ぼくはまだ書いていないだけ

 長瀬が作家になりたいと思ったのは、中学二年の時だった。
 たまたま見ていたテレビで、流行作家の谷川新之介の自宅訪問をやっていた。都内の一等地に豪邸を構えている割には、本人はボサボサの髪に無精髭、ヨレヨレの和服をだらしなく着た、冴えない中年だった。しかし、インタビュアーから「学生で作家デビューして以来、ベストセラーを連発している、その創作の秘訣は何ですか?」という不躾な質問に、苦笑気味に答えた言葉が耳に残ったのだ。
「秘訣なんてないさ。おれ程度の作品なら、誰でも書けるよ」
 それが謙遜であることは、さすがに長瀬にもわかったが、一度谷川の作品を読んでみようと思った。
 何日かして、図書館で借りて読んでみたが、正直、どこが面白いのか、さっぱりわからなかった。実際、谷川の作品は難解なことで知られており、中学生がわからないのは当然だった。だが、長瀬は自分の未熟さに気付くことなく、こう思ってしまった。
(これなら、ぼくの方が面白いものが書けるんじゃないか)
 次の日、自分の小遣いで原稿用紙を買ってきて、いざ書こうとして、長瀬は、はたと困ってしまった。何も書くことを思いつかないのだ。
(そうか。ぼくにはまだ人生経験が足りないんだな)
『人生経験が足りない』というのは、谷川に対して批評家がよく口にする言葉であることを、長瀬も知っていた。
(人生経験を積めば、書けるようになるさ。そうとも。そして、ぼくが書きさえすれば、すごい傑作になるに決まっているんだ)
 その日から、長瀬は幸せだった。今は目立たなくても、勉強ができなくても、駆けっこが遅くても、いずれ小説さえ書けば、みんなが自分を括目して見るようになるのだ。
 平凡な高校、平凡な大学と進み、いよいよ就職先を決めなければならなくなった時も、深くは悩まなかった。
(とりあえず、どこでもいいや。数年間だけ辛抱して人生経験を積めば、小説を書いて作家デビューだ。そうなったら、すぐに仕事を辞めてやろう)
 長瀬が目指したのがもっと別のもの、例えば、マンガとか音楽なら、早い段階で自分の才能のなさに気付いたかもしれない。しかし、小説というのは、実際に書き上げて他人に読んでもらわない限り、才能のありなしなど自分でわかるものではない。そして、本能的にその危険性を感じていたのか、長瀬は一向に小説を書こうとしなかった。
 だが、『いずれ作家デビュー』という呪文は、実に便利だった。なかなか仕事を覚えられなくても、ミスをして上司に怒られても、先輩にいじめられても、この呪文さえ唱えれば耐えられた。

 それから、長い年月が流れた。
「長瀬先輩、定年おめでとうございます。無事に勤め上げられた、その秘訣って何ですか?」
「秘訣なんてないさ。誰でもできるよ」
(おわり)

ぼくはまだ書いていないだけ

ぼくはまだ書いていないだけ

長瀬が作家になりたいと思ったのは、中学二年の時だった。たまたま見ていたテレビで、流行作家の谷川新之介の自宅訪問をやっていた。都内の一等地に豪邸を構えている割には、本人はボサボサの髪に無精髭、ヨレヨレの和服をだらしなく着た、冴えない中年…

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-02

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