君がくれたモノ
陰陽師の安部晴明。我は、現在、三十二歳の高校二年生である。
周囲とは少々変わった経歴を持つ我ではあるが、生活は周囲同様、退屈なものだった。
勉強と会話で終了してしまう毎日。……味気ないのだ。
そんな我の一番の不満は、恋愛が出来ないことである。友達は多いが恋人は生まれてから今日まで一度も出来たことがない。
我は恋愛がしたい。支え合える人と結ばれたい……。
――そんな時、彼女に出会った。
一目見た時、我は彼女に惚れた。彼女の声はオルゴールよりも美しく、一つ一つの動作がぬらりひょんのように流麗であった。
彼女の名前は確か、み、み……駄目だ、思い出せない。おそらく暗示がかけられているのだろう。この暗示を解くためには、暗示をかけた張本人を倒すしかない。
新たな戦いの予感に、我は心を震わせていた……。
桜も散り、鯉のぼりが登り始めた四月下旬。我の恋は相変わらず燃え上がっていた。
我とあの人はただのクラスメイトという間柄でしかなかったが、我にとって、あの人は特別な人だ。
教室に彼女がいるというだけで、いつの間にか我は学校に行くことが楽しくなっていた。あの人といるだけでこんなにも自分の世界が変わるなんて思っていなかった。
なのに我は、彼女の名前を思い出せない。ずっと話していたい。ずっと一緒にいたい。それなのに、呼んであげることもできない。それは我の恋愛において、最も大きな問題であった。
そんなある日のことであった。
「俺、……(我には認識できない)のことが好きなんだ……」
教室の向こう側で、そんな声を聞いた。一瞬頭に火花が散る。今聞いたのは明らかにあの人の名前だった。
……だが、暗示の効果は絶対だ。肉体的に名前を聞いたとしても、精神が彼女の名前を認識出来ないのだ。
いや、それよりも聞き捨てのならないことを聞いてしまったんじゃないのか我は。
弁当など食っている場合ではない! セパタクローのイメージトレーニングをしている場合でもない!
三十二年間生きてきて、このような感情を抱いたことはなかったが……。
この感情は嫉妬、だろうか。彼女のことを好きな人間は、我だけではないのだ。
久遠怜治も、我がライバルの一人であった。サッカー部の次期キャプテンと噂される、冷静沈着な人気者。
褒めるところを探せばキリがないが、彼の一番すごいところは百人一首を一字一句間違えずにいえることだ。
我はあいつと戦うことを決めた。久遠に先を越される前に、我自身が行動しなくてはならないのだ。
しかし、女性をオトすテクニックなど何も知らない我である。初心な我はいきなり遊びに誘うなど不可能だった。
仕方がないので校門の前で偶然を装いつつ、違和感が生まれないよう慎重に彼女に話しかけた。
「おはよー」
「おはよ、安部晴明。というか、安部から挨拶してくれるのは珍しいね」
和やかな空気。自然と言葉が出てくる……のは、最初だけだった。
徐々に押し寄せる緊張感が喉を絞める。少しぎこちないまま教室に着いてしまった。
後悔が押し寄せる。失敗した嫌われた死にたい恥ずかしい……。そこまで酷い印象は与えていないと心のどこかで思っていても、ネガティブな感情は消えてくれない。
授業中も彼女のことで頭がいっぱいだった。何も手につかない。
……昼に挽回しないと。
そして昼。都合のいいことに、彼女は一人で弁当を食べている。
朝のようにならないようにしなければ。しかし朝なら「おはよう」の一言で出だしは大丈夫だ。しかし昼に「こんにちわ」は少し不自然ではなかろうか。
「どうしたの?」
心臓が爆発して封印していた妖怪が溢れてしまうかと思った。
「いや、一人だったからどうしたのであろうかと思うてな」
「今日は友達が風邪で休みなの」
風邪……疾風の化身、「あzwsぇdftvgふn」の毒にやられたのならその友達の命はないが、今は彼女が一人で弁当を食べていることの方が重要であった。
「一緒に食べようではないか」
「いいよ?」
我は心の中でガッツポーズをした。
「最近、勉強はどう?」
……? その時、何か不思議な気を感じた。何だこの感じは。「zくぁwせdrftgy」が現れたのだろうか……。
「私が勉強出来ないと思う?」
彼女が言った。……明らかにいつもと雰囲気が違う。
まさか、憑依……いや、それにしては精神が彼女の体と定着し過ぎている。それに先程の気、妖怪などの発するオーラよりも人間の脳波に近かったような……。
あ! そういえば彼女は二重人格だったんだ~!
彼女は普段は大人しく上品だが、もう一つの人格は全てを切り裂く毒舌キャラなのだ。
「あ、あの」
「……え? 何、何かあった?」
どうやら戻ったようだ。彼女自身は二重人格に気付いていないらしく、何故かそのことを誰も突っ込まないままでいる。
「えっと……いや、特に何もなかったよ」
「……そう」
とりあえず、この凍りついた空気を何とかしなくては。と、その時だった。
「やあ、仲良く二人でお食事かい?」
あたかも偶然だというような態度で、久遠が現れた。
「久遠、どうしたのだ」
「いや、ちょっとね。僕も今日は友達が休みだから、一緒に食べていいかい?」
「うん、いいよ?」
食事は三人で和気藹藹と……するはずもなかった。
久遠は巧みな話術で我を空気に変え、見事に自分と彼女だけの温かい空気を作りだしてしまった。
……心が痛い。これが恋なのか。胸の中に何かドロドロしたものが巡るような感覚。
「……悪い。後は二人で食べてくれ」
「え、安部……?」
彼女が不思議そうに声をあげた。久遠の声は聞こえなかったが、きっと心の中でクソ喜んでいるに違いない。
勢いで教室を出て、向かう場所もなくてうろつく。空は青い。遠くに見える町では、今も妖怪が暴れているのだろう。……今はどうでも良い話だ。
風が優しく我を撫でる。そこに一人、我と同じく黄昏れている男が一人。
「人は巡り合いの中で生きている」
よく見れば同級生だった。確か、炎山猛といったか。
「炎山、お前もか」
「ああ。そういう君もか?」
「まあな。……悪い。今は一人になりたいから、また今度な」
そういって我はその場を後にした。
……ある一定の技術を身に付けた人間には、何かしらのオーラが現れる。例えば陰陽師の道を極めた我や、臭いの道を極めたドリアンなどがそれだ。
今思えば我は……何故、あの炎山のオーラを感じ取ることができなかったのだろうか。
恋は、簡単に実る。……はずもなく。
何の進展もなく、いつの間にか五月。
多くの鯉のぼりは片付けられ、あの球団の強さも毎年急激に落ち込み、学校でのクラスも安定してきた、そんなある日の放課後。
奴が来た。
「久しぶり、安部晴明」
聞き慣れた女の声。やや幼さの残る声は、人の多い学校でもすぐに聞き分けることができる。
桃咲霞さん。こいつは一年生の頃からの我の友人である。
「いきなりどうしたのだ」
「暇ぁ。何かしてぇ」
「何か、か。ではケマリでもするか」
桃咲さんは首を激しく横に振った。断固拒否。そこまでされると心も傷付く。
「恋バナしようよ。安部晴明は好きな人はいる?」
「俺は……いるよ。名前は……」
……名前が言えない。あの人が好きという事実が心の中に燃えているにも関わらず、我はその名を唱えることさえ出来ない。
「誰? 教えてよぉ」
「……誰なのだろうな」
我は……それが知りたい。
「私は安部のことが好きなの」
「あまり男をからかっていると、いつか本気にされるぞよ?」
こんな何でもない会話を、あの人としたいな……。そんなことをふと思った。
帰りに下駄箱で久遠とはち合わせた。
久遠の周囲には数人のファンの気配があたが、姿を隠しているため久遠は一切気が付いていなかった。
「……久遠」
「安部じゃないか。こんな時間に下校かい?」
「我は教室で瞑想していたんだ」
「迷走……?」
何かすごい誤解をされてしまった気がするが、あの人に勘違いされるよりは幾分マシだ。
「……お前も今日は遅いんじゃないか?」
サッカー部の活動は二十分ほど前に終了しているはずだ。何故こいつがこんな時間に学校にいる。
「僕は部活の帰りに……さんと喋っていて遅くなってしまったんだ」
「……そうか」
胸がえぐられるように苦しい。三十二年の修行で鉄の強さを手に入れたはずの魂が吠えている。辛くて口から封印していたヒトダマが漏れそうになったがどうにかこらえた。
得体の知れない吐き気に襲われ、公園のベンチにうずくまる。心が震える。雨の日の子犬のように孤独な魂が、空の下で凍えている。
あの人と久遠はクラスの人気者同士だ。もし付き合ったら悔しいが似合い過ぎている。所詮ゴロツキ陰陽師の我が介入する隙など、ないということなのだろうか。
「……あの人は誰にも……!」
徐々に涙が溢れ出す。雫はやがて滝のように。滝はいつしか血が混じり……おっと、妖魔を解放してしまうところだった。
哀しい、寂しい、愛おしい……。我を突如、孤独感が襲う。三十二年の間に経験したことのないことが最近多過ぎる。
吐き気がおさまるまで泣いていた。誰もいないはずの公園。……不意に、足音が聞こえた気がした。
「……安部晴明?」
オルゴールのように美しい声。
「どうしたの? 泣いているの……?」
あの人が、そこにいた……。
「……お主……」
言葉が出ない。話したいのに話題が見つからない。何より涙を見られたことが辛かった。
悔しさと情けなさが混じって、頭の中が暑くなる。これはあれだ、羞恥だ。
「誰も我のことなど理解できぬ……」
そんな捨て台詞を残して、我はその場から逃げるように走った。
家に着く。一人暮らしで寂しい部屋。親が死んで遺産は沢山あるが……金では心は満たされない。
食って風呂入って寝ようとした時、携帯に着信があった。炎山……。そういえば番号を交換していたのか。
「炎山か。どうしたんだ」
「悩んでいるんだろう?」
……心読というやつだろうか。まさか炎山、お前は妖怪「wせxdrcftvgyhぶ」なのか……。
「数日前に屋上でで会った時から、様子がおかしかったからね」
前言撤回。炎山はいいやつだ。
「人は皆、弱さを背をって生きているのさ、……さんも、俺もみんなね、寂しさに涙するのは君だけじゃあないし、君は一人じゃあない、言いたいことはそれだけだ……。また明日」
その後数秒の間を置いて、電話は切れた。
「やっぱり朝は五行封印だよな」
朝の身支度を済ませ、玄関を開けると炎山が立っていた。
「うおおおおおお! 陰陽師ビーム!」
思わず撃ってしまった必殺技を、炎山は軽々とした身のこなしで避けた。その動きは、風に揺れる炎を連想させる。
「危ないな。僕でなければ死んでいたところだよ。次から気を付けなよ」
……こいつは本当にいいやつだ。当たれば即死の陰陽師ビームを撃ち、向こうのビルをぶっ壊してしまった我を一切咎めようともしないとは。
「過ぎた事は仕方が無いさ。それより、早く学校へ行こう」
そうして、珍しく炎山と二人の時間が始まった。部活の話から勉強の話まで……。炎山はどうやらどの部活にも属していないようだった。
「野球か五行封印に興味あるか?」
「強いて言うなら野球に興味があるかな」
「五行封印は……」
「野球ならやってもいいよ……。昔やっていたからね」
ちなみに我が野球部と掛け持ちで続けている五行封印部は、現在部員一人である。
教室に着くと、あの人が心配そうな顔をしながら我の元にやってきた。
「安部晴明……。昨日は何があったのか分からないけど、無理しないでね。辛い時は……頼っていいから……」
彼女の言葉が花の香りのように漂う。
「……ありがとう」
「あれ、ひょっとして泣いてる?」
からかうような口調。我も冗談っぽく「うるせぇ」と言えた。
彼女と話すだけで、こんなにも満たされる。このまま時間が止まればいい。そのためなら背負ってきた陰陽師の名も五行封印部も捨ててしまえるのに……。
「しゅん……………泣かないもん、片思いは辛いことは知っているからいつかは…………でも涙がでるよぉ」
