王平伝⑦
時は西暦234年、諸葛亮は五度目の北伐を敢行し、司馬懿率いる魏軍がそれを迎え撃った。蜀軍は初手で馬冢原を確保するも司馬懿は息子の司馬師を使者に差し向けそれを取り返し、両軍は武功の平野で相対することとなる。互いに守りを固め睨み合いが続く中、諸葛亮は武功の麦を奪い、司馬懿は二万の援軍を得ることに成功する。兵力差で不利となった蜀軍は武功水を渡って後退し五丈原に陣取り、次の一手を模索する。秋風吹く戦場に、二人の名将が智謀を繰り広げる。
・王平(おうへい)・・・漢中軍司令官。蜀の一武将として魏と戦う。
・句扶(こうふ)・・・蜀の隠密部隊、蚩尤軍の指揮官。
・劉敏(りゅうびん)・・・王平の副官。軍学に明るい。
・杜棋(とき)・・・王平軍の歩兵部隊を率いる。
・蔣斌(しょうひん)・・・蔣琬の長子。杜棋の下で小隊長を務める。
・趙広(ちょうこう)・・・諸葛亮の護衛として天禄隊を率いる。
・夏候覇(かこうは)・・・魏軍騎兵部隊隊長。戦死した張郃の跡を継ぐ。
・諸葛亮(しょかつりょう)・・・蜀軍総帥。劉備の意思を継ぎ、漢朝の復興を目指す。
・蔣琬(しょうえん)・・・蜀の文官。成都にて北伐軍の後方支援をする。
・魏延(ぎえん)・・・蜀の武官筆頭。戦上手だが文官と仲が悪い。
・楊儀(ようぎ)・・・諸葛亮の近くで軍運営の補佐をする。魏延と仲が悪い。
・司馬懿(しばい)・・・魏軍総司令官。人知れぬ野心を抱える。
・辛毗(しんぴ)・・・司馬懿の補佐役。
7-1
心が揺れ始めていた。漢王朝の復興を大儀に兵馬を興し、蜀の何倍もある魏国に戦いを挑んだが、漢の主であった劉協はこの世を去ったのだと、司馬懿の腹心である辛毗から告げられた。それが虚言である可能性は拭いきれないが、辛毗は試すように、嘘だと思うなら自分で確認してみろと言ってきた。
諸葛亮は、長安で兵站線を攪乱している句扶に、事の真偽を確かめるよう指令を出した。魏軍の兵站線が回復し、戦場から蚩尤軍が消えることは望ましいことではないが、蜀国の宰相としてこれは無視できる事案ではなかった。司馬懿は、ほぼ丸腰の辛毗と郭奕を、敵陣の真っ只中に送ってきた。この二人は殺しておくべきだと楊儀が献策し、諸葛亮はそれを許可した。魏軍の重要な箇所を担う者が自ら虎の口に飛び込んでくるのだ。しかし魏からの使者でなく、漢からの使者として来たと辛毗は言った。結局、司馬懿の掌の上だとわかっていながら、この使者団を殺すことができなかった。また、司馬懿の胆の太さに感嘆した。
自分が逆の立場なら、魏軍の本陣に楊儀と句扶を送り込めただろうか。この二人を失うことは、自分の片腕と片足をもがれるようなものなのだ。これが謀略の一環だとするなら、たかが一つの謀略にそこまでの危険を冒せるものなのか。それとも司馬懿は、献帝の死を伝えることで、戦をする理由はもうないと言いたかっただけなのか。
「戦です、丞相。献帝陛下が御存命であろうとそうでなかろうと、このまま兵を郷里に退かせる理由などないのです。ならば司馬懿が油断している今こそ、こちらから仕掛けるべきです」
地図が広げられた幕舎内である。今は攻め時だと主張する楊儀は、魏を討つためなら漢王朝のことなど気にするなという感じだ。諸葛亮はそんな楊儀の態度を不快に感じる一方、戦の中ならそれは当然だとも思う。
「辛毗の言っていたことが本当であれば、今しばらく戦は控えるべきです。この大事を無視してしまえば、蜀のこれからの存立にも関わります」
費禕が言った。自分が言いたかったことを、言ってくれていた。
「蜀の存立は、この戦の勝敗にあるのだ。辛毗の言っていたことが嘘ならばどうする。司馬懿の謀略にかかることになるぞ」
「楊儀殿は、その真偽に関わらず戦をすべきだと仰ったばかりではないですか」
「ええい、そのような揚げ足取りはよせ」
諸葛亮は羽扇を振り、いきり立つ楊儀を止めた。自分の考えとしては、費禕に近い。漢の帝がこの世を去ったことは、いずれ蜀軍将兵の耳にも入るだろう。その時、蜀軍は戦の大儀を失ってしまうのだ。それから先、軍の中にいる何万もの人間が、一つの軍として保ち続けることができるのか。司馬懿は間違いなく、蜀軍に流言を撒いてくるだろう。漢の帝はこの世を去り、蜀軍が戦う理由も失われたという流言だ。今思えば、面会時の幕舎で辛毗が外に聞こえる程の大声で叫んだのも、外の者にそれを聞かせるためだったのかもしれない。
やはり楊儀が言うように、この五丈原の上にいる将兵が蜀軍としてまとまっている今の内に、戦を仕掛けるべきなのか。
「費禕、考えを言え」
諸葛亮は目を閉じ腕を組みながら言った。費禕が椅子の音を立てて立ち上がった。
「少なくとも、蚩尤軍が帰還するまでは、兵を動かすべきではありません。大儀を無視して戦をすれば、いずれ将兵の信を失ってしまいます。我ら一部の者の私情で戦をしていると思われれば、蜀は急速に弱体化するでしょう。それは、ここ数十年続いている乱世が証明していることです。兵糧が潤沢にある今は、この兵力の堅持に努めるべきです」
すかさず楊儀が反論した。
「では辛毗が言っていたことが本当だとわかれば、蜀軍は撤退すべきだと考えているのか」
「それは明言できません。その時の状況によるとしか」
「場合によっては撤退ということだな。まあ、それはいい。では戦をする時は、どういう条件が整った時のことをいうのだ」
「ここにいる八万は、戦いを仕掛けずとも、司馬懿に向かう刃となっております。だからこそ魏軍は武功から動けず、司馬懿はあのような使者を敢えて送って寄越すのです。ここで焦って兵を動かしては司馬懿の思う壺です」
「答えになっておらん。私はいつ戦うべきかと聞いているのだ。戦う気がなければ、それを司馬懿に読まれた時に、ここの八万は無為なものになるぞ。お前の言う司馬懿に向けた刃が、単なる木の棒になるのだ。それに、お前は兵糧が潤沢だと考えているようだが、その兵糧は蜀に住む民の血税だぞ。山に湧く泉とは違うのだ」
楊儀は兵糧の管理をしている。費禕とは違うものが見えるのだろう。
「この対峙の中にあって、司馬懿が戦をする気がないことは明白です。しかし魏軍は我らに向けられた刃であり続けているではないですか。税で集められた兵糧は日々減りますが、戦が長引くことは始めからわかっていたことです。だからこそ戦の準備に三年も費やしたのではありませんか。いざ戦が始まり、準備されたものが十分にあるにも関わらず、それを消費することを恐れてどうするのですか」
「消費し尽くすことを恐れているのではない。この幕舎にいる我らが戦意を捨て、軍から大儀まで失われればどうなる。兵に今一番必要なものは、目の前の戦だ。大儀のことを忘れてしまうほどの苛烈な戦だ。お前が考えているより、兵はずっと単純なのだ」
楊儀と費禕はしばらく激しく論じ合った。
双方の言い分に道理はある。それでも二者の意見が異なっているのは、楊儀の心底にはこの軍の将来に対する大きな不安があり、費禕にはそれが薄いからだ、と諸葛亮は見た。
費禕が言うように、ここは無理に動くべきではない。しかし漢の帝がもうこの世に亡いと、蜀軍将兵に知れ渡ったらどうなってしまうのか、全くの未知であり、未知であるからこそ不安だという楊儀の心情も理解できる。戦を仕掛けず対峙を長引かせれば、脱走兵が相次ぎ軍が弱体化してしまうかもしれない。名も無き兵は大儀を失っても共に戦ってくれるのか。それとも、母蜘蛛を踏み殺された子蜘蛛のようにまとまりを欠いて四散してしまうのか。
費禕の主張を認める一方で、楊儀が言うように戦をした方が楽だという思いもある。こちらから戦を仕掛けたからといって、勝てる保証がなくとも、必ず負けると決まっているわけでもない。しかし対峙を解き兵に干戈を交えさせれば、戦いは辛く苦しいものになるだろう。その時に献帝崩御の方が軍内に広がれば、この軍はどうなってしまうのか。対峙を解き戦うのなら、短期決戦にすべきだ。それは、楊儀もわかっていることだろう。戦を始めるかどうかは、作戦次第で決めるべきだと、諸葛亮は判断した。
「楊儀」
まだ言い合う二人が諸葛亮の一言で静まった。
「お前の頭にある軍略を言ってみろ」
これだけ戦を主張するからには、どう戦を運ぶかは頭にあるのだろう。楊儀はもう自分の意見が入れられたと思ったのか、意気揚々と説明を始めた。
「この地にいる魏軍は十万と言いますが、その内の三万は渭水の北岸に陣取り我が軍と羌族の間を遮断しております。つまり、武功にいる魏軍は七万であり、我が軍の八万に数で劣ります」
諸葛亮は当然わかっているという顔で頷いた。楊儀は続けた。
「先ず、渭水北岸の三万を攻める構えを見せます。これは偽装です。こちらが本気だと示すために、魏延殿の軍を向けるのがいいでしょう。そして魏軍が渭水北岸に注意を向ければ、王平軍を武功水へ向けて進発させます。渭水北岸に援軍を送ろうとした魏軍は混乱するでしょう」
言いながら楊儀が卓上の駒を動かす。諸葛亮は聞いていて、一点気になるところがあった。わかっていると言うように、楊儀は駒の一つを武功水の上流に置いた。
「司馬懿は恐らく裏をかき、こちらの兵糧庫を狙ってくるでしょう。それに本体の三万を充てます。司馬懿が兵糧庫を狙ってくればそれで殲滅し、向けてこなければそのまま武功の南方から魏軍の側面を突かせます。渭水北岸に向けていた魏延軍を転進させ、武功水下流の王平軍と合流させて渡河させ、南方の三万と共に魏軍を挟撃します」
悪くない案かもしれない。渭水北岸の三万を放置することになるが、これが渭水を渡って来るとなればかなりの時を要するため、これは放置で問題ない。姜維を通じて戦場の北西に羌軍の二万を布陣させているが、これはあてにすべきでない。下手をすれば、こちらに剣を向けてくる可能性すらある軍だ。
渭水北岸に兵を向けるのが囮だと読まれても、武功上流からの三万の渡河まで司馬懿が読んでくるだろうか。これが成功すれば、武功の平地で八万と七万がぶつかることになり、蜀軍は数的有利を得ることになる。
漢の主上がもうこの世に亡いとわかれば、蜀軍は弱体化する。その前に一戦交えておくべきだ。
「武官を集めろ。これより軍議を開く」
楊儀が満足気な顔をし、費禕は俯いた。
「辛毗が言っていたことは、まだ武官には漏らすな。正式に伝えるのは、句扶が戻ってからだ」
既に辛毗が言ったことは嘘ではないと認めている口ぶりで言っていたが、楊儀と費禕も同じように考えているのか、二人は頷き武官に伝令を飛ばした。魏軍に戦の開始を気取らせないため、各々が足を忍ばせて幕舎に集まってくる。
将官の面々は士気に満ちている。この者らが大儀を失ったことを知ればどうなってしまうのだろうか。その報に落涙し虚脱したとしても、逆に何も感じずにいても、それは蜀にとって不幸なことではないかと諸葛亮は思った。
兵站線の乱れがぴたりと消えた。献帝の死を知った諸葛亮は、その確認のために蚩尤軍を使ったのだ。
蚩尤軍の兵站への攻撃は執拗かつ巧妙であり、無事に届いた兵糧に毒が入れられていたこともあった。兵の中に、兵糧がいずれ届かなくなるのではないかという不安と、配られたものに毒が含まれているのではという不信感が広がり始めていた。
水路と陸路を併用したため兵站線が完全に切られることはなかったが、蚩尤軍が乱していたのは兵站線だけでなく、兵の心も乱していた。
それに対し司馬懿は、黒蜘蛛を向かわせるべきかどうか迷った。この後方攪乱そのものが黒蜘蛛を誘き出す罠かもしれず、黒蜘蛛が武功の魏軍本陣を離れた隙を突いて蜀の忍びが急襲してくる可能性もあった。黒蜘蛛が離れれば、頼りにならない十万の衆愚だけがここに残ることになる。死ぬことが怖いわけではないが、この軍の頭である自分が殺されてしまえばこの戦は負けなのだ。諸葛亮に負けることを肯じるわけにはいかない。
黒蜘蛛を使わずに蚩尤軍を排除する必要があった。それで思い立ったのが、秦朗の援軍と共に入ってきた、劉協の死を利用する策だった。諸葛亮の原動力となっているのは勤王の思想であり、それは蜀の先代劉備から受け継いだものだ。蜀国を成り立たせている柱そのものだと言っていい。漢の帝であった劉協の死を伝えれば、諸葛亮は必ずその真偽を確認するはずだった。敵国である魏の奥深くに忍び込ませて重要な情報を得るからには、蚩尤軍を使う他ない。
司馬懿は辛毗と郭奕を、諸葛亮への使者に立てることにした。この二人が殺される危険はあったが、中途半端な者を生かせれば信用されない恐れがあった。少しでも殺されてしまう可能性を減らすため、詭弁であると思ったが、二人は魏からの使者でなく、漢からの使者として五丈原に送り込んだ。これほどの賭けに出たのは、これが成功すれば蚩尤軍の排除の他、それ以上の効果に期待できると踏んだからだ。
劉協の訃報を知れば、蜀軍は必ず乱れる。上手くいけば、撤退にまで追い込める。
諸葛亮率いる蜀軍の目的は、正確には魏軍の撃破にあるのではなく、魏国の奥底に幽閉された劉協を救い出し、逆賊が支配する魏国に再び漢王朝の光を取り戻すことにある。その蜀国が救うべき対象を失った時、目の前に陣取る蜀軍という人の集まりはどうなってしまうのか。
司馬懿の目論見通り、漢の使者として向かった辛毗の使者団は無傷で帰ってきた。目論見通りだったとはいえ、かなり危険な橋だったことは間違いなく、司馬懿はさすがに胸を撫で下ろした。
これで蜀軍に何か変化が起こるはずだ。その変化の発端が、兵站線の回復という形で現れた。
蜀軍に動きがあるとの報告が早速入ってきた。王平の率いる二万が武功水を渡る構えを見せてきた。それには費耀の三万をあてた。
これは、劉協の死を策謀としたことに対する怒りの出陣ではないと、司馬懿は見た。怒りで魏軍を討滅しようというのなら、辛毗と郭奕を蜀軍本陣で殺しているはずだからだ。諸葛亮は蚩尤軍を魏国の奥深くに放ち、劉協の死の真偽を確かめようとしている。蚩尤軍が確報を持って帰って来る前に決着をつけたいと考えているならば、劉協の死が蜀軍に与える衝撃は自分が予測している以上のものになるのかもしれない。この蜀軍の攻めは諸葛亮の焦りの現れであると、司馬懿は読んだ。
王平を先鋒とした蜀軍が真正面から仕掛けてくるはずはない。何か搦め手があるはずだ。司馬懿は四方に斥候を放って蜀軍の様子を見ることにした。
渭水に浮かべた監視船から、蜀軍の二万が渭水を渡河して北岸の三万を襲う構えを見せているとの方が入った。それを率いているのが魏延だというのも続けて入ってきた。
諸葛亮にとってこの北岸の三万は目の上のたんこぶであったろう。ここに陣取ることにより、蜀軍本陣と羌族の連携を遮断しているのだ。五丈原に籠城する蜀軍にとって、羌族からの援軍は喉から手が出るほど欲しいはずだが、そうはさせない。北岸三万の指揮には羌族に顔が利く郭淮を配していた。羌族は蜀と違い、魏と敵対する決定的な理由はなく、つまりは懐柔が可能だ。それは郭淮が上手くやってくれている。
武功水からか、渭水の北岸か、どちらかが囮であるはずだ。蜀軍本体の四万は五丈原の本陣から動いていない。武功水か渭水、どちらにすべきか、諸葛亮もこちらの反応を見て決めかねているのかもしれない。
武功水の水際で矢交わしが始まり、司馬懿はそれを見るため幕舎を出た。王平と魏延のどちらが本命であるか、自らの目で見定めるべきだ。
空が澱んでいた。若い頃は、雲が夏の空を覆えば涼しくなり楽ができると喜んだが、歳を重ねてからは不吉なものに見えるようになった。不吉に見えるのは、心が老いたせいかもしれない。
司馬師率いる五百の護衛が馬上の司馬懿を囲んだ。煩わしかったが、自分で指示したことだと思い直し、人の輪の中を進んだ。
川辺に築かれた柵から対岸に目を凝らしていると、ここを指揮する費耀が人の輪を分け入ってきた。
「ここの心配は不要です。王平は矢の届く距離以上に近付いてはこられません。渡河しようとしても水に足を取られるため、矢の良い的になるのです」
「そんなことはわかっている。諸葛亮もわかっているはずだ。それでもこうして攻めてくるのは、何か意味があるということだ」
費耀が恐れ入ったように頭を下げた。
「何か感じたことはないか。王平の二万から、なんでもいい」
「感じたことですか」
何か謎かけをされたとでも思っているのか、費耀が眉間に皺を寄せて考え始めた。司馬懿は費耀のその態度に、微かな苛立ちを覚えた。
「気迫が感じられません。我が陣を攻略してやろうという気迫です。これは、司令官も感じておられることかと思いますが」
わかりきったことを言われ、司馬懿は束の間、聞いたことを後悔した。戦が始まる前は闘争心を燃やしていた費耀だったが、今はそうは見えない。三万を預けられ、大きな失敗をしてこなかったというだけで、安心しきっているという顔だった。司馬懿は費耀を黙殺し、馬首を返して幕舎へ戻った。
王平の二万には、武功水を渡ってこようという気迫がない。本命は、魏延を先鋒とした渭水の渡河だ。郭淮が懐柔した羌族は動かないと思っていたのが落とし穴ではないのか。渭水を渡河する蜀軍だけなら郭淮の三万で迎え撃てるが、それに羌族の二万が加わり挟撃をされたとなると長くは持たない。諸葛亮の狙いは、それだ。郭淮の三万を先ず挟撃により殲滅し、羌族の二万を蜀軍に合流させて兵力差を覆そうというのが諸葛亮の戦略だろう。どの隊を渭水北岸の救援に向かわせるかは既に決めてあり、司馬懿の指示一つで二万が渭水を渡河する。手を叩いて従者を呼び、その二万へ伝令を走らせた。
にわかに幕舎の外が騒がしくなった。この周りを囲む五百が刺客でも捕らえたか。
名乗りを上げ、姿を見せたのは郭淮だった。今出した伝令の腕を掴んだまま幕舎に入ってきた。それを見て、司馬懿は全身の血が引くのを覚えた。
「お前はこんな時に何をしている。渭水北岸を守る三万の指揮はどうしたというのだ」
あまりの権幕に、伝令が腰を抜かしかけていた。
「軍紀違反は承知で、渭水北岸に援軍は不要だと伝えに参りました。私自身が来たのは、司令官に直接申し上げる必要があると思ったからです」
「なんだと」
「蜀軍は渭水を渡りません。渭水南岸の魏延二万は、擬装です」
司馬懿は心を落ち着けて卓についた。郭淮がここまで言うからにはそれなりの理由があるのだろう。郭淮にも座るよう促したが、立ったまま話し出した。
「羌族は動きません。この戦場の北西に二万を駐屯させていますが、これは諸葛亮から銭が出ているからであり、それ以上のことはしません。それ以上のことをしても、羌族に利はないのです」
諸葛亮から銭が支払われているということは、黒蜘蛛から報告で知っていた。しかしそれだけで羌族二万がこちらに刃を向けないとは言い切れない。
「羌は、蜀よりも魏を怖れています。蜀に勝利の芽がない限り、羌は我らに楯突いてきません。羌族は蜀軍が武功から五丈原に退いたことを、明確に負けであると見ています」
言われてみればわかるという気がする。羌族は長らく漢族に搾取され続けていたため、それに対する憎悪の念もあるのだろうが、それよりも大きな怖れが彼らの心を支配している。蜀軍を退かせた魏軍に畏怖するのは当然のことなのだろう。
「援軍の必要がない理由はそれだけか」
「まだあります。それは、この天です」
郭淮が頭上を指さして言った。
「この厚い雲が、間もなくこの戦場に雨を降らせます。そうなれば渭水の流れがいかに速いものになるか、司令官は知っておいでのはずです」
長安に赴任してから長い司馬懿が知らないはずがない。この渭水が急流となれば、万を超える兵力をそうそう渡せるものではない。
「万が一にも蜀軍が渭水を渡ろうものなら、それは我が軍にとっての好機です。羌族が仮に呼応しようとも、渭水北岸の三万はその場を放棄すればいいのです。放棄するといってもそれは自国内で後退するだけで、蜀軍にとっては魏領に深く入ることになります。そして雨で急流となった渭水により、自ら退路を失うことになるのです」
司馬懿は唸った。蜀軍と羌族の分断ばかりに頭がいき、天候を考慮していなかった。
「渭水北岸の兵力は三万から増やすのではなく、減らすべきです。密かに向こうからこちらに兵を移し、伏兵とすべきです。諸葛亮が渭水を渡らないとなれば、武功水を渡ってここにきます。そうなれば七万と八万の戦となり、我が軍は劣勢となります」
「出過ぎだ、郭淮。それくらいはわかっておる」
郭淮は鼻白んで頭を下げた。
郭淮の言うことに間違いはない。諸葛亮が天候と渭水の流れまで計算に入れていれば、その狙いは魏軍を渭水の南北で両断してしまうことにあったのではないか。渭水の北岸に二万を渡していれば、武功の魏軍は五万で蜀軍の八万を受けていたことになる。それを思うと、司馬懿の背中に冷たいものが走った。
「渭水北岸にいる三万の内、二万を速やかに武功へつれてこい。残りの一万には、攻められれば無理をせずに散れと伝えておけ」
「わかりました。その前に、軍紀を犯した私を罰して下さい。私は、与えられた三万の指揮から勝手に離れたのです」
今度は司馬懿が鼻白んだ。
「お前は、儂に呼ばれてここに来た。そういうことにしておけ」
言って司馬懿が笑みを見せると、郭淮もにやりと笑った。まるでいたずら好きな男児のようだと、幕舎を出て行く郭淮を見ながら思った。
いたずら好きといえば、蜀軍の王平もそうだ。あのやる気の無い攻めが演技だったのかと思うと、無性に腹立たしくなってきた。
7-2
正面の敵が厚みを増していた。
本営の立てた作戦は、魏延が二万を率いて渭水を北へ渡ると見せかけ、王平の二万と武功水の上流を密かに渡した三万で武功の魏軍本陣を挟撃するというものだ。司馬懿に魏延の二万を本命だと思わせるため、王平はやる気なさげに攻撃をかけていた。しかし武功水対岸の敵陣は兵力を増やし続けている。
「これは、敵に策を読まれたかもしれんな」
王平は馬上で敵陣を眺めながら、隣の劉敏に言った。
「見せかけの動きかもしれません。そうだとすれば、司馬懿は王平殿と魏延殿のどちらが先鋒か、迷っているということです」
この作戦の胆は、武功水上流を密かに渡した本隊三万の奇襲であり、実は王平も魏延も囮なのだ。司馬懿がそういう迷い方をしてくれれば、こちらの思う壺だった。
武功水上流の三万の渡河は、気取られないはずだ。防諜のため、趙広が陣地に忍んだ黒蜘蛛を駆逐し続けているのだ。司馬懿は、蜀軍本隊は王平か魏延の後詰になると思っているのだろうが、本陣の五丈原には既に一万しかいない。
「あの陣に、兵力が増えていることは無視できん。本営に伝令を出しておけ」
「私が直接行き、見たものを伝えてきます」
「よい、伝令に行かせろ。お前はここで、敵を見続けるのだ」
行こうとした劉敏が、王平に言われて俯き、部下に伝令を命じた。
武功から五丈原に退く際に、蔣斌が決して小さくはない軍規違反を犯した。その甥の過ちに対し劉敏は責任を感じ、こうしてしなくていいことまで自分でやろうとするのだ。
蔣斌の軍規違反がなければ、夏侯覇とその騎馬隊は討てていた。蔣斌が不可解な突っ込みをしていると斥候からの報告で知り、馬用の撒菱の罠にかかった夏侯覇の騎馬隊を捨て置くことになった。
つくづく夏侯覇は運の良い男だった。戦場で何度も追い詰めたが、その度に命を拾っている。そして、拾った命の数だけ、強くなっている。戦で求められるものは、肉体的な強さだけでなく、ああいう運の強さも必要なのだろう。
夏侯覇とその騎馬隊を取り逃がす要因となった蔣斌の行いは明確に罪であり、成都に護送されることになった。打ち首もあり得たが、王平と劉敏の弁解によりそれは免れた。楊儀は軍規は守られるべきだと強く主張し、戦が終われば責任者である王平が何らかの責を負うということで納得した。蔣斌の父が蔣琬であることを考えれば、それくらいは大人しく受け入れておくべきだった。
蔣斌の護送は、なるべく罪人のものと思われないよう配慮した。一行は、誰が見ても旅の商人としか思えないはずだ。また、道中で蔣斌が自決することがないよう、護送の者にはきつく言い、銭も握らせた。
五丈原を離れる前の句扶が、蔣斌が何故あんなことをしたのか探ってきた。原因は、女だった。武功に潜入した時にできた女が、魏軍の略奪に遭って無惨な殺され方をした。それを斥候の途中で目にしてしまい、まだ心の若い蔣斌は自棄になってしまったのだという。兄者の若い時と同じだと、句扶は珍しく皮肉を言って去って行った。蔣斌を許してやれと言外に伝えてきたのだと、王平は受け止めた。
本営へ出した伝令が戻ってきた。
「武功の魏軍を、今から本格的に攻め上げてください。四刻後、ここに魏延軍が合流します。そして六刻後、丞相が武功を攻めます」
丞相が攻めるとは隠語で、本隊三万が奇襲をかけるということだ。
「承知したと伝えて来てくれ」
伝令が駆け去ったのを見届け、王平は自軍の騎馬隊を馬から降ろして歩兵にした。川を挟んだこの地形では、馬はかえって邪魔になる。二万に盾を持たせて矢に備えさせ、二段に構えて前進させた。一列目が、武功水に腰まで浸けながら矢を射始めた。
「これは難儀だな。せめて川さえなければ騎馬隊を使えるというのに」
「焦ることはありません。我らは敵の目を引き付けておけばいいのです。直に来る魏延殿と合力すれば、敵の前衛は抜けるでしょう」
兵の質は蜀軍の方が高い。今の矢交わしを見ていても、こちらの矢の方がよく当たっている。諸葛亮は、魏のような若い国の兵は弱いと言っていたが、その通りだと思った。
一段目が矢を射尽したところで、二段目と交代した。杜棋が歩兵を叱咤して廻り、敵陣には矢雨が降り続いている。
「あれが気になるな」
王平は南の秦嶺山脈に目をやりながら言った。不気味な雲が、頂上を覆い隠している。あの雲は間違いなく山々に雨を降らせている。武功の戦場にも、ついさっきから雨が落ちてきていた。
「川の氾濫ですか。武功水は細いので、渭水の増水と比べれば大したことにはならないと思います。ここに来て半年で、大きく溢れたこともありません」
「しかしあんな雲は見たことがない」
山を包む雲の下が霧がかっている。そう見えるのは、あそこに激しく雨が降っているからだ。そしてそこから、武功水は流れてきている。
「忘れましょう、王平殿。どの道、我らには攻めることしかありません」
王平は秦嶺山脈の雲を見つめながら頷いた。
二段目が下がり、また一段目が出る。それが四回繰り返されると、敵陣からの矢は明らかに弱まってきた。そしてそこに、魏延の二万が合流してきた。予定よりも少し遅くなっていた。
馬を寄せてきた魏延の顔は、不機嫌さに溢れていた。今度は何を言われるのかと思い、王平は心で構えた。
「お前ら、何をしている。あの雲が見えんのか。あそこに大量の雨が降ればどうなるか、わからんとでも言うのか」
それを聞いて劉敏が間に入ってきた。
「落ち着いてください、魏延殿。武功水の流れが激しくなると言われるのでしょう。しかし今までに、兵を渡せなくなる程の流れになったことはありません」
「それは、今まであんな雲が出たことがないからだ。今から武功水を渡れば、退路を失うぞ」
「今までなかった武功水の氾濫が、たまたま今日起こるとでも言うのですか」
「黙っていろ、劉敏。お前が言っていることは、頭の固い楊儀と同じだ」
魏延に一喝され、劉敏は黙った。
「楊儀殿とも話されてきたのですね」
それで遅れてきたのかと、王平は思った。
「散々に言ってきた。お前は何故言わんのだ、王平。大事な部下を失うかもしれんのだぞ。それも、大量に」
「本隊の三万は既に武功水上流を渡河し、魏軍の側面を狙っています。我らだけで退くわけにはいかないのです」
「今はもう遅い。だが、四刻前に言っていれば間に合った。我らは大敗を喫せずに済んだ」
「それは言い過ぎではありませんか。戦の前ですぞ」
「戦の前だからこそ」
魏延はそこで絶句し、空を仰いだ。これ以上言っても無駄だと思われたのかもしれない。
「こうなれば、やるしかない。武功水はできる限り早く渡れ。水が押し寄せてくるぞ」
言って魏延は顔を横に向け、自陣へ戻って行った。
銅鑼が鳴り響き、魏延と王平の漢中軍四万が前進を始めた。盾を構えた前列が敵陣に殺到し、鉤のついた縄を柵にかけて次々と引き倒していく。本営からの伝令によると、武功本陣から渭水北岸への派兵は確認できなかったという。するとここの兵力は七万だ。漢中軍の四万が正面から攻め、本隊の三万が南の側面から奇襲をかける。兵力は同数だが、策と兵の質でこちらに分があるはずだ。
柵が完全に倒れ、敵が半里ほど退いた。
「こちらも隊列を立て直せ。合図を出したら、前列からぶつかれ」
王平の言葉が兵の口を伝っていく。四万が武功水を渡りきり、隊列が二段に整えられた。あとは本隊の奇襲を待つだけだ。
王平は鐙に立って南の山麓を眺めた。木々の中で、何かが蠢いている。その蠢きの中から蜀の旗が立ち上り、銅鑼の音が聞こえてきた。三万の伏兵。正面の魏軍が浮足立つのがわかった。王平は自軍の二万に突撃を命じた。魏延の二万も激しく銅鑼を鳴らしている。
前衛がぶつかった。それで算を乱すかと思ったが、敵陣は意外と堅かった。よく見ると、敵は側面の三万には何も備えておらず、全兵士が漢中軍に向けられていた。敵の指揮官は側面は捨てると判断したのか。しかしこれなら、敵は側面攻撃で容易に崩れる。
王平は違和感を覚え、周りを見渡した。敵陣の後方にある丘の稜線から、郭の旗と共に万を超える兵が湧くようにして現れ、王平は目を疑った。郭淮は三万を率い、渭水北岸にいたはずだ。それがここにいるということは、こちらの動きは始めから読まれていたということなのか。
郭淮の軍勢が、側面攻撃をかけようとしていた本隊三万とぶつかった。奇襲が潰され、正面の敵が勢い付き始めた。魏軍が渭水北岸から武功に兵を移したということは、蜀軍は兵力で劣勢になったということだ。それにこちらは背水でもある。
「ここは退くべきです、王平殿。鐘を打たせますぞ」
劉敏は武功水の流れを気にしているようだった。
「魏延殿に一言伝えてからだ。すぐに走ってくれ、劉敏」
劉敏はもどかしそうな顔を見せ、駆けて行った。すぐに魏延が退き鐘を鳴らし始め、王平もそれに倣った。
後列が下がり、武功水を渡り始めた。王平は水面の波紋を目にし、雨が降っていたことを思い出した。その中にしぶきを上げながら、後列の兵をまとめた劉敏が対岸へと退いていった。杜棋が指揮する前列は、徐々に後退しながら敵の追撃を食い止めている。犠牲は少なくないだろうが、ここは耐えるしかない。
その時、王平の全身の毛が、何かに反応して逆立った。兵の喚声でも鐘の音でもない、何か低い音が地を伝い腹の底に響いてきた。水だ。王平は武功水の上流に目をやった。盛り上がった水が、川幅を増やしながらこちらに押し寄せてきている。
「退け、杜棋。指揮はもういい」
叫んだが兵の声にかき消され、王平は馬を走らせもう一度叫んだ。
「指揮はもういいとは、どういうことですか」
「あれを見ろ」
それで杜棋も武功水の異常に気付き、顔を青くさせた。
「早くしろ。潰走させてもいい。一兵でも多く武功水を渡らせるんだ」
杜棋が合図をし、殿軍が敵に背を向け走り出した。迫る水を目にした兵が、武器すらも投げ出し必死に走っている。自分の軍を潰走させるのは初めてだった。王平はその様子を馬上から茫然として目にしていた。杜棋が、早く渡河しろと言っている。
水の山が来た。轟音と共に、渡河途中の兵を容赦なく呑み込んでいく。対岸に渡れたのは半数といったところか。魏軍が押し寄せ、濁流に飛び込む兵もいたが、一人残らず泥水の渦の中に姿を消していった。
「王平、王平」
対岸から魏延の声がわずかに聞こえて我に返った。川の上流を指して何か叫んでいるが、水の音で聞き取れなかった。
「本隊の三万は、位置からして武功水を渡れていません。それに合流しろということじゃないですか」
同じく取り残された杜棋が言った。周りでは、退路を失った漢中軍が一方的に殺されている。今はここから早く抜け出るべきだった。
「これから死地を斬り抜ける。全軍、俺の馬に続け。日々の辛い調練は、この時のためにあったのだ」
我らに続けと、続いて杜棋が叫んだ。
騎乗の王平と杜棋が、荒れ狂う武功水を右手に駆け、その後ろに歩兵が続いた。振り返ると、従っているのは二千程だった。そのさらに後ろでは、逃げ遅れた兵が殺されている。
見えてきた本隊の三万は、南の高所へ退きながら郭淮の軍勢と交戦していた。敵が一万程度であるため、大きく攻められてはいない。調練通りの退き方をしている本隊を率いるのは、孟琰という老将だ。
王平の二千を見て、郭淮が兵を少し退けた。その隙を突いて本隊と合流し、郭淮の一万を牽制しつつ高所に兵を上げ、守りの陣を布いた。背後は秦嶺山脈で守られているため、これで危急は去ったと思えた。
「大変なことになってしまったな、王平殿。武功水がまさかあのように氾濫しようとは」
「迂闊でした。兆しはあったのですが、私はそれを本営に訴えようとさえしなかった」
「しかし訴えたところで、楊儀殿が聞き入れてくれていたかどうか」
言って孟琰は低く笑った。本営の将軍だからこそ、楊儀の性格をよく知っているのだろう。確かにそれを訴えた魏延は、相手にもされなかったようだ。
「漢中軍は四万の内、半数は対岸に上げましたが、一万五千以上は討たれるか川に呑まれるかしました」
この戦はもう終わりだと言いたかったのだが、孟琰はただ微笑みを見せ、話題を変えるようにして言った。
「ここにいる三万の飯をどうにかせねばならんな」
奇襲の隊は、移動の速度が落ちるため、輜重を持たない。この三万の糧食は限られているのだ。それに雨が強くなり始めている。これでは火が使えず、兵は温かいものを口にすることができない。雨が降り続けば体を壊す兵がでてくるだろう。
「手持ちのもので、いつまで持ちそうですか」
「長く食べて三日。それまでに武功水の流れが戻ればいいが、戻らねば断食だな」
孟琰の声に悲愴さはなく、どこか他人事のような口調だった。具足に身を固めてはいるが、容貌に軍人が持つべき勇猛さはなく、卓の上で書物を相手にする文官のような男だ。楊儀にはこのような男の方が使い易いのかもしれない。
「私が対岸と連絡をつけてみます。武功水を遡れば、立ち往生している輸送部隊がどこかにいるはずですから、先ずはそれを見つけてきます」
「頼む」
自陣の様子を報せる兵がやってきて、孟琰に説明し始めた。それくらいは自分の眼で見るべきだと思いながら、王平はそこから離れた。
「腹が減ったか」
陣を見て廻っている杜棋を見つけ、王平は声をかけた。
「皆、暗い顔をしています。これ程に負けたことがないからだと思うんですが」
「暗い顔に見えるのは、お前の腹が減っているからだ。これを食え」
王平は腰の革袋から干し肉を出した。黄襲がつくった、香草をまぶした干し肉だ。
「こんな時に」
杜棋は遠慮したが、王平が強く勧めたのでしぶしぶ受け取った。二人して固い肉を剣で削り、口に入れた。噛んでいると肉が唾液を吸って柔らかくなり、濃い肉の味が口の中に広がった。
「うまい。負けた後だというのに、この干し肉はいつでもうまい。自分が浅ましく思えるほどですよ」
「焙ればもっとうまいんだが、この雨ではな」
「すぐに止めばいいんですが、そうはいかないみたいですな」
「手持ちの兵糧はほぼ無い。これを食い終わったら兵糧を取りにいくぞ」
「これからですか」
「そうだ。だから、お前に干し肉を食わせた」
「これは、怖い干し肉だ」
「何が本当に怖いかは、わかっているな」
杜棋が嫌そうな顔で頷いた。
この陣は敵地に孤立していて、本陣から助けがくる目途はない。高所に陣取り守りを固めているといっても、それは正規軍に対する防御であり、忍びに対するものではない。魏軍の黒蜘蛛は、獲物を弄ぶように、ここの陣を攻撃してくるだろう。蚩尤軍も天禄隊も、ここにはいないのだ。本隊を指揮する孟琰は、そのことを理解しているかどうか、怪しいものだった。
「先ずは道をつける。そして、漢中軍の二千で兵糧を運ぶ。道中は黒蜘蛛の動きに気を付けろ」
「身軽な者が十人ばかりいます。供をさせますか」
「三人でいい。あまり大人数になれば、それだけ見つかりやすくなる」
「御意」
杜棋が三人を連れてきて、五人で陣を出た。まだ周囲に黒蜘蛛はいないはずなので、山中を全力で駆けた。濡れた山の匂いがし、王平は昔を思い出した。葉に溜まった雨の玉が、駆ける王平の体を濡らし、それが心地良かった。すぐに日は暮れ、山は暗闇に包まれたが、それで足を緩めることはできない。黒蜘蛛がこの周辺に集まり始めているはずだ。杜棋が選んだ三人もそれをわかっていて、よくついてきている。近くに流れる武功水の激流が不気味に闇の中に響き、それは黒蜘蛛が近づいてくる足音のようにも聞こえた。
司馬懿は辛毗を幕舎に呼んだ。
蜀軍の一部が武功側に取り残されて五日が経った。澱んだ厚い雲は武功から去ることなく、雨は少し止んではまた降るということを繰り返し、渭水と武功水は激しく流れ続けていた。魏軍本陣の南に陣取った蜀軍三万は、この水流のため五丈原に戻れずにいるのだ。
司馬懿はこれをすぐに攻めず、黒蜘蛛に監視を命じておいただけだった。この三万は奇襲狙いだったため十分な輜重を持っておらず、捨て置いても勝手に自壊するはずだ。
武功水を渡って来る蜀軍を迎え撃っている際に、この三万が南から唐突に現れたのだった。渭水北岸に兵力を割いていればこの三万に側面を突かれていたが、武功に軍勢を戻した郭淮がこれを迎え撃ち、大した損害を出さずにすんだ。
辛毗が一礼して入ってきた。
「南の蜀軍は、細いながらも山中に兵站を繋げたようです。黒蜘蛛に命じればいつでも切れる程度のものですが」
「切らずともよい。それ以上太くなるようなら、削って細くするのだ。生かさず殺さずの蜀軍三万は、こちらの役に立ってもらうことにする」
辛毗は司馬懿に探るような視線を向けてきた。無駄なことを聞いてこないのは、辛毗の部下としての美徳であった。自分にわかる範囲だけで動き、司馬懿は少しの示唆を与えるだけでよかった。
「蚩尤軍東へ向かってから、十日以上が経つ。ここに戻って来るのは、早くてもう数日というところか」
そうなれば、南の高所に拠る蜀軍三万が力を得ることになる。それは危惧しておくべきことであった。
「あの三万の指揮官は孟琰という老将で、忍びへの認識が薄いのか、暗殺に対する備えはほとんどありません」
いつでも殺せるということだ。しかしこういう言い方をするということは、殺しておくべきか迷っているということだろう。蜀の猛将である魏延なら暗殺しておくべきだが、無能な敵なら生かしておいた方が良いこともある。暗殺は、ただやればいいというものではないのだ。
「しかし兵站線の指揮をしている者が、誰だかわからないのです」
「その孟琰とやらではないのか」
「孟琰は日に二度、陣を見て廻るくらいで、他には何もしておりません。兵站線の指揮者は周りを部下で固め、黒蜘蛛が容易に近付けずにいるのです。武功水沿いで取り逃がした王平ではないかと黒蜘蛛は言っております」
蜀軍の手強い武将の一人だった。戦場では漢中軍の騎馬隊を率いているが、昔は忍びをやっていたと聞いている。三年前の戦で張郃を討ったのは、この王平だった。趙広が本陣を守り、句扶が魏国内に潜り込んでいるのなら、その忍びを知る指揮者は王平である可能性が高い。
「孟琰を暗殺することで、王平が三万の指揮をすることになれば厄介です」
「殺しておくべきは、王平だと言いたいのだな」
辛毗が目で頷いた。
「いいだろう。王平は、ここで殺しておけ。しかし郭奕に無理はするなと言え。ここで黒蜘蛛の力を落とすわけにはいかん」
「御意」
「そしてお前には、もう一つ違うことをしてもらう」
「漢の使者ですか」
「左様。例えあの三万を殲滅しても、諸葛亮を成都に逃がしてしまえばまた兵を率いてやってくるぞ。あの男は、ここで殺しておかねばならん。ここで黒蜘蛛力を落とすわけにはいかんと言うのは、私の本当の狙いが諸葛亮の首にあるからだ」
諸葛亮に面会させた辛毗に、献帝からの遺言を預かっていると言わせたが、その遺言は渡さず、献帝の死を確認する時を作るに留めた。献帝の死は本当でも、遺言は司馬懿が捏造したものだ。一方の真実を伝え、一方の嘘を信じさせようという司馬懿の策だった。
魏軍の司令官として諸葛亮と戦い続けてきたのは、魏国内で力を伸ばしたかったからだ。しかしこれ以上の戦を続けるには、魏の力は疲弊し過ぎていた。ここで諸葛亮を殺しておかなければまた戦になることは明白で、そうなればその責任は自分にかかってくることになる。いつまでも自分がこの軍の司令官であり続けることができる保証はどこにもないのだ。
ここで諸葛亮を殺し、長年続いた蜀の侵攻を止めさせれば、司馬懿の魏国内における地位と発言力は格段に上がることになる。それは魏の中枢に巣食う、おかしなことを口走る者の口を封じる力となる。漢を壊した欲深い者の下で働き続けていたが、その立場が逆転することになるのだ。そしてその者らを政治の中枢から駆逐し、真に国に尽くせる者だけを為政者として残す。曹丕が持っていたような帝位への野望はないが、おかしな者を駆逐した結果として、自分が帝になることがあればそれもいい。秩序の頂点に立つ者が、おかしいものにおかしいと言えないのなら、自分がその地位に就けばいい。
漢が滅んでこの国土が乱世となったのは、献帝の先代である霊帝が宦官に取り込まれ、正しい判断ができなくなったからだと、司馬懿は思っていた。陰茎を切り落とした宦官は子を残すことができなくなりで、子のために良い国を残そうという気概が失われ、今を満たすためだけの欲望が極端に強くなる。自分が欲深いから、他の者もそうなのだと思い込み、帝の欲望を満たすことが忠臣であると本気で考えているのだ。そして帝は欲に溺れ、政治が蔑ろになり、周りには欲を物事の判断基準とする者ばかりが集まる。これで漢が真っ当な国であり続けるはずがない。乱世はそういった欲深い者らを一掃するためにあった。しかし曹操や劉備を始めとする、乱世の表舞台で活躍していた者たちが死ぬと、また欲深い者らが首をもたげてきた。乱世はおかしな者を殺し尽くしたのと同時に、人の世から知恵や伝統も破壊し尽くし、人から物事の判断基準を失わせしめたのだった。そして人の根源的な欲だけが残り、それが正義となり、また世が乱れる。その人間に溢れる欲望を統制するものが、四百年以上続く漢王室であるべきだったのだ。
その正しき姿の漢王室を取り戻そうというのが諸葛亮であり、蜀という国だった。しかし愚かしいことに、蜀は宦官の存在を認めていた。それは諸葛亮が自らの意思でやっているのか、周囲の意見でそうなったのかはわからない。漢王室の滅びの大きな要因の一つに宦官があったのにも関わらず、蜀の帝室に宦官を取り入れてしまったのは、宦官の魔術にかかっているとしか思えない。
愚かな者がこの魔術にかかるのだ。
宦官は男としての機能を失っているが、それを馬鹿にしてはならないという空気が世間にはあり、その空気に毒された者は、宦官を馬鹿にすることは無条件で悪だと思い込んでいる。流言等によりその空気を作ったのは、他でもない宦官自身だった。男性器を失い臆病になった宦官は、過剰な不安に駆られ、そのような自衛の仕方するのだ。そして宦官の撒いた空気の毒にやられた者は、宦官の思考と同じく、欲ばかりが先行してしまう。宦官は子を残さずとも、自らの思想とも言えない思考を民衆に種付け、同じ判断基準を共有させることで自らを守ってきた。しかしその結果として、気概ある者は迫害され、世は大いに乱れた。
この毒に冒された愚か者をどうにかするため、力を持たねばならなかった。自らもその毒に身を冒され、向こう側の人間になるのだけは嫌だった。
世の乱れを憂い、漢王室を取り戻そうという諸葛亮の思想を否定する気はないが、漢王室の復興を志す一方で宦官の存在を認めることが矛盾だということに気付けないのなら、諸葛亮は力を持つべきではない。だからこそここで殺す。そして、力を得る。
「あの男の愚かなところは」
司馬懿は歩きながら、腹の底から湧く嫌なものを抑えながら言った。愚かさについて考える時、いつも怒りのようなものが湧きあげてくるのだ。愚かな者は、不条理なものを不条理だと思わず、それが普通だと思い込んでいる。そんな奴らは、この世から全て消してやりたい。
辛毗の眼がじっとこちらを見つめていた。
「あの男の愚かなところは、敵の非に厳しく、味方の非に寛容なところだ。だから馬謖や李厳のような者に足元を掬われてしまう。あのような者に国を仕切らせればどうなる。同じことの繰り返しだ。乱世は、ああいう愚か者の思い上がりから始まるのだ」
感情が激し、司馬懿は口の中で叫ぶようにして言った。そうすることで、腹の底の嫌なものを吐き出した。
「諸葛亮は、必ず殺します。この書簡で」
言って辛毗は箱を差し出してきた。外見も中身も、帝から出るものとして完璧なものではないが、幽閉された魏国の中で、できる限りのことをしたという感じがよく出ていた。
「良い出来だ。だがこれはまだ使わん。蚩尤軍が戻る前に、諸葛亮にもう一度会っておく。交渉材料は、あの三万だ。北西に陣取る羌軍二万を帰せば、三万を五丈原に戻してやると言ってこい」
今の蜀軍は五丈原の三万と、武功の孤立した三万の計六万であり、魏軍は十万だ。羌軍を排除すれば蜀軍にだけ集中することができる。魏延軍を失うことを恐れて馬冢原を捨てた前歴のある諸葛亮なら、この交渉に応じるはずだ。
ここで王平の暗殺に成功すれば、あとの手強い武官は魏延だけだが、その魏延は蜀軍の首脳とうまくいってないと聞いている。兵力でもこちらが大きく勝っている。魏軍が負ける要素は見当たらず、諸葛亮はこの状況に絶望するだろう。その時に、辛毗の作った書簡が効く。必ず効く。
「年甲斐もなく、儂の心は震えているぞ。これだけの大戦を生き抜き、一つの策謀で全てを終わらせるのだ。そしてその終わりから、新しいものが生まれる。儂が生むのだ」
「終わらせましょう。この命に替えても、この策は成功させます」
「頼むぞ、辛毗。では、行け。蚩尤軍が帰ってくる前にな」
辛毗が書簡の入った箱を大事そうに抱え、一礼して出て行った。
司馬懿は外の様子を見に幕舎を出た。護衛が周りを固めてくるが、気にしなかった。雨がしとしとと降り続き、また激しくなりそうな空をしていた。
思えば諸葛亮は運の無い男だ。秦嶺山脈を越える途中で大雪に足止めされ、馬冢原を確保できなかった。あの大雪が降らなければ、戦の様相はかなり違っていただろう。そして戦を仕掛ければ大雨が降り、多くの兵が川に流された。
諸葛亮に運がないのでなく、自分の運が強いのかもしれない。いくら緻密に作戦を立てても、運で全てが転ぶのが戦だった。自分と諸葛亮の才にさほどの差は無い。だからこそ、運で差がついた。馬冢原からの撤退要求にしろ、武功の南に取り残された蜀軍三万を使う交渉にしろ、運の悪さでできた穴を徹底して突く。そして諸葛亮の首に手が届くところにまできた。諸葛亮は気付いていないだろうが、司馬懿はそう実感していた。
護衛の誰何を受けた者が、人の輪の中に入ってきた。伝令で、武功水対岸の蜀軍陣地に矢文を飛ばし、使者の受け入れを求めたと報せてきた。
司馬懿は幕舎の中に戻り、卓の地図に置かれた孟琰の三万に目をやった。黒蜘蛛に指令が届き、ここで王平との殺し合いが始まるのだろうと何となく思った。
7-3
腕に落ちてきた蛭が、血を吸い腹を膨らませていた。運の良い奴だと思いながら、郭循は茂みに身を隠し、孤立した蜀軍陣地を監視していた。
この三万を率いる孟琰は年老いていて、散歩をする老人のように毎日同じ時刻に同じ道で陣の見回りをしていた。これでは暗殺してくれと言っているようなものだが、それは郭奕から禁じられていた。何故、と思ったが、それは口に出さなかった。言えば郭奕の不興を買ってしまいそうだった。
三年前の戦でへまをしてから、郭奕の自分に対する態度ががらりと変わった。そしてそれは今になっても変わったままだった。どうすれば元に戻ってくれるのか、ずっと考え続けているが、わからなかった。昔のように戻りたかったが、その糸筋すら見えない。今の自分にできることは、これ以上の不興を買わないことだ。
半里先の蜀軍陣地内に孟琰の姿が見えた。今日もいつもの時間である。従者に雨除けの傘を持たせ、悠々と陣内を歩いている。手を伸ばせばすぐにでも殺せる距離だった。敵の将軍を殺すことは、普通に考えれば手柄になるはずだ。手柄を立てればまた郭奕は可愛がってくれるのではないか。そう思ったが、それは禁じられていた。しかし、手柄が欲しい。茂みの中で何度も繰り返しそんなことを考えていた。
孟琰が兵の中に消えていった。手柄が消えていったと、郭循は思った。
そしてしばらく雨の中、特に変化の見られない蜀の陣地を眺めていた。とにかく手柄が欲しい。誰をも認めさせるというものでなくていい。郭奕に認めてもらいたい。認めてもらって、このような下っ端仕事ではなく、郭奕の片腕として忍び働きをしたい。
雨音に混じり、石を打つ微かな音が聞こえた。見張りの交代を告げる合図である。
「隊長が呼んでいる。すぐに会いに行け」
離れ際に言われ、郭循は武功の本陣へと走った。
猿のように山中を進みながら体中の血を沸々とさせた。呼び出されたということは、何かしらの作戦があり、それに自分が選ばれたということだ。これで手柄を立てることができる。
郭循は岩の割れ目に隠してある具足に着替え、武功の魏軍本陣に入った。自陣の中といえども黒蜘蛛は忍びのままで歩くことはない。高官の幕舎が居並ぶ中の、郭奕の幕舎に入った。
中には既に、郭奕を含めた十人が集まっていた。どの顔も、若くて動きの軽い者ばかりである。
「遅い」
郭奕が鋭い眼を向けながら低く言った。郭循は身を小さくして謝り、末席に身を置いた。昔ならこの程度のことなら何も言われなかったが、今はこうした冷たい態度を取られるのだった。それが郭循の心に、ずっと重い影を落としていた。この作戦で手柄を立てたい。郭奕の信頼を取り戻したい。
「南の三万に兵糧を運んでいる者の正体が、未だに掴めん」
若い十人の部下を前にして、郭奕は咎めるような口調で言った。蚩尤軍がこの場を離れたにも関わらず、思う成果を出せていないのだ。
「王平ではないかと推測されているが、まあ十中八九、王平だろう。あれは昔は忍びをやっていたという。趙雲を討ち取った王双という人と共にな」
それを聞き、何人かが驚いた顔をしていた。趙雲を暗殺した王双といえば、黒蜘蛛の中で知らぬ者はいない。その王双は、六年前の陳倉での戦いで、撤退していく蜀軍を数騎で追撃するという不可解な死を遂げていた。
「今の蜀軍を支えているのは、魏延と王平だ。王平の首にどれほどの価値があるかはわかるな」
その場にいる全員が頷いた。若い黒蜘蛛は皆、王双になりたがっている。それだけの価値が王平の首にあると郭奕は言っているのだ。
「目星は二人ついている。王平と思われている者は巧妙に姿を眩ませているため、絞りに絞って二人だ。このどちらをも殺す」
十人いるということは、五人一組で一人を殺すということだ。
「郭循、お前が片方の指揮をやれ。もう片方は、胡才だ。今はまだ蚩尤軍がいない。お前らだけでやれ」
郭循と胡才は頷いた。試されている。黒蜘蛛の中には、蚩尤軍と戦い抜き生き残っている、もっと老練な者もいるのだ。しかし作戦に選ばれたのは、自分を含めた若い十人。ここで手柄を立てず、いつ立てるというのか。
「では、行け」
郭奕の合図で十人は幕舎から飛び出した。
南の蜀軍三万は、漢中から武功水上流までやってくる輸送隊から兵糧を受け取っている。受け取ってからは、山中の道なき道を、二千の兵が輜重もなしに運んでいるのだ。一度に多くを運べず、しかし三万もの腹を満たさねばならぬため、雨が降ろうと朝から夜までずっと休まず兵糧を運び続けている。吹けば飛びそうなほどのか細い兵站線だったが、それを切ることも郭奕から禁じられていた。
その兵糧を運ぶ二千の指揮を誰がしているのかがわからなかった。その者は兵卒と同じ具足を身に着け、兵が雑談するかのように指示を出している。そして、忍びのことをよく知っている。
それで王平ではないかという推測が立った。蜀軍の大物である。その経歴は特異で、昔は魏軍に属し、王双と隊を共にしていたことがあるらしい。普段は騎馬隊を率いているが、山岳での戦闘もできるということだ。
だからといって、暗殺が不可能だとは思えない。二千の兵站部隊は、王平と思われる者を除いて、全員が普通の兵なのだ。そこに突破口があるはずだ。句扶の率いる蚩尤軍は東へ行っているため、蜀の忍びからの妨害を受けることはない。
郭循は並走する胡才の顔を横目で見て言った。
「おい、胡才。頼みがある」
「なんだ」
走りながら話しているが、互いに息は切らせていない。
「王平の首は俺に譲れ」
「なんだと」
「三年前、大きなへまをした。それを挽回したい」
「譲れなどと、どうやって。作戦は二手に分かれてやるんだぞ」
「お前の方が王平なら、待っていてくれ。すぐに行く」
「勝手なことを言うな。待てば機を逸してしまうではないか。それにお前の言っていることは命令違反だ。二人とも殺せと言われたのだぞ」
「それは俺たちの腹次第だ。要は、王平を殺せばいい」
「もう一度だけ言う。勝手なことはぬかすな。俺は黒蜘蛛として、隊長からの命令をこなすだけだ」
「俺がこんなに頼んでいるのに」
「手柄が欲しいのだろう。お前は、郭奕殿に疎まれているからな。お前のそういうところが疎まれる原因になるんだよ」
「胡才、言っていいことと悪いことが」
「言わねばわからんのだろう。だから言った。言われたくないのなら言われないよう、お前が努めろ」
言われてかっとした。胡才はそれを察したのか、他の四人と共に郭循を離れて山中の茂みに消えていった。
郭循は何度も舌打ちをした。この作戦の手柄は、自分にとってはただの手柄ではない。郭奕に好かれるか嫌われるかは、自分にとっての死活問題と言っていい。あれだけ頼み込んだのに、何故それをわかってくれないのか。ここで手柄を立てればまた郭奕からの寵愛を受けられる。それが自分にとってどれだけ大きいものか、胡才はわかっていない。考えようともしていない。同じ手柄でも意味が違ってくるのだ。出世欲に塗れて手柄を立てようとする者と比べれば、些細なことではないか。俺は一人から愛されたいだけなのだ。
郭循は煮える腹を抑えながら、山中の水気を含んだ空気を吸い込み気を落ち着かせた。熱くなった頭で戦場に臨めば死に繋がりかねない。腰を落として木々に身を隠し、足を前に滑らせるようにして進んだ。忍びの、山中での基本的な進み方だ。蚩尤軍はいないが、必ず任務を成功させるため、慎重に目的地まで向かった。
合図をし、兵站線を見張る者に来着を告げた。
「あの五人組、前から三番目で俵を担いでいる」
見張りが口の動きだけで伝えてきた。郭循は茂みの間から目を凝らした。全員が同じ具足で兜を深く被っている。一度目を離すとわからなくなってしまいそうだった。
「了解した」
郭循も口の動きで伝え、見張りは姿を消した。
同じ格好をしているが、じっと観察していると見えてくるものがある。一人の者に対する微妙な態度の違いがあるのだ。その違いとは、兵卒が隊長に対して取る態度だ。また、どこから指示が発されているのかも、朧げながらも見えてくる。
隊長らしき者が、二千の中に二人いた。一人は手前半分の兵站線を指揮し、もう一人は奥半分の指揮だ。郭循は手前半分の指揮者を受け持った。この二人のどちらかが王平のはずだ。
郭循はしばらくそこから眺めていた。五人一組で俵を一つ運び、それが何組も蟻のように続いている。兵はそれぞれが腰に剣を佩き、四人が俵を担いで一人が周りを警戒している。それが黒蜘蛛に対する警戒だというのは見ていてわかった。
陣容が固く、すぐに暗殺できそうになかった。今すぐにというわけではないが、蚩尤軍が戻って来るため、長くかけすぎるわけにもいかない。そして待つことへの焦燥感もあった。もし胡才が王平の暗殺に成功すれば、手柄は胡才のものになってしまう。せめてどちらが王平であるかを確認しておきたかった。
郭循は見続けた。焦るも隙を見出せず、遠くから兵站の行列を目で追うだけで日が暮れた。兵站の二千が陣に引き上げていく。騒ぎがないところから、胡才も今日は仕掛けられなかったのだろう。
最後の兵が陣に入るのを見届けながら、郭循は考えに考えた。狙うなら、一人になる時が理想だ。しかしこの兵站部隊は五人一組で、一人が糞をする時ですら、四人が周囲を警戒している。せめて火を使えればいいが、この雨の中では無理だ。時をかけて攻めるべきだという思いと、手柄への焦りが郭循の中で交錯した。
