ギムレットには、早すぎるぜ

   一

 強い南風が吹き抜けた翌日のことだった。
 訪れたホテルのバーは、金曜の夜ということもあって、賑わいをみせていた。
 皇居を夜景として鑑賞できる窓際の席には、男女のふたり連れや、明らかに商談中だとわかる背広姿の男たちがいて、中には金髪に青い目をした男女の姿もあった。夜景というものは、性別や国籍にかかわらず、相手を口説き落とすための最良なアイテムで、それは世界共通なのだ。口説く相手のいない私が、夜景に背を向ける恰好になるカウンターに通されたのも、当然のなりゆきだった。
 窓際の席とカウンターの間には、四つテーブルがしつらえられたラウンジがあって、団体客がふたつのテーブルを占拠していた。彼らは先刻から、なにかにつけてドッと嬌声を上げて盛り上がっている。今のお題は、昨日吹いた風を〝春一番〟と呼ぶべきかどうか、ということだった。そんなことは、このホテルの近くにある気象予報士たちの〝総本山〟に任せておけばいいものを。
 抑えられた照明、低く流れるジャズのスタンダード――ガラス一枚とはいえ、時間より速い街から隔絶されたこのバーにはそぐわない客のように思われるのだが、バーテンダーやウェイターたちは、彼らをたしなめようとはしなかった。彼らの中に、このバーにとっての上客がいるのに違いなかった。
 ただ、私はその上客が誰なのか、団体客の中からあぶり出すような真似をしなかった。それもすべては、気になる視線を感じていたせいだった。視線の主は、私からふたつ離れたスツールに腰かけた女ではない。L字型にしつらえられたカウンターの短い一辺の隅にいる女だった。店内が薄暗いとはいえ、先刻から時折、顔を上げてはこちらに目を走らせていることに、私は気づいていた。同業者であるとすれば、かなり〝まずい〟立ち振る舞いということになるのだが――とにかく、私はここに来る道すがらで購入した経済誌を読み耽る体を装いながら、視界の端に女の姿を捉え続けていた。
 二杯目のオン・ザ・ロックを飲みながら、経済誌を半分ほど読み終えた頃、団体客のひとりが「銀座へ繰り出すぞ!」と騒ぎ出した。
 少し甲高い聞き覚えのある声――
 おそらく、暇つぶしに見たワイドショーの司会者だ。しかし、名前までは思い出せなかった。
 煙草を一本喫う間に、団体客たちは次の店をどこにするのかを決めたようで、河岸を変えるために移動を始めた。ラウンジは、彼らの年甲斐もないはしゃぎ声で今まで以上に騒がしくなった。
 本当なら、舌打ちのひとつでもしてやりたいところを我慢して、ため息混じりに煙を吐き出した。
 短くなった煙草を灰皿に押しつけていると、不意に左の肩をつかまれた。振り向けば、浅黒い顔をした初老の男が立っていた。紛れもなくワイドショーのあの司会者だ。白髪ネギをかぶせた焼きおにぎりのような顔に、だらしのない笑みが浮かんでいる。
 男が顔を寄せて言った。「ねェ、さっきから、気になってたんだけどさァ……」
「なにをです?」
「あそこに、おネエちゃんがいるじゃない?」カウンターの隅を指差した。
「いますね……」
「あれ、あんたに気があるんだぜ」
 肝心の女は、スマートホンを取り出して、しきりにディスプレイをいじっていた。こちらに興味はないように見える。
「声かけてやりなよォ……」私の肩を右肘で小突く。
 香ばしい醤油の匂いでもすれば許せたのかもしれないが、男の口からはブランデーとチーズの匂いが、強烈に漂ってきた。
 むせ返りそうになるのを我慢して、私は男に答えた。「失せろ」
「彼女のこと、考えてやりなよォ。かわいそうじゃない」
 下品にならぬようにと声を抑えたのは失敗で、私の声は彼の耳に届いていなかった。
「〝据え膳喰わぬはナントカ〟って言うじゃない。あ……まさか、タイプじゃないとか? だけどさァ――」
「ひとつ言わせてもらっていいかな?」男に後を継がせぬよう、今度は強く言った。もちろん、口調は上品に、静かに。
「なんだい?」
「あんた、口が臭いんだよ」
 ようやく私の言葉が耳に届いたようで、男はおしゃべりを、いや臭い息を吐くのをやめてくれた。これで口元を押さえてくれば、完璧だったのだが。
 私はバーの入口を指差した。取り巻きとおぼしき四人組が、男を手招きしている。
「ほら、お仲間がお待ちかねですよ」
 私が教えてやると、肩を落とした男は、そそくさと立ち去った。ブランデーとチーズの匂いを置きみやげにして。私は、うれしくない残り香をかき消すため、新しい煙草をくわえてブックマッチで火をつけた。
 店内には、待望の穏やかな時間が訪れていた。これで、窓際の席にいる客も、相手を口説きやすい環境が整えられたに違いない。とはいえ、誇らしげにすることでも、ましてや褒められたことでもない。ウイスキーを飲むことで、高ぶらせてしまった気持ちを、店の雰囲気に合わせることにする。
 低く流れ始めたジャズのスタンダードに、含み笑いが混じっていた。ふたつ離れたスツールから聞こえてくる。女がカクテルグラスを前に、肩を振るわせていた。
 私の視線に気づいた彼女は、口元に押し当てていた右手を離して、こちらを向いた。髪を肩の辺りまで、ふわりと垂らしている。店の照明のせいだろうか、黒髪というよりも、ブルネットに見えた。
「ごめんなさい……」
「謝られるようなことは、していないと思いますが?」
「あなたと、さっきの人とのやり取りが、おかしくて……」
「聞かれてしまいましたか……お騒がせして、申し訳ありません」
「いいえ。上手にあしらわれているなァと、感心したんです」
「それは……褒め言葉として、受け取った方がいいんですか?」
「褒め言葉のつもりです」
 私が「ありがとう」と答え、彼女が小さく一礼を返すことで、私たちはそれぞれの時間へと戻ることになった。彼女は淡いピンクの飲み物が――ジャックローズだろうか――半分ほど残ったカクテルグラスに口をつけ、私は煙草を喫い、ウイスキーを飲みながら、経済誌を読んだ。
 耳を傾けていた『アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド』が終わりを告げる頃、女が再び話しかけてきた。
「――ひとつ、訊いてもいいですか?」
 くわえ煙草で正面を向いたまま、私は「どうぞ」と答えた。
「おひとり……ですか?」
「見てのとおりですよ。私がふたりに見えるとすれば……あなたは、相当に酔っている」
「そんなに、酔ってませんよ。それとも……酔ってるように見えます?」
「まァ……あなたが酔っていないというのならば、そうなんでしょう。ただ――」
「ただ?」
「それでも、私がふたり連れに見えると言うのなら、私には見えない誰かが、あなたには見えている……ということになる」私は読みかけの経済誌を、そっと閉じた。「そうだとしたら、あなたは霊媒師にでもなった方がいい」
 女は「おかしな人……」と呟いた後で言った。「ごめんなさい。読書のお邪魔をしてしまったようですね」
 私は喫っていた煙草を消した。「いいえ。そんなに面白いものじゃなかった」
「そうなんですか?」女がカウンターの上に置かれた経済誌の表紙を覗き込む。「そのふたりって、今話題ですよね?」
 経済誌の表紙には、対談をしたというふたりの男の顔が、デフォルメされたイラストで描かれていた。
「まァ、話題のようですけどね……」私はグラスに残ったウイスキーを飲み干した。
「あなたのお眼鏡には適わなかった……ということですか?」
「いや。そうじゃありません」
「では、どういうこと?」
「頭のいい人と金持ちの言うことは、よくわからない……ということです」
 女が上品に笑い声を上げた。
