羊の皮をかぶった山羊

 まだ神や悪魔が人を見放していなかった頃のこと。サクラという大変美しい女がいた。砂色の肌は自ら光を放っているかのように周囲を照らし、長い髪は昼は黄金、夜は紫水晶の輝きを見せていた。その美しさはまだ十にも満たない頃から近隣で評判となっており、わざわざ船に乗ってサクラを見にくる者まであった。朗らかで優しいサクラは誰からも愛され、彼女も人々を愛していた。しかし、それはいつまでも続くものではなかった。
 サクラがまだ少女、十四歳の頃、彼女に求婚した者があった。それは村長の息子で、眉目秀麗な村でも評判の秀才だった。サクラもその村長の息子を気に入り、両親の勧めもあってすぐに結婚が決まった。サクラを自分の妻に、と願う者は多かったが、その誰もが不満を口にせずふたりを祝福した。サクラの幸せそうな笑みを見れば、しかたのないことだっただろう。
 しかし、村人が全員集まっての華やかな結婚式が開かれた夜、村長の息子は死んだ。まさしく初夜を迎えようかという時、夫婦の寝室で突然倒れ、そのまま起き上がることはなかったのだ。サクラは嘆き悲しみ、その涙は海を作るほどだった。息子を失った村長は、まだ若いサクラを未亡人にすることはない、と婚姻の契約を破棄してサクラを実家に戻した。
 以降もサクラに求婚する者は多かった。その後五年の間、サクラには二十を超える求婚者があった。漁師や学者、王族までもがサクラを求めた。そしてサクラはその間、三回の結婚をしたが、いずれも新郎は初夜に死んでいった。
 サクラの最後の夫となった者はその地を治める王の甥で、彼が死んだのちサクラは牢に入れられた。四人の男を殺した悪魔憑き、という烙印がサクラに押された。その噂は国中を駆け巡り、サクラの両親は人知れず村を離れ、以降誰もその姿を見ることがなかった。
 事実、サクラには悪魔が憑いていた。
「どうして人を殺すのですか?」サクラは牢の中で己に尋ねた。
もちろん、サクラはそれに答えを期待していたわけではないが、彼女に潜む悪魔は少しからかってやろう、と彼女に問いを返した。「おまえはどうしてパンを食べるんだい?」
サクラはどこからか聞こえてきたその声に驚き周囲を見回したが誰の姿もない。
「答えろよ」
「どなたですか?」
尋ねながらもサクラはもう悪魔の存在を認めていた。目の前で四人の男が死んでいったことで、自分が「悪魔憑き」であることを半ば信じていたからだった。
「わかるだろ? 悪魔だよ。ほら、答えろよ」
「……はい。生きるためです。生きるためにパンを食べます」
「同じだよ。おれは生きるために人の魂を食べるんだ」
「違います。わたしは魂など食べません」
「パンを食べるんだろう? 同じじゃないか」
「パンと人は違います」
「おまえ、何も知らないんだな。パンが空から降ってくるものだとでも思っているのか?」
「そんなことはありません。パンは何かの植物の実から職人の方が作るものだと聞いています」
「知っているじゃないか。おい、その植物にだって魂はあるんだぜ。おまえが食べているのはそれだ」
「しかし、植物と人は違います」
「同じだよ。おれからすればな」
「わたしはそうは思いません」
「まあ、そんなことはどうでもいい。おれは腹が減ったらまた食べるぜ」
「そんなことは許しません」
「おまえが許さなくても同じさ」
「しかし、もうわたしと結婚しようなどという方はいないでしょう」
「さあ、それはどうかな。そもそも結婚相手である必要はない。今までのはおれの趣味みたいなものだからな。なあ、おまえがどうしてそんなに美しいのかわかるか?」
「わたしは自分をそのように思ってはいません」
「嘘をつくなよ。おまえが美しいのはおれがそうしたからだ。男を惹きつけるためにな。若い思の魂は何よりうまいんだ」
「もう二度とそのようなことはさせません」
「無駄だよ。人はバカだからな」

