落ちる人 (少女探偵Sの事件簿3)

シリーズ3作目です。(400字詰め原稿用紙換算61枚)

1

「困ったことになった」と法月さんが言った。
 法月さんは依頼人が「困ったこと」を携えてやって来るのが大好きだったし、何か問題が起こった時でも、大抵の場合はむしろそれを解決すること自体を愉しむ方だったので、そんな風に言ったことはなかった。なので僕はびっくりした。
「どうしたの」
「妙な噂が流れてるんだ」
「噂?」
「校内に、おはじきが落ちていることがある。それを拾って七つ集めると、願いが叶う」
「……それでどうして法月さんが困るの」
「話すと長い」
「……そう」
 自分から話題を振ったくせに、と思わなくもなかった。が、僕はスケッチブックの上で鉛筆を動かすことに熱中していたので、特に深追いしなかった。法月さんはパソコン画面に向かって何やら打ち込んでいた。

 ざわめく教室の中で、その噂をはじめに聞きつけたのは高橋さんだった。活発な彼女は、「なになに、なにそれ?」とその話題の中に入り込み、ひととおり情報収集すると、僕たちのところに戻ってきた。
「ガラスのおはじきを七つ拾い集めると、願いごとが叶うんだって」
「おはじき?」けげんな顔で問い返したのは須田くんだ。
「おはじき知らないの?」
「いやおはじきは知ってる。しかし、そんなものそこいらに落ちてるか?」
「それがね、校内でたまに落ちてるらしいの。で、それを拾って七個揃うと」
神龍(シェンロン)が出てくるのか?」
 高橋さんは神龍を知らなかったので、須田くんがひととおり説明をした。
「でも、おはじきって懐かしいね。小さい頃、よく遊んだな。きらきらしてて、綺麗だよね」
 持田さんが言った。僕が相づちを打っていると、横から高橋さんがおののいたような顔をして言った。
「私、おはじきで遊んだことなんてないわよ。メイ、私たまに思うんだけど、あんたほんとにうちらと同い年?」
「おばあちゃんに教えてもらったんだ」持田さんはにこにこして言う。
「しかし中学生にもなってそんなの信じたりするんだな」と須田くん。
「シェンロン?が出てくるなんて思ってないけどね」
「え?高橋さんも信じてるのか」
「別に害はないでしょう?」高橋さんは勝気な笑みを浮かべ、持田さんに意味ありげに目配せした。
「好きだな女子は。こういうの」
「渡瀬くんはどう思う?」高橋さんが僕に振った。
「……この噂で得する人と困る人って、どんな人かな」僕は言った。
「ダメだ。思考があさってに行ってる」
 高橋さんが、「オーノー!」と両手のひらを上向けて大げさに嘆くようなジェスチャーをした。
「おはじきを売ってるお店が得をして、買って落とした人は損をする、かなあ?」持田さんが、うーん、と考えた末に言ってくれた。
「落ちてるってのは、うっかりで落としてるのか?」須田くんがつっこむ。
「ええと、じゃあ、お店の人が、おはじきの綺麗さをみんなに知ってもらうために蒔いてるとか」
「お店の人は学校には入れない。おはじきのよさを広めたい人が蒔いている……わかった、メイ、さては犯人はあんただな?」
 高橋さんがポーズを決めて持田さんを指さしてみせた。持田さんが「え~?」と笑う。その時チャイムが鳴ったので、僕たちは席に戻った。 

「おはじきの噂、僕も聞いたよ」
 探偵部室で僕は言った。その日も依頼人の予定はなかった。法月さんは、紅茶を淹れているところだった。
「法月さんは、おはじきで遊んだことってある?」
「ないな」
「小さい頃、どんな遊びした?」
 法月さんは、ティーポットを高く掲げてカップに紅茶を注ぎながら、「スージーズ」と言った。
「なにそれ」
「数字を擬人化して、彼らを動かして遊んでた」
「……人形遊びってこと?」
「人形はない。想像の中で動かすんだ。0から9までいた」
 思い出して来た、と法月さんは十人のキャラクターについて説明し始めた。0はぶかっとした異世界風の服を着た色素の薄い男の子。1は元気いっぱいの男の子。2はツインテールのおしゃまな女の子。3は気障な男の子。4はおしとやかな髪の長いお姉さん。5は眉毛の太い男の子。6は腰の低い着物姿のおかっぱ少女。7は目立ちたがりのマント姿の長髪男。8はちょっとふっくらした、しっかり者の着物の女の子。9は陰気なお兄さん。
「懐かしいな。彼らの生年月日と血液型まで決めてたよ」法月さんが、スケッチブックをめくっている僕の前にティーカップを置いてくれた。ありがと、と言いながら、
「想像ってことは、一人で?」訊ねると、
「いや」法月さんはソファの僕の隣に腰かけて、自分のティーカップから漂う香りに微笑んだ。「真梨亜と」
 彼女の名前が出たことに、僕は少し身構えて法月さんを見た。法月さんは平然とした表情で、ティーカップを傾けた。
「私は0がお気に入りだったんだけどね。真梨亜は2にいっぱい喋らせるのが好きだった」言いながら、法月さんは僕を見て、ちょっと困ったように笑った。「空想の中で作った彼らと、真梨亜のこと、はっきり区別できる。だから真梨亜は存在していたと、私はそう思いたいんだけどね」
 はじめて「真梨亜」の存在について聞かされた時から、ひと月近く経っていた。学校施設内が冷暖房完備であることが心底ありがたい、そんな蒸し暑い、夏休み目前の頃だった。ちょっとした依頼がたまにあっても話しただけですぐ解決したりして暇な日が続いていたけれど、法月さんはおとなしかった。はっきり言って、元気がなかった。夏が苦手なんだ、と法月さんは言っていた。こんなに快適な学校でどうして、と思った。冷房が苦手なの?と訊くと、それもあるけど、と言った。編入後に新しく買った僕のスケッチブックは、二冊目に突入していた。
「そういえば昨日、おはじきの噂は困るって言ってたよね。なんで困るの?」
「……それ」
 法月さんは脇に置いてある棚の上を指さした。初めて探偵部室に来た時から置いてある、金属製の小鳥の置物と、……ガラスのおはじきがいっぱいに入った金魚鉢。
「おはじき……え?」
 僕はそこにおはじきがあることを知ってはいたけれど、これまでほとんど意識したことがなかった。今の今まで、「噂」と結びつけてもいなかった。
「え?まさかそれ全部、校内で拾ったおはじき?」
 僕は驚きの声を上げたけど、法月さんは首を振った。
「ちがう。……その逆」
「逆?」
「校内に落ちているおはじきというのは、元はここにあったもの。私が……置いたものなんだ」
「置いた?なんで?」
 僕は訊ねた。法月さんは、平静を装うようにティーカップを傾けてひと口飲むと、言った。
「初めて会った時、私が探し物をしていたのは覚えてる?」
「もちろん」
「あの時探していたのは、このおはじきなんだ」
 初めて彼女を見た時、彼女は繁みの中を這いつくばって覗いていた。彼女はそれを、「僕の興味をひくため」であると同時に「実際ちょっとした探し物をしていた」のだと言っていた。でも……
「ちょっと待って。校内で見つかるおはじきは、法月さんが置いたものなんだろう?それを何で探すの?」
 法月さんは、ティーカップをテーブルの上に置くと、唇を結んだままじっと僕を見た。僕は意味がわからず、けれどあまりにもまじまじと見るのできまり悪くて視線をそらした。
「……この話はまた今度」そう言うと、法月さんはぷいっと顔をそむけるようにして立ち上がった。

