて、ご馳走様と言って、僕に皿を差し出した。
 僕は皿を受け取り、シールに手を伸ばす。シールはアイスの汁でべとべとしていた。つまんでよく見ると、UFOの絵が書いてある。黒い円盤で、黄色い窓ガラスがいくつも並んでいた。どこにでもありそうなUFOで、さっきのアニメに出てきたUFOとは違う種類のUFOだった。僕は何も考えず、シールを尻ポケットの中に入れた。
 食器の片づけが済んでも、テレビからはドラマが流れていた。スキー旅行の前日で、いよいよ勝負の日がやってくるといったところだった。でも、スキー旅行は明日だと言うのに、不穏な空気が流れている。男二人が喧嘩をしている。どうやら片方が抜け駆けをしたようだ。三角関係にある女性に気持ちを伝えたのが原因だった。
 見るかと君にきくと、君は首を振った。興味なさそうだった。僕はリモコンを取り、テレビのチャンネルを回した。他のチャンネルも似たようなドラマかワイドショーが流れていた。アニメが始まる前と比べて、選択肢は変わっていなかった。結局、元のドラマにチャンネルは落ち着いた。少しドラマを眺めてから、外に行くかと僕は君にきいた。君はうなずいた。僕らは外に出ることにした。
 外は殺人的な暑さだった。
 重い夏の日差しが降り注いでいた。太陽は永遠に沈むことはなさそうだった。太陽の光は大気を切り裂いて、僕らの肌をじりじりと焼いた。肌は熱くて、痛くて、汗の膜がすぐに広った。Tシャツの脇と襟元と背中が汗で湿った。胸元と太腿とお尻とうなじと頭頂部も湿った。要するに全身が汗で湿った。汗だくになりながら、僕らは歩いた。
 目的地はなかった。
 目標もゴールもあてもなかった。僕らは団地の中を無意識のまま歩いた。重い足を引きずり、僕らの20号棟を越えて、その隣の21号棟、22号棟、23号棟を越え、一方通行の車道を渡り、並木道に沿って歩いて、死に掛けの乳牛のような足取りで進み、24号棟を過ぎて、25号棟も通り過ぎて、26号棟を過ぎ、いきつけのスーパーが視界に入ったけど、お金のない僕らには関係がなくて、スーパーもスーパーに併設されたバス停も通り過ぎて、僕らは歩いていった。
 無言のまま、何かを探るように、もくもくと僕らは歩いた。ただ、何もなかった。いくら歩いても、何も見つからなかった。僕らの興味を引くようなものはどこにもなかった。どこまで行っても、いつもの僕らの団地だった。歩いている最中、ときおり頭の中にさっきのアニメの映像がチラついた。頭の底から湧いてきた。意味はわからなかった。見つかったものはそれくらいだった。
 誰ともすれ違わなかった。団地の中には人がいなかった。夏休みのせいなのか、暑すぎるせいなのか、わからない。ただ、誰もいない。野良猫が一匹、バス停のベンチの下で寝転がっているだけ。それに鳩が2、3羽、ゴミ置き場でゴミを漁っていたくらい。あとはセミの声。姿の見えないセミが鳴いているだけだった。クッキーの型抜きでくりぬいたように、綺麗に人だけがいなかった。
 そして、気づくと僕らは公園にいた。団地の中にある馴染み深い公園。昔から遊び場に困ったときによく使う、親しみと退屈さにまみれた公園に僕らはいた。公園には僕らしかいなかった。団地の中と一緒だった。無人。誰もいなかった。
 僕らは公園をじっと眺める。
 ピタリと止まったブランコ、鈍く光るコンクリート製の滑り台、枯れた蔓が絡みつく藤棚、砂場のそばに寝転んだプレスチック製のシャベル、からからに乾いた水のみ場、はとの糞がこびりついたジャングルジム、ところどころ腐りかけた木のベンチ。
 全ての動物が裸足で逃げ出した動物園のようだった。それか、トイレットペーパーのなくなった放課後のトイレ。静かで、みすぼらしくて、幸の薄い感じがした。
 やけにセミがうるさかった。セミの声は重なりあって、僕らを押しつぶそうと騒いでいた。僕らはセミの声に急かされるように公園の中を歩き始めた。さっきまでと同じように、何かを探るように、目的もゴールもなく、何かを求めて、公園の中をさまよい歩いた。
 そして、僕らは公園の中でいくつかのものを見つけた。
 滑り台に書き込まれたFから始まる4文字のメッセージ。
 どこかのベランダから吹き飛ばされたハンガーに掛かったままのTシャツ。
 木々の間から見えるUFOのような給水塔。
 茂みに落ちていた細長いゴム製の袋とティッシュ。
 公園で見つかったものの全て。どれもよく見かけるもので、僕らが求めるような何かではなかった。大したものではなかった。公園も団地と一緒だった。何も見つからなかった。なんとなく予想できたことで、がっかりすることではなかった。
 公園の探索を終えると、僕らはブランコに座った。ブランコは長い時間、誰も座っていなかった。日の光で熱くなっていて、座るとお尻がギュッと縮んだ。
 僕らはブランコをこがなかった。足をぶらつかせたまま、腰掛けているだけ。会話はない。君は黙っていて、僕も黙っている。互いに何を考えているのかわからない。ブランコに座るだけ。何もしない。何も話さなかった。
 でも、君の考えていることはなんとなくわかった。想像がついた。
 さっきのアニメのこと。
 それは予想がついた。僕も一緒だったから。団地の外に出て、歩き回っていたときからずっとそうだった。僕の頭の中にアニメの映像が流れていた。暗くて、不気味で、誰もいない魔王に征服されたかつての首都の映像。頭の中でアニメの映像が流れて、他のことについて何も考えることができない状態。さっきのアニメは僕の心に引っかき傷を残していた。5ミリ程度の小さい傷。でも、それは心臓のそばにあって無視できない傷でもあった。家を出てから、何も話さず、ずっと何かを考えていた君も、僕と一緒だった気がする。なんとなくそんな気がした。
 僕らの間に会話なかった。無言のまま、ブランコをこがないまま、時間は過ぎていった。時間が経つにつれて、頭の中に流れるアニメの映像も少なくなっていった。雨上がりに水溜りが乾くように、頭の中に空白ができていった。
 代わりに僕の頭の空いたスペースに別のものが占めていった。今日の夕飯のこととか、予定のない夏休みのこととか、宿題をいつまでにやろうかとか、他愛のないことが頭に浮んだ。どれも強い風が吹けば、どっかに飛んでいきそうなことばかりだった。
 君は図書館に行こうと思う、と声を上げた。君のお母さんが図書館に行くと言ったことを思い出したそうだ。アニメのことを考えていたのかと思ったけど、あてが外れた。君は図書館のことを考えていたようだった。それにお母さんのこと。君はブランコを降りると、じゃあねと言って、公園の外に向けて歩いていった。僕も君の背中に向けて、じゃあねと言い返して、手を振った。
 そこで、僕らは別れた。
 一人残った僕はブランコをこいだ。何度も足を振り上げて、徐々に大きくなるように、ブランコをこいだ。もう何も考えていなかった。足を振り上げるたび、ブランコは大きく前に進み、風が頬を触って気持ちよかった。遊園地のアトラクションにでも乗っているような気がした。
 あれ?
 お尻に違和感を感じた。お尻とブランコの間。尻ポケットに何か入っているようだった。僕は両足を突っ張り、地面を擦って、ブランコを止める。尻ポケットに手を入れる。指先にてかてかとしたものが触れる。紙だ。僕はそれを引っ張り、取り出す。
 シールだった。
 さっき食べたアイスについていたシール。君が僕に渡して、僕が尻にポケットに入れた、平凡なUFOが描いてあるシールだった。僕はそれをじっと眺めて、あることを思いつき、公園の入口のそばにあるベンチの裏まで行く。
 特に理由はない。ちょっとした悪戯心、マーキングのようなものだ。
 ベンチの裏まで行くと、しゃがみ、ベンチの裏にシールを貼り付ける。僕は急いで立ち上がる。辺りを見回す。誰もいない。さっきと変わりはない。無人。僕のことを見ている人はいなかった。公園には僕しかいなかった。

 まだ残っていたんだ。
 僕は指先でそっとシールに触れる。ざらついていて、乾いている。指先をシールから離しても、かすかに指先にシールの感触が残る。指先を擦り合わせると、シールの感触はどこかに消える。砂の塊を砕くように粉々になり、消え去る。
 タバコを口元に持っていき、僕は息を吸う。何も感じない。もう一度、息を吸う。今度はさっきよりも深く吸う。やっぱり何も感じない。チェーンが外れた自転車をこいだときのように感触がない。
 おかしいな。
 いつの間にかタバコは燃え尽きていた。指の間に残っているのはフィルターだけだった。火の消えたフィルターを少し見つめたあと、僕はパッと指を開く。フィルターは指の間から落ちていき、ベンチの裏に転がる。音はしない。大量の睡眠薬を飲んだ猫のようにじっとする。そして、両手をベンチの背に乗せ、公園を見回す。数本の街灯が公園を照らしている。曖昧な光に照らされた遊具はモザイクがかかっているようだった。細かいところはどうなっているのかわからない。
 どれもあの頃のままなのかな? 
 僕は遊具や設備の近くまでいき、一つ、一つ見ていく。記憶の中にあるものとの違いを確認していく。
 違う。どれもところどころ違う。
 さっきは何も変わっていないように見えたけど、近くで見ると変わっている。公園の遊具や設備はあのころと比べて変わっていた。
 赤く見えたブランコは赤ではなく、錆だった。赤い塗装は剥げて、錆びていた。光の加減で赤く見えていただけだった。藤棚は花が枯れているどころか、蔓すらなかった。植物なんて一切なく、ただの木で組まれた穴のあいた屋根だった。ジャングルジムは金属からプラスチック製になっていて、昔あったものと比べて高さが半分くらいになっている。水のみ場の蛇口は針金できつく縛られ、水が出ないようになっていた。コンクリート製の滑り台は真っ白いペンキで塗りなおされていた。落書き一つ存在していない。
 何もかもが変わっていた。昔のままのものなんてなかった。知っているもののようで、ほとんどが僕の知らないものになっていた。
 こんなに変わっていたんだ。
 悲しくはなかった。感傷的でもなかった。でも、少し寂しかった。見知ったものが変わっていて、変わり果てた昔の知り合いを見ているようで、それが少し寂しかった。
 そうだ、砂場はどうなのかな。
 すぐに僕は歩き出し、砂場まで行き、注意深く砂場を見る。
 コンクリートで作られた丸い縁は変わっていない、縁の高さも一緒。さらさらに乾いた砂も同じ。砂場の脇にある三輪車は記憶にはないけど、他は一緒だ。記憶の中のまま。砂場は変わっていなかった。
 よかった、変わっていない。ここは一緒だ。砂をすくいながら、僕は呟いた。

 小学校に入る前のことだ。
 僕はこの団地に引っ越してきた。団地は建設されてから随分時間が経っていた。手すりは錆ついて、配水管の塗装ははげ、むき出しのコンクリートは雨で濡れたように黒いしみがついていた。でも、まだ充分現役だった。何千世帯も住んでいた。
 その中に僕の家はあった。君の家もあった。
 団地が完成したのは昭和40年ごろ。場所は郊外の山。都心から電車で一時間ほど離れた山を切り開いて、団地は建設された。
 木を伐採し、山を切り崩し、動物を追い払って、ブルドーザーで地面を踏みつけ、コンクリートを流し込み、道路と縁石と歩道と広場を作って、景観をよくするために植林して、その上に団地を乗せた。いくつも、いくつも乗せた。ショートケーキにイチゴを乗せるように乗せていった。団地に加えて、学校やスーパー、保育園に公園、病院も乗せた。デコレーションした。生活に必要なものはなんでも乗せていった。実務的で、実際的な、装飾を施していった。空き地を埋めていった。
 ただ、オフィスだけは乗せなかった。
 寝室と職場を一緒にするのはナンセンスだから。きっとそういった理由。それでオフィスは乗せなかった。でも、他の生活に必要なものは乗せていった。考えうる限り何でも。そして、団地は、街は完成した。ただの山だった場所に完璧な箱庭を造り上げた。
 団地が完成すると、人が住み始めた。
 人はどこからかやってきた。風に吹かれるようにやってきて、団地に根を生やした。大抵は家族だった。夫婦と子供、一揃いだ。そのうち、新たな子供が生まれたり、成長したり、学校を卒業したり、就職したりして、子供は巣立っていった。子供がいなくなると、親も団地から離れていった。風に吹かれるように離れていった。そして、空いた部屋には新たな家族が住み始めて、同じように子供を育てていった。
 そんなことが何千世帯も同時に行われた。繰り返された。新陳代謝をして、古い皮が垢となって剥がれ落ちるように、何度も繰り返された。そして、そのサイクルに参加するように、僕の家も引っ越してきた。君の家が引っ越してきたちょっとあとに。
 デパートも駅ビルも、高速道路も新幹線もなく、スケート場もスキー場もなかった。牧場も海も山も森も畑もなければ、綺麗な空気も美味しい水も、米軍基地も自衛隊基地も、巨大なオフィスビルも電波塔もないところに僕は引っ越してきた。そこで、君と知り合った。
 知り合ったときのことは忘れた。
 ただ、知り合ってすぐに穴を掘り始めた。それは記憶の奥底にある。底の底にへばりついている。地面の奥深くに眠る縄文時代の土器のように、僕の頭の底にもあのときの記憶が残っていた。
 公園の砂場。
 そこは空白地帯だった。現実的なもので埋めつくされた団地の中での空白。学校での空き教室であり、太平洋に浮ぶ無人島であり、紛争地域における非武装地帯であり、地球においての南極大陸だった。誰も利用しない空白地帯だった。
 そこで僕らは遊んだ。
 穴を掘り、山を作り、また穴を掘った。二人で何度も何度も穴を掘った。山を作るために穴を掘った。穴を掘るために山を作った。繰り返し、飽きることなく、何度も穴を掘り、山を作った。
 他の遊びは知らなかった。僕らが知っていたのは穴掘りだけだった。
 朝早く、沢山の人が黒かグレーのスーツを着て、ぴかぴかに磨いた黒い革靴を履いて、ナイロン製のブリーフケースを抱えて、ギュウギュウの電車に詰め込まれて、都心のオフィスに働き出ている間に、僕らは休むことなく穴を掘った。
 僕らは砂場に座り込んで、手元の砂を掘り出した。掘り出した砂を砂場の真ん中に集めて、固めて、山にして、また山に砂をかける。山の上にかけた砂を何度も何度も叩いて、固めて、また穴を掘って、砂を集めて、かけて、叩いて、山を大きくしていった。富士山にも負けないくらい立派な山を作った。
 大きな山が出来上がると。僕らは穴を掘った。山の中にトンネルを掘ろうとした。
 互いに山の反対側から穴を掘り進める。ゆっくりと慎重に。僕らの小さな手で山を崩さないように、少しずつ山の横腹から穴を掘った。下がり過ぎても、上がりすぎてもいけない。当然曲がってもいけない。真っ直ぐに進むように僕らは穴を掘った。君の穴と僕の穴が出会うように掘り進めた。
 最初は慣れなかった。失敗した。だけど、何度も何度も繰り返すことで、僕らは穴掘りのプロになった。成功を積み重ねていった。失敗の記憶は薄れていった。頭の中には成功の記憶だけがある。トンネルを掘り進む方向を誤って、山が崩れるイメージなんて一切ない。
 頭の中に浮ぶのは、光が射すイメージ。
 穴を掘り進めると、指先に軽い土の感触を感じる。二、三回土の壁を叩くと、ボロボロと壁は崩れる。壁の向こうへと手を伸ばす。指先が柔らかい何かに触れる。僕は手を引っ込めて、少しかがんでトンネルを見る。反対側から光が射している。光の中に君の手が見える。その先に君がいる。
 そこで、記憶は終わる。トンネルは完成する。
 そんなことを僕らは毎日繰り返した。飽きもせず何度も。日が暮れるまでずっと。

 終バスはもう終わっていた。
 わずかな差だった。僕がバス停につく少し前に、最後のバスは出発したようだった。
 目の前にはバスロータリーが広がっている。ロータリーは道路とつながり、道路はどこまでも延びている。道路の先は真っ暗。暗闇の向こうから何かが来る気配はない。動くものもなければ、音もしない。凍ったように静かだった。道路の先が明るくなるまで、バスが来ることはなさそうだった。
 バス停にいるのは僕一人だった。
 誰もいない。バス停の屋根から落ちる明かりが僕と時刻表を照らしている。僕は自動販売機に残った取り忘れのつり銭になった気がした。どこか滑稽だった。
 バス停のベンチに座りながら、僕は駅まで歩いていくことを考える。
 一時間近く掛かりそうだ。
 いまから一時間近く掛けて駅についたとしても、終電にはまだ余裕はある。ただ、駅から家までも一時間は掛かる。合わせて二時間。家に着くのは大分遅くなりそうだ。
 さて、どうしようか。
 タクシーを使うことを考える。ここまでタクシーを呼んで、駅まで乗っていく。歩くよりかは断然楽で、早そうな方法だった。でも、ここでタクシーが来るのを待つ時間を考えると、歩くのと大差はないかもしれない。
 どちらにしろ遅くなるか。
 連絡したほうがいいな。
 ポケットの中から携帯を取り出し、画面を開く。小さな液晶画面が輝き、僕の親指はボタンの上で止まる。メールにするか、電話にするか。少し考えたすえ、メールで遅くなることを伝えようとする。
 そして、僕は気づいた。
 連絡する相手も連絡する必要もないことに気づいた。メールのあて先に指定したアドレスは過去のもので、送信しても誰にも届くことはないアドレスだった。
 そっか、必要ないか。
 ボタンの真上で止まった親指を動かし、携帯の画面をパタリと閉じる。携帯の画面から明かりが消える。携帯をポケットの中に戻す。
 家では誰も待っていないはずだった。彼女はもう家にはいない。ちょっと前に、彼女も、彼女のものも、家から消えていった。数個のダンボールにまとめられて、僕の知らない家へと送られていったんだ。排水溝に詰まった抜け毛くらいしか、彼女のものは残らなかった。わずかな香りすら残っていなかった。僕の家は空っぽだった。すっかりそのことが頭の中から抜け落ちていた。
 僕はもう一度想像する。
 いまから歩いて駅まで行って、電車に揺られて、日を跨いだころ家にたどり着く。エレベーターに乗り込み、鍵を開け、ドアノブを回し、ただいまと言う。返事はない。僕は靴を脱ぎ、家の中に入っていく。家の中は静かだ。がらんとしている。一人暮らしにはちょっと大きい、誰もいない真っ暗な部屋が頭に浮ぶ。
 すぐに帰る必要はないか。
 僕は胸ポケットからタバコの箱を取り出し、一本タバコを抜き取る。フィルターをつまみ、少し考え、また箱に戻す。
 不思議なくらい痛みはなかった。
 がらんとした家を思い出しても、何も感じなかった。感傷的になるには付き合った時間が長すぎたからかもしれない。思ったよりも心は痛くなかった。ただ、真夜中にあの家に帰宅することは気が進まなかった。とても不毛な気がした。
 もう少し、ここにいてもいいか。
 タバコを箱に戻し、タバコの箱を胸ポケットに入れると、僕はベンチから腰を上げ、歩き出す。広場を進み、円形のベンチを通りすぎ、大きな欅の木を越えると、ベージュ色をした四角い建物が目に入る。お中元のギフトボックスのような建物で、あの夏、通ったスーパーだった。近づくにつれて、スーパーの様子がはっきりとしてくる。ガラスの内側は真っ暗。明かりは一切ついていない。僕はガラスに近づき、目を凝らして中の様子を確かめる。
 何もない。
 スーパーの中には何もなかった。缶詰一つ、棚一つ、レジ一つ、カゴ一つ、カート一つ、存在していない。ガラスの向こうは真っ暗で、何もない空間だった。真冬の朝の音楽室のような静けさがあった。
 僕は左端のガラスから右端のガラスまで、スーパーの中を確認していく。ガラスを一枚、一枚、検分するように丁寧に見ていく。でも、どこを見ても一緒だった。ガラスは傷ついていて、ガラスの向こうは真っ暗で何もない。最後のガラスにだけ、テナント募集の張り紙が張ってある。それ以外はどれも一緒だった。
 スーパーは閉店して、ただの箱になっていた。入り口の取っ手には埃が溜まっていた。スーパーは何年も放置されているようだった。
 スーパーには何も残っていなかった。
 ただ、僕は何かを忘れている気がした。取っ手の上の薄い茶色い埃のように、ここには何かが残っている気がする。だけど、思い出せない。頭の中をかき回し、探って、何かを掴もうとして、僕はゴミの山を思い出す。
 そうだ、中庭。
 すぐに僕は歩き出した。ガラスに沿って進み、直角に曲がり、コンクリート壁に沿って歩き、突き当たりの狭い通路の先の中庭を目指して進んだ。
 中庭は、まだあった。
 スーパーの裏側、スーパーと自治会の間の中庭。ここはまだ存在していた。
 ただ、中庭も昔と違っていた。昔のように粗大ゴミや紙の山は存在していない。誰のものかわからない自転車で埋まっていた。視界一杯、さび付いた自転車しか見当たらなかった。猫が入る込む隙間もないほど、自転車で一杯だった。
 いまにも自転車は倒れて、中庭の外に溢れてきそうだった。

 その日、僕らは中庭にいた。
 スーパーの裏側の中庭。秘密の倉庫のような場所。灰色のコンクリートで周りを囲まれていて、薄暗くて、静かで、ひっそりとしている。夕方に差し掛かる数分だけ、わずかに日が射し、騒がしくなる。滅多に人は来ない。大声で歌の練習をしても誰も気づくことはなさそうな場所。
 そこで、僕らはゴミを漁っている。
 中庭はゴミで埋まっていた。五割は資源ゴミ。主に紙類。新聞やチラシの束、雑誌とか本とか教科書がまとめられたもの。三割はスーパーから出されたゴミ。燃えないごみとか粗大ゴミとか、生ゴミ以外のゴミ。あとの二割は空白。ゴミを回収するための車が乗り入れるスペース。まっさら。
 そして、僕らは色々なものを発掘した。
 ゴシップ誌、漫画雑誌に百科事典、壊れたパイプ椅子、魚臭い発砲スチロール、棚、傘、ネームプレートが沢山入ったビニール袋、車輪の取れたカート、取っ手の取れたかご、丸められた従業員用のエプロンとか色々。ピラミッドの発掘チームにも負けないくらいの情熱で、僕らはゴミの山からゴミを掘り出した。掘り出したものはどこから見てもゴミで、誰が見てもゴミだった。
 でも、僕らにとっては違った。ゴミではなかった。
 掘り出したものはただのゴミかもしれない。だけど、ゴミの山はただのゴミ山ではなかった。鉱脈の眠る鉱山だった。何かが眠っているような気がした。この団地の、この薄暗い中庭の、何層にも積み重なったゴミの下で、僕らの心を引くような何かが埋まっていて、僕らをじっと待っている気がした。
 例えば、ところどころ緑色で半透明の石。
 例えば、見たこともない金属で作られた小型のコンピュータ。
 例えば、銀細工の紋章が表紙に付いた分厚い外国の本。
 そういった類のもの。一目見て、何かが始まりそうとわかるもの。普通の人には理解できないけど、恐るべき価値が秘められているもの。そういったものが捨てられている気がする。何故そんな貴重そうなものが捨てられているかはわからない。ただ、こっそりと貴重なものを捨てるには、ここはうってつけな場所な気がするから。僕らは何かを求めてゴミの山を漁っていた。
 ねえ、これは? と僕の背中から声がする。君の声。僕は振り返る。君は僕の方を向いて、人差し指でゴミの山を差している。指の先にはゴミの山から突き出る銀色の棒がある。空に向かって伸びる棒は、スタート台から飛び出した水泳選手のようだった。
 これ? と言って、僕は銀色の棒のそばまで行く。
 君はうんと言う。
 僕はうなずき、棒に手をかける。棒を手前に引く。だけど、抜けない。棒の先が何かに引っかかっている。棒は金属製の棚に埋まっている。棚も銀色。棒と同じ色だった。棒の先に隙間が出来るように、僕は棚を足で押しのけ、棒を引く。何度か引くと、ゴミの山からすぽりと棒は抜ける。
 50センチほどの銀色のパイプ。傷だらけで、鈍い色をしている。全く輝いていない。棒の先、5センチくらいが90度に曲がっている。思ったよりも軽くて、もろそうだった。おそらく壊れた棚の柵の一部。埋まっていたときよりも、貧弱で、みすぼらしかった。
 何も始まりそうもなかった。
 僕は首を振って、それをゴミの山に放った。中庭にカランと音が響いて、棒はゴミの山に帰っていく。僕らが求めているものではなかった。銀色の棒がゴミの山に埋もれて、見えなくなると、君は探索に戻った。僕も君に背を向け、君とは反対側のゴミの山に顔を向ける。自治会の壁に沿って積まれた大きな紙の山と向き合う。
 さっきまで僕が探索していた場所で、これからまた探索をする場所だった。
 紙の山は雑誌だったり、小説だったり、新聞だったり、大量の広告だったりした。どれもビニールの紐できつく縛られ、纏められ、束になり、積まれて、重なり、巨大な山となり、中庭に大きな影を落としていた。
 この山のほとんどが退屈で面白くないものだったけど、たまに困ったものもあった。派手な表紙の雑誌。赤色とピンクと黒と黄色の文字が躍って、ほとんど裸に近い女性が写っている。大抵の女性は下着を着けていた。日の丸弁当の梅干程度の下着を。そんな女性が表紙にでかでかと恥じらいもなく載った雑誌だった。見てはいけない雑誌。わかっている。僕はそんな雑誌を見つけると、視線を外し、雑誌を脇にどけた。もしくは別の紙の束を雑誌の上に乗っけた。君に見られると恥ずかしいから。見ているところを見られたくないから。急いで視界から消した。ついさっきも二つばかり隠した。山の中からそんな雑誌を掘り出して、また山の中に埋めた。何も見なかったように隠した。
 そんなことをしながら、大きな山を掘り進めていくと、また、ねえと僕の背中から声がする。僕は振り向く。目の前には君がいる。近かった。腕をすっと突き出せば、ぶつかりそうな距離。君は右手をぎゅっと握っていた。僕と視線が合うと、これは? と言って、右手を差し出し、開く。羽化するときのさなぎのように優雅な手つきだった。
 小さな機械だ。
 手のひらに機械が乗っていた。手の中に収まるほどの大きさだった。機械の真ん中には液晶モニターがあって、ひび割れていた。その下にはゴム製のボタンがいくつか並んでいる。使い込まれていた。塗装ははげて、ところどころ下地のプラスチックが見えていた。ゲーム機ではなかった。計算機でもなかった。何に使うものかわからなかった。
 僕は君からそれを受け取り、ボタンを押す。試しに一回。反応はない。何回かボタンを押す。反応はない。普通に押したり、長く押したり、短く押したり、強く押したり、弱く押したり、色々なパターンでボタンを押す。だけど、反応はない。振ったり、軽く叩いたりもしてみた。でも、やっぱり反応はなかった。音もしなければ、液晶に何かが写ることもなかった。電池が切れているか、完全に壊れているか、どちらかだった。
 ただ、どこか惹かれた。さっきの棒と同じように放り投げることはできなかった。もう動くことはないはずなのに、何に使うかもわからないのに、この機械には僕をひきつけるものがあった。そのうちどこか遠いところ、未来から謎の電波や、遠い宇宙の惑星からメッセージを受信しそうな気配があった。
 気づくと、僕はうなずき、うんと口にしていた。機械をじっと見たまま。次に、いいねと言葉が出て、視界の外側から、じゃあ、あげると君の声がした。見えないけど、君は笑顔だった気がした。
 機械を軽く握る。プラスチックの感触。硬いような、柔らかいような。いくら力を込めても壊れることはなさそうだった。これ以上壊れるところもなさそうだったけど。感触を確かめると、僕は尻ポケットに機械を入れた。
 何か面白そうなものはあった? と君は言う。
 僕は首を振る。何もない。
 そっちの方は? 僕の背中の小山を君は指差した。
 雑誌が積まれていた山だった。僕が探索を終えた山だ。週刊誌とかファッション誌とか音楽雑誌とかゲーム雑誌が積まれていた山。少し面白そうな雑誌もあった。ただ、いやらしい表紙の雑誌もあった。君には見られたくない山だった。
 あまり、面白くなかったかな。そう言ってやり過ごそうとした。
 本当?
 うん。
 君は何かを探るように僕を見つめる。僕はスーパーの裏口を見つめる。ドアはきっちりと閉まっていて、誰も出てきそうもなかった。中庭には僕ら以外の人はいなかった。スーパーの裏口に置かれた大きな室外機がうなっていた。
 見てもいい? と君は言う。粗大ゴミばっかりで少し飽きたとも言うと、君は僕の脇を通り過ぎて、紙の山に手をかけようとする。君を見て僕の口から言葉が出る。
 ねえ。
 うん?
 君を見つめる。君は微笑み、僕を見る。僕は次の言葉を探す。何も言葉は出てこない。ねえのあとがつながらない。
 どうかした?
 何でもない、と僕は首を横に振って、さっきのありがとう、と場違いなお礼が僕の口から出てくる。言いたかった言葉は出てこなかった。うんと君はうなずいて、僕が探った山を漁っていく。いやらしい雑誌が積まれている山を漁り始めた。僕は君を背にして、探索に戻った。
 君の様子が気になった。
 僕が探索している山や、次から次へと出てくる雑誌の束なんかよりも、君が何を見ているかが気になった。僕は悪いことをしているわけではない。それはわかっている。でも、後ろめたかった。背中越しに聞こえる紙の束を動かす音や、紙が擦れる音がやけに耳障りで、気になった。君はあの雑誌を見つけるかな、見つけたらなんて思うかな、あの雑誌について僕にきいてくるかなとか、あの雑誌を中心にいろんな言葉が頭の中を回り、僕の手の動きは速くなった。目の前の紙の山を崩すペースが速くなった。君が見つける前に、何かを言う前に、君の注意を引くようなものを見つけようとした。でも、面白そうな本や雑誌は見つからない。捨てられる価値のものしか残っていない。いくら山を掘り返しても、どこかで見たような、面白みのないものしか見つからなかった。
 ある本が目に入った。
 古臭い本だった。灰色で分厚い表紙をしていた。カバーはついていない。ところどころ茶色のしみが付いていた本だった。体育倉庫の奥で眠っているハードルのように年季が入って、古びていた。ただ、どこか異様で目を引かれた。
 それを見て、ねえと僕は言った。反射的に言葉が出てきた。本の中身は知らない。まだ見ていなかった。でも、気づくと言葉は出ていた。苦し紛れでもあった。そして、ちょっと来てと手を後ろに伸ばして、僕は手招きする。何? と君は音もなく近寄ってきた。僕の顔の横に君は顔を寄せる。
 これ、どうかな? 僕はその古い本を指差した。
 君は本に手を伸ばし、本の束からその本を抜き取った。僕にも見えるように、本を構えると、ゆっくり表紙を開いた。