 サクラは牢の中で二十歳を迎えた。その美貌はますます輝いて暗い牢を照らし、嘆きの声さえ聖霊の歌のようだった。時折ひとりで呟く言葉は悪魔との会話だったが、他の者には悪魔の声は聞こえない。牢の見回りをする牢番はそんなサクラの姿を見て、いよいよ気が狂ってしまったのか、と思い彼女を哀れんだ。悪魔憑きどころか女神や聖霊にも見える彼女に、まだ若い男である牢番が情を抱いたのもしかたのないことだっただろう。
「なあ、腹は減っていないか?」鉄格子の向こうから牢番はサクラに声をかけた。
サクラは無言で首を振って答えた。
「欲しいものはあるか?」
サクラは再び首を振った。
「悪魔が憑いているだなんて信じている者はほとんどいないよ。だが、王族が死んじまったからな。あんたを牢に入れないと面子が立たなかったんだ」
「……悪魔の話は本当です」サクラは小さな声で答えた。
「え? 何だって? 聞こえないよ。まあ、とにかくそろそろ出られるだろう。もうすぐ王子の婚礼があるんだ。きっとその時に恩赦があるさ」
「いいえ、出たくありません」
「え? 出たくないっていったのかい?」
「はい。わたしを処刑してください」サクラは牢番の耳に届くよう、明瞭な声で言った。
「何を言っているんだ。悲しいことがたくさんあったんだから、しかたがないかもしれないが、死にたいだなんて思ったらダメだ。なあ、その、もし、もしもの話なんだが、恩赦になったら……、うちに来てもいいぜ」牢番はそっぽを向いて言った。「聞いてるだろ? あんたの親もどこかに行っちまったって」
「両親の話は聞いています。しかし、ご好意はうれしいのですが、あなたに迷惑をかけることはできません。もしここから出られたら、わたしは海にこの身を沈めるでしょう」
「おい、そんなこと言うなよ。ゆっくり考えてくれ。おれは迷惑だなんてことはないからさ」
 牢番が去っていくと、悪魔がサクラに語りかけた。「次はあいつを食うぜ」
「やめてください。許しませんよ」
「おまえが許さなくても構わないさ。恩赦ってヤツが楽しみだ。今食ってもいいんだが、おまえがあいつの家に行って喜んでいる時がいいだろうな」
「わたしはあの方の家になど参りません。ここを出たら本当にわたしは死ぬつもりです」
「無駄だよ。おまえは死ねない。おれがいるからな」
「では、あなたがわたしを殺しなさい。わたしの魂をお食べなさい」
「それはできない。おまえはおれだ。こうして話をしてはいるが、おまえとおれは同じ存在なんだよ」
「わたしは人間です」
「違うね。悪魔だ。四人殺した悪魔だよ」

 そして二か月が経ち、サクラは恩赦によって牢から出された。
「さあ、あの男の家に行こうぜ」街に出るなり悪魔はサクラに囁いた。
サクラはその声を無視し歩き、やがて岬までやってきた。眼下には岩と海。そこから飛び降りれば、海で溺れるまでもなく死ぬことができるはずだった。
「無駄だって言ったじゃないか。おまえは死ねないんだ」
「いいえ。死にます」
サクラは透明な涙を流し覚悟を決めて岬から倒れこむように身を落とした。背中から岩に落ちた感覚を味わい、その瞬間意識が消え去ったかに思われたが、サクラは死ななかった。
 次に気づいた時、サクラは見覚えのない部屋でベッドに体を横たえていた。
「だから無駄だと言ったんだ」悪魔が呆れたように呟いた。
「ではどうすれば……」
「喜べよ。死なないんだぜ。誰もが望むことだ。食わなくても死なない。おまえは魂を食わずに生きられるんだ。パンを食わなくてもいいんだぜ。うれしいだろ?」
「うれしいはずがありません」
 その時、部屋の外から男の声が聞こえた。「起きたのかい?」
その声に続いて扉を開け部屋に入ってきたのは、学者風の壮年の男だった。
「わかるかい? 君は溺れていたんだ。たまたま通りがかったぼくがこの家に連れてきた」
「……ありがとうございます」
「家はどこだい? 名前は?」
「サクラと申します。家は……」とサクラは言いよどんだ。
学者風の男は、サクラに言えない事情がある、と感じたようで、妙に明るい声を出した。「まあ、急ぐことはないだろう。元気になったらぼくがどこへでも送っていこう。それまではここでゆっくり休んでいて構わないよ」
「すぐに出て行きますので」
「無理をしたらダメだよ。ぼくひとりの家だからね。遠慮することはない。何か食べるものを持ってくるよ。食べられるかい?」と言うと学者風の男はサクラの答えを待たずに部屋を出ていった。
 サクラは怪我を負っているのではなかったので、すぐにベッドから立ち上がり、男を追って部屋の扉を開けた。礼を言ってすぐに出ていくつもりだった。
「あの、ありがとうございました。しかし、わたしはすぐに行きますので」とサクラは男の後ろ姿に頭を下げた。
しかし、学者風の男は振り返ることなく、その場に倒れた。
「こいつはうまくないな。もっと若い男がいい」悪魔が満足げに言った。
「あなたはこの方を……?」
「ああ、食った」
「なんということを……。ああ、もう、わたしはどうすればいいのか……」
「気にするな。パンと同じだって言っただろ」
「決めました。わたしはもう死のうだなんて考えません」
「ああ、そうしろ」
「そして、二度と男性の、いいえ、人間のそばには寄りません」
「おい、それはちょっと待ってくれよ。困るんだよ」
「もう決めたことです」
サクラはそれ以降、悪魔の言葉に耳を貸さず、学者風の男の遺体をベッドに運び花を添えてからその家を出ていった。そして、深い森の奥に入った。

