雨と君と私と煙草

雨と君と私と煙草

出会い

今日はやけに苛々させられる一日だった。
仕事帰りの自分がとても苛々しているのを全身で自覚しながら一人でオフィスを出てエレベーターに乗り、出口に向かう。

「ちょっと、勘弁してよ…。」

そう吐き捨て、鞄を漁る。
少し小さめの折り畳み傘を開き、一歩前に踏み出す。外は土砂降りの雨で、多くの人が屋根の下に留まっている。私はもう一秒でも会社とその周辺に居たくなかったから、屋根の下に溜まる集団を掻き分けた。お気に入りのパンプスに少しづつ雨が滲むのをストッキング越しに感じつつ踵を鳴らして歩みを進める。

傘と鞄で塞がる両手。煙草が吸いたくて半ば無理やり鞄を肩にかけ、取り出した煙草に火をつける。雨が降ると、フィルターに水滴が飛んで嫌になるけど今はそんなことをする気にするほどの精神的余裕はなかった。今にも涙が出そうなほどの気持ちを飲み込み、踵を鳴らす速度をあげた。いつも沢山の人がいる帰り道のベンチも今日は人がいない。そう思って下を向いていた顔を少しあげると、驚きの光景が私を待っていた。

屋根もないベンチに、幾つだろうか。若い男の子が座っている。傘もさしていないのに、濡れることを全く気にしない様子でぼーっと座っている。気にならないって言ったら嘘だけど、誰かを助けてあげるほど今の私に余裕はなかったから、足早に彼の前を通り過ぎた。

数歩進んで振り返ると、未だに微動だにしない彼の姿があって。私は何故か良心が傷んだ。むしろどちらかといえば雨に濡れる彼の姿を自分に重ねたのだ。なにか辛いことがあって、動くのも嫌で、雨に濡れることで頭を整理してるのかも。でもそれならそのままそこにいたら風邪を引く。もしかしたら死んじゃうかもしれない。そんな不吉な思いが頭の中を駆け巡り、一杯一杯だった私の思考回路はショートした。もう良い。気になるなら声をかければ良いし、無視されたらまっすぐ帰れば良い。そう決めて、体を反転させて彼の元まで戻り、ずぶ濡れになった彼の頭に傘を差し出して声をかけた。

「ねぇ、大丈夫?何してるの?」

小さな傘の範囲から外れた私の背中に大粒の雨が当たる。
ゆっくり顔をあげるだけで返事もしない彼の顔に私は息を呑んだ。色素の薄い肌と髪と瞳。細い体の線。見たことのない美しさだった。返事のない彼にもう一度問いかける。

「雨凄いし、帰るか、帰らないにしてもせめて室内にいたほうが良いんじゃない?」

また返事をすることなく、今度は私に向けた視線をまた下に落としてしまった。その瞬間、私は何かを悟った。

「…帰れないの?」

こう聞いた後、やっと彼は首を縦に振った。

「成人はしてる?帰るところが無いの?話せる?」

まくし立てるように言った後、やっと彼の口が開く。

「成人は、してる。帰るところはあるけど、帰れない。帰りたくない。」

冷静になった今思えば、この時の私はどうかしていたんだと思う。名前も顔も知らない見ず知らずの人に声をかけるなんて。危険だってあったかもしれない。でも、この時は私にも彼にも、一緒にいてくれる人が必要だったんだと思う。彼からの返答を聞き、少し考えて私は返事をする。

「名前は?私は絵真。」
「リヒト」
「そう。帰れないなら、うちに来る?」

俯いたまま頷き、立ち上がる。意外にも私より全然高い身長に少し驚き、傘を隣に立つリヒトに傾ける。

「そんなに歩かないし、びしょ濡れだから意味ないけど、ないより良いでしょ。」

自宅につくまでの途中にあるコンビニに寄って、男性ものの下着を買う。
ふと、我に帰る。こんな深夜とも言えない時間に綺麗な男の子をコンビニの前に残し、自分はというと男物の下着を購入している。頭の中で、違う。濡れているから、お風呂に入れるためだし!と吐き捨てることのできない店員に向かって心の中で叫ぶ。

