妖魔紀行譚

妖魔紀行譚

◆ 一
 ひどい頭痛をともなって夢うつつの状態でいた。
 真っ暗な世界で上も下もわからない状態のまま手足をじたばたさせていると、不意に目が開いた。目の前の光景がゆがんでいて、現実感がない。
 布団の上で寝返りをうちたいが体がいうことをきいてくれない。金縛りか。
 優はひどい汗をかき、苦しみもがきながら、重たい体をようやく起こした。その途端、さらにズキンと頭痛がひどくなった。
 枕元には開封済みの薬の包装が多数散らばっていて、優は昨夜睡眠薬その他精神薬を大量服薬し死を願いながら眠りに落ちたことを思い出した。
 頭痛とめまいがひどいものの、こうして目が覚めたということは、生きている。すなわち死ねなかったということだ。
 見た目にも貧相な冴えない中年男が、世をはかなんで楽になりたかったのだが、願いは叶わなかったようだ。ただでさえ気だるそうな疲れた顔立ちは、脱力感でさらにだらりとしていた。
 優は布団をはぐると立ち上がった。が、めまいで転んだ。死ねなかったが、まともではないらしい。震える手で枕元のペットボトルに入った水を飲む。ぬるい。
 再び優は布団の上に寝転がった。体がだるくて、起きていられないのだ。頭で何か考えようとするが、頭痛のせいでなにも考えられない。ただひとつの言葉だけはハッキリと浮かび上がっている「死にたい」。
「死にたい」という言葉が頭の中でグルグルと回っているうちに、また現実と夢のはざまを揺れ動いていった。
 何時間か経過した後、ようやく頭痛とめまいから解放された。しかしまだ体はふらついている。テレビをつけると午前中のバラエティー番組をやっていた。まるで別世界の出来ごとにしか感じられず、優はすぐにテレビを消した。
「死にたい」
 再び頭に強く浮かび上がる言葉に突き動かされるように、優は立ち上がった。立ち上がったもののどうしていいのかわからなかった。とりあえず部屋を出る。県営団地の共用部分に出ると、人気のない寂れたコンクリートの建物が魔窟のようだった。
 優は階段をあがっていった。一番上の階まで行くと踊り場から辺りを見回してみた。四階建ての県営団地の一番高いところからの眺めは、目の前に裏山の崖があるためお世辞にも良いとは言えなかった。
 そんなに高くない手すりから身を乗り出してみる。風が体に当たる。優は何かをつかもうとさらに身を乗り出し、宙に手を伸ばした。その瞬間優は落下した。
「死にたい」
 またその言葉が浮かんだ。浮かぶということは死んでいないということだ。優は植え込みの木に引っかかっていた。体中擦り傷ができたがそんなものはどうでもいい。身をよじると木から地面の芝生の上に落ちた。死ぬどころか重症にもなっていない。軽症だ。今飛び降りた四階の踊り場を見上げてみる。下から見ると大した高さではなかった。
 優は植え込みの木を見上げた。ズボンのベルトを外し、適当な高さの枝に引っ掛けて自分の首に巻きつけた。そして体重をかけた。
 だが、枝が折れてしまい芝生の上でお尻を強く打っただけだった。優は半泣きしながらなぜか笑いがこみ上げてきた。
「死にたい、でも死ねない」
 生きるということは死ねないということである。死ぬのが怖い者もいるだろうし、やり残したことがあるから今死ぬわけにはいかない者もいる。優のように死にたくても死にきれない者もいる。
 ただ優の場合「生きることもできないが、死ぬこともできない」のだった。世間の底辺にいる疲れ果てた中年の優にとって、この世は生きていくにはつらすぎる世界だった。生きる価値を見いだせないということは、この世に存在する意義もない。消えてしまえばいいと思うのだが、消しゴムで消せるほど簡単ではない。
 団地のすぐ近くに池がある。聞いた話では先の大戦のときの防空壕の跡が落盤して、穴があいたところにいつの間にか雨水が溜まり池になっているのだった。また周りを山に囲まれたこの辺り一帯の土地は低く、より一層雨水が集まりやすいのだった。池は意外と深いため、危険防止のため周りを柵が囲ってあり危険注意の看板まである。
「死にたい」