2

 事が起こったのは、その日の夜だった。晩ごはんを食べ終えてのんびりしていた夜の九時過ぎ頃、インターホンのチャイムの音が響いた。インターホンの受話器をとると、「法月です」と声がした。「え?なんで?どうしたの?」僕はうろたえながら玄関から出た。法月さんの家は駅も違うし、たぶんここから四十分はかかる。僕は彼女の家に行ったことなどないし、これまで法月さんがうちに来たこともなかった。何よりこんな時間に突然来るなんて、一体どうしたというんだろう。
「何かあったの?」
 彼女はじっと押し黙ったまま、僕を見ていた。彼女はまだ制服を着ていた。夏服の半袖の白とそこから覗く腕の白さが、ポーチライトに照らされて暗い夜の景色の中に浮かび上がっていた。長い睫に縁どられた、大きな目が潤んでいた。
「何か緊急の依頼でもあったの?」
「……依頼といえば依頼だけど」
 彼女は眼をそらした。なんだか少し、様子がおかしい気がした。
 家に入って、というべきか、でもそれはそれで母親にどうつっこまれるか、といろいろ考えていると、その母親が扉を開けて「敦?」と呼んだ。
「あ、学校の友だちで、その……」僕がうろたえていると、
「クラスの子から電話。急ぎだって言うから」
母さんは法月さんに向かって、ごめんね、よかったら上がって、と促した。僕は一人で先に家に入った。
「もしもし」
 居間に行き、保留になっていた電話に出ると、かけてきた相手は須田くんだった。
「どうしたの」
「持田さん、そこにいるんだな?」
「え?」
 どうやら誤解が生じているようだった。母さんが、「今女の子が来ている」と須田くんに言ったらしい。須田くんは、それが持田さんだと思い込んでいた。僕が否定してもしつこく疑うので、僕はついさっき法月さんがやって来たのだと説明した。
「なんだ、そういう関係なのか」
「ちがうよ」
「そういう関係ってどういう関係を想定して答えてるんだ」
「須田くんの想定した関係を想定してるよ」
「まあいい。それどころじゃない。持田さんが行方不明だ」
「え?」
 持田さんは吹奏楽部に入っているけれど、ちょうど夏のコンクールが終わったところなので、活動は今週は自主練習のみになっているらしい。だから昨日一昨日と、帰宅時間は普段より早かった。ところが今日はまだ帰ってきていないのだという。
「持田さんは携帯電話持ってなかったっけ」
「持ってる。でも、どうやら電源が切られているらしい。連絡もない。今までは連絡もなく遅くなるなんてこと、一度もなかったらしい。持田さんのお母さんがパニクって高橋のところに電話をかけてきて、高橋が俺に相談してきたんだけどな。とりあえず、他にも何人かには電話して訊いてみる。でも、あんまり大ごとにすると後で本人が気まずいしな。とりあえず高橋と、行きそうな場所に探しに行こうって話になってる。おまえも来るよな」
 須田くんと待ち合わせの約束をして、電話を切った。たまにしかなかったけれど、探偵部への依頼が複数重なった時には、僕たちは分担して別行動をとることにしていた。持田さんの件は「依頼」ではないけれど、重要度も緊急性もおそろしく高い。法月さんが持ってきた依頼内容はわからないけれど、今日は僕はそちらでは動けないことを伝えないといけない、と思った。法月さんの様子がおかしいことは、少し気になるけれど。
 法月さんは玄関の隅に、居心地悪そうに立っていた。母さんが上がるように促し、法月さんはそれを固辞し、母さんがにこやかに僕たちの関係について探りを入れ、法月さんは曖昧に答え……ということが繰り返されていたようだった。僕が行くと母さんは「あらやっと来た」と言って法月さんに笑いかけた。法月さんは固い表情で軽く頭を下げる。
「これ、ポストに入ってたわよ」母さんが去り際に、僕に何か手渡した。白い封筒の表書きを見て、僕は思わず法月さんを見た。法月さんは片腕を押さえるようにして立ったまま、浮かない顔をしていた。僕の視線に気がついて、目が合う。
「君の妹からみたい」
 僕は言った。法月さんの大きな目が、何かが流れ込んだように揺らぐ。白い封書には、宛名として僕のフルネームだけが書かれていて、住所もなく、切手も貼られてはいなかった。そうしてその字は法月さんが、右手で書いたものとそっくりだった。
 僕は封を開けた。
 中には白い便箋が一枚入っていた。そこに書かれた黒いインクの文字も、やはり法月さんが右手で書いたものそのものだった。
「なんて書いてる」法月さんが訊ねた。
「さっきの電話、僕のクラスメイトの持田さんが行方不明になってる、っていう内容だったんだ」僕は言った。「で、これ」僕は手紙を、そのまま法月さんに差し出した。
 手紙には、「持田メイは学校にいる」と書いてあった。
「その。……そういうわけだから、はじめの依頼の方、今回僕はパスしようと思ってたんだ。でも、こっちの件に君の妹が絡んでいるなら、君はこっちの方に関わるべきだし……はじめの依頼の方は、どんな内容なの?」僕は訊ねた。
「依頼じゃない」
「え?さっき依頼って言わなかった?」
「依頼というか……ちょっと、私が、頼みたいことがあっただけ」
「法月さんが?」
「うん。でも、いいんだ。そっちは気にしないで。大したことじゃないんだ」
 わざわざ夜にやって来て、大したことない、はずはない。けれどもそちらを優先できない以上、さらに訊くことはしにくかった。
 僕は須田くんに電話をし、まずは学校を探した方がいいから制服で来るよう話した。「何か知ってるのか?」須田くんはいぶかしがったけど、とりあえず会ってから説明するから、と言って、僕はすぐに高橋さんにも伝えてほしいと告げて電話を切った。二階に上がって制服を着ると、母親に事情を説明して家を出た。