 本当のところは、巻頭特集の〝売り出し中のフランス人経済学者〟と〝IT業界の風雲児〟の対談は半ば読み飛ばしていて、〝物言う株主〟というお題目を掲げ、強引に株を買い漁る〈SKファンド〉という投資家グループに関する三面記事めいたレポートを読み耽っていたのだが、それは口外しないでおく。
 彼女はひとしきり笑うと、席をひとつ移動した。
 私たちの間には、スツールがひとつだけ――
 女は、濃紺のスーツ姿だった。ブラウスは、少し紫がかっていて――これは、店の照明のせいかもしれないが――派手な装いではないところからすると、近くで勤めるOLなのだろうか。なんにせよ、身なりには気を配っているようで、よく似合っていた。
 私はウイスキーのお代わりを頼むため、バーテンダーを呼びつけた。バーテンダーが、足音を立てずに、ゆっくりと歩み寄ってくる。
 女が訊いてきた。「なにを、飲んでらっしゃるの?」
「ヴァット69というウイスキー……スコッチです」
「お好きなんですか?」
「いや、棚の右端から数えて、六十九番目に並んでた……ただ、それだけのことです」
 席ひとつ分だけ近づいてくれたおかげで、先刻よりも彼女の顔をはっきりと見ることができた。年の頃は、三十二、三といったところだろうか。鼻の高さで世界の歴史を変えることは無理かもしれないが、いい女だった。彼女は鼻にしわを寄せて笑っている。
 空調の風に乗せて、漂うようにやって来た痩せぎすのバーテンダーに、私はお代わりを注文した。
 バーテンダーは私のオーダーを受けた後、女に訊いた。「次は、どうされます?」
 見れば、彼女のカクテルグラスも空になっている。彼女は私のグラスを見つめて言った。「こちらと、同じものをいただけるかしら」
「かしこまりました」
 一礼をして、バーテンダーが立ち去るのを合図に、彼女が訊いてきた。「――このお店には、いつも、いらっしゃるの?」
「今日が初めてです」
「そう、今日が初めてなんですか……」
「ええ。実は、少しばかり株をやってましてね。このホテルの株を、ちょっとだけ持ってるんです。それで、株主優待ってヤツを使ったんです」
「あら、そうでしたの」
「あなたはこの店には、何度か?」
「いいえ。わたしも、今日が初めてです。お友達の紹介なんですけど……いい雰囲気のお店ですね」
「うるさいのが、いなくなりましたから」
「それは、あなたのおかげじゃなくって?」
「買い被りすぎですよ。あの人たちは、勝手に帰っただけです」
「そうかしら? あなたが上手くあしらってなかったら、まだいたかもしれませんよ」
「そうですかね?」
「そう思います」
「だとしたら、店から一杯奢ってもらいたいところですよ」
「確かに、そうね」
 他愛のない会話をしている間に、私たちの前には、スコッチのオン・ザ・ロックが並べられた。痩せぎすのバーテンダーが立ち去るのを待って、互いにグラスを重ねる。心地のいい音が響く。
 女が言った。「いつも、ひとりで飲んでらっしゃるの?」
「ええ」
「寂しくありません?」
「寂しくなんかない」
「ホントに?」
「ええ。あなたは、どうなんです? いつも……ひとりで飲んでるんですか?」
「そうね、わたしも……飲むときは、ひとりね」
「寂しくないんですか?」
「寂しくはないわ」
「それは、本当ですか?」
「ホントよ」
「強がっているわけでは?」
「強がっているわけじゃないわ。人は……ひとりでいる限り、寂しいなんて感じものよ」
「どういう意味です?」
「寂しいっていうのは、隣にいる誰かが、不意にいなくなったときに、感じるものじゃないかしら?」
「つまり、隣に誰もいなければ、寂しいとは感じようがない――」
「そうよ。いるはずの人がいない。それが、寂しいってこと」
「ひとりきりなら、寂しくはない……か」
「おかしな考えかしら?」
「随分と哲学的ですね」
「そう?」
「ええ。ですが、あなたの言うとおりだとも思う」
「あら……わたしたち、気が合いそうね」
「そうだと、うれしいね」
「気が合うことがわかったついでに、教えていただけるかしら?」
「なにを……です?」
「あなたが、ひとりでお酒を飲む理由」
「そんなことに、興味があるんですか?」
「興味あるわ」
「聞いたとしても、面白い話ではないと思いますがね」
「面白い、面白くないかは、わたしが決めることよ」
 グラスのスコッチを口にした女が、こちらを挑むような目で見つめてくる。彼女の口調は、席ひとつ近づいた分だけ、砕けたものになっていた。
 私たちの間には、スツールがひとつだけ。さて、どうやって、この距離を縮めるか――
「申し訳ございません……」バーテンダーが〝邪魔な〟スツールの正面に立った。先刻とは違う小太りの男で――痩せぎすのバーテンダーは、カウンターの奥でシェイカーを振っていた――恐縮しきりに頭を下げた。「席をひとつ、詰めていただけますでしょうか?」
 私はグラスに残ったスコッチを飲み干し、煙草を消した。バーテンダーの粋な計らいに、胸を高鳴らせていることを悟られぬよう、いかにも億劫そうに立ち上がる。
「いえ。こちらのお客様がひとつ詰めて、いただけますでしょうか?」女の方を見て、バーテンダーが言った。
「わかったわ。わたしが移動すれば、いいのね?」
 スコッチを飲み干して、ゆったりとした優雅な動作でスツールを移動すると、彼女はバーテンダーに落ち着き払った口調で、スコッチのお代わりをふたり分頼んだ。
 小太りのバーテンダーが「ありがとうございます」と低く答えて、私たちの前から姿を消す。
 私たちの間に、スツールはない――彼女も胸を高鳴らせているのだろうか。
「同じもので、よかったかしら?」
「構いませんよ」
「ごめんなさい。勝手なことをして……」
「いいえ。あなたが注文しなければ、私が同じことをしてるところでした」
「そう……わたしたち、やっぱり気が合うのかしら?」
「そのようですね」
 女が微笑みを返してきた。私は新しい煙草をくわえて、ブックマッチで火をつける。
「じゃァ、教えてもらえません?」
「なにを……です?」
「あなたが、ひとりでお酒を飲む理由よ」
「まだ、覚えてましたか」
「当然よ。あなたは、まだひとりにしか見えないもの」
「だとしたら、私がふたりに見えるようになったら、話をしますよ」
「どういうこと、それ?」
 女は目を丸くしたが、それほど気を悪くしていないようだった。その証拠に、彼女は席を立たずにいた。グラスに口を運ぶ彼女を横目にして、私もスコッチを一口飲んで、煙草を喫った。
「さァ、教えていただける?」女が顔を近づけて、訊いてきた。
 私たちの間に、スツールはない――
 ひとりで酒を飲む理由を披露しようとした私の口を塞いだのは、残念なことに彼女の唇ではなかった。
 ウェイターに通されてきた三人組の客が、席につくなり、先刻の団体客ほどではないものの、大きな声でカクテルに関する蘊蓄を、銘々に語り出した。おかげで、私は話を切り出すタイミングを逸してしまったのだ。
 こちらに背を向けて女の隣に座った男の声が一番大きい。短く刈り上げた髪と、太い骨格の背中をしていた。身につけたグレーの背広が、お仕着せの制服に見えてしまうほど似合っていない。
 彼女はあきれたといった顔を作って、正面を向いてスコッチを飲み始めてしまった。
 ――無粋なヤツらだ
 グラスを投げつけてやりたい衝動を、煙草を揉み消すことで抑え込む。だが、この環境を利用しない手はない。
 私は上着のポケットから、部屋のキーを取り出した。カウンターにそっと滑らせる。
「これは……なに?」私の方を見ないで女が言った。気配で私がなにをしたのか、気づいたようだ。
「さっきも言ったかと思うんですが……私は株主優待で、来たんです。そうしたら、部屋を勝手に用意されていましてね。その部屋がツインなんです」
「それだけ?」
「ここは、うるさいでしょう? だから、もう少し静かな場所で、飲むのはどうだろう……そういう提案です」