 未知の世界と名づけられた写真集だった。
 ページ一面に、真緑色の熱帯植物が写っていた。見たことがない別世界の植物。威勢がよくて、大雑把で、不必要に大きな植物がページを埋め尽くしていた。次のページも、その次のページも。どのページも一緒だった。ほとんどのページに真緑色の大きな植物が写っていた。
 秘境の写真集だった。
 この国に生まれて、就職して、結婚して、働いて、普通に暮らしていくぶんには、絶対に関わらないような場所。どこか遠くの国、たぶんブラジル辺り、もしくはガンボジアの奥地、それかユカタン半島のどこか。きっと赤道付近の国。その国の奥深くにあって、人が立ち入らない場所。緑が生い茂っていて、人の存在を否定するような秘境。密林という言葉がピタリと来る場所の写真だった。
 ただ、写真集の主役は密林じゃなかった。ページを埋め尽くす真緑色の植物はただの付け合せ。密林とは別の存在が写真集の主役だった。
 空洞。
 それが写真集の主役だった。
 よく見ると、どの写真、どのページにも空洞が写っていた。密林の中にぽっかりと空洞が空いていた。巨大で空っぽ。東京ドームがいくつもすっぽりと入ってしまいそうな大きさで、どこかに向けて真っ暗で巨大な口を開けていた。異世界への入り口のようだった。
 洞窟、大穴、世界の果て。
 呼び名は何でもよかった。
 密林の中の巨大な空白。それが写真集の主役。どのページにも熱帯植物と同じように空洞は写り、存在を主張していた。ページを進めていくと、植物は写っていなくても、空洞だけは写っている写真もあった。
 未知の世界は空洞の様々な表情を捉えていた。
 朝日を受けてぽっかりと空に向けて口を開けた洞窟、いつもの一枚。
 夜、洞窟内の蛍が光り、緑色に染まる洞窟、不安げな一枚。
 夕陽を受けて岩の表面がオレンジ色に輝く洞窟、悲しげな一枚。
 合計120枚もの空洞の表情を写していた。様々な角度、時間、方法、レンズで空洞は撮られていた。どうやって撮ったのかわからないアングルの写真もあった。どの写真にも個性があった。一つの空洞を写しているはずなのに、どれも違う写真だった。似たような写真は一枚もなかった。
 そこには普段見ることのない世界が写しだされていた。
 少し、怖さもあった。
 空洞は深くて、底が見えなかった。どんなに強い光が降ってきても、底までたどり着かなかった。光は岩肌にぶつかり、跳ね返り、大気に溶け、霧散するだけ。光は途切れていた。底は真っ暗。空洞の奥の様子はわからなかった。写真を通して、空洞を、暗闇を、見ているだけなのに、じっと見ていると吸い込まれてしまいそうだった。真っ暗闇に、大きな穴の中に、体が溶け込んでしまいそうだった。体の先がビスケットをすり潰すように砕かれ、体だったものの破片が大気に舞い、空中で一回転し、漂って、巨大な穴を見つけて、写真を通り抜け、吸い込まれていきそうだった。指や手や足。それに喉や鼻や目や脳みそが、次第に暗闇の中に消えてしまいそうだった。お腹の下辺りが、ひゅっとどこかに飛んでいってしまうような感覚。自分の体がどこかに消え去り、なくなってしまうような怖さがあった。
 でも、それ以上の魅力があった。いや、怖さも魅力に含まれているのかもしれない。恐怖を感じる以上の魅了が写真集にはあった。どの写真、どのページにも。ページをめくる手は止まることはなく、表紙が閉じられることはなく、視線が写真集の外に向くことはなく、僕らは夢中になって写真集を見た。意識も視線も写真集の中に落ちていった。目が離せなかった。
 一番印象に残っている写真がある。一ページ目の写真で、最初に見た写真。
 真っ暗な洞窟の中から撮られた写真だった。カメラを真上に向けて、パシャリと一枚。半円状に大空が切り取られていて、その縁を熱帯植物が埋めていた。強烈な光を受けて透き通る植物は、削り出されたばかりのエメラルドの原石のようだった。そして、太陽に向けて洞窟の中から一本の石柱が伸びていた。白い石柱。石柱は全身で太陽の光を受け、乱反射し、洞窟の中に光を撒き散らしていた。ばら撒かれた光に照らされて、洞窟の中がまばらに輝いていた。その石柱の先には青空が広がっていた。真っ青で、ムラのない青色。あまりに綺麗で作り物のような空でもあった。
 どこか似ていた。
 暗闇の中にたたずむ新宿都庁、都庁に差し込む一筋の光、キラリと光る窓ガラス、都庁の先に浮ぶ銀色の円盤と黒い空。あのアニメのオープンニングの最後のワンシーンに写真は似ていた。全く違うものなのに、どこか通じるところがあった。

 そっか、写真集と機械か。
 あのとき、そんなものを見つけたんだ。この中庭で、あのゴミの山で、僕らは見つけたんだ。顔も知らない誰かが買って、ボロボロになるまで使い倒して、そして、いらなくなってこの中庭に捨てた写真集と機械。それが始まり。あれを拾うところから僕らの探索が始まったんだ。あの夏の探索が。
 あのあと、どこに行ったんだっけ。中庭の次に向かった先。
 中庭を埋める錆び付いた自転車を眺め、僕はタバコを取り出し、口に咥える。舌先をフィルターにこすりつける。柔らかいスポンジの感触。息を吸うと、メンソールの香りが僕の奥へと突き抜ける。
 駐車場。そうだ、駐車場に行ったんだ。
 僕は呟く、声を出す。口を開いた拍子にタバコが落ちていく。口元からこぼれていく。タバコは僕の革靴に当たって、跳ねて、地面の上に転がり、三回回って、止まる。地面に寝転んだタバコは部屋の隅の掃除機のようにじっとしている。僕はタバコに手を伸ばし、フィルターを確認する。大丈夫、砂利はついていない。
 駐車場、あそこで僕らは何をしていたんだっけ。
 団地の中のだだっ広い駐車場を思い出す。コンクリートと白線で構成されたシンプルな広場。ワゴンとミニバン、それにセダンに埋め尽くされた駐車場。小学生には用のない場所。そこで僕らは何をしていたんだ。僕は唾液で湿ったフィルターを咥え、考える。何も思い浮かばない。タバコに火をつけ、息を吸い、息を吐く。濁った煙が口から漏れ、空中を漂い、街灯の明かりを汚していく。タバコを咥えたまま、僕は歩き出す。中庭から離れる。スーパーだった箱を通り過ぎ、広場を超え、道路を渡り、足を進めていく。あの夏のように歩き始める。そして、駐車場のはずれ、生垣の中のガラクタが頭の中に浮ぶ。
 秘密基地。そう、秘密基地があったんだ。あの駐車場の隅っこに秘密基地があったんだ。次に僕らは秘密基地に行ったんだ。中庭の次は秘密基地を見つけたんだ。

 最初は気持ち悪かった。
 何だかよくわからなかった。
 グロテスクで、不可解で、理不尽で、不気味だった。僕らが見たことがない世界が映されていた。十年ほどの人生でそんな世界に出会ったことはなかった。現実でも、テレビの中でも、本や漫画の中でも、画面の中のような世界は存在していなかった。テレビから流れてくる映像を直視することも、見続けることも嫌だった。初めての体験で、もう一度体験したいとは思わなかった。
 でも、次の日も僕らは見た。
 お昼過ぎに僕の家のピンポンが鳴って、ドアを開けると君がいた。僕らは挨拶をして、僕は君を家の中に招いて、君は僕の家の中に入ってきた。僕らはテレビの前に座り、じっと待った。無言。会話を交わさず、あのアニメが始まるのを待っていた。どちらかが見ようと言ったわけではない。自然に僕らは前日と同じチャンネルをつけて、テレビの前に座り、放送開始を待った。オープニングが流れ、本編が始まり、エンディングが流れ、CMに移るまで、僕らは画面から目を離さず、じっと座っていた。放送が終わると、僕らは少し話をして、君は帰っていった。
 次の日も僕らは見た。
 同じだった。前日の繰り返し。同じ時間にピンポンが鳴って、ドアを開けると君がいた。そのあとも前日と同じ。二人並んで居間であのアニメを見て、放送が終わると、話をして君は帰って行った。
 その次の日も僕らは見た。
 全く同じだった。いつもの時間にピンポンが鳴って、ドアの外には君がいて、二人居間で並んで座って、あのアニメを見る。前日と一緒。壊れたラジカセで永遠に再生されるカセットテープのように繰り返された。
 ただ、その日はちょっと違った。
 僕らはアニメが終わると、外に出て、歩き始めた。理由は覚えていない。アニメが終わり、気づくと僕らは外にいて、歩いていた。糸が切れた凧のようにあてもなく、団地の中をさまよい歩いた。
 僕は理解した。
 君はあのアニメが気になっていることを。だけど、一人で見るにはちょっと勇気が足りないことも。それで毎日決まって僕の家に来ていることを理解した。口には出さなくとも、そのことがわかった。僕もそうだったから。一人で見るにはちょっと勇気が必要だったから。僕らは同じだと直感的に感じだ。真夏の午後、団地の中を歩いているときにそれがわかった。
 そして、その日からそれは日課になった。
 決まった時間にピンポンが鳴って、ドアを開けると君がいて、居間で二人並んで座ってアニメを見る。アニメが終わると、外に出て、黙々と歩き回る。あのアニメの内容をゆっくりと消化するように、夏の午後の団地を練り歩く。
 夏休みの予定のない僕らの唯一の予定となった。

 全26話。
 最初の放送では週に一回。半年かけて全ての話が放送された。一つ一つ、緩衝材のぷちぷちを潰していくように丁寧に、一話一話、毎週放送されていった。
 誰も注目しなかった。
 大して話題にはならなかった。小さな子供も大きな子供も興味を持たなかった。平均視聴率は3%未満。最終回の放送が終わると、すぐに忘れ去られた。風化した。テレビ局の戸棚の奥の隅っこにビデオテープは放置され、深い眠りについた。何年も光が当たることなかった。ノンレム睡眠。
 数年後、誰かが発掘した。
 人々の頭の中から放送された事実が消え去り、忘れ去られたころ、誰かがビデオテープを発掘した。夏休みの再放送にと。埃にまみれたビデオテープを戸棚の奥の隅っこから引っ張り出してきた。
 全26話という長さが夏休みの再放送にちょうどよかったからかもしれない。誰も覚えていないという理由で新鮮な再放送を期待されたからかもしれない。どんな理由であれ、ビデオテープは発掘され、再放送されることになった。
 そして、あの年、あの夏、あのアニメは再放送された。一日、一話。平日の昼過ぎに毎日。夏休みの間ずっと。メロドラマとワイドショーと刑事ドラマの間にテレビから流れてきた。
 魔王に占拠された東京を取り戻す。それがストーリーだった。
 UFOがやってきて、空に大きな穴が開いた。穴の下は暗闇に包まれた。暗闇の世界では、大人は生きていけなかった。UFOから出る目に見えない光線の影響か、空に空いた大きな穴の影響か、未知の生物の影響かわからない。大人はまともな思考を保つことが出来ず、すぐに死んでいった。あとから暗闇の世界に侵入した大人も一緒だった。大人は誰も暗闇の中では生きていけなかった。
 そこで、少年少女が集められ、訓練を施され、暗闇の世界へと送りこまれ、魔王討伐をすることになった。わずかな武器と食料と、野営用の道具と、医療セットに検体収集セットに調査キット、それに着替えを持たされ、調査隊として暗闇の中に送り込まれていった。何組も送り込まれた。シャトルバスのように何度も、短い間隔で送り込まれた。あっという間に送り込まれた調査隊の数は三桁を越えた。
 でも、満足する結果は得られなかった。まともに帰ってきた調査隊はなかった。暗闇の中に入っていったまま、誰も戻ってこなかった。それっきり。外側の人間は中で何が起きているのかわからなかった。ただ、調査が中止されることはなかった。繰り返された。
 第何次調査隊なのかはわからない。大分番号が進んでいたことは確かだった。主人公も調査隊として送り込まれた。数人の仲間とわずかな物資と一緒に、暗闇の世界に送り込まれた。外と中をつなぐ唯一の玄関、芦ノ湖から暗闇の世界に入り、巨大なUFOが浮ぶ都庁を目指して進んでいった。
 探索中、徐々に隊員が消えていった。
 はじめは10人いた調査隊の隊員も、最終的にはほとんどいなくなった。回を重ねる毎に調査隊は小さくなっていった。あるものは気づいたら消えていて、あるものは化け物に取り込まれて消えて、あるものは誰もいない街に残るといって消えていった。
 様々な理由があった。
 やむにやまれない理由もあれば、全く理解できない理由もあった。
 2話に一人のペースで隊員は消えていき、20話を超える頃には、主人公とヒロインの二人の冒険になっていた。誰もいなくなった。
 そして、隊員があっという間に消えるように、再放送もあっという間に終わった。一気に全26話が消化された。一瞬。ひと夏で終わった。放送期間だけは最初の放送と違った。あとは一緒だった。世間の注目を集めることもなければ、熱心なファンがつくこともなかった。静かな最終回を迎え、ビデオテープはまたテレビ局の戸棚の奥の隅っこで眠ることになった。
 再放送の平均視聴率は1%程度だった。

 ばれないかなと僕が言ったとき、僕のお尻の下のパイプ椅子から軋む音がした。君は座っているソファーのクッションを弄るのを止めて、大丈夫と言った。僕が本当かと聞き返すと、きっと今日は来ないと君は言って、Tシャツの襟元をはためかせる。軽い風が吹いた気がした。
 何でそう思うの?
 勘、女の勘。君は襟から手を離して、笑った。
 そっか、女の勘か。僕も笑った。
 君は写真集に視線を落として、僕はぼんやりと生垣を眺める。
 濃い緑の葉が真っ直ぐ並び、ところどころピンクの花が咲く。生垣は駐車場の壁に向かい合うように続いていて、僕らはその間にいる。駐車場の端っこ。僕らの周りはダンボールで囲われていて、地面は真っ青。ビニールシートが敷き詰められている。シートの上には、電球のついていない電気スタンドやら、蓋も羽も取れた扇風機やら、漫画の単行本や雑誌なんかが置かれている。それに僕のお尻の下のパイプ椅子と、君のお尻の下のソファーもシートの上に乗っている。
 どれも僕らがもってきたものではなかった。僕らの知らない誰かが持ってきたものだった。僕らが持ってきたものは君の膝の上の写真集と、僕が握り締めている機械、それだけだった。
 たぶん秘密基地。見知らぬ誰かが作った秘密基地だった。
 見つけたのは偶然。団地を探索中のことだった。アニメを見たあとの日課になった探索。アニメの中のような未知の世界を求め、団地の中をさまよい、僕らは歩いた。そして、その探索中にここを見つけた。駐車場の隅の生垣と壁の間の秘密基地だ。
 はじめ、僕らはここはゴミ捨て場かと思った。
 ここにあるものはどれも壊れていて、汚れていた。山奥の廃寺のように古びていた。ゴミ収集車に拾われて、埋立地に捨てられるのを待つばかり。どれもゴミと呼んでも問題のないものばかりだった。
 でも、よく見ると違った。
 ゴミではなかった。壊れていて、どれも捨てられたもののようだったけど、誰かが使っていることは間違いなかった。忘れさられてはいなかった。その証拠にホコリが被っているものは一つもなかった。最近、誰かが触れた形跡があった。誰かがどこからか集めてきて、一緒に過ごしていることに間違いはなかった。おそらく、僕らとそう年齢の変わらない誰かが作った場所だった。
 そのことに気づくと、僕はすぐに立ち去ろうとした。人の家に忍び込んでいるような気がしたから。それか人の家の冷蔵庫を勝手に開けているような感じ。何も見なかったことにして、回れ右をして、秘密基地から出て、駐車場の外に行こうとした。
 でも、君は休んでいこうよと言った。
 僕が立ち止まり、返事に迷っていると、君はビニールシートに上がり、ソファーに座って、写真集を見始めた。満足するまで君はソファーから離れることはなさそうだった。日差しの強い日だった。駐車場はレーザービームのような日差しに晒されていた。生垣と壁に囲われた秘密基地はちょうど日陰になっていた。ソファーに座る君は快適そうで、汗一つかいていなかった。君の様子を見て、僕も回れ右をするのをやめて、中に入ることにした。ビニールシートに上がる前に靴は脱いで、お邪魔しますと言い、中に入った。せめてもの礼儀だった。秘密基地の中の空気はひんやりとしていて、心地よかった。僕はすぐに気に入った。
 そうして、僕らはそこで過ごすことにした。僕らは秘密基地を作る年ではなかったけど、秘密基地で遊ばない年齢でもなかった。君は写真集をじっと見て、僕はポケットから取り出した機械を眺めて、ゆっくりと時間は過ぎていった。
 ねえ、と僕が言うと、何? と君は写真集に視線を向けたまま言う。
 誰が作ったんだろうね?
 誰かな、学校の人?
 きっとそうだよね。
 うん。
 だとしたら、誰かな?
 君は想像つかないと言い、写真集を一ページめくる。僕は君を見ながら考える。この秘密基地を作りそうな人を思い出そうとする。クラスメイトの顔を思い返す。他のクラスの人も思い返す。他の学年の人も思い返す。でも、具体的な名前も、顔も浮んでこない。ただ、団地に住んでいる人だろうなとは思い、それを君にきく。君は顔を上げ、それに同意はするけど、誰かは思いつかないと言う。僕も同じだと言い、会話はそこで止まる。君の視線は写真集に戻る。僕も誰が作ったのか考えることをやめる。セミの声が聞こえる。とても近く。生垣のどこかに潜んでいそうだった。間延びした鳴き声だった。
 僕の手の中の機械は相変わらず壊れたままで、動きそうもなかった。でも、そのうちメッセージを受信しそうな気配があった。いつかひび割れた液晶が光り出し、どこか遠くからのメッセージを映し出しそうだった。いまは沈黙しているけど、何かのタイミングで僕にメッセージを伝えそうな気がした。宇宙の果てか、未来の先から。
 僕が機械を眺めていると、気持ちいいねと君は言った。うんと僕は応え、機械から君に視線を移す。君は秘密基地の中を眺めている。囲いのダンボールを眺めて、扇風機に目をやり、入り口のそばの生垣を見る。
 風があるともっといいね。と君は言う。
 うん、本当に。
 あと、蚊もいなければ。君はパチリと二の腕を叩いた。
 うん、本当。
 誰かが作ったから、きっと快適なんだね。
 うん、きっとそうだ。
 僕らは笑った。
 明日も来ようよ。君は言った。
 うんと僕はうなずいた。
 次の日も僕らは秘密基地にやってきた。君は写真集を持って、僕は機械を持って。見つけた日と同じように駐車場まで来て、秘密基地に忍び込んだ。何日も過ごした。君は写真集を眺めながら、僕は機械にメッセージが来ないか待ちながら。穏やかに過ごした。その間、誰かがやってくることはなかった。秘密基地を作った誰かもここを忘れてしまったようだった。春になっても土の中で眠り続けるカエルのように、秘密基地は取り残されていた。僕らは秘密基地がなくなるまで毎日通った。

 そこはかつて美しい港町だった。
 この国で一番有名で美しい、長い歴史のある港だった。昼は働いている人や、家族連れや学生、カップルで賑わい、人で溢れていた。夜になれば、港中の建物の明かりが一斉に灯り、小さな宇宙のように鮮やかに輝いた。
 いまや、そのころの面影はなかった。
 半月上のビルも、かつてのランドマークタワーも、ピンク色にライトアップされた観覧車も、光の城のようなフェリーも、レンガ製の倉庫も、海にかかる真っ直ぐな橋も、全てが瓦礫と化していた。形あるものは破壊され、原型を崩し、バラバラになり、消え去っていた。
 隊員達は記録でしかこの町のことを知らなかった。実際に訪れたものはいなければ、記憶にもなかった。当たり前だった。ただ、この国で一番有名な港町だったころの記録映像は見ていた。それがいまやただの瓦礫の山だった。記録にあった美しい街並みはなかった。どこか遠くに行ってしまった。ただ、そのことを気にかける隊員はいなかった。そんなものかと彼らは考えていた。特に感傷的になる理由もなかった。この真っ暗な世界ではよくあることだったから。元の姿が失われ、全く違うものになっていることなどよくあることだった。
 瓦礫の上では白いゲル状のものがうごめいている。ゲルの中に隊員だったもののシルエットが見え、ゲルの上にその隊員の右足から脱げた靴が転がっている。靴はシルクのスカーフにできたソースのしみのようだった。
 白いゲル状のものは、さっきまで交戦していた軟体生物の慣れの果てだった。
 長く、激しい戦いだった。
 隊員達は数時間に渡って戦いを続けた。最後に隊員達の決死の集中砲火を浴び、軟体生物は沈黙した。沈黙するまでに一人の隊員が軟体生物に飲まれた。軟体生物が動きを止め、形を崩して、白いゲル状の死骸になったとき、ゲルの中からその隊員は出てきた。隊員の息はまだあった。ただ、その隊員はまもなくゲルに同化しようとしている。
 瓦礫の上の白いゲルはいく層にも重なり、ちょっとづつ動いていた。瓦礫の下へと、雪が溶けるような速度で動いていた。嫌な臭いを撒き散らしながら。ゲルの中に飛び込んでいった隊員を同化しながら、ゆっくりと。
 数人の隊員が白いゲルの中から出てきた隊員を引っ張り上げ、助け出した。ただ、その隊員は意識を取り戻すと、また白いゲルの中に沈んでいった。今度は自らの意思で進み、飲み込まれていった。他の隊員は彼のことを止めた。体中がゲルまみれで、悪臭がする彼のことを。でも、彼が止まることはなかった。隊員達の手を振り払い、突き進んでいった。白いゲルの中に埋もれて、決して離れようとしなかった。彼はゲルの中で寝転び、瓦礫を抱きしめ、動こうとしなかった。その間、彼は何も言わなかった。無言のまま、軟体生物の死骸に埋もれていった。
 最初、彼をどうにかしようとした。
 他の隊員は彼をゲルの中から連れ出そうとした。手を引っ張り、足を引っ張り、体にロープを結びつけて、結んだロープを引っ張り、白いゲルの中から彼を外に連れ出そうとした。彼を助けようとした。それが助けることだと信じて。
 だけど、彼は出てこなかった。
 真っ白でどろどろした、液体と固体の中間の物質の中に埋もれ、離れようとしなかった。そのうちに右足の靴が脱げ、彼の体はゲルと同化していった。外から彼のことを引っ張り出すことができなくなった。
 彼が白いゲルに同化するまで、彼の言葉を聞いたものはいなかった。どうして彼が白いゲルから離れないのか、軟体生物に飲まれていた間に何を見て、何を感じたのか、誰も知らなかった。何故再び飲まれようとするのか、理由がわからなかった。
 ただ、彼の意志の強さだけは隊員達は理解した。
 隊員達は彼のことを諦め、立ち去ることにした。
 瓦礫の山から離れるとき、誰もが無言だった。何も言わなかった。後ろを眺めると、白いゲルの中に彼は沈んでいき、もうまもなくこの世から消え去ろうとしていた。残された隊員達に感想はなかった。ただ、早くこの不快な臭いの立ち込める港町から離れたいだけだった。

