MJとは異星の客である
『MJとは異星の客である』
追田琴梨
「海を眺めて波のさざめきだとか青のうつくしさについて書くのは、三流の詩人ですよ」
この七六年に行われた雑誌インタビューにおける発言は、一貫して直接的な物言いの多い小山玲子の発言のなかでもとくに象徴的なものに映る。
なぜなら彼女が現在までソロキャリア中に発表した六枚のアルバム(wikipediaでは3rdの記載が抜けて総計五枚になっている)のうち半分が、カモメの絵であったり砂浜の写真であったり工業廃水問題の記事の切り抜きモンタージュであったりと、海に関係するジャケットであり、それでいていずれの収録曲にも歌詞に海にまつわる直接的な記述は一切ないからだ。
いきなり古い発言の引用から始まって申し訳ないけれど、いかんせん彼女が自らの音楽性について日本語で語った記録が、九四年に発売された主に七、八〇年代のものを収録した雑誌インタビュー集しか現行ではマトモに手に入らないのだ。これすらも例えばAmazonなんかでは中古含めて品切れになっていて、結局は本稿で引用する他の言説の引用元も含め国会図書館で閲覧したものである。
小山玲子。
本稿では彼女とその音楽にスポットを当てつつ、そこから浮かび上がる日本ポップス史についてささやかな論考を試みてみたいと思う。
まずはwikipediaとAmazonで彼女の名前を検索してみる。前者では一応記事が存在するが、バンド時代のものも含めて完全とは言えないラインナップと文章の総量は五秒で読み終われるほど。後者では一応幾つかのアルバムがヒットするものの、すべて品切れとなっている。
日本のポピュラー・ミュージック史上、数少ない日本国外での曲がりなりにも成功者であるが、それは東南アジアの一国に限定されている。かつ、彼女自身の親の片方がその国の出身者であるために「自国に戻った」としか認識されず、複数回に渡る日本時代での活動でも確固たる地位を築けなかった。
初めに留保しておくが、筆者自身はこうしてテキストにしようとするくらい、彼女のその才能について賛辞を惜しまない。
しかし、やはり客観的に、残された記録や批評を集められるだけ集めて見る限り、彼女のキャリアについて振り返るとこのような物言いをせざるを得ない。
それは彼女自身の活動遍歴にあり、また多くの本人自身には不可避の問題性も存在した。
話を続けよう。
まず訂正をすると、wikipediaに載っている出生年、一九五〇年というのは間違いだ。
一九六九年、グループサウンズ・バンド、ザ・ノックスでのデビュー時に、「十代の天才少女」という煽りをするためにプロデュース側の判断で二年サバを読まされた。
このとき彼女は二十一歳。つまり正式な出生年は一九四八年となる。
本人がバンド中期のインタビューであっさり明かしているので公然の秘密ではあるが、結局公式の記録ではこの十代でデビューという旗印は諦め悪く消されることはなかった。
同時にハーフであるゆえに帰国子女と称されたが、出生そのものはインドネシアであるものの、生後半年以降の育ちは日本の長崎県だ。母がインドネシア人、父が日本人。
両親は父が仕事の関係でインドネシアに滞在していた際に出会い、そのまま国際結婚。母の妊娠中に父に帰国の辞令が出て、連れ添って日本に渡る。生後八ヶ月で離婚。父親の側に引き取られ、仕事で各地を飛びまわる父に代わり主に祖父母によって育てられた。
子どものときから音楽や文学を好み、中でも原体験であるビートルズを聴いたときは「魔法のよう」だと思ったという。
母親は離婚時にそのまま帰国した。八五年のインタビューによると、それまでの生涯において記憶に残る限り、一度も顔を合わせたことがないらしい。
行方もわからず、インドネシア滞在時に興信所を使ったがついぞ消息を掴めなかったという。
「だから、わたしの書くラブソングはほぼ全部子どもがお母さんって呼んでる曲なのよ。彼氏? いたりいなかったりするけど、恋にのめり込むタイプじゃないし、なにより曲に使えるような男に会ったことないですね」そのような発言がある。
ザ・ノックスでのデビュー年は前述のように一九六九年。
服飾系の専門学校で出会った音楽好きの男女五人が意気投合し、バンドを結成。
趣味でクラブや近くの学校で演奏を披露していた。
元々全員が楽器経験者でテクニックはあり、また唯一の女性であるリズム・ギタリスト小山を含めたフロントメンバーのルックスも高く、またたくまに地元の界隈で人気のバンドとなった(なお小山は『紅一点』という呼称を強く嫌っている)。
そして、世間のロック・バンドの多くがそうであるように、評判を聞きつけたレコード会社の人間によって口説き落とされた。
特に強い意志があって学校に通うでもなく、全共闘やベトナム戦争に代表される六〇年代の終わりという時代の気風のなか、悶々と学生生活を送っていたメンバーはその話に飛びつく。これもまたあの時代のバンドの多くがそうであったように。
レコード会社側の判断で、いかにも美術系の学生らしいヒッピー的なファッションから脱却。当時ムッシュかまやつや堺正章、大野克夫らが所属していたスパイダースや、沢田研二や岸辺一徳が所属していたタイガース等に代表される一大ムーブメント、グループ・サウンズ・グループとして世に売り出されることとなる。
本人たちは内心そのような売り出し方について反発気味だったらしいが、それがデビューの条件であり、元々明確な活動方針があったわけでもないので、提示されたものには渋々ながらも従っていったようである。
結局バンド活動は最初から最後まで趣味の学生サークルの雰囲気のままだった、と後年小山はふり返っている。
