朱色のしるし (少女探偵Sの事件簿1)
シリーズ1作目。出会いのお話です。(400字詰め原稿用紙換算99枚)
1
変な女の子がいる、と、その時思った。
放課後。中庭に面した廊下を歩いている時に、僕は彼女を見つけたのだ。ベンチに腰かけた数人の女子たちが楽しそうにおしゃべりしている脇で、彼女は四つん這いになっていた。中庭はレンガ敷きだけど彼女は植えこみの土の上にいて、繁みの中を覗きこんでいた。ブレザーのわりに華奢な肩や背中に、ゆるく波打つ黒い髪が流れていた。制服のスカートは、ついた膝の下敷きにされている。ベンチの女の子たちが地面に這いつくばる彼女に気がついたようで、おしゃべりをやめけげんな顔を彼女に向けた。でも、それに気がついたらしい彼女が顔を上げて何か言い、何度か会話を交わすと、女の子たちは納得したようにおしゃべりを再開した。しばらくすると、彼女たちはベンチから立ち去った。
授業が終わってだいぶ時間が経っていた。部に所属している生徒は部活動中で、それ以外の生徒はほぼ帰宅しているのだろう。そういうわけで、彼女たちが去ると、辺りは急に静かになった。
その女の子は、なおも地面を這いつくばっていた。僕はもっと近くで彼女の様子を見てみたくなり、頭の中で理由をこしらえた。彼女がいる植えこみの横には花壇がある。僕は美術部で、絵にするモチーフを探している、ということにしよう。ちょっと変な人みたいかな。でも彼女の方が明らかに変だし。それに、他に見ている人なんて、いなさそうだし。
僕は絵に描きやすそうなポイントを探すようにきょろきょろしながら、中庭に踏み出した。彼女との間には、まだ相当の距離があった。それなのに、赤レンガ敷きの中庭に一歩踏み出したとたん、彼女はぱっと顔を上げてこちらを見た。
乱れた長い髪に葉っぱがついている。頬は土がこすれて汚れている。けれどおそろしくきれいな顔立ちだ。その視線が妙に力強いので、僕はたじろいだ。色白で、妖精みたいな澄んだ空気をまとっているのに、どこか動物めいたその目はやけにびかびかしている。
僕は彼女に注意を向けているのを悟られないように、ふいっと反対側の花壇に目を向けた。彼女はすぐに繁みの中に目を戻した。僕は彼女に背を向けるように、しゃがんで花を覗きこむ。それからすぐに立ち上がって、彼女の様子をうかがう。そうこうしながらちょっとずつ近づいた。
「コンタクトを落としたんだ」
彼女との距離は、三メートルと離れていなかった。ふいに彼女が言った。大きくはないけれど、凛として、明瞭に響く声だった。まわりに人はいない。ということは、僕に言っているにちがいない。
「そ、そうなんですか」
僕は知らない子から突然話しかけられて驚いている風をよそおって答えた。いや、実際に驚いていた。たしかに僕は彼女の行動が気になって近づいたわけだけど。でも、実際に質問したわけじゃなかったのに。
「その答えで君は納得する?」
彼女は這いつくばったまま、その赤ん坊のようにまっさらな印象のある顔を突き出すように僕に向けて言った。近くで見ると、長いまつ毛にふちどられたその大きな目は、ますます迫力だった。僕は目をそらし、少し離れた地面を見ながら訊ね返した。
「……片目を落としたんですか?」
「片目を落として片目にコンタクトが入った状態で、物を探すのは至難のわざだよ」
「じゃあ、残った方もはずしたら」
「コンタクトをしているってことは目が悪いのに。その目で探し物をするのは、やっぱり大変だと思わない?」
「眼鏡は持っていないんですか?」
「うん、眼鏡をかけていたら説得力があるかな」
彼女は言いながらふるふると頭を振った。ついていた葉っぱがぱらっと落ちる。
「そもそも、使い捨てでないコンタクトを落としたとしたら、もうちょっと悲愴な顔をしているんじゃないかな。どう思う?」
僕を見上げて、彼女は訊ねた。
「それは人によると思うけど。あんまり顔に出ない人もいるかも」
「それは一理ある」
「あ、コンタクトを落としたのはあなたじゃなくて、あなたの友達とかですか?」
「お、それはいいね」
彼女は四つん這いで顔だけ僕に向けたまま、妙に嬉しそうに笑った。
「でも君はわかっている。私が本当はコンタクトを探しているのではないことを」
挑戦的に彼女は言った。
「さっきの子たちは、私が『コンタクトを探してる』と言ったら納得した。一緒に探してあげようか、と親切にも申し出てくれたから、いい子たちだとは思う。でもどうして不自然だと思わなかったんだろう。彼女たちは私が来るより先にここにいた。私はやって来て、探し始めた。変じゃないか?私がここで落として、残った片目のコンタクトをはずして戻ったのだとしたら、眼鏡をかけているのが自然じゃないか?眼鏡は携帯していなかったから仕方なく?それにしたって、コンタクトを落とした時の私は何をしていたんだ?そこを歩いている時にたとえば急に目が痛くなって、こっちを向いている時に落としたとする。ならこの繁みを探すことは不自然じゃない。でもそうだとしたら、立っていて落としたなら、葉にひっかかる可能性の方が高い。普通は上から探す。こんな風に下から先に探したりしない。なのにどうしてあの子たちのうち誰も、そこをつっこんでくれなかったんだ?」
彼女の目に、吸い込まれそうになる。僕は少し考えて、ちょっと目をそらすようにして答える。
「別に、どうでもよかったからなのでは」
すると彼女は、世にもかなしそうな顔をした。お尻をぺたんとつくと、スカートの上に手を置いて、力なく座りこみ視線を落とす。
「そうか。そうだよね。誰もそんな、真剣に考えたりしないよね」
僕は、急に彼女がしょんぼりしたことにうろたえた。
「その、なんで僕はわかってる、と思うんですか。あなたがコンタクトを探しているのではないとわかってるって」
僕が言うと、彼女はちろりと顔を上げた。すっかり生気を失った目が、それでも潤んだように澄んでいる。
「だって、そうだろう?」
「いえ、その、なんとなくそう思った、ですけど」
「『なんとなく』。ふふん、『なんとなく』。それもいいけど、せっかくだから何か理由を見つけてくれないとつまらないな」
彼女はなぜか急に元気になると、小馬鹿にしたように言った。僕はむっとしながら、なにかがそもそもおかしい気がして、状況を、頭の中で整理し直した。
「つ、つまらなくて結構ですよ。僕は、絵に描くのによさそうな花を探しているだけだし」
自分の決めた設定に立ち返って、僕は言った。
「君は美術部?」彼女は訊ねた。
「そうですよ」僕は答えた。
「君は嘘つきだな」彼女は言った。僕のうろたえを冷めた目で見ながら、
「美術部が活動中に写生場所を探すのなら、スケッチブックを持っているはずだ。手に何も持たずに下見に出たりなんて普通しない。それでも敢えてそうしている理由をいくつか想定することは不可能ではないけれど、大変くだらないことに、私は美術部員の顔と名前を全員把握している。それに加えて君のことも知っている。二年三組に編入してきた渡瀬敦くん。君はまだどこの部にも入っていない。前の学校で、君は美術コンクールで何度か入賞した。君は絵を描くことに強い関心を抱いている人間だ。だから自分にとってなるべく無理の少ない嘘をつこうとした。その点は、そう悪くないと言えるけどね」
それだけ言うと、すっと立ち上がり、彼女は歩き去った。
彼女に言われたことについて、何か言い返したいような気持になってきたのは、次の日になってからだった。嘘と決めつけられたけど、完全な嘘というわけではない。確かに僕は今美術部員ではないけれど、前の学校でそうだったし、これから美術部員になるつもりなのだから。そして描くものを探していたのだって、単なるでっちあげではない。確かに花壇の花を描く気はなかった。でも僕は、たいていいつも、「描きたいもの」を探している。というか、何か心にぴんと来るものがあると、「描きたい」と強く思う。僕があの時描きたいと思ったのは、這いつくばっていた彼女だ。もちろん本人に、そんなこと言えないけれど。
それにしても、どうして彼女は僕のことを知っていたのだろう。五月という中途半端な時期に編入して来る者は珍しいと言われた。だから名前を知っているぐらいならおかしくはないかもしれない。でも、美術コンクールで入賞したことなんて、僕はクラスメイトにだって宣伝した覚えはない。僕の知らないところで、実は僕の情報は出まわっていたりするのだろうか。
2
「僕は実は有名人なのかな、須田くん」
編入してきてはじめに話しかけてくれたクラスメイトの須田くんに、僕は訊ねてみた。須田くんはふっくらとした体形で眼鏡をかけていて、ゆるさと知性が同居している雰囲気だ。男子にも女子にも知り合いが多くて、この学校のいろんなことに精通している。
「それはない」
眼鏡の奥の目を知的に光らせながら、須田くんは答える。席は僕のひとつ前。
「だって、この時期の編入生ってめずらしいんだろう?」
「めずらしい。でも、話題になる要素が足りない」
厳かにそういうと、須田くんは、僕たちの隣の列にいた女子二人組に目を向けた。片方の子はどうやら宿題を忘れたらしく、必死で相手のノートを書き写している。もう片方の子は所在なげに相手を眺めていて、須田くんは、その暇そうな彼女に声をかけた。
「高橋さん。この渡瀬くんは有名人だと思いますか」
「思いません」
肩までの髪を揺らし、ぱっちりした目に小さめの口、どこからどう見てもかわいい女子中学生な高橋さんは即答した。
「なぜですか?」
「イケメンじゃないからです」