桃咲の声が聞こえた。……何だか、苦しんでいる時の我と似ている……いや、あんなに大っぴらでもなかったか。
春過ぎの太陽が我を照らす。五月は運動をするには丁度良い季節である。
校舎の窓からグラウンドを覗く。青春を謳歌する学生達を見ると、何故か切なくなってしまう。
彼等の姿が、十五年前、まだまだ見習い陰陽師だった自分と重なって見えるからかも知れない。
「君は……心に深い傷を持っているようだね」
背後から声がした。体操服を着た炎山がそこにいた。
「ユニフォームはまだないし、一人で部室には入り難かったからね」
「張り切っているのだな。野球に思い入れがあるのか?」
「君に僕の過去を詮索する権利はないはずだよ」
していない。
我がその時どのような顔をしていたかは分からないが、炎山は我の顔を見るとまるで老人のような温かい笑みを浮かべ、歩き出した。
「今日は風が哀しいね……。行こうか」
マイペースでカッコイイ。我はこの時、彼のブロマイドを発売して売ったら結構儲かるのではないかと思った。
部室前。既に準備を終えた後輩達が、我に元気な挨拶をぶつける。言霊は時と使い方によっては暴力的な飛び道具にもなるが、彼等はひょっとしてそれを理解しているのかも知れない。
「血ィーッス!」
「お疲れ様death!」
「お前ら止めろぉぉぉ! 心が悪霊に奪われてしまうぅぅぅ!」
「先輩、今日はどんな練習をしますか?」
後輩の一人、一ノ瀬が言った。ちなみに我が龍安野球部は、色々あって一年生中心で構成されている。
女監督の早乙女さんがショタ好きだったとかいう噂が立ったこともあるが、真相は謎に包まれている。
「……そういえば、今宵、監督はおらぬのか?」
「はい。早乙女監督は失踪中です。あとまだ昼です」
「そうか。なら今宵は我がお前達に呪殺ノックをしようではないか」
「昼ですってば。今宵って……」
我々の掛け合いを横で見ていた炎山の表情は、温かかった。
「安部……。このメンバーで甲子園を目指すのかい?」
甲子園。高校球児にとっては、大学野球選手の神宮のような場所である。いや。甲子園の方が有名か。
このメンバーで甲子園。……行きたい。神宮よりも行きたい。もっと言うなら陰陽師バトルスタジアムくらい行きたい。でもやっぱりセパタクロー世界大会の方がいい。
「君達の野球部はいいね……。……僕も……」
炎山はそこまで言うと、急に辛そうな表情になって口を閉ざした。
その後、結局呪殺ノックは中止となり、各々が好きな練習をするという自由な時間が訪れた。
我は呪殺出来なかった悔しさに涙を飲みながら、炎山と共に遠投をしていた。
「そぉぉらよっと……」
バッシィィィン………。
グローブの音がグラウンド中に鳴り響く。こう見えても肩は割といい方なのだ。
「いい球投げるね、ならこっちも………」
そう言って炎山はボールを投げた。
すると、ボールは風と一体化し、幻のように消えた……かと思うと、次の瞬間には我の遥か後ろに転がっていた。
「……まるで桁違いだ。何だ今のは」
これはつまり……。妖怪qwせdrftgvyふn……いや、違う。
炎山が、相当な実力者だということだ。
「……実は肩を一度壊したんだ。僕は物心がついた時から野球をしていて、中学になってからは全国的に有名な選手になることが出来た。
……だけど、三年になった夏の全国大会の決勝戦に肩を壊したんだ。それから一度も野球はやっていない」
「肩を壊した……? 今の球、順風満帆に上り詰めた名選手でもなかなか投げられる球じゃない……」
「……野球を諦めきれなかった僕は、リハビリを受けながら徐々にボールを投げれるまでになったんだ。そして努力を重ね、ここまで来た。……でもやっぱり皆とやる野球の方が楽しいよ。僕はこのメンバーで、甲子園に行きたい」
この時、確信した。この男となら、甲子園に行ける……。
「炎山!」
「何だい?」
「行こうぜ、甲子園。そして陰陽師バトルスタジアム、最後に行きつくのはセパタクロー世界大会だ!」
「甲子園にしか行きたくないなぁ……」
我の、疎外感との戦いが幕を開けた。
「練習も一段落したし、休憩するごっふぉぉ」
天才的な我の脳細胞を全て殺しかねない勢いで、頭に何かがぶつかった。……サッカーボール。
「誰だぁぁぁ! 我の三十二年間の歴史を粉砕しようとした悪徳陰陽師は!」
「おっと、ごめんよ。シュートが外れてしまった。あと僕は陰陽師じゃないです」
「久遠か……シュートってお前、こっちにサッカーゴールは無いじではないか!」
「フ、細かい事には触れないでくれよ。……それより、あれを御覧」
久遠が指をさした先には、制服を着た女子二人がいた。よく見たらあの人と桃咲さん。……何か、喧嘩をしている? 互いにそっぽを向いているように見える。
「……待てよ? あそこにあの二人がいるということは……ひょっとして……まさか」
「何だか僕の意図しない方向へ話が進んでいるような気がするが、良いだろう。言ってみなよ」
「まさか……まさか……! あそこにあqwせxdrftvgyふが……!」
あqwせxdrftvgyふは、嫉妬する女の顔と言われる般若の面と深い関係にあるという噂が正しいとされる説が濃厚と我が師匠が寝ながら言っていたと師匠のお母さんから聞いたと昔の日記に書いてあったが真相は謎である。
「ぼ、僕には君のトーキングセンスが分からない……。いや、そんなことはどうでも良いよ。僕はただ、僕の想い人である……さんと君のファンである桃咲さんがセットでいたから君に声をかけた。ただそれだけだよ」
そう言って久遠は去っていった。
「何が言いたかったのだ、奴は……」
「きっと彼は君にペースを崩されたんだと思うよ……。彼の周囲の風が泣いていた……」
我のせいなのか。いや、あの人が見ている今、奴のことを気にしている暇は無い。
「炎山! あの人に最高のパフォーマンスを見せるため、我と一打席勝負をしてくれ!」
「……ああ、構わないよ」
バッシィィィイィィィィィイイイイイイン。
何と、炎山はジャイロボーラーだった。
「……聞いてねぇよ。でも、これが……ジャイロボールか」
二球目。我のバットは清々しいくらい見当はずれな振り方をした。ツーストライク。野球でのストライクとは、一球毎の打者の敗北回数ととることが出来る。
これが三つでアウト。バッターの負けだ。マッチ戦で負けるようなものだと思えば良い。
「あと一球で負けちまう……。ぶっちゃけあの人はもう帰ってるけど、勝負には負けられない!」
三球目。フルスイングしたバットは、確かにボールを叩いた、が……。
真上。キャッチャーフライでアウト。
「三振しなくて良かった……」
「危なかった……。もう少しで……」
「先輩、俺らは先に帰りますよー」
「……え」
見ると、とっくに帰宅時間は過ぎていた。
恋愛はそう簡単には成就しない。成就させたいと思うものほど、尚更壊れていく。
似たようなことを少し前にも、というか結構度々言っている我は最強のポエム作者である。
……は! 間違えた! 陰陽師だった。そんな感じで、
六月が訪れた。
梅雨には入っていないが雨は多い。じめじめとした空気は、我の悶々とした心を映しているように思えた。
くどいようだが恋愛はそんなに都合よく進展しない。我とあの人との距離は一向に縮まらなかった。
それどころか最近、あの人と久遠が話しているところをよく見つける。クラスメイトだし不思議ではない。だが我は、不安を振り払うことが未だ出来ずにいた。
野球にも身が入らない。
「こらぁー安部、ちゃんと集中せぃ」
「申し訳がありませぬ、大国天先輩。しかし先輩は怒っても威厳無いですね」
「せやなぁー。ワイは優しいから……って何言わすねん!」
恋愛と野球……と五行封印とセパタクロー。全てを完璧にこなすことは、やはり不可能なのであろうか……。
我はふと、チームメイトの顔を一人一人確認するように見た。
「……我にはこの七人が……大切な仲間が」
七人? あれ? 我を入れても八人? いや、フルメンバーで九人というのも少ない訳であるが、今日はさらに一人足りない。
「榎本ですよ、安部先輩」
後輩一号、一ノ瀬が言う。榎本剣菱は一ノ瀬達と同じ、一年生の一人である。
「あいつ、いつも部室を使わずに、どこかでユニフォームを着ていたじゃないですか。それで、部室を使うように注意したんです。そしたら何故か皆とタイミングをずらして顔を出すようになりまして……」
そんな事情とか全然知らなかった。
「少し心配なんやけどな」
大国天先輩が口を挟む。
「あいつ、元々口数が極端に少ないし、体つきも女みたいに細いやろ。練習とか、ホンマは辛いの我慢しとるんちゃうかと思うて、前から気にはしとってん。
それで、最近は遅刻気味や。……あいつはちゃんと野球を楽しめとるんやろか……」
「大黒天先輩はやけに榎本を気にかけてますね。惚れているのですか?」
「可愛いし、実は……って何言わすねん!」
「…………ども」
「うわ、びっくりした」
背後にいつの間にかいた榎本の声に、大国天先輩が飛び跳ねる。
……そうだ、甲子園。この仲間達と行くんじゃなかったのか。恋愛も五行封印もセパタクローも同時にこなすなら、とにかく我武者羅にやるしかないじゃないか。
「……ようやく心が燃え始めたね」
炎山が言う。
「ん? いや、萌え始めてはないぞ?」
「……ハハ」
炎山は歳の離れた兄のように、優しい眼差しで我等を見ていた。
その帰りのことだった。
炎山と川沿いのベンチを通りかかったところで、我は自分の目を疑い、払拭できぬ嫌な妄想をふくらませ、誤作動して吹っ飛びそうな心臓を抱えてその光景を遠巻きに眺めていた。
……あの人と久遠。ベンチに座って、楽しそうに話していた。
「……安部、大丈夫かい?」
立ち止まって動かない我に、炎山が心配そうに声をかけてくれた。……だが我は、返事をすることさえ出来なかった。
「……悪い。今日はもう……一人にさせてくれないか」
「分かった。だが……悩みは一人で抱え込まないでくれよ」
じゃあ、と互いに手を振って歩き出す。炎山にももう見えていなかっただろうが、我は歩きながら、静かに涙を流していた。
……流したくなくても流れるのだ。三十二歳、初めての苦い愛の涙が。
家になんか帰れる訳がない。家からそう遠くない公園に寄り、長年連れ添った相棒とも言うべきバットで泣きながら素振りをする。
「何で……どれだけ頑張っても我は……」
「安部晴明……?」
聞き慣れた女の声だった。やや幼さの残る声は、顔の見えない闇の中でもすぐに誰のものか聞き分けることができる。
「泣いているの……? どうしたの……?」
そこには、桃咲さんが立っていた。
「桃咲さん……。こんな時間に、どうして」
「私は吹奏楽部の帰りなの」
頑張っているのは我だけではなかった。……桃咲さんも久遠も、確かにそれぞれの活動を頑張ってはいる。だがやはり……我は、報われない。
「……先程、我の好きな人と久遠が仲良く話しているところを目撃してしまったのだ。」
「……やっぱり安部晴明は天……さんのことが好きなんだね……。私は……やっぱり駄目なのかな……」
「それは」
言葉を探す我に、桃咲さんが掌をかざす。
「いいんだよ。安部晴明の気持ちはすごく分かるから。辛かったね……。辛い時は私を頼ってもいいんだよ……?」
そう言って桃咲さんは我に抱きついてきた。顔が熱くなる。心臓は誤作動して吹っ飛びそうになり、あろうことか恥ずかしい部分が恥ずかしいことになる。
今なら王貞治にも負けないスラッガーに……イカンイカン。
「しばらくこうしていようよ。辛いでしょ、これからは私と苦しみを分け合おうね………」
……桃咲さんは母さんに似ていた。傷付いた者同士の哀しい温もりは、
「……安部?」
羽を広げた天使のような、あの人の声で、急速に冷めてしまうのであった。
「……天羽さん!」
我は慌てて桃咲さんを引き離す。しかし、既にあの人の姿は無かった。
早く追いかけないと……!