 優は取りつかれたように柵を乗り越えると、池の中に入っていった。意外と深い。しかし体が浮いてしまい、思ったほど体が沈んでくれない。優は水底に潜ると何か手応えがあり、そのままその何かにしがみついた。
 しかし、その何かが水底からはがれると、軽石のように水面に浮かび上がってしまった。大量の水を飲んだ優はむせながら池のほとりにたどり着き、疲れ果てたように倒れ込んだ。
 どれくらい意識を失っていたのか、気が付くと優は池のほとりで寝ていた。そして水底でしがみついていたものを抱きしめていた。それはほぼ正方形をしており、薄い板状のものだった。表面には何か文字のようなものが彫られている。明らかに人工物である。
 優は急に興味をひかれ、石板を持って自分の部屋に戻った。

◆ 二
 中退したとは言え、そこそこの大学で民俗学や古典を学んでいた優にとって、石板に彫られた文字の解読はなんてこともないことだった。しかもこの石板はそれほど古くなく、明治三十年と記してある。
 書いてあるのは、太古より世界を支配していた妖魔たちを退治するため、妖術師である某が犠牲となって、妖魔ヶ穴という場所に封じ込めたとしてある。
 歴史を真面目に勉強してきた優にとって、この文言はにわかに信じられるものではなかった。神々とともに人間が協力して世界を作り上げたという神話を説くのであれば得心しないでもないが、妖魔なるものが世界を支配していたなどと。そして妖術師が身を呈して封じ込めたなどと。
 神秘主義者の中には確かに悪魔崇拝する者がいないでもないし、秘密結社における世間をはばかるような研究もある。
 優はさらに石板の文字を読みすすめた。
 妖魔を封じ込めた某の子孫がこの石板を代々受け継ぎ、同時に妖魔ヶ穴を封じた鍵も大事に祀っておくように注意書きがしてある。さらに、時々下等な妖魔を呼び出し、封じた世界での妖魔の宰相の様子を聞き出すように。としてある。そしてその隣には、妖魔を呼び出すと思われる呪文が書いてある。
 優はしばらく呆気に取られていた。これは何かのイタズラではないか? そもそもこんなものが池の底から出てくること自体がおかしい。子供が遊びで作って池に沈めたと考えるのが自然だ。
 …だが、古文で真面目な文体からは、到底子供では作り得ないし、大人が冗談で作ったにしては手が込みすぎている。そこはかとない不気味さが漂っているのだ。しかも後半の部分の文字だけは解読できなかった。今まで見たこともない文字だったからだ。
 優は石板に書いてある解読できる部分にあるとおり、石板に手を乗せて呪文を唱えた。半分馬鹿馬鹿しいと思いつつも。
 何も起きない。
 やはり偽物であったか。優はくだらないことに時間を使ったと後悔した。そんな時間があれば自殺する方法でも考えたものを。
「死にたい」
 優は布団の上に寝転がった。
「あなた死にたいの?」
 不意に聞きなれない女の声がした。振り返ると着物姿の女、というより少女が部屋の隅にたたずんでいた。十代前半であろうか? 長い黒髪と白い肌が印象的で、赤い着物を着ていると、まさに和人形そのものだった。だがどこか妙に色気がある。切れ長の目といい、口元といい、子供では出せない妖艶さがあった。
「お、お前は誰だ? ど、どこから入ってきた? げ、玄関には鍵をかけていたはずなのに」
 怯えた子供のように優はどもりながら少女に問いかけた。
「アラ、呼んだのはあなたよ。現世に呼び出されるのは本当に久しぶり。でも、ずいぶん雰囲気が変わったのね。これはかなり化学が進歩したわね」
 少女は優の部屋を品定めするように見て回り、テレビや携帯、オーディオ機器などの機械類を興味深そうに見つめた。
「お前、もしかして妖魔か?」
 優は恐る恐る質問した。 
「そうよ」
 少女はこともなげに答えた。どこからどう見ても人間の女の子だ。ただ異常なくらいの色気と可愛らしさをのぞけば。その姿に優は全身総毛立つ思いだった。
「あなたが石板と呪文を使って呼んでくれたから、別次元から移動できたの。ありがとうね。さっそくだけど、報告をするわね」
「報告?」
「アラ、あなた報告聞かなくてもいいの?」