そそくさとコンビニから立ち去ってリヒトが差し出す傘の中に滑り込み、足早にマンションに帰った。エントランスを通り、部屋に入る前にリヒトを止めた。

「ちょっと待って。そのまま上げるわけにもいかないし。」

濡れていることを口実に、部屋に走り散らかる洗濯物をまとめてカゴに押し込み、ジャケットを脱いでパウダールームからバスタオルを取り、髪をまとめて玄関前に待つリヒトの元に小走りをする。

「入って。あと頭拭いて。」

バスタオルを差し出した筈なのに、リヒトは私に向かって頭を下げた。男の人の頭を拭くなんて、恋人にだってしたことない。でも、その時はもう迷いはなかった。外にいた時はわからなかった色素の薄い髪は柔らかそうでとても綺麗な琥珀色で、私はその細い髪に触れてみたくて仕方なかったから。中腰になりじっと待つリヒトの髪を、とりあえず雫が垂れないくらいまで拭いて、頭を拭いていたバスタオルを床に敷いてリヒトをパウダールームまで誘導する。到着したリヒトの後ろからシャンプー、トリートメント、ボディソープの場所を説明する。

「下着はここに置いておくね。脱いだ服は、ネットにいれて洗濯機に入れておいて。服は、なにか着れそうなものを出しておくから。」

それだけ言ってパウダールームを後にし、リヒトが浴室に入っていったのを音で確認し、リビングのソファになだれ込む。
両手で顔を覆い、少しばかり足をばたつかせて落ち着かない自分をなんとか鎮めようとした。しばらくして一つため息をつき、体を起こしてリヒトが着れそうな部屋着を探しに行く。髪だけでもあんなに綺麗なのだ。半裸で出てきて来られたら色々大変だ。少し大き目のTシャツと、大学時代に先輩から貰ったジャージを引っ張り出してパウダールームに向かい、ドアをノックする。

「リヒト、出た?」

コン、と一度ドアをノックし返す音がする。少し緊張しながらゆっくりドアを開け、やっぱり。と言わんばかりの格好のリヒトがそこにいた。買ってあげたボクサーパンツと、新しく出したバスタオルを頭にかけただけのリヒトを見て顔を逸らした私に向かって、やっとリヒトが口を開く。

「緊張してる、の?俺はいいけど…。」

放たれた言葉の意味がわからなくて、顔を上げた。

「びっくりしただけよ。風邪ひくからこれ着なさい。」

とにかく今は服を着てもらう事の方が優先だった。言葉の意味なんて後でもいい。自分だってあったまって落ち着きたかった。服を着たリヒトをリビングのソファに座らせ、熱い紅茶を手渡して私にはぶかぶかのパーカーを着させた。ぴったりなところを見ると、やっぱり男の子だな。と思った。

「絵真も、お風呂いってきていいよ。ここで待ってる。」

口数は少ないが、心配してくれてるのかと受け取り、下着と部屋着を持って、お風呂に向かう。
熱いシャワーを浴びながらしばらくぼーっとした。冷静になって考えれば成人してるとはいえなんてことをしてしまったのかと様々な葛藤に襲われる。

でも、そんな色々なことを考える余裕は私には今日はない。
お風呂を出たら、リヒトに何が食べたいか聞いて、ご飯を食べてとりあえず眠ろう。


長い夜が始まったばかりだった。

向き合うこと

お風呂から上がって、髪をバスタオルで拭きながらソファを覗くと、半乾きの髪をそのままにしてバスタオルを抱えて眠るリヒトがそこにいた。ソファに近付き、リヒトの綺麗な顔を少し眺めてから声をかける。

「お腹空いてないの?」

「少し。」

口数が少ない方なのか、警戒されているのか。とりあえず軽くご飯を食べながらお互いを探ろうと思ってキッチンに向かうと、リヒトから声をかけてきた。

「髪、乾かさなくていいの?」

意外にも自分を心配する一言だった。少しクスッと笑ってから先に乾かす、と伝えてベッドルームに向かった。少しして髪をまとめてリビングに戻ると、今度はソファの背もたれに寄りかかってこちらを見るリヒトがいた。

「ご飯、何がいい?」

初めて会って、初めて話して、初めて家に上げる苗字も知らない赤の他人と、まるで長年連れ添った恋人みたいな会話をしている。

「なんでもいい。あったかいもの。」

さっきまで冷たい雨に打たれていたのだ。まだ体は冷える。わかった、と返事をして冷凍庫からご飯を取り出し、鶏肉を細切れにして雑炊を作る。出来上がった雑炊をダイニングテーブルに向かい合うように起き、一声かける。

