マリオネット (少女探偵Sの事件簿2)

シリーズ2作目です。(400字詰め原稿用紙換算116枚)

1

 僕が探偵部に入部してから、一か月が過ぎた。その間に、九人の依頼人がやって来た。長袖体操服の袖が毎日縛られる事件とか、真夜中トランペット事件とか、赤い傘が大量に盗まれた事件とか、モモンガ事件とか、いろいろあった。法月さんは何日もかけて調査をすることもあれば、その場で話をしただけで解決してしまうようなこともあった。法月さんは、依頼人がやって来るのが大好きだった。泣いている子や、怒っている子、ひどく思い悩んでいる様子の子もいて、法月さんはそういった子たちから効果的に話を聞きだすためにいつも上手に親身になってみせたけれど、彼らが帰っていくと、平気で本音を漏らしたりした。その時の問題は解決したけれど、その子の抱えている悩み自体が解決したわけじゃない……そんな時でも法月さんは、「ああ、面白かった」なんて心から満足したような笑みで言うようなことがあって、僕は少し複雑な気持になったりした。
「依頼人が来るのって、そんなに嬉しい?」
 僕は訊いたことがあった。
「嬉しいよ」法月紗羅は即答した。「嬉しいに決まってる。嬉しくないなら、探偵なんてやってない」
「でもさ、依頼人が来ないってことは、困っている人がいないってことで……いや、困ってても来ないだけかもしれないけれどさ……それはそれでいいと思わない?」
「思わない。つまらない」
 依頼人が来ない時、法月紗羅は本を読んだり、パソコンをいじったり、紅茶を淹れてくれたりした。僕は絵を描いたり、文章を書いたり、宿題をやったりしていた。部室で過ごすこと自体が、僕は嫌いじゃなかった。けれど法月紗羅には、そういった時間は耐え難いようだった。しょっちゅう顔をしかめたり、細い腕をぐるぐる回して「んあーっ!」と突然大声を上げたりした。「この紅茶、すごく美味しいね」僕がそう言っても、「だから何」と吐き捨ててため息をついたりした。
 そんなだから、どんな依頼人が来ても、法月紗羅は大歓迎だった。ぜんぜん大したことない問題、それこそ依頼人の勘違いでしかなかったり、喋ったらそれだけで満足して帰っていくような、そんな時でさえ、法月さんは嬉しそうだった。
 でも今回は、様子がちがった。
「今日は依頼人が来る」
 先週まるまる誰も来なかったわけだから、待望の、と言ってよかった。なのにそう言った法月さんの声は、やけに固かった。
「保健室の先生の紹介?」
 来ることが事前にわかっているのは、大抵そのパターンだった。訊ねると、法月さんはこくこくと頷いた。……通常ならどこからどう見ても美少女、というその顔なのだけど、今は眉間にしわが寄っていて、目許もひどく歪んでいる。
「なにかいやな要素でもあるの?」
 そう訊くと、ぱっと顔を上げ、
「そんなことあるもんか」
と言った。そうして落ち着かなげに立ち上がり、じゅぼぼぼぼ、とポットのお湯を急須に注いだ。その時廊下から、大きな話し声が聞こえてきた。笑い声までした。どちらも同じ男子生徒の声。僕は耳を疑った。だって今僕たちがいる探偵部室――第九応接室は、生徒ばかりか先生までもが姿勢を正しよそいきの顔で通り過ぎる、通称「そとづらの道」にあるのに。そう思っていると、案の定、大声を注意している先生らしき声がした。
「すみません!」
 妙に潔い、そして逆にまったく注意を聞く気がないとしか思われない大声が響く。当然先生のお説教が始まる。その相づちは、やはり大声だ。それに対して先生が、何と言ってるのかまではわからない。
「ハイ!ハイ!わかりました!」
 威勢のいい声が聞こえた。そうして程なく、探偵部室の扉がノックされた。
「依頼に来たよ~開けていい?」
 先ほどまで聞こえていたのと同じ声が響くと同時に、返事を待たずにがらりと扉が開けられた。立っていたのは、茶髪に長身、妙に彫りの深い顔立ちの男の子と、まっすぐな黒髪おかっぱの、日本人形みたいな小柄で色白の女の子。
「わあ、本格的に応接室だ!」
 男の子が、相変わらずの大声で嬉しそうに言った。こんな明るい表情でやって来た依頼人は初めてだった。立ち上がって出迎えた僕は、横から彼らの背後の扉を閉めた。
「……どうぞお座りください」
 すでにお茶を並べ終え、正面にどかっと腰を下ろした法月紗羅が言った。
「わあい、法月さん、やっほー」
 男の子はおどけた様子で大げさに手を振ってみせ、法月紗羅は、それに対して苦虫を噛み潰したような顔をした。男の子は身体を折るようにしてソファのにおいをくんくん嗅いだり、妙に指の長い手でその表面をぱんぱん叩いたりしてから、ようやく法月さんの前に腰を下ろした。その隣に、おかっぱの女の子は静かに座った。僕はノートとペンを手にして、その女の子の前に着席する。
「お名前を教えてください」
「え?知ってるよね?僕の名前」
「……失礼しました。こちらが先に名乗るのが礼儀ですよね。私は二年六組法月紗羅です。こちらは助手の、二年三組渡瀬敦。あなたのお名前を教えてください。助手が記録を取りますので、漢字もお願いします」
「ちえっ他人行儀だなあ」
 男の子は口をとがらせながら、僕に向かって身を乗り出し、クラスと名前を教えてくれた。二年六組、朝日橋洪(あさひばしこう)
「あ、……同じクラス?」
 僕は朝日橋くんと法月さんを交互に見て言った。
「イエス」
 朝日橋くんはにかっと笑って答える。法月さんはそっぽを向いた。その耳が、ほんのり赤いことに僕は気づく。
「ええと、あなたは?」
 僕はお人形のように姿勢よく座っている、女の子の方に訊ねた。女の子は小さく口を開くと、ほとんど息と言っていいようなささやき声で、僕に向かって名前を言った。……ようだったけど、よく聞こえなかった。僕が訊き返す前に、朝日橋くんが代わりに言う。
「こいつは二年五組、水戸(みと)ゆりな」
 水戸さんは、小さな赤い唇をきゅっと閉じたまま、冷やかともいえる顔つきで朝日橋くんを見上げていた。そこにどんな感情があるのかは、まるでわからない。
「で、依頼はどのような内容ですか?」
 虚勢を張るように両腕を組み、法月さんは朝日橋くんに訊ねた。
「なんだと思う?」にやりと笑って朝日橋くんは訊き返す。
「水戸さんの喉に関することですね。水戸さん、無理しないでください。あなたはあまり表情に出さないけれど、筋肉の緊張でわかります。声を出すと喉が痛いのでしょう?彼はあなたの代わりに話す役でここに来たのだから、あなたは遠慮なく黙っていていいんです。もし言いたいことがあったら、よかったらここに書いてください」
 法月さんは朝日橋くんのことをほとんど見ないようにして言いながら、脇に置いてあった自分の鞄からノートとペンを取り出し、水戸さんに渡した。水戸ゆりなはそれを受け取り、けれども自分の前に置いたきり、後は触れようともしない。
 朝日橋くんはにやにやしながら法月さんを眺めていた。法月さんは顔をしかめている。
「こいつの喉に関すること。……うん、そこまでは正解。何があったと思う?」
「何か勘違いされているのかもしれませんが、探偵は当てものをするのが仕事ではありません。話を聞き、調査して、解決するのが仕事です」
 法月さんはそう言うと、突如立ち上がった。
「あなたと水戸さんは同じ部活で、それはその部室で起こった。だから今から部室に来て、現場を見て、犯人を割り出してほしい。そういう依頼でしょう?時間がもったいないから、さっさと行きませんか」
「……五条(ごじょう)先生から訊いたの?」
 朝日橋くんは座ったまま不服そうに言った。
「ここに来るのは強制ではなく自由意思だったはずです。養護教諭には守秘義務がありますから、生徒の身に起こったことについて、他の生徒にぺらぺら喋ったりしませんよ」
 法月さんは立ち上がったまま身体をねじってソファに身をかがめるようにしていて……何をしているのかと思ったら、背もたれのカバーにほつれを見つけてそれを指でつまんでいじっているのだった。法月さんは朝日橋くんの顔をほとんど見ようとしない。突き放すような敬語を崩さない。
 けれども耳の赤みが、今は頬まで広がっている。
 むっとしたその顔が、いつもとちがう妙なかわいらしさを湛えているように見える。
「なんだ。じゃあ、やっぱり当てものしてるんじゃん」
 朝日橋くんがにっと笑った。
 法月さんは、朝日橋くんに顔を向けないようにしたまま、唇をとがらせるようにしていた。
 水戸さんが冷やかな表情のまますっと立ち上がる。
「んじゃ、そういうことで行きましょうか」
 言いながら朝日橋くんも立ち上がり、けれどそこで湯呑を持ち上げて、中身をぐいっと飲み干した。

 行く道すがら、説明された経緯はこういうことだった。
 部活動を終えて、帰る前にちょっと休憩……といった感じのその時に、水戸さんはいつものようにココアを飲んだ。ココアを入れたのは朝日橋くんで、飲んだのは水戸さん一人。しかしそれを飲んだ直後、水戸さんは激しく咳き込んだ。喉に焼けるような痛みを感じたという。朝日橋くんと、もう一人の部員である斎川(さいかわ)くんは、異変に気がついて慌てて彼女を保健室に連れて行った。喉の粘膜が刺激によって傷んでいるのでしばらくあまり声を出さない方がいい、と保健の五条先生は言った。斎川くんは部室に飛んで帰って、ココアの飲み残しの入ったカップを持って保健室に戻った。五条先生は慎重にそのにおいを嗅いでから、少量口に含んでみたという。先生が言うには、ココアの中に、唐辛子を漬けこんだウォッカが入れられている、ということだった。水戸さんはもちろんお酒なんて飲んだことがないし、元々唐辛子系の辛い物は大の苦手だった。
「ココアを入れたのは朝日橋くんなんですね」と法月さん。
「そうすよ。いやもう、びっくりしたのなんのって」
 朝日橋くんは屈託なく言う。
 普通、たとえ何もやっていなかったとしても、自分の入れた飲み物に何か混入されて被害者が出たりしたら、もっと動揺するものではないだろうか。それに、まっさきに疑われる立場にいるのに、不安に思ったりしないのだろうか。
 僕は朝日橋くんの様子を覗った。何の悩みもないような、曇りのない上機嫌、といった風に見える。ハーフかクォーターなのだろうか、色素は薄いし顔は小さいし肩幅はあるし手足はやけに長いし、背の高さを差し引いたとしても、どうにも自分と同じ年齢の同じ男子という気がしない。別の生き物のようにかっこいい。僕の視線に気がついて、彼は「ん?」と問い返す表情をした。
「ところで部活って、何部なんですか?」
 僕は訊ねた。訊ねてから、助手のくせに勝手に質問したりしてでしゃばったかなあ、法月さんにはもう既知のことなら、法月さんに訊ねた方がよかったかなあ、などと思って隣を歩く彼女の顔を見た。法月さんは顔をしかめて、ただ前を見据えている。
「ビバ☆道化師部」
 朝日橋くんが言った。
「え?」
「ビバ、星マーク、道化師部、だよ。助手くん」
「それってどういう……」
「え、我が部について説明していいの?説明を始めたら、たぶん今日はおうちに帰れないけど、大丈夫かな?」
 笑顔のままで言う朝日橋くんに僕が戸惑っていると、
「ビバ☆道化師部は朝日橋くんが去年の秋に設立した部で、現在の部員は朝日橋くん、水戸さん、斎川くんの三人。非公式だけど学校公認なので部室はある。ピエロの扮装をして演技やパントマイム、手品や楽器演奏といったショーをするという活動をしていて、幼等部や初等部、学園と繋がりのある養護施設等を定期的に訪問している。評判は悪くない。公式の部活に――つまり学校案内の部活動一覧に記載し広く部員を募集し、学校予算に組み込む形態に――してはどうか、という話も出ているが、朝日橋くんはそれには反対していて、公式の部活にするというのなら新たに同様の部を設立すればいい、自分はその団体には関与しない、と表明している」
 法月さんが前を向いたまま早口でそう説明した。
「ほぼ合ってるけどひとつだけ。『ピエロの扮装』だけじゃないよ。ピエロをやることもあるけど、クラウン全般……あ、君たち、クラウンとピエロの違いって知ってる?わかりやすい特徴は、涙があるかどうかなんだけどね。より馬鹿にされる、より悲しい存在なんだよピエロは」
 朝日橋くんがにこにこしたまま言う。
 僕は「ビバ、星マーク」の意味について気になってしょうがなかったけれど、そんな余計なことを訊いたら何となく法月さんが怒り出しそうな気がして、我慢していた。案の定、法月さんは
「飲み残しのカップは残してあるんですよね?実際の現場で、昨日の状況をできる限り細かく説明してもらえる、ということでよろしいですか?」
 切るような口調で話を元に戻した。
「もちろん。説明どころか、実演してお見せしますよ。ビバ☆道化師部の名にかけて、リアルに再現致しますんで!」
 朝日橋くんはえらく楽しそうに言う。
 水戸さんは、にこりともしないけれど特に反感を覚えているといった様子もなく、時おり静かに朝日橋くんを見上げながら話を聞いていた。彼女の気持はまるで見えない。
「喉……黙っていても痛いですか?」
 僕は法月さんと朝日橋くんを挟んで一番端の彼女に訊ねた。
 彼女は少しだけ目を見開くようにしながら、小さくこくん、と頷いた。

