ゴースト・セラピスト Neo

vol,1 香草送り

 陸がその駅に降り立ったのは、夏の太陽が、ちょうど空の真上に差しかかった時のことだった。一番暑い時間帯についてしまったことを僅かながらに後悔するが、まあ、仕方がない。
 「おお、海…っ。」
 街中で育った陸は、久々に見る広い景色に、思わずそう呟いた。海岸線と港町の間に伸びる一本道を歩きながら、潮風を楽しむ。ドーンと、波の砕ける音が鼓膜を打ち、水平線は青空に溶けて、かすんで見えた。振り返ると、駅の近くに設けられた波止場には、漁を終えた漁船が数隻あって、灯台の頭にはカモメが一羽とまっている。うん、なかなか「それっぽい」風景だ。
 『紀行文を書きましょう』。
 それが、高校一年生の陸に出された夏休みの課題の一つだった。数学や美術の課題は家でも出来るが、紀行文となると話が違う。とにかくどこかへ…出来れば少し遠くへ…行く必要がある。しかし大した軍資金もなく、結局三十分ほど汽車に揺られて、海へとやって来たのだった。
 さて、どうしようか。海岸で貝殻やカニの甲羅を拾おうか、それとも昼時だから、街に入って何か食べようか。
 そう思って、海岸線とは反対側に広がる、寂れた港町を眺める。食堂や喫茶店の看板が見えるけれど、暑い時間帯のせいもあって、人気がない。迷っていると、一本道の向こうから食欲をそそる匂いが漂ってきた。思わず歩みを速めると、僅かな雑木林を挟んで、賑わいのあるレンガ造りの街並みに出た。通りの幅が広く、中央には多くの屋台が設けられ、冷えたビールや軽食、かき氷などが売られている。少し迷って、その中からバジル入りの棒付きソーセージを選んで買うことにした。雑踏の中では食べにくいので、大通りを出て、通りの端に設けられた歩道のベンチに腰掛ける。さっそく齧りつくと、パリッとした皮と肉汁が美味しかった。何か飲み物も買えばよかったかな…などと思いながら、通りに建つ商店を眺める。靴修理の工房やベーカリー、古書店など、特に変わった店はない。
 「ん…。」
 僅かに首を傾けると、立ち並ぶ建物の間に、人一人が通れるくらいの通路が設けられているのが見えた。奥に何かあるかもしれない…という好奇心と、どうせ向こうの通りに出るだけだろう…という冷めた考えを戦わせてみる。
 よし。
 ソーセージを食べ終わって、残った棒を近くのゴミ入れに放り込むと、陸はベンチから立ち上がって、まっすぐにその通路の奥へと入っていった。結局好奇心の方が勝ってしまうのは、いつものことだ。
 「あれ?」
 入ってすぐ、陸は首を傾けた。その路地は思ったよりずっと長いうえに、何本もの曲がり道が設けられ、たっている建物の背によって、明るかったり暗かったりした。さらには、つき辺りがT字路になっているせいで、一本向こうの通りには出られない。
陸はうっすらとした気味の悪さを感じながら、曲がり道の一つを覗いてみる。すると、そのどれもが長い道となって続き、ところどころに街灯や掲示板などが設置されていた。二つ目、三つ目の曲がり角も似たようなものであったが、四つ目の角に差し掛かった時、そこからぴょこっと何かが飛びだしているのが見えた。尖った形の、ふわふわしたもの。犬の尻尾だろうか?いや、似ているようだけど、違う。それは犬の腰よりずっと高い位置にある。陸が思わずその角まで駆け寄ったが、それはふいに道の中へと入って行った。ますます好奇心をかきたてられ、陸もまた、その曲がり角を曲がる。すると、その通路を少し行った先に、すらりとした独特のシルエットが見えた。小さく尖った尻尾、長い手足、オブジェに似た二本の角…。
 「うわ、鹿だ!」
 どうしてこんな街中に?この土地から山は遠いし、動物園から逃げ出したのだろうか?
そろそろと近寄っていくと、素早い動きで二メートルほども移動すする。これでは、とても陸には捕まえられない。一度戻って、しかるべき所へ連絡を入れて貰うのがいい。そう思って体の向きを変えた途端、ぎょっとした。いつ、どこから現れたのか、ざっと数えて五、六頭もの鹿が陸の背後に並んでいた。それぞれが、らんらんとした瞳でこちらを睨んでいる。どうすべきか迷っていると、何か尖ったものでぐい、と背中を突かれた。痛みでワッと声を上げながら慌振り返ると、最初に見つけた鹿がいつの間にか近づいてきて、早く前に進めとばかりに、鋭い角を突きつけていた。怖くなって背負っていたリュックを振り回したが、逃げるどころか、頭を低くして余計に角を振りかざしてくる。逃げようにも退路が無く、後ろにいた鹿は背中を押し、前を行く鹿は、服を噛んで引っ張る。
「何だよ…僕をどこに連れて行くんだよ。」
そうしてこちらの事情など構わないまま、この得体の知れない鹿の群れは、ずんずん陸を路地の奥へ連行していく。その道はいつまでたっても隣の大通りへ出ることはなく、右へ左へ曲がりながら、途切れることなく続く。直射日光を浴びることはなかったが、風邪の通りに道がなく、こもったように暑かった。途中、大人二、三人がやっと入れるような、小さな飴屋や文具店の前を通りかかったが、どの店にも店主や客の姿がなく、助けを得ることが出来ない。一体なぜ、この路地裏はこんなに広いのだろう。これではまるで迷路ではないか。自分は一体、どこに迷い込んでしまったんだろうか。陸は、何だか、ものすごく遠いところに向かっているような気がして、たまらなく怖くなった。