「そういうことだ。な?」
須田くんはにこにこしながら僕の肩をぽん、と叩いた。「な?」と言われても。言われても。
僕が思わぬ攻撃にことばを失っていると、ノートを必死で書いていた子が顔を上げ、言った。
「そうかなあ。渡瀬くんって、目立つイケメンじゃないけど、それなりだよ」
彼女の名前はわからない。不覚だ。髪を二つに分けて結んでいる。大人しそうな雰囲気。すごくかわいい気がしてくる。
「渡瀬くん、スポーツできる?」高橋さんの問いに、
「そこそこ」僕が口を開くより前に、須田くんが答える。
「何か得意なことってある?」続く高橋さんの問いに、
「あるのか?」須田くんは僕の顔を見た。
やっぱり少なくとも、僕が美術系だっていうことは、みんなが知っていることではなさそうだ。
「どうだろう」
はぐらかしながら、僕は宿題の書き写しを続けている子の方を見た。あとで須田くんに名前を訊こうかとも思ったけど、そうすると何か詮索されそうだ。授業中、気をつけておくことにしよう。前の公立中学でなら、みんな名札をつけていたのに。なんでこの学校はちがうんだろう。なんともどかしい。
放課後僕は、美術室に向かった。本当は昨日行くつもりだったけど、途中の中庭で例の女の子を見つけて時間を食ったから、やめたのだった。今日も通りがかって昨日彼女がいた辺りを見たけれど、今日は彼女はいなかった。少しだけ、がっかりした。
美術室の扉は閉まっていた。でも、扉の小窓のすりガラスごしに、制服の色が動いているのが見える。美術部の顧問の先生には、いつでも見学に来ていいと言われていた。前の学校でも、部員の友達の出入りなんかが普通にあったし、誰かが入ってきても気に留める人はいなかった。僕は何も考えずに、がらっと勢いよく扉を開けた。
すると教室にいた全員が、いっせいに僕を見た。教室の真ん中に机を四つ合わせた台があり、上にりんごとバナナが載っていた。そしてそれを囲むように机と椅子が並んでいる。着席している人は誰もいなかった。円を作ったその机と椅子の外側に、ばらばらと人が立っていた。八人が女子で、三人が男子。泣いている子がいる。ひどく怒った顔をした子。表情を歪めている子に、妙に顔色の悪い子。全員が僕を注視していた。
「あ。すみません。失礼します。その、僕は」
僕がしどろもどろ見学に来たことを説明しようとすると、
「あなたも探偵なの?」
中で一番しっかりしていそうな、背の高い女の子が言った。上履きのラインは赤色で、赤色はたしか三年生だ。
「え?探偵?」
僕がさっぱり状況がわからずとまどっていると、
「探偵『部』っていうくらいなんだから、例の子だけってことないだろ」
「なんでもいいわよ。さっさと解決してくれるなら」
他の人たちが次々に言った。
「あ、いえ、僕は」
よくわからないが何か誤解されているらしい。僕はそのまま回れ右をして失礼したい気持になった。が、その時、円形に並ぶ机の上の画用紙に目が留まった。ほとんど完成しているものから、まだ下書きのものまで。そのまま絵葉書にでもできそうな上手なものから、お世辞にもうまいとはいえない拙いタッチのものまで。すべてりんごとバナナが描かれている。その画用紙の真ん中より少し左寄りあたりに、どの絵にも、全部、ぼったりと朱色の絵の具がつけられていた。りんごもバナナも背景色も無視をして、たっぷりと紙に載った濃い絵の具は、本来描かれていた絵を台無しにしている。
「そこにいちゃ邪魔だ。さっさと中に入ってくれ渡瀬くん」
その時、背中から聞き覚えのある声がした。振り向くと、そこにいたのは昨日のあの……這いつくばっていた女の子だった。立っている彼女は、細いのにひどく堂々としていて、なぜだか少し、威圧されるような感じがあった。
「またイタズラがあった。それにしても、前に私が来た時はひどく嫌がっていたのに今回は積極的に私を呼んでくれた。なんでかな?部長さん」
僕は教室に入って脇に退いた。女の子は悠々とした足どりで部員たちの前に進み出ると、しっかりしていそうな女の先輩――どうやら部長らしい――に訊ねた。
「これまでのは被害が少なかったもの。今回は全員の絵よ。これは放っておけないわ」
部長がそう言うと、隣にいた女子がそうよそうよと同意した。その人は背が低く、顔を真っ赤にしていてひどく怒っているように見える。その隣のもう一人も同じ赤ラインの上履きで、その人はひょろっと背が高くて妙に無表情、なんというかちょっとキツネっぽい。女子はあと五人いて、三人と二人になんとなく分かれていた。三人の方は、緑ラインの一年生。一人は目を真っ赤にしていて、一人はおろおろしたように先輩を見たり現れた女の子を見たり。あとの一人はぽかんとしている。残る二人組は、僕と同じ二年生。片方の女子はじっとうつむいている。もう一人の顔は真っ青。男子は三年生が二人、一年生が一人。三年生の二人は憤慨した様子で、一年生の子はつまらなさそうにそっぽを向いている。
「ふうん。今回は全員が被害者、ね」
来たばかりの女の子は長い髪を揺らして、顔を傾けるようにして並んだ絵を見た。すべてに朱色の絵の具がつけられた絵。誰かのいたずらということなのだろうか。話している内容からすると、こういったいたずらは初めてではないらしい。でも今まで、全員の絵に対して、というものはなかった。
「どう思う?渡瀬くん」
女の子は、いきなり僕に振った。
「え?いや、その」
そこで僕は、彼女の名前すら知らないということに気がつく。
「その子も探偵部なの?」
キツネ顔の先輩が訊ねた。僕が口を開くより先に、女の子は言った。
「そうだ。私の助手だ」
僕は耳を疑った。「ちょっと待って!誰がいつ……っ」
「ちゃんとメモをとれ。後で報告書を作ってもらうから」
女の子は平然と僕にそう言うと、机の方に近づいた。
「ちがう、僕は」
否定しようとしたけれど、彼女は振り向きもしない。美術部の人たちがけげんな顔で僕を見ている。女の子はマイペースに、机の上の絵を覗いている。一つに顔を近づけたかと思うと、たたっと場所を移して、別の絵を眺める。その顔に、ふうむ、と考え込むような表情が浮かんだ。ふいに彼女は振り向くと、
「失礼。ちょっと打ち合わせがあるので。すぐ戻ります」
言うなり僕のところにやって来て、手を掴んでひっぱった。
その手はひんやりとしてやわらかく、僕は思わず顔が熱くなるのを感じた。
廊下に出て扉を閉めると、女の子は手を離した。
「その、どういうことなのかぜんぜんわからないんだけど」
部員たちに聞こえるのをおそれて声をひそめつつ、ともかく僕は抗議した。今日の彼女は上履きを履いていて、そのラインは紺色だったので、僕の同学年の二年生だとわかった。だから敬語はなしにした。
「うん、わからないだろうね。私にはだいたいわかったけれど」
「そういう意味じゃなくて」
「まあ君にはハンデがあるよね。これまでの経緯を知らないし、部員たちの構成や人間関係も知らない。報告書に必要だから、説明してやるよ。まず名前から。ほら、メモ出して」
「そうじゃなくて!」
一体この子はどうなっているのだろう。僕を誰かと勘違いしているのか。でも僕の名字をまちがいなく呼んでいた。じゃあどういうことなんだ。
「そうじゃなくて。僕は君の助手じゃないし」
「ちがうの?」
彼女はきょとんとして訊き返した。僕は脱力する。変だ。この子は変だ。いや、昨日から知ってたけど。いきなり話しかけてきた時……いや、植え込みで四つん這いになっているのを見た時から、知ってたけど。
「ちがうよ。だいたい、君のこと、僕はまるで知らないし」
「二年六組、法月紗羅。探偵部所属」
「その探偵部っていうのもさっき初めて知ったし」
「まああまり公ではないから」
「公ではない部って、どういうこと?普通の部活とはちがうの?」
「部員は私たち二人だけ」
「だから僕はちがうって……」
言いかけた僕に、彼女は突然顔を近づけてきた。本当に、凄味があるほど整った顔立ちだ。視界の隅で、長い髪が揺れている。大きな二つの黒い目に、僕は身体がしびれるような感じがした。
「ちがわないよ。君は昨日、まだ美術部に入ってないのに美術部員だと言ったじゃないか。その理屈で言えば、君はまだ探偵部に入っていないけれど、探偵部に入る予定だから探偵部員だ」
ささやくような声で、彼女は言った。
「でも、き……君は昨日僕に、嘘つきって言ったじゃないか」
「言った。じゃあ認めるんだ?」
「認めるよ。僕はまだ美術部員じゃない。そして、探偵部員でもない」
「わかった。でも、君は探偵部に入るべきだよ」
「なんで」
「だって君は、魅せられてる」
どアップの彼女は、薄く笑みを浮かべて目線を横に流しながら言った。僕は心臓が跳ね上がりそうになった。すると彼女は突然いたずらっ子みたいな顔になって吹き出し、一歩下がって僕から離れると、言いなおした。
「君は謎に魅せられている。君は謎が大好きだ」
「そんなこと」
「そんなこと、あるだろう?じゃあ君、『僕は関係ありませんさようなら』って、今すぐここから立ち去れる?」
言われて僕は、考え込んだ。
立ち去るべきだ、と僕の中で言っている声がある。この子はおかしい。僕は確かに昨日彼女の姿に心惹かれて、その姿を絵に描きたいと思った。それは本当だ。でも僕は、単に「描きたい」人間で……よそから見て、ある程度距離を保って、みえるものを描きたいだけだ。こんな風に関わるべきではない。
でも、と別の声がする。美術部員全員の絵に、朱色のしるしがつけられた。誰が、何のために?その答えを、知りたくないか?