山が完全な闇に包まれると、胡才がやってきた。言い合いのことがあったので郭循はあまり会いたくなかったが、胡才に気にしている様子はなかった。
「隙がないな、この輸送隊は。せめて火でも使えればいいのだが」
茂みの中に、雨と虫の音に混じった胡才の声がぼそぼそと聞こえた。空は雨雲に覆われ月明かりがないため、口の動きは読めない。
「隙が見えるまで待つべきだ。あいつらは、こちらが襲いかかるのを待っているという気がする。とにかく、待ち続けるべきだ」
正論を言ったつもりだが、胡才に抜け駆けされたくないという気持ちもあった。聞いている胡才は、暗闇のため、どんな顔をしているかわからない。
「蚩尤軍が戻って来るぞ」
「わかっている。長くは待つつもりはない。ただここぞという時が見えるまで、安易に動くべきではない」
「三日待とう。それで見えてこないなら、強引な手を考えるべきだ」
蚩尤軍が戻って来ることを考えたら、それくらいが限界だろう。郭循は胡才の意見に同意した。
五人ずつ二手に別れ、闇の森の中で雨を凌げる所を探し、一人を見張りを立てて交替で眠った。
翌朝、輸送隊が陣から出てくる前に起き、茂みに入って輸送隊の行列を観察した。どこかに隙はあるはずだ。それを見つけだすのも、忍びに求められる力の一つで、郭奕が求める力の一つでもある。
二日が過ぎ、決定的なものを得られないまま三日目の朝が白み始めようとしていた。狙うなら、陣に出入りする寸前、或いは武功水での兵糧の受け渡しの時だ。それらは王平の無防備を狙うというものでなく、ちょっとした不意を突くという程度のものであり、確実性に欠ける。
郭循は雨を凌げる大樹の根の下で目を瞑るも眠れず、この二日間で見たものを頭の中で何度も反芻させて、王平暗殺の手を考えた。見張りが戻る足音がして、郭循は目を開け身を起こした。戻って来るにはまだ早いはずだ。他の三人も音に気付き、続いて起き始めた。
「どうした」
郭循は戻ってきた者を質した。
「何かが近づいてきます。鹿か何かのような気もしますが、四方から来るのです」
言われて郭循の背中に冷たいものが流れた。雨は止んでいて、辺りは薄い霧に包まれている。白いもやの向こうで、確かに何かの気配がある。鹿の群れのようでもあるが、それはこの場をぐるりと囲んでいた。
王平に気付かれたのだ。しかし、何故。考えている暇はない。蚩尤軍がいないからといって、油断し過ぎたのだ。
囲んでいる気配が徐々に近づいてくる。ここを丸く囲み、円を狭めていって見つけ出そうという気なのだろう。数はわからないが、二百はいそうだった。こちらは五人である。忍びに味方する闇はもう晴れてしまい、山中での奇襲に味方する霧が出ている。霧は逃げる時には役立つが、忍んで近づく者の姿も隠すのだ。
遠くから囲んで距離を詰めてきているということは、こちらの正確な場所は掴まれていないということだ。郭循はそこに活路を見出せないかと頭を巡らせた。
こうなれば、暗殺も何もない。全員がここから離脱することも難しいだろう。ならば、考えるべきことは、自分が生き残るにはどうするかだ。郭奕に疎まれたまま死ぬなど嫌だ。
「お前らはここに隠れていろ。俺は、木の上から敵の数を確認してくる」
四人は頷き、大樹の根の下へ潜っていった。郭循は大樹に登り、張り出した枝に身を伏せた。見渡したが、敵の姿は見えない。ただ気配はさっきよりも近い。
いたぞ、という声が聞こえた。恐らく胡才の五人組が見つかったのだろう。少しの間、闘争の気配があり、断末魔が聞こえた。これで満足して陣に戻ってくれ。枝の上でそう願ったが、囲いの輪は狭まってくる。そして郭循の真下にまで兵が来た。
いた、という声と共に、根の下の穴に戟が突きこまれた。円が最後まで狭められたのか、同じ具足に身を包んだ兵が集まってきている。根の下から、四人の死体が引き摺り出されていた。
郭循は息を殺して枝の上で兵が去るのを待った。辺りを探り回っているが、頭上に注意は向けられていないようだ。郭循は、兵の中に見覚えのある者がいるのに気付いた。この二日間、ずっと追い続けている男。この輸送隊を指揮している者だ。その男が不意に兜の廂を上げ、こちらに目を向けた。目が合った。王平。してやったりという顔を、にやりとさせていた。
「あそこにもいるぞ。討ち取ってしまえ」
王平が叫ぶと周囲の兵が一斉に顔を上げた。
郭循は跳躍して隣の木に飛び移った。後にした枝に短い矢が連続して刺さった。
「矢の向き気を付けろ。味方にあたるぞ」
枝から枝に飛ぶ郭循の背中に聞こえてきた。北へ走り森を抜けようかと思ったが、王平はそこまで読んで既に兵を配置しているかもしれない。郭循は武功水の音が聞こえる方へと向かった。霧が姿を隠しているはずだが、兵の駆ける音は後ろから続いてきている。
武功水に出た。雨は止んでいたが、流れの激しさは収まっていない。
飛び込もうか迷っている郭循の木の枝に矢が突き立った。
「あそこにいるぞ。射て」
はずれた矢が何本か武功水に落ちた。その矢はかなりの速さで流されたが、濁流に揉まれることなく水面に浮かんでいた。これならいけるはずだ。
兵が霧の向こうから集まり続けている。郭循は息で胸を膨らませ、矢の雨が木に突き立つのとほぼ同時に武功水に飛び込んだ。
辛毗に従い武功水を渡った。
前と同じように、蜀軍の兵が出迎えに来た。当然、友好的な雰囲気ではないが、忍びからの刺す様な視線は無く、前回程の命の危険はなさそうだと郭奕は判断した。
漢の使者ではなく、魏軍からの使者という立場で五丈原を登った。武功の南に取り残された三万の将兵を人質としているのだ。自分たちを殺せばその三万を失い、五丈原の蜀軍は二万にまで減ってしまう。諸葛亮はそのことを熟知しているだろうが、この使者派遣に賭けの要素が消えたわけではない。しかし司馬懿は躊躇なく賭けた。それも、二度目である。
蜀軍本営に近付くと、さすがに忍びの気配が強くなってきた。句扶の蚩尤軍は献帝の死を確認するため東に去っているため、ここにいるのは趙広率いる天禄隊のはずだ。
句扶の蚩尤軍は手強いが、相手が趙広だけであれば忍び戦で圧倒できる自信がある。趙広は、句扶と組んでこそ力を発揮する男だった。趙広が無理にふっかけてこないのは、趙広自身が己の力量をよくわかっているからなのだろう。それを嘲笑おうとは思わない。忍びは、それくらい臆病なのが丁度いい。戦場での臆病さは、人を怯懦にするが、慎重にもさせる。趙広は後者の方で、それが黒蜘蛛にとっての手強さとなっていた。
「入ります」
辛毗が声を張って言い、他の護衛を残して二人で幕舎に入った。
諸葛亮が座っていて、傍らに楊儀と前回はいなかった費禕が侍っている。
「また会ったな、辛毗。生憎だが、まだ前に言っていたことの確証が取れておらん」
言った諸葛亮の目は窪み、前に見た時よりさらに痩せているように見えた。あまり眠っていないのだろう。目の奥の光も弱くなっているという気がする。
「確証のことは構いません。本日は漢の使者としてでなく、魏軍からの使者として参りました」
楊儀の顔が、あるかなきかの反応を示した。魏軍からの使者であれば殺せる、と思ったのかもしれない。費禕は顔色一つ動かしておらず、そこからは何も読めなかった。
「交渉です、諸葛亮殿。武功水に阻まれた三万を、五丈原に戻します。その代わりに、渭水北岸の羌軍二万に、領地に戻るよう言って頂きたい」
諸葛亮はそれに何も答えず、楊儀が一歩前に出て言った。
「羌軍は漢王室の復興という志を我々と共有し、出張ってきているのだ。帝室からの勅令ならまだしも、魏軍に言われたから帰れなどと、言えるわけがなかろう」
「ではその羌軍は」
辛毗がゆっくりと答えた。言葉を選んでいるのだと、郭奕は思った。
「その羌軍は、先日の戦で何故動かなかったのでしょうか。不本意ではありますが、あなた方にとって我ら魏軍は逆賊なのでしょう。なのに羌軍はその逆賊と戦おうともせず、蜀軍からも魏軍からも銭を貰い、あそこに居座り続けております。勤王を叫び、それを銭を得る手段としているならば、それこそ逆賊の所業ではありませんか」
楊儀は言い返せず、ただ仏頂面をして両腕を組ませていた。辛毗は跪いていたが、腕を組む楊儀の方が小さく見えた。
見かねたように費禕が前に出た。
「何故、三万を攻めないのですか。十万の軍をもって三万を壊滅させれば、残るは五丈原の二万のみです。司馬懿殿は、何故それをしないのですか」
穏やかな言い方だが、嫌な質問だった。
そうしないのは、諸葛亮を成都に逃したくないからだ。兵力が二万にまで落ち込めば、蜀軍は撤退せざるを得なくなる。そうなれば、諸葛亮を殺せなくなる。
「それは」
辛毗はやはりゆっくりとした口調だった。答えるに難しい質問だった。費禕はこちらの真意を見越して聞いているのかもしれない。
「諸葛亮殿が、成都に御帰還となりますと、我らは困るのです。献帝陛下からの遺言を、諸葛亮殿に渡せなくなります」
「詭弁だ」
楊儀が叫ぶようにして言った。諸葛亮が羽扇で楊儀の腹を軽く叩いて宥めた。費禕は静かに数度頷いただけだ。つまり狙いは諸葛亮の首にあるのだなと、費禕の眼が言っていた。
「その遺言とやらは、まだ渡してもらえないのですか」
「始めに申しあげました通り、本日は魏軍の使者として参っております。それに、献帝の死の確認にはまだ時がかかるとも、諸葛亮殿は仰っておりました」
「しかし、解しかねます。建前はよろしい。何故、そこまでしてその遺言を出し惜しむのでしょう。それには、どのようなことが書かれてあるのでしょう」
「今はまだ申し上げられません。遺言の内容を知っているからこそ言えないのです。これは、悪意があってのことではありません」
「主上の御意志を、お前の都合で出し惜しむのか。そんな身勝手な言い分で、我らが納得すると思っているのか」
「献帝陛下は寛大な御方でした、楊儀殿。これをここで言ってしまえば、私は殺されてしまうかもしれない。陛下はそれをよくわかっていて、私に温情をかけて下されました。だからこそ、遺言を伝えるかの判断は私に任せてくださったのです」
「死ぬことが恐いのか。戦陣の使者は死を覚悟してやるものではないのか」
「私の心積もりは、そうです。しかし、このことで死ぬなとも命じられました。それでも私を殺そうというのなら、それは受け入れなければなりません」
「なら、すぐに遺言を持って参れ。そのことでお前を殺さんと約束しよう」
諸葛亮が、痰の絡んだ声で言った。風邪をひいているのかもしれない。
「しかし、先ずは確認を」
「もったいぶるな。蚩尤軍は、もう一両日で戻ってくるのだ。たかが数刻それが前後したところで問題はなかろう」
「これ、楊儀」
諸葛亮の羽扇が、また楊儀の腹を打った。
蚩尤軍の帰還はあと一両日。これは郭奕にとって重要な情報だ。
「わかりました。そこまで言われるのであれば、これより本陣に戻り、遺言書を取って参りましょう」
それを聞いた楊儀が、言質を取ってやったという満足げな顔を見せていた。この言葉を引き出すために蚩尤軍のことを言ったのだとでも言いたげだった。馬鹿か、と郭奕は心の中で思った。遺言の渡しは、どの道すぐにやるつもりだった。
「お待ちください」
費禕が言った。
「やはり、先ずは蚩尤軍の帰還を待つべきです。そのような重要なものを、軽々しく受けるべきではありません」
「何を言っているのだ、費禕。辛毗殿がようやく心を変えられたというのに、何故そんな横槍を刺す」
「待ちましょう、楊儀殿。せめて蚩尤軍が戻るまでは」
費禕の眼が、何かを楊儀に伝えたがっている。郭奕からはそう見えた。しかし楊儀は何も感じなかったのか、怒って費禕を捲し立てるだけだった。
費禕は気付いたのかもしれない。司馬懿の造った偽の遺言書が諸葛亮の手に渡れば、蜀軍は大きな打撃を受けることになる。具体的な遺言の内容まではわからないだろうが、費禕はこの遺言書の危うさに感づいた。辛毗が費禕を黙らせるべきだったが、放っておけば楊儀が費禕の意見を潰してくれそうだった。
「やめよ、二人とも。使者の前であるぞ」
諸葛亮が二人を宥め、辛毗の方を見て言った。
「その遺言とやらは、この戦にどのような影響を与えるのか、想定でいいから言ってみろ。そなたほど聡明な者であれば、それがわかるであろう」
郭奕は横目で辛毗の顔を見た。こめかみの辺りから、汗が一筋流れて落ちていた。
「……何も申し上げられません」
「そうか。なら、それはいい。羌軍は郷里へ帰そう。三万を、ここに戻してくれ。敵地の山中に取り残された将兵は不安にしていることだろう」
「御決断に感謝致します。これで肩の荷がおります。それで、遺言の方は」
諸葛亮は目を瞑ってしばらく考えた。考えているその顔は、七十を越えた老人のように見えた。
「明日の正午。ここで昼餉でも共にしよう」
「かしこまりました」
費禕がまだ何か言おうとしていたが、諸葛亮が羽扇で制した。
「それでは、本日はこれで」
「帰る前に、そなたに渡しておきたいものがある。謀略に優れた司馬懿殿に対する、ささやかな贈り物だ」
それを聞いた楊儀が奥に入っていき、顔をにやつかせながら一抱えの木箱を持ってきた。
「中は何でしょう」
「司馬懿殿と共に確認してくれ。危険なものではない」
郭奕はその箱を受け取った。大きさほどの重さはなかった。
「帝を謀略に使うなど、不敬極まりないことだ。戦うなら正々堂々とやれと司馬懿殿に伝えてくれ。そなたがやっていることは、男のやることではないと」
「それは」
「何も言うな。儂の言ったことを、そのまま伝えてくれればいい。その言葉をどう取るかは、司馬懿殿の勝手だ」
辛毗はしばらく頭を下げたままで、わかりましたと答えた。
話はそれで終わり、幕舎を出た。
外で待っていた部下が、蜀の兵と雑談をしていた。悪い雰囲気ではなさそうだった。部下らは出てきた二人を認めて周囲に集まり、蜀軍の本営を後にした。
一人が近づき、郭奕の隣を歩いた。黒蜘蛛の一人である。
「どうであったか」
「漢の帝は本当に死んだのかと、しきりに聞かれました。前にここに来た時に、辛毗殿が叫ばれたことが噂となって広まっているようです」
「兵卒の反応は」
「本当だと言うと、微妙な顔をしていました。どうしたらいいかわからないといった表情です。そしてその瞬間から、相手から敵意が消えた気がしました。これはあくまで私が受けた印象に過ぎないのですが」
前の使者の時に、辛毗が献帝の死を幕舎内で叫んだ。それは外にいた兵の耳に入る程の声で、そこから蜀の兵卒の間に広まっていた。辛毗が叫んだのは、それを流言とすることに狙いがあった。その効果がはっきりと表れている。
五丈原を下り、武功水を渡ると、川の中から黒い塊が姿を現し、そのまま川原に打ち上げられた。よく見ると、その黒い塊は郭循だった。
郭奕は部下が駆け寄ろうとするのを手で制し、郭循に歩み寄った。
「失敗したのだな」
口から泥水を出しながら、郭循は顔を上げた。その顔には、恐れにも絶望にも見える表情が浮かんでいた。
「申し訳ありません。私以外は皆、討死しました」
郭奕はそれ以上何も言わず、郭循に背を向けた。かつては可愛がっていたが、使えないものは使えない。郭奕が思うのはそれだけだった。句扶との忍びの戦いは、部下を可愛がりながらやれるほど甘いものではない。今は王平の暗殺より、諸葛亮の首だ。司馬懿の口調も、王平の暗殺はできればという程度のものだった。黒蜘蛛の力が削られる危険を冒すなとも言っていただから老練な者は選ばず、年若く経験の浅い者だけを選んだ。そして、失敗した。
郭奕はもう王平暗殺のことを頭から消していた。
背の向こうで、郭循が声を上げずに泣いていた。
7-4
雨が止み、武功水の流れが落ち着いてきたところで船橋がかけられ、武功水側に取り残された蜀軍三万の渡渉が開始された。
魏軍はその三万に手出しすることはなく、それどころか船橋のための小舟まで出してきた。諸葛亮はそれを訝しんだが、蜀軍には兵糧を運ぶための流馬以外にほとんど船はないため、魏軍からの申し出を受け入れた。
武功水の激しい流れのため何本も架けられず、一本の船橋に一列で、徐々に三万が五丈原側に戻ってきている。
向こう側に取り残された二十日の間、この三万に兵站を繋ぎ続けていたのは王平だった。山中を伐り開き、部下の二千を使い全て手運びでやっていたのだという。一番心配だった黒蜘蛛の襲撃も、一度撃退している。それに比べて孟琰は、陣を見廻るばかりで特筆できることは何もやっていない。王平がいなかったらこの三万が五丈原に戻って来ることはなかっただろう。
しかし楊儀は、苦境に陥った時こそいつも通りの冷静さが大事なのだと言い募り、孟琰のことを誉めていた。楊儀自身が選んだ将軍だから誉めているだけだと見えた。
つくづく自分は人を見る眼がない、と諸葛亮は思った。馬謖は起こるはずのなかった失敗を犯し、李厳には裏切られた。楊儀は与えられた仕事はしっかりとこなすが、己を殺すということを知らない。使者の辛毗との面会時にはそれが顕著で、辛毗の言葉に何度も前のめりになっていた。それとは対照的に、費禕は終始冷静で、辛毗の言うことの裏まで読もうとし、受け答えもしっかりとしていた。
楊儀を起用したことは失敗だったと、諸葛亮ははっきりと思うようになった。本当ならもっと前に思っておくべきことだった。費禕にしろ、成都にいる蔣琬にしろ、前線を張る魏延と王平にしろ、人が少ないと言われる蜀の中にも有能な者はいるのだ。しかし、無能を高い地位に置いたことが、一度や二度ではなかった。蜀には人がいないと鼻から決めつけ、思い込み、良い顔をしてくる者がいれば仕方がないと自分に言い聞かせて使った。だが本当に有能な者は、そんな良い顔をすることなく良い仕事をするのだ。そういう者を見出し、力を与えてやるべきだった。
魏国の創始者である曹操は実にそれを上手くやっていた。戦には兵力も兵糧も必要だが、それ以上にそれらを巧みに運用する者を厳選し、良い仕事を邪魔する者を排除するという作業が重要だった。しかし諸葛亮は、人選を怠って戦は全て自分の手でやるべきだと驕り、その結果として自分に従順かどうかで人を選んでしまった。その基準で判断すれば、楊儀は非常に優秀なのだ。しかし戦陣の幕僚としては、辛毗とは比べようもないほど無能だった。兵糧の計算だけが得意で、せいぜい兵糧番が関の山の男を右腕としてしまったのだ。馬謖と李厳の失敗から、何も学んでいなかった。いや、本当の無能は自分なのではなかったのか。外征を魏延に任せ、自分は内政と後方支援をやっておくべきではなかったのか。だが自分には、この大戦を誰かに任せる度胸と器量はなかった。
卓に書簡が積み上げられている。これを読み尽くすことで、蜀軍内を隅々まで頭に入れておける。兵糧の流れから、兵の犯した罪、壊れた武具の一つ一つにまで眼を配った。もう五度目の出兵であり、これ以上の失敗は許されないのだ。どこかに落とし穴はないか、不安だった。
今は亡き曹操や劉備が今の自分の姿を見れば笑うかもしれない。何故、それを誰かに任せないのかと。人を選ぶ時は十分にあったではないか。
いつしか成功への熱意より、失敗への不安の方が大きくなっていた。もうこうなれば撤退の機かと思うが、この戦の準備に費やした三年の重みが、それを思い止まらせた。
楊儀が、王平を伴って入ってきた。諸葛亮は積まれた書簡を端に寄せ、二人を前に座らせた。
「御苦労であった、王平。三万の腹をよく満たしてくれた」
王平が一つ頭を下げた。
「あの三万が壊滅していれば、我々は撤退を決めているところだった。蔣斌の罪を被ると言っていたが、この功績はそれを帳消しにしてもいい程のものだ」
楊儀が続けて誉め、王平はまた頭を下げた。
楊儀は軍内で嫌われているが、珍しくこの二人の仲は悪くなかった。王平が楊儀に阿っているわけではない。恐らく、字の読み書きができないという王平の欠点が、楊儀の心に安心感を与えているのだろうと諸葛亮は見ていた。また王平は少し齧り知っている漢の歴史のことを楊儀に聞いたりすることがあり、楊儀はそれに揚々として答えるのだった。軍人としては極めて優れている王平だが、無学という欠点を隠そうともしない態度が、軍人に劣等感を持つ楊儀のような男に安心感を与えるのだろう。或いはそれは、王平の計算された処世術の一つなのかもしれない。そのおかげで、本来なら打首だったはずの蔣斌を、王平は楊儀を説得して救えたのだった。
「王平から、丞相の耳に入れておきたいことがあります」
楊儀が目で合図をし、王平が頷いた。
「武功水の川岸に集められた蜀兵三万に、魏軍がおかしなことを吹き込んでおりました。漢の帝はもう死に、蜀軍が戦わなければならない理由はもう失われたのだと」
「なんだと」
諸葛亮は唸って言った。
「誰が、どのように言っていた。詳しく話せ」
「恐れながら申し上げます。多くの護衛に囲まれた司馬懿自身は、並んだ兵を前にしてこう言っていました。諸葛亮は漢の帝がこの世を去ったことを隠し、蜀の民に無駄な血を流させている。戦がやりたいだけの諸葛亮に騙されてはいけない。戦をする理由がなくなった今は、我らは助け合うべき同胞なのだ。そう言っていました。無論、私はそんなものは詭弁であると思っていますが」
「それを耳にした兵の反応はどうであったか」
「司馬懿の言葉を真に受けている者は少なくありません。見る限り、半数以上は本気にしているかと。司馬懿の言葉を鼻で笑う者もいますが、大勢に潰されてしまうほどの少数です」
諸葛亮はまた唸った。この三万が五丈原に戻ればどうなってしまうのか。今いる二万の間には既に、献帝の死は噂として広まっているのだ。司馬懿の言葉を持ち帰った三万がその噂を確固なものにするだろう。そして将兵はこう思うはずだ。何故、諸葛亮をはじめとする蜀軍首脳陣はこれを黙っていたのだ。蜀軍は漢王朝の復興を旗印にし、戦の苦難を受け入れ続けてきた。それは何だったというのか。諸葛亮の戦は、ただ野心によるものだったのではないか。
本日中には蚩尤軍の一部が帰還し、献帝についての詳細が判明する。それで判明したことを今更公表したところで、司馬懿が言ったから慌てて公表したのだと思われるに違いない。こんな大事なことを敵から聞かされ、激しい憤りを覚える者もいるだろう。蚩尤軍が情報を持ち帰ってきたのは今日だったのだと言ったところで、怒りを帯びたこの大勢が容易に納得するはずがない。それどころか、怒りに油を注ぐことになりかねない。
楊儀が膝をかたかたと震わせていた。諸葛亮がそれに眼をやると、気付いた楊儀は気まずそうにそれを止めた。
「行っていいぞ、王平。今は兵の傍にいて、不安を和らげてやれ」
王平が直立して返事をし、幕舎を出て行った。
恐れていたことが起ころうとしている。漢の帝の死を蜀の兵が知ればどうなるか、司馬懿はよく知っていたのだ。武功の南に残された三万を攻撃しなかったのはこの策のためだったのだ。
蜀軍の全ての者が共有していた、漢王室の復興という価値観を破壊し将兵の心を四散させ、さらに首脳部への猜疑心を植え付けた。攻撃して追い散らさずとも、こうして軍を瓦解させることもできるのだという司馬懿の高笑いが聞こえてくる気がした。
諸葛亮ははっきりと負けを意識した。この負け方は、ただ武力によって追い返されるよりよほど質が悪い。一つの国に住む人々が共有していた価値観が壊され、蜀国で政治を為す者への疑念が生まれた。兵力への数字的な損害でなく、目に見えぬ心の損害。これを修復するにはどれほどの時を要するのか。その間に蜀が滅んでしまうことは十分にあり得るのではないか。
「丞相、我らは兵力で劣りますが、まだ策はあります。なんとかして戦に持ち込むべきです。明確な敵が目前にあれば、人の心はまとまります」
「その目前の敵が、我らだと思われていたらどうする」
楊儀がはっとして顔を青ざめさせていた。もはや楊儀の存在は、諸葛亮にとって煩わしいものでしかなかった。
ここで無理に戦をすれば、司馬懿は蜀の兵に投降を呼びかけてくるはずだ。それに呼応する者は必ず出る。一つが応じれば二つが応じ、それが四つになり、そうやって連鎖的に離反する隊が出るだろう。こちらにはもはや戦う理由なく、兵力でも劣っているのだ。
「恐ろしい男だ、司馬懿は。将と首脳部の間にではなく、兵卒と首脳部に離間をかけてきた。仮にここを凌げたとしても、この確執は戦を終えた後にも残る」
「せめて蚩尤軍がいれば攻め手はあるのですが、兵の退き時でしょうか」
楊儀がか細い声で言った。
諸葛亮はしばらく何も言わず、目を閉じ考えた。
撤退すべきだろう。問題は、それをどうやるかだ。魏との戦には、蜀国が蓄ええた厖大な財を費やしてきたのだ。それが魏領に一歩踏み込んだだけでそれ以上進めず撤退し、蜀の臣民が納得できるはずもない。下手をすれば成都まで帰る道中に反乱すら起こりかねない。
この大衆の怒りを鎮める方法はないわけではない。誰もが納得できる形で、この戦を主導した者が責任を取ればいいのだ。第一次北伐で馬謖の首を落とした時のように。
「方法を考えろ。撤退となれば、誰かが責任を負わねばならん」
「責任などと。秦嶺山脈での大雪に、武功水の増水は、明らかに運でありました。この敗戦は誰かの過失からでなく、人の力の及ばぬ運によるものによるならば、その必要はありません」
責任の取り方まで含めて撤退の仕方を考えろと言ったつもりだが、楊儀はまた的外れなことを言っている。自分は責任を取りたくないと言っているようにも聞こえた。
「昔、曹操が戦陣で兵糧を枯渇させてしまった時、どうやってその場を凌いだか、お前は知っているか」
不安を浮かべた楊儀の顔がわからないと言っていた。
「罪の無い兵糧番の者に、着服の汚名を着せて殺したのだ。それで腹を空かせた大勢の兵の怒りは、曹操にではなく殺された兵糧番の者へと向かった」
「無茶苦茶な話です」
「それだけ曹操は、集まった人間の怒りの恐ろしさを理解していたのだ」
「何を仰せになりたいのか、私にはわかりません」
楊儀が額に汗を浮かべながら、今度は膝だけでなく指まで震わせていた。つまらないことを言ってしまったと束の間後悔した。その様子に落胆したが、顔に笑みを作って言った。
「心配するな、楊儀。何もお前の首を落とそうと言っているのではない。撤退の準備だ。兵糧をまとめてこい」
「わかりました」
楊儀は顔を俯かせながら席を立った。その動作には、少しの怒りが籠められているように見えた。
楊儀の心を瀬踏みしてみたが、期待していたものは何も出てこなかった。わかっていたことだった。だから、諸葛亮はすぐに諦めた。
曹操なら、躊躇せずに楊儀の首を落としていたのだろう。しかし諸葛亮は首を落とした後の周囲の反応を恐れた。身内を殺せば、次は自分ではないかという不安に駆られる者は必ず出てくる。その反応は必ず蜀軍を弱体化させる。曹操はその不安という負の力すらも、何かしらの原動力に変えて使うという技術があった。自分にはない技術だ。
代わりに蜀国には劉備から受け継いだ仁徳の力で人を動かすというところがあった。その力は曹操の力とは相反するものだ。しかし劉備から受け継いだ中途半端な徳の力が、馬謖や李厳や楊儀のような者を調子付かせてしまった。劉備なら始めからこういう者らは近くに置いておかなかっただろう。それは劉備の性格的なものだと思っていたが、徳を用いる者は無能な者に対する厳しさも同時に持たなければならなかったのだ。それを諸葛亮は見誤っていた。仁徳を理解しない者への厳しさが、自分にはなかった。それが原因で負けに負け続け、今になってようやくその大事なことに気付くことができた。
楊儀が兵糧番に相応しい男なら、自分は何なのだ。少なくとも、一国の宰相をやっていい男ではない。この敗戦の責任は自分が取る他ない。微かな怒りを見せた楊儀もそう考えたのかもしれない。
「失礼します。辛毗を迎える準備が整いました」
入ってきて言った費禕が顔を上げ、諸葛亮の顔を見て息を飲んだ。自分はどんな顔をしていたのだと、諸葛亮は思った。
蜀軍の雑兵には友好的に接しろと、部下には下知してあった。細い船橋を渡り、徐々に五丈原側へと帰って行く蜀兵の手助けをしている魏軍の兵は、兵卒の具足を身に着けた黒蜘蛛だ。三万の将である孟琰は、波風を立てたくないと思っているのか、大人しく魏軍の言うことに従って兵をまとめている。つまらない生き方をしてきた男なのだろうと、郭奕は何となく思った。
兵の格好をした黒蜘蛛と、蜀の兵が方々で雑談している。中には笑い合っている者もいる。今までは、魏軍の兵を蛇蝎のように思っていただろう蜀の兵は、意外とそうでなかったと思い始めているはずだ。妄想していたものと現実に懸隔があれば、それが大きい分だけ、蜀兵に与える印象は強いものとして残るだろう。
そこに、諸葛亮を批判する言葉を吹き込んだ。蜀軍は漢の復興を大義として戦っているのに、諸葛亮は漢の帝が既にこの世にいないことを隠している。傷付かなくていい者、死ぬ必要のなかった者が、無駄に戦場に立たされていたのだと、総司令官である司馬懿自身が三万の前で演説した。蜀兵三万の中に動揺が走ったのが、目に見えてわかった。
司馬懿は兵や民の持つ愚かさをよく知る男だった。論拠のない妄想や、一時の感情により絵空事を思い描き、あろうことかそれが現実のものだと盲信する。そしてそれを他人に押しつけることも平気でやる。
司馬懿は蜀兵三万に一つの絵空事を与えた。自分の上に立つ蜀軍首脳陣は悪人だという絵空事だ。三万が五丈原に戻れば、他の二万にもこの話は伝わり、蜀軍内の諸葛亮に対する不信感は強まるだろう。その下地は、辛毗が蜀軍本営の幕舎で叫び、それが噂話となることで整えられていた。
面白い戦だった。兵力に兵力をぶつける、今までの戦とは全く違った形で司馬懿は勝とうとしている。その勝ちを決するのは、弓隊や騎馬隊でなく、忍びである黒蜘蛛なのだ。攻めるのは、兵の肉体でなく、心なのだ。
魏軍本陣にある郭奕の幕舎に、渭水北岸に配していた部下が戻ってきた。
「羌軍の二万は、帰還する気配を見せてはいますが、まだ動いてはおりません」
自分にだけぎりぎり聞こえる声で部下が言った。郭奕が小さく頷くと、すぐに姿を消した。
郭奕は幕舎を出て、武功水へと向かった。諸葛亮と三度目の面会をする辛毗が、出発の準備を整えていた。
「羌軍はやはり帰らぬようです、辛毗殿」
話しかけられて郭奕だと気付いた辛毗が、体をびくりとさせた。
「仕方のないことだ。羌軍が消えてから三万を帰すべきだったが、蚩尤軍が戻って来る前にやっておきたかった。司令官は、羌軍が居座ろうとも気にするなと言っていた」
武功で魏軍と蜀軍が向き合ってから、半年が経とうとしていた。その間に羌軍は一度も戦に参加しておらず、もらえるものだけは両軍から受け取っていた。放っておいても害はないと司馬懿は判断しているのだろう。
「この面会で策が成功するかどうかが決まる。今までの全ての戦の帰趨がかかっているのだ」
郭奕は頷いた。頷いたからといって郭奕はただ辛毗の近くにいるだけで、何か口を出すことはない。ふと見ると、辛毗の指先が震えていた。見られたのに気付いたのか、辛毗はその手を後ろで組んで隠した。緊張しているのだろう。だからこそ、こういうわかりきったことを口にしてしまう。
使者団を乗せた船が武功水を渡り始めた。その傍らの船橋には、まだ蜀兵の列が続いている。こうして渡河を長引かせることによって、黒蜘蛛が蜀兵の中に流言を撒く時を作っているのだ。
「司令官への贈り物が何であったか聞いたか、郭奕殿」
誰も何も喋らぬ船の上で、辛毗が呟くようにして言った。
「いえ、聞いていません」
黒蜘蛛の指揮で、それどころではなかった。
「女の服だ。自ら攻めようとせず、殻に閉じこもったままの魏軍司令官は、男ではないと」
馬鹿なことだと思った。しかし少し考えて、諸葛亮が何を狙っていたかに行きつき、郭奕は口に手を当てた。これが魏軍の兵の口端に上ればどうなるのか。
「同じことを狙っていたのだ、諸葛亮も。蚩尤軍がここにいれば、魏軍内に流言を撒かれていただろう。魏軍司令官は、女の服を贈られても何もやり返せぬ男だと」
「私も、それを狙っていたのだろうと思います」
魏軍の中には、司馬懿は軽々しく動かない司令官だという定評がある。それは裏を返せば、自ら攻めることのできない臆病な男だという評価でもある。諸葛亮の狙った流言は決して小さくない効果を発揮したことだろう。
「馬鹿馬鹿しいことだが、分かり易いことだ。これは雑兵の頭でも理解できる。だからこそ、効果があがる。司令官はその分かり易さを恐れておられた」
「羌軍の帰還を待たなかったのは、それが理由ですか」
「それも理由の一つだ。何にしろ、蚩尤軍が戻る前にできる限りのことをしておきたいということだ」
司馬懿が黒蜘蛛を進んで使うように、諸葛亮も蚩尤軍を頼っている。その蚩尤軍を一時的にでもこの戦場から消した司馬懿の策は非凡だった。この非凡さは雑兵には理解されないものだろう。雑兵は常に目に見えて分かり易いものを好む。女の服を贈った諸葛亮も、そのことはよくわかっているのだろう。
船が対岸に着いた。
前と同じ道を歩いた。小高い台地になった五丈原の坂に、様々な罠が仕掛けられている気配があった。この五丈原は、城のようなものだ。五万がこの台地に拠れば、十万の兵力でも攻めきるのは難しいだろう。軍学の定石で言えば、城攻めには相手の三倍の兵力が必要なのだ。
諸葛亮は女の服を司馬懿に贈り、魏軍の将兵を煽り立て、この罠だらけの五丈原を攻めさせたかったのだ。もしそうなっていれば、兵力が倍の魏軍でもかなりの損害を出し、最悪の場合は長安まで押し返されていたかもしれない。
五丈原を登り、台地の上に巣食う蜀兵を見渡した。城攻めの一つに、城内から内応者を出すという手がある。司馬懿は蜀兵の三万に献帝の死と諸葛亮の悪辣さを吹き込み、五丈原という城に戻した。これは内応者とまでは言えなくとも、それに準ずる魏軍に利する者を大量に送り込んだのだと言っていい。五丈原攻めの手は、一つ一つ静かに進んでいる。
蜀軍本営が見えてきたところで、不意に強い殺気に囲まれた。何か目に見えるものではない。忍びの殺気だ。例えば後ろから何でもないようについてきている蜀兵から、また前方にいる戟を立てて並んでいる数人の兵の間から、それは感じられた。
郭奕は指を鳴らし、周囲にいる五十人の部下に警戒を促した。ある一線を越えれば来る。自然に歩くように、部下が辛毗を中心に輪を作った。
郭奕は歩きながら、蜀の忍びが襲ってくる線を測った。ここだと思ったところの手前で、辛毗と五十の部下を止めた。
緊張した空気が静かに流れた。矢。呼吸を一つ置いてきた。部下が、短剣で弾いた。それを合図に、何本もの矢が周囲からきた。矢の多くは叩き落とされたが、あまりの多さに体に受けてしまう部下も数人いた。しかし中心の辛毗には届いていない。
「漢の使者に、何ということをするのだ。この不忠の軍め」
郭奕の大音声が響いた。部下には一切反撃させていない。それがあってか、敵からの矢がぴたりと止まった。
「漢の臣が、献帝陛下の遺言を諸葛亮殿に届けに参ったのだ。貴様らは、それを邪魔立てしようというのか」
周囲の蜀兵が動揺している。全てが忍びではなく、普通の兵も多くいて、何が起こっているのだという顔をしていた。そして漢からの使者であるという言葉が、大きな効果を発揮していた。
「戻りますか、辛毗殿」
小声で、隣にいた辛毗に尋ねた。襲撃されたにも関わらず、落ち着いた表情をしている。
「いや、行こう。元より死は覚悟の上だ。今はこの遺言を届けることを最優先すべきだ」
郭奕は頷き、前へ進んで部下の輪から出た。すぐ近くに趙広がいるはずだ。ここにいる天禄隊の数は明瞭ではないが、恐らく二百から、多くて三百。手持ちの五十でまともに戦ってどうにかなる数ではない。
「この軍は漢のために戦っていたのではないのか。それが、漢の使者を殺そうとは、どういう料簡なのだ。今の矢を放った兵を指揮していた者は、私の前に現れて弁明せよ」
郭奕の顔を知っている趙広が出てくるはずはない。周りの雑兵に聞かせるために言ったのだ。趙広はこの戦場のどこかで密かに歯噛みしていることだろう。
「この中にも、忠義を失っていない者が少なからずいると見える。心ある者は、本営まで我らの身を護衛せよ」
兵の中から、ぽつりぽつりと郭奕の言葉に応ずる者が出た。いずれも忍びの臭いの無い者だ。郭奕はその者らを褒め称え、部下の周囲にさらに輪を作って護衛させ、そのまま進んだ。
「妙なことをするな、郭奕殿」
辛毗が笑いを噛み殺しながら言った。
「これで趙広は手出しできません。辛毗殿は、諸葛亮との対峙に集中してください」
「対峙か。戦も煮詰まると数万同士でなく、一対一の対峙となるのか。おかしなものだ」
蜀の兵を周りに従え、諸葛亮の待つ幕舎についた。矢を射られたことに何と抗議するのだろうと気になったが、それは口には出さなかった。
7-5
漢の使者と称する、魏軍の使者がまたやってきた。左に楊儀、右に費禕を従え、諸葛亮はそれを迎えた。
三度目ということもあり、形式ばかりの口上を簡素に済ませ、辛毗から話し出した。
「申し上げていたものをお持ちしました」
「大儀であった」
隣の郭奕が、木箱を手に一歩前に出た。この箱に詰まっているのは本当に献帝の遺言なのか、それとも蜀軍を崩壊へと追い込む司馬懿の謀略なのか。
「その前に」
辛毗が言うと、郭奕が木箱を持つ手を止めた。
「五丈原に登りここに至るまでに、矢による襲撃を受けました。これは諸葛亮殿の指示によるものではないと見受けますが、いかがか」
諸葛亮は楊儀の顔を見た。天禄隊に辛毗の一行の監視を命じてはいたが、攻撃しろとまでは言っておらず、また趙広が独断でそんなことをするとは思えない。恐らく楊儀が独断で指示を出したのだろう。諸葛亮に眼を向けられた楊儀は、じっと前に眼をやったまま居所無さげな顔をしていた。
献帝の遺言などは司馬懿の策謀に決まっていて、ここで潰しておくべきだと楊儀は思ったのだろう。しかし自分に話を通さずにやるということは、今までになかったことだ。
だからといいこの場で楊儀を叱責するわけにもいかず、諸葛亮は前に向き直した。その瞬間、辛毗の鋭い視線とぶつかった。矢のことを責める眼ではない。あれは諸葛亮の指示ではなかったのだと見抜く眼だ。
眼を伏せる辛毗は命令系統の無視した楊儀の行いを内心で嘲笑っているのかもしれない。組織はこういうところから崩れていくのだ。
「それにしても、蜀軍の兵卒は誠に優れていますな。漢の使者を矢から守れと号令したら、すぐに周囲を固めてくれました。お蔭で無事にここまで辿りつくことができました」
「そうであったか。願わくば、そなたを守った我が兵の気持ちが、蜀軍の意志であると理解してもらいたい。矢のことは謝ろう。血気に逸っただろう雑兵が勝手にやったことだ。あとで見つけ出し、首を届けよう」
眼の端で、楊儀の体がぴくりと動いた。
「しかし不思議なものです。敵だと思われている私たちを、蜀の兵は守ってくれたのですから。蜀軍の漢に対する忠義心には感服させられます」
この戦が始まる三年間、漢王朝を復興させるということを目標に民政を施してきた。この思想は蜀の民のかなり深いところまで浸透しているのだ。そして司馬懿は、それを見抜いた上で利用してきている。
「遺言だ。早くそれを渡してもらおう」
楊儀が言った。辛毗はそれに笑顔を向けるだけだった。
「そちら側に残った三万に、司馬懿殿はおかしなことを吹き込んでいるようだな」
「はて、おかしなこととは」
「献帝陛下のことについてだ」
「おかしなこととは心外ですな、諸葛亮殿。事実を伝えただけではありませんか。それは、蜀軍の将兵にとって大事な事実です」
「まだ調査中であった。自力で調べろと言ったのは、そなたの方ではないか」
「それは、立場の上で私の言葉を疑わなくてならない諸葛亮殿にとってはそうでも、私らにとってはそうではありません。献帝陛下がお隠れになったことは歴然とした事実なのですから」
「もうよい、わかった」
「我々には、もう争い合う理由はないのです」
棘の無い声で、独り言のように辛毗が言った。その場の空気が、ふっと変わったような気がした。
「それは司馬懿殿が停戦の交渉を望んでいるということか」
「今の私は漢の使者でありまして」
「つまらんことを言うな。そのような二枚舌を使っていると、この場で首を叩き落とすぞ」
諸葛亮は低い声で怒りを込めて言った。また漢の使者であることを盾に言葉を並べてくるかと思ったが、それはなかった。
「我が軍の司令官が望んでいることは停戦ではなく、終戦です。もう魏領に踏み込んでこないという確約。この戦で蜀軍を退けても、数年後にまた進攻してくることがあるのなら負けであると司令官は考えております」
「司馬懿殿の立場ならそうであろう。そしてその確約とは、具体的にどのようなもののことを言っているのだ」
司馬懿は戦を終わらせたがっている。辛毗の言葉を聞いて、諸葛亮はそう確信した。ならばその条件についての案は幾らかあるはずだ。
「確約については、わかりません」
「なんだと」
「正直に申し上げております。そこまでは、司令官の意を汲んできてはおりません。或いは、そのような確約を取りけることは不可能であると、司令官は考えているかもしれません」
ここで何をどのような約束をしようが、またしばらくして自分が戦をすると言えば戦になる。ここで形だけの約束をするつもりはない、と司馬懿は言っているのだ。
「言うことはわからんではない。しかしそれでは、戦が続くだけだぞ」
言って諸葛亮は笑顔を見せた。戦を終わらせるきっかけは掴めるかもしれない。そして終戦には大きな条件が必要だと辛毗は暗に言ってきている。考えられるその大きな条件とは、自分の命だ。それが辛毗の口から出るはずもなく、ただ口を一文字に結んでいる。
「遺言をそろそろ渡してもらおうか」
郭奕が前に出て来て跪き、遺言の入った木箱を頭上に捧げた。諸葛亮はそれを徐に受け取り、木箱を費禕に渡して中のものを広げた。
しばらく時が止まったようになった幕舎の中で諸葛亮はそれを読んだ。その内容は、想定してあったものの中の一つであった。
「よくわかった。もう帰ってよいぞ、辛毗」
「お怒りではございませんか」
「おぬしの言っていた通り、一度目の面会時にこれを見せられていたら、怒っていたかもしれんな」
それ以上は何も言わず、辛毗と郭奕の二人は恭しく頭を下げて出て行った。遺言の内容を気にしてきた楊儀にはそれを見せず、帰路に着く辛毗を討つよう諸葛亮は命じた。楊儀がその場を離れてから、費禕と共に幕舎の奥へと入った。誰にも聞かれたくない話をするための部屋だ。費禕の顔が、心なしか緊張している。
「読め」
諸葛亮から無造作に渡された遺言を読んだ費禕の顔が、見る見る内に青ざめていった。
「これは、どう考えても司馬懿の策謀です。相手にすることはありません」
「それをどう証明する。証明できなければ、儂は漢王朝の復興を叫びながら、漢の主上からの勅令を無視したことになってしまう。ただでさえ兵の間に儂への悪評が広まっているのだ。下手をすれば、これで蜀という国が消滅してしまいかねない」
「ここに書かれてあることを兵にまで教える必要はないでしょう。我らの腹の中にしまっておけばよいだけでは」
「司馬懿は既に次の手を打っているだろう。この遺書の内容は、すぐに蜀軍内に広まるはずだ。その広まったものは、容易に取り除くことはできん」
遺書には漢王朝の復興に尽力した諸葛亮に対する礼の言葉から始まり、幽閉され漢王朝を自分の代で滅ぼしてしまったことへの無念、そして最後に一国を上げて魏を打倒しようとした最高の忠臣である諸葛亮に殉死してもらいたいと書かれてあった。信頼できる臣は周囲に一人もいなかったが、最後まで奮戦し続けた諸葛亮だけは違う。あの世への供をして欲しいということがひしひしと書かれてあった。
「不思議なものだ、費禕。十中八九これは司馬懿の策謀なのだろうが、これを読んで殉死してもいいかという気になってくる」
「何を仰います」
「孤独であられたのであろう。連綿と続いてきたものを自分の代で途絶えさせてしまったという無念さは、我らなどには想像もつかないものなのかもしれん。おかしなことを言う者がこの世にはびこり、漢という世を壊した。それを壊した者は、自分が壊したのだという自覚などないのだ。陛下の近くにいる誰かがそれを止める力となるべきだったが、そういう者は破壊する者に殺され、排除され続けた。為す術なく国が壊れていく様を目の当たりにした陛下は、どんなお気持ちであっただろう」
「丞相は弱気になっておられるだけです。もう数刻後に蚩尤軍が戻ります。趙広が郭奕を仕留めれば、謀略戦でこちらが優位になるのです。このような司馬懿の策に乗って、勝ちの芽を逃してはなりません」
楊儀から趙広に命令が伝わり、天禄隊が辛毗の一団を急襲するはずだ。しかし趙広は郭奕に勝てるのだろうか。ここに来る前に、楊儀が独断で天禄隊に黒蜘蛛を攻撃させている。それで郭奕の警戒心は強くなったはずだ。
部屋の入り口で従者が鐘を鳴らし、二人は遺言を咄嗟に隠した。
「ここには入って来るなと言ってあるはずだ」
諸葛亮の鋭い眼に睨まれた従者が身を小さくした。
「しかし丞相、あの使者がおかしな竹簡を」
「何だというのだ」
苛立ちを抑えてその竹簡を眼にし、息を飲んだ。献帝の遺言にあったことがそのまま書かれてあった。
「これはどういうことだ」
「幕舎を出た使者の方々が、これを幾つか蜀軍の将校に配っておりました。それで、放っておくわけにはいかないと思いまして」
「幾つかと言ったな。一つではないのだな」
「字を読める者を選んで渡していました。読めない者に読んで聞かせてやれと言っていました」
諸葛亮は従者を押しのけて外へ向かった。幕舎と幕舎を渡す通路に、会食に出す予定だった料理が並んでいた。毒のあるものも用意していたが、これを出す前に辛毗は退散していった。
外に出ると、ざわついていた将兵が諸葛亮の姿を認めて屹立した。辛毗の竹簡を手にした者がちらほらといる。
「これは司馬懿からの流言だ。辛毗から渡された竹簡は全て燃やせ。これを口外した者は打ち首だ」
後ろの費禕が、戸惑う顔した将兵に向かって早口で叫んだ。それで、何人かが竹簡を地に放り棄て、皆がそれに続いた。
将兵らは費禕の言葉に従ってはいるが、完全に口封じをすることは不可能だろう。必ずこれは全軍に伝わる。その時に、五丈原にいる五万の将兵は何を思うのだろうか。
趙広に指令を伝えていた楊儀が戻ってきた。その眉は八の字に下がり息が弾み、手には辛毗の竹簡が握られていた。
前から四十人程の集団がやってきた。魏軍からの使者団だが、漢の使者だと称しているのだという。王平にとっては、どうでもいいことだった。
自陣で雑務をしていると、楊儀からの伝令がやってきて、この使者団を趙広と協力して討てということだった。護衛が強力なため、趙広だけだと心許ないのだという。
王平は自陣を杜棋に任せて急いで五丈原の麓に走り、使者団が通る道の端に身を伏せた。すぐに趙広の部下がやってきて、互いの位置を確認し合った。趙広の天禄隊が囮となり、王平が辛毗を仕留めるということを、限られた時の中で決めた。辛毗を守るのは、黒蜘蛛の精鋭とその首領である郭奕なのだという。
辛毗の使者団は思っていたより遅く姿を見せた。護衛が手練ればかりだというのは見ただけでわかった。移動しながらも、辛毗の姿は人の垣根で完全に隠れている。王平は草繁る斜面に身を隠しつつ、両手に短剣を携えた。直ぐに趙広が行動を起こすはずだ。
使者団が、王平のいる所から一投足の距離にまで来た。早くしろと焦れ始めたその時、使者団が足を止め、護衛が円陣を組んで一斉に外側を向いた。
短い矢。八方から放たれたが、ほとんどが叩き落とされた。そして三段になった円陣の外側一枚が、矢が来た八方へと走った。そして辛毗を囲む二段の円陣が前に走り出した。その動きに一糸の乱れもないのを見て、王平は飛び出すのを躊躇った。
周囲で黒蜘蛛と天禄隊の闘争が始まった。人数では圧倒的にこちらが有利だ。辛毗もそれをわかっているからこそ、蜥蜴の尾を切るようにしてここから脱しようとしている。
王平の目の前に天禄隊の数人が飛び出し、二段の円陣に襲いかかった。それに合わせて王平も飛び出した。円の外側がまた一枚剥がれて天禄隊の襲撃に応じ、辛毗の周囲が五人になった。空から降ってきた趙広が辛毗の行く手を塞いだ。護衛の五人が趙広に注意を向けた瞬間、王平は跳躍し一人の首を払った。吹き出る血の向こう側に、辛毗の顔。首を奪れる。思ったが、黒蜘蛛の一人が身を盾にして間に入った。王平は屈んでそれを避け、地を撫でるように短剣を薙いだ。辛毗の足。振った剣に二回手応えがあった。
背後から黒蜘蛛が戻ってくる気配を察し、王平は後ろに飛んだ。そこに短剣が三本、地に突き立った。黒蜘蛛が辛毗の脇を抱えて走っていく。それを横目に王平は背後に短剣を投げ返した。跳躍していた黒蜘蛛が呻き声と共に地に落ちた。別方向からの剣。王平の体に届く前に、天禄隊の一人がその腕を飛ばした。その間に辛毗の後ろ姿は見る見る遠ざかっていく。
五丈原の林に血の臭いが濃く立ち込め始めた時には闘争は終わっていた。三十三の黒蜘蛛の死骸が並べられ、その端には辛毗が残していった両足首もあった。こちらにも犠牲はあったが、黒蜘蛛に比べればずっと少ない。二百を越える人数で四十人を襲ったのだ。
「王平様、私はすぐに行きます」
走り寄ってきた趙広が言った。
「まだ何かあるのか」
「郭奕の姿がありませんでした。それに使者団の数は五十でした。十足りないのです」
「わかった。楊儀殿には俺が報告しておこう。すぐに行け」
趙広が顔をほっとさせて姿を消し、天禄隊もそれに続いた。王平も辛毗の両足首を手にしてその場を離れ、楊儀のいる本営へと向かった。
楊儀に報告に行くと言ったのは、趙広が楊儀を苦手にしているのを知っていたからだ。楊儀には横柄なところがあり、趙広に限らず周囲から煙たがられていて、その性格は馬謖に似ていると王平は常々思っていた。自分に従順な者の前では安心していられるが、少しでも自分の意に反するものがあればそれを鋭敏に察し、大きな不安に襲われ、その不安から逃れようとしてその意に反するものを攻撃する。他人の誤りに対して厳しく、周りから嫌われているのは、楊儀の心の弱さに原因があった。
趙広が辛毗を討ち漏らしたと知れば楊儀が何と言うかわからないので、楊儀への報告は自分から請け負った。こういう種の男の扱い方は、馬謖との経験で学んでいるのだ。
「失礼いたします」
奥から出てきた楊儀は王平の手のものを見て手で口を覆った。
「何だ、その血塗れのものは」
「辛毗の足です。黒蜘蛛が手強く、上の首は奪れませんでした」
「わかったから、そんなものをここに持って入るな」
楊儀の従者が嫌な顔をしながら辛毗の足首を持って出て行った。
「郭奕が姿を眩ませたと、趙広が言っていました。護衛の中にいた十人も共にです」
王平は出された桶で手を丁寧に洗いながら言った。
「この蜀陣内に紛れてしまったというのか。あの小僧は何をやっているのだ。句扶がいればこんなことにはならなかっただろうに」
やはり楊儀は露骨に怒りだした。ここは趙広が無能なのでなく、この五万の陣営に身を隠せる郭奕が有能なのだと言うべきだった。
「句扶はいつ戻って来るのでしょうか」
「本日中だ。蜀軍内に漢の帝に関するおかしな噂が流れているが、これは司馬懿の謀略だ。蚩尤軍が戻れば噂を口にする者を炙り出し、首を幾つか落としてやる」
逆効果だ。王平は思ったが、口にも態度にも出さなかった。出せば、この男は敏感に反応する。
「辛毗が妙な竹簡をばら撒いていたと聞きましたが」
「これがそうだ。蜀軍の内部を乱そうという、つまらんものだ」
言って楊儀はその竹簡を手渡してきて、顔をはっとさっせた。
「そうか、王平は字が読めなかったのだな。忘れておった」
楊儀は顔を半笑いにさせた。
「もしよろしければ、読んで聞かせてはもらえませんか」
「その必要はない。耳を汚すだけだ。このことは忘れてくれていい」
字を読めないことを馬鹿にしているのではない。目の前にいる武官の大将の無学さを確認し、安心感を得ているのだ。これは無視しておけばいいものだが、多くの者はこの態度に腹を立てることだろう。楊儀が嫌われている原因であり、本人が気付いていない悪癖の一つだった。
「兵の前では知らないという顔をしておきます」
「それでいい。こんなものは放っておけばすぐに忘れ去られる。雑兵どもの気分など、そんなものだ」
王平は一礼し、幕舎を出た。天禄隊が何か報告に来るかと思ったが、誰も来ないところから、まだ郭奕は見つかっていないのだろう。
自分の陣屋に向かって歩いた。おかしな噂が広まっているというが、周りを見る限りはいつもと同じ兵の動きがあるだけだ。噂と共に諸葛亮に対する非難も流れているというが、兵が何をどうできるという話ではないのだ。ただ、どこか冷めているという感じはある。戦が終わった後の雰囲気に似ているかもしれない。それでも兵は働いているので、怒鳴るわけにもいかない。
馬謖なら怒鳴っていただろう。怒鳴ってどうなるわけでもないが、兵の様子がおかしいということに漠然とした不安を感じ、ただ怒鳴っていた。だがそれで何の解決を成せるはずもなく、解決できないという事実がさらに心の中に不安を募らせ、この不安は周りのせいなのだという思いが嫌がらせとなって表に出る。人の心に生じる不安は人を狂わせる獣であり、その獣を上手く操れない者は人の上に立つべきではない、と王平は思っていた。
馬謖は張郃に負けたから死んだのではない。あれは自分の心の中に棲む不安という大きな獣に食い殺されたのだ。そしてこの戦では、楊儀が不安という獣に食い殺されようとしている。
「異常はありません」
自陣に戻ると、杜棋が報告してきた。王平は頷き、杜棋の耳元に口を近付けて言った。
「この戦はもう終わる。心の準備をしておけ」
杜棋にも思うところがあったのか、その言葉に顔色一つ変えることなく一つ返事をするだけだった。前線に立つ者は、これでいいのだ。
改めて自分の兵を見ても、士気が落ちていることはわかる。しかしそれを見て自分まで心を乱すことはないのだ。いつもと同じ通り、泰然自若としていればいい。
楊儀が自分のそんな姿を見れば、緊張感が足りないなどと言って怒り出すかもしれない。そのせいで緊張感を出す振りをする将兵も出てくるのだろうと、自陣を見廻りながらなんとなく思った。
7-6
郭奕の姿がなかった。蜀軍の兵がたむろする五丈原の台地は端から端まで半里程度の広さだが、黒蜘蛛は尻尾すら掴ませてくれない。
趙広は焦り始めていた。夕暮れ頃に蚩尤軍は五丈原に戻って来る。恐らくそれまでに、郭奕は何か行動を起こすはずだ。二日、三日と時をかければ五丈原を探し尽くすこともできるが、夕暮れまであと二刻程度しかない。それまでにこの場の全ての繁みや土の中、或いは武器庫や兵糧の俵の中まで調べるのは不可能だ。
趙広は五丈原の上を走り回りながら、郭奕が何を狙っているかを考えた。気にすべきことは、首脳陣の暗殺だ。諸葛亮はもちろん、楊儀や費禕の周りにも天禄隊を配している。
しかし楊儀からは、蜀軍将兵の心を乱そうとする策をこれ以上許すな、という指令が届いていた。そのため趙広は部下を兵の中に紛れさせ自由に使うことができず、黒蜘蛛の捜索に難航していた。忍びのことは自分に任せてくれればいいのだと思っていたが、それは口に出せなかった。出したところで、楊儀の不興を買うだけだ。
諸葛亮の周囲には五十を、費禕と楊儀には二十ずつを配していた。それはいかにも少なかったが、蜀軍将兵の監視に部下を割かざるをえず、また黒蜘蛛の捜索にも人数が必要で、仕方のないことだった。
忍んでいる黒蜘蛛は十人だが、二十で備えていても不意を突かれればこの程度の人数差に意味はない。せめて蚩尤軍が帰ってくるまでは、将兵への流言に対する警戒は無視して暗殺に備えておくべきだと一度だけ楊儀に伝えてみたが、当然のように楊儀はその案を無視した。それ以上、趙広は何かを言う気にはなれなかった。
日が落ち始めている。黒蜘蛛が、そろそろ何かを起こすはずだ。いや、それはもう自分の眼の届かない所で始まっているのかもしれない。
黒蜘蛛の捜索は諦め、趙広は諸葛亮の幕舎へ向かった。防がなくてはならないのは、この軍の総帥である諸葛亮の暗殺だ。自分が郭奕なら、間違いなくこれを一番に狙う。
赤くなってきた空の下で、本営の幕舎から炊煙が上がり始めていた。蜀軍の兵はこの炊煙を見て、自らも夕餉の支度にとりかかる。五丈原の上に、楊儀の神経質な指導の下に規則正しく並べられた竈から、何本もの煙の糸が天に向かい上り始める。その光景が、趙広は好きだった。