 噛み合わない会話に少女は少し考えてから、
「どうもあなたは部外者のようね。いつもの堅苦しい神主ではないから。確かに結界も張ってないし。ふふ。あなたさっき死にたいって言ったわね。結界の中にいなかったら、いくらあたしが下等な妖魔でも人間くらい簡単に殺せるわよ。死にたい?」
 少女は顔をゆがませた。そんな表情でも美しさは保っているのがかえって恐ろしい。
「し、死にたい。僕を殺してくれ。お願いだ」
「あはは。面白い人間ね。あなた死ぬのが怖くないの? あたしが今まで出会ってきた人間の男たちはみんな死にたくないって命乞いをしたものよ。まあいいわ。あなたの望み通り殺してあげる。でもその代わり、あたしの望みを聞いてくれる?」
「の、望み? 望みって?」
「妖魔の復活よ。あなたは何も知らないみたいだから教えてあげる。あたしはかつて妖魔たちを封じ込めた妖術師の子孫に時々呼び出されて、魔界の様子を報告をさせられていたの。だけど、ここ最近はずっとお呼びが掛からなかったから退屈してたの。でも、部外者のあなたがあたしを呼び出してくれたおかげで、もしかしたら魔界に封じ込められた妖魔たちをこの世に復活できるかもしれない。だから、その手伝いをあなたにしてほしいの」
 一度にたくさんのことを言われて、優は理解ができなかった。ただ、この少女の手助けをすれば、殺してくれる、ということだけは理解した。そこでふと思いついた。
「妖魔が復活したら、人間はみんな死ぬのか?」
「うーん。それは禍つ神様や魔王様の気分次第ね。今は人間を憎んでるからきっと沢山の血の雨が降るかもね」
「お願いだ。世の中の人間を殺してくれ。僕も死んでもいいが、同じく他の連中も殺してくれ。人間なんてこの世にいなくてもいいんだ」
「なかなかいい冗談ね。まあ、禍つ神様に相談してみるわ。ちょっと待って、あたしでも禍つ神様か邪神様くらい呼び出せないかしら」
 少女は石板に手を乗せて呪文を唱えた。すると宙に角を生やした真っ黒の男が現れた。
「なんだ。あなたなのね。所詮あたしの妖力ではあなたくらいしか呼び出せないみたいね」
 ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべる有角の男は、優の部屋を見渡すと、ますますニヤニヤした。
「ふん。そこの男。お前だよ。この女誰だか分かってるのか? 夢魔だぞ夢魔」
「なによ。あなただって夢魔じゃないの」
「せいぜい取り殺されないように気をつけるんだな」
 男の夢魔は部屋の窓へとフワフワと移動した。
「どこへ行く気よ」
「久しぶりに現世に出てこれたのだから存分に楽しませてもらう。女どもを虜にして食い物にしてやるんだ。お前だって同じつもりだろう?」
 そう言うと男の夢魔は窓から外へ飛んでいってしまった。
「お、お前、夢魔なのか?」
 優は怖々質問した。妖魔だとは認識していたが、実際にどんな妖魔なのか分かると現実味が出てきて恐怖心がわきだしてきた。
「そうね。でも呼び出したあなたが、あたしを夢魔だと知らずに呼び出したから、子供の姿なんだけどね。まあいいわ。別に今は禍つ神様たちを復活させることが優先よ。あなた、妖魔ヶ穴って知ってるかしら?」
 妖魔ヶ穴。石板にも書いてあった、妖魔が封じ込められた場所のことだ。だが優は聞いたことがなかった。
 そこで携帯で検索をしてみると、これが見事にヒットした。
 ここ関東から西へひたすら遠い道のりの先にあることが分かった。妖魔ヶ穴を護る神社の宮司が観光案内をホームページにして、詳細に説明までしている。どうやら、パワースポット巡りの穴場として、知る人ぞ知る場所であるらしい。あまりにあっけなく判明したので逆に拍子抜けしてしまった。
 だが、問題がひとつあった。金銭面である。生活の厳しい優にとって新幹線を使ってでも移動しなくてはいけない距離の旅費を捻出する方がむしろ難しいと言えた。だが、妖魔が復活した後には死が待っているのだから、別に金銭に構ってる場合ではない。しかも人間は滅びるのだ。あるだけの全財産を使い果たしてでも行く価値はあると思えた。