「おもしろい提案ね」正面を向いたまま答えた女は、グラスのスコッチを飲み干すと、こちらに顔を向けた。「でも……ごめんなさい。わたし、初めて会った男の人とは、〝静かな場所〟で飲まないことにしてるの」
 むやみやたらと、清水の舞台から飛び降りるものではない。ため息をひとつついて、私もスコッチを飲み干した。スコッチは、やけに苦く感じられた。
「ねえ。ひとつ、訊いてもいいかしら?」
 彼女はまだ私に興味を持っていてくれているらしい。「どうぞ」と答えるのは、当然のことだった。
「あそこにいる女の人……あの人は、あなたと関係があるの?」彼女の視線は、カウンターの隅に座った女に向けられていた。
「どうして、そんなことを?」
「だって、さっきからあなたのことを、ちらちらと見ているのよ」
「そうなんですか?」
「そうよ。さっきの人じゃないけど……あなたのことが、気になるみたいね」
 私たちの間で、話題の中心になってしまったことに気づいたのか、カウンターの隅にいる女が慌てて、目を伏せた。
 ――下手クソ
 声には出さず、胸の裡で毒づいた。
「ひょっとして……」私の表情から読み取ったのか、女が言った。「あなたが、ひとりでお酒を飲むことと、関係があるのかしら?」
「聞いたとしても、楽しい話ではないですよ」
 私が顔を隣に向けると、彼女は正面から見つめ返してきた。「楽しい話かどうかは、聞いてから決めるわ」
 そう言って彼女は小太りのバーテンダーを呼びつけて、自分のグラスを指差した。
「同じものを、ふたつお願い」
 私は小さく笑みを返して、新しい煙草をくわえた。
 女は鼻にしわを寄せて笑っている。
 いい女だと思った。

   二

 やがて、小太りのバーテンダーが運んできたヴァット69で、私たちは三回目の乾杯を交わした。
 スコッチで喉を湿らせてから、私は言った。「ひとりで飲むようになったのは……ここ最近のことでね」
「それまでは、誰かと?」
「ええ。何年か前までは、誰かと肩を並べて、飲むこともありましたよ」
「それが、あの女の人?」
「あと……もうひとり、いましたけどね」
「いつも、三人で飲んでいたってことかしら?」
「〝いつも〟ってわけじゃない。三人で飲むことも、それぞれと、ふたりきりで飲むこともあった」
「じゃァ、どうして仲良く飲むのをやめてしまったの?」
「気づいてしまったんですよ。ある日ね」
「気づいた……なにに気づいたのかしら?」
「違うものを見てたってことです」
 彼女は首を傾げて、私の顔を覗き込んできた。
 私は灰を落として、話を続けた。「同じものを飲みながら、同じものを見て、同じことを感じている……そう信じていました」
「ところが、そうではなかった……ということ?」
「そうです。どうやら、肩を並べて座っている相手は、私とは違うものを見て、違うことを感じていたようでしてね。それに気づいてしまってからは、ひとりでいるようにしています。特に、酒を飲むときはね」
「そうだったの……」女がカウンターの隅に目をやった。「じゃァ、あの人と、あなたの関係は?」
「彼女ですか?」
「ええ」
「彼女は、私の前の女房です」
「前の奥さん……」
「そうです。二年ほど前に別れました」
「そんな偶然が、あるのね……」
「いや、偶然じゃァないんです」
「え? 待ち合わせなの?」
「はい」
「だったら、彼女の隣に行けば、いいんじゃなくて?」
「そうも、いかないんです」
「そうも……いかない?」
「さっき、言ったでしょう? もうひとり、いるって」
「そう……だったわね。その、もうひとりっていうのは、どんな人なの?」
「どんな人ねェ……今となっては、一言で言うのは、難しいかな」
「どういうこと?」
「まァ、もう少ししたら、その〝もうひとり〟が姿を見せるでしょう……そのときに、話せると思います」煙草の煙を宙に吐き出した。隣の女の視線を感じてはいたが、そちらには向かずに、無言でスコッチを呷った。女もグラスに手を伸ばしていることは、気配でわかった。
 しばらくの間、黙ったまま酒を飲み続けた。彼女と目を合わせることはなかった。なに、これがいつものことなのだ。
 煙草を根元まできっちり喫った煙草を灰皿に押しつけていると、女が私の左手をそっと叩いた。
「ねェ……あなたの言う〝もうひとり〟って、あの人のことかしら?」
 視線を上げた先、カウンターの隅にいる女の隣に、私と同年輩の男が立っていた。男は女と二言三言交わした後で、スツールに腰を降ろすと、上着から煙草を抜き出して、ライターで火をつけた。こちらからでも、ジッポーだとわかる。
「そうです。私の言った〝もうひとり〟……というのは、彼のことです」
「あの人は、どういう人なのかしら?」
「彼は、そうだな……」
「ちょっと、歯切れが悪いわね」
「――かもしれませんね。まァ、とにかく、彼は昔の仕事仲間……まァ、相棒だった、と言って差し支えないでしょう」
「昔の相棒……ちょっと待って」
「なにを、です?」
「あの女の人は、あなたの前の奥さんなのよね?」
「そうですよ」
「それで、彼女の隣にいるのは、あなたの相棒だったという人なのよね?」
「ええ。今、そう言いましたよね」
「どうして、ふたりで並んで座っているの? おかしな話じゃない」
「それが、おかしな話じゃないんです」
「どうしてかしら?」
「あいつは……彼女の再婚相手なんです」私は正面を向いたまま、答えた。「三年ほど前から、つき合っていたそうです」
 隣の女はスコッチではなく、息を飲んでから言った。「三年ほど前? あなた……さっき、離婚したのは二年前だって――」
 私は「そうです」と言って、隣の女を見つめた。彼女は私とカウンターの隅に、それぞれ視線を走らせてから、今度はスコッチを飲んだ。先刻よりも、量は多かった。
「一年ほど遅れましたけど、そのことに気づいてからは、ひとりで飲むようにしている」
「――だけど、あなたは今日、彼女と待ち合わせをしているのよね?」
 私が頷いて応えると、彼女は少しだけ声を高くして言った。「あのふたりが、あなたをここに呼び出した……ということ?」
「そうです。なんて言うんですかね……昔から妙に律儀な男でしてね、あいつは。彼女と結婚するに当たって、どうしても前の旦那に、仁義を切っておきたいそうです」
「今日は、そういう日だったのね……」
「申し訳ない。つまらない話でしたね」
「謝るのは、よして」
「いやァ、しかし……」
「あなたに話をするよう頼んだのは、わたしなのよ」
「とはいえ、あなたの気分を害してしまったようだ――」
「だから、わたしに謝らないで」彼女は顔を伏せてしまった。「あなたこそ、嫌なことを思い出してしまったんじゃなくて?」
「そんなことはない」
「強がらないで」
「強がっているわけじゃァない。むしろ、私はあなたに、お礼を言わなければならないようだ」
「お礼?」
「ええ。私は今日、酒はひとりで飲むものだというルールを破った」
「それは、私が話しかけたからでしょう?」
「そう。だから、あなたのおかげなんです。随分と気持ちが軽くなった。すべては、あなたが隣にいてくれたからです」
「そんな……」
「ありがとう」
 彼女は再び顔を伏せてしまった。私はスコッチを飲み、煙草を喫った。
「――これから、どうするの?」顔を伏せたまま、女が訊いてきた。
「まずは、あのふたりの話を聞かなければ、ならないでしょう」
「その後は?」
「そうですね……その後は、またひとりで飲むことにします」
「だめよ」
「気にしないでください。ひとりは慣れっこですから」
「だめ」先刻よりも強い口調で言うと、彼女は私の左手をそっと握ってきた。
 恥ずかしい話だが、突然のことに、高鳴り始めた鼓動を治めることができなかった。
「さっき、言ったでしょう? 寂しいのは、隣にいる誰かがいなくなったときだって」
