離ればなれ、だけど。
ぼくは拾われたそうだ。つまり捨てられていたそうだ。でも猫のぼくは覚えていない。ぼくを家へ連れて帰ってくれた人も――つまり命の恩人の顔も――正直、覚えていない。だけど、たまに温度を思い出す。それはとても優しい温度だった。ぼくの飼い主が冬になると朝に飲んでいるミルクより、記憶の中でぼくを包んでくれた温もりは強い。猫舌のぼくだから、あまり温かすぎるものは嫌いだけれど、ぼくの好きだと言える温かさだ。
ぼくを助けてくれたおばあちゃんは、他にもぼくと同じように捨てられたりした猫や犬を拾うなんとか会の、一番偉い人らしい。拾われたあと、ぼくはそのおばあちゃんの娘の家に行ったらしい。それはぼくが二歳くらいのときだった、と今の飼い主から聞いている。おばあちゃんの娘の家に行った理由は、よくわからなかった。びょうき(?)、というものがおばあちゃんに見つかって、にゅういん(?)が云々で、娘が一時的に引き取ったんだと聞いたけれど、やはりよくわからない。人の言葉はさすがに猫のぼくでもある程度は理解できていると思う。だけれど、ぼくは人の言葉を話せないし、難しい言葉もわからない。びょうき(?)とか、にゅういん(?)とか、そんなことまでぼくはわからない。
それからぼくは一度、新聞などで載ったらしい。それを見て、今の飼い主はおばあちゃんに電話をして、ぼくを引き取ったらしい。飼い主の家にきてすぐのとき、人見知りのぼくはすぐに棚の影などに隠れたらしい。トイレも我慢して、ご飯をたまに食べるくらいの様子だったと今の飼い主は言っていた。たしかに、それはあるだろうなと思った。初めて会う人、っていうのはどうも苦手だ。何で人っていうのは、ぼくのことを知らないはずなのに、あんなにすぐ触ってくるのだろうか。抱っこもされたことがある。最初からあの距離感でこられると、ぼくも参ってしまう。
そして、今こうしてぼくはこの家で暮らしている。この家は好きだ。とても落ち着く。ぼくの飼い主は朝に、いつも何か飲んでいる。それが何か気になってぼくはいつも近寄るけれど、コップから立ち上がってぼくを見つめてくる湯気だけで、ぼくの嫌いなものだとわかる。その飲み物を「ミルクだよ」、と飼い主は教えてくれた。甘い匂いがふわっとしているミルクを平気そうな顔で飲んでいる飼い主は、前に、ぼくにもう一つ教えてくれたことがある。ぼくには弟がいるらしい。
ぼくには友達がいる。友達はぼくとは違って体の色が真っ黒で、首になにかを巻いている。友達にも、ぼくと同じように飼い主がいて、家がある。ぼくもよくその家の庭に遊びにゆく。そこでいろいろ友達とおしゃべりをしたり、たまにおやつを貰ったりする。
「お前さ、兄弟がいたんだろ?」
「うん。そうらしいね」
「どんな奴だったのか、覚えていないのか?」
覚えている。そう言いたかった。だけれど、覚えていない。でも、忘れたわけじゃないのは確かだった。ぼくの記憶には、煙があった。その煙からは、女の人の声や、男の人の声、そして、また違う猫の声が聴こえてくるのだ。多分、その猫がぼくの弟なのだと思う。だけれど、煙の中の弟がなにを言っているのかも、どんな姿なのかも、ぼくは見ることができない。
「どんな奴だったんだろうね、覚えていないや」
「そっか」と友達は残念そうに言った。「うん」とぼくはうなずきながら、遠い空を見ていた。小さな雲が浮いている。あとは全部青い。あんな青い空から、雨が降ったり、雪が降ったりするなんて考えられないくらい青い。こうやって庭のウッドデッキに横たわりながら空を仰いでいると、懐かしい気持ちになる。どうしてかな、と理由をかいさぐろうとしたとき、ある景色がぼくの頭にあの雲と同じくらいの小ささで浮かんだ。それは今と同じように、庭から青空を眺めている光景だ。ぼくは誰かのお腹に顔をのせて、それにくっつくように寝ている。日向がこぼれている。とても温かくて、やわらかくて、ぼくと同じ匂いがする。次にまた誰かの手が――これは人の手の平だとわかる――ぼくの頭を撫でてきた。誰の手だろう。人見知りのぼくだけれど、この手は嫌じゃない。誰の手かわからない。だけれど、ぼくはこの体温を知っている。知っているのだと思った。
「なあ」と、友達は言う。ぼくは「うん?」と耳をかたむける。「突然なにを言い出すのかな、って思うかもしれないけれど、いいかな? 話して」いいよ、とぼくは返事した。ありがとう、と友達は礼を述べて、話はじめた。
「思い出せない、っていうのは仕方ないことなんだ。たとえそれが忘れてならないことでも、思い出さなきゃならないってことも。記憶から薄れてしまうのは仕方ないことなんだ。俺たち、猫なら尚更だと思う。お前は弟のこととか、いろいろ気になって悩むことはあるかもしれない。だけど、仕方ないんだ。俺かってそうさ。俺はペットショップ、っていうところで貰われたらしいけど、そんときの記憶なんて覚えちゃいない。でもよ――」
彼がぼくの名前を呼ぶ。ぼくはその話をじっと聴く。
「寂しかった、という感覚と感情だけは覚えているんだ。なぜかわからないけど。あのとき、寂しかったんだ。とても息苦しかったような感覚が、いまでも残ってる。でもどうして寂しかったんだろう、とかは思い出せないんだ。なあ、――。お前にも、そういうのは、忘れてないんじゃないか? 全部忘れてしまった、なんてこと。ありえないんだぜ」
ぼくが忘れていないこと。温度、とぼくは小さな声で呟いた。「ん?」「……温度。とても温かかった手の平の温度」ぼくを拾ってくれたおばあちゃんの温度、ぼくの頭を撫でてくれた手の平の温度、ぼくと一緒に重なって寝ていた猫の――弟の――温度、匂い、空の色、覚えている。ぼくは忘れてなんかいない。今とは違うけれど、ぼくの名前を呼んでいる誰かの声を覚えている。確かに。
「だろ?」友達は笑い出した。「覚えてないはずないんだよ」
「ありがとう」、とぼくは彼に言った。
「なあ、――」彼はまた「今の」ぼくの名前を呼んだ。
「ん?」
「夢を見ろ」
「夢?」
「ああ、夢だ。人も、猫も、眠れば夢をみるさ」
月がぼくの瞼を閉じさせる。青かった空に星が生まれ、月が笑い声を満たしている。ぼくは眠って、夢をみる。その夢は、思い出の夢だ。きっと起きたら、この夢のことも薄れていってしまう。だけど、ぼくは夢をみる。ぼくと同じ匂いがする。誰かがぼくらの名前を呼ぶ声がしている。誰かがぼくらの傍にやってきて、その優しい温もりで小さな体のぼくらを手のひらで持ち上げてくれる。また甘いミルクの香りで目を覚ますまで、ぼくは夢をみる。 END
離ればなれ、だけど。
猫のお話でした。実は、二匹預かっていた兄弟の猫がおりまして、ついさっきその片方が引き取ってもらったんですね。そのとき、弟のほうが僕の家に残ることとなったんですが、兄だけがゲージに入っているのをみて、二匹とも見つめ合って鳴いていました。僕の家にいたのは一ヶ月ほどでしたが、そのときは確かに家族だったことを、あの子にも覚えていてほしいです。