3

 駅はまばらに人が行き交っていた。改札を抜けていく制服姿の僕たちは、少し人目をひいているかもしれなかった。法月さんの家は僕とは反対方向だから、一緒に電車に乗ったことはほとんどない。
「変な感じだね」
 吊革に掴まって、僕は言った。黒い鏡と化した窓ガラスに、並んで立つ僕たちの姿が映っている。
「なにが?」
 むっつりと黙りこんでいた法月さんが、間を置いて問う。
「こんな時間に、こんな風に学校に行くなんて」
「そう?」
「夜の学校なんて、行ったことないし」
 法月さんはつまらなさそうに目をそらした。席に座ったおじさんが、法月さんに見とれていた。三駅で、学校の最寄り駅に到着する。
「君はあの手紙を私が書いたと、どうして思わないの?」
 ホームは人でごった返していた。その中を掻き分けるようにして、僕たちは歩いていた。ざわめきの中、彼女は澄んだ声で、僕に問いかけた。
「だって、違うでしょう?」
 集団が通り過ぎてやっと法月さんの隣に戻りながら、僕は言った。
「ある仮定について、よく考えもせずに切り捨てるのはあまりにも危険だと思わない?」
「もし法月さんが書いたとしたら……持田さんが学校にいる、とわかったってことだ。でも、そしたら僕に口で言ったらいいのに、わざわざ手紙にする意味がわからないよ」
「そんなの、知らないふりをするために決まってるじゃないか」
「なんのためにそんなことするの」
「私が持田さんをさらって、どこかに閉じ込めて、それから何も知らないふりをして君の家に行って、何も知らないふりをして一緒にここまで来た、としたら」
「……そうなの?」
「私はちがうと思う、けど」
「じゃあちがうよ」
「だから、そんな風に決めてしまうのが危険なんだ」
「……言ってることがめちゃくちゃだよ」
 法月さんは顔色が悪かった。ホームから改札に向かう途中のベンチに、僕は法月さんを座らせた。
「ごめん。夏は調子が悪いんだ」法月さんは言った。どうも、体調のことだけではないようだった。
「高橋さんは家が遠いから、もう少し時間がかかると思う。ここでちょっと休もう。何か飲み物でも買ってこようか?」
 法月さんは首を振った。座っていた女の人が立ち去ったので、僕は法月さんの隣に腰を下ろした。
「学校には、何も言ってないんだよね?」法月さんが言った。
「うん。……まだそこまで大ごとにしたくないって」
「……真梨亜が持田さんをさらって、学校のどこかに監禁したとする。可能性の高い場所を、私はいくつか挙げられる」
「うん。そこから探したらいいと思う」
「それで、その場所で発見できたとする。持田さんは、私にさらわれたと証言するだろう。犯人は法月紗羅だ、って」
「……言ったらいいじゃないか。いや、僕が言うよ。それは法月さんじゃなくて、法月さんの双子の妹なんだ、って」
「そんなの誰が信じる?」
「信じるよ。僕が信じてるんだから」
「……私は信じられない」
 僕は少しむっとした。
「僕の友だちが信じられないの?」
 そう言うと、法月さんははっとしたように顔を上げた。顔色が悪いのに加えて、目も潤んでいた。ひどく弱り切った、かなしそうな顔に見えた。
「ちがうよ。私は、私が信じられない」
 かかとで床をこつんこつんと叩きながら、法月さんは言った。僕たちの前を、たくさんの大人たちが足早に通り過ぎる。
「だって、おかしいと思わない?私が君の家に行ったのはこれが初めてだよ。その日にそれが起こった。私がいる時に、私の字で書かれた、直接投函された手紙がポストに入ってた。それに……」
「もし君がやるとしたら、こんなわざとらしいことしないと思う」
「君がそう思うのを見越しているんだよ」
「だって、何のためにこんなことするの?」
「動機なんていくらでも考えられる」
「たとえばどんな?」
「たとえば……」
 法月さんは自分の足を見つめていた。うつむいたまま、ふふっと少し笑った。
「朱色のしるしの事件の時の、文木さんって覚えてる?」
 唐突に、法月さんは訊ねた。
「覚えてるよ」
「彼女は先輩とつきあうことになって、部活なんてどうでもよくなってたね」
「まあ……そんな感じだったね」
「人は恋に落ちると、他のことなんてどうでもよくなってしまう」
「それは人によると思うけど」
「中学生なんて大抵そうだ。彼氏や彼女ができたら、浮かれて夢中になって、それがすべてになってしまう」
「法月さんも中学生だよね」
「私のことはどうでもいい」
 法月さんは顔を上げると、僕をまっすぐに見た。何かをひどく訴えたがっているようなそんな表情で、なのにそれ以上、何も言ってはくれなかった。

4

 改札を出ると、そこにはすでに須田くんと高橋さんがいた。僕に気がついて手を挙げ、そして僕の隣に法月さんがいるのを見て、えっという顔をする。
「探偵部、だし。人を探すんだったら、いた方がいいと思って」
 僕は言った。高橋さんはむっとした顔をして、法月さんを上から下まで品定めするように見ている。
「で、なんで学校なんだ?」
 須田くんが訊ねた。
「その……こんな手紙をもらったんだ。僕の家のポストに入ってた」
 僕はポケットから例の手紙を取り出すと、二人に見せた。高橋さんはますます顔をしかめた。「……どういうこと?」
「わからないけど……学校にいる、というなら、学校にまず行ってみるべきなんじゃないかと思って」
「なんなの?誘拐なの?それでなんで学校?学校関係の人が犯人?っていうかなんでその手紙が渡瀬くんの家のポストにあるの?」
 高橋さんは、詰め寄るような調子で矢継ぎ早に僕に訊いた。須田くんが、彼女を落ち着かせるように、その背中を軽く叩く。
「詳しいことは何もわからない。わからないけど……たぶん、持田さんは無事だと思う」
「なんで?」横からそう訊ねたのは法月さんだったので、僕は少し驚いた。
「なんでって……」
 法月さんの妹は、そんなにひどいことをしたりはしないんじゃないか。
 法月さんを騙って山科さんを脅したのは、確かに決してよろしくないことだけど、それで誰かが怪我をしたりということはない。
 彼女は水戸さんに唐辛子入りのウォッカを渡したけれど、それを無理矢理飲ませたわけではない。水戸さんは、自分でそれを飲んだわけだし。
「……きっと犯人は、極悪人ってわけじゃないと思うから」僕は言った。
「犯人が誰か、わかってるの?」
 高橋さんの問いは、悲鳴に近い。
「……とにかく行こうよ」
 僕は言った。駅の時計は九時四十分を過ぎていた。