「待って! 私は? ……私の気持ちはどうなるの?」
「それは……」
「行かないでよ! お願いだから! ……責めて、今晩だけは……!」
桃咲さんは我の腕を掴み、体を密着させてきた。三十二年間恋愛未経験の我が、自分と密着した女の体に理性を失わない訳がない。
「お願い、安部晴明……」
我が必死なら彼女も必死だったのだ。誘惑でも何でも……とにかく我を引き留めたい一心で……。
応えてやりたいと思った。我と同じ苦しみを持つ彼女を守りたい。……そんなことを思った。
だが。
「……陰陽師奥義、感触無視!」
一瞬にして、我と世界が遮断される。感触どころか味覚や嗅覚、痛覚などなど、視覚と聴覚以外の全ての感覚が消える。
麻酔のようなものだ。蚊に刺された後のかゆみのようにジワリジワリとしみ込んでいた快感も、全身にレモン汁を注いだような錯覚によって一瞬で消えていく。
だが、この力……。メリットばかりではない。地面に立っている感触さえ無い。まるで幽霊だ。あの人にだけ未練を残し、みっともなく生きている……。
「桃咲さん、すまぬ。もしここで我がお主を選んだとしても、それはきっと偽りだから……。だからこそ、我はお主を選べぬ」
再び彼女を体から離し、我は言った。そんな言葉で説得出来るとは思っていなかったが、思いのほか桃咲さんは素直に頷いてくれた。
「……分かった。ごめんね、我儘言うような私で……。でも私……諦めないから」
「……すまぬ」
今の我には、これしか言えなかった。
走って走って走り続けて……。
辿り着いたのは、久遠とあの人が話していた川沿いのベンチ。あの人は一人、川のほとりでたたずんでいた。
その後ろ姿に、我は飛び立つ前の天使を重ねた。……さっきは呼べた、彼女の名前。だが今は、欠片も思い出せない。
「……安部」
振り向いた彼女は、複雑そうな顔をしながら我の名を呼んだ。
車の音、川の流れる音、風の音、どこかの誰かの話声……。
遠くの方で、微かに聞こえる。いつか死んで下界を眺める時がきたとしたら、きっとこんな疎外感を持つに違いない。
今、この世界で、ここだけが特別な場所。我とあの人の……距離の遠さをひしひしと感じさせるサンクチュアリ。
我らは無言で、互いを見ていた。……セパタクローの試合の次に真剣な面持ちで。
先に沈黙を破ったのは我であった。
「……放課後、久遠とこの辺りにいたな」
「うん。……実はね、あの時、久遠君に告白されたの……」
心臓が何者かに握りつぶされるようだった。だが我は、恐る恐る次の質問をする。せずにいられなかった。
「……それで、どういう返事をしたのだ?」
そこでOKしたと言われれば我の心は血の色に染まっていたであろうが、彼女は首を横に振った。
「返事はまだしていないの。……まだ保留中」
「どうして?」
我が聞くと、彼女は少しだけ間を空けて、目を閉じて静かにまた首を横に振る。
「……あのね、私は恋をしてはいけないの」
その時の彼女の目には涙が浮かんでいた。暗くてもはっきり分かる。それは……。
運命にあらがう時に流れる涙だ。
例えばどんなに努力してもライバルに及ばない凡人が、例えば大切な人を失った誰かが、そして例えば、納豆を練り過ぎてなんか粘々が強過ぎるちょっと気持ち悪い変なのが出来た時の我が。
変わらない運命を、それでも変えたくて流す、神にすがる哀しき人間の涙……。
「……どうして恋をしてはならんのだ。一体何が……」
「私以外には、分からないかも知れないね」
もう一つの人格が覚醒した、訳ではなかった。なのに彼女の言葉には棘と冷たさと、そして圧倒的な寂しさが含まれていた。
「貴方は知っている? 大切な何かを失う哀しさが。今までの私の全てが、ある日突然ある日突然、残酷な運命を映し出すの。……失いたくないけど失ってしまう。そんな理不尽を、私以外の誰にも感じて欲しくないから……」
我から見た彼女の後ろには、月が光っていた。……幻想的で美しいはずなのに、どこか切ない。
「かぐや姫は幸せ者。だって、ちゃんと月に帰る場所があるんだから……」
彼女はそれ以上のことは語らなかった。ただの友達でしかない我が、彼女の境遇を知るよしなどあるはずもなかった。
きっとあれだ、友達が事故で亡くなったとか何かそんな事情があるに違いない……。我は、そんな彼女をどうやって支えれば良いのだろうか。
◇
「安部晴明ぃ!」
あれから数日が経った。
あの夜、一人になった途端に後悔した。あの人と話せたのは嬉しかったし、きっと彼女の中での我の好感度もアップアップ! 間違いないのだが、桃咲さんの気持ちを踏みにじってしまったのもまた事実である。罪の意識がはびこり続け、次に会う時がとても心配だったが全然気にすることはなかったぜ。
「私、諦めてないからね! 今日もお弁当作ってきたんだよ! ほら、たっぷり睡眠薬入り弁当!」
「おぉぉぉ美味そう……って食えるか!」
「食べ物を粗末にするのはいけないよ。この弁当のために犠牲になった幾つもの命が報われないからね……。僕が食べるよ」
炎山は我の手から弁当をかっさらい、紫色のご飯を食べてトイレに駆け込んだ。
「……下剤入りと間違えてないか、お主」
「だってあの睡眠薬は安部晴明にしか効かないように出来てるもん」
「……怖ぇ」
と、そこにフラフラとあの男がやってきた。
「相変わらず愉快な連中だな、君達は」
……久遠だった。顔面、髪のつや、細さ……。悔しいがこいつは、どこを見てもIKEMENである。
「愉快とは失礼な奴だな」
「そうよ、失礼よ、あんた! ……あ、でもここは安部晴明に負けてもらって久遠君と……さんがくっつく方が私的には都合が」
何かとんでもないことを言い始める桃咲さん。アンタ、そういうことは頼むから口に出さないでくれ……。企みがバレバレ過ぎる。
威勢だけは久遠に負けられないので、とりあえず立ち上がって叫ぶことにした。
「今日は何の用だ! というか前にお前にサッカーボールを頭にぶつけて以来、我はテストで悪い点しかとれなくなったんだぞ! 誤れ! めちゃくちゃ誤れ!」
「……た、確かに早速何か間違えている気がするな。人生を誤れという新手の悪口にも聞こえる……。だが僕は誤りも謝りもしない。この前、僕は君と……さんが、夜、川沿いで話しているのを見たよ。一体どういうつもりだい? 君には桃咲さんがいるというのに」
「そうよそうよ、私がいるでしょ安部晴明!」
結局、完全に桃咲さんが敵に回ってしまった! これぞ四面楚歌。我に味方はどこにも……。
「ふ、大変だったよ……。まさか紫色のご飯に下剤が入っているなんて」
炎山が戻ってきた。
「そして何故だかあの弁当を食べてから、どうしても桃咲さんと安部をくっつけなければいけない気がして」
「睡眠薬の副作用かぁぁぁぁ!」
だが我は、どうしてもあの人を愛しなければいけないんだ……!
あの日、あの人が流した涙……神への抗いを見て、あの人を助けない訳にはいかないからな!
「安部、恋愛で僕と戦おうというのか……。君はひょっとして馬鹿なのかい?」
「馬鹿で何が悪い! あの人は泣いていた……! 下らない勝負にこだわるお主に構っている場合ではないのだ!」
「何を言っている。どんなに強がっても君の力は僕には劣る。僕だけじゃないさ。桃咲さんはピアノで全国で五本の指に入る実力を持つし、炎山君は中学の時、野球で全国大会の決勝戦まで進んだ経験を持つ。僕も炎山君ほどではないが、サッカーではかなりの成績を収めている」
……確かに、我の周囲は凄い奴だらけだ。だが……。
「君はどうだい? 陰陽師界では己の強過ぎる力の制御が出来ずに役立たず呼ばわりされ、セパタクローはそもそもチームに属せない。
野球は少しはマシのようだが、僕や炎山君には遠く及ばない。そんな凡人が……さんと結ばれるなんて夢を見ないでくれ。あの人は僕のような天才にこそふさわしいんだから」
久遠は顔に似合わずゴツイ掌を見せ、去っていった。……彼が教室を出た後も、我はその場に立ち尽くしていた。
「……酷いわアイツ! 何が天才よ! 安部晴明、アイツのいうことなんか聞いちゃ駄目だよ!」
「そうだよ……。君には君にしか出来ないことがある。……金子みすゞの詩を知っているだろう?」
さっきまで向こう側にいたはずの二人が、何か都合よく我の味方になっていた。
だが……久遠の言うことは間違っていない気がした。絶世の美女と我では……確かに釣り合わない。
炎山は我の顔を見て、少し心配そうな表情で言った。
「……知っているかい? 久遠君は家もあまり裕福ではなく、小さい頃は勉強でもスポーツでも負けてばかりだった。だが彼は、努力を怠らなかった。
他の子供が遊んでいる時間、彼はただ一人、戦い続けてきたんだ。彼がやや自信過剰なのは、そういう経緯があるからさ。
だが、子供にとっての遊ぶ時間というのは、同時に学ぶ時間でもある。君は決して彼に劣っていない。彼にはない経験を沢山持っているからさ」
「……その理屈でいくと、同い年の人間は全員同じ価値になってしまうんじゃないのか?」
「その通りさ。……優劣なんて存在しない。長所と短所が皆バラバラなだけさ……」
炎山らしい、無垢で純粋な考えだと思った。だが……。
おかしなことを言うようだが、優劣が無いとしても、我は久遠より優れていなければならない。……それが、ライバルというものだろう。
朝起きると、一人暮らしの家なのにキッチンで桃咲さんが料理をしていた。
「ぎゃああああああああああああああああ!」
「どうしたの?」
きょとんとこちらを見つめる桃咲さん。
「どうしたのじゃねーよ……」
一体こいつはどうやって玄関の陰陽師ロックを解いたのだろうか……。
「あ、そうだ。私、安部晴明に言わなきゃいけない大事なことがあるの」
「大事なこと?」
好きとかプロポーズは結構日常茶飯事だが……。
「私、ピアノを止めて野球部のマネージャーになることにしたの! てへ」
……そうなんだ~。ピアノを止めて……ん? ピアノを止めて? 止める? ピアノ?
「なんだとおおおおおおおおおおおおお!」
桃咲さんのピアノの腕は国際的なレベルだったはずだ。それなのに止めるなんて、一体何が……。
「何でだ! お主は一体どういうつもりなのだ!」
「え? ……怒ってるの?」
再びきょとんとこちらを見つめる桃咲さん。何と言うか、あまりにもピアノへの未練が無さ過ぎる。
「……何と言うか、それではピアノを本気でやっている者に対してあまりにも失礼ではないか?」
「そう?」
……その態度から分かった。彼女は、ピアノに全力は注いでいなかったということ。
それでいて優秀な成績を収める桃咲さんはつまり……本物の天才という奴か。
勝者は時として、少なからず敗者の人生を狂わせる。だが、当の勝者自身は……そのことに目をつむっているか、気付いていない場合も多い。
「私ね、実はピアノをやっていたのにも目的があったんだけど、ピアノじゃその目的が達成されないことが分かった。でもね、野球部のマネージャーになったら、きっとその目的に一歩近づけるから……」
……まあ、あまり個人のことに首を突っ込むべきではないか。我だって野球で不可能なことが他のことで可能になるなら野球を捨て……られないから掛け持ちで色々なことをやっているんだった。
しかし、野球部のマネージャーということは、我とともに甲子園を目指すという訳で……。
「頑張ろうね、安部晴明!」
「……お、おう」
桃咲さんが傍にいては、あの人と我が結ばれる可能性は極端に下がる。……ような気がする。対策を考えないと、我の恋愛は……壊れてしまう気がするのだ。
玄関を開けると、そこには炎山が立っていた。
「うおおおおおおおおお! 陰陽師ビーム!」
思わず撃ってしまった必殺技を、炎山は雄々しく構えた両腕で受け止めた。動じないその姿、まるで山の如し。
「今日はビルを崩さなくて済んだね……」
「お前、何者なんだ」
「いや、睡眠薬入り弁当を食べてから、謎の能力に目覚めてしまってね……」
あの弁当を用意した桃咲さんが怖い。
何だか安定の三人組みたいになってしまった我と桃咲さんと炎山。数分後には忘れてしまうような話をしながら学校へ。
今日も多分、特に何もないだろうな~。
そんなこんなでホームルームの時間を迎えた……のだが、何故か担任の先生が来ない。
「どうしたんだ」
「忘れてるのかな」
「なんか、さっき職員室を見たけどいなかったよ?」
教室中がざわめきに包まれる。声は凝縮され、まとわりつく蛾のように耳に障る。だが、確かにウチの担任がいないなんて珍しいな……。
「はーい、静かに」
教室に入ってきたのは、担任……ではなかった。
早乙女監督……。我々の、野球部の監督だ。
「な、何故お主がここに現れるのだ!」
「あら、今日から私がこのクラスの担任になるのよ。早く席に着かないとシバくわよ?」
最後の台詞はウィンク混じりである。その行為自体もすごいが、それが何故か見る側が違和感無く受け入れることが出来るのもすごい。
「……という訳で、今日からアナタ達の担任になる早乙女リンネでーす! よろしくねー、みんな」
「炎山、あの監督は幾つであろうか」
「え? 確か……君よりは上だと」
「な、何だってえええええ!」
ということは……十七歳以上ってことじゃないかああああああああ!
「三十二歳以上の間違いだろう! サバを読むな安部!」
心の中でサバをよんだのに何故か久遠にばれている。ま、まさかあいつは……!
エスパーかあああああああああ!