「とにかく遠い道のりだけど、行けるのね?」
 少女は嬉しそうに顔をほころばせた。その笑顔は思わず抱きしめたくなるほど可愛らしいものだったが、彼女のことを夢魔だと知った今ではそれが恐ろしかった。
「まずは服を買おう」
 優は着物姿の少女を見ながら言った。この格好では目立ちすぎる。近所のショッピングモールであれば子供服くらい買えるであろう。
「いいわね。今の流行りの服がいいわ。あと、今の時代の娯楽って何? 何が楽しいの? 妖魔ヶ穴に行く前に楽しまない?」
 夢魔なのだからきっと快楽主義なのだろう。楽しいと思えることには積極的になるようだ。
「そういえば、名前を言ってなかったわね。あたしはりりり。あなたは?」
「優」
「まさる? よろしくね」
 りりりはまた恐ろしいくらいの可愛らしい笑みを浮かべた。

◆ 三
「すごーい。なにここー?」
 遊園地に到着すると、りりりは屈託のない子供さながらに楽しそうな嬉しそうな声を上げ、その場でくるくると回った。それと同時に、ゴスロリの服のフリルがふわりふわりと舞踊った。
 優の家からすぐ近くの大型ショッピングモールに行き、子供服売り場を回っていた時に、一番りりりが反応して欲しいとねだったのが、ゴスロリのファッションだった。全身黒地のワンピースに胸からお腹辺りまで縦の白いラインの入ったデザインで、とにかくフリルだらけで歩くたびにふわりふわりとひるがえる豪華仕立てだった。スカート部分の丈は膝くらいで、黒いタイツに黒のゴスロリ靴。夢魔にぴったりかもしれない。着物姿では目立つので、地味な服を着せようとしたのだが、かえって着物姿よりも目立つ結果となってしまった。それでも売り場の店員さんから「お嬢さんに大変お似合いですよ」と親子として認識されたのには安堵した。
 有名でも豪華でもない、ごくごく普通の遊園地だったが、ジェットコースターのうねったコースや、観覧車、メリーゴーラウンドなどを見たりりりは、まさしく子供のようにはしゃいだ。優をひっぱって早く早くと中へ駆けてゆく。
「ここは何? 夢の国? とても楽しそう! ねえ、どうやって楽しむの?」
 くりくりとした目で下から見上げられて、優は思わず照れてしまった。じっと見つめていると深淵に引き込まれてしまいそうな瞳から目線を外すと、子供向けの緩やかなコースターを指さした。
 平日ということもあり、人は少なく待ち時間もなく、すんなり乗れた。ほぼ平坦なコースで少々のアップダウンとコーナーがある程度の、小さい子供でも安心して乗れるコースターだった。
「面白くない」
 予想はしていたが、りりりは不満を言い放った。するとさっきから轟音をたててぐるんぐるんと回転しているジェットコースターを指さした。
「あれがいい」
「でも身長が足りないんじゃないかな?」
 優は心配するつもりで言ったが、実のところ、優は絶叫マシーンが苦手なのだった。しかしりりりが身長制限を余裕でパスすると、優はげんなりした。
「きゃーーーっ、たのしーーーー」
 りりりは一番先頭の車両に乗って、高速走行するジェットコースターにすっかりご機嫌になってしまった。特に宙返りするところがお気に入りの様子だ。一方の優はというと頭を下げて、周りの景色を見ないようにして悲鳴を上げていた。「ねえ、もう一回乗ろう?」と何度もねだるりりりに、断りきれない優は段々と顔面蒼白になっていった。
 これが夢魔の恐ろしさか。と優は感じてきていた。快楽には貪欲で際限がない。刹那的どころか、永久的に楽しいことを追求する存在であるらしい。
 しかし、無邪気に「きゃーきゃー」言いながら抱きついてくるところなどは正直可愛い。親子なのか恋人なのか赤の他人なのか分からないが、とにかくりりりといて楽しいと感じるようになってきていたのは事実だ。
 次にりりりが興味を示したがお化け屋敷だった。妖魔である夢魔がお化けに興味を示すのも変な話だが、本人は興味津々だ。やはり優はお化け屋敷が苦手である。もし人間が魔界に紛れ込んだとして、アトラクションとして「人間屋敷」というものがあった場合、見てみたいと思うものだろうか?