本営を守る衛兵は全て天禄隊であり、これは句扶に焚きつけられた費禕の発案でそうなった。これで要人防衛がかなり楽になったのだ。趙広が衛兵に視線を送ると、一兵卒の格好をした部下が異変無しとの合図を送ってきた。
趙広は炊煙を見ながら諸葛亮の夕飯をつくっている野戦厨房に足を運んだ。見知った顔の料理長が出てきて、何も問題はないと告げてきた。
趙広の眼が、厨房の端に止まった。顔の半分が焼け爛れ、火傷のため頭髪も半分失われている、ここには似つかわしくない男が働いていた。
「あれは、戦で傷を負った者です。戦に耐えられなくなった者は、あのように雑用の仕事をしているのですよ」
趙広の様子を気にした料理長が言ってきた。
「あの者は、いつからここで」
「二十日くらい前からです。魏軍の火矢で燃えた逆茂木が体に崩れてきて、大火傷を負ったと言っていました」
「そうか、二十日くらい前か」
何かひっかかった。二十日前といえば、蜀軍が武功水を渡って魏軍陣地に攻め込んだ戦いだろう。あの時は確か、雨が降ってはいなかったか。
その時、さして遠くない所で爆発音が起こった。黒蜘蛛が動いた。趙広は反射的に爆発音の方へと走り、指笛を吹いて天禄隊を招集した。
爆発音があったのは、楊儀や費禕がいる幕舎の方からだった。風に乗って硫黄の臭いが辺りに漂い始めていた。
優先すべきは、費禕の命だ。自分が郭奕なら、無能な楊儀は捨て置き、費禕を殺す。無能な敵は、生かしておいた方がいいのだ。むしろ楊儀は殺されてしまった方がいい。
走りながらも迷いはあった。指笛で諸葛亮の周囲にいた者の半数が趙広についてきている。頭数では勝っているとはいえ、諸葛亮の護衛が薄くなるのだ。しかし今の爆発音を無視するわけにもいかない。あれは間違いなく黒蜘蛛の仕業だ。
兵卒が何事かと集まってきている。それを横目に趙広は費禕の幕舎へと走った。二十いるはずの護衛が、何人か見当たらない。どこかに誘き出されたのか、或いは密かに殺されたのか。やはりこの数では奇襲に対応しきれていない。
走ってきた趙広に反応した部下を眼の合図で制し、費禕の幕舎に駆け込んだ。
「趙広か。あの大きな音は何だというのだ」
着物の下から具足を覗かせた費禕が落ち着いた様子で言ってきた。
「黒蜘蛛です。部下を集めますので、ここを動かないでください」
「わかった。邪魔にならぬよう、私の従者はここから離しておこう」
「従者などどこに」
「どこって、私の竹簡を整理する者がここに」
言って費禕が振り返り、顔を青ざめさせた。そこには誰もいない。
「今、確かにここに」
「身を伏せてください」
言われて費禕がさっと身を屈めた。その体越しに、趙広は寝台へ向かって短剣を放った。それと同時に黒い影が寝台の下から飛び出しそれをかわして、短剣を費禕へと放ち返してきた。
剣が肩口に突き立ち、費禕が低く呻いた。
趙広は跳躍して踏み込み影の腹に掌を深く打ち込んだ。吹き飛ぶ影が剣を振り、趙広の左頬をかすめた。
すぐに部下が駆けこんできて、水月を打たれて動けなくなった影を取り押さえた。剣に毒が塗られていたのだろう、傷がついた左頬がぴりぴりと痺れている。費禕はそれをまともに右肩に受けて血を滴らせている。部下が、その傷口から毒を吸い出し始めた。
「すぐに費禕殿を療養所にお連れしろ。取り押さえた黒蜘蛛は殺すな」
際どいところだったが、費禕は暗殺されずに済んだ。毒の剣を突き立てられているが、このくらいなら燃えた木片でも押し付ければ命に別状はないはずだ。捕らえた黒蜘蛛は、後で拷問にかけて色々と喋ってもらう。
趙広は部下に短く指示を出し、その場を離れようとして気付いた。捕らえたといっても一人だけで、まだ郭奕を始めとする九人の黒蜘蛛の所在がわからない。これは、囮だ。趙広は背中に走った冷たいものに押されるようにして、諸葛亮の幕舎へ足を向けた。
「楊儀殿がお呼びです」
部下の一人が言ってきた。
「俺は丞相の傍にいく。後にしろと言っておけ」
趙広は柄にもなく怒鳴った。
「しかし、今すぐに来いと」
焦った顔で部下が言った。指示が伝わらなかったとあれば、楊儀はこの部下の首を飛ばすだろう。
趙広は舌打ちをして、部下に諸葛亮の周りを固めるよう指示し、楊儀の幕舎へと走った。
人は死ねばどこに行くのか、一人の時にしばしば考えた。
誰であろうと、体はいずれ肉の塊になり、土に還る。ならば心はどうなのか。つまらぬ生き方をした者も、何かを成そうと努めた者も、死ねば等しく同じだとは思いたくなかった。
忍びとして、今まで多くの人を殺めてきた。死んだ者に未練を持つことはないが、死んだ後はどうなるのか、答えの出ないものだとわかっていながらも気になった。民からの略奪だけを楽しみに従軍している愚かな一兵卒の死も、司馬懿や王双のような気概を持つ男たちの死も、行きつく先が同じ肉の塊ならば、気概を持って生き抜くことに何か意味があるのか。太平道や五斗米道などという宗教がそれに答えのようなものを示していたが、それは胡散臭いとしか思えないものだった。
口に出したことはないが、殺すのなら気概の欠片も持たない獣のような者がよかった。若い頃には考えもしないことだった。気概を持つ、例えば王双のような男は、殺すべきではないという気がする。ああいう男は、単純に好きだと思えるのだ。
忍んだ場所は、厨房だった。手筈通り、黒蜘蛛の部下が蜀軍陣内で爆発を起こした。五丈原から離れる辛毗の一団からはずれ、十人の部下を陣内に潜めて自身はあらかじめ仕込んでいた厨房内の部下と交替した。交替しても露見しなかったのは、顔面と頭髪が焼け爛れていたからだ。辛毗と別れて郭奕は自分の顔を焼き、変装を施した。火傷が新しすぎるかと思ったが、誰もが火傷で醜くなった顔を避けるため、半日程度なら隠し通すのに難はなかった。
爆発と同時に、郭循に費禕を襲うよう指示を出していた。三年前の戦で失敗をしてから、郭循はずっと費禕を怨んでいた。その怨みはどこかで使えると思い、郭奕は郭循を忌避することで、その怨みを持続させた。固執癖のある郭循は、苦しみながらその期待によく応えてくれていた。
だが郭奕の狙いは費禕でなく、あくまで諸葛亮の命だった。自分が囮だとは知らない郭循は、費禕への怨みと手柄を立てたいという思いから、周囲を顧みずに作戦を遂行してくれるだろう。趙広は必ずそれに食らいつく。その時にできた隙が、諸葛亮を殺す好機となるはずだ。
厨房の残飯をまとめた箱に、毒の盛られた肉があった。恐らく会見に来た辛毗に出すつもりだったのだろうその肉を、残飯を穴に捨てに行く際に懐に入れた。穴を埋めて厨房に戻り、竈の火に息を吹き込んでいると、趙広がやってきた。料理長と話していたかと思うと、しばらくこちらにじっと視線を送ってきた。顔に火を押し付け火傷を作り頭髪も乱れていたため、横顔をちらりと見ただけではわからなかったはずだ。それでも趙広は何かを感じたのだろう、こちらに刺すような視線を向けたまま料理長と二言三言と交わしていた。その最中に爆発音が響き、趙広はほとんど顧慮することなく厨房から離れて行った。爆発音がもう少し遅れていれば、露見していたかもしれない。
囮の郭循以外は、爆発音を合図に諸葛亮の幕舎に集まり、天禄隊の眼を攪乱する手筈になっている。その間に、自分が諸葛亮の首を奪る。速やかにやらねば、もう近くまで蚩尤軍が戻ってきているはずだった。
諸葛亮の食膳が、盆の上に用意されている。兵が食べるものほどではないが、粗末で量の少ない夕食だった。一国の宰相となりながら美味いものを食おうとしない男と、贅を尽くしたものを食おうとする男の違いは何なのだろうかと、郭奕は束の間考えた。
黒い影が唐突に入ってきて、厨房で働く者を斬りつけた。入ってきたのは黒蜘蛛なので自分が狙われることはないが、郭奕は調理台の下に隠れた。
黒い影はすぐに去って行き、入れ替わりに蜀の忍びが入ってきた。あっちに逃げた、という料理長の声が聞こえた。
蜀の忍びが行ったのを確認し、郭奕は調理台から身を低くしたまま這い出て一人残った料理長に近付き、背後から腕を回して首を切り裂いた。声を出す間もなく、血と共に料理長の体から力が抜けていった。
郭奕は血に塗れた手で諸葛亮の食膳に手を突っ込み、穀物を炊いたものを口に入れて飲み下した。残りは床に捨て、懐の毒が盛られた肉の一片を盆の上に置いた。
大きなざわつきはないが、忍び同士の闘争の気配は近くにある。部下が上手くやっているようで、それは遠ざかりつつもある。
肉がぽつりと置かれた盆を手に、厨房を出た。すぐに衛兵の一人が怪しみ近付いてきたが、間合いに入った瞬間、逆手に隠し持った短剣で首を払った。厨房から目と鼻の先にある諸葛亮の居室まで、衛兵はこの一人だけだった。
中に入ると、周囲で異変が起こっているにも関わらず、一人の文官が書面に眼を落としながら、右手の筆を忙しそうに動かしていた。諸葛亮だ。
その諸葛亮の姿を、郭奕はしばらく立ち尽くして見入っていた。窶れながらも無私に働くその姿は、どこか神々しいものにすら感じられた。なるほど蜀の文官は、諸葛亮のこういう姿を見て力を出しているのかもしれない。
「食事はそこに置いておけ」
言われて郭奕は我に返り、諸葛亮の方へと近付いた。諸葛亮が異変に気付き、こちらに眼を向けてきた。怯えや焦りの色はまるで無い。
「今度は、漢の使者としてか、それとも魏の使者として来たのか」
「あの世からの使者でございます」
「郭奕か。顔が焼かれているな」
「ここに忍ぶのには骨が折れました。自分の顔を焼き、優秀な部下を犠牲にしなければなりませんでした。趙広は、良い忍びですよ」
おかしなほど、敵意は湧いてはこなかった。それどころか、同業者である趙広をかばおうという気にすらなってくる。
「しかし、忍び込まれた」
「蚩尤軍を手放したのは、悪手でありましたな」
「忍びこまれたのは私の責任だと言うか。しかし蜀軍の支えとなっていた帝のことだったのだ。仕方のないことだった。これについては、司馬懿殿が一枚上手だった」
「この戦は、蚩尤軍を東へやると決められた時に、勝敗が決されたのだと思います」
郭奕は不思議と、この老いぼれた男ともう少し話していたいという気になっていた。これからこ殺そうとしている男に、そんなことを考えたことはない。会ったことのない劉備という男も、こんな感じだったのかもしれない。
肉の一片が置かれた盆を、諸葛亮の目の前に置いた。諸葛亮はそれを見て、すぐに察したようだった。
「丁度良い。そろそろ死ぬべきかと考えていたところだ。儂は失敗を重ねすぎた。その失敗を咎める者も、もういない」
「諸葛亮殿が死なれれば、魏軍は退きます。これが、終戦の条件です」
「何故、その手で直接殺さん」
「始めは、この肉を密かに食膳に入れることができればと思いました。それがここまで近付けてしまった。殺し方については、何となくです」
「そうか、何となくか」
言って諸葛亮は子供のように笑った。そして何でもないように肉を右手に取り、齧り始めた。郭奕は内心驚き、それを止めたいという衝動を堪えた。
「これでよいか」
「魏軍は、退きます。私の命に替えても」
「つまらんことを言うな。儂が死ねば、蜀軍は退く。蜀軍が退けば、魏軍も退く。そちらも色々と厳しいのだろう。儂はそれがわかっているから肉を食べたのだ」
言いながら、諸葛亮の呂律が怪しくなってきた。毒が回ってきているのだ。惜しいものが、光を失おうとしている。
「私は無能であった。才知ばかりが先走り、才器に欠けていた。自らに頼り過ぎ、人を上手く扱うことを怠ったのだ。それが、私と司馬懿殿の違いであった。私を宰相に頂いた蜀は、不幸であった」
「不幸などと」
「蜀軍は漢王室の再興を掲げていたが、それは万民にとっての良い世をつくるためだった。私が死ぬことで、漢という国は完全にこの世から消え去るであろう。司馬懿殿に、漢よりも優れた世をつくってくれと、伝えておいてくれ」
「伝えます。必ず」
諸葛亮の顔から、ふっと生気が引いた。そして胸を抑え、激しく嘔吐し始めた。漢という国が、一人の男の命と共に、目の前で消えようとしていた。
行く先に、日が落ちようとしていた。
どこから情報が漏れたのか、五丈原の近くにまで来ると、かなりの数の黒蜘蛛が蚩尤軍を待ち構え網を張っていた。そこを抜けるのに、かなりの時を費やしてしまったのだ。
せめて日が落ちる前に帰陣するため、句扶はなんとか黒蜘蛛の包囲網を抜け、独りで五丈原に辿りついた。
帝の死は、本当だった。太子も何故か既に死んでいて、嫡孫の劉康は魏国の監視の下で普通の男として育てられていた。諸葛亮は、残された孫の血のために、これからも戦を続けようというのだろうか。或いはここまでやってきた戦を、止めることができるのだろうか。
五丈原の陣は、離れる前と比べて、どこか閑散としていた。蚩尤軍が不在の時にぶつかり合いがあって兵力がかなり減っていたが、閑散と見えるのは数が少なくなったからではない。一人一人の兵の表情に、どこか元気がなかった。
陣を歩いていると、本営の方から爆発音が起こった。
趙広は何をやっているのだ。心の中で呟きながら、句扶は足を速めた。自分の知っている限りでは、蜀軍陣内に忍びこんだ黒蜘蛛はほぼ駆逐しており、こんな騒ぎを起こせるはずはなかった。東へ行っている間に、忍びの戦いで押されていたのかもしれない。
本営に近付くにつれ、忍びの臭いが強くなってきた。目に見える争いではない。しかし、もう既に始まっている。
諸葛亮の幕舎に立っている衛兵に声をかけたが、それは立っているだけで既に死んでいて、少し触っただけで倒れた。こんな殺し方をするのは、黒蜘蛛をおいて他にない。
句扶は短剣の柄に手をかけて幕舎に走りこんだ。荒らされている様子はない。むしろ、異常事態だというのに、中は驚くほどに静かだ。
諸葛亮の居室に、顔と頭髪が焼かれた粗末な格好の男が立っていた。そしてその傍らに、諸葛亮が突っ伏していた。
「遅かったな、句扶」
声を聞き、顔に火傷を負ったその男が郭奕だとわかった。不思議と、殺気はなかった。
「お前ともあろう者が、何故逃げん。一仕事を終えて惚けたか」
「この男の死に様を最後まで見ていたかった。ここで殺されたとしても、それだけの価値があるものだと思った」
「なら」
ここで死ね。言おうとしたが、背後から二つの殺気を感じた。郭奕も含め三人の黒蜘蛛に囲まれる格好になっていた。囲まれてはいるが、やろうと思えば郭奕だけは殺せる。だがその時は、後ろの二人に刺されて自分も死ぬ。ただ味方が帰って来ることを考えれば、いつまでもこの形勢は続かない。
「潔い男であった。自らの負けを認め、あっさりと毒を口にしていた。俺はこの死んだ男の言葉を、司馬懿殿の耳に届けなければならん」
「死に際に、丞相は何と言っていた」
「良い世をつくりたかったが、自分は無能であったと。司馬懿殿に、良い世をつくってくれと」
「偽りではあるまいな」
「そう思うのなら、ここで俺を殺すがいい。ここで共に死のうではないか」
「お前と共倒れなど、まっぴら御免だ」
「なら行かせてくれるというのか」
殺気の無い声で郭奕が言った。句扶は背後の二人に殺気を送り続けていた。
「お前には借りがある。それをここで返しておこう」
「借りだと」
「前に王訓を攫った時、王訓を鄭重に扱ってくれた。お蔭で俺は片目を失ったがな」
「そうか。お前の眼帯は、そのせいだったのか」
郭奕が口の中で低く笑った。
「王双という男を知っているか」
「名だけは聞いている。王訓の叔父だな」
「陳倉で共に戦った。良い男であった。俺はな、王双という男が好きだったのだ。だから、王訓には手を出さなかった」
「ふん、相変わらず気持ちの悪い奴だ」
片手を爛れた顔に当て、郭奕はさらに笑った。
「もう言いたいことがなければ、さっさと消えろ」
「そうさせてもらおう」
幕舎内の灯が不意に弱いものになり、その仄暗さの中に溶けるようにして郭奕の体が消えていった。背後にあった二つの殺気も、もうない。
諸葛亮の死体が、灯が消えた幕舎内に転がっていた。
駆け足が聞こえ趙広が飛び込んできて、諸葛亮の突っ伏した姿を見て息を飲んでいた。
句扶が趙広に歩み寄ると、殴られると思ったのか、趙広は肩を竦めて両目を閉じた。
「楊儀殿には、俺から話しておく。お前が責任を感じる必要はない」
諸葛亮を守るのは、自分の役目でもあったのだ。それを、趙広に全て押し付けるわけにはいかない。
戸惑う趙広を尻目に、句扶はそこを後にした。
戦は終わったのだ。
7-7
列を成した五万の兵が、五丈原から退いていく。戦場に運び込まれた兵糧も、空しく漢中へと送り返され始めていた。
どのような取引があったのか知らないが、魏軍の追撃はないのだという。諸葛亮一人が死ぬことで魏と蜀が戦う理由はなくなったのだと、楊儀から簡単な説明があっただけだ。諸葛亮を悪者にすることで蜀軍の戦意を失わせしめようという司馬懿の謀略が効いているのだ。
五丈原から眺めると、武功水の東岸で蜀軍を見送るようにして魏軍が並んでいる。それはいつでもこちらに側に攻め入ることができる構えでもあったが、戦意は感じられない。
「異常はないか、王平」
周囲に二十騎を従えて陣を見廻る楊儀が、王平を見つけて声をかけてきた。大仰な護衛だった。諸葛亮が死んでから、楊儀が当たり前のように蜀軍の差配をし始めていた。
「まだ構えていますが、戦意はありません。もう戦うことは無益であると司馬懿は思っているはずです」
「はずです、ではだめだ。戦は最後まで何があるかわからんからな。油断せずに見張りを続けてくれ」
そう言って楊儀は離れて行った。
嫌なもの言いだったが、それは腹に押し込めた。何かが起こるとは思わないが、自分がここで見張りを続けることによって、楊儀の心は安心するのだろう。魏軍の動きに対応するためでなく、楊儀から不安を消してやるための見張りだと割り切っておけばいい。臆病な男なのだ。
近くで杜棋が仏頂面をして魏軍を見つめていた。楊儀の方を見ないようにしていたのかもしれない。その杜棋の横腹を、王平は小突いた。
「なんですか」
「そんな顔をするな。気持ちはわからんでもないが」
「こんな見張りに、意味はないと思います。そんなに魏軍の追撃が恐いのなら、魏延殿を大将にして差配をしてもらえばいいのです。それに王平殿が副将になれば、間違いはありません」
「もう交戦はない。撤退戦なのだ。いや、ただの行軍だと思ってもいい。ならば軍の差配は物資を管理している楊儀殿の方が良い」
「魏延殿の下でもそれはできると思います。こう思っている軍人は、自分だけではないでしょう」
「杜棋、それ以上言うことを禁ずる」
王平が睨みつけ、杜棋がしぶしぶ頭を下げた。
兵糧隊が先行し、それに楊儀の本隊三万が続き、その後ろに王平と魏延の漢中軍が殿軍として続くべしという楊儀の伝令が届いた。武功水の東岸に布陣していた魏軍も、追撃はしないという意思を伝えているつもりなのか、陣を半里程退いていた。撤退戦における殿軍は一番危険だが、心配することはないようだ。
問題は、蜀軍内にあった。諸葛亮の強い統率力が失われ、人間関係に不協和が生じ始めていた。蜀軍が崇めていた漢の帝が死んだということも、それを助長していた。
「大変です、王平殿。ちょっと来て下さい」
撤退の準備に兵をまとめていると、本営に行っていた劉敏が呼びにきた。聞くと、楊儀と魏延が言い争いをしているのだという。
行くと魏延が何かを叫んでいて、楊儀はそれに素知らぬ顔をして無視していた。いつもなら費禕が止めに入っているところだが、費禕は黒蜘蛛に襲われて怪我を負い、先行した兵糧隊と共に護送されていた。
言い募る魏延が王平を見つけると、楊儀に見切りをつけたのかこちらに歩み寄ってきた。
「お前は魏軍を見てどう思う、王平」
「陣を退いていますし、もう攻めてくることはないと思います。殿軍でも特に仕事は無いかと」
「俺は殿軍の心配をしているのではない。戦はもうないと司馬懿が思っている今こそ攻め時ではないか。丞相一人が死んだから戦を止めるなどと、どういう理屈で言っているのか理解できん。今こそ千載一遇の好機ではないか」
楊儀は撤退すると言い、魏延は攻めろと主張しているのだ。
魏延の言っていることはわかる。蜀軍が兵糧を運び始めているのを見て、司馬懿はもう戦はないと判断していることだろう。だからこそ武功水沿いから魏軍が退き始めたのだ。この虚をつくのは、戦法として悪くない。兵力で劣っている蜀軍が、まさか兵を返して攻めてくるとは思いもしないだろう。
「司馬懿はこれまで一切の隙を見せてはこなかったが、ようやくそれを見せた。あの将軍が隙を見せるのは、こんな時を置いて他にないぞ。この時に攻めの号令を下せなくて、何が指揮官だ」
間違いとは思えない。或いは魏延の言っていることは正しいのかもしれない。しかし楊儀が軍を掌握しているのだ。
「一軍を率いる者として、魏延殿の言っていることはわかります。しかし兵糧がなければ」
「そうだ。兵糧を抑えているから、楊儀はでかい顔をしていられる。だがそれは蜀国の利益ではなく、あいつ自身の利益でしかないのだ。今までの楊儀を見ていたお前には、それがわかるはずだ」
「わかります。しかし下手をすれば、蜀軍が二つに割れかねません。それだけは避けるべきです」
魏延が顔を赤くさせていた。ここが司馬懿の虚を突ける勝負所だというのもあるが、楊儀に対する強い反感もあるからこそ、魏延はここまで激昂しているのだろう。
「お前も楊儀の肩を持つというのか。あれほどの愚昧であるというのに」
「そのような意味ではありません」
「お前に期待した俺が間違いだった。俺の一万だけではさすがに魏軍を打ち破れん。帰還する」
吐き捨てるように言い、魏延は自陣に戻って行った。
翌朝、殿軍を命じられたにも関わらず、魏延は手勢の一万を率いて漢中へと進軍を始めた。劉敏が伝えてくるには、魏軍はもう攻めてこないから殿軍の必要はないだろうと、魏延は勝手に移動し始めたのだという。
好きにさせておけと王平は言ったが、楊儀が怒り狂っているのだと、劉敏が困った顔で言っていた。
「後方の魏軍のことも気にしていますが、先発させた兵糧隊を魏延殿に奪われたら大変だと慌てふためいています」
兵糧を一手に担っているからこそ、楊儀は蜀軍内において発言力があった。魏延の先発が兵糧を狙ってのことかどうかは不明だが、その行動は楊儀の心に大きく作用し、誇大な被害妄想を生じさせているのだろう。
「魏延殿を討てという命令がくるかもしれません」
劉敏から言われ、王平はうんざりした。
ところが楊儀は王平に殿軍を任せたままで、自ら魏延を討つと言い始め、本隊の三万で魏延の一万を追い始めた。数で有利だと考えたのかもしれない。
楊儀の三万が出発し、王平の一万も殿軍としてゆるゆると進んだ。一応、後方に斥候を放ってはいるが、魏軍に動く気配はない。
「王平殿はどちらに付くつもりですか」
「どちらもないのだ、杜棋。俺も、魏延殿も、楊儀殿も、同じ蜀軍だ」
「しかし実際に争いが始まれば」
「それはお前の心配することではない。それとも、俺が何も考えていないとでも思っているのか」
杜棋はまだ何か言いたそうだったが、王平は手を振って追い払った。
漢の帝が失われ、諸葛亮も死に、皆不安なのだろう。その不安が蜀軍を割こうとしている。人の考えはそれぞれ違い、放っておけばばらばらであり、同じでないからこそ絶えず不安に襲われているのが人間の本来の姿なのかもしれない。その四散しているものに、一つの共有できる大切なものを持たせてくれるのが、漢王朝というものだったのだろう。諸葛亮が必至に守ろうとしたものだったが、果たせなかった。そして蜀軍のこの有り様である。折角一つにまとまっていたものを、司馬懿が破壊したのだ。
殿軍で進んでいると、劉敏が前方からの情報をしばしば届けてきた。三万で追いすがる楊儀を見た魏延は、その前進を止めるために道中の橋を落としたのだという。これで二人の決別は決定的なものになったと言っていい。
「魏軍の動きはどうなのかと、楊儀殿がしきりに気にしています。問題がないようなら、一度顔を見せに来いとも」
王平はさすがに腹が立ってきた。自ら撒いた種を人に処理させようというのだろう。
「魏軍に問題はないが、まだ予断はできない。内輪揉めが魏軍に伝われば背後を突かれるかもしれないと伝えておけ」
そんなに不安なら、もっと魏軍に怯えていればいい。それで王平軍が動かない口実ができる。
「わかりました。あえて言うこともないと思いますが、我らは静観しておくのがよろしいかと」
「わかっている。もし前に出る必要があれば、俺が一人で行って魏延殿を説得してくる。それも伝えておけ」
「御意。今はとにかく楊儀殿との連絡を絶やさないようにします。連絡を絶やすことでおかしな疑われ方をされたらたまりませんので」
劉敏が駆け去って行った。
橋を落とされたため道を大きく迂回し、山林を伐り開きながら進んだ。その間も劉敏が往復し、できるだけ楊儀との交信を続けるよう努めた。
漢中が近づくにつれ、兵の顔に安堵の色が戻ってきた。しかし危惧していた通り、漢中の手前で魏延軍一万と楊儀の三万が対峙を始めたと、劉敏が伝えてきた。
すぐに王平は楊儀に呼ばれた。ここまで来れば、もう魏軍の追撃の心配はない。
楊儀の幕舎へと向かう際に見える兵の顔に、高い士気は無い。魏延軍も楊儀軍も同じ蜀軍で、兵の中には共に五丈原で竈を囲んだ者もいるだろう。これでは士気が上がるはずもない。
訪いを入れ、幕舎に入った。
「考えを行ってみよ、王平」
背を向けた楊儀がいきなり言ってきた。その態度は昔の馬謖を思い出させたが、もう慣れていて腹が立つこともない。
「蜀軍同士による殺し合いだけは防がなければなりません。私が一人で向こうに乗り込み、魏延殿と話をつけてきます」
「一人で行くだと、大丈夫なのか」
「恐れながら、対峙し合っているのは楊儀殿と魏延殿で、私は中立なのです。魏延殿が私を捕らえることに何の意味もありません」
楊儀が色をなした。遠回しに、楊儀には加担しないと言ったのだ。いざ戦となれば、楊儀は陣頭指揮に関しては王平に頼らざるをえない。
「魏との戦が終わり、故郷を前にして兵は安堵しております。ここで魏延殿の兵と楊儀殿の兵に殺し合いをさせれば、蜀国はいよいよ民の心を失うでしょう」
「兵は戦うために存在しているのだ。反旗を翻す者がいれば戦うのが道理ではないか」
「戦は、最後の手段としてやるものです。話し合いで解決できるのならばそうすべきです。ましてや同じ蜀軍なのですぞ」
楊儀が苛つき始めていた。この機になんとかして魏延を殺してやりたいと考えているが、どうも王平はそのように動いてはくれない。或いは、王平を行かせれば魏延に味方すると考えているのかもしれない。
「手勢の一万は置いていくのです。それで話し合い以外の何ができるとお考えですか。必要ならば、杜棋と劉敏をここに呼んで、私の一万を動けないようにしておけばいい」
「私がお前を疑っていると、そう言っているのか」
「内輪揉めの時は、誰もが疑われるものだと思います。楊儀殿のことを責めて言っているのではありません」
「私はお前のことを疑っていない。そんなことは言わないでくれ」
楊儀の声が弱弱しいものになった。王平まで敵になるのが怖いのだろう。馬謖にしろ、この種の男の心底にあるものは、大儀のような高潔なものでなく、絶え間なく溢れる不安や怖れだ。それに打ち勝つことのできない者が、軍を用いて敵を討ち果たすことなどできるはずもない。
「では、魏延殿と話し合いをしてきます。楊儀殿は何も心配なさいますな」
「いや、待て」
言って楊儀は顎に手を当てて考えた。
「少し待つ。魏延がもし話し合いを望んでいるのなら、向こう側から使者が来るはずだ。今はそれを待つ」
此の期に及んでまだこんなことを言うのか。王平は呆れながらもそれを承知し、自陣へ戻った。
すぐに杜棋がやってきた。
「そう不安そうな顔をするなと言っているのだ、杜棋。味方同士での殺し合いはやらん」
「兵が不安がっています。早く漢中に帰りたいとも」
「不安がっているのはお前だ。それが兵に伝わっているのだ。杜棋、そこに立て」
王平は直立した杜棋の顔に拳を叩き込んだ。
「これ以上不安になることは許さん。不安は、己の心の中だけで噛み殺すのだ。それができなければ、お前も楊儀殿のようになってしまうぞ」
杜棋は顔色を変え、大きく一つ返事をした。
楊儀もこうやってぶん殴ってやりたいと、王平は思った。
王平は劉敏と手分けして、戦はないと言って兵を慰めて廻った。しばらくして、杜棋もそれに加わってきた。
王平軍の前方にいる楊儀の三万が、少し陣を動かした。魏延に対する陣の変更でなく、王平に対するものだと見えた。それも気を遣っているのか、ほとんど意味のない動かし方であり、正に楊儀の心中を映していた。兵力で勝っているから魏延からの使者を待とうと楊儀は考えたのだろうが、これなら兵力差が三倍であっても魏延が勝つだろう。魏延もそれはわかっているはずだが攻めてこないのは、王平軍の存在があるからなのか、それとも蜀軍同士で戦うべきでないと思っているからなのか。
しかし魏延からの使者はなかった。楊儀の風下には立たないと、そう言っているのだ。
両軍が動かず五日が過ぎ、楊儀が痺れを切らして王平に使者を頼んできた。王平はそれを快諾し、一人で馬に乗って魏延の陣へ向かった。
魏延軍は特に王平を警戒することなく、出てきた馬岱に先導されて魏延の所まで通された。兵は精神的にかなり参っているように見えた。
「すまん、王平。手間をかけさせる」
言った魏延の顔がこけていた。剛毅な男だが、五丈原を離れてから色々と思うところはあったのだろう。
「楊儀殿に戦をする気はありません。無論、私もです」
「わかっている。あの臆病者に戦はできん。俺が考えていることは、どうやってあの女々しい野郎を蜀から取り除くかということだ。さもなくば蜀は早々に滅ぶぞ」
「魏延殿がそこまで楊儀殿の存在に責任を感じることはない、と思います。費禕や蔣琬に任せられることもあるはずです」
「あの若造どもに何ができる。争って自分を犠牲にしてでも諌止しようという気概も持たず、万事を事なかれで済ませようとするのだろう。そして蜀という国はずるずるとおかしな方へと進んでいくのだ。漢という国は、そうして滅んでいった」
「楊儀殿は確かに臆病な男です。これは何とかすべきことです。しかし今はこの事態を収拾することを第一に考えるべきです」
「収拾はする。その覚悟も決めている。楊儀の陣営から王平が来るのを俺は待っていたのだ。
「覚悟ですと」
「俺は、もはや賊扱いだ。成都には楊儀からの早馬が飛んでいる。本隊から離れた時点で、俺は賊軍になったのだ。ただで済ませるわけにはいかん」
魏延は腰の剣を引き抜き、自分の腹に刃を向けた。近くにいた馬岱が魏延に飛びつき羽交い絞めにした。刃は腹に少しだけ入っただけで、血が一筋流れただけだった。王平が魏延の手から剣を奪った。
「離せ、馬岱。男の死に場を奪おうというのか」
「死んではなりません。死ぬべきは、魏延殿ではないのです。どうか考え直しを」
「わかった。だから離せ」
馬岱が魏延から離れ、きれいな布で魏延の傷を押さえた。
「酷い奴らだ、お前らは。このまま楊儀の前に引き出し、頭頂を剃って首を落とそうというのか」
馬岱が首を振った。
「お逃げください、魏延殿。私が丞相の命令で魏延殿の副将となったのは、魏延殿が文官と争った時にそれを助けるためでした。ただの軍監だとしか思われていなかったでしょうが」
「俺を助けるだと」
「魏延殿の剛毅さは、国家にとって必要なものです。そしてその剛毅さが通じなくなり空しいものになった時、魏延殿は死に、蜀も死ぬのだと丞相は言われておりました」
「そうだ、国が死ぬ。俺はそれを忍びないと言っている。丞相はそれを理解されていたか」
「魏延殿のような方が殺されるようになった時が、国が亡びる時なのです。だから、蜀のためにも魏延殿は死んではなりません」
馬岱が珍しく激昂していた。今までは、あまり表情を変えることのない諸葛亮に忠実な男という印象しかなかった。
「わかった。そこまで言うのなら、死なん。蜀のために死なん」
「山中にお隠れください。必要なものは私が届けます」
王平が言った。
「山中に隠居か。しばらく戦はないだろうし、それもいいかもしれん。軍人としての俺の役目は終わったと思うべきなのだろうな」
「楊儀殿には、私が上手く言っておきます。首が必要であれば、顔の似た罪人を選んでその首を落とします」
「本当に必要なら言って来い。どうせ馬岱に拾われた命だ」
魏延が満面の笑みを見せて言った。心労で窶れてはいたが、王平は昔の魏延を思い出して笑みを返した。
魏延の陣で一泊し、馬岱と共に帰陣した。
「魏延殿に戦をする意思はなく、この対峙は解くということで納得してもらいました。しかし、一晩が明けると魏延殿の姿はありませんでした」
そう言って報告すると、楊儀は見る見る顔を赤くして怒りだした。
「何故、その場で首を落とさなかった。武官なら、その程度の気は効かせられるはずじゃないか。あれは謀反者なのだぞ」
「同じ蜀軍なのです、楊儀殿。殺してしまえば、それこそ取り返しのつかないことになります。魏延殿もそれがわかっていて、ひっそりと姿を消したのでしょう」
「勝手なことを言うな。謀反者の肩を持つということは、謀反者になるということだぞ。お前らが謀反者に加担したということを成都に上奏してやろうか」
「そのようなことは」
「嫌ならすぐに魏延を追え。そしてここに首を持ってくるのだ。さもなくば、お前らも謀反者と見做す」
王平と馬岱は仕方なく承知し、楊儀の幕舎を後にした。
「あの男は増々酷くなっているな」
馬岱が辟易して言った。
「恐れているのです。魏延殿が生きていれば、いつ寝首を掻かれるか気が気でないのでしょう」
「そんな臆病さを、丞相は一度たりとも我々には見せなかったな」
王平らは手筈通り、魏延に似た罪人の首を刎ね、楊儀の前に差し出した。楊儀は狂喜してその首を罵り、周囲の目も気にせず散々に蹴りつけていた。
魏国の人間が楊儀のこの姿を見ればどう思うだろうかと、王平はふと考えた。自分が魏国の者ならば、蜀の人間はなんと酷くて野蛮なのだと思ったことだろう。しかしこの様な者は、魏にでもどこにでもいるはずだ。要はこの種の者がその国においてどう扱われているか、ということが重要なのだ。魏延が謀反者の烙印を押されてでも楊儀から離反したのは、人から後ろ指を差されることではあるが、あながち間違いだったとは言い切れない。
魏との戦は終わったが、蜀国内での戦いは何らかの形であり続けるのだと、王平は楊儀の姿を見ながら感じていた。
7-8
魏領に攻め入っていた蜀軍から、敗戦を告げる早馬が届いた。兵のぶつかり合いで負けたわけでなく、兵糧が切れたわけでもなく、諸葛亮が死んだことでの敗戦だった。
蔣琬は自分を育ててくれた諸葛亮に対し人並みに感傷的にはなったが、それ以上に何の成果も得られなかった北伐に虚しさを感じていた。一国を治めて財を集め、兵を養い、諸葛亮が出師の表を上奏してから実に七年も費やした。その間、蔣琬はただ蜀軍の勝利を信じ、成都から最前線へと補給物資を送り続けた。民を窮乏させるから止めろという、宦官を始めとする反対勢力の意見を退けながらだ。
諸葛亮は民と反対派に何の弁明もすることなく、戦地で死んだ。これは全て丞相府で諸葛亮の代理をしていた蔣琬に降りかかってくるだろう。
引き続き厄介な報がもたらされた。魏延が手勢の一万で謀反を起こしたのだという、楊儀からの早馬だった。その次の早馬は魏延からのもので、楊儀が謀反を起こしたと言っていた。
これは謀反でなく、諸葛亮が死んだことで仲間割れを起こしたのだと蔣琬は判断し、董允に成都を任せ、仲裁のための出兵を決定した。そうして準備していると、魏延を捕らえ斬首することで事は収まったという報せが入った。幸い、蜀軍同士での殺し合いはなかったのだという。
「楊儀殿は丞相の跡を継ぐのは自分であると思っているようで、軍内でかなり好き勝手に振る舞っているようです」
帰還してくる北伐軍の様子を視察してきた譙周が言った。並んで立てば蔣琬より頭一つ大きい長身の部下である。
「丞相が亡くなればそうなる可能性はあるとは思っていたよ。馬謖といい李厳といい、ああいう者を使えばどうなるかということを、丞相はほとんど無視されていた。多分、自分の力が発揮されればそれでいいと思っておられたのだ」
「後継に蔣琬殿を選ばれたというのも誤りですか?」
蜀の国事を見るのは蔣琬だと、諸葛亮は蜀の帝である劉禅に書き残していた。このことをまだ楊儀は知らない。
「誤りも大誤りさ。俺のような軟派者に国を任せるなど正気の沙汰じゃない。戦を間近で見ていた費禕か、陛下に近い董允がやってくれればいいのだ」
謙虚さではなく、半ば本気で言っていた。ただ指名されたからには、やり切らねばという思いはある。
「丞相の書き残しに、楊儀殿のことは何と」
「それが何もなかった。俺の好きにしろということだろう。全く無責任なことだ」
楊儀が成都に戻れば、必ず何かしらの要職を求めてくる。譙周はそれを危惧しているのだろう。諸葛亮は人の扱いを誤り、国難を招いた。その轍を踏むわけにはいかない。
「蜀軍本隊の軍師にでもしておけばいい。大きな戦はしばらく無いはずだからな」
「一つ気がかりがあります。御子息であられる蔣斌殿のことを出されて攻められはしないかと」
魏との戦で小隊長をしていた蔣斌は、王平軍の中で命令違反を犯して成都に護送され、今は屋敷に謹慎させている。蔣琬に反感を持つ宦官筆頭の黄皓あたりと楊儀が結託すると面倒なことになる。黄皓が蔣斌のことに関し何も言ってきていないのが不気味であった。
「あの馬鹿息子が」
「そのことで、費禕殿が話をしておきたいと言っておりました。新しい相国である蔣斌様に是非言上を奉りたいと」
「あの野郎、毒で死にかけていたというのにもうそんな皮肉をぬかしているのか。自分が選ばれなかったからって良い気なものだ」
そう言いながらも、蔣琬は安心していた。刺客に襲われ怪我を負ったと聞いた時は、諸葛亮が死んだと聞いた時より慟哭した。これから蜀国で政権を固めていくのに、費禕は欠かすことのできない人物だった。
蔣琬は譙周を連れ、費禕の屋敷を訪った。
「相国様が会いに来てやったぞ。熱はもう引いたのか、費禕」
「もう回復した。右腕は肩より上に持ち上がらなくなったがな」
黒蜘蛛の短剣が深く食い込み、腕の筋が切れたのだろう。剣に塗られていた毒を消すために傷口を焼いたため、右肩にはかなりの包帯が巻かれていた。
「楊儀のことだが」
費禕が呼び捨てで言った。周りに、蔣琬と譙周以外の目はない。
「力を持たせるべきではない。あれは、国を壊す者だ」
「わかっている。丞相が亡くなられてすぐに軍を分裂させたのだからな」
「魏延殿が楊儀に怒っていたが、それは一時の感情からではない。蜀国のことを考えていたからこそ怒っていたのだ」
蔣琬は頷いた。争い事は、当事者の二人がどちらも等しく悪いのではない。争い事が起こった原因を見ようともせず、両者に責任があると言って済ませようとするのは無能者のやることだ。
「それも、わかっている」
「罪に落とすべきだ。なんでもいい」
「何かをでっち上げろとでも言うのか。一国の宰相といえどもそれはできんぞ」
その点、楊儀は周到だった。魏延と仲違いを起こした時も、すぐに成都に早馬を飛ばし、自分の正当性を訴えることを怠らなかった。楊儀の臆病さが、そういった周到さを生むのだろう。
物事に周到であろうが兵糧の管理が上手かろうが、倫理観と道徳観を欠いた働き者は、国や組織にとっては害悪でしかない。
「私に考えがある」
「ほう」
「蔣琬が国事を見ることになり、それを快く思わない者は少なからずいるだろう。私もその一人になるのだ。そして楊儀に近付き、国への謀反を企てる」
「おい、それではお前まで罪を被ることになるではないか」
「そこは上手くやるさ。蔣琬も上手くやってくれよ」
言って費禕が不敵に笑った。何か考えがあるようだ。
「戦を経て、お前は変わったようだな。悪い意味ではない。昔のお前なら、楊儀のような者がいてもただ黙って耐えていた」
「戦の中で思ったのだ。倒すべき者は、魏だけではないのだと。魏を敵だとしてしまえば誰にとっても分かり易いが、本当に忌むべき相手は、楊儀や馬謖や李厳のような、理を解そうとせず感情ばかりが先走り、それ故に天下国家を乱す者なのだ。そういった者が跳梁跋扈するようになれば、国は滅びる。それには、蜀も魏も漢も、関係ない」
痩せた費禕が眼を光らせていた。その眼に気圧された気がして、蔣琬は腹に力を籠めた。
「同感だ、費禕。対外戦は終わったが、俺たちの内に向けての戦はこれから始まる。蜀国を生き永らえさせようという戦だ」
費禕が頷いた。成都に戻ってからは少し休暇をやろうかと思っていたが、その必要はなさそうだった。
「宮廷はどうだ。黄皓は大人しくしているのか」
「董允を始めとして、来敏殿と孟光殿が宦官に眼を光らせている。あの二人は老齢だが、気持ちはまだまだ若いようだ」
「宮廷は固めているということだな」
「学者は私がまとめております。頭でっかちな者におかしな提言はさせません」
後ろで聞いていた譙周が言った。
「内は固めているつもりだが、これからは戦があったために大人しくしていた奴らが声を大きくしていくだろう。固めていたと思っていたものが、気付いたら崩れていたなどということがあってはならん」
「蚩尤軍を使え、蔣琬。丞相は、句扶を実に上手く使っていた。そして、良い仕事をした」
「郤正と組ませてみようと思っているよ。魏への備えは、漢中に趙広を残す。王平の下に入れておけば間違いないはずだ」
郤正は、句扶が成都に送ってきたまだ若い忍びだ。黄皓を黙らせるため、郤正を使って黄皓に近しい者を消した。そして郤正の屋敷を黄皓の屋敷の隣に建てた。それで黄皓はかなりの重圧を感じているはずだ。
また郤正は忍びには珍しく学があった。正に宮廷には打って付けの忍びだった。
「漢の主上はお隠れになり、漢を守ろうとした丞相も亡くなられた。我らは漢という言葉に拘り過ぎることはない。蜀という、我らの国家を守るのだ」
蔣琬が言い、費禕と譙周が頷いた。
漢中で五日過ごした。
戦を終えたばかりでゆっくりとしたいところだったが、王平は報告のため成都へと行かなければならなかった。王平軍の参謀である劉敏は、既に本隊と共に成都に向かっている。
遠征から帰ってきた漢中軍の配置と調練は杜棋に任せ、王平は供もつけずに漢中の街を出た。旅装は特別なものでなく、普通の旅人にしか見えないものを身に着けた。
目立たない格好で発ったのにはわけがあった。王平は街道をしばらく行き、人目のつかなくなったところで道をはずれ、樹木が生い茂る山中へと入って進んだ。
山に迎え入れられるように、金属を打つ微かな音が聞こえてきた。
そして頭上から黒い影が落ちてきた。
「普通に声をかけろ、句扶」
身を起こした句扶がにやりと笑っていた。
「言われていた通りにしておきました、兄者」
「悪いな。嫌いな男のために働かせてしまって」
「嫌いなのではありません。少し合わなかったというだけです。これから我らとは関係のない所で生きていくというのなら、どういう感情も湧きません」
半日程、黒蜘蛛のいない平和な山中を、句扶と気楽に言葉を交わしながら進んだ。
「あそこです」
少し開けた日当たりの良い場所に出た。そこには小さな幕舎が一つ張られていて、その周りには鹿の腿や蛇の皮を剥いたものが吊るして干されてあった。二人の気配を察したのか、中から男が出てきた。
「新しい住処の居心地はどうですか、魏延殿」
「悪くはない。ここには楊儀のような者はいないからな。一人きりで少し寂しいという気はするが」
魏延が二人を幕舎の中に請じ入れた。具足は着けていないが、幕舎の中にはまだ少し戦の匂いが残っているという気がした。
「俺が生きていることは、ばれていないだろうな」
「大丈夫です。魏延殿は死んだことになっています」
「そうか、死んでいるか」
言って魏延は大笑した。
「俺は運が良い。散々に戦って、最後は楊儀に負けてしまったが、その末にこんな良い地を得ることができたのだからな」
「こんな所で不自由はあると思いますが」
「そんなことはお前の心配することではないぞ、王平。人には、多少の不自由があった方が幸福なのだ。不自由なものを消そうとするから争いが起きる。楊儀にとっての俺は、間違いなく不自由だった」
「しがらみが無いということは、良いことだと思います」
「しがらみが不自由と言っているのではない。軍にいた時の俺とお前の間にも、少なからずしがらみはあった。だがそれは俺と楊儀の関係とは質の違うものだったはずだ」
「確かに」
「おかしなものに対しては、おかしいと言わねばならん。それは男の仕事だ。そう言われることを不自由だと言って遠ざけて、おかしなものがまかり通るようになればどうなる。おかしなものが世に常態化し、男がそのおかしなものと戦うことを止めれば、その世は生きにくいものになってしまうだろう」
「蜀は既に生きにくい世になってしまっていますか?」
「お前らや、蔣琬や費禕が戦わなければそうなるだろう。負けてここに追い込まれた俺が偉そうに言えることではないが」
「魏延殿は戦われていました。そのせいで憎まれていました。しかしそういう人間が必要だというのはわかります」
「それが戦うということだ。楊儀のような男は、俺のことを感情的で怒りっぽい奴だと思っていたことだろう。そう思われるのにも耐えなければならん。それには何の得もないのだ。しかし誰かがその得の無い戦いをしなければならん。蜀という囲いを抜けたからこそ言えることなのだが」
難しい話のようだが、よくわかった。馬謖には嫌な思いをさせられた。楊儀とは険悪にはならなかったが、やはり嫌な思いはしてきた。
「嫌な思いは我慢すべきだと思っていました。しかし我慢することでおかしくなってしまうものもあるのだと、今はわかります。魏との戦に負け、その敗因を考えることで、それがわかるようになりました」
「誰かが言っていることがおかしなことだとわかっていても、得なことがなければ我慢する。それが人というものだ。我慢を解いて戦おうとすれば、こいつは我慢のできない者だと言われて馬鹿にされるからな。しかしそれは、我慢のできない幼い奴だと非難しているのではなく、自分の我儘を通そうとするためにそう言っているのだ。それでも男は戦う気概を捨ててはならん。句扶なんかはそれがよくわかっているのではないか」
「私は、自分の好きなようにやっているだけです」
句扶が顔を俯かせた。嫌そうな顔はしていない。唐突に褒められ、むず痒く思っているのだろう。
「戦え、王平。男は戦わなければならんのだ。それで負けたら、お前もここで暮らせばいい」
「それは良いという気がします。ところで、一つお願いがあるのですが」
「なんだ」
「蔣斌をここに連れてきたいのです。あいつはこのままでは駄目になってしまいます。一度、俗世から離してこういう所に住まわせてみればと思うのです」
「それはいいな。しかし高官の息子だとなれば問題ではないか。俺は罪人として死んだことになっているのだからな」
「私と句扶だけで話し合ったことなのでまだはっきりとは言えませんが、蔣琬なら理解してくれるはずです」
まだ物事の道理がわからない若者を、蔣琬の長子だからという理由だけで戦をさせてしまった。もっと育てるべきだった。いや、育ててきたが、育て方に間違いがあったのだと今にして思う。それで戦中に罪を犯したからといって、蔣斌だけに責めを負わせるわけにはいかない。劉敏も、蔣斌には過度に期待してしまったと後悔していた。蔣斌はただそれに応えようとしてきただけだった。しかし誰かの期待に応えようというのは、言い換えてしまえば、誰かに甘えているということなのだ。劉敏は厳しく接することで、蔣斌に従順さという甘えを強要してきた。その甘えを先ず消してやるべきだったのだ。
「あのままだと、蔣斌もつまらない文官になってしまうという気がします」
「ならここに連れてくればいい。飯を調達して喰らい、糞をして寝る。全て自分の力だけでやる。それは大変なことだが、楽しいことだ。そして大事なことでもある」
「私もそう思います。今の蔣斌にとって必要なことであると」
それからしばらく北での戦の話をし、王平と句扶はそこを後にした。帰り際に、兵糧用の乾飯を少し置いていった。最高にまずくて美味いものだと言って、魏延は喜んでくれた。
寄り道をした分、急いで南に馬を走らせ成都に向かった。沿道の田畑で男たちが野良仕事をしているのが見えた。北の戦場に兵として行った者もこの中に少なくないのだろう。皆が、生き生きとして働いていた。
成都に到着した。ここにも自分の屋敷があるが、帰ってきたという気持ちはない。自分の住処は漢中にある。成都の小さな屋敷は、王訓が数人の使用人と共に使っているはずだ。
政庁に上り、蔣琬に面会を求めた。待たされるかと思ったが、すぐに迎えがきた。迎えに来たのは王訓だった。
「大義でございました、句扶様、王平将軍」
「王平将軍だと。父上と呼べ」
句扶が言った。言われて王訓は怯み、父上と言い直した。威圧的に言ったわけではないが、王訓は句扶を畏れているところがあった。
「大きくなった。歳は十六になったか」
「蔣琬様の下で色々と学んでおります」
「十六といえば、お前の御父上が山岳部隊に入った頃だ。お前は戦の無い場所でひ弱になっていないだろうな」
「私も戦っていたのです、句扶様。その戦いがなければ、前線の兵は腹を空かせていました」
「ふん、口だけは達者になったようだな」
王訓はそれに苦笑で返した。
王双が目の前で死に、心を壊しかけた王訓を立ち直らせたのが、句扶だった。それで王訓は頭が上がらないのだ。
王訓と句扶がまだ言い合っている。句扶はそれで間を持たせてくれているのだろうが、それには甘えることにした。そして王双のことを思い出した。王双につけられた額の傷が痛むことはもうなくなっていた。男は戦い続けるべきだと魏延は言っていたが、王双は間違いなく戦っていた。王訓を自分の所に届けてくれた。そこには、王双の欲を満たすための得は何もなかったはずだ。しかしやり遂げ、死んでいった。その王双の首を落としたのは自分だった。趙統がやろうとしていたのに割って入り、首を落としたのだ。何故自分で、と聞かれても上手く答えられそうもない。ただあの時は、自分がすべきだと思ったのだ。それを見た王訓は、父である自分を激しく憎んだ。
「あの、父上」
何度か呼ばれたのに気付き、王平ははっとなった。
「何を考えておられました」
「これからの漢中の防衛についてだ」
王双のことだと言えず、王平は誤魔化した。
「それで、何だ」
「蔣斌殿のことですが、戦場から戻ってからずっと塞ぎ込んでいます。会いに行って何があったのかと聞いても何も喋ってくれません」
「蔣斌は塞ぎ込んできるか。それには考えがあるから、俺に任せておけ」
「私には何もしてくれなかったのにですか」
「王訓、その口を捩じ切ってやろうか」
句扶が言い、王訓が俯いた。王平はただ鼻白んだ。
丞相府の蔣琬がいる執務室に二人で入った。蔣琬から労いの言葉がかけられ、茶が出された。
「申し訳ありません、蔣琬様。力及ばず、敗戦となってしまいました」
「何だその言葉遣いは、王平。つまらんことは気にせず、昔のままでいいのだ」
「一国の宰相となった。少しは気にするだろう」
「大勢の前では、悪いがそうしてくれ。こういう場では昔のままでいい。むしろそうしてくれ」
「わかったよ」
王平は微笑んだ。
それからしばらく、北伐のことと、これからの蜀がどうなるかについて話した。王平は今まで通り、北の要として漢中軍を率いる。少し違うのは、軍政を担当するのに呉懿という老いた軍人が漢中に赴任し、王平はその下で軍を率いるのだという。軍政なら劉敏にやらせればいいと王平は言ったが、どうも人事はそう簡単に決められるものではないらしい。
「楊儀殿はどうなる」
王平は敢えて聞いてみた。蔣琬は察しているようだった。
「成都の軍を三つに分ける。楊儀殿にはその第二軍の軍師をやってもらうことにした」
「軍の力を利用されないか」
「楊儀殿の上には指揮官として鄧芝殿が就く。間違いはおこらないはずだ」
悪くいない、と王平は思った。まだ若い頃に、鄧芝には世話になったことがある。反逆などとはほど遠い人物だ。
「さぞ文句を言われていることだろう」
「文句を言われるだけならいいんだがな」
「魏延殿は言っていたよ。戦うとは、ああいう者の言葉に屈しないことだと」
「費禕も同じことを言っていた。同じことを考えているのだな。最前線に行っていたお前らが羨ましいという気がするよ」
「その魏延殿のことだが、お前に言っておかなければならんことがある。ここだけの話だ」
言って王平が前に屈むと、蔣琬も額を寄せてきた。
「何だ」
「魏延殿は死んではいない。死んだと見せかけて、山中に逃した」
「なんと」
「だが心配はするな。魏延殿はもう山から下りてこない。死んだことにしておけばいい」
「魏延殿が死んだのは忍びないと思っていた。しかし、死んだことにしておけばいいのなら、何故わざわざ俺に言った」
「蔣斌のことがあるからだ」
蔣琬は顔をしかめた。塞ぎ込む息子に何かしてやりたいが、何もできずにいるのだろう。
「あれと魏延殿に、何の関係があるのだ」
「蔣斌を魏延殿に預けてみないか。俺はそれが一番いいと思う」
蔣琬が難しい顔をしながら腕を組んだ。死んだはずの謀反人に一国の宰相が子を預けるとなれば、悩まないはずがない。
「他に良い手はないのだろう」
「楊儀殿が、蔣斌の罪を俺に向けようと画策している。それに宦官の勢力が同調しようとしているのだ」
「文句を言うだけではないとはそのことか。なら尚更丁度良いではないか。自分の長子を庶民に落とすことで、自分の公平さを世に示してやればいい。李厳は命令違反を犯すことで庶民に落とされたのだからな」
「そう簡単に言うがな」
「落としたら、後は任せてくれればいいのだ。俺は王訓のことで、お前に感謝しているよ」
王平は蔣琬をじっと見つめた。蔣琬が先に耐えられなくなり目を逸らした。
「父である俺が、蔣斌を庶民に落とすのか」
「一時だけだ。お前の気持ちは、俺の口から蔣斌に伝える。多少の苦しみはあるだろうが、それで蔣斌は今よりずっと成長する」
「少し考えさせてくれ」
蔣琬が頭を抱えていた。
王平は屋敷に戻り、休みを貰った王訓と過ごした。その間、句扶は政庁を守る蔣琬の手の者と何か話し合っていたようだ。
三日して、蔣琬が蔣斌を放逐することを決定したと伝えてきた。王訓はそれに強く反発したが、句扶に一喝されて黙った。
漢中に戻るため、来た時と同じように変装をして供も付けずに成都の城郭を出た。また人目を忍んだのは、蔣斌と合流するためだ。
五里程行くと、粗末なものを着た蔣斌が句扶の手の者と待っていた。蔣斌はかなり気を落としているように見えた。父から捨てられたと思っているのだ。
「王平様」
何も聞かされていなかったのか、変装を解いた王平を見て蔣斌が驚いていた。
「行くぞ、蔣斌」
「行くってどこへ。私は庶民に落とされたんですよ」
「いいから黙ってついてこい。それから一つ言っておく。お前の父は、お前のことを捨てていない。だから俺がここにいる」
「しかし」
まだ何か言いたそうだったが王平は無視して先に進んだ。蔣斌は後ろからついてきている。句扶が王訓にしたことを、今度は自分がするのだ。
7-9
煩わしいほど威勢良く、馬群が地を鳴らして駆け回っていた。木の棒を持たせた騎馬隊を二つに分け、それぞれを馬岱と姜維に指揮させた模擬戦である。楊儀は少し離れた櫓の上からそれを眺めていた。
成都に帰った楊儀に与えられた役職は、蜀軍本隊第二軍の軍師だった。第二軍は蜀の北方に異変があった際に駆けつける役目を負った二万の軍で、武具や兵糧に関する軍政は軍団長である鄧芝がやり、兵の調練は実戦指揮官である馬岱と姜維がやる。戦で策を建てるのが軍師の仕事だが、魏との戦が終わったばかりで北に戦があるはずもなく、楊儀は時を持て余していた。
成都に戻れば政権の中枢に入り込めると思っていたが、与えられたのはこの閑職だった。実戦経験がある楊儀に期待する帝の意向があるからだと聞かされたが、その実はどうも蔣琬が自分のことを遠ざけているようだった。北の地で戦っている時に、蔣琬とその一派は政権の中枢をがっちりと固めていた。戦で功を立てれば高官になれるのだとばかり思っていた自分の考えが甘かったのだ。
姜維が馬を駆けさせてくるのが見えたので、楊儀は櫓を下りた。
「騎馬隊の調練を終えました」