 当然と言えば当然なのだけど、正門は閉ざされていた。乗り越えて行こうかという話も出たけれど、防犯カメラがあるからやめた方がいい、と法月さんが言った。
「死角の場所を知ってるから」
 法月さんが先を立って歩くのに、僕たちはついて行った。学校の敷地を囲む生垣の、特にうっそうとしたある地点で法月さんは足を止めた。
「ここはあのカメラで監視されている。でもあのカメラは定期的に角度を変えていて、かなり広範囲をチェックしている。あのカメラが別の方向に向いて、またここを映しに戻るまで四十秒ある。その間にここを抜ければ問題ない」
 そう言うと、法月さんはみっしりと繁ったしげみに身体を載せるようにして、覆いかぶさるように上から生えている木の枝を掴みながら移動し、向こう側に飛び降りた。後ずさりするように数歩下がって生垣から距離をとったその時に、斜め上に設置されているカメラがくいっと首をこちらに戻した。「この地点からは映らない」法月さんは自分が立っているところに、靴の先で印をつけた。
「……泥棒みたいね」
 高橋さんが言った。いやがるのかと思ったら、毅然とした表情をして前に進み出て、法月さんがはじめにいたのとまったく同じ地点に立った。カメラが向こうを向くと、高橋さんは忠実にさきほどの法月さんのやり方を真似て、同じように上の枝を掴みながらしげみを乗り越えた。「先に行っていいか」須田くんのことばに、僕は頷く。須田くんは太っているけれど運動神経はかなりよくて、バスケや跳び箱なども得意だった。彼は先の女子二人とは別の地点にずれると、法月さんに防犯カメラに映る範囲を確認した。タイミングを計るようにカメラを見つめていたかと思うと、ふいに振り向いて眼鏡をはずし、「落ちると厄介だからな」僕にそれを押しつけた。そうしてジャンプして背の高い木の枝を次々に掴みつつ、生垣の繁みの上を空中散歩めいた動きでバランスを取りながら一気に進んで、向こうに飛び降りた。僕はすかさず生垣の隙間に手を入れて、同じように向こうから手を入れた須田くんに眼鏡を手渡した。ぱっと同時に後ずさって距離をとると、間一髪でカメラがこちらにレンズを向ける。再びカメラが別方向に向いたので、僕は法月さんの行った辺りからよじ登り、掴んだ木の枝をひどくたわわせながら、何とかあちらに辿り着いた。
「……あ」
 それは、僕が学校の敷地を踏んだ瞬間だった。
 正面に建つ普通教室棟の校舎の窓に、次々灯りがついた。
 他の三人も振り返って、その校舎を見た。電気がついているところと、ついていないところがある。中等部の敷地内で一番広く、一番高いその建物に、上向きの矢印が浮かび上がっていた。
「あれは……俺らへのメッセージってことなのか?」
 須田くんが、あっけにとられたように言った。「俺たちがここにいるの、見られてんのか?」
 法月さんは何も言わずに歩き出した。僕と須田くんと高橋さんは顔を見合わせたけれど、とりあえずそのまま彼女の後に続いた。学校の敷地内には常夜灯が設置されていて、歩くのには困らない。けれど夜の景色の中で、校舎の壁もテニスコートも、昼間とは違う顔をしている。辺りは静まり返っていた。ざわざわと、木々の葉擦れの音。そうして僕たちの足音だけが響く。
 法月さんが向かったのは、教員・特別教室棟だった。僕たちは毎朝そこの昇降口から校舎に入るけれど、法月さんはその昇降口がある正面には回らずに、そのまま裏の学校菜園に行った。土を運ぶ一輪車や肥料袋がごたごたと積んであるその奥に、非常用の扉があり、その鉄の扉の鍵穴に、法月さんはポケットから取り出した針金のようなものを突っ込んだ。
「それなに?」訊ねたのは高橋さんだ。
「針金」指先に神経を集中させながら、法月さんが答える。
「なんでそんなものを持ってるの?」
「探偵だから」
「常に持ってるの?」
「常に持ってる」
 手ごたえがあったらしかった。法月さんの手の動きが止まった。続いて、ゆっくりとひねる動きをすると、がちん、と鍵の開く音がした。
「ほんと、探偵っていうより、泥棒みたいよね」
 高橋さんが言った。
「優秀な探偵は泥棒にもなれるし、優秀な泥棒は探偵にもなれる」
 言いながら、法月さんは金属の取っ手を引っ張った。重そうなその扉を、僕は横から手で押さえるようにして、みんなのあとに続いて一番最後に入った。そこは普通に電気がついていた。ちょっとした物置スペースになっている、廊下の突き当たりの場所で、すぐのところに階段がある。階段の脇を突っ切れば、そこには僕たちの探偵部室があり、その向こうは職員室だ。職員室はまだ灯りがついていて、先生たちがまだ残っているようだ。
「さっきの普通教室棟の屋上に、持田さんはいる」
 声をひそめて、法月さんは言った。「私は部室に用事があるから、先に行っててほしい。先生に鉢合わせしたくなかったら、二階の渡り廊下ですぐ普通教室棟に移動した方がいい。屋上の鍵は、たぶん開いてる」
「ええっ」トーンは抑えつつも、非難の声を上げたのは高橋さんだった。「三人で行けって?」
「持田さんが待ってるよ」
 法月さんは、妙に静かな口調で言った。
「用事って何?」僕は訊ねた。
 法月さんは、微笑んだだけだった。
「なんなら、俺と高橋で先に屋上に行っておくから、渡瀬は法月さんと一緒に来たらいいんじゃないか」
 須田くんが言った。高橋さんが、「屋上に犯人いたらどうすんの?」と怯えた顔をする。「その時はその時で」須田くんは鷹揚に言った。けれども法月さんは、「いや、三人とも行って」と譲らなかった。あまりぐずぐずるするわけにもいかず、僕たちは、法月さんを残して階段に向かった。灯りはついていたけれど、全体に薄暗かった。おまけに電灯が一つ死にかけていて、ちらちらと点滅しているのが目障りだった。
「なんか、罠なんじゃないの」高橋さんが言った。
「誰の?どういう罠?」須田くんが訊き返す。
「わかんないけど。法月さんにはめられたような気もしてきた」
「なんだ。さっきはすがりつく勢いだったくせに」
「だって。ここまで来て別行動ってどうなの。だいたい何で屋上ってわかるのよ」
「たぶん、あの上向きの矢印が屋上を示していたから……」
「それで屋上にメイがいたとして、四人揃ったところで先生に捕まって、揃って退学にでもされるんじゃないのかしらん」
「揃って退学にしたいなら、こんなことしなくてももっと簡単な方法があるだろうよ」
「そうかもしれないけどさ」
 僕たちは、法月さんのアドバイスどおり二階の渡り廊下を渡って普通教室棟に行った。冷えたように伸びる廊下を横目に、暗い階段をひたすら上る。
「何がどうなって、今こんな状況にいるんだろ」高橋さんが言った。「まあ、メイが無事ならそれでいいけどさ」
 最上階の六階まで来ると、上り階段のところに立入禁止と書いた看板が置いてあった。階段の先には屋上に出る扉があり、きっとそこは、普段は施錠されている。けれどもその扉は、今は開け放されていた。ぽっかりと外の空間が覗いていて、夜の空気が流れ込んでいる。
 僕は立ち竦んで、高橋さんと須田くんを見た。二人も気後れしたように僕を見た。扉の先に何があるのか、一番初めに踏み出す勇気がなかった。法月さんがいれば、きっと何も言わずに一番に駆け上っていくんじゃないかと思った。高橋さん、と僕は目で訴えてみたけれど、彼女は無理!と訴え返した。須田くんが口を引き結び、どうだ?行けるか?と僕に目で語りかけた。きっと僕はひどく怯えた顔をしていた。誰も先陣を切れない。ここまで来て。
「だらしないなあ。早く来なよ」
 その時、ひょこっと屋上から法月さんが顔を出して、笑いながら言った。僕は目を疑った。
「いつの間に……」
 びっくりしながら、そのまま「立入禁止」の看板の脇を抜け、階段を上った。数歩上がって、あと五段ほどで屋上に出る、という地点で、けれど僕ははたと足を止めた。
 法月さんが別のルートで上がって来て僕たちを追い越した可能性は、ゼロではない。けれども、目の前の彼女が法月紗羅ではない可能性も……ゼロではない、のではないか?
「法月、さん?」
 僕は呼びかけた。「ん?」と彼女は僕を見下ろす。
「法月、紗羅さん?」
 僕はもう一度呼びかけた。その意図するところに気づいたらしく、彼女の顔に、ちょっと傷ついたような色が浮かんだ。どこからどう見ても、法月紗羅だった。僕は階段の残りを上がり、扉から屋上へと踏み出した。少し生ぬるいような夜の空気が身体を包んだ。暗い星空がやけに低く感じられた。フェンスに囲まれたコンクリートの屋上の一角に、持田さんは座っていた。薄い毛布のようなものをスカートの下に敷いている。左手の手元には、飲み物のパックと、菓子パンらしきものが置いてある。けれどその右手首には自転車の防犯用のチェーンが巻きつけられ、その輪はフェンスの支柱をぐるりと回っていた。持田さんは僕に気がついて、「あっ」と小さく声を上げた。
 法月さんは、僕のすぐ横に立っていた。僕は混乱していた。水戸さんに動画を見せられた時、僕はすぐに、それが法月紗羅ではないとわかったのだ。だから僕は、会えば当然、それが法月紗羅か法月真梨亜か、わかるものだと思っていた。けれども今目の前にいる彼女がどちらなのか、僕には自信が持てなかった。どう見ても、法月紗羅だった。法月紗羅だと信じ切っている水戸さんの前では単に気を抜いていて、だから素が出ていて見分けがついたのだろうか。今ここにいる子は、巧妙に真似ているから、だから本当に、話し方も表情もちょっとした動きも法月紗羅そのものに思えてしまうのだろうか。それとも……これは法月紗羅なのだろうか。
「メイ!メイ!」
 僕に続いて上がってきた高橋さんが叫んだ。彼女は僕の脇をすり抜けると、持田さんに駆け寄って、「大丈夫?どこか痛くない?苦しくない?大丈夫?大丈夫?」とほとんど泣きながらまくしたてた。須田くんも高橋さんに続いて彼女のところに行き、しゃがみこんで右手のチェーンを覗きこんだ。
「真梨亜、さん、なの?」
 僕は傍に立つ「彼女」に訊ねた。
「……わからない、んだ?」
「彼女」は言った。長い睫毛に縁どられた大きな目で、僕を射るように見ていた。つるんと白い肌と、時に人工的に思えるほど整った顔立ち。僕に真梨亜と間違われて傷ついているその反応はやはり法月紗羅のもので、僕は胸が痛んだ。けれどもやはり、確信はなかった。もしも彼女が法月紗羅なら、繋がれた持田さんを放ってこんな風に僕たちの方にやって来たのが……何か違うという感じがしてならなかった。それとも僕は、法月紗羅のことなんて、まるでわかってはいなかったのだろうか。法月紗羅は、元からこんなだったろうか。別に持田さんは特につらそうな様子もなく、大慌てで助けなければいけないような状況ではなさそうだ。チェーンを切るにはペンチか何かないと無理だろうから、それを取りに行こうとしていたのかもしれない。でも、何というか……あまりにも、身動きできない状況にされた持田さんに対する配慮の気配がない気がした。よくわからない。ただなんとなく……あたたかみ、というようなものが、いつもの法月さんにはもう少しあったような、そんな感じがした。それともこれは、気のせいなのだろうか?僕が勝手に彼女のイメージを、僕の心の中で作り上げてしまっていたのだろうか?
「大丈夫?」
 自分を繕うように、僕は遅れて持田さんに駆け寄った。目の前の法月さんにあたたかみが欠けている気がする、なんて思ったけれど、僕のことを好きかもしれない女の子が囚われているのを目の前に、こんな反応をしている自分の方がよほど酷かった。僕の身体の、法月さんがいる側が、なんというかビリビリしていた。表面が、緊張している。警戒のアラームが僕の中で鳴り響いていて、持田さんの方にうまく意識を向けられない。
「……紗羅ちゃん」
 その時、座ったまままだぼんやりしている様子だった持田さんが、ふいに大きな声で「彼女」に呼びかけた。
「あのね、私は、別にそれでもいいんだよ」
 高橋さんがあっけにとられた顔をして、「どういうこと?」とすっとんきょうな声を出した。須田くんも、驚いたように持田さんを見ていた。
「いいんだ?」
 法月さんはくるりと僕たちに背を向けると、踊るようにステップを踏んで、屋上の中央部に向かった。そこには貯水タンクがあって、直方体のコンクリートの塊が台のようになっている。夜風が吹き抜けて、法月さんの髪がたなびいた。僕たちから少し離れた場所まで行った彼女は、こちらを向かないままで、
「それはもう、恋じゃなくて、愛、みたいだねえ!」
 おどけたような調子で、舞台でセリフを言うみたいに張り上げた声でそう言った。貯水タンクの向こう側に行って姿が見えなくなったかと思うと、タンクの上の部分に、法月さんはたん、と現れた。長い髪をなびかせて、夜空を背後に立ったシルエットが、ひどく美しかった。僕も須田くんも、持田さんも高橋さんも、ただぽかんとして、それこそ観劇中のお客みたいに、そこから目が離せなくなっていた。
「真梨亜!」
 静かな夜を切り裂くようなその声も、だからあまり現実感がなかった。目の前の台の上に、法月さんがいる。それなのに、そこからではなく、別の方からその声はした。間違いなく、それは法月紗羅の声だった。