 まるで迷路のよう、という陸の感想は、おおむね的確な表現であった。その街は、道や建物が複雑に入り組み、住民すらもその構造を把握していない場所であった。確かな地名もなく、地図にも記述がない。ただ、二本の大通りの間に位置すること、範囲が広いこと、住民数が多いこと…の三点から、『路地裏の街』と称されている。
 その路地裏の街の中心部に、数多く並ぶ球状の墓石群があった。同じ敷地内には、小さいが堅固な造りの堂が一軒、そしてこんもりと盛り上がった小山がある。その小山には大人が立って入れる程度の洞穴があり、普段はしめ縄が張られているのだが、その日だけは堂に住む僧侶によって、朝から取り外されていた。僧侶の名は彗蝉(すいぜん)といい、正確な年齢は周囲に明かしていないが、ひと括りにされた長い髪には、もはや白いものが多く目立っている。
 彼は、陸が路地裏の街に迷い込んだ日の朝、普段より早く目を覚ました。身だしなみを整え、ハサミを使って手際よく和紙を人の形に切り、庭に生えていた香草(こうそう)を貼りつける。日が昇り始めると、それを持ったまま洞穴へ行き、しめ縄を外して深々と頭を下げた。耳を澄ますと、洞穴の奥深くから軽い蹄の音が近づいて来るのが分かった。やがて頭をあげ、立派な牡鹿が目の前に十五頭並んでいることを確認し、目を細める。艶々とした美しい毛並みと、緩やかな曲線を持った角が朝日に照らされて美しかった。彼が、群れの中で最も大きな体を持つ鹿の角に、例の人形(ひとがた)を括りつけると、鹿たちはそれを確認したかのように、軽々とした足取りで敷地を出て、それぞれ同じ方向へと向かって歩き始めた。