「よろしい。兵舎に戻れ」
形式的に命じると、姜維は一礼して駆け去った。
姜維は、北の戦線で魏軍と対峙している時、羌族との交渉に当たっていた。姜維は羌族だからということで期待されていたが何の成果も出さず、真面目なばかりで良い仕事のできない男だというのが楊儀の評価だった。あの戦で羌族の軍を動かすことができていれば、蜀軍が負けることはなかった。
騎馬隊を率いた馬岱が調練場から撤収していく。魏延を逃がそうとした信用ならない男だった。それに同じ軍に属しているというのに、自分に対して妙によそよそしい。いざ戦となった時にきちんと命令を遂行させるため、一度痛い目を見せておいた方がいいかもしれない。
調練が終わり、楊儀は厠に向かった。
年齢はもう五十を越えていた。軍に何人かいる参謀の一人で終わりたくはなかった。大きな戦争で決して小さくない功を立てたのだ。狙おうと思えば、この国の宰相になることも不可能ではない。
厠へ歩いていると、費禕が囲碁の卓を挟んで来敏に何かを言っていた。費禕の様子は何やら穏当でなく、白鬚を蓄えた来敏が宥めるようにしてそれを聞いている。それを横目で見ながら楊儀は厠に入った。
人事を握る蔣琬を動かさないことには始まらなかった。宦官の黄皓から呼びかけられ、命令違反を犯した蔣斌を弾劾することで蔣琬を責め、人事の取引をしようと試みたが、蔣琬はあっさりと息子である蔣斌を放逐した。それはあまりに不義理ではないかということで蔣琬を責めようとしたが、周りからは公正で良いという声が大きく上がった。だがそれはどうも、蔣琬が蚩尤軍に流言を撒かせて公正だという論調に持っていったという気配があった。黄皓がさらに協力を求めてきたが、楊儀は蚩尤軍を敵に回したくなかったので断った。
糞をして、傍らに置かれている縄で尻を擦って厠を出た。
費禕がまだ来敏に向かって何か言っていた。珍しい光景だった。戦を経験する前の費禕なら、気の強い来敏にこうも何かを言い建てることはなかったはずだ。
「いい加減にしろ」
黙って聞いていた来敏が大声を出して囲碁の卓をひっくり返した。楊儀はさすがに放っておけず、そちらに走った。
「どうされましたか」
「何でもない。大きな声を出して驚かせてしまったようじゃな」
「それは驚きます。兵も見ていることですし、ここは穏便に」
「もう言わんよ。ただこの若造があまりにしつこかったものでな」
「何を言っていたのだ、費禕」
「いや、気になさらないでください。少し言葉が過ぎました」
費禕は、これ以上は言わないという風に踵を返し、肩を落として歩いて行った。
「大きな戦をしてきたからといって調子に乗ってもらっては困る。おっと、これは楊儀殿に言っているのではないぞ」
そう言い、来敏もそこから去った。費禕の従者が足元に散らかった碁石を片付けていて、楊儀も膝をついて手伝った。
「あっ、私がやりますので」
「構わんよ。それより、あの二人は何を言い合っていたのだ」
聞かれて、費禕の従者は言い淀んだ。
「同じ軍の仲間のことなのだ。何か問題があるのなら私も知っておいた方がいい。お前が言ったことは黙っておいてやるから、聞かせてみろ」
従者は首を左右にして周りを気にし、小声で答えた。
「どうやら、今の地位に不満があるようで」
「やはりそうか。よく教えてくれた」
楊儀は従者にわずかな銭を握らせた。
費禕は第一軍の軍師に任命されていた。費禕も自分と同じように今の職に納得できず、蔣琬に近しい来敏に不満をぶつけていたのだろう。第一軍は成都周辺の返事に備えるための軍であり、戦があるとすれば相手は烏合の衆である山賊で、小難しい策略が必要になるわけではない。この軍の軍師も閑職なのだ。蔣琬と費禕は近いと思っていたが、長く離れた場所で働いていたことでその仲に亀裂が入っているのだろうか。
楊儀は費禕の後を追った。
戦場での費禕は何かと意見してきて、馬岱のように煙たがられていると思っていたが、利害が一致するのなら手を組めるかもしれない。
「どうされました、楊儀殿」
楊儀に気付いた費禕が驚いた顔をして振り向いた。
「どうされましたではないだろう。あのような言い合いをしておいて、無視はできまい」
「つまらないことです。お忘れください」
「つまらないことであそこまで感情的になるとは思わん。当ててやろう。今の役職では不満なのであろう」
「そのようなことではありません」
「嘘を言うな、費禕。見ていればわかるぞ。私もお前と同じ待遇を受けているのだからな」
楊儀は言葉を選んで言った。費禕の目が、じっとこちらを見つめてきた。
「それは、楊儀殿も不満を持っているということですか」
楊儀も見つめ返し、考えた。費禕の従者が、費禕には不満があるとはっきり言っていた。ここは誤魔化さず、素直に肯定すべきだと楊儀は判断した。
「十万に近い軍の兵糧を差配したのだ。第二軍の軍師ではなく違う所で力を発揮したいという思いはある」
費禕の口元が一瞬にやりとしたのを、楊儀ははっきりと見た。
「私も同感です。楊儀殿とは意見の違いはありましたが、能力に疑いを持ったことはありません。楊儀殿は別の仕事をするべきです」
「それは嬉しいことを言ってくれる」
利害の一致を確認した。費禕は間違いなくそう思ったはずだ。ここからは、どこまで手を結べるかだ。
「楊儀殿、私は」
「待て、ここではまずい。どこに蔣琬の耳目があるかわからんからな。話があるのなら、私の屋敷で聞こう」
ここでの不穏な会話は控えておいた方がいい。蔣琬は元々、郤正という句扶の選んだ忍びを宮中で使っていた。蚩尤軍が戦場から戻ったため、蔣琬の使っている忍びは強化されたと考えるべきだった。
成都の街が寝静まった頃に費禕は屋敷にやって来た。楊儀は密かに招き入れ、費禕が持参してきた酒を互いの杯に注いだ。
「私は、つまらないことで腹を立てているのかもしれません」
酒に口をつけながら費禕は言った。
言葉だけ聞けば遠慮しているようだが、ただ慎重になっているだけにも見える。その態度に苛つきはしなかった。手を結ぶ相手なら、慎重すぎる程に慎重な者がいい。
「北の戦でお前はよく働いた。それなのにそれ相応の報酬がなければ怒るのは当然のことだ。そしてこの乏しい報酬は、周囲の者も見ている。よく働いても充分なものが貰えなければ、下々の者らはどうして力を奮って働くことがあろうか」
費禕が膝を一つ叩いた。
「それです、楊儀殿。私は、私に与えられた報酬が少ないから腹を立てているのではありません。楊儀殿の言う通り、これは様々な者が見ているのです。これが原因で皆の働く意欲が削がれるのであれば、蜀軍の衰退にも繋がりかねません」
楊儀は憤る費禕の言葉に大いに頷いた。そして内心、楊儀を嘲笑った。費禕はあくまで自分への報酬が少ないから腹を立てているのだ。それなのに周りのためにならないなどと言い、己の欲深さを隠そうとしている。全く浅ましい知恵ではないか。しかしこの浅ましさは、上手く扱えば利用できる。
「蔣琬殿はまだ若い。若いからこその誤りはあるのだろう。その誤りを正すのは私のような歳を重ねた者の役目だ。声を上げねばなるまい」
こう言えば悪い感情を持たれないだろうという喋り方は、長い人生の中で身に着けている。考えずともこういう当り障りのない言葉は自然と口から出てくる。
「楊儀殿は蔣斌の命令違反のことで、蔣琬のことを責めておられましたな」
楊儀が飲み干した杯に、費禕が注ぎ足しながら言った。
「李厳殿は平民に落とされたのだ。蔣斌が特別に許されたとなれば、それは不公平であろう。蔣琬殿が自分の息子をあっさりと平民に落とされたのは意外であったが」
「平民には落とさない、と読んでおられましたか」
楊儀はその言葉に不穏なものを感じ、杯を口に運びながら考えた。蔣琬が蔣斌に罰を与えないことを前提で蔣琬を攻撃したのか、と聞かれているのか。もし蔣琬が息子の蔣斌を罰しなかった場合は、次にどういう手を打つつもりだったのかと。費禕もこちらのことを探っているのかもしれない。
「黄皓が、その点を取り上げて質すべきだと言ってきたのだ。黄皓は蔣琬殿と険悪で、なかなか自分から言い出し難いらしい」
こういう時は、誰かのせいにしておけばいい。
「ほう、黄皓がそのようなことを」
「言われるがままになったわけではない。賛同できるところがあったからこそ、それに乗ったのだ。宦官の考えることなど卑しいものだが、黄皓はよく働くということで陛下から信頼されているようだしな」
「陛下の御意志を代弁しているのならば、黄皓の言葉でも無視すべきでないと思いますよ」
費禕の目が座ってきた。かなり強い酒を持ってきたようで、楊儀も腹の底から酔いを感じ始めていた。これ以上飲むのは危険かもしれない。
「平民に落とされた李厳殿は何をやっているのでしょうな」
「成都の郊外で、李平と名を変えひっそりと暮らしているらしい。黄皓との書簡のやり取りがあると聞いている」
余計なことまで言っている。そう感じた楊儀は、口につけた杯を置いた。
「私は酔ってきたようだ」
「酔いましょう、楊儀殿。もう戦は終わったのですから。酔って腹を割ることで、私は楊儀殿の信を得たいのです」
酔いを警戒していたが、費禕のその言葉で、酔ってもいいかという気になってきた。自分の屋敷で互いに酔っているのなら、何も問題ないだろう。
「李厳殿は、戦に向かない男だった。戦のない治世であれば、必ず良い仕事をされたであろう」
「私もそう思います。現に、魏との戦が始める前までは、李厳殿は任された領地をしっかりと治めておられました」
「李厳殿は許されるべきだ、と黄皓は言っていた。その準備もしているのだと。蜀国には人材が少ないから、私はそれに賛成している」
黄皓が宮中を、李厳が政治を、楊儀が軍事を握れば、蔣琬を追い落とすことは難しくない。そこに費禕が加わってくるとなればかなり有利になる。
「この国に人物が少ないのは確かです。しかしどうやって李厳殿を復帰させるのですか」
「文字通り、許すのだ。陛下の権威を背景に、許す」
「それは、大赦ですか」
さすがに費禕は色をなして言った。一人の宦官が帝の権威を利用するというのなら、それは容易に許されるべきことではないと思っているのだろう。
「これ以上のことは私の口からは言えん。あくまで黄皓がそう考えているかもしれない、という程度の話だ。宮中のことに関しては、私はよくわからんからな」
自分が言い出したのでなく、これは黄皓の意志なのだと、楊儀は繰り返して言った。費禕はそれを難しい顔で聞いていた。酔っているからこそ、考えていることがそのまま顔に出ていた。大赦のことについては、自ら触れずに黄皓に任せておいた方が良さそうだ。
「難しい話はこれまでにしておこう、費禕。今日は共に酔いに来たのだろう。これから料理を出させる。女も呼ぼうではないか」
酔ってぼろを出すわけにはいかず、楊儀はその話を切り上げた。費禕も同じことを考えたのか、それ以上は聞いてこなかった。
費禕は蔣琬に近いと思っていたが、自らこちら側に転んできた。それだけ蔣琬には不満があったということなのだろう。蔣琬派である来敏とも口論をしていた。今後はこの亀裂が大きなものになるよう画策してやればいい。
料理が運ばれてきた。費禕と貪り食ったそれが、妙に美味いものに感じられた。
光の無い洞穴の中に、水が一滴落ちる音が響いた。
句扶は松明に火を点けた。手足を拘束された小男が、火の光に目を細めていた。長く拘束され薄汚れた小男の肌には蟲が這っており、足元には垂れ流されたままのものが悪臭を放っている。
五丈原で捕らえた黒蜘蛛で、名を郭循というらしい。戦は終わったためすぐには殺さず、成都に連れて帰りじっくりと責め、黒蜘蛛のことを聞きだしていた。
句扶は項垂れた郭循の顔に水をかぶせた。ほとんど無意識でやっているのだろう、郭循は喘ぐようにして顔を流れる水を口に集めて飲みこんだ。
捕らえて二月が経とうとしているが、さすがに本陣深くにまで入り込んできた忍びだけあり、肉体的な拷問をかけても有用な情報は得られなかった。
しかし心を責めるように切り替えてから、様子に変化が表れ始めた。この郭循という忍びは、黒蜘蛛の棟梁である郭奕に異常なまでの固執を見せるのだった。郭という姓も、郭奕から貰ったものなのだと言っていた。
郭奕の名を出すと、必ず反応を見せた。お前は郭奕に見捨てられたのだ。始めから捨て駒として育てられた糞みたいな存在だ。その証拠に郭奕はお前を奪還しようともしない。そう耳元で囁くと、拘束した手足から血が流れる程に暴れた。そして、最後に泣くのだった。
句扶は、囁く内容を徐々に変えていった。お前は利用されただけなのだ。郭奕はお前に何の感情も持っていなかった。だからお前から慕われていたことを知っていながら平気で裏切った。裏切られたお前が苦しまなければならない理由はなんなのだ。苦しむべき者は、お前を裏切った者ではないか。
時が経つにつれ暴れることはなくなり、泣くこともなくなった。その代わりに聞き取れないくらいの声で、何かを呟くようになった。心が壊れていくのがはっきりとわかった。今では句扶の言葉を静かに聞くだけで、暗闇の中に拘束されながらその言葉を待ち望んでいるようでもある。
句扶は松明の火を郭循に近付けてしばらく囁き続けた。囁き終わると火を消し、暗闇の中で同じことを囁いた。
句扶は郭循の口に乾飯を押し込み、洞穴を出た。暗闇の中で郭循の頭に、郭奕を非難する言葉が反響し続けているだろう。それが消えて句扶の言葉を求め始めた時、また洞穴に行って囁いてやる。こうして郭循の心を破壊し、蚩尤軍の工作員として使うつもりだった。元は黒蜘蛛だった者として、使える場はどこかにあるだろう。もし使えないとわかれば、その時に殺してやればいい。
句扶は成都の城郭に向かった。費禕に会うためだ。
商人に変装し、眼帯をはずして帽子を深く被って街中を歩き、人目を避けて費禕の屋敷に忍び込んだ。今や費禕は成都の反主流派と思われているため、蔣琬を補佐する立場の句扶と会っていることが明るみになってはならないのだ。
屋根裏に入り込み、費禕の居室の上で合図した。すぐに返答があり、句扶は屋根裏から下りた。
「来たか。五丈原で忍びに襲われたせいで、少し構えてしまうな」
費禕が苦笑して言った。費禕を襲ったのは、洞穴に拘束している郭循だ。
「それは蚩尤軍が成都にいる限り起こりえないことです。心配はいりません」
「それは心強いことだ。それはそうと楊儀のことなのだが、あの酒はよく効くな」
酒を沸かし、麻と一緒に煮たものを費禕に渡していた。麻の粘ついたものが酒に溶け、それを飲むと強く酔うのだった。よく効いたということは、何かを聞き出せたということだろう。
「黄皓が大赦を為そうとしている。解放される罪人に恩を着せることで、自分に味方する者を増やそうというのだろう。許される者の中で一番警戒すべき者は、李厳だ。息子の李豊が東方の江州で力を持つため、この力が黄皓と結びつくことになると面倒なことになる」
李厳は北伐の際に兵糧の輸送を怠ったため、平民に落とされた。それは黄皓と組んで諸葛亮を貶めるためだったのではないかと言う者もいる。諸葛亮が幾つか犯した、大きな人選誤りの一つだった。
「李厳を殺せばよろしいのですか」
「殺してしまえと言いたいところだが、それは蔣琬からの指示を仰いでくれ。邪魔な者でも、殺してしまえば綻びが出るということもあるからな」
「わかりました」
「それともう一つ、楊儀がおかしなことを言っていた。魏延殿がまだ生きていると言うのだ」
表には出さないが、句扶は内心驚いた。魏延のことは、費禕には知らせていなかった。知る必要もないことだった。
「おかしなことを言うものだ。魏延殿の首は確認したはずだが、あれは偽物だったかもしれないと言うのだ」
「何故、楊儀はそう思っているのですか」
「聞いたが、そういう噂があると言うばかりで言葉を濁していた。それだけ魏延殿を恐れているというだけかもしれんが、あまりにしつこく言ってくるから気になったのだ。句扶は何か心当りはあるか」
「いえ、ありません」
費禕が覗くような目で見てきた。句扶は、いつも通りに座っていた。
「仮の仮に、魏延殿が生きていたとしても、それは私の知らなくていいことなのだろう。伝えることはそれだけだ。行ってくれ」
費禕が背中を向け、句扶は屋根裏に飛び上がり素早く屋敷を出た。そしてすぐに、成都の街を歩く一人の商人に戻った。
魏延のことが気になった。先ず人目につかないだろうという場所を句扶が選んだのだ。漢中の山深い所にいるのに、成都にいる楊儀がそれに勘付くとはどういうことなのか。費禕があのように警戒しているということは、楊儀は口から出任せに言っているのではないのだろう。
句扶は郤正の屋敷の前で来訪を告げた。今度は人目を憚ることなく堂々と正面から入った。これを見た者は、郤正は蚩尤軍と繋がりがあるのだと誰もが思うはずだ。
「お通り下さい」
郤正自身が客間に案内した。豪奢さを感じさせない粗末な屋敷だった。郤正を蔣琬に推挙したのは、間違いではなかったと思えた。
「費禕殿からの伝言だ」
句扶は、黄皓が帝の権威を利用して大赦を行おうとしていることと、それで李厳が復帰し蔣琬の敵になるだろうということを手短に伝えた。郤正は顔色を変えることなく、ただ頷いてそれを聞いていた。
「李厳を消す準備は一応しておくと伝えておけ。それと、山が露見しそうだとも」
「山、ですか」
山とは、魏延のことだ。郤正には何の事だか知らせていないが、言えば言葉の通りに伝わる。
「それだけだ。蔣琬殿からは何か」
「馬岱殿が更迭されそうです。楊儀殿が、首を落とした魏延殿は替え玉だったのではないかと言っているのです。決定的な証拠はありませんが、馬岱殿が更迭されるようなことがあれば、蔣琬殿にまで余波が及びます。楊儀殿が何をやっているか探れとのことです」
言葉が多い。そう口から出かかったが、それは堪えて頷いた。楊儀を探れ、とだけ言えばいいのだ。忍びとはいえ宮中に長くいればこうなってしまうのかもしれない。
句扶は郤正の屋敷を出た。隣には黄皓の屋敷があり、そこの従者が句扶を見たことを黄皓の耳に入れるだろう。それで郤正は宮中で幾分か畏怖されるはずだ。
成都城内の端にある寂れた宿に、裏口から入って二階に上がった。粗末なものを着た部下が、頭を下げて待っていた。
「今は李平と名乗っている、李厳の周辺を調べておけ」
部下はすぐに宿から出て行った。李厳の行動を調べ上げ、殺しの計画を建てる。一日の行動に一定の規則が見つかれば、そこを突いて人知れずに殺す。黒蜘蛛のような忍びに守られているわけではないので、これは難なくできるはずだ。
それよりも、山の方だった。これは部下に任せるわけにはいかず、自分でやるしかない。魏延の場所が割れているのなら、移動するようにも言っておかなければならない。
句扶は馬を替えながら昼夜を徹して北へ進み、三日で漢中まで来た。漢中を黒蜘蛛から守っている趙広に人を出させ、山の周りに配して網を張った。すぐに商人体の怪しい者を三人捕らえたと報告が入った。
漢中の拠点にしている地下部屋に、目隠しと轡をされた三人が連れてこられた。句扶を前にした三人から、目隠しと轡がはずされた。
「ここに連れてこられた理由はわかるかな」
三人の目が句扶の片目と合い、一人が涙を流しながらその場に座り込んだ。尻の辺りが、にわかに濡れ始めていた。
「その眼帯は、蚩尤」
座り込んだ一人が歯の奥を鳴らしながら言った。それで他の二人も腰を抜かし、命乞いを始めた。
「全て話す。だから、酷いことはしないでくれ」
「酷いこととは何だ。俺はただ、お前らに聞きたいことがあっただけだ」
句扶は笑みを浮かべて言った。それで幾らか安心したのか、小便を漏らした者がよろよろと立ち上がって言った。
「俺たちは、見ての通りの商人だ。物も売るし、情報も売る。貰えるものさえ貰えれば、何でも話す」
「そうか。では先ずお前に与えてやろうか。何でも話したくなる苦痛を」
「ま、待ってくれ。やっぱり何もいらん。何でも話すから」
部下がその男を押さえつけ、また目隠しがされて隣の部屋に連れて行った。暴れる体をうつ伏せにして手足を縛った。助けを乞う男の耳元で刃物を擦って耳を劈く音を出した。それだけで男は大きな悲鳴を上げて気を失った。
句扶が部屋に戻ると、悲鳴を耳にした二人が泣きながら震える身を寄せ合っていた。引き離し、腕を縛って上から吊るした。
「商人は利のためなら平気で嘘をつく。俺は商人の口から出る言葉など信用せん。だから、体に聞かねばならん」
二人が激しく首を振った。
「嘘など言いません。この国の蚩尤軍の恐ろしさは知っています。その蚩尤軍に嘘をついて、何の得があると言うのですか」
「そこまで言うのなら、一応聞いてやろう。あそこで何をやっていた」
「あの山で魏延という将軍に似た男を見かけました。魏延将軍の情報を買ってくれる人がいるのです」
「何故、あそこに魏延将軍がいると思う」
「蔣斌という良い所の息子が放逐されて、その後を密かにつけていったらあそこに行きついて、魏延将軍に似た男を見つけたんです」
「お前に銭を渡しているのは」
「李平という、成都のはずれに住んでいる男です」
やはりか、と句扶は思った。楊儀は李厳からこの話を聞いたに違いない。
「嘘はついていない。裏を取る必要があるなら取ってくれ。それまで俺は大人しくしている。嘘だとなれば好きにしてくれればいい」
物も扱っている商人だと言ったが、蔣斌と同行した王平に気付かれずに後をつけたということは、日頃から情報の売買を主に生業としているのだろう。もしかしたら、李厳が専属で使っている忍びかもしれない。
「お前らが見たのは、魏延ではない」
句扶は鋭い刃で男の顔を撫でつけながら言った。薄皮が切れ、血が一筋流れた。
「わかりました。私が見たのは、魏延ではありません」
男が震える唇で言った。縛られたもう一人の男も、同じように言った。
「李平とやらにそれを伝えろ。これから先、お前らはずっと蚩尤軍に監視されることになる。俺が命ずることを李平に伝えるのだ。その分の銭は払ってやろう」
「李平に、魏延ではなかったと伝えます。これからは言われた通りにします」
「裏切れば、体を少しずつ刻んで殺す。生まれてきたことを後悔させながら殺す。そうなれば、死にたいと思っても楽には死ねんぞ。俺の言うことを聞いていれば、それは無い。銭を渡してやるし、お前らの身も守ってやろう。どちらが賢い選択であるかは、わかるな」
二人が懇願する目で何度も頷いた。頷く度に、顎の先から汗が滴った。
「お前らは運が良い。蚩尤軍に捕らえられて無傷で帰れるのだからな。しかしその運は、紙一重でいつでも最悪な方へと転ぶ」
それだけ言うとまた二人に目隠しをして、隣の部屋で気絶していた者も含めて解放した。そして、部下をその三人の監視につけた。
これが上手くいけば、李厳を通じて楊儀と黄皓に嘘の情報を流せるはずだ。
黄皓と楊儀と李厳は、思っていたより深く結びついているのかもしれない。本気で蔣琬下ろしを画策しているのだろう。蔣琬がそれに負け、楊儀のような男が大きな発言力を持つ国になるなどまっぴら御免だった。好きとか嫌いでなく、体がそういうものを受け付けないのだ。こう感じている者は自分だけではないだろう。それを拒絶しきれるか、仕方なしに受け入れてしまうかで、その者の価値は決まるのだ。魏延はそれを拒絶しきった。それで、死んだということになった。それでいい、と句扶は思っていた。
魏延に住処が知られたことを伝えて移動してもらおうかと思ったが、それはやはりやめておいた。魏延は既に蜀とは関係なく、こちらから何かを言うべきではない。漢中の山奥で静かに暮らさせてやるべきだった。
句扶は地下部屋から出ると成都に向かった。戻る頃には、李厳の行動が全て洗い出されているはずだ。
7-10
馬岱が、第二軍の指揮官からはずされることになった。魏延は実は生きていたという話が出て来て、そのことで楊儀が馬岱を追及したのだ。漢中の山奥で魏延を見た者がいるという報告があり、その真偽が判明するまで馬岱は一時的に軍から除籍されることになった。
魏延の生死など、今の楊儀にとってどうでもいいことだった。この話が本当なら、恐らく魏延は馬岱に命乞いをして、罪人から替え玉を用意することによって逃亡したということなのだろう。李厳のように平民に落とされたのならまだしも、死んだことになっているのなら何も恐れることはない。
魏延の生死より、これを申し立てることによって蔣琬を攻撃できるということの方が大事だった。蜀の人事を握るのは蔣琬で、虚偽の報告をした者を軍の指揮官に任命したとなれば、任命責任を問われることになる。気付いたらこの責任から逃れていたということがないよう、大きな声を上げていけばいい。
魏延のことを楊儀に知らせたのは、李平と名乗り成都の郊外で暮らしている李厳だった。情報の売買を生業にしている者を雇い、蜀の高官を監視させ、落ち度はないかと探らせていたのだ。そのための銭は黄皓から渡されていて、李厳は平民だからこそできる仕事をしていた。その仕事の対価に黄皓は、大赦による李厳の復帰を約束していた。李厳の得た情報により蔣琬を攻撃するのは、楊儀の役目である。
これに対し蔣琬は、ほとんど反論してこなかった。これが原因で失脚することはないと高を括り余裕を見せているのだろうが、反撃をしてこないのならとことん攻めるのみである。
そんな中で、李厳から一度会って話がしたいという書簡が来た。それも楊儀の方から会いに来いということで、それはこれまでにないことだった。こちらから行くとなれば、忍んで行かなければならない。
軍の調練は姜維に任せ、楊儀は変装をして一人で成都の郊外に足を運んだ。治安は万全とは言い切れないが、日が出ている内はさほどの危険はない。
使い古された平屋の家に着き、楊儀は中に入った。
「用は何だというのだ、李厳殿」
楊儀はだぶついた頭巾を取りながら言った。中は黴臭く壁には蛾が張り付いていて、使用人は老婆が一人いるだけだった。平民なんかにはなるものではないと、楊儀は心の中で思った。
李厳の目は赤みを帯びていて、麻を吸っていると一目でわかった。楊儀は麻を吸わない。若い時に一度だけ吸ったことがあったが、気持ちが悪くなり嘔吐してしまったため、それ以来吸ったことがない。
「久しいな、楊儀。平民暮らしというのもなかなか悪いものではないぞ」
会うのは、李厳が平民に落とされて以来初めてだ。髪も髭もだらしなく伸び、以前にあった威厳は全く失われていた。
「長居はできん。用件があるのなら早く言ってくれ」
それを聞いた李厳は露骨に嫌な顔をして見せた。軍師と平民の会話ではあるが、李厳はあくまで以前と同じように接して欲しいのだろう。
「俺の手の者が、おかしなことを言い始めた。漢中で見た魏延は、やはり魏延ではなかったと言うのだ」
「なんだと。では誰だと言うのだ」
「ただの猟師であったと。それなら始めから魏延だと言うような奴らではないのだ。何か裏があるのではないかと思い、直接相談したかった」
楊儀は心の中で舌打ちをした。魏延が生きているかどうかは本質的な問題ではないのだ。目的は、蔣琬を引き摺り下ろすことで、魏延だと思っていた者が猟師であれば、どうにかしてでっち上げてやればいいだけだ。
「その者らが疑わしいと思うのなら、体に聞いてやればよいではないか。話が進むのはそれからであろう」
「体に聞くって、俺に拷問をやれと言うのか」
李厳が体を乗り出した。吐気に含まれる麻の香りが鼻を撫で、楊儀は顔をしかめた。
「復帰したいのであろう。ならば少しは手を汚されよ。どうしても嫌なら銭を使って他の誰にやらせればいい」
「酷なことを平気で言ってくれる。それで嘘をついていなかったらどうする」
「どうするもこうするもない。何もせずして一国の高官に返り咲けるはずなかろう。長安を目前にした軍を、たった一人の行いで漢中まで撤退させたのだ。李厳殿が魏国の臣であればかなりの出世ができたであろうが」
「俺に皮肉を言うなど、お前も偉くなったものだな。俺は諸葛亮のやり方に反発する宦官に乗せられただけなのだ。諸葛亮が失脚すれば、お前が次の丞相だと言われてな」
この話は本当だったのか、と楊儀は思った。李厳と黄皓が近い理由がこれでわかった。これを聞かせることで、李厳は胸襟を開いているつもりなのかもしれないが、楊儀はそれを聞き流した。
「どんな手を使ってでも本当のことを聞き出すのだ、李厳殿。心配をされているのは手を汚すことでなく、拷問にかけられた者の仲間から報復されることであろう」
言われて李厳が俯いた。
「それも、ある」
「蔣琬から政権を奪えば、蚩尤軍を使えるようになる。そうなれば李厳殿に誰が報復できるというのだ」
「それは政権を取ってからの話だろう。俺の住むこのぼろ家を見てみろ。お前が住んでいるような立派な屋敷ではないのだぞ。いつ誰が忍び込んできてもおかしくないというのに、人から恨みを買うような真似ができるか」
「直に大赦が為される。それまで辛抱されよ」
李厳が苦虫を噛み潰した顔をし、楊儀は心の中でその顔に唾した。己の手を汚しもせず、楽をして力を得たいという者など、こんなものだろう。李厳の肝の小ささには失望したが、書簡で大仰なことを述べていても実際に会えば小粒だったというのはよくある話だ。李厳の息子は江州で力を持っているので、それを反蔣琬派の力にしたかった。小粒でも、今は十分に利用する価値があるのだ。
「もう一つ、聞いておきたいことがある」
李厳が意を決したようにして言った。
「お前はここ最近、頻繁に費禕と会っているそうではないか。費禕と言えば、蔣琬の昔からの友であろう」
つまらぬことを疑われていると思い、楊儀はまた失望して大きな息を吐いた。費禕を屋敷に招くのは楊儀の仕事の一環であり、李厳にとやかく言われることではない。
「費禕も蔣琬に対し不満を持っているのだ。何も疑うことはない」
「それならいいんだがな。手の者がたまたま見かけ、俺の耳に入れてきたのだ。だから、念のために聞いておこうと思った。悪く思わないでくれ」
楊儀が不満な顔を見せたせいか、李厳は慌てて言い繕った。頻繁に会っているのを知っているということは、たまたまではなく監視させていたのだろう。
「それにしても、山奥の魏延のことを出したのは早計ではなかったか。俺の手の者が確たる証拠を得るまで、何故待てなかったのだ」
「そんなことを今更言ったところで仕方がないだろう。こちらにはこちらの事情というものがあるのだ」
「魏延のことで馬岱を責め始めた直後に、手の者があれは魏延ではないと言い始めたのだ。何か関連があると思わん方がおかしいではないか」
李厳の暗い目がじっと見つめてきた。この男が疑っているのは、費禕ではなく自分なのだとはっきりわかり、楊儀は狼狽した。
「ここに呼びつけたのは、私のことを疑っていたからということか」
「一度だけ、直接会って話しておくべきだと思った。疑っていたというのは否定しないが、全く信じていなかったというわけではない」
どっちつかずの李厳の物言いに憤りが湧いてきたが、楊儀は怒鳴りつけたい欲望を抑えた。所詮は平民に落とされた者の言っていることなのだ。
「気を悪くしないでくれ。俺も必死なのだ」
「それは私も同じだ」
李厳が宥めるように言い、楊儀は短く答えた。怒りで、短く答えることしかできなかった。
「しかし会っておいて良かった。お前の様子を見て、俺が疑っていたことは全て杞憂だったのだと確信できた。手の者からは拷問をしてでも本当のことを聞き出しておこう。俺からの報告を待っていてくれ」
李厳がにこやかに言い、話はそれで終わった。
李厳の家を出てからも、腹の虫は収まらなかった。これだけ尽力しているというのに、何故あのような疑われ方をされなくてはいけないのか。自らの失敗で平民に落とされ、そこから引き上げてやろうというのに、酷く踏み躙られた気がして苛ついた。息子の李豊
が江州の太守でなければ、あのような薄汚い老人の相手などしていないのだ。敢えて触れはしなかったが、終始呼び捨てにされていたのも気に入らなかった。
それでも利用価値がある内は我慢するべきだ。蔣琬を追い落とすことができれば、次は李厳を追い落としてやればいい。
夜になってから、屋敷に費禕がやって来た。いつものように闇に忍んでという風だが、李厳の手の者に見られていることに気付いていない費禕がとんでもない間抜けに見え、また腹が立ってきた。
「どうかなさいましたか、楊儀殿。あまり機嫌がよろしくないようで」
「お前はいつまでそうやってこそこそとやって来るのだ。同じ軍人同士なら、堂々と来ればよかろう」
「それは、いつものことですから」
「李厳の手の者に見られているぞ。それで、私が蔣琬と通じているのではないかと疑われていたわ」
「李厳殿と会われたのですか」
「その話はしておらん。私の屋敷に来る時は、密かにではなく堂々とやって来いと言っているのだ」
「わかりました」
費禕が気を落としながら返事をし、持参してきた酒を杯に注いた。
楊儀は費禕が持ってくるこの酒が好きだった。飲んでいると気持ちが晴れ、飯が美味く感じられた。そして、よく眠れた。
口に含んだその酒の風味が、何かに似ていると思った。昼間に行った李厳の家に、同じ匂いが漂っていたことを思い出した。
「これには麻が入っているのか」
「そうです。今、お気づきでしたか」
昔から、麻は吸わなかった。体が煙を受け付けないのだ。
「麻はお嫌いでしたか」
費禕が機嫌を伺うように言った。
「煙は好かん。しかし、この酒は嫌いではない」
「それは良かった」
費禕が顔を明るくした。李厳から疑われ、費禕からも疎まれるわけにはいかない。これまで何度も酒を飲み、良い関係を築いてきたのだ。
しばらく宮中の話をした。黄皓が帝に大赦をするよう勧めている。長く続く戦乱で人口が減っているため、蜀の国力回復が思うようにいかず、罪人を解放して労働力にすることでそれを補おうということだったが、来敏と董允がそれに猛反対していた。裏では罪人の関係者から黄皓に賄賂が贈られていて、その銭が李厳に回ったりしているのだ。
自然と話題は李厳のことに移っていった。
「李厳殿には、いつ会いに行かれたのですか」
あまり答えたくないことだったが、既に酔いが回り始めていて、答えてもいいかという気になった。李厳から言われたことへの愚痴も聞いてもらいたかった。
「今日の昼間だ。お前と会っているのを知っていて、私が蔣琬と通じているのではないかと心配していた。李厳殿も、胆の小さいことよ」
「慎重であることは、悪いことではないと思います」
「それはそうだが、慎重過ぎて自分まで疑われてしまえばたまったもんじゃない。李厳はお前のことも疑っているというのに、呑気なことを言うな」
言っておかしくなり、楊儀は大笑した。酔いが心地良いものになってきている。
「全くです、疑われるべきは李厳殿だというのに」
費禕が、脈絡も無いことを言った。何故、李厳が疑われるのだ。少しだけそう思ったが、酔いのためそれ以上は考えられなかった。李厳の態度を思い返せば、疑われても仕方がないという気がする。
「仲間だというのに口が過ぎるぞ、費禕。しかし間違っているとは思わん。だから私は言ってやったのだ。李厳殿が魏国の臣であれば、かなりの出世ができただろうと」
費禕が口の中の物を飛ばしながら笑った。もうそれが不快に思わない程、楊儀も酔っていた。
「それが蜀では、出世どころか平民に落とされてしまいましたな」
「魏軍にいれば、ちょっとした将軍くらいの地位は貰えたのではないか。司馬懿がいないと何もできない郭淮のような者が将軍をやっているくらいだからな」
「司馬懿は確かに手強かったですが、それ以外の者は無能ばかりでした」
「司馬懿の手下だった辛毗も愚かであった。小細工を打ち、最後は王平に両足を飛ばされたのだからな。それで王平は鼠を捕まえた猫のように、その足を私のところに持ってきたのだ。すぐに捨てろと叱りつけてやったが」
そのことを思い出すと、しばらく笑いが止まらなかった。世の大半の者が、愚かな者なのだ。文字の読めぬ者など、猫と同じでいい。
「戦に勝っても歩けなくなったのでは意味がありませんな。ところで楊儀殿が辛毗なら、司馬懿にどのような献策をされていましたか」
「そうだな、一つ秘策があるぞ。私を調略するのだ。黒蜘蛛を使って密かに接触し、然るべきものを与えてくれるならいつでも寝返ってやったが、辛毗はそれを思いつきもしなかっただろう。だから、無能だ」
言って楊儀がさらに笑うと、費禕も遅れて笑い声を上げた。不穏なことを言っているが、同じ戦塵を浴びた者同士で酒を飲んでいるのだ。これくらいは何の問題もない。
「それで成都に帰還すれば閑職なのですから、たまりませんな」
「それよ、費禕。丞相が死んだ後に大きな分岐点があったのだ。成都に戻って閑職に就けられるとわかっていれば、私は成都に帰らず魏軍に降っていた。そこまで読めなかったのが私の誤りだった。漢王朝の復興という大義を失った蜀に、女々しくも未練を持ってしまったのだ」
心の底から、溜まっていた言葉が次々と出てきた。いつもより酔っているが、他に聞いている者は誰もおらず、心配することなど何もない。
「楊儀殿は、いずれ蜀は魏に併呑されるとお考えですか」
「それはされるであろう。あれだけ戦をやって勝てなかったのだ。呉との同盟もいつまで続くかわからん。これでいつまでも蜀が続くと思う方がおかしいではないか」
「それで、魏軍に降るべきだったと」
費禕が笑いながら言った。顔は笑っているが、目は笑っていないように見えた。さすがに楊儀は不安になってきた。
「何を言いたい、費禕。酒の席での冗談ではないか」
「いや、他意はございません。少し酔いが過ぎたようですな。この話はこれくらいにしておきましょう」
不安になったが、費禕は自分のことを心配してくれているだけではないか。楊儀は心の中でそう言い聞かせた。
「お前の持ってきた酒が良すぎたのだ」
自然と言い訳染みた言葉が口から出てきた。
費禕が話題を変えて囲碁の話をし始めたが、心に芽生えた不安が徐々に大きなものになってきて、楊儀は空返事ばかりをしていた。不安が大きくなっていくのは、酔いのせいでもある。
言ってはいけないことを言ってしまったのかもしれない。しかし酔いで頭が回らず、どの程度のことを言ってしまったのかも判断できなかった。不安が募り、その不安を紛らわせるためさらに杯を重ねた。
いつの間にか寝ていて、目覚めた時には朝になっていた。費禕の姿はない。酔いが抜け切れておらず、頭がまだ惚けている。
「旦那様」
ふらつく足で厠に行こうとしていると、女中が呼びに来た。
「郤正という方がお見えです」
「郤正だと」
珍しい客だった。蔣琬の側近の一人で、句扶と繋がりのある男だ。
「待たせておけ」
「しかし、今すぐにと」
女中の様子がおかしい。何をこんなに怯えているのだ。
楊儀は厠に行くことも忘れて表に出た。朝日を背にして影になった郤正が、五人を従えて楊儀を待っていた。
「何用だ」
言いながら、楊儀は昨晩のことを朧な頭で思い返そうとした。言ってはいけないことを言ってしまったのは、何となく憶えている。
「蔣琬様がお呼びです。御同行願います」
「用件を言え」
強気で言ったが、まだ若い郤正の不敵な視線とぶつかり、楊儀はたじろいだ。
「用件は、蔣琬様がお呼びだということです」
「小僧、私が誰だかわかってものを言っているのか」
「成都第二軍軍師であられる、楊儀様です」
郤正が顔色一つ変えずに言い、楊儀はわざと音を立てて舌打ちをした。この種の者にはどんな恫喝も通じない。
「わかった。行こう」
「ありがとうございます」
身を正してから、郤正と五人に囲まれ政庁へと向かった。歩き方から、全員が蚩尤軍のような忍びの者だとわかった。蔣琬が自分を呼び出した理由は、昨晩の発言が原因なのか。だとしたら、費禕も連行されているのだろうか。それとも李厳が言っていたように、費禕は始めから蔣琬と通じていたのか。なら来敏と口論をしていたのも、見せかけの演技だったいうのか。疑問は次々に浮かんできたが、昨晩からの酔いが尾を引いていて思考が途切れ、明確なことは何も紡ぎ出せなかった。
一礼して、蔣琬の執務室に入った。昔はここで諸葛亮の片腕として働いていた。諸葛亮が死んでからここに来るのは初めてだった。
窓に向かって背を向けていた蔣琬が振り返り、椅子に腰を下ろした。その傍らに郤正が立ち、残りの五人は楊儀の背後に立った。
「これはどういうことですか、蔣琬殿」
蔣琬が、少し頭をかしげた。
「聞くところによると、ずいぶんと不満があるようではないか、楊儀。一度、考えていることを全て直接聞かせてみろ」
楊儀の中で、何かがかっとした。この若造に、そんなことを言われる筋合いはない。
「これはまるで訊問のようではないですか。そういう話をするのなら、酒の席でも設けてですね」
「費禕とそうしたように、と言いたいのか」
言われて楊儀は息を飲んだ。蔣琬は全て知っているのだ。ならばやはり費禕は始めからあちら側だったのか。昨晩の会話が筒抜けなら、自分の立場はかなり危ういものになる。
「何を言いたいのだ、蔣琬殿は」
「魏に降りたいそうではないか。そんなことを言う者を軍師に据えておくわけにはいかん。任命責任を問われてれしまうことになるからな」
蔣琬が顔をにやつかせながら言った。馬岱を責めたことへの皮肉を言われている。
「何のことだかさっぱりわからん」
頭が朧で気の利いた言葉が出てこなかった。
「そうか、わからんか。費禕、入って来い」
費禕が入ってきて、郤正の反対側に立った。費禕の目が、露骨に自分のことを敵視している。
「費禕、おのれ謀ったな」
「楊儀殿、昨晩のことはさすがに私でも擁護しきれません。だから、蔣琬に伝えておきました」
楊儀の頭に沸々と血が昇ってきた。思えば、昨晩の酒はいつもよりきつかった。あれは自分を嵌めるための罠だったのか。
「お前だって不満を並べていたではないか、費禕。何故、私だけが咎められなければならないのだ」
「不満があることは構わん。これだけの人がいて、不満を持つ者が全くいないという方がおかしいだろう。お前が昨晩言っていたことは、不満ではなく叛意ではないか」
蔣琬が卓に両肘を突きながら淡々と言った。
「酒の席だったのだ。酔っていて思ってもいなかったことを口走ることもあるではないか」
「酔っていたからこそ、心の底で思っていたことが口から出たのだ。これはどんなに言い繕おうと、見逃せるものではないぞ」
背後から、五人の忍びが一歩近づく音がした。
「ふざけるな。私は北伐で功を立てたのだ。それで私が出世するのが面白くなくて、こうして罪人に仕立て上げようというのだろう」
「何が功だ。諸葛亮殿が死なれてから、お前はすぐに軍を分裂させたではないか。それも、お前のつまらん我儘によって」
「それは魏延が」
「魏延殿はお前の我儘を止めようとしたのだ。その魏延殿を殺し、成都に戻ればまた我儘だ。まるで子供ではないか。それも、大きな力を持った、恐ろしい子供だ。お前のような者が大きな声を上げる時、国は滅びるのだ」
何を言われているかわからなかった。何故、自分が国を滅ぼす者だなどと言われているのだ。臣が出世を望むのは、当然のことではないのか。
「私は諸葛亮殿のように甘やかしはしないぞ、楊儀。お前は分をわきまえることを知らん。欲に任せて自分の能力以上のことをやりたがり、足りない部分は虚勢で補おうとする。それでお前の周りの者を巻き込んで、そこになかったはずの不幸を振りまいているのだ。お前のことをこれ以上使うことはできん。首を落とすぞ」
楊儀は凍りついた。つい昨日まで、楽しく酒を飲んでいたのだ。それがどうして、今日になって打ち首なのだ。
「蔣琬殿の言っていることはわかった」
わからなかったが、とりあえずそう言っておくことにした。
「しかし打ち首はやり過ぎではないか。確かに私に落ち度はあるが、私のしたことと馬謖のしたことが同等だとは思えん」
馬謖は大軍を預けられ、諸葛亮の命令に背いて大敗を喫した。その後に処断された馬謖を訊問したのは、楊儀だった。
「そういうことは自ら言うものではないであろう。こういう時に人の本性が出るというが、無様なものではないか」
言いたいように言わせておけばいい。ここは打ち首を回避することに全力を注ぐべきだ。そうすれば、黄皓の画策する大赦で許しを得ることができるかもしれない。
「平民だ、蔣琬殿。御子息の蔣斌殿も命令違反を犯したが、打ち首ではなかったではないか」
蔣琬が少し肩を動かして反応した。ここは、蔣斌の名を出して反撃すべきだ。
「不公平だ。一国の宰相ともあろう者が、肉親には甘く、それ以外には厳しくするのか」
「自らに落ち度があった、と言ったな」
「あった。それは認めよう」
「ならば審議しよう。それが終わるまでは牢に入っていてもらうぞ」
背後から腕を拘束され、そのまま地下の牢に放り込まれた。
それから数日間、光の乏しい牢の中で過ごした。こんな扱いを受ける時が来るとは思ってもいなかった。
暗闇の向こうから黄皓が現れて助けてくれることに期待したが、いつまで待ってもそれはなかった。宦官風情に、そんな根性があるはずもないと思い直した。それどころか、下手を踏んだ楊儀のことを、黄皓と李厳は笑っているかもしれない。逆にその二人のどちらかが牢に繋がれていれば、無能だったのなら仕方がないと笑いながら見捨てていたことだろう。
なら自分は無能なのか。違う。卑劣な罠に嵌ってしまったのだ。悪いのは、卑劣なことをする者の方に決まっている。
蔣琬が憎い。自分を嵌めた費禕はもっと憎い。打ち首を免れ平民になり、大赦によって復帰することができれば必ず復讐をしてやる。必ず、この仕打ちをしたことを後悔させてやる。
牢から出されることになった。地下にいたため日の経過がわからなかったが、恐らく十日は経っている。
申し渡されたのは、西方の漢嘉郡への流刑だった。蔣斌のことがあったせいか、打ち首を回避することはできた。とりあえずはそれを良しとすることにし、蔣琬の決定に大人しく従おうと思った。生きていれさえいれば、いつか復帰する機会は来る。全てを失い、それだけを胸に、楊儀は西へと護送されていった。
楊儀が屋敷から姿を消していた。手の者に調べさせると、李厳と会った日の翌朝に蔣琬の部下がやってきて、そのままどこかに連れて行かれたのだという。それ以上のことを楊儀の屋敷にいる者から聞き出そうとしても、固く口を閉ざしている。
蔣琬下ろしの画策は密かに進められていると黄皓から聞かされていたが、政庁での権力争いは思っていたより大きなものになっているのかもしれない。そう思っても、成都の郊外に平民として暮らしている李厳には、全てのことはわからない。
楊儀が連行される前夜に、費禕が楊儀の屋敷を訪ねていたことがわかった。その費禕は、連行されることなく普通に過ごしていた。やはり費禕は、始めから蔣琬派として動いていたのかもしれない。
捕らえられた楊儀のことはもうどうでもいい。政権転覆を狙っていたことが発覚し、自分もそれに加担していたことを知られれば、いつ蚩尤軍を差し向けられるかわからない。身を守るためには成都から離れ雲隠れしてしまうのが一番だが、それはできない。大赦が控えているのだ。大赦が為された時にどこにも姿が無いとなれば、蜀の高官として復帰することができなくなる。
黄皓に大赦を急げと督促したが、もう少し待てという返事が来るばかりだった。重臣である来敏と董允が大赦に反対して、議論を重ねているのだという。宦官など当てにするものではないが、平民から脱するには黄皓を頼らざるを得ないのだ。
黄皓から渡された銭で、肉と女を買った。人を雇って情報を収集するための銭だったが、蚩尤軍に監視されている可能性がある今は、手の者を動かすべきではない。欲に耽ることで蔣琬の目を誤魔化し、大赦を待つための時間稼ぎに注力すべきだ。いくら蔣琬でも、何の罪もない堕落した毎日を送る一人の平民を、敢えて殺すことはしないだろう。
使っていた三人の手の者に情報収集を止めさせ、使いとして市場に肉と女を買いに行かせ、噂話があれば耳に入れるよう命じた。黄皓から銭と一緒に送られてくる麻を吸い、安い肉と大して美しくもない女で日を過ごした。
李厳を捕縛しようという者が家にやってくることはなかった。このまま自堕落に過ごして大赦を待つだけでいい。もし金と麻の出どころを聞かれることがあれば、江州の息子からの仕送りだと答えればいい。それで何の問題もない。
楊儀が連行されてから十日が過ぎた。その間に楊儀からの連絡はない。李厳はさすがに気になってきて、手の者にそれを調べてくるよう命じた。
「楊儀殿は、漢嘉郡に流されるようです」
流刑とはただごとではなかった。やはり蔣琬は裏で楊儀が何をしていたか知っていたのだ。その余波が自分のところにも来そうなものだが、何の音沙汰もないのが逆に不気味だった。
「罪状は何だと言っていた」
「そこまでは探れていません。これ以上探れば、確実に怪しまれます」
「そうかい」
使えない、という言葉を李厳は飲みこんだ。怪しまれないようにやれと言ったのは自分なのだ。
「もう一つ、噂話があります。楊儀殿が流刑になったのと同時に、李厳という人が処断されたのだと」
「なに、李厳だと」
ここでの自分の名は李平だった。この手の者は、目の前にいるのが本物の李厳だということを知らない。何か空恐ろしいものを感じ、李厳はそれ以上のことを聞けなかった。不安になると、体が肉と女を欲し始めた。
「いつものように、市場に行って肉と女を買ってこい。他に余計なことはするなよ」
言って手の者にいつもより少ない銭を支払った。満足な情報でなければ、こうして銭の量でそれを伝えた。李厳が背を向け横になると、手の者は静かにそこから出て行った。
それにしても、李厳が処断されたとはどういうことなのか。誰か別の者と間違えて噂が広がっているのかもしれない。そうだとしたら、処断されたのは費禕かもしれない。費禕が蔣琬派でなく本当に楊儀に加担していたとすれば、それは考えられることだ。
虫が家の周りで鳴き始めた。夜になっても、市場に行かせた手の者は帰ってこなかった。少ない報酬に腹を立てたのだろうか。だが気にすることはない。人を使っていれば、こういうことは少なくない。銭はあるのだから他の者を雇えばいいだけのことだ。
麻を吸って眠り、朝を迎えた。使用人の老婆に聞いたが、やはり手の者は戻っていなかった。それは忘れることにして、老婆に肉を焼かせて麻を吸った。大赦が為されるまでは、新しい者は雇わず、こうして静かにしておけばいい。
麻を吸い、肉を喰らって夜を迎えた。女も欲しかったが、それは我慢した。眠った。眠ったとわかったのは、目が覚めたからだ。それも轡をされて手足が縛られ、暗いものに詰められたまま何かに揺られている。暗い中で揺られながら、誰が自分を拉致するのかと考えた。話の通じない金目当ての賊ならまずい。蚩尤軍なら、話が通じるという点でまだ希望が持てる。
やがて揺れが止まり、土の上に放り出されて轡が解かれた。周りには岩と草しかなく、そこを照らす月明かりを背に眼帯をした男が立っていた。
「こんなことをして何だというのだ、句扶」
蚩尤軍であったことにとりあえず安堵した。
「李厳殿の手を貰います」
突飛なことを言って心を乱そうとしている。李厳はそう思い、口車に乗せられないよう、間を置いて言葉を選んだ。家の周りと同じ虫の音が響いていた。
「俺の手で何をしようというのだ」
「黄皓に送り付けるのです。それで、あの鼠は静かになります」
句扶の部下が手枷を解いた。そして腕に、刃が当てられた。
「わかった、句扶。俺と黄皓が繋がっていたことは認める。だから」
刃が振り下ろされた。自分の左手が別の物のように体から離れ、李厳は絶叫した。
「残念です、李厳殿。李厳は処断されたという噂を聞いた時に、成都から抜け出しておくべきでした」
「確かに俺の手の者がそう言っていた。あれはお前が吹き込んだのか」
ということは、魏延がただの猟師だったと言っていたのも、句扶の差し金だったということか。楊儀が言っていたように、拷問をしてでも聞き出しておくべきだった。それをしなかったため、こんな目に会うことになってしまった。
「軍の兵糧を止めたり、黄皓や楊儀と組んで国を乱そうとしたり、あなたはどうしようもない人だ。言葉で言ってわからないのなら、消えてもらうしかありませんな」
句扶が短い剣を懐から取り出した。このままでは殺されてしまう。今はそれを回避する方法を考えるべきだった。
「大赦が近いのか。だから、俺を殺そうというのか」
「そうです」
句扶はあっさりと答えた。
「殺すことはない。俺のこの右手もくれてやる。そうなれば、大赦で許されても高官に復帰することはできなくなる」
句扶の細い右目が見つめてきた。その隣の眼帯が、きらりと月の光を照り返してきた。
「そこまでして生き長らえたいか」
「そうだ。悪いか」
せめて大赦までは死ねない。腕を失ってでも、命まで失うわけにはいかない。
「だめだ、ここで死ね」
「そんな」
「そこまでして生き延びようとしてどうする。欲に耽り、尊厳まで捨てて生きるだけなら、獣と同じではないか」
「お前の考え方と、俺の考え方は違うのだ」
句扶が右手を上げ、強かに下ろした。それで李厳の右手も切り落とされた。痛みで転げそうになったが、句扶の部下に体を押さえつけられた。
「これでもまだ、生きたいと思うか」
「生きたい」
痛みは、いずれ収まる。血も止まる。そして大赦が為されれば、息子のいる江州に行って庇護してもらえばいい。
「ならば草と岩しかないここで、一人で生き延びてみろ」
体が解放された。そして蚩尤軍が姿を消した。殺されはしなかったが、助かったと思ったのは束の間だった。両腕から血が流れ続けている。止血をしようにも、腕がないためできなかった。口で止めようと思ったが、口は一つしかない。李厳は立ち上がった。草と岩しかないこの場にいても仕方がないと思い、走った。血を失っているためかすぐに息が切れ、足がもつれて転んでしまい、反射的に腕の傷口で体を庇った。気を失いそうなくらいの激痛が走り、転げ回った。
句扶を前にしても、腕を落とされても、どこかで自分は死なないと思っていた。何も無い地で独りになり、初めて死を意識した。その死は、もう間近に迫っていた。何故ここまで迫るまで、気付くことができなかったのか。
もう何もできないと思い、李厳は仰向けになった。目からも血が流れていた。いや、これは涙か。
鳥の鳴き声が近づいてきた。死ねば、あの鳥に食われてしまうのだろうと何となく思った。李厳は句扶の名を呼び、子供のように謝った。何度も叫んで謝ったが、誰からの返事もなかった。月との間に吹く風が、一段と寒くなってきた。
7-11
輜重に乗せられた千本の戟が成都から漢中に届けられた。まだ余裕があるとは言い難いが、北伐で損耗した漢中軍の武器庫の中身は順調に回復していた。これから調練する新兵の武具はなんとか間に合いそうだった。
成都で大赦が行われ、解放されたかなりの数の罪人が新兵として入ってくることになり、王平と劉敏はその対応に追われていた。大赦に反対していた来敏と董允が罪人を全て兵にするという条件で妥協したのだった。
王平にとっては大きな迷惑だった。罪人を軍に押し付けるのなら鼻から大赦などしなければいいではないか。それでも成都には様々な事情があるらしく、帝の権威を利用しようとする者が幾らかいて、蔣琬はその対処に手を焼いていた。この大赦で、解放される罪人の関係者からかなりの賄賂を受け取る者がいるようだと、蔣琬からの書簡を読んだ劉敏が言っていた。はっきりと書かれてはいないが、その賄賂は宦官の懐に入っているということが匂わされていた。
宦官とは、帝の持ち物である後宮の女たちに手を出さないように陰茎を切り落とされた者のことだ。王平は宦官とはほとんど面識がなかったが、卑しい者が多いとは聞いていた。蔣琬や費禕も宦官のことをよく思っていない。
その一方で、宦官は自分の体の一部を切り落としてでも帝に仕えているのだから、悪く言ってはならないと言う者も少なくない。そういう者は、大赦など必要ないと思っていても、宦官が言うのだから大赦を受け入れてやろうと言い出すのだった。大赦が必要かどうかなんかどうでもいい。陰茎を無くしてしまった哀れな宦官の言うことを肯定してやるのは、そういう者にとって快楽なのだ。そして哀れな宦官を肯定してやるために、大赦の必要性を後からそれらしく作るのだ。
戦に負けた蜀の帝の権威を高めるため大赦を為すというのは建前で、一部の者が大きな利益を得るために大赦が利用されているに過ぎない。その利を得る者は、そのために誰かが迷惑を被っても一顧だにしない。王平が軍にならず者を抱えるようになり、蜀の軍事力が弱くなっても、全く関係のないことなのだ。