 年甲斐もなく速いテンポで打ち続ける脈拍は、酔いのせいなのだと思うことにした。
 女が言った。「一緒に、飲みましょう?」
「ですが、これから先は、あなたに聞かせるような話じゃない。それに……」
「それに?」
「正直に言えば、聞いてもらいたくはない」
「そうなのね」小さく呟くと、彼女は手を離してしまった。
 胸の裡に湧いた後悔は、流し込んだスコッチで薄める。
 彼女が小さい声のまま言った。「じゃァ……一緒に、ギムレットを飲まない?」
「ギムレット?」
 別れの酒にギムレット――彼女も、大いなる勘違いをしているひとりなのだ。しかし、飲む酒がなんであれ、そろそろ〝長いお別れ〟を迎えなければならない。
 私は答えた。「いいでしょう」
「よかったわ……あなたとの友情の証として、飲みたかったの。〝静かな場所〟で」
 予想もし得ぬ彼女の回答に、私は言葉を失ってしまった。
「確か、あなたは株主優待でここに来て……そのせいで、部屋がツインになってしまった」
「そのせいで、無駄に広い部屋ですけどね」思わず口をついた科白は、我ながら皮肉とも自嘲ともとれるものだった。
 ただ、彼女はそのどちらとも感じなかったようで、質問を続けてきた。「そして……あなたは今日、ひとりでお酒を飲むというルールを破ったのよね?」
「ええ。そうですが……」
「だから、わたしも……」彼女は私の目を正面から見つめてきた。「わたしも、今日はルールを破ることに決めたわ」
「冗談はよしてください。冗談でないのなら、私に無理につき合わなくても、いいんです」
「いいえ。わたしが勝手に決めたことよ」女が優しく目尻を下げる。
 〝虎穴に入らずんば虎児を得ず〟――先人は〝いいこと〟を言うもんだ。
 苦笑混じりに私は答えた。「わがままな人だ」
「あら、ひどい言い草ね」女がおどけてみせる。
「――わかりました。では、先に行って、待っててください。ギムレットは部屋に届けさせますよ」
「待って」女が先刻の小太りのウェイターを招こうとする私を制した。「あちらのバーテンさんに、頼んでくれる?」彼女の目は、近づいてくる小太りのバーテンダーではなく、痩せぎすバーテンダーに向けられていた。
「彼……ですか」
「わたし、いつもギムレットは彼に頼んでいるの」
「いつも彼に……ですか?」
「そうよ」
「余程、腕がいいんでしょうねェ」
 彼女はなにも答えず、優しく笑みをたたえているだけだった。
 私は彼女の言葉に従って、小太りバーテンダーを下がらせた。不満を愛想笑いに変えて奥へと引っ込む彼の代わりに、痩せぎすのバーテンダーを呼びつけた。
 私たちの前に立った痩せぎすのバーテンダーに「ギムレットを、ふたつ」と注文をした。下品にならぬよう気をつけながら、彼に部屋番号を告げて、そこまで運ぶようにつけ加える。
「かしこまりました」
「彼女の指名なんだ」
「ありがとうございます」痩せぎすのバーテンダーが、丁寧に頭を下げた。
 バーテンダーが、ふたり分のギムレットを作りに向かうと、彼女はカウンターの上に置きっ放しにしていたルームキーを、慎ましく手にした。スツールから立ち上がり、私の耳元に唇を寄せた。
「待ってるわね」そう優しくささやくと、彼女は私の後ろを回って去っていった。
 クロークでコートとバッグを受け取り、バーから出ていく彼女の後ろ姿を眺めながら、グラスに残ったスコッチを飲み、煙草を喫った。
 カウンターの隅に並んで腰をかけていたふたりは、彼女がバーから立ち去るのを見届けた後、しばらくしてからふたり揃って立ち上がった。タートルネックのシャツの上に、革の肘当てがついた灰色のツイードのジャケットを来た男が、くわえ煙草でゆっくりと歩み寄ってくる。くわえ煙草で歩いていても、咎められることがないのは、この街ではバーぐらいになってしまった。そんなことをふと思った。
 そのクセのある目つきで、私を見据えながら男が近づいてくる。私と同じセブンスターをくわえた唇の端が、上がっていた。
 かつて相棒だった男が、私の横に立った。
「よう、色男」少しこもった感のある低い声で、男が言った。
 私はそちらを見ずに、短くなった煙草を喫い続けた。
「話は全部、聞かせてもらったぜ」男が右耳からイヤホンを外す。
「いい趣味じゃないな」私は上着の内側に手を差し入れた。ピンマイクのスイッチを切って、発信器ごと男に手渡す。
「趣味じゃない、仕事だ。一応な」
「だとすれば、ろくな仕事じゃない」
「お前が言えた義理じゃないだろう」
「馬鹿言え。俺は、都民からなけなしの金を巻き上げて、暮らしているわけじゃない」
「随分とご高説じゃないか」男は煙草を唇から離して、私の前に置かれた灰皿に灰を落とした。「お前の稼業は褒められたものじゃないし、言うほど儲かってるとは、思えないけどな」
「俺の稼業のことが気になるんなら、自分でやってみろ」
 かつての相棒は、唇の片方だけを憎々しく上げて、宙に向かって煙をぷうッと吐き出した。
 彼と同席していた女の姿は、店内に見当たらなかった。私の隣にいた女を、追いかけていったのだろう。
 私は言った。「これで、お終いか」
「ああ。ここから先は――」
「古河先輩」
 かつて相棒だった男の言葉を遮ったのは、遅れて入ってきた三人組のひとりで、私に背を向けて拙いカクテルの蘊蓄を語っていた太い骨格の男だった。確か、遠山といったはずだ。
「なんだ、遠山」かつての相棒――古河が、気怠そうに答えた。
「あの……ですね。女は確保したんですが――」
「どうしたんだ?」
「それが、その……」
「はっきりと言え」
「はい……女は、なにも持ってないそうです」
「なんだと? どういうことだ?」
「いや、それを僕に言われても……」遠山は肩をすくめた。
 古河は、ため息混じりにセブンスターの煙を吐いた。
「それと、ですね――」
「なんだ? まだあるのか?」
 遠山が私を見て言った。「こちらの方を、部屋まで呼ぶように……と」
「誰だ、そんなことを言ってるのは?」
「さっきの女と――」
「あの女だと?」古河がカウンターに手をついて、私の顔を覗き込む。「まさか……お前、あの女とグルなのか?」
「どう考えたら、そんな答えを出せるんだ、お前は? 〝ココ〟は大丈夫か?」右手の人差し指で、私は自分の頭を叩いてみせた。
「お前なあ――」
「あの女だけじゃないんです」私の仕種を見ていきり立つ古河を制するように、遠山が口を挟んだ。「明智さんも、呼んでるんです」
「明智が呼んでる?」
 古河の問いかけに、遠山は頷いた。「そうなんです。なんででしょう?」
「知るか、馬鹿」遠山に答えた後、古河は「どういうことだ……」と呟いた。
 呼び出された理由など、私にわかるわけもない。
 先刻まで隣にいた女には見せられないような〝まぬけ面〟を晒す私たちの前に、痩せぎすのバーテンダーが現れた。カクテルグラスを乗せたトレイを手にしている。芳しい花が咲いていた野原が、いつの間にか飢えた猟犬たちのたまり場になってしまった戸惑いを、彼は隠そうとはしなかった。
「ふたつとも、ここに置いてくれ」私は痩せぎすのバーテンダーに言った。
「……かしこまりました」
 カクテルグラスがふたつ、私の前に並べられる。
「ありがとう」私は煙草を消しながら、痩せぎすのバーテンダーにお礼を言った。
「失礼いたします」頭を下げて、痩せぎすのバーテンダーは私たちの前から立ち去った。彼の声は、心なしか震えているように聞こえた。
 古河が訊いてきた。「なんだ? これは」
「聞いてたんだろ? ギムレットだ」
「しかし、まァ……洒落たモノ、頼んだんだな」カクテルグラスのひとつに、古河が手を伸ばす。
「飲むなよ」私は古河に忠告した。
「なんだ? あの女と、〝友情の証〟に一緒に飲むつもりか?」
「そうじゃァない。それは、大事な証拠品だ」