2

 文化部の部室棟に入るのは初めてではないけれど、ここは何度来てもカオスだった。公式の部――たとえば吹奏楽部や合唱部、演劇部や美術部なんかは音楽室や美術室を使用できるけれど、非公式の部は申請して一時使用許可が出ない限り、特別教室は使えないらしい。そういった部はどうするのかというと、ほとんどはこの部室棟で活動をする。廊下など、部室棟の共用スペースを使用するのはルール違反で、扉を閉めて部室内で活動を行うきまりらしいのだけど、扉を閉めたってそれなりに音は漏れる。部室は空きが出たら早い者勝ちの争奪戦だから、たとえば似たような団体が固まって並んでいるといった法則性はない。和太鼓研究会の太鼓の音、英国ファンタジー演劇部の英語セリフの声、弦楽四重奏を愛でる会の流すクラシック音楽、漫画音読同好会の音読の声、SF的音声研究会の何だかよくわからない音、笛部の笛の音、宇宙交信部の呼びかけの声、地団駄の会の踏み鳴らす足音、レッツラ阿波おどり部のお囃子、うぼうぼ部のうぼうぼ言う声、ストレス発散!器を割る会の器を割る音……それぞれの部室の扉は団体名の書かれた色画用紙が貼られていて、でも大抵はそれだけではなく、活動内容の宣伝や関連するような写真やイラスト、またはまったく関係なさそうなアイドルや漫画のポスター、あるいは主義主張などで埋め尽くされていたりする。タヌキがぶら下がっているところもあった。そんな賑やかな廊下を通り、僕たちが案内されたのは三階の東側。両隣は「紙相撲研究会」と「飴は甘いぞどれだけ甘いか探究部」――つまり活動が比較的静かな団体で、そのことについて朝日橋くんは妙に得意げに「自分の日頃の行いがいいから」と胸を張ってみせた。ビバ☆道化師部の部室の扉は、妙に達筆な墨の字で団体名の書かれた色画用紙を囲むように、例の派手な白塗りの化粧をしたピエロ……ではなくてクラウンの顔が並んでいて、そのさまざまな装飾の顔の絵はすごくリアルなタッチだったので、正直ちょっと怖かった。「これがピエロ。ほら、涙のマークがついてるだろ?」朝日橋くんはいろいろと説明をしたそうだったけど、法月さんはそれを遮るように扉を開けた。
「おかえり」
 面長で妙に大人びた雰囲気の男子が、読んでいた本から顔を上げて言った。彼のまわりには段ボールや衣裳ケース、雑誌や機材や楽器などがごちゃごちゃと置いてある。部室全体の広さは、授業を受ける普通教室の半分くらい。普段ここで出し物の練習をしているのだろう、空間の三分の一は物が置かれているけれど、残りの三分の二は、リノリウムのつるつるした床の何もないスペースとなっている。
「彼が斎川くん。もう一人のうちの部員であります」
 ショーの司会者のような仕草で朝日橋くんは彼を紹介したけれど、斎川くん本人は立ち上がって軽く僕たちに会釈だけすると、脇に置いてあった折りたたみのパイプ椅子を黙々と広げ始めた。空いている側の空間に、椅子が二個置かれる。斎川くんもやけに背が高く……朝日橋くんと同じか、もしかするとそれより高いくらいだった。陰がある雰囲気で、顔立ちはすっと鼻筋が通っていて……男前だ。はっきり言ってこの部の三人とも、すごく容姿に優れていると思う。それなのに何でわざわざピエロ……じゃない、クラウンの格好をするのだろう。というか、朝日橋くんはまあ別として、この大人しそうな雰囲気の斎川くんと水戸さんが、なんでこんな部に入ったのだろう。本当にこの二人が、道化師の恰好をしておどけるようなことをしているのだろうか。何だか想像がつかない。
「はいよはいよ。ええとじゃあ、まずは昨日の練習から再現しましょうか?メイクして、クラウンの格好に着替えないといけないよね。昨日やってたのはどれだっけ?二十分バージョンだっけ?老人施設用?」
 朝日橋くんはそう話しながら物置スペースの中に入り、脇に置いてあった箱からカラフルなボールを取り出した。何気ない調子でいくつも空中に放り投げる。何がどうなっているのか分からない、彼は特に神経を集中している様子もなく、目は僕たちに向けたまま、会話を続けたまま、無造作に手を動かしているだけなのだけど、その頭上には五個くらいの色とりどりのボールが舞っている。彼らのショーを見てみたい、と僕は思った。斎川くんと水戸さんがどんな風に演じるのかも見てみたいし、それに朝日橋くんは、なんだかすごい技術を持っているようだし。
 けれども法月さんは彼の提案を切り捨てた。
「練習は見せていただかなくて結構です。メイクを落として制服に着替えてからココアを飲んだのでしょう?無駄な時間をとらせないでください」
「そこまできつい言い方しなくても……」
 あまりにも険のある口調だったので、僕は思わず言った。
 まあでも法月さんの言うことはもっともだ。僕たちは探偵部なのだ。道化師部のパフォーマンスに興味を持っている場合じゃなかった。
 そう思って……けれど僕はその時法月さんの顔を見て、あっけにとられた。興奮したように頬が赤く染まって、小さく口を開けている、その目は大きく開かれて潤んでいて、朝日橋くんをまっすぐ捉えている。そしてその顔は、どこかいつもと違う、何か妙な光でも発しているみたいに、変にかわいらしい。探偵ともあろうものが、ちょっと顔に出過ぎなんじゃないだろうか。言ってることと表情が噛みあっていない。間違いない、これは恋する乙女の顔だ。
「そう?残念。僕たちのショー、せっかくだから見てもらいたかったのになあ」
 法月さんの顔つきに気づいていないはずはないと思うけれど、朝日橋くんは法月さんのことばに対して、そう言った。法月さんの瞳が一瞬残念そうに揺らいで、けれどもきゅっと唇が引き結ばれると同時に、恋する乙女の表情は何とか奥にしまい込まれた。
「とりあえずこちらに座ってください」
 斎川くんが静かに僕たちを促して、僕と法月さんは勧められるままにパイプ椅子に腰を下ろした。法月さんはしかめっ面をしている。
「練習が終わって、ゆりなはいつもトイレで着替える。姫様は着替えるのが遅いので、まあ、待ってる間暇なんだわ。それでココアを入れるようになった」
「では朝日橋さん、あなたはここで練習していた日は、いつも水戸さんにココアを入れていたんですか?」
 法月さんが今日ずっとしていたしかめっ面は、恋する乙女の顔を無理矢理抑えこむためのものだったのだ。必要以上に堅苦しい話し方も、全部、何とか探偵としての体裁を保つためのもので、彼女の頭の中は、本当は、調査や推理どころではないに違いない。
「まあ、ここ数カ月はそうかな」
「もう結構暑い季節ですけど、それでもホットココアを?」
「ゆりなは喉と腹が弱いんだ。真夏でもあたたかい飲み物しか飲まない」
「そうですか。……その日練習を終えて、あなたたち二人はここで着替えた。水戸さんはトイレに行った。その時の状況を再現してもらえますか」
 朝日橋くんはひどく愉しそうな顔をして、物置スペースの床に腰を下ろした。その脇に、斎川くんも座った。二人はペットボトルのお茶を飲みながら、合奏の改善点について話をしていた。いつの間にか廊下に出ていたらしい水戸さんが、その時扉を開けて入ってきた。
「お?今日は早かったな」
 朝日橋くんは振り返ってそう言うと、すっと立ち上がり、棚の上に置いてあった何かをとるパントマイムをすると、水戸さんの脇をすり抜けて廊下に出た。法月さんは椅子から立ち上がり、真剣な表情をして朝日橋くんを追いかける。その後を、僕も追う。
 廊下を少し歩いた先に、共用の給湯コーナーがあった。流しの上のスチール棚にはさまざまなお茶や飲み物の粉の缶がぎっしりと並んでいて、それぞれに部名の書いた紙が貼られている。朝日橋くんは「ビバ☆道化師部」と書いた紙の貼ってあるココアの缶を手に取った。先ほど棚の上からパントマイムで取ってきた「何か」は、カップだったらしい。見えないのに、それを流しの横の台の上に置いたのが見えた気がした。朝日橋くんは、鼻歌を歌いながら缶の中の匙を取り、粉を三杯、「カップ」の中に入れる仕草をした。
「その缶はいつもここに置いてあるんですか?」
 法月さんがふいに訊ねた。僕たちなんていないような顔をして演技をしていた朝日橋くんがそこで動きを止めたのが、まるでテレビの中の人間がこちらの声に反応をしたみたいに不思議な感じがした。
「うん。いつもここに置いてある」
「ちょっと見せてもらっていいですか」
「ほい」
 法月さんは蓋を開けた缶を受けとり、中を覗きこむと、くんくんとにおいを嗅いだ。その法月さんを、朝日橋くんは妙に優しい目で見ている。法月さんの頭に触れそうな場所に、朝日橋くんの顎があった。妙に近い場所に二人は立っていて、そして同じ視界に納まった時、かっこいい朝日橋くんと美少女な法月さんはやけにお似合いだ。
「位置はいつもここですか」
「うん」
 朝日橋くんは法月さんから缶を受け取ると、蓋をして元の位置に戻した。朝日橋くんは演技を再開する。見えないカップをスライドさせ、電気ポットの下に置く。
「この中にはいつもお湯が入ってるんですか?」
「うん。お湯当番っていうのがあってね。この階に部室がある部が持ち回りでお湯を沸かして、帰りに中身を捨てて軽く洗う。時間外に残るような場合は、その部が勝手に使うけど」
「昨日のお湯当番はどの部ですか」
「ええと、漬物研究会かな。うちの西側、隣の隣の隣」
 法月さんはポットの注ぎ口を下から覗きこんだり、背伸びして棚を覗いたり、流しの下の引き出しを順に開けたりした。身体を起こすと後ずさりをし、朝日橋くんから距離をとると、「では続きをどうぞ」と言った。
 朝日橋くんは、何もない場所に正確に手を動かして「ポットの下に置いていたカップ」の取っ手を掴むと、持ってきた時とは違って中身がこぼれないように水平に保ちつつ、すたすたと歩き始めた。廊下を歩き、部室の前まで戻ってくると立ち止まり、目で合図して僕たちを先に中に入れてから、いったん扉を閉めさせた。僕たちは、部室内の元の椅子に腰かける。朝日橋くんは少しだけ間を置いて、改めて扉を開けると中に入ってきた。物置スペースに置いた椅子に水戸さんは腰かけていて、それに合わせたのか、斎川くんも今は床ではなく椅子に座っている。その脇には、朝日橋くんのためにもう一つ、パイプ椅子が置かれている。
「ねえ、いいよもう。ココア入れてくれなくても」
 裏声で、水戸さんのセリフを斎川くんが代わりに言った。水戸さんはちゃんと口を動かしていて、斎川君はぴったりとそれに合わせて喋ったので、まるで水戸さんから実際にその声が発せられたかのようだった。僕は少しぎょっとした。斎川くんは何食わぬ顔で、そこには照れのかけらもない。
「まあそんなこと仰らずに」
 朝日橋くんはへらへら笑いながら歩いて行って、右手でカップの取っ手を持っていたのを左手に持ち替え、水戸さんが取っ手を受け取れるように差し出した。……見えないカップで、その動きをした。
「……ありがとう」
 と、水戸さんのセリフを再び斎川くんが言う。水戸さんは取っ手を持ち、もう一方の手を添えるようにして、両手でその、見えないカップを受け取った。そうしてまるでその中にアツアツのココアが入っているかのように、ふうふうと息を吹きかけてからカップを傾ける。
 そして……その時思わず僕は駆け寄って、背中をさすってしまいそうだった。それくらいリアルな演技で水戸さんは苦しそうに咳き込んだ。朝日橋くんははじめは笑っていて、それから「大丈夫か?」と少し心配そうな声を出し、それからどうも普通じゃない事態に気がついたように立ち上がった。涙目でほとんど嘔吐するような咳き込み方をしている彼女の背中を斎川くんはうろたえたようにさすり、朝日橋くんは見えないカップを水戸さんの手からとって脇の棚の上に置くと、しゃがみこんで必死な様子で「大丈夫か?おい、大丈夫か?」と繰り返し訊ねる。しばらくすると、咳き込みは治まった。苦しそうな息をつきながら、水戸さんはほとんど息だけの声で「保健室……行く」と言った。小柄な水戸さんと比べてあまりにもでかい男二人は、おろおろしながら彼女に付き添い、部室を出ていく。
「……と、こんな感じ」
 目の前で起こった「大変な事態」に僕が呑まれていると、細く開いた扉からにゅっと顔を突き出すようにして、おちゃらけた声で朝日橋くんが言った。さっきまで苦しそうな顔をしていたのが嘘みたいに静かな様子の水戸さんと、どことなくぼうっとしたような顔の斎川くんが後に続いた。斎川くんはそのまま物置スペースの奥まで行くと、棚の中に手を伸ばし、本物のカップを取り出した。上にサランラップを張ったその中には、少ししか減っていないココアが入っていた。
「これが昨日、彼女が飲んだココアです」
 法月さんはそれを受け取ると、
「サランラップ取っていいですか?」と確認した。
「はいどうぞ」
 斎川くんはあまり抑揚のない声でそう答える。法月さんはカップを何度か持ち直して、あちこちから眺め回してから、中身のにおいを嗅いだ。
「……飲んでもいいですか?」
 斎川くんに向かって訊ねた法月さんに、
「それはやめておいた方が」
 僕が横から言った。
「なんで?」
「なんでって……今の見てたよね」
「大丈夫。そんなにごくんって飲まないよ。別に毒じゃないし」
「でも、なんでわざわざ飲むの?中身が何かはここに来る前に聞いたよね。別に飲む必要ないじゃない」
「探偵には知的探求心が不可欠なんだよ」
 そう言ったかと思うと、法月さんはカップに口をつけた。ごくんって飲まない、って今言ったくせに、どう見ても、しっかり多めの一口分飲んでいた。
「ちょっ……大丈夫?」
 幸い彼女は咳き込んだりしなかった。両手でカップを持ったまま、ぱちぱちとまばたきしている。
「はじめは美味しいココアなのに、毒みたいな後味だ」
 彼女は言った。
「当たり前じゃない。ウォッカなんて、中学生には毒みたいなものだよ」
「喉が熱い」
「だから唐辛子を漬けたお酒だって。そもそも水戸さんはそれで喉を傷めたのに……熱いだけで済むならましだよ」
 彼女の頬から首筋の白い肌が、ほんのり赤く染まっている。それはさっきの恋する乙女状態になっているわけではなくて……お酒か唐辛子、またはその両方のせいか。
「別に辛いの平気だし。お酒だって飲んだことあるし」
「そういう問題じゃないよ」
 法月さんはカップを抱えたまま、考え込む表情をした。朝日橋くんは、僕らの様子を黙って楽しそうに眺めていた。水戸さんは、感情の見えない無表情でやはり僕たちを見ていた。
 法月さんはお礼を言って、斎川くんにカップを返した。
「残りはもういらないですか?」斎川くんが訊ねる。
「はい、もういりません」法月さんは答えると、椅子から立ち上がった。
「ありがとうございました。報告書ができましたら、ご連絡させていただきます」
 法月さんが言うと、
「報告書ぉ?」朝日橋くんが素っ頓狂な声を出した。
「ここにまた来て犯人発表してくれるんじゃないの?」
「……その必要は感じません」
法月さんは冷やかにそう言ったかと思うと、朝日橋くんに向かってにこっと笑ってみせた。それは今日、初めて彼に見せた笑顔かもしれなかった。
「また来てほしいのになあ」朝日橋くんが拗ねた子どものように言うと、
「必要があれば」
 法月紗羅はそう答え、ウェーブの髪を揺らしてビバ☆道化師部の部室を出て行く。
「あの……失礼します」
 僕も立ち上がり、法月さんの後を追って部屋を出た。