それでも国に軍はあり、軍は国に巣食うその欲深い者を外敵から守るためにあるとは皮肉なことではないか。
大赦については深く考えないことにした。
王平は、新兵となった罪人が徒党を組まないようそれぞれの小隊にばらつかせて配し、始めに駆け足をさせ文句を言う者やすぐに動けなくなった者の首は容赦なく打った。それで不満を言う者はいなくなり、一応の秩序は保たれたが、やはり軍の質は明らかに落ちていた。嫌々ながらやっている者が混じると、どうしても全体行動に乱れが出てしまう。そういう者は、二度乱せば棒で打ち、三度目で首を打った。そうして十日もすると、かなりの数の新兵が減っていた。
王平が調練を終えて軍営に戻ると、呉懿からの呼び出しを受けた。魏延がいなくなって
から任命された、新しい漢中の都督である。以前は軍人で北伐に随行したこともある老将で、今は実務からは一歩退き、現場の王平や劉敏に何かと口出ししてくる存在になっていた。
呉懿の執務室に行くと、そこには既に劉敏がいた。
「何故、ここに呼び出されたかわかるか」
呉懿が眉をひそめながら言った。恐らく新兵を殺し過ぎるなということなのだろう。そう思ったが、王平は答えず黙っていた。言ってしまえば、殺し過ぎだと自ら認めてしまうことになる。劉敏もそれをわかっているのか、同じく黙っていた。
「私は驚いたぞ、王平。十日の間に、百以上の新兵を殺すなど聞いたことがない。罪人を軍で受け入れることは成都で決定されたことなのだ。お前はそれに逆らおうというのか」
「軍を乱す者の首を落としました。それは今までもやってきたことです。今回の新兵には、そういった者が多かったというだけのことです」
「それはそうだろう。全員が罪人だったのだからな。だが大赦をした意味をよく考えてみろ。この国にいる人間が戦で少なくなっている。だから大赦をすることで働き手を増やしたのだ。その働き手を、お前が少なくしてどうする」
劉敏が一歩前に出た。
「今回の新兵は、おかしな者が多過ぎます。腹を丸く太らせた元商人の小男までいるのですから。そういった者に合わせて調練をすれば、軍全体が弱くなります」
「それを調練するのがお前らの役目ではないか、劉敏。これは本来、王平の副官であるお前が言わなければならないことなのだぞ。それをわかっているのか」
劉敏が顔を赤くさせて絶句していた。王平は宥めるようにその肩を叩いた。
「私の役目は、外の敵から漢中を守ることです。その妨げになるものは、何であろうと許しておくわけにはいきません」
「だからその罪人を漢中を守る兵に仕立て上げろと言っているのだ。そのための工夫をしろ。そんなこともわからんとは、なんと頭の固いことか」
頭の固いのはお前だ。そう思ったが王平は諦め、わかりましたとだけ答えておいた。
「人が少ないのだから殺すな。これは命令だ。わかったら行け」
王平と劉敏は不満に思いながらも一礼して退出した。
「おかしな人が都督になってしまいましたな。あれが魏延殿なら、何も言われることはなかったでしょう」
劉敏がつまらなさそうに言った。呉懿の性格は武官というより、文官に近い。
「良い返事だけしていればいいさ。あの老人の言葉に従っていれば、間違いなく漢中軍は弱くなる。軍の精強さを保ちながらああいった老人と上手くやっていくことも、俺らの大事な仕事なのだと思えばいい」
「私はいつか怒りを爆発させてしまいそうです」
「顔を赤くさせていたな。しかし心配することはない。いざとなればこの国の宰相は俺らの肩を持ってくれるよ」
呉懿がどうしても軍務の邪魔になるようなら、蔣琬と相談し対策を考えればいい。
「いつまでも宰相が蔣琬殿であればよいのですが」
楊儀が、叛意を示したという理由で流刑に処されていた。蜀の宰相が蔣琬でなく楊儀であったなら、呉懿の味方をしていたという気がする。そうであれば、王平は更迭されていたかもしれない。現に成都では、馬岱が楊儀からの讒言により更迭されていた。
「考えてみれば、国とはその図体に関わらず、随分と脆弱なものですな。少しの人間がおかしな者に替わるだけで、がらりと弱くなってしまう。漢王朝が四百年も続いたことが何やら不思議なことのように思えてきます」
諸葛亮は、その四百年を途切れさせようとした者に挑んだ。そして王平らは、それに従い戦った。北伐軍にいた者は誰しもが少なからずそれに誇りを感じていた。時が経ち誇りを持つ者が死に、誇りを持たない者がこの国を支配するようになれば、この蜀という国も誇りと共に消えてしまうのだろうか。国を支えるものが誇りだけだと考えるのであれば、劉敏の言うように国とは実に脆弱なものだと思わざるをえない。
「呉懿殿は今のことばかりを見て、先のことを見ようとしません。死ぬまでの自分が良ければ次の世に生きる者のことなどどうでもよいのでしょう」
自分も年を重ねれば、呉懿のようになってしまうのだろうか。
「蔣斌がここを抜けて山中で暮らすようになったのは良かったことなのかもしれんな」
劉敏は、魏延のことを知っていた。
「今度、時を見つけて蔣斌に会ってこようと思う。たまには会いに行かねば忘れられたとまたべそを掻くかもしれんからな」
劉敏はそれに頷くだけで何も言わなかった。蔣斌のことを見限っているわけではないが、山中で魏延と暮らしていると知っても会いに行こうともしない。軍令違反を犯させてしまったことに大きな負い目を感じているのだろう。昔の、王訓と自分の関係に似ているのかもしれない。
新兵がようやく調練についていけるようになり、王平は蔣斌に会いに行くことにした。手土産に、黄襲の食堂で買った干し肉と、兵糧の乾飯を持っていくことにした。
漢中の街で暮らす人々を尻目に城郭を出て森に入り、群れになって立つ木々の影に埋め尽くされた山中を進んだ。
百里程行くと、嘘のように開けた陽の注ぐ場所があり、そこに魏延の幕舎はあった。戦塵に塗れて茶色だった幕舎が、苔と蔓の緑に覆われていた。
魏延が幕舎の中からひょっこりと顔を出した。
「おう、王平」
魏延の顔に、軍人の時にあった険しさは微塵もなかった。不慣れなものに接している気がして、王平は少し戸惑った。不慣れではあるが、嫌なものではない。
「蔣斌の様子を見に来ました。魏延殿に迷惑をかけていないかと思いまして」
「迷惑なんてないさ。始めはここでの生活に苦労していたがすぐに慣れたよ。今は山中に行っていて、直に山菜か獣を持って帰ってくる」
王平は幕舎に招き入れられた。中にはちょっとした囲炉裏が作られていて、魏延がそこで湯を沸かし始めた。
「俺のことは、成都に知られていないか」
火を弄りながら魏延が見つめてきた。注意深く覗き込まれているようでもあった。
「その心配はありません」
「そうか」
言って魏延は火元に視線を戻した。
李厳の手の者にここを嗅ぎ付けられそうになったが、それは黙っておくことにした。これは自分たちが処理すべき問題で、蜀を離れた魏延には関係のないことだ。
「楊儀殿は叛意を示したことにより、漢嘉郡へ流刑となりました」
「そうか」
魏延は表情も変えず湯の具合を見ていた。
「蔣琬が勝ったということか。あの青瓢箪が、やるようになったな。俺が勝てなかった相手を負かしたのだから、大したものだ」
「蔣琬は、魏延殿のことを信頼していました。息子を任せるには最適であると」
湯がそれぞれの椀に注がれ、王平はそれを口につけて啜った。森の香りがする湯だと思った。「その言い草は気に入らんな。もっと信頼すればいい。俺をではなく、自分の息子をだ。そういう心配をしているということは、まだ本当の所で蔣斌を信頼していないということだな。その辺りはまだまだ青瓢箪だ」
「蔣斌を平民に落とすことで、蔣琬はかなり苦悩していました」
「男があれくらいの年になれば、どこに行こうが放っておいてもなんとかやっていけるもんだ。俺はここで蔣斌に何の命令もしていないぞ。ただちょっとだけ干し肉の作り方を教えだけで、あいつは好きなようにやっている。若い者を見る老人はそれでいい。軍にいた時の蔣斌がおかしくなってしまった理由が、俺には何となくわかるよ」
確かに、蔣斌には期待を詰め込みすぎた。魏延も同じことを感じているのかもしれない。
「蔣斌の近くに魏延殿がいるのは、決して小さいことではないと思います」
「俺があいつにやっていることと言えば、この老いた負け犬の長話につきあわせることくらいだ。それだけでも、若い者は勝手に学んでくれる」
幕舎の外で音がした。蔣斌が帰って来たようで、そのまま外で何か作業をし始めている。幕舎を出ると、蔣斌は兎を捌こうとしているところだった。
「あ、王平様」
「元気そうではないか、蔣斌」
成都から追い出されて泣きじゃくっていた時と違い、蔣斌は活き活きとした目をしていた。王平を見てそれを思い出したのか、蔣斌は照れ臭そうに笑った。
「兎を捕ってきたのか」
「二羽、捕ってきました。王平様が来るとわかっていたら三羽捕ってきたのですが」
「黄襲殿の干し肉を持ってきた。乾飯も少しある。これでお前の料理を馳走してくれ」
蔣斌は頷き、兎の皮を剥ぎ始めた。皮に残る肉が多いと言い、王平は懐の短剣で綺麗に皮を剥いで見せた。蔣斌は、食い入るようにそれを見ていた。
焚火を熾し、鍋に水と乾飯と兎の肉を入れて火にかけた。しばらく煮込んだところで山菜を入れ、さらに煮込んだ。その傍らで余った兎肉と黄襲の干し肉を焙っていて、良い匂いが立ち始めている。
「蔣斌、父のことを憎んでいるか」
二人で火を前にしながら、王平が言った。
「私に父はいません。もう、離別したことですし」
「おい、蔣斌」
「憎んで言っているのではありません。私は蜀国の重臣である蔣琬の息子であるから、軍人として頑張ろうと思いました。それで好きな女を死なせ、命令違反を犯しました」
言いながら、蔣斌は火に薪を足した。
「若い時には過ちがあるものだ」
俺も妻を、と言おうとして、王平は口を噤んだ。言って意味のあることではない。
「蔣琬の子だからこうしなければいけない、と考えていました。狭い考えでした。蔣琬の子をやめることで、他の物事が色々と見えてきたのです。良いことばかりではありませんが、全て知っておくべきことだと思います」
蔣斌にその気はないのだろうが、教えておくべきことを王平と劉敏が教えていなかったと咎められた気がした。
「今度、大赦がある。お前が望めば成都に帰れる。今日はそれを伝えに来た」
「いえ、もう少しここにいようと思います」
蔣斌は即答した。
「成都に戻れば、すぐに前の自分に戻ってしまうという気がしますので」
「そうか。まあ好きにすればいい」
蔣琬はどう思うだろうか。思ったが、それは今の蔣斌に言うことではないのだろう。
「良い匂いがするではないか」
幕舎から魏延が出てきた。
「お前は蔣斌を口説きにきたのか、王平。それでは俺が独りになってしまうではないか」
「蔣斌にふられたところですよ」
もう少しここに置いておいた方がいい、と魏延は言っているのかもしれない。
「良い具合の粥だ。兎の油がしっかりと出ている。これは美味いぞ」
蔣斌が粥を三つの器に取り分けた。外は蒸し暑かったが、昇り立つ湯気が王平の食欲をそそった。兎の味がしっかりと出ていて、口に入れるとじわりと唾液が広がった。
「ここでの生活がすごく羨ましいという気がしてきましたよ」
「そうであろう。ここと成都は全く違うが、こんなところにも歓びはある」
魏延は粥を口に入れ、目を瞑って味わいながらゆっくりと飲み下した。
「出世をする歓びも、女を抱く歓びも、ここでこうして粥を食う歓びも、全て同じ歓びだ。どの歓びを選ぶかでその者の生きる意味は違ってくるのだろう。これを楊儀に言ってやりたかったが、あれは聞く耳を持たんだろうな」
言って魏延は焼いた肉に齧りついた。蔣斌と王平も、粥と肉を貪るようにして食った。
「羨ましいだろう、王平」
全てを食い終わり、魏延が得意げに言った。
「不思議なものだな。ここでの暮らしは良いものだが、都の欲深い者はこの良さに全く気が付かん。他人より欲を満たせないことに不満を持ち、不安になって、自らの欲の中に沈んでいくのだ。それも、他の者の足を掴みながらだ。歓びはこの一杯の粥だけで十分だというのに」
王平に言っているようで、火の後始末をしている蔣斌の背中に言っているように見えた。その蔣斌は、何も言わずに作業をしている。
「心配することは何もないとわかりました。私は漢中に戻ります」
魏延はおうと返事をし、幕舎の中に戻っていった。
「お前の父には俺からよろしく伝えておこう。あれはあれで心配しているからな」
「私は父のことを悪く思ってはいません。それは、王訓を見ていればわかることだと思います。子が親を憎もうとしても、これはなかなか難しいことなのだろうと思います」
「生意気を言うな」
言って王平は蔣斌の尻を叩いた。
泊まっていくよう勧められたが、王平はそれを断り帰途についた。ここに長居してしまえば帰り辛くなってしまいそうだった。
やって来た道を戻り、漢中に戻った時には夜が更け始めていた。漢中の街に点々と火が灯されていて、幻を見ているようだった。もしかしたら、森の中のあの二人の方が幻だったのかもしれない。
翌日、また呉懿から呼び出しを受けた。今度は何を言われるのかと思いながらも、王平は政庁に向かった。
呉懿は魏延より少し年上だが、ほとんど変わらないはずだ。それがどうしてこうも違うのかと考えた。組織に属していようがいまいが、物事の道理が変わるということは無いはずだ。属すものがなければ道理を通せるのに、利便さを求めて組織を作れば道理を通せなくなるとは皮肉なことではないか。
呉懿の従者に案内された一室に行くと、そこには珍しい客が来ていた。馬岱だ。
「軍を抜けられたと聞きました、馬岱殿」
「つまらぬことで因縁をつけられた。それで軍など辞めてやることにしたのだ」
馬岱が闊達に言った。
「そんな。では、部下はどうされるのですか」
馬岱は涼州出身で、劉備が益州に入った時にその傘下に加わったのだった。馬岱と共に加わった涼州出身の兵は数千いて、今は三千程が馬岱の下にいる。
「共に涼州に帰ろうと思う。我らが北伐で蜀軍として戦っていたのは、いずれ故郷の涼州に帰るつもりでいたからだ。その北伐は、もう終わってしまった」
「涼州は魏国です。見つかれば捕らえられてしまいますぞ」
「わかっている。それは建前で、ここからが本題だ」
密談だと言われ、王平は身を乗り出した。
「俺が言ったことに偽りはない。楊儀の陰湿さにうんざりした部下がいることも確かだ。それで軍を辞めた振りをして涼州に密かに入り、そこに住む者を糾合して蜀に移り住むよう勧めて回るのだ」
北伐は諸葛亮が死ぬまで実に七年も続き、その間に壮年の男は兵として狩り出されたため、その七年で産まれた子の数がかなり少なくなっていた。長安を陥落させてそこの富と人を得ていればこんなことにはならなかったが、蜀は負けたのだ。そして大きな負債を残したまま諸葛亮は死に、王平らはその負債を処理しなければならなくなった。
「それは蔣琬からの任務ということですか」
「そうだ。涼州の馬家といえば少しは名が通っている。同じ僻地出身者として、魏国から搾取されている連中に声をかければ成果は上がるはずだ」
大赦を行ったのも、人口の減少があったからだ。魏を攻め領土を奪うのが難しいなら、そこから人だけを調達してこようということなのだろう。第一次北伐で、魏の西端になる安定、南安、天水の三郡はあっさりと蜀に転んだ。魏国であっても、そこに住む人は蜀を憎んでいるわけではないのだ。むしろ搾取を行う魏を憎んでいるといえるかもしれない。ここの住民を移り住ませるという策は、少なくとも罪人を解放するよりかは良いと思えた。
「武都から天水にかけての警備兵を蹴散らすのに三千もいれば十分だ。皆に賊の格好をさせ、蜀軍の兵とはわからないようにやる。王平の漢中軍には、その三千への兵站を繋げてもらいたい」
「それは構いませんが、密かにやるとなれば大きな規模ではできませんよ」
「目的は戦でなく、あくまで話し合いだ。長安から軍が出てきたらすぐに退く。いつでも撤収できるように細々と繋いでおいてくれればいい」
それから地図を前にして、細かいところまで話を詰めた。そして馬岱はその日の内に三千を率いて漢中の出口である陽平関を出て西へと向かった。
王平は兵站だけなら新兵にやらせてもいいと思い、大赦で入ってきた者を含めて部隊を編制し、夜陰に忍ばせ兵站部隊を陽平関から出した。
既に武都に入った馬岱から伝令が来て、馬岱軍の位置を教えられた。馬岱の三千は全て騎馬で移動が速く、迅速に指揮をしないと大きく離されてしまうことになる。王平は輜重を押す新兵を急かしながら進んだ。
あらかじめ決めてあった山腹の地点に兵糧を隠して数日待った。その間の兵糧の受け渡しに遺漏は無い。馬岱は多少の小競り合いをしたようだが、作戦は今のところ上手くいっている。
武都の氐と呼ばれる部族が、馬岱の説得を受けて帰順してきた。会いに行くと、族長はそれなりの格好をしていたが、従っている若い者は体にわずかなものを巻き付けているだけだった。
「氐族の苻健と申します」
漢族ではないため、少し癖のある言い方で名乗った苻健は、魏の搾取がどれだけ過酷なものかを長々と述べ始めた。魏国の西端で人の目は少なく、魏の官吏はこの地で好き勝手していたのだろう。そうでなければ、長く住み慣れた地をこうも簡単に離れようとはしない。
「成都の近くに、新都と広都という城郭があり、移住先はこのどちらかになると思う。詳しくは漢中の呉懿という者から聞いてくれ」
「我が村は千戸を超えております。成都へ行くまでの食糧を貰えると馬岱殿から聞いています」
「わかっている。そう焦るな」
食い物を乞う苻健に嫌なものを感じながらも、王平は兵糧を氐族に分け与えた。苻健は、これで皆に人らしい暮らしをさせてやれると言って喜んでいた。
「陽平関まで行け。既に伝令で事情は知らせてある」
氐族の行列が東に向かって動き始めた。王平はそれを見送りながら、ある種の不安に襲われていた。この氐族は、都で暮らす者たちと全く違う人種ではないか。蜀の中心部で暮らすとなれば、彼らの生活はがらりと変わるはずだ。言葉が違い、着るものが違う。胸を晒しながら平気な顔をして歩いている女も少なくない。この集団が蜀の都会で暮らすようになれば確かに生産力は上がるだろうが、それで何の問題も起きないだろうか。
疲れた顔をした男女や、痩せて骨が浮き出した子供が通って行く。少なくとも、兵にできそうな者は見当たらない。搾取によって異民族の力を奪い、反乱を未然に防ぐという統治方がある。氐族がそれをされてきたことは明らかで同情はするが、この者たちが搾取から解放されて蜀に移り住んだからといって、成都から言われたことを大人しく聞いてくれるのだろうか。ここは蔣琬や費禕の腕に期待するしかない。
兵糧の受け渡しをしている列の中から唐突に声が上がった。その声は徐々に大きなものになり、ちょっとした騒ぎになった。どうやら部下と氐族の若者が喧嘩を始めたようだ。
王平が人の垣根を押し分けていくと、騒ぎの中で氐族の若者の一人が腹から血を流して蹲っていた。血のついた剣を手にしていたのは、大赦で入ってきた新兵だった。
王平は怒鳴り声を上げて騒いでいた者を黙らせた。
「何があったというのだ」
王平はあえて武官には聞かず、こちらの様子を見ている氐族に向かって言った。
「こいつが、食い物を地に落としてそれを拾えと言った。それはできん、お前が拾えと言ったら、喧嘩になった」
腹から血を流していた若者が崩れ落ちた。腹からは腸が零れている。これはもう助からないだろう。
「違うんです、隊長。こいつら飯を貰う立場だってのに太々しくしやがるもんですから、思い知らせてやろうとしただけです」
「なんだと。俺たちは、蜀で働くと決めた。だから、飯を貰えるんだ」
「まだ何も働いていないじゃないか」
王平は言い争う新兵を蹴り倒した。罪人を受け入れていなければ、こんなことは起こすはずもなかった。
「こちらが悪かった。お前の名は何という」
「苻双。苻健の弟だ。仲間がやられたんだからただじゃすまさねえぞ」
「すまなかった、苻双。謝るから許してくれ」
「お前が謝れば、仲間の腹は治るのか。剣を抜いた奴を俺たちに殺させろ。そうしたら許してやる」
いくら元罪人だからといっても、自分の部下だった。誰かに殺せと言われてそれに従うわけにはいかない。蹴倒すのではなく首を飛ばすべきだったと王平は後悔した。
「それはできんが、軍にも法はある。その法によって、この者は裁かれることになる」
「それはないぜ、隊長。こんなみすぼらしい格好した土人の言いなりになるっていうんですか」
「こいつは全く反省していない。今すぐここで殺せ」
それに氐族の若い者たちが同調し、静まっていたものがまた騒がしくなり始めた。こちらに非があるだけに、これを力で抑えるわけにはいかない。
「やめんか、苻双」
いつの間にか近くまで来ていた苻健が言った。
「やめろって、仲間がやられたんだぜ、兄上」
「だからと言って、そう騒いでどうにかなるものではない。すぐに若い者をまとめて陽平関に向かうのだ」
苻双はしばらく俯いていた。そして顔を上げ、苻健を睨んで言った。
「嫌だ。いくら兄上の言うことでも、それは嫌だ」
「苻双、子供染みたことを言うのはよせ」
「どうせ蜀に移っても馬のように働かされるんだろう。それならこの住み慣れた所にいた方がいい」
周りの氐族が、弾かれたように苻双を囃し立てた。
「馬岱殿は、我らのことを平等に扱ってくれると言っていたではないか。涼州出身の兵が蜀軍内で酷い扱いをされたことがないとも」
「現に目の前で仲間が殺されているじゃないか。兄上はこのことに何も感じはしないのか」
「一族の安寧のためではないか。ここは我慢するんだ」
「殺されているというのに、何が安寧だ」
言って苻双は氐族の腹を切り裂いた新兵にぱっと飛び寄り、剣を奪って首を掻き切った。それを合図に苻双を囃し立てていた氐族の若者たちが一斉に王平の兵糧隊に襲いかかった。
完全に不意を突かれてお兵が命令を出す間もなく乱闘になり、大赦で入ってきた者は戦おうともせず逃げ始めた。背を向けた者から押し倒されて武器を奪われ殺されて、兵糧を乗せた輜重には火がかけられた。
王平は襲いかかってくる者に剣を振り、苻健を連れてなんとかそこから抜け出して、唖然としている氐族の女子供をまとめて非難させた。
乱闘を起こした氐族の男たちは一頻り暴れると、北に向かって逃げて行った。兵糧は灰になるか持ち去られるかしていて、多くの死体がその場に残されていた。
「申し訳ありません、王平様。どうお詫びしてよいものやら」
苻健が手と声を震わせながら言った。三千いた氐族の集団は、半分程にまで減っていた。
「私の命を以てお詫びします。どうかここに残された者たちには御慈悲を」
「いや、死んではならん。苻健殿は、ここにいる一族をまとめて陽平関まで行くのだ」
氐族のことより、兵糧のことで王平は頭が一杯だった。馬岱の騎馬隊がかなり奥まで行ってしまっているのだ。その三千騎に供給するものが全て失われてしまったのだ。すぐに馬岱に伝令を出し、漢中にも出した。馬岱の騎馬隊はかなり速く、出した伝令が追い付くのにかなりの時間がかかってしまうかもしれない。そうなればこの計画にかなりの狂いが出てしまうことになる。
新兵の起こしたことではあるが、ここまでの大失敗をやらかしたのは初めてだった。氐族が東へ去ってから、逃げていた新兵が何人か戻ってきた。乱闘になった場に残された死体のほとんどは古参の兵だった。王平は苛つき、戻って来た新兵を一人ずつ蹴り倒し、罵声を浴びせた。
7-12
魏国の西端でおかしなことが起こっていた。武都にかなりの規模の賊徒が出現し、襲われた村落から住民が一人残らず姿を消していた。生き残った者が言うには、賊徒は全員が騎乗で、出動した地方軍は何の成果も出せずにやられていた。
妙なやられ方だった。賊徒が村落を襲うのは食糧や女を奪うからであり、そこの住民を全て殺したり、連れて去ったりすることはない。村人を生かしておけば、また来た時に蓄えを奪うことができるからだ。それが死体も残さず村から一人もいなくなってしまうとは一体どういうことなのか。
軍議で牛金からその話を聞かされ、夏侯覇は先ず王平の騎馬隊を思い浮かべたが、漢中から軍が動いた形跡はないのだという。
村民がどこに行ってしまったかわからないというのが不気味だった。長安から離れた辺境の地での出来事ではあるが、地方軍で対処できないとなれば長安の軍が出張るしかない。
「我らの出動はありますでしょうか」
軍営に戻った夏侯覇に、徐質が聞いてきた。戦を経験した徐質は頭角を現し、今では旗持ちでありながら夏侯覇の副官も務めるようになっていた。
「魏国の民がどこかに消えていて、これを調べるために一万の兵が出ることになった。我らは五千の騎馬を率いて明日に先発する。賊の正体はまだわかってないが、王平の騎馬隊でないことだけは確かだ」
「では、一体誰が何のためにそんなことを」
長安軍におかしな噂が流れていた。賊の正体は、山に住む物の怪だという噂だ。つまらない噂だが、賊の正体がわからないだけに、それを真に受けてしまっている者は少なからずいた。徐質もその一人だった。もしかしたら、この噂は蜀の忍びが撒いた流言かもしれない。
「生き残った者が山よりも大きな影を見たと言っていた。噂は本当かもしれん」
「山よりも」
徐質が顔を青ざめさせていた。今や徐質は実戦を経た立派な騎兵となっていたが、目に見える相手には強くとも、目に見えないものには臆病だった。それがおかしくて、夏侯覇はからかって面白がった。
「冗談だ。そんな報告は入っていない」
言って夏侯覇が笑うと、徐質は迷惑そうな顔をした。
「騎馬隊を見た者がいるというのは間違いない。それも、かなり精強な騎馬隊だ。王平の騎馬隊ではないというが、蜀軍が隠密に動いていると考えるのが妥当だろう。黒蜘蛛の主力がいれば詳細がわかるのだが」
諸葛亮率いる蜀軍を撃退した司馬懿は中央に戻り、黒蜘蛛も一部を長安に残しただけで司馬懿に従い去って行った。黒蜘蛛は魏軍の一部というより、司馬懿の私軍といった方がいい。
夏侯覇は手勢の五千騎を率い、牛金の属将として長安から西へと出陣した。
渭水の大流を左手に、戦場だった武功と五丈原が過ぎていく。漢中から山間を縫ってやってきた蜀軍を相手に、司馬懿は粘り強く戦い勝利した。消極的で自分からは決して動かない指揮官で、自分も含めて武官たちはかなり苛ついていたが、司馬懿は真綿を絞めるようして蜀軍を追い詰めたのだった。勝ったのは、諸葛亮が死んだからだ。病死だと聞かされていたが、夏侯玄があれは黒蜘蛛による暗殺だと零していた。司馬懿の私軍である黒蜘蛛の力を隠すため、病死ということにしたのだとも言っていた。
その夏侯玄は司馬懿と共に中央に戻り、王平に両足を飛ばされた辛毗は一線から退き療養している。
王平の騎馬隊とは、武功での出合い頭と、蜀軍が五丈原に後退する時に二度ぶつかった。一度目はもう一歩で首を奪れるというところで蚩尤軍に妨害され、二度目は撒き菱にやられて逆に首を奪られそうになった。助かったのは、王平が自軍の歩兵を救援しに行ったからだ。
その失敗のため、戦後に大した出世はできなかった。逆に出世した郭淮は長安軍の頂点に立つことになり、費耀はどこかに左遷されて中央から赴任してきた牛金が郭淮の副将となった。出世できなかったことに対する不満はなかった。王平との戦いで成果を出すことができなかったのだから、それは当然のことだ。出世できないのは夏侯家の名に嫉妬する者がいるからだと言う者もいたが、それは気にしなかった。
瀧関を抜け、天水の冀城に入った。歩兵を率いる牛金はまだかなり後方にいるので、先に情報を分析することにした。村民が消えているのは、賊に擬装した蜀軍が、武都の住民を蜀に移住させているのではないかという憶測が立った。
蜀軍の馬岱が更迭されているという情報は長安に入っていた。馬岱は涼州兵で構成された騎馬隊を率いる将で、まだ引退する年齢でもなく、夏侯覇はそれをおかしく思っていた。賊の正体が王平でないなら、馬岱である可能性は大いにある。
まだ確証はなかったが、夏侯覇は牛金に伝令を送り、部下にも敵は蜀軍であると伝えた。馬岱かどうかはまだわからないが、謎だった敵の正体がわかり部下は幾らか安堵しているようだった。
「物の怪などと言っていた者は許せませんな」
安堵した徐質が言った。
「お前も言っていたではないか。あんなものは冗談として聞いていればいいのだ」
夏侯覇はすぐに策を建てにかかった。冀城から民の消えた村までは百里もない。相手は少数なので、大軍で捕まえようとすればすぐに逃げられてしまうだろう。夏侯覇は手勢の五千を十に分け、十の村を監視させて異変に備えた。
監視をしていて、都から離れているこの地には貧しい村ばかりしかないというのがよくわかった。田畑は痩せていて、道は手入れがされておらず草が繁っている。茅葺家の外で寝ている老婆が死体だったと気付いたのは、監視を初めてからかなり経ってからだった。こんな村でも子供はいて、痩せ細った犬を追い掛け回して遊んでいた。
こういう村から吸い上げたものが長安に入り、一部の民が豊かになり、その豊かさを守るために軍があった。搾取される者は不満を抱くだろうが、搾取されているため反抗する力を持つことができず、生きるためにはただ従うしかない。これでは蜀に来い誘われればすぐに靡いてしまうだろうと思えた。
夏侯覇のいる村の近くで、三千騎の賊徒を補足したと部下が伝えてきた。夏侯覇は五百を率いてすぐに向かい、その三千を追っていた一隊と合流した。確かに動きは賊のものでなく、夏侯覇は警戒した。こちらは千騎だが、相手は多勢にも関わらず南に向かって逃げるように駆けている。
しばらく追っていると、一度蹴散らした方がいいと判断したのか、背を見せて走っていた三千が反転して向かってきた。夏侯覇は剣を抜き、部下もそれに続いた。ぶつかる直前、右手から徐質の五百が現れ敵の横腹に突き刺さった。夏侯覇はすかさず乱れた三千の中に躍り込み、剣を振るいに振るって駆け抜けた。それで敵は四散し、まとまりを失いながらもまた南に逃げ始めた。
十に分かれていた味方が次々に合流してくる。二千に減った敵は逃げることを諦めたのか、小さな岩山に拠って守りを固め始めた。夏侯覇は五千の手勢で、その岩山を慎重に包囲した。
「よいと突撃だった、徐質。お前の気にしていた物の怪など、あんなものだ」
返り血を浴びた徐質が、苦笑しながらも得意げに頷いた。
「おかしな奴が来ていて、隊長と話がしたいと言っているのですが」
「おかしな奴だと」
目を血走らせた細身の男が連れてこられた。その他にも、貧相な格好をした者が千以上いた。見た目から、ここらに住む異民族であることはすぐにわかった。
「俺は苻双という」
小柄ではあるが、その男はふてぶてしく名乗った。
「その苻双が俺に何の用だ」
「俺の兄は苻健といい、氐族の長をしていた。その苻健が蜀に来ないかと誘われたけど、俺はそれを良しとせずに逃げてきた」
「そうか。なら後で褒美が出るよう取り計らっておこう」
それで夏侯覇はこの話を終わらせようとした。しかし苻双は、褒美という言葉に何の反応も見せなかった。
「褒美はいい。代わりに俺もこの軍に入れて欲しい」
「何故、戦いたい」
面倒だったが、夏侯覇は聞いてやることにした。無下に断ってしまえば、この千以上の氐族が本当の賊になってしまいかねない。
「仲間が殺された。昔からの、いい奴だった」
「蜀の者に殺されたのか」
苻双は頷いた。やはりあの賊は蜀軍が侵入してきたのか。
怨みを持って軍に入ってくる者は少なくない。自分もそうだった。父である夏侯淵を蜀軍に殺され、いつか仇討をしたいと思っていたのだ。その怨みの感情は、今やすっかり消えてしまっている。
「私怨だけでやっていけるほど、俺の軍は甘くはない。お前が弱ければ、戦をする前に調練で死ぬぞ」
「構わない。頼む」
氐族の若者の中から何人かが続いて軍に志願してきた。夏侯覇は仕方なしに、部下に人数分の馬を曳いてくるよう命じた。
「お前の見た蜀軍は、誰が率いていたかわかるか」
「兄は馬岱という者と話していた。陽平関の方には、兵糧の部隊がいる。隊長の名は王平だ」
「王平だと」
なるほど王平は騎馬隊を動かしておらず兵站をしていたのか。ならば馬岱が包囲されたことを聞きつければ漢中から救援の騎馬隊が出てくるはずだ。漢中軍がさらに兵力を投入してくることになれば、かなりの戦に発展する可能性すらある。夏侯覇はすぐに伝令を牛金へと走らせた。
伝令を出している間に、徐質と部下が馬を数頭曳いてきた。そして鞍のない裸馬に、苻双たちを乗せるよう命じた。
「あんたの軍は、本当にこんなことをするのか」
苻双が抗議するように言った。馬鹿にされている、と思っているのかもしれない。
「そこの徐質も始めは同じことをやった。それと、俺の部下になるからには、その言葉遣いは許さん」
「わかった」
言った苻双の顔に、夏侯覇の拳が飛んだ。
「もう一度だけ言う。その言葉遣いは許さん」
「わかりました」
部下が苻双と氐族の若者に手綱を渡した。さっそく裸馬に乗ってみるが、振り落されるばかりで上手く乗れる者はいなかった。これで長安まで乗りきった者だけを兵にすればいい、と夏侯覇は思った。途中で落馬して命を落とす者もいるかもしれないが、それはそれまでだったということだ。
王平は既にこちらを察知して兵糧を撤収させているに違いない。そして自ら兵を率いてここに駆けつけてくるはずだ。夏侯覇は王平の様子を探るため、陽平関までの斥候を出しておいた。
包囲した馬岱軍に投降する意思はないようだった。投降しないということは、やはり援軍を待つということだ。馬岱の拠る岩山は、既に水も漏らさぬ程に囲まれている。
「漢中から、王平が来ますか」
「間違いなく来る。牛金殿が到着するまで岩山への攻撃は控えろ。攻めている時に後ろを突かれてしまえばたまらんからな。俺たちはあくまで救援に来る王平に備えるのだ」
血が滾ってきた。賊徒の正体がわかればいいと思い長安を出たが、王平がこれに絡んでいた。王平を討つことで出世したいのではない。あの男は、どうしても自分の手で討ち取りたかった。今までの復讐だとか、張郃の仇とかいう話ではない。勝って自分の力を示したいというわけでもない。ただの意地である。誰かに馬鹿にされようとも、この意地は捨てたくなかった。
牛金はすぐに歩兵をよこしてくるだろう。馬岱を捕らえる手柄は、欲しい奴に呉れてやればいい。手柄より、王平と戦いたい。日々の調練は、王平の騎馬隊を仮想の敵としてやっているのだ。
遠くで、苻双たちが馬に振り落とされ、部下にどやされていた。
騎馬隊をすぐに寄越すよう、漢中に伝令を出した。
兵糧をほぼ全て消失してしまい、馬岱が退き返さざるをえなくなった。王平の輸送隊が保持する兵糧の補填はある程度できたが、ここから先へはまだ兵站線が繋がっていない。そこに長安からの騎馬隊が駆けつけてきたと斥候が報せてきたのだった。
漢中から王平のいる拠点までは二百里程で、王平の騎馬隊なら一日で来られるはずだ。しかし来たのは、騎馬隊でなく呉懿からの返事を持った伝令だった。
「騎馬隊を派遣することはできません。すぐに兵糧と共に帰還しろとのことです」
「それはどういうことだ。俺が、俺の騎馬隊に来いと言っているのだぞ」
王平は伝令の胸ぐらを掴んで怒鳴った。
「今は魏軍と事を構えるわけにはいかないと、呉懿様は言っておいでです」
伝令は苦しそうにして言った。
呉懿の判断に憤り、王平は兵糧の荷台を蹴り飛ばした。騎馬隊が来ないのなら、これ以上ここに兵糧を置いておくわけにはいかない。長安から来た騎馬隊にここを嗅ぎ付けられれば逃げる間もなく殲滅されてしまうだろう。一度失敗しているだけに、それだけは避けなければならなかった。仕方なく王平は部下に帰還命令を出し、自身は単騎で漢中へと馬を飛ばした。
道中で、馬岱からの伝令と遭遇した。魏軍に襲われたのか、肩と背中に矢を受けていて、口からは血を流していた。
「王平だ。馬岱殿はどうした」
「祁山から南下中、建威を越えた辺りで、魏軍に捕まりました」
賊徒の格好をした伝令は、矢で臓腑を傷つけられているのか、おかしな音を出して苦しそうに呼吸していた。
「そこの岩山で救援を待つ」
伝令はそこまで言うと大量の血を吐き、力尽きて落馬した。
王平は歯噛みした。すぐに騎馬隊を寄越していれば救援に行ける距離だった。呉懿のやっていることは、味方を見殺しにしているのと同じことだ。急げばまだ間に合うと念じながら、王平は漢中へ急いだ。
夜を徹して馬を走らせ物々しい雰囲気となった陽平関を抜け、漢中に入った、外では味方の兵が窮地に立たされているというのに、漢中の街は拍子抜けするくらいいつも通りだった。
下馬した王平はすぐに呉懿に会いに行った。既に空は明るくなっている。
「すぐに騎馬隊を出す許可を下さい。今ならまだ、馬岱殿は助かります」
呉懿は食事をしていたらしく、迷惑そうに姿を見せた。
「馬岱が、どうしたというのだ」
「祁山の南で魏軍に包囲されています。ここに戻って来る途中で、馬岱殿の伝令と行き交いました」
呉懿は落ち着いた様子で口を拭っていた。
「私からの言伝の通り、援軍は出せん。長安からの軍と交戦するとなれば、それがきっかけで大きな戦になりかねん。漢中を預かる者として、それだけは避けねばならん」
「馬岱殿を救出して戻って来るというだけのことではありませんか。それとも馬岱殿を見捨てるおつもりですか。何故、私が伝令を出した時に騎馬隊を送ってくれなかったのですか」
「馬岱は、正規軍として行っているのではない。賊徒として行っているのだ。その理由をよく考えてみるがいい」
魏軍と戦っているのが蜀軍でなく賊徒であれば、蜀としては素知らぬ顔をしておけばいい。魏国から何か言ってきても、知らぬ存ぜぬで通せばいいのだ。それはわかっている。しかしだからといって、助けることのできる味方を見殺しにしていいものなのか。
「それにお前は既に一度、大きな失敗をしている。お前の部下が粗相をしたことで、移住してくるはずだった氐族の半数を逃したそうではないか。それに大量の兵糧を失いもした」
「大赦で許された罪人のしたことです。だから、罪人を受け入れることには反対だったのです」
「わかっている。だから、一度目は目を瞑った。だが、二度目はない」
話をすり替えられている。しかし自分の過ちだっただけに、王平は言い返すことができなかった。
「気持ちはわかる、王平。だが馬岱も軍人なのだから、それなりの覚悟を持って策に従っているのだ。それを察してやれ」
「察するですと」
ふざけるな、と叫んでやりたかった。馬岱は今も援軍を待って岩山に籠っているのだ。軍人の覚悟を、見捨てるための口実にしていいわけがないではないか。
「無理を承知でもう一度お願いします。私を騎馬隊で出撃させてください。馬岱殿は必ず連れ戻します」
「だめだ。くどい」
「蔣琬なら、許可していたと思います」
「だからどうした。この漢中を任されているのは私で、その私が判断しているのだ。それとも十日以上かけて成都の蔣琬殿にいちいち判断を仰げというのか。あまりにしつこいと、お前といえども軍権を解くぞ」
呉懿が怒鳴り散らしながら行ってしまった。
王平は軍営に戻り、一人になって頭を抱えた。馬岱は今でも救援を待っている。救援のこない籠城ほど絶望的な戦はない。これは軍人であれば誰でもわかるはずだ。馬岱を救援しに行くことは、呉懿には止められているが、やろうと思えばできる。それをできる騎馬隊はここにあるのだ。呉懿の言うままになるということは、自分も馬岱を見殺しにしたということになりはしまいか。後で罰されるのを覚悟で、呉懿の言うことを無私して独断で騎馬隊を出せば、救援には行ける。
戸を叩く音がして、劉敏が入って来た。
「申し訳ありません。呉懿殿を説得しきることができませんでした」
「仕方ないさ。始めから結論を決めている者に説得などは通用せん。ああいう考えを止めてしまった者を動かそうとすれば、言葉ではなく力を遣わねばならん」
「王平殿、それは」
劉敏が声を潜めた。
「方法を言ってみただけだ。反旗を翻そうと言っているわけではない」
「呉懿殿の手の者がどこにいるかしれません。気をつけなければ楊儀の二の舞になりますぞ」
「手の者と言っても、趙広の天禄隊のことだろう。趙広が俺を捕縛するというのか」
劉敏は悲しげな目で頷いた。
「それが、国というものです」
王平は舌打ちをした。熱くなっている。劉敏は当たり前のことを言っているだけだ。それを見失ってしまうほど、頭に血が昇ってしまっている。王平は大きく息を吸い込み、気を落ち着けた。
「趙広に、そんなことをさせてはなりません」
「わかっている」
馬岱を助けに行くことはできるのだ。それをやりきる自信もある。後に罰されることを恐れてそれをしないということは、自分の身のかわいさにより馬岱を見殺しにするということではないか。ここは自分の身を犠牲にしてでも、馬岱を助けに行くべきではないのか。
「大赦などしたのが誤りだったのだ。あの罪人上がりの新兵がやってくれたお蔭で、策に大きな狂いが出た。その失敗のせいで、呉懿殿にも強く意見することができなかった」
「新兵が些細なことで氐族の若者を殺したということは聞きました。馬岱殿が死ぬことになったのは、王平殿のせいではなく、成都の決定のせいなのです。我らは漢中軍を任されてはいますが、それでもできることは限られているのですから」
「俺に、そう思い定めろと言っているのか」
「漢中軍の総指揮官になり、王平殿は多くのものを抱え込もうとしているように見えます。これは一度言っておかねばならないことだと思っていました」
劉敏はもう馬岱を諦めている。頑なに援軍を送ろうとしない呉懿を見て、そうすることしかできなかったのだろう。
「もういい。調練に戻れ」
劉敏はそれ以上言わず、一礼して出て行った。
王平は器に水を取り、口に含んで吐き出した。臓腑の中のものまで吐き出してやりたい気分だった。色々なことを言い並べてみても、馬岱を見殺すことには変わりないではないか。こういうことを誤魔化しながら受け入れていくことで、楊儀や呉懿のような男になっていくのではないのか。
大赦がいけないのだ。私利を追い世を乱すことに呵責を感じない者を放ち受け入れてしまった。その結果がこれだ。確かに劉敏の言う通り、こればかりは自分の力ではどうしようもないことだ。
魏軍との戦の時、蜀軍は大雨に遭って武功水が溢れ、王平は敵陣に取り残された。あの時はまだ兵力があり、兵站も細々ながらも繋がっていた。今の馬岱には兵力も兵糧もなく、頼みの援軍もいつまで待っても来ない。何故味方が来てくれないのかも分からないまま、絶望の中で死んでいくのだろう。それを思うと王平の胸は痛んだ。そしてその痛みを感じぬ呉懿を憎んだ。いつかは自分も、この痛みを感じなくなる時がくるのだろうか。
王平は拳を卓に打ち付けた。脚の一本が曲がり、卓が崩れた。
大赦がいけないのだ。感情が込み上げてくる度、王平は何度も自分にそう言い聞かせた。
7-13
歩兵を率いる牛金が岩山に籠る馬岱を討ち取り、武都を後にして長安への帰途に着いた。結局、あれから王平は漢中から出てこなかった。最悪の状況を考慮して長安の郭淮に後詰を要請していたが、漢中軍が出てこなかったのでそれは無駄になった。
夏侯覇は漢中からの援軍に備えていて、遅れてやってきた牛金の歩兵部隊に大将首の手柄を譲った。長安への着任早々に武功を上げたことで牛金は上機嫌であった。しかし長安からの援軍を無駄にしたことで、郭淮は怒っているかもしれない。元々、夏侯覇と郭淮は馬が合わなかった。
武都で拾った氐族の苻双が、なかなか上手く馬を乗りこなすようになっていた。他の氐族の若者たちも続いて馬に乗りたがり、中には馬に振り落されて大怪我を負う者もいたが、かなりの数の氐族が騎兵になりたがっていた。蜀軍に反抗した千人以上の氐族は荒々しい者ばかりで、兵士となるに相応しいと思えた。この中のどれだけが兵として使えるかまだわからないが、体格が小柄な者ばかりなので、軽装で揃えた俊敏に動ける騎馬隊を一つ作れるかもしれない。
行軍しながら、夏侯覇は時々氐族の様子を見物しに行った。
「大分慣れてきたではないか、苻双」
夏侯覇の言葉に振り向いた苻双が、馬上で態勢を崩しそうになっていた。騎兵にするにはまだまだ練度が足りないが、この調子ならかなりの上達が期待できそうだった。
「もう、落馬はしません。落ちても、二日か三日に一度くらいです。これで兵になれますか」
体中を痣だらけにした苻双が白い歯を見せて言った。
「一度も落ちないようになれ。戦場で一度でも落馬をすれば、それは命を落とすということだ」
他の氐族の若者も同じように痣を作りながら長安までついてきた。道中で脱落した者もいたが、残った者らはなかなかの根性を見せていて、しっかりと調練すれば良い騎馬隊ができあがりそうだった。
長安に到着した。夏侯覇は空いている兵舎に氐族を割り当て、牛金と共に郭淮への報告に向かった。後詰の要請が結果として無駄になってしまったので、それで何か言われてしまうかもしれない。
夏侯覇の考えていることを察したのか、牛金が声をかけてきた。
「必要のなかった後詰のことを気にしているのか」
夏侯覇は苦笑して頷いた。
「あれは軍権のあった俺に責任があるのだ。お前の気にすることではない」
「そうかもしれませんが、郭淮殿はそう見てはくれないかもしれません」
郭淮は、どういう経緯と判断があって要請を出したのかまで調べてくるだろう。こういう所は細かい男なのだ。
「何か言われれば俺がかばってやる。心配するな」
夏侯覇はそれに軽く礼を言っておいた。牛金は夏侯覇から手柄を取ってしまったと思って気を遣っているのかもしれない。
「事件を解決して、蜀軍の将を討ち取って帰ってきたのだ。文句を言われる筋合いなどない」
牛金の中には、郭淮への対抗意識もあるのかもしれない。二人の軍歴はほぼ同じで、今の序列は実力によるものでなく、ほとんど運であると言っていい。場合によっては牛金が郭淮の上に立っていてもおかしくなかったのだ。馬岱を討ち取ってきたことで、長安軍内での牛金の発言力は上がるだろう。郭淮がこれを面白く思うはずがない。夏侯覇がいつまで待っても来ない漢中軍を迎え撃とうとしていたのは、牛金に阿り手柄を譲るためだったと邪推すらしているかもしれない。
夏侯覇と牛金は郭淮の執務室に入った。
「大義であった。賊の正体を突き止め、蜀将馬岱を討ち取った功績は大きい」
労いの言葉とは裏腹に、郭淮は険しい顔をしていた。
「大義ではあったが、大きな無駄もあった。相手は三千騎で、一万で向かったのにどうしてさらなる後詰が必要だったのだ」
咎めるように言った郭淮のその目は、夏侯覇の方に向けられていた。後詰の要請には夏侯覇の提案があったことを知っているのだ。
夏侯覇は一歩前に出た。
「あの地は陽平関から近く、いつ漢中から兵が出て来てもおかしくありませんでした。漢中から二万も出てくれば、我らの一万は敗走する他ありませんでした」
「戦を終えてまだ時が経たないというのに、蜀にそんな力があるものか。だからこそ馬岱軍は賊に擬装して動いていたのだ。事実、漢中軍は出てこなかった」
「郭淮殿、それは結果がそうだから言えることだ。あの地で行動していれば、漢中軍に警戒するのは当然のことではないか」
牛金が多少声を昂ぶらせて言った。
「ならば漢中軍が来る前に夏侯覇が馬岱を攻めていればよかったのではないか。牛金の歩兵を待つまでもなかった。長安からの援軍要請などもっての他だ」
それでも要請があれば郭淮は援軍を出さねばならない。軍を出せば、兵糧や銭がかかってしまう。中央にもその旨を申し立てなければならない。それで郭淮は不機嫌になっているのだろう。
「岩山に拠って守りを固めていたのだ。それもただの賊徒がではなく、調練された軍がしていた。これを攻めあぐねている時に、背後を漢中軍に襲われてしまえばどうする」
「漢中軍が本腰を入れてくるとわかったら冀城まで退けばよいではないか。無理に戦に付き合う必要はない。こちらはこちらで、戦で疲弊したものがまだ回復していないのだからな」
「最悪、武都が奪られることになる。郭輪殿はそれでもいいと言うのか」
「あそこの政治の方針は、搾取だ。武功では蜀軍に麦を根こそぎもっていかれたが、今の武都は奪られても失うものは少ない。武功で戦った夏侯覇ならそれがよくわかっているはずだ。違うか」
郭淮と牛金の言い合いに肩を狭くしていた夏侯覇に話が振られた。
「私は、そこまでは」
「そこまでは考えていなかったか。どうせお前は、王平と騎馬戦をしたかっただけなのだろう。お前はやけに王平に固執しているからな。固執でなければ、牛金に馬岱を討つ手柄をくれと頼まれたのだろう」
「郭淮殿、それは冗談でも言ってはならんことだぞ」
牛金が激昂して身を乗り出し、郭淮は座っていた椅子を引かせて怯んだ。夏侯覇は慌てて牛金の体を抑えた。
「確かに、私は王平に固執しております。それは認めます。だから、牛金殿が手柄を無心されたわけではありません」
怯んでいた郭淮が居住まいを正した。牛金はまだ鼻息を荒くさせている。
「そうであろう、夏侯覇。ならば牛金が手柄を求めたと言ったのは取り消そう。相手が王平でなければ、二万もの後詰を呼ぼうとはしなかった。そうだな」
「はい」
牛金に落ち着いてもらうためにも、夏侯覇は素直に答えた。牛金もそれ以上は何も言わなかった。嫌なものを残しつつ、その場はそれで解散した。
郭淮は上からの命令には忠実でも、自らの判断で面倒なことを片付けようとはしないというところがあった。張郃の副官をしていた頃からそうで、上官の仕事は部下に許可を出すことでなく、制限を課すことだと思っている節がある。中央にいる御偉方には使い易い男なのだろうが、夏侯覇にとっては窮屈で厄介な上官だった。
長安軍の司令官は牛金の方が良かった、と夏侯覇は密かに思っていた。思うだけで、誰に対しても言っていいことではない。郭淮を非難することで、長安軍内に郭淮と牛金の二つの派閥ができてしまいかねないからだ。
張郃がまだ生きていた頃の魏軍内には、軍内には司馬懿派と張郃派があった。張郃は意図して派閥を作ったわけでなく、むしろそういうものは嫌っていたが、人が集まればそういう派閥は自然と形勢されるのだった。蜀軍を積極的に攻めようとしない司馬懿は不人気で、自然と張郃派の人気が高くなった。
司馬懿は張郃に兵糧庫急襲作戦を提案し、張郃はそれに従った。あれは始めから失敗することを前提とした作戦ではなかったのか。司馬懿が張郃のことをどう思っていたかわからないが、軍内に二つの派閥ができていたことに危機感を抱いていたからこそ、あのような作戦を提案してきたのではないのか。張郃はそれで蜀軍の罠に嵌って落命し、軍内にあった二つの派閥は雲散霧消した。
郭淮と牛金の不仲が顕著になれば、また同じことが起こるかもしれない。それは長安軍が力を落とすことを意味し、蜀にとっては喜ばしい状態になるだろう。夏侯覇は、蜀軍を喜ばしてまで郭淮を反抗したいとは思っていない。郭淮の叱責には不満だったが、ここは我慢すべきだった。
夏侯覇は軍営に戻った。上申しておいた通り、苻双らへの具足の支給はきちんとされていて、徐質がさっそく氐族をまとめて調練を開始していた。
少し大きめの具足を着けた苻双が、着心地悪そうに馬上で揺られていた。調練で力をつけて体が大きくなれば、この具足はいずれ体に合ったものになるだろう。
「そうではない。もっと背筋を伸ばすのだ」
鞍の上に乗る苻双に向かい、徐質が怒鳴っていた。
「そんな大きな声でなくても聞こえる。何故、背筋を伸ばす。伸ばさなくても馬には乗れるぞ」
「この騎馬隊ではそう決まっているからだ。つべこべ言わずに俺の言うことを聞け」
「理由を聞いているだけなのにどうして答えてくれないのか」
苻双も負けじと言い返していた。周りに他の氐族もいるため、面子を潰されたくないというのがあるのかもしれない。
「隊長、この頑固者に言ってやって下さいよ」
苻双の質問は真っ当だったが、反問された徐質はそれを反抗だと感じたのだろう。部下の手前で徐質の面子もあるため、夏侯覇は苻双に歩み寄って言った。
「背筋を伸ばした状態が、一番馬に意志を伝え易い。背中の上で右に左に揺られてしまえば鬱陶しいであろう。それは馬も同じなのだ」
「わかりました。そう答えてくれればいいのに、どうして徐質殿は怒るのですか」
言って苻双は背筋を伸ばしたまま馬を走らせた。鞍と具足をつけ、裸馬に乗っていた時よりかなり様になっていた。
夏侯覇は憤る徐質も宥めて調練を開始した。
自分の隊の中にも、徐質と苻双の二つの派閥ができそうだった。隊長の自分がどちらかの肩を持つということはしない方がいいのだろう。二人は対立させるのではなく、切磋琢磨させるべきだ。こういうところで隊長の器量が出るのだろうと、馬上の二人を見ながら夏侯覇は思った。
成都近くの広都と呼ばれる城郭に、北からやってきた異民族を入れることになった。その二千を越える新住民に糧食を配るため成都の倉を開け、蜀の財政を司る孟光が牛車の列を指揮し、王訓はその最後尾にいた。
蜀国内の人口減少を危惧したための移民だった。国は国土があればいいものでなく、広い土地があってもそこで働く者がいなければ生産は上がらない。生産力が落ちれば税を取れず国力は落ち、外敵からの侵略を受けてしまうことになる。外敵とは、つまりは魏だ。諸葛亮が死んでから休戦状態にはなっているが、それで敵対関係が解消されたわけではない。今の蜀には国力をつけるための頭数が必要だった。
広都の広場に氐族の老若男女が列をなし、糧食が配られ始めた。配っている際にまた喧嘩にならぬよう、糧食を配る者は穏やかな老兵を選んでいた。王平軍が移動中の氐族と問題を起こしたため、五千近く入って来るはずだった移民が半分以下に減ったのだった。これ以上の問題を起こすわけにはいかないと、蔣琬が神経質になっていた。成都にいる黄皓を始めとする反蔣琬の勢力が、どんな小さな誤りでも見逃すまいとしているのだ。蔣斌が放逐されたことに憤りすら感じていたが、攻撃を受けている蔣琬を見ているとそれは仕方のないことだったのだと思えてくるほどだった。
配給を監督する孟光が、氐族にこれからの仕事の説明をしていた。すぐにでも働いてもらう予定だった。そうしなければ、この氐族たちに食わせる糧食を無駄に消費してしまうことになってしまう。戦で疲弊した蜀にとって、それは決して少ない消費ではないのだ。
力のある者は農作業に、そうでない者は手工業に従事するよう孟光が説明していた。しかし言葉が通じないのか、或いは始めから聞く気がないのか、氐族は配られたものに喜ぶばかりで孟光の話を無視しているように見えた。ここには食糧などいくらでもあるとでも思っているのかもしれない。一通りの配給と説明をし終え、氐族はそれぞれの居住区に帰っていった。疲れた顔をした孟光が老兵を取り纏め始め、王訓はそれを手伝っていると、広都の住民が話しかけてきた。
「若いお役人さんよ、なんであんな奴らに俺らが作ったものを配るんだい」
元からここにいる農民らしく、三人の男の肌は褐色に焼けていた。言葉は粗野だが、嫌な感じのする者たちではない。
「あの者らには、広都で働いてもらいます。北の武都からやってきたばかりなので食べるものがまだ無いのです」
「俺らが作ったものを、あんなどこの馬の骨とも分からん奴らにくれてやるのか。先ずは俺らに配るのが筋ってもんじゃないかね」
王訓がまだ若いせいか、男たちは嵩に懸かった態度で言ってきた。
「これから必ず働かせます。だから少しだけ我慢してください」
「あいつら臭いし夜はやけにうるさいし、あんたらお役人はその辺のことをちゃんと見ていないだろう。せめて広都じゃなくて別の所に住まわせればいいのによ」
武都で魏国に酷使されている農奴を連れてきて、豊かな暮らしをさせてやることで人口を増やそうというが蔣琬の狙いだった。元からいた住民から不満が上がるのは予想されていた。ここは何とか説得して納得させるべきだったが良い言葉が思いつかず、王訓はしどろもどろとなってしまった。
「どうしたというのだ、王訓」
見かねたのか、孟光が割って入ってきた。孟光が蜀の高官であるせいか、強気でいた男たちが後ずさっていた。
「俺たちが作ったものを、あんな奴らにくれてやらないでくださいよ」
一人が言った。
「そのことか。そなたらの言うことは最もだ」