 古河が手を止めて、私の目を覗き込む。「どういうことだ?」
 私は痩せぎすのバーテンダーをちらりと見やった。奥に佇む彼は、状況を把握できずに首をかしげている。
「もったいぶるな。早く言え」
 ライムジュースのため、薄い緑がかった黄色の神秘的な色に輝くカクテルグラスに目を落とした。
「詳しいことは、今のバーテンダーから訊くんだな。あいつは、あの女の共犯者だ」

   三

 水野という男が、私の事務所を訪れたのは、強い南風が吹く二週間前のことだった。
 顔の大きい背の低い男で、元々は一八〇センチ以上の高さにあった頭を、一七〇センチに満たない位置まで、上から押しつけたようなひどくバランスの悪い体型をしていた。
「俺のことを、覚えているかな?」開口一番、水野が訊いてきた。
「生憎と、覚えていませんが……」
「俺の方は、きみのことを覚えてるんだ――」
 水野に言わせれば、前の稼業で私の先輩だったのだそうだ。しかし、彼の説明を聞いたところで、私の方は目の前に立つバブルヘッド人形のことを、まったく思い出せなかった。
「それで、今日はどういったご用件で?」私は訊いた。「まさか、私をヘッドハンティングする……なんて、ことじゃないですよね?」
「そういうことじゃない」私の軽口を水野は、すかさず否定した。「恥ずかしい話だが、きみに仕事を頼みに来たんだ」
 私に仕事の依頼をすることが恥ずかしいことなのか、どうか――それはこの際、不問にする。
「どういった仕事……なんです?」
「口外しないと、約束してくれるかな?」
 私は「約束する」と答えた。
「本当か?」
「こちらがどんなに上手く取り繕おうが、破った場合の罰則をどんなに厳しくしようが、あなたが私を信用しない限り、約束というものは成立しない」
 実のところ、この一カ月の間、仕事はなかったので、喉から手が出るほど依頼人に飢えている状況だったのだが、私とて仕事へのスタンスは変えられない。トラの縞は、洗ったところで落ちはしないのだ。
 水野はトレンチコートのポケットから、黒いピルケースのようなものを取り出した。右の掌の上に黒い箱を叩きつけるつけるようにして、錠剤をいくつか振り出すと、一息に口の中に放り込んだ。大きな顔いっぱいを使って錠剤を噛み砕いてから、大きく息を吐き出す。目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
 二度、三度と目をしばたたかせてから、水野が言った。「わかった……きみを信用して、すべてを話そう」
「あちらで、詳しい話を聞かせていただきましょうか」私は水野を応接セットへと招いた。
 応接セットに腰を降ろした水野は話を切り出す前に、再び黒い箱から錠剤を振り出して、口の中へと放り込んだ。どうやら水野にとっては、清涼菓子が精神安定剤になっているらしい。
 水野が言った。「実は、ウチのホテルで昏睡強盗があったらしいんだ――」
 水野の話を要約すれば、こうだ。
 ――水野が勤務するホテルに、昏睡強盗が出没している
 とあるインターネットの掲示板に書き込まれたのは、半年近く前のことだった。ホテルだけでなく、警察にすら被害の届け出がなされていないことから、初めのうちは噂の域を出ない〝便所の落書き〟程度にしか考えずに、ホテルとして取り合うことはなかった。しかし日が経つにつれて、昏睡強盗の被害に遭ったとする書き込みは増え続け、書き込まれている内容も真実味を帯びていった。それに合わせるように、ホテルの予約客は減り始め、ついにはホテルとしても看過できない事態となり、水野たち警備担当者が調査に当たることになったそうだ。
 書き込みをされた半年前から記録されていた防犯カメラを、すべてチェックするという水野たち警備担当者の〝懸命な努力〟の結果、ある〝容疑者〟が浮かび上がった。ホテルの六階にあるバーにひとりで訪れ、意気投合した男とバーを立ち去っていく女――
 私は訊いた。「どうして、その女が怪しいと?」
「俺の勘さ」目を輝かせて水野が答えた。
 ワイシャツの胸ポケットから、煙草を一本取り出した。くわえた煙草に、ブックマッチを使って火をつける。
 水野は、私がそのままなにも言わずにいると、大きな顔を曇らせた。「防犯カメラの画像を見たら、誰だってあの女を疑うはずだ。〝同じ釜のメシを食った〟きみなら、なおのことだ」
 こちらには〝同じ釜のメシ〟を食った覚えは、まったくないのだが――私は言った。「しかし、被害届は出されてないんですよね……実際に被害が遭ったという確認は取れたんですか?」
「正式な届け出はされてないんだが、被害は遭ったんだ」水野が答えた。「俺の部下に、パソコンとか、インターネットに詳しいのがいてね。そいつが言うには、掲示板に書き込んだヤツの〝アイビー〟だか、〝アイピー〟ってのを調べたら、ウチを定宿にしてくれているお客さんだったそうなんだ」
「そして、その客が女と一緒に防犯カメラに映っていた……というわけですか」
「そうなんだよ。結構な会社のお偉いさんだっていうのにさ……インターネットなんかに、書き込みやがって。素直に〝被害に遭った〟って言ってくれれば、俺たちだってやりようがあったんだ」
「匿名の〝告げ口〟が最近の流行りのようです。それに、それなりの立場の人であれば、下心丸出しにして女に騙された……なんてことは、口が裂けても言えないでしょう?」
「まァ、確かにきみの言うこともわかるけどさ……」
 私は水野の表情から読みとったことを、そのまま口にした。「いい迷惑、といったところですか?」
「ああ、そうだ。まったく、迷惑な話だよ」
 現代では、隠しきれない秘密やら恥というヤツは、自ら掘った穴に向かって叫んで埋めてしまうのではなく、急速に発達した電脳世界に匿名で書き込むことで、済ましてしまうらしい。ただ、匿名性を担保にした分だけ、七十五日と相場が決まっていた噂の有効期限を、半永久的に延長させただけでなく、〝火のないところに煙は立たない〟ことを、見事に証明してみせていた。
 水野が清涼菓子の入った黒い箱に手を伸ばした。振り出された精神安定剤の量は、今の彼には物足りないらしく、小さく舌打ちをした。
 私は、ニコチンの血中濃度を上げてから訊いた。「それで、私に頼みたいこと……というのは?」
「きみに〝囮〟になってもらいたいんだ」
「〝囮〟?」
「そう、つまり……」水野が口ごもった。
「要するに、下心剥き出しにしたまぬけな客になって欲しい……そういうことですか?」
「報酬はちゃんと出す。それに、もうひとつ条件をだす。悪い条件じゃないはずだ――」
 水野が提示した条件――依頼料に加えて、〝容疑者〟と思われる女と出くわすまでは、ホテルのバーで飲み放題――は、私にとって決して悪いものではない。なにより、一カ月ぶりの依頼だ。
「お引き受けしましょう」舌なめずりしてしまわないよう気をつけながら答えた。「ただ、こちらにもひとつ条件があります」
「なんだい? それは」
「防犯カメラに映っていた男の身元は、全員わかっているんですか?」
 水野は、バランスを崩さぬよう大きな頭を支える首を縦に振った。
「ですが、よくわかりましたね? 防犯カメラの映像だけで」
「四人もいたからね……」ため息混じりに水野が答えた。
 百年ほど前、セルビアの青年は、たったひとりでヨーロッパを戦乱に巻き込んだのだ。四人もいれば、ホテルの経営状態を傾けさせることぐらいできるだろう。
 ――依頼人を前にして、我ながら不謹慎なことを思いつくものだ
 私は煙草を一服して言った。「でしたら、その四人について、詳しい情報をリストにして、私にください」
「おい……顧客情報ってヤツだぜ。それは、ちょっと……」
「どんな男なのかを知っておきたいんです」
「だからと言ってだな――」
「私は防犯カメラの画像を見ていないんですよ。まぬけな男を演じる参考として必要なんです」