「安部くん、そろそろ静かにしないと再起不能にするわよ?」
単に無意識に口に出していただけだった。
「ところで監督。何故、このクラスの担任になろうと思ったのだ? 時期的にあまりにも急だと思うのだが」
放課後、部活に行く前に聞いてみた。
「田中先生が妊娠しちゃってね」
「田中先生は男性です」
「嘘嘘。実は学校がちょっとしたスキャンダルを抱えてて」
「三百円事件は解決したはずでは」
「真面目に言うとね……」
早乙女監督は、全く真面目ではなさそうな軽い口調のままで言った。
「私ね、こう見えて結構デキる女でね、教員免許以外にも、メンタルケア関係の資格とかも持ってるのよ。だからこう、君達の心のケアをだね……」
心のケア……? このクラスだけ特別に? 理由がないはずだが。
「……ごめんね。喋りすぎちゃった」
監督はそう言うと、何だか疲れた様子で教室を去っていった。
「あ、そーだ」
「戻ってくるのかよ」
「安部くん、他校と練習試合とかしてみたくない?」
予想外の言葉に、我はとりあえず唾を飲んだ。
「練習試合を組みたい人!」
監督が声高らかに叫んだ。担任として教室にいた時よりも表情が活き活きしているのは何故だろう。女とは言え、この監督も野球に特別な思い入れがあるのだろう。
「はーい! したいでーす!」
榎本と炎山覗く男共全員が答える。我も含む訳だが、何と言うか全員馬鹿である。
「よし、するわよ!」
「やだー、するだなんて監督、大胆」
「シバくわよ安部!」
「監督にシバかれるのもそれはそれで……いや、マジで半年くらい入院しそうだからやっぱ無理」
「甘いな、安部!」
大国天先輩が言った。
「ワイは例え三年入院しようとも、喜んで監督にSMプレイを申し込むぞ!」
「うおおお先輩、アンタこそ漢……!」
「シバくって言ってんのよ! それに私はMじゃ!」
……大胆なカミングアウトに五秒ほど全員が黙り込んだが、
「我は思う! 今話すべきはそういう話ではないのではないかと!」
我は格好良く言った。
「いやアンタのせいでこういう話になったのよ!」
性癖まで発表しろとは言っていないが。
「……えーと、話を元に戻します。練習試合の相手は花梨桃学園。去年までは弱小校だったけど、何故か突然強くなった高校よ。多分、去年の一年生が当たりだったんでしょうね」
去年の一年生ということは、今年の二年生。我と同級生だ。補足しておくと我と炎山以外の二年生野球部員が極端に少ないのは、強くなった花梨桃学園に皆が転校してしまったことが原因である。
「うちも今年は当たりくじを引きまくったから戦力は整っているわ。でも、選手の層があまりにも薄過ぎる。あと経験不足」
「つまり圧倒的不利ということであるな」
「安部くん、シバくわよ?」
鋭い眼光が素敵な早乙女監督ちゃん。どこがMなんだ。
「言っておくけど、確かにウチと花梨桃との試合となると、ウチの圧倒的不利は覆せない事実だわ」
「我の言ったことは正しいではないか!」
「けどね、不利と負けは違うの。不利なのはむしろ武器。この試合、向こうは絶対にウチを舐めてかかる。……つまり、レギュラーが出ない可能性が高い」
確かにそうだ。勝つ必要のない練習試合は、控えのテストに丁度良い。
「だから目標は、圧倒的大差でレギュラーを引きずりだす! そして勝つ! 良いわね?」
「おー!」
いや、「おー」じゃねー!
「それって、舐められっぱなしの方が良いのではないか? 来月の公式戦で本気を出されては困る」
「まあまあ。私にも色々と考えがあんのよ。それに、花梨桃には彼がいるから……」
「誰だ彼って! 監督、アンタは私情を野球部に」
「シバくわよ安部! 彼って言っても別に恋人じゃねーよ!」
もう、いっそシバいてくれ。
「それじゃあ、後は自由に練習! 明日の練習試合に向けて頑張って!」
……おう。……って、あれ?
「明日だとおおおおおおおおおお!」
そして翌日。
「……くそう、一日ってこんなに早かったっけか……」
「どうしたの?」
何やかんやでマネージャーが板についてきた桃咲さんが声をかけてくれた。
「いや……何だか、昨日から今までの約半日が、文章たった一行分くらいの価値しか無かったような気がして……」
「大丈夫よ。安倍晴明はしっかり休んだんだから、きっとあの半日はダイヤモンドよりも価値があると思うよ!
テレビを見ていたけどつまらないから風呂に入って、何かモヤモヤというかムラムラというか何かそんなんなって一人暴走モードしてたから大丈夫! いぇい!」
我は目を潤ませる。うう、桃咲さん……アンタという人は……!
「何故、我の昨夜の動向を全て把握しているんだああああああああああ!」
「え? 隠しカメラに気付いてなかったの?」
……桃咲さんが怖い。
「ちなみに今日は安部晴明の朝ご飯におまじないをしたから、安部晴明のバットもきっと絶好調だよ!」
「我のバットって何だあああああああ」
「え、野球で使う道具だけど……? ご飯にいりこを混ぜたから、安定したスイングが出来るよってことよ」
「え」
……何だか、とんでもなく恥ずかしい勘違いをしてしまったような気がする。
「全員集まった? それじゃあバスに乗るわよー」
少人数だから、数えなくても大体分かる。
「ちなみに運転は私だけど気にしないでねー」
「監督ぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!?」
「大丈夫、普通の免許持ってるから!」
「普通じゃ駄目だろおおおおおおおおおおおおおおおお!」
冗談だと思って漫才のようなノリで突っ込んでいたら、この人本当に出発しやがった。
いや、大丈夫なはずだ。監督は何やかんやで色んなこと出来るし、熊と戦ったとか地雷原を無傷で走り抜けたとかいう武勇伝があるし、メンタルケア関連の資格とか色々持っているし、多分実は大型二種免許くらい持っていたり……。
「いやあああ! バスって案外やばいわよおおおおおおお!」
バスは何故か学校前の崖から落ちた。いや、ハンドルで曲がることくらい、幼稚園児でも知ってることだろ!
バスは真っ逆さまに落ちていき、
「こうなったら、陰陽師ワープ!」
どこかのグラウンドに停まった。ベンチには野球のユニフォームを着た男達が沢山いて、もう一台、バスが止まっていた。
「……い、一体何があったの? 私の運転技術のタマモノ? キャー!」
キャー! じゃないだろ。それよりもここは一体……。
「……おお、早乙女さん! どうなさったのですか亜空間から登場とは!」
早乙女……? 監督の知り合いか?
「え……? あ、ビクトル監督! みんな、花梨桃学園の監督に挨拶しなさい!」
「……ということは、上手く目的地に運べたということか」
我の陰陽師奥義もまだまだ捨てたものではないな。ハッハハ……。
「おい、そこの腐れ陰陽師」
何か無礼な言葉が後ろから飛んできた。
「何奴! 腹を切る覚悟は出来ておるのだろうな!」
あれ、平安時代ってまだ武士がいたかいないか際どいけど、まあ和風だからいいか。
「腹を切るのはテメーの方だよ。……つーか安部。お前、俺の顔をよく見ろ」
……我を知っている、だと? 振り返ると、
「ああああ! 何故お主がここに!」
「……よう、安部晴明。久しぶりだな」
三年前に我を裏切った男が、そこにいた……。
三年前……。
安部晴明、二十九歳。人生二度目の中学二年生。
「よーし、今日も野球部頑張るのだ!」
翌日。
「よーし、今日もセパタクロー頑張るのだ!」
「安定しないな、お前」
狩崎透は、我を馬鹿にするように言った。
「うるせー! 我は両方に命を懸けているのだ!」
「中途半端な奴だな!」
「両方極めたら完璧だろうが!」
狩崎は笑いながら溜息をつくと、我の顔をあろうことか殴りかかってきた。
「ぬおおおお!?」
防御が間に合わない。狩崎の拳は、我の目の前、ぶつかる寸前というところで止まっていた。
「その反射神経じゃ、どっちも中途半端で終わっちまうぜ。……けど、多くのスポーツには共通点が多いからな。逆に言えば、野球にもセパタクローにも使える効率の良い練習法もある」
「なるほど。お前、ツンデレか!」
「ち、違ぇわ!」
平和だった。狩崎はリトルリーグを制覇したこともある天才野球少年で、その野球センスは、今思えば炎山に勝るとも劣らないものだった。
だが、あいつはある日突然いなくなった。一枚の手紙を残して……。
――龍安中学野球部の皆さまへ。
馬鹿うんこ。
追伸。部室に爆弾を仕掛けておきました。
ちなみに龍安中学野球部は、高校とは違って人数も実力もスケールもベラボーにベラボーな名門野球部である。
「いや、あいつ馬鹿だったんだなー。爆弾って笑えない冗談だ。ところでさっきから秘密用具箱からカチカチと音が」
爆発する瞬間に陰陽師バリアを貼ったからよかったものの、あのまま放っておけば、野球部の共通財産であるイヤラシイ本が沢山入れられた秘密用具箱が吹っ飛んでしまうところだった。
だが、悲劇はそれだけでは済まなかった。
そして現在。練習試合の相手、花梨桃学園には、あいつが……狩崎透がいたのだ……。
「狩崎……」
「そうカリカリすんなよ。言いたいことがあるのはお互い様だ」
「言いたいことを我慢するのはよくないと思うが」
「なら、言えよ」
狩崎は涼しい顔をしていた。その顔は、あの頃と何ら変わらない。
……今こそ、溜めこんだ怒りをぶつける時!
「狩崎! お主は、お主だけは……許さん!」
あの時のこと……今でも忘れない……!
「お主、あの時……ちゃっかり秘密用具箱の中のイヤラシイ本を全部持っていっただろ! そのせいで我がどれだけ傷付いたか分かっているのか!」
「いやお前もういい歳だろ! 自分で買うなり借りるなりしろよ!」
「アンタね、歳を取ると逆にああいうの難しいのよ! 誰に顔を見られる訳でもないのに何故か羞恥と情けなさが心の奥から溢れ出してきて……」
「早乙女監督! まさか、こんなところで味方が出来るとは!」
「若い味方がいるからこそ、情けなさを感じずにただあの頃を思い出しながら堕ちていけるのよ! 安部くん! 私には理解出来るわよ!」
何と言うか一番理解してはいけない人が理解している気がするが、まあいいか。
「で、お前の言いたいこととは何ぞや!」
「クソ、何か調子が狂うが……。俺はな、昔からお前の中途半端さが嫌いだった。
セパタクローと陰陽師と野球を全てこなそうとするお前の態度が、真剣に野球のみを極めようとする俺を馬鹿にしているようにしか思えなかった。
何故、あの時俺が龍安中学を出たか分かるか……? 半端者のお前がいたからだよ!」
「うおおお! 絶対許さん!」
我ながら扱われ易い人間だと思いつつも、怒らずにはいられなかった。何故我のやっていることはこれほどまでに認められない! どれか一つを選ぶなど、妥協案に過ぎないはずなのに……!
そうこうしているうちに何かプレイボールしてました。
先攻は我らが龍安高校だ。一番バッターの大国天先輩が打席に向かう。普段はパッとしない先輩だが、野球においては器用貧乏、もといオールマイティのパーフェクト選手である。
リトルリーグ制覇とはいえ、狩崎の実績は過去の栄光に過ぎない。先輩なら打てる……かも知れない。
「大国天先輩、頑張って下さい!」
「ワイの出番やな……。お手並み拝見といくか……」
監督は不安そうな面持ちで、先輩の後ろ姿を見ていた。
そんな監督の背中に向かって、我は何となく聞いてみる。
「監督は知っていたんですか? 狩崎と龍安中学のこと」
監督は首から上だけをこちらに向け……ようとして何か痛そうな声をあげた後、結局体全体をこちらに向けて言った。
「……ええ。うちの野球部は龍安中学から名門高校に進学出来なかった選手が多いから、彼も、いつか乗り越えなければならない壁だと思っていたのよ。
それに、狩崎透は転校以降、一度も試合に出ていないの。情報不足だったから、今日確かめたかった」
向こうの先発は狩崎。……あれ?
「か、監督? 向こうは控」
「ちょっと来て」
乱暴に首元を掴まれる。そのまま我は何故か監督に引っ張られ、男子トイレに連れ込まれた。入っていたおじさんが「キャー」と悲鳴を上げた。
おじさんの存在は予想外だったのか顔を赤らめて目を逸らす監督の顔を見ていると何だか鼓動が高鳴る。これは……まさか、新たな恋? というか恐怖か。
「監督、我は正直言って監督でも十分いけるが、このシチュエーションは」
「シバくわよ! 他のみんなにはあまり聞かせたくない話だから、二人きりになれる場所まで連れてきただけよ!
