夢から踏み出たその汗、
俯くたび、いつも影で空の青さに気づいた。すこしだけ風が凪に戻ろうとしているような気がした。それは気のせいだ、と僕は指でつまんで持ててしまうようなくらいに軽い言葉を吐いた。空っぽだった。足元の感触からすこし距離をあけていたら、いつの間にか思い出せなくなっていた。
青は、深かった。空はいつも僕の上にある。その空を、僕は忘れたつもりはない。車椅子に座りながら、小さな雲を見た。なにがきっかけだったのかも僕は答えを出せていない。いつからか、歩けなくなっていた。それは呪いだ。僕は呪いにかけられたのだと思った。過去に確かで、今は不確かなことが、いくつかある。此処に立つことはできた。けれど、歩幅をそこに落とそうとすると足が止まった。夜にはならないから、道は見えている。しかし、僕の足が歩もうとはしなかった。すこししゃがんで見てみる僕の履いた靴は、時代で汚れていて、見えていない明日も、歩もうとしている道にも、ある程度理解しているみたいだった。くりかえす出会いと別れ、深い言葉が深くないように感じてしまうのは僕自身の汚れだということはわかっていた。僕が持った鞄のなかには荷物なんて無かった。唯一入っているとすれば、それは嘘だ。
歩き疲れてなんていない。けれど、休憩を僕は求めた。それは悪いことじゃないはずだ。そこらのベンチにでも腰を降ろして、気まぐれで小銭をはらませた自販機で買った缶ジュースでも飲んで、また風が流れだした頃にでも起き上がって歩けばいい。僕はそうして生きてきた。それなのに今はどうなっているだろう。車椅子だ。半透明だった、歩くという意味に、僕は指先だけ触れることができてしまっていた。
風が吹くのをやめようとしている。道端にてこぼれた季節の名残惜しさを背負った花びらも、その風の力で背を押されることはできない。
車椅子になって僕は、道を歩いている雑踏を傍観する。無機質な鏡に、それらは映り込んでいる。反射して映るそれを僕は見つめているだけだった。実際に歩いている人を見ていれば、嫉妬でどうにかなってしまいそうな気分になった。無機質な鏡でも、十分その感情は心を噛んできた。握りしめる手に滲んだ汗が、見覚えのある感触をしていた。悔しさから奮い立たせてその場に立ち上がるが、歩こうとすればやはり歩けない呪いが静かに笑ってきた。人たちの漣が砂浜をすり寄るその街の景色に、皹がしたたかな音を吊るして刻まれた。僕は見ている。無機質な鏡は罅割れてなお、風景を上映しつづけている。皹が規模を誇張させてゆく。欠けはじめた片鱗が足元まで転がってくる。使い物にならなくなった鏡にまで描かれたその空でさえ、青は純情だ。
そうだ、と僕は油絵のようになってしまったそんな心を、ふたたび掘り起こした。僕は歩きたいのだ。わかりやすく、そこには深い意味も、目が回るような哲学も、息を荒げてまで模索するきっかけも、原動力も、なにも必要とはしない。ただ、歩いていたいのだ。歩くこと、それが別に嘘について語っていたとしても構わない。安い文章で作った安い物語だとしても、それが嘘でなくなるくらいに、歩きたい。
新しい靴を買うようなお金は無いから、新しいシャツを着た。脱いだ古いシャツには湿った汗がつよい意思で残っていた。僕は眠っていたようなものだった。そこで夢を見ていた。それは僕が歩く夢、僕が誰よりも先を歩く夢、僕がまた道のりを語る夢、よどむ川のほとりでも、泥む夕景を背中にしても、僕は止まらない夢、僕の言葉に価値をつけてゆく、そんな子供のような夢だ。夢の僕の額には、汗が滲んでいる。鏡の片鱗を踏みつけ、街の情景や誰かの心理を歩みながら汗をしたたらせた若い僕が。その汗は、眠りから覚めてなお僕のシャツや額に張りついている。歩ける、そんな確信がある。根拠とか、理由とか、意味とか、暗喩とかじゃない。そんな言葉じゃない。嘘臭くなっても、歩こう。若い僕ができること、老いた僕ができること、変わりゆく環境や時代の中で、くりかえす出会いや別れの中で、変わらないもの、誰にでもあるそれが、僕にもあるのだ。
車椅子が軋む。鳥が鳴く。建物の裏に隠れていた君がまた吹きはじめる。僕の靴はまだ何も知ってなどいない。無知なまま僕は歩くことを思い出してゆく。夢から踏み出たその汗が、証明してくれるのを静かに待てるような人間じゃない。筆を握った。 END
夢から踏み出たその汗、