「何かが根本的におかしい気がするよ」
 僕は言った。僕たちは探偵部室に戻り、法月さんが淹れてくれた紅茶を飲んでいた。部室に戻るまで、彼女は一切口を開かなかった。僕もとりあえず黙っていた。法月さんは、しゃべりたくない時は僕が話しかけても無視をする。だから返事の期待はしていなかった。けれども少し間を置いて、彼女は答えた。
「おかしい、というのは何がどうおかしいと思うの?」
 法月さんは、カップを顔に近づけて香りを楽しんでいる。紅茶は本当にいい香りがした。そうして口に含んでみると、砂糖なしなのに、不思議な甘みがあるのだった。
「おかしいよ。あの再現とか……まるですごく上手なお芝居の舞台を見てるみたいだった。水戸さんっていう被害者がいて、彼女は実際に苦しい目に遭ったのに、傷つけられたのに、朝日橋くんがあんなに楽しそうなのもおかしいし。大体あの状況でココアに変なものを入れたのは、朝日橋くんしかありえないでしょう?それなのに、三人、あんな風に平気な顔で、何食わぬ顔で再現なんかしてみせて。誰が犯人か当ててみろ、なんて。変だ。なんというか……何もかも変だ」
 僕たちは、依頼人を迎える時のように、窓を背に隣同士でソファに座っていた。ひんやりとした黒皮ソファは、法月さんのわずかな身じろぎも、小さな振動としてこちらに伝えてくる。
「へえ。じゃあ君は、朝日橋くんが犯人だと思ってるんだ」
「それ以外ないじゃない。あの再現がどこまで本当なのかもわからないし、何というか、三人一緒になって僕たちをからかっているだけみたいな感じもあるけど……。でも五条先生が水戸さんを診て、刺激物で喉を傷めたと診断したのは事実なんだから。それを考えたら、朝日橋くんがココアに唐辛子ウォッカを入れて、斎川くんと水戸さんは彼がそれをやったと気づいているけれど、茶番につきあってあげてるとしか」
「それは違うよ」
 法月さんは静かに、けれどもきっぱりと言った。
「朝日橋くんは犯人じゃない」
 僕は法月さんを見た。法月さんはいつもどおりのきれいな顔をして、澄ました様子で紅茶のカップを傾けている。そう、いつもどおり。そう見える。けれど。
「根拠は?」
 僕は訊ねた。法月さんは長い睫毛に縁どられた大きな目を宙に向けたまましばらく何も言わなかった。僕は紅茶をすすった。法月さんの形のいい唇がわずかに動いて、でもそこからは何のことばも発せられなかったので、僕はまたひと口紅茶を飲んだ。開いた窓から風が吹いてきて、法月さんの長い髪を揺らした。潤んだ目をかすかに揺らがせながら、彼女は言った。
「根拠はないよ。私にはわかるけど、でも、根拠は説明できない」
 僕は自分を落ち着かせなきゃと思って、小さく息を吐き出して、訊ねた。
「じゃあ犯人は誰なの?」
 法月さんは僕の方を見ず、まっすぐ前を向いたまま、
「水戸さん」
と言った。

3

 お休みを挟んで月曜日。僕は寝不足だった。
「眠そう。大丈夫?渡瀬くん」
 ぼんやりしているうちに授業は終わっていつの間にか休み時間になっていた。声をかけた人物に半開きの目を向けかけて、はっと気づく。持田さんだ。持田メイ。編入してきたばかりの頃、僕のことを「それなりにイケメン」だと言ってくれた女の子だ。高橋さんと仲がよく、活発な高橋さんは僕とつるんでいる須田くんともよく話し、結果僕と持田さんも、それなりによく会話を交わす間柄となった。彼女は髪を二つに結んでいることが多くて、ふんわりと柔らかな雰囲気で、少し抜けているようなところもあって、ひどくかわいい。僕のことを気にかけてくれている、気がする。なので余計に特別かわいく思えるのかもしれない。
「言ってやっていいんだぞ持田さん。その寝癖やばいよって。いい意味じゃなくやばいって。むしろ言うべきだ。持田さんが言うのが一番いい。寝癖かわいいなんて言ってもらえると思うなと、ハッキリ言ってやった方がいい」
 前の席の須田くんが、通路に脚を出して横向きに座りながら言った。彼の身体は横幅があるので、僕は身体を起こし、自分の机を少し下げる。
 隣の席の高橋さんが片手で頬杖をついたまま僕に手鏡を渡してくれた。覗いてみると、確かに頭の右上に、ぴろんと跳ね上がった寝癖がある。
「うう……」
 僕は立ち上がる。確かにやばいかもしれなかった。困ったように笑っている持田さんに対して、何だか申し訳なかった。「直して参ります……」僕は高橋さんに手鏡を返し、三人に頭を下げるとトイレに向かった。廊下は人でごった返している。ボールを投げ合っている男子グループがいて、彼らに文句を言っている女子たちがいた。その横を僕はふらふら通り過ぎる。「でさあ」別の女子集団の会話が耳に入る。「私の席、ベストポジションなわけよ。朝日橋くんの寝顔見放題!」数名の甲高い声が口々に、羨ましい、ずるい、替われ、と訴える。耳というのはとても性能がいいのだ、という話を僕は思い出した。気になっていることに関連する情報を、自動的に選んでキャッチする。何て名前だったっけ。何とか効果。この前テレビで説明していたのを見たのだけれど。
「直ってないぞ」
 戻った僕を見て、須田くんは言った。濡らして撫でつけたのだけれど、あまりうまくいかなかった。急がないと休み時間が終わってしまうと思ったので、もういいや、と諦めた。
「あのさ須田くん。二年六組の朝日橋くんって知ってる?」
「朝日橋。奴は有名人だな。特に女子人気は凄まじいな。確かイタリア人のクォーター。まあでも奴はちょっと変わってるから、保守派の女子は鑑賞専用扱いをしているな」
「保守派の女子ってなに」
「保守的な女子のことだ。サッカー部と野球部以外は基本男子ではないと思っている女子だ。渡瀬くんとは縁のない女子だ」
「あのさ、朝日橋くんて、ええと、その」
「なんだ」
「朝日橋くんって、彼女いるのかな」
「おい、どうした。渡瀬くんはそっちの趣味だったのか」
「そっちの趣味ってどっちの趣味」
「そっちの趣味はそっちの趣味だ。そっちだとしても暖かく見守ってやるけどな。まあそれは冗談として、なんで朝日橋の彼女の有無が気になるんだ」
「……ちょっと」
「なんだ、例の探偵部絡みか」
「いや、ええと」
 僕が口ごもっていると、隣から高橋さんが話に入ってきた。
「朝日橋くんは彼女いないよ」
 シールをたくさん貼った手帳をパタパタと振りながら言う。
「あれは彼女作っちゃダメだよ。なんて言うのかな、みんなの朝日橋くんってやつ?あそこまでのイケメンはそうはいないよ、学園の誇りだよあれは」
 猫みたいなくりっとした目で高橋さんは言い切る。するとその高橋さんと向かい合って座っていた持田さんが、おっとりと言った。
「でも、五組の水戸さんとつきあってるって噂あったよ」
 持田さんは僕と目が合うとにっこりと微笑んだ。つられて僕も頬を緩ませつつ、
「いや、水戸さんは……単に同じ部活ってだけじゃないのかな」
 そう言うと、なぜか三人は、いきなり真剣な顔で僕を見た。
「……なに?」
「少人数の部活っていうのは、怪しいもんだ。放課後の長い時間を一緒に過ごす。そうだろ?」
 須田くんの眼鏡のきらめきに、僕はたじろぐ。
「でも、ほら、朝日橋くんの部はもう一人いるでしょ。斎川くんって、ほら、彼も背が高くて、かっこいい感じの……」
「朝日橋くんと水戸さんのことなんてどうでもいいのよ」
 妙に低音で、僕のことばを遮るように突然高橋さんが言った。おもむろに立ち上がり、僕の机に手を着くと、冷ややかな目で僕を見下ろして続ける。
「普通部活の最低人数は三人よ。何か特別の事情で存続させないといけないとか、裏で手を回して無理矢理学校に認めさせたとか、そういうのじゃない限り、三人いないと学校公認の部とはならないのよ」
 初耳だった。それはともかく、何でそれを今、こんな怖い顔をして言うのだろうか。
「はっきり訊くけど渡瀬くん」
 けれどもこういう時の女子に、余計なことを言ってはいけない。僕は唾を呑みこみながら彼女を見上げ続きを待つ。見下ろす高橋さんの視線と別に、須田くんと、持田さんの視線までもがなぜか今は痛く感じられる。
「渡瀬くんと法月さんって、どういう関係なの?」
 じじじじじ……と機械音がした。続いてチャイムが鳴り響く。チャイムの音の中、教室内の生徒たちはがたがたと自分の席に戻り出す。高橋さんは刺すような視線を僕に向け、舌打ちしそうな顔をして、席に着いた。持田さんの優しい目が、やけに悲しげに何か言いたそうに僕に向けられて、でも彼女も何も言わずに少し離れた自分の席へと戻っていく。次の授業の教科書を慌てて取り出す僕に、須田くんは振り向いて、「次の時間までに答え考えとけ」と小声で言った。けれども次の休み時間、高橋さんと持田さんは係の仕事で先生について出て行ったので教室にいなかった。昼休み、彼女たちは五、六人の女子集団の輪の中にいて、僕らの方には来なかった。 
 そもそもそれは、そんなに重要なことなのか?
 答えなければいけないことなのか?
 部外者には、関係ないことじゃないか。
 僕の中にあったのは……決して口には出せそうになかったけれど……そんな言葉ばかりだった。