 何もない。
 生垣と壁の間には何もなかった。ただの日陰。ただの駐車場のただの隅っこに広がる何もないただの空間。仕切りのダンボールも、ビニールシートの絨毯も、粗大ゴミのような家具も、漫画の単行本も雑誌も、全てなくなっていた。撤去されている。生垣と壁の間はもとの退屈な場所に戻っていた。
 もとから何もなかった。
 そう思ってしまうほど自然な状態だった。何もないことが正しいことのようだった。昨日まであったあの秘密基地は、僕らが見た夢か幻のようだった。僕らだけにしか見えない秘密基地、幻覚、白昼夢。駐車場の隅の生垣と壁の隙間にはもとから何もない。それが事実のようだった。
 掃除のおばさん、仕事をしただけ。
 駐車場のオーナー、権利を主張しただけ。
 秘密基地を作った誰か、責任を取っただけ。
 誰もが正しかった。誰が撤去したのかはわからない。でも、誰が片付けたとしても、それは正しいことだった。間違っていない。僕らが何かを言う権利はなかった。僕らに出来ることは秘密基地を思い出しながら、ぼんやりと立ち尽くすことだけだった。
 わかっていることは、僕らが帰ったあと、もしくは僕らが来る前に、誰かが一仕事したということ。それに僕らの快適な場所も日々も戻ってこないということ。それだけだった。ここで何が起きたのかを知る手がかりはなかった。セミ声が響くだけだった。大好きなテレビ番組がいつの間にか最終回を迎えていたような空しさがセミの声にはあった。
 横に目をやると、僕の隣にいた君がいなかった。君は生垣の端に駆けていた。生垣の端まで行くと、君は何かを探し始めた。必死で枝を葉を掻き分け、生垣の中から何かを探していた。そこまで一生懸命な君は初めて見た気がする。体育のときの50メートル走よりも一生懸命だった。そしてしばらくすると、あったと声が聞こえて、僕は君のそばまで行った。よかった、あったと言いながら、君は生垣から一冊の本を取り出した。
 あの写真集だった。
 この秘密基地で君がずっと見ていた、スーパーの中庭から掘り出したあの写真集だった。未知の世界だった。
 君は写真集を生垣の中から大事そうに取り出すと、ぎゅっと抱きしめ、僕はよかったねと声をかける。うんと君はうなずき、写真集のページをめくる。一ページ、一ページ、丁寧にページを確かめていく。おかしいところがないか、一枚、一枚、写真を確認していく。君の様子を見る限りだと、写真集に問題はないようだった。秘密基地が撤去される前と変わりはないようだった。君が誰かが来たときに悪戯されてしまわないようにと、少し離れた生垣に隠していたおかげだった。
 僕の機械は無事だった。僕の尻ポケットに入っていた。心配することはなかった。毎日持ち運んでも気にならない大きさだったから。僕はずっと持ち歩いていた。液晶が光ることも、電波を受信することもなかったけど、肌身離さず、大事に持ち歩いていた。
 そのあと、僕らは当てもなく団地中を歩いた。秘密基地を見つける前と同じように歩き始めた。落ち着く場所、面白い場所、未知の場所を求めて、団地の中を歩き回った。ぐるぐると回し車を走るハムスターのようにずっと。
 その日から、君は写真集を持ち歩くようになった。探索の間、無くさないように、どこにでも君は写真集を持って行った。

 駐車場はどこにも存在していない。
 代わりに一つ、二つ、三つと家が並んでいる。道路を挟んでまた一つ、二つ、三つ。さらにその先に四つ、五つ、六つと並んでいる。ミニチュアハウスのような家。いくつもいくつも並んでいる。道路の先の先まで続いている。
 住宅地が広がっている。
 車を使う人が減ったせいか、団地に住んでいる世帯数が減ったせいか、それとも駐車場のオーナーが破産して土地を手放したせいか、原因はわからない。ただ、あの大きな駐車場はなくなっている。駐車場だった場所は住宅地に変わり、建売住宅が並んでいる。整然とした住宅地はスーパーのインスタント食品の陳列棚に近いものがある。
 バリエーションに溢れた住宅。デザインは何十種類になる。ファッション雑誌を埋める数々のコーディネートのように個性があり、違いもある。それぞれ違うデザイン、違う建材、違う広さの住宅だった。だけど、どこか似ていた。同じに見えた。立ち並ぶ住宅はまるで潜水艦に搭載されたミサイルのようだった。真新しくて、洗練されていて、清潔で、そして違いがわからなかった。ミサイルの発射口のような住宅地の入り口には車両進入禁止のポールが3本並んでいる。車両だけでなく人の進入も拒んでいるようだった。この住宅地に関係のない人はこの先立ち入り禁止。ポールの赤色がそう言っている気がした。
 いつ出来たんだろう。
 僕が団地を離れたあとの話だ。それは間違いない。団地を離れた数年の間に駐車場は無くなり、整備され、新たな住宅地に変わった。いつ無くなったかはわからない。でもいつの間にか駐車場はなくなり、住宅街へと変わっていた。それを知るすべは僕にはもうなかった。そのことを聞ける友達はもういないから。結果が僕の目の前に残るだけだった。
 秘密基地がなくなったこと。それは知っている。昔の話だ。ずっと昔になくなっていた。それは覚えていたし、理解している。でも、秘密基地があった場所がなくなっているなんて考えもしなかった。
 目に見える住宅の灯りは落ちている。どの家も暗く、沈黙している。室外機の回る音だけが聞こえた。それはどの家からも聞こえた。室外機の音がするだけで、中には誰も住んでいないようだった。まだ販売開始されていないようにも見えた。でも、庭先にプランターや自転車が置いてあり、誰かが住んでいることは確かだった。きっと僕と関わりのない誰かが住んでいた。
 これから、どうしようか。
 携帯を取り出し、時刻を確認する。今から駅に向かっても、終電には間に合いそうもなかった。始発には随分早かった。いまから家に帰る必要もなかった。僕は少し考え、携帯をしまい、住宅地に背を向ける。団地の中へと歩いていく。まだ探索する時間はあった。もう少し団地の中を歩いてもよさそうだ。
 
 団地の中をさまよう僕らは、自分の墓場を探している迷子の死体のようだった。
 夏の日の午後。秘密基地が撤去されてから、以前と同じように僕らは団地の中を探索した。静かで、落ち着く、こそっとした秘密の場所を求めて。できれば日陰で、蚊がいなくて、セミがうるさくない場所。そんな場所を求めて歩き回った。
 君は写真集を抱えて、僕は機械をポケットに入れて。
 いくらでも歩いた。目的もなくどこまでもさまよった。汗をかき、足を引きずり、喉が渇いたら公園の水のみ場で水を飲み、少し休み、そしてまた歩いた。探索の成果はなかなかあがらなかった。
 探索を再開して二日ほど経ったとき、君から提案があった。
 林に行ってみない?
 団地の北にある林のことだった。
 林はほとんど人が通らない場所で、ひっそりとしていた。林の先は国道につながっていて、奥までいくと、車の音で騒がしかった。ただ、林は広くて深かった。ずっと奥まで行かなければ車の音は聞こえなかった。林のほとんどは不気味なくらい静か。木々のざわめきや、虫の音、鳥の鳴き声くらいしか聞こえない。それに暗くもあった。木の枝や葉が日の光を覆い隠していたから。僕らが求めている場所に近かった。
 どうかなと君は言い、僕は君を見る。
 君は写真集を両手で抱えて、僕を見つめている。真っ直ぐな視線。君の瞳は黒くて、まん丸だった。舐めかけの飴玉のように濡れていた。じっと見つめると瞳の中に小さな僕が映っていた。僕は君から道路に視線を向け、少し考える。
 気が進まなかった。
 林にはいい印象がなかった。薄暗くて、人気がなくて、日中でも行こうとは思わない場所だった。長い間、僕はそこに行っていなかった。最後に行ったのは遠足のとき。林の向こうの国道の先の動物園に行くときに通り抜けただけ。小学校低学年のころだ。そのとき以来、僕は林に入っていない。近くに行っても外から見るだけ。中に入ることはなかった。外から見ても、林はちょっと怖い感じ。あまり行きたい場所ではなかった。
 僕が迷っていると、行こうと君は言葉を投げた。僕の頭の上、ちょうどつむじの方に向けて。でも僕は顔を上げなかった。道路に視線を向け、なんて答えようか考えていた。ただ、僕が答える前にねえと君は言った。またもや僕は頭を上げなかった。すると、すぐにねえ、行こうと君の声が聞こえて、僕は頭を上げた。
 君と目が合った。
 さっきと変わらず、君の視線は真っ直ぐだった。僕に向いていた。君の瞳には小さな僕が映っていた。これもさっきと変わらなかった。そして、僕はうなずいていた。君の瞳の中の僕に向けて。君の視線に押されるようにうなずき、わかったとも言っていた。
 じゃあ、決まりね。
 そう言うと、君は僕に背を向け歩き出した。僕はうんと言いながら、君のあとをついて行った。
 僕らは北に向けて歩いていった。団地を越え、スーパーを越え、駐車場を越え、林に向けて足を進めた。冬が終わって、北の国に戻っていく渡り鳥のように僕らは歩いた。少し歩くと、僕らを囲む大きな街路樹が増えてきて、僕らが歩く道は薄暗くなる。林に近づいている証拠だった。あと少しで到着。さらに進むと、視界に入る団地の号棟が50号棟を越え、団地の終わりが近づいてくる。団地が途切れると、道路が広がる。道路は車一台半ほどの横幅で、道路の先には柵があり、柵の向こうには名前の知らない木が生えている。そこは暗くて静かな林だった。記憶の中と一緒。誰もいない林だった。
 ただ、記憶の中にないものがある。
 林の入り口。見慣れないものが置いてある。林を囲む柵がいったん途切れたところ、入り口のすぐ横。車が一台、止まっている。黄色くて、小型で、二人乗りで、速そうな車だった。カーチェイスにピッタリな感じ。まるで機械で出来た黄色い鼠のような車だった。ちょっと場違いな感じがした。
 君は車に気づくと、すぐそばまで駆けていって、見てと僕に向かって言う。僕も君の隣まで駆けていく。車の中を見る。
 紙だった。
 車の中一杯、紙が積まれている。ぐるぐるに丸められた筒。助手席も運転席も、座席とリアガラスの間も紙の筒で一杯だった。見えないけど、ボンネットとトランクの中も同じように紙が積まれていそうだった。バックミラーは役に立たない。それどころか運転すらまともに出来そうもなかった。アクセルは踏めない。ブレーキも踏めない。ハンドルも紙に埋まって掴めそうもなかった。ドアを開ければ紙が溢れ出る。それは想像しなくてもわかった。どうやって積み込んだのか不思議なくらい紙が詰まっていた。積み込むには何か特別な方法が必要そうだった。少なくとも、その方法は僕らにはわからなかった。
 君は窓ガラスに手をつけながら、なんだか、凄いねと言い、僕も窓ガラスに手をつけながら、うんと言ってうなずいた。ガラスに触れた手のひらがひんやりとした。
 なんだろうね。と君はきいた。
 なんだろう。と僕は言った。
 ゴミかな?
 わからない。
 それとも、大事なものかな?
 わからないよ。と僕は言った。
 そうだよね。中身はわからないもんね。
 うん、紙の中を見ないとわからないよ。
 車の中の紙はどれも丸まっていて、中はわからなかった。紙の外側は黄ばんでいて、しみのようなものもがちらほらと見えた。使い込まれていた。紙の内側は全く見えなくて、何がかかれているのか、何に使われていたのかわからなかった。ただ、使いこまれていることと、時間が経っていることはわかった。ところどころ紙の端は擦りきれていた。雑に扱われているようだった。ただ、全ての紙は丁寧に丸められていて、どこか大切にされているようでもあった。
 僕は車の中を見ながら、いるかな? と君にきいた。
 何が? と君は聞き返す。
 車の持ち主。林の中にいるかな?
 わからない。
 そうだよね。
 林の中に行って見なければわからないな。と君は言う。
 うん、そうだよね。と僕はうなずく。
 行こう。と君は言い、車から離れていた。僕は君のあとを追いかけ、林の中に入っていった。
 その日、車の持ち主と会うことはなかった。林の中を探索したけど、誰もいなかった。林の中にいたのは僕らだけ。車の持ち主と出会う代わりに、僕らはいい場所と出会った。ちょっとした広場で、座るにはちょうどいい丸太が二本転がっていた。林の中ほどにあって、静かな場所だった。僕らが求めていた場所に近かった。
 僕らは日が暮れるまでそこで過ごした。二つ目の秘密基地だった。
 
 暗闇に浮ぶ銀色の球体は、氷の結晶のように完成されていた。
 ドームは傷一つなかった。淡く銀色に輝いていた。ドームの外から中の様子を知ることはできなかった。中がどうなっているか、全くわからなかった。
 立ち寄る必要はなかった。
 そのまま通りすぎればよかった。調査には関係ないものだと見なして、素通りすればよかった。ただ、素通りできなかった。素通りするには、あまりにもドームは目立ちすぎた。鼻の頭に出来たにきびのように目を引く存在だった。
 誰かが寄って行こうと言った。
 反論はあったはずだ。寄っていく必要はないと。先を急いだほうがいいと。だけど、いつの間にか反論は消え、隊の意志は寄って行くことに傾いた。隊員達の足は銀色のドームへと向けられた。
 隊員達がドームの前まで行くと、銀色のドームの表面に長方形の切れ目が入り、黒い穴が開けた。自動ドア。黒い長方形の穴は、隊員達をドームへと手招いていた。
 隊員達は何も言わず中へと入っていった。
 ドームの天井は薄暗い色をしていた。空が見えていた。銀色の天井は内側から見ると透明で、マジックミラーのようになっていた。ドームの中はプールだった。飛び込み台の残骸や、50メートルプールの大きな窪みや、転がったビート盤があった。プールの水は何十年も前に干上がり、乾いていた。人も同じくらい前にいなくなっていた。ただ、水よりも、人よりも、もとのプールとは決定的に違っているものがあった。それは暗闇の外の世界にも、暗闇の中の世界にも存在していない、ドームの中で初めて見るものだった。
 植物だった。
 正確には植物らしき何か。それがドームの中心付近、巨大なプールの真ん中に生えていた。汚れた川底をびっしりと埋める苔のように隙間なく生えていた。それのシルエットは植物によく似ていた。どこにでも生えている植物のようだった。ただ、色が違った。植物の色をしていなかった。緑とか赤とか茶とか黄とかそういった色ではなかった。肌色、ところどころピンク色をしていた。それにピンクと赤のちょうど真ん中のような色もあった。生々しい色をしていた。ミミズを指ですり潰したときのような生々しさがあった。そこが違っていた。
 そして、近くで見ると、色以外も違うことがわかった。異様だった。
 人の体が成っていた。
 指や爪、手や足や耳に似たものが、葉になり、枝になり、茎や花びらになって、重なり、繋がり、捻れ、植物の形を作っていた。内臓のようなものもあった。時折、脈打つように震え、風もないのに揺らめいていた。ざわめきが聞こえてきそうだった。宗教的な儀式が始まったときのような静かなざわめきが。
 隊員達は躊躇い、止まった。
 でも、ある隊員が足を踏み出し、植物のようなものを掻き分け、踏み潰し、ドームの真ん中へと近づいていった。他の隊員達も戸惑いながらも、その隊員に続いていった。
 何かが起こりそうだった。
 でも、何も起こらなかった。それに襲われることも、飲み込まれることもなかった。何もなく隊員達は進んでき、ドームの真ん中であるものと出会った。
 女性のような形をした、木のような、植物のようなものだった。
 肌色で、艶やかな姿をしていた。くびれがあり、柔らかそうで、豊満で、優しそうだった。肩があり、胸があり、腰があり、お尻があった。ただ、手と足はなかった。それに首から上も無かった。尻から下は木の幹のようになり、地面に吸い込まれていた。首から上は途切れていた。何もない。動く様子もなければ、攻撃してくる様子も、喋る様子もなかった。ただ、じっとそこに存在していた。何かをする気配はなかった。
 はじめそれを見たとき、隊員達は銃を構えた。それを取り囲み、セーフティを解除し、トリガーに指をかけた。
 何も起きなかった。それは止まっていた。生きていないようだった。それが何もしてこないことがわかると、隊員達は銃をおろした。
 戻ろう。と誰かが言って、隊員達はドームの外へと引き返そうとした。
 一人の隊員が動こうとしなかった。じっとしていた。ドームの中心にいくとき、先頭を歩いていた隊員だった。他の隊員が戻ろうとしても、彼は動かなかった。ドームの中心にある女のような、植物のようなものを見たまま、その場から離れようとしなかった。何度か声をかけて、やっと彼はその場から離れ、歩き出した。
 次の日、彼はいなくなっていた。キャンプから明けた真っ暗な朝、テントの中から彼は消えていた。彼の寝袋には彼が寝転んでいた跡だけが残っていた。寝袋はすっかり冷たくなっていた。
 彼がドームの中心にいることは明らかだった。でも、誰も彼を連れ戻そうとは思わなかった。説得が意味をなさないことはわかっていたから。隊員達は先を急いだ。隊員達は前に進むことと、彼を忘れることに意志を傾けた。
 
 林は静かだった。
 数日の間、僕らは林で遊んだ。どの日も初日と同じように静かだった。林は閑散としていて、穏やかだった。誰もいなかった。僕ら以外の人と林の中で出会うことはなかった。僕らの貸切。僕らは広場を拠点に、林の中を探索したり、何もせずボーっとしたり、アニメの話をしたり、写真集を眺めたり、壊れた機械が電波を受信しないか待ったりしていた。平穏な日々だった。
 その間、林の入り口に黄色い車はずっと放置されていた。
 それも初日と一緒だった。車の中一杯に紙が積まれていて、変化はなかった。動いた形跡も、誰かが触れたあともなかった。フロントガラスにも、ボンネットにも、ルーフにも埃が溜まっていた。日ごとに車の中の紙の量が増えている気もしたけど、おそらく気のせいだった。
 ただ、その日は違った。
 車の中に異変が起きていた。僕はそれに気づかなくて、君はそれに気づいた。林の中に入ろうとするとき、君は車の前で立ち止まり、車の中を覗きこみ、僕を呼びとめた。僕も車の中を覗き込んだ。
 何かがおかしかった。
 違和感があった。いつもと様子が違った。車の中で何か異変が起きているようだった。ただ何がおかしいのかわからなかった。僕はすぐに気づくことができなかった。少し眺めて、君に言われて、やっと気づいた。
 紙がなかった。
 車の中一杯に積まれた紙が消えていた。一つ残らずなくなっていた。車の中は空。以前は紙に埋もれて見えなかったハンドルも、ブレーキも、アクセルも、窓の外から見ることができた。空になった車は放課後の図書室のように寂しい感じがした。
 僕らは話した。
 何故、紙がなくなったのか。どこかに移動したのか、いらなくなって捨てたのか、誰かから預かっていたもので返したのかとか、いろいろと。でも、わからなかった。結局、僕らは車の持ち主でも、紙の持ち主でもなかったから。何が起きたのか知ることはできなかった。僕らは紙について考えることを止めて、林の中に入ることにした。
 その日は林の中も、何かがおかしかった。
 外側からだとわからなかった。中に入って、少し歩いてその異変に気づいた。
 はじめはにおい。何かが燃えているにおいがした。煙のにおい。かび臭さと埃っぽさがあった。古いにおいだった。100年前の教科書を燃やしているようなにおいがして、次は煙だった。視界は濁って、透明だった空気が灰色に汚れた。林の中を進むにつれて、煙は濃くなり、目の端が濡れ、水滴が頬を流れた。そして、味がした。すっぱい味。煙を吸うたびに、舌にすっぱい味が残った。食べ物の味ではなかった。酢に浸した木の板でも舐めているような味がした。
 足を進めるたびに、煙は濃くなり、においも味も強くなっていった。でも、僕らは止まらなかった。足を進めた。広場へと向かっていった。何かを確かめるように、林の奥、広場に向けて歩いていった。
 広場の近くまで来ると、広場から煙が上がっているのが見えた。火は広場で起きていた。途切れることなく煙は昇っていた。パチパチと何かが弾ける音が聞こえた。不思議と煙はさっきよりも少なくなっていた。火元に近づいたけど、歩いているときよりも煙は少なかった。古いにおいや、目の端の水滴や、舌の上のすっぱさも消えていた。
 広場では何かよくないことが起きている気がした。
 このまま広場に向かうのか、それとも引き返すのか。どうするのか僕は君にきいた。君は大丈夫と言い、行こうと答えた。不安そうな様子はなかった。君は先へと進んでいった。僕も君のあとを追った。広場へと足を向けた。足は重かった。意識して動かさなければ、足は動いてくれなかった。
 少し歩くと、待ってと君の声が聞こえ、君は止まった。僕も君の少し後ろで止まった、君の視線の先には広場があり、広場には男が一人いた。いつも僕らが座っている丸太の上に男は座っていた。男の視線の先には一斗缶があった。男はぼんやりと一斗缶を眺めていた。一斗缶からは煙が昇っていた。何かを燃やしているようだった。
 僕らが男を見ていると、男も僕らに気づき顔を上げた。見覚えのある顔だった。スーパーでよく見かける顔。スーパーの店員。品だしをしている男だった。男は僕らのことを知らないようだった。じっと僕らを見たあと、ごめんとだけ言った。何故謝ったのかはわからなかった。少しして、もうすぐ終わるからと言い、よかったら座ったらと男は言って、男の視線は一斗缶に戻っていた。
 僕は迷った。丸太まで行って座るか迷った。でもいつの間にか君は歩いていた。男の座った丸太と一斗缶を挟んだ反対側の丸太に君は座った。僕も丸太に駆けていって、君の横に座った。男の顔が正面から見えた。疲れた顔をしていた。
 あと少しで終わりだから、と男は言った。
 男は煙を眺めていた。僕らも煙を眺めた。黙って煙を眺めた。一斗缶から立ち上る煙は、電源を落としたあとのテレビのように落ち着いていた。一斗缶には丸められた紙の束が入っていた。使い古され、古ぼけた紙だった。紙は男が座る丸太の隣にも置かれていた。紙は残りわずかで、あと何回か燃やせばなくなりそうだった。
 君はそれを見て、黄色い車の中にあった紙? ときいた。
 そうだよ。と男は言った。知っているんだ。と続けて言った。
 うん、ずっと止まっていたから。と君は言った。
 そうだよな、目立つよな。と男は言い、声だけで笑った。
 一斗缶の中の煙は途切れる様子はなかった。火も納まりそうもなかった。音を立てながら燃え続けていた。紙以外のものも燃えているようだった。木片だったり、プラスチックのチューブだったり、筆のようなものだったり。どれも紙と同じように使い込まれていた。時間の重みを感じさせた。
 君は一斗缶を見ながら、燃やしちゃっていいのかと、男にきいた。
 いいんだ、と男は答えた。
 大事なものじゃないの? と君はきいた。
 これはもう燃やしてしまってもいいものなんだ。と男は言う。
 本当に?
 うん。もう要らなくなったんだ。
 でも、大事そうに見えるよ。と君は男を見つめながら言った。
 大丈夫。とだけ言って男は黙った。それっきり君も黙った。僕らの間に何かが弾ける音が響いた。すぐに聞こえなくなって、沈黙が残った。セミの声も、車が走り抜ける音も、枝と葉が擦れあう音も聞こえない。広場はいつもよりも静かだった。三人とも何も言わず、一斗缶を見つめていた。僕は早くこの場を離れたかった。君は何かを考えていた。男は何を考えているかわからなかった。三人とも何も言わないことだけは一緒だった。水の入っていない水槽のような静けさがあって、次に君が口を開いた。
 本当にいいの? と君は男に尋ねた。
 男は少し考えて、もう燃やしてしまったからね、と言った。
 でも、と君は言うと、男がううんと声に出して、君の言葉をさえぎった。
 これでいいんだよ。ずっと持っているわけにはいけないからね。君たちも見たろ? あの車を。いつまでも、いくらでも、置いとけるわけではないしさ。紙を捨てなけれれば、あの車も使えないしね。そう言って、男は笑った。顔も笑っていた。
 その、と君は言うと、これでいいんだよと男は何かを納得させるように言った。
 それで会話は終わりだった。
 そのあと、僕らは火が収まるまで、ずっと丸太の前で座っていた。夏だと言うのに、火を前にしているというのに、暑くなかった。汗をかくことはなかった。
 火が収まり、煙が消えると、男はポケットから飴を二つ取り出し、僕らに渡した。コーラ味の飴だった。不味い飴だった。男が林の入り口に消えていったあと、車が走り去る音が聞こえた。何かを引きずっているような、地面を擦るような少し耳に痛い音だった。
 次の日、林の前に車は止まっていなかった。広場の一斗缶もなくなっていて、そこでは何も起きていなかったようだった。ただ、僕らはその日以来、林に行くことをやめた。気軽に入ってはいけない場所のような気がしたから。

 これはショッピングモールだ。
 空き地に打ち上げられた巨大戦艦ではなく、核戦争に備えたシェルターでもなければ、地球制服を企む悪の組織のアジトでもない。明かりの落ちたショッピングモール。中の様子は一切わからない。暗く沈黙している。どんな店が入っているのかも、中がどうなっているのかもわからない。
 ただ、なんとなく想像はつく。
 カフェにレストラン、アパレルショップ、時計屋にめがね屋、映画館、ドラッグストア、大型スーパー、家具屋にスポーツショップ。どこかで見たような何十もの個性的な店が並び、汚れ一つない床と壁に覆われている。休日は近隣の街から人が集まってきて、人口密度が上がる。花火大会の会場のように賑やかになる。きっとそんな感じだ。
 でも、いまは静か。明かりもなければ、人もいない。大きな柵に沿って、一周歩いてみた。ショッピングモールは完全に沈黙していた。警備員が消し忘れたように駐輪場だけ明かりがついていた。あとは真っ暗。
 ひとつわかったことがある。
 林の姿はもうどこにもない。あのときの林はまるまるショッピングモールに変わっていた。あの木々も、広場も、林を囲う柵も、入り口付近の黄色い車もなかった。何もかもが変わり、なくなっていた。人の気配もない。そこだけは林と変わらなかった。
 歩くのに随分時間がかかった。
 記憶にあるよりも、林はずっと広かったみたいだ。いくら周りを歩いても、中々一周できなかった。一周するのに随分時間がかかった。歩き終わったときは、大分遅くなっていて、もう今日は終わっていた。日付は明日になっていた。
 さすがに誰もいないか。
 僕は林があった場所から離れて、団地の中に戻っていく。休める場所を目指して、バス停まで歩いていく。バス停のベンチに向けて足を進める。バス停まで戻ると、缶コーヒーを買い、ベンチに座る。振り出しに戻った気分だ。
 バス停には誰もいない。さっきと変わらなかった。たださっきよりもずっと静かだった。夜が更けたせいかな。全てものが止まっている。信号も街灯も道路も、時刻表もみんな眠っている。虫の声すら聞こえない。でも、気温が落ちる気配はない。式場を出たときと変わらず蒸し暑いままだ。僕はポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭う。ハンカチは重くて、湿っていた。何度も汗を拭ったせいだ。ハンカチの感触が何だか生き物みたいに生々しくて、少し気持ち悪い。
 大分使ったな。
 バス停の明かりの下で、ハンカチを広げて、じっくりと見る。オレンジと白のチェック模様のハンカチ。男が使うには可愛らしいデザインだった。汗で濡れて、透き通っている。ハンカチの縁はところどころほつれていて、使い込まれている。
 これは、忘れていったのか。
 僕が彼女にプレゼントしたものだった。出会ったころにあげたものだ。いつの間にか僕のものにまぎれていたせいだろうか。彼女は持っていくのを忘れていったようだ。わざと持っていかなかったのかもしれない。ただ、どちらでもよかった。わかったとしても、いまさらの話だった。
 もう十年以上前か。
 出会ったのも、これをプレゼントしたのも、彼女の温かさや重みを感じたのも、あの頃だった。もう大分前のことだ。ハンカチの縁がほつれるほど時間は経っていた。ハンカチを見てやっと思い出せるほど昔のことだった。
 そういえば、あのとき、これを彼女にあげるとき、君を見かけたんだ。
 