アマチュア時代は流行のロックや往年のブルースのカバーと、それらにオマージュを捧げたようなオリジナル楽曲を演奏していたが、プロデビューしてからはほかの多くのGSグループがそうであったように、シングル曲ではプロの職業作家による楽曲の演奏を強いられた。
しかし、その甲斐もなくザ・ノックスはデビューから四年後(日数的には三年半後)の七三年に、これといったヒットも代表的なアルバムも残さぬままに活動の幕を下ろす。
その前年の七二年にはリリースも行わず、行っていたライブにも生彩が欠け(事実契約の更新のためだったと本人たちが断言している)、傍目にも解散寸前であるのは明白だったため、ファンを含めた大多数の人間は合点がいったというような様相だったらしい。
なんにせよ、活動の時期が悪かった。
デビューしてすぐブームの象徴であったスパイダースならびにテンプターズ(萩原健一所属)が解散。
翌年にはタイガース、そして実力派として知られたゴールデン・カップス、ヴィレッジ・シンガーズ、ジャガーズ、シーンの中核のバンドが次々と解散していき、グループサウンズという一過性の文化事態が滅んでいったのだ。
当時ピンキー・チックスなどメンバー全員が女性のGSグループも少ないながらも存在し、リズムギタリスト&コーラスの小山を配するザ・ノックスは男女混成バンドとしてそれなりの物珍しさはあったものの、その音楽性において強く歴史に残らないまま姿を消す。
時代の熱も冷め、世間は吉田拓郎や井上陽水、松任谷由美といったシリアスなシンガーソングライターやニューミュージック、ソロデビューした沢田研二や萩原健一といったギラギラとしたアイドルを求めていた。
バンドのボーカリスト、伊藤健悟も一応は解散後にソロデビューしたものの、母体自体の人気も薄かったため泣かず飛ばず。短い期間で引退する運びとなった。
結局、バンド解散後もなんらかの形で音楽活動を続けていたのは、小山一人ということになる。
しかしまた、それらの活動の最中に自らの音楽性と業界に疑問をもった彼女は、音楽業界そのものには残ったものの、一時表舞台からは身を引いた。
ここからしばらくは裏方、すなわち職業作家としての彼女の仕事が始まる。
徐々にモチベーションの下がる他メンバーとは裏腹に、プロ活動で揉まれることによって音楽に対しより積極的になった小山は、後期の多くの楽曲で作詞と作曲に携わってきていた。
それでいてシングルで使われるのは職業作家たちの曲ばかり。そのような状況が、自分もヒットチャートの世界で挑戦してみたい、と彼女自身を職業作家的な方向に進ませたという。
まずは、当時デビューしたてのアイドルのシングルB面曲に幾つかに歌詞提供をした。
流行していたオーディション番組『スター誕生!』からデビューした森昌子、桜田淳子、山口百恵の三人による通称『花の中三トリオ』の活躍により、当時は女性単独アイドルの花盛り時代だった。それゆえにその手の仕事は余るほどあったのだろう。
結局この時期に小山が携わった仕事では、いずれもが取り立ててヒットもせず本人たちもスターダムにはかけのぼれず時代の泡のように消えていった。
まだ新人だった小山はほとんどクライアントの指示に従って書いていたらしく、仕事としては四苦八苦した時代ならではの思い出があると留保しつつ、このときの仕事が後々の音楽界全体への疑問につながったと明言している。
その詞には卒業式を向かえる制服姿の女子校生が有り、恋人との明日のデートを楽しみにする少女が有り、ひと夏の恋の情景が、すなわち「いかにもアイドルらしい」世界観があった。
業界において先輩にあたる作曲家の手による曲先の要求、プロデューサー側のイメージでそれらの歌詞を書いた。アイドルたちはその彼女が書いた詞を、白いスカートを揺らしながら歌った。
小山はバンド時代にオリジナル楽曲でシングルを切らせて欲しいと直談判したとき、曲はともかくお前の書く歌詞ではダメだと断られたという。
お蔵入りとなったが、彼女曰く現代社会への不満を当時愛読していた米文学の主人公になぞらえて歌ったものらしい。
少女時代より読書好きであった小山はフェイバリットの作家として失われた世代の文学作家、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ハートフィールド、フォークナー、その他にはSF小説でハインライン、トラウト、レムなどを挙げている。
「ファンはそういうのを望んでいない」
この言葉を発したレコード会社の人間は、今になって当時を振り返ったときにも、いささか時代遅れな判断に映る。今現在に残っているあの時代の楽曲を見れば、小山のやろうとしていたことが、それほど浮き世離れしているものでないともわかる。
しかし、それでも極一般的な領域にはそれが許されなかった。先鋭したものを世に認めさせるのはかくも難しい。
アイドルにはアイドルとしての文法が強固なまでに存在したのだ。ロックンロールや文学についての文法がそうであるように。
そのまま小山は数年間疑問を抱えたまま、作詞家としての活動を続ける。
現代においてクラシックたりえるような目立った曲はないが、どれもいわゆる往年のアイドル時代、という射程範囲の中心に収まるような佳作が多い。
また歌詞もよく見ると、韻のぎこちなくも必然性のある単語の踏み方であったり、英語のフレーズの米文学のパスティーシュなどに個性は見て取れる。
そのような職業作家時代のことについて、「疑問を抱えつつもこのままなにもなければ、作詞家としての生涯を全うしていたかもしれない」と語る。
アーティストとして完全に満足のいくものでなくとも、仕事としては音楽業界の最前線に携われていることにやりがいはあったらしい。
では、その「なにか」とはなんだったのか?