「どうぞ。あり合わせだけど。」

静かに立ち上がり、私の前に置かれた雑炊の前に座り直す。座って立つだけの動作が、どうしてこんなにも綺麗なのか。ため息が出る。しばらく器を黙って見た後、口を開く。

「…いただきます。」

静かにダイニングテーブルを囲み、一杯目を軽く平らげたリヒトにおかわりは?と聞く。黙って頷き、器を私の方に押す。二杯目を食べ終え。ダイニングテーブルの椅子に深く座りなおしたリヒトに言う。

「ソファに行っていいよ。色々聞きたいこともあるし。コーヒー?紅茶?」

「紅茶。さっきみたいに甘いやつ。美味しかった。」

甘党か。と思いながら食器を洗い、二人分の紅茶を淹れる。ミルクたっぷり、砂糖もたっぷりだ。ソファに座るリヒトにブランケットを渡し、紅茶をローテーブルにおいて端と端に座った。

「さて。今更だけど質問していい?聞かれたくないことなら答えなくてもいい。答えられることだけ話してくれる?」

リヒトの顔は少し曇り、声を出さずに首を縦に振る。

「名前は?歳は?帰るところがないって、どういうこと?ここにいても平気?」

「菅本、リヒト。利用の利に、人。歳は二十一。帰るところは、まだ話せない。ここにいたい。絵真がいいなら。お金も入れる。」

ぶつぶつと言葉を途切らせ、ゆっくり話した。帰りたくない、の方だな。と思いながら、そっか。とだけ返事をした。

「仕事はしてるの?」
「しなくてもいい。したくない。お金ならカードにある。」

イライラと焦燥感と不安と高揚感と、いろんな感情が混ざった今夜の私はきっと、判断をするためのネジと能力が失われていた。多分。

「じゃあ、約束を守れるなら、ここにいていいよ。」

そういった時、初めて利人が顔を上げ、髪の色よりももっと綺麗なヘーゼルの瞳を輝かして言った。
「守るよ、約束。何?」
「勝手に出て行かないこと。ご飯を一緒に食べること。ゆっくりでいいから、いろんなことを話してくれること。」
「わかった。でも」

利人の言葉を遮る。

「私と話す時は、私の顔を見て話して。できるだけ。」
「…頑張る。」

少しまた俯いた利人の柔らかい髪を撫でる。

「いい子。じゃあ、これからよろしくね。」

そういって立ち上がり、カバンに押し込まれた煙草を取りに行き、ベランダの窓に手をかけ、声をかける。

「煙草、吸う?」
「うーん、今はいい。紅茶の方が。」

そ。と残しベランダに出る。冷たい風に少し身震いをした後、火をつける。静かに煙を吐き出し、少しも冷静にならない自分の頭を必死に整理する。

とりあえず、明日も仕事だし、一旦眠ろう。そう思って部屋に戻った。

「風邪ひくよ?」

と子犬のような目で私に言った後、ここで寝てもいい?と渡したブランケットにくるまった。

「いいけど、それじゃ寒いだろうからあとで布団持ってくるね。」
「ありがとう、絵真。絵真でよかった。おやすみなさい。」

かわいいこと言ってんな。と思い、ベッドルームから毛布を一つ利人にかけ、リビングの照明を落とした。

「おやすみ、利人。」

歯を磨いて、入念にスキンケアをしてベッドに入る。
不思議と他人と過ごす初日は、いつもよりも、ましてイラついていた自分が信じられないほど、よく眠れた。

次の日の朝

目覚ましの音よりも早く、私は目を覚ました。
長年一人で暮らしていた自分にとって誰かがいる空間は、まだ慣れない。利人が起き上がってトイレや冷蔵庫を開け閉めする音。部屋のドアを閉めてても、気配が気になってその度うっすらと目を覚ました。

不思議と嫌な感覚はなく、そのまま再度眠りにつくこともできた。

乱れた髪を手ぐしで整え、ついでに衣服の乱れも直して部屋を出た。ソファを覗き込むと、昨日のバスタオルを顔の前で握りしめて眠る利人がそこに居た。少し窮屈そうなソファで縮まって眠る利人を見て小さく笑ってパウダールームに向かった。