いい? 昨日の時点で私が言ったこと……つまり花梨桃が控えメンバーで来るっていうのは……嘘」
「嘘ぉ!?」
「嘘」
「嘘?」
「嘘。だから、控えじゃないってこと」
控えではない、ということはレギュラーメンバーということになる。……狩崎がいた時点で、我には見当がついていたが。
「全部員たった九人の高校にレギュラーメンバーとは、どういうことであろうか」
「……狩崎君の要望よ。花梨桃のビクトル監督の話だと、彼はやたらとアンタのことを意識していたみたい」
「BL好きの早乙女監督にはたまらないでしょう」
「んー、私ね、あんまりじれったく前置きがあるのよりも、さっさと本番をやる系の方が……って何言わすのよ!」
いやいやいや絶対勝手に言ったのに。
「まあ、とにかく向こうはベストメンバーでこの試合に臨んでいます。けど、ウチの選手はほぼ全員が、向こうは控えメンバーだと誤解しています。こういう時はどうすればいいでしょうか」
「本当のことを教えるのが妥当ではないか」
「アホ!」
我、実はとってもデリケートなのに……。例えるならシャボン玉くらい……洗剤とか混ざってないやつ……。
そんな傷だらけの我を置いて、話は監督ペースで進んでいく。
「いい? 戦いにおいて最も重要なのは心。どんなに劣勢でも、気持ちが相手を上回っていたら勝敗は五分五分よ。
この試合で重要なのはモチベーション。私がどれだけチームの気持ちをコントロール出来るかにかかってる」
「そうですね」
「もしも今、相手がベストメンバーだって皆に報告したらどうなる?」
……あ。
「つまり、この勘違いは利用出来る勘違いなのよ。本当のことをどのタイミングで言うか。この試合は、いわばムードとの勝負よ!」
「で、どうしてそれを我に?」
我が言うと、監督は呆れながら我に蹴りかかってきた。
「どアホ! アンタはキャプテンでしょうが!」
試合中、選手に暴力をふるう監督って……まあいいか。
……利用出来る勘違い。真実と嘘を使い分ける……。運命を操る神様だって、案外忙しいのかも知れない。
監督とトイレから戻ってきた時、大国天先輩は三振していた。
「えええええええ」
「仕方ないやろ! 控えのはずやのに何かクソ強ぇんや、アイツ」
狩崎……。しばらく表舞台に姿を見せていなかったらしいが、やはり実力は半端ではないということか……。
大国天先輩はしばらく落ちこんでいたが、やがて顔を上げ、うわ言のように言いだした。
「せやけど収穫はあるで。あいつ、ストレートを投げんかった。遅いフォークに速いフォーク、そして揺れる球」
「何でそれを二番バッターが空振りする前に言わなかったのよ!」
監督が先輩の耳たぶを掴んで言う。
「いや、神風にはちゃんと伝えた。ただ、球種は他にもあるはずや。まだどれかに絞る段階ちゃうやろ。……で、気になるのは最後の球や。揺れた……というか、ずれたというか」
「揺れた?ナックルじゃないんですか?」
「いや、ちゃうな。一瞬ストレートかと思うたくらいや」
ナックルとは現代の魔球である。ボールがほとんど回転せず、そのせいでボールが揺れながら落ちるという厄介な球である。
……ただ、遅い。直球とナックルを間違えるなんて、小学生くらいだ。
「ツーシームじゃないかしら」
監督の言葉に、大国天先輩がうなずく。
「ああ、おそらくそうや。せやけどかなり速かった。フォーシームが約五キロ増とすれば……炎山ほどやないけど、かなりのスピードがあるはずや」
「ところでツーシームとは何であるか?」
「……安部くん、アンタ、ホントに野球部員?」
監督の説明によると、ツーシームとはストレートと変化球の中間のような球で、少しだけスピードが落ちるがボールが微妙に動くという厄介な球である。
正直、変化球もストレートも全部厄介である。というか野球が厄介である。いや、人生が厄介である。
今日はやけ酒だな……。我は未成年ではないのである。
「しっかし、ツーシームを知らないとは……。ウチの野球部の経験不足は深刻ね」
「一年中心ですから仕方ありません」
「安部くんも大国天くんも上級生なんだから、しっかりしなさい!」
先輩はとばっちりである。
「……ツーシーム、か」
やはり、相当の実力者か。炎山と狩崎……。おそらく、この試合は投手戦になるだろう。
早くも五回の裏。そしてチェンジ。
「炎山の投球は安心して見れるな」
「……そうか」
炎山は少しだけ疲れた様子だった。……機嫌が悪いようにも見える。
「……安部晴明。君は監督に何か聞いたかい?」
「へ?」
控えというのは嘘……というのは、このタイミングでは言わない方がいいだろう。しかし……。
「安部晴明。あの打者達の気迫はどうしても控えとは思えないんだけど……」
「あ、ああ、まあ」
「……本当のことを言う気が無いならいいよ。君に聞いたのが間違いだった」
炎山はそう言うと、早歩きでベンチへと戻っていった。
六回表。バッターは四番。……我の出番だ。
「何やかんやで三打席目だ。そろそろ打たせてもらうぞよ」
「威勢だけは良いな。だが、俺は今までヒットを一つも許していない。この実力差にいい加減気付かないのか?」
……確かに強いが、四球や死球、そろそろ球が読めてきたところだ。
奴の球種はほぼ分かった。早い直球と曲がる直球、スローカーブに緩急を使い分けたフォーク。時々異常に遅いスローボールをボールゾーンに投げてくる。
変化やコースよりもスピードの差を重視した投球。つまりそれは、何も考えずに球さえ見ていればいいということ!
◇
安部は、第一球をフルスイング。ストライクど真ん中。四番バッター安部なら確実にホームランに出来るはずの球であった。
しかし、何も考えないと宣言していた安部は、無意識に頭の中で球種を絞ろうとしていた。
この試合、龍安高校の中に一球目から打ちにいった打者はいない。だから狩崎は、一球目は狙われていない、安全だということを頭のどこかで学んでしまっていたはずだ。
嫌でもストライクに投げてくる!
だが、例外を用意していたのは安部だけではなかった。
狩崎は、今までボールゾーンにしか投げなかったスローボールをど真ん中に投げたのである。スローカーブよりも数段遅い球。ストレートからスローカーブまで、どんな球種でも合わせる気でいた安部は、まさかの伏兵に不意を突かれたのである。
「なん……だと」
「甘いよ安部。お前の考えは単純過ぎる。不意を突くのも裏をかくのも簡単だ。問題は、それが通用するものかどうかということだ」
「スローボールくらいで調子に乗るではない!」
今度は外さない。ターゲットをストレートからスローボールまでに拡張する。これで、どんな球が来ても打てる。
だが、打つことしか考えていなかった安部のバットは、内角低めのボール球に手が出てしまう。
「単純過ぎる。あのスローボールがたった一つのストライクを取るための球だとでも思ったのか? あれは挑発だ。お前の打つ気を最大にまで引き上げるためのな!」
「くそ、ツーストライクか……」
もしここで三振してしまったら、いい加減にこの相手が控えではないことが悟られかねない。アウトになるとしても、ライナーや特大フライで惜しいところを見せないとまずい……!
「宣言しよう。次の球は直球だ」
直球……となると、速いか曲がるかの二択。いや、スローボールは直球に入るのだろうか。コースは? 真ん中? 外? 内? ボール? そもそも狩崎は本当に直球を投げてくるのか?
迷っているうちに、狩崎は投球モーションに入る。狩崎の手から放たれたボールは風を纏い、弾丸のように向かってくる。変化球やスローボールではない。ツーシーム……でもない!
迷いなく振り抜いたバットは、鈍い音をたてた。
「……ファールか……」
安部は集中していた。まるで、銭湯で男湯から女湯の声が聞こえてきた時の中高生のように……。
だが、集中しているのは安部に限ったことではなかった。狩崎もまた、安部を打ち取るために思考を駆け巡らせていた。
(……やはり、ストレートだけ随分と力強く振ってくる。狙っているのか……?)
第四球目。同じタイミングで、二人は決意した。
この球を客席まで運ぶ。
この球で三振を奪う。
何にせよ、この球で決めると。
狩崎の体が、この一瞬だけはボールを投げる為の機械になる。炎山ほどの直球は投げられないが、彼の武器はむしろ、思考とコントロールの精密さだった。
飛んでくるボールを見て、安部は確信する。変化球でもツーシームでもない。……これは、内角寄りのストレートであると。
結論から言えば、その確信は外れだった。その状況の変化にさえ対応できるのが一流。狩崎は望んだ。彼が……安部こそが、一流の打者であると。
だが、安部の反射神経は既に全盛期を過ぎ、衰えつつある。忘れてはならない。彼は三十二歳である。
プロフェッショナルではない平凡な陰陽師が、この球に反応できるはずも無かった。
高速スライダー。狩崎透がこの球を投げられるということさえ、龍安高校には予想外の事態だった。
「我が……三振……」
「分かり易過ぎる。お前の頭じゃ、俺には勝てねぇ」
勝ったはずの狩崎の表情は笑って……いなかった。
険しい表情の先には、何かが隠されている気がした。
◇
「……三振。しかもこれで三打席連続無安打。さらに狩崎投手はノーヒットノーラン継続中。……これが、どういう意味を表しているかはもう皆気付いている」
炎山は珍しく苛立った口調だった。
「安部晴明。そして早乙女監督。本当のことを、そろそろ言ってもらえますか?」
「控えじゃなくてレギュラーでぇす。てへ」
早乙女監督が言う。その後、誰も口を開くことはなかった。
我の三振で、この回はスリーアウト。チェンジである。
炎山は静かにマウンドに向かうと、珍しく深い溜息をついた。
「……正直、レギュラー相手に僕がどれだけ抑えられるか分からない。それに……肩がね。手加減して投げていたのに少しだけ痛むんだ」
我は理解しているつもりだ。炎山は細かいプレイよりも、豪快な投球と熱意で相手をねじ伏せるタイプの投手。そして、そんな炎山が全力を出せない状況、それは……。
テスト中に全ての鉛筆の芯が折れ、シャーペンが詰まった時並のピンチだ。
「……我々を信じろ。例え球が後ろに飛んでも、我らが止めてみせる」
「後ろになんて飛ばさないよ。……相手がレギュラー。それはつまり、僕が本気を出しても良いということだからね」
炎山の目が、獅子のように光った。
だが。我々に降りかかるピンチは、甘くはなかった。
炎山は一番打者に四球を与えてしまう。続く二番打者のバントによりランナーが二塁に進むと、三番打者の大きなライトフライでランナーは更に進塁。ツーアウト三塁で四番打者と対決することになってしまった。
「前の打席から気になってはいたんだが……写楽か、君」
「おうよ。ようやく気付きやがったな。中学以来だっけか? お前が怪我してから、どうなることかと思ったが……。まさか、復活しているとは思わんかったぜ」
「君に僕の球を打つことは不可能だよ」
「十割打者に言うことか? 今のオレは昔のオレじゃないからな。……ここが地獄ぞ、炎山猛」
どうやら旧知の仲らしい二人。状況からして、打者……写楽という男の若干の有利だが、炎山と捕手の白凰はどう切り抜けるつもりだろうか。
頼むから、失点だけは……。
一球目。内角低めのストレート。
写楽はバットをひょろっと振り、空振り。炎山からしてみれば、馬鹿にされたような気分だろう。
「……そのスイングは何だ。馬鹿にしているのか?」
「まさかな。タイミングを計っただけだ」
写楽のその言葉は、言い訳じみた言葉にも聞こえたが……。
確かにタイミングは合っていた。
「これは……脅しね。あのスイングで下手に当たればほぼ凡打決定。つまり、あのバッターには最初から当たらないことが分かっていたのよ」
監督は我にメッセージを送る。監督に超能力がある訳ではない。帽子を両手で触る監督のサインを受け、我が心読をしているのだ。
神妙な顔だった。凛々しい。だから思わず言ってしまった。
「我も己のバットが監督には使えないことくらい分かっていますよ」
我は陰陽師メール送信術で、思いを監督の心に送る。
殴るわよ! これは心読ではなく、ジェスチャーである。
などと我らがコントをしているうちに、カウントはいつの間にやらスリーボールツーストライク。
背中を預けられているのに緊張感の無い自分をちょっと反省する。
追い込まれたのは写楽か、炎山か……。
「炎山。お前の球は確かに速い。だが、それだけだ。コントロールも変化球も、配球も狩崎には及ばねぇ!」
「……なら僕は、速いだけの直球で君を打ち取る」
「へ。球種をばらしたのは駆け引きに持ち込みたいからか? ……来い!」
炎山は、速球をど真ん中に投げ込んだ。
――速い。
今まで見た炎山の球の中では最速かも知れない。
だがそれを、写楽のバットは逃すことなく真芯で捉え、
聞き慣れない鈍い音が響く。バットでボールを打った音……か?