七六年。当時一世を風靡していた山口百恵が、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドなどの活動でしられるミュージシャン宇崎竜童、作詞家の阿木燿子夫妻をライターに据えた楽曲『横須賀ストーリー』を発売した。
アイドルという固定概念を揺さぶりにかかる挑戦的な歌詞、ロック的な意匠(かつ宇崎本人が自称する「横文字のエンカ」的なドメスティックな歌謡性)を用いた攻撃的なサウンド。
それまでの山口百恵はトップアイドルとも言えども、「あなたが望むなら私何をされてもいいわ」というフレーズで知られる『青い果実』、「女の子の一番大切なものをあげるわ」というフレーズで知られる『ひと夏の経験』といった、当時のトップライター・千家和也による処女性を扱った――あるいは「ウリ」にした楽曲が多くを締めていた。
業界のトップがそれなのだから、メインストリームの脇で活躍していた女性作詞家がその状況に不満を抱いたのも無理からなぬこととも見える。
それについて、妻である阿木燿子とともに後期山口百恵のメインライターとして名を馳せた宇崎竜童は当時の状況についてこのように語る。
「こびてるように聞こえたんですね。メロディーのこび、詞のこび……ぼくは山口百恵は嫌いじゃない。歌ってる人、かわいそうだなみたいな、そういう感じがしてたの」
同時に夫婦揃って、だからこそそれを変えてやろうと思った。とも。
そして、その目論見は見事に成功した。
主にジャズ領域で知られる音楽評論家の平山正明は、七九年にこのようなタイトルの著作を発表している。
『山口百恵は菩薩である』
平岡ならではの洒落っ気とともに、当時の衝撃の大きさもまた伺える。前述の宇崎の発言のインタビューもここである。
小山もまた、『横須賀ストーリー』から端を発する全盛期の楽曲を聴いて衝撃を受けたという。
「たしかに音だけ聴いたら、わたしたちが既に通過していたブリティッシュ・ロックのサウンドを歌謡曲に着地させて日本人にウケるようにしたものだし、歌詞もテクニックは十分だけど横須賀の不良文化を舞台にしている点も含め、あの時代のドラマ的とも言える。山口百恵さんより歌がうまいアイドルだっていた。それでも、そういうことじゃないのよね。あの時代、あの瞬間、あの形からああいうものが出た。嫉妬? それ以上に、これなら自分ももっといけると思いました。ああやって歌謡曲のシーンが変わるなら、自分もまた切り込めると。そうかんたんなものではなかったですけどね」
同インタビューにて、意志をもった歌。小山は後期の山口百恵をそう評している。
同時に魂がこもった、なんて言い方はクリシェに過ぎないと。いかなる場末であっても、人が歌に込める魂に貴賤はないというのが持論だとも。
では、意志をもった歌とはいかなるものか。
「人形ではなかった。初めはいかにも人形のような、時代の着せかえ人形として世に見いだされた山口百恵さんは、あの瞬間意志を表出したんのですよ。じゃあ他のアイドルには志がなかったか? それは違います。そんな感情的なものでもない。歌に意志をはらませるのは、情熱以上にテクニックです。そしてそれを世間の口うるさいおやじども理解させる思考力。論理、と言ってもいいでしょう。なぜ少女が世に出たら、少女という存在に規定されなければならないんでしょうね? アイドルだろうが女子高生だろうが、ひとりの人間に意志がないなんてありえません。むしろあの時代、様々な形を通して彼女たちは、我々は世の中に色々な意志を見せつけていた。しかし良くも悪くも、アイドルという存在によって既定されてしまった少女像もあるでしょうね。それを歯がゆくも思います。構造は構造を産み続けますね。ヘミングウェイだって、後のハリウッド映画史でマッチョイズムとヒロイズムに回収されましたし。しかし、そのような当時の社会の力のパラドクスを、明確に歌に組み込んで昇華させたのは歌謡史におけるアイドルではあの人が初めて。意志ある歌というのは、技です」
技、小山は繰り返し主張した。感覚的な言なので、インタビューを呼んでもそれ単体だといささか意味がとりづらく、アーティストらしい感性とも切ってしまえるだろう。
しかし、彼女の遍歴を追ってみると、これがいかに重要なことかわかる。
片親の元に生まれ、東南アジア系とのハーフでかつ母は不在、父もまたほとんど家にいない。当時の日本の片田舎でそのような状況であれば、偏見に晒された子ども時代を送ったであろうことは想像に難くない。
趣味から始まった音楽で世に出るも「求められていない」の一点ばりで自分のやりたい音楽――これまでの人生で溜めてきた自分が語りたいこと、表現したいエネルギーを送り出せない。
そのような彼女だからこそ余計に、処女性を売りにしたアイドルから一転抑圧のなかのなすすべない反抗を歌った山口百恵を、憧れと嫉妬をも伴った羨望の目で見ていたのだろう。
自分もポップミュージック界に旋風を巻き起こしたい。ひいては時代に対し、アクションを。起こすべきだ。それが当時中堅の風格すらでてきていた小山の、職業作家的命題だった。