 僕はベンチに座り、バスを待っている。僕の隣には綺麗に包装された小包がある。
 昨日買ったプレゼントだ。
 黒地に星がばら撒かれた包装紙。銀河の模様が描かれている。見る角度を変えると、まばらに星が輝き、光を撒き散らす。包装紙全体が特殊加工され、きらめいていた。すぐに破かれ、捨てられるというのに、丁寧に宇宙が描かれていた。
 小包の中はハンカチ。
 包装紙に比べると普通だった。散々悩んだ末、一番無難なものを選んだ。価格も、内容も、重過ぎないものを選んだ。いまいち彼女との距離感がつかめていなかったから。渡しても恥ずかしくないものを買うことにした。
 プレゼントを渡すのは、少し怖くもあり、楽しみでもあった。彼女の反応を想像して、僕の気分は上がったり、下がったりしている。心の中は揺れている。上下だったり、左右だったり。心地よく揺れている。
 やがてバスが来て、僕はバスに乗り込み、バスは走り出した。駅へと向かっていった。バスが揺れ、僕の体も小刻みに揺れた。かわりに心の揺れは収まっていき、僕は窓に頭をつけ、うとうとしながら、外の景色を眺めた。何も考えていなかった。たまに彼女のことが頭に浮んだ。それくらいだった。
 少しバスが走ると、景色が流れるスピードが緩やかになり、景色は止まった。バスは停止した。大通りに合流するための信号待ちだった。いつも長く止まる場所だった。しばらく窓の外の景色は動きそうもなかった。
 女性が二人いた。
 僕の視線の先に、止まった景色の中に女性が二人いた。バスと同じように信号待ちをしている。中年の女性と若い女性。中年の女性は僕の母親くらいで、若い女性は僕と同年代のようだった。二人とも、大きな手提げを抱えて、信号の先を見ている。二人の間に会話はなかった。知り合いではないようだった。それにしては二人の距離は近かった。ほとんど密着するくらいの距離だった。
 僕はじっと見ていた。
 特に理由があったわけじゃない。他に視線を向ける先がなかったから。なんとなく視線を向けていた。大晦日の夜、テレビをつけて紅白を見るのと同じような感じだった。ぼんやりとした意識を二人に投げていた。
 そして、気づいた。
 若い女性は君だった。
 初めは全く気づかなかった。じっと見ているうちに若い女性が君であることに気がついた。ただ、別人のようだった。顔か、雰囲気か、髪型か、何が変わっていたのかわからない。だけど、君は随分変わっていた。中学校を卒業して、数年会っていなかっただけというのに、別人のようになっていた。
 どこが変わったのだろうか。
 わからない。じっと見るけど、わからなかった。服装も髪型も大人っぽくなっていた。10代には見えないくらいに君は大人びていた。薄っすらと化粧もしていた。間違いなく外見は変わっていた。だけど、それが理由ではなかった。それ以外にも何か決定的に変わっていた。
 注意深く君を見て、ようやく僕はそれに気づいた。
 表情だった。
 表情がなくなっていた。信号を待っているだけだからかもしれない、喋れば違ったのかもしれない、別の場所で会えば笑っていたかもしれない。でも、窓の外にいる君は表情がなかった。無表情。君は割れたグラスを眺めるように、道路の先をじっと見つめていた。初めて見る顔で、昔と全く違う顔だった。知らない人の顔のようだった。
 そして、噂を思い出した。
 君が母親と二人で歩き回っていると言う噂。一軒、一軒、家を訪問して回っていると噂。何かを売っているのか、勧誘しているのか、詳しい話は知らない。ただ、二人で家を訪問していると聞いた。君の顔を見てその噂を思い出した。
 次の瞬間、視界が揺れ、君が視界の隅に行き、見えなくなった。景色がさっきと同じように流れ始めた。窓を叩くにも、声をかけるにも、ここは遠すぎた。君から離れすぎていた。何も交わらないまま、僕は君から離れていった。
 窓から頭を離し、僕はシートに体を投げ出す。頭はシートを打ち、跳ね返って、再びシートに落ち着く。右手の中には小包があった。綺麗な銀河が描かれていた。これから彼女に渡す予定のプレゼントだった。
 窓の外は賑やかになっていた。通りには人が溢れ、歩道のわきには商店が並び、街灯や看板が夕暮れの街中に淡い光を放ち、窓の外から活気付いた声が聞こえてきそうだった。バスは大通りを進んでいた。車内放送が流れ、機械的な女性の声がもうすぐ駅だと伝えていた。終点だとも。アナウンスを聞きながら、僕の意識は君から右手の小包に移っていった。僕の頭の中はまた彼女のことで埋まっていった。
 
 思うように体が動いてくれない。
 主に足。特に関節。膝の部分。関節の中に何かが挟まっているようで、立ち上がろうとしても、うまく動いてくれない。両手を膝に置き、前に向けて思いっきり力をかけて、やっと立ち上がることができた。ゴミ箱まで行って、空き缶を捨てることができた。
 さすがに疲れてきた。
 日を跨いだこともある。久しぶりに長い距離を歩いたこともある。ずっと外に出ていたこともある。体中の関節が堅くなり、体の先の感覚がなくなっていた。全身がプラスチック製のスーツに覆われているような感じ。無感覚。
 できれば今すぐ横になりたかった。靴を脱いで、靴下も脱いで、スーツとワイシャツとインナーも脱いで、ごろんと団地の前に広がる芝生の上に寝転がりたかった。大の字になって寝たかった。でも、流石にそれはできそうもない。真夜中に裸で外で寝転がる勇気はなかった。通報されるにはもういい年齢だった。
 さて、どうしようか。
 漫画喫茶、カプセルホテル、ビジネスホテル、24時間営業のファミレス、カラオケ、この時間に横になれそうな場所を考える。どれも駅のそばにある。魅力的な場所ではなく、行く気にはなれなかった。
 仕方なく僕はさっきまで座っていたベンチに腰を下ろす。目を瞑り、手を膝の上に置き、深く息を吸い、呼吸を落ち着ける。だけど、意識は落ちそうもなかった。何十秒待ってみても変わらない。眠くはなかった。体は疲れているというのに、頭は冴えていた。眠ることはできそうもなかった。
 目を開き、ぼんやりと空を眺める。真っ暗で星もよく見えない。どこを見ても団地の屋根が目に入る。それくらいしか見えるものはない。団地の屋根はどれも灰色で同じ形をしている。団地の屋根以外に目に入るものは濃いグレーの空だけだった。
 ただ、空の隅の懐かしいものがあった。
 給水塔だ。
 小さいころからずっとある給水塔。昔は何のためにあるのか全くわからなかった。宇宙人との交信を行うための不気味な設備にも見えたし、この世界に進行して来る敵をキャッチするレーダーのようなものにも見えた。ただ、何に使われているのものかわからなかった。今は少なくとも、給水に必要なものだとはわかっている。
 そういえば、給水塔は変わらないな。昔から一緒だ。
 スーパーは閉店して、中庭は自転車で埋まって、駐車場は住宅地になって、林はショッピングモールになってしまったけど、給水塔は一緒。変わらない。あれだけのものが変わってしまったけど、変わっていないものもあった。
 他にも変わっていないものはあるかな。
 僕はぐるりと視線を回す。団地は一緒、変わらない。自動販売機、あまり変わっていない。電柱、電線、変わらない。ガードレール、歩道、街路樹、あまり変わっていない。芝生、少し変わった、小山がなくなった。
 こう見てみると、変わっていないものも結構あるな。
 それに鉄塔も一緒だ。
 団地の外れ、遠くに位置する鉄塔。あれも昔と変わらないままだ。空に向かって平然と立つ姿は、あの頃から変わらない。

 近くで見ると違うね、と君は言った。首を真上に向けて、鉄塔を見上げながら。僕もつられて、首を上に向けた。
 確かに遠くから見るのと、違った。
 下から見上げる鉄塔は、鉄塔ではないようだ。空に向けて積み重なる鉄骨は見たこともない姿をしている。甲殻類。銀河の中心付近にある、金属生命体が住んでいる星の蟹か海老。そんな生き物。そんな感じ。いまにも僕らを押しつぶそうと、空から降ってきそうな気配があった。
 僕が鉄塔から目を落とすと、君は歩いていた。鉄塔から落ちる電線の影に沿って、右手で抱えた写真集を大きく振り出し、足を踏み出していた。僕も置いていかれないように、君の背中を追いかけた。歩くたびにポケットの中で機械が揺れ、ズボンの生地越しに太腿を刺激した。もう慣れた感触だった。
 ちょうど退屈してきた頃だった。
 夏休みも中盤。団地の中の探索は終えていた。団地の中で僕らが行っていない場所はほとんどなかった。中庭も、秘密基地も、林も、とっくに探索を終えていた。僕らは退屈していた。団地の外に抜け出そうと、見たことがない場所を目指して歩いた。
 とても暑い日だった。でも、いくら汗をかいても気にはならなかった。乾いた風が吹いていた。すぐに汗は乾いた。空は綺麗に晴れていた。僕らの行く先のずっと遠く、青い空の真ん中にカキ氷のような巨大な入道雲があった。
 どこまでも歩いていけそうだった。
 僕らの足は止まらない。電線の影に沿って、たまに小石を蹴ったりして、歩いていった。小石は跳ねて止まったり。僕らは同じ小石を蹴ったり、違う小石を蹴ったりした。
 君は鉄塔にかかる電線を眺めながら、どこまで伸びているのかなと言う。僕は置いてかれないように歩きながら、どこまでかなと言う。山側ならきっと発電所に通じているね、と君は言う。でも、海側はわからないとも。じゃあ海側はどこに通じているのかな、と君は言い、僕らは電線の海側がどこに通じているのか考える。例えば工場とか。例えばビルとか。例えば倉庫とか。海のそばにありそうなものを僕らは片っ端から上げていく。終着点を想像する。しりとりのように思い浮かんだ言葉をつなげていく。船、と僕が言うと、言葉は途切れる。君は変なことを言うねと、クスリと笑った。陸から離れているとも。僕はじゃあと言って、灯台と言う。電線の先の果てにつながる灯台。電線の終着点。
 灯台か、と君は立ち止まる。
 うん、と僕はうなずく。
 いいね、と君は言って、また歩き出す。僕らは電線の影をなぞって進んでいく。団地の東側、普段行くことはない方に向けて。団地を越え、道路を越え、住宅街を越え、ファミレスを越え進んでいく。灯台までたどり着けそうな勢いで歩いていく。
 でも、僕らの探索はすぐに終わった。
 団地を出て、ファミレスを越え、住宅街を進むと、空き地と出会い、探索は終わった。電線は途切れていた。空き地の真ん中に鉄塔が一本立っていて、その先に鉄塔はなかった。電線はそこで終わりだった。電線は地面に向かって伸び、大きな機械とつながり、電線は機械の先の地面の中へと潜っているようだった。終着点だった。
 僕らは鉄塔を見つめた。
 空き地の真ん中に一本立つ鉄塔は、間違って作られたようだった。送電線を作るルートを間違え、誰かが途中で気づき、建設が中止になって、一本だけ残ってしまったように見えた。ポツリと一つ残された鉄塔は違和感があり、寂しそうでもあった。
 君は鉄塔を眺めながら、終わりだね。と言う。
 僕はうなずく。
 灯台まで通じていなかったね。
 うん、と僕は言った。
 残念だね。
 うん、と僕はもう一度言い、戻ろうかと続けて言おうとしたところ、君がねえと言った。
 何? と僕は言う。
 見て、と君は鉄塔の右側を指差す。
 君が指差した方に一台車が止まっている。車の脇にはドアに背中をつけ、しゃがんでいるおじさんがいた。頭を下げている。眠っているようだった。具合が悪そうにも見えた。何かを考えているようにも、悩んでいるようにも見えた。
 僕らはおじさんのそばまで行くと、大丈夫かと声をかける。おじさんは顔を上げると、僕を見て、君を見る。そして、笑顔を作る。大丈夫だと言う。本当かと君が聞き返すと、大丈夫だと、もう一度言って、おじさんは立ち上がる。お尻を両手で払うと、ちょっと休んでいたと言い、心配かけてごめんとも言う。その間、おじさんの笑顔は崩れなかった。口元は上がり、目じりは落ちていた。版画のような笑顔だった。いくつも深い皺が刻まれている。僕の親よりも年上に見えた。
 道に迷っちゃって、とおじさんは少し恥ずかしそうに言った。
 そうなんだ、と僕らは言った。
 君たちはここら辺に住んでいるのかい?
 僕らは首を横に振った。否定した。
 そっか。じゃあ、どこか行こうとしていたんだ。
 そういうわけじゃないけど、歩いていたんだ。灯台までいけるんじゃないかって思って。僕は言う。
 灯台? とおじさんは聞き返す。
 それは、と僕は口ごもる。なんて答えようか考えていると、君が電線に沿って歩いていたと言う。それに電線の先がどこにつながっているのか考えていたこと、そのうちの一つが灯台だと言うこと、そういったことを君は話した。おじさんは君の話をしっかりと聞いて、うなずいたり、感嘆の声を上げたりした。君の話をきき終えると、夢のある話だと言い、おじさんは微笑んだ。優しい顔をしていた。
 でも、ここで終わり、と君は言った。
 おじさんは鉄塔に顔を向け、本当だ。ここで終わりだね。電線は地面の中だ。と言う。
 うん、そうなんだ。終わっているんだよ。僕は言う。
 君は鉄塔からおじさんに顔を向け、地面に潜ったあとはどこに続いているのか知っているかときく。おじさんは考える。少し間が空いて、わからないと言う。僕らはがっかりする。大人でも知らないことがあるのかと。おじさんは申し訳なさそうにごめんと言う。じゃあと君は言い、海側の電線がどうなっているのか知っているかとおじさんにきく。おじさんはそうだなと、視線を細め、どこか遠くを見て、黙ったあと、ダメだと一言呟く。
 ダメ? と君は聞き返す。
 うん、ダメ。全然思い浮かばないな。想像つかない。海なんて何回も行っているのに、周りの景色も何度も見ているのにさ。電線の先に何がつながっているのか想像つかないんだよ。すっかり思い浮かばないな。何も頭に湧いてこないんだよ。
 全然思いつかない? と君は言う。
 うん、全然。きっとどこかに通じているんだと思うけどね。思いつかないな。記憶の中の海には何もないんだよ。電線の先もさ、何もないんだ。考えようとしても、どこにも通じていないんだ。
 そっか、と僕は言った。
 うん、ごめん。とおじさんは言った。少し悲しそうな顔をしていた。
 ただ、とおじさんは言うと、灯台だったらいい、とも言った。
 本当? 君はきく。
 うん、それは本当。灯台だったらいいと思う。地面の先に潜った電線がまたどこかで顔を出して、鉄塔をつたって、海まで続き、その先の終点が灯台だったらいいね。素敵だ。そうあって欲しいよ。
 そうかな。と僕らは言った。
 うん、そうさ。とおじさんは言った。
 僕らは笑った。おじさんも笑った。軽快な笑いだった。自転車で坂道を下るような軽い感じ。そして、僕らの笑い声が止むと、おじさんは僕と君を交互に見た。まるで間違い探しでもしているように見比べ、君たちは仲がいいね。と言った。
 君はうんと言った。僕はなんだか恥ずかしかった。
 それはいいことだよ。大切にしなよ。仲がいい友達も、友達といる時間も、大切なものだからさ。どこかで失くさないように大事にしなよ。
 僕らはおじさんを見つめてうなずいた。おじさんも僕らを見てうなずき返した。
 そうだと、おじさんは言うと、車のドアを開け、中を探り、車から出てきた。手にはカメラがあった。ボタンを押すとすぐに写真が出てくるタイプのカメラ。おじさんは僕らを見て、一枚どうかなと言った。
 いいの? と君はきく。
 いいよ。残り一枚だし。もう使うことはないしね。ここで出会った記念にさ。
 ありがとう、と僕らは言って、おじさんに向き直った。
 おじさんはカメラを構えて、行くよ、と言った。
 僕らは笑った。
 カシャリと音がして、カメラから写真が出てきた。亀の産卵のようにゆっくりと。おじさんは写真を取り、少し待ったあと、はいと言って写真を差し出す。君は写真を受け取る。僕らは写真を覗き込む。真っ黒。写真には何も写っていない。僕らは困惑して、おじさんを見つめる。おじさんは僕らを見て、見れるようになるには、もうちょっと時間がかかるかなと言う。
 そうなんだ。君は言う。
 うん、とおじさんは言って、僕らはありがとうと言った。
 ねえ、おじさんはこれからどうするの? と君はきく。
 そうだな、道を確認して、もう一度走り出すよ。今度は迷子にならないようにさ。
 そっか、たどり着けるといいね。君は言う。
 うん、ありがとう。今度はちゃんとたどり着くよ。
 うん、頑張って、と君は言った。
 僕らはおじさんに向かって礼をして、歩き出した。君は写真を写真集にはさんで、僕らは引き返した。団地を目指して歩いた。電線を逆向きにたどって。日は傾いて、世界は薄い黄色に染まっていた。レモン味の炭酸飲料のような色をしていた。夏の夕方の色だった。

 それを聞いたとき、何かの冗談かと思った。
 彼が海の向こうに行くと言い出したときの話だ。隊員達は彼が言っていることの意味を理解できなかった。冗談でも口にしているのかと思い、まともに取り合おうとはしなかった。現実的な話ではないと考えた。
 ただ、その日の夜、彼が海辺に放置された壊れたボートの修理を始めたとき、隊員達は理解した。彼が本気で言っていたことを、海の向こうに行こうとしていることを、全く冗談など言っていないことを理解した。
 もちろん、説得した。
 いままでの離脱者と同じように、隊員達は彼のことを説得した。考え直すように、とどまるようにと、ボートを直す必要もなければ、彼のやろうとしていることに意味はないと言い、彼に当初の目的を思い出させようとした。
 でも、彼は聞かなかった。
 それもいままでの離脱者と同じだった。彼が意思を変えることはなかった。ボートを黙々と修理した。小さな木製のボート。海の向こうを目指すには少し頼りないボートだ。それを彼は休むことなく一人修理した。
 さすがに不可解だった。
 黒い海の先には何もないことがわかっていた。黒い海を進んだとしても、外の世界にも戻れるわけもなかった。どこまで行っても行き止まりのはずだった。世界の果て、袋小路に向けて進むようなものだった。それでも彼は海の向こうを目指すと言い、ひたすらボートを修理した。この世界に残された数少ない資材を使って。淡々とボートを作り上げていった。
 誰もが彼の行為に意味はないと考えた。無意味なことだと。自殺にすら当たるのではないかと。でも、彼は変わらなかった。強い表情をしていた。何にも負けない固い意志があった。そんな彼の姿を見て、数人が手伝いを始めた。彼は申し訳なさそうに頭を下げ、手伝いを受け入れ、一緒に修理をした。彼を手伝う人は次々と増え、いつの間にか隊員総出でボートの修理をしていた。無言のまま黙々と。ボートが完成する頃には、彼を説得する人は誰もいなかった。
 朝になり、ボートが完成し、彼は出発した。黒い海に浮かんだボートに乗り込み、遥か彼方へと向けてボートを漕ぎ出した。真っ暗な世界を進んでいった。ゆっくりとボートは岸から離れていった。海の向こうへと向かっていった。真っ黒で、重い、タールの海を進んでいった。彼は力いっぱいオールを漕ぎ、重たい海をかき分けながら、遥か遠くの水平線を目指して進んでいった。海の果てへとオールを漕いだ。
 この世界に水平線はなかった。空と海の境目はなかった。
 海は黒くて、空も黒かった。
 どこまで行けば、終着点なのか全くわからなかった。それでも彼はオールを漕ぎ、ボートを進めていった。真っ黒なブラックホールのを目指して進む宇宙船のように、彼の乗るボートは進んでいった。
 彼の行動を理解していた人も誰もいなかった。理解していたのは、説得しても彼が止まらないことだけだった。それは隊の共通認識だった。
 残された隊員は海岸から彼のボートを見続けた。やがて彼が米粒よりも小さくなって、海の彼方に吸い込まれると、隊員は海岸を離れていった。誰も見なくなってから随分時間が経って、彼はこの世界から一人消えていなくなった。

 あれが最初だった。
 あの夏、団地から離れたのは鉄塔が最初だった。僕らが踏み出した、最初の団地の外の世界だったんだ。鉄塔がきっかけだった。あのあと、鉄塔以外も僕らはどこかに行ったんだ。次の日か、次の週か忘れたけど、団地から離れて、外の世界に出かけたはずだ。あんな感じで歩いて、どこかに行ったはずだ。
 どこに行ったんだっけ。
 映像が浮ばない。場所も浮ばない。単語の断片すら浮んでこない。どこかに行った。それは事実だ。ただ、事実だけが頭の中に残っている。具体的なことが思い出せない。きっとどこかに行ったはず。でも、考えても、思い出そうとしても、何も思い浮かばない。年表の中の出来事のように外に出た事実だけが僕の中に残っている。
 僕は携帯を手にしていた。無意識的にポケットから取り出していた。何かを探していた。当たり前のように何も見つからない。メールボックスや通話履歴、アドレス一覧を見ていた。でも、何も見つからない。携帯の中をいくら見ても、何も出てこない。僕が知りたいことは出てこない。出てくるはずがない。
 当然か。
 僕は携帯を閉じる。バス停にパチリと音が響き、静かになる。ガスコンロの火を消したあとのような無音だけがバス停に残る。他は何も聞こえない。
 もう一度、頭の中に意識を向ける。
 鉄塔以外の場所、団地の外。どこだっけ。どこかに君と僕で行ったんだ。それは間違いない。場所が思い出せない。どこか遠くを目指して歩いていったはずだ。君と僕二人で。団地の外、行ったことのない場所に行こうとしたんだ。僕は立ち上がり、歩き始めていた。頭の奥底を探りながら、足を動かす。記憶はあるはずだ。どこかに出かけた、それは事実だ。この団地の外に出たことは違いない。でも、思い出せない。つかめそうでつかめない。3D映像を手で掴もうとするように手ごたえがない。どこか遠くだ。確か、駅の向こう。駅の向こうに行こうとしたんだ。こんな感じ。こんな感じで、歩いて、遠くを目指したんだ。足早に、駆けるようにバス停から離れ、見慣れた場所からも離れ、どこか遠くへと進んでいったんだ。信号に気を配り、大通りを進み、横断歩道を渡り、どこまでも進んで行った。目的地を目指して、君と僕は団地の外へ向けて歩いたんだ。
 もう少し。
 そして、水のイメージが浮ぶ。
 そうだ、川だ。
 僕らは川に行こうとしたんだ。鉄塔の次に僕らは川を目指して歩いていったんだ。川の向こうに行こうとしたんだ。

 川に行こうよ。と君は言った。
 それを聞いて、アニメのことが頭に浮んだ。主人公とヒロインが川を渡る話が前日に放送されたから。それの影響、それで君は川に行こうと言い出したのかと思った。次に僕はどこの川かと考えた。いくら考えても、君がどこの川のことを言っているのかわからなかった。団地の近くに川なんてないから。どこの川か検討がつかなかった。どこの川かと君にきくと、駅の向こう、その先にある川のことだと君は言う。
 大分遠くの場所だった。
 駅は団地のバス停から出るバスの終点。私鉄の駅。団地に住んでいる人間にとって駅とはそこだった。そこだけ。その駅の向こうに川はあった。そのことは知っている。だけど川は駅から離れていた。団地からはずっと遠い。その川には生まれてから一、二回しか行ったことがなかった。何かの行事で行ったきり。それっきり。もちろん歩いていったことはなかった。僕は君の気持ちを確かめるように、あそこまで行くのかときくと、うんと君は答える。平然と。何も問題がないように。当たり前のことのように君は言った。仏像のように落ち着いた顔をしていた。
 歩いて? と僕は言う。
 うん、と君は言う。表情は変わらない。
 行ったことあるの?
 歩いては無いかな。でもいけると思うよ。そんなに遠くないと思う。
 本当?
 うん。ちょっと時間がかかるかもしれないけど、歩いても行けると思う。
 僕は団地から駅まで距離を考え、駅から川までの距離を考える。想像がつかなかった。歩いたこともなければ、考えたこともなかった。何十分かかるのか、何時間かかるのか、検討がつかなかった。
 行こうと、君の声がした。顔を上げると、君の顔があり、僕を見つめていた。真剣な顔で、どこか切実な顔をしていた。そしてもう一度行こうと、君は唇をゆがめる。僕が黙っている間、君は僕から視線を逸らさなかった。見つめていた。そして気づいたら、わかったと僕は言っていた。
 ありがとう。と君は言って、口元を吊り上げた。
 そうして、僕らは川を目指して歩き出した。バス停から続く大通りの先、駅の向こう、遥か遠くにある川を目指して歩いた。夏の午後の厳しい日差しの中、淡々と歩いた。団地のはるか南にある、海まで伸びている大きな川を目指して。

 もう二人だけになっていた。
 他の隊員はいなくなっていた。それぞれあるべきところに帰っていった。もう戻ってくることはない。残っているのは主人公とヒロイン、二人だけだ。画面の中には、この世界に入った頃の賑やかさはもうなかった。
 都庁までは残りわずかだった。
 川を越え、街を越え、地下鉄に乗り込み、暗いトンネルを進み、階段を上がれば、着くはずだった。何もなければ一日程度。それくらいで都庁にたどり着くはずだった。旅は終わりに近づいていた。
 川べりに二人のシルエットが伸びていた。二人は橋を探していた。河口から上流に向かって、橋を探しながら、二人は歩いた。黙って歩き、黙って探した。その間、不気味な生き物に出会うこともなければ、襲われることもなかった。川の近くには何もいなかった。何も起こらなかった。
 さっきから目に入る橋はどれも破壊されていた。爆撃を受けたように、橋の真ん中は粉々になり、両岸から延びる橋は出会うことなく、川の中に頭をつけていた。渡れるものではなかった。折れた橋の先には黒くて、重い、原油のような水が流れていた。海と同じ水だった。とても中に入れたものではなかった。何が潜んでいるかはわからなかった。足をつけることすらできそうもなかった。
 やがて大きな橋が目に入った。
 それは川を跨ぐように真っ直ぐに伸びていた。破壊されていなかった。遠くからでも、一目で問題がないとわかる橋だった。完全な橋。そばまで行くと、鉄道橋だということもわかった。橋の上には線路が乗っていて、川の向こうへと続いていた。橋は茶色く錆びていて、皺のような模様が入っていた。しっかりとしていた。この世界が暗くなる前のままの姿だった。いますぐに電車が走っても平気そうだった。
 二人は線路の上を歩き、橋を渡り、進んでいった。
 橋の上でも何も起こらなかった。いままで二人や他の隊員を悩ましていた生き物もいなければ、トラブルもなかった。ただの橋だった。誰もいない、電車も電気も通らない、線路がどこまでも続いているだけの橋だった。
 そのうち、大きな光が目に入った。
 橋の向こう、対岸の左手に光が見えた。瞬いて、消えることはない、強い光だった。黄色くはっきりと発光していた。何百万匹の蛍が一斉に輝いているようでもあった。
 おかしかった。
 この世界に存在しない光だった。あんなに大きく輝く光は見たことがなかった。光があったとしても、野営のときに起こす火や銃器の先端で起こる光、どこからか漏れるぼんやりとした光、不気味な生き物が死ぬときに発する断末魔のような光くらいだった。あんなに巨大で鮮明な光は見たことがなかった。
 二人はおかしいと感じた。ありえない光だとも。でも、足を止めることはなかった。二人は線路を歩き、橋を渡った。橋を渡ると、光はより大きく、強くなった。月が地球に墜落したような強い光を発していた。そして、気づくと二人は光に向かって進んでいった。吸い込まれるように歩いていった。
 そこは遊園地だった。
 巨大な光は遊園地の光だった。観覧車がゆったりと動き、ジェットコースターのレールが捻じ曲がり、メリーゴーランドは回転し、大きな海賊船が空を駆けていた。遊園地の中のアトラクションや建物から、巨大で、鮮やかな光がばら撒かれていた。
 誰もいない無人の遊園地が二人の目の前に存在していた。
 