この子はその答えをすでに出しているらしい。あの短時間で、いったい彼女には何がみえたのだろう。彼女は何者なんだろう。どうして僕を、そんなに助手にしたがるのだろう。
――すべて投げ出して、今、この場を立ち去れるかどうか。
残念ながら、答えは決まっていた。
「僕は美術部に入る予定だから。だから、今後のために、どういうことか知りたいだけだから」
彼女の言う通りになるのが癪だった。なので言い訳するように僕は言った。
「それでもいいよ、今のところは」
彼女は見透かすような笑みを浮かべて言った。「とりあえず、書くもの出して」
僕はせおっていたリュックをおろすと、中からてきとうなノートをひっぱりだした。一番後ろのページを開き、下敷きを挟むと、シャーペンとともに彼女に渡す。
彼女はためらいもなく書き始めた。お世辞にもきれいな字とはいえない。妙なくせのある字だ。けれども読めないということはない。
彼女が書いたのは、美術部員たちの名前だった。学年ごとにかためてある。
「ああ、めんどくさいな。男子は省略」
彼女は僕にノートとシャーペンを返すと、声をひそめてひとりひとり説明を始めた。僕はそれを聞きながら、自分の印象と合わせ、彼女の書いた名前の下に追記する。
三年生
(部長) 和泉はるか しっかりした感じ
(副部長) 風間亜紀 やせてる キツネっぽい クール
重音成美 赤ら顔 背低い 怒ってる
二年生
山科悦子 髪二つに結んでる まっさおだった
文木明日香 お嬢さんぽい
一年生
安住由奈 おかっぱ 泣いてた
杉浦奈津 ショート おろおろ
高良多栄 ふっくら おかんぽい ぽかんとしてた
「じゃあ戻るよ」
彼女が言うので、僕はノートとシャーペンを持ったままついていこうとした。
「それ、本人たちに見られたらマズいと思うよ」
彼女に言われてはっとする。確かに。風間先輩とか高良さんは言うまでもないし、他の人だって、こんな風に書かれて何を思うかわからない。僕は待って、と彼女を引きとめた。一人一人のイメージを浮かべて、顔と名前を頭の中に刻みつける。それから、ここで今のうちに訊いておきたいことを訊く。
「今までは、どんなことがあったの?誰が被害に遭ってたの?」
すると彼女はにっと笑い、僕からシャーペンを取り上げた。部長の和泉はるかに○を付け、そこから矢印を引く。矢印の先は二年生の文木明日香に伸びた。そして和泉はるかの脇に「犯人」と書き、文木明日香の脇に「被害者」と書いた。
ええ?
僕は思わず大声を上げそうになり、かろうじて抑えた。
「物を盗まれたり、絵に落書きされたり、作品を壊されたり、そんな感じだ」
彼女は言った。
それからシャーペンを軽く持ち上げると、余白部分にこう書いた。
今回は、ちがう。
あっけにとられる僕に、彼女は光を放つみたいな笑顔を向け、悠然と扉の方に向かった。
僕はノートをもう一度見直して、それからリュックの中につっこみ、別のノートを取り出して手に持つと、慌てて彼女を追いかけた。
3
法月さんが扉を開けると、その「これまでの件の犯人」だという部長が話している最中だった。話している本人を含めみんなちらりとこちらを見たが、話を中断することはしなかった。
「だからね、私は腹いせだと思う。ここ数日、いやがらせされてた誰かさんがやったんじゃないかって。違う?」
部長と重音先輩、男子や一年生たちが、文木明日香に視線を向けた。私立のこんな学校に来るような子は大概がそれなりの家の子なのかもしれないけれど、そんな中でも文木明日香にはやけに上品な雰囲気がある。髪の一部を上の方でバレッタにまとめた髪型で、いかにも箱入りお嬢さんといった感じだ。彼女はさっき、僕たちが廊下に出る前、ずっとうつむいていた。みんなの視線を浴びて、それでも今も、ひたすらずっとうつむいている。
「なんとか言ったらどうなの?黙ってないでさ」
怒り顔の重音先輩が言った。
「二年生はまだ気楽かもしれないけど、三年生は活動実績を上げる最後のチャンスの大事な時期なの。一枚でも多く作品を仕上げたいのに、こんなことで妨害されたら困るのよ。さっさとこの場で白状して、二度とやらないって誓ってもらえないかな」
部長は文木明日香を射るように見据えながら言った。文木明日香はうつむき続けている。
……これっておかしくないか?
僕は法月さんの方を見た。法月さんは「これまでのいやがらせ」は文木明日香に対するもので、その犯人は部長だと断定していた。この状況からすると、たぶん部長がいやがらせの犯人だということは、部員たちはまだ知らないのだろう。ばれていないのをいいことに、自分のことを棚に上げて、部長は文木さんを悪者にしようとしている。もしも、たとえ今回の件が文木さんの仕業だったとしても……本当に悪いのは、そこまで彼女を追いこんだ部長の方ではないのだろうか。悪いのは部長なのに、こんな風に文木さんを糾弾しているのは、どう考えてもおかしい。
このおかしい状況を正せるのは、真実を知っている探偵、法月さんしかいないはずだ。
「文木さんはちがうよ」
僕の期待を感じ取ったのかどうなのか、法月紗羅は口を開いた。大声を張り上げたわけでもないのにその声はよく通る。全員、うつむいていた文木明日香を含めて、その場の視線が彼女に集まる。
彼女は部長を上目づかいでまっすぐ見上げると、
「まず、これまでの件の犯人だけど」そこで言葉を止めた。部長の表情に、覚悟のようなものが見えた気がした。法月紗羅はにっこりして、言った。
「犯人はわからない」
僕は耳を疑った。部長も怪訝な顔をする。
法月紗羅はそのまま続ける。
「そっちはわからない。でも、今回の事件はわかるよ」
部長から視線をはずすと、くるん、と身体の向きを変え、並んだ二人の二年生、文木明日香と山科悦子を正面にする。親指をぴんと張り、四本指をそろえた手を、ゆっくりとかざすように山科悦子に伸ばした。そしてその手を空気を撫でるように素早く動かすと、手の平をひらりと一回転させ、そのままの勢いで今度は並んだ全員の前の空間を手でさらっていくように、片手を伸ばしたまま、だだだだだ、と小さく円を描いて走った。全員が、あっけにとられて彼女を見ていた。髪を揺らして舞うように動く彼女から、目が離せない。
一周回って元の位置……山科悦子の正面に戻ってくると、彼女はぴたっと動きを止めた。
「ねえ山科さん、あのぼたっとついた朱色の絵の具、消せないの?」
山科さんに顔を近づけるようにして訊く。
「……消せる、と思う」
何が何だかわからないような顔をした山科さんは何とか答える。
「消せるならさ、消せばいいじゃない」
法月紗羅は山科さんの文木明日香とは反対の隣、少し離れて立っていた男子の方に今度は視線を移して言った。その子が何も反応できないでいるうちに、さらに隣に視線を移す。
「その方が建設的だよ。こんなの時間の無駄だ。そう思わない?」
「そりゃあ……」
「だよね。ね?」
さらにその隣、ずっとつまらなさそうな顔をしていた男子は、こくりと頷く。
「ねえ、安住さん。あんなの、水つけて布で叩いて、薄くなったら上から塗りたい色重ねたら済む話だと思わない?簡単だよ、杉浦さん。私なんて美術の時間、ぼうっとして全然関係ない色塗っちゃって、しょっちゅうそういうことしているよ。高良さんはしたことない?あるよね?ね?下手なやり方だと紙がごわごわになっちゃったりするけど、それは上手にやるコツとかあるんですよね、ね?重音先輩」
彼女は一人一人に視線を合わせながら話しかけていく。表情が、くるくる変わる。ひどく優しい笑みを浮かべたり、勇気づけるような顔をしたり、ちょっとおどけてみせたり、頼る顔になったり。
「そりゃあ」
「じゃあ決まりじゃないですか。三年生は特に忙しいんでしょう?ねえ、和泉部長。こんなことごちゃごちゃ言ってるより、さっさと活動しましょうよ。一枚でも多く描かないといけないんでしょう?」
大輪の花のような、そんな笑顔になって、両手を広げて法月紗羅が言った。そうだ、という空気がみんなの間に生まれている。けれどもその空気に、和泉部長は染まっていなかった。
「あなたは何を隠しているの?犯人、わかったんでしょう?今回はわかったって、あなたさっき言ったわよね。そんな人と一緒に活動するのは気分が悪いわ。何事もなかったように活動再開なんてできるわけない」
いかにも優等生らしい雰囲気の彼女の発言には、強さがあった。こんな風に堂々とした部長が、本当に、今回はちがうとはいえ犯人なんてことがあるのだろうか。僕は妙に不安な気持になりながら法月紗羅の方を見た。すると彼女はあろうことか……ひどく困ったような顔をして、頭を掻きながら言った。
「そっかあ。まいった」
まいった。その発言に、僕は目を剥いた。今の彼女には、しょっぱなの、探偵らしい堂々とした雰囲気は微塵もない。謎の動きをしていた時の優雅さもない。表情豊かな魅力あふれる美少女でもない。今そこにいるのは、ややがに股で照れ笑いをしている、ちょっと残念な感じの女の子だった。
「うん。実はね。わかったことはあるんだけど、犯人はわからない」
えへへ、と卑屈な笑みを浮かべながら彼女は言った。
「ただ、うん、これだけは断言できる」
とり繕うように姿勢を正すと、彼女は再び部長に向き直った。妙にきりっとした表情を作り、人差し指を立てる。
「犯人は、部外者だ。理由は簡単。だって、せっかく描いた自分の絵を汚す馬鹿はいないもの。部員全員被害者ってことは、犯人はこの部にはいないってこと」
そういうと、気まずさを隠すようにへらへら笑い、じゃあ、と言って教室を飛び出して行った。
美術室には、妙な空気が残った。
「くっだらない。そうよ、こんなの気にしてる場合じゃない。描こう描こう」
そう言いながら、赤ら顔の重音先輩――怒ってなくても顔色はやっぱり赤い――が机の方に向かった。それをきっかけに、他の子たちも動き出す。数人が、脇の流しで水入れに水を注ぐ。部長も、納得はしていない顔だったけど、黙って椅子を引いて席に着き、パレットを開いた。キツネ顔の風間先輩も、お嬢さん風の文木さんも絵の具の準備をし始める。