しかし、彼女が着々と書き溜めて提案しようとしていた企画はどこにも通らず、あくまでこれまで通りの元GSグループの女性作詞家、としてのイメージが求められる仕事のみが持ちかけられた。
「おいぼれは若い女のする仕事なんて、なにも信じてくれませんからね(笑)」というのが当時についての弁だ。
通らない企画の幾つかが塩漬けになったまま、七九年に山口百恵の引退発表を聞く。三浦和義との婚約と同時に発表されたそれは、当時の日本のメディアを大いに賑わせた。
多くの業界人がそれについてのディスカッションを続けるなか、小山は一貫してその様子を静観していたという。顔を合わせたことすらなかった相手だ。結婚するしないといってなにか感慨がわくわけでもない。
ただ、疑問があった。
「百恵さんが家庭に入るっていうこと?」
それについて考えたそのとき、己のなかに仮託していたものを知ったという。
「つまり、わたしは有り体に、自立した同性の姿を彼女のなかに見いだしていたに過ぎなかったんじゃないかってこと」
そうのように百恵引退から五年後に語っている。
自分の仕事で壁に当たり続け、目指すべき象徴も不在となった。
ゆえに、彼女は今いる場所から離脱をした。
八〇年十月五日、武道館にて行われた山口百恵引退コンサートよりさかのぼること三ヶ月。
若手演歌歌手のB面曲一曲最後に残し、作詞家として小山は日本の音楽界から身を引く。
かくして、彼女は渡米した。
元来贅沢をする性質でもなく、また交友関係にもあまり執着がない(だからこそ、日本の音楽界で常に好きな仕事を立てる地位には至らなかった。つまり、世渡りが苦手だった)、せいぜい本を読むか音楽を聴くこと以外に金を使わないので、得られた収入は祖父母に仕送りする分を除いてほぼすべてを貯金していたらしい。
売れっ子とはいえなかったが、数年にわたる芸能生活での稼ぎは一人でしばらく暮らすくらいはなんてこともなかった。
米国での履歴は陳腐な言い方をすれば、闇に包まれている。
というか、特になにか記録に残る活動があったわけではないので、本人の口から語られる断片的な思い出話しか情報がないのだ。
かろうじて、滞在中のほぼすべての時間をニューヨークで暮らしていたことだけが、帰国後に寄稿した主婦雑誌のささやかな生活雑記のようなエッセイで語られている。
それについても「高校生のころ田舎の実家で本を読みながら想像している米国の方が刺激的だったと思います。まあ、日本で余裕のある人間が長期旅行みたいな気持ちでいったところで、たぶんなんの真価も味わえないんじゃないかな」と語るにとどめる。
しかし、この米国生活が、小山の心境になにか波紋を投げかけたことは間違いないだろう。
彼女は数年の米国生活の末、帰国する。日本ではなく、出生地であるインドネシアに。己の血を分ける母が住んでいる筈の国へ。国籍は元より二重に有していた。
米国で得たツテか、はたまた日本で培ったものなのかはわからないが、彼女はインドネシアにて音楽活動を開始する。
言語はそのときには母国語である日本語と習得した英語しか使えなかったこともあってか、作詞家ではなく作編曲家としての再デビューだった。
インドネシアのポップシーン。
八〇年代後半の当時は『ポップ・クレアティフ』と呼ばれる、新しいシーンを形成していた。
以前までの(それこそ日本のそれにも近い)ウェットな情感を至上とした歌謡曲路線から、メロディ、リズム、和音ともにより複雑で現代性を取り入れ、ジャズやR&B、ロックといった最先端欧米音楽の要素も吸収していった新しいポップスの潮流である。
今現在はあまり聞かれることのない単語ではあるが、このときの発展が現代に至るまでインドネシアのポップスシーンを支えていると言っても過言ではない。
同時に八五年に日本のニューミュージック歌手、五輪真弓の『心の友』がインドネシア本国にて爆発的にヒットし、のちの音楽シーンにも大きく影響を与えたこともあり(『心の友』以降、同楽曲にオマージュされたような朗々と歌い上げるバラードが多く登場していた)、日本人の作曲家であれば参画しやすい土壌もあったのかもしれない。
デビュー時の所属バンドが撤退を余儀なくされた理由の一つにニューミュージックの登場があったことを考えると、些か時代の皮肉も感じられる。
しかし、彼の土地での彼女の評価は、おそらく日本でのそれを上回る。
なにぶん日本語圏では情報の入りづらい(得づらい)土地であるがゆえに、子細に正式な記録は参照できていないが、すくなくとも彼女の手による曲が三度ほど、インドネシアのチャートで一位を獲得している。
ほとんどの楽曲は非自作自演の歌手、それこそ、日本で言うところのアイドルや演歌歌手まで、節操がない仕事だったらしい。これに関しては、日本での活動と一致している。
彼女が放った曲は、徹底してリズム・ギタリストであった経験も踏まえたポップ。ブラックミュージックの構造を基盤としている。軽快な16ビート、リズミカルなホーン・アレンジ、煌びやかなサウンド。
さらに日本本国にてYMOの登場以降に潮流であった電子音楽、テクノの方法論もまた用いられている。シンセサイザー環境による、ある程度ならば一人でも簡便にトラックを作れる技術もまた、異国での孤独な仕事を支えた。