 「どうも、彗蝉(すいぜん)さま。」

 しばしの時間が流れ、午後の一番暑い時刻を過ぎた頃のこと。背後からそう声をかけられて、彗蝉(すいぜん)は後ろを振り返った。ちょうど、乾ききった庭先と墓石に水を巻いている途中であった。柄杓からひと撒きたびに、細かく映えた周囲の草から、小さな虫が飛び上がる。
 「おや歯車先生。お久しぶりですな…。」
 彗蝉(すいぜん)は深々と頭を下げながら、そう返した。事実、目の前の男とはとんと顔を合わせていなかった。この人物は普段、この町の医者として多忙な日々を送っている…はずなのだが、どこかのんびりとしていて、そんな雰囲気は感じさせない。ウエーブがかった髪の毛と薄い眼鏡に細い鼻筋は、なかなか目立つ容姿である。年齢は三十代の後半で、身長が抜けるように高いが、細い体格となで肩のために、竹のような印象がある。
 「お久しぶりです。涼しげですね。」
 彗蝉(すいぜん)はその言葉にええ…と答えた。
 「これは『紗』と言いまして、風を通すのです。何分無精でございますから、昨日やっと衣を変えました。」
 すると、歯車は丸い眼をますますまるくして、そうですかと小さく頷いた。事実、その薄墨色の衣は、中に着ている白い着物が透けるほどに薄く、良く風になびく材質である。夏ものの僧衣として一般的に用いられ、その上には芥子色の袈裟をまとうのだが、そちらは堂の中に置いたままだ。一方歯車は、季節に関わらずワイシャツにループタイ、ベストに細いスーツパンツといった出で立ちだ。診察時はその上に薄いグリーンの白衣を着る。
 「でもお気をつけください。僕のところに続けて四人も熱中症の患者が来ましたから…ところで、『香草(こうそう)送り』の日は今日でしたよね?」
 ええ、と彗蝉(すいぜん)は持っていた柄杓と桶を置きながら言った。今朝早くに送りだした鹿の姿が目に浮かぶ。すると歯車は、先ほどから後ろ手に持っていた何かを取り出して見せた。
 「実はこんなものを拾ったんですが、もしや…『落ちていてはいけないもの』では。」
 それを見た彗蝉(すいぜん)は思わず目を見開いた。それは紛れもなく、彼が今朝がたこしらえたあのひとがたである。萎びてしまったが、香草(こうそう)もしっかりと張り付いている。
手の中が空になった歯車は、彗蝉(すいぜん)が水をかけていた個所から三つ先の墓石の前に屈みこみ、ポケットに差していた昼顔の花を一輪供えると、軽く手を合わせて立ち上がった。その一連の動作を見ながら、彗蝉(すいぜん)は尋ねる。
 「これを、どこで…?」
 「路地裏に入ってすぐのあたりです。僕は仕事の骨休めに大通りで黒ビールを飲んで、今はもう帰るところで…いやー美味かったな。」
 いけません、と彗蝉(すいぜん)は絞るように言った。強い日差しとは裏腹に、冷たいものがせり上がって来るようだった。
 「これが落ちていると言うことは、この人形(ひとがた)の代わりに、誰かが神鹿(しんろく)たちに連れて行かれたはずです。」
 歯車は、ああやっぱりと声を漏らした。
 「誰だろうな…町長さんからの回覧板で今日一日注意しろってお触れが回ったのに、読んでないんだな。」
 「しかし、香草(こうそう)送りの日は毎年決まっていますから。もしや、外からきた方かもしれません…。」
 「ああ、なるほど…ところで、鹿が回るルートって、毎年決まっているんですか?」
 いえ、それは…と彼は手を振りながら言った。
 「ここは広いですし、私は彼らと一緒に歩いたことはありませんので…。」
 ただ、と彗蝉(すいぜん)は西の方角を指差しながら言った。
 「彼らは夕暮れに、町外れの川まで行って、この人形(ひとがた)を流すのが最終的な目的です。つまり人間が人形(ひとがた)の代わりに連れて行かれれば、その人が川に落とされてしまう。川は流れも速く深いですし、早く追わなければ大変なことに。」
歯車はふーん…としばらく考え込んだあと、その鹿たちは野生の鹿と同じ習性ですか、と聞いた。唐突な質問に彗蝉(すいぜん)はたじろいだが、おそらくそうだろうと答えた。あの鹿たちは死後に神格化したが、大昔は広く深い森だったこの土地で、野生動物として駆けまわっていたのだから…。
 「よし、じゃ僕が行きます。夕暮れまでまだ時間がありますから、今行けば間に合うんじゃないかな。」
 「いや、しかしそれでは…」
 先生にはまだお仕事が…という言葉を、歯車は遮った。
 「いいんですいいんです、乗りかかった船ですし、僕にいいアイディアがあるんです。それに彗蝉(すいぜん)さまはここを離れられないじゃありませんか。」
 それは確かに、そうだった。彗蝉(すいぜん)の仕事は、朝に鹿たちを送り出すこと、そして役目を終えた彼らが洞穴の奥に帰るのを見届けることである。言葉にすれば単純だが、他の者では許されない役目だった。
 「大丈夫、大丈夫…患者はもう帰したし、任せてください。」
 そんな力強い言葉の後に、どうせ今日はもう仕事したくないし、と小さく付け加えたのを、彗蝉(すいぜん)は聞き流すことにした。