 放課後探偵部室に行くと、法月さんは先に来ていた。ソファの上で脚を伸ばして本を読んでいる。僕が入っていくと顔を上げ、言った。
「ココアを買ってきた。入れてくれる?」
「ココア?なんで」
「事件の検証。いいから入れて」
 僕はリュックを下ろして床に置くと、電気ポットを置いているコーナーに行った。
「カップはその辺のを適当に使って」
 法月さんが言う。棚の中には紅茶の缶がいくつかと、コーヒーの缶と緑茶の缶。その横に、昨日朝日橋くんが見せてくれたのと同じ銘柄の、ココアの缶が置いてある。ポットのお湯はすでに沸かされて保温状態になっていた。
「一人分だけ入れたらいいのかな」
「どっちでもいいよ。飲みたいなら自分の分も入れたら?」
 どちらかというと、飲みたくなかった。変なものが入ったココア、というイメージが今は頭の中で強すぎる。だからたとえ自分で入れて絶対安心だと分かっていても、何となく、飲みたいと思わない。別に甘いものがほしい気分なわけでもないし。
 ココアの粉を入れたカップにお湯を注ぎ、スプーンでかき混ぜる。甘い香りが立ち上る。
「はい」
 座ったままの法月さんにカップを手渡した。
「ありがとう。それにしても芸術的な寝癖だね」
「うん」
「……ねえ、事件について、あれから考えてみた?」
「考えるも考えないも」
 休みの間もずっと頭から離れなかった。眠れないほどに考えていた。
 厳密には、事件について、ではないかもしれない。
 僕がずっと考えていたのは、探偵・法月紗羅についてだ。
 恋する乙女になってしまって、何が真実か、見えなくなってしまった探偵。
「あのさ、法月さん」
 僕が何から切り出そうかと迷っていると、
「ねえ渡瀬くん、気づいた?」
 やけに嬉しそうに笑いながら、法月さんが僕を見上げて言った。
「なにに?」
「このココア。飲んでみて」
「いや、僕はいらないから入れなかったわけで」
「いいから飲んで」
「いらないよ」
「飲んで」
「……」
 有無を言わさない勢いに圧されて、僕は仕方なくカップを受け取った。まあ、自分が入れたわけだから、変なものは入っていないのだし。飲みたいわけではないけれど、飲んで困るものでもない。
 僕はカップを傾けた。
 そうして次の瞬間、うえ、と顔を歪ませた。
「なにこれ、しょ、醤油?」
「すごい、味覚するどいね渡瀬くん。ご名答」
「ご名答、じゃないよ。なんでそんなの、人に飲ませる」
 はっきり言ってもの凄くいやな味だった。法月さんはやたらと愉しげな顔をしながら立ち上がり、ごめんごめんと言って、口直し、と缶入りのオレンジジュースを差しだしてくれた。僕はすぐさまプルタブを開け、ごくごくとそれを飲んだ。
「でもさ、これで証明できたよね」
「なにを?」
「先週私が言ったこと。犯人は、水戸さんだってこと」
「……どういうこと?」
 僕が訊ねると、法月さんはスカートのポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは、お弁当で醤油とかソースとかを持って行く時に使うプラスチックの容器だった。
「これを手の平の中に忍ばせておいて、ほら、こうやって蓋をはずして、中身を注ぐ。まわりからはほとんど見えないように、巧妙に。一昨日思いついて、昨日はずっと練習してたんだ。なかなか難しいけれど、でもできないことじゃない。道化師は、手品だってお手の物だし」
 頬を上気させ、法月さんは得意顔だ。……必死だ。
「さっき、私がカップを受け取ってから君に渡すまでの間、私たちは会話を交わしていた。君はずっと私の挙動を注視していたわけではないけれど、でも何となく、私の方は見てたよね。水戸さんの場合も同じような状況だ。そうだよね?」
「まあ」
「でも君は、私がココアに醤油を入れたのに気がつかなかった。だから私がそのままココアを飲んで、苦しみ始めたら、君は、犯人は自分だとしか思えなくなる。そういうことだ」
「……それよりも、朝日橋くんがココアに変なものを入れる方が、はるかに簡単だよね。流しのところで、一人だったわけだし」
「より犯行が容易だからその人が犯人だ、なんて理屈はないよ。可能性の高さと真実は無縁だ」
「じゃあ、何が決め手?動機?水戸さんは、被害者だよ。何で自分が苦しむようなこと、自分でするのか、意味がわからないよ」
「……動機についてはまだわからない。でもともかく、犯人は水戸さんなんだ」
「だから、なんで?」
「なんでと言われても困る。前から言ってるよね。そういう感じがする。そうだとわかる。だけど理由はうまく説明できない、って」
「それで犯人にされる方はたまったものじゃない」
「もちろん。だからがんばって根拠をさがす」
 ……一か月前、はじめて一緒に遭遇した事件の時も、法月さんは同じことを言っていた。明確にそうだとわかる、総合的な判断で確信できる、でも根拠は説明できない、と。
 そうして僕が探偵部に入ると決めたのは、彼女が弱っていたからだ。
 真実を見抜けるけれど、そんなのは単なる自分の思い込みかもしれない、すべてについてそうだ、と弱音を吐いていた彼女を、助けたいと思ったからだ。
 だって、彼女は正しかったのだから。根拠はなくて、うまい説明もできなくて、それでもあの美術部で起きた事件について、何が誰によるものなのか、彼女は正確に見抜いていた。僕はそれを凄いと思って、そうしてもしも僕が彼女の力になれるというのなら、力になりたいと、そう思ったのだ。
 僕が探偵部に入って一か月。その間、彼女は大抵、真実を見つけだしてきた。見つけだすだけでなく、何が最善かを考えて、みんなにとって良い結果になるように、いつも一生懸命だった。
 ……けれども。
 今の法月紗羅は、正しさを失ってしまっている。
 好きな男子を悪く思いたくないあまり、こともあろうに被害者の女の子を犯人だと決めつけている。そうしてその子を犯人に仕立て上げるために、無理矢理根拠を作り出そうとしている。
「法月さん。僕は、ちょっと言いにくいことも言おうと思う」
 僕は言った。
「うん」
 法月さんはソファの上に、すらりと細い靴下の脚を投げ出したまま、それでも神妙な顔で頷いた。
「あのさ。僕は朝日橋くんに、彼女がいたらいいと思ったんだけど。そしたら君もきっぱり諦めて、気持を切り替えられるんじゃないかなと思ったんだけど。でも嘘をつくわけにもいかないから。その、どうも彼女はいないらしい」
「はあ」
「でも、彼女になったら大変だと思う。たくさんの女子が朝日橋くんのファンだから。みんなの朝日橋くんらしいから」
「ふうん」
「ええと、それはどうでもいいんだけど。そうなったらそうなったで、僕に何か言う権利はないんだけど。ともかく僕は、君に目を覚ましてほしいんだ」
「へ?」
「君は探偵なんだろ?いつも言うよね、自分は探偵だ、って」
「うん」
「探偵は、しっかりと真実を見るべきだと、そう思わない?」
「もちろん」
「僕は君に、元のしっかりした君に戻ってほしい。つらい真実も、ちゃんと受け止めてほしい。その上で、つきあうんだったらつきあったらいいと思うし」
「はあ」
「朝日橋くんは、君に興味を持っていて、君がいろいろ見抜く力を持っているのを、試したかったんだと思う。単純に、君と関わりたかったのかもしれない。ともかく、君に調査してもらいたくて、自分に興味をもってほしくて、それで事件を起こしたんだと思う」
 法月さんは、考え込む表情をした。眉間にしわを寄せ、しばらくの間、もの凄く真剣な顔をしていた。
「……君はやっぱり、すばらしい助手だな」
 やがて法月さんは口を開いて、そう言った。
 わかってもらえた。そう思って、僕は嬉しくなった。
 けれどもそうではなかった。
「全部つながった。うん、そういうことだ。それなら辻褄が合う。たぶんそうなんだろう。――朝日橋くんは、かねてから探偵である私に興味があった。依頼をして、探偵がどんな風に調査したりするのかを、見てみたかった。水戸さんは、それを知っていた。それで朝日橋くんのために、事件を計画して、実行した。……事前に知っていたならば、おそらく朝日橋くんも斎川くんも彼女を止めていただろう。けれどももう、彼女は犠牲を払った後だ。むしろせっかく苦しい目に遭ったのに、それを無駄にするのはしのびない。今の時点では朝日橋くんも斎川くんも彼女が自分でやったのだということを知っているけれど、せっかくなので、二人も彼女のお膳立てどおり、それで楽しむことにした。探偵法月紗羅は何でも当てるとか、普通の人が見えないものを見る力があるとか、いろんな噂があるけれど、本当なのか。犯人が水戸ゆりなだと、彼女は見抜くことができるのか。探偵への挑戦状だ。そうだ、それなら動機として申し分ないし、彼らの言動とも矛盾しない」
 法月さんは、興奮したようにまくしたてた。
 僕は言った。
「どうしても水戸さんを犯人にしないと、気が済まないの?」
 法月さんは僕を見上げ、少しだけ顔を曇らせた。
「ごめん。うまく説明できない。でもそこだけは間違いないよ」
「なんで?」
「だから説明できない。前から言ってるけど……」
「何度も聞いたよ。さっきも聞いたばっかりだよ。だけどたまには、それが自分の思い込みだって、疑うことはないの?」
 言ってすぐに、しまった、と思った。けれども後の祭りだった。
 彼女の顔色が変わった。
 僕に言われるまでもなく、彼女の頭の隅っこには、常にその不安があるのだ。「すべては自分の思い込みかもしれない」。その不安に対して、ちがうよ、と言える、そういう存在を助手に求めていたということを、僕は充分知っていたのに。