YMOのメンバーが活動中期から解散後に多く関わったアイドルへの曲提供における、通称『テクノポップ歌謡』からの示唆も大きいと思われる。
そしてインドネシアという東南アジアをグルーヴさせ得るための、失礼な言い方をすればポップミュージック後進国の人々にアピールするための、日本で培った歌謡曲性を携えた、そのような楽曲である。
彼女がなぜインドネシアの音楽シーンに入っていったか。それについては直接的には明かされていない。
しかし、そこにはのちの日本の音楽誌に対するインタビューで語られたこれら経緯が大きく関わっていたと思われる。
「アメリカの大きなアリーナで、偶然もらったチケットでマイケル・ジャクソンを観て。これだ、と確信した」
マイケル・ジャクソン。一九五八年出生
言わずとしれたキング・オブ・ポップ。
八七年、地球上でもっとも誰かが持っている率の高いアルバム『スリラー』に続き『BAD』を発表した彼はまさに音楽的全盛期であり、世界中を見回しても他に併置できるもののない圧倒的なスターだった。
小山は音楽関係の知人の紹介により、地方でのライブを観られたらしい。ちょうど小山自身も愛聴していた(八〇年降彼女はハードロック・ヘヴィメタルからギタープレイの影響を受けていた)ガンズ・アンド・ローゼスのギタリスト、スラッシュが帯同していたことがライブへ興味をもったキッカケらしい。
同インタビューによると席はスタンドの前から数列目。ステージのアクションと、会場でいま起こってることがクリーンに見渡せたという。
ここで小山が得たチケットがスタンドではなくアリーナだったなら、これ以降の彼女の人生も今とは違うものだったかもしれない。つまり、ライブを俯瞰できる地点でなければ。
彼女は語る。
「マイケルのステージはそれはもちろん圧倒的だったんですけどね。声の張り、流麗なダンス、そして最高のバンドと共に、そうそこが彼が生粋のアーティストたるゆえんでしょうね。彼のバンドはただのバックバンドではないんです。音楽的にはまったく並列なまま歌で一緒にグルーヴしてる。そして、それを自分の圧倒的なステージングでねじ伏せて、もう一度バックバンドに、テクニカルでグルーヴしてるバンドを、バックバンド以外にはあり得なくしているんです。ああ、いいですけどね。と言った理由? ステージはパーフェクトでしたよ。ですが、パーフェクトすぎて、民衆がショートしている。マイケル・ジャクソンのブラック・ミュージックとしての精度と純度を踏まえた上で言いますが、ああいうことが、ポップミュージックの世界で起こりえるのかと」
日本での活動を退いて以後に能動的な活力を失っていた彼女は、そのときポップミュージックに利力を視る。
この時代のマイケルの相棒は二十世紀音楽史に残る名プロデューサー、クインシー・ジョーンズである。
この頃の楽曲を今日において聴き返すと、実に奇妙な感覚を覚える。
日本人であるわたしの耳にインドネシア語は馴染みが浅い効果も強いだろうが、そこにさらにアレンジやメロディにどこか日本のロックと歌謡曲の気配が見え隠れするのも、よけいにそれに拍車をかける。
ポップ・ファンクの神とテクノ・ポップの機械を手に入れた、日本育ちで日本の音楽界で腕と価値観を磨いたジャパニーズ&インドネシアン・ハーフが、インドネシア人のボーカルと同言語の詞を得て作った楽曲。それはあたかもポピュラー・ミュージックの混血性を証明している。
ねじくれたポップセンス。と言ってしまえばそれまでだが、逆にそのあけすけのなさがすべてのポップミュージックはねじくれているのだと主張するかのようだ。
しかし、一大ヒットには恵まれない。国民的ヒットのようなものには。年間チャート上位のような。
悪くはない打率。高い技術の音楽的完成度。日本の業界で磨いたショービジネスの感覚。なによりも多作であるということから、このころインドネシア本国にて仕事はひっきりなしにやってきたようだ。
創作意欲そのものはピークを極めている。
その成功を異邦人であるから本国人の本質的な感情がわからなかったとも、音楽的に挑戦的すぎて受け入れられなかったとも後付けはいくらでもできる。しかし、ショービジネスの世界というのは、元々それほど多くの圧倒的成功者で占められているわけではないのだろう。
いずれにせよ、彼女は再び海を渡ることとなる。
自分がデビュー当初より手がけていた若きボーカリスト、マリアナの事故死。
それが大きく関わっていたと言われるが、小山はその手のことについてはほとんど語っていない。
ただ、一回忌には「本当のスターを見つけたと思いました」というコメントのみを寄せている。
小山のチャート一位の楽曲三曲のうち、二曲はマリアナとのコンビだ。
かくして彼女は日本でのそれに続いて、インドネシアでのキャリアのほとんどを捨てた。
このころ、日本国内ではバブル経済の終わりというような契機もあり、ようやく欧米至上主義ではなく成長めざましいアジア各国への目線も強くなっていっていた。
それにより、東南アジアの音楽シーンで活躍する日本出身の小山の存在もサブカルチャー色の強く音楽雑誌などでは、ささやかながら取り上げられることもあったようだ。
あるいは同郷の手によるファンク調のインドネシア歌謡曲を、それとなく揶揄する向きも少なからずあったのだろう。