歯磨きと洗顔を済ませ、化粧水を叩いてリビングに戻ると眠そうな顔で体を起こす利人が言う。

「おはよう。眠れた?」
「おはよ、利人は?」
「体、痛い。」

体を伸ばしながら、頭を掻く仕草を見ながら、やっぱり狭かったか。と思いつつクスッと笑って会話を続ける。

「ごめんね。今日使ってない部屋掃除するから。」
「ここ広くない?一人?」

そう聞いてきた利人に少し自分の顔を曇らせ、返事をする。

「一人で居たいからね。自分だけの空間は自分の好きにしたいの。」

そういって、ガウンを羽織りベランダに出る。私にだって色々あるのだ、利人が色々話してくれてから少しづつ話していこう。でも、ちょっと態度悪かったかな。そんなことを思いながら煙草に火を点けると、利人も出てきた。肩を小さく身震いさせ、私に話しかける。

「一本ちょうだい。」

やっぱり吸うのか、と思いながら煙草を手渡し、火を差し出す。

「ごめんね、嫌なこと聞いた?やっぱり一人がいい?」

いたずらをしてしまった子犬のような目で私の様子を伺う。

「いや、違うよ。確かに一人がいいけど、利人は大丈夫だった。わかんないけど、少しづつ話すよ。」

「そっか。わかった。」

それだけ言って深く息を吸い込み、煙を吐き出す。

「朝ごはん、何にする?」
「なんでも。絵真が作るものなら。てか今日、休みなの?」
「休み。ごはん食べたら掃除手伝ってね。後買い物いこう。そのままじゃ困るでしょ。色々。」

揃ってベランダから戻り、利人はソファ、私はキッチンに立ちトーストを焼きながら目玉焼きを焼く。朝食らしい朝食は久しぶりだ。一人の時はもちろん作らないし、食べること自体ほとんどない。

テーブルの向かいに昨夜と同じように食器を並べ、利人を呼ぶ。
正面ではなく、斜め向かいに配置をしたのは自分が正面を向くのが好きじゃないから。

「紅茶は?」

利人がそう言うと、クスッと笑って返事をする。

「ご飯食べてからの方がいいかなと思って。今は水かお茶。」

わかった。と少し膨れてトーストに手をつける。
二日目の今日も、ご飯中はあまり会話はない。換気のために少し開けた小窓から入る風の音と、お互いの食器の音。それがこんなにも心地よく感じることもなかった私にとって、利人との時間に心地よさを覚えた。

「ごちそうさま。食器、洗うよ」
「いいの?じゃちょっと場所だけ教えるね。」

キッチンに互いの食器を持って向かい、シンクに置いて利人にスポンジや洗剤の場所を伝えた後に、食後の紅茶の準備をする。

「洗ったら少し休んで、買い物いこうか。」
「それより掃除が先じゃないの?」

笑いながら利人に正される。掃除ももちろんだが、寝るための布団や利人の服や生活用品、後は一番重要な食料。

スペアキーは実家に預けているから、スペアキーも作らないと。そんなことを思っていた自分の顔が、いつの真にかほころんでいることに驚いた。休みの日は基本昼過ぎまで寝ていて、予定があるとそれがむしろ億劫なタイプだった。そんな自分が、朝一から起床し、なおかつ何時までかかるかわからない予定を目の前にしてほころんでいる。

それどころか一日経っても普段なら引きずるイライラはどこかに行っていた。キャパオーバーだったこともあるけど。

ウロウロ部屋中を歩き回りながら考える私をお構いなしに、当の本人はソファで体育座りをし紅茶を両手で抱えている。気がぬけた自分の気持ちを確認したあと、軽く息を吐き利人の頭をくしゃっと撫で、マグカップを持って隣に座った。

自分がこだわり抜いた部屋の心地良さを、他人である利人に知らされた。

なんとも不思議な子だなぁと思った朝の時間。

雨と君と私と煙草

雨と君と私と煙草

初めて続きがあるものを書きます。 まだ私の中でもはっきり全体が見えてこない二人の時間が、ゆっくりと進んでいきます。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-08

Copyrighted
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  1. 出会い
  2. 向き合うこと
  3. 次の日の朝