 サクラが森の奥でただ生きているだけの存在になってからも悪魔はしきりに語りかけていたが、彼女はすべての声を無視していた。やがて悪魔はサクラの決意が揺るがないことを悟り、彼女に語りかけた。「もうここにいてもしかたがない。おれは行くぜ」
サクラはただ木を背にして座ったまま悪魔の言葉に応えなかった。
「話を聞けよ。なあ、前におれとおまえは同じ存在だって言ったよな。おれがおまえから離れるとどうなるかわかるか?」
「……わたしは死ねるのですか?」
「ハハハ。やっとしゃべりやがったな。だが残念だな。おまえは死なない。おまえが喜びそうなことはしないさ。おれがどこに行ってもおまえは生き続けるんだ」
死ねないのならどうでもいい、とサクラはすぐに興味を失って再び黙り込んだが、悪魔は構わずに話を続けた。
「だが、それだけだ。それ以上のことはしない。飯にありつけないのなら無駄な力を使うことはないからな。おまえはどうなると思う? 教えてやる。おまえのきれいな顔も体もこれまでだ。きっとブサイクな女になるだろうな。おれがいなくなれば男を殺すことはないが、ブサイクなおまえに寄ってくる男なんていやしないぜ。ああ、今までの礼に金を置いていってやるよ。その金でどこかに城でも建てて永遠にひとりで生きろ。じゃあな」
 サクラがふと気づいて自分の手を見ると、かつての砂色の柔らかな手は失われており、まるで漁師の男のようにゴツゴツとした手がそこにあった。悪魔が去ったことは何となく感じていた。背にしていた木に手をついて立ち上がると、妙に体が重かった。サクラは森を通る小川まで歩き、そこに自分の姿を映した。それはただの醜女だった。顔も体も醜く太り、泥と灰を交互に散らしたような髪がまばらに生えていた。大きく下品な口、不自然に長い鼻、つり上がった目、それらを備えた顔には血しぶきを受けたような赤黒い斑点がいくつもあった。
 すでに厭世的な世捨て人になっていたとはいえ、さすがに自身の変わりように驚き、サクラは悲しみのために黒い油のような涙を流した。指でその涙を拭うと嫌な臭いが指先に残った。こんなことならば数人の男を犠牲にしてでも以前のままでいたかった、とサクラはわずかに後悔し、その自分の下劣な心を憎んで再び泣いた。それからすぐに死のうと考えて、サクラは小川に顔を浸して意識が消えるのを待ったが、やはり死ぬことはできず、ただ目から流れた黒いものが清い小川を穢していくようだった。
 しばらく経って、サクラはようやく思い直した。深い森の奥でひとりで生きていこう、と決めたのだから今さら姿が変わったところで気にすることはないのだ。サクラはこう考えて心軽くした。元いた木のそばに戻ると、先ほどは気づかなかった大きな黒い袋があり、その中は大量の金や珊瑚、真珠で満たされていた。悪魔の置き土産だ。金を使う当てもなく、サクラはその袋を横にして座り、目を閉じた。