僕はもう一度、全員の絵を見た。
文木さんの左隣が山科さん。ただし山科さんの机は、文木さんより少し後ろで、モチーフから一人ちょっと離れている。山科さんの汚された絵は……もう、完成した後だったようだ。右下に、サインが書かれている。朱色のしるしは、彼女のが一番大きいように見える。彼女は不安そうに、隣の文木さんを見たり、他の人たちの様子をうかがったりしている。ずっと真っ青な顔をしていた彼女の手は、まだ震えている。
「絵の具消すとかめんどい。描き直す」
男子の先輩がそう言って、朱色をつけられた画用紙をぐしゃぐしゃにした。まだ下書きの段階で、そして正直、お世辞にも上手いとは言えないような絵だった。ぽいっと放り投げられて、画用紙はごみ箱の横に落ちた。
「ちょっと、拾いなよ」
部長が言った。
山科さんは、おびえたように振り向いて、転がった画用紙を見ていた。
キツネっぽい無表情の風間先輩がふいに立ち上がると、黙ってその画用紙を拾い、ごみ箱に入れた。戻りかけて、離れた場所に一人立っている僕に気がつく。
「あなた、なに?」
低音の、くぐもった声で風間先輩は訊ねた。
「あれ、まだいたの」
部長も言った。一年生の一人が振り向いた。
あとの人たちはこちらに視線を向けることもなく、淡々と作業を続けている。
「あ、僕は」
僕は探偵部ではなくて、さっきの子とは何の関係もなくて、この部活に入りたいから、今日は見学に来たんです。
僕はそう言うべきだと思った。そう言おうとした。
でも、僕の中の何かが止めた。ことばはどこかでせき止められて、声に乗ることはなかった。僕は口をぱくりと開けて、しばらく何も言えずにいた。
「……失礼します」
ようやく僕の口から出たことばは、それだけだった。僕は頭を下げ、そのまま逃げるように教室を出た。
「遅い」
廊下に出ると、法月紗羅はそこにいた。壁にもたれて腕を組み、やけにふてぶてしい表情をしている。でも、こちらを見あげている顔は、やっぱりすごく整っていて、どこからどう見ても、すごく綺麗な女の子だった。さっきの去り際の、あのみっともなさは一体なんだったのだろう。同じ顔のはずなのに、どうしてこうも、イメージがめまぐるしく変わるのか。
「遅いっていわれても、別に僕は待ってるなんて思わなかったし」
「助手くらい待つよ。そのくらいの優しさ、信じてよ」
「だから僕は助手じゃないって……」
その時、がらりと扉が開いた。山科悦子だった。手にハンドタオルを持っていて、たぶんトイレに行くのだろう。彼女は僕たちが廊下にいたことが予想外だったらしく、びくりと肩を震わせた。気まずそうな顔をして足早に脇をすり抜ける、と思いきや、すり抜けざま、彼女は法月紗羅をにらみつけ、言った。
「これまでの犯人は、見つけてくれなかったくせに」
唇がひんまがっていて、泣きそうなのだとわかった。
法月紗羅は、さみしげな顔をして笑ったが、何も言わなかった。去っていく山科さんの背中をしばらく見送っていた。それから僕に向き直ると、「さて、と」と笑みを浮かべ、
「ここじゃあなんだから、部室行こう」と言った。
「部室?」
「探偵部の部室に決まってる」
彼女はさっさと歩き出した。ウェーブのかかった長い髪が、柔らかく彼女の背中で揺れている。
……ここで、「いや僕は関係ないので」と立ち去る選択肢は、ないわけではない。
わかってる。
けれど、そんな選択肢を自分が選べるはずがないことも、わかってる。
4
編入してきたばかりの僕は、校内の地理がまだちゃんと把握しきれていない。幼等部から大学部まであり、潤沢な資金で運営されているらしい私立学園の敷地は、とにかく広い。中等部エリアだけで比較しても、僕が前にいた公立中学の四倍か五倍くらいはあるんじゃないかと思う。校舎はどれも妙に巨大で、しかもそれが、一体いくつあるのだろう。さまざまな部の部室が入ったいわゆる「部室棟」は、運動部と文化部に分かれていて、建物が二つある。両方とも中等部と高等部共用となっていて、けれども共用であることを差し引いたとしても、おそろしくでかい。
けれども法月紗羅は、その部室棟には向かわなかった。僕ははじめ、何か特殊なルートを辿っているのかと思った。またはどこかに寄るのかと。けれどもどちらでもなかった。いくつかある中等部校舎群の中央にそびえる、教員・特別教室棟。その一階には、職員室、事務局、主任室、応接室などが並んでいる。先生や来訪者がしょっちゅう行き来する、やたらと大人率の高いその廊下は、須田くん曰く、「そとづらの道」だ。先生たちもそこらにいる時は、普段よりびしっとしていて、妙にきどった調子で服装や姿勢を注意して来たりするらしい。「ちゃんとしていること」が求められる職員室にはほとんど寄り付かず、自分の教科の準備室に立てこもっている先生たちも多いのだという。僕が前にいた学校では、職員室はそんな風に生徒や先生にまで避けられるような場所ではなかったと思うけれど、いろんな寄付や繋がりで成り立っている私立の学校というのは、体裁を守るということが大事なのかもしれない。ともかくあの廊下はよほどのことがない限り通るべきではない、というのが須田くんの教えだった。もし通るなら、姿勢を正し、足早に、けれど決して走らずに通り抜けるべし。大人に会ったら先生だろうと来訪者だろうと誰であろうと朗らかに挨拶すべし。
「あ、鍵……を借りに行くの?」
「いや、鍵は持ってる」
「部室ってどこにあるの」
「この先」
法月紗羅は、やけに広い職員室を横目にずんずんと歩いていく。彼女は基本的に姿勢がいいし、制服を着崩しているわけでもなく、もちろんこの廊下を歩くのになんら引け目を感じる必要なんてないのかもしれない。僕だって、編入日やその後も何回か、手続きやら何やらで事務局や職員室にはしょっちゅう来ているわけで、別にこの周辺に抵抗があるわけじゃない。そう、ここを通ること自体は、何の問題もない。上品なスーツ姿の中年の女性が、中等部主任と談笑しながら応接室から出てきた。僕は初日に先生からも言われたとおり、とりあえず彼女に「こんにちは」と挨拶をする。法月紗羅は会釈すらしなかった。そうしてその、彼女たちが出てきた応接室の隣の隣、廊下のつきあたりの応接室九の前で立ち止まると、ブレザーの内ポケットから鍵を取り出して開け始めた。
「……なんで応接室の鍵を、法月さんが持ってるの」
「応接室多すぎだと思わない?応接室九だよ、九」
「……思うけど。それはともかく、なんでここの鍵を法月さんが持ってるの」
「報酬代わりにもらったんだ」
もらった?
僕が眉を寄せて考え込んでいるうちに、扉は開かれた。灯りがつき、室内の様子が浮かび上がる。
「……ここが部室なの?」
「そうだよ」
「応接室だよね」
「応接するもの」
法月さんはずんずんと室内に入り、扉側に立つ僕に閉めて閉めてと促した。それほど広くはない。入ってすぐの正面に、小さなテーブルを挟んで茶色の革張りの古びたソファが向かい合わせに置かれている。そこだけ見れば、どこからどう見ても応接室だ。でも、奥に小さな机があり、上にパソコンが載っている。その脇の床には、本やファイルが積み上がっている。ソファの脇の壁には棚が設置されていたけれど、その上やまわりにも、本や書類がいくつも塔を作っている。その塔の合間に、ガラスのおはじきが入った金魚鉢だとか、異国風の妙に首の長い木彫りの猫だとか、金属製の小鳥の置物だとか、マラカスなんかが置いてある。……なんでマラカス?
「あまり時間がない。説明するから、さっきのノートと筆記用具出して」
奥側のソファにどかっと腰を下ろすと、彼女は言った。僕は美術部員の名前を書いたノートと筆箱を取り出すと、彼女の向かいのソファに腰かけた。ページを開き、彼女にも見えるようにノートを横向けてテーブルに置こうとすると、強引に向きを変えられる。「私はいらないよ。君の頭じゃ、まだ部員の名前を覚えきってないだろうから言っただけ」僕はむっとしたけれど……まあ、否定はできなかった。
「ええと、何から説明したらいいかな。美術部の活動中、文木明日香の4B の鉛筆が急になくなったり、消しゴムが見当たらなくなったりと言うことがまずあった。が、その段階では誰かのいやがらせとは断定できず、文木明日香のうっかりである可能性は十分にあった。山科悦子曰く文木明日香はそういった抜けた行動をほとんどしないタイプらしいが、まあ、人間だからね、体調や気分によっては行動が上の空になったりすることはある。けれどもそれから数日後、美術室の個人棚に置いていた文木明日香のスケッチブックがなくなるという事件が起こった。山科悦子の訴えにより、この時は部員総出での捜索が行なわれたらしい。そうしてそれは、十年前の先輩たちの絵が保管されていた棚から発見されたという。いくらうっかりでも、そんな場所に本人が置くはずがない、これは誰かのいやがらせである、ということが、この時周知のこととなった。
おそらく『部員全員で探すことになる』状況が犯人には不本意だったのだろう、これ以降は物が消えることはなくなり、かわりに作品が汚損されるようになった。汚損と言っても、それほど大したものではない。絵の表面にちょろっと線が入れられたり、版画の板の裏面に傷を入れられたり。そして作品の汚損が三件続いた後、山科悦子が私のところに依頼に来て、私は調査を開始した」
「ええとごめん。探偵部って、有名なの?」
「いや」
「山科さんとは知り合いだったの?」
「いや」
「なんで山科さんは君のとこに来たの?」
「紹介を受けて」
「誰の?」
「保健室の先生」
法月紗羅は突然立ち上がると、入り口から陰になっているスペースに突如入り込んだ。そこには小さな食器戸棚や流しがあり、電気ポットも置いてあった。電気ポットの電源が入れられたらしい。じゅうう、と小さな音がした。
「今のところ、保健室の先生が探偵部のことを紹介して、それでうちに依頼に来る子が多い」
何か事情があるのだろうか。戻ってきた法月さんは、再び腰を下ろしながらなぜか妙に表情を固くして言った。「でも先生の犬ってわけじゃない。そこは安心してもらっていい」
「そう」あまり聞かない方がいいのかもしれない。そう思いながら聞いていて、後半になってあれっとなった。
「安心してもらっていいって、どういうこと」
「え?君はいやだろう?先生の犬なんて」
「え、それはちょっといやだけど……え?」
「中二の男子は反抗期まっさかりだからなあ。君も大人しそうな顔をして、先生なんてくそっくらえとか思ってるんだろう?」
「そんなことは。……じゃなくて。僕は関係ないというか」
「関係なくないよ。君だって探偵部なんだ」
「ちがうってば」
「じゃあなんでここにいるんだよ」
法月紗羅は勝ち誇ったような笑みを浮かべて僕を見た。
「……さっき美術室で、みんなの前では『犯人はわからない』って言ったよね。犯人は和泉部長なんじゃなかったの?」
僕はノートに目を落とすと、とりあえず話を元に戻した。
「一連のいやがらせの犯人は部長だよ。まちがいない」
「何を根拠に?」
ノートを見つめたまま訊ねると、返事がない。どうしたんだろう、と顔を上げて彼女を見ると、彼女は僕に向かって、口をつぐんだままにこっと微笑みかけた。なんというか、天使のような微笑みというのは、たぶんこういうのを言うのだろう。さっきの偉そうな笑みとはまるで違う。純真そのものというか、可愛らしすぎて思わずこちらの口許も緩みそうになるというか。
「え、なに?」
とろけそうなその笑みは、けれどもあまりに唐突だった。僕は顔を引き締める努力をしながら訊ねた。すると彼女の顔から、すっと一瞬で天使は消え去った。
「今君はさ、私が微笑んだ、と思ったよね」
「え、うん」
「何を以ってして、そう判断したの?」
「何って……え?」
「口許が左右に広がって口角が持ち上がった。頬も持ち上がって下目蓋が押し上げられ、目が細められた。これらのことから考えると、つまり法月紗羅は今微笑んでいる。そんな風に思った?」
「いや」
そんな風に思う人が……いるだろうか。
「じゃあさ、これどう」
法月紗羅は、無理やり笑顔を作ろうとするような顔をしてみせた。なんだろう、笑っているようで、笑っていない。
「どうって」
「今の、私が微笑んだ、と思った?」
「いや、愛想笑いをがんばってる、みたいな」
「それはさっきのとどう違うの」
「ええと、目が笑ってない……」
「具体的にどこが違うの。ほら、じゃあこれならどう。目は同じように細くなってるよ。どこが違うの」
ほら、ほら、と、法月紗羅は微妙な笑みを浮かべたり、さっきの天使の笑みを浮かべたりする。
「なんというか、目を細めるタイミングが不自然というか」
「じゃあこれなら」
「眉のあたりにちょっと力が入ってるというか」
「じゃあこれは」
僕が何か言うたびに、彼女はその部分を修正した上で「微妙な笑み」をしてみせた。器用だなあ、と僕は感心した。けれど感心しつつ、そもそもどうしてこんなやりとりをしているのだろう、と、ふと我に返った。
「で、これが何なの」
「いいから。具体的に。これならどう?何で違うか分かる?」
「いや……なんとなく違うとしか……」
「それだ」
法月紗羅はぴたりとこれまでのスマイル切り替えをやめ、またちょっと種類の違う……勝気な笑みを浮かべた。
「明確にそうだとわかっている。でも、その根拠を説明するのは難しい。そういうことはままあることだ。総合的な判断で『こう』とわかる。でも個別の理由だけでは弱い」
「うん」
「つまりそういうわけで、部長が犯人と思う理由も、あんまりうまく説明できない」
法月紗羅は真顔で言った。
「そんな、表情の話とそれはちがうよ。人を犯人扱いするなら、それ相応の理由がいるよ」
「もちろん。だから必死で観察して、理屈を考えるわけだ。十年前の先輩たちの絵が保管されていた棚はかなり高い位置にあり、椅子なしでそこに絵を入れられる身長の人間は部長を入れて四人。絵にバツ印をつけられた時、使われたと思しき小筆の条件に一致する筆を持っていたのは部長を入れて三人。両方に入っているのは部長ただ一人。でもそんなの、椅子を使ってたり他の人の筆を使った可能性だってあるわけだから何の意味もない。それよりも、いたずら描きなのに妙に几帳面な筆致が部長っぽかった。というか筆圧とか筆運びとか、何もかもともかく部長っぽかった」
「めちゃくちゃだよ」
「うん。だからそっちは諦めた。動機の面であれこれ調べてみた。すると浮かび上がってきたのが風間先輩だ。……来たみたい」
え、と僕は振り向いた。
扉の擦りガラスに人影が映っている。
やがてためらいがちにノックの音がした。
「開けて。で、君はこっち側、私の隣に座ること」
言いながら法月紗羅は立ち上がり、電気ポットのところへ向かった。僕は慌てて来客者に向かって返事をしながら扉を開けた。ほっそりとして涼しげな風間先輩が、あいかわらずの無表情で立っている。どうぞ、と迎え入れると静かに進み、促されるまま扉側のソファに腰かけた。法月さんはその前に湯呑を置き、さっきまで自分が座っていた側に残りの二つを置いた。緑茶のいい香りがした。お盆をソファの脇に置き、彼女はそのまま風間先輩の正面に腰かけた。
「どうぞ」
にこにこしながら、法月さんは先輩にお茶を勧める。
風間先輩は表情の読み取りづらい顔で、けれどちょっとためらうような様子を見せつつ、おずおずと湯呑を手にしてお茶をひと口飲み、ほうっと息を吐いた。
「『彼女』はあなたのためにやっているのだと思いますけど、それについてあなた自身はどう思っているんですか?」
お茶を飲んで一息吐いた風間先輩に、法月さんはいきなり訊ねた。両手に湯呑を抱えたまま、風間先輩は法月さんを見る。細い目が、ほんの少し見開かれていた。
「……あなたは、私が犯人だと思ってるんだと思っていたわ。だから呼びだされたのかと」
「それであなたは否定しに来てくれたんですか?」
「いいえ。そうよ私よ、と言おうと思ってた」
「それで私が偉そうにみなさんの前であなたが犯人だと言って、あなたは部をやめるという、そういう筋書き?」
「……そうね。もしそうしていたら、はるかはどうしていたかしら」
「『嘘つくんじゃないわよ!』と猛り狂った挙句、自分がやったことを全部白状して、その勢いでなぜ自分が文木明日香を憎んだか、つまりなぜ文木明日香の存在があなたを苦しめるか、みんなの前で何もかもぶちまけていたでしょうね」
「それはよろしくないわね」
「でしょう」
澄ました顔で湯呑を口元に運ぶ法月紗羅を、風間先輩はじっと見つめた。「本当に、何もかも知ってるのね」言いながら大きく息を吐き、少しだけ、泣きそうな顔をする。
「すみません。探偵なものですから」
「……私が犯人ではないとわかっているなら、何のために私を呼んだの?」
風間先輩は、すべて知られているとわかったことで、逆に安心したのかもしれない。先ほどまでより、ちょっと表情が打ち解けたように見えた。
「和泉はるかを止められるのはあなたしかいないと思うんです」
逆に法月紗羅が、どこかぴりっとした空気をまとっている気がする。
「私にはるかを説得しろと?」
「ええ。だって、和泉部長はあなたのためにやっているつもりでしょう?」
「『つもり』じゃなくて、私のためにやってくれてるのよ」
「ありがたいと思っている、ということですか?」
「文木明日香がちょっとでも堪えているなら、きっとざまあみろって小躍りしたでしょうね」
「でもまるで堪えてない」
「ええ」
風間先輩は湯呑を手にし、再び口許に運んだ。キツネを思わせる顔が引き締まり、打ち解けたかに見えた空気はすっと消えてしまった。
「和泉部長のやっていることはまるで意味がない。自分を汚して無駄なことを続けている親友を、救ってあげたいとは思わないですか?」
「親友、ねえ」
風間先輩は天井を仰ぎ、糸のように目を細めて笑う。
「……今回のようなことが続いたら、面倒だとは思いませんか?描いた絵に落書きされる。いい気分はしないでしょう」
「正直どうでもいい」
笑みを瞬時に消し去って、低い声で風間先輩は言った。
「……あなたは美術系の進路を希望してますよね。高等部の『美術部』に入れば何かと有利なはず。でもそこに入るには、中等部の間にある程度の実績がいる。あなたはまだ足りてないですよね」
「そんなことも調べたの」
「和泉部長も仰ってましたけど、今は一枚でも多く絵を描くべきなのではないんですか」
「……どうでもいいわよ」
風間先輩はそう言うと、奥の窓に目をやった。
また泣きそうな顔になる。
「では言い方を変えます。もしあなたが和泉部長を説得せず、また事件が起こったら、私は部員全員の前ですべて話します。それでもどうでもいいですか?」
法月紗羅は、ちょっと事務的な口調でそう言った。
少し唇を噛んで、風間先輩は彼女を見る。
「どうしてあなたがそんなにでしゃばるの」
「依頼されたので」
「あなたに何の関係があるの」
「……探偵なので」
風間先輩は湯呑を置くと立ち上がった。
法月紗羅も立ち上がると、「よろしくお願いします」と、先輩に深々と頭を下げた。
風間先輩はその様子をじっと見て、けれども何も言わずに応接室、もとい探偵部室を出て行った。ぱしん、と扉が閉まると、法月紗羅は顔を上げた。僕と視線が合うと、ふっと笑みを浮かべて見せた。
5
「つまりね、友達思いが二人いて、両方が暴走したってわけなんだ」
僕たちはまた向かい合わせに座った。法月さんは僕にそう説明した。
「和泉部長は風間先輩のために文木明日香にいやがらせをしてるって言ってたよね」
「そう。風間先輩は文木明日香と同じ空間にいることが耐え難いはずだ。けど高等部の美術部入部のことがあるから仕方なく来てる。というか部長が無理矢理来させている」
「その……文木さんと風間先輩の間で、何があったの?」
「色恋沙汰。泥棒猫ってやつ」
僕がけげんな顔をすると、法月さんは僕の真似をするみたいに大げさに顔をしかめておどけて見せ、それから吹き出すように笑った。
「風間先輩は、高等部の先輩とつきあっていた。美術部の三年生。ところが彼は心変わりをした。風間先輩を振って、選んだ相手が文木明日香」
「高三の先輩が、中学生とつきあうの?」
「それぐらい普通だよ」
「いや、普通じゃないとは思わないけれど。高校三年生と中学三年生や二年生がどうやって知り合うのかな、と思って」
あまりピンと来なかった。けれどもどうやら、中等部高等部合同のイベントはいろいろあるらしく、特に同じ部活などの場合は、いろいろと接点があるらしい。
「じゃあつまり、和泉部長は風間先輩から彼氏を奪った文木さんに、本人のかわりに嫌がらせをしてるってこと?」
「まあそういうこと。こういう恋愛絡みの問題は、見る人によってまったくニュアンスが変わるからね。事実はこう、とは言い切れないけれど、まあ風間先輩サイドの認識としては、文木明日香が巧妙に策をめぐらせて恋人を略奪したってところだね。和泉部長はある意味義憤に駆られてる。同じ部活で毎日顔を合わせて、傷口をえぐられている友人を見かねたのかもしれない。もしかすると、風間先輩が部活をやめるか休むかしたいと相談したのかも。恋人を奪った上に部活動、ひいては将来にまで影響するかもしれない道まで奪うのか。部長は許せなかった。それでもはじめは穏便に『あなたがいると風間亜紀が傷つくから部活をやめてくれないか』と文木明日香に頼んだけれど、すげなく断られたので火がついた」
「あのさ、なんでそんなことまでわかるの?」
「文木明日香本人に訊いた」
法月紗羅は突然ほおをぷうっと膨らませ、ぶっと息を吐いた。
「本人と?それでそんなことまで話してくれたの?」
「文木明日香は言い訳しなかった。風間先輩の恋人を奪ったことについて、いっさい弁解しなかった。というかその辺りの詳細についてはまったく話してくれなかった。『風間先輩がそう思ってるならそうなんでしょう』としか。ただ、こちらに頼みごとをしてきた」
「頼みごと?」
「そう。山科悦子は何も知らない。自分に彼氏ができたことも知らない。知ったらきっと傷つくから、言わないでほしい、と頼まれた」
「なんで傷つくの?」
僕が訊くと、法月さんは手を頭の後ろで組み、ソファの背に勢いよく寄りかかった。
「中学生女子は複雑なんだよ。山科悦子の場合、女友達が恋人ってやつかな」
「よくわからない」僕は正直に言う。
「一番の仲良しだと信じてたのに、『彼氏』っていう自分よりも親密な相手を作った。それは裏切りだ。そんなところかな。文木明日香は、あれは『彼氏より女友達との友情が大事』ってタイプではない。『女子』ではなくて『女』って感じだ。けれど不思議なことに、ちょいと幼い中学生女子な山科悦子と大人の女な文木明日香が親友同士で、そしてああ見えて、文木明日香は山科悦子を傷つけたくないとも思ってる」
「黙ってるのはいいの?」
「文木明日香にとってはそれが友情なんだろう。元々彼女はさほど絵が好きでもなく、美術部に対してそれほど執着もなかったらしい。しかしやめるとなれば山科悦子は部活で一人になるし、それに当然理由をしつこく訊くだろう。それは避けたかったから、部活は続けるつもりだった。だがそこで、いやがらせが始まった。文木明日香自身は首謀者は風間亜紀だと思っていたようだが。ともかくこれは正直なところ、文木明日香には都合がいいことだったんだ。彼氏ができるとそんなものらしいが、文木明日香は女友達と部活をするよりも彼氏と会いたいし、女友達と一緒に帰るよりも彼氏と一緒に帰りたい気持が強くなっていた。文木明日香は自分の行動の変化を、すべてこのいやがらせのせいにした。いやがらせが辛いから、絵を描く気持になれない。今日は先に帰る。今日は部活を休む。そしてついには、部活をやめようと思う、と山科悦子に告げた。一方の山科悦子の方は、文木明日香がなぜいやがらせを受けているのかも知らなければ、誰がやっているのか見当もついていない。突然それは始まって、親友を悩ませ、ついには部活をやめるというところまで追いつめた。山科悦子は憤慨し、保健室の先生に相談し、それで山科悦子がここに依頼に来たというわけだ」
僕はノートに視線を落とし、じっと考え込んだ。
法月紗羅はことばを切り、その僕を首を傾けて見ている。
「文木さんの友情ってよくわからない」
正直に、僕は言った。
「友達だと思うなら、なんで彼氏ができたこと隠すのかわからないし、なんで心配している友達に嘘をついて部活をやめようとするのかもわからない」
「まあ、人のことはわからないことだらけだよ」
法月紗羅は投げやりに言った。
「……でも、じゃあ今回の件は」
わからないことはとりあえず保留にして、僕は訊ねた。山科さんの態度、「これまでの犯人は見つけてくれなかったくせに」と法月さんに言ったところなんかを見ると、今回の「全員の絵に朱色のしるし」の件は山科さんがやったという気がする。でも、なんで山科さんが?
「今回の件は、元は事故のようなものだよ」
法月紗羅は湯呑を取り上げ残ったお茶をすすった。冷めていたのだろうか、立ち上がって電気ポットの方に行き、程なく急須を持って戻ってきた。
「山科悦子は文木明日香に対するいやがらせを阻止したかった。だから彼女はここのところ、できる限り誰よりも早く部室へ行き、最後に部室を出るようにしていた。当然彼女の絵は進みも早い。おそらく彼女は誰もいない部室で、絵を描き上げ、次の日に別の角度からモチーフを描くために、机を移動させてから帰ろうと考えた。移動後の方が流しに近いとか、まあそんなことを思ったのか、ともかく不安定な持ち方で汚れた筆を持って机を動かそうとして、彼女は誤って筆を落とした。しかも親友の描きかけの絵の上に。……今日美術室でも言ったけれど、もちろん絵の具はある程度消せるし、他の色で絵としてはごまかせる。でも、画用紙の白い部分をぼってり朱色で汚した後で、それを完全に『何事もなかった状態』にするのは至難の業だ。水で消そうとすれば表面は毛羽立つだろうし、それにほんのり色は残る。山科悦子はパニックに陥った。どんなに頑張って消そうとしても痕跡は残るだろう。おそらく神経質になっているはずの親友は、また誰かにいやがらせをされたのだとショックを受けるに違いない。自分が誤ってやったのだと言っても信じてもらえるかわからないし、下手をすると唯一の味方であるはずの自分にも裏切られたと感じるかもしれない。どうするか。……文木明日香、一人が被害者だから彼女は傷つく。全員が被害者であれば、彼女が殊更に傷つく必要はない。それに、みんなも被害者になれば、文木明日香がどんなに辛いか理解するのではないか……」
「それで全員の絵に?」
「まあ想像で補完した部分もあるけれど、大筋そう読みとれた。君は何か気がついた?」
「……確かに、山科さんの絵は完成してた。サインが書いてあったし、それに机が、たぶん元は文木さんの完全な隣だったと思うけど、少し後ろにずらした感じはした。あと、朱色の絵の具の点き方……山科さんが一番大きかったのは、やっぱり罪悪感があったからなのかな」
僕が言うと、法月紗羅は大きな目をさらに大きく見開いた。
「なに?」
「いや。素晴らしい。ほんとに素晴らしい。さすが私の助手」
ブラボー!と法月紗羅は叫んだ。
なんだかなあ、と思ったけれど、面倒だったので否定しなかった。
「山科悦子は小心者だからね。自分のやったことに相当怯えている。元々ミスをごまかすためにやったようなものだ、二度としないだろう。だからこれは放っておいていい。問題は、部長の方だ。部長は今回ので味をしめたかもしれない。今回のが実際は誰の仕業か彼女には見当もついていないが、動じない文木明日香を追いこむには、被害者にするよりも加害者に仕立て上げた方がずっといいと、今回のことで気づいたにちがいない。むしろ今後は文木明日香以外の絵にいたずらするようなことをやりかねない」
「でも、文木さんはもう部をやめるんでしょう?」
「山科悦子は諦めていない。必死で彼女を説得中。文木明日香もまた、揺れている。説得されて、むげにできずにいる。今日も部室に来ていたわけだし、もうしばらく、少なくとも在籍は続けて、毎日ではないにしても参加を続けるだろう。風間先輩はとりあえず部長の説得を試みてくれるとは思うけど、どうなるかはわからない」
「……法月さんは、誰の味方なの?どうしようと思っているの?」
法月さんは、ぜんぶわかっていたのに、美術部のみんなの前では何もわかっていないふりをした。山科悦子には明らかに憎まれていた。風間さんも快くは思っていなさそうだった。
「そもそもの依頼人は山科悦子だ」
神妙な顔をして、法月さんは言った。
「本当は、探偵は依頼人を一番大事にすべきだと思う」
「うん」
「でも今日私を呼んだのは部長だし。私はたぶん、誰の味方にもなれない」
言ってから、法月さんは僕の手元をちろっと覗いた。
「感心だね。ちゃんといろいろメモってる。報告書、期待してるよ」
「……今回だけ」
僕は言った。
今度の件は、なりゆきとはいえ関わったからちゃんと理解したかったし、理解したかったのでメモもとった。でも、今回だけだ。断じて、助手になることを了解したわけではない。
「でも、報告書って誰に出すの?」
「保健室の先生。その人が一応この部の顧問。大丈夫、保健の先生も守秘義務があるし」
法月紗羅は、言いながらお茶を口に運んだ。
「探偵部って知ってる?須田くん」
次の日の休み時間、僕は須田くんに訊ねてみた。
「ああ、六組の法月紗羅だろ」
須田くんは、ふっくらした身体を通路の方に向けて座りながら、あっさりと答えた。
「有名なの?」
「法月紗羅は、変だからな」
身も蓋もないことを言う。
「どう変なの?」
「どう変って……挙動とか表情とか、なんかよくわからんが変わってるだろ」
言いながら、須田くんは、含みのあるような横目で僕を見た。
「……なに?」
「ああいうのが好みなのか」
「いや、そういう話では」
「確かに綺麗な顔してるけどな。相当綺麗なのは認めるけどな。あれは異次元的だ。いろんな意味で」
「だからそういうのではなくて」
その時僕は視線を感じて、ふとそちらを見た。
ぱっと慌てて視線をそらしたのは、昨日の……僕のことを「目立つイケメンではないけれどそれなり」と褒めてくれた女子、まだ名前がわからない、高橋さんの友達だった。彼女は少し気まずそうな顔をして、そしてほんのり頬を赤くしている。
「……」
「どうした?」
僕が彼女の方を見てぼうっとしていると、須田くんが訊ねた。
僕は慌てて話を戻す。
「その、探偵部って、正式な部活動なの?」
「正式な部活動ではないな。なんだ、入りたいのか?」
「ちがうけど」
「うちの学校の部活動はややこしいからな。非公式の団体がごまんとある」
「探偵部以外にも?」
「ああ。そして公式か非公式かに関わらず、入部条件がいろいろあったりする。オーディション制だとか、経験や実績がないと駄目だとか。高等部に比べたら、中等部はまだましだけど」
「高等部はそんなに厳しいの?」
「その分、進路に関わる優遇がすごいからな。……ともかく探偵部はやめとけ」
「なんで?」
須田くんは、意味深に眼鏡を押し上げると言った。
「渡瀬くんが道を踏み外すのを見るのは忍びない」
「……どういう意味?」
その時チャイムが鳴った。須田くんは、身体の向きを元に戻す。次の時間の教科書を引っ張り出していると、後ろから肩を叩かれて、折りたたんだ紙切れを渡された。後ろから回ってきたと言う。その後ろの子は、自分の横の扉を指してみせた。どうやらさっきの休み時間、僕に渡すように頼まれたらしい。開いて見ると、紙にはこう書いてあった。
「放課後部室に来るように。 S」
探偵部に入る気はないものの、事件の経過は気になるから、僕は放課後「探偵部室」に行った。部室には、風間先輩が来ていた。和泉部長と話をしたという。「自分が余計みじめになるから、ああいうことはもうやめて。」その言葉で、部長はわかってくれたという。怒ったり泣いたり、あの子は本当に忙しい、と、風間先輩は淡々と語った。ともかく和泉はるかがいやがらせをすることはもうないから、探偵部も、もう関わらないで。そう言われて、法月紗羅は頷いた。すっきり、とはいえないけれど、ともかく事件は収束した。
そのはずだった。
6
次の日僕は、放課後美術室に向かった。いろいろ考えて、やっぱり美術部に入ろう、と思った。須田くんに訊いてみると、高等部の美術部は、推薦があるだけでなく、美大受験対策を画塾並にやってくれたりするらしい。そして絶対条件ではないけれど、やはり中等部でも美術部に入っていた方が、コンクールでの受賞のチャンスも多いし、有利ではないかという話だった。
「失礼します」
今回は、ちゃんと初めに説明しようと思った。説明しなかったら、きっと「探偵部の奴がまた来た」と思われてしまうに違いない。僕がいろいろ知ってしまっていることを知っている、風間先輩や山科さんはきっといい気持はしないだろう。でも僕は、知ってしまったことを誰かに話したりする気は決してなく、ただ大人しく絵を描きたいだけの男子だということを、少し時間が経てばきっとわかってもらえるはずだ。この部活には悪い人なんて誰もいない。だからきっと、大丈夫だ。
「あの」
さあ、言うぞ。
教室に入り、意を決して顔を上げた。
一昨日と同じように、全員が立っていて、全員が僕を注視していた。苦々しい顔をした和泉部長。怒りに満ちた表情の重音先輩。感情の読み取りにくい、クールな顔の風間先輩。うつむいている文木さん。顔色の悪い山科さん。泣いている一年生。うろたえている一年生。ぽかんとしている一年生。うんざりした顔の男子。投げやりな顔の男子。
「ちょうどいいところに来てくれたじゃない、助手くん」
皮肉な調子で部長が言った。
「あ、いえ、僕は」
「役立たずの探偵の、さらに助手が来たって何にもならないわよ」
重音先輩が苛立った声で言った。
一昨日と同じように、りんごとバナナが机の中央に置かれ、進み具合も上手下手もばらばらな絵が、それぞれの机の上に載っている。朱色のしるしが残っている絵は、もう一枚もなかった。けれどもそのかわり、もっとはっきりと、すべての絵にしるしがあった。
真っ黒い。指をわっかにしたくらいの大きさの黒丸が、すべての絵につけられていた。淡い朱色と比べて、そこには強烈な悪意のようなものが感じられた。僕は思わず、にらむように部長を見た。背の高い部長は、唇の端に笑みさえ浮かべて僕を見返した。
「な……どうして」
僕は風間先輩に目を向けた。昨日探偵部室に来た時の先輩の様子は、まだはっきりと僕の中に残っていた。自分のために泣いたり怒ったりしたらしい部長のことを、突き放したように淡々と語りながら、でもその中に、ちょっとまんざらでもないような感情を覗かせていた。「風間がいやだって言うなら、もう二度とやらない」。和泉はるかは確かにそう約束したと、風間先輩は言った。風間先輩が、嘘をついたのだろうか?和泉部長が文木明日香を追いつめるのを、やはり期待していて、和泉部長には実際は何も言わなかったのだろうか?それとも和泉部長が、風間先輩に嘘をついたのだろうか?二度とやらない、と言いながら、実際はやはり文木明日香が許せなくて、さらに彼女を追いつめるために、事件を起こして、文木明日香をその犯人に仕立てようとしているのだろうか?
「どうしてこんなことするんですか。こんな」
「はいストップ」
その時、突然背中にすっと手で触れられた。頭に集中していたエネルギーが、一気にそっちに流れたような感じがした。柔らかで、ひんやりとした手だった。振り向かなくても誰か分かった。
法月紗羅が、立っていた。部長も風間先輩も重音先輩もひどく顔をしかめていた。
「役立たずの私を呼んでくれてありがとう、安住さん」
泣いている一年生に向かって法月さんは言った。おかっぱ頭の安住由奈は、しゃくりあげながら、「その、探偵部の、法月さんは凄いって、私、聞いたから」と言った。一年生たちは、すがるような目を法月さんに向けていた。法月紗羅は、並んでいる黒いしるしのついた絵をざっと一瞥すると、少し複雑そうな顔をして微笑んだ。皆が彼女の挙動を注視していた。その中で、法月紗羅はまっすぐに踏み出すと、真っ青な顔をしている山科さんを覗きこみ、
「何があったの?山科さん」と静かに訊ねた。
誰もがはっきりとわかるほど、山科悦子はびくりと肩を震わせた。そのまま腰が抜けたみたいに、床にぺたんと膝をついた。
「前回の行動はわかるよ。過失をごまかすための必死の対策。でもごめん、今回のはわからない。君の目的と完全に矛盾してる。君は部内で起こるいやがらせが許せなかったし、文木明日香のことが誰より大事で、だから彼女が責められる原因を作ったりなんてしたくない。なのにこんなことをした。どうしてなの?」
山科悦子はいじめられている小動物みたいに震え続けていた。真っ青な顔で法月紗羅を見上げている。
「わからない。言ってくれないと。……誰かに脅された?」
その問いかけに、山科さんは反応を示した。
追いつめられた小動物が土壇場で反撃に出たみたいに、きっ、と法月さんをにらみつけると言った。
「言うとおりにやらないと、ふみちゃんに、それからみんなにも、私が全部やったって言うって」
「誰に?」
「あなたに」
彼女はポケットから紙を取り出した。見覚えのあるくせ字で、そのメモにはこう書かれていた。
「朱色のしるしの犯人は君だ。文木明日香に、そして部員全員に、君がおそれる最悪の形でそれを明らかにすることも私はできる。それがいやなら、次の事件を起こせ。今度は朱色ではなく、黒色で。もっとはっきりと、すべての絵にしるしをつけろ。 探偵S」
ははははは、と法月紗羅は笑い出した。
「そう来たかあ」妙に愉しそうだった。場の全員が、凍りついたように彼女を見ていた。法月紗羅は、大声でひとしきり笑い続けた。それからぴたりと笑いを止めると、床に膝をつき、山科さんの両肩に手を置いて、同じ目線で彼女の顔を見ながら言った。
「ねえ山科さん。落ち着いて聞いてね。隠していたら、最悪の形で、悪意の解釈を交えて明らかにされる危険がずっとあるよね。でも私、さっきもう、言っちゃったよ。前回のは君がやったことだってことも、それが過失をごまかすための必死の対策だったってことも、言っちゃった。だからともかく今はもう、脅しに従う理由はなくなったってことはわかるよね?」
山科悦子は混乱したように法月さんを見た。
「私が説明してもいいけど、君の口から言った方が、ずっといいと思う。山科さんは、人徳があるよ。だから大丈夫だから」
山科悦子は小さく口をぱくぱくさせた。何か言おうとして、けれども言葉にならない、というように。
「……迷惑かけて、ごめんね」
最後に小さく、法月紗羅は山科さんにそう言った。メモをぎゅっと握りしめると、立ち上がり、そのまま足早に美術室を飛び出して行った。
法月紗羅が去った教室で、山科悦子はよろよろと立ちあがった。とまどっている部員たちをを見渡して、ためらいがちに口を開く。
「ごめんなさい。一昨日の件と、今回の件は、私がやりました。私は、ふみちゃ……文木さんへのいやがらせがとてもいやでした。でも、その私が、まちがって、文木さんの絵を汚してしまって……私は、怖くなって、ふみちゃんを傷つけることも、ふみちゃんに裏切られたと思われてしまうのもいやで、それで……全員の絵に、同じように絵の具をつけました。ごめんなさい。私は、怖くて。今回は、さっきのメモをもらったことで、頭が真っ白で、それで……」
僕は、山科さんのことばを、最後まで聞かなかった。
すぐには決断できなくて、迷って、でも結局、僕は途中で美術室を出た。廊下に法月紗羅がいて、僕に「遅い」と言うのを期待した。けれども彼女はいなかった。僕は彼女の姿を探した。探偵部室に戻っているかもしれないと思った。けれどもその前に、僕は彼女を発見した。
彼女をはじめて見たあの中庭に、彼女はいた。
痩せた肩を落とし、あの時女子たちが座っていたベンチに一人ぽつんと腰を下ろして、首を伸ばすようにして空を見上げていた。
「助手のことは待ってくれるんじゃなかったの」
僕は言った。しばらく彼女は動かなかった。妙な間を空けてからぱっと振り向き、「ほんとだ。ひどい探偵だ。事件現場も犯人も助手も全部放り出して来ちゃった」貼りつけたような笑顔で言った。
「目星はついてるの?」彼女の隣に腰かけると、僕は訊ねた。
「なんの?」法月紗羅は僕に視線を合わせずに訊ね返す。
「あのメモを書いた奴だよ。君の名前を騙って」
「私じゃないって証拠はある?」
「本人だったら、あんな証拠になるようなメモ書かないよ」
「そうかなあ。そう思ってもらえるのを見越して、わざとそうしたのかも」
「動機がないよ」
「……君は私の何を知ってるの?」
法月紗羅は僕にまっすぐ目を向けて言った。大きな黒い目が二つ、すべてを吸い込みそうな闇をたたえてそこにある。思わずたじろいで、ことばを返せずにいると、彼女はすっと視線を下向けて、
「ごめん、八つ当たりだ」と言った。そうして唇に、わずかに笑みを浮かべた。
「こういうことは、これまでにもあったんだ」
うつむいたまま、法月紗羅は足をぶらぶらさせて言う。
「私は自分じゃないと知ってるよ。でもそれを証明できないし。いつもそうだ。私はわかる。わかるけど、それはもしかしたら、私の思い込みに過ぎないのかもしれない。何もかも」
「でも、部長は犯人だった。風間先輩は君のことばに従って部長と話した。山科さんも犯人だった。一昨日も、今回も。君はすべて正しかった」
法月紗羅は足をぶらぶらと振り続けた。
風が通り抜けて、彼女の髪の一房が肩に流れた。
「……私はずっと、助手がほしかった」彼女は言った。
「去年、私は全校生徒を調べたよ。何人か候補をピックアップして、いろいろと、勝手な試験を試みた。だめだった。誰も、私が望んだような人ではなかった」
「うん」
「今年の四月に入った新入生と編入生。彼らについても調べた。でもやっぱりいなかった。もう諦めてる時に、君が入ってきた」
「うん」
「私は決めた。この中庭にいたら君が通るのはわかっていた。君がもしも自分から近づいて来たら、そうしたら、私は君を助手にしようと思った」
「……それだけのために、這いつくばってたの?」
「まあ、実際ちょっとした探し物はしてたんだけど」
それについては、まあ、また機会があれば、と法月紗羅はうつむいたまま言った。
「ともかく私は勝手に決めてた。そうして君は、まんまと近づいてきた」
「うん」
「まあでも、部活っていうのは自由意思で入るものだよね。誰かに強制されるものじゃないよ」
また風が、今度は先ほどよりも強い風が吹いた。
中庭の木々が、ざわざわと音を立てて揺れた。
「うん。僕もそう思う」
僕は言った。
そうして立ち上がり、僕は法月紗羅の元を去った。
7
次の日の放課後、僕はまた美術室を訪れた。
「失礼します」
僕が扉を開けると、いくつかの視線が僕の方に向けられた。でも、全員のものではなかった。みんな着席して絵を描いていた。文木さんも風間先輩も、自分の手元の画用紙や中央に置かれたモチーフに集中していて、僕になんて目もくれなかった。
「何しに来たの?」
部長が訊ねた。
「ええ、ちょっと」僕は小さく頭を下げるようにして曖昧に答えた。
「ごめん山科さん、ちょっといいかな」僕はいち早く顔を上げて僕を見ていた山科悦子に声をかけた。彼女は黙って立ち上がり、僕に続いて廊下に出た。教室のすぐ外だと中に聞こえる可能性があるので、少し離れた辺りまで歩いた。
「その……昨日、あれからどうしたかなと思って」
唐突かなと思いながらも、僕はそう切り出した。すると予想外なことに、彼女は微笑みを見せた。
「昨日……ちょっと怒られた。重音先輩とか、部長とか、坂根くんとか、だいぶ怒った。でも最後は、許してくれた。もう全部今回は新しい画用紙に取り替えて、みんな一から描くことにした。……それから、ふみちゃんと、久しぶりに一緒に帰った。それでふみちゃんは、全部教えてくれた。ふみちゃんに彼氏ができたこと。その彼氏が、風間先輩の元彼氏だったこと。だから風間先輩や、部長たちがふみちゃんに怒っていたこと。それが原因で、きっといやがらせされたんだろうってこと。でも、それでもふみちゃんは彼氏が好きで、だからそんなに気にならなかったし、そういうわけで、部活動自体にも興味が薄くなってしまっていたこと。でも、その彼氏の先輩も美術部だから、相談したら、部活はやめない方がいいって言われたんだって。それから、風間先輩は悪いヤツじゃないから、それはもしかしたら風間先輩の友達が風間先輩を思ってやってるのかもしれないけれど、きっと風間先輩はそんなのいつまでも放っておいたりはしないって、そうも言ってたんだって」
彼女が自分からそんなにも話してくれるとは思いもしなかったので、僕はだいぶ面食らった。思えば僕は、真っ青な顔でぎゅっと恐怖をこらえている彼女しか見たことがなかったのだ。でも本来の彼女は、とても朗らかで、すぐに人に心を開いてしまう人懐っこい子なのかもしれない。
「……よかったね」
「うん。それで私、ふみちゃんが法月さんに口止めしてたこととかも聞いたから、何だか、悪かったような気がしてきて。昨日も、気がついたらいなかったし。私、いっぱいいっぱいだったからよく覚えてないんだけど。あのメモを本当に法月さんが書いたのだとしたら、あんな風に言ってくれるわけないと思って。法月さんに謝りたいと思ったんだけど、その、あの応接室に謝りに行く勇気が、なかなか出ないなって思ってて。そしたらちょうど、あなたが来たから」
「きっと彼女は気にしてないよ」僕は言った。
ひとしきり僕に話し終えて、彼女は満足したようだった。
僕は何もしていないけれど、彼女は僕に「ありがとう」と言い、笑顔で手を振って、美術室に戻って行った。僕は手を振り返した。悪い気持はしない。
その後すぐ、僕は家に帰った。
そうしてその次の日の放課後、僕は姿勢を正して「そとづらの道」を通った。よく考えてみると、探偵部室に彼女がいるとは限らない。そのことに急に思い当たって、僕は自分が突然馬鹿みたいに思えてきた。
けれども、行ってみると第九応接室の灯りはついていた。ノックをすると、「どうぞ」という彼女の声がした。
「なんだ君か」
法月紗羅は、ソファの奥の机に向かってパソコンのキーボードを叩いていた。彼女の顔はやはり整っていて、でもどことなく生気がない。
「何しに来たの」パソコン画面に目を戻し、彼女は言う。
「昨日、山科さんと話をして来たよ。君に謝りたいって言ってた」
「謝る理由はないだろ」
「そう言うと思った。だから気にしてないと思うって言っておいた」
僕が言うと、彼女はふん、と鼻を鳴らした。
「山科さんは、朱色のしるしと黒色のしるし、両方の件でみんなに謝罪して、少し怒られたけど、許してもらえたって。それから文木さんともちゃんと話をして、文木さんは自分に彼氏ができたことだとか、その彼氏が元々風間先輩とつきあってたこととか、いやがらせの原因がたぶんその辺にあったこととか、全部教えてもらったって。文木さんはとりあえず部活をやめないことにしたみたい。それとその彼氏は風間先輩の性格のよさを認めてて、いやがらせは彼女ではないだろうって言ってたって」
「くだらないなあ。振っといて、なんだそれ」
法月紗羅は立ち上がり、電気ポットのあるコーナーに見えなくなった。じゅぼぼぼぼ、とお湯を注ぐ音がした。しばらくすると姿を現して、テーブルの上にお茶の入った湯呑を置いた。
「まあ、どうぞ」
「それは、お客扱いなの?」
「解釈はご自由に」
法月紗羅はソファには座らず、机の椅子に戻った。自分の湯呑をパソコンの脇に置くと、また作業を再開する。
「何をしているの?」
「君には関係ないだろう」
「なんで怒ってるの?」
「別に。……ただ、なんで昨日来なかったのかな、と思って。だから、もう二度と来ないものだと思ったよ」
僕の方を見ずに言う。
ああ、それは僕が悪かったのかもしれない、と、今さらになって気がつく。
「あの、ごめん」
「別に謝る理由ないだろ」
「そうだけど。あのさ、報告書を書いてきたんだよ。昨日は山科さんに話を聞いて、すぐに帰って、報告書書いたんだ」
そういうと、彼女はちろりと僕の方に目を向けた。
「……まあ見てやるよ」
言うので僕は、彼女のところまで報告書を持って行った。何でこんなことになってるのだろう。何だかでも、怒っている女の子には、たぶん逆らわない方がいい。
彼女はぺらぺらとめくって見ると、「変なまとめ方」と即座に一刀両断した。
「なにこれ。日記みたい」
「だって、書き方なんて知らないし」
「しかもクサい。特にこの最後の文。『依頼人は、『ありがとう』と僕に言った。僕はなにもしていない。これは探偵部への、というか、彼女へのお礼だ』。なにこれ」
「じゃあ、見本見せてよ。これまでのとかあるよね」
「ない。全部提出済。いいよこれで。あいつはこういうの好きだから」
彼女はさりげなく、パソコン上で開いていたファイルを閉じた。
僕はすかさずマウスを奪おうとしたけれど、気配を察した彼女は有無を言わせず電源ボタンでパソコンをシャットダウンした。
「その終わらせ方はよくないと思うけど」
「大丈夫。こいつは頑丈だから」
「そういう問題じゃないと思うけど」
「いいんだって。……それより」
彼女は僕の持ってきた紙の束をばさばさ振りながら、僕を見上げた。
「君、部活は決めたの?」
少し顔を傾けるようにして、まっすぐ僕を見据える二つの目。
「うん」
たじろぐ自分を抑えながら、僕はうなずいてみせる。
「届出は?」
「公式じゃなくても届出がいるの?」
「うん、非公式だけど公認だもの。この部に入るとしたら、の話だけど」
「じゃあ届出、出すよ」
僕が言うと、彼女は急に顔をそむけて窓の外を見た。長い髪のあいまに、白いうなじが覗いている。
少しして、
「朱色のしるしがいるよ」
と彼女が言った。
「なに?」僕は訊ねた。
「ハンコだよ。印鑑」彼女の声が、抑えきれないような笑いを含んでいた。
「……押してくれるかな……」
探偵部。
僕はその入部届を目にした時の親の顔を想像して、少しだけ憂鬱になった。
【朱色のしるし おわり】
朱色のしるし (少女探偵Sの事件簿1)
最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。
2作目「マリオネット」もお読みいただけると嬉しいです。