木枯らしに吹かれて-文語的叙事文-
街路樹の回想録。自然に生きるものほど肩身が狭くなっていく。
日がおちるのが早くなりだして、空も高くなる頃に、樹々の葉の色は変わりだし、神々が各地に戻る頃には、紅葉をたのしみ、それもひとしお、霜がおりる頃には、街路樹もとおに葉を落とし、細い枝を北風に吹かれながら過ごしている。
木枯らしというものだ。
あぁ葉が一枚もない。枝ばかりだ。もうこの木はお仕舞いだな。
といって、根元から引っこ抜く者はそうそう居るはずはない。―――と思っていたら、だいぶ引っこ抜かれて、あたりはのっぺらぼう。いや、様変わりの早さに驚く暇もなかったのか。冬眠を知らない外炉樹ばかりが、そこかしこに生えている。
彼らは何を言っているのかなかなか分からない。私の知り合いにも冬眠知らずのテカリ者はいたが、そのものの言葉とはだいぶかけ離れている。そのものは人々の寄り添う役目にもなっていた。何者も拒まずにご神木となったものも数多くいる。
けれど、どうやら夜長に考えを及ばしても、なんらかが根元から異なっているようだ。私はまだまだ若い年月しか知らぬが、まるで世を間違えたかのような感覚がいやというほどつきまとっている。それは肌が凍てつき、目も覚めるような清々しさになっても、視野の脇に常にある。
星に願いをというが、このときほどそれを強く思うことは無い。澄み切って上弦の月が西の空に浮かび、オリオンが綺麗に浮かびあがる空を見上げて。少し離れた北極星と、それよりも強く輝く1等星に、私は目を引かれる。
天文学者や愛好者などは、何々と名を言うのだろうが、私にはオリオンぐらいしか知らぬし、それ以上言葉に置き換えたくはないのだ。だから私が目を向けるあの星がなんなのかは、分からぬが、とかく美しい。
だが、それをひきだしているこの透明感のある暗闇の黒を映し出す、夜空がまた素晴らしい。澄み切ってくもりが無い。そう、冬の曇りほど、気落ちすることは無い。まったく、この鋭さを遮らないで欲しいと、暗澹たる思いだ。
その度に、視界の脇にある、それが真ん前に現れて、私を陥れようとする。さすがに、長年耐え忍んできたといったとて、こたえる。分かち合える者が隣りにいてくれる、それを切望している私がやはりいるのだ。分かち合えるというと語弊があるのかもしれない。ただ手をとって歩んでいく、それなのだ。
私は、もっと若い頃は独りで旗を立ててやると意気込んでいたが、それはそれで否定しないが、私には必要だと素直に思うようになった。
私のこの年輪が、また抉れた傷跡が、私を大きくさせてくれた。まだまだ未熟なのは言うまでもないが、その私の半生にも及ぶその経緯があったからこそ、直観という自然の声に耳を傾けることが、出来るようになったのだろうと思う。それは言葉ではないから、今の世の渡り方と幾分もズレている、早急ともまたはのろまとも承知はしているが、私はこの自然をもう踏みにじりたくない。
今日もまた枝だけになった街路樹が、誰にも注目されずに確かに生々しく脈々と鼓動を力強くならしている。いくら隔絶が突き刺さり抉ってこようと、冬のこの澄み切った曇りのない眼で生きていきたい。
木枯らしに吹かれて-文語的叙事文-