……確かにその通りだ。だが、普通ではない。バットが、
「馬鹿な!」
「嘘!?」
「何て球威なんだ!」
「へこんでいるだと……?」
バットがへこんでいる。
炎山の球が、金属で出来た強固な一振りを粉砕したというのか……!
「くそったれ。何て球投げやがる!」
我の守る一塁に走ってきながら、写楽が言う。
一方のボールはセンター前。ふわりふわりと落ちていく。
「馬鹿な、僕の最高の球を、バットをへこまされて尚、ヒットにするなんて……!」
ランナーはホームイン。……とうとう、一点を許してしまった。
次の打者は難なく三振に仕留めた炎山だったが、その表情は浮かない。
「まあ、とりかえそうぜ」
「……すまない。四球で逃げていれば良かった……」
その後悔を、我らはしばらく引きずることとなる。
狩崎の調子は崩れることなく、我々はなかなかランナーを出せずにいた。
八回表。我々は零対一で負けている。狩崎はノーヒットノーランを継続中だ。
我らはまだ、エラーやフォアボールでしかランナーを出せていない……。
「炎山、安部。一つ言ってやるわ」
大国天先輩が言った。
「レギュラーとか控えとか考えているうちはな、自分に自信がないゆーこっちゃ。誰が相手でも全身全霊で臨む。それが威圧感となり、勝利を呼び込む」
先輩の背中は、いつもより貫禄があった。
「そこで見とれ。最高にかっこいいワイの背中をな!」
◇
「雨が降り出したね。……さん、傘は要るかい?」
「……一本しか無いんでしょ? 私は濡れても良いから、久遠君が差すべきだと思う」
彼女は、少し久遠から遠ざかって歩いた。相合傘が嫌というより、雨に濡れることを楽しむような、穏やかな表情を浮かべて。
「……ねえ久遠くん。どうして今日、野球部の練習試合を見ようって言い出したの?」
彼女は知っていた。久遠と安部晴明が、自分をめぐって対立していることを。
……何故、彼はわざわざ敵に塩を送るような真似を……。
「一応、僕は自分では鈍くないタイプだと思っているんだけどな。……知っているのさ。君が、あいつに惹かれていることくらいは……」
それは、悔しそうで辛そうな、言葉に出来ない表情だった。
「コマンダー常盤君……」
「どこの陰陽師の空耳だよ、それ。……しかし、雨がキツイな。この調子じゃあ、僕たちが到着する前にコールドになるかもな……」
打順は一番の大国天先輩。
バッターボックスに向かう先輩の背中には、闘志がみなぎっている……ように見えた。
「よっしゃ一発かましたらぁ! うらこいやぁ!」
吠える先輩。並の選手なら物怖じしそうな勢いだが、狩崎は余裕の笑みを浮かべている。
「三打席あって、エラーの出塁しか出来なかった男が何を今更。宣言しよう。アンタはこの打席、三振する」
三振宣言……。狩崎の表情は、自信に満ちていた。どこか歪んだ陰が、その表情を不気味にする。
本気だ。
今の狩崎はおそらく、ダイヤモンドの近くにおいてあるベンツのある駐車場に転がっているタバコの燃えカスよりも燃えている。
一球目。狩崎が腕をしならせ、ボールを投げる。
――内角低めのストレート。……いや、ツーシームだろうか。先輩はその球を見送る。
際どいコースだが、判定はストライクだった。
「惜しいわね。審判次第ではボールだったはずよ」
監督が言う。横顔が凛々しい。おっと、試合を見なければ。
あれだけ際どい球に手を出さなかった先輩が凄いのか、それだけのコントロールを有する狩崎が凄いのか……。
何にせよ、この勝負のレベルが高いのは間違いない。
「何や、入っとるんかい今の」
先輩の目は、やや笑っていた。だが、その笑みからは気迫が感じ取れる。
我は唾を飲もうとして危うく体に封印したダークデーモンを吐きだしてしまいそうになってしまった。
「ぐ、ダークデーモンめ、我の一瞬の隙をつくとは……うぉぉああ!」
「安部晴明!? だ、大丈夫?」
桃咲さんが慌て過ぎて我の首を絞める。
「ぎゃあああああ」
「マネージャー、落ち着いて!」
数人のチームメイトが桃咲さんを止めようとして、夢中になって我を蹴り飛ばしたり踏んだり……。
◇
気付いた時、我は森の中にいた。
「……ここは天国か?」
「ようこそ、ここは君の心の中だ」
そこに現れたのは、我と同じ顔の男……。
「だ、誰なのだお主は」
「我が名は安倍晴明……。汝の名の、本来の持ち主である」
「本来の持ち主だと?」
「然り。安部晴明は汝の本来の名ではない。汝の名は……」
◇
そこで目が覚めた。
「せ、先輩、大丈夫ですか」
後輩一号の一ノ瀬が、心配そうに我に手を伸ばす。
「し、試合はどうなっておる」
「まだ大国天先輩の打席です。安部先輩は五秒くらいしか倒れていませんでしたよ」
「……そうか」
一体、さっきのは何だったのだ?
……安倍晴明……。あれは、只の夢なのであろうか。
「ぼやっとしてないで試合展開を見なさい、安部。キャプテンでしょ」
監督が言う。
あれからまだ一球も投げられていないらしく、カウントはノーボールワンストライクのままだった。
「この間は捕手の写楽君の作戦かしらね……。大国天君はせっかちな面がある。ああして時間を取ることで、苛立たせているのかも」
「……ともかく、何かが起きるであろうな」
「そうね。二人とも凄く集中してる」
狩崎の腕から、二球目が放たれる。
外角へのストレート。
さっきと同じくらいの際どいコース。
だが、大国天先輩は微動だにしない。判定はボールだ。
「……打つ気がないのか、アンタ」
「さあ、……どうやろな」
二人とも笑っている。それはどこか威圧的であり、両者とも自信を持っていることが分かる。
「……来る」
遅刻多めの無口なクールガイ榎本が、静かに呟いた。
「来るとは?」
「分からない……。ただ、この一球が、物凄く重要な役目を持ってる……。そんな様子を見た。私は」
囁くような小さな声。一人称が私というのが、怪しい占い師のように見えた。
「これで……チェックメイト!」
――三球目。狩崎の腕から一筋の白い跡が走り、消える。
さしずめ新幹線。といったところか。
「――王手や」
快音が響く。
金属バット……いや、その存在はもはや孫悟空の如意棒と同等と言っても過言ではない先輩のバットが、ボールを完璧に捉えた音だ。
「――な」
狩崎が、マウンドで硬直した。
ボールは高く、高く上がり……。
「……あれ、ちょ、これってまさか……」
ベンチがざわめく。
守備についている花梨桃高校の選手達が固まる。
そして、町をうろつく妖怪の気配が消える。
銀河をさまようどこかの星が、消えてなくなった気がした。
我の心が高ぶる高ぶる高ぶる……おっと、興奮し過ぎて狂ってしまうところだった。
スタンドへと吸い込まれていくボール。
ダイヤモンドを優雅に駆ける先輩。
「……俺の全力を……ホームランだと?」
がっくりと肩を落とす狩崎。だがその目には、先程よりも濃い陰が感じられた。
「ふざけんな……ふざけんなよ!」
動揺するグラウンドの選手達と、対象的にどんちゃん騒ぎの我らがベンチ。
「よっしゃぁぁぁぁぁ! 先輩が打ったぁぁぁ!」
「よくあんなに飛ばせるもんだにゃー」
「オレ一生あの人に着いていくっす!」
「帰ってきたら胴上げをしようではないか……と、何やら向こうの捕手と喋っておるな」
陰陽師奥義、スーパーキコエール! 聴力を一時的に有り得ないくらいあげる技だ。
「あん、駄目よアナタ……」
おっと、上げ過ぎて隣の県のカップルの声まで聞いてしまったぜ。……羨ましい。
気を取り直し……。
「……大国天さん、じゃったかのぅ。なしてウチの狩崎の切り札を、あんな簡単に打てたんじゃ?」
「何や自分、変わった喋り方しよんな」
「これが素じゃ。訛りがきついと笑われるけぇ、普段はこのように標準後で喋っていますが」
「だいぶ雰囲気変わるな。……なかなかの実力者やろ、お前」
「ささやき戦術には使えるがのぅ。今日は狩崎の為の試合じゃったけぇ口出しはせんかった。そんなことよりバッティングじゃ。打てた理由」
大国天先輩は軽く笑い、言った。
「満足そうな顔をしていた。せやからストレートが来ることは予測出来たんや。速いスライダーかとも思ったが、変化球を投げる時には、コントロールや変化量にごっつ集中力を使うみたいやから、あんなに笑うことは出来ん」
「……笑ぅたか? あいつ」
「経験不足やな、写楽君。次会う時までには、相方の表情くらいは分かるようになっとけや」
ベンチに歩いてくる先輩を待ちうけていたのは、胴上げをしようと焦って飛びかかる我らだった。
「ぎゃああああああああ! 来んなああああああ!」
「うるせぇぇぇ! 胴上げさせろおおおおおおお!」
「ちょ、待て待て! どうせならワイは監督にイイコトをしてもらいたい」
「あら、胴上げはイイコトでしょ」
甲子園で優勝したみたいな大騒ぎ。向こうの選手が呆れるまで騒ぎまくって、気付いた時には日が暮れていた。
ソロホームラン。だが、この試合初めての貴重な得点だ。狩崎のペースを乱したことも大きい。
……だが、まだ同点だ。我らが勝つためには、さらに点を取らなければならない。
ナイターが始まった。
「この月明かりに誓う。オイラこと神風虎太は、この打席でホームランを打つにゃ!」
だが、後続の選手達はあっさりと凡退。気のせいか、狩崎の球威が強くなっている気がする。
「にゃーの扱いが適当にゃ」
ツーアウト走者無し。バッターは四番の我だ。
「もう誰にも打たせないぜ。もちろんお前にもな。……安部!」
「馬鹿を抜かすでない! 我は決めるぞ。何故なら我はここの主将、そして四番であり、何より陰陽師であるからな!」
あっという間にツーストライクまで追い込まれた。
「くぅ……我としたことが、こんなに簡単に……」
「四番の分析を念入りに行うのは常識だ。お前のスタイルは全て把握済みなんだよ!」
なるほど……。というか、考えてみればウチの高校は、相手の四番写楽やエースである狩崎のことを大して調べてなかったような。
「……何ということでしょう。我はもう、ヒットを打つことさえ敵わないというのか……」
――いや、待てよ。
読まれているのは、あくまで普段の我のスタイルだけであるぞ。
「……ならば」
「何か思い付いたようだが、無駄だぜ。所詮お前の野球はアマチュア止まりなんだよ!」
我は正直、こんなやり方は苦手だ。苦手だしあまり好きではない。しかし、
チームのためには、これが最善なのだ!
ボールを見極め、バットを差し出す。……バントだ。セーフティバント。
「な、嘘だろ!? 仮にも四番がそんな……」
「固定概念に囚われるでない! 可能性を捨てない我の勝利……」
普通にアウトにされた。
「ツーストライクで四番がセーフティって……。とらえ所のない男だ、君は」
穏やかな表情で、炎山が言う。
「誉めているのであるか?」
「いや、単純にそう思っただけさ。……フルスイングで勝負しなかったこと、悔やんではいないのかい?」
「まさかな」
あの一瞬の出来事を思い返す。……確かに我のスタイルではなかった。だが……。
「策というものは、相手に読まれない為にするものであろう。あの状況でのバントが有り得ないことならば、我はその選択をするしかない」
ともあれ、延長無しの練習試合。我らの勝利は一旦お預けとなってしまった。
引き分けか逆転負けか……。いよいよ、この試合最後の戦いが始まる。
「……いよいよであるな」
1点対1点。同点のまま、試合は八回の裏を迎えた。
相手の攻撃。おそらく、この回でコールド……。負けないためには我らがこの回を無失点に抑えることが条件となる。
だが、炎山は辛そうな表情を浮かべ、肩で息をするように体を揺らしている。
「大丈夫であるか?」
「ああ……。少し、肩が疲れただけだよ……」
……炎山の肩は、一度壊れたはずであるぞ。
これ以上投げるのは、正直危険なのではないか……?