そう言われて意外そうな顔をした三人に、孟光は手招きした。
「氐族の女に興味はないか。広都に入った氐族は、女の方が多いのだ」
何か如何わしい話がされていると思い、王訓は顔を背けた。氐族の男たちの大部分は王平軍と喧嘩をして、蜀にはやってこなかったので、必然的に女が多かった。
「女が多ければ、体を売って銭を稼ぎたいという者も出る。そのための妓楼を作ろう。そなたら農民が一番良い思いができるよう、儂が蔣琬殿に便宜しておいてやる」
男たちは顔を見合わせ苦笑し始めた。そして納得したような顔をして帰って行った。
「あのように言ってくる者がいたら、同じように言ってみろ」
孟光が白い髭を撫でながら王訓に言った。
「不満を解消させるには欲を満たしてやることだ。しかしそれはやり過ぎてもいかん。よく覚えておけ」
王訓は頷いた。
孟光は他の仕事があるため成都に帰って行った。氐族のことに関しては蔣琬が全責任を持つことになっていて、王訓が代行して指示を出すことになっている。明日からは広都に残った王訓が兵糧の分配と監督をしなくてはならない。そして何かあれば、蔣琬に逐一報せることになっている。
こうして蔣琬から離れて仕事をするのは初めてだった。成都以外の城郭に入ったこともほとんどない。不安はあるが、嬉しくもあった。これは蔣琬から力を認められているということなのだろう。
王訓は氐族の族長である苻健に挨拶に行った。族長ではあるが、広都では一人の民として扱うことになっていて、住む家は他の者と同じ粗末な長屋の一室を与えられていた。
「このような所で心苦しいでしょうが」
「いえいえ、武都での暮らしに比べればなんのことはありません」
苻健は温厚な笑みを見せながら答えたが、傍らには苻健の従者が一人いて険しい顔をこちらに向けていた。苻健の待遇を良くしろという要求を断ったので、それを根に持っているのだろう。
「先ずは氐族の方々には、ここでの生活に慣れてもらわなければなりません。その上で何かありましたら私にお申し付け下さい」
苻健はそれに深々と辞儀をした。
問題が起こったのはその夜だった。広都城郭の門衛が王訓のところにやってきて、すぐに来てくれと言った。
西の門に行くと、城外で何者かが騒いでいるのが聞こえた。狩りに出かけていた氐族の若者たちが、門の閉まる日没後に帰ってきて、すぐに門を開けろと言い募っているようだ。本来なら、城内に入るには門の開く日の出を待たなければならない。
放っておけばよいものだが、門衛たちがかなり苛ついていて、今にも戟を手に飛び出していきそうだった。身勝手に振る舞う新住民たちに怒っているのだ。
王訓は悩んだ。法に従えば門外で騒ぐ氐族を捕らえて牢に繋いでも問題はない。しかしそれをやってしまえば、新しくここにやってきた氐族から反感を買ってしまわないだろうか。蔣琬は、魏から人を連れてきてでも、労働力を得たいと言っていた。法に従うことで、労働力を失うことになってしまわないだろうか。
周りの者がさらに苛つきだしていた。それに背中を押され、王訓は決断した。門衛に、外で騒ぐ氐族たちを捕らえてくるよう命じた。門が開かれ衛士が出て行き、騒いでいた五人の男たちが後ろ手に縛られて連れてこられた。そして棒打ちの刑に処した。夜の城郭の片隅に、氐族たちの声が響いた。これでいいのだと、王訓は自らに言い聞かせた。全身を散々に打たれた氐族の男たちを苻健に引き渡し、その場を収めた。
何か報復があるかもしれないと、王訓は宿の蒲団の中で考えた。昼間の男たちのように、王訓がまだ若いからという理由で侮り、力で訴えてくる可能性は大いにあった。門限も守れないような奴らなのだ。しかし報復が怖いからといって譲歩するわけにはいかない。ここに住むからには、ここの法を守ってもらわなければならない。報復を恐れて法を曲げることなどあってはならないことだ。
翌日、王訓の宿に苻健の従者が会いに来た。昨日とは違い和やかな表情をしているその男は、昨晩の詫びがしたいから苻健に会って欲しいと言ってきた。苻健の従者が来たと聞いて心を構えていた王訓は胸を撫で下ろし、すぐに支度して宿を出た。
王訓は苻健の従者について街を歩いた。まだ広都の町並みに詳しくなく苻健の従者に追従するに任せていたが、途中で苻健の長屋に行く道から逸れていることに王訓は気付いた。
「この道は違うと思うのですが」
「苻健様は向こうにある食堂で待っておられます。こっちは近道なのですよ」
従者が笑顔で言うので、王訓は訝しみながらもついて行った。昨晩のことがあっただけに、怪しくとも苻健の誘いを無視するわけにはいかない。
大通りを外れた小道をしばらく行くと、前方から顔を腫らした三人の男が現れた。棒打ちにされた氐族の男たちだった。後ろからも二人が出て来て、退路を塞がれた。
「昨晩はよくもやってくれたな、小僧。おまけに狩りの獲物まで没収しやがって」
王訓は舌打ちした。やはりこういうことだったのか。予測はできたが何の対処もせず、苻健に失礼がないようにと馬鹿正直に、ただ言われるままについてきた。
「あんな目に合わせてただで済むと思うなよ」
一番体の大きい男が拳を鳴らしながら言った。
「黙れ。ここに住むのなら法に従え」
緊張で声が小さくなってしまった。それを察したのか、氐族たちが揃って笑い出した。
胸元には、蔣琬から何かあった時に使えと渡された短剣があった。いざという時にはこれを使うべきなのだろうが、王訓は武器を使ったことがない。
後ろの一人が羽交い絞めにしてきた。そして前から拳を打ち付けられ、王訓は転倒した。
「五人分の倍返しだ。覚悟しろ」
王訓は転がりながらも胸元の短剣に手をやった。しかしこれを使ってしまえば、相手を逆上させてしまいはしないだろうか。氐族との関係が決定的に悪くなってはしまわないだろうか。
不意に一人の背中が音を立てて燃え出した。男は火を消そうと地を転げ回り、他の者は唖然としていた。
やったのは蚩尤軍だと、王訓はすぐにわかった。
街路の影から湧くようにして幾つかの人影が現れ、静かに氐族の六人を囲んだ。そして乱闘になることもなく、瞬時にして六人が拘束された。王訓は胸元から手を離し、尻を叩いて立ち上がった。
「なんだ、お前らは」
「新参者に教えてやる。ここで不埒を働けば、蚩尤軍に裁かれる。この眼帯をよくおぼえておくことだ」
句扶が言い、蚩尤軍の手の者が男たちをどこかに連れて行った。これから彼らがどんな目に合わされるのか、王訓は少し考えただけで止めておいた。
「ありがとうございます、句扶殿」
「不用意だな、こんな所に呼び出されて。あのような獣を飼おうというのなら、それでは命が幾つあっても足りんぞ」
句扶が素っ気なく言った。
「だからと言って、法を曲げて阿るわけにはいきませんでした」
「それはいい。次からはもっと上手くやれと言っているのだ。筋を通そうと思っても、従わせる力がなければどうしようもないこともある」
そう言い残して句扶は行ってしまった。
何事もなかったかのように、人のいない裏路地だけがそこに残っていた。王訓は殴られた頬を摩りながら表通りに出て、苻健の長屋に向かった。気は乗らないが、これからのためにも、今のことを苻健に伝えておかなければならない。
苻健のいる長屋の前まで行くと、何やら人だかりができていた。人垣の上から絢爛な輿が頭を覗かせていて、成都から誰か来ているのだとわかった。しかしこんなところに誰が来るというのだろうか。
近づくと、見知った顔の宦官が長屋の中から出て来て、王訓に気付いて声をかけてきた。黄皓だ。
「大義であるな、王訓。こんな若い者にこんな大役を押し付け、蔣琬殿も酷なことをされる」
「黄皓殿が、こんな所に何の用ですか」
「氐族の苻健殿に、陛下の代理として会いに来たのだ。蜀の民になるということは、陛下の民になるということであるからな」
「そうでしたか」
「昨晩に何やら問題が起きたようだが」
この周辺で問題が起きれば、すぐに成都に報告が上がるようになっている。その報告を聞いたことあって黄皓はやってきたのだろう。もしかしたら、蔣琬を責めるための種を探しているのかもしれない。
「門限を破った者が、私に報復してきました。その者たちは蚩尤軍によって捕縛されたところです」
「そうか。いきなり不慣れな地で暮らすことになり、氐族の者たちは困惑しているのだろう」
黄皓は悲しみを表情に蓄えてしみじみと言った。それは周りに見せ、聞かせているようでもあった。
「申し訳ありませんでした」
「お前が謝ることではない。まだ慣れない内は、色々と問題が起こるものだ。何かあれば成都の私に報せてこい。全てを一人で片付けようとすることはない」
「ありがとうございます」
王訓は深々と頭を下げ、黄皓は輿に乗って供の者らを引き連れ行ってしまった。
氐族の六人が捕縛されたことを苻健に伝えなければならない。黄皓は苻健に何を言ったのだろうと思いながら、王訓は長屋に入った。
苻健は満面の笑みで王訓を出迎えた。当然ながら、難しい顔をした苻健の従者はそこにいない。代わりに、太平百銭がたっぷりと入った壺がそこに置かれていた。
「黄皓様が来て、陛下からの贈り物だとこれを下賜して頂きました。私は固辞したのですが、これで粗方の不都合は解消できるだろうと言ってくれました」
「左様でしたか」
「黄皓様はお優しいお方だ。魏にいれば、我ら一族は死ぬまで搾取され続けていたことでしょう。ここに移り住んできて本当に良かった」
苻健は心から喜んでいて、昨晩に問題を起こした氐族のことをすっかりと忘れているようだった。
「昨晩、棒打ちに処した者たちのことなのですが」
喜んでいるところに水を差すようで気が引けたが、王訓がそう言うと苻健は思い出したように顔つきを変え、身を繕って座り直した。
「苻健殿の従者が、私を呼びにきました。それで宿を出たのです」
「なんだと。私は黄皓様が来たから席を空けておけと言っただけで、王訓殿を呼べとは言ってませんぞ」
王訓は、路地裏で襲われそうになり、氐族たちが蚩尤軍に捕縛されるまでの経緯を話した。
「そうでしたか。あれらは負けん気の強い者ばかりでした。申し訳のしようもないことをしてしまった」
「それで苻健殿も罰しようという話ではありません。そういうことがあったのだと、ただ伝えに来ただけです」
「その捕縛にさらに腹を立てる者が出るかもしれません。そういう者がいたら、必ず私が叱りつけて黙らせます。私の言うことには従順な者ばかりですから」
「そうしてもらえると助かります」
この一件で氐族から多少の反感を買ってしまうかもしれないと思っていたが、それは杞憂のようだった。黄皓から渡された銭が効いているのかもしれない。
それから次の配給の話をし、王訓は長屋を後にした。
陛下の代理としての黄皓の訪問は、王訓にとっては有り難かった。新天地で暮らすことになった氐族の不安感は、これでかなり和らいだものになるだろう。
黄皓は政庁で蔣琬と対立することが多かったが、王訓には親切で、今回も何かあればすぐに伝えてこいと言ってくれた。王訓にはどうも黄皓が政庁で嫌われている理由がわからなかった。
しかし費禕は、黄皓の甘い言葉に気を付けろと言っていた。親切にされている時は目が曇るものだとも言っていた。
王訓は氐族の居住区を通って宿に戻った。誰かが絡んでくるかと思ったが、それはなかった。黄皓と親しく話しているところを目にしたからか、氐族たちの自分を見る目がどこか変わっているという気がした。
7-14
広都での氐族による生産が始まったと、王訓からの報告が蔣琬に届いた。北伐を終えた蜀は、戦で疲弊した国力を回復させるための人口を必要としていた。そのための異民族の移住策だった。
度重なる大戦は国家の富を浪費させるだけでなく、生まれてくる新しい命の数も減少させた。漢王朝の復興という目標で一国をまとめ、魏に挑戦し、負けた。それは蜀の民にとっては不幸なことでしかなかった。国が不幸に満ち、先行きに喜ばしいものを見出すことができなければ、民は子を生そうと思わないのだろう。
今は為政者として、民の暮らしに豊かさを与えてやることを第一とすべきだった。しかし戦を止め民に豊かさを与えたところで、民はすぐに増えるものではない。民が子を生し労働力となるまでには十数年の時が必要なのだ。それまで、敵国である魏が、蜀の国力が回復するまで手を拱いて待っていてくれるはずがない。
蔣琬は、異民族の移住には反対だった。同じ漢族ならまだしも、民族が違えば風習が違うし言葉も違う。自然と民は国の中で割れ、国が国である意味がなくなってしまう恐れがあった。ただでさえ蜀は漢王朝復興という目標を失ってしまい、国からまとまりがなくなろうとしているのだ。国からまとまりが失われれば、民の一人一人が個々の欲に忠実になり、国は崩壊してしまう。漢という国はそうやって滅びた。
分別に乏しい臆病な廷臣にも問題があった。総力をかけた蜀軍を破った魏軍が漢中から侵入してくれば、蜀は一溜りもなく敗北してしまうと恐れている者が少なくないのだ。いずれも戦を知らない者だった。実のところは、魏も戦でかなり疲弊している上、敵は蜀だけでなく呉や北方民族にも備えなければならないため、しばらくは蜀に攻め入ってくることはないと目されていた。はるか東の遼東では公孫淵が呉と結び、魏に反抗する構えを見せてもいる。そういうことを説明しても、流説と不安に心を支配された者には何を言っても無駄だった。
黄皓がその不安感を煽り立てていた。それで魏は攻めてこないと主張する蔣琬は不安を抱える者から敵視されるようになり、黄皓が提案する移住策を受け入れざるをえなくなった。黄皓は、力を持つ者に反抗することを生き甲斐としている、小鼠のような宦官だった。今の権力者である蔣琬を責め、非を認めさせることで快楽を得ているのだ。その一人のつまらない快楽のために、蜀は新たな問題を抱えようとしていた。
蔣琬を憎しとしていた李厳と楊儀は排除した。あとは黄皓だったが、帝は機嫌取りの上手い黄皓を気に入っているようで、なかなか手が出せなかった。帝の近くには蔣琬派の董允と来敏を置いて黄皓ら宦官勢力に対抗させ、郤正に行動を監視させていた。それに対して宦官は、帝の権威を隠れ蓑にして姑息に立ち回るのだった。
広都にやっている王訓からは、度々氐族の問題行動が報告されていた。一番耳が痛いのが強姦だった。移って来た氐族は女が多かったため、体を売りたいと希望する女を集めて妓楼を作った。新しい住民を嫌う広都の漢族を慰撫するためでもあったが、氐族の男はそれに憤慨し、漢族の女を犯すのだった。捕らえた者の話を聞いても、同じことをやってやったと言い張るばかりで悪びれもしないのだという。
「形だけは働いているが、氐族の勤労意欲は低い。これでは奴らを移住させた意味がなくなってしまう」
あまりの問題の多さに広都まで視察に行った費禕が言った。
「毎日、どこかで喧嘩だ。これでは一つの城郭に、二つの街があるようなものだ」
「だから異民族を連れてくることには反対だったのだ。それなのに、問題が起きれば誰もが俺に責任を押し付けてくる」
「もう連れてきてしまったのだ。愚痴を言っても仕方のないことだろう」
いくら黄皓が移住政策を推進していたといっても、最後に裁可するのは宰相である蔣琬の仕事だった。それで周りの者の非難の声は蔣琬に向けられ、黄皓には一切向けられない。それは黄皓の狡猾な計算でもある。
「王訓はどうしている。さぞ辛い思いをしていることだろう」
「頬をこけさせ目つきが険しくなっていたよ。あまり眠ってもいないようだった」
王訓を広都にやったのは、どんな嫌な事件があっても誤魔化しの報告はしてこないだろうという信頼はできたからだ。皮肉なことだがその証拠に、上げられてくる報告は嫌なものばかりだった。
「弱音は吐いてはいなかった。王訓は若いうちに、辛いところで揉まれて強くなってくれればいい。それよりも黄皓のことだ。どうやら族長の苻健としばしば会っていて、かなり親しくなっているという話だ」
「それも聞いている。氐族を取り込んで自分の勢力にしようという魂胆なのだろう。異民族を入れるなどと言い出したのも、それが一つの狙いだったのだ」
「王訓にも近づいているようだ。黄皓の言うことに惑わされるなと釘を刺してはおいたが」
異民族を入れることを決定したことで、元からいた広都の住民からは憎まれているのだろう。そして恐らく、労働を強いていることで氐族からも良く思われていない。黄皓はそういうところに付け入る術には長けていた。国のことを本気で考えていないからこそできる、卑しい術だ。
「魏の脅威があるから人頭が必要だと言うが、魏軍はすぐに攻めてはこないことを黄皓もわかっているのだ。全ては俺を責めるためにやっていることさ」
「これでは王訓や蔣斌のような今の若い奴らが後に苦労することになるな。ただ苦労するだけならいいが、国が割れ滅亡してしまう恐れもあるというのに。子を残すことの無い宦官は、若い者に情をかけるということを知らんのだろう」
国は、自分の住み家であると蔣琬は思っていた。多分、費禕や王平もそうだ。自分の家をより良く保とうと思うのは当然のことだろう。黄皓にとっては、国は自らの欲を満たすための場でしかない。その場がいくら汚くなろうが知ったことではなく、欲を満たすことを第一とし、国のためなどと言う者は憎くて仕方がないのだ。
「国のために政を為すとは誠に損なものだな、費禕。良い政を為そうとすれば必ず邪魔してくる者が現れる。それも厄介なことに、そいつらはまるで自分が正義だという顔をしてやってくるのだ」
「諸葛亮殿が丞相の時もそうだった。滅ぶ直前の漢も、そうだったのだろう。恐らくいつの世も、政を為すとはそういう者との戦いなのだ」
諸葛亮はこの益州という限られた地域で国力を充実させ、臣民の心をまとめ、何度も魏に挑んだ。それは偉大なことだった。諸葛亮に代わり国を主宰するようになってから、強くそう実感する。
「人の少なさもそうだが、蜀が新たに抱える問題は、臣も民も心を分裂させようとしている所にある。これは早急に解決せねばならん」
人心など、国があればそれで一つになるものだと思っていた。しかしそうではなく、民の心を一つにまとめ一つの国を維持するには、為政者が一つの大きな価値あるものを民に提示し続けなければならないと知った。少なくとも諸葛亮はそれを知っていた。その大きなものを喪失してしまったため、漢という国は滅んだ。蜀にその二の舞をさせるわけにはいかない。
蜀の帝には、漢王朝の代わりをしているという建前があった。仮の帝では民の心をまとめるには弱いのだ。魏の打倒という明確な目標も、今やあって無きものになっている。
「民の心を一つにする必要がある。移住してきた者も含めてこの国は一つにならねばならんのだ。そのために一番有効な手段を選ばなければならん」
それは誰の目から見ても解り易いものであるべきだった。できれば打ちたくない手である。費禕も同じことを考えていたのか、顔を俯けさせていた。
「外敵を作り、それを国全体が認識する。蜀という国家を維持させ続けるにはそれしかない」
「結局は戦ということになるのか。しかし下手をすれば、それが蜀崩壊の発端にもなりかねない」
「構えだけでいい。本当に戦をする必要はないのだ。魏を敵だと民に示せば、武都で酷使されていた氐族もそれに共感してくれるだろう。共感できるものがあれば、民が割れるのを防ぐことができる」
諸葛亮の主導で魏と戦をしていた時は、重税ではあったが民はついてきてくれた。漢王朝の復興を目指すと言う共通認識が蜀国全体にあったからだ。戦が終われば民に穏やかな暮らしをさせてやることができると思っていた。しかしその穏やかさと引き換えに、民の心は蜀から離れ始めていた。これを放置しておけば、遠くない先に蜀は必ず大きな災いを迎えることになってしまう。
「また戦だと言えば、農民は嫌な顔をするだろうな」
「こうなればとことん嫌われてやろう。そして成都から追い出されるように、俺は兵を率いて漢中に行く。それで我らの敵は魏国であると蜀の臣民に示すのだ」
「誰もが戦のない世を望んでいるというのに、戦がないと民がまとまりを欠くとは皮肉な話ではないか」
「国が割れれば、もっと凄惨な争いが起こる。それは漢の滅びが証明したことだ。それよりはましだと思い定めるしかない。四百年続いた漢という国家があればよかったのだ。蜀という国はまだ若い。若いからこそ、争いが起こる。それは赤子が病を得易く、死に至り易いのと同じことだ。漢はその病に耐えうる体を持っていて、それを誰かが治療してやるべきだった。しかし魏がその病身に止めを刺してしまった。それを阻止しようとした諸葛亮殿は、正しかった」
漢が持っていた病の一つに、宦官の存在があった。国家に性器を奪われた男が、その国家に尽力するものなのかと、蔣琬は自分のいちもつを眺めながら考えることがあった。もし宦官になってしまえば、自分も黄皓のように卑しくなってしまうのではないだろうか。
蜀も建国の時に当然のように宦官を作った。それに反対する声がなかったわけではないが、漢王朝を継ぐのならそれも受け継ぐべきという声の方が大きかった。帝から宦官を奪うことは不忠だいう声すらあるのだ。その強い忠誠心が国家を滅ぼす要因となるのなら、これほど滑稽なことがあるものだろうか。
「俺が漢中に行けば、成都の仕切りはお前に任せようと思う」
費禕が少し黙って考えていた。他に誰かをと考えているのだろう。
「権力を得たいと思っている者に譲りたくはない。権力を持つことは困難なことだと思っているからこそ、お前に任せたい」
費禕は大きな溜め息をついた。
「今度は俺が嫌われ者になる番か。気の引けることだが、やらねばならんことなのだろうな」
「漢中にいていつまでも魏に攻め込もうとしない俺を悪者にしてくれればいいさ。漢中に滞陣して時を稼いでいる間に、国力を回復させてもらいたい。時が経って漢族と氐族の血が混ざれば、民族の境もいつかは消えてなくなるはずだ。そうやって次の世代の者にこの国を継がせたい」
それまでに王訓には強くなっていてもらいたい。息子の蔣斌も、魏延との暮らしの中で多くのものを学んで、いずれ成都に戻ってきてもらいたい。劉敏からの書簡には、蔣斌は山中で元気にやっていて、成都から放逐されたことは怨んでいないと書かれてあった。自分に気を遣ってそう書いてくれているだけなのかもしれない。
「話は変わるが、一つ気になることがある。漢嘉郡に流した楊儀が俺の悪口を吹聴して回っていて、それに黄皓が絡んでいる気配がある。俺が成都にいる間にできる限り禍根の種は取り除いておきたい」
楊儀を殺しておけ、ということだった。楊儀は北伐に功があり、そのため首を落とされず流刑となっていた。功臣には温情を見せておくべきだと、黄皓が帝に入れ知恵したからでもある。それで楊儀は平民になり、成都の外で動く黄皓の手駒に成り下がっていた。
「わかった。それは句扶にやらせよう」
広都で蔣琬の評判を落とし、漢嘉郡でも落として悪評を広めていこうというのが黄皓の戦略なのだろう。成都を離れて漢中に駐屯することになれば、黄皓の手引きで楊儀が政権内に復帰してくる恐れがあり、それはなんとしても阻止しなければならない。
「その思いきりでいい。宦官の言うことを気にして筋を曲げるようなことがあってはならん。筋を曲げない限り、俺も董允も来敏殿も、お前の味方だ。王平も、そうだ。敵は多いが敵ばかりではないということも忘れるな」
そう言い、費禕は退出して行った。
十日に一度の評定が開かれ、政庁に蜀の群臣が集められた。そこで国内の現状を帝に奏上し、これからの政についての議論がされるのだ。
蔣琬の近くに、費禕、董允、来敏が座った。財政官の孟光もいる。それに対するように黄皓を始めとする宦官が陣取り、それら全体を見渡せる場所に帝の劉禅が座っていた。
「近頃の蜀国は、戦による疲弊のため民は嘆き苦しんでおり、為政者に対する怨嗟の声が渦巻いております。これでは陛下の権威に傷がつく恐れがありますが、これをどうお考えか」
宦官を代表して、黄皓が甲高い声を室内に響かせて言った。この黄皓本人がその怨嗟の声を煽っているのだが、帝はそれを知らない。宦官の言葉は帝の言葉でもあるということになっているので、迂闊な返答をするわけにはいかない。
それに来敏が起立して答えた。
「魏との戦は終わり呉との同盟は良好で、蜀国内には平穏が戻りつつあります。それでも怨嗟の声が上がるのならば、それは外的な要因があるのでなく、内的な要因となる何かがあるのでしょう」
その内的要因は宦官であると、来敏は遠回しに言っていた。蔣琬が言い辛いことはいつも来敏が言ってくれた。嫌味を言うのが好きなのではなく、駄目なものに駄目だと言って疎まれるのは老人の仕事だと考えているのだ。そんな来敏の存在が、蔣琬には有り難かった。来敏の言葉に宦官たちは露骨に難色を示していた。黄皓はそれに、不気味に微笑んでいるだけである。
「その要因は何かと尋ねているのですが」
宦官だ、とは言えない。言えば帝を批判することにもなりかねないからだ。もちろん黄皓はそれを分かっていて聞いている。帝の劉禅はそれを分かっているのかどうか、横目で表情を伺い見てもよくわからなかった。
「内的要因の一つに、広都に移住してきた氐族のことがあります。彼らが蜀の民となってから、罪を犯さない日はありません。これは移住案が出された時から十分に予想できたことなので、今は鋭意対策中でございます」
黄皓の表情が少し動いた。移住案を出してきたのは他でもない黄皓であった。
「私は氐族の長であった苻健に会い、陛下の民として扱うことを約束し、慰撫しております。それでも問題があるとするのなら、それは如何なるものでしょうか」
今度は蔣琬が立ち上がった。宦官たちの鋭い視線が、獲物を狙う獣の如く集まってきた。
「氐族は蜀の民となってまだ日が浅く、蜀への帰属意識が成就されておりません。これは一朝一夕に成るものではなく、長い時が必要とされます。これは移住案が採択される前にも申し上げたことです」
それを何とかするのが文官の仕事ではないか、という声が宦官側から上がった。帝の前で宦官の提案したものが失策であったと印象付けられたくないのだ。
「対策案がないわけではありません」
宦官たちの不快な視線が向けられ続けている。成都を離れるのは、この不快な視線に負けたからではない。蔣琬は息を飲んで心の中でそう呟いた。
「魏国は我ら蜀国の敵であると、改めて民に示してやることです」
「少数の移住者のために」
「氐族のためだけではありません。漢王朝の復興が志半ばに潰えた今、蜀国住む全ての民は心の行き場を失っております。その麻の如く乱れた民の心をまとめあげるためにも、我らには共通の敵が必要だと考えるのです」
黄皓が意外そうな顔を見せた。
「戦を終えたばかりだというのに、また戦だというのですか」
「すぐにというわけではありません。成都から二万を出して漢中に駐屯させ、魏に睨みを効かせます。これで魏軍は蜀に容易に攻めてこられなくなるでしょう。これは蜀に住む民の安寧にも繋がります。魏国を牽制することで、同じく魏を敵とする同盟国の呉にも顔が立つことになります」
成都には六万の兵がいた。これは四万に減らしても大きな問題は起こらないはずだ。仮に起こったとしても、漢中から駆けつけてくればいい。
「兵には漢中で田を開かせ、屯田兵とします。開墾地に余剰ができれば魏からの流民を受け入れ、農作業をさせれば収入も増えます。二万は年に三度、成都の兵と交替させます。それで兵が家族と生き別れることがなくなり、魏は敵であるという緊張感を皆が持つことになることでしょう。財政に関することは、既に孟光と相談済みです」
蔣琬から促された孟光が立ち上がった。
「外征はできませんが、二万が国内に駐屯する分には問題ありません。漢中で新たに開墾するのならば、むしろ蜀国の富は増えます」
漢中は魏との最前線であるため、まだ開発できる余地を多く残していた。漢川がもたらす十分な水もある。蔣琬はそこに目をつけたのだった。
宦官たちが、どう反応すればいいのかわからないという顔をしていた。蔣琬のことを責めたいのだろうが、漢中に軍を集めて守りを固めれば、成都はそれだけ安全な地となる。それは宦官たちにとって悪い話ではない。
帝である劉禅は、その話を興味深げに聞いていた。蜀が建国されたのは、劉禅の父である先帝の劉備が魏国を打倒するためだったのだ。悪い感情を持たれることはない、と蔣琬は読んでいた。
その案は大きな反対に遭うことなく、これから話を詰めていくということで終わった。
次の議題に、皇后が没して次の皇后を立てるに当たり、大赦をすべきだという話が宦官側から上がった。董允と来敏がそれに反対しているのを、蔣琬は口を開くことなく腕を組んで聞いていた。成都を離れると決めた者が口を挟むべきではない。成都に残る蔣琬派の面々には悪いが、これで成都の煩わしいものから解き放たれ大きな心の荷が下りることになる。そして、蔣斌の近くにいてやることができる。
それから八日後、費禕に頼んでいた楊儀の首が蔣琬の所に密かに送られてきた。それと同時に蔣琬は、漢中駐屯の指揮官には自分が就くという話を宦官に流した。楊儀を殺したことで仕掛けてくるだろうと思われた宦官勢からの報復は、それでなくなった。これ以上蔣琬を貶めれば、漢中へ指揮官として送り出すことができなくなるかもしれないからだ。反蔣琬派は、成都の政権から蔣琬を排除するということでまとまっているのだ。
漢中に軍を出すという案で珍しく蜀の臣はまとまり、その計画は順調に進められていった。総指揮官が蔣琬になることも決まり、大将軍の節が下賜されることになった。
蔣琬はしばしば国のために尽力するということについて考えた。善政を為そうとしても、どこかで邪魔をしてくるものが内から湧いてくる。諸葛亮の時もそうだった。感嘆すべき諸葛亮の能力は、秀でた政治手腕だけでなく、その手腕を発揮させるためあらゆる邪魔者を跳ね除け続けた心の強さにもあった。その心の強い諸葛亮ですら、馬謖、李厳、楊儀のような者を排除しきることができなかった。諸葛亮にできなかったことを求められた時、心の弱い自分は邪魔なものを排除し続けることができるのか。それとも、邪魔なものに食い殺されてしまうのか。
楊儀に反目していた馬岱は、武都に賊徒として向かわされ、漢中からの救援を受けられないまま魏軍に討たれた。国に尽力するということは、馬岱のような死に方をするということではないのか。だからといって国に尽力する者がいなくなってしまえばどうなるか、漢の滅亡を目の当たりにした蔣琬にはよくわかっている。権力を持つとは愕然とするほど損なことだったのだと思わざるをえない。
漢中に出陣する前に、一つやっておくべきことがあった。漢中太守である呉懿の解任だ。劉敏によって書かれた王平からの報告によると、馬岱の救出は可能だったが、魏軍との交戦状態に入ることを恐れた呉懿がそれを阻んだのだという。
呉懿の齢は既に六十に達していて、判断力の鈍化をしばしば見せていた。それでも帝の外戚ということで、無下に扱うわけにはいかず漢中を任せていた。始めから王平に任せて劉敏に補佐をさせておけばよかったものだが、王平が文盲だということで反対の声が上がったからだという事情もあった。
その邪魔な声を排除しきれず、古い者を迎合してしまったため、優秀な将であった馬岱を失ってしまった。その責任は自分にある。呉懿に嫌われ憎まれてでも、始めから王平に漢中を任せておけば、馬岱が死ぬことはなかっただろう。
同じ過ちを犯さないためにも呉懿は排除しておくべきだった。このまま蔣琬が漢中に行き、漢中が蔣琬派と呉懿派に分かれれば、魏は諸手を打ってそこにつけこんでくる。
呉懿を排除すれば、呉懿とその近しい者からの恨みを買うことになり、漢中での政務を邪魔されることもあるのかもしれない。
諸葛亮ならどうしていただろうか。気付けばそう考えていることが多くなっていた。
7-15
人里離れた山の岩肌に、一人の痩せ細った若者が口をぽかんと開けて立っていた。陽の光が眩しいらしくその男は目を細め、見知らぬ地に辿りついた旅人のように辺りを見渡していた。今のこの若者にとっては、空を飛ぶ小鳥すら不思議なものに見えているかもしれない。
その目が岩に腰かけていた句扶を認め、ゆっくりと近付いてきた。
「お前の名は、何だ」
若者は少し考える表情をし、手の腹で目を擦りながら答えた。
「…郭循」
「自分の名は忘れていないか。なら、郭奕は」
「郭…奕」
呟いた郭循は顔を歪ませ両手を手につけ、嘔吐し始めた。ほとんど何も腹に入れてなかったため口から何も出てこず、黄色く粘ついた液が口から垂れ下がるだけだった。
苦悶を浮かべる郭循の顔に、句扶は水の入った袋を投げつけた。袋の口を開けた郭循は、体が乾いた馬の如く、喘ぎながら水を貪り飲んだ。
拷問の成果は上々だった。光の無い洞穴に閉じ込め一年以上かけて郭循の心を壊し、今や郭奕の名前を聞くだけで体が拒否するまでになっていた。元黒蜘蛛だったこの男は、どこかで役に立つはずだ。
「ついて来い」
長い監禁のせいで弱まった足腰で、郭循はよろよろとついてきた。近くの村でたまった垢を落とし、粥を食わせた。それで幾らか力が出てきたようだ。
「私は、今までどこにいたのですか。よくわからない所で、あなたの声だけは常に近くにあったという気がする」
句扶は郭循の顔をじっと見た。優秀な忍びであれば、これすら演技であるかもしれない。見たところ、その心配はないと思えた。あの拷問に耐え切れるほど、この忍びは優秀ではない。
「俺は、句扶だ。この国で忍び働きをしている」
「句扶。昔、聞いた覚えがある」
「余計なことはいい。俺の言うことを聞いていれば、心配することは何もない。食ったら漢中に行くぞ」
二人は村を出て北へ向かった。郭循の遅い歩みは、肉を食って数日歩いていれば元に戻るはずだ。
「私はこれから何をするのですか」
「働いてもらう。漢中に行き、お前は商いをやるのだ」
「商い、ですか」
短い会話を、ぽつりぽつりとしながら歩いた。今の郭循の心は空になっているはずだ。その空っぽの中に、句扶の言葉を詰め込んで満たし、蜀の忍びとして息を吹き返らせる。もし上手くいきそうになければ、死を与えるだけだ。
漢中に着くと趙広が出迎えに来て、後ろにいた郭循を目にして顔をはっとさせた。
「句扶様、こいつは」
「漢中で使うことにした。郭循、この男を覚えているか」
思い出そうとしているのか、郭循は顔を顰めさせていた。
「何も覚えていないというのか」
趙広の問いに、郭循が頷いた。
「お前の部下がやっている酒屋でこいつを働かせろ。どう使っていくかは、これから決めていく」
忍びが絡んだ商人は、蜀国内に幾らかいた。そうやって何か不穏なものがないか常に目を配らせているのだ。
「どういうことかわかりませんが、やれと言われるのならやります」
郭循は物分からぬおぼこの様な顔でそう言った。趙広は部下を呼び、郭循が連れて行かれた。
「あいつ、大丈夫ですか」
「俺が信用ならんと言うのか、趙広」
「そうは言いませんが」
「郭循のことはもういい。次の仕事だ。近い内に、蔣琬殿が二万を率いて成都からやってくる。俺たちは、その下準備をしておく」
趙広の顔に緊張の色が走った。
「漢中に忍び込んだ黒蜘蛛を、一度炙り出しておけ。多少強引な方法でもいい。それと、呉懿の周りを早急に洗え」
毎日の行動を調べておけということだ。暗殺の前の下調べと言っていい。趙広は何も言わず頷き、姿を消した。
句扶は町人の姿で頭巾を深く被って漢中の街を行き、黄襲の飯屋に入った。すぐに黄襲の妻がやってきて、何も言わずに句扶を一番奥の部屋に導いた。周囲に他の客を寄せ付けないその部屋に、王平が座って待っていた。
「久しいな、ここで話をするのは」
王平が微笑みながら言った。
「私にとっては、片目を失った嫌な場所ではありますが」
句扶も少し頬を上げて答えた。蚩尤軍の頭領として誰からも恐れられるようになった句扶が、唯一気を許せる相手が王平だった。
黄襲自身が焼いた羊の肉と酒を持ってきて配膳し、少しの言葉を交わしただけで退出していった。元は軍人だった黄襲はよくわかっているのだ。密談をするなら、やはりここが一番いい。
「蔣琬は成都で苦労しているようだな」
「李厳と楊儀は始末しました。手強いのは黄皓で、帝の庇護下にあるため密かに消すということができません。蔣琬殿は、もう成都が嫌になったから漢中に行くと言っていました」
「そうか、嫌になったか。あいつらしいな」
笑いながら王平は酒を呷った。句扶も焼いた肉を口に入れた。普段は食べ物を気にすることのない句扶だが、ここの肉だけは素直に美味いと思う。
「王平殿も、呉懿には悩まされているようで」
「頭の固い老人だ。あの人が漢中太守でなければ、馬岱殿は死ななくてよかった。俺にはそれが悔しくてならん」
「呉懿は、暗殺します」
王平の杯が止まった。句扶は何でもないようにまた一切れの肉を口に入れた。
「蔣琬からの密命か」
「蔣琬殿が漢中に来れば、一番の敵は魏でなく、呉懿になるだろうと認識されています」
「お前が来ると聞いて、そんなことではないかと思っていたよ。それにしても、蔣琬は大胆な男になったものだな」
「同じ蜀の臣として、味方を殺すことに抵抗はありますか」
「そんなことはない。敵は属する国によって色分けすべきでないと、北伐を通してよくわかった。お前が李厳と楊儀を消したと聞いて、俺は心の中で喝采したよ。欲ばかりで動く者がでかい声を上げる世など、つまらんものだ」
「呉懿も、そういう人物ですか」
「大きな欲はない。老い先短い余生に波風を立てなければ、それでいいと思っているのだ。それを欲と言えば欲なのだが」
「太守の立場を利用してそうしているなら、早く消した方がいいですね。死ぬまでが世だと思っている老人に力を持たせるべきではない、と私は思います」
「その通りだ、句扶。それで後に困るのは、蔣斌や趙広のような若い者たちだ。そして、句安も」
句扶が、左目を隠す蚩尤の眼帯をぴくりと動かした。句安は妓楼の女が産んだ句扶の子で、今は八歳になっていた。
「句安のことを知っているのですか」
「お前の子のことだ。漢中にいて知らんはずがなかろう。句安のことは、話しておかなければならんと思っていた」
北伐で多忙になってから、女に銭を送れなくなっていた。全く忘れていたわけではない。あの女なら上手くやってくれているだろうと、何となく思っていた。
「句安の母は、呉懿の側近である李福に囲われている。悪くは思わないでくれ。これは俺が口を挟めるようなことではないのだ」
「悪くなどと」
呉懿の側近に囲われているのなら銭に困ることはないだろう。自分が思っていた通り、あの女は上手くやっているのだ。妬みのような感情はない。子を産ませたのは、ただ子を残してみたいと思ったからだ。
「昨年、李福の子を産んだ。それで句安から母の情が遠ざかっているようなのだ。それが些か心配でな」
「そうでしたか」
「すまんな、お前には王訓が世話になったというのに、俺は何もしてやれそうもない」
耳に入れてくれるだけで良かった。これは軍団長である王平より、忍びである自分の方が何とかできることだろう。
「礼を言います。それより呉懿の話です。呉懿の一日の行動を、知っている限り教えてください」
呉懿は一日のほとんどを政庁で過ごしていること、軍の視察は稀で月に一度程だということ、夕食の際には必ず酒を飲むということを王平は詳しく述べた。さすがに王平は忍びの仕事をわかっていて、その話は一々要点を押さえていた。
「いつも飲んでいる酒は、成都から送られてくるものだ。そこが一つの狙い目になるかもしれん」
「わかりました」
趙広に今の話の裏を取らせれば、呉懿の暗殺はすんなりと終わらせることができると思えた。難しいところは、周囲に暗殺だと思わせてはならないところだ。蔣琬の差し金で呉懿の暗殺が行われたと露見すれば、蔣琬は呉懿に近しい者からの報復を受けることになるだろう。それは避けなければならないことだ。
句扶は王平と別れて黄襲の飯屋を出た。その足で、漢中の政庁へと向かった。成都のように、大きな建物があるわけではない。最低限の機能を備えた三つの棟があり、表には幾頭かの馬が繋がれていて、その敷地の隣に呉懿の屋敷があった。そのさらに隣には、李福の屋敷もある。
もう暗くなった道を、なるべく人と行き交わないように句扶は歩いた。李福の屋敷の前まで来た時、中から声が聞こえてきた。
「まだ終わらんのか、句安」
それに対しまだ幼い声が、もう少しです、と返事をしていた。
句扶は周りに注意を払いながら塀に手をかけ、中を覗き込んだ。句安と呼ばれた男の子が、小さな松明の光の下で薪を割っていた。あれが、俺の息子か。そう思った時には、塀を乗り越え中に忍び入っていた。
「あとどれくらいなの、句安」
屋敷の中から見覚えのある女が出てきた。句扶は闇の中に隠れながら凝視した。その女の腕には、小さな赤子が抱かれていた。
「あと、二十くらい」
「早くやってしまいなさい。さもないと何も食べさせないよ」
「うるさいな、やってるよ」
「なんなの、その口の利き方は」
女の後ろから、男が姿を現した。李福だ。李福の姿に促されるように、女はさらに声を荒げた。
「うるさいとは何なの。仕事も碌にできないくせに。父上に謝りなさい」
仁王立ちした李福が、腕を組んで小さな体を睨むように見下ろした。句安はそれに目を合わさず顔を俯けていた。
「そういう言葉遣いは許さんと言ったはずだ。言っただけではわからんのか」
李福の蹴りが飛び、句安は尻から倒れた。句扶は思わず、あっと声を出しそうになった。
「働かなければ飯は食えん。屋根の下で眠ることもできん。そんな簡単なこともわからんから、そういう言葉が出てくるのだ」
句安は立ち上がり、黙って薪割りの続きを始めた。
「きちんと物の道理を教えておけ。道理がわからんというのならこの屋敷から追い出すぞ」
李福が女にそう言い、屋敷の中に姿を消した。怒鳴り声で赤子が泣き出し、それをあやしながら女も中に入って行った。外には、松明に照らされた寂しげな句安の影だけが残った。
句安は薪を集めて抱え、薪置場まで運んだ。句扶は人気がないのを確認し、すっと句安の前に歩み出た。
「だ、誰」
「心配するな。悪い者ではない」
句安は驚いていたが、怯えの色は見せていなかった。薪割りのせいか肩の肉はしっかりとしていて、句扶にはそれが悲しいものに見えた。句扶は腰を落として座り、句安の視線に合わせた。
「父上のことは好きか」
李福のことである。句安はしばらく句扶の目をじっと見ていた。そして、首を横に振った。
「母上は、好きか」
句安は黙っていた。もう一度聞くと、言った。
「わからない。でも、仕方ない」
好きになれないけど仕方ない、ということなのだろう。
「新しい父上が怒るから、母上のことは仕方ない」
「何故、父上は怒るのだ」
「僕のことを好きじゃないから」
「そうか」
抱えていた薪を置かせ、句扶は句安の手を取った。小さなその手に、まめが潰れた跡が幾つもあった。
「その目はどうしたの」
句安が左目の眼帯を指差して言った。句扶は眼帯をはずして空洞になった左目を見せてやった。
「うわあ」
言って句安は気持ち悪がった。その素直な反応を見て、句扶は少し笑った。そして眼帯を付け直した。
「痛かった?」
「お前の手よりは痛かったかもしれんな。仕事で失敗をしたのだ。あれは、お前が生まれて間もない時のことだった」
「おじさん、僕のことを知ってるんだ」
「ああ、知っているとも」
屋敷の中から誰かが出てくる気配がし、句扶は咄嗟に句安の口を塞いだ。
「俺がここに来たことは誰にも言ってはならん。約束できるか」
句安が小さく頷いた。
「句安、何をしてるの」
女の声が近づいて来た時には、句扶は既に闇の濃くなった塀の上に溶け込んでいた。
「こんな所で油を売って、早くしてって言ったでしょ」
句安の頬がぴしゃりと叩かれた音がした。それを横目に、句扶は屋敷を後にした。
王平が心配していたことがわかった。しかし句安が嫌な思いをしているからといって、自分が何かを偉そうに言える立場ではなかった。自分は子が産まれた直後に少しの銭を送っただけで、子育てについては何もしていないのだ。
句扶の父親は、まだ幼かった句扶を毎日殴り、盗みをさせた。体を弄ばれたこともある。それで自分の身を守るために、父を殺した。忘れようと思っても忘れられない、幼いころの嫌な思い出だ。
見たところ、句安はそこまで酷い目に遭っているわけではない。昔の自分よりははるかにましじゃないか。句扶はそう思い定めることにした。
五日して、趙広が呉懿の洗い出しを終えたことを報告してきた。その報告と王平の言っていたことはほぼ一致していた。呉懿を殺すのは、やはり酒を使ったやり方が良さそうだった。
「俺が酒の樽を空にしてくる。お前は時を見て、酒を売りに行け。使うのは、麻を溶かし込んだものだ」
楊儀を嵌める際に、費禕に渡したものと同じ酒だ。この酒を飲めば強く酔うが、死ぬことはない。
「酩酊させるだけでいいのですね」
「酒に毒を入れれば毒見をした者も死ぬ。死因は酒だと思わせてはならん」
「呉懿は麻を吸いません。二杯も飲めば深く眠るはずです」
「酒を売る準備をしておけ。俺は呉懿の屋敷に忍び込んで来る」
趙広は頷き出て行った。
夜が更けるのを待ち、句扶は呉懿の屋敷に忍び込んだ。難しいことではない。ここは蜀国内で、黒蜘蛛がこの屋敷を守っているわけではない。
誰もいない調理場に屋根裏から音も無く降り立ち、酒が入った樽の木の継目に刃を立てた。抜くと、酒が漏れ出て床に広がった。朝になれば樽は空になっているはずだ。
翌日、呉懿の屋敷に酒を売ったと趙広が伝えてきた。何も知らない郭循が懸命に売り込み、屋敷の家人はそれに押されるようにして買ったのだという。
今度は趙広を連れて、呉懿の屋敷に再度忍び込んだ。句扶らが潜む真下では、呉懿が李福を招いて酒の相手をさせていた。運が良い、と句扶は思った。これなら酒を二杯以上は口にするはずだ。
「庶民の酒を飲むとは、呉懿様にしてはお珍しいですな」
「たまには民が飲むものも知っておかねばと思ってな」
「流石は呉懿様です」
そんな会話が聞こえてきた。見栄を張っているのか、樽から全て流れ出てしまったことは言っていないようだ。そのことを李福に知られないのも、句扶にとっては都合が良かった。
「なら私が毒見をしましょう。呉懿様は大物ですから、いつ魏の輩が毒殺を狙ってくるかわかりませんからな」
「毒見はもう家人にさせてある。少し強い酒だと言っていた」
句扶は、呉懿に媚びを売る李福を見て、こんな奴のところで句安は暮らしているのかと不快になった。
「これは、麻の香りがする酒ですな」
句扶と趙広は目を見合わせた。
「ほう、麻の酒か。今時の庶民はそんなものを好むのか」
「おかしな酔い方をするかもしれませんが、飲まれますか」
「民が飲めて儂が飲めないということはなかろう。もし明日に酔いが残れば政庁には病だと伝えておけばいい」
二人が酒を口にし始めた。それを見て屋根裏の二人は胸を撫で下ろした。
「酒が原因で出仕しないと知られれば、また王平あたりが怒ってきそうですな」
「酒の席であの男の名を出すな。まったく文字も読めん野蛮人のくせに、儂に偉そうに意見してきおって」
「馬岱が討たれたことを呉懿様のせいにしようとしていましたな」
「そうだ。自分が作戦に失敗しただけなのに何故儂のせいになるのだ。自らの誤りを人のせいにしようとするからあいつは野蛮人なのだ」
下の二人はしばらくそのように談笑をしながら杯を重ね、時が経つにつれ酔いが深くなってきたのか口数が少なくなってきた。李福が料理の乗った卓に突っ伏し、呉懿がふらつく足で立ち上がり厠に向かった。梁を伝い、二人は呉懿の後を追った。
夜が更け家人がほとんど寝静まった屋敷内である。殺害するなら、ここしかない。
厠の外で呉懿が出てくるのを待った。頭が朦朧とする呉懿を誘導して井戸に落とせば、水を飲もうとして落下したのだと誰もが思うだろう。周囲の人の気配に注意しながらじっと待った。
しかし呉懿はいつまで経っても出てこなかった。句扶は不審に思い厠に近付いてみると、中から鼾が聞こえてきた。中に入ると、尻を出した呉懿の体が厠の床に横たわっていた。
句扶は趙広に目で合図した。句扶は着ていたものの袖を破り、手洗い桶の水でそれを濡らし、それで呉懿の口と鼻を覆って後ろで縛った。呉懿の体は、趙広が羽交い絞めにしている。
呉懿が苦しそうに呻き始め、目を覚ました。激しく首を振ったが、口と鼻を塞いだものははずれない。一頻り暴れると、呉懿の体から力が抜けた。それでも趙広はしばらく羽交い絞めを解かず、句扶が脈を取って死んだのを確認してから体を解放した。厠の床に、寝ていた時と同じように呉懿の体が横たわった。句扶は死体の見開いた目を閉じ、屋敷から抜け出した。
朝のなると漢中から南に向けての早馬が飛んだ。呉懿急死の報である。呉懿は厠の中で死んでいて外傷はなく、酒の飲み過ぎで心の臓が止まったのだろうという話になっていた。
句扶にとって呉懿の死は、虫が一匹死んだことと変わりなかった。証拠を残さず殺せて良かったというのが少しあるだけで、それ以上のものはない。
それより句安のことが気になった。呉懿が死に、蔣琬が漢中に来ることになる。呉懿の側近だった李福は、必然的に政庁内での力を弱めるはずだ。それが句安に悪い影響とならないだろうか。
呉懿の葬儀が終わり、李福は成都から謹慎を命じられた。呉懿が死んだ時に一番近くにいたということで、嫌疑をかけられているのだ。殺したのが李福でないにしろ、呉懿の近くにいながらその死を防げなかったことには少なからずの責任が生じるからでもある。
蔣琬は呉懿の死の真相を知っている。知っていて李福に謹慎を命じたのは、蔣琬が漢中に入る前に呉懿に近かった者らの力を削ぐためだった。
李福が荒れている、と部下から聞いて、句扶は自ら屋敷まで様子を見に行った。蔣琬の思惑が李福に見抜かれているか確認しておく必要がある。だがそれはほとんど建前で、句安のことが気になったのだ。
李福の屋敷に着くと、中から王平が出てきた。句扶に気付き、話かけてきた。
「李福のことは心配するな、句扶。呉懿の死について怪しまれていることは何もない」
「中で何を話されていたのです」
「呉懿がすべきだった仕事の引継ぎの話だ。李福の様子を探るためでもあったのだがな。あれは事実無根の嫌疑をかけられ苛ついているだけで、それ以上のものはない」
「ありがとうございます。手間が省けました」
「句安のことも見てきた」
句扶は行こうとした足を止めた。
「もう、ここから離しておいた方がいい。山がいいな。蔣斌がそうしているように」
そう言い残し、馬を歩ませ王平は去って行った。山か、と句扶は呟いた。
句扶はするりと塀を越え、庭の木陰に身を隠した。屋敷内に動く人の気配を伺っていると、句安が出てきた。幾らかの薪を抱え、風呂焚きを始めようとしていた。
「まだか、句安」
中から李福の声が聞こえた。
「これからやります」
「これからだと」
風呂に入るつもりだったのか、薄着の李福が外に躍り出て句安を張り倒した。庭に、句安が抱えていた薪が散らばった。
「お前の言葉は一々癪に障る。俺は今、気が立っているのだ。その気を逆撫でするようなことを言うんじゃない」
李福は倒れた句安を叩いた。屋敷の廊下に赤子を抱いた女の影が見えたが、その影はすぐに中へと消えていった。句安は叩かれながら、じっとその影を目で追っていた。
李福はしばらく叩いて満足したのか、息を切らせながら中に戻って行った。句安はよろよろと立ち上がり、薪を集めて火を熾そうとしていた。
句扶は茂みから茂みに動いて句安に近付き、姿を見せた。泣きべそをかいた句安の顔があっとしていた。
「俺のことは誰にも話していないか、句安」
句安は、うんと頷いた。
「よし、いいぞ。俺は、お前が泣いているのを見て、助けに来たのだ」
「どうするの」
「ここが嫌なら俺が連れ出してやる」
「もう、ここは嫌」
句扶は句安の手を取った。
「なら、行こう。俺のことは恐くはないか」
「おじさん、悪い人なの?」
句安が不思議そうに言った。八歳の子の純朴さに、句扶は苦笑した。
「いや、悪い人ではない。俺はお前の味方だ。いつまでも、お前の味方だ」
「なら、行く」
「母とは違う所で暮らすことになる。それでもいいか」
句安は少し考える顔をし、頷いた。
「火は点いたか、句安」
中から李福の怒鳴り声が聞こえた。
「行こう」
句扶は句安の体を抱き上げ、屋敷から出た。自分の息子を抱いてやるのは、これが初めてだと思った。
二人して漢中を出て、西の山中に入った。途中で日が落ち、句扶は枯れ木を集めて火を熾し、懐の干し肉を焙って句安に渡した。
「今頃、お前の母上は慌てているかもしれんな」
言いながら、句扶も焙った肉を齧った。
「そんなことない。母上は僕のこと邪魔だと思ってるから」
「何故、そう思う。母上はそんな酷いことを言うのか」
「新しい父上と住むようになって、僕のことが嫌いになったみたい」
よくあることだ、と句扶は思った。
「前の父上はどうしたのだ」
「戦で死んだって母上が言ってた」
「そうか。腑甲斐の無い男だったのだな」
句安が顔を背けた。
「僕が小さい頃だったからよく分からないけど」
焚火がぱちりと音を立てた。辺りは真っ暗な山中である。それで不安になったのか、母と別れたことが寂しいのか、句安は膝を抱えて静かに泣き始めた。句扶はその小さな背中を撫でてやった。それでも焚火の温かさが心地良かったのか、気付けば句安は眠りに落ちていた。
句扶は句安の体を背負い、火を消して夜の山中を出発した。夜目は効き、星を見れば行く方角はわかる。山中のわずかな目印を頼りに進み、日が昇り始めた頃に魏延の幕舎に辿りついた。
既に魏延と蔣斌は起きていて、朝餉の用意をしていた。二人は手を上げて句扶を迎え入れてくれた。句安は、まだ背中で眠りの中にある。
「魏延殿。申し訳ないが頼みがあります」
「王平から聞いている。その背中の小さいのはお前の子供だな」
句扶は頷き、句安を魏延に預けた。魏延が既に知っているということは、前から王平は魏延にこのことを相談していたのかもしれない。
蔣斌が水の椀を渡してきたので、それを一息で飲み干した。
「この子は、自分の父は戦で死んだと思っています。本当のことを言う必要はありません」
忍びなら、いつ死に直面するかわからない。なら始めから死んだことにしておけばいい。
「まあ、好きにするさ。これから朝飯をつくるから、お前も食っていけ」
「いや、いいです」
句安が起きる前に離れたかった。既に、忍びには無用の情が湧き始めているのだ。実の父としてやれることは、これで十分だろう。
句扶は来た道を蜻蛉返りで帰った。蔣琬が来る下準備はこれで整った。句安のことで心が乱れていたが、これでもう乱れることはない。李福に囲われた女にももう興味はない。抱いたのは八年以上も前のことで、既に名すら覚えていないのだ。
7-16
遼東で公孫淵が叛乱を起こし、これを討伐するための軍が洛陽に集められた。北方での戦となれば強力な騎馬隊が必要不可欠となるため、夏侯覇は手勢の五千を率いて長安から援軍としてやってきていた。
上質な生地でできた袍を身に纏い、掃除の行き届いた一室を宛がわれて北への出兵命令を待っていた。綺麗な部屋がどうも落ち着かなかった。洛陽の軍営で兵と共に過ごすことを希望したが、将軍が受ける待遇ではないと言われ笑われてしまった。生前の父や叔父が積み上げた功績が、夏侯姓を特別なものにしていた。
戸を叩く音がし、夏侯玄が一人の男を連れて入ってきた。
「つまらなさそうな顔をしているな、夏侯覇」
「ここは息が詰まる。俺には埃臭い軍営の方が合っているようだ」
「毎日、調練はしているんだろう」
「まあな。ところでそちらの御仁は」
夏侯玄の隣の男が、笑顔を向けて一礼した。あまり良い笑顔ではない、と夏侯覇は思った。
「李勝と申します。曹爽様に近侍している者です」
曹爽は、蜀攻めの後に死んだ曹真の長子で、洛陽で大きな力を持っていた。また夏侯玄の従兄にもあたる。
「その李勝殿が、俺に何の用です」
作り笑顔を訝しんだ夏侯覇がぶっきらぼうに言うと、李勝が湛えていた笑顔を少し崩した。宮廷ではこんな野暮な物言いをする者はいないのだろう。しかし夏侯覇は、気にしなかった。
「暇を持て余されているようなので、洛陽の軍と演習戦でもしてみないかと曹爽様が提案されております。是非、歴戦の将である夏侯覇殿のお手並みを拝見させて頂きたい」
「それは構いませんよ」
李勝は喜んで美辞麗句を連ねて礼を言い、夏侯覇はそれに適当に相槌を打った。