 僕らは歩道からはみ出さないように、真っ直ぐと進んだ。
 いつもならバスの窓から眺める道路を、僕らは歩いている。単調で見覚えのある道路。定規で線を引くように真っ直ぐ僕らは歩く。いくつも家を通り過ぎ、信号待ちをして、横断歩道を渡り、何度も自転車に追い抜かされながら、歩いていった。迷うことはなかった。
 その日も、君は写真集を片手に持ち、僕は機械をポケットに入れていた。
 それは決まりごとだった。
 探索にはなくてはならないものになっていた。探索で使うことは一度もない。それでも僕らは手放すことはなかった。いつも持っていた。警察官にとっての警察手帳であったり、お医者さんにとっての聴診器であったり、校長先生にとっての朝礼であったりした。それは僕らに必要で、大切なものだった。
 一時間近く歩き、僕らはたどり着いた。巨大なビルが立ち並ぶ駅前大通に。目に見えるどのビルも真新しく、綺麗で、無機質で、中に人がいることなんて考えられなかった。ビルは大通りを取り囲むように立っていて、大通りの一番奥には駅があった。駅は前面ガラス張りで、銀色にぎらついている。駅も人の気配を感じさせなかった。真新しく、綺麗で無機質な建物だった。
 滅多なことでは来ない場所だった。
 何か特別な日、クリスマスとか誕生日とかに食事をしたり、正月に祖母の家に行くときくらいしか用のない場所だった。
 この日も用はなかった。
 僕らは駅の近くまで行くと、そのまま体を左に向けて、横滑りするように線路に沿って歩いた。巨大なビルも、銀色に輝く駅も、この日は僕らに関係のない場所だった。僕らの目的地ではなかった。
 駅の横の立体交差。そこに用があった。
 駅の反対側に行くためにはそこを通る必要があった。日中でも薄暗く、車通りが激しい場所だった。電車が線路を揺らす音が騒がしくて、酒の空き瓶だったり、汚い雑誌だったり、酔っ払いだったりが道端に転がっていそうだった。犬の小便のあともあったりする。いつでも事故が起きそうな雰囲気があり、あまり通りたくはなかった。でも、他の道はなかった。そこしか駅の向こうに行く道はなかった。
 僕らは立体交差まで行き、線路の下を潜り、駅の反対側へと進んだ。立体交差を通る前も、通っているときも緊張した。僕らの歩幅は大きくなり、普段よりも速く足が動いた。でも、何も起きなかった。何事もなく立体交差を通り過ぎた。僕ら以外に歩いている人はいなくて、何かが起きる要素はなかった。緊張は立体交差の中に置いてきぼりにされた。
 立体交差を抜けると、見知らぬ繁華街が広がっていた。
 沢山のビルが生えていた。ただ、駅前のビルとは違っていた。どれも背が低く、薄汚れていた。色とりどりの看板がビルに寄り添うように並んでいた。看板にはローマ字や難しい漢字、抽象的な記号が絡み合い、何かを伝えようとしていた。だけど、何を伝えようとしているかはわからなかった。ビルと同じように汚れていることだけはわかった。空は電柱と電線と道路標識に遮られていて、よく見えない。道の端には大きな黒いゴミ袋が捨てられ、カラスがゴミ袋をつついて破り、袋からこぼれたゴミを鳩が漁っていた。乾いた吐しゃ物がしなびた花火のように地面に広がり、猫が数匹群がり、地面を舐めていた。猫の中の一匹はビルに写る自分の姿をじっと見つめていた。何もかもが馴染みがなかった。見たことも、来たこともない場所だった。
 僕らは止まった。
 僕は街を眺めたまま、大丈夫かと君にきく。僕は君を見る。少し不安だった。君は街をじっと眺めている。表情はなかった。歩道の横の道路を何台も車が通り抜けた。どの車も凄いスピードを出していた。何かに追われているように走っていた。車の騒音を縫って、大丈夫と君の声が聞こえた。優しい、安心する声だった。僕は君の声を聞き、うなずき、足を踏み出した。そして、僕らは見知らぬ街の奥深くへと進んだ。川を目指して歩いていった。
 細かい道筋は知らなかった。
 線路に対して直角に進めばいいということだけわかっていた。それ以上のことは僕らは知らない。川に行くための具体的な道筋なんて知らなかった。でも、直角に進んでいけば、いつかたどり着くことはわかっていた。
 ただ、うまく行かなかった。すぐに思うように進めなくなった。
 直角に進んでも道は真っ直ぐ続いていなかった。T字路にぶつかったり、行き止まりだったり。そのたびに僕らは進路を変えた。何度も左右に曲がったり、戻ったりした。進んでいくうちに、駅に対して直角かどうかわからなくなった。直角かどうかは勘で判断するしかなくなった。
 駅から離れるほど、僕の不安は大きくなり、たびたび大丈夫かと、君にきいた。君はそのたびに大丈夫と言った。何度もこのやり取りを繰り返した。僕が確認するたびに、君はうなずいて大丈夫と言う。自分自身に言い聞かせているようでもあった。僕らは互いに励ましあって、まだ大丈夫だと確認して、進んでいった。
 駅の反対側は、僕らの知らない大人の街だった。
 街にいる人たちは団地の中にいる人と違った。忙しなく、鮮やかで、そして騒がしく、暇がなかった。見知らぬ人が視界に入っては消え、また別の人が視界に入っては消え、また入り消えた。次々に人が現れては消えていった。誰もが知らない人だった。でも、どこか似ていた。違いがわからなかった。街中にいる人たちは万国旗のように多彩で、個性があり、どこかありふれていた。僕らは人々に気を払い、街に気を払い、慎重に進んだ。もう少しで川にたどり着くと考えながら、街を進んでいった。でも、いつまで経っても川にはたどり着かなかった。川に近づく気配がなければ、土手や川に掛かる橋が見えることもなかった。
 やがて賑やかさがなくなり、住宅が目に入るようになった。繁華街の外れまで僕らはやってきた。辺りは閑散としていた。住宅の中に埋もれるように小さな公園があった。団地の公園よりも小さかった。ベンチ一つ、滑り台一つ、置くのがやっとという広さだった。
 少し休もうと君が言い、僕はうなずいた。膝は堅くなり、足の裏の感覚は消えていた。休むにはちょうどよかった。大分疲れていた。
 ベンチに並び、僕らは座った。君は写真集をベンチの上に置いて座った。しばらくして、僕らは喉が渇いていることに気づいた。僕らは家を出てから何も飲んでいなかった。でも、汗が止まることはなかった。あと少しで体中の水分が全て出尽して、僕らは枯れ果てて、ドライフルーツにでもなってしまいそうだった。いますぐに何か飲みたかった。
 僕らはお金を出した。財布から、ポケットから、持っているお金を全て出した。二人合わせてペットボトル一本分。それしかなかった。ジュースを一本買った。二人で分け合うことにした。青いソーダだ。テレビで見る海のように真っ青な色をしていた。
 僕はペットボトルのキャップを開けながら、遠くまで来たねと言い、うんと君は答える。こっちの方に来るかと僕がきくと、ほとんど来ることはないと君は言う。僕ら二人とも、駅の反対側にまともに来たことがなかった。
 ここは初めての、未知の世界だった。
 キャップが外れると、僕はソーダを一口飲み、君に渡す。君はソーダを受け取り、ペットボトルに口をつける。ソーダを飲む君を見ながら、川に近づいているかなと僕はきく。君はペットボトルを口から離して、きっと近づいていると言い、大丈夫、もう少しで着くとも君は言う。君はソーダを僕に渡して、僕はソーダを飲む。ゆっくりとソーダが喉元を通り過ぎる。刺激的で、痛くて、甘かった。僕らは大切にソーダを飲んだ。時間をかけて、少しづつ。
 その日、君の口数は少なかった。僕が話しかけない限りは、口を閉じて、どこかを見ていた。何かを考えていた。僕も君の様子を見て、黙った。少し沈黙の時間があって、僕は前から疑問に思っていたことを思い出した。何で川なのかということ。そして、それはいつの間にか言葉となって、僕の口から出ていた。何で川なの、と。
 うん、と君は言い、ペットボトルを握りしめ、口を閉じた。
 あの回? この前やっていた。
 それもあるかな。
 他に何か理由があるの? と僕はきいた。
 君は口を閉じたまま、公園の隅を見ていた。公園の隅には茶色い猫が一匹いた。猫は日向で寝転び、目を瞑っていた。僕らのことなんて興味がないようだった。少しすると、猫は日向ぼっこに飽きて、どこかに立ち去った。公園には僕ら以外いなくなった。そして、君は口を開いた。
 見たいところがあって。
 そう言うと、君はペットボトルを口につける。残っていたソーダを飲み干し、行こうと言った。僕はうなずいて立ち上がる。僕らは再び歩き出した。結局、君がどこを見たいのか言わなかった。そのこともすぐに頭の中から消え去った。
 公園から出て、僕らは繁華街へと戻った。公園は川から離れている気がしたから、道をリセットするように、駅の近くまで行き、また直角に進みはじめた。
 街中にいる人は多くなっていた。スーツを着たサラリーマンや、茶色い髪をした若い人や、綺麗な女性が増えていた。僕らは人の間を縫うように歩いた。だけど、いくら歩いても、川にはたどり着かなかった。駅から随分歩いているのに、遠いところまで来ているのに、直角に進んでいるはずなのに、一向に繁華街は終わらなかった。川にたどり着く気配はなかった。川は本当にあるんだろうか? そう思ってしまうほど、川に近づいている様子はなかった。どこまで進んでも、見知らぬ街が続くだけだった。
 前を歩く君を見て、僕はあることに気づいた。足りていなかった。
 ねえ、と僕は君に声をかけて、立ち止まる。
 何? と君は言うと、振り返り、足を止める。
 写真集は?
 君は一瞬固まり、嘘と言い、両手で体中を叩き出した。神経質そうに体を叩いた。君は細かく瞬きながら、何度も嘘と言っていた。割れたコーヒーカップのように不安定な顔をしていた。初めて見る君だった。ここまで取り乱している君は見たことがなかった。感情を出している君も、こんなに不安そうな君も見たことはなかった。
 さっきの公園かな? と僕はきいた。
 そうかも知れないと君は言った。体を叩くのを止め、君はTシャツの裾をじっと掴んでいる。きっとそうだとも君は言った。切羽詰った様子だった。君を見て、僕は戻ろうと言い、すぐに僕らは歩き出した。出発した。駆けるように歩き、急いでさっき来た道を戻り始めた。
 大分、日は傾いていた。
 空は黒く汚れ、街中は薄暗くなり、街灯や看板がぼんやりと輝き始めた。人は多く、速くなり、僕らは色々な人やものとすれ違いながら歩いた。嗅ぎなれない匂いのする女性、大きな音を鳴らして走る車、けばけばしいネオンの明かり、見知らぬ誰かに声をかけ続けるスーツの男、霧のような煙がどこからか立ち昇り、街中は騒々しく沸き立ち、遠くから電車が線路を揺らす音が聞こえ、車のクラックションが響き、多くの人が一斉にコンクリートを踏み鳴らし、誰かと誰かの話し声が聞こえ、日本語ではない言葉が飛び交っているようだった。高架を潜ったときとは全く別の街だった。夜の顔が出始めていた。僕らは下を向き、駆け足で歩いた。早くこの街から抜け出したかった。
 でも、いくら歩いても公園には着かなかった。
 この街に来たときと、状況が変わっていた。日が沈むにつれ、街は元の姿を消した。日が落ち、夜の明かりが輝きだすと、そこは別の街だった。一度も来たことがない街に変わっていた。最初に高架をくぐったときとは別の街に僕らはいた。どこに進めば公園に着くのかわからなかった。歩いても、歩いても、公園は見つからなかった。時間だけが過ぎていった。君は何度もどうしようと言って、そのたびに僕は大丈夫と言った。君はあちこちに顔を向けて、僕は公園のことを思いだそうとしていた。ソーダを飲んだ公園のことを考えた。もう何年も前のことのようで、公園までの道筋が思い出せなかった。ただ、僕はあることを思い出した。そして、声に出していた。公園って静かじゃなかった? と。
 うん、と君は言った。
 だから、静かなほうを目指すのはどうかな。静かな方に行けば、公園も見つかるかもしれないよ。
 それはとても現実的な方法ではなかったかもしれない。苦し紛れの一言だったかもしれない。ただ、不安そうな君を見ていると、僕は何でもいいから言わなければいけない気がした。そして、君を見つめて、僕は言った。
 大丈夫、行こう。きっとうまく行くよ。
 君は僕を見て、うんとうなずいた。
 それが正しいかどうかわからなかった。でもそのときはそれしかなかった。だから僕らは静かなほうへと向かっていった。街の明かりとは反対側、駅とは違う方向へと歩いていった。落ち着いて、街の中を見て、どこか見覚えがある場所がないか探しながら、進んでいった。いつの間にか僕の左手の中には機械があり、右手には君の手があった。僕は両手をギュッと握り締めていた。僕らは歩いた。大丈夫だと、きっと見つかると言って、互いの体温を感じながら、歩いていった。
 静かな道を選んで歩いていくと、騒音は小さくなり、ネオンの光も少なくなってくる。道を照らしているのは街灯の光だけになる。どこか僕らの団地にあるような静けさが周りに戻ってくる。そして、見覚えのある道と僕らは出会った。慎重にその道をたどって行く。記憶にあるように進むと、公園があった。ポツンと佇んでいた。僕らがソーダを飲んだときと変わっていない。相変わらず公園には誰もいなかった。猫もいなかった。君はすぐにベンチに駆け寄り、ベンチの上に置かれた写真集を手に取り、よかったと言いながら、写真集を抱きしめた。
 よかったね。僕は言う。
 うん、ありがとう。
 君の顔からさっきまでの不安は消えていた。君はとても安らかな顔をしていた。それもいままで見たことがない顔だった。いつものしっかりとした君の顔とは違っていた。見ていてほっとする、柔らかい顔だった。
 セミの声が聞こえてきた。
 どこか遠く。公園とは別の場所。街中とは反対の方向から、セミの声が聞こえた。地面の上を低く飛ぶようにセミの声は聞こえ、僕らの周りに広がった。辺りは真っ暗。公園の街灯がポツリを僕らを照らすだけだった。もう街中の雑音は聞こえなかった。
 その日、川には着くことはできずに、僕らは家へと帰って行った。家についたのは随分遅くなってからだった。凄く怒られたのを覚えている。家についたのはもう夕飯が終わるくらいの時間だった。
 その日から、君は写真集を持ち歩かなくなった。
 そして、僕は家に帰って、機械をどこかに落として、無くしてしまった。機械はメッセージを受信することなく、僕のそばから消えてしまった。

 その日の夜、僕はそれに会った。
 それが何かはわからない。ただ、なんて呼べばいいのかわからないから、それと呼ぶことにした。宇宙人だと突飛すぎるし、化け物だと曖昧すぎるし、幽霊だと現実感がなさすぎるから。それと呼んでいる。それとはベッドで出会った。僕が夢と現実の間にいたとき、それは僕の目の前に現れた。
 中々寝付けない夜だった。
 一日中歩いて疲れていたのに眠れなかった。体中から力が抜けて、すぐにでも眠りたかった。早く暗闇の世界に落ちたかった。でも、眠れなかった。神経はぎらついて、僕が暗闇の世界に行くのを妨げていた。両親にたっぷりと怒られたせいか、街中を探索した興奮のせいかわからない。眠れなかった。いくら暗闇の中で目を瞑っても、寝付くことができなかった。
 僕の部屋の電気が全て落ち、両親も寝室に篭って静まり、僕の家が真っ暗になり、夜が更けて、やっと僕の神経は落ち着き、意識が曖昧になった。暗い沼の底に沈み込むように僕は消えかけた。
 そのときだった。
 どこからか音が聞こえた。
 遠くからだ。かすかな音。はじめは窓の向こうから聞こえ、気づくと僕の部屋に入り込み、音は僕の耳元までやってきた。誰かのささやきのようなものだった。それともラジオから流れるノイズのようなものだったかもしれない。僕の意識の外側から、意識の奥、僕の内側に向けて、ざわめきが入り込んできた。音が聞こえると、さっきまで曖昧だった僕の意識が暗闇の中から浮かび上がり、はっきりとした。そして、音は聞こえなくなくなった。耳元で響いていたあのざわめきはどこかに消えていた。暗い部屋の中には何も音はしていなかった。無音だった。でも、僕は音の正体を確かめるように目を開けた。
 すると、真っ黒い塊が目に入った。
 人のシルエットをした大きな黒い塊。大人の男の人くらいの背丈だった。大きくて、威圧感があった。ベッドの横、僕の枕もとに立ち、じっと僕を見つめていた。顔はない、目もない、口も鼻もない、だけど、僕を見つめていたことは間違いなかった。そのことだけはわかった。それは僕に顔を向け、じっと僕を見つめていた。
 心臓が止まりそうだった。
 のっぺらぼうの顔も、黒い体も、無音の僕の部屋も、何もかもが気味が悪かった。背骨に沿って、ぬるい汗がじわりと吹き出た。パジャマが湿った。関わりたくなかった。直視したくなかった。すぐにそれから逃げ出して、背を向けて、また目を閉じ、暗闇の中で眠り続けたかった。
 でも、目を閉じることはできなかった。
 瞼が動いてくれなかった。視線をずらすことも、頭の位置を変えることもできなかった。体を動かすこともできなかった、指先一つ、足一つ、何一つ言うことを聞いてくれなかった。僕の体は他人の体のようだった。どこも動かなかった。脳と体を結ぶ神経の中央道路に事故か渋滞が起きているようだった。それを見つめる以外のことは、僕は何もできなかった。
 僕とそれはじっと見つめあった。
 何十秒か、何分か、何十分か、正確な時間はわからない。僕とそれは向かいあい、視線を交わしていた。何も言わず、ずっと。僕は恐怖を感じながら、それは何を感じていたのかわかないまま、互いに顔を向けていた。
 ただ、何も起こらなかった。
 いくら時間が経っても、それは何もしなかった。何も言わなかった。全く動かなかった。僕に視線を向けるだけで、何かをすることはなかった。閉店後のデパートのマネキンのように突っ立ているだけ。僕に危害を加えるようなことはなかった。
 それが何もしてこないことがわかると、頭の中を埋めていた恐怖は溶けていき、頭の中はすっきりとし、冷静にそれを見ることができるようになった。それの細かい様子がわかった。それが黒いカーテンのようなものを頭からすっぽりと被っていることや、足はなく宙に浮いていること、窓の外から吹き込む風を受けて全身の形を変えていること、ただ頭だけは変形することはないこと、そんなことがわかった。
 そして、僕の瞼はゆっくりと閉じていった。僕の意識とは無関係に、終演したあとの劇場のカーテンのように、ゆっくりと瞼は落ちた。僕の意識は再び暗闇の世界に消えていこうとした。
 僕は必死に逆らった。
 何故だがわからない。さっきまであんなに怖くて、逃げ出したかったのに、僕はそれを見ようとした。落ちる瞼に反抗して、消える意識をたたき起こそうとして、必死に瞼に力を入れ、目を見開こうとした。それを見ようとした。
 でも、無駄だった。
 僕の視界は真っ暗になった。
 次に意識が戻ったとき、部屋は明るくなっていた。カーテンの隙間から朝日が漏れていて、部屋の中を照らしていた。部屋の中にそれはいなかった。見当たらなかった。部屋にいるのはベッドの上の僕だけ。他には誰もいなかった。夜中のざわめきも、黒いカーテンも存在していなかった。それは綺麗に消えていた。
 夢、と僕は結論づけた。
 ただ、そのあとも何回かそれを見ることがあった。そのたびに夢として僕はそれを片付けた。深くその存在を考えようとしなかった。真っ黒い、僕の無意識から出てくる夢だと思い、やり過ごした。
 
 川の向こうに君の父親の職場があったことを知ったのは、大分あとだった。
 中学校に入ったころ、人づてにその話を聞いた。そして、君の父親が団地から離れたという話もそのころ聞いた。それも人づてに聞いた話だった。
 君の父親がいなくなった詳しい理由は知らない。誰かから最近見かけないねと言われて、そのことを意識し、そういえばと僕は気づいた。君からそのことを聞くことも、君にそのことをきくこともなかった。いなくなったという事実を人づてに聞いただけだった。
 以前は2、3週間に一度、君の父親を見かけた。団地の中や階段の下で。面識はあったし、何度も話をしたことがあったから、顔を合わせば会釈をして、挨拶をした。僕にもそれくらいの関係はあった。
 僕が中学生になると、君の父親を目にすることはなくなった。団地の中を歩いても、君の家の階段の下を通っても、君を見かけても、どこにも君の父親はいなかった。見かけなくなった。夕暮れが来ていつの間にか影が見えなくなるように、君の父親は消えてしまっていた。もう団地には住んでいないようだった。
 同じころ、君の父親の職場が川の向こうにあったことも誰かから聞いた。君の父親がもうそこには行っていないことも、その職場がなくなったことも人づてに聞いた。君に直接聞いたものはなかった。全ての話は噂のような形で誰かから聞いた。
 川の向こうの自動車修理工場。
 それが君の父親の職場だった。僕はその工場が稼動しているところを実際に見たことはない。跡地を一度通り過ぎたことがあるだけ。工場がなくなってからのことだ。僕が通ったとき工場の面影は一切なかった。ただの空き地だった。
 そのころ、君と話した記憶はない。
 中学生に上がって、君と僕は違うクラスになった。顔を合わす機会はなくなり、話すことはなくなっていた。挨拶を交わすことすらなくなっていた。それは自然なことだった。顔を合わせることがなくなるだけではなく、行動する場所や時間も変わったから、話さなくなるどころか、関わり合いすらなくなることは当たり前のことだった。
 ただ、君のことは気になっていた。
 関わりがなくなっても、君の噂は聞いた。いくつも聞いた。僕の耳に入ってきた。君が部活に入ってすぐに辞めたとか、部活を辞めたあと何もしていないとか、それに学校を休みがちになり、よく一人でいるとか聞いた。全て人づてに聞いた話だった。
 一度、僕は君と話そうとしたことがある。
 慣れないクラスの前まで行き、教室の入り口から君の姿を探した。窓際の席に君は座っていた。じっと窓の外を眺めていた。何も考えていないようだった。空っぽの顔をしていた。誰にも興味がないようで、空を見つめていた。この世の全てのことが君に関わりのないことのようだった。
 僕は話しかけることが出来なかった。
 別のクラスだから教室の中に入りづらいこともあったと思う。ただ、君の様子を見て、僕は話しかけることを躊躇した。そして、始業のチャイムがなり、僕は教室から離れていった。それっきりだった。それ以降、君の教室に近づくことも、君と話そうとすることもなかった。その日が最初で最後だった。
 次に君について聞いた話は、君が年上の男と付き合っているという話だった。それも20歳を越えるような男と。どこで知り合ったのかはしらない。どんな男なのかも詳しくは知らない。二人で歩いているところを見たという話を聞いた。いかがわしい場所から出てきたとも。何度もその話を聞いた。それから君がとても遠い人のように思えた。いつの間にか、僕と君の距離は開き、別世界の人のようになってしまった。もう話しかけようとすることすらなくなっていた。
 そして、時間は過ぎていった。日めくりカレンダーを急いでめくるように中学校の日々は過ぎていった。君と僕は会話を交わさぬまま、中学校を卒業した。

 君の父親の思い出話は他にもある。お祭りのこともその一つ。小学生になってすぐ、君の父親につれられて行ったときの話だ。
 団地の隣町にある神社のお祭りだった。
 君の父親に手を引かれながら、僕らはまばらに染まった空に向けて足を進めた。空は鮮やかな色に染まっていた。ピンクやら、蛍光緑やら、橙色やら。爆撃されたようにぽっかりと空は輝き、僕らを導いていた。
 君の父親の手をよく覚えている。
 僕らを引くその手は大きくて、ごつごつしていて、温かかった。僕は遠慮がちに手を握って、君は甘えるように手を握っていた。両親以外で初めて知った大人の手だった。手を握っているだけで安心できる、不思議な手だった。
 お祭りに行くのはその日が生まれて初めて。祭囃子も初めて聞いた。神社に近づくたびに、和太鼓の音が頭の中に響き、異世界に近づいている気がした。これから行く世界への想像と期待が膨らんだ。ちょっとした不安もあった。でも、右手に感じる君の父親の手が僕の不安をどこか遠くに連れ去ってくれた。
 神社につくと、そこは別世界だった。
 僕らの前に広がる世界は光が溢れ、音が弾けていた。灰色の煙が漂い、何かが焦げる匂いがした。タバコの匂いもした。笛の音が聞こえた。太鼓の音も。祭囃子のリズムに合わせて誰かの足は動いた。右へ、左へ、前へ、先へと。何百もの足が神社の中を動き回っていた。屋台にぶら下がった何千個の電球が弾け、光を撒き散らし、光の中からはざわめきが聞こえた。楽しそうな声と呼び込みの声と砂利をする音と赤ちゃんの泣き声。音と光と匂いが混ざり合って、一つのうねりになり、鮮やかな浴衣の合間から流れてきた。途切れることなく、ずっと流れてきていた。
 初めて出会うものばかりだった。
 目に入るもの、耳に入るもの、鼻の奥に入るもの、全てのものが新鮮で珍しかった。どこか外国にいるような気がした。光と音と匂いの洪水が僕らを遠くに運んでいった。一歩、一歩、中に踏み込んでいくたびに、いつもの世界から離れていき、僕らは見知らぬ世界へと、混沌とした世界へと入り込んでいった。
 お祭りに来ている大人たちもいつもとは違う様子だった。宙に漂うように歩いて、どの大人も僕らが見たことのない表情をしていた。みんな笑っていた。どこか生々しく、そわそわしていた。何かを期待するような、運動会の前日のような顔をしていた。
 境内に入ると、君の父親は僕らの手をほどいた。そして、自分にビールを買い、僕らにいろいろなものを買ってくれた。あんず飴だったり、チョコバナナだったり、丸焼きにされたイカだったり、ブルーハワイだったり。どれも食べたことはなかった。僕らは大切に食べたり、飲んだりしながら、祭囃子の中を歩いていった。
 境内に入って少しして、君が向こうに行こうよと僕を誘った。君は祭りの雰囲気に酔っているようだった。ふらついていた。君が指差す先には神社の本殿があり、真っ暗で、誰もいなかった。そこだけが舞台袖のように世界から切り離されていた。
 僕が躊躇い、どうしようか考えていると、君は駆けていった。君の父親に気づかれぬようにそっと。お祭りの中から抜け出して行った。僕も置いてかれないように、すぐに君を追いかけた。
 本殿のそばまで行くと、光は弱くなり、祭囃子の音は小さくなった。鮮やかな境内とは違う世界だった。本殿の輪郭は暗闇の中に溶けていて曖昧だった。どこまでが建物で、どこまでが夜闇なのかわからなかった。地下室の入り口のような暗闇が僕の目の前に広がっていた。
 そして、君の影は暗闇の向こうに消えていった。本殿の裏側に、温かいコーヒーに砂糖を溶かすように君は消えた。僕も君の影を追って、本殿の裏へと行った。
 本殿の裏で君はじっとしていた。立ったまま、顔を下に向け、地面の上の何かを見ていた。顔も体も手も足も動かさず、君は注意深く何かを見つめていた。僕に気づかないほど夢中になって下を向き、何かを見ていた。
 僕も君の隣まで行き、君の視線の先を追った。君の視線の先には小山があった。30センチほどの小さな山。何かが重なり小山を作っていた。よく見えない。何が重なっているのかわからない。立ったまま確認するには、辺りは暗すぎた。
 僕はしゃがみ、小山を見る。
 5センチほどだった。積み重る何かは5センチほどの大きさだった。流線型よりも少し複雑な形。ミニカーのような大きさ、形をしている。それがいくつも積み重なり小山を作っていた。ただ、それが何かはわからなかった。もっと近づく必要があった。
 僕は何かを確認しようと、小山に顔を近づける。目を凝らす。
 それはセミだった。セミの死骸。セミがいくつも積み重なり小山を作っていた。目の前にあるのはセミの死骸の塊だった。歩道に落ちた枯葉を箒で掃いて、隅っこに集めたように、こんもりと死骸が積み重なっていた。どのセミも生きていないようだった。でも、小山の中のセミの足はいまにも震え、羽が小刻みに動き、喉の奥から耳障りな鳴き声がしてきそうだった。実際は何も聞こえてはこなかった。セミは一匹残らず死んでいた。電池の切れたラジコンのように止まっていた。
 僕は気づくと君の手を握り、何も言わず、元の道を戻っていた。駆け足で。早くその場から離れようとした。君の手はやけに軽かった。まるで体重がないようで、存在していないようでもあった。君は手を引かれるだけ。何も言わなかった。風船を引くように僕の手には重みがなかった。
 境内に戻ると、元の騒がしい光の世界が広がっていた。祭囃子が賑やかで、まるでテレビの中にいるみたいだった。
 すぐに僕らは君の父親と再会した。
 君の父親はとても心配そうな顔をしていて、僕らの顔を見た途端、僕らを怒った。でも、怒ったあと、笑顔で手をつないでくれた。とても優しい顔だった。温かい匂いがした。そして、僕はひどく安心したのを覚えている。