「ホントに、それだけなんだろうな?」と水野が訊いてきた。
 この際、本当のことを告げておいた方がいいだろう。
 私は言った。「なにより、私は〝他人の勘〟というヤツを、信用していない」
 水野は黒い箱に伸ばした手を止めた。中身を切らしてしまったことを思い出したようで、結局のところ、両手を額に押し当ててうつむいてしまった。なにかを悩んでいるというより、バランスの悪い大きな頭を必死に支えているように見えた。
「きみは、口が悪いな」と呻いた後、水野が答えた。「わかった。なんとかしよう」
「ご協力に感謝します」お礼を述べて、煙草の灰を来客用の灰皿に落とした。「しかし、その女が実際に昏睡強盗の犯人だったとしても、あなた方にも……当然、私にも逮捕権はありません」
「その辺は、大丈夫だ」頭を支え続けたままの姿勢で、水野が答えた。
「どうされるつもりなんです?」
「きちんと、警察に対応してもらう」
「まさか、私にまぬけ面して、被害届を出させようってんじゃないでしょうね?」
 水野が顔をゆっくりと上げて、今度は大きな頭ごと首を横に振った。
 最悪の事態だけは、避けられたようだ。私は煙とともに安堵の息を吐き出した。
「俺の同期に、明智ってヤツがいてね。まだ〝あっち〟に残ってるんだが、そいつの提案なんだ」
「なるほどね……ただ、〝あちらさん〟にしては、随分と大胆な計画じゃないですか」
「さァ? 検挙率を上げるのに精一杯なんだろう? ここはさ。きみも、俺も名前を売っておくチャンスだと思うんだ」
 身を乗り出したせいで、水野の顔が目の前にまで迫ってきているように感じられた――テーブルを挟んでいるので、そんなことはありえないのだが――ただ、バブルヘッド人形の顔を眺めているうちに、私の胸の裡で、またぞろ〝悪い虫〟が蠢き始めていた。
 私は灰皿で煙草を揉み消した。「いいでしょう。名前を売るつもりはありませんが、〝あちらさん〟に貸しを作っておくのも悪くない」
「そうだろう、そうだろう」水野が顔いっぱいを使って、微笑んだ。
「……それにしても、どうして私なんです?」
 明智――水野と同様に、私の知らない名前だった。深く詮索をすると、あれやこれやと思い出したくない名前やら事柄を聞かされる恐れもあるが、聞いておかずにはいられなかった。
「明智が言うには、きみのことを、どこかで聞きつけたらしくてね。それに、彼の部下にね、きみの相棒だったという男がいるそうなんだ。それで、きみに協力してもらおうってことにしたらしい」
 かつての相棒――嫌な顔が脳裏に浮かぶ。もっとも、〝向こう〟も同じ気持ちのはずだ。
「ああ、そうだ」なにかを思い出した水野が、私の顔を覗き込んだ。「今回の件について、現場の指揮を執るのは、その……きみの相棒だったヤツなんだ。えェと、名前はなんていったかな……」
「――古河ですか」奥歯をきつく噛み締めていることに気づいた。
「そうそう、その古河ってヤツだ。なんだ、名前を覚えてるんだったら、話は早いや」嬉々として、水野が言った。
 私は新しい煙草をくわえて、ブックマッチで火をつけた。
 己の軽率さを呪う言葉は、穴に埋めてしまうでもなく、電脳世界に書き込むでもなく、肺いっぱいに喫い込んだ煙とともに、天井に向かって吹き上げた。

   四

 痩せぎすのバーテンダーは、厨房へと続くドアを開けて、そそくさと奥に姿を消した。カウンターで密談する五人の男から、身の危険を察したらしい。
「矢部、鳥居」古河は小さな声で、ふたりの刑事に痩せぎすのバーテンダーを追いかけるよう指示を出した。
 矢部と鳥居は、店の雰囲気を壊さぬように、そっと立ち上がった。事態を把握できていない小太りのバーテンダーを呼びつけて、事情を説明し始める。
「古河先輩、僕は……」着飾った体育教師――遠山が心細げに言った。
 古河がひとつため息を漏らしてから、まだ半分ほど残ったセブンスターを灰皿に押しつけた。「お前は、その〝証拠品〟を持ってついてこい」先頭を切って歩き出す。
「了解です」私にかしこまって頭を下げると、遠山はカクテルグラスを恭しくつかんだ。
 大事な〝証拠品〟は遠山に任せて、私は古河の後に続いた。古河にはエレベータホールで追いついた。エレベータが来るまでの間に、久しぶりに結んだネクタイをほどく。
「相変わらず、ウィンザーノットなんだな」思ったよりも早く到着したエレベータに乗り込んだ古河が言った。
「うるせェ」ほどいたネクタイを上着のポケットにしまう。「これしか、結び方を知らねェんだ」
 古河は鼻で笑うと、遅れて来る遠山のために、エレベータの『開』のボタンを押してやった。遠山が遅れてきているせいなのか、古河はいつも以上に不機嫌だった。〝証拠品〟のギムレットをこぼさぬよう、遠山が慎重にエレベータに乗り込む。
 エレベータが動き出してから、私は訊いた。「ご機嫌斜めじゃないか」
「当たり前だろ? よりにもよって、お前が協力者なんだ」
 どうやら古河は、今日になって私が協力者と知らされたらしい。不機嫌になるのも、無理はない。もっとも、私の方は依頼を受けてしまったときから、機嫌が悪いのだが。
「俺のせいじゃない。お前んとこの明智ってヤツのご指名だ」
「明智のご指名ねェ……だいたいだな。こんな面倒くせェことしないで、早々にあの女をしょっ引いちまえばいいんだよ」
「でも、先輩……現場が押さえられないことには――」
「お前は黙ってろ」古河が口を挟んだ遠山の言葉を遮った。
 遠山は、ギムレットをこぼさぬよう器用に肩をすくめてみせると、私に向かって「困ったもんだ」とでも言いたげに、苦笑を浮かべた。私がその生意気な顔に睨みを利かせると、古河の後輩は、ようやくおとなしくなった。
 エレベータを十四階で降りてからは、仕方がないこととはいえ、カクテルグラスを手によちよちと歩く遠山にペースを合わせて歩いた。一四〇五号室のドアをノックしたのは古河で、開けたドアから顔を覗かせたのは、バブルヘッド人形――水野だった。
「みなさん、お待ちかねだよ」
 高飛車な口調で話しかける水野を押しのけて、古河が一四〇五号室に入った。元先輩だからというだけで、〝でかい面〟されるのは、たまったものではない。後始末は、遠山に任せることにして、眉間に深いしわを寄せる水野を無視して、私も後に続いた。
 ユニットバスに続くドアを左手に、私たちは廊下を奥へと進んだ。ホテル側が用意してくれた部屋に入るのは、実は初めてのことだった。調度品の数は〝ビジネスホテルに毛が三本生えた程度〟だったが、ふたつのシングルベッドとライティングデスクは、私が宿泊した経験のあるホテルの中では、最高級の品だった。部屋の奥には、私の部屋にあるのより大きなテレビと、私の事務所よりも立派なソファが置かれていた。とはいえ、さすがに大人が六人も入室すると、少し息苦しい感がある。それを敏感に感じ取った水野が、廊下から部屋に一歩踏み込んで足を止めた。バブルヘッド人形に〝とおせんぼ〟された遠山は、カクテルグラスを両手にして、廊下に立たされることになった。
 古河は窓辺に立ち、私はライティングデスクに浅く腰を乗せた。
 ふたつ並べられたベッドの奥に座っているのは、先刻までカウンターの隅にいた女だった。右目の下にホクロのある私と同年輩の女で、今日のためにわざわざ美容院に出向いたのか、髪をきれいにセットして、胸元がゆったりとした黒いワンピースで精一杯のお洒落をしていた。〝前の女房〟は間違いなく美人の部類に入るのだが、〝初めて見る顔〟だった。
 〝初めて見る前の女房〟の視線がこちらに向いたのに気づいて、手前のベッドに向き合って座っていたもうひとりの女――先刻まで私の隣にいた女が、振り返った。
 ふたりの女が、鋭い視線をぶつけてくる。