洛陽の軍人から夏侯覇は、蜀軍と何度も戦った将の一人として、幾らか畏敬の念を持って見られていた。それに悪い気はしないが、時に煩わしいこともある。
「参加して頂けるのなら渡すものがあります。これをお納め下さい」
李勝が懐から袋を取り出し卓に置いた。中に銀の粒が入っていることは見なくてもわかった。
「何ですか、これは」
「お近付きの印です。同じ魏国の臣として、どうぞよしなに」
「こんなものがなくともよしなにはできますよ。これはお返しします」
夏侯覇は李勝の手を取り銀の袋を持たせて懐に押し返した。
「それよりも、遼東への出陣はまだか」
夏侯覇は困惑する李勝を尻目に、夏侯玄に言った。
「司馬懿様が指揮を執られることは決定している。軍の編成もほぼ決まっていた。ところがしばらく動かないだろうと見ていた蜀が不穏な動きを見せ始めた。成都から漢中に兵を集めているようなのだ」
またか、とは思わなかった。来るならまた戦えばいい。戦うことこそ、軍人の存在意義だ。
「そういう理由で軍議が長引いている。折角洛陽に来てくれたのだが、このまま長安にとんぼ返りして蜀軍に備えてもらうことになるかもしれん」
「そういうことか」
「ですので、せめて洛陽の軍に稽古をつけてもらえればと思いまして」
李勝の声は些か不機嫌になっていた。
「日取りはいつです」
「三日後。南東の丘陵地帯で曹爽様の弟であられる曹羲様の率いる軍と、司馬師殿の率いる軍が遭遇戦をやります。夏侯覇殿には三千の騎馬隊で曹羲様の軍に参加して頂きたい」
夏侯覇はその話にきな臭いものを感じた。洛陽の宮中にも派閥があり、司馬家と曹家はそれぞれが派閥となって別れている。その派閥争いには関わりたくなかった。
「三日後に演習戦があると、部下には伝えておきます」
「それはいけません。できればこのことは内密にして頂きたい。夏侯覇殿の参加ことが知られれば、洛陽の将兵は畏縮してしまいます」
「戦に出ようという者が、相手によって畏縮するのですか」
「洛陽の将兵は実戦を知らぬ者ばかりです。ここは何卒、本番まで御内密に」
「わかりました。そう言われるのなら黙っておきましょう」
恐らく、司馬家の者に知られたくないのだろう。それは口に出さず納得しておくことにした。何か意図することがあるのだとしても、一歩引いて見て見ぬふりをしておけばいい。
「曹羲様には期待しておいてくれとお伝え下さい」
李勝はその言葉に喜んで夏侯覇の手を取ってきた。その顔はやはり、下心があるように見えた。
「では、これで」
「待ってくれ、夏侯玄。少し街でも歩かないか。行きたい所がある」
「街を歩くか、それはいいが」
「戦友が上洛されたのです。夏侯玄殿の仕事は私がやっておきますので、是非お行きなされ」
「そう言ってくれるのなら行くか。礼を言うぞ、李勝殿」
李勝がまた下心の見え隠れする笑顔を向け、出て行った。
夏侯覇は夏侯玄を連れて外に出た。洛陽の城郭内は豊かで、戦場とは真逆の場所であると思えた。たくさんの人々が富に群がり、富から溢れた者は城郭の端へと追われ、さらに溢れた貧しい者は城外に暮らしている。洛陽の宮殿を中心に円を描くように、富む者が内へと、貧しい者が外へと居住していた。
「銀の袋を拒否していたな、夏侯覇。格好などつけずに、ああいうものは黙って貰っておけばいい」
「軍人には余分なものだ。駿馬三千頭なら喜んで貰うが」
「銀を渡すことで築ける関係もある。逆に断ってしまえば相手に不信感を与えてしまうことになるぞ」
「銭がなければ成り立たない関係など、何の価値がある。お前は賂など嫌う男だと思っていたのだがな」
「お前は何もわかっていない。洛陽には、洛陽のやり方があるのだ。それを頭から否定したところでどうなる。周りからおかしな目で見られるだけだぞ」
もういい、と言うように夏侯覇は手を振った。雍州の西端では、氐族が家畜同然の暮らしをしていた。あの貧困さの上にわずか一握りの人間の豊かさがあり、そのわずか一握りの豊かさを守るために魏国があるというのなら、自分は何のために軍人をしているというのか。あまり考えたくないことだった。
「ここは豊かだな。豊か過ぎるほどだ」
「ここでの豊かな暮らしがあるのは、お前ら軍人のお蔭だ。感謝しているよ」
「実際に戦場に立ったお前も感謝される側で、感謝する側ではないのではないか」
「俺は文官だ。前線で血を流すことはない」
「関係ないさ」
お前と俺は違う。そう言われたようで会話が続かず、夏侯覇はそれを誤魔化すように周囲の店を見渡した。雑貨を売る店や、焼いた肉を売る店に小奇麗な格好をした婦人が群がっていた。
「洛陽の物はどうしてこうも高いのだ。あらゆる物が長安の倍近くあるぞ」
「蜀との戦で司馬懿様は、雍州の民を手懐けるために大量の銭を造って撒いた。それで物が豊富にあった都の商人を肥やした。長安で造られた銭は商人を通じて大量に洛陽に流れ込んだのだ」
「銭が増えると、物の値が上がるのか」
「銭があれば、財布の紐が緩むからな」
「それにしては城外には貧しい者が多いようだが」
「銭を持つ者がその銭を使い、さらに多くの銭をかき集める。銭を持たない者はいつまで経っても貧しいままだ」
「つまらんな」
「そう言うな、夏侯覇。銭を使うことで民をまとめ、蜀軍を打ち払った。魏国が蜀軍に侵されるよりよほどましなことではないか」
眼の前で、焼いた肉の串を落とした童が泣いていた。母がすぐに駆けつけ、新しい肉を買い与えた。襤褸に身を包んだ男が落ちた串を見つけ、砂まみれになった肉を食いだした。肉を買った母子は、その男を見てくすくすと笑いながら去っていった。まるで銭を持たない者は人ではないと言わんばかりに。
こんな世のために今まで戦っていたのかと思うと空しい気持ちになってしまう。洛陽でこういう光景を目にするのは、一度や二度ではないのだ。
「俺は銭のためには戦わんぞ、夏侯玄。お前も文官なら、ああいう母子を何とかしろ」
「なんとかしろと言われてもな。出世していずれ力を持てば考えてやれるが、今の俺には力がない。銭を撒いた司馬懿様を批判すれば、俺の首なんかすぐに飛んでしまうよ」
そんな会話をしながら裕福な通りを抜けた。中央通りから外れて城壁に近付くにつれ、貧しさが目についてきた。
「どこに行こうというのだ」
「会いたい人がいる。俺はあまり面識がないから、お前に付き添ってもらいたかった」
小気味良い金属音を鳴らす鍛冶屋の隣に、裕福さはないが清潔さのある家が一軒あり、夏侯覇はそこに訪いを入れた。家人が出て来て、二人は中へと通された。車のついた椅子に座った辛毗が書見をしていて、二人に気付くと声を上げて二人を迎えた。王平に斬り飛ばされた両足の先は、肉が盛り上がって丸くなっていた。
「先の大戦では大義でありました。一度、挨拶に参りたいと思っていたのです」
洛陽に戻った辛毗は、足を失ったことで引退していた。洛陽の隅に小さな家を与えられ、そこで家人と二人で静かに暮らしていると聞いていたのだ。
「儂のような物の役に立たなくなった老人に会いに来るとは、物好きなことだな」
「物の役に立たないなどと。蜀軍の諸葛亮を討ったのは、辛毗殿であると私は思っております」
「それは言い過ぎだよ、夏侯覇」
言って辛毗は大笑した。この人はこんな笑い方をするのか、と夏侯覇は思った。蜀軍と対峙した戦場では、司馬懿の謀臣としていつも暗い顔をしていた。
「今ではめっきり客が減ってしまった。昔は色々と物を聞いてきた夏侯玄も、全く儂の顔を見に来ようとせん」
「私は、そのようなつもりでは」
隣で夏侯玄が恐縮していた。武功で蜀軍と睨み合っている時、洛陽から二万の援軍を引き出しに行った辛毗に、夏侯玄は随行した。物を聞いてきたとはその時のことだろう。
「戦に大功のある辛毗殿がこんな所で不遇を囲っているとは、いささか心苦しい思いがします」
「自らここを望んだのだ。隣に、腕の良い鍛冶屋がいる。脚を失った儂には、この椅子をすぐに直してもらえるここが一番良い」
「ここでの暮らしで銭に困ることがあれば、私がすぐに届けます」
「お前はすぐに銭の話をするようになったな、夏侯玄。為政者たる者がなんでも銭に頼っていてはいかん。銭がなく椅子を直すのに困れば這えばいい。それを見て少しでも憐れんでくれるのなら、手を貸してくれればいい」
「ですから、そのために」
「まあ儂のことはいい。足がないことが悪いことばかりではないぞ。足がなければ、足を洗わずに済む」
夏侯玄に向かって快活に喋る辛毗に、夏侯覇は好意を持ち始めていた。立場が変われば、こうも人は変わるものなのか。
「司馬懿様は元気にしておられるか。今頃は、宮中で曹爽様との戦に苦労されておられることだろう」
「辛毗様、物騒なことを言われますな。魏の臣同士でどうして戦をせねばならぬのです」
「人の世とはそういうものだ。恥じることもない。その諍いの中で知恵を凝らし、上手くやっていこうというのが人の世ではないか。その事実から目を逸らしていたのでは良い仕事はできんぞ」
夏侯玄はそれに言い返せず、困った顔を見せているだけだった。
曹家と司馬家は、やはりあまり良い関係ではないようだ。李勝が演習戦に誘ってきたのは、やはり自分のことを曹爽側に引き込んでおきたかったという意図があったのだろう。
「お前はどうなのだ、夏侯覇。司馬懿様と曹爽様、どっちに見込みがあると思う」
「えっ」
妙なことを聞かれ、夏侯覇は辛毗の顔を見つめた。笑っている。李勝のような嫌な笑いではない。一線を退いたからこそ、この老人はこんなことを笑いながら聞けるのだ。いやらしいことを聞く辛毗の顔を見ていると、無性に笑いが込み上げてきた。
「笑うか、夏侯覇。それもいい。そういう諍いが嫌なら笑って誤魔化せばいい。そして誤魔化しきれなくなったら、蜀にでも逃げればいいのだ」
「そうですな」
言って辛毗と夏侯覇は共に笑った。夏侯玄だけが、笑い声に挟まれ顔を困らせていた。
笑っていると、外から馬蹄の鳴る音が聞こえてきた。その音は徐々に近付いて辛毗の家の前で止まり、一人の男が入ってきた。
「探しました、夏侯覇殿。私は司馬師様の属将で、胡遵と申します。三日後に演習戦がありますので、それに司馬軍として参加して頂くようお願いに参りました」
「胡遵とやら、お前はいきなり入ってきて何を言っているのだ」
夏侯覇は言いながら腰を上げた。
「ですから、演習戦の御加勢に」
「俺は今、辛毗殿と話をしているのだ。そこにいきなり入ってきて、何がお願いに参りましただ。洛陽の軍人は最低限の礼節も知らんのか」
胡遵が、呆れたような笑みを浮かべた。
「夏侯覇殿、ここは城郭内の端です。長安から来たから知らないでしょうが、こういう所には銭の無い者が」
「黙れ」
夏侯覇は胡遵の顔に思いきり拳を打ち付けた。
「お前の願いは断る。礼節を学んで出直して来い」
胡遵は何故殴られたか分からないという顔をしながら、それ以上は何も言わず逃げるようにして出て行った。
「腰抜けめ。軍人のくせに、殴り返すこともできんか」
夏侯玄が止めに入ってくるかと思ったが、ただ見ているだけだった。蜀との戦に臨む前に、夏侯玄とは一度殴り合った。そのことを思い出していたのだろうか。それとも、自分が司馬家の者を殴ったことを内心で喜んでいるのだろうか。
「剛毅だのう、夏侯覇。その剛毅さは、いずれ災いの種となるぞ。儂は嫌いではないがな」
「望むところですよ。非礼に非礼だと言って、何が悪いのです。城郭の端の家がどうだとか、軍人が銭の量で人を見るようになれば終いだ」
洛陽に来てからどうも居心地が悪かった。それは小奇麗な一室や着物にあるのではなく、あのような銭勘定で動く者が多くいるからだと胡遵を殴ってはっきりとわかった。
「その気概を持ち続けろ。夏侯玄も、こういう軍人を積極的に頼るのだ。気概なく銭ばかりを追って生きる者より、気概を持つことで損をしながら死ぬる者の方が儂は好きだ」
「まるで私がすぐにでも死ぬような言い草ではありませんか。私は、あんな輩には殺されませんよ。またおかしな者が来ない内に、今日のところは帰ります」
「またいつでも遊びに来い」
二人は一礼し、辛毗の家を後にした。
三日後、夏侯覇は手勢の五千騎から三千を選び、重騎兵を率いる徐質と、軽騎兵を率いる苻双を従え、演習場へと向かった。
本陣には、既に曹羲の幕僚が集まっていた。夏侯覇を誘ってきた李勝と、曹羲軍幕僚である楊偉が声を上げて幕舎に迎え入れてきた。煌びやかな具足に身を固めた曹羲が、幕舎の奥に座っていた。
「よく来てくれた、夏侯覇。これは演習戦であるが、実戦だと思ってやってくれ」
余分な肉が付いていてあまり強そうではない。夏侯覇はそう思いながら拱手した。
卓には戦場の地図が置かれていた。一万と一万の勝負で、騎馬はそれぞれ三千である。戦術を練る幕舎に満ちた緊張感は、実戦のそれとは少し違うという気がした。
「先鋒は、李勝の四千。楊偉がその後ろに二千で続く。夏侯覇は三千の騎馬で遊軍となり、敵の側面を突くよう動いてくれ。いつ仕掛けるかは、お前の判断に任せる」
曹羲の周囲は千が守るということで、これはいかにも少ないと夏侯覇は思った。
次は楊偉が口を開いた。
「李勝殿の四千がまずぶつかり、敵の動きを止めます。これは囮のようなものです。足を止めた敵を、私と夏侯覇殿で挟み撃つというのが基本方針です」
この戦は負ける。夏侯覇は話を聞いてそう直感した。この作戦は、敵が李勝の四千を正面から受けることを前提に建てられている。司馬師の軍が李勝の四千を無視し、後方の曹羲を狙えば、守りは一千しかいないのだ。
それを言うべきかどうか、夏侯覇は迷った。あまり余計なことを言って角を立てたくはなかった。
「夏侯覇の考えを聞かせてくれ」
「良い作戦だと思います。丘陵地帯で怖いのは、丘の影に隠れて動く騎馬隊です。李勝殿が敵の目を引き付けてくれれば、私が敵の背後を突きましょう」
それで遠回しに敵騎馬隊の危険性を伝えたつもりだったが、曹羲と李勝はただその言葉に喜んでいるだけだった。楊偉だけが、黙ってじっと夏侯覇の方に目をやっていた。
「それでは、それぞれの配置に着け。必ず勝つぞ」
そこにいた全員が声を上げた。出動命令を出し、馬に鞍を乗せていると、名前を呼ばれて夏侯覇は振り返った。楊偉だった。
「自軍にいなくてもいいのですか」
「戦が始まる前に、夏侯覇殿の意見を聞かせて頂きたい」
「私の意見なら軍議で述べた通りですが」
「私の目にはそうは見えなかった」
ほう、と夏侯覇は心の中で思った。洛陽の軍人の中にもましな者はいるようだ。
「夏侯覇殿にとっては、この演習戦は遊びのようなものかもしれませんが、私は真剣なのです」
夏侯覇はそれに苦笑した。
「何が可笑しいのです」
「遊びなどとは思っていません。いや、思っていたかな。ちょっと、待ってください」
夏侯覇は徐質と苻双の二人を呼んだ。徐質は沈着としていて、苻双は少しあがっているようだった。
四人で円になって座り、夏侯覇は木の枝で地面に図を描いて説明した。
「これが、我が軍の配置です。これでは負けます。負ける可能性が高い、という意味ですが」
「何故、そう思われるのです」
「四千の歩兵が一丸となって前に出て、二千が後詰となればこれはいかにも堅い。しかし、鈍重です。敵とぶつかる前に斥候に補足され、ぶつかり合いを避けられてしまえばいないことと同じになってしまう」
「戦だというのに、戦わないというのですか」
「戦はぶつかり合いだけではないのです。徐質、お前が敵ならどうする」
徐質が枝で、大きく弧を描いた。
「丘を縫うように騎馬を走らせ、後方に回って千の本陣を突きます」
「待ってくれ、それではかなりの時がかかる。こちらも斥候は出しているのですよ」
「敵の騎馬を補足しても、対応できなければ意味がありません。だから、鈍重さがこの作戦の弱点なのですよ」
楊偉が唸った。こちらが伝えたいことは、ちゃんと理解してくれているようだ。
「本気で勝とうと思うのなら、李勝殿には悪いですが、この四千が敵とぶつかっても助けに向かってはなりません。李勝殿にはある程度の死に兵になってもらいます」
「しかしこの四千が討ち果たされれば」
「小さくまとまった四千は、そうそう破られるものではありません。敵はこちらの騎馬隊にも警戒しなくてはなりませんから」
「わかるという気もしますが」
楊偉は、半信半疑という顔をしていた。書の上でしか戦をしたことがなければこんなものだろう。
「この話を軍議でしていても、恐らく聞き入れてもらえなかったでしょう。私は客将ですからね。さあ、配置に戻りましょう。私の話は、胸に御仕舞いください」
そう言っても、楊偉は難しい顔をするだけで動かなかった。
「敵の騎馬隊は、本陣まで来ますか」
「来ます。間違いなく」
司馬師なら、必ず奇を衒う。正面から兵をぶつけ合う愚直な戦をするような男ではない。
「勝ちたい。私は、どうしても勝ちたい」
「出世のためにですか」
「そうではない。私は軍人だ。軍人なら、勝ちたいと思うのが当然ではないか」
楊偉が強い眼差しを向けてきた。良い目をしている、と夏侯覇は思った。
銅鑼が鳴った。楊偉は礼を言って自陣に戻って行った。
「負けますか、隊長」
徐質が聞いてきた。
「負けてもいいかと思っていた。あの男のために勝ってやろうかという気になってきた」
「そうこなくては」
徐質が手を打って喜んだ。徐質にも、楊偉の熱意が伝わったようだ。
「苻双、お前は五百の軽騎兵で敵本陣の周りを駆け回れ。斥候に補足されては姿を消すということを繰り返すのだ。もし敵の騎馬隊と出くわしても、戦わずにひたすら逃げろ。軽騎兵の足ならそれができる」
「わかりました」
苻双は強張った顔を頷かせた。
「お前、しっかりやれよ。頭に血を昇らせて敵に突っ込むんじゃないぞ」
「徐質殿こそ、曹羲様をちゃんと守ってくださいよ」
「言ったな、こいつ」
「その辺にしておけ。そろそろ行くぞ」
全軍に騎乗を命じた。
李勝の四千が先陣を切って進発した。その後ろに続いて楊偉の二千がゆるゆると進み始める。それを確認して夏侯覇は苻双に合図を出した。苻双の五百が、李勝の四千を大きく迂回するように駆けだして行った。上手くやれよ。夏侯覇は馬上でそう呟いた。
しばらくの間があり、李勝の四千が敵と遭遇したという伝令が来た。敵は司馬師を中心に、七千の歩兵が守りの陣を組んでいる。騎馬隊発見の報告はまだない。
李勝から、敵七千の側面を崩してくれという要請が何度か来た。夏侯覇はそれを全て無視した。後軍となっている楊偉の二千も、李勝の四千からかなり離れた場所で足を止めている。そのさらに後方の小さな盆地となっている地形に、夏侯覇は手勢の二千五百を隠していた。曹羲からも何故動かないのかという伝令が来たが、やはり無視した。
李勝の四千と司馬師の七千が対峙してかなり時が経った。この間に苻双の五百は何度か補足されているはずだ。三千の騎馬を幾つかに分けて七千の隙を伺っていると司馬師が読んでくれれば、この戦は勝ちだ。
司馬師が仕掛けた。七千の陣を鶴翼に開き、李勝の四千に襲いかかった。斥候がその様子を伝えてくる。楊偉の二千はそれでも動かず、じっと耐えていた。李勝からの救援要請がしつこく、徐質が伝令兵を馬から突き落としていた。
夏侯覇は丘の稜線から顔を出して曹羲の千を見つめ続けた。敵騎馬隊はまだ補足できていない。こちらも、補足されてはいない。もう来るはずだと、夏侯覇は確信した。
見えた。先遣隊であろう五騎が、向こう側の稜線から姿を見せてすぐ消えた。
「乗馬。徐質の重騎兵から、一直線に本陣に駆けろ」
五騎が消えた所から、敵の騎馬隊がぬっと姿を現した。それと同時に徐質の千五百が丘を駆け下りた。
曹羲の本陣に向かう敵の騎馬三千が、徐質の騎馬隊を見て浮足立ったのがわかった。数で勝てると思ったのか、敵は曹羲の千から徐質の千五百に馬首を向けた。夏侯覇も、千を率いて徐質の後に続いた。
前面を馬甲で固めた徐質の重騎兵が、蔓を割くかの如く倍する敵騎馬隊を断ち割っていった。割れた片方に、夏侯覇は千をぶつけた。騎馬隊の指揮官はあの胡遵だった。
一度のぶつかりで敵の三千は乱れに乱れ、胡遵は戦う素振りも見せず乱れたまま司馬師の陣へと逃げ始めた。
夏侯覇は舌打ちをした。本陣は守ったが、この騎馬隊が七千と合流されると厄介だった。こんなにあっさりと退くとは思っていなかったのだ。夏侯覇は徐質と共に胡遵の後を追った。
不意に、胡遵の逃げる先から鬨の声が上がった。楊偉の二千。胡遵の逃げる先を完全に遮っていた。
胡遵の騎馬隊が足を止め、降参だと言うように調練用の棒を地に放った。徐質が目配せしてきた。行け、と夏侯覇は目で言った。逃げるばかりの卑怯者め。夏侯覇は心の中で罵った。
徐質が駆けて行って棒を薙ぎ、胡遵の体が馬上から消えた。
「楊偉殿、すぐに反転しろ」
夏侯覇は駆け抜け際にそう叫んだ。楊偉が目で答えていた。
馬を疾駆させた。すぐに歩兵がやりあっているのが見えてきた。李勝は七千の鶴翼に半円を描くように包囲され、四千を三千程までに減らしていた。
疾駆の勢いのまま、夏侯覇は七千の左側に突っ込んだ。錐をもむように食い込み、肉を抉り取るように内から崩して抜け出した。それを二度、三度と繰り返していると、楊偉の二千が追い付いてきた。劣勢だった李勝の三千が五千になり、夏侯覇が崩したところから押し返し始めた。それでほぼ勝負は決まっていた。
その時、敵の背後の丘から五百の騎馬隊が姿を見せた。苻双だ。苻双は雄叫びを上げながら丘を駆け下り、逆落としの勢いで敵陣の背後を襲った。
苻双が敵陣を割っていく。もう反転しろ。夏侯覇がそう思っても、苻双は進むことを止めなかった。そして司馬の旗まで辿りつき、苻双の鋭い突きが司馬師を落馬させた。
「あいつ、容赦ないな」
徐質が呆れて言った。
「お前も人のことは言えんだろう」
「確かに」
勝敗を告げる銅鑼が鳴らされた。曹羲軍の大勝である。
夏侯覇は馬を歩ませ司馬師のところに行った。
「御怪我はありませんか」
顔の半分を泥で汚した司馬師が、地に座っていた。
「俺の誘いを断り、曹羲殿についたか、夏侯覇」
「あれは、胡遵殿があまりに非礼だったためです」
「まあいい。あのちょろちょろと動く五百を完全に読み違えた。遼東に行く前に良い演習ができた。礼を言うぞ。きっと曹爽殿からは褒美が出ることだろう」
皮肉混じりの言葉を残して司馬師は行ってしまった。
兵を収容し終え、面倒だと思いながらも筋肉質な体に似合わない袍で身繕いし、曹羲の館に向かった。館では、もう宴が始まっていた。
「夏侯覇が動かぬ時はどうしたのかと思った。あの騎馬隊を読んでいたのだな。本当によくやってくれた」
既に酔っている曹羲が夏侯覇の肩を叩いて喜んだ。
「李勝殿の四千が敵を受け止め、楊偉殿がそれに耐えてくれました。勝因はそれで、私はただ馬を走らせていただけです」
「謙虚なところも良い。褒美を取らせるぞ。これは、俺の兄である曹爽殿からだ」
言って曹羲は袋を渡してきた。中を見ると、李勝が渡してきたものより多くの銀の粒が入っていた。
「これは過分な」
「遠慮はするな。こういう時は、遠慮をした方が非礼になるのだ」
それで曹羲は夏侯覇に興味を失ったのか、女の方に行ってしまった。それを見計らって、楊偉が隣に座ってきた。
「今日の戦は、夏侯覇殿の言った通りになりました。少しでも疑ってしまった自分を恥じております」
「李勝殿からは恨まれてしまいましたかな」
「救援要請を無視しましたが、あれは正解でした。現に我らが勝ったではありませんか」
「しかし一つの演習で勝ったくらいで、この盛り上がりは大袈裟ではありませんか」
「天下に響く司馬懿様の軍に、曹爽様の軍が勝ったのです。実態はどうあれ、世間からはそう見られます。これは我らにとって決して小さいことではないのです」
やはりそういうことか、と夏侯覇は思った。あれは兵を強くするための演習戦ではなく、曹家と司馬家の政争の一環だったのだ。演習前に見せた楊偉の熱意に疑いはないが、それもどこか白々しいものに思えてきた。
「行きます。やはり私には、ここより軍営の方が性に合っているようです」
名残惜しむ楊偉を尻目に夏侯覇は屋敷を出た。
渡された銀の袋を見て、趙雲を討ち取った時の王双を思い出した。大して喜びもせず、女のために髪飾りを熱心に選んでいたあの姿には妙な愛嬌があった。もう、十年も昔のことだ。あの頃にいた張郃や王双のような男は、洛陽の軍にはいなかった。
「よくお似合いじゃないですか、隊長」
軍営に戻ると顔をにやつかせた徐質が言ってきた。
「洛陽での用は済んだ。すぐに長安に戻る準備をしておけ。こんな衣はさっさと脱いでしまいたい。それとな、俺達は曹爽派になったようだ。一応覚えておけ」
「なんですかそれは」
「洛陽の馬鹿どもの目にはそう映るということだ」
軍営の方々で兵が騒いでいた。演習とはいえ勝利に大きく貢献できたことで、皆が興奮していた。実戦に参加したことのない氐族にとっても、この演習戦は良い経験になったはずだ。
この兵たちに銀を配ってやろうか。そう考えたが、やめておいた。兵たちの顔は十分に笑顔に満ちていて、銀を配ればこの笑顔が壊れてしまう気がした。
7-17
漢中の原野に二つの騎馬隊が交錯した。王平率いる漢中軍の騎馬隊と、成都から来た姜維の騎馬隊のかけ合いである。
「やるではないか、姜維」
「王平殿こそ、流石は前線に常駐する軍だけあります。成都の軍の腑抜け具合を思い知らされました」
そう言う姜維も、北方の羌族が出自だからか、馬術はなかなかのものだった。馬上での武器もよく使う。指揮官がしっかりしていれば、騎馬隊全体がそれに追従しようと努めて動きが良くなる。姜維の指揮はまだ成熟していない感があるが、それを補って余る技術があった。姜維の騎馬隊は実戦を重ねればかなり精強になるだろうと思えた。
北伐の時、諸葛亮は姜維を軍人としてではなく、羌族を懐柔するための使者として扱った。姜維の軍事的才能を見出したのは蔣琬だった。成都で馬岱と一軍を指揮していたところから抜擢し、蔣琬が成都軍の実戦指揮官に任命した。軍指揮だけでなく、いざとなれば羌族との交渉にも使える。悪くない人選だ。馬謖や李厳を使った諸葛亮よりも、蔣琬の方が人を見る目はあるのかもしれない。
「長安の騎馬隊といえば、将軍は夏侯覇ですね。夏侯覇と比べてみて、私はどうでしょうか」
姜維が馬を並べて聞いてきた。
「夏侯覇がどうと言うより、あの騎馬隊には張郃が生きていた時からの伝統がまだ生きていて、それがあの騎馬隊の力となっている。夏侯覇の指揮能力より、隊の組織力を気にしておいた方がいい」
「伝統、ですか」
「昔からの慣れた調練方法だとか、使い古した馬具。そんなものが兵の心を強くする。体を強くしても、心を強くしなければ強い軍はできん。お前も兵に誇りを持たせてやることだ」
「誇りを持たせる」
姜維は納得できないという顔で何かぶつぶつ呟いていた。今は分からずとも、時をかけてわかっていけばいい。
姜維の指揮は、調練をしていてはっとさせられることがあった。その動きは戦術書から導き出されるものではなく、姜維の感性から生まれるものだ。王平は、実戦経験から得た道理で騎馬隊を動かす。夏侯覇も多分そうだ。理は時に頭を固くし、柔軟性を失わせることがある。戦場で姜維の感性が夏侯覇の理を凌駕できれば大きな戦果を上げられるはずだ。
漢水に沿って西に馬を走らせた。廖化の兵が剣を鍬に持ち替えて地を耕している。廖化は北伐にも参加した古参の将軍で、兵の動かし方だけでなく屯田の方法も習熟している。漢水沿いの一帯に田畑を大きく開けと、大将軍となった蔣琬が号令したのだ。
漢中は魏との境にあり、商人は多いが、農民は戦禍を恐れて住み着こうとしない。実際に、八年前に魏軍が攻めてきた時には漢中が戦場となった。この地に田畑を開き、北方から流れてくる羌族や氐族を働かせ、蜀の国力回復の原動力とする。それが蔣琬の狙いだ。ここに住む漢族の農民は少ないため、異民族を入れても広都のように大きな問題にはならないはずだ。
蔣琬が成都から軍を率いてきたことで、どこか気の抜けていた兵の顔に生気が戻り始めていた。皆の心が戦に向かっているのだ。諸葛亮が死んで既に四年が経ち、その間に魏との戦はなく、蜀には平穏が訪れていた。その平穏さは蜀の民を惰弱にさせた。民の惰弱さは、そのまま軍の弱体化に繋がってしまう。蔣琬が出兵を決めたのは、魏との戦のためというより、蜀の民の心を一つまとめるという意味合いが強かった。
軍営に馬を繋ぎ、王平と姜維は漢中の政庁へと向かった。
「姜維の指揮はどうだ、王平。俺より上手いか」
「お前の百倍は上手くやる。大将軍の麾下としてなら今一つだが」
「そうか、俺の百倍か」
王平と蔣琬は、公の場でなければ昔と同じような喋り方をした。王平が大将軍の蔣琬に向かって皮肉めいたことを言うのを見て、姜維が顔を引き攣らせていた。
「魏との戦は、当分先か」
「長安を奪りに行くような大それた戦は予定していない。馬岱がやったように、陽平関から涼州まで騎馬を駆けさせ、貧困に喘いでいる者を糾合して漢中に移住させる。廖化が開いている田畑は移住者にくれてやる。それが今後の方針だ」
「当然、長安からは軍が出てくるだろうな」
「その程度の戦はやる。心配しなくとも、呉懿が馬岱にやったようなことを俺はせん」
馬岱を見殺したことで、漢中の軍人は呉懿に幾らかの不信感を抱いていた。戦を始めるならその不信感は払拭しておくべきだった。それで蔣琬は句扶に命じ、呉懿を密かに殺させた。姜維も、呉懿は病死したと信じ込んでいる。
「蔣琬様は羌族を懐柔する意図があって私を将軍にしているのでしょうが、私はあまり弁舌に自信がありません。北伐の時は、羌へ使者として参りましたが、良い結果は出せませんでした」
「一度、魏軍と戦しろ。そして、勝て。羌は必ずそれを見る。勝って力を示さねば、交渉で言い分を飲ますことはできん」
「長安軍司令官の郭淮は司馬懿の腰巾着のようなもので、大した指揮官ではない。長安に蔣琬がいると思ってみろ。怖くないだろう」
「なるほど、少し自信が出てきました」
「こら、そんな納得の仕方をするんじゃない」
冗談めいた話で笑っていると、李福が入ってきた。死んだ呉懿の側近だった男だ。
「廖化殿がされている開墾地からの収穫高を試算してきました。御覧下さい」
李福が姜維の体を押しのけるようにして、蔣琬に書簡を渡した。
「ふむ、まあまあというところか。開墾は今やっている所が終われば一時中断だ。廖化に伝えておけ」
「漢水沿いにはまだ田畑を開く余地があります。これで終わらせるのですか」
「開墾しても、働き手がいないじゃないか」
「羌から人を入れるために姜維殿がいるのではありませんか。何のためにこの方を将軍にされたのですか」
李福の言葉には、明らかに姜維に対する敵意が籠められていた。王平は眉を顰めてそれを聞いていた。
「涼州から人は連れてくる。だがそれにも限りがある」
「そうですか。一応、新しく開墾するに適した地を記載しておきました。これにも目を通しておいて下さい」
書類を置き、李福は退室した。蔣琬は置かれたものを一瞥し、卓の上に放り投げた。
「李福とはああいう男なのか、王平」
「呉懿が生きていれば、呉懿と共に幕僚の一人となっていただろう。自分がいるはずだった場所に姜維がいることを妬んでいるのだ」
それも漢族にではなく羌族に。思ったが、それは口には出さなかった。
「李福が作成した書類は分かり易く優れている。しかし性根に難ありか」
「優れていても、それは蜀のためではなく、自分の出世のための仕事だ。李福とはそういう男だ」
「覚えておこう。諸葛亮殿は人選を誤り、国難を招いてしまった。俺はその轍を踏むわけにはいかん。計算や図面を描く技術に優れていても、それでその者が優れていると言い切れないことはよくわかっている。兵糧の管理を上手くやる楊儀は、蜀にとっての害悪でしかなかった」
「姜維を将軍にしたのは、俺は間違いではないと思っているよ」
「私にはまだ何の実績もありませんよ、王平殿」
「実績があっても碌でもない奴はいるさ。南方の戦で手柄のあった馬謖は、街亭であっさりと張郃の軍に惨敗した。俺はあれほど諌めたというのに」
「馬謖のような者は、俺は選ばん。安心して戦場に向かうがいい」
諸葛亮は人材を、例えば梯子や手押し車の様な、自分の仕事を助ける道具だと思っていた節がある。人材には、心がある。それを見ようとせず、己の力だけで全てをこなそうとしたのが諸葛亮の誤りだった。蔣琬は周りの言うことを良く聞き、おかしなことを言う者を遠ざけた。これは蔣琬の、諸葛亮より優れている点だと言っていい。
「蚩尤軍の報せによると、長安の騎馬隊は洛陽に出向いている。遼東が叛乱を起こしたのだ。これに乗じ、王平と姜維には魏領を深く涼州まで入ってもらう。廖化を祁山まで出して後詰と兵站をさせよう」
王平と姜維は頷いた。
軍を陽平関に集め、涼州へ向かう準備が整えられた。王平と姜維がそれぞれ三千騎。廖化が一万の歩兵でその後方から続く。それで足りなければ、劉敏と杜棋が漢中軍を率いて駆けつける。悪くない構えだ。
出撃の直前に、姜維が李福に何か言われているのを目にして、王平は気になって馬を寄せた。
「兵糧は、一粒も無駄にするな。穀物は一粒一粒が文官の血だと思え。それを啜りながら軍人は戦をするのだ」
「わかりました」
「本当にわかっているのか。ただ飯喰らいは許さんからな」
「何をしている、李福。出撃の前に気を削ぐようなことを言うんじゃない」
李福は王平に少し目をやり、舌打ちをして去って行った。
「ありがとうございます、王平殿」
「何故、怒らんのだ。自分が羌族であることを気にしているのか。お前自身がはっきりと言わなければ、侮られるばかりだぞ」
姜維は黙って俯いていた。
王平はいきなり姜維に剣を抜き打った。何でもないように、姜維は自分の剣でそれを受けた。目は、死んでいない。
「今から俺のことは呼び捨てにしろ。目上への言葉も使うな」
王平は剣を収めながら言った。
「どういうことですか」
「俺たちはどちらも将軍で、年もほぼ変わらん。対等に話をしようではないか」
姜維が王平と親しくしているのを見れば、周りの者の姜維を見る目は変わってくるはずだ。
「わかりました」
「わかりましたではない。わかった、と言え」
姜維が頬を緩ませた。
「わかったよ、王平。気を遣わせて悪いな」
「それでいい。戦場で余計な遠慮をされて、全滅でもしたらたまらんからな。少しの気遣いが、勝ちを負けに変えることもある」
「お前もな。お前からはまだ学べることが多そうだから、戦場で簡単に死んでもらっては困る」
「言うではないか。戦場では、お前の指揮に期待するぞ」
出陣を告げる銅鑼が鳴らされた。二つの騎馬隊が、陽平関から西に向かって飛び出した。
下弁を抜け、祁山に向かって北へ馬首を向けた。馬岱がしたような隠密行動でなく、堂々と旗を掲げ、雍州の西に点在する氐族の村に存在感を示しながらの行軍だ。目に見えないところでは蚩尤軍が、苻健の一族が広都で良い暮らしをしているという噂を流している。
祁山を越え、南安に入った。そこまでは、魏の地方軍が申し訳程度に阻んでくるだけで、それは蹴散らした。漢中から出て程近い雍州の西側は、魏国の方針により荒廃しつくしていて、糧食などの奪えるものはほとんどない。守るべき財がなければ、強い軍はいない。
しかし、人はいる。漢中への移住を希望する者は、祁山に駐屯する廖化の軍が受け入れることになっている。
南安を越え、涼州との州境の手間までやってきた。目的は、羌の族長である宕蕈と会うことだった。王平は宕蕈に使者を出して敵意が無いことを伝え、涼州の玄関口である楡中に入った。漢中と違い、楡中の街は緑が少なく土の色をしていた。雨が降ることが少ないのだ。
六千の騎馬を楡中の郊外に駐屯させ、宕蕈の待つ屋敷に行った。
「久しいな、姜維。最後に会ったのは、魏と戦をしていた四年前か」
宕蕈の髪は縮れていて楡中の街のように茶色く、目は姜維のように彫が深く、羌族の地に来たのだと王平は実感した。
「俺のところに来たということは、また魏と戦をするということかな」
「そうではありません。漢中で大規模な開墾があり、そこでの働き手を求めているのです。どうか、人を出してはくれませんでしょうか」
「人がいないのに、田畑を開いたというのか。蜀国は戦で人が減っていると聞いていたが、それは本当のようだな」
「これは、蜀と羌の友好のためです。羌族の私が蜀軍にいるのもそのためではありませんか。どうか先ず、そこをご理解ください」
「魏が蜀を攻めるとしたら、先ず漢中だろう。俺は族長として、一族の者をそんな危険な場所に送り込むわけにはいかん」
王平は二人の会話をじっと聞いていた。
「しかし蜀は天険に守られ、いかに魏の大軍であろうと容易に攻め込むことはできません」
「それも知っている。しかしそれが我が一族を蜀の最前線に住まわせる理由にはならん。成都に近いより安全な地と言うのならまだ考えていいが」
姜維が黙ってしまった。なるほど姜維の弁舌は交渉事には向かない。
「宕蕈殿の申されることは尤もです」
「王平殿と言われたか」
「羌族は涼州を母なる地にしていると言えど、建前では魏国に属しており、魏と敵対する蜀と勝手に交誼を結べば長安の郭淮から何を言われるか分かりません」
宕蕈の顔色が少し変わった。
「その通りだ。あの男はなかなかに五月蠅いことを言ってくる。それでも俺に人を出せと言うか」
「どこにでも人の手に余る者がいます。例えば乱暴者だとか、嘘をつく者だとか、罪を犯して牢に繋がれている者。そういう者を漢中で受け入れましょう」
「羌のならず者を寄越せと言うか」
宕蕈が腕を組んで考え込んだ。姜維の言葉よりは、確実に手応えがあった。
「王平殿の提案は、正直有り難い。ならず者を受け入れてくれることがではなく、その心遣いが有り難い。しかし、やはりそれはできん」
「魏軍を恐れますか」
「戦場で俺一人が死ぬだけならいい。一族が魏軍に蹂躙されることが恐ろしいのだ。蜀軍が魏領に侵入していることで、長安の軍は既に動いているだろう。それがこの楡中に向けられないとは言い切れん」
「司馬懿率いる魏軍の精鋭は、遼東に行っているのです」
姜維が言い、王平がそれを手で制した。
「雍州西方に棲む氐族は、困窮により漢中に移住しようという者が少なくありません。氐とは違い、羌の地には一定の豊かさがあるのだとわかりました」
「氐族の地は漢中に近いというだけで、何の罪もないのに絞られていると聞く。憐れなことだ。どれ程が、漢中に移る」
やはり食いついてきた。隣に棲む異民族の動向が、気にならないはずはない。
「五万を目指しております。魏軍の妨害があるでしょうから難しいことだとは思いますが」
「五万も。氐族には父祖の地への誇りというものがないのか」
「それだけ貧しいということです。貧しさは、人の心から誇りを奪います」
氐族が蜀と結んで魏に反旗を翻せば、雍州の西半分が蜀領になり、涼州の玄関口である楡中は国境を接する最前線となってしまう。口には出さないが、宕蕈はそのことを気にしているはずだ。
「すまんが、羌は氐のように蜀に力を貸すことはできん。しかし話し合いの場は持ち続けたい。いつまで楡中に滞在できる」
「長安軍が近づいているでしょうから、この話し合いが終わればすぐにでもここを離れなければなりません」
「わかった。漢中へ、俺から密かに使者を出そう。もしかしたら人手を出せるかもしれん」
「有難うございます。今は、その言葉だけで十分ここに来た甲斐があります。これで大手を振って漢中に帰れます」
王平と宕蕈は手を取り合った。
「郭淮から、蜀軍を攻撃しろという通達が来るかもしれん。すぐに軍を退いてくれ」
「そうすることにします」
王平と姜維は屋敷を出て、かなり日が傾いていたが楡中から南へ引き返した。南安から祁山に向かう道中で、斥候を放ちつつ野営した。
北方の夜の風は冷たい。外套に身を包み、焚火で温めた兵糧を啜って寒さを凌いだ。
「俺は情けないよ、王平。交渉で何の役にも立たなかった」
「そんなことはない。お前がいてくれたお蔭で交渉ができたのだ。俺一人で行っていれば、捕らえられて郭淮に首を送られていたかもしれん」
「北伐の時もそうだった。俺の交渉はいつも上手くいかん」
「わかっている。お前の交渉下手は、蔣琬もよくわかっている。だから俺が楡中に同行したのだ」
「はっきりと言ってくれる」
火に照らされた姜維の顔がむっとした。
「怒るな、姜維。不得手なことは誰にでもある。不得手なことを認めず、無理に押し通そうとすれば必ずおかしなことが起こる。俺は字を読めないことを受け入れてしまっているよ」
姜維が顔を和らげ、折った枝を焚火に放った。焚火がぱちりと音を立てた。
その音に重なるように、金属を鳴らす音が聞こえてきた。句扶。王平が呟くと、闇の中から浮かぶように、焚火に照らされた句扶の顔が現れた。蚩尤軍に慣れていない姜維がそれに驚いた。
「郭淮の率いる長安軍三万が西進しています。祁山まで、あと二日で到達します」
「意外と早かったな。それで、騎馬隊は」
「夏侯覇は洛陽に行っていたらしく、出遅れています。早くて、郭淮の到着から一日遅れというところです」
「一両日、敵に騎馬隊はいないか」
魏軍三万と、蜀軍二万千ということだ。兵力では劣るが、騎馬隊を上手く使えば戦えないことはない。現場での決定権は、蔣琬の幕僚内で武官筆頭となった王平にあった。
「魏軍の後詰を詳しく調べておいてくれ」
句扶が頷いた。遼東に主力を出しているからといって、巨大な国土を持つ魏の底力を甘く見てはいけない。句扶の姿が闇に消えていった。
王平は劉敏に後詰を要請する伝令を出し、兵の体を冷やさないようしっかり火を熾し、睡眠を取らせた。そして夜明けと同時に出発した。
北にやっていた斥候が、宕蕈が兵を集めていると報せてきた。やはり郭淮が羌に手を打ってきた。王平は馬を駆けさせながら、頭の中の地図に羌族の軍を描き加えた。
祁山に布陣する廖化の歩兵一万は、地形を考慮した見事な陣を組んで王平の帰還を待っていた。さすがは古参の将軍だと、王平は馬上からその陣を眺めて感心した。
祁山の本陣に、姜維と二人で入った。
頭髪と口髭を白くした眼付きの鋭い廖化が、王平を見て筋骨隆々の腕を拱手させた。昔、荊州で仕えていた関羽という将軍が呉に討たれた時に、全ての毛が白くなってしまったのだという。兵でも将でも、一度死線を潜り抜けた男は強い。
「良い陣だ、廖化。いつでも開戦できそうだな」
皺を刻ませた廖化の顔がにやりとした。老いてはいるが、心までは老いていない。魏軍と戦う気を満々とさせている顔だ。古参とはいえ呉懿のような陰気さはなく、年若な王平の言葉にしっかりと従ってくれる。蔣琬の人選がここにも光っていた。
「軍団長、羌が魏軍に呼応したようですが」
「指揮官の宕蕈に戦意はない。魏につくべきか、蜀につくべきか迷っているのだ。ここで魏軍をうち破り、羌に蜀軍の強さを見せつけておく必要がある」
廖化が満足そうに大きく頷いた。
「廖化は、羌の軍を押さえてくれ。これは格好だけでいい。郭淮が廖化の側面を突いてきたら、俺と姜維がその足を止める。漢中から劉敏が到着したら一挙に攻勢に出る。その時は羌の軍を無視し、長安軍に矛先を向けてくれ」
「もし、宕蕈がやる気を見せたら」
「潰す。劉敏に郭淮を押さえさせ、俺が一直線に宕蕈の首を奪ってきてやる」
「御意」
「俺と姜維は、劉敏の後詰が来るまで時を稼ぐ。一日遅れで夏侯覇の騎馬隊が来る。それまで郭淮の三万を翻弄してやるぞ」
軍議を終え、廖化が歩兵を動かし始めた。続報によると、羌軍は騎馬五千。これが郭淮の歩兵と連携されれば厄介だが、それは考えられない。廖化の一万を当てておけばいい。
郭淮が数を頼んで押してくれば一番良かった。深く引き込み騎馬で退路を断ち、劉敏の漢中軍をぶつけてやれば勝てる。逆に距離を取られて守りの陣を布かれたら困ることになる。大軍同士での対峙となれば、多くの兵糧を消費することになる。今の蜀にそれはできなかった。
明確な勝ちが欲しい。その勝ちを、氐族や羌族に見せておく必要がある。魏軍と干戈を交えず漢中に帰ることは負けに等しい。整然と移動して行く廖化の軍を眺めながら、王平は郭淮を誘い出す策を考えた。
魏軍が攻めてくれば、負ける気はしない。馬謖や楊儀のような、足を引っぱる男はこの軍内にはいない。それは人を整えた蔣琬の仕事の成果だ。
7-18
騎馬隊を欠いていた。郭淮は三万の歩兵で長安を出て、氐族の居住区である雍州の西へと進んでいた。漢中から出てきた騎馬隊六千は、南安を通り涼州に入って羌族と接触しているようだった。その後ろには一万の歩兵が続き、祁山に陣取り魏に恨みを持つ氐族を糾合していた。
前に馬岱がやったことと同じことをしている。魏に搾取される氐族を蜀国内に移し、人頭を増やすことで国力の向上を狙っているのだ。前の蜀はそれを戦に発展させないよう馬岱に賊を装わせたが、今度は蜀軍としての出兵を隠そうともしていない。呉懿に代わって漢中に来た蔣琬がどんな人物なのか、この一事で少し垣間見えたという気がする。
羌の族長の一人である宕蕈が蜀軍の王平と何かを話し合ったと、楡中に潜らせている者が報せてきた。それからすぐに宕蕈からの使者が来て、蜀の武官から漢中に人を出せと言われたが断ったという説明を受けた。羌は形の上では魏に従属しているが、この言葉はどこまで信用していいかはわからない。
郭淮は長安に赴任してからというもの、異民族を統治する難しさにずっと悩まされ続けてきた。中央から言い渡されている方針は、氐族は搾取、羌族は懐柔だった。涼州の広大な地域に住む羌族は伝統的に中央に対する反抗心が強い。これを力で抑えようとすれば魏に背いて蜀に走りかねず、かといって甘く扱えば侮られてこれも魏に背く要因となりかねない。
郭淮は宕蕈に、蜀軍を迎撃する軍を出せという命令を返答として送った。無論、この羌軍は戦場では信頼できない。魏への忠誠を明らかにさせることと、蜀と反目させることがその主な狙いだ。
雍州の西に住む氐族に軍はない。過酷な税を課して富と力を奪い、軍の保持すら許していないのだ。雍州の西に富を残しても陽平関から蜀軍が出てくればこれを守るのは難しく、守れなければここには始めから奪われるものを置いておかなければいい。これは洛陽にいる曹爽を中心とする廷臣の考えだ。当然、氐族の心には魏への忠誠心や愛着などあるはずもなく、蜀に誘われれば風に吹かれた麦の如く一斉に靡くだろう。
氐族からの搾取は洛陽の貴族に一時の富をもたらすだけで蜀軍に付け入られる隙を与えてしまい、それを迎え撃つため搾取したものより多くの富を消費し軍を動かすことになる。その消費の責任は洛陽の貴族にではなく、雍州を宰領する自分に帰することになるのだった。郭淮は軍を西に動かしながら、何度も天に唾したくなる思いに襲われた。富が溢れる洛陽で銭に溺れていれば、西に遠く離れた地のことなど見えなくなるのだろう。人の暮らしを豊かにする富が人の心を惑わし、その惑いが国難を招いて人の暮らしを破壊する。この国はそうして歴史の上に滅びを重ねてきたのではないのか。
冀城に入り、斥候からの報告に接した。楡中から出てきた羌軍が五里を開けて蜀軍と対峙したと報せてきたのは、長安に着任してから間もない校尉だった。
「この一万は、きょ、羌軍と向き合っていますが、戦意はありません。敵将であるりょ、廖化は、離れた我ら長安軍三万を見ております」
「何故そう思う、鄧艾」
司馬懿が遼東に赴く前、使ってみろと送ってきた校尉だった。年は夏侯覇と同じ程で、暇さえあれば雍州の地図上に駒を動かし一人でぶつぶつと何か言っていた。そして、吃音だった。
「蜀軍歩兵と羌軍の間は、水捌けが悪く泥濘になっています。また廖化は柵を、馬止めの柵を二重に組んでいて、自分が羌軍ならこれを攻めません」
「廖化は守りを固くし、自ら攻めて羌軍を撃破する気はないと見たのだな」
「そうです、それと」
鄧艾が中空に指で図を差す仕草をした。
「こ、ここに廖化の一万がいます。そしてここに三、三万の長安軍。間には、遮る物が何もありません」
「我らを誘っていると言いたいのか」
「はい」
やや挙動不審ではあるが、おかしなことは言っていない。ただ吃りのせいでいちいち確認しなければならないのが煩わしく、司馬懿の勧めがなければ使っていない男だった。
「引き続き、廖化の陣を見ていろ。何かあればすぐに報せてこい」
返事と共に鄧艾が出て行った。
夏侯覇率いる長安軍騎馬隊の到着は、二日後か、早くて明日だ。夏侯覇を待たなくても、既に兵力ではこちらが勝っている。漢中からの増援が来る前に叩いてしまうか、守りを固めて蜀軍に無言の圧力を与え続けるか、指揮官として選ばなければならない。
兵力差を不利と見て蜀軍が退いてくれればそれが一番良い。避けるべきことは、このまま対峙を続けて多くの兵糧を消費させてしまうことだ。魏は蜀と違い遼東にも大軍を出し、一年を予定しているその遠征で消える兵糧は決して少ないものではない。また呉とも南東で戦線を抱えている。雍州の戦線だけで魏国の力を消費できるわけではないのだ。
馬上で郭淮が策を決めかねていると、外の廊下から荒々しい足音が近づいてきた。それだけで誰が来たかわかり、郭淮はうんざりした。
戸が音を立てて開いた。
「郭淮殿、俺に一万を与えてくれ。羌軍と対峙する一万の蜀軍を横撃し、蹴散らして来てやる」
郭淮は軽々しく言う牛金を睨みつけた。牛金の立場は郭淮の副将だが、大将を助けるというより張り合おうという気持ちの方が強い。
「漢中からの援軍が来る前に打撃を与えておくべきだ。諸葛亮が攻めてきた時の様に長い対峙ができないことは、郭淮殿はよくわかっているはずだ」
「斥候から、あれは誘いだという報告があった。廖化の一万は羌軍に備えているように見えて、長安軍に備えているのだ。廖化の陣取る地は泥濘で、羌軍の助けが期待できる場所ではないのだ」
「斥候とはあの鄧艾とかいう吃りのことか。雍州に来たばかりの者に何がわかる。兵力で勝るこの局面で蜀軍を眺めているだけなら羌は我らを嘲笑して侮り、蜀に靡こうと言い出す者は必ず出る。それは防ぐべきことであるはずだ。あの鄧艾とかいう新参者は、そこまで理解して郭淮殿に進言しているのか」
牛金の言うことはわかる。羌が魏に従っているのは長安に強力な軍があるからであり、この軍が弱兵だと思われてしまえばこの先の懐柔策に必ず支障がでる。羌に用いるべきものは義や理などではなく、より強い力だということは郭淮が一番よくわかっている。
その点で、牛金の言っていることに間違いはない。
「羌軍を督戦するため、南安の地方軍に出動命令を出している。数は、三千。牛金は一万でこの三千と合流し、羌軍と協力して一万八千で廖化の陣を北から攻めろ。俺は二万で東から攻める」
牛金の顔が喜悦に満ちた。その露骨さも、郭淮にとっては快いものではなかった。
「無理押しはするな。蜀軍にはどんな備えがあるかわからん。漢中からの増援が来て兵力が拮抗する前に、我らの強さを蛮族どもに見せつけてやれ」
「任せてくれ」
牛金が力強く両の手を合致させた。
言ったものの、小勢でありながら退こうとしない廖化の歩兵が不気味だった。これは単なる強がりなのか。羌や氐に軍の強さを見せつけなければならないのは蜀も同じだというのはわかる。しかし一万を四万近い軍で包囲されるというのに一歩も退かぬということがあるのか。誘いかもしれないという鄧艾の言葉がひっかかった。漢中からの増援が来るまでまだ二日程の有余があり、その頃にはこちらも夏侯覇の騎馬隊が到着している。廖化の一万を大軍で締め上げ、外からくる王平の騎馬隊を固く防げば、蜀軍は魏軍に終始劣勢だったと異民族に印象付けることができる。そうなればこの戦は勝ちだ。何か策があるかもしれない蜀軍を無理に攻めて大きな犠牲を出すことだけは避けなくてはならない。受身的な消極策に終始し魏軍は弱かったと天下に印象付けてもいけない。羌の目からも、洛陽の目からも、自分が指揮するこの戦いは注視されているのだ。
まだある迷いの中で方々の小隊長に伝令が飛び、進軍が開始された。一度始めてしまえば迷いを持つべきではなかったが、郭淮にはそれができなかった。野戦の名人だった張郃が生きていてくれればと、大河のように流れる兵の動きを馬上から眺めつつ思った。
長安軍が動いた。その報告を受けて王平は膝を一つ打って馬に飛び乗った。麾下の三千と姜維の隊も続いて乗馬し素早く隊列が整えられた。
「あがるなよ、姜維。寄せては返すの誘いでいい。劉敏が到着するまで廖化の一万を守り切るのだ」
「わかっている。お前こそあがるなよ、王平」
姜維の隊が先発した。
姜維にあがっていると言われ王平は苦笑した。戦ばかりの人生で遂に一国の軍権を預かるまでになり、知らぬ間にあがっていたのを姜維に見抜かれたのかもしれない。
王平も馬腹を蹴った。
廖化の一万は北に向かって羌軍と対峙している。それを別方向から攻めようと長安軍が東から迫ってきていた。
雍州の風が、馬上で火照った王平の体を通り過ぎていく。交戦開始の報は、漢中へと連なる山から山へと狼煙によって伝えられ、もうかなりの所まで劉敏は近づいてきている。この通信の速さで郭淮の計算を狂わせることができれば長安軍に大きな打撃を与えられるはずだ。廖化が囮となるべく前進し、長安軍はそれに釣られてまんまと出てきた。騎馬隊を率いる王平と姜維のやるべきことは、劉敏が来るまで廖化の一万を守りきることだ。
郭の旗を掲げる歩兵が見えてきた。姜維がそれに突っ込む構えを見せ、矢が届く手前で馬を返した。前列が姜維を追おうと前に出て陣が崩れかけ、郭淮がそれを呼び止め陣を立て直している。それでいい。王平は風切る顔で呟いた。
王平の三千は郭淮の二万を大きく迂回し、戦場の北側に出た。牛の旗を掲げた一万が回り込んで廖化に攻撃をかけている。王平は敵の矢が届く線の手前を平行に駆け、初撃の矢が落ちるのを見計らって大きく踏み込み連弩を放った。連射された六千の矢が魏軍に吸い込まれていく。そして敵の二矢目が来る前に離脱した。
宕蕈率いる羌軍は牛金の後方にあってまだ動きを見せていない。この五千騎が牛金と合力し、廖化の柵を倒しに来られたら厄介だった。牛金はそれを狙っているのか、縄を持たせた兵を柵に取りつかせようとし、廖化がそれに矢雨を浴びせていた。
郭淮も東から攻撃をかけ始めた。二万の半数を割き、一万が防壁の如く構えて姜維の騎馬隊を防いでいる。王平はもう一度牛金に攻撃する構えを見せて離れ、その勢いのまま横に伸びた一万の防壁を背後から襲った。突きだされる戟を払い、伸びきって薄くなった壁に穴を穿った。それに合わせて姜維も突っ込み壁の一万を散々に崩した。
乱れた一万を横目に王平は、馬上から眺めて郭淮の姿を探した。廖化を攻撃する側の一万に郭の旗が見えた。王平は馬首を巡らし弩を放って郭の旗を目掛けて突っ込んだ。さすがに抵抗が強く深くまでは食い込めない。体勢を整え直した半数が戻って来る前に王平はこれを離れ、辺りを見渡した。合わせて突っ込んでくるかと思った姜維の騎馬隊がいない。
「姜維はどこに行った」
叫んだが、それを報せる伝令は来ていない。まさか、離反。その二文字が頭をよぎった時、廖化の陣の西側から魏の軍勢がわっと湧いて出て、王平は全身が粟立った。牛金を放置し過ぎた。三方からの攻めとなれば、廖化の陣のどこかが破れてしまう。
その伏兵が見上げる丘の上に、騎馬隊がぬっと現れた。姜維の騎馬隊だ。そのまま坂を駆け下り逆落としの勢いで伏兵の横腹にぶつかった。姜維はその一撃で指揮官の首を奪って剣の先に掲げて勝鬨を上げ、伏兵は算を乱して逃走し始め西からの脅威は除かれた。
「よくやった、姜維。どうして敵があそこにいるとわかった」
馬に呼吸を整えさせながら聞いた。
「あそこに来られるとまずいと思った。だから、行ってみた。そうしたらやはりそこに敵がいたのだ」
敵の返り血を拭いながら、姜維が何でもないように言った。姜維の中に眠っていた非凡さが出たのだと、王平は思った。
「引き続き、お前は郭淮をやれ。俺は牛金に行く。劉敏が到着するまでもう少しだ」
姜維は頷き再度郭淮の陣に向かった。率いている三千は、ほとんど数を減らしていなかった。
弩を撃ち込んだ蜀軍の騎馬隊が離れて周囲からの圧迫がなくなったことで、牛金は手勢の一部を割いて敵の西側に回したようだった。
宕蕈は五千の騎馬を抱えながらその戦況を後方から眺めていた。牛金からの督促は来る。その度に宕蕈は地面が泥濘であることを理由に拒んだ。素直に言うことを聞いていればどんどん要求を大きくしてくるような奴らだ。魏と蜀の戦で、羌の者は一人でも死なせなくはなかった。
一騎、牛金の陣から駆けてきた。
「宕、宕蕈殿。攻めに、あの柵の攻めに御加勢ください」