「そうだね。私は狂っているのかもしれないね」
 押し殺したような声で、彼女は言った。
「そこまでは言ってない」
「言ってなくても同じだよ。だって私は確信しているのだもの。ほら、たとえばここにテーブルがあるよね。それを私は確信している。けど、もしも君がここにテーブルなんかないと言い、他のみんなもテーブルなんかないと言い、そして実際テーブルなんてないのなら、私は狂っているということになる。そういうことだよ」
「……ちがうよ。ただ、君は朝日橋くんが好きで、だから彼を悪く思いたくなくて、水戸さんの自作自演ってことにしてしまいたいという……そういう、恋した女の子なら仕方のない、そういう話だと思う」
 僕は必死で言った。法月さんは眉をひそめる。
「ちょっと待って。私は朝日橋くんが好きなの?」
「そうでしょう?」
「私は正直、彼のこと、すごく苦手だ、と思ってるけど」
「……そうは見えないけど」
「じゃあ、『恋は盲目』ってやつで、私は馬鹿な女の子で、実際は純粋に被害者である子を自作自演のイタい子に仕立て上げようとしている、君にはそう見えているっていうことなの?」
「……うん」
「じゃあ言うけど、私には、君こそ朝日橋くんを犯人にすることに固執しているように見えるよ。背が高くて、女子に騒がれていて、誰が見てもかっこいい、その上器用で運動神経もよくて頭もよくて家も金持ちで、なおかつ性格もいい、そんな朝日橋くんに嫉妬して、悪者にしたくて、何としてでも彼を犯人にしようと躍起になってる、そんな風に見えるよ」
「……僕は彼が運動神経がいいことも頭がいいことも家が金持ちなことも知らなかったけど。でも法月さんには、そんな風に見えてたんだ。へえ。何でもわかる探偵様が、そう言うならそうなのかもしれないね」
「何でもわかるなんて、私はそんなこと、一度も言ったことない」
「そう?僕は他人だから、君が何を確信していて何は自分の主観にすぎないと思っているかなんて知りようがないよ」
「そうだね。他人だものね。わかりあえるなんて思う方がどうかしてるよね」
「うん。今さらだけどね」
「うん。ほんとうに、今さら」
 法月さんは、ソファの上で自分の膝を引き寄せると、そっぽを向いた。
 僕はもう、一秒もこんな場所にはいたくなかった。手に持ったままだったオレンジジュースを飲み干して、空き缶を、叩きつけるようにテーブルの上に置いた。そうして足元に置いていたリュックを手に取ると、そのまま探偵部室を出て、振り向きもせずに戸を閉めた。

4

 次の日も僕は寝不足だった。授業はほとんど上の空で、休み時間もほぼ意識がなかった。気がつくと放課後で、須田くんに肩を叩かれてはっとなった。「じゃあな」と手を振って、帰宅部の須田くんは帰っていった。教室にはもう誰も残っておらず、僕はぽつんと一人で席に座っていた。
 いつまでもここにいるのは馬鹿げていると知っている。
 でも、方針が定まらないと、動くことができない。
 部室に行くのか。帰るのか。
 僕は途方に暮れながら、ただ黒板を眺めていた。
 すると教室に、入って来る子がいた。
「あ、渡瀬くん」
 持田さんだった。彼女は僕を見て、何だか言い訳するように、忘れ物しちゃって、と言って笑った。僕はただ、曖昧な相づちを返した。
「渡瀬くんはどうしたの。部活は?」
「うん」
 何と答えたらいいのかわからなくて、それ以上ことばが出ない。訊ねた持田さんも困っている。申し訳ないので、何か言いたいと思う。けれどもやはり、何と言っていいのかわからない。
 持田さんは自分の席に向かうと、机の引き出しに向かって屈みこんで何か探し始めた。僕の視線に気がついて顔を上げる。僕は慌てて視線をそらす。視界の隅で、持田さんは上体を起こすと、
「……渡瀬くん、大丈夫?」ふいに訊いた。
 僕はうろたえた。視線が怪しかったのだろうか。
「ごめん、じろじろ見たりして」
 僕のことばに、けれども逆に持田さんがうろたえた。
「や、ちがうよ。あの、今日も眠そうだったから。大丈夫かなあって、思ってたの」
 僕は持田さんを改めて見る。
 彼女の優しい目と、僕の目が合う。
「うん……」僕は言った。「喧嘩、して」
「喧嘩?」
「喧嘩……いや、単なるちょっとした言い合いなんだけど」
 彼女はじっと僕を見ていた。
「あ……忘れ物、見つかった?」
 僕が訊ねると、彼女は一瞬きょとんとした。それからあ、と慌てたように自分の机の引き出しを再び覗き、ぴょこんと顔を上げると、
「あ、うん。あった。うん」
 本当にあったのだろうか。ごまかすように笑っている。
「その……それで?」
 自分のことはいいから、といった調子で、彼女は訊ねた。忘れ物を取りに来たというのは嘘なんじゃないかなあ、と僕は少し思った。でもじゃあどうして来たのだろう。
「……僕は、自分の考えが正しいと思ってたんだ。でも、相手も、自分の考えが正しいと思ってたんだ。そうして両方の意見は違っていて、お互いに、相手は間違ってると思ってた」
 持田さんは真剣な顔をして僕を見ていた。真剣な様子で聞いてくれていた。
「でも……いや、喧嘩になったのは、お互いに自分の方が正しいと思ってて、譲らなかったから、じゃなくって。そうじゃなくって」
 僕は懸命に考える。自分がどう思っているのか。どうしてあんなに腹が立ったのか。
「そうじゃなくって、僕はたぶん、相手の中で自分が、なんだかすごくみっともない奴にされていて、それがいやだったんだ。しかもそれが、もしかすると少し当たってるかもしれないのが……いたたまれなくて」
 それで僕はかっとしてしまったんだ。
 でもそれは、法月さんも同じだったのかもしれない。
「どっちが正しいのかはわからないけど、でもこれまで、相手の方が正しいことが多かったんだ。だからそれはいいんだ。うん、むしろその方がいい」
 言ってから、持田さんにとっては訳のわからないことを言ってしまった、と気づいた。僕はごめんと謝った。持田さんはぶんぶんと首を振ると、
「渡瀬くんが話してくれて嬉しいよ」
 と笑った。
「仲直り、できるといいね」
 メイー、とその時、廊下の方から持田さんを呼ぶ友人らしき声がした。高橋さんではない。他のクラスの友だちだろうか。
「あ、ごめん、行くね」
 焦ったように言う持田さんの頬は、ほんのり赤く染まっている。
「うん。その……話聞いてくれて、ありがと」
 僕が言うと、持田さんは照れたように笑った。赤い頬がぷっくりと持ち上がるのが、妙にかわいらしい。手を振って教室を出ていく持田さんを僕は見送った。彼女は手に、何も持ってはいなかった。
 ――仲直り。
 僕は、仲直り、がしたいのだろうか。
 僕は探偵部に、戻りたいのだろうか。
 昨日の高橋さんの質問が、何度も頭の中で繰り返される。
 僕と法月さんの関係って、何なんだろう。
 僕たちは、何なんだろう。

 廊下側にある僕の席からは、窓は遠かった。白いカーテンの隙間から青空が見える。昨日探偵部室で、法月さんの後ろにも青空が覗いていたのを思い出す。
 僕は想像してみた。今すぐ席を立ち、家に帰ることを。明日も、明後日も、その次の日もそのまた次の日も、そうすることを。もう二度と、あの部室に行かないことを。法月さんと並んで依頼人を迎えたり、事件について彼女と話したりすることも、もう二度とないということを。彼女と同じ空間にいて、それぞれ別のことをしながら、たまに他愛ない会話を交わしたりすることも、もう二度とないということを。……同じ学校の同じ学年なわけだから、僕は法月さんを見かけることがあるかもしれない。廊下ですれ違うこともあるかもしれない。けれども僕らはもう決してことばを交わしたりはせず、それどころかたぶん目も合わせない。およそ一か月の間、放課後の長い時間を僕たちは一緒に過ごした。いろいろ話した。ともに行動した。それなのに、そういったこと全部まるでなかったみたいに、僕たちは無関係な者同士になる。

 僕は椅子を引き立ち上がると、リュックをつかんで教室を出た。歩きながらリュックを背負い、渡り廊下を渡って、白い階段を下りる。
 僕は職員室に入った。特別教室の鍵がかかっている収納ボックスのところへ行く。はじめて探偵部室に行った時、僕は鍵はいつも法月さんが持っているのかと思った。けれどもさすがに学校の施設なのでそんなことはなくて、鍵は職員室で管理されていた。法月さんはほとんどの場合僕よりも先に部室に行っていて、大抵部室の鍵は開けられていた。行ってみると鍵がかかっていることもあったけれど、一度鍵を開けた後にどこかに行くので閉めたという場合、法月さんはいつも扉のところにメモを貼っていた。それなりに人通りがある「そとづらの道」、しかも先生や来賓が通ることもよくある廊下に面した扉に、法月さんはあのクセのある字で「→図書室緑の猫」とか「急げ文化部部室3026耳かき」とか、知らない人が見たらよくわからないようなメッセージを残してくれていた。
 キーボックスに鍵はなかったので、僕は部室に向かった。途中二人の先生とすれ違い、おざなりに挨拶をした。第九応接室。……中の電気はついてはいない。それでも僕は引き手に手をかけた。手に、抵抗が返った。鍵は閉まっていた。中に人の気配はない。そうしてメモも貼られてはいない。
 僕は待った。扉の向かいの廊下の壁際に立ち、通る人の邪魔にならないようにした。大人が通るたびに、それなりに丁寧に挨拶をした。生徒の母親らしき人が何人か通り過ぎる。高級そうな衣服の人と、そうでない人がいた。この学校の生徒の九割は、お金持ちの家の子だ。でも一割は、そうじゃない。
「ここで何をしているんだ?」
 ついに声をかけられてしまった。知らない先生だった。
「……ちょっと、人を待っています」
「ここじゃなくて、別の場所で待ちなさい」
「……はい」
 僕は素直にその場を後にした。法月さんはどこに行ったのだろう。ビバ☆道化師部の部室かもしれない。けれども、彼女がいないかもしれないそこに、一人で行く勇気がない。
 メモが貼られていなかったということは、僕が来ることを、法月さんは想定しなかったのだろうか。今日は来ないと思ったのだろうか。それとも「おまえなんか来なくていい」ということなのだろうか。僕は、見限られたのだろうか。
 僕は昇降口に向かった。
 靴箱で靴を履きかえ、僕は家に帰った。

5

 次の日僕の寝不足はほぼ解消できていた。危険を感じた僕の身体は、僕の頭と身体の接続を強制的に遮断したらしい。朝起きた時には、記憶喪失みたいに何もわからなくなっていた。しばらくするとじわじわと、いろんなことが頭に戻ってきたけれど。
 それは昼休みのことだった。教室で須田くんと、どちらが社会科教師ミソンの物真似をうまくできるか競い合っていると、あまり話したことのないクラスメイトに肩を叩かれて紙きれを渡された。廊下で、僕に渡すように頼まれたのだと言う。
 罫線の入った、メモ帳の一枚。クセのある字で、そこにはこう書かれていた。
「今すぐ部室に来るように。 S」
 須田くんも、前から覗きこむようにしてその紙を見た。
「……部活、やめたって言ってなかったか?」
「そう思ってたんだけど」
「でも行くのか」
「うん」
「そうか。渡瀬くん。……好きなんだな」
「うん」
 僕は教室を飛び出した。昼休みの廊下は人でごった返していた。制服と制服の間をすり抜けて、僕は走った。「そとづらの道」の前で一応息を整えて、そこでは歩いた。けれども早足で歩いた。第九応接室。探偵部室の電気は、点いていた。僕はがらりと扉を開けて中に入った。
 奥のパソコンに向かって、法月さんは座っていた。顔を上げるなり言う。
「君は今から早退だ。その顔色では体調不良を理由にはできないな。家庭の用事のため午後から早退だったのに、ボケた君は担任に朝それを伝えるのを忘れていた。昼ご飯を食べてから思い出し、慌てて帰る準備をすることになった。……そんなボケた奴がいるだろうか?いやいないとも限らない。君なら疑われることはないだろう。ともかく時間がない。すぐに教室に行って帰る準備をし、ここに戻ってくるように」
「……僕はもう、いらないのかと思った」
「探偵は、そう簡単に助手を捨てたりしないよ」
「昨日ここに来たんだよ。でも閉まってた」
「昨日私はここにいたよ。長いこと待ったけど、君は来なかった」
「……僕たちの関係って、何だろう」
「探偵と助手」
「そうだけど。その、一般の人間関係に当てはめるとしたら」
「友だち」
「そうだよね」
「どういう意味?」
「ううん」
「ともかく急いで。話はそれから」
 慌てて部室を出ようとすると、呼び止められた。
「生徒手帳置いてって」
「え?」
「急いで」
 言われるままに、僕は生徒手帳を出して渡した。そうして教室に取って返す。鞄の中に教科書やノートや筆記用具を突っ込みながら須田くんに説明をした。忘れてたんだけど、今日、ちょっと家の用事で、午後から帰らないといけなかったんだ。
「……気をつけるんだぞ」
 須田くんはあきれたような顔をして、そう言った。
 じゃあ、と言って、リュックを背負い、僕は再び教室を飛び出した。