 君の父親とは、僕が高校生のころに会ったのが最後だった。
 そのとき、僕は駅前のビルの本屋で彼女を待っていた。家の近所で一番大きい本屋。そこが待ち合わせの場所だった。当時、よく待ち合わせや時間つぶしに使っていた本屋だった。学校の帰り道にあり、僕と彼女の家のちょうど中間地点にあったから。使いやすい場所だった。
 そのころ彼女と付き合ったばかりだった。だからか、実際の待ち合わせ時間よりも、僕は早く待ち合わせ場所に行くことが多かった。その日もそうだった。僕は少し早めに本屋に行って、立ち読みをして、時間を潰していた。
 伝記のコーナーに僕はいた。特に伝記に興味があったわけではない。上りエスカレーターの真正面が伝記のコーナーだったから、彼女が上ってきたらすぐにわかるようにと、僕はそこにいた。伝記のコーナーで立ち読みをしていた。
 読んでいたのは、ある写真家の本だった。
 写真家の名前は覚えていない。本のタイトルも覚えていない。ただ、本の内容はいまでも覚えている。強く印象に残っている。時間つぶしの立ち読みにしては興味深い内容だったから、十年近く経っても頭の中に残っている。
 チェレンコフ光についての本だった。
 正確にはチェレンコフ光に魅了された写真家についての本。ある写真家がチェレンコフ光に取り付かれ、命を懸け、体中がボロボロになるまで追いかけ、写真を撮った。最後には全身の細胞が破壊され死んだ。忍び込める原発に忍び込み、数百枚のチェレンコフ光の写真を撮り、この世を去った。取材回数はわずか数回程度で、活動期間は三年ほど。彼が撮った写真はスイスの小さな出版社から出版され、全世界で100冊ほど売れた。金額にするとその時の平均的なスイス人の月収とほぼ同額だった。
 大した結果は残らなかった。
 でも、彼は文字通り命を懸けて写真を撮った。その生き様と写真が後世に評価され、話題になり、熱心な研究家が現れ、カルト的な人気を誇るようになり、その生き方はある種の理想とされ、彼の伝記が出版されることになった。
 そんな内容だった。面白いというよりかは、どこか惹かれるものがあった。ゆっくりと時間をかけて、丁寧に読みたかった。ただ、時計を見ると、待ち合わせの時間は過ぎていて、彼女はまだ来ていなかった。
 僕は伝記を本棚に戻して、彼女を探すことにした。本屋の中を歩き回った。彼女がいそうなファッション雑誌のコーナーだったり、参考書のコーナーだったり、料理本のコーナーだったり、本屋の中を駆け回り、彼女を探した。
 でも、彼女は見つからなかった。
 代わりに別の人を見つけた。
 君の父親だった。海外旅行のコーナーにいた。
 数年ぶりに君の父親を見た。最後に見たのはいつかわからない。久しぶりに見たことに間違いはなかった。君の父親は記憶にあるよりも少し老けていた。白髪が増えたり、皺が増えたりしていた。でも、基本的には変わりはなかった。優しそうな君の父親だった。
 ただ、一緒にいる人は変わっていた。
 知らない女性と一緒にいた。君でも、君の母親でもない、僕の知らない女性と一緒にいた。仲良く手をつなぎ、海外旅行の棚を端から順に見ていた。どこか旅行の計画を立てているようだった。楽しそうに話していた。
 横からその光景を見て、君の父親とわかったとき、僕はすぐにその場から立ち去ろうとした。何かをしたわけでもないのに、何か僕は悪いことをしている気がして、そこから離れようとした。ただ、離れることはもっと悪いことのような気がして、僕は離れることはできなかった。足が動かなかった。数十秒、僕は横から君の父親と一緒にいる女性を眺めていた。そして、君の父親の頭が動き、僕と目が合った。僕は会釈をした。反射的に、パブロフの犬のように。昔と同じように頭を下げた。君の父親から目は逸らすためだったかも知れない。僕は頭を下げていた。
 何も返ってこなかった。
 君の父親は僕にも、僕の会釈にも気づかなかった。あるいは気づいていて、知らん振りをしたのかも知れない。でも、僕が誰だかわかっていないようだった。何も反応はなかった。君の父親は一緒にいる女性と歩き出すと、僕に気を払うことなく、僕の脇を通り抜け、エスカレーターに乗り、本屋の外へといってしまった。戻ってくることはなかった。
 その間、君の父親は女性とずっと手を組んでいた。とても仲のよさそうに、親密そうに、幸せそうに手を組み歩いていた。それを見て、心の隅の何かが剥がれ落ちた。でも、それが何かはわからなかった。ただ、剥がれる音だけが聞こえた。
 ポケットの中で携帯が震えていた。新着メール。彼女からで、30分ほど遅れると書いてあった。すでに待ち合わせ時間からは10分以上過ぎていた。
 僕はまた伝記コーナーまで行き、さっきの本を探した。だけど、さっきの本はどこにも置いていなかった。誰かに買われてしまったようだった。別の本を手に取り、読み始めた。でも、本の中身は頭の中に入ってこなかった。君の父親のことが頭に浮かんで、僕の視線が活字の上を滑るだけだった。本の中身は理解できなかった。君の父親について、僕が何か言うことはできなかった。だけど、その日一日、ずっと頭の中に残った。
 その頃、廃工場の噂を聞いた。団地の外れにある廃工場に入って行く君を見たという噂だった。夜遅くに、男と一緒に行っているとか、一人で行っているとか、色々な形の噂を聞いた。ただ、君が廃工場に行っていることは確かなことのようだった。

 知らない場所に僕はいた。
 団地の近くのはずだった。でも、記憶にはない場所。僕がいる場所は、僕の知らない団地の近くのどこかだった。気づかぬうちにここまで来てしまった。真新しいマンションがいくつも立ち並び、真っ暗な窓が僕を取り囲んでいる。ここもきっと僕が引っ越してから出来た場所だ。もとは何があった場所なのか覚えていない。知らない場所に僕は一人でいる。
 喉が渇いている。
 ずっと歩いていたせいだろうか。喉はしなびて、口の中はからからだった。唾液すら湧いてこない。いますぐ何か飲みたい。どこかに自販機がないかとあたりを見回すけど、自販機はない。それらしきものはどこにもない。マンションが立ち並ぶだけ。ただ、マンションに併設されるように小さな公園があった。見覚えのない公園。これも知らない間に出来たものだった。
 水のみ場だ。公園の中には水のみ場があった。
 僕は公園の中に入り、水のみ場まで行く。蛇口を捻る。水が噴き出してくる。唇を近づけると、ひんやりとした硬い感触がする。唇が濡れる。口に水を含む。少し砂っぽい。ざらざらしている。クスリの味もする。水を綺麗にするための薬品。久しぶりの味だ。懐かしい味。そして、口に含んだ水を喉の奥へと流し込む。喉の奥は濡れていく。何度か水を胃に流し込むと、唇を水から離し、蛇口を止める。水の勢いは弱くなる。時間を戻すように水は蛇口の中に戻っていき、小さくなり、止まる。
 僕は水飲み場から離れると、胸ポケットからタバコの箱を出し、タバコを取り出そうとする。でも、箱の中には一本もタバコは入っていない。もうタバコは残ってない。タバコの箱は空っぽだった。試合が終わったあとの野球場のように何もなかった。僕はタバコの箱から視線を上げ、公園を眺める。公園にはベンチと水のみ場があるだけ。他には何もない。ぼんやりと公園を眺めながら、廃工場かと呟く。僕の口から出た言葉は夜闇に溶け、消えていく。もう一度、廃工場かと言う。言葉はすぐにばらばらになり、また消えていく。そして言葉にする。そうか、廃工場。手に力が入る。タバコの箱がくしゃりと潰れる。
 そうだ、あそこが最後の場所だったんだ。

 僕らはワイドショーを見ている。
 アニメが終わったあと、チャンネルをそのままにしておくと勝手に流れてくる番組。分厚い家電の説明書のように面白くなくて、退屈。この番組の内容は決まっている。今日のニュースと最近のトレンド、芸能人のゴシップに今日の夜のテレビ番組。いつも同じ内容。僕らの興味を引くものはなかった。
 普段なら絶対に見るはずはない。
 アニメが終わると、僕らはすぐに外に出るか、チャンネルを変えていた。夏休みの間、この番組をまともに見たことは一度もなかった。
 ただ、今日は違った。
 ワイドショーの予告で流れたニュースが気になり、チャンネルをそのままにした。外に出ることも、チャンネルを変えることもせず、僕らはワイドショーを見ている。
 流星群のニュース。
 それが僕らの興味を引いた。
 流星群が地球の近くに来ているそうだ。数日後に接近するとも、僕らの住んでいる地域で見れるとも、その日は晴れそうだとも司会の女性は言っている。嬉しそうな顔をしている。作られた顔ではなく温かみのある顔。楽しそうに話していた。まるで友達に子供でもできたように嬉しそうだった。流星群のニュースが終わると、司会の女性がお辞儀をして、ワイドショーは終わった。僕らはテレビを消して、家を出て、団地の中を歩き始めた。
 流星群を見る場所を探すためだ。
 大分、久しぶりだった。駅の向こう側で迷ってからというもの、僕らは意欲的に外に出かけることはなくなった。近所の探索をちょっとやって終わり。あとは家の中。それくらいだった。だからこうして熱心に外を歩き回ることは久しぶり。僕らはいくつか候補を言い合いながら、団地の中を歩き回り、流星群が見える場所を探した。
 例えば、給水塔。団地の芝生の真ん中、見晴らしのいい場所にある。簡単に柵を乗り越えられるし、近くまでは簡単に行ける。ただ、給水塔を上る方法がわからなかった。入り口もなければ、階段や梯子もなかった。煙にでもなるしかなさそうだった。
 例えば、中学校の裏の広場。ここも見晴らしはよかった。コンクリートで舗装された崖の上にあって、周辺の建物よりも高い位置にあって、空がよく見えた。ただ、ガラの悪い中高生がよく集まっていると聞いた。そこに混じる度胸は僕らにはなかった。
 例えば、団地の屋上。抜群に見晴らしはいいはずだった。周りには団地よりも高い建物なんてないし、しかも屋上。見晴らしが悪いはずがない。ただ、ここも上る方法がわからなかった。忍者みたいに壁をよじ登るか、ヘリコプターで着陸するしかなさそうだった。
 思いついた候補はどれも魅力的だけど、現実的ではなかった。流星群を見ることはできそうもなかった。僕らは歩きながら他の候補のことを考えた。団地の中に眠っている、まだ気づいていない場所を。空がよく見えて、静かで、流星群を観賞できる場所を考え、歩いた。でも、そんな場所はどこにもなさそうだった。団地の中はあらたか探しつくしていて、そんな場所は思い浮かばなかった。
 諦めて、仕方なく家に帰ろうとしたときだった。君は立ち止まり、声を上げた。
 ねえ、と。
 何か思いついたようだった。
 うん? と僕は言う。
 君は僕に体を真っ直ぐ向けて、廃工場は? と言う。
 あの廃工場?
 そう、あの廃工場。
 あの廃工場で間違いはないようだった。
 団地の外れにある廃工場。もとクリーニング工場で、いまは真っ黒焦げの廃墟。十年以上前の大火事で、天井も窓も乾燥機も衣類も鉄骨も、全て燃え尽き、炭となり、骨組みだけになった工場。それでも取り壊されることなく、いまも団地の隅にひっそりと立つ、場違いで、異質な廃墟だった。
 正直行きたくなかった。
 不気味な外観に加えて、廃工場にはよくない噂があった。経営者が自殺したとか、恐ろしい殺人事件があったとか、火事で死んだ工場長の幽霊が出てくるとかいう噂。行きたくはなかった。近寄りたくもなかった。僕ら子供達にとっては入ってはいけない場所、それどころか、近くを通ることすらしたくない場所だった。君が本気で言っているのか信じられなかった。
 僕はすぐに本気かと君にきいた。君はうんと言った。微笑んでいた。もう一度、本気かときいても、君は変わらなかった。もう一度うんと言った。冗談を言っているわけではなさそうだった。君は本気だった。僕がやめないかと言っても、君はきかなかった。じっと僕を見つめて、口元を吊り上げて。行こうと言った。
 空には分厚い雲が広がっていた。夕立が通り過ぎたあとのアスファルトのような色をしている。随分涼しい日だった。汗をかくことはなかった。肌は乾いていた。夏の終わりを近くに感じた。
 見に行こうと言って、君は歩き出した。待ってと僕が言っても、君は待たないし、止まらなかった。どんどん先へと進んでいった。僕は仕方なく君についていった。
 僕らは西へと進んでいった。西側には古い団地が多かった。もうすぐ取り壊されそうな団地。でも、まだ取り壊されず、残っていた。古い団地の先には、これまた古い公園があり、そこには何もなかった。ただの広場のような公園だった。そこを抜けると、緑道があり、先には大きな道路があり、その向こうに廃工場があった。
 そして、僕らはたどり着いた。
 廃工場は記憶の中とほとんど変わらない。骨組みだけ。理科室に置いてある骸骨の標本と似たような感じ。残されたわずかな外壁は真っ黒。入り口だった場所にはテープが貼られている。もとはまっ黄色のテープも、乾いて真っ白になっていた。テープには立ち入り禁止の文字が滲んでいた。もう少しで消えて見えなくなりそうだった。
 誰も寄せ付けない雰囲気があった。
 やっぱり、気軽に入ることは出来なかった。
 でも、君は入ってみようと言い、テープを潜って、廃工場の中に入っていった。僕が入り口の前で立ち止まり、迷っていると、廃工場の中から何しているのと声が聞こえ、続いて早く入ってきなよとも聞こえた。僕は観念して、足を踏み出し、廃工場の中へと入っていた。
 中はひどかった。
 外から見るよりも、ずっと荒れていた。そこら中に燃えカスが散ばっていた。どれも黒く縮んでいて、カンパンのように乾いていた。もともとそれが何だったのかわからなった。何に使われていたのか、何のために存在していたのかわからなかった。あるのはただの燃えカスだけだった。何の役にも立ちそうもなかった。床は煤だらけ。歩いているうちに靴の裏が真っ黒になりそうだった。
 上を見ると、ぽっかりと空が見えた。屋根はない。火事のときに全て燃え落ちたようだった。天井はひらけていて、四角く空が切り取られていた。空は外で見るよりも迫力があった。流星群も綺麗に見えそうだった。
 君は僕のずっと前にいた。僕を見ると、こっちと言って、廃工場の一番奥まで君は進んでいく。僕も奥へと進んでいった。
 廃工場の一番奥には階段があり、階段は踊り場に通じていた。踊り場から先はない。二階は存在していなかった。教室半分ほどの踊り場が残っているだけだった。いまにも崩れそうな階段と踊り場。でも、君はそんなこと気にせず階段を上っていく。僕も階段を上る。階段に足を乗せると音がする。きしむ音。疲れた音。大丈夫かと僕は不安になる。でも、足の裏の感触はしっかりとしている。小学生二人くらいなら問題なく支えてくれそうだ。おそらく大丈夫。一段、一段、上っていき、踊り場まで行く。君はしゃがみこみ、空を見上げていた。僕も君の横まで行き、空を見上げた。
 ぐっと空が近くなった。
 少し近づいただけなのに、随分空が近くなった。何十階建てのビルを上ったようだった。手を伸ばせば、灰色の空に手が届きそうだった。雲をつかめそうだった。
 ね、いいでしょ? 君は僕を見て言った。やっぱり微笑んでいた。
 つい、うん、と僕は言った。同意してしまった。
 君は満足そうにうなずくと、立ち上がり、階段を下りていった。僕も階段を下りた。下りるときも階段は音を立てた。だけど、足場はさっきよりもしっかりとしている気がした。大丈夫だった。入る前のざわいた気持ちはどこかに行っていた。中に入ってみると、意外と大したことはなかった。気持ちは平らだ。水を抜いたあとのプールのように落ち着いていた。
 外に出ると、雲は重くなっていた。分厚く、黒くなっていた。いますぐにでも雨がふってきそうだった。でも、いまは沈黙していた。雨は降っていなかった。ただ、降り始めるまで、猶予はなさそうだった。僕らは駆け足で来た道を戻っていく。雨が降る前に、服が濡れる前に、急いで帰ろうとした。
 だけど、間に合わなかった。
 ポツリ、ポツリと水滴が僕らの肌を打ち、次第に強くなり、あっという間に鉄砲玉のようになって、僕らを取り囲み、打ちつけ、濡らし、体温を奪っていった。僕らは一番近くの建物まで走っていった。
 入った先は図書館だった。
 入り口のドアをくぐり、後ろを振り返ると、外の世界がテレビの砂嵐のようになっていた。ノイズまみれで、霞んでいた。入り口のドアの上には非常口の看板がついていた。蛍光緑に薄っすらと光っていた。
 僕らはずぶ濡れだった。髪もTシャツもズボンも、べっとりと水を吸い、体に張り付いていた。いまさっきプールから出てきたばかりのように、全身から水滴が流れていた。足元を見ると、大きな水溜りが出来ていた。なんだか悪いことをしている気がした。花壇の中を踏み荒らしているような感じだった。僕らはすぐに館内を出て、入り口の庇の下で雨をしのぐことにした。
 建物の外に出ると、雨が地面を叩きつける音が聞こえてくる。何かをせかしているような音だった。君はじっと外を見つめながら、見ようよと言った。
 うん? と僕は聞き返した。
 流星群。廃工場で見よう。きっと綺麗に見れるよ。さっきまでの微笑みはなく、君は真面目な顔つきだった。視線は雨の先に向いていた。
 本当に? 夜にあそこに行くの?
 うん、行こう。きっと、大丈夫だから。
 僕たちだけで?
 うん、そう。一緒に見よう。
 怒られないかな?
 誰に?
 親に。僕は言った。何かを期待して、言った。
 言う必要ないよ。内緒で行こう。
 君には関係のないことのようだった。
 でも、ばれないかな。
 大丈夫、そっと出れば大丈夫。きっと気づかれないよ。君は雨を見つめながら、言った。
 僕は君の言葉に押されるように、うん、と言って、黙った。君も何も言わなかった。
 雨の向こうから消防車のサイレンの音が聞こえた。うなるような音だった。音は徐々に大きくなり、僕らのすぐそばでなっているようになった。でも、消防車の姿は見えなかった。どこで走っているのかわからなかった。目の前の道路に消防車が通ることはなかった。しばらくすると音は元の小さい音に戻り、紙をこするような音になり、やがて消えた。消防車の姿は見えないまま、音は聞こえなくなった。

 主人公とヒロインは遊園地に入ることなく、先へ進んだ。
 結局、あの中に何があったのかわからない。何故この世界であそこだけ輝いていたのかも、あの中に誰がいたのかも、いまとなってはわからなかった。何もわからぬまま、二人は遊園地を通り過ぎ、先へと進んだ。早くこの旅を、この世界を終わらせようとするように先を急いだ。残りの放送回数に合わせているようでもあった。そして、二人の先には馴染みのない世界が広がっていた。
 そこは何の変哲もない住宅街だった。
 魔王がきた数十年前と変わりはなく、どこも損なわれることなく存在している住宅街。灰色の道路と、立ち並ぶ生垣と塀、びっしりと敷き詰められた家に、電柱と、電柱と電柱を結ぶ電線がジオラマのように綺麗に配置されていた。完全な住宅街だった。
 そこに脅威はなかった。フルメタルのマネキンもいなければ、針金人形もいなかった。白いゲル状の軟体生物も、肌色をした植物も、黒く透明な巨人も、全身にトゲが生えた機械仕掛けの神もいなかった。二人や隊員達を悩ませてきた脅威はなかった。
 大昔の住宅街そのままだった。記録映像にある世界が広がっていた。
 ただ、空だけは違った。都庁を中心に広がった、大きくて平らな黒い穴が空を覆っていた。記録映像とそこだけが違っていた。記録映像では外の世界と同じように、空は水色で澄んだ色をしていた。他は記録映像の中と一緒だった。
 二人にとっての未知の世界だった。初めて踏み込む、体験したことのない世界だった。
 二人は緊張して、大きな銃を携え、周りを警戒しながら、ゆっくりと進んでいった。ただの住宅街の奥深くへと入っていった。最大限の注意を払って歩いていった。平凡な住宅街への警戒を解くことなく進んだ。だけど、何も起こらなかった。平穏すぎて不安になるほど、何もなかった。山奥の草原でピクニックでもしているように、落ち着いた時間だった。
 やがて住宅街は終わり、大きな並木道にさし当たった。街灯は消えていて、路上に並ぶ店のシャッターも全て閉じ、街路樹の葉は枯れつくしていた。暗い木の影が二人を取り囲むだけだった。
 並木道の先に、目的の地下鉄の駅があるはずだった。
 二人は迷わず進んだ。並木道の先へ、暗い道の先へと進んでいった。
 並木道も同じだった。住宅街と一緒。何も起こらなかった。どこまでも同じ景色が広がり、同じ街路樹が植わっていて、同じ道路が続いていた。コピーされた景色が広がっていた。そして、誰もいない並木道の終わりに、地下鉄の入り口があった。
 古い、地下鉄だった。都庁へと通じている地下鉄で、一世紀以上前に建設されたものだった。
 二人はカビだらけの階段を下り、地下へと潜っていった。手を握り、離れることはないように進んだ。一段、一段、下りていった。足を踏み出すたびに、光は小さくなり、暗闇が広がっていった。世界の輪郭も、二人の輪郭も曖昧になっていった。地下深くの駅のホームまで下りたときには、光は一切なかった。真っ暗で巨大な暗闇が広がっていた。二人の体も暗闇に溶けて、自分がどこにいるのか、この世界に存在してるのか、わからなくなってしまいそうだった。
 靴の裏の線路の感触と、握った互いの手だけが頼りだった。
 二人は暗闇の中を進んだ。何も見えない中、壁にぶつからないように、慎重にゆっくりと足を進めた。声を掛け合い、存在を確かめあって、前に進んだ。暗闇の中をどこまでも、目的地に向けて進んだ。
 濃い、暗闇だった。
 進んでいるのか、戻っているのかわからないほど真っ暗だった。視界の中は黒一色だった。時間すらも曖昧になった。それでも二人は足を進めた。前に進んていると、都庁に近づいていると信じて足を進めた。他に方法は知らなかった。足を進めるしか二人は知らなかった。あと少しで旅は終わると信じて進んだ。
 随分、長い時間だった。実際の距離の何倍も歩いた気がした。やがて遠くに小さな明かりが見えた。ぼわっとした白い光で、曇りガラスの先に見える白熱灯のような光だった。暗闇の世界も終わりが近づいていた。光の方へと進むと、階段があり、主人公は慎重に階段を上っていった。階段が終わると、真っ白な世界が広がっていた。大理石で囲まれた、大きな広場だった。
 地下鉄は終わった。
 そして、主人公が握っていた手には何もなかった。
 ヒロインはいなくなっていた。
 暗闇を抜けた先にいたのは、主人公一人だった。
 主人公は声を上げた。大きな声で何度もヒロインの名前を呼んだ。広場の中を探し回った。だけど、ヒロインは見つからなかった。いなかった。地下鉄の中に戻って探そうとした。しかし、戻ることは出来なかった。地下鉄の入り口はどこにも無かった。主人公はどこから来たのかわからなかった。広場には入り口も出口もなかった。外との接点はなかった。あるのは上に向かうための階段だけだった。
 ヒロインはどこかに消えてしまった。他の隊員と同じように、居場所を見つけて消えてしまったのだろうか? この世界に潜む脅威に襲われてしまったのだろうか? それとも一人先に進んだのだろうか? 真実はわからない。ただ、いまこの場にいるのは主人公一人だけで、他に誰もいなかった。ヒロインは消えてしまった。それが事実だった。
 そして、主人公には階段を上るしか、もう道は残されていなかった。