けれど、そのころ小山は既にインドネシアにいない。
今度のNYで彼女は、裸一貫のままに音楽修行を始める。
失意の上か、新たなる挑戦心か。街角で弾き語りをしたり、ブルース・バーでギター演奏をしていたらしい。
そのころの話については、日本国でも若干注目を浴びていたこともあり比較的入手しやすい音楽雑誌などにもインタビューが載っている。
「楽しかったですよ。インドネシアでの生活上英語はそこそこ習得していたから日常会話くらいならそんなに困りませんでしたし。まあ、アジアの小娘がなにやっていようが大して注目もされませんでしたが(笑)」
そして、このときに小山は一つのカルチャー・ショックを受ける。これを筆者は彼女のキャリア史上三回目のターニング・ポイントに位置づける。
九〇年代。時代はグランジムーブメントに沸いていた。
八〇年代後半にチャートを侵食しきっていた商業ロックを痛烈に批判し、かつてのパンクミュージックをより先鋭的に、そしてオルタナティブ・ロックの痛切な部分をより研磨させて。
ニルヴァーナ、パール・ジャム、スマッシング・パンプキンズなどのバンドが時代の最前線にいた。
彼らの多くは初めはアメリカの片隅、シアトルから小さなライブハウスでのライブを繰り返し、やがては全米全土の多感な若者の心を熱狂的につかんでいっていた。
小山もまた、彼らのライブを目にする。複数回。NYに多く住む異邦の音楽的住人であった彼女は当然のように、地元のライブハウスに通っている。
そして、九六年のロラパルーザ。オルタナティブ・ロックシーンの中核を担った、大型の野外ロックフェスティバル。
ここに彼女は観客として行っていたらしい。
その時のことについて、しばしば不定期に寄稿文が載る婦人雑誌に掲載されたエッセイがある。
減塩料理(おりしも日本の世はヘルシー健康ブームが起きかけていた)レシピの横に、オルタナティブ・ロックフェスについてのレポが載っているのだ。
そこで小山は圧倒的な興奮をもって、このライブについて伝えている。
当時の大トリはそれまでスラッシュ・メタルの革命家、そしてメタル界の帝王となっていたメタリカだった。
彼らは当時、音楽性を大きく時代に対応したものに変化させていた。つまりグランジムーブメントの影響を強く受けた音楽。
それによって旧来のファンからは批判を受けつつも、新しい音楽を求める若者に呼応し、熱烈に受け入れられていた。当然のようにヒットチャートも駆け上っていた。
オルタナバンドフェスに彼らがそのような大きな扱いで出演できていたのも、そのためだ。
ただ、商業的にも評価的にも成功を収めたものの、大メジャー・バンドであるメタリカをヘッドライナー(大トリ)で出演させたことには異を唱える声も多く、主催者のペリー・ファレルはこの年を最後にその任から降りている。
小山自身は八〇年代ごろからメタル贔屓であったため、彼らの変化は衝撃的だったと語っている。
自分が渡米して一番初めに受けた新しい音楽的ショックに、以前より愛聴していたバンドが呼応し、そして成功していたという事実は彼女に火をつけた。考えてみると、火のつきやすい体質である。
婦人雑誌におけるエッセイでは、新鋭のグランジバンドへのラブコール以上に、メタリカについて熱っぽく語られている。
文の終わりにして本人自ら、「あこがれの先輩へ出す予定のラブレターのようだ」と自嘲しているほどに。
そして彼女は帰国する。今度は日本に。
インタビューによると、米国で音楽活動をすることも考えたそうだが、やはり人種の壁は大きく、なによりも自分の腕では米国民を熱狂させることはできない。考えたゆえに、己の東南アジアでの経験とアメリカでの衝撃を日本に持ち帰ろう、そう思っての行動らしい。
それまでも交友関係やビザの関係、休暇でしばしば日本には行っていたゆえに日本の土を踏むこと自体これといって感慨はなかったと、笑いながら語っている。
しかし、ことはそうかんたんにはいかない。
当時の日本は、かつて小山のいた時代に花盛りだった歌謡曲という単語も廃れ、JPOPという、現在でもまた現役の概念が勃興していた。
若者のカラオケ文化、ケータイ文化、ポケベル文化、トレンディ・ドラマの流行。
しかし、長年ショービジネスに浸っていた彼女はその手のことには今更動揺はしない。だから、それについては対応しようとする。
ただ本人がどう思おうが、メジャーシーンでの職業作家としての活動はやんわり、そして毅然と断られる。
インドネシアでの成功は、色物以上の評価が得られない。
向こうでの扱いとはまったく逆だったのだろう。
小室ファミリー、という言葉が当時踊っていた。クラブ・ミュージックをJPOPに持ち込み、大成功を納めていた。(なお小山本人は八〇年代当時に小室が一メンバーとして在籍したTMネットワークを、エッセイで好意的に評価していたことがある)
時代はファッショナブルなものを求めていて、そしてかつての国内でのキャリアは失墜している。あるいは国内で活動していた人間も一部を除いてその流れに呑まれている。
それなら、と彼女は考える。
誰も歌う相手がいないならば、自らが歌えばいいのではないだろうか?