 そこから先は、あっという間だった。
 もう一人法月さんが屋上に現れて、僕たちの前を駆け抜けて行った。台の上にいた彼女は、身軽に彼女の前に降り立った。彼女は笑っていたかもしれない。「何もかも無意味だね、紗羅」 そんなことを言っていた気がする。同じシルエットの二人の少女が、屋上の向こうの端で、もみ合うのが見えた。普段この屋上は閉鎖されていて、立入禁止となっている。だからフェンスの一部が補修のために撤去されていたことも、誰かが責められるようなことではなかったのかもしれない。抱きついて、遥か遠い地面の上空に相手を誘ったのは、まちがいなく真梨亜の方だったと思う。逃れようとし、踏みとどまろうとしていたのは、紗羅だったと思う。少女の身体が地面を離れて空中に飛び出して、掴まれたもう一人の少女の身体も引っ張られてよろけた。そうして僕たちの視界から、二人の姿はもつれながら落ちて消えた。
 僕は駆け出した。馬鹿なことに、そこではじめて身体が動いたのだった。けれどももう、遅かった。須田くんが、後ろから僕の腕を掴んでいた。フェンスとフェンスの間の、ぽっかりと空いた空間から、ぞっとするほどの遠い地面が見えた。
 けれども、常夜灯に照らし出されたその中庭の空間には、何の異常も見られなかった。ただ静かに、夜の風が吹いていた。どんなふうに駆け下りたのかも、どんなふうに校舎から外に出たのかも覚えていない。ただ気がつくと僕は中庭に立っていて、少し前までいたはずの屋上を見上げていた。フェンスが一つ欠けているのは、下からでも見えた。あそこから落ちたら、確実にこの辺りに来るだろう。けれども何もない。法月紗羅の身体も、法月真梨亜の身体もない。落ちて無事で済む高さではないので、そんなものを見るのは耐えられないから、だから僕の目には映らないのだろうか?実際は、彼女たちは無残な姿で僕の目の前に転がっているのだろうか?僕にはよくわからなかった。救急車の赤いランプの光がちらついていて、辺りは妙に明るく感じられた。肩に手を置かれていることにふと気づいて見上げると、いつの間にか僕の傍には、保健の五条先生が立っていた。