 朝起きて、テレビをつけようとしたけど、テレビはつかなかった。
 何度もリモコンの電源を押した。テレビ本体のスイッチも押した。テレビの横を何度か叩いた。だけど、テレビがつくことはなかった。電源ランプが緑色に輝くことはなかった。ブラウン管は黙っている。真っ黒。真夜中の校庭のように静かだった。
 昨日の停電の影響かもしれない。
 実際の理由はわからないし、知らない。ただ、テレビに僕の気持ちが伝わることはない。それだけはわかった。テレビは黙り込み、どこかに顔を背けている。僕のことなんて知らん振り。テレビがつくことはなかった。
 その日の朝食は慣れないものだった。
 いつものニュースが流れない静かな時間。朝のニュースをよく見ていたわけではない。だけど、ニュースが流れない朝食は変だった。何かが足りていない感じがした。観客のいない運動会のように違和感があった。
 朝食は淡々と進んだ。皿に盛られたコーンフレークを食べる。牛乳を啜る。それだけ。黙々とスプーンで掬って、口に運び、噛み、飲み込む。それだけだった。味気も、面白みもなかった。狭い居間の中でスプーンが皿の底を叩く音だけが響いた。コーンフレークの味はよくわからない。おそらく美味しくはなかった。
 ただ、つかないテレビよりも、流れてこないニュースよりも、味気のない朝食よりも、気がかりなことがあった。
 君のことだった。
 昨日、君はどうしたのか? 
 廃工場に行ったのか、廃工場の中で待っていたのか、それとも家にいたのか。君が昨日の夜、何をしていたのか、僕は知りたかった。
 このまま、いつも通り食事をすることがいけないことのような気がして、スプーンの動きが速くなった。皿と口の間を往復する間隔が短くなった。急いで口を動かした。コーンフレークを噛んだ。噛むたびに、歯の奥にコーンフレークのカスが詰まった。カスは歯の奥深くに食い込み、取れそうもなかった。でも、関係なかった。いまは早く食べ終えることが重要だった。あっという間に皿は空となり、コーンフレークはなくなった。コーンフレークの味はやっぱりよくわからなかった。
 僕は皿とスプーンを台所に置いて、家の外に出て、団地の階段を駆け下り、歩道を走って、団地の階段を駆け上がって、君の家へと行った。
 早く会って、君と話したかった。昨日のことをききたかった。昨日どうしていたのか確かめて、僕のことを話して、早く謝りたかった。
 真っ白いドアまでたどり着いた。昔と変わらない。僕の家と一緒のドア。ここの団地ならばどこの家も一緒だった。同じドアだった。ドアだけ見れば僕の家と違いはなかった。でも、間違いなくここは君の家だった。懐かしいドアだった。僕は数年ぶりに君の家のドアの前に立った。
 ドアをじっと睨む。
 ドアの中から音は聞こえてこない。黙っている。僕の口から荒い息が漏れる。走ってきたせいだ。肩も上下している。深く息を吸い込む。呼吸を落ち着かせる。肩の動きが収まると、僕はドアの横のピンポンを押す。数年ぶりに押す君の家のピンポン。お祈りをするように慎重に押す。
 ドアの内側で電子音が響いた。
 隣のビルの屋上で誰かがくしゃみをしたような音だった。かすかで控えめ。僕は数秒待つ。じっと待つ。だけど、電子音以外の音はしない。ドアは閉まったまま。誰かが出てくる気配はない。君の気配もない。来たときと同じようにドアは沈黙している。
 もう一度、僕はピンポンを押す。今度は慎重というよりも、力強く押す。指先に力を込めてしっかりと押す。ドアの内側で響く電子音。さっきと同じ音。やっぱり控えめな音で、かすかな音だった。そして、僕は待つ。でも、いくら待っても、ドアが開くことはない。長い間、僕はドアの前で待った。さっきよりも長い時間だ。僕はじっとしていた。ピンポンを押して、数十秒待つ。変化はない。ドアはきっちりと閉まっている。開くことはなさそうだった。ドアの内側からは足音一つ、聞こえてこなかった。何時間待っていても、ドアが開くことはなさそうだった。
 ただ、このまま帰ることも出来なかった。
 僕は左手でドアを押さえると、ねえ、と口から声を出した。いる? と続けて声が出て、右手を軽く握り、一回、二回と僕はドアを叩く。鉄製のドアが重い音を響かせる。さっきのピンポンよりもずっと重い音。右手はドアにぶつかり、跳ね返り、拳の先が少し痛み、そしてあっという間に痛みは消えていく。
 昨日はごめん。行けなくて、ごめん。
 右手でドアを何度か叩く。ドアを叩く回数が三回、四回と増える。拳がぶつかるたびにドアから重い音がする。ドンドンと。でも、ドアは沈黙している。開く気配はない。中から音は聞こえてこない。何も反応はない。
 待っていたら、本当にごめん。
 僕の声がドアにぶつかり、跳ね返る。言葉は空中に漂い、どこにもたどり着かず消えていく。ドアが開くことはなさそうだった。黙っていた。家の中には誰もいないようでもあった。何も反応はなかった。
 開かないドアを見て、僕は諦め、家に戻った。
 居間に入ると、いつもの癖でテレビのスイッチを押した。テレビはつかなかった。何度かスイッチを押して、テレビがつかないことを思い出し、スイッチを押すのを止めた。テレビの中のどこかが故障していた。きっと昨日の停電の影響だった。
 窓を開けると、僕は畳の上に転がった。寝転がりながら、ゆっくりと息を吸った。僕の口元から息を吸う音が聞こえた。他の音は聞こえなかった。何も考えないように、息を吸うことに僕は意識を集中した。目を閉じて、深く何度も息を吸った。息を吸うたびに、僕の口元から音が漏れ、意識が薄れた。やがて体から意識が離れていった。
 大きな衝突音が聞こえた。
 団地の屋上から車を放り投げて、地面にぶつかったような音だった。意識がはっきりとして、僕は目を覚ました。窓の外からは強い日差しが射し込み、僕の顔を照らしていた。起き上がって窓の外を見たけど、何も起きていないようだった。車が放り投げられたこともなければ、実際に音がしたわけでもなさそうだった。
 時計を見ると、もう昼過ぎだった。
 僕はすぐに家から出て、また君の家に向かった。朝よりも速く走っていき、君の家のドアの前まで行くと、ピンポンを押した。朝と同じように、正確かつ慎重にピンポンを押した。肩は上下していて、息は上がったままだった。僕の荒い息の合間から電子音が聞こえた。ドアに変化はなかった。ずっと待っても、ドアの向こうで物音がすることはなかった。朝と一緒。中に誰かがいる気配はなかった。
 僕は少し悩んでから、もう一度ピンポンを押すことにした。
 ドアの向こうで電子音が響いた。朝と同じかすかな音だ。だけど、ドアが開くことはない。何十秒待ってみても変わらない。家の中から足音がすることも、カギを捻る音がすることも、ドアノブが回ることもなかった。
 ドアは沈黙していた。
 僕は諦めて家に帰った。家に帰るといつもの時間だった。アニメの放送時間。いつもなら二人でこの部屋でアニメを見ている時間だった。でも、今日は僕の隣に君はいなくて、テレビはついていなかった。
 僕は畳の上で横になり、目を瞑ったあと、セミの声がしないことに気づいた。あれだけ溢れていたセミも、みんな土に還ってしまったようだった。一匹もいない。もう夏休みもあとわずかだった。
 この日はアニメの最終回だった。

 君と会えたのは夏休みが明けてからだった。
 朝の教室で君と再会した。
 始業式の日、朝の教室に君はいた。僕よりも早く学校に来ていた。入り口から教室の中を見ると、君は自分の席に座っていた。誰とも話さず、真っ直ぐな姿勢で黒板を眺めていた。何もしていない。前を向いているだけだった。
 何だか知らない人のようだった。
 教室の中にいる君は違和感があった。夏休みの間、毎日会っていた君とは違う人のようだった。会う場所が教室に変わっただけだというのに、全く雰囲気が違った。君はどこか遠くの学校、団地の外の僕が行ったこともない学校の生徒のようだった。同い年の知らない女の子だった。君ではなかった。
 どうするか、迷った。
 君のところまで行って、挨拶をするか、会話を交わすか、僕は迷った。正直、気恥ずかしさがあった。教室だと何だか話しかけづらかった。それに気まずさもあった。流星群が来る前日から会っていなかったから。流星群の日に会うことができなかったから。あれだけ会おうとしてピンポンを押したのに、いざ君を見かけると気まずかった。会いづらくて、話しづらかった。
 教室の中には君以外の同級生も数人いた。みんな固まって、夏休みの話をしていた。盛り上がっていた。旅行に行ったとか、親戚の家に行ったとか、プールに行った、映画を見た、キャンプをした、バーベキューをしたとか、この団地の外、僕の知らない場所の話をしていた。僕には関係のない話だった。みんな話に夢中で、入り口にいる僕に気づく様子はなかった。
 君は同級生の輪に混じることなく、ただ座っていた。誰とも話さなかった。美術室に置いてある石膏像のような表情をしていた。乾いていた。ずっと前を向いていた。
 僕は君の様子を見て、決心した。
 教室の中に足を踏み入れ、君の席に向けて歩いていった。途中、同級生の集団とすれ違ったけど、僕は誰とも挨拶は交わさなかった。君の机まで行き、おはようと僕は声をかける。君は黒板に向けていた顔を動かし、僕に向け、ちょっと間があってから、おはようと返事をした。そして、再び顔を黒板へと向けた。
 言葉が出てこなかった。
 僕は何か言いたかった。君に対して、あの日のことを伝えたかった。でも、次の言葉が出てこなかった。なんて切り出したらいいのかわからなかった。どうしようかと考え、迷っていると、君は僕に向き直り、ごめんなさいと言った。停電で行けなかったとも君は言って、頭を下げ、そして上げた。君の真っ直ぐな瞳が目に入った。黒く汚れのない色をしていた。宇宙のような色だった。
 僕は君の瞳を見ながら、そっかと言った。
 うん、ごめんなさい。
 ううん。僕も一緒だから。停電で行けなかった。ごめん。
 そう、ならよかった。一緒だね。そう言って、君はかすかに微笑んだ気がした。でも、すぐにもとの表情に戻った。乾いた石膏像の顔だった。
 そのあと、僕らの間に会話はなかった。君は視線を黒板に戻し、黙った。僕も言うことはなかった。教室の中でこれ以上、君と僕が話すことはなかった。それで終わりだった。
 僕は自分の席まで行き、ランドセルを下ろした。背中がやけに軽くなった。ただ軽すぎて、現実感がなかった。あまりにも軽くて、僕は死んでしまったようだった。でも僕は生きていて、ランドセルから教科書を出す必要があった。教科書を取り出し、机の中にしまい、君の方を見た。
 君はクラスの友達と話していた。笑いながら話していた。何の話をしているのかわからない。クラスの友達と笑いながら話す君は、どこかの知らない学校の生徒ではなかった。僕の知っている君だった。ただ、夏休みの間一緒にいた君ではなく、夏休みに入る前の君だった。僕とは関わりのない君だった。僕の席から見る君は大分遠くにいた。国境を隔てた隣国のように、僕と君の席の間に距離があった。
 そして、この日が最後だった。
 そのあとの記憶はない。君と話した記憶。ちゃんと会話を交わしたのはこの日が最後。それ以降は遠くから見るか、噂で聞くか、挨拶をするか、すれ違うか、それくらいだった。まともに話したのはあの教室が最後だった。
 
 目的なく歩き始めてから、大分時間が経っていた。
 僕はぐるぐると団地の中を歩いた。だけど、不思議と足は疲れなかった。痛みも感じなかった。僕の足は止まることなく動き続けた。自動操縦の工作機械のように止まることなく動いた。いくら歩いても、どこまで行っても、似たような景色が続いていた。四角い団地ばかりが目に入った。
 ただ、ところどころ昔と変わっていた。
 パッと見てわかる場所も、すぐにはわからない場所も、いろいろな場所が変わっていた。駐輪場がなくなっていたり、道路が通行禁止になっていたり、一方通行の標識が一時停止の標識になっていたりしていた。そのせいか、いつの間にか僕の歩くルートがずれていった。同じところを歩いているはずなのに、道がずれていき、団地の外れの方へと僕の足は向いていき、やがて大きな囲いが目に入った。白い囲い。工事中を表す衝立。白い囲いは夜闇の中、どこまでも伸びていた。何かを覆い隠すように続いていた。汚れ一つ見えなかった。最近建てられたもののようだった。
 中で何が行われているのかわからなかった。
 確か団地があった場所。過去に何度か通ったはず。記憶はかすれているけど、囲いの向こうには団地が存在しているはずだった。ただ、囲いの向こうで何が行われているかはわからない。修繕か、立替か、それとも別のことか。囲いの外からだとわからなかった。
 壊しているのだろうか?
 それはわからない。中で何が行われているか、知ることはできない。囲いに沿って歩きながら、工事情報が貼られていないか確認したけど、そんなものはなかった。この中で何が行われているか、外からはわからなかった。
 ただ、なんとなく壊している気がした。
 日中、白い囲いの先に何台ものブルドーザーやショベルカーが入り込み、芝生を踏み荒らし、道路のアスファルトをひっくり返して、突き進んで、団地の前まで行き、自動車に取り付けられた巨大な鉄の固まりを、コンクリートに叩きつけ、殴り、離れ、距離をとって、また叩きつけ、執念深く何度も何度も繰り返して、コンクリートの塊に亀裂を入れ、崩して、崩れた塊から破片へと、破片から小さな破片へと、小さな破片からより小さな破片へと、さらに小さな破片から砂粒へと還すように、しつこく壊して、水道管やガス管や蛇口や風呂場やキッチンや玄関や全てのものも一緒に壊して、元の姿を思い出せないように、かけらすら残さぬように、団地中に大きな音を響かせて、何もかもがなくなるまで、コンクリートの塊を解体しているような気がした。
 きっと、もう取り壊される時期なんだろうな。
 囲いの中で何をやっているのか、知ることはできなかったけど、取り壊されても仕方がなかった。取り壊されるにはちょうどいい古さだった。そして、囲いは途切れることはなく続いていた。日本を一周、ぐるっと囲えそうなほど、長く続いていた。

 真っ暗い空間にいくつも白い点が散ばっている。白い点は棚の上に積もった埃のように濁っている。それかスーツの襟元に積もったふけのような感じ。そして、埃まみれの空間にはロボットのような、人のような、やっぱりロボットのようなものが、頭を逆さに向けて浮んでいる。電車の振動に合わせて、揺れている。
 宇宙と星と宇宙服を着たパイロットだった。
 パイロットは頭をチラシの下の方に向けていて、頭の先に宇宙飛行士候補者募集の文字が大きく印字されていた。チラシの右隅には応募先の住所と団体名が記されている。団体名は誰もが知っているような有名な名前だった。団体名の知名度からすると、チラシは随分安っぽかった。ただ、安っぽいつくりも、不思議と納得できた。そんなもののような気がした。こういった団体はもっと別のところにお金をかけているのだろうと思った。
 大学のキャリアセンターの隅にチラシは置かれていた。宇宙飛行士希望者は少ないようで、棚一杯、チラシは残っていた。通信販売のカタログくらい分厚かった。僕は同情票を一票いれるように一枚チラシを取り、暇つぶしに見ている。
 チラシをよく見ると、宇宙飛行士以外の職種も募集している。チラシの隅に小さい文字で書いてある。様々な職種が記載されている。技師、観測者、オペレータ、調理師、清掃員、システムエンジニア、品質管理、法務、経理、その他色々。僕も一つくらいは応募できそうなほど、色々な職種が記載されていた。
 チラシを見ていると、男性の声が聞こえた。低い声だった。車内のスピーカーから流れてきた。駅到着を告げるアナウンスだった。チラシから窓の外に視線を向けると、窓の外の景色がゆっくりとなり、止まった。
 目的の駅だった。
 ドアが開くと、僕は電車を降り、さっきまで見ていたチラシを丸める。くしゃくしゃに丸める。きっと二度と見ることはない。駅のホームに設置されているゴミ箱にチラシを捨てる。チラシとは電車に揺られている30分程度の付き合いだった。すでに僕の就職先は決まっていた。いまさら応募するのも、応募の動機を考える必要はなかった。僕には関係のないチラシだった。
 駅から出て、歩きながら僕は色々なことを考えた。彼女のことだったり、就職先のことだったり、引越しのことだったり、卒業旅行のことだったり、バイト先を辞めることだったり、彼女の親や僕の親にこれからのことを説明することだったり。とりとめもなくいろいろなことが頭に浮んだ。ザッピング中のテレビのように忙しなかった。どれも曖昧でぼんやりとしていた。次々と浮んでは消え、頭の中に残ることはなかった。
 気づくと、僕の目の前には大きな黒いドアがあった。高そうな合金製のドア。何度か訪ねたことがあるドアであり、見慣れないドアでもあった。
 目的の家だ。
 僕はさっきまで考えていたことを頭の隅に追いやり、目の前のドアに意識を向ける。ピンポンを押す。ドアの内側で電子音が響いて、ドアの向こう、遠くから足音が聞こえた。足音はドアまで近づいてきて、ドアの前まで来ると止まり、鍵を開ける音とドアノブを回す音が聞こえた。そして、ドアが開いた。
 彼女がいた。
 茶色に染められた髪。髪からふわりと香りが立った。僕の鼻の奥に香りが入り込み、すぐに消える。りんごをじっくり蒸したような甘い、艶やかな匂いだ。シャンプーの香り。彼女のそばにいるといつも感じる匂いだった。
 彼女は少し濡れた唇を歪ませ、僕を迎える言葉を言うと、僕を家の中に招き入れる。僕は挨拶をして、玄関に入り、靴を脱ぎ、廊下を進み、ベッドとテレビと座卓が置いてある彼女の部屋に入っていく。
 彼女の部屋のテレビからはドラマが流れていた。トレンディドラマの再放送のようだった。見たことがないドラマ。よく見る名前の知らない俳優と、これまたよく見る名前の知らない女優が画面の中で抱き合っている。どこか都内のお洒落な路上でのシーンだった。
 彼女はテレビをミュートにすると、座卓の脇に座った。僕も座卓を挟んで、彼女と向かい合うように座り、僕と彼女は話し始めた。色々なことを話した。春休み中のこと、卒業旅行のこと、家の下見のこと、引越しの段取りのこと、就職したあとのこと、両親に説明するタイミングのこと、これからのことを一杯。水槽の中のポンプから溢れ出るあぶくのように切れ間なく話した。
 どの話も僕が歩いている最中に考えていたことばかりだった。さっきは曖昧でぼんやりとしていた考えが、彼女と話すと具体的な形になっていった。話している間、テレビはずっとついていた。無音のまま役者は演技を続けていた。音がしようがしまいが、役者には関係のないことのようだった。
 話に切れ間が見えると、彼女はお茶を入れてくると言って、台所に消えた。彼女がお茶を入れている間、僕はテレビを眺めていた。ドラマは終わりが近づいていた。エンディングが流れ、次回予告が始まって終わると、CMが始まった。お菓子のCMと予備校のCMが次々と流れた。放送時間に合わせたCMだった。CMが終わると、アニメの再放送が始まった。結構古いアニメだ。暗い建物の中を主人公らしき人物が歩いていた。階段を上っていた。独白と追憶を繰り返しながら、主人公は屋上に向かって進んでいた。
 あのアニメだった。
 はじめは気づかなかった。だけど、間違いなかった。あの夏、ずっと見ていたアニメだった。僕が見たことがない回がテレビから流れていた。おそらくあの夏見ることができなかった最終回。十年越しの最終回だった。
 いつの間にか、彼女は僕の横に座り、目の前には紅茶が置かれていた。彼女はテレビを見ながら、面白いかと僕に尋ねてきた。僕は曖昧に答えた。彼女は僕の様子を見て、一緒に見始めた。放送が終わるまで、二人ともじっと動かず、テレビを見た。
 画面の中の主人公は都庁の屋上まで行き、UFOの中に乗り込むと、黒いシルエット、おそらく魔王に銃弾を数発打ち込み、魔王は死んだ。そして、主人公の冒険も終わり、主人公は一人外の世界へと帰って行って、アニメは終わった。あっけない終わりだった。
 放送が終わると、彼女はよくわからなかったと言った。興味はなさそうだった。僕もなんとなく同意した。大して面白くはなかった。十年越しで最終回を見たというのに、何も湧いてこなかった。アニメは記憶にあるよりもずっとチープで、単調だった。僕の中の何かが変わってしまったせいだろうか。何も感じなかった。以前見たときの感情はどこかに消えていた。
 そして、僕と彼女はまた話し始めた。
 これからのこと、将来のこと、一つ一つ話していった。塗り絵をするようにこれからの空白を埋めていった。時に中断しながら、夜遅くまで僕と彼女は話し続けた。彼女の両親が不在の家で、ずっと話した。アニメの最終回のことはすぐに頭から消えた。
 僕が家に着いたとき、もう明日になろうとしていた。全身が重く、疲れていた。僕は携帯を枕元に放り投げた。携帯は枕元で跳ねて、ベッドの隅に転がり、ベッドと壁の隙間へと落ちていった。隙間から携帯の明かりが見えた。かすかな明かりだった。
 僕は隙間に手を伸ばして、携帯を探った。指先だけが頼りだった。指先をUFOキャッチャーのクレーンのようにして探った。そのうちに柔らかくて、硬い何かが指先に触れた。プラスチックのようだった。僕は人差し指を伸ばしてそれを手前に引いた。何度か引いて、人差し指と親指でそれをつまみ、引き上げた。
 それは、違った。
 指の中にあるのは見知った携帯ではなかった。表面の塗装はほとんどはげて、液晶は割れ、埃にまみれた機械だった。何十秒かそれを見て、ポケベルと呼ばれたものだと気づき、さらに何十秒か経ってから、それがあの夏、僕がずっと持っていて、そして失くした機械だと気づいた。十年以上、ベッドの隙間で隠れていたようだった。
 僕はじっくりとそれを眺め、ちょっと迷ってから、燃えないゴミとして捨てた。もうそれはただのゴミだった。僕には必要のないものだった。そして、携帯を隙間から取り出すと、僕はすぐに眠った。
 
 機械を捨てた夜、久しぶりにそれは現れた。
 枕元に立つ大きな黒いシルエット。僕をじっと見つめる真っ黒い卵のような顔。はじめて見たたときと変わっていない。数年の歳月もそれには関係ないようだ。昔と同じように、僕に顔を向け、立っているだけ。夜明け前の信号機のように大人しい姿だった。
 最後に現れたのはいつだろうか?
 わからない。覚えていない。おそらく中学校に入ったときくらい。そのときもこんな感じで立っていたはず。それは覚えている。黒い顔を僕に向けて、じっと見つめる。それだけ。他には何もしない。何も言わない。態度も姿勢も全く変わっていなかった。
 ただ、少し小さくなった気がする。
 前はもっと大きかった。身近な大人よりも大きくて、僕がいくら背伸びしても届きそうもなかった。飛んでも、跳ねても、それの頭に触ることはできそうもなかった。だけど、いまは違う。それはそこまで大きくはない。
 僕が大きくなったせいだろうか?
 それはほとんど僕と同じ背丈だった。僕がベッドから降りて、それの真横に立ち並べば、同じ位置に頭が来そうだ。背丈だけではなく、体格も似ていた。僕によく似た体型、肉付きをしている。輪郭も以前よりもはっきりしている。昔はゆらゆらと揺らめく巨大な影のようだったけど、いまはマネキンのように体のラインが明確だ。
 まるで僕が黒いのっぺらぼうになって、自分の枕元に立っているようだ。
 ただ、何も言わないところとか、じっとしているところとかは全く変わらない。それは昔と一緒。僕をじっと見るのも一緒。僕の枕元に立って、僕を見る。それだけ。それ以上のことはしない。そこも一緒だった。
 それに僕も一緒。変わらない。昔と同じように全く動けない。指一つ、足一つ、頭一つ、瞼一つ、視線一つ、動かせない。僕の体は僕の言うことを聞いてくれない。それを見つめることしか僕にはできない。
 それは僕を見つめて、僕もそれは見つめる。僕らの関係に変化はなかった。互いに見つめ合うだけの関係。僕の体も昔と同じように動くことはないし、それも僕を見つめる以上のことをしそうもなかった。僕らの間には距離があった。それも昔と一緒だった。僕とそれの間の距離が埋まることもなさそうだった。
 僕はぼうっとそれを見つめていた。僕の意識が暗く落ちるまで、視線をそれに向けていた。他にやることはなかった。じっと眺めているだけ。不思議と昔のような恐怖はなかった。僕はそれを眺めて、やり過ごそうとしていた。
 どのくらい経ったのだろうか。
 何分経ったのか、何十分経ったのか、何時間経ったのか、わらからない。あるとき、変化が起こった。部屋の中で起きた小さな変化。太腿の裏を蚊に指された程度の些細なものだった。
 最初は気のせいかと思った。
 音が聞こえた気がした。どこか遠くからだ。かすかな音だった。誰もいない体育館の中で鳴らした鈴の音のようだった。本当に聞こえているのかわからないほどの大きさだった。ただ、その音は何度も僕の耳の奥を叩き続けた。気のせいではなかった。部屋の中からしていた。高い音。人間が出せる音よりもずっと高かった。そして、生き物が出す音よりもずっと無機質だった。音は僕の耳元にまとわり着いて、離れなかった。真冬の小雨のように止まることはなかった。その音は増えて広がり、部屋の中を圧迫して、部屋の外まであふれ出しそうなほど膨れ上がった。
 そして、音が途絶えた。
 一瞬で音は止まった。暗闇に沈黙が戻った。部屋の中を満たしていた音はどこかに行ってしまった。部屋に沈黙が戻ると、巨大なファンが回ったときのような、低くうなる音がした気がした。でも、それは気のせいだった。何も音はしていなかった。
 部屋が静かになっても、僕の意識が落ちることはない。覚めたまま。体は動かない。視線は暗闇と暗闇に佇むそれに向いていた。さっきと一緒だった。僕に変化はなかった。それにも変化はなかった。
 そのうち、また音が聞こえてきた。今度はさっきとは違う音だった。もっと雑で、汚れた音、ノイズだった。断続的に聞こえてきた。沈黙の隙間を埋めるように、止まることなく音は聞こえた。よく音を聞くと、ノイズ以外の音も混じっていることがわかった。ノイズとノイズの合間。何か別の音が混じっていた。丁寧にその音を拾う。それは言葉の断片のようだった。正確には聞き取れない。単語もわからない。ただ、言葉だった。何故か言葉とわかった。
 ノイズに耳を傾けながら、僕の意識は目の前のそれに向かった。それは変わらない。さっきと同じ。僕の目の前に立っている。スーパーの入り口に置かれたカートのように自然にそこにいた。でも、違和感があった。さっきまでとは何かが違っていた。
 なんだろうか?
 僕は注意深くそれを見て、あることに気づいた。
 口元が違った。
 人間で言う、顔、口元の辺りが小刻みに震えていた。かすかに動き、歪んでいた。音はそこから流れていた。それの口元からノイズが流れ、ノイズは部屋の中を漂い、僕の耳元までやってきていた。
 そして、ノイズは止まった。それも口元を止めた。ちょっと止まったあと、それは口元を動かした。はっきりと動かした。言葉を吐き出した。国営放送のアナウンサーのような正しい口調で、一言、僕に語りかけた。
 時間切れ。
 それだけだった。それだけ言うと、それは黙り込んだ。もう口元が震えることも、開くこともなかった。ノイズも聞こえなくなった。部屋は元の暗くて静かな、無音の部屋に戻った。棺の中のようだった。
 一瞬、僕の瞼が閉じ、すぐに開いた。
 次の瞬間、それは形を変えた。僕の背丈ほどあったそれは急に小さくなった。女性の背丈になったかと思うと、さらに小さくなり、子供の背丈ほどになって、サルの背丈ほどになって、赤ちゃんほどに縮んだ。さらにギュッと押しつぶされて、小さい黒い塊になった。そこで少し止まり、ぶるっと震えて、急に膨れだし、成人女性の大きさ、形になった。胸も腰もくびれも女性の形をしていた。艶やかだった。そして、一回、パンと発砲音が聞こえ、続いて、二回、三回と聞こえた。音が止むと、女性の姿をした黒いそれは空気の抜けた浮き輪のように縮み、薄くなり、消えていった。それが消えると、すすり泣きが一瞬聞こえた、消し忘れた蛍光灯のように空しい音だった。
 そして、僕の意識も暗い闇の中に落ちていった。
 次に気づくと朝がやってきていた。それ以降、それを見ることはなかった。