 それから数日間、サクラは森の奥でただ座り、眠り、時に自死を試したがやはり死ぬことはなく、また座る生活を続けていた。しかし、そこに客がやってきた。悪魔でも森の動物でもない。それは人間の男だった。その男はサクラを見かけると、人外の何かだと思ったのか、剣を抜いて構えた。それからサクラが人であると気づき、そのあまりに醜い姿に顔をしかめた。
「おい、こんなところで何をしている」
サクラはその声と顔に見覚えがあった。男は以前サクラを見張っていた牢番だったのだ。
「何もしておりません」サクラは自分がサクラであることは言わずに短く答えた。
「ここに住んでいるのか?」
「はい」
「おかしな奴だな。まあ、何だっていい。この辺りで聖霊を見かけるという報告があってな。その調査に来たのだが、何か知っているか?」
それは以前この地でサクラの姿を見かけた猟師からの報告で、その頃のサクラはまだ美しく、猟師は聖霊だと思い込んだのだった。
「いいえ。わたしは見かけたことがございません」
「そうか。では、次におまえのことを聞こう。どうしてこんな場所に住んでいる?」
「今はもう理由がわかりません。以前は人を殺さないためでした」
「殺さないため? おい、おまえは罪人なのか? どこかから逃げてきたのか?」
「人を四人、いいえ、五人殺しました。四人まではあなたもご存知だと思いますが」
「おれも知っているだって? 詳しく話せ」
 サクラは、自分がサクラであること、悪魔のこと、悪魔が去ってからのことを男に話した。
「あなたがあのサクラさんだなんて……、とても信じられん」
「信じていただかなくても結構です。森の獣でも見たものと思い、どうかこのまま去ってください」
「……いいや、その話が本当ならばおれの家に来てくれ。以前にそう話したはずだ」
「でも、それは以前のお話で……」
「以前でも何でも構わないさ。おれは目に見える姿だけで人を判断するような愚かな男じゃない。心は以前のサクラさんのままなんだろ?」
「しかし……」
「あなたの話を信じるならば、あなたは誰も殺していない。そして、今は悪魔もいないので誰も殺さない。そういうことじゃないか」
「それはそうですが……」
「ならばいっしょに来てくれ。あなたはやさしい。そしてずっと苦しんできたんだ。これからは幸せになってもいいはずだ。その姿を気にするのなら無理に家を出ることはないさ。ただおれの家にいてくれればいい。働く必要もない。おれは出世してもう牢番じゃないんだ。こう見えても騎士なんだぜ。まだ見習いだけどな。いずれはもっと出世してやるさ」
 元牢番の騎士見習いは、強引にサクラを連れて森の外に出た。そして彼は、サクラが悪魔から渡された黒い袋を森の外につないでいた馬の背に乗せ、右手で馬の手綱を、左手でサクラの手を引いて自宅に向かった。
 その道のりでサクラは再び黒い涙を流した。「ブサイクなおまえに寄ってくる男なんていやしない」「永遠にひとりで生きろ」といった悪魔の言葉を思い出し、それでも自分にやさしくしてくれる男がいたことを喜んでいた。騎士見習いが自分を愛してくれなくてもいい。いずれ彼が自分を見放す時が来るかもしれない。それでも構わない。今は家に迎えてくれるという彼につくして生きよう。サクラはこう決意した。
 その夜はサクラが作った料理をふたりで食べ、酒を飲み、騎士見習いは自分の寝室のベッドにサクラを案内した。新婚初夜を思わせるその雰囲気に、サクラは思わずこれまで目の前で死んでいった男たちを思い出したが、同時に今は悪魔がいないことを喜んだ。醜い姿となった自分に、このような幸福が訪れようとは思ってもいなかった。そして、酒を飲んでいたためか、サクラはいつの間にか眠り込んでしまった。
 翌朝、サクラが目を覚ますと、白かった枕が、そして同じように白かったシーツが、一面黒く染まっていた。サクラの胸には剣が突き立てられており、金や珊瑚や真珠が詰まった黒い袋はなくなっていた。そして、騎士見習いの姿も彼の馬の姿も消えていた。

羊の皮をかぶった山羊

羊の皮をかぶった山羊

近隣で評判の美女サクラは四度結婚し、その度に目の前で新郎が死んでいった。 彼女には悪魔が憑いていた。 彼女は牢に入れられ、その後は深い森の奥でひとりで生きることを決めるが……

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-04-03

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