そんな我を見て軽く笑うと、炎山は自分の肩を撫でて見せる。
「そんな顔をしないでくれ。大丈夫だから、さ……」
「……そうであるか」
少し迷ったが、我は炎山の言葉を信じて自分の守備のことに頭を切り替える。
雨と暗が、視界を遮る。何故、こんな時間まで試合をやっている。何故、我らはこんなに頑張っている……?
「負けない為じゃああああああ!」
しかし、炎山は投げる前に、肩を押さえてうずくまった。
「全然大丈夫じゃねぇじゃん!」
ガビーンという効果音が口から放出されそうになってすぐに飲み込む。
「え、炎山! 大丈夫か? ガビーン! あ、結局言ってしもうた」
「安部先輩、ふざけている場合ではないでしょう! 大丈夫ですか炎山先輩!」
「……く……安部……白鳳……。僕の肩は……限界だ」
こうして炎山はそっと息を引き取り、
「死んではないんだけど……」
「な、何だと……!」
誤診……!? この我が? まさかそんな……。
「そんな三文芝居よりも、問題はこの後、誰が投手をするかですよ。うちは深刻な投手不足ですからね。というか部員もかなり少ないですけど……」
白鳳がまともな意見を言う。このようなことを言うのも何だが、こいつは色んな意味で我と出会うべきじゃなかったような気がするな。まじめそうだし。
「投手か……。なら、我が投げるぞ」
「……は?」
マウンドの周囲に集まっていた全員が、呆気にとられたような顔で我を見る。……照れるなぁ。
「君、投手の経験はあるんだっけ……?」
炎山が困惑したように言う。
「少なくとも肩は強いぞよ」
「……まあ、そう……だけど」
「だから、ゆっくりと一塁で休んでおけ」
「分かったよ」
「いや分ったらあかんて」
いかにも文句あります! と言わんばかりの態度で、大国天先輩が口を挟む。
「炎山、お前は知らんやろうけどなぁ。去年、こいつはフォアボールで三十二失点っちゅう犯罪紛いの失点をしとるんや。他の奴の方がまだアテになる」
……確かにそれは事実であるが……。だが、我は投手をするのが実は夢だったのだ。
既に四番。あとはエースになればモテモテのはずだ。
それを……邪魔しようというのかぁぁぁああああ!
「先輩……いや、邪魔者! 今日という今日は容赦せぬぞ!」
「フ……やってみろや。ワイの関西流"やで"ビームを喰らって立ち上がった男はおらへん」
こうして聖戦が始まろうとしていた。かつて、ラグナ何とかという神とか何かの戦いがあったらしいが、我らは今まさに、
「……あの、僕、投手出来ます」
囁くように、榎本が言った。
「……え」
「経験あるんです。……タマの握り方、使い方……。把握しています」
何か最後の方はちょっと(ピー)な表現だったが。
結局、投手は当たり前のように榎本が務めることになった。
我の夢……"モテモテ天使晴明くん"への夢が……遠ざかってしまった。
もはや試合とかどうでもいい……。
先頭打者が九番の狩崎とか、どうでも……。
狩崎?
「うおおおお! 最後のイニングにお主とは、何と言う数奇な運命なのだ!」
「うるせぇ! 何でただのしがないファーストが一番目立つ声で実況してんだ! 投手に喋らせてやれよ!」
「何なのだ、その何か逆に辛い気遣いは! 無口キャラが余計に定着してしまうではないか!」
「……うるさい」
と、榎本の口元が動いた瞬間、我も狩崎もパッと静かになった。榎本にはどこか、男には出せないような威圧感というか、そういったものがある。声さえ使わず我らを黙らせるとは、こやつ……やりおるな!
「……この投手なら、勝てるぞよ!」
榎本が左足を上げ、投球動作に入る。
上半身を潜り込ませるような動作から、飛び出すようにしなる右腕。
「アンダースローだと!? というかこれが初見ってことは、投球練習してないってことなんだが!?」
その細い腕から投げられた球は、一瞬、揺れた……ような気がした。
「まさか……ナックルなのか?」
しかし、次の球は極端に遅いスローボール。先程の揺れは、風と闇と雨と光と我が目の起こした錯覚だろうか。
そして、三球目。……伸びるスライダー。……って。
「クソッタレ、三振なんかしねぇよ!」
何とか当てた、という感じで、狩崎が球をファールゾーンへと運ぶ。
……驚いた。我も、おそらく狩崎や捕手の白鳳も。
「……上手いこと言えんが……全ての球が、まるで別人のもののようだ」
「ナックル、スローカーブ、高速スライダー。……読めねえ。次は一体何が来るんだ……?」
四球目……シンカー!
「いや、当てて見せる!」
狩崎がバットを振り抜く。やや詰まった、掌を軽く殴ったような音。
だが雨と暗闇のせいで守備が上手くいかず、ボールはゆっくりと三塁と遊撃手、左翼の炎山の間に落ちる。
このようなヒットのことを、テキサスヒットという。陰陽師の世界では「パッパラパー」と呼ぶが。嘘だが。
「よし……ざまぁみやがれ……!」
二塁まで進む狩崎。動揺したのか榎本のコントロールが乱れ始め、一番打者にはフォアボール。続く二番三番は凡打に仕留めたものの、
「さて……決めさせてもらうとするかねぇ」
あの男が出てきた。……これは、ピンチだ。
出てきたのは四番打者、写楽だ。
というのは実は嘘で、本当は、
――最強の忍者として名高いあの男、服部半蔵が、我らを窮地に叩きつける。
「――初めましてだな、安倍晴明」
「……なんだその目は! その目で我を見るでない!」
「フ、強がっていられるのも今のうち」
「うるさい、陰陽師ビーム!」
次回、陰陽師伝説ファルコン最終回。
「ファアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアルコオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン!」
というのはやっぱり嘘で、出てきたのはやっぱり四番打者、写楽だ。
おそらくこの打席が、この試合を決める最後の勝負になるであろう。
「……二塁三塁、か。まあ、確実にヒット狙いじゃろうな」
「打たせない」
「女みたいな奴か……。確かに球種は多いが、本当に使いこなせている球は少ない。頼みのストレートは棒球じゃ。悪いが詰んだな」
「……僕は、男だ!」
放たれる一球目。
――初球打ち!?
外野に飛んで行く打球。よく見えないが、左翼というかレフト……榎本と交替していた炎山の元へと飛んでゆく。
「……取ってくれぇぇぇ!」
「落ちろぉぉぉぉぉぉ!」
――まさかそのタイミングで強い風が吹くなんて、一体誰が想像出来ただろう。
フゥズイマァジットゥ? ……いや、なんちゃって英語なのでこうなるのも仕方が無いのである。
「……取れない……!」
ボールは地面に落下。雨のせいであまりバウンドしないボールを、炎山は素手でキャッチ。
ランナーの狩崎は三塁を回ろうとしている。このままでは、サヨナラの一点に……。
「――待て、投げるな!」
炎山が今投げたら、肩がいよいよ再起不能になってしまう!
試合の結末と仲間の肩なら、我は仲間の肩の方が大事だ。やめてくれ。投げるんじゃない。
「――負けたくないんだ。僕の腕……頼む!」
「炎……ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
矢、いや、光のような返球。ジャイロ回転が掛かっている……かも知れない。速い。
間に合うか、間に合わないか、どっちだ……!
「白鳳ぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
「狩崎ぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
「コマンダー常盤ぁぁぁぁ!」
ボールを取る白鳳。タッチしようと手を伸ばすが、狩崎がスライディングして……。
ゴツン。
そんな嫌な音が、雨によってかき消された。
陰陽師の我にだけ聞こえた。
――肉の音。
――痛々しい、生と死の音だ。
……陰陽師の我には、人の心が読めたり読めなかったり。
普段はあまり機能しないその能力が、クロスプレーが起こった瞬間、発動した!
「父さん母さん……僕は負けてしまった!」
心の中で叫ぶ狩崎。
「透、ナイスファイトだ。頑張ったな」
「父さん! ……でも僕は……」
そして、狩崎の回想が始まった。
覗き見? いやいや、能力なのだから仕方ないのである。
◇
狩崎の記憶の中。
「僕ね、将来プロ野球選手になるんだぁ」
狩崎透。当時六歳。
「頑張ってね」
「はは。透は野球上手いもんな」
彼が夢へと進んでいくのを、両親は優しく見守っていた。
狩崎透はどんどん頭角を現し小五にはリトルリーグを制覇、雑誌にもちらほら載るほどの選手になっていった。
何もかも上手くいっていた。世界が自分の為に存在していると、本気で思えるような人生だった。
だが、複雑で完璧な歯車ほど、狂った時のダメージが大きなものになる。
狩崎の人生の歯車も、この時激しく痛んでしまった。
「今日は透が休みの日だな。プロ野球の試合を見に行くか」
「透、どうする? まぁ行くに決まってるわよね」
「行くよ。楽しみだなぁ」
いつもの日常。
順風満帆だったはずの未来が、その瞬間、崩れ去った。
「――――――――――――――――――――――――」
轟音が、未来と今を絶った。
球場に向かう途中。曲がり角でトラックが車に突っ込んできたのだ。
後部座席に居た狩崎透は無事だったが、両親の出血は酷いものだった。
肉の音。紅い色。ヒトというカラクリの故障。
生。死。家族。車。道路。臭。臭臭臭臭血血血血。
「あ……あああああああ!」
血の臭いが、ゲロに上書きされていく。
透の傍に、血にまみれた真っ赤なボールが転がってきた。
家族にとってはどんな宝石よりも輝きを放っていた宝玉。……透が全国制覇した時の、ウイニングボール。
「……野球……が」
震えが止まらない。……血染めのボールを握った右手が、罪に思えた。
両親を殺してしまった。そんな錯覚。……あながち間違いではないのかも知れない。
――だって、野球が……!
「野球が……父さんと母さんを……!」
生と死の混じり合ったような、強烈な臭いが鼻を突く。
そうだ。もし野球がこの世界に無ければ。
そうすれば家族が球場に向かうことはなかった。こんな事故……起らなかったはずなのに!
「……透、大丈夫か……?」
父親が、透に手を差し伸べる。
「と、父さん。喋っちゃダメだ……」
「大丈夫そうだな……。良かった……」
それが、父親と交わした最後の会話だった。
ほどなくして、彼等は緊急搬送された。しかし父は出血が酷く、搬送中に死亡。
そして、
「……透。今まで……本当にありがとう」
母親も治療中に亡くなった。
その後、透は孤児院で二年ほどの時を過ごし、中学二年生になった時、実家に戻って一人暮らしを始めた。
だが、傷は癒えない。
心の傷を、時間が癒してくれることはなかった……。
◇
……ある日の河原。
「ここで死のう。父さん、母さん。今会いに行くよ」
絶望した彼に、死ぬことは恐怖でも何でもなかった。
むしろ、両親と再び会う唯一の手段。透は包丁を腹に刺した。
しかし、なかなか意識が遠のかない。狩崎は再び、腹に包丁を刺した。何度も、……何度も。
苦しいよ。…………僕は何故生まれたの?
覗き見中の我、号泣。
おいおいおいおい聞いてねぇぜ! 我が名は安倍晴明って、こんな悲しい小説だったっけ!
おっと、我としたことが妙なことを言ってしまった。反省しなければ。
と、そんなことはさておき。
――透は走馬灯を見た。
家族と一緒に食事に行ったこと。
ケンカして家出した時、泣きながら母が探してたこと。
初めての遊園地でジェットコースターに乗れなくてすねた日。
リトルリーグで優勝した時に初めて父さんがはしゃいでたのをみた日。
微かに機能していた目が、道行くカップルを捉えた。
……それが、若かりし両親にでも見えてしまったのだろう。
意識が朦朧としてる中、透は全身全霊の力を込めて叫んだ。
――そこから病院で目が覚めるまで、透の記憶には空白があった。
生と死の堺目。……記憶など、する暇がなかったのだろう。
「大丈夫か狩崎……」
入院した狩崎の病室に、龍安中学の監督が入ってきた。
こやつら、我を差し置いてあんなことやこんなことをしていたのか……!?