5

 次の日の放課後、僕は探偵部室に一人で行った。しょっちゅう鍵を持ち帰っていた法月さんは、けれども昨日、職員室に鍵を返していた。鍵のコーナーは目立つ場所にあるから、もしかしたら入り口の横の棚にでも置いていたのを、他の先生が気づいて戻したのかもしれないね。五条先生はそう言った。こっそり侵入したような時にわざわざ鍵を返したのはどうしてなのか。あの状況で、どうして突然部室に用事があるなんて言って、別行動をとったのか。部室で彼女は何をしていたのか。――僕は法月さんのいる部室に入ることがほとんどで、自分で鍵を開けて一人で入ったことは数えるほどしかなかった。しんと静まり返った暗い応接室。僕は扉を閉め、電気をつけた。黒い革のソファ。テーブル。そのテーブルの上に、封筒が置いてあった。宛名はなかった。中に入っている手紙は、手書きではなくて、パソコンで打ったものを印刷したものだった。



渡瀬敦様

 この手紙は渡瀬敦様宛に書いたものです。別の方がこれをご覧になっている場合は、彼に渡していただけると幸いです。けれどもその前に、あなたもこれを読むかもしれませんね。それもやむをえません。これが人目に触れると言うことは、私に何かがあったという、そういうことなので。

 さて、渡瀬くん。
 あなたには、大変迷惑をかけました。
 あなたには、大変感謝をしています。
 私に何かあったら、たぶんあなたはひどくいやな気分になっていると思うので、せめてものお詫びに、手紙を書いておかなければいけないと思いました。ここのところの私は、とてもまいっていて、それはやっぱり夏のせいだと思う。真梨亜との思い出は、いいものも悪いものもなぜか夏のものが多い。夏祭りとか、田舎の祖母の家に行った時のことだとか、旅行の時のできごととか。いろんな記憶がつぎつぎによみがえっては、その時の気分に今の私をひきずりこむ。今の自分は、単なる壊れた記憶再生装置みたいです。それが本当の記憶なのか、私の捏造なのか、そこのところはわかりませんが。

 さておき、今日は突然遅い時間におじゃまして、申し訳ありませんでした。用事があると言っておきながら、結局それについて話さなかった。こういうのって、あとから妙に気になるものです。なんだったんだろう、と、あなたは思っていると思います。でも、ちょっと言いにくかったのです。
 おはじきの噂が流れ始めました。たぶんあれは、真梨亜が流したのだろうと思います。でも、証拠はありません。単なる危険な被害妄想かもしれません。ともかく、あの噂は、私にはとても困るものでした。私はいつも細心の注意を払って、他の人には見つからないような場所におはじきを置いていた。校内でおはじきを見た、と言っている人が何人もいたようだけど、それはたぶん私が置いたものではなく、真梨亜が噂広めの一環としてやったのだろう、と後で思いました。けれどももしかしたら、私が置いたものを見つけてしまった人も、いないとは限らない。そう私が思ってしまうこと、それがとても困る。
 これは本当に馬鹿馬鹿しい、おまじないのようなものなのです。私は自分の記憶や認識に、自信が持てないことがある。調子が悪いと、特にその傾向が強まる。そんな時に、私は自分がおはじきを置いた、という記憶にすがるのです。あそこにおはじきを置いた、という記憶があり、そこに確かにおはじきがあれば、私の記憶は正しかったということです。私はまだ、狂ってはいない。不安を抱えながら探しに行き、自分が思っていたとおりの場所におはじきを見つけた時に感じる悦び、あのほっとする気持は、私の心を落ち着かせてくれます。でも、もしもおはじきが思ったとおりの場所になかったら?それは私にとって、ひどい恐怖です。誰かが拾ってしまったのかもしれない。噂が流れたことで多くの生徒が関心を持ち、だから拾われる可能性は上がってしまったと、私は知ってしまっている。その論理に、私はすがりつく。でも、本当に?元々おはじきはそこには置かれていなくて、私の記憶がまちがっている。その可能性も捨てきれない。可能性の迷宮に閉じ込められて、私は出られなくなってしまうでしょう。私はとても怖かった。