 歯車は彗禅と別れたあと、意気揚々と診療所へ戻ってきた。この路地裏の街に建つ建物としては、比較的広い敷地の中に、レンガ造りの母屋と、木造で円筒形の診療所が、渡り廊下でつながっている。歯車は迷うことなく診療所のほうに入り、『ただいま休憩中』の看板を下げると、そのまま2階の書斎へと上がって行く。締め切っていたせいもあって、建物全体がまるでビニールハウスの中のようであったが、アルコールが入っているせいもあって、気分はよかった。
 「ああ、あった。」
 部屋の中は、正に混沌としている。それは散らかっている…というのではなく、あまりにも多種多様なものがせめぎ合っている、という状態であった。多くの分野にわたる医学書、薬学書、参考資料、自分で買い続けている診療記録と言った仕事に関するもの。地球儀天球儀月球儀、スタンドライトに文房具、水晶のクラスターから昆虫標本植物図鑑。小学校中学校の教科書、ラジオにトランペットに蚊取り線香…。その程度ならまだよいのだが、全く何に使うのか分からない道具やどこの国の言葉か分からない字が書かれた看板、今はもう使われていない列車の定期券など、まったく無駄とも思われるものまで、混じっている。
 「まだ動くか…。」
 そんな書斎の片隅に置いてあった傘立てに、丸めた地図やポスターと一緒にさしてあった長いものを引っ張り出しながら、歯車はひとり言を言った。
 窓を開けて、その先端を空へと向ける。とたんに、夏の午後の、甘いようなわくわくするような、それでいて切ないような大気の香りが、部屋の中に入ってきた。それを胸に吸いこんでから、歯車は引っかけた人差し指に力を込める。ドォン!と全身が振動するような大きな破裂音。部屋中にあるものたちやガラスがびりびりと震え、窓の向こうに泊まっていた鳥たちが驚いて飛び立った。微かに立ち昇る火薬のにおいと手ごたえに、歯車は薄い唇の片方を引き上げるようにして微笑む…が、実は空砲(くうほう)である。知り合いのアンティークショップの店主に調べさせたところ、本体も弾も、もう百年近く前に廃番になっているらしく、手に入れることは不可能だと教えられた。ちなみに本体は、いつだったか診療所に出入りしている薬屋の頭領と飲みに行って、したたかに酔った帰りに、この路地裏の街で拾ったものだ。書斎の中にある用途不明の品々は、全て彼が酒の帰りに拾い上げたものであり、周囲から言わせれば、大きな悪癖であるという。しかし本人としては、今日この日のように、突然役に立ち日が来るのだから、必ずしもガラクタとは言えないのだった。
 「さて。」
 彼は窓を閉め、火薬のにおいをその場に残したまま、ほとんど上機嫌でその猟銃を肩に背負いあげ、軽い足取りで部屋を出て行った。


 「家に帰れるかな…宿題の取材に来ただけだったのに…。」
 陸は、カラカラになった喉で呟いた。昼過ぎに鹿達に捕まってからというもの、延々と路地裏の中を歩き続けていた。汗でワイシャツがドロドロになり、皮膚に張り付いて気持ちが悪い。やっぱり、飲み物を買っておくべきだったとのんきなことを考えてみる。
陸はまず、あの細くて暗い路地をぐねぐねと曲がったあと、どこかのビルの階段を昇って降りて、また細道に入った。どうやって登るのか見当もつかない細長い塔を見上げ、建物の間に吊られた紐に洗濯物が吊るされているのを発見し、どこかから漂ってくる蚊取り線香の香りを嗅いだ。そのほか、ラジオの音や、閉めきってない蛇口からしたたる水の音など、生活の気配は満ちているのに、なぜかまったく人影が見えないのは、なぜなのか…。
 その後も、見知らぬ邸宅の庭を横切り、歓楽街で小さくて色とりどりのBARの看板を眺めたりしながら、鹿たちの移動は続いていった。しかも、彼らは身軽な動作で塀の上に上がって周囲を見回したり、カフェの軒先にあった鉢植えを凝視したりする。常に数頭で行動し、ふいに何頭かいなくなったかと思えば、突然現れた別な数頭と合流する。そうやってつかず離れずの行動を繰り返して…まさか、何かを探しているのだろうか?
 そして陸と鹿たちはいつのまにか、明るい地上から地下道へと入った。周囲にカツカツという蹄の音が響き渡る。トンネルのようなその通路は、最初こそ暗かったが、いつしかスポットライトのような光が差し込むようになった。見上げると、天井に穴が開いて、青空が覗いている。足元も、レンガの感触だったはずがいつしか土の踏み心地へと代わり、鹿たちの蹄の音も鳴らなくなった。
 そしてとうとうある場所まで来て、鹿たちは立ちどまった。陸は棒のようになった両ひざに手をあてて、ハーッとため息をつく。
疲れた、とても…。暑いし…足が痛い。
しかし肺に吸い込んだ空気はどこか新鮮で、生臭いような、瑞々しいような、独特な自然の香りがした。驚いて顔を上げると、しだいに薄暗闇に目が慣れてきて、そこに広がっている光景の異様さと素晴らしさが、理解出来た。
 「なんだここ!どうして、地下に…こんな場所が…。」
 ところどころ穴が開いたドーム状の高い天井と、広い広い空間。そこには、木が鬱蒼(うっそう)と生い茂っていた。一番近い表現は「雑木林」かもしれない。鹿たちは木々の合間を縫うようにして進んでいくが、不思議とその時だけは、陸に歩くことを強要しなかった。その場に座りこめば良かったのに、陸の足は前に進むことをやめない。どんなに疲れていても、突如現れた雑木林の中を見てみたいという思いは止められなかった。足の裏で、落ちた葉っぱや木々が、パリパリガサガサと音を立てる。顔の周りを、小さな羽虫(はむし)がぷんと音を立ててまとわりつき、どこかでカエルが鳴き声を上げる。天井の穴からは光の粒子が帯となって降り注ぎ、木の根元に生える草花、澄んだ小川の流れ、小さな沼にうかぶ水連など、全てのものを美しく照らし出していた。あまりにも不思議で、とても頭上に町が広がっているとは思えない風景だ。見れば、ある鹿は水を飲み、別な鹿は冷たい空気を思い切り吸い、足もとの草を食べている。ふと、近くに切り株…と言っても、とうに朽ちかけてはいたが…を見つけたので、腰を下ろした。今度こそ本当に、疲れが抜けていくようだった。
 それから、どれくらい時間が過ぎただろう。差し込んでいた光に赤い色が混じり始めたとき、背後に再び鹿がやってきて、陸の背中をガッと小突いた。
 「何だよ痛いなっ!」
 見れば、鹿の群れは再び移動を始めている。どうやら目的地はここではなかったらしく、陸は大いに落胆した。
「やっと、強制連行が終わったと思ったのに…。」
しかし、その考えはすぐに打ち消すことにした。もしここが目的地であったなら、何故自分がここに連れてこられたのか分からない。それに、陸はすでに帰り道、あるいはこの森からの出口すら分からないのだから、ここで鹿たちに歩みを止められるのは、困るのだ。
しかたなく、陸は抵抗することをやめて、もう一度鹿たちと歩き始めた。その後、雑木林の木々は次第に減り始め、足もとの感触も、土から砂へ、砂からレンガへと変わっていった。光も差し込まなくなり、やがて古い石階段にたどり着いた。そこを昇ったことは覚えているが、後はどこをどう通ったものやら…。気がつくと、とっくに日が傾きかけた地上をのろのろと歩いていた。道幅はたいして狭くはなく、レンガ塀が続き、その根元には古くなったドラム缶や、中身のないポリバケツなどが放置されている。風邪はなく、暑さと疲労で視界がぼやける中、じっと先方を睨むと、道の先がふっつりと途切れているのが分かった。いや、途切れていると言うより、何か空間を挟んで、その先にまた道が伸びている…と言った方が良い。その『空間』が川であり…おまけに手すりもなく流れが速く、川幅も広いことが分かる場所まで来た時にはもう、陸は立っていられなかった。のどの渇きはとうに通り越し、一滴の汗も流れない。めまいがして、体が燃える程に暑く、息が苦しい。ぼうっとする頭をあげると、数メートル先で十五頭の鹿たちが、じっと陸を睨んでいた。
 「何なんだよ…いい加減にしろよ…。」
 するとその中の一頭が、頭を低くして身構えた。前足の片方で、カッカッと砂をこする。
まさか!僕めがけて突進するつもりか?僕は泳げないのに!