 部室に戻ると、テーブルの上に僕の母親の字で「家庭の用事があるため午後早退します」と書かれた紙が置いてあった。僕は困惑した。
「ああ、知り合いにもらったアプリでね。スキャンした文字を元に、筆跡を再現してくれる」
「……これを切り取って貼りつけるの?」
「まさか。これをお手本にして書いたんだ。ほら」
 法月さんは僕の生徒手帳を広げて、「諸届・許可」欄を僕に見せた。どこからどう見ても、僕の母親が書いた文字だ。自分の身内を褒めるのもなんだけど、いかにも大人の女性らしい綺麗な字なのに。それをどうして、たとえお手本があるにしたって、あのお世辞にもうまいとはいえない妙なクセのある文字を書く法月さんが書けるのかわからない。
「もしかして、普段はわざと汚い字書いてるの?」
「そんなことしないよ」
「だってこんなに綺麗な字が書けるのに」
「これは左手で書いたんだ」
 法月さんはパソコン台の引き出しを開けると、中から印鑑を取り出した。
「私は元々左利きなんだ」
 言いながら、「保護者印」の欄に捺印をする。「渡瀬」と。
「なんで僕の家の印鑑があるの?」
「こんなこともあろうかと、君の入部届に押してあったのと同じ印鑑を探して買っておいたんだ」
「……犯罪じゃないかな」
「そんなの気にしてる場合じゃないよ。助手の信頼を取り戻さないと」
「僕の信頼?」
「証明するよ。私が正しいってこと」
 そうして僕は、言われるままに、偽造の保護者連絡の書かれた生徒手帳を持って職員室へと向かった。担任の先生は何の疑いも持たず、朝に持って行くのを忘れていて、という僕の説明すらろくに聞いてはいなさそうだった。明日は普通に登校するんだね?と問われて、はい、と答えた。あっけなく、担任印が捺印された。それにしても、次に実際欠席か何か、母親に届を書いてもらうことになった時には、どうしたらよいのだろう。忘れっぽいなあ母さんは、とか何とか言ったらごまかせるだろうか。

 僕と法月さんは、学校の最寄り駅で合流した。彼女は私服姿に変わっていた。グレーのパーカーに細身のジーンズ。探偵部室で着替えたらしい。学校の正門のところには監視カメラがあるから、別の場所から出たという。
「この時間、制服着てたら目立つからね。ほら、君の服も用意してあるよ」
「……法月さんも偽造の早退届出したの?」
「私は今日は欠席だよ。親の声色で電話した」
「欠席なのにどうやって学校にいたの?」
「昨日は『まちがえて』部室の鍵を持って帰った。ちなみに今も持ってるけど」
「……大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないけど、大丈夫」
 それは結局大丈夫なのだろうか。
 僕は渡された紙袋を持ってトイレに行き、着替えた。紺色の長袖ボーダー柄Tシャツと、ベージュのチノパン。脱いだ制服を紙袋の中に突っ込んで、法月さんのところに戻る。
「この服、買ったの?」
「うん」
「法月さんが?」
「うん」
「サイズとか……よくわかるね」
「助手のサイズくらいわかる」
「その……代金とかどうしたら。というかそもそも、これから何をするの?」
「お金のことは気にしなくていい。それから、今から水戸さんの家に行く」
「ええっ?」
 彼女の家は徒歩圏内だと言うので、僕たちは電車には乗らず駅を出た。学校と反対側の方角には、僕はまったく行ったことがなかった。あまりきれいではなさそうな川が、道路の脇の下の方を流れている。酒屋さん。クリーニング屋さん。文房具屋さん。小さな店の入り口はどこも薄暗く、ちょっと埃っぽいようなにおいがする。
「水戸さんは、今日休んでるの?」
「いや、登校はしていた。早退してない限りは学校にいる」
「じゃあ、親御さんに会うってこと?」
「いや、今家には誰もいないはず」
「いないのに、行ってどうするの?」
「入るんだよ。水戸ゆりなには小学生の弟がいる。登校前に、彼とちょっとしたおしゃべりをした。その時に家の鍵を拝借したんだ。大丈夫、彼が帰る前にちゃんと返すよ」
 僕は絶句して、隣を歩いている法月さんを見た。
「どうかしてるよ」
「うん、どうかしてる」
「冗談じゃないよ。泥棒に入るってこと?」
「泥棒はしないよ。何も盗らない。約束する」
「そういう問題じゃないよ」
「入るのいや?」
「いやだ」
「じゃあ外で待ってたらいいよ。けど、君が入らないんだったら、証拠品はいったん外に持ち出さないと君に見せられないな」
「僕に見せる?それだけのために人の家に不法侵入するの?」
「そうだよ。私は水戸ゆりなが犯人だってこと、君に証明しないといけない」
 法月さんはまっすぐ前に視線を向けながら言った。見たことがないほど厳しい目をしている。早退届の偽造のことだとか、服のことだとか、法月さんは終始何でもないことのように冗談めかしていたけれど、もしかすると本当は、彼女はそんなに平気ではないのかもしれない。鍵を盗んで勝手に人の家に入るなんて、はっきりいってとんでもないことだ。けれどもこれらのこと全部、彼女がしようと考えたのは、それは僕のせいなのかもしれなかった。
「持ち出すのは駄目だよ」僕は言った。
「僕も入る。誰かに見つかったら、一緒に逮捕される」
 僕が言うと、法月紗羅はふっと表情を緩めた。
「君の誕生日はまだ先だろう。十四歳になってない。だから逮捕はされないよ」
 太ったおばさんが、荒い息を吐きながら自転車を押していた。坂道を登りきると、そこからは住宅地だった。どこかの家で犬が吠えていた。塀のまわりにたくさんのプランターを並べた家から女の人が出てきて、僕たちをちらりと見た。僕は心臓がバクバクした。法月さんは平気な顔をしている。
「堂々とすること。水戸さんは文化祭の劇の練習で使う大事な小道具を家に忘れた。ないとクラス全員が困るけど、水戸さんは役者だから抜けられない。だから小道具係の私たちが、かわりに取りに来た。どうして私服なのかというと、文化祭の舞台準備は汚れるから、みんな汚れてもいい服に着替えてる。そんなところだ。……けど万が一誰かに何か訊かれたとしても、そんなことをぺらぺらしゃべる必要はないからね。なるべく短く最低限で答えるんだ。というか君はただ、黙ってぼうっとしてればいい。受け答えは私がするから。隣近所の家の人、出てこないなら出てこないに越したことはないけどね。ほら、あそこだ」
 住宅地の中には、比較的新しくて立派な家もちらほらあった。けれどその家は、小ぶりで、建てられてからだいぶ経っている感じがした。古びた塀にはちょっとヒビが入っている。窓に庇がかけられていて、純和風の雰囲気があった。鉢植えやプランターは一切置かれていなかったけれど、隣の家のぼさぼさした木が窓のすぐ横まで覆いかぶさっている。
 法月さんは、かちゃん、と音を立てて門を開けた。いつの間にか赤い軍手をはめている。僕の視線に気がつくと、「二人とも手袋だと怪しいだろう。だから君は部屋に入ってからだ。それまでどこにも触るな」と言った。本当に、泥棒みたいだ。門を入るとすぐ玄関扉で、法月さんは伸びきったゴム紐のついた鍵を取り出すと、何食わぬ顔で扉を開けた。彼女に続いて中に入ると、きゅうりとお線香を混ぜたようなにおいがした。小さな玄関には、茶色いつっかけと子ども用のスニーカーが並んでいる。
「……こんな小さい家に、家族四人で住んでるんだなあ」
 法月さんが心底感心したように言った。僕は少しむっとした。あまりよくは知らないけれど、彼女はたぶん、金持ちのお嬢様だ。
「普通だよ、このくらい。僕の家だって似たようなものだ」
「なんで怒るの」
「別に」
 僕は青い軍手を渡されて手にはめた。二人で台所に向かう。ココアに入れられていたのは「唐辛子ウォッカ」だった。タバスコとウィスキー、みたいにバラバラに刺激物が入っていたのではない。「ペルツォフカ」という名前の、れっきとしたロシアの飲み物なのだという。ウォッカに唐辛子を漬けこんで自分で作ることもできないわけではないけれど、ココアに入れた程度の少量だけ作ったとは考えにくい。つまり「唐辛子ウォッカ」は、「犯人」の家にまだあるはずだ。――ということを、法月さんは説明した。ちなみに「ペルツォフカ」の名前を教えてくれたのは、五条先生だという。
 台所の床は少し油っぽかった。小さなスペースに四人掛けのテーブルが置いてある。流しのところには、食器が水につけてあった。三つ口コンロには、すべてお鍋が載っている。
「お酒があるとしたら、戸棚かな」
 法月さんが戸棚を開ける。僕は流しの下の扉を開いてみる。台所にあるすべての棚と引き出し、床下の収納スペース、棚と棚の隙間、全部確認した。冷蔵庫の中、冷凍庫も覗いてみた。日本酒や焼酎の瓶が並んでいる場所は発見した。けれども「唐辛子ウォッカ」どころかウォッカ、というか洋酒自体見当たらない。
「最後にちょっとだけ残ってたのを使ったのかもしれないよ」
 僕は言った。法月さんは台所の隅に裏口を発見し、そのすぐ外にあったゴミ袋の、缶や瓶が入っているのを漁り始めた。
「……ない」
 法月さんは呟いた。

「もし瓶があったら、水戸さんが犯人だという『証拠』にはなった。でも、ないからといって、それが否定されるわけではないよ」
 僕は言った。法月さんは納得がいかないようだった。台所以外の場所、物置や、居間の棚やタンスまで確認し始めた。もちろん開けた場所はいちいち閉めたし、中身はなるべく触らないようにしていた。奥を見るために触った場合も慎重に元に戻した。それでも、「泥棒みたいなことをしている」という気持悪さは拭えない。
「そっちに一部屋ある」法月さんは言った。
「そこしか考えられない」
 居間の押入れには布団が収納されていて、どうやら両親と弟さんは居間に布団を敷いて寝ているらしかった。そして奥にある扉の向こうは、おそらく水戸さんの部屋だった。
「……僕はやめておく」
「なんで」
「なんとなく」
 いくらなんでも、知っている女子の部屋に無断で入るのは、なんだか駄目だという気がした。すでに無断で家に押し入ってあちこち見まくった後で今さらなのかもしれないけれど。でもそれは、台所や居間を探るのとは、またちょっと種類が違うことのように思う。
「……わかった」
 そう言うと、法月さんは背負っていたリュックを下ろして僕に渡した。小ぶりで、軽かった。法月さんの制服が入っているようだった。
「持ってて」
「いいけど、なんで?」
「私が一人で水戸さんの部屋を探して、見つけたとしても、私が隠し持っていたかもしれないじゃないか」
「そんなこと思わないよ」
「そういう可能性が残るのはいやだ」
 法月さんは自分の着ているパーカーとジーンズのポケットを全部出して、ジャンプしてみせたりして、何も持っていないことを示した。それから扉の向こうに消えた。
 僕は法月さんのリュックを片手に持ったまま、居間や台所に入り、元通りにし忘れたところがないか、見て回った。法月さんは、水戸さんの両親はお店をやっていて昼間は絶対に帰ってこないから、と言っていた。そうは言っても万が一のことはあるかもしれない。もし帰ってきて鉢合わせしてしまったら……本当に、どうしよう。
 その時、ばん、と扉が開いて、法月さんが出てきた。ひどくうかない顔をしている。
「……なかった?」
 訊ねると、うかない顔のまま首を横に振る。
「あったの?」
 法月さんはこくんと頷き、部屋の中を指さした。
 僕は入るのにためらったけど、法月さんが「別にそんな女子なものはないから。入ったって問題ないよ」と言うので、おっかなびっくり失礼した。確かに普通の部屋だった。和室にベッドが置いてある。ベッドには、緑色のキルティングのベッドカバーがかけられていた。棚には、国語の教科書に載っていた小説の本が何冊かと、あとは辞書と参考書とクマのぬいぐるみが置いてある。その棚の下半分は扉になっていた。法月さんは、その中だ、と僕に言う。金属の取っ手を掴んで開けると、女の子向けのファッション雑誌とふしぎな雰囲気の綺麗な装丁の絵本とともに、赤い唐辛子のイラストの入った琥珀色の瓶があった。ラベルには、PERTSOVKA、と書いてあった。瓶の中身は少しだけ、減っていた。