最近長安に来たという、何故か早く喋ろうとして言葉につかえる妙な男だった。戦ばかりで人が死に過ぎ、魏にはこういう者しか残っていないのだろうと、宕蕈は心の中で嘲った。
「下は泥濘で上は矢雨だ。あんな所に騎馬を入れられるか」
「敵陣の西側」
言って鄧艾は指差した。
「に、西側に手勢を回しました。あの矢はすぐに弱くなります」
「泥濘はどうする。騎馬が足を使えなければ、戦場では良い矢の的になる。それに我が羌軍が動かずとも、魏軍は数で勝っているではないか」
嘲笑気味に言ったその言葉に、鄧艾は黙って俯いた。顔に暗さはない。どうしたら相手のことを説得できるか考えている顔だと思った。
「あの、あの柵だけでいいのです」
柵は二枚作られている。地に材木を打ち込んで縄で組んだ簡易なものだが、下の泥濘と相まってかなり攻め難い陣になっていた。
「それはわかっている。蜀将廖化も無論、あの柵の重要性はわかっている。無理に攻めれば強い反撃がくるぞ」
宕蕈は新兵を諭すような口調で鄧艾に語りかけた。
「縄を、私がかけてきます。大盾を頭上に掲げて」
鄧艾が無表情で俯いたまま言った。
「宕蕈殿は、その、その縄を馬で曳いてください。それなら矢は届かないはずです」
この案ならば羌軍に被害はでないだろうし、魏軍を助けたという事実を作ることもできる。宕蕈は腕を組んで顎鬚を撫でながら鄧艾の顔を見つめた。目に下卑たところは無い。この男、吃音ではあるがなかなか考えているようだ。
「縄を曳くだけなら問題ない。特に力の強い馬を回そう」
「では、牛金殿にそれを伝えます。ごぶ、御武運を」
鄧艾が戻って行き、大盾を持った三千が前に出た。そこに廖化の陣から大量の矢が降ってきた。鄧艾が自ら大盾を持って矢を受けながら兵を奮励し、泥に足を取られながらも前進を続けた。大盾と大盾の隙間から矢が入り込んで兵に命中し、大盾の集団が進んだ後の泥濘に倒れた兵が点々と残った。陣に近付く程に矢に当たる兵が増えていく。
鄧艾が言っていたように、敵陣から来る矢の勢いが不意に弱くなった。それを機と見たのか鄧艾が大盾を放り出し鉤のついた縄を抱えて走り出すと、それに続いて兵たちも柵に殺到し幾つもの鉤がかけられた。
「騎馬隊、前へ。鄧艾の奮戦を無駄にするな」
宕蕈は手を大きく振って進み、泥に塗れながらやってくる魏軍の兵から縄を受け取った。ふと敵陣を見ると矢の勢いが盛り返し始めていて、幾つかの矢が宕蕈の近くに落ちた。西側に回した牛金の別働隊が迎撃されたのかもしれない。
「曳け、この地は柔らかい。柵はすぐに倒れるぞ」
柵にかけられた縄がぴんと張った。矢雨の中を、大盾の兵が退いてくる。宕蕈の騎馬隊は水牛の如く足元の泥を掘りつつ縄を引っ張った。
柵が傾き始める。蜀の兵が前に出て来て縄を斬ろうとしていた。そこにお返しとばかりに魏軍の矢が降り注いだ。
幾つかの縄が斬られてどさりと音を立て地に落ちたが、柵は傾き続けて遂に防備の用を為さなくなるまでに崩れ、魏軍の陣から喚声が上がった。
「感謝します、宕蕈殿。もう一段の柵を除けばあの一万に勝てます」
具足に矢を突き立てた鄧艾がやってきて興奮気味に言った。興奮しているせいか、吃音が消えているのが妙におかしかった。
鄧艾の大盾部隊が再度前に出た。二枚目の柵を倒して魏軍が雪崩れ込み、乱戦にもっていけば兵数で劣る蜀軍に勝ち目は無い。王平や姜維に恨みはないが、ここは魏軍の勝ちに便乗して一族の安寧を確保するべきだ。
大盾部隊が何故か歩みを止め、鄧艾が泥濘地に足を取られながら息を切らせてやってきた。顔を青ざめさせている。
「撤退です、宕蕈殿。祁山方面から蜀の大軍が出現しました」
「なんだと」
大盾部隊が後退してくる。他の部隊も攻撃を止め、撤収の準備を始めていた。
宕蕈は片手を上げ、楡中に帰還するよう部下に指示を出した。こういう決断は速い方がいい。ここに長居していれば、また郭淮から何を言ってこられるかわかったものではない。
騒然となった魏軍を尻目に宕蕈は五千を率いて戦場を離れた。鄧艾を助力することで郭淮からの命令はやり遂げた。幸いにも、蜀軍の兵とのぶつかり合いはなかった。漢中に出す使者には何と言わせようかと、宕蕈は馬上で考えていた。
7-19
戦場の南方から砂埃を巻き上げながら漢中軍三万が出現すると、廖化の陣を攻めていた郭淮は兵をまとめて後退し、別方向から攻めていた牛金も廖化の陣を諦め退き始めた。羌の騎馬隊が速やかに北へと去って行ったと聞いて、これは宕蕈からの蜀とは争うつもりはないという意思表示だと、王平は思った。
二手に分かれていた長安軍が合流する前に攻撃をかけろと、王平は廖化に指示を出した。柵の中に籠っていた廖化の一万が喚声を上げて陣から飛び出し、牛金の兵に襲いかかった。
後方からは劉敏の漢中軍三万が迫り、王平と姜維の騎馬隊が突撃の構えを見せると、長安軍三万は廖化の一万に押されるようにして退いていった。これは潰走させることができると、王平は確信した。
「押せ、押し切れ。隴西に蜀軍の武勇を見せつけるのだ」
この出兵の目的は長安軍を討滅することでなく、この地に住む氐族とさらに北に居る羌族を味方につけることだ。それには言葉で諭すより、こうして力を見せつけてやるのが一番早い。
白髪の廖化が鬼の形相で怒声を上げ、兵は尻を叩かれた馬のように力強く前進した。廖化が声を上げる毎に蜀軍は一歩進み、魏軍は一歩下がった。劉敏の三万が半里まで近づいてくると、長安軍は一部を殿軍に残して冀城に向かって走り始めた。殿軍には牛の旗が立っている。
「よくやってくれた、劉敏。思っていたよりずっと早かった」
「長安軍が動いたという報が入るとすぐさま蔣琬殿が軍を陽平関から出しておくよう指示を出しました。それで狼煙を確認すると同時に出動することができたのです」
それでもかなり無理をしたのだろう。漢中から走り通してきた兵の顔は獣のようになり、口から涎を垂らしながら肩を激しく上下させていた。
「戦の大勢は決まった。あとは廖化に任せて兵を休ませておけ」
この援軍三万は出現しただけで長安軍を怯ませ後退させた。それで十分に役目を果たしたと言っていい。
「杜棋が馬を下りて自らの足で兵の先頭を走りました。あとで声をかけてやってください」
劉敏が指した方に目をやると、兵と同じように目を血走らせた杜棋が声を枯らして兵に檄を飛ばしていた。
王平は遠くで待機していた姜維に手を振って指示を出した。しばらく休んで力を取り戻した馬が地を鳴らして駆けて行く。王平も馬腹を蹴り、姜維の後に続いて牛金の殿軍に向かった。
魏軍の兵は小さく固まり戟を突き出している。王平と姜維はそれを挟むように馬を駆けさせ連弩を放ち、矢で乱れたところに廖化の歩兵がぶつかった。
河の急流が岩壁を浸食するように魏軍は徐々に数を減らしていき、廖化の鬼のような攻めに耐えきれなくなると潰走が始まった。逃げる魏兵を蹄にかけて剣で突き、容赦なく追い討った。
夕刻まで追撃し、王平は撤収の命を下した。雍州西方の原野に散乱した魏兵の死体に鳥が集まってきている。氐族は必ずこれを目にし、或いは人から聞き、蜀軍は魏軍より強いと思うに違いない。
殿軍を攻めていた廖化が敵指揮官の牛金を捕縛していた。後ろ手に縛られた牛金が胸を張りつつ王平の前に曳き出されてきて、敗軍の将らしからぬ態度で王平の前に跪いた。
「殺せ」
その潔さに王平は口元を緩ませた。
「そうは言うな、牛金。つまらん戦だったと思わんか。総指揮が司馬懿であったなら、我らはこうも簡単に勝つことはできなかった」
郭淮だから負けたのだと言外に伝えて慰めた。牛金は、ただ黙っているだけだった。
「戦下手な郭淮が逃げ、殿軍として勇敢に戦ったお前が殺されるなど、つまらん戦ではないか」
「俺をどうしようというのだ」
その沙汰については漢中にいる蔣琬の決定に任せることにしていた。すぐに殺すには惜しい男だと思った。蔣琬も、殺せとまでは言ってこないだろう。漢中に連れて帰り魏軍の内情を聞き出すために、蚩尤軍が体に聞くということはするかもしれない。
「お前は漢中に連れて帰る。悪いがしばらく長安には帰せんぞ」
牛金は舌打ちをして顔を背けた。それでも観念したのか、言葉を荒げることなく王平に従った。
王平は兵をまとめて南へ進み、祁山で野営を命じた。
蜀軍の戦勝を聞いた氐族の老若男女が漢中への移住を求めて祁山に集まってきている。その数はかなりのもので全てを連れて行くわけにはいかず、壮健な男は廖化が選別し、それ以外は劉敏が受け持ち、問題を起こしそうな者は除外した。除外されて文句を言う者に対しては王平が自ら騎馬を率いて祁山の軍営から追い払った。
漢中への移住者をまとめた第一陣を杜棋が指揮して漢中へと発した頃に、蔣琬からの使者がやってきた。牛金の処置についての書簡を手にした劉敏が、暗い顔をして王平に会いに来た。
「この戦は後味の悪いものになってしまうかもしれません」
「牛金の首を落とせと言ってきたか」
劉敏は王平の心情を察しており、言い難そうに頷いた。
「読み上げます。氐族には魏に対する積年の恨みがあり、魏の将を衆目の下に弑することでその恨みを灌いでやるべし」
それに続いて牛金を処刑する戦略的意味と、その具体的な方法が長々と書かれてあり、劉敏は一気に読み上げた。
「それが蔣琬の判断か。まるで老いた文官のようではないか」
蔣琬の迅速な判断により劉敏の到着が早まり、長安軍を追い払うことができた。その武人的な決断力に、同じ武人である牛金への同情を期待していたが、蔣琬の決断は牛金の命を使って氐族の人気を獲得しろということだった。読み終えた劉敏は、ただ黙って王平の言葉を待っていた。
「磔の準備をしろ、劉敏。俺は牛金を連れてくる」
「王平殿、まさかとは思いますが」
劉敏は遠慮がちに言葉を切った。それだけで言いたいことはわかる。
「魏延殿の時のように逃そうとは思っていない。俺はそこまで若くはない。余計な心配をしていないでさっさと準備をしろ」
吐き捨てるように言い、王平は縄に繋がれた牛金に会いに行った。縄で繋いでいるといっても手足の自由は多少は効き、食事もきちんと与えているため血色は良く、王平を目にした牛金は白い歯を見せてきた。
「戦に勝ったというのに暗い顔をしているではないか、王平殿」
言われて王平ははっとし、牛金を睨みつけた。
「お前の処刑が決まった」
「そうか」
そう言うだけで、牛金は意にも介していないようだった。
「甘いな、王平殿。戦に勝ち、敵将を討とうというのに何を迷うことがある」
「俺はお前を漢中に連れて行くと言った。それはお前がつまらん軍人ではなかったからだ。用が終われば長安に帰してもいい」
「それは残酷なことだ。帰すとなれば俺に魏軍の事情を喋らせるのだろう。拷問もするのだろう。色々と喋らせた後で、俺にどういう顔で長安に帰れというのだ。あんたのやろうとしていることは、毒で汚れた井戸の中に俺の体を投げ込むのと同じことだ。それも、善意でやろうとしている。王平殿は将帥の器ではないのかもしれないな」
笑いながら辛辣なことを言う牛金の尻を、縄を持った兵が蹴り飛ばした。王平は、牛金の言うことに何も言い返すことはできなかった。
氐族の集まる野原に牛金の体を縛りつけた棒が立てられた。これが魏軍の将だということは氐族の間に伝わっており、氐族の怨嗟の声が磔にされた牛金の体に浴びせられた。
「この者は氐から搾取を行い虐げ続けた魏国の臣である。我ら蜀軍は氐を困窮から解放するために魏軍と戦い、この者を捕らえた」
劉敏が蔣琬からの指示通りに台上でそう叫ぶと氐族の喜ぶ声が上がり始め、二声、三声と上げる度にその興奮は高まっていった。やがて牛金に石を投げつける者が出だした。
せめて自らの手でと長柄の戟を手にすると、廖化の力強い掌が王平の肩を掴んできた。
「あの者は私が戦場で討っておくべきでした。それを無用の功名に走り、二人の武人に恥をかかせることになってしまった」
廖化はそう言い手にあった戟を力任せに奪った。
「いらぬ気遣いだ、廖化。これは俺の命令によって行われているのだ」
廖化は無骨な顔を微笑ませるだけで戟を返そうとはしなかった。それは凄みのある微笑みで、王平は思わず気後れた。
「軍団長だからといって全てのことをしようと思われないことです。このような汚れ仕事は老い先の短い老人にでもやらせればいいのです」
廖化はつかつかと歩いていき牛金を足下から見上げ、何かを二言三言と交えると、戟を高く構えて鋭い刃を牛金の首に滑らせた。血を脈打って吹き出させた牛金の体は一つ痙攣しただけですぐに絶命したようだった。それを見ていた氐族から喝采が上がった。王平は、耳を塞ぎたくなる思いでその光景を眺めていた。喝采の中で、廖化が黙って体の返り血を拭っている。
雍州西部の戦線で長安軍が敗退し、冀城に入って体勢を立て直していると伝令が報せてきた。どれだけの犠牲が出たのかもわからない程に混乱しているようで、夏侯覇は馬を急き立て冀城へと急いだ。
勝ちに乗じた蜀軍が冀城まで迫ってくればこのまま城外で騎馬戦に入るべきだったが蜀軍の追撃はなく、到着した冀城には鳥の声が呑気に響いているだけだった。
何故、自分を待てなかったのか。あと少し待てば主戦場に騎馬隊が到着することはわかっていたはずで、それまで守りを固めておけばよかったのではないか。軍団長の郭淮から嫌われていようとも、戦になれば私情は持ち込まないと思っていたのは自分の思い違いだったのか。夏侯覇は沸々としてくる憤りを抑えながら、大きく息をついて郭淮の居室に入った。
郭淮は夏侯覇を一瞥しただけで何も言わず、座れと言うように顎を動かした。
「何故、私をお待ちにならなかったのですか」
「長安軍は負けたわけではない。漢中から出てきた蜀軍は祁山までしか進めていないのだからな」
「敗走して兵を失い牛金殿は捕らえられ、それでも負けてはいないと言うのですか」
「戦をすれば犠牲が出るのは当然のことだ。指揮官が捕縛されることもある。大事なことは、蜀軍を冀城から先に進ませないということだ。冀城から向こうの氐の地には大した富はない」
「それは蜀軍に負けてもいいという理由にはなりません」
「貴様は俺の上官か」
卓に拳を打ちつけ、郭淮は立ち上がった。
「洛陽から責任を追及されるというのならわかる。しかし貴様から咎められることは何一つとして無い。お前はそうやっていつも出過ぎる」
夏侯覇は凄んでくる郭淮から目を逸らさず、座ったまましばらく睨み合いを続けた。そして目を合わせたまま夏侯覇は静かに立ち上がり、一礼して退室した。
敗走した理由を聞いておくべきだったが、今の郭淮とは会話にすらなりそうもない。ここにいたら詳しく話してくれただろう牛金は、蜀軍に捕らえられていた。
城外の軍営に戻った。蜀軍は祁山に駐屯してそこから動かず、冀城に攻めこんでくる気配はない。蜀軍が魏国領内から去るまで城外に野営するよう、手勢の騎馬隊に命じた。城外にいることで、郭淮からできるだけ遠ざかりたかった。
「蜀軍の動静はどうだ、徐質」
「拍子抜けするくらい戦う気はないようです。祁山で何やら氐族を集めているようだと斥候が言っています」
以前、馬岱が三千騎で魏領に侵入し、賊徒として動き回って氐族を漢中に連れて帰るということがあった。その馬岱は自分と牛金で討った。あれと同じことを、今度は大軍を用いてやっているのかもしれない。
「出撃はあるんですか、隊長」
「わからん。或いは、出撃はないかもしれん。この冀城まで攻めてくるというのなら話は別だが」
「目と鼻の先で黙殺されたまま、長安軍は動きませんか」
普段通りの挙措に不満を滲ませながら徐質は言った。その不満は夏侯覇に対するものでなく、郭淮に対するものだ。
一敗地に塗れていようとも、ここはもう一戦すべきだ。兵を減らしたといっても、長安にはまだ数万の兵が控えているのだ。蜀軍が魏国領内を侵しているのに何もしなければ軍の権威は落ち異民族からは侮られ、雍州の西部が蜀に帰属してしまう恐れすらある。この局面での傍観は、蜀の利にしかならない。
負けたのなら次は負けぬようその敗因を知っておくべきだったが郭淮は熱くなるだけで話にならず、仮に敗因を分析できたとしても今一度戦だということにはなりそうもない。
それからしばらくの間、蜀軍は氐族を集めては漢中に送り出すということをやっていた。その中で、捕らえられていた牛金が衆目の前で処断された。魏に恨みを持つ氐族はそれを見て大いに喜んだそうだ。その命を下したのは、王平だということもわかった。
蜀の軍権は諸葛亮に代わって大将軍となった蔣琬にあるのかと思っていたが、蔣琬は後方にいて兵站をやるだけで、前線での決定は王平がしているようだった。
数年前まで同じ騎馬隊の隊長として戦場で競い合った王平が一軍の大将となり、自分は無能な上官の下で騎馬隊長を続けているということに少なからずの嫉妬を感じた。郭淮の位置に自分がいれば、もっと上手くやれるという自信はある。夏侯覇ならその戦歴からいっても血筋からいっても、長安軍の頂点に立つことは決して不可能なことではない。軍団長として、王平と戦ってみたい。
蜀軍が漢中へ帰って行った。郭淮はその背後を襲おうとはしなかった。斥候からの報告によると、王平の率いる蜀軍は見事な統率の下で移動し、特に殿軍は動きが良かったのだという。郭淮が追わなかったのは、それはそれで良かったのかもしれない。
蜀軍は魏領を一片も奪わなかった。洛陽の廷臣はこれを聞いて、郭淮が冀城で踏み堪えたから蜀軍の侵攻を防げたと判ずるのだろうか。少なくとも彼らにとっては、氐族の頭数が蜀軍に奪われたことなどどうでもいいのだろう。
それでも長安軍は一度大敗し、牛金が捕殺されたという事実はある。洛陽は郭淮にどういう処分を下すのか、夏侯覇は気になった。
蜀軍にこれ以上の動きがないことを確認して、夏侯覇らも長安に帰還した。
一日に二度、洛陽からの使者が長安にやってきて郭淮と何かを話していた。使者の多さは、そのまま洛陽にいる廷臣の郭淮に対する不信感を現しているのだろう。中には勅使もいるようだった。重要な話をしているのだろうが、やはり自分には何も言ってこない。こちらから聞きに行く気もない。誰が何と言おうと、自分は戦場で騎馬戦をやるだけの男なのだ
部下と共に城外を駆けていると洛陽からの使者団が来ているのが目に入り、その中に知った顔がいるのに気付いて夏侯覇は駆け寄った。
「よくお越しになられた、楊偉殿」
洛陽の模擬戦で共に戦った、曹爽派の武官だ。
「やあ、夏侯覇殿。良い騎馬隊だと思っていたら、やはりあなたでしたか」
「この度は何の御用で」
「郭淮殿からは何も聞かされていないのですか」
「それは」
図星を突かれ、夏侯覇は気恥ずかしくなった。
「噂は本当のようですな。お二人はあまり仲がよろしくないと」
「そんな噂があるのですか」
「洛陽の人間は噂が好きですから」
洛陽で自分がそんな風に噂されているとは知りもせず、夏侯覇はさらに気恥ずかしくなった。
「長安に来たのは、郭淮殿への処分が決まりましたので、それを伝えに参りました」
「ほう、それはどんな」
「軍の指揮権はそのままで、民政の全てと軍政の一部は取り上げられます。兵糧の集積地などについては、新任の都督を含めて夏侯覇殿とも話し合って決めていくことになります」
「そうですか。それで、その新しい都督には誰がなるのですか」
楊偉はそれに微笑して答えた。
「夏侯玄殿がその任に当たられます」
「夏侯玄が」
「まだお若いですが、若い人材を育てるべきだという曹爽様の意向がありました。長安の民政は夏侯玄殿がやり、軍事は夏侯覇殿が補佐してくれれば私たちとしてはとても心強い」
「郭淮殿ではなく、私がですか」
楊偉は意味有り気な表情を夏侯覇に向けてきた。
「郭淮殿は、司馬懿様の補佐をされていた時が一番力を発揮できていたようですな」
郭淮は司馬懿派であり、曹爽派ではない。楊偉はそう言っているのだ。
長安の城壁が近づいてきた。楊偉は夏侯覇に軽く頭を下げ、使者団と共に城壁の中へと入って行った。
夏侯覇は馬首を返しながら、自分は曹爽派に属しているのだということを思い出し、且つ強く実感していた。郭淮が司馬懿派だと見られていることは知っている。曹爽派は郭淮の失敗を喜び、これを機に長安に力を伸ばしにきたということなのだろう。司馬懿が遼東に出ているということも曹爽派に利したに違いない。
洛陽にいる者にとっては領土の端で起こる戦のことより、手近な所で自分の力をいかに伸ばすかということの方が大事なのだ。それは洛陽にいた時に痛感したことだ。
洛陽での派閥争いのことはできるだけ考えないようにしていた。戦場から遠い地に住む者が何をしようと、自分は魏国領土の端で馬を走らせ敵と戦う。戦が好きなのだ。戦が好きだということが結果として魏国を守ることになればいい。
馬を走らせる部下達が見えてきた。徐質はふざけているのか、夏侯覇が近付くとそれから逃げるように馬足を上げ始めた。夏侯覇はそれに追いつこうと、無心で馬を責めた。
7-20
漢中の漢川沿いにかなりの田畑が広がった。移住してきた万を超える氐族には田畑が与えられ、兵になることを望んだ者は廖化の軍に組み入れた。
この程度では足りていないと、蔣琬はこの人口増加に満足していなかった。李福を使って開墾した田畑にはまだ空いたところがある。この空きはそのまま国力の空白部分だと言っていい。田畑の生産力を国力に換算するには移住者への農民としての教育が必要で、国力増強の成果が見込めるのは早くて二、三年を待たなければならない。田畑を満たすのが一年遅れれば三、四年、国力増強が遅れてしまうということだ。
陽平関には蜀軍の戦勝を聞いた氐族が北から集まり続けていた。いくら田畑が空いていても来る者を全て受け入れることは王平と廖化が強く反対していて、漢中におかしな者が入らぬよう両人はその選別に当たり、四人に一人は受け入れを拒否していた。おかしな者を入れてしまえば広都に移した氐族のように問題の種になるということはわかる。それでも蔣琬の心には、なるべく多くの者を受け入れ、少しでも早く田畑を満たしたいという思いが消し難くあった。治安の維持には趙広率いる天禄隊を見廻らせているため今のところ大きな問題は起こっていない。もっと判断を緩めてもいいのではないか。
政庁の執務室にいると李福が入ってきて、新しく移住した氐族にどれだけ田畑を割り当てたかを報告してきた。蔣琬は心中で李福を疎ましく思いながらも、黙ってそれを聞いた。呉懿が死んでから、李福はしきりに蔣琬に接近してきた。
李福の実務能力は決して低くはないが、ただ実務ができるだけの男だった。土地を効率良く開墾して無駄なく人数を割り当てるのは確かに上手い。だが李福の氐族に対する指導は牛馬を扱うものだと、趙広が報告してきていた。わざわざ報告してくるということはよほど目に余ることをしているのだろう。それは李福の日頃の言動を見ていれば想像がつく。それで氐族から反感を持たれ、そこを魏に付け込まれればどうなるかまでは頭にない。この移住者たちは蛮族であるという意識が大きく先立ってしまっているのだろう。そのくせに蔣琬の機嫌を取るのは上手く、まるで諸葛亮に仕えていた楊儀のようだった。実務ができるということだけを根拠に人を重要してはいけないと、諸葛亮は北伐で証明した。少なくとも蔣琬はそう思っていた。馬謖も、楊儀も、平時の実務を上手くこなせるだけの人物だった。
「報告は以上です」
蔣琬は無言で頷き、もう行けと言うように手を振った。
「最後に、一人の羌族が蔣琬様にお目通りしたいと求めておりますが、どうなされますか」
「なんだと。何故、それを先に言わん」
「わけのわからぬ格好をしておりましたので追い返そうとしましたが、王平殿の紹介状を持っておりましたので外で待たせております」
「すぐにここへ通せ。いや、私の方から会いに行こう。その者の待っている所へ案内しろ」
「相手は文字も碌に読めない蛮族です。何をしでかすかわかりませんから、私がここに連れてきます」
「いいから早く案内しろ」
羌族と手を結べる可能性があると、戦から戻った王平から詳しく聞かされていた。これはその使者に違いなく、ならば丁重にもてなすべきなのに政庁の外で待たせるとは非礼が過ぎるではないか。
廊下を小走りで行く蔣琬に李福は不満そうだったが、それには見ぬ振りをした。
北方の民族衣装を身に着けた小柄な中年男が政庁東門の前で直立して待っていた。どれ程ここで待たせたのだろうか。
「遅くなってしまった。私がここの責任者である蔣琬だ」
蔣琬は半ば演技で息を切らせながら言った。
「御目にかかれまして光栄です。私は伐同と申します。羌は宕蕈からの使者として参りました」
「一人で来られたのか」
「供は三人いて、今は宿で待っています。あまり目立ちたくなかったため、必要最低限の人数で参りました」
「それにしては目立つ格好をしているではないか」
李福が自嘲気味に言った。
「この格好は今だけです。ですから私は、ここで待っていて問題ありませんかとあなたにお尋ねしたではありませんか」
伐同の静かな反論には明らかな不快さが籠められていた。
「すまなかった。私がきちんと話を通しておかなかったのが悪いのだ。それは謝ろう。さあ、中へ」
こんな輩を勝手に入れられるか、と李福が聞こえる声で呟いた。文字を読めない異民族を、話の通じない者だと鼻から決めつけている漢人は少なくない。李福もその一人だ。伐同もそう見られているのをわかっているのか、気にする素振りもなく蔣琬についてきている。
応接室に通し、三人で座った。伐同の様子に危険なところはなさそうだが、周りの見えない所には蚩尤軍が控えている。
「先日の戦勝をお祝い申し上げます。郭淮にはいつも大きな顔をされているので、溜飲の下がる思いがいたしました」
「蜀は魏と比べて国土は小さいが、軍では決して劣ってはいないとわかってもらえたはずだ」
伐同が頷いた。
「しかし伐同、君の主人である宕蕈殿は羌の騎馬隊を率いて蜀軍と敵対していたではないか。祝いの言葉より先にそれを詫びるべきではないのか」
「おい、李福」
「大事なことです。交渉事があるのなら先ず、羌族にも礼があるところを示してもらいたい」
「魏軍への加勢は成行き上仕方がありませんでした。現場の指揮官であられた王平殿もそう仰ってくれました。漢中軍が戦場に到着したと同時に撤退したのは英断であったとも。その王平殿の認識は、蔣琬殿のそれとは違うのですか」
伐同は李福をほとんど無視するようにして、蔣琬の方を見て言った。
「いや、それで何の間違いもない。あの撤退で羌軍に敵対心がないことがよくわかったと、王平将軍から聞いている。私も同じようにそう思っている」
「恐れ入ります」
伐同は深々と頭を下げた。蜀軍と羌軍が少しでも敵対する立場にあったことを水に流せば交渉事は難なく進むはずだが、体裁に拘る李福は隣で微妙な顔をしていた。
「王平殿が楡中に来られました時、漢中は人手を欲していると伺いました。それは今でもお変わりありませんか」
「見てもらえればわかると思うが、漢中には使われていない田畑が多くある。そこで働いてくれる人数が欲しい」
「人は、出せます。問題は、そこに入る者共への扱いです。我ら羌族は遊牧をして生活をしているため、農耕というものに慣れておりません。この地に入る羌族が、農耕をできないことを理由に酷い扱いをされないかと宕蕈は心配しております」
「その心配は御尤もだ」
伐同とその一行は新しく入った氐族がここでどう扱われているか視察しているのだ。移住者たちを指導する立場にいる李福が傲慢に振る舞っていることをどう思っているのか、遠回しに聞かれている。
「もし人数を出せるとなれば、どれ程出せる」
「五千。これは一度に入れるのではなく、郭淮の目を眩ませながら徐々に入れて頂ききたい」
悪い数字ではなかった。先ず五千に農耕の技術を教え、羌族がまた入ってくることがあればその五千に指導させればいい。
「扱いに問題がなければ五千を移住させても良いということだな」
「はい」
伐同の目が一瞬、李福の方を見た。こんな者と一緒にやれるか、という心の声が聞こえてきた。李福自身はその視線に気付いていないようだった。
蔣琬は一つ茶に口をつけた。乾きかけていた唇が水気を取り戻していく。茶を啜った音の後にしばらくの沈黙が続いた。伐同は返答を急かすことなくじっとこちらを見つめている。
「信を失うのはこうも容易なのに、信を得るのは難儀なことよのう、李福」
羌軍が少しでも敵対したことを言っていると思ったのか李福は、そうですね、と答えた。お前の言葉が羌の信を失わせているのだ。そう言ったところで、この男はわけのわからぬ反論をするだけだろう。
「その難儀を処理することで、蜀国は羌からの信を頂戴したい」
蔣琬は呟くようにそう言い、手元の鈴を二度鳴らした。伐同が、それは何だという目で鈴を見ている。
「李福を殺れ」
「えっ」
黒い影が落ちてくると同時に、李福の首が音を立てておかしな方向に曲がった。口から泡を吹かせて白目を剥いた李福の体が床に崩れた。李福の代わりに、眼帯をした黒装束姿の男が蔣琬の隣に立ち、伐同は咄嗟のことに跳び上がって身を構えた。
「驚かせてすまない、伐同殿。李福の失礼な振る舞いは心から謝ろう。漢中に入った羌族を虐げる者がいれば必ずこのようにする。これをもって蜀は信に足ると思ってはくれまいか。これでもし不十分だと申されるのなら、また他の手を考えよう」
李福の態度に憮然としていた伐同が、身を縮ませて額に汗を浮かべていた。
「いえ、これで十分です」
「そうか。それは良かった」
蔣琬が微笑むと、伐同はようやく緊張した顔を緩めた。
蔣琬は何事もなかったように筆を取って書簡を認め、褒美と一緒に伐同に渡した。この交渉は問題なく進みそうだった。今は人を出す約束のみに留まったが、いずれは魏に対抗するための軍事協力まで発展させたい。
蔣琬は伐同を見送って、ふと気になって応接室に戻った。李福の死体は蚩尤軍に処理され跡形もなく消え去っていた。こんな者の命でも羌の信を得るために使うことができる。実務など、若い者に慣れさせればいいだけのことだ。李福の代わりは、成都から王訓を呼び寄せようと思っていた。これを聞けば王平はどんな顔をするだろう。王平が蔣斌を呼び戻すと言い出せば自分はどんな顔をするのだろうかと、蔣琬はふと考えた。
羌へ返答の使者として、劉敏と句扶は五百の騎馬を率いて北へと向かった。陽平関を出て建威を通り、祁山に着いた頃に日が暮れ始めた。前回の戦では馬も使わず三万の兵が丸一日かけて走り通した道のりだ。その迅速さが決め手となって蜀軍は勝利し、羌と氐は魏を見限り蜀に靡いてくるようになった。
羌との友好関係を模索する蔣琬の最終目的は、羌との軍事同盟であり、それが可能かどうかを探ってくることも使命の一つだ。魏は、蜀と羌の共通の敵であるという認識を互いに持てれば、それは蜀にとって大きな国益となる。
不安なことは、羌には羌族を代表する、例えば帝や宰相のような存在がいないことだった。羌族は涼州内でそれぞれの部族に分かれて遊牧し、それらの族長の上に長安の支配がある。かつての羌には馬一族という強力な指導者がいたが、族長馬超はまだ存命だった頃の曹操に敗れて涼州を追われ、それから羌をまとめる者は出ていない。三年前に死んだ馬岱は、その馬一族の生き残りだった。
これから会いに行く宕蕈は楡中で羌の番頭となっているだけで大きな力を持っておらず、羌の協力を得るには他の族長たちにも話をつけなければならない。
南安を過ぎ、楡中についた。
広場には既に羌族が集まっていて、伐同がそれをまとめて漢中への出発を待っていた。それを横目に、劉敏は句扶を伴い宕蕈の屋敷に入った。宕蕈以外の族長も数人来ていた。中でも迷当という者が大きな発言力を持っていて、羌は魏に屈し続けるべきではないとしきりに主張していた。その次席で梁元碧という老人が、劉敏と迷当の話をじっと聞いていた。見た目からして、梁元碧は漢人と羌の混血のようだ。死んだ馬岱も、羌と漢人の混血だった。
「例えば長安が羌と蜀の同盟を察知し、涼州に五万の兵を向けてきたならば、漢中の蔣琬殿はどういう判断をされるか」
宕蕈が静かに聞いてきた。この男には、迷当のような血気盛んな様子はない。
「漢中からは、即座に三万を出せます。それ以上となると時がかかってしまいますが、六万までは出せます」
「出せるというのはそれだけの兵と糧が漢中にあるということなのでしょう。しかし、本当に蜀は羌のためにそれだけの大軍を出してくれるのか」
今度は梁元碧が聞いてきた。漢人の面影を残すその顔に、劉敏はやや親近感を覚えた。
「羌が魏に支配されてしまえば、羌は蜀の敵になるということです。漢中から兵を出し羌を守るということは、即ち蜀を守るということと同義なのです」
迷当がその言葉を聞き、声を上げて喜んだ。梁元碧は、相変わらず静かに腕を組んでいるだけだ。
「それだけの大軍を出したとして、漢中の守りはどう考えておられる。東の荊州にも魏の大軍はいるのでしょう」
「天険に守られた漢中は一万の兵力があれば守り切れます。詳しいことは申し上げられませんが、私は漢中軍の軍師として、漢中の守りには重々の工夫を凝らしています。援軍が来るという前提条件があれば、一万の兵で十万の敵兵から三月は守れます」
「その場合、成都からはどの程度の援軍が出ますか」
「成都には五万の遠征軍が控えております」
劉敏は劉元碧からの質問にきな臭いものを感じ、嘘をついた。実際のところ、成都からは出せて二万がいいところだった。
「そこまで心配なさらずとも、魏にそこまでの大軍を出す力はありません。荊州が漢中を攻めることがあれば、呉が喜んで樊城に兵を進めることでしょう」
梁元碧が、劉敏の目をじっと見つめて頷いた。観察されている。劉敏はぐっと腹に力を籠めてそのまとわりつくような視線に耐えた。
「二十年前、我らは曹操の率いる魏軍に負けた。私は、楊秋という将軍の下で小部隊を率いていた」
迷当が昔を思い出すような目をして言った。
「今の羌が魏の風下に甘んじているのは、その時の負けがあったからだ。一度でいい。我らは魏と再戦し、一度でいいから勝たねばならんのだ。負けたままでは、我らは子々孫々に渡って魏の言いなりになってしまう」
「魏には勝てます。国土が大きいから強そうに見えますが、それはそれだけ多くの外敵に囲まれているということで、魏の全ての力がこの涼州に向かうということはありえません。現に蜀軍は前回の戦で長安軍を蹴散らしました」
迷当が、よくわかっているというように手を差し出してきた。
「すまんが劉敏殿、私は蜀を利用させてもらうという心積もりで手を結びたい。この握手はあくまで羌族の子孫のためということになるが、劉敏殿にはそれを受け入れて頂けるか」
「あなたが羌として、羌族のことを第一に考えるのは当然のことです。迷当殿のような御方こそ、一番信頼できる人間だと私は思います」
「そうか。そう言ってくれるか」
迷当は劉敏の手を振って喜んだ。その様子を迷当の後ろから、梁元碧が冷やかな目で見ていた。宕蕈はにこやかだが、何を考えているかその表情から読み取れない。
「それでは、約束通り千の民を漢中に頂戴します。軍事のことについては、また次の千を移す時に深く話し合いましょう。それでよろしいですか、宕蕈殿」
「ああ、それで構いません」
宕蕈は笑みを浮かべて答え、劉敏を屋敷の外へと見送った。
外では伐同が千の羌族を整列させて待っていた。中には馬や羊をつれている者もいる。劉敏は五百の騎馬を二つに分けて前後に付け、漢中に向けて進発した。
楡中が丘陵の谷間に消え、南に祁山の頭が見えてきた。
劉敏は、隣で従者の格好をしている句扶に耳打ちするように話しかけた。
「どう見た、句扶」
「梁元碧という男が臭い。十中八九、魏に通じていると見ていい。宕蕈はどっちつかず。迷当は、見たままの男だろう」
「やはり、梁元碧は臭いと見るか」
「羌は一枚岩ではない。北伐の時も奴らは最後までどっち付かずの態度だった。これは信の問題ではない。羌には、統一された意志が存在しないのだ」
「馬岱殿を失ったのは実に痛かった。涼州の名士である馬岱殿が涼州で力を持てば、羌の意志は再統一されていたことだろう。まとめ役を欠いた国とはこうも厄介なものか」
羌の優柔不断な態度を憎む気にはなれない。仮に羌が蜀と組み、魏に大敗することがあれば、魏はこれみよがしに羌の地に兵を送って支配を深めるのだろう。そうなれば、涼州は魏軍の兵に蹂躙されてしまう。宕蕈や梁元碧が恐れているのはそのことだ。
だからと言って宕蕈らは氐の地にまで進出してきた蜀を無視するわけにもいかない。蜀の接近を喜ぶ迷当のような者もいれば、それを迷惑がる者もいる。それを見極めて交渉は進めなければならない。蔣琬が句扶に使者の同行を命じたのは、羌族の主要な者の顔を覚えさせ、後に邪魔になる者を消すためだと劉敏は思っていた。
迷当という有力者が蜀を支持していることがわかった。迷当に金銭物資を送って懐柔し、蜀からの支援で大きくなった迷当を羌の王に据え、羌を完全に魏から引き剥がして蜀の味方にさせる。漢中に帰れば蔣琬にそう進言するつもりだ。戦に比べれば、この調略で民にかかる負担はほとんどないと言っていい。涼州を味方につけるための一番良い手だ。
劉敏は振り返り、付き従ってくる千の羌族を眺めた。この羌族たちが働き税を納め、その納めたものが羌の王となる迷当の懐に流れるとなれば、迷当は漢中の生産に依存せざるをえなくなり、蜀と羌の関係は強固なものになるはずだ。
7-21
五度目の使者が宕蕈の館にやってきて、最後の千人が漢中へと旅立った。これで五千の羌族が漢中に旅立ったことになる。長安から咎められないよう五千を五度に分け密かに送りはしたが、これを完全に誤魔化すことは難しい。それを分かっていながら蜀との約定を結んだのは迷当の強い意向があったからだった。
羌が単独で魏に立ち向えないことは、二十年前の戦で嫌という程思い知らされた。魏よりも小さな蜀に勝つことすら不可能だ。魏から多少の搾取があっても、一応の安寧が保証されていればそれでよかった。といっても、北に領土を伸ばそうとする蜀の存在を無視するわけにもいかない。
昨年の戦では郭淮率いる長安軍が王平の漢中軍に大敗し、郭淮は罷免されてまだ若い夏侯姓の男が新しい都督になった。魏では帝が死に、新しい帝の下で権力争いが行われているようで、この都督交替も権力争いの一環であると宕蕈は見ていた。魏は明らかに力を落とし始めている。いまは魏の下で安寧を貪ることができても、いつまでもというわけにはいかない。だから蜀と結んでおこうという迷当を理解できないわけではない。
涼州から離れていく千を、馬上から餓何が口惜しそうに眺めていた。
「そんな顔をして、まるで好きな女を妓楼に取られる少年のようではないか」
「そんな例えは止して下さいよ、宕蕈殿。約束は約束だから仕方ありませんが」
四度目の交渉の時、楡中にやって来た王平と、迷当の下で騎馬隊を指揮する餓何が模擬戦をしたのだった。体の大きな馬で力押ししようとする餓何を王平は巧みにいなし、隙が出たところに姜維の小部隊が矢の様に突き刺さり、分断された片方を包囲されたところで勝負は決まった。それで、五百の馬を漢中に売ることを餓何は肯んじたのだった。
「あの馬は生まれた時から手塩にかけて育てたんですよ」
「遠い所に友ができたと思え。馬を売った銭で、お前もいつか漢中に行ってみればいい」
それで一応納得したのか、餓何は泣きそうな面に笑顔を作ってみせた。
蜀に売った五百の馬は全て迷当の牧から出し、その対価にかなりの銭を得ていた。涼州は物資に乏しく銭があっても使いどころがなく、宕蕈は漢中から大量の戟と具足を購った。それでもまだ銭は余っているようだ。
魏に反感を持つ迷当の軍が増強されれば、羌と魏は対立を深めていくことになる。蜀との会合には必ず顔を出す梁元碧もそのことを心配していた。蜀と友好関係を結ぶこと自体はいい。しかしそれで魏と対立するとなれば考えどころだ。いくら昨年の戦で蜀軍が勝ったとはいえ、長安が軍事力を失ったわけではない。たった一度負けたからといって羌と魏の立場が替わることなどありえないのだ。迷当はそのことを理解しているのかどうか、涼州で育てた精強な騎馬隊があれば魏に対抗できると信じている節がある。
宕蕈は漢中からの使者を歓迎しながらも、彼らのことを完全に信用してはいなかった。蜀が魏と争い続けるのなら、二国の間にある羌の存在を無視できるはずもなく、蔣琬が羌に擦り寄ってくることは当然のことだ。それはあくまで蜀のためであって羌のためではない。蜀と結ぶことによって涼州が荒れるのなら、初めから結ばない方がいい。
迷当は羌が魏の風下に甘んじていることに憤り、憤りの勢いで蜀と結ぶことに賛同していた。梁元碧は魏との関係に溝ができることを危惧して蜀との同盟には反対していた。
蔣琬の腹心である劉敏は、羌からでなく迷当個人から馬を買うことを提案してきた。思い返してみると、これは体の良い賄賂だったのではないか。このまま迷当が蜀と深く結びつけば、羌は蜀に近付き、魏から遠くなる。蜀に近付いて羌の安寧を保たせ続けることができるのか。
迷当が力を付けかつての馬超になるならば、魏の下での安寧は消失し、梁元碧のような魏を頼る者と、蜀を支持する者の間に角逐が生じてしまう。蜀に深く関わることで涼州は無用の火種を抱えてしまうことも考えられる。
「宕蕈殿、何を難しい顔をされている」
「俺は難しいことを考えねばならんのだ。お前と違ってな」
「ふうん。そんな難しいことより迷当様のところまで早駆けしませんか。馬上の風はあらゆる悩みを洗い落としてくれますぞ」
「いいだろう」
馬が駆けだし千の羌族を集めた広場が後ろに遠ざかった。
対等だった立場から、自分から迷当のところに出向くことになっていた。迷当がそうしろと言ったわけではなく、自然とそうなった。権力とは、このようにして形作られていくのだろう。
目的地に近付くにつれ人影が増え、餓何が大声で挨拶をしていくので宕蕈も彼らに手を上げた。戦になればこの遊牧民たちが迷当の一声で集結して兵となるのだ。羊の集団が道を開けるのを幾つか通り過ぎたところに迷当の幕舎はあった。その幕舎の近くには、漢中から来た者たちが大きな屋敷を建築していた。
餓何が幕舎に向かって声を上げると、中から漢人の女が二人出てきた。礼儀正しく辞宜をする女を横目に、宕蕈は餓何に続いて幕舎に入った。新しく女を囲ったとは聞いていたが、漢人だったとは知らなかった。これも蔣琬から贈られたものなのか。
「最後の千人が漢中に向かった。これで五千全てが移住したことになる」
「御苦労だった。劉敏から貰ったものに宕蕈殿の分もある。これで騎馬隊の強化をされよ」
迷当は両手に余る程の袋を差し出してきた。まるで王と臣下のようだ。宕蕈はそう思いながらも、断るわけにはいかず、黙ってそれを受け取った。
「馬との別れはきちんと済ませたか、餓何」
「名残惜しかったですが、遠くに友ができたのだと宕蕈殿に言われました。その思うことにします」
「遠くの友か、それはいい。戦になれば助けてくれる友だ。また会える日はそう遠くあるまい」
「魏との戦は避けられそうはないか、迷当殿」
迷当は少し迷惑そうな顔をした。
「魏とはいつか戦になる。それは羌の歴史であり、宿命ではないか。避けようとしても避けられなければ、早くやってしまった方がいい。そのためには平時からできるだけ力を蓄えておかなければならん」
「力を蓄えるのはいい。しかし魏と蜀の戦は、漢人同士の喧嘩だぞ」
「蔣琬がその喧嘩に我らを利用しようとしているのはわかっている。我ら羌はそれに乗ればいい。残念ながら、羌は単独では魏に対抗できん。蜀の接近は、我らにとっての大きな好機なのだ。これを無視するようなら羌はいつまで経っても魏の支配から抜け出すことはできんぞ」
「それは、そうだが」
「恐れるな、宕蕈殿。仮に負けたとしてもそれが何だ。俺が死に、魏の支配が続くというだけのことではないか。それは今と何も変わりのないことだ。魏の支配を脱するために、俺たちが心の中から恐れを消せばいい。餓何、お前は俺の先鋒となって敵に突っ込むことが恐いか」
「恐くはありません。恐いのは、誇りを汚され続けることです」
普段は砕けた餓何だが、迷当の前では一人前の軍人だった。それは頼もしくあり、不安の種にも見える。
「羌が長安の言うことを無視できればどれ程良いか、楡中で長安からの使者を応対している俺が一番良くわかっている。正直、もううんざりしている」
「だが、恐いか」
「死ぬことを恐れているのではない。一族の者共が、今より酷い目に遭わされないかと心配なのだ」
それを聞いて迷当は高らかに笑ったので、宕蕈はむっとした。
「臆病な俺がそんなに可笑しいか」
「そうではない。宕蕈殿のような人物がいるからこそ、俺は安心して戦で死ねる。俺が負ければ、全ての責任を俺に被せて魏に申し訳を立てればいい。背後に蜀がいる限り、魏は大それたことはできんと俺は踏んでいるがね」
無責任なことだ。宕蕈はその言葉を目で訴えた。
「一度、漢中に行ってみたらどうだ。そこで漢中の要人に会って軍を視察し、それで勝てないと思うのなら俺に言ってくればいい。漢中に移住した者共がどんな生活をしているかも気になることだしな」
羌の信頼を得るために、蔣琬は李福という臣を目の前で殺して見せたと伐同が報告してきた。それで宕蕈は蔣琬に興味を持った。戦の前に漢中に行っておくのはいいかもしれない。
「それでは、移住の完了を確認する使者として俺は漢中に行こう。戦になればどうするかという想定も、蔣琬と直に話してくる」
「頼む。俺が涼州を離れるわけにはいかんからな。路銀にこれを使え」
言って迷当はもう一つの袋を投げてきた。
「銭はさっき貰ったではないか」
「これは使者としての銭だ。気にすることはない。馬を売った銭がまだたくさんあるのだ」
宕蕈は銭の袋を前にして複雑な気持ちになった。この銭で、どちらが使う者で使われる者かを確かめたいのではないか。迷当が嫌いなわけではない。どうも銭の前にひれ伏すような気がして嫌だった。その銭の後ろには、羌を戦に巻き込もうとする蔣琬の影がある。
「餓何も行ってこい。それだけの銭はあるはずだからな」
「俺もいいんですか」
「道中で何があるかわからんからな。宕蕈殿をしっかり守れ」
「わかりました」
声を上げた餓何は単純に、漢中に行けることを喜んでいるようだった。
幕舎を出る時に、ずっとそこにいたのか二人の漢人女がまた辞宜をしてきて、宕蕈は不快になった。戦をしようというのに、何故新しい女が必要なのか。幕舎の外で建てられている屋敷も戦には不要のものだ。これらの送り主である蔣琬はどういう心積もりでいるのか、漢中に行って見極めておく必要がある。
日が暮れ始め、羊が追い立てられている。こうして羌の一日は終わるのだ。魏か蜀のどちらを選ぼうとも、羌のこの平凡な暮らしが守られればいい。
餓何が仲間の兵に、漢中に行くことを嬉しそうに自慢していた。
迷当からの使者がきて、蔣琬から贈られた銭を置いていった。その銭でどうしろと言われたわけではないが、これで戦の準備をしろということなのだろう。
梁元碧は、魏と争うことには反対だった。迷当を始めとする羌の武闘派は魏の支配を嫌い、嫌うことで徒党を組んで団結していた。支配されているといっても魏軍の兵が羌の民を虐げているわけではなく、その支配は氐族に対するものと比べてよほど緩いものだった。羊を飼い馬を走らせる民の暮らしはあるのに、彼らは『支配されている』という言葉の響きに腹を立て、それだけを根拠に戦をしようとしていた。
戦とだ息巻く迷当は、民の暮らしより自分の感情を優先し、そこを蔣琬に付け込まれようとしていた。諸葛亮が存命だった頃は、参戦を求める使者は来たが、羌が魏に付かなければいいという牽制程度のものだった。迷当のような血気盛んな者に銭を持たせる強引なやり方はなかった。迷当と蔣琬の結び付きが長安に警戒されれば、その災いは迷当だけにではなく羌全体に降りかかってくる。どこかで誰かが迷当を止めねばならなかった。
梁元碧は迷当から渡された銭の袋を手にしばらく考えた。戦になれば迷当は前線に立ち、消極的な自分は後方での兵站を任されるはずだ。兵站が機能を失えば軍は力を発揮することができない。この銭を上手く使って兵站を操作し、迷当を止めることはできないか。
梁元碧は二度手を叩いて部下を呼んだ。腹心の焼戈が小走りで入って来た。
「これから、お前には長安に行ってもらう」
焼戈の顔が強張った。この時期に魏領に入る危険をよくわかっているのだ。
「長安の要人に会いたい。できれば、軍がわかる者だ。誰にも気取られないよう長安に行き、密談の約束を取り付けてこい」
梁元碧は声を潜めて言い、焼戈は黙って頷いた。
昨年の戦が終わってから、長安からやってくる使者の数はめっきり減った。それまでの使者は、魏の使者というより郭淮からの使者という色が強く、郭淮が失脚することで長安との関係は疎遠になり始めていた。こちらから積極的に接触し、心証を良くしておくに越したことはない。蔣琬の口車に乗り、羌が完全に魏と敵対してしまうことは防がなければならない。
十日程して、焼戈が長安から戻ってきた。焼戈は二人の男を連れていた。薄汚れた旅人にしか見えない二人に何故か焼戈が遠慮していた。
二人は梁元碧の前で頭まで被った外套を脱いだ。
「私は、と、鄧艾と申します。こ、こ、こちらの郭淮殿の、副官をしております」
「郭淮殿?」
これまで郭淮と書簡のやりとりはあったが、直接対面したことはない。梁元碧は内心驚き、それを表に出さぬよう努めた。昨年の戦で宕蕈が、言葉に詰まるが思いきりのいい戦をする男が長安軍にいたと話していた。この鄧艾という男がそうなのかもしれない。
「お前らに嫌われている郭淮だ。長安の武官に会いたいと聞いたから、こちらから会いに来た」
焼戈の様子からしても、どうやら嘘ではないようだ。
「嫌っているなどと」
「嫌われることが仕事だった。すまんが梁元碧殿、湯を一杯所望したい」
梁元碧はすぐに家人を呼んで湯を命じた。
郭淮は胡坐をかき、毛の濃い腕を上下させながら出された湯を口に運んだ。戦場でもこの人はこんな感じなのだろうと、何となく思った。
「私から長安に行きましたのに、何故こんな辺境にこられましたか」
羌が蜀に接近していることを郭淮は知っているはずだ。ここが迷当の屋敷なら、首を落とされ漢中に送られていてもおかしくない。
「あの焼戈という男が馬鹿だった。いきなり俺の屋敷にやってきて、羌は蜀と結ぼうとしているから自分の首を落とすか話を聞けと言ってくるのだ。だから首を落とすと言ったら、少しは俺の話を聞けと怒り出しやがった」
郭淮はそう言い手を打って笑った。梁元碧は、それに眉一つ動かさなかった。
「部下が失礼なことを致しました」
「それはいい。俺は人相見ではないがな、戦をしていると嘘をつく男とそうでない男の顔がわかってくる。焼戈は嘘をつく男ではないと見た。だから、来た」
「恐れ入ります」
梁元碧は両手を突いて深く頭を下げた。魏の高官など、大きな椅子にふんぞり返って偉そうなことばかり言う者だとばかり思っていた。しかし郭淮は、自らの命を顧みず涼州にやって来た。王平に負けたと心中馬鹿にしていたが、実は懐の大きな男なのかもしれない。
「それで、用は何だ」
「蜀から羌に銭が贈られてきました。迷当を通じて、私のところにも届きました。それで長安から兵糧を売ってもらえないかと」
「ほう」
郭淮が探る目で見つめてきた。兵站の実態を郭淮に明かす、と言ったのだ。迷当の独断を止めるのに郭淮も巻き込んでやればいい。
「何故、そこまでする」
「羌は戦を求めておりません。我らの上に魏があろうと、蜀があろうと、涼州の遊牧の民に穏やかな暮らしを与えてやれればそれでいいのです。我ら族長の仕事は、その穏やかさを民に確保してやることで、争いを求めることではありません」
郭淮は無表情で湯の水面に目を落としていた。聞いて喜ぶかと思ったが、そんな風はない。むしろその無表情の顔は怒っているようにも見える
「迷当は昔から扱い難い奴だった。しかし、嫌いではなかった」
隣の部屋から焼戈と鄧艾が話す声が聞こえてきた。何やらここら一帯の地図を見て鄧艾が興奮しているようで、焼戈に色々と質問している。
「静かにしていろ、鄧艾」
郭淮が怒鳴ると声が止まった。
「兵糧は売ろう。銭があるのなら買いたい分だけ買うがいい」
「ただの商いで終わらせるということですか」
「何を勘違いしているのか知らんがな、俺はもう長安太守ではなく、一人の軍人なのだ。それでも俺の軍権で余った兵糧を売ることくらいはできる。それ以上のことは新しく太守になった夏侯玄に頼め」
「郭淮殿の口からは言って下されませんか」
「生憎、俺と夏侯玄は近くない。去年の戦で負ける前の俺ならまだしも、今の俺が表立って羌の兵站をどうこうすることはできん。それが露見すれば、越権行為と言われて首が飛んでしまいかねん」
梁元碧は失望した。護衛なく羌に乗り込んできた郭淮の剛胆ぶりには驚かされたが、それは見せかけだったのか。
「それでも、一人の軍人として約束できることはある」
「どんな約束ですか」
「戦になれば、麾下を率いて俺の指揮下に入れ。迷当を始めとする戦をしたがっている者共は、俺の命により、お前が自身の手で討つのだ」
「馬鹿な」
梁元碧は思わず立ち上がった。その勢いで足下の湯が零れ、床に染みをつくった。
「そのような口約束を戦場で守れるものか。ならば逆に聞こう。生きるか死ぬかという戦場で、あんたは羌族である俺のことを信用できるというのか」
大声を聞いて心配した焼戈と鄧艾が顔を覗かせた。梁元碧は取り乱したことを詫び、覗く二人を追い払った。郭淮は何が面白いのか、ただ顔をにやつかせている。
「羌の始末は羌でつけろと言っているだけなのだがな」
「俺は、あんたはもっと賢いかと思っていた」
「俺のような敗軍の将が賢いわけないだろう。お前が俺を信じなくても、俺はお前を信じるがね」
「止してくれ、郭淮殿。俺はそんな約束はできんし、あんたが俺を信用する理由もない」
「羌を守りたいのだろう。俺も、長安を守りたい。戦場で仮にお前に裏切られたとしても、俺が死ぬというだけのことだ。お前を信じることに長安は賭けられんが、自分の命くらいは賭けられるさ」
梁元碧は頭を抱えた。羌は守りたい。羌を守ることと、同胞である迷当を討つことは矛盾することではないのか。一方で、矛盾しないという気もする。羌の始末は羌でつけろという郭淮の言葉を否定することもできない。自らの手で迷当を討てば夏侯玄の信頼を得て、羌の安逸は保たれるだろう。しかし、仲間を裏切ったという汚名は一生ついて回ることになる。羌を守るべきか、自分を守るべきか。羌を守りたいと言いつつ、初めから俺は自分自身のことを守りたかっただけではないのか。
郭淮は、文字通り自分の命を投げ出してここに座っている。ここは羌の地で自分の方が絶対的に安全なはずなのに、何故か喉元に刃を突きつけられている気分だった。
「本当に、俺を信用するのか」
言葉が砕けていた。そんな小さなことに拘る気にはなれなかった。
「信用するなど簡単なことだ。ただ俺がそう思えばいい。お前は本気で羌を守りたいと思ったから長安に使者を寄越したのだ。そこに疑いを持つ理由はない。だから、俺はお前を信用する」
「よしてくれ」
「迷当が蜀の肩を持ち、お前は魏の肩を持つ。俺は命を賭してお前の信用を得に来たというのに、そんなに疑うとはあまりではないか」
「もう、よしてくれ。俺は疑っていない。ここに来たあんたのことを、疑えるはずもない」
「そうか。なら安心して長安に帰れる」
郭淮はまるで隣の家にでも帰るかのように腰を上げ、家人に湯の礼を述べて外に出た。
「焼戈、お二人をお送りしろ。長安の安全なところまでだ」
郭淮は背中越しに手を上げて礼を言い、鄧艾が会釈をして駆け去って行った。
戦場で指揮下に入れと郭淮は言ってきた。それは、迷当を後ろから刺せということだ。迷当と意見の違いはあっても殺そうとまでは思っていなかった。せいぜい迷当から兵站を奪い、戦を妨害してやろうと思っただけだ。
奪った兵站を郭淮に押し付けようとしたが、それは拒否された。そういうことは他人を頼らず自分でやれと言われたのだ。郭淮の目に自分の姿は、嘘をつく男として映ったのだろうか。だとすれば何故、郭淮は信用すると言ってきたのか。
郭淮の信に応えるということは、戦場で仲間を裏切るということだ。そんなことができるのか。梁元碧は自室に籠り、火も灯さず親指の爪を噛みながら自問自答した。同族を裏切ったという汚名を着てまで、羌の平穏を守ることができるのか。
王平伝⑦
最終更新日2016.5.19