小山はインディーズから再出発を決める。四十代にて、初のシンガーソングライターとしてのデビュー。
あるいは大きな期待を寄せていたマリアナの死からは、誰かに曲提供することにもそれほど興味がなくなっていたのかもしれない。
ツテを頼ったレーベルからアルバムをリリースし、各地のライブハウスをツアーで回る。
いま現在彼女の楽曲を聴いてもっとも先鋭性を感じられるのはこのころだろう。
アレンジそのものは、アコースティックギターを主体としたものが目立つ。荒々しくもフォーキーな感覚。例えばそれはニール・ヤングの諸作に近い。ニルヴァーナのカート・コバーンを筆頭にグランジ勢がこぞってリスペクトを公言していたニール・ヤングに、小山もまた影響を受けたとするならば自然なことだろう。
ポップスとして音を加えるアレンジを知っているからこそできる、空間の空いた音響。
歌謡曲時代には時代のズレがあったからこそ、逆に叙情めい映える歌詞。
それらを彼女自身がどこかもの悲しい歌声で歌う。
それもまた時代性によって受け入れられはしない。もしくは、歌謡曲時代のアイドル作詞家にしてインドネシアポップスの作曲家、という自身の立ち居地によって。
今改めて聴いたならばそこにオルタナティブ・ロックの感性を受けとることは容易だが、当時からするとそれはいささかフォーキーに過ぎたかもしれない。
それに、彼女自身が長く産業的な音楽の側に居続け、そこで成功を収めていたのは事実だ。筆者であるわたしも彼女に肩入れし過ぎて気づかないだけで、その気配というものは消せないものだったのかもしれない。つまり、老いて贅肉のついた、というような。
もっとも、本国でのグランジ・ブーム時代も既にカード・コバーンの死、そしてシーンの中心であったバンドたちの様々な失速によって既に終わっていたのだが。
後に国内のオルタナティブ・ロックバンド、アートスクールの木下理樹は「日本には初めからオルタナティブ・ロックの成立する土壌が存在しなかった」とも看破している。
そのような気風のなか、彼女はそのままインディーズにてシンガーソングライター活動を続ける。
一年中小さなライブハウスやバーをギター一本抱えて回っていく。それに関しては、米国での音楽修行時代に似ている。なので、実際に活動するにあたって彼女自身はそれを苦には感じていなかったのかもしれない。
第一に、自分のやりたい音楽を、ようやくやりたいように出来ているのだから。
ローカル活動に始終し始めたこの頃になって、彼女の活動履歴を追うことは困難になっていく。
生活費に関してはインドネシア時代の印税で未だにまかなえている、とMCで語ったことがあるとネットのライブレポに残されていたのを発見した。
アルバムそのものはコンスタンスに自主レーベルから発売されている。
わたしの手元には一応すべてが揃っている。
2ndは1stの三年後に発表され、音楽性に関しては前作をそのまま踏襲している。3rdではエレクトロニカに接近し、911後に発表された4thでは社会的な歌詞が増えた(冒頭に書した工業廃水問題の記事の切り抜きモンタージュのジャケットはこの作品だ)。
いずれも、小山玲子らしい楽曲であり、これこそが彼女が本当に表現したかったものだというのが伝わってくる。
二〇〇〇年代に還暦を越えた彼女はなおもコンスタンスに音楽活動を続けていたらしいが、アルバムの発表もしばらく途絶え、メディアに登場することもなくなり、その存在はいささか伝説めいてくる。
ここに到達してからは、情報を得ることがほとんどできなくなっていった。
かと思いきや、インドネシアの『あの人はいま』的なバラエティ番組にあっさり出演していたこともあるという。
その件についてネット検索していた筆者は、youtubeで当該動画の一部があるインドネシア人によってアップロードされているのを確認した。
コメント欄にてつたない英語で彼に質問をすると、インドネシアでの小山玲子事情について幾つか興味深い話を教えてもらえた。ここで小山のインドネシア時代の活動については、ほとんどが彼から教えてもらったものだ。
なお、彼女は二〇一〇年にインドネシアに再び移住し、今度は昔の自分が提供した曲をセルフカバーしつつ、インドネシア全土でもまた日本でしたときと同じように、小さなライブハウスやバーをツアーして回っていたという。
彼女が日本を離れた理由を、筆者はマイケル・ジャクソンの死去と関連付けたくなる。明確な根拠はない。これまでの彼女の遍歴を見ていると、音楽的に強いショックがあるごとに、大きく移動をしなければならない性質のようだからだ。