 「君っ!そこの赤毛の子っ!」

 陸は、突然聞こえたその声に、はっと振り向いた。向こう岸に一人の男性が立っている。背が高くて、何か長いものをかついでいる。周囲を見回しても誰もいないし、陸の髪の毛は確かに、赤い。
 「地面に伏せて、手で頭を覆いなさい!」
 男性がそう言って、担いでいたものの先を空に向け、指先に力を込めた。陸は咄嗟に言われた通りの体勢をとったが、なんだか、自分が警察に追いこまれた誘拐犯にでもなったかのような気分だった。鹿は陸が伏せるのとほぼ同じタイミングで、陸に向かってスタートダッシュを切る。やがてダーン、という大きな銃声が周囲に響き渡った…続けて2発、3発…。
 おそるおそる顔をあげると、鹿たちはまるで空から落とされたゴム毬のように、四方八方に跳ね上がったところだった。周囲にある建物の屋根や2階のベランダへと跳ね移り、陸の頭上を越え、散らばって散らばって…いつしか一頭残らず見えなくなった。
それは本当にあっという間の出来事で、陸が再び顔をあげた時には動物の気配などすでに微塵もなく、静寂のみが残っていた。
 たった一人川べりに残された陸は上体をあげて、呆然とする。自分は助けられたのだろうか?視界の端に、例の男性の姿が見えた。その人は、随分離れた位置にかかっている橋をめがけて歩いていく。それを渡って、こちらに歩み寄って来るつもりなのだろう。背が高いこと、ベストを着ていることだけは分かったが、顔をハッキリと見る前に、陸の視界は暗くなり…後はもう何も分からなくなった。

