コウモリ君

夜の訪問者、モリ君。

 夏の暑い日。
 ここ何日も閉めたことのないベランダにつながるガラス戸を、いっぱいに開け放したまま、僕は暗い部屋の床に仰向けになっていた。
 目を閉じて寝るわけでもなく、暗くて色を失った天井をただただ眺めていた。もうとっくにぎらぎらした太陽は沈んだのに、昼間の熱気はいまだに部屋にたちこめていた。ただ横になっているだけで、じっとりと汗が出る。ときおり、部屋の中にゆるい風が入り込むも、体にまとわりついた熱気はほんの少しずれる程度だった。
 昼間にくらべれば、まだ心地がいいとも言えないことはないくらいのゆるい風。暗く、熱気がこもるこの部屋では、呼吸することも心許なく感じる。水風呂でも浴びようか。一時のまやかしでも、それはそれで、ましなのかも知れないな。
 ベランダでカタッと音がした。音すらも何か鈍い。わずかな風の流れも止まってしまったようだ。気もそぞろに仰向けのままあごを上げ、そちらに視線をやる。逆さまになった世界が、黒い戸枠に縁取られ、薄暗くも周りの照明で遠くまで見える。・・・そう広がるはずの光景は、黒い物体によって遮られていた。
 洗濯物は干していなかったはずだがと、より目を凝らした。次第にその黒い物体の輪郭がしっかり掴めてきた。それは一メートル七十センチはあるだろう戸の枠幅を、上から下まで占領し、左右はほとんど対称に凹凸があった。しかもその輪郭は竿で途切れていて、何かが竿に立っているように思えた。暑さで変なことを想像するまでになったのかと、額の汗を手で拭った。
 「やぁおはよう。君にとってはこんばんわ、かな」
 僕は度肝を抜かれ、反射的に体を反転させた。通常の世界になっても、心臓はばくばくしていた。そこには竿にぶら下がって、床よりわずか上の辺りに、二つ光る目のようなものを持った生き物がいた。横になってなければ、腰を抜かして倒れていただろう。その僕の慌てぶりをみてか、黒い物体はまた話しかけた。
 「いやいや、すみませんね。どうやら驚かせてしまったようだ。しかし危害を与えるような者ではありませんから、安心してください。そう、僕は見ての通りの者です」
 あまりうまく聞き取れないくらいに、鼓動が高鳴っていた。バックライトを受けたその物体は、ぼくにしっかりと認識させた。コウモリだった。それも僕よりも大きいほどの。羽と思われるものが、両サイドに綺麗に畳まれている。僕は目を丸くして、じっと観察していた。というより、身動きがとれなかっただけなのだが。
 「ははは、そんなに警戒されなくても大丈夫ですよ。ただのこうもりですよ。そう、ただのこうもりです」
 ようやっと僕は口を開くことができ、ただのコウモリ? と反復した。
 「そうです。夜にひっそりと生きる、あのこうもりです」ぶら下がったまま、そのコウモリは微笑んでいるように思えた。僕は、しかし、と呟いた。
 「大きいから、認めづらいようですね。しかし現にこうして私はいるのです。そう、ただ大きいだけです」コウモリは羽をやや広げてアピールし、またそれが歓迎するように振る舞っているように感じられた。
 「そんなことよりも、自己紹介をしましょう。私はコウモリの“モリ”といいます。あなたは確か、りょう君ですね」
 僕はさらに驚いた。なぜ僕の名前を知っているのだろうか。そもそもどうして会話ができているのか、今更ながら不思議に思った。本物のコウモリなのかを今一度疑ってみたが、そんな思いは一瞬で消え去るほどに、本物だと感覚に訴えてくる。僕は、まずはしっかりと体を起こして、目を瞑って深呼吸をした。この暑さのせいで幻覚を見ているかも知れないと思ったのだ。そして顔を洗いに洗面所にいき、さっぱりして戻ってきても、依然とコウモリは微笑んでいた。僕が整うのを待っているようだ。また深呼吸をして、頷く。
 「大きなコウモリだということは分かりました。けどまず聞かせてください。なぜモリ、…いやモリ君は僕の名前を知っているのですか? それになぜこうやって会話できているのでしょう?」