「ちょっと!」口を開いたのは、先刻まで私の隣にいた女だった。「この人、あなたの前の奥さんじゃないって、どういうことなの?」
「そうよ。なんで、わたしがあなたの奥さんなんかにならなきゃいけないの」〝前の女房〟が、興奮気味に追撃をする。「だいたい、わたしはこの男と――」古河を指差した「結婚するつもりだってないんだから」
 ――さてさて、今回のシナリオを書いたのは、私ではないのだが
 古河を見れば、あらぬ方向に視線を投げて、唇を〝への字〟に曲げていた。彼も私と同じ気持ちでいるのに違いない。
「それはこの際、どうでもいいことでは、ありませんか?」
 部屋の一番奥にあるソファに座っていた男が、私の〝前の女房〟という配役に対して、不快感を隠そうとしない女刑事に声をかけた。声の主が、今回のシナリオの執筆者――明智だ。水野と同期だという割には、かなり後退してしまった額、二着いくらで売られているような仕立ての悪い吊しの背広を着た姿は、まったく成績を上げられない部下を抱えてしまった営業課長のように見えた。ただ、広い額の下にある切れ上がった三白眼は、彼がまごうことない腕利きであることを示していた。
 上司にたしなめられた女刑事が「申し訳ありません」と頭を下げる。
 明智がソファから立ち上がった。ようやく登場した真打ちは、盛り上がりに欠けた前座を観客に忘れさせるかのように、猛禽類によく似た目で、部屋全体をゆっくりと見渡すだけの充分な間を置いてから、口を開いた。
「――実は、困ったことになっていましてね」
「困ったこと……なにが、あったんです?」水野が返した。水野の口調は、同期を相手にしているというよりも、〝飼い主〟におもねるようなやけに丁寧なものだった。
「彼女、薬を持ってないんです」
「そんなはずは……」
「いや、確かな事実なんです」明智が言った。
 明智に見据えられた水野がうなだれた。両手を使わず、大きな頭を首だけで支えている。
「考えられることは、三つあります。ひとつは、彼がすでに一服盛られてしまっている……まァ、これは彼がこの場にこうしているわけですから、直に判明するでしょう」恐ろしいことをさらりと言ってのけてから、明智は続けた。「ふたつ目は、こちらの女性が被疑者ではないということです。もっとも、彼女は今も被疑者ではなく、あくまで重要参考人ですが」
 古河は不機嫌そうに話を聞き、女刑事はそっと目を伏せた。
 女がシングルベッドから立ち上がり、明智に言った。「ねえ。もう帰っていいかしら? さっきから言ってるように、わたしは犯人でもなんでもないの」私の方に顔を向けて続ける。「だいたい、あなたは何者なの?」
「さて、最後の三つ目ですが」女の主張を無視して、明智は話を続けた。「考えられるのは、探偵さん……あなたが、彼女の共犯者ということです」
 部屋中の視線が私に集まった。女刑事が、私と女を交互に睨みを利かせる。古河のクセのある目つきは、いつになく輝いていた。明智の言うとおりならば、私に手錠をかけることができるのだ。
 女の私を見る目には、戸惑いの色が強くあった。明智の言う〝三つの可能性〟を聞いたからというよりも、私の稼業を知ったからということは、容易にうかがえた。
 さて、私はと言えば、出番をもう少し後だと高を括っていたせいで、このタイミングで舞台に登らされてからの科白を用意していなかった。仕方なく、身振りで明智に話を先に進めるよう促した。
 明智が言った。「あなたのような仕事であれば、彼女の〝カモ〟になりそうな男性をみつけてくるのは、難しいことではないでしょう。それに、今回の件を知っている〝部外者〟は、彼女とあなただけなんです。あなたに協力を頼んだ今日だけ、彼女がなにもしないというのは、どういうことなんでしょう? 説明していただけますか」
 明智の三白眼が、私を正面から見据えていた。どうも、明智は最初から〝部外者〟である私のことを疑っていたようだ。まあ、彼らの〝部外者〟であることは、喜ばしいことなのだが。
「俺は、彼女に一服盛られてもいなければ、彼女の共犯者でもない。そして、考えられることは、今言った三つだけじゃない。四つ目があるんだ」
「四つ目?」と明智。
「馬鹿なことを言ってないで、正直に白状したらどうなんだ」水野が、声を上げる。
 うるさい水野を一瞥して、私は四つ目の可能性を口にした。「すでに薬は仕込まれていて、彼女には俺とは別に、共犯者がいる」
 明智は表情を崩さずに、やけに落ち着き払った口調で言った。「どういうことでしょう? 説明してください」
 私は廊下の奥で甲斐甲斐しくカクテルグラスを持って立つ遠山に目を向けた。遠山は、私の意図に気づくと、ギムレットをこぼさぬよう器用に水野の脇を通り抜けて、部屋の中へと入ってきた。
 腰の位置を横にずらして、私は空いたスペースにカクテルグラスを置くよう遠山に指示をした。古河が嫉妬を含んだ目で私を見ているのが、視界の端に入った。
「それは、ギムレットですか?」明智がグラスの中身について確認をした。
「そう、ギムレットです。そして明智さん……」遠山が置いていったカクテルグラスを指差した。「あんたの言う薬ってのは、ここに仕込まれている」
 私を除いた部屋にいる人々の視線が、カクテルグラスに注がれたギムレットに集まった。
「それで右と左、どちらのグラスに、仕込まれているんです?」
「右なのか、左なのか……それは、わからない」私は正直に告白した。「もしかしたら、両方に仕込まれているかもしれない」
「おい! この期に及んで、俺たちを馬鹿にするのか?」〝部内者〟と認められたせいか、水野の口振りは、以前の稼業のそれに戻っていた。
「馬鹿にするつもりはない」〝コケにするつもりだ〟と言ってやりたいところだが、話がややこしくしそうなので、やめておく。
「ちょっと待ってよ」〝重要参考人〟の女が割って入った。「わたしは、どっちに薬が入っているか……なんて、知らないわ」
「それに、両方に仕込まれていたら、意味が無いわね……」と女刑事が呟いた。自分の言葉を耳にした女刑事は、今の発言が〝重要参考人〟の援護射撃になっていることに気づいて、顔をしかめた。
「だから、共犯者がいる」と言って、私は古河に訊いた。「さっきのふたり……矢部と鳥居だったか。その後、どうなったんだ?」
 古河は私には答えず、遠山に言った。「おい、訊いてみろ」
「了解です」と返事をしてスマートホンを取り出すと、遠山は廊下の奥へと消えていった。
 私は女に言った。「あのバーに、痩せたバーテンがいたろ? 彼があんたの共犯者だ。ギムレットに薬を仕込むのは、彼の役目なんだ。俺とあんたがバーにいたままなら、彼は薬を仕込んだ方を俺に出す。俺とあんたが、こうやって部屋にしけ込んでいたなら……」〝部屋にしけ込む〟と聞いて、女刑事が不潔なものでも見るかのように顔をしかめたが、構わず続けた。「部屋にギムレットを運んできた彼が、なんらかの方法で、どちらが薬を仕込んだグラスなのかを教える……大方、そんな手筈だったんだろう」
「馬鹿馬鹿しい」と女が吐き捨てると、腕を組んで私の話を聞いていた水野が「ただの思いつきじゃないんだろうな」と続いた。古河は鼻を鳴らしただけでなにも言わず、女刑事はさしたる反応を見せなかった。
 明智は小さく頷くと、広い額を右手の指先で、二度三度と叩いた。「確かに、その可能性は否定できません。なにか、明確な理由でもあるんでしょうか?」
 思わぬ援護射撃――それに乗らない手はない、とばかりに、女が声を上げる。「そうだわ。なんか証拠でもあるわけ?」
「それが、あるんだ」私は女に訊いた。「なァ、あのバーに行くのは、初めて……だったんだよな?」
「そうよ。それは、さっきあなたにも言ったじゃない」女は、初めて見ることになる険しい表情で答えた。
 古河の唇の端がキュっと上がる。古河は古河で、気づいたようだ。明智は表情を変えずにいるので、彼が気づいたのかどうかは、読み取れなかった。