 最後にもう一度、すべてが元通りになっているか確認して回ってから、僕たちは家を出た。法月さんが鍵を閉めた。法月さんは、元気がなかった。唐辛子のお酒は確かにあった。つまり法月さんは正しかったということが証明された。それなのにどうして元気がないのか、僕にはまるでわからなかった。
 法月さんによると、水戸さんの弟さんは近所の公立小学校に通っていて、今日は三時に下校するとのことだった。通学路に公園があったので、僕たちはその入り口で待つことにした。
「あ、恐竜のおねえちゃん!」
 三、四年生くらいの子どもがにぎやかに通り始めたと思ったら、カタカタとランドセルを揺らしながら向こうから近づいてくる子どもがいた。水戸さんに、少し似ている。
「あのさ、あのさ、今度パキケファロサウルスのシール探しておくから。そんでさ、オレ、考えたんだけど、ブラキオサウルスは尻尾をぶんぶん振り回して武器にするから、ほんとは強いんだよ。でも角にはやっぱ負けるかなあ。だけどトリケラトプスもブラキオサウルスも両方草食で大人しい性質だから、だから戦わないと思う」
 僕にはほとんど、彼が何を言っているのかわからなかった。けれども法月さんは、にこにこと人好きのするような笑顔で「やあ」と笑うと、
「ブラキオサウルスのお気に入りの場所にトリケラトプスが入ってきて、美味しい草を取り合って喧嘩になる可能性はあると思うな」
「そっか、ブラキオはでかいもんな。広い場所いるよな」
「でっかいから、たくさん食べないといけないし」
「そっか。それで目があって、バトルになる。でも、そこにティラノが来たら、協力して立ち向かうんだ」
 少年と何やら真剣に話している横で、僕はただぽかんとするしかなかった。しばらく恐竜の話で盛り上がった後、法月さんは「ところで家の鍵、ちゃんと持ってる?」と訊いた。
「うん」
 少年は平然とした顔でランドセルを下ろしポケットのファスナーを開けた。が、やがて「え、あれ?」と慌て始める。
「ゴムでつながってたのに。ない!」
「今日の朝、落としてたよ。ほらこれ、拾っておいたから」
「ゴムでつながってたのに」
「切れちゃったみたいだよ。ほら、伸びて細くなってるし。お母さんにきれいなのと取り換えてもらったら?」
「ほんとだ。びろびろだ」
 少年は鍵を受け取ってゴムをまじまじと見て、それから思い出したように顔を上げて「ありがとう」と法月さんに言った。
「鍵は落とすと危ないよ。気をつけないとね」
「うん。でさ、ギガノトサウルスが……」
「ごめん。私、そろそろ行かないといけないんだ」
 法月さんがそう言うと、少年は一瞬悲しげな顔をした。が、妙に物わかりのいい笑顔に変わると、訊ねた。
「デート?」
「うん、そう」
「お兄ちゃんも恐竜詳しいの?」
「お兄ちゃんは私より詳しいよ」
 しゃあしゃあと法月さんが言うので「え?」と僕はうろたえたが、少年はありがたいことに「うっそでえ」と言って信じなかった。
「パキケファロサウルス、探しとくからな」そう言うと、手を振って、向こうに見つけたらしい友だちのところに走っていく。
「パキケファロサウルス……って、どんなの?」
 僕は法月さんに訊ねてみた。
 少年に手を振り返していた法月さんから、すっと笑顔が消えた。
 僕の質問には、答えてもらえなかった。

6


調査報告

 ビバ☆道化師部 様
ビバ☆道化師部において、水戸ゆりなが飲んだココアに唐辛子ウォッカが混入された件について

調査の結果、我々は、ココアに唐辛子ウォッカを入れたのは水戸ゆりな自身であると結論づけました。
                  以上
                  探偵部

 依頼人宛の調査報告書を作って渡したことは、これまでにも何回かあった。でもそれは大抵、事情が混みいっていて口で言うだけではわかりにくいからで、調査報告書を作った場合でも、法月さんはいつも依頼人に面と向かって結果を説明していた。今回みたいに報告は書面だけで済ますとはじめから言いきったことも、こんなシンプルな報告書を作ったことも、これまでなかった。
「しょうもない事件だよ」
 法月さんはプリンタから出てきた紙を持ち上げて、レイアウトを確認しながら言った。今朝僕は普通に学校に来て、昨日欠席した社会科と音楽の授業については、どんな感じだったかを須田くんにざっくり教えてもらった。何かが発覚して誰かに呼びだされるというようなことは、今のところはなかった。……今のところは。
「でも、動機は想像の域を出ないよね。水戸さんがやったことを二人が知っていたのかどうかも実際はわからないし、今後の人間関係も気になるし二人……いや三人と、話をした方がいいんじゃないかなあ」
 僕は言った。法月さんは、昨日の帰り際よりは元気だったけれど、それでもたまに沈んだ表情をしていた。心ここにあらずという感じで、やけに間を空けてから僕に返事をする。
「私はあの男が苦手なんだ。話したくない」
「朝日橋くんのこと、性格もいいって言ってたよね。なんで苦手なの?」
「よくわからないけど、話しかけられるとなぜか動揺するから、いやなんだ」
 それはやっぱり、好きでドキドキするとかではないのだろうか。……と内心思いながらも、また喧嘩になってもいやなので、僕は適当に「そうなんだ」とだけ答えた。法月さんは立ち上がると、電気ポットを置いてあるコーナーに向かった。
「……その報告書は、明日水戸さんに渡しに行ってほしい」
 法月さんは言う。
「水戸さんに、ただ渡したらいいの?」
 僕が訊ねると、法月さんはまた間を空けて、
「うん。……話をしたかったら、したらいいと思うけど。ちなみに朝日橋洪と斎川清志は海外旅行で今日から来週水曜まで休み」
 じゅぼぼぼぼ。ポットにお湯を注ぎながら答える。
「渡すだけなら、今ささっと行って来ようかな」
 僕が言うと、
「行かないで」
 法月さんはやけに強く言った。
「え?」
「いや。今日は行かないで。明日の放課後にして」
「……うん」
 その日法月さんは、とても美味しい紅茶を淹れてくれた。
 美味しいね、と言うと、法月さんは少し笑った。