 昨日、あなたは先に帰った。私は自分の中に漠然とした不安感が蓄積してきているのを感じていて、おはじきを探しに行こうかどうしようか迷っていた。記憶の混乱を回避するために、私は二度と同じ場所にはおはじきを置かない。けれどあなたと初めて会った時に私が探していた中庭の繁みの向かい、あなたがしゃがんで覗いていた花壇のところに、私は少し前におはじきを置いていた。向かって右、縁のレンガの下のコンクリートの小さな割れ目の中だから、他の人に発見される可能性はとても低い。私はそこに足を向けた。けれどもそこには人がいて、その人に話しかけられたので、私は結局、おはじきを探せなかった。彼女はまるであの時のあなたみたいに、花壇に向かってしゃがみこんでいました。ただ、あなたとちがうのは、あなたはあの時花を見るふりをしていたにすぎないけれど、彼女はふりではなく、実際に見ていたということです。それは、あなたのクラスメイト、持田メイさんでした。私が花壇に近づこうかどうしようか迷っていると、彼女は人の気配を察して振り向いて、私を見て、あっと声を上げました。ひどく驚いていて、たまたま人が来たような時の反応とはちがうので、私もとまどいました。
「法月紗羅さんですよね」と彼女は言いました。立ち上がると、自分のフルネームを名乗り、渡瀬くんのクラスメイトなんです、と言いました。クラスメイト、ということばを発した時に、微妙な感情がにじんでいました。これを私が書くのはどうかとも思うけれど、こんなことになってしまった今となっては、それも許されるのではないかと思う。それにあなたは、たぶん気づいていると思うので。持田さんはあなたに好意を持っていて、あなたの彼女になることを夢見ている。そういう気持は、正直私にはよくわからないものなのだけど、私も一応女子として、「わからない」が多くの女子には通用しないらしいということは知っている。持田さんはとてもいい子だという印象でした。私をいやな気持にさせないよう細やかに表現を気遣いながら、純粋な好奇心を装って、私と一緒にいる時のあなたがどんな感じなのか訊いてきました。そうして、敵意も嫉妬も見せずに、笑顔で、私とあなたの関係がどのようなものなのか、「つきあっているのか」ということを訊きました。私はそれを否定して、彼女を安心させることばをいろいろと付け加えました。彼女は最後までとても感じがよくて、私は好感を持ちました。気持よく別れを告げて、私は家路についたのです。

 私はあなたが誰とつきあっても、いいと思う。でも、私は助手のあなたに執着がある。持田さんの発する感じのいい空気ですっかり気分がよくなっていたはずなのに、彼女と別れたとたん、不安がまた心の中で増殖し始めました。おはじきを結局探せなかったことも、おはじきを隠したすぐ近くに人がいたという事実も、すべてが不安要素になって、心の中でごちゃごちゃと絡み合い出しました。だんだんいてもたってもいられなくなってきた。どうにかなってしまいそうだった。それで私は、今からでも学校に行っておはじきをとれば少しは気分がよくなるのではないかと思い、制服を着て電車に乗りました。けれどもおはじきがなかった時の自分の心を想像すると、怖くて叫びだしそうでした。学校の最寄り駅に着いたけれど、私は降りることができなかった。電車の扉はすぐに閉まってしまった。何をやってるのだろうかと思ったけれど、私はこのまま乗っていれば、あなたの家の最寄り駅に行くのだと気づいた。あなたがいれば、たとえおはじきがなかったとしても、私の心はどうにか保てるのではないかと、そう思いました。それで私は、ひどく非常識だと思いながらも、あなたの家に向かいました。そうして会ってからのことは、あなたも知っているとおりです。「持田メイは学校にいる」という、私の筆跡で書かれた手紙がポストにあった。私は持田さんに放課後会って、話をしたことを鮮明に覚えている。別れを告げた記憶もあるけれど、でも、その時のやりとりは型通りのもので印象が薄い。あれこれ考えていたので、以降の現実の行動に関する記憶はどれも曖昧でした。ほぼ無意識で通学路を歩き、電車に乗り、家に帰った。そのはずだけれど、話をした後、実はあの後、何かしたのだったろうか。何か記憶が抜け落ちているのだろうか。いえ、こんな考え方は馬鹿げています。そうではなくて、最後に会った時の持田さんの言動から、今彼女がどのような状況にあるかヒントを探し、冷静に推理をするのが探偵のあるべき姿です。でも、記憶のような曖昧なものではなく、思考のように見えないものでもなく、明確な現実として目の前にある、私の字による手紙という事実のインパクトは絶大で。私は、平静を装うのが精一杯でした。

 教室の電気が点灯して、屋上への矢印を示した。電気は基本的には各教室で手でつけたり消したりするけれど、管理室にはすべての電気の制御盤がある。時間設定をして、あるいは監視システムにタイミングをプログラムしておくことで、私がそれをすることも可能であることを、私は知っている。屋上の鍵のスペアを、私は以前作ったことがある。だから全部今回のことは、私がやろうと思えばできることだ。

 真梨亜が存在するのかしないのか、わからない。
 真梨亜がもしも存在するとして、今回こんな事件を起こして屋上に私を誘ったのだとしたら、たぶん真梨亜は私を道連れにして死のうと考えているのだろう。
 もしも真梨亜が存在しないとして、今回のことすべてを私自身がやったのだとしたら、私はもう、生きていたくはない。常に自分を疑いながら生きてきたけれど、その疑いが実際に本当で、私は自分を把握もできず、制御もできない狂人だというのなら、私は自ら命を断つことを選ぶ。

 どちらにしても、私は今から行く屋上で、死ぬ可能性が高い。
 きっとあなたはひどく後味が悪いと思う。だからせめて、手紙を残すことにしました。あなたに会えてよかったです。あなたと一緒に探偵部の活動ができて、本当によかった。
 ありがとう。さようなら。
                                    法月紗羅