「だとしたら、あんたはひとつミスを犯している」
「ミス? ミスってなによ」と、女が言った。
「確かに、あんたは、俺にあのバーは初めてだ……と言った。残念なことだが、それはこの古河も、あんたの前にいる刑事さんも聞いていることなんだ」
「だから、なんなの? 同じこと、何度も言わせないでよ――」
「まァ、最後まで聞くんだ」私は、右手を挙げて女の言葉を遮った。「ところが、ギムレットを注文するとき、あんたは、俺にあの痩せたバーテンを指名させた。そして、こう言ったんだ。いつもギムレットは彼に頼んでいる……ってね。〝初めて来たバー〟に、〝いつもギムレットを注文するバーテンがいる〟ってのは、どういうことなんだ?」
 女の顔からは血の気が引いていった。古河の目は輝きを増す一方で、ようやく記憶を取り戻したのか、女刑事はしきりと首を縦に振った。バブルヘッド人形の水野は、呆けたように口を開けて、ギムレットの注がれたグラスを眺めていた。
 私は明智に訊いた。「さっきの俺たちの会話は、録音してあるのか?」
「ええ」と明智が頷いた。
 会話が録音されていることを知って――あまり聞かれたくない話もしているのだが――女は力無くシングルベッドに腰を降ろした。私とは目を合わさぬよう背を向けていた。その背中が、やけに小さく見えた。
 私は女の背中に言った。「あんた……早すぎたんだよ」
「早すぎた?」
「そう、ギムレットを頼むのがね」
「どういうこと?」女は背を向けたままだった。
「あんたと飲んでるのは、楽しかった。それこそ、酒はひとりで飲むものじゃないのかもしれない……そんな風にも思ったんだ。だから、もう少し俺にウイスキーを飲ませていれば、あんたのミスに気づかなかったかもしれない。酔っ払ってしまってね」
「……ギムレットには、早すぎたのね」顔だけをこちらに向けて、女が寂しげに微笑んだ。
「そういうことだ」
 私の出番はここでお終いとばかりに、明智がパンと両手を叩いた。「遠山さん! 矢部さんと鳥居さんは、どんな状況です?」
「被疑者を確保、事情聴取をしている最中です」廊下の奥から、スマートホンを手にした遠山が顔を覗かせた。
「でしたら、女は〝落ちた〟と伝えてください」
「了解です」と答えて、遠山は再び廊下の奥へと消えた。
 三白眼が動いて、私を捕らえた。早々に部屋から出て行けということらしいのだが、まだ〝カーテンコール〟が残っている。
「ひとつ……気になることがあるんだ」私はワイシャツの胸ポケットから出した煙草を一本くわえた。
「失礼、この部屋は禁煙です」と明智が残酷な宣告をした。
 気の利かない部屋を用意した水野をひと睨みして――舌打ちのひとつもしてやりたいところだが、それは大人げないのでやめることにする――おとなしく煙草を元に戻した。
 明智が言った。「それで……気になることというのは?」
「こちらの水野さんから、被害に遭ったという客のリストをもらっていてね。夜、ここに飲みに来るだけじゃァ暇なんで、昼間のうちにいろいろと調べたんだ。そうしたら、四人には共通点があったんだ」
「共通点……なんでしょう?」と明智。
「四人が四人とも、株主優待を使ってこのホテルを利用していんだ」
「ホントなのか?」水野が口を挟んだ。
「嘘をついたところで、こいつは、なんの得もしない」答えたのは古河だった。こもった低い声が、いつになくざらついている。古河は、私をかばったわけではない。目の前にいる悪党を、なかなか〝しょっ引けない〟ことに、いらだっているだけなのだ。
「まァ、そうだな……」水野が肩を縮こませた。その大きな顔は、さすがに小さくならなかったが。
 古河のクセのある目が、「さっさと話せ」と訴えていた。
 古河に急かされたからではないが、私は話を続けることにした。「さて、このホテルなんだが、経営方針を巡って、あれこれと揉めているらしい。そこをつけ込んだのか、〝物言う株主〟……なんて言ったかな――」酔いが回ったというよりも、付け焼き刃の知識で〝ど忘れ〟してしまっていた。
「〈SKファンド〉ですか?」明智が助け船を出す。
 私は迷うことなく〝乗船〟した。「そう、〈SKファンド〉……その〈SKファンド〉が、このホテルの株を買い占めようとしている」
「それが、この件とどういう関係があるというんだ?」鈍い表情で水野が言った。
「せっかくの株主優待で来たホテルで、昏睡強盗に遭ってしまった客が、そのまま株を持ち続けるか? たとえ株を譲渡しなかったとしても、昏睡強盗が出る……そんな噂が広まったら、ホテルの評判は下がる一方だ。そして当然、株価も下がるんじゃァないのか?」
 水野が息を呑んで、私を見た。ようやく、バブルヘッド人形にも理解ができたらしい。
 明智が言った。「つまり、彼女のバックには〈SKファンド〉がいる……そういうことですか?」
 私は「そうだ」と答えた。
「興味深い話ですね。ただ、あくまでそれは、あなたの憶測にすぎない」
「さァて、憶測で終わらせるかどうかは、あんたらにかかってるんじゃないのか?」
「どういうことでしょう?」明智の三白眼が鋭さを増していた。
「ケチな昏睡強盗を捕まえるだけなら、所轄の〝丸の内〟にでも話を回せば済むことだ。たとえ、同期だった男から頼まれたとはいえ〝桜田門〟から、〝お忙しい〟あんたらがわざわざ出張って来たってことは、この事件は一筋縄じゃいかないってことなんじゃないのか?」
 〝桜田門〟の面々は、一様に口を閉ざしてしまい、水野は所在なさげに目をキョロキョロと動かした。
 ただひとり取り残されてしまった女に、私は声をかけた。「あんたも、正直に話した方がいい。少しは罪が軽くなるはずだ」
「ちょっと待ってください」明智が言った。「我が国では、司法取引は認められていないんですよ」まだ負けていないとでも、言いたげな口振りだった。
「だとすれば、この手の囮捜査も認められていないはずだぜ」猛禽類によく似た目を睨みつけた。
 先に目を逸らしたのは明智だった。束の間、唇を曲げて考え込んだ後で、呟くように言った。「まァ……情状酌量というのも、ありますからね」
 次に目を合わせたときには、明智は三白眼をふっと細めた。笑ったのだ、と思うことにした。
 どうやら、〝カーテンコール〟も、ここまでのようだ。
 私は言った。「それを聞いて安心した。俺は、失礼するよ」
「ねえ。探偵さん……」部屋から立ち去ろうとする私を女が呼び止めた。
 振り返ると、女が私を正面から見つめていた。
「わたしが刑務所から出てきたら、また一緒に飲んでくれる?」
「ギムレットならな」
「そうね。飲みそびれちゃったもんね」
「ああ。約束しよう」
「ありがとう」女は顔いっぱいに笑みを作った。
 踵を返そうとすると、再び女に呼び止められた。
「マチコ……私の名前よ」
 名乗る彼女の傍らで、女刑事が眉をひそめていた。彼女は偽名でも使っていたのだろう。
「今度、一緒に飲むときまで、覚えていて」
「ああ、覚えとくよ」私は自分の名前を、彼女に告げてから言った。「なんだったら、脱獄も手伝うぜ」
 私の提案に、女刑事は目を丸くし、古河はあきれたと言わんばかりに唇を歪めた。明智だけは表情こそ変えなかったものの、頬が一度だけ神経質にピクリと動いた。
 マチコは、鼻にしわを寄せて笑っている。
 いい女だと思った。

ギムレットには、早すぎるぜ

ギムレットには、早すぎるぜ

強い南風が吹き抜けた翌日のことだった。 訪れたホテルのバーで、私はある女と出会った。いい女だと思った。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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