 陸が見知らぬ家のベッドで意識を取り戻したのは、すっかり夜が更けてからだった。きっかけは、がちゃり…というドアの開く音。それでようやく、陸の意識は眠りの縁から浮かび上がって来たわけだが、まだまだ朦朧(もうろう)として、まぶたも重い。そんな中、どこからか男性二人の会話が聞こえてきた。
 すみません…留守をお願いしまして。
 最初に発したその声は、小さく抑えてはいるものの、のんびりとして、良く通る声だった。それに対し、いいえ、おかえりなさいませ…と答えたのは、屋や年配の、静かで凛とした声だった。
 「この気温でしょ、近所の氷屋さんはみんな売り切れで…結局、表通りの露天商を脅して、かき氷用のを売ってもらいました。」
そして、陸の額にひやり…とした感触が乗る。その冷たさで、陸の意識はますます鮮明になり、まぶたが上がった。目だけで周囲を見ると、ベッドの両脇に声の持ち主がそれぞれ座っていた。一人は眼鏡をかけていて背が高く、その傍らにはスタンドが置かれていた。それには点滴が下げられ、薬液は絶えず陸の左上に注ぎこまれていた。その反対側にいる人物は僧侶で、髪が長く、陸を扇子で扇いでくれている。どうしてここにお坊さんが?という思いを、眼鏡の男性の言葉が遮った。
 「あ、気がついた。どうかな、気分は。」
 体はだるいけれど、大丈夫だと答えると、その人は名刺を一枚くれた。陸は重たい腕をあげて、それを受け取る。歯車メンタルクリニック、精神科医、歯車大輔と書いてあった。その歯車医師の説明で、ここは彼の病院で、例の路地裏の街の一角にあり、陸は川の近くで熱中症と疲労によって倒れたと知った。おかげで陸の脳裏には、その日一日で起こった奇妙な出来事が、まるで連鎖反応のように次々と思い浮かんだ。そして最後に、この歯車医師が、川に落とされそうになった時に銃声を放った、あの対岸の人物と同一であることを思い出した。
 「正確には元・精神科医かな。今の職務はセラピストに近いから。」
名刺を眺めている陸に向かって、その男性は言った。でも正直なところ、セラピストと精神科医の違いを、陸はよく知らない。
「でもさ、この辺りには病院が無いもんだから、僕に医師免許があるってだけで、みーんなここに来る。風邪とか巻き爪とか恋煩いとか便秘とか。時々自分の専門科は何だったか忘れそうになるんだ。」
 すると、黙って聞いていた僧侶が堪え切れずにはっはっ、と笑いだした。
 「先生は慕われておりますからな。」
 陸はその「先生」に、置き上がって礼を言おうとしたのだが、慌てて彗蝉(すいぜん)に止められ、ベッドの上に押し戻された。
 「ご自宅には連絡を入れましたから、朝まで安静になさい。」
 彼はそう言いながら、陸に学生証を渡した。なるほど、そこには氏名や電話番号が書いてある。念のためにリュックのサイドポケットに入れておいて正解だったらしい。
 「ええと、高校一年生の、青山陸くんだね。悪かったね、『赤毛の子』なんて言って…僕はてっきり中学生かと…。」
陸は小さい声で、いえ…と答えた。陸の身長は男子高校生の平均よりも随分小柄なのである。この先生からみれば、どんな人も小柄に見えるとは思うのだが。
「さて、起きてからすぐで悪いんだけど、君には色々と聞きたいことがあるな。」
 先生にそう言われて、陸はかすれた声で返事をした。
 「まずは…宿題のために、隣の市から海を見に来たんだって?」
 きっと電話で家族から聞いたのだろう。陸がそうだと答えると、では何故、路地裏の街に入ったのですか…と僧侶が尋ねる。陸は人気のない港町より賑わいのある大通りに惹かれたこと、路地裏に入るのは今回が初めてで、単なる好奇心だったことを伝えた。すると少しの沈黙があって、僧侶が口を開いた。
 「念のためにお聞きしますが、今日の香草(こうそう)送りのことは…ご存じなかったでしょうね?」
 陸は一瞬、ぽかんとする。香草(こうそう)送り?聞き慣れない言葉だった。要は、儀式だよ…と先生が言う。
 「一年に一度、あの世から神様がやってきて、路地裏一帯の香草(こうそう)類…つまりハーブ…の魂を収集して、川に流してくれる。そうすると、この街にはハーブが生えなくなって、夏場の草むしりに苦労しなくて済む。何せ、この土地はハーブばっかり生えるから。知ってるかい、あいつらの生命力って物凄くて、植えている木々も花もみーんな、枯らしてしまうんだ…信じてないって顔してるな?」
 当たり前じゃないか…ハーブの生命力はともかく、神様なんて…。しかし、陸が昼間会った鹿たちは明らかに何かを探していた し、その目的地は確かに川だった。でも、だからといって陸が鹿に連行されたことの説明にはならない。それに川に流されそうになったのは香草(こうそう)類云々ではなく、陸なのだ。そのことを訴えると、問題はそこなのですよ…と僧侶が言った。