6

 須田くんが、教えてくれた。
 法月さんは、欠席扱いになっているらしい、と。
 あの日の騒ぎは公表されなかった。僕たちは確実にお咎めの対象だったと思うけれど、そんなことより先生たちは、僕たちがショック状態にあることに配慮をしてくれた。事情はもちろん訊かれたけれど、それは五条先生を中心とした、外部のカウンセラーも交えてのものだった。優しく、辛抱強く、彼らは話を聞いてくれた。誰も僕たちを叱らなかった。けれどもたぶん叱られたとしても、僕は何とも思わなかったと思う。他人の怒りや悲しみにひどく鈍感になっていて、何を見ても何を聞いても、それが心の中にまでは届いて来ない感じだった。
 須田くんと、高橋さんと、持田さんと話をした。僕たちは、法月さんと、法月さんにそっくりの少女が屋上から落ちるところを見た。けれども彼女たちの身体は、どこにもなかった。彼女たちは行方不明となっている。その認識が全員一致していることに、僕はほっとした。けれどもその一方で、こうやって話している彼らは、僕の願望が作り出したものなのではないか、とどこかで思ったりもした。でもそれを言ったら、話している彼らよりも、あの夜の屋上でまるでお芝居の一場面のようにもみ合っていた法月さんたちの方が、よほど夢みたいだった。実際あの時は、目の前で起こっている時ですら、現実感がなかった。というかそもそも、法月紗羅なんて存在したのか?と思うこともたまにあった。僕は少し、法月さんの不安が理解できた気がした。僕は部室にあった手紙を後生大事に持っていたけれど、でもそれは、単なる印刷された紙切れだった。こんなの誰だって打ち込むことができる。いくらでも、創作することができる。こんなもの、存在の証明になんてならない。おはじきが、書かれていた場所にあるかどうかを確かめて、少し安心した。でも、それだって、法月さん以外にもできることだ。中庭の花壇のところへ行き、割れ目のおはじきを取り出す。そのつるつるした表面を指で撫でて、存在を確かめる。それから、法月さんが帰ってきた時のために、それを元の場所に戻す。毎日そんなことをしていた。そうこうしている間に、終業式になった。通知簿をもらい、諸注意を受け、別れの挨拶をして、解散となった。僕はいつものように花壇へ行って、ひととおりおはじきの確認作業をして、そのままぼんやりと、しゃがみこんで花を眺めていた。
「隣、いい?」
 声をかけられて、うん、と答えた。持田さんだった。こんな風に二人になることは、事件以降はじめてのことだった。やって来て隣にしゃがみこんだ彼女に、法月さんだったらよかったのに、と僕は少し思ってしまった。僕は持田さんといると心が落ち着くし、法月さんがこんなことになってなかったら、僕は彼女のことが大好きだったろう。今だって、彼女を包む柔らかな空気が好きだ。けれども何かがわだかまる。あの日の屋上でもそうだけど……僕はきっと、ひどい奴なんだと思う。
「あのね、渡瀬くんに言わなきゃ、と思っていたことがあるの」
 持田さんが言った。僕は目の前の花壇のサルビアの赤を見つめたまま「うん」とだけ言った。
「あの日、ここで、法月さんと話をしたの。あ、紗羅さんの方と」
 手紙に書いてあったことだろう、と思った。僕はやはり、ただ「うん」という。
「それで……それでお話をして、一度別れたんだけど、その後しばらくして戻ってきたの。それは本当は、紗羅さんじゃなかったんだけど」
「うん」
「それで、その……もっといろんな話をしたいから、屋上に行こうって言われたの。屋上に入るの禁止されてるし、と思ったけど、大丈夫だからって。ともかく一緒に行ったの。それで、しゃべってたら急にチェーンを巻かれて、移動できなくなっちゃったんだけど、でもそれでも、あの子はずっと優しかった。ちょっと事情があるからこうしててね、って言われたけど、トイレに行きたいと言ったら一度はずして行かせてくれたし、お尻痛くならないように毛布をくれたし、パンと飲み物も買ってきてくれた。メイって呼ぶから、紗羅って呼んで、って言われた。それでいろいろおしゃべりをしたの。あの子は、片想いの気持がよくわかるって言ってた。自分も片想いをしてるんだって言ってた」
 僕はぼんやりと、花壇を見つめ続けた。サルビア。マリーゴールド。あと、あれは……あれは何て名前だっただろう?
「……だから、紗羅さんは、少ししたら帰ってくるんだと思う」
「え?」
 僕は思わず持田さんを見た。
「ごめん。ちょっと……ちょっとぼうっとしてた。ごめん。今、なんて言ったの?」
 僕はすごく失礼でひどい奴だ。けれども持田さんは気を悪くする様子もなく、答える。「えっと、だから、紗羅さんは、少ししたら帰ってくるんだろうな、って」
「その……ほんとごめん。その前からお願いします」
 僕が言うと、持田さんはちょっと笑った。
「だからね。あの女の子……真梨亜ちゃん?は、片想いをしていて、その相手を連れて行きたい場所がある、って言ってたの。夏の思い出を作るんだって」
 連れて行きたい場所。それはあの世とか、そういうものを指しているようにも思える。でも……夏の思い出?
「片想いって、恋愛に限らないんじゃないかな、って、後から少し思ったの。どうして二人が屋上から落ちたように見えたのかはわからないけれど、でも、下にはいなくて、どこにもいなくて、学校は欠席扱いっていうことは、つまり実際にお休みってことで。そのうち帰ってくるってことだと思うから。その……いない間は、渡瀬くんは淋しいとは思うんだけど」
 持田さんは、気遣うような笑みを浮かべた。
「あのね持田さん」僕は言った。
「僕は最近、ちょっとおかしいんだ。ごめん。目がおかしいというか、涙腺が変というか」
 そのまま声が詰まって、話し続けることもままならなくなってしまった。持田さんは、いいよ、と微笑んだ。
「私もね、法月さんに早く帰ってきてほしいんだよ」
 持田さんは言った。
 僕は涙をぬぐい、その隣でいつまでも一緒にしゃがんでいた。
 夏の日差しが、僕たちを照りつけていた。


                                 【落ちる人 おわり】 

落ちる人 (少女探偵Sの事件簿3)

最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。

落ちる人 (少女探偵Sの事件簿3)

「校内に落ちているおはじきを7つ拾い集めると、願いが叶う」という噂を敦は耳にする。このところ元気のない紗羅は、なぜかその噂が広まると困るのだと言う。夏休みを目前に控えたそんなある日の夜、紗羅は突然敦の家にやって来る。なかなか用件を切り出さない紗羅。その時電話がかかってきて、敦のクラスメイトの持田メイが行方不明となっていることが判明する。「犯人は自分なのではないか。」疑いを拭えない紗羅。紗羅と敦は敦の友人たちとともに、メイを見つけるため夜の学校に忍び込む。※「小説家になろう」にも投稿しています。

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更新日
登録日
2015-09-08

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