 相変わらずにこやかに微笑んでいる。
 「そうですね。私たちコウモリは、電波を発しているのはご存じですよね。目よりも、その電波でおおかた、世界をとらえていると」
 僕は再度頷く。
 「その電波というものは、りょう君、あなた方からも無意識にしろ、発せられているのです。それを私がキャッチしたというわけです。そして“あなた”を知った。それだけのことです。そしてこの会話ももちろん、電波にのせて、やりとりしているわけです。りょう君の声は電波として私がキャッチし、私があなた方の波長に換算して成り立っている。そんな具合です」
 動物は第六感が強いから、そういった類のものでやりとりしている、そのようなものなのかもしれない。まぁ確かに、人の言葉が全ての伝達手段ではないことは、明瞭なことだろう。
 「しかし僕に何かようがあるんですか?」
 「用という用ではないですね。ただこの暑い夏の夜に、明かりも点けずに、ましてクーラーとやらもいれずにいたことに、興味を持ちまして」
はぁとしか言えなかった。モリ君はまだにっこりと微笑んでいた。そして促すように羽をばたつかせて、こういった。
 「なぜ興味を持ったのか、その理由をお教え致しましょう。さあ、私の背中に乗ってください」
 モリ君は体を持ち上げ、悠然と宙に飛び出した。惹かれるように僕がベランダに駆けよると、モリ君は辺りを旋回して、ベランダに近づいてきた。さあ、と勢いある声をかけて背中を差しだしていた。僕は一瞬ためらったが、引力でもあるかのように引きつけられてベランダから飛んだ。ベランダの柵から足が離れたと同時に、恐怖が溢れてきたが、しっかりとモリ君はフォローしてくれて、温もりのある背中に無事飛び乗ることができた。
 「そう、大丈夫。しっかりとつかまって。さあいきますよ」
 モリ君は両羽を大きく広げ、優雅に上空に舞い上がっていく。生ぬるい空気が、一瞬にしてかなり爽やかで心地いい風となって僕を包んでいった。左右に広がりはばたいている羽は、暗闇よりも黒く、片方でも悠に二メートルを超えていた。
 周りは、自宅にいたときよりも明るく感じられた。明かりを点けずに、四方を壁に囲まれた暗いところにいたせいだろう。そんな自分のいたアパートは既に小さくなり、自分の部屋だけが暗くぽっかり浮いていた。過ぎていくどの建物も、しっかり窓は閉められていて、そこからあふれ出る明かりは均等に、夜の世界を照らして白めていた。
 更に飛んで上空に上がると、街灯や車のライト、店やネオンなど様々な明かりで眼下は強く光っていた。宝石箱をひっくり返したようだといわれたりするが、とがった光が乱れ飛び、身体に目に刺さってくる。まるで明かりという明かりが、競い合うかのようにぶつかり合わさり、閃光を発し続けているように。決して何かを包むような明かりではなかった。それは太陽のように温もり―この時期は暑さといった方がいいが―を 与えるような明かりではなく、冷たく光り人々の温もりを奪って、それによって更に増幅している、そんな麻痺を誘うような明かりだった。
 「どうですか? 明るいでしょう」
 モリ君は唐突に話しかけた。僕はモリ君の背中にいることを半ば忘れていて、冷や汗をかいてしまった。
 「私たちはご存じの通り、こうやって夜に生きる者です。しかしどうでしょう。これではまるで一日中が昼になったかのようです」
 うん、と僕はいう。何メートルかは分からないけど、こんなに高いところを飛んでいるのに、事実ここも明るかった。暗いと言えるところはせいぜい河川のほんの一部分だった。
 「私たちは夜にしか生きられないのです。鳥が昼に生きるように」
 「けどモリ君、君はこうして優雅に飛んでいるじゃないですか。それに飛べるならすぐに明かりの少ない山に行けるんじゃないですか?」
 僕は言ってから、冷たい返し方だと思った。モリ君は何度か羽をはばたいて、周回して答えた。