 「陸くん、路地裏に入る前に…何かハーブが含まれるものを口にしませんでしたか?」
 「ハーブのもの…ですか?」
 何か食べただろうか?そもそもミントは得意ではないのだが。陸が考え込んでいると、持っていた扇子をはたはたと音を立てて閉じながら、僧侶は言った。
 「名乗るのが遅れましたが…私は彗蝉(すいぜん)と申しまして、この街の中心にある、隠世へと通ずる洞窟を管理しております。」
 隠世っていうのはね、あの世のことだよと先生がケロリとした顔で言う。陸はにわかにそうですかと言えなかった。
 「あの世って…。」
 あの世っていうのは…やっぱり「あの世」のことだろうか。
 「まま、陸くん。そんな顔をせずに、お聞きなさい。君が見た鹿たちは、単なる動物ではなく、鹿の姿をした神なのです。彼らは香草(こうそう)送りの日の早朝、洞窟を通ってこちらへやってきます。私はひとがたに切った紙に、香草(こうそう)を一枚貼ったものを、その中の一頭に括りつけます。鹿たちは集めたハーブの魂をその紙に乗せて川に運び、流された魂はあの世に戻り、来年の夏にまた、この世に戻ってくるのです。大昔は、人形(ひとがた)ではなく、生贄(いけにえ)にされた人間が口にハーブを咥えて、歩いたようですが…。」
そこまで言われて、陸はやっと思い出した。あの賑わいのある大通りの屋台。あそこでバジル入りのソーセージを食べたではないか。彗蝉(すいぜん)はそんな陸の顔を見て、笑った。
 「身に覚えがあるという顔つきですな?つまり、体に香草(こうそう)の香りがついた人間が鹿たちの列に見つかると、彼らは人形(ひとがた)を捨てて、その人を生贄(いけにえ)として連れて行ってしまうのです。それを防ぐために、今日一日、ハーブを食べた者がこの街を歩くことは、禁止なんですよ。」
 あえてハーブを育てている人は苗を屋内に隠すし、理由あって香草(こうそう)を食べたり香りを使ったりする人は町の外に出るか、家から出ないんだ…と先生は言う。
 「君がそのことを知らないのは当然だ。僕らは路地裏の外の住民に対して、香草(こうそう)送りのことを教えない。誰も信じないだろうし、面白半分で見に来る人もいるだろうから。」
 陸は、まったく半信半疑なまま、言った。
 「それは…そうかもしれませんが。もし僕みたいに、ふらっと入っちゃう人がいたら、どうするんですか?」
 すると先生が笑いながら、そもそもこの街は、住民以外の出入りが極端に少ないんだよ、と言った。再び扇子を開いて扇ぎ始めた彗蝉(すいぜん)が、もしかしたら…と口を開く。
 「陸くんは、この土地と波長が合っているのかもしれません。入ってしまったのではなく、自然と引き寄せられたとも、考えられます。」
 先生は彗蝉(すいぜん)に向かって、そうだねそうかもしれないね…と笑った。陸はえぇ?と変な声を出した。そんなことあるだろうか。考え込んでいる陸に彗蝉(すいぜん)が、この街を冒険してみてどうでしたか、と聞いた。
 「迷路のようで大変だったのではありませんか?我々住民も、気をつけなければ、迷ってしまうのです。」
 確かに、どうやったらこんな作りになるのか、夢でも見ているようだった。中でも一番は…あの地下に広がる『森』だと思う。
 「どこをどう通ったのか、もう覚えてなくて…もう一度行くことはできないだろうな…。」
 すると、二人とも突然声を大きくして言った。
 「今、何て言った?」
 「地下に、森を見たのですか?」
 「本当に見た?眠っていた時の夢じゃないだろうね。」
 鹿の神様とか、あの世への洞窟とか、そんな話を平気でしたのに、どうして森の話は信じないのか陸には不思議だった。そりゃあ、地下に森があるなんて妙だけど、「あの世」よりはましなはずだ。その後、二人はしばらく顔を見合わせると、なにやら真剣な顔で相談を始めている。まさか先生そんなことがあるでしょうか、だって彗禅さまあれは都市伝説で、いやもしかしたらということも、では僕が一から話して聞かせましょうか。
 「あのね、この街はずっと昔…たぶん三百年くらい前かな…広くて深い森だったんだよ。鹿も、他の獣も、いっぱいいたんだ。でね、詳しい記録は残っていないけど、ある時代から、ハーブの効能に関する研究が進んで、香草(こうそう)類が大きくもてはやされた。そんな時、ある研究者が、自然に近い状態でもっとよいハーブを育てようと、ここに広がる森の一角に畑をこしらえた。でも管理が悪かったんだね。あっという間に広がって、周囲の草花や木々を枯らしてしまった。動物たちは…特に鹿はハーブ系の植物は食べないから、数を減らしていった。」
