語りき
通用しない。それが自然
ぐらりと世界は揺れた。
外は台風の影響で風雨が荒れている。雨も風もごうごうとうなり声をあげ、世界を叩いていた。
僕らの住処は、いかにも静寂に僕らの思うようにつくられている。支配者は我らだ!と威張り、けれどそれは無粋だといやらしく静寂にかくして。コンクリートに埋めれば、幾年は隠せるだろう。ガラスで覆えば、鏡のように中身は映さない。
しかし今日は、そうはいかない。明るさも暗さも、白も黒も何もなく、ただ摂理にそって、風雨はうねりをあげている。
風は言った。
「こんなものは、通用しない」
雨は言った。
「こんなものは、通用しない」
僕らは、支配者だ。だからできないモノゴトは排除していく。支配者だからだ。我ら支配者の枠を超えたものは、認識すらしたくない。だからだ。だから、対処するよりも排除していく。枠にはめる。
そして、世界はぐらりと揺れた。目の前の空間が、鏡が割れて砕け落ちるように崩壊した。それは摂理だった。
たった一枚が隔てていた輪郭の中は、凄まじくどろどろしたものが渦巻いて放出している。それは純粋というものだった。
さて、ここらで意味というものを、提示しなければ今の者は忌み嫌う。支配者だからだ。だから敢えてあげるとする。無意味の意味なのだと。ここで描かれているのは、無意味そのものだということを。支配者に飼いならされたモノゴトではない、ただ純粋にどろどろと噴出するだけのものだと。
これだけで、納得できないなら、それはもうあなたもぐらりと揺れている証である。なにせ、端的に意味を説明したからだ。今の世は、端的に明確に示すことが善とされ、それでなければ、口述を許されない。ボタン的思考なのだから。
だから風は言っている。
「こんなモノゴトは通用しない」
だから雨は言っている。
「こんなモノゴトは通用しない」
台風の上空には今も、太陽が、それかもしくは月が回っているだろう。そんな僕らの頭上に今、台風が引っかかっている。そう引っかかっている。
引っかかる、ということ。それこそが台風である。スマートな順応者は、引っかからない。教えられてきたこと、ここにありふれているモノゴトは、それは染み渡っている。当たり前だと、常識なのだと。それが絶対なのだと。そういうものだと。
しかし、台風が引っかかっている者は、そうはいかない。確かにそういったモノゴトはある。認めている。しかし丸呑みではない。批判的に肯定しているのだ。そこで引っかかり続けている。この台風は一体なんなのかと。
これは台風なのかとすら純粋に噴出している。つまり、片手では覆っている世界的価値をもち、一方では自分の身体のフィルターを通した上でのそのモノの正体を見いだそうとしている。
これはどの分野に属している者であっても、危険な行いである。だから台風なのだ。こういった「正体はなにか?」を探っていては、モノゴトはつくれやしないからだ。前提に、絶対的なことをおいているからこそ、モノゴトは進めることができ、構築することができる。モノをつくらぬ造形家は、世を渡っては行けない。
しかし、あまりにも巨大な台風が、いくつも引っかかっている。その台風もどこから来たかは、はかりしれないし、ほぼどうでもいいことだ。どこへいくものかが大切なのだ。だから引っかかり続けるのだ。
にもかかわらず、今の世は、スマートに収まっていると見せかけているものが全体を占めている。支配者だからだ。支配者は奴隷や使用人のすることに手を汚したくないものだ。そのものたちが整えた内部でゆうゆうと腹を肥やしている。
しかしここでおかしな図式であることは明快だろう。支配者は、自ら手を汚したくないモノゴトを奴隷や使用人に処理するように命令し、整った内部で暮らしている。これはどちらが支配者か分かったものではない。奴隷や使用人が整えたマットの上でしか、機能しないのだから。はっきりいって、奴隷や使用人の方が、より多くの根源的なことを把握しているだろう。そして対象への対処の仕方、手入れの仕方を熟知している。
奴隷も使用人もまた一つ身体という自然をもった生き物である。ここがロボットであろうと話しはあまり変わらない。現場を知らないということが重大なのだ。まったく同じ働きでことを処理するということはあり得ない。だから身体をもっている奴隷や使用人に、大きく処理の結果が異なるのは必然である。
大風呂敷にいえば、支配者は飼いならしていると思い込んでいても、奴隷や使用人に飼いならされているのである。自分の意志で決定していないからだ。
奴隷や使用人といった”自分以外の外部のもの”が、対象をみつけ対処したこと、―この対処したという時点である程度の評価が下されている―、それらが目の前に整って綺麗なテーブルに整理されて磨かれた器にのせられている。その中で選んだ気になっているのだから、意志とはいい難い。
台風の中ではそのように、綺麗な卓上料理は揃わない。
だから風も雨も「通用しない」と言っているのである。
既に、”自分以外の外部のもの”が下した中に僕らはいる。既存というもの、それはあって然りだ。社会ということとなると、特にそれらは顕著に目立ち圧倒してくる。なにせ支配者なのだから。だから無意味な話しである。だが、ここで意志をもって公然とその決断を下さなければ、いつまでも支配者の奴隷であろう。自分の人生を自分で歩むことは無意味な意味を提示し続けることなのだから。
けれども台風の中であっても気をつけなければならないことがある。そのような目的に縛られているのなら、それもまた、目的の奴隷のままであることに。
まったく風や雨の言う「こんなものは通用しない」という声は聴こえていないということになる。彼らは常に、偶然の足で踊っている。偶然でありながら、その偶然を自分の意志で決定して下している。偶然の舞踊者である。だからもうこのような言葉は要らない。お分かりのように、言葉はただ重たい者のためにある。重たい者が扱うのである。だから、聴こえ偶然の足になったものは、ただ歌えばいい。ただ踊ればいいのだから。
語りき