人生消しゴム

(ああ、言わなきゃ良かった)
 後悔の念にかられながら、津島は夜の繁華街を歩いていた。
 その日津島は、入社以来ずっと憧れていた同期の女子社員に、勇気を奮い起こして告白した。断られるのは覚悟していたが、自分が身の程知らずだったことを思い知らされるような、「はあ?」という尻上がりの言葉が返ってきた。それだけではない。相手が同僚たちに言いふらしたらしく、津島の顔を見ると、みんなクスクスと笑い出すのだ。
(言わないで、ずっと胸に秘めておこうと思っていたのに、なんで言ってしまったんだろう。明日からどんな顔して会社に行けばいいんだ。休んじゃおうか。それとも、いっそ辞めてしまおうか)
 津島は酒が飲めないのだが、この苦しみから逃れられるなら飲んでみようと思って繁華街に来てみたものの、どの店もボッタクリのように見え、入ることもできずにフラフラ歩いていた。
「お兄さん、お兄さん」
 どうせ呼び込みだろうと無視して行こうとして、ふと、それにしては年寄りの声のようだと思い直し、津島は声の方を見た。白い髭を伸ばした街の占い師だった。
「お兄さん、悩みがあるね」
「わかりますか」
「さっきからのお兄さんの様子を見れば、誰でも気付くよ」
「確かに悩みはありますが、もう済んだ話です。占いに用はありません」
「まあまあ、そう言わずに。今日はわしにとって記念すべき開店初日。その第一号のお客さんだ。料金はサービスするよ。とにかく、そこに座って、話してみなされ」
「まあ、話すだけなら」
 騙されるかもしれないという不安もあったが、それよりも誰でもいいから聞いてもらいたいという気持ちの方が強かった。一気にしゃべると、少し気が楽になった。
「と、いうことです。でも、もういいんです。今更、占ってもらっても、ぼくがしゃべった言葉が消えるわけじゃないですし」
「そうだな。占う必要はあるまい」
 おかしなもので、そう言われてしまうと、ちょっと拍子抜けした気分になる。
「そ、そうですね。じゃあ、これで」
 腰を浮かせかけた津島を、占い師が止めた。
「そう慌てなさんな。わしがいいものを進ぜよう」
 占い師が取り出したのは、今時めったに見ない、消しゴム付き鉛筆だった。
「記念品ならいりませんよ。ぼくはシャープペンを使ってるんで」
「いやいや、鉛筆はオマケさ。大事なのは消しゴムの方だよ。わしは『人生消しゴム』と呼んでおる」
「人生消しゴム?」
「そう。人生の嫌なこと、忘れたいこと、恥ずかしいこと、何でも消せるよ」
「え、どいうことですか」
「そうだな、ここにメモ紙があるから、簡単に今日の出来事を書いて、消しゴムで消してごらん」
「まさか、そんなことあるはずが」
「いいからいいから、騙されたと思って」
 本気で信じたわけではないが、津島は半ばヤケクソで、言われたとおりにやってみた。
「そうだ、それでいい。その消しゴムはお兄さんにあげよう。言っておくが、鉛筆の方はごく普通のものだ。だから、逆に、鉛筆で現実になかったことを書いても、それが実現するわけではないよ」

 翌日、驚いたことに、占い師が言ったとおりになっていた。津島が告白した相手はもちろん、会社の誰一人として昨日のことを覚えていなかった。津島は面白くなり、自分の過去の嫌な出来事を次々に消していった。
 何日かして、津島は大変なことに気付いた。一度消してしまった過去は、二度と元に戻せないのだ。津島の人生は、スカスカになってしまった。
(どうしよう。そうだ、あの占い師を探そう)
 津島は占い師の最後の言葉を思い出した。
(もしかしたらあいつ、書いたことが現実になる鉛筆を持っているかもしれないぞ。それさえ手に入れられれば、消した過去の代わりに、すばらしい人生を書き込めるんだ)
 占い師がいた繁華街を歩いてみたが、どこにも姿は見えなかった。津島はそれから何日も何日も占い師を探し続けた。その間、会社は休んだが、後で休んだことを消せばいい。だが、占い師本人はおろか、見たという人間にすら会えなかった。
 その頃になって、津島は消してしまった過去のことを、本当に後悔するようになった。失敗も、恥ずかしいことも、嫌なことも、後から考えれば、みんな懐かしい思い出だったような気がするのだ。
(ああ、ぼくは取り返しのつかないことをしてしまった。いっそ、こんな消しゴムなど、捨ててしまおう)
 橋の欄干から投げ捨てようとして、ハッとして思いとどまり、手帳に次の言葉を書いて消した。
『変な占い師に、人生消しゴムというものをもらった』

(ああ、言わなきゃ良かった)
 後悔の念にかられながら、津島は夜の繁華街を歩いていた。
(おわり)

人生消しゴム

人生消しゴム

(ああ、言わなきゃ良かった)後悔の念にかられながら、津島は夜の繁華街を歩いていた。その日津島は、入社以来ずっと憧れていた同期の女子社員に、勇気を奮い起こして告白した。断られるのは覚悟していたが、自分が身の程知らずだったことを思い知らされ...

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-29

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