 「はい、確かにそうですね。私はここへ来て間もないので、まださほど体調は崩していません。しかし私の兄弟は体を壊す者が増えました。 それにここで出会った私の仲間たちは、ずっと体調が優れないとほとんど皆がそういいます」
 「え? ずっとここに住んでたんじゃないんだ? ・・・けどそれなら、尚更簡単に移れるんじゃ?」
 「はい、違います。私はついこの間まで、明かりの少ない山に棲んでいました。だからこの夜の明るさが、よりきついのかも知れません。ここにもともと棲む仲間たちは、山に生まれ山にいた私たちに比べ、かなり体格が小さいです。りょう君がはじめに私をみて驚いたのも、彼らのその体格になじみがあったからでしょう」
 僕はモリ君が山出身で、移り住んだ者だと言うことに少し納得いった。こんな大きな体格のコウモリは都会じゃまず見たことないし、なにより生きづらいだろうと思った。と同時になぜわざわざ山を下りて、そんな生きづらい都会にやってきたのか、ますます不思議に思った。僕はモリ君の横顔を見たが、今は微笑んでなく、なんだか辛そうな表情をしていた。
 「そう不思議に思うのは当然ですよね。だけどりょう君が想像する山は、もうないのです。確かに夜はしっかり暗く生きやすい。しかし棲めないのです。皮肉なことです。本当の闇しかないのです。つまり荒れ果て、食べ物がないのです。だから我々はここにやってきたのです」
 「そうなんだ…。ごめんね、分かったようなこと言って」僕は胸が締め付けられる思いだった。それを先ほどのように察したのか、モリ君は優しく言った。
 「りょう君が謝ることは何もないですよ。ただ私たちの判断でやってきたまでですから」
 「けど・・・」
 「私たちのとった判断ですから、責任は私たちにのみあります。大丈夫です。そのうち私もここでの生活に慣れるでしょう。しかしおそらく、あそこのように特に煌びやかに光っている所は行けないでしょう。あの明かりは私には怖いですから」
 モリ君の言う先には、この街の最大の繁華街があった。僕もあそこは気軽には行きにくいから、なるほどと思った。しかしここに棲んでいた者ですら、ずっと体調が優れないとモリ君は言ってたから、気持ちは複雑なままだった。
 そして最後の何分かは、空の旅を堪能させてくれた。心地よい風が全身をなびかせ、日頃の鬱積が綺麗になくなるかのようだった。モリ君もなんだか楽しそうな表情に満ちていたと思う。
 ベランダに降り立ち、暗い部屋に入ると、むわぁっとした熱気がねっとりまとわりつき、直ぐにじっとりとした汗が出始めた。モリ君は初めと同じように、軽快に竿にぶら下がった。
 現実を迫ってくるこの部屋に戻ると、何をどう話したらいいのか分からなかった。それはモリ君のことを認め、知ったことからでる、複雑な気持ちゆえだった。モリ君はそれを察したように、また優しく話し始めた。
 「私がりょう君に興味をもったのは、この街で夜を夜として過ごしていたからです。たしかにここに住む人として、それはおかしいのかも知れませんが、私はただ嬉しくてやってきたのです。だから、責めるためでは一切ないのです。けど私のせいで気を落とされたのなら、本当にすみません」
 モリ君はお辞儀をした。当然頭は上がるのだが。その姿を見ると、自分は下手な心配は今はやめようと思った。僕は繕うことなく答えた。
 「大丈夫です。来てくれてありがとう。初めは驚いたけど、僕もモリ君に出会えて嬉しいです。こんな楽しかったのは初めてでした」
 そしてモリ君がお辞儀から、元の状態にもどってから、聞いてもいいですか? と言った。微笑みながらモリ君は、はい、何なりと、と答えてくれる。
 「なぜ、夜の明かりが怖いのですか?」僕は繁華街を思い浮かべていた。
 「そうですね。私たちコウモリなど夜に生きる者は、昼に生きることから身を隠した者たちです。そうじゃない者もいるでしょうが。そしてそういった夜の者の大半は、昼の者に比べて、基本的に弱い生き物なのです。昼から身を隠して生きることにしたといっても、それは遠く昔の判断で、今ではもう夜に昼があると本能的に怖いのです」