 あっという間に引越しの日はやってきて、あっという間に僕の家は空になった。
 昼過ぎにはほとんどの荷物が運び出された。引越し業者の人が丁寧に荷物を運んでいった。部屋や荷物を傷つけないよう一つ一つ、慣れた手つきで、慎重かつ素早く荷物を運んでいき、家はすぐに空っぽになった。
 いまや荷物は中型トラックの中で揺られているはずだった。僕より一足先に、彼女と僕の新しい家に向かっている。築十年程度の1LDKのマンションに僕の荷物は届けられる予定だった。
 新しい家に持っていかないものはほとんど捨てた。ベッドとか勉強机とか。ガスコンロとかタンスとか食器棚とか。彼女との生活に必要ないものは捨てていった。大体が粗大ゴミか燃えないゴミだった。
 僕が引っ越せばこの家も終わり。
 両親はすでにこの団地にはいない。少し前に団地から、家から出て行った。早めの定年退職だった。ここよりも都心から離れた、海のそばの新居に引っ越していった。この家には僕しか残っていない。僕の荷物がこの家の最後の荷物だった。そして、最後の荷物はついさっきなくなった。
 いまや、どこの部屋もがらんとしている。
 当たり前のように人の気配はない。居間も、洗面所も、キッチンも、トイレも、風呂も、僕の部屋だった場所も。どこも人の気配はしない。人の気配があるのは玄関に置いてある僕の靴だけ。あとは空で、家は何十年も放置された廃墟のようだった。
 何もない空の部屋が広がっている。
 空の部屋は不動産屋の広告かマンションの下見でしか見ることはなかった。直前まで人が住んでいた空の部屋は初めて見た。生々しさがあった。誰かが直前まで暮らしていた呼吸音が聞こえてきそうな生々しさ。自分が住んでいた家ではないようだった。長年住んでいたはずなのに、どこか他人の部屋のように思えた。
 いくつか部屋を回り、最後に僕は居間へと落ち着く。ここも何もない。ヨモギ色の畳が目に入るだけ。僕は畳の上に横になり、目を閉じる。頬に触れる畳の感触。鼻からゆっくりと息を吸う。柔らかい草の香り。そして、耳をすます。
 窓の外から声が聞こえる。
 子供の声だ。笑い声に、友達の名前を呼ぶ声、追いかける声、逃げる声。声が声に追いついて、重なり合って聞こえてくる。きっと鬼ごっこをしている。誰かを追いかけて、誰かに追いかけられている。一生懸命、楽しそうな響き。優しさもある。団地の近くの公園から声はする。声は団地の棟にぶつかり、跳ね返って、窓の開いた部屋を見つけ、僕のいる居間まで飛び込んでくる。声は随分遠くから聞こえているような気もする。芯のしっかりとした声だったけど、どこか希薄だった。ずっと昔、思い出の中の声のようだった。じっと声に耳を傾けていると、そのうち声はしなくなる。部屋の外も、部屋の中にも静寂が戻ってくる。声は聞こえない。子供達はどこかに行ってしまったようだ。
 声が聞こえなくなっても、僕は畳の上で寝転んだまま目を瞑る。何かを考えようとする。だけど、何も頭に浮んでこない。頭の中も空っぽ。家と同じだった。少しして、僕は起き上がり、家の中を見て周る。最後の点検。トイレを見る、風呂を見る、洗面所を見て、居間と二つの部屋を見て、キッチンを見る。やっぱりどこも空っぽ。生活のあとはない。人の気配もない。両親のものも、僕のものも何も残っていなかった。
 忘れものは何もない。大丈夫。
 玄関で靴を履く。この家に残った最後のものだ。僕が靴を履くと、この家には何もなくなる。人の気配が完全に消え去る。ドアノブに手をかけ、白い鉄のドアを開き、外に出る。ドアを閉じ、鍵穴に鍵をいれ、音がするまで鍵を回す。カチリと音がする。
 これで終わり。
 ドアノブを何回か引いて、鍵が掛かっているのを確認する。いくら引いてもドアが開く様子はない。鍵はかかった。もう家に入ることは出来ない。ドアは閉じた。僕は階段を下りて家から立ち去る。この家に戻ることはもうない。
 20号棟を出て、バス停に向かって歩いていく。いくつも団地を越え、公園を抜け、スーパーまで行き、スーパーの隣のバス停にたどり着く。いつも使っていたバス停で、もう使う予定はないバス停だった。
 バス停にいるのはお年寄りばかりだった。平日の昼間だからだろうか。お年寄り数人が列を作っている。僕もその列の最後尾に並ぶ。行進中のありの行列のように、きっちりとした列だった。
 少し待つと、通りの向こうからバスが現れる。バスは広場まで来ると、ぐるりと回って、バス停に入ってくる。ゆったりとした動き。遠足のあとの小学生のように疲れた動きだった。バスが止まると、次々と人が降りてきた。降りてくる人もお年寄りばかり。学生も主婦も乗っていない。待っている人よりも降りてくる人は多かった。最後に若い女性が降りてきた。女性は運賃箱に小銭を入れ、一段、一段、ステップを下りてきた。女性の足取りはどこか不安定だった。水面を歩いているようにふらついていた。
 横顔が見えた。
 綺麗な顔をしていた。丁寧に作られたガラス細工のように繊細でまとまっていた。すぐに横顔は見えなくなった。女性は僕の脇をすり抜け、バス停から離れていった。黒い髪と真っ直ぐな後姿が視界に残って、やがて消えていった。
 君だったのだろうか。
 バスに乗り込んでからそのことが頭に浮んだ。さっきの女性は君。数年ぶりで、よく顔を見ることはできなかった。確証はなかった。ただ、繊細な横顔も、黒く長い髪も、真っ直ぐな後姿も君に通じるところがあった。どこか君に似ていた。ただ、もう確かめることはできなかった。女性はいなくなり、バスは発車してしまった。そして、記憶から女性の横顔は消えていった。後姿だけが頭の中に残って、横顔は残っていなかった。もう思い出せなかった。でも、さっきの女性はおそらく君だった。そんな気がした。
 それが最後に君を見た記憶だった。

 あの夜、流星群の日の夜、君との約束を果たすため、僕は家から出た。
 テレビの音で騒がしい居間を抜け出した。両親はテレビに夢中になっていた。僕に気づくことはなかった。僕は玄関まで行くと、ドアを開け、外に出た。授業をサボって学校を抜け出すときのようにこっそりと出ていった。
 外は暗くて、明るかった。
 太陽はすっかり落ちていた。空は暗かった。だけど、夜にしては明るかった。団地の窓から漏れる明かりと街灯の明かりのせいだ。空は黒よりも紺に近い色をしていた。星はぼんやりとしか見えなかった。外は明るくて星の光は弱かった。
 階段の下から僕の家を見上げると、僕の家の窓から明かりが漏れていた。肌色の光。バラエティ番組の笑い声の効果音に合わせて、両親の笑い声も聞こえてきた。僕が家を出たことには気づいていないようだった。問題はなかった。
 僕は家の明かりを背にして、駆けるように廃工場に向かっていった。君との待ち合わせに遅れないように、流星群を見逃さないように、駆け足で廃工場に向かった。忘れ物を取りに戻るときのように急いだ。足に合わせて呼吸も速くなった。
 廃工場に近づくにつれて、明かりは減っていった。団地の明かりも街灯の明かりも少なくなった。団地は古くなり、外壁は黒ずみ、木々は増え、辺りは暗くなる。人通りもなくなる。雰囲気が変わってきた。廃工場の近くの団地は僕ら住んでいる団地とどこか違った。同じ団地のはずなのに雰囲気が違う。なんだか寂しい感じがした。人が住んでいるはずのなのに、人の気配を感じさせなかった。無人の港のように静かだった。廃工場に近づくにつれて、その雰囲気は強くなっていった。
 寂しい雰囲気の理由を考えながら歩いていた。団地が古いせいなのか、明かりが少ないせいなのか。それとも誰もいないせいなのかと、いろいろ考えながら歩いていると、突如、辺りが真っ暗になった。団地中の明かりが消えた。照明のスイッチを落としたように、一斉に光が消えた。街灯も、団地の窓も、電話ボックスも、交番も、信号も、スーパーも、コンビニも。目に入る明かりは全て消えた。ピストルで大切なところを打ち抜かれたように光は死んで、沈黙した。ただ、空から落ちてくる光は消えていなかった。星の光はさっきよりも強く輝いてた。粉々に砕けたガラス片を空中にばら撒いたように、空から光が降ってきていた。
 人工の明かりだけが消えていた。きっと停電。
 そして、全てのものは暗闇に溶け出した。今まではっきりと見えていたものは曖昧になり、暗闇に溶けていた。木々や、街灯や、電柱や電線、標識にガードレールに信号。あらゆるものは暗い影となり、夜に溶け、形を失くして、見えなくなった。
 青白い箱。
 それだけが暗闇の中で見えた。青白くて四角い箱。僕の周りにいくつも並んでいた。箱は星の光を全身で反射し、震えるように輝いていた。前を見ても、後ろを見ても、横を見ても、どこを見ても箱は並んでいた。暗闇の中にいくつも立ち並ぶ箱は、どこか遠い宇宙へのメッセージのようだった。
 そして、音も消えていた。
 セミの声も、団地から聞こえてくる団欒の声も、車のエンジン音も、タイヤが道路を擦る音も、木々のざわめきも、自転車のランプがうなる音も、誰かの咳払いも足音も、何も聞こえなくなった。ぐちゃぐちゃに混ざり合った日常の音は消えさった。真っ暗な世界に僕の呼吸音だけが残った。誰もいない。出歩いている人はいなかった。僕一人しかいなかった。ただ、怖くはなかった。暗闇の世界に一人だけだというのに怖さはなかった。まるで夢の中にいるみたいだった。浮遊するように僕は歩いた。一歩、一歩、足を進めた。青白い箱に囲まれた道を進んでいった。止まることなく前に進んだ。それが正しい道かはわからなかった。いま歩いている道の先に廃工場があるのか、その先に君がいるのかわからなかった。
 でも、僕は前に進んだ。
 この前、君と歩いた道を思い出しながら、僕は歩いた。目を瞑るように、探るように、きっとこっちだと信じて、廃工場までの道筋を想像して、間違っていない、大丈夫だと呟き、僕は歩いた。星の光と青白い箱を頼りに、記憶の案内に沿って歩いた。
 やがて、青白い箱は途切れた。
 道の先に真っ黒い影が見えた。周りの暗闇よりも濃くて暗い、巨大な影だった。時計の長針のように地面から伸びていた。影の中心には大きな穴があった。周りの影よりもずっと暗くて黒い穴だった。その中には何があるのかわからなかった。外からだと、その穴の中の様子を知ることはできなかった。中に何が待っているかわからなかった。真っ黒。まるで君が持っていた未知の世界に載っていた大穴のようだった。
 僕の足は止まった。
 前に進もうと思っても、足を踏み出そうとしても、僕の足は僕の言うことをきいてくれなかった。動かなかった。靴底がコンクリートに貼り付いて、足は上がらなかった。僕は黒い穴の前で立ち尽くした。黒い影とその中の穴を眺めるだけ。他には何もできない。一歩だけでよかった。軽く足を上げて、一歩前に踏み出す。それだけ。それだけですれば、あとは勝手に動いてくれるのに、その一歩が踏み出せなかった。僕は立ち尽くして、止まってしまった。廃工場の中で待つ君や踊り場で空を見上げる君、暗闇の中で佇む君のことを思って、僕は前に進もうとした。足を踏み出そうとした。
 でも、暗闇の先に進むことはできなかった。
 怖かったんだ。
 黒い穴の中がどうなっているのかわからなかったし、先に進むとどうなってしまうのかもわからなかった。中に何が潜んでいるかもわからなかった。君が中で待っているのかもわからなくて、不安で、怖くて、僕は暗闇の中に足を踏み出すことができなかった。一人で暗闇の中に入っていくことができなかったんだ。中に入ると、二度と戻ってこれない気がした。あそこに入るとそれっきりで、それで僕は終わり。ここには帰ってこれない。中で君が待っているかも知れないのに、中に入ると何が起きるのかわからなくて、僕は怖くて、不安で、暗闇の中に入ることができなかった。暗闇の中の様子がよくわからないから、嫌な想像も広がって、もし入ったら、黒い影に僕は取り込まれ、周りの暗闇に同化して、溶けてしまい、バラバラになって、何も考えられなくなって、記憶も感情もどこかに消え去って、僕は僕でなくなり、僕はなくなってしまいそうで、僕は怖くて、進むことができなかった。背を向けてしまったんだ。
 気づくと、僕は団地へと引き返していた。街灯と団地の窓の明かりが僕を照らしていた。いつの間にか光は戻っていた。廃工場から遠く離れたところに僕はいた。足は勝手に動いていた。見慣れた世界が広がっていた。星は曖昧になり、見えなくなっていた。流星群も見えなかった。歩きながら、大丈夫と僕は言った。停電できっと君も来ていなかったと、君は廃工場で待っていなかったと、あの中には誰もいなくて、廃工場で君は待っていなかった、家にいて、流星群のことなんてきっと忘れている、大丈夫と僕は呟いた。
 ぼんやりとした空に僕の言葉は響いて消えた。

 永遠に続きそうだった白い壁も終わりがやってきた。
 なだらかなカーブを描いていた白い壁は直角に折れ曲がり、壁の先には幅の広い道路が広がっていた。そして、道路の先、向こう側には廃工場があった。
 廃工場は変わっていなかった。
 煤で黒く汚れた外壁も、ガラスが一枚もない窓枠も、屋根が焼け落ちて吹き抜けになっている天井も、白く乾いた立ち入り禁止のテープも、大きく開いた真っ黒な入り口も全て同じ。昔のままだった。
 ただ、あの時感じた怖さはなかった。
 ただの廃墟。廃棄された工場。暗闇の中に何かが潜んでいることもなければ、暗闇に溶けてしまうこともなかった。僕の目の前に存在しているのは、誰も利用していない、煤にまみれた廃工場だった。
 だけど、僕の足は止まった。中に誰かいないかと考え、廃工場の前で止まった。中高生だったり、若いカップルだったり、逃げ場を求めた殺人犯だったり、廃工場で生活をしている人だったり、廃工場にいそうな誰かを想像して、僕は足を止めて、入り口を見つめる。真っ暗。音はしない。呼吸音も聞こえない。廃工場の中は深い眠りについたように静かだった。大丈夫、いるわけない。こんな団地の外れの廃墟にいる物好きはいない。軽く笑って、僕は足を踏み出す。ずっと昔、僕が入ることが出来なかった場所に入っていく。暗闇の中に足を踏み入れる。
 中は真っ暗。でも、外から見るよりも暗くはなかった。それに真っ暗だったのは最初だけ。時間が経つと、暗闇に目が慣れ、中の様子がわかってくる。
 大したことはなかった。
 君と二人で忍び込んだときと変わりはなかった。煤で汚れていて真っ黒。ところどころ燃えカスが残っている。それだけ。中高生も若いカップルも、殺人犯も廃墟に住んでいる人もいなかった。それに化け物も幽霊も宇宙人もいなかった。何もなかった。ただの暗くて巨大な空間だった。何も起こりそうもなかった。
 見上げると、綺麗に空が見えた。
 すっぽりと焼け落ちた天井。四角く切り取られた空。いくつも光が落ちてきている。周りの人工の光に干渉されることなく、星は力強く輝いている。どの星も点滅を繰り返していた。白だったり、青だったり、ほのかな赤だったり。まばらに輝いていた。綺麗な星空が広がっていた。
 流星群も綺麗に見えただろうな。
 あのとき帰らなければ、きっと流星群はよく見えたはずだ。廃工場の中から何百もの星の雨が。君と一緒に来れば、いろいろなものが見えたかもしれない。でも、君とあの日会うことはなかった。この中で出会うことも、流星群を見ることもなかった。もう過ぎた話だった。
 僕は奥に向かって足を進める。廃工場の一番奥の壁には階段が張り付いている。昔、君と二人で上がった踊り場まで行く階段だった。変わっていない。昔と一緒。階段の上で思いっきりジャンプをすれば、今にも崩れそうだった。くたびれた階段。
 僕が上っても大丈夫かな?
 少し不安だった。だけど、とりあえず階段に片足を乗せてみる。きしむ音がする。でも、足元はしっかりとしている。もう片足を階段に乗せる。またきしむ音がする。階段は変わらない。しっかりとしている。崩れたり、底が抜けるようなことはなさそうだ。大丈夫。僕は手すりを掴み、一段、一段、ゆっくりと階段を上っていく。手すりを掴んだ手からざらついた感触が伝わる。たぶん手すりは錆びだらけ。暗闇の中で確認することはできないけど、きっとそうだ。
 20段とちょっと階段を上がると、踊り場にたどり着く。
 踊り場も変わっていない。昔と同じように控えめに壁にくっついていた。ここだけは燃え落ちることなく、残っていた。出番を過ぎても舞台袖に戻らなかった役者のように少し間抜けな感じがした。
 床に座り、空を見上げる。大分星が近くなった。手を伸ばせば掴めそうだ。試しに右手を伸ばしてみる。右手は空を切る。左手も伸ばしてみる。右手と一緒。空を切るだけ。星を掴むことはできない。何度か両手を空中で振り回してみたり、手を握ってみたりしたけど、星を掴むことはできなかった。
 当たり前か。
 諦めて手を下ろすと、右手に何かが触れる。硬い感触。ただ、床とか手すりとかと同じ金属ではない。もっと別のもの。木に近い感じ。それを探り、形を確かめて、箱だとわかる。木箱だ。A4の紙が入りそうな大きさ。さらに蓋を見つけて、箱を開ける。中を確認する。何かが入っている。暗くてよく見えない。指先の感触からすると、中に入っているものは厚い紙で覆われていて、1センチほどの厚さだ。取り出して確認してみると、どうやらそれは本だということがわかった。
 表紙を開き、本の中を見る。
 黒い影のようなものが見える。大きな記号のような黒い影が本の中に写っていた。目を凝らしてみると、木や枝や葉のようなものが見えた。写真だ。森か何かを写している。どのページを見ても、大きな黒い影が見えた。何枚かページをめくり、写真を見ていくうちに、僕は思いだした。
 それは未知の世界だった。
 あのとき、君が大切にしていた写真集だった。
 そして、写真集から何かが落ちた。屈んで、床に落ちたそれを拾う。それはポラロイドで撮られた写真だった。暗闇の中で薄っすらと子供が見えた。男の子と女の子の二人。野原の中の鉄塔を背景に子供たちは写っていた。どちらの子供も懐かしい顔をしていた。二人の子供はしっかりとそこに存在していた。微笑んでいた。
 暗闇の中には懐かしいものが残っていた。あの頃と変わらず存在していた。

 君は真っ白な日差しの中にいる。熱くて強烈な日差しだ。視界に映るものは全てぼやけている。道路も歩道もガードレールも家も街灯も街路樹も全部だ。日差しに晒され、溶けて、曖昧になっている。空もぼんやりとしている。青いはずの空の色は、白い絵の具で薄められたようにはっきりとしない。
 君の視界の先には犬が三匹いる。真っ黒い犬だ。
 犬は他のものと違い、存在感があった。はっきりとしていた。白く強烈な日差しの中でも、埋もれることなく、輪郭を保ち、堂々としていた。真っ黒な毛が光を照り返し、体のところどころが輝いていた。
 大きな屋敷のケージの中に犬はいた。
 二匹は大きい体をしていた。おそらく雄だった。君の身長とほとんど同じ大きさ。一匹は二匹よりも二回りほど小さかった。きっと雌だった。
 二匹の雄犬は向かい合い、吠えあっていた。いまにも飛びかかりそうだった。熱くなっていた。口元を震わせ、よだれを垂らし、互いを牽制していた。口元から飛び出る白い歯がとても凶暴だった。理由は知らない。さっきからずっとそうだった。二匹の犬は向かいあって、吠え、何度も首を振り、うなり、威嚇して、目玉をぎょろつかせて、相手を噛む機会をうかがっていた。今にも殺し合いを始めそうだった。
 一匹の雌犬は泣いていた。声を上げながら、両目から涙を零していた。瞬きするたびに涙は弾けた。涙の破片はシャボン玉となって、空中に浮き上がった。シャボン玉もまた弾けた。パチンと。空中で弾けて消えた。止まることなく雌犬は泣いていた。そのたびに、シャボン玉が浮き上がった。泣いている理由はわからなかった。
 それは君が初めて見るものだった。殺し合いを始めようとする犬も、大粒の涙を流す犬も、君は見たことがなかった。短い人生の中で出会ったことのない異様な光景だった。ただ、どこか君を惹きつけるものがあった。惹きつけるもの正体が何なのかはわからなかった。それに君は自分がその光景に惹きつけられていることを自覚していなかった。それほどまでに君は幼かった。
 視線を横にずらすと、少女がいた。
 少女はケージの脇にしゃがんで、犬を見ている。少女は犬と同じようにはっきりとしていた。日差しに埋もれることはない。着ている服の色や少女の体型は、はっきりとわかった。小さい女の子だ。おそらく小学校にも上がっていない。君と同い年くらいの年齢。麦わら帽子を被って、空色のワンピースを着ている。表情は平坦。しゃがみこみ、視線を動かすことなく、少女は犬を見ていた。映画のクライマックスにでも差し掛かっているように、犬から目を離すことはなかった。悲しんでいる様子も、切なくなっている様子もなかった。ただ、瞳と興味を向けているだけだった。
 君は立ったまま、遠くから犬を見つめ、少女を見つめていた。近づくことはなかった。立って見ているだけ。犬に近づくことも、少女に話しかけることもなかった。
 君は何度か少女に話しかけようと考えた。犬のことを話そうかと、少女自身のことをきこうかと考えた。でも、言葉が見つからなかった。なんて話せばいいのかわからなかった。君は近づくこともできず、眺めているだけだった。
 そして、君は早く帰って来いという親の言葉を思い出した。暗くなる前に、寄り道をせず、家に帰って来いという言葉だ。君はそのことを思い出し、家に帰ることにした。犬に近づくことも、少女に話しかけることもせず、犬と少女に背を向け、家に向けて歩いていった。歩いているとき、背後から犬の鳴き声が聞こえた。でも、君は立ち止まることはなかった。鳴き声を背にして歩いていった。大きな屋敷から離れていくと、犬の鳴き声は小さくなり、声は聞こえなくなった。
 君は立ち止まり、後ろを振り返った。
 誰もいなかった。
 そこには犬も少女もいなかった。君の目の前には道路が広がっているだけだ。道路には君しかいなかった。道路は強烈な日差しに晒されていた。いまにも真っ白い世界に飲み込まれようとしていた。
 そして、君は前に向き直り、歩き出した。引っ越してきたばかりでまだ慣れていない道を歩いた。ときおり止まっては、帰り道を思い出し、新しい家に向けて足を進めた。もう君の頭の中からはさっきの光景は消えていた。家に帰ることだけが頭の中にあった。

 目を覚ますと、電車は止まっていた。
 車内はがらんとしている。僕以外の乗客はいない。エアコンから冷たい風が吹き出て、車内の空気を掻き混ぜている。中吊り広告が揺れている。車内はひんやりとして、いつのまにか汗は乾いていた。僕の両手は膝の上のものをしっかりと握っていた。手の中には写真集があった。
 大丈夫、なくなっていない。
 窓の外に目をやり、看板の駅名を確認する。電車に乗り込んだときから駅は変わっていない。団地から一番近い駅。電車はまだ発車していなかった。止まったままだ。駅の天井に吊るされた時計を見る。出発まで数分ある。車内や駅のホームを見ても、トラブルが起きている様子はない。遅延のアナウンスもない。このまま座って待っていれば、問題なく電車は発車しそうだ。
 窓の外は強い日差しが降り注いでいた。真夏の朝の日差し。出歩くには不向きな日だった。空は真っ青で汚れひとつない。さっきまで夜だったことが信じられないくらい強烈な朝。夜はどこかに行ってしまったようだった。
 外を眺めているうちに、また瞼が重くなってくる。一晩中、外にいたせいだ。いくら眠っても眠り足りない。すぐに意識が曖昧になる。写真集を膝の上に乗せたまま、僕は遠くの世界へと引きずり込まれていく。焦点は定まらない。視線が泳ぎ、車内とホームをさまよい、ふらつき、瞼は重くなり、やがて閉じる。僕の意識は僕から離れ、僕はどこかに消えていく。何も聞こえなくなる。何も考えられなくなる。
 真っ暗。
 発車のベルの音と、自動ドアが閉まった音と、ガタンとした振動と、頭をガラスにぶつけた衝撃で、すぐに目を覚ます。意識が呼び戻される。
 窓の外の景色が流れ始める。看板や階段、自動販売機や案内板が右から左へとゆっくりと流れる。
 そして、ホームの中央付近に電車が差し掛かったとき、一人の少女が目に入った。階段のそばに少女はいた。電車に背を向けていて、顔は見えない。どこかを見つめていた。
 電車とすれ違う瞬間だった。
 少女は振り向いた。
 黒い髪がくるりと宙に舞う。好奇心の強そうなまん丸の瞳が目に入り、僕と目が合う。すっとした鼻筋、綺麗な弧を描いた眉、意志の固そうな薄い唇。少女は口角をキュッと上げ、左手を軽やかに上げる。淀みのない動作。そして、少女は口元を動かし、何かを言う。左手を振る。左右に何度か振る。軽く、からぶきをするような感じで。笑っていた。明るい顔をしていた。真夏の海のように輝いていた。変わらぬ笑顔だった。
 一瞬、呼吸が止まった。
 胸の奥に何かが詰まって、息ができなくなった。苦しくて、息を吸いたくて、でも、吸えなくて、僕は息を吸う代わりに瞼を閉じた。そして、すぐに開けた。だけど、少女はいない。階段のそばにも、駅のホームのどこにも少女はいなかった。もう一度、瞼を閉じ、きつく瞼に力を入れ、開けて、少女を探す。
 でも、いない。少女はどこにもいなかった。
 きっと気のせいだ。ホームには誰もいなかった。疲れているだけだ。目を瞑る。もう一度、寝てしまえば大丈夫。何も考えず、寝てしまえばいい。でも、何十秒待っても、何分待っても、意識は落ちない。電車が揺れる。レールと車輪がこすれる音がして耳元がうるさい。音はどんどん大きくなって、振動が空気を伝って、僕の鼓膜を叩き続ける。眠りたいのに音は僕にまとわりつく。意識を叩き起こす。手に力を入れ、膝の上の写真集をしっかりと握る。だけど、どこか現実感がない。写真集は存在していないみたいだ。しっかりと握っているはずなのに、どこか不安定だ。もう一度写真集を指先で確かめ、力を入れ、瞼にも力を入れ、強く閉じる。色々なものを締め出すように閉じる。でも、耳元がうるさい。耳元だけじゃない。瞼の中もうるさい。瞼の向こうから光が差し込む。暗い世界に行きたいのに、落ち着く世界にいたいのに、瞼の中は真っ白に輝いている。強烈な日差しが僕の瞼を突き破り、僕の目玉を照らし出す。強い光が僕の内側を照らす。瞼を閉じた世界は、赤く、白く、輝いている。暗いはずの世界はどこよりも、明るく輝いている。真夏の朝の光が暗い世界に突き刺さる。
 クソ、眩しい。

素晴らしい未来へようこそ

素晴らしい未来へようこそ

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-09

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