「大丈夫かって……。そんな訳無いじゃないですか。僕は病んでいる。おかしいんです」
「そんなことはない。若さとは病のようなものでな。おかしいのはお前じゃない。未熟な心が、お前の境遇についてこれていないだけだ」
「……ありがとうございます。一応、精神は大丈夫なつもりですよ。もう死のうなんて考えていませんから……。あ、それから、このことは部員のみんなには内緒にして下さい」
「分かった。……元気になったら帰ってこいよ」
「……僕は転校します。動けないエースがいつまでもいたんじゃ、チーム全体に迷惑がかかりますから。……それに僕は、安部のような打者と戦ってみたいと常々思っていました。これも良い機会かと」
「……お前のような選手を手放してしまうのは惜しいが、決意は固いようだな」
「ええ。龍安中学、いや……遅ければ高校になるかも知れませんけど、あいつらには負けませんよ」
戻れない。
エースだったからこそ、戻れない。
どうみんなに顔向けしていいのか分からない。
だからみんなとは会わない。
部室に爆弾を仕掛け、みんなのエロ本をどさくさに紛れてパクった。
ついでに犬のフンを同級生の鞄に塗り付けた。
大丈夫。同級生のオッサン陰陽師なら、何とかしてくれるさ。
サヨウナラ龍安中学。
覗き見中の我、再び号泣。
そんな我の顔を面白がるように、狩崎が笑っていた。
……ここはこいつの心の中ぞ? 自分の心の中に姿を現すとは、こいつ、只者じゃないと言いたいところだが結構普通のことだ!
「安部……」
「狩崎よ、すまないが、勝手に覗き見しちゃったゾ(ハート)」
「爆ぜろ」
怒られちゃった。テヘペロ。(CMで知ったにわかだが何か?)
「まず、謝るよ。……今まで何も言わなくて悪かった」
……予想外デース。我が謝らなければならないところを、逆に頭を下げられてしまった。
「……どうしたのだ」
「すまない。今までずっと……信じられなかったんだ。俺はあの日から、誰も信じてこなかったから」
「……自分の存在さえ、信じられなかった。だから死のうとしたんだろう」
「ああ。……居場所が無いから」
「ばかぁん!」
「な、何でオカマキャラなんだ」
狩崎は我の顔を押しのけた。痛い。顔面を掌で押されるのは結構痛い。痛いって。
「狩崎よ……我は、お前にどうしても言わなければならんことがある……」
「な、何だよ」
我は息を飲み、言った。
「……顔面を押されるのは痛いのだ!」
「知るか」
今度は蹴られた。酷いぜ、酷過ぎる……屈辱的だ!
パチン。我の中で、何かが弾けた。
「うぉおおおおおおおおおおおおお!」
「な、何! 安部の戦闘力が八万……九万……まだ上がるのか!」
「喰らえぇぇぇ破壊光線んんんんん!」
「ぐわあああああぁぁぁ! 大塩杭夢はひょっとして破壊光線が好きなのか!? 自作の方でも使ってたよな!」
ここまで茶番である。
「狩崎よ……。我は、冗談抜きでお前に言わねばならんことがある」
「お前から『顔押すなー』とか言い出したんだろうが間抜け」
「お前は写楽や今のチームメイトを信じてやれ! お前は……もう、一人じゃないだろ!」
ガーン。
ガーン。ガーン。ガーン。ガーン。ガガガガーン。
くらい感動したに違いない。
「……一人じゃない、か。笑わせるなよ、安部」
ガーン。我の方がショックを受けた。
「な、我の説教が通じないだと!?」
「……人間はな、生きる時も死ぬ時も一人だ。そして……その事実を紛らわせるために仲間を集め、楽しさに堕ちて行く。だけど俺は知ったんだよ。人が死ぬ瞬間を。『息子がいる』という幸せなのかどうかもよく分からない死に方をした二人の、悲しく孤独な死を」
おいおい、今回はヤケにシリアスであるな。
「だから俺は、二人の存在が意味のあるものだったということを、この身を持って表さなければならないっ! 慣れ合っている暇なんか無いんだ! 俺は皆と同じような生き方をして、二人の人生を無駄にしたくないんだ……!」
「……それは違うな、透」
だ、誰であろうか。我と狩崎の二人しかいなかった心の空間に、三人目が現れた。
「……と、父さん?」
「え? あ、狩崎のお父さんであるか? 初めまして」
「ん、ああ、初めまして。いつも息子がお世話になっております」
「お世話になってるだなんてそんな……この前なんてね……かくかくしかじか」
「へぇ、そんなことが。だけどこいつ、今でこそこんなですけど昔はねぇ……かくかくしかじか」
三十分後。
「……おっと、透。そろそろお別れの時間だ」
「おいほとんど安部との世間話で潰れてるじゃねーかクソ親父!」
「お前の人生はお前が決めろ。決して父さん達の為に生きようなんて思うんじゃないぞ」
「……もう頼まれてもアンタの為になんか生きるかバーカバーカ!」
こうして、透のお父さんは去っていった。
「……息子を放っておいて、初対面の者と世間話とは。あの者、どうかしているな」
「お前のせいだろうが」
否定は出来なかったので舌を出したら怒られた。
……透。お前は気付いていないかも知れないが、あのお父さんは自ら汚れ役を演じてくれたんだぞ。お前が親に愛想を尽かしたその時こそ……
……本当の自立の時だ。
◇
ランナー狩崎、アウト。
試合は、引き分けに終わった。
だが、狩崎透は、かけがえのないものを手に入れたのであった。
「ハァ……ハァ……ゾクゾクしちゃうわぁ……」
「監督の野球に対する姿勢って歪んでますよね」
「そんなことないでしょ……あ、ダメ、試合終わったのにまだクる……引き分けだったけど……」
だ、ダメだこいつ。早くなんとかしないと……。
「アァ……あふぅ……。っていうか、アンタはアンタで変よ。いきなりベンチで眠り始めるなんて」
「ああいや、それは」
人の心を勝手に盗み見していたとは言えまい。
……さて。試合結果は、正直すっきりしないものであった。それに、狩崎との勝負にも、まだ納得出来た訳ではない。
だが、清々しい。
何か知らんが、これで良かったのではないかと思う。……親父さんとも話せたしな。
狩崎の親父さん。
あいつは、頑張って生きてま「ハゥ……あぁ、思い出したらトイレ行きたくなっちゃったぁん……」
「……」
我の感動のモノロークを台無しにしおって……。監督め、許さぬぞ。……(多分明日には忘れるが)。
◇
「とにかく一番の反省点は、炎山くんの投球ね」
「……」
トイレに行った後、監督は何事も無かったかのようにミーティングを始めた。
一体、監督はトイレで何をしていたのか。考えるだけでも我のバットが……いや、今はダメだ。だが、収まらぬ!
「あれ、安部先輩、何立ってるんですか?」
「ん? いや、我は……チクショウ、トイレに行ってくる!」
「……元気ねぇ、安部くんは」
監督にだけは言われたくなかった。
……一番の反省点は、炎山の投球。
故障経験のある炎山に投げさせ過ぎた、自分の采配のことを言っているようにしか聞こえなかった。
監督はあんなのだが、真面目過ぎる一面も持ち合わせている。……このままで、このチームは大丈夫なのだろうか。
◇
安部晴明がトイレに行っている頃、久遠怜治(序盤で登場していますよ)と■■(ヒロイン。ぶっちゃけ天羽って名前)は、彼らがさっきまで試合をしていた球場の客席にいた。
「……野球か。正直馬鹿にしていたけど、見ているとなかなかエキサイティングなスポーツなんだね。……僕もやってみようかな」
「久遠くんにはサッカーがあるじゃないの」
パンが無いならケーキを食えよーみたいな感じだった。久遠は少しだけその発言に怯みながらも、
「はは、冗談さ」
笑ってその場を誤魔化した。
……久遠怜治にとって、安倍晴明はライバルとも呼べる相手だった。同じ女に恋をした者同士だ。本気で戦うにはふさわしい相手……なのだが。
土俵が違うのだ。。安部は野球でしか、久遠はサッカーでしか戦えない。勿論、魅力対決では久遠が圧倒的に勝っていた。が、そんなもので決着がつくなどとは、久遠自身思っていなかった。
――僕が野球をやれば、彼と戦える。サッカーでは高校生ではもはや敵無し。少しくらい野球に浮気をしても大丈夫……なのかも知れない。
――それとも僕は、わざと安部に……。
「久遠くん?」
「……へ? あ、ごめん、聞いていなかったよ」
平静を装い、軽く微笑む久遠。だが彼の頭に浮かぶのは、安部のことばかりであった。
――本当は気付いているんじゃないのか? 久遠は、自分に問いかけた。
安部は確かに、あらゆるジャンルで二流以下だ。陰陽師を名乗りつつ、他の色々なことを中途半端に行っている愚かな男。
だが、■■を思う気持ちだけは、自分よりも強いかも知れない。
……当然、それは彼にとって、認め難いことだったが。
「――あのさ、■■さん」
「どうしたの?」
「君は……安部のところに行きたいんじゃないのかい?」
「え……ど、どうして」
■■は僅かに驚きの表情を浮かべたのち、少し不思議そうに聞いてきた。
……本人にも、自分の感情が理解出来ていないのかも知れないな。久遠はそう結論付けると、一度、安部のことを忘れてみることにした。
◇
グラウンドに並び、敵チーム同士向かい合った選手達。
「ありがとうございましたぁー!」
我らはお互いの健闘を称え、叫んだ。
そして、我のファンが握手を求めて群がってきて、
「って、狩崎お主、我のファンであったか!」
「違うに決まってんだろ。……けどまあ、あれだ。……今日だけは感謝してやるよ。父さんを呼んでくれたの、お前だろ?」
「……さあ、どうであろうな」
交差する視線。そして、どちらともなく突き出した手。握手。
「痛い痛い痛い痛い」
我の手を掴んだ狩崎は、そのまま潰してしまうんじゃないかというくらいの勢いで、我の手を力いっぱい握ってきた。
「へ、油断してるからそうなるんだよマヌケ! 俺はこの時の為に握力をめちゃくちゃ鍛えていたからな!」
「くそ、お主! 次の試合は覚悟しておけ!」
こうして我は狩崎の元を去った。そして、狩崎も……。
「大国天さん、今日の試合はありがとうございました。……だが次は負けねぇ。安部ともどもブッ潰してやるからな」
「ああ、期待してるでぇ」
おいおい、我一人だけが去ったら、ただ友達がいないだけの人になってしまうではないか!
こう、ライバルと背中を向け合い、それぞれの道を……みたいなことがやりたかったのに! 悔しぃ~(ユニフォームを前歯で噛みながら)
「それから神風。お前は今日はともかく、今後成長しそうな奴だな。……要注意選手としてマークしておく。」
「だにゃー(言いたいことモットあるけどここで秘密バラしちゃダメにゃ)」
ちくしょう、みんな和気藹藹としているな。それに比べて我は……我は……!
と、そんな哀愁漂う渋めの我のところへ、炎山が駆け寄ってきた。流石は良い奴。寂しい我を慰める為に……ぐす。
「安部。君に聞きたいことがあるんだが」
別に慰めにきたとかじゃなかった。ぐすん。
「……聞きたいことだと?」
「あれって、■■さんじゃないのかい?」
「何!」
炎山が指差す方向を見る。……確かに一人、女子の姿があった。
「陰陽師奥義、千里眼!(これでチートタグって、原作&投稿担当のかみぃはどうかしてるぜ……」
確かに、その人影はあの人だった。
「うおおおおお! ひょっとして我の試合を見に来ていたのか!」
「あれ、気付かなかったかい? 彼女は久遠くんと一緒に客席の方にいたんだよ」
「ただのデートじゃねぇか!」
ちくしょう、我はやっぱりあの男には勝てないのか……? いや、だが、それなあ久遠は一体今どこに……。
まぁいっかー(チャーミングな記号)。
何かそんなことを言っていると、彼女の方からこっちに向かってきた。
「安部、試合お疲れ様!」
「ふ、サンキューなのだ」
「格好良かったよ! 狩崎くんが」
「狩崎かぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいい!」
「やかましい」
監督に頭を叩かれた。乱暴な女め……。
「ちょっと雨が降ってきたから、そろそろバスで帰ります。最後にもう一回、相手チームのみんなに謝りなさい!」
お礼を言う、の間違いではないのか……まあいいか。
「そんじゃ、みんな、せーの!」
「すいませんでしたぁー!」
◇
……バスの中。
あの人が一緒に乗り込むとかで、ちょっと期待をしてしまった。が、我はバスの一番後ろで、彼女はその七つ前の席に座った。悲しみのファイナルクラッシャァァァァ!
「うお、何や、バスが……!?」
「い、一体何が起こったというんだ……! いや、そんなことより先輩達!」
神風が叫んだ。ハハハ、我の力の恐ろしさに皆ひれ伏し、
「うおお、窓の外! すごいぞ!」
「うわああ、何か走ってる! 雨ん中で何か走ってる! バス抜かれる! やばい!」
「あれは……久遠怜治くんか。とんでもない速さだな。野球部の誰よりも速いんじゃ……」
「よかったなー、あんなんが野球やっっとったら、レギュラー争いがごっつ激化しとったやろうなー」
我のファイナルクラッシャーをみんな無視したので、我はバスの隅っこで一人涙を流すのであった。
続く
君がくれたモノ