 彗蝉(すいぜん)はその話を、目を伏せたまま聞いている。話しの顛末が、どう陸が見た森と結び付くのだろうか。耳を澄ますと、どこかで風鈴の音が鳴った。甲高い鹿の鳴き声に似ているような気がした。
 「それから時間が過ぎて、もうすっかり荒れてしまった森の一角で、国のお抱え鉱山師たちが、希少な鉱脈を見つける日が来た。彼らはどんどん掘り進んだ。いい収入も得たと思う。でも、彼らは穴の奥で見つけてしまったんだよ、『あの世』への入り口をさ。それに気付いた時はもう遅かった。穴はすっかり開き切ってしまったし、それを塞ぐ方法は、分からなかった。でもそんなこと世間には言えないじゃないか?鉱脈は掘り尽くしたと発表して、洞窟にはこっそり、修行を重ねた力のある僧侶が門番を置くことになった。国は、その洞窟の門を隠すようにどんどん荒れた森を開発して、縦横無尽に道を作り、ごちゃごちゃと建物を立てて…いつの間にか出来上がったのがこの街だ。あまりに建物を建て過ぎて、作った政府だってその構造を把握できないくらいになったよ。」
 陸は、相変わらず風を送り続けてくれている、彗蝉(すいぜん)の顔を見た。彼は、私は初代『門番』の方から数えて四代目になります…と言った。
 「いつのことからかは分かりませんが、森が開発される際、かろうじて残っていた、『生きた森』が、この路地裏の街のどこかに現存していると言われるようになりました。しかし実際に見た者は誰もいませんでしたから、ただの噂かと思っていたのですが…そうですか…陸くんは見ましたか…それはね、良い体験をしたのですよ。」
 彗蝉(すいぜん)はしみじみとして、どこか嬉しそうな表情だった。
 「鹿たちが香草(こうそう)送りを始めたのも、この街が出来上がってすぐ…という話でしたね?」
 先生の質問に、そうです、と彗蝉(すいぜん)が答えた。
 「何故、死んだ鹿たちの魂が毎年そんなことを繰り返しているのか、私には長く疑問でしたが…もしかしたら、かろうじて残ったその『生きた森』を、ひそかに守っているのかもしれませんねぇ。」
 ところで、鹿たちはどうなりましたか?と先生が聞いた。
 「僕の銃声ですっかり姿が見えなくなりましたが。」
 「無事に隠世に戻りましたとも。ただ、今年の香草(こうそう)送りは失敗ですな…大規模な除草を考えなければ…。」
 それを聞いた先生が、あっと声を出して陸を見た。
 「いいこと考えた。夏休みってまだ始まったばかりだろ?うちで草むしりのバイトをしないか。今夜の治療費は要らないし、ついでに宿題も見てあげるから。」
 ああそれはいい…と彗蝉(すいぜん)は頷く。
「先生は陸くんぐらいの子に勉強を教えることもあるそうですよ。ですが、陸くん一人で草むしりをするのは困難では…。」
もちろん、と先生はうなずいた。
「僕だってそんな酷なことはさせませんとも。今年の夏もその“教え子”が何人かうちに来るんです。」
彼らはハーブや香辛料を欲しがりますから、ちょうどよい、と先生は満足そうにうなずいた。何か、商売でもしている家の子なのだろうか。陸は人見知りをしない方だから、別に嫌ではなかった。
「勉強ついでに男の子たちに手伝って貰いましょう。その間に僕は女の子をつれてあんみつでも食べに行こう。君も楽しみにしてなよ、可愛い女の子が来るよ。」
ウーン…そこまで言われてしまえば、断る理由はない。二人の話は信じがたいものが多いけれど、お世話になったのは確かだし、草むしりくらいなら出来そうだな…という気持ちもあった。先生が妙に嬉しそうな声で、じゃあ決まりだね…と言った。
 その後二人はとりとめのない会話をしたのち、朝までゆっくり休むようにと言い残して、部屋を出て行った。陸はまだまだ聞きたいことが多かったが、時間も遅いため、無理は言えない。言葉にしたがって、そのまま部屋を借りて休むことにする。
先生は、堂に帰るという彗蝉(すいぜん)をクリニックの出口まで送り、やがて陸がいる部屋の隣室へと入っていった。しばらくは椅子を動かすような音が聞こえたが、やがてそれも聞こえなくなった。
 あの世への入り口だってさ…本気でそんなこと言ってるのかな。
 でも、あの先生はとにかく、彗禅というお坊さんは冗談を言うようには思えないし…。
 そんなことを考えていると、再びどっと疲れが押し寄せて来て、すぐに、まどろみはじめる。点滴も半分ほど残っているし、きっと完全な回復にはまだかかるのだろう。

 あ、紀行文、どうしようかな…。

ゴースト・セラピスト Neo

ゴースト・セラピスト Neo

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-06

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