 次の日、ビバ☆道化師部の部室に行くと、水戸ゆりなは一人で本を読んでいた。
「喉の調子はどうですか?痛かったら、無理して話さなくていいので」
 僕が言うと、彼女は日本人形のような顔を僕に向け、にこりと笑うと口を開いた。
「問題ないわ」
 澄んだ鈴の音のような声だった。
「これ、報告書です」
 僕が封書を差し出すと、
「法月さんは、このことを知っているの?」
 彼女は訊ねた。
「どのことをですか?」
「あなたが一人でこの報告書を持って、私のところへ来ること」
「ええと。僕は法月さんに頼まれて今日来たので」
「そう」
 水戸さんは、僕に座るよう促した。僕は脇に置いてあった折りたたみの椅子を広げて腰かけた。
「法月さんは、……はっきりとは言ってなかったけど……朝日橋くんと斎川くんがお休みの間に、これを水戸さんに渡すべきだと思ったんだと思います」
 僕は言った。
「どういうこと?」
「法月さんは犯人がわからなかった。そういうことにしてしまっても、法月さんは怒らないと思います。もしも隠したいなら。……そのために法月さんは、僕に一人でこれを渡しに行くよう言ったんだと思う」
 昨日帰ってから、ずっと考えていた。もしも水戸さんの喉の調子がまだ悪くて話しづらそうなら諦めようとも思っていたけれど、もしも問題なく話せるというのなら、やっぱり、知りたい。どうして彼女が、こんなことをしたのか。
「……実際のところは、どうなんですか?朝日橋くんや斎川くんは、あなたが自分で唐辛子ウォッカを入れたのだと、知ってるんですか?」
 彼女はしらばっくれるかもしれない、とも思っていた。けれども彼女はあっさりと、当然のことのように応えた。
「さあ、どうかしらね。それであなたは、二人に黙っておいてやるかわりに私に何かさせようと思っているの?」
 にいっと笑った目をまっすぐ僕に向けて、水戸さんは言った。
 僕はびっくりした。
「……そんなことは考えてもなかった。そんな風に思わせたならすみません。僕はただ、どうしてあなたがこんなことをしたのか知りたくて……もしかして、朝日橋くんがさせたのかな、と思ったりもして」
「どういうこと?」
「いえ、あれこれ考えて……可能性として」
「教えてよ」
 僕のは推理とかではなくて、本当に、勝手な想像だ。人を疑うようなことを、こんな風に言ってしまってはいけなかった。
 そう思ったので、これ以上言いたくはなかった。けれども水戸さんは執拗に促す。
「あのね渡瀬くん、あなた、知りたいんでしょう?私に話をさせたいのなら、あなたも私が訊ねていることには誠意を持って答えるべきだと思う。心を開いてほしいなら、まず自分が開かないと」
 水戸さんは、……化粧をしているわけではないと思うけど……やけに赤い唇で、微笑みながら話す。幼い造形の彼女の顔が、今はやけに大人びて見える。
「……いえ。その……本当に、想像です。朝日橋くんが、『法月さんに探偵の依頼をする』ことに興味を持っていて……依頼をするには事件が必要だから、あなたに自作自演をするように頼んだ、とか、そういう可能性もあるかなと、思ったりしたんです。その……どうして自分が苦しいだけなのにあなたがあんなことをしたのか、わからなかったから、それで」
 僕はしどろもどろ言った。
 水戸さんは、ひどく可笑しそうに笑いながら言った。「いい線いってるわよ」
「でも、どうして」
「どうしてだと思う?」
「……朝日橋くんのことが好きだから、とか……?」
 僕が言うと、水戸さんはぷっと吹き出した。
「私はあの男が大嫌いよ」
 水戸さんは笑いながら言う。
「でも私は、彼の奴隷なの。だから仕方ないのよ」
「……奴隷……?」
「うちの親はね、文房具の小売業をやってるの。朝日橋の父親の会社がうちを使うのをやめたら、うちは倒産、私の父はたぶん首を吊るでしょうね」
 水戸さんは、遠くを見るような目をした。
「奴隷の中の奴隷よ。従うだけじゃ足りない。従ってると思わせないで、先回りして要求を満たすぐらいでないと」
「そんなこと……お父さんがそうしろって?」
「小さい頃から何度も何度も言われたわ。操り人形は、人形師が意図した以上に精巧に動くのが本物だって。楽しませて、気分よくさせて、仲良くしておけばうちは安泰なんだからって。父にも母にも事あるごとに言われたわ」
「そんな、じゃあ今回のことも、自分が苦しい思いをしてでも朝日橋くんを楽しませようとか、そう思って……?」
「ええ。彼はここのところ退屈を募らせていたし、法月紗羅に興味を持って、何か依頼してみたいとも言っていた。私が何かしなければならない状況だったのは明らかだわ。……彼は具体的なことは何も言っていないし、きっと私が犯人だと聞かされたら、『そうだったの?』なんて言って驚いてみせるでしょうね。そういうところは抜け目ないわよ。今回のは、私が勝手にやったこと。それ以外の何でもないわ」
 確かに、生活がかかっているのかもしれない。水戸さんの家だけじゃなくて、その従業員の人たちや、家族の人たちの生活も。だから水戸さんのご両親は、必死なのかもしれない。
 でも、社長の息子を取引業者の娘が常に気分よくさせてあげないといけない、普通の対等な人間関係でいてはいけない、自作自演で自らを被害者に仕立てることまでしないといけないなんて、そんなの絶対おかしいと思う。そもそも朝日橋くんは、そんなことを望んでいるのだろうか。朝日橋くんのお父さんは、水戸さんがそんな思いを抱いて生きていることを、知っているのだろうか。水戸さんのご両親だって、まさか娘がそこまで自分たちのことばを真剣に受け止めているなんて、思っていないんじゃないだろうか。日本の、現代の、中学生の女の子が、そんな風に思って生きているなんて、そんなのどう考えたってまちがってる。そしてそれは、もしかすると水戸さんの思い込みにすぎないんじゃないだろうか。
「ねえ、保健の五条先生にでも、相談してみたらどうかな。僕も法月さんも、できることがあれば協力するし」
 僕は言った。これまで、すべての事件についての細かい報告書を、五条先生には出してきた。その中にはなかなかきわどい事件もあったけれど、五条先生が他にもらしたり、やったことが学校にばれて生徒が処罰されたり、といったことは一切なかった。せっかくこうやってきっかけができたのだから、いい方向に生かせないだろうか。なんとか彼女の問題を改善することはできないだろうか。
「何も知らないのね。渡瀬くんは」
 けれども水戸さんは、嘲笑うような顔をするとそう言った。
「学校サイドの人間に言っても無駄よ。この学校にどうして『貧乏人枠』があると思うの?金持ちの子弟を楽しませるためよ」
「ちがうよ。……僕も君の言うところの『貧乏人枠』だけど。僕が聞いたのは、この学校の理念の一つに多様性の尊重があって、いろんな生徒を入れたいからだって。私立だからきれいごとばかりも言えないけれど、理事長や学校経営陣の紹介があって、テストと面接に通るなら格安の特別枠で通わせてくれるって」
「そんなのは建前よ。あなただって、今は私と似たような立場じゃない」
「どういうこと?」
「あなたは法月紗羅の奴隷でしょう?」
 僕はぽかんとした。そして悲しくなった。人間を……人と人との関係というものを、水戸さんは、そんな風にしか捉えられなくなってしまってるんだ。
「僕はちがうよ」
「自覚すらさせないなんて大成功ね」
「ほんとにちがうよ」
「そうね。奴隷ではなくて、実験動物かしらね」
「どっちもちがう」
「操っている人が操っていることにすら気づかないよう努力している操り人形。自分が操られていることに気がつかない操り人形。どちらが不幸なのかしら。知らない方が幸せなのかな」
「僕と法月さんは友だちだよ。探偵と助手だけど、対等だよ」
 僕が言うと、水戸さんは同情するように顔を歪めて笑った。
「いいもの見せてあげるわよ」
 立ち上がると、棚の上に置いてあったパソコンを起動させた。
「私は自分の部屋に、あのペルツォフカと一緒に……手紙を置いておいた。単なるメモだけどね。本当は、あなたがそれを見ればいいと思ってた。でも、見なかったのでしょう?」
 えっと僕は小さく声を上げそうになり、こらえた。では水戸さんは、昨日僕たちが彼女の部屋に忍び込んだことを知っているんだ。……不用意に何か言って墓穴を掘らないよう、僕は肝に銘じた。とはいえ、手紙というのはとても気になる。それは法月さんが、あの部屋に入ってから急に元気を失ったことと関係しているのだろうか。
「これをネタに法月紗羅を脅して、学校や関連施設でうちを使うよう進言でもしてもらったら、私は朝日橋から解放されるかもしれない、そうも思ったのだけどね。結局それは、朝日橋洪の奴隷から法月紗羅の奴隷に変わるだけの話。ならまだ慣れた朝日橋洪の奴隷の地位の方がいいわ」
「法月さんは……」
「あら、知らなかった?法月紗羅はこの学校の理事長の孫娘よ」
「法月さんは、他人を奴隷にしたりなんてしないよ。実験動物にも」
 水戸ゆりなは妙に艶やかに微笑むと、僕に向かってパソコンの画面を向けた。それは、動画だった。水戸さんの部屋を、上の方から撮影したもののようだった。たぶん部屋のタンスの上にでもカメラが設置されていて……一昨日僕らが部屋に入り込んだ時の様子が、撮影されていたのかもしれない、と思った。
 でも、ちがった。
 水戸ゆりなのあの部屋に、髪の長い女の子が座っている。ぱっと振り返って本棚を眺めたその顔は、法月さんのものだった。そこに水戸ゆりながお茶を載せたお盆を持って入ってきた。水戸ゆりなと話すその声も、法月さんのものだった。
「……私は朝日橋を好きなふりをしたんだ。渡瀬はころっと騙された。劣等感に嫉妬。思った通り、私が色ボケで君を犯人だと決めつけてるんだと言い出した。予定通り喧嘩中」
 向かい合った水戸ゆりなが何か言った。なんと言ったのか、ほとんど聞き取れない。まだ喉が本調子ではなくてあまり声が出せなかったのか、それとも撮影を意識して、小さな声で話していたのだろうか。
「人間心理の研究だよ。自分が想定したとおりに他人が反応する楽しさは、君だって知ってるだろう?自分は奴隷だなんて言って、本当は君だって楽しんでいるくせに」
 法月さんの声は、張り上げなくてもよく通り、その発音はいつもとても明瞭だ。音声はがさがさとしていたけれど、何と言っているのかははっきりわかる。
「朝日橋はわかってただろ?君が多大な犠牲を払って尽くしていることを、奴は充分知っていて、平気でそうさせてるんだ。それを当然だと思ってる。私に依頼ができて大喜びだったじゃないか。朝日橋自身にはそんなつもりはなくておかしいのは自分かも、なんて自虐的に考えることはない。まちがいなく、奴は悪者だ」
 水戸ゆりなが何か言うと、髪の長い少女は大笑いをした。
「そうかもねえ。ともかくそういうわけだから、ペルツォフカの瓶はまだここに置いておく。君が犯人だという証拠だからね。これを明日渡瀬敦に見せれば、ますます彼は私に心酔するよ」
 水戸さんは画面上の停止ボタンを押すと、ひどく愉しそうな顔をして僕の方を見た。そうしてポケットから可愛らしい絵柄入りのメモを取り出して、僕に渡した。

「法月紗羅様
 ペルツォフカの瓶はお返しします。お持ち帰りください。
 ありがとうございました。        水戸ゆりな」

「瓶の前に置いておいたの。帰ってきて見たら、同じ場所にそのままあった。でもあなたは見なかったのね。ということは、後で戻したのかしら」
「……後で戻したんだと思う」
 僕は言った。
 そうして立ち上がり、椅子をたたみ、その部屋を後にした。

7

「今度こそ、もう来ないと思ったよ」
 法月紗羅は言った。
「水戸ゆりなと話をしてきたんだろう?そうしていろいろ聞いたんだろう?」
 探偵部室の黒皮のソファに脚を投げ出して、法月紗羅は本を読んでいた。とても綺麗な顔を僕に向けると、にっこりと微笑みかけた。
「あれかな、もしかして殴りに来たのかな。それならやめといた方がいいよ。私はこの学校の理事長の孫娘だから、退学じゃすまないよ」
 僕はぎゅっと両手を握りしめながら、扉の前に立っていた。
「理事長の孫ってことは知ってるよ。さっき聞いた」
「そう。じゃあ、馬鹿なことはしないと思っていいのかな」
「それはわからない」
 僕は大きく息を吸い、吐いて言った。「あれは誰」
「あれって?」
「動画を見たんだ。君にそっくりな顔で、そっくりな声の子が水戸さんと話してた。君……双子なの?」
 法月紗羅の顔から、笑みが消えた。
「君は信じたくないあまり、低い可能性にすがりつこうとしているの?」
「可能性の高さと真実は無縁だ、って君が言ったんだよ」
「言ったけど……でも、君、ほんとうに」
「それだけじゃないよ。だって顔も声も君にそっくりだったけど、あれは君じゃなかった。……君がいつも言ってる気持が、少しわかった気がする。明確な根拠なんて言えない。一つ一つの理由は弱すぎる。でも総合的に見て、『そう』としか思えない。あれは君じゃなかった。君じゃないのに、君を騙って、水戸さんに自分は法月紗羅だと思いこませてた。あれは誰なの?前の、美術室での事件の時も、君の名前を騙って山科さんを脅した奴がいたよね。同じ子なの?こんなことはしょっちゅうなの?」
 法月紗羅は、目を見開き口もぽかんと開けて僕を見ていた。それから下を向いた。しばらくうつむいていた。それから吹き出した。額を押さえて、泣き顔のような顔で笑っていた。
「君は本当にすごいなあ」法月さんは言った。
「私は私自身、そんなことを信じ切れないでいるのに」
 これまで見たことのない、ふにゃりとした笑い方をすると、法月さんは立ち上がり、電気ポットのところへ行った。僕は法月さんがさっきまで座っていたソファの隅っこ、いつも依頼人を迎える時の定位置に腰かけた。法月さんは戻ってきて、僕の前にソーサーとティーカップを置いた。自分の前にも置くと、お盆をソファの隅に縦にした。
「私には双子の妹がいた。私たちは八歳まで一緒に育った。でも、ある日彼女は別の家の養女になることが決まって、うちを去った。私たちは幼等部からこの学園に通っていたけれど、彼女は転校して、私の前から完全に姿を消した。誰の養女になったのか、どこで暮らすことになり新しい学校はどこなのか、そういったことを、大人たちは誰も教えてくれなかった。私も特に気にしていなかった。……いつも一緒にいたくせに、私はずいぶん冷たいのかもしれない。そしてもしかしたら、彼女はそれを恨んでいるのかもしれない。
妙なことが起こり始めたのは、中等部に上がってからだよ。私が言った覚えのないことを言ったと言われたり、やった覚えのないことをやったと言われたりするということがぽつぽつ起こり始めた。私は自分がおかしくなったのかと思った。それで保健の五条先生のところに相談に通うようになった。探偵の真似事は初等部の頃からやっていたんだけど、部にしたのは、五条先生が顧問をやると言ってくれたからだった。いろんな依頼が来て、順調だった。でもふいに、忘れた頃に、また身に覚えのないことをやったと言われる。私は、彼女じゃないかと思う。その子……真梨亜がこの学校に入り込んでやってるんじゃないかって。でも証拠はないし、私自身、まったく確信はない」
「その、変なことが起こり始めてから……彼女がどこでどんな風に暮らしているのか、誰かに訊かなかったの?」
「訊いた。でも、たぶん元の家族とは会ってはいけない契約か何かがあるんだと思う。私が興味を持つのをおそれて、親も親戚も、私には双子の妹なんていなかったと嘘を言うんだ。ねえ、そんな風に私は認識しているのだけど。でももしかすると、本当に私には双子の妹なんていなくて、彼女と遊んだ記憶は全部私の妄想に過ぎなくて、やっぱり私がおかしいのかもしれない。わからない」
 テーブルの上に置かれた法月さんの手が震えていることに、僕は気づいた。
 僕は彼女の傍らでティーカップを傾けると、
「この紅茶、すごく美味しいね」と言った。

                          【マリオネット おわり】

マリオネット (少女探偵Sの事件簿2)

最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。
3作目「落ちる人」もお読みいただけると嬉しいです。

マリオネット (少女探偵Sの事件簿2)

部員3名の「ビバ☆道化師部」の紅一点、水戸ゆりなの飲んだココアには、異物が混入していた。依頼人としてゆりなとともに探偵部を訪れたのは、紗羅のクラスメイトでイケメンとして有名な少年、朝日橋洪。紗羅の挙動に依頼人への恋心を感じ取った敦は、紗羅の推理を信じることができない。探偵と助手の関係に、初めて亀裂が生じる。ケンカの後に紗羅のとった行動とは。※「小説家になろう」にも投稿しています。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  2. 2
  3. 3
  4. 4
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