逆に、音楽と関係していない生活のことならば大して影響が見受けられない。二度目の日本時代に結婚、出産、離婚を短い期間で経ているが、それについて本人がなにか感じ入った様子はどうにも見うけられないからだ。ちなみに父親は、バンド時代のボーカリストであった伊藤健悟だ。親権はさっさと父側に譲渡してしまっている。
さて、彼女は二度目のインドネシア時代には、幾つかのインドネシア語によるオリジナル楽曲も発表するようになっていた。
本稿のタイトル作、『MJは異星の客である』とは、マイケル・ジャクソンが亡くなった調度一年後の命日にて、追悼としてアップルのiTunesにてひっそりと発表された、インドネシア語の楽曲の和訳だ。
そこに添えられたコメントによると、日本でまだ結婚生活を送っていたときに息子にせがまれて観に行ったSFコメディ映画『メン・イン・ブラック』にて、プレスリーが実は宇宙人であり「彼は(死んだのではなく)自分の星に帰っただけだ」という台詞からインスパイアされたものであり、昔からファンであったハインラインの代表作の引用でもあると語っている。
グーグル翻訳に頼った翻訳だから、いかんせん内容に頼りないがご容赦いただきたい。
そこで彼女は熱っぽく、(インドネシア語で)自分がようやく音楽的真理にたどり着いたと主張している。
真のスターとは、異星人なのであると。
だから、己の目の前から短い時間で去って行った者たちは、みんなスターで、自分の星に帰っただけだという。
老人の耄碌とも、茶目っ気あるジョークとも、どちらとも取れる。
いずれにせよそれ以降、彼女の公式な音楽活動は完全に途絶える。
ちなみに、前述のインドネシアの『あの人はいま』的なバラエティ番組に出演したときの小山は、やたらと熱っぽく日本の当時の大人気アイドルグループ、AKB48について語っている。子細については(言語ゆえに)わからないが、最後の最後に、
「あれだけ沢山の人間を集めたなら、そのなかにはもしかして本当に異星人がいるかもしれないですもんね!」
とウィンクしながら言っているようだ。
このいかにもおばあちゃんらしい可愛らしさに溢れた発言に、今まで見せてきた飽くなき挑戦心の欠如を見るのはあまりにうがちすぎだろうか?
そして音楽シーンにおいてどこの国であろうが、どこの言語であろうが、小山玲子の足跡を見つけられることはなくなった。
彼女は完全に表舞台から消えてしまった。
筆者すらそう思っていた。
さて、余りに多くニュースに取り上げられたここからは、みなさんご存知の話になってくるだろう。
昨年、二〇二八年。あるおどろくべき報が我が国どころか、世界中に飛び込んでくる。
アメリカ合衆国の始めた、月へのテラフォーミング実験に八十歳の女性が立候補し、入念なチェックを悠々クリアして既に第三次ロケットに搭乗していたというのだ。
氏名は嫌になるくらいニュースで流されたとおり、レイコ・コヤマ。日本人とインドネシア人のハーフの元ミュージシャンであり、現在は米国籍のバー経営者。
発射場でヘルメットを片手に、優雅に手を振る老婦人の姿は、いくらでも動画で見られるだろう。
そして彼女はその数ヵ月後、すなわち半年前に月の実験都市から忽然と姿を消した。
当局ならびに国連の調査によると、厳重なチェックをかいくぐり一台の月面移動車がドーム都市から外へと出ていっていたという。
なんらかの事件性があるのか、それとも錯乱した老人の奇行か。ありとあらゆる機関がそれらについて躍起になって調べている。世には陰謀論やオカルトが巡っている。
わたしの元にすら取材が殺到した。
そこではシラを切り通していたけれど、実は失踪を確認された十日後に、彼女からのEメールがわたしの仕事用のアドレスに届いていたのだ。
そこには丁寧な文面で、月の裏側でようやく母を見つけた、という旨の言葉が綴られていた。
追伸にはあの冗談めいた口調で、異星人の血は半分だったから自分は地球では本物のスターになりきれなかったのだろう、とあった。
それを契機にわたしはこうして彼女の履歴を一から追ってみようと考えたのだ。時代と同時に小山玲子のアンビバレンスな音楽人生をふり返るなか、様々なことに気づきかされた。その困難と、孤独と。同時に、あのメールの意味もまた。
しこりを抱えた少女時代から、ひょんなキッカケでショービジネスの世界に入り、苦難と挫折と疑問を抱え続け、無数の熱狂と同じ数の失意があった。それはいかなる人生だったのだろう、まるで最後まで冷めない魔術にかけられたかのような。
――けれどだからと言って、わたしを捨ててこの国どころかついには星からも出て行ってしまったあなたを、どうしても許せないんだよ母さん。
(了)
MJとは異星の客である