 モリ君は変わらずに微笑んで、そして軽やかな声だった。
 「私たちはいわゆる弱い側。だから強い昼の者が夜にまで、拡大するのは自然的には当然のことなんですが、やはり怖いものは怖い。夜は夜であって欲しいのが、今の私の想いです」
 僕は夜の生き物など、気にしたことはなかった。ましてはその者の想いなど。しかしひっそりとも、こうやって生きている者もいたのだ。そこで遅れながらも、湧いてきた疑問を聞いた。
 「僕はモリ君が来るまで、すみませんが、ここに棲むといった小さなコウモリすらも実際に見たことはありません。死骸なら一、二度ありますが。イメージとしてしかありませんでした。だからその死骸を見ても何とも思わなかったのですが、おそらくこれからは違うと思う。けどいったいどこにいるのですか、いつもは? 夜は毎日現れるのですか?」
 「昼間の居場所はお教えできませんが、私たちはほとんど常にどこにでもいますよ。夜は当然現れます。ただ夜が昼になっているここでは、ほとんどの人は気がつかない。それだけのことです」
 僕はもう一度聞く。「毎日いるのですか?」モリ君はもっと微笑んでいる。
 「はい。夏場は。いくら夜が昼になろうと、その明るくなった分、あるところではより暗さが強くなります。だから私たちはそこにより集まるのです。昼を恐れはしても、憎むことはないです。昼がなければ夜はないのですから」
 そして羽をしまい直して続ける。
 「逆に言えば、夜ばかり見ているせいで昼が怖いのかも知れませんね。私とりょう君は似ています。
 そしてまた言えば、明るさばかりを求める者には、その分、その明るさの強さと同等の暗さが、ついて回るのですよね。厭なものとして」
 僕は言い直して聞いた。
 「それは太陽の下にいて部屋に入ると、かなり暗く感じ見えなくなるのと似ているんでしょうか」
 「そうですね。しかし、それは気付いているからいいのです。明るさのみ、暗さのみ、どちらかのみに生きる者は、知れずにその逆のことを恐れ、そして共に牙となるのです。僕が言いたいのは、明るさは時に危険になると言うことです。そして暗さは時に安全になるということですね」
 モリ君は身体の向きを変えて、僕に背を向けた。
 「たまには私のように逆さまになってみるとおもしろいですよ。物事が反転して見えますから。それでは私はこのあたりで、夜の世界に戻るとします。良い夜を」
 そういってモリ君は、腹を照らしながら、彼方へと飛んでいった。

コウモリ君

コウモリ君

熱帯夜。エアコンも明かりもつけずに暗い部屋に横になっていると、ベランダにある訪問者が現れる。 モリ君と名乗る、巨大なコウモリだった。なんとも礼儀正しく腰がやわらかいモリ君は、横になってるりょう君を夜の飛行に誘う。 ぎらぎらした繁華街の明かり。夜に生きるようになっているコウモリ君にとって、昼のようなネオンの明かりはつらいということ。 りょう君は森に行くことを提案したが、モリ君はその森から来ていた。かつての森と違い荒れ果てた森は、食料もなくただの闇へと化していた。だからやむなく街に降りてきたのだと。しかし、それらを一切責めず自分たちの判断だというモリ君。 そして、自分たちが昼の明るさが怖いのは、暗さばかりをみているからだと。その逆も当てはまり、明るさ・暗さどっちかばかりを求める者にとって、その反対のものには恐怖を覚えると。だからたまには逆さになるといいと伝えて去っていく。

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  • ファンタジー
  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-02

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