 優とりりりはぎゅっと手を握り締めて、薄暗い通路を進む。自然と前かがみの姿勢になってしまう。
 不意に横の扉が開いて、お化けが現れた。驚いた優とりりりは同時に悲鳴を上げた。逃げようとする優だが、りりりとしっかり手が握られていてその場から逃げられない。「もー、なによー、びっくりさせないでよー!」りりりは怒ってお化けをバシバシと叩いてから、優を引きずるように奥へとずんずん進んでいった。それ以降も、優の腕につかまり、怖がりながらもお化けにキレるりりりにたくましさを感じる優だった。
「お疲れ様でした」
 出口のお姉さんににこやかに言われて、りりりはべーと舌を出した。まだ怒ってるらしい。
 優はりりりのご機嫌を取ろうと、クレープとポップコーンを買ってあげた。初めて食べるスイーツに、りりりは目を丸くした。「おいしーい。なにこれー」すると、味をしめたりりりはおかわりをねだり、クレープ売り場にある全種類を食べてしまうという偉業を成し遂げた。小さな体のどこに入っていくのか、本当に夢魔とは欲に対して底なしなのだと実感する。
 食事が終わると、ふたりで観覧車に乗った。乗ってすぐは面白くなさそうな顔をしていたりりりだが、段々とゴンドラが高くなるにつれて笑顔になりだした。テンションが上がったのか、りりりはゴンドラの中で飛び跳ねた。ゴンドラが揺れる。優は顔が真っ青になる。
 ゴンドラがてっぺんに来たあたりで、りりりが急に「ここで止めたい。この景色最高。ね、優と一緒にいるの楽しい」と楽しそうにりりりが言うと、ガクンと一瞬衝撃があった後本当にゴンドラが止まった。故障?
 すると遊園地内にアナウンスが流れる。観覧車が原因不明の故障で今復旧作業をしているらしい。
 りりりが優の横にちょこんとすわった。
「いい雰囲気ね。現世では恋人同士はこの中に入って何をするの?」
 優はドキリとした。そんな経験はないが、思わずりりりに対して甘酸っぱいものを感じてしまった。中年男にとってそんな感情とっくの昔に枯れたと思っていたのだが。しかし優はりりりの質問に答えることができなかった。何か怖いものを感じたからだ。背筋が凍るようだった。
「ふふふ。じゃあ、動かすわね」
 りりりが不敵な笑みを浮かべると、再び観覧車が動き出した。遊園地内に観覧車停止のお詫びのアナウンスが流れる。りりりは何事もなかったかのような顔をしているが、本当に彼女が観覧車を止めたというのか?
 家路の電車の中でりりりは、いかに遊園地が楽しかったかを語り続けて止まらなかった。また行きたい、と言い出しそうな勢いだ。
 今まで女性と一緒に遊園地に来たことなどない優にとって、りりりとの今日一日はとても貴重な体験になった。また遊びに行ってもいいと思えるものだった。…とここまで考えて、この中毒性そのものが夢魔の力なのかと思う部分もあった。果たしてりりりは、今日の遊園地は本当に彼女にとって楽しいものだったのか? それとも優をとりこにするための演技だったのか? 優は頭がこんがらがってきた。
 夕食は近所のコンビニで買ってきた適当なものを優の部屋ですませる。なんてことのないメニューなのだが、やはりりりりにとっては物珍しいらしく「おいしいおいしい」を連発させた。そしてまたしてもおかわりを所望するものだから、優は何度もコンビニへ行くはめになるのだった。
 就寝。りりりは普段優が使ってる布団に寝かせてあげて、優はもうひとつの物置になってる部屋でざこ寝することにした。電気を消して「おやすみ」を言ってからしばらくすると、暗がりからりりりが優の寝ている部屋にそっと現れた。そして優に添い寝する。
「今日はありがとう。ね、あたし今は子供だけど、優が望めば大人の体になれるよ?」
 優は一番恐れていた言葉をささやかれて寿命が縮む思いだった。いや死にたい人間が、寿命うんぬん言う自体おかしな話だが。優は聞こえないふりをして、そのまま寝続けた。
 りりりはちょっと不機嫌そうなため息をつくと、そのまま朝まで添い寝をしていた。
 
◆ 四
 電車に揺られながら、優は昨日からの行動を思い返していた。対人恐怖症で、人前や人混みが苦手な優が、なぜいとも簡単にショッピングモールで買い物したり、遊園地に行ったり出来たのか。これも夢魔であるりりりの力の仕業なのか。確かにりりりに何か頼まれるとそれを断ることができない。断れないというより、進んで彼女のために尽くしてあげたい気持ちにさせるのだ。りりりが笑顔でいてくれるのであれば、どんなことでもやってあげたいと思わせる何かがあった。
 昨夜の添い寝だけは彼女の願いを聞いてあげなかったが、それを聞き入れたら命がなかったかもしれない。だが目を覚ますとりりりは横で無垢な顔で眠っていた。
 今日も今日で、はるか西の果てにある「妖魔ヶ穴」までの切符を駅の窓口で買い、こうしてりりりと電車の旅に出発していたのだ。彼女は車窓から流れるように見える景色に見入ってる。建物ばかりの大した景色でもないが、りりりにとってはめずらしいようだ。変わった外観の建物を見つけるたびに「見て見て、あれなにー?」と無邪気に聞いてくる。
 今日もふりふりのゴスロリファッションのりりりは、目鼻立ちが整っている上に、見た目の割に異様なくらい色気を放っているので、同じく乗り合わせた電車の乗客から奇異の目で見られていた。特に男性からの視線は集中しているようだ。その視線を楽しむかのように、りりりは乗客と目が合うたびに笑顔を振りまいていた。その度に優はヒヤヒヤする思いだった。
 在来線から新幹線の駅に到着し、乗り換えをする最中、駅構内でりりりが空腹を訴えた。朝食を食べたばかりだというのに。りりりが指差す方向にはお土産物やさんがあり、お菓子があった。どうやらそれが目当てらしい。優が買ってやると、りりりは無邪気に喜んで抱きついてきた。
 在来線とは違う、新幹線特有のしゃれた車内と座席に、りりりは感動していた。座席のフカフカ加減もお気に入りのようで座りながらポンポンとはねていた。
 車内は平日ということもあり、乗客はほとんどがサラリーマンだった。その中に、疲れた中年とふりふりの少女が紛れ込んでいて、異質な空気を漂わせていた。
 新幹線の凄まじいスピードにりりりは感動していた。やはり窓から流れる景色に見とれて、変わったものを見つけるたびに、優の袖を引っ張った。
「化学もやるわね」
 不意にりりりが真面目な口調になった。さっきまで子供のようにきゃっきゃっと喜んでいたのに。
「あたしが呼ばれない間に、急速に化学は進歩して、人間は大きな力を手に入れた。これは神々の仕業ねきっと。あたしたち妖魔と手を切って、神々と契約をしたから、今の人間の繁栄がある。この列車に乗るまでの間に一体どれだけの人間とすれ違ったことか。人口も爆発的に増えたのね。動物たちの姿はなかったわ。これは良くない兆候よ。人間が今の世界を支配しているのなら、きっと社会を支えきれないはず。だって不完全な生き物でしかない人間には世界を統治する器を持ち合わせてないもの。昔のように、あたしたち妖魔が世界を支配して、人間はその奴隷として生きていけば楽なのに」
 りりりの言葉は重く深く優に突き刺さった。が、ほとんどが理解できない内容だった。優が今まで勉強してきた歴史の中には妖魔なるものが世界を支配していたなどという時代はない。まして、人間がその妖魔の奴隷だなどと。
「そんな歴史は知らない。僕が今まで勉強してきたことは、人間は神を崇めて生きてきた、ということだ。宗教の違いはあれど、最初に神ありきだ」
 しかしりりりは鼻で笑った。
「そんなの神が勝手に作った嘘っぱちね。いい? この地球に最初に知的生命体が現れたのは妖魔が最初。そして何億年と地上を支配していたの。そしてありとあらゆる動植物を作り出し、世界を形作ってきた。今の地球を作ったのは妖魔なのよ。分かる?」
 りりりに下から見上げられて、優はうなずくしかなかった。
「でも、ある時妖魔の中で反乱が起きたの。妖魔にも格付けがあって、最高位が魔王なんだけど、その魔王の中でも特に動物を想像するのが得意な魔王が、すべてを統治する気高きお方に謀反を起こし自分がその座に就こうとしたの。でもその謀叛は失敗に終わって、処刑される寸前だったんだけど、逃げ出して地上を逃れて天界に住み着くようになったの」
 優はどこかで聞いたような話だったが、どっちがどっちのパロディなのか分からなくなってきていた。
「謀反を起こした魔王は、天界で神と名乗るようになり、自分の仲間を次々と生み出していったの。それが世界各地で言い伝えられてる神々ね。そして、神はついに人間を作り出した。最初は自分たちの奴隷に使おうとしたみたいだけど、あまりに不完全で堕落した存在だったから、地上へ堕としたの。その後、神は天使という完全なる奴隷を作り出したの」
 人間に対するあんまりな言い分に、優はいい気持ちはしなかったが、人間なんて滅んでしまえばいいと思ってる優にとって得心させられる部分もあった。
「妖魔も最初は地上に降りてきた人間をどう扱っていいか分からなかったわ。だって、自分たち妖魔が作り出したものではないし、神が勝手に作って不完全だからという理由でゴミのように放り出されて。だけど可哀想だったから、ほかの動物たちと同様に仲間に入れてあげることにしたわ。だって、意外と知能が優れてるから話し相手としては面白いじゃない。妖術や農業、暦、文明を教えてあげると、これをちゃんと理解して自分たちのものにしてどんどん進化していったのは感心したわ。だから妖魔たちは人間と密接な関係になっていったの。自分たちの子供じゃないけどちゃんと成長させてあげようとね」
 そこへ車内販売の売り子が通りかかった。するとまたりりりはお菓子をねだった。本当にこの子は妖魔なのか子供なのか。
「でも、すぐに争いごとをしようとするところは、やっぱり不完全ね。欲望にも執着するし。だからあたしみたいなのが時々こらしめたりするんだけどね。でも、優はちょっと普通の人間とは違うかな?」
「どんな風に?」
「うーん、どう言ったらいいのかなあ。分からないわ」
 りりりは首をかしげながらお菓子を食べた。なんだかけむにまかれた感じだった。
「でも神々への信仰は世界中にあるし、昔も今も宗教はあるけど、それはどうなるんだ?」
 優は質問した。
「神々は気まぐれで時々人間にちょっかいを出すの。妖魔と手を切れば天界に戻してやると言ってね。実際に天界に行った人間が神々に洗脳されて、神の教えなんてくだらない物を広めたりするのよ。また好戦的な神々は妖魔に対して天罰と称して攻撃を加えるわ。全ては神々の陰謀ね。でも本当はね、神々は人間のことなど全く気にしてなんかいないわ。だって天界から追放したんだもの、要らないって。優は道を歩いていて、虫を踏み潰したら気にするかしら? 気づきもしないんじゃない? そんな程度よ。でも時々クモの巣に引っかかった蝶を逃がしたりもするわね。そういうところは神にそっくり」
 人間が神々にとって虫けら同然。神は人間を見守ってくれる心のより所ではなかったのか? では、天界を追放されて、地上で生きる人間がなすべきこととは一体なんなのか?
「でも、ある時神々は急に人間に対して態度を変えた。それが化学よ。人間は神々から化学技術を教わり、産業革命という波を起こした。そしてそれまで妖術で結ばれていた妖魔とは手を切り、妖魔たちを一斉に悪だと決めつけ弾圧をしだしたの。その後の機械文明に至るまでに、人間が地上の主としてのさばるようになっていったわ。まんまと神々の策略に乗せられたのね。そして今も神々の力によって化学を発展させているわけね。さらに歴史そのものも塗り替えてしまった。妖魔は悪であり、人間を守る神こそ善の象徴であると」
 優は頭がグラグラしてきた。自分が今まで信じてきたことがまるっきりひっくり返りそうだからだ。
「それでも妖魔は闇に隠れてひっそりと存在し続けていたわ、あの日が来るまで」
「あの日…?」
「妖魔から妖術を多く学び、自らを世紀の妖術師と名乗る男がいたのだけれど、神の策略に引っかかって神々の手先に寝返ったの。その裏切り者が自らを犠牲にして魔界を生み出し、あたしたち妖魔を魔界へと封じ込めてしまったの。魔王様を封じ込めてしまったら、眷属であるあたしたちも一緒に魔界に引き込まれてしまったの。それが妖魔ヶ穴。そして魔界の様子を定期的に聞くために、裏切り者の子孫が石板を使ってあたしを呼び出していたのだけど…。昨日呼び出したのは優で…。一体何があったのかしら?」
 りりりは首をかしげながらお菓子を食べた。全部食べきると、優におねだりをした。次に車内販売が来た時にまたお菓子を買う羽目になった。
  
◆ 五
 新幹線を降り、ローカル線に乗り換えると一気に車窓からの景色は田舎の風景になった。そこからさらに田舎を目指してバスに乗り換えた。優の団地の最寄駅から新幹線駅と、西へ進むにつれてどんどん人が少なくなっていくのが不思議だった。
 ガタゴトと乗客の少ないバスに揺られて、優とりりりは一番後ろの座席でくつろいでいた。目的の妖魔ヶ穴まではこのバスの路線の終点にあたるらしい。
「今度は優のことを教えてよ」
 不意にりりりが優に語りかけてきた。興味ありげに優の顔を見上げる。
「僕のことを…」
「そう。今までずっとあたしのことばっかり言うこと聞いてもらったり、話聞いてもらってたでしょ。だから今度は優の番」
「あまり面白くないと思うけど…」
「そんなことないと思うな。あたしは優のことをもっと知りたいだけ。さ、話して」
 切れ長だが、黒目の大きいりりりの目に見つめられて、思わず優は目をそらした。
「僕は精神病なんだ。常に心がつらくて、体もいつも調子が悪くて、物事を楽しいと思えなくて、生きるのが苦しくて死にたいっていつも思ってる」
 優はそこで言葉を切った。もうこれ以上言いたくなかった。
「終わり? もっと聞かせてよ。どうしてそんなにつらい思いをするようになったの?」
「分からない。気がついたら心も体もボロボロになっていた。でも最初はきっと、保育園の頃かもしれない。父親が暴力を振るう人で、僕や母さんをぶったりしていたんだ。それがあんまりひどいから、母さんは僕をつれて家を出たんだ。しばらくすると新しい男と一緒に住むようになった。新しい父親というのが、やっぱり僕につらくあたる人で嫌いだった。母さんと新しい父親との間に子供が生まれるとさらに僕につらくあたるようになったし、母さんも新しい息子に愛情を注ぐようになって、気がついたら僕は家庭の中で孤独になっていた。父親の違う弟も成長すると僕をバカにするようなやつで嫌いだった」
 優は嫌な過去を思い出して、胸がムカムカしてきていた。
「じゃあ、家に居場所はなかったの? だったら外に出ればよかったのに」
「学校ではいじめられていた。物心ついた時から親に対して不信感しかなくて、人間が嫌いで、人付き合いが嫌だったんだ。それに加えておとなしい性格だったから、格好のいじめられ役だった。いじめてくるのは数人の不良グループの連中なんだけど、クラスのほかの連中からの見て見ぬふりをする冷たい対応がもっと嫌だった。あいつはいじめられるようなやつなんだとランク付けされて、みんなからバカにされていた。その頃から、学校中の連中みんな死んでしまえばいい、自分も死んでしまえばいい、って思うようになったんだ。そして人生最初の自殺未遂をした。学校の屋上から飛び降りたけど骨折しただけで死ねなかった。そのことは地元のテレビに取り上げられて、その時になって初めて学校がいじめに対して動いてくれたけど、いじめがあったかどうかを学校側が把握していたのかを認める認めないの話ばかりで、肝心のいじめた奴らやその他僕を冷遇した連中のことは全く取り上げなかったのが一番悔しかった。結局、僕は転校することで無理やり解決させられたけど、新しい学校でもやっぱりいじめられた。学校に相談しても、お前の性格の問題で、それを直せばみんなと仲良くなれるというだけで助けてくれなかった」
 優は語りながら涙を流していた。我慢しきれなかったのだ。
「それでも中学を卒業したけど、高校は通信制にすることにした。もう人と会うのが嫌だったんだ。でも家でも相変わらず居場所はなかった。家を出たくて出たくて、遠くの大学を受験して合格した。奨学金で通えるようになって、家を出てひとり暮らしが始まったんだ。大学くらいになるとみんな大人だからいじめというものはないけど、明らかに自分を無視してる、というのは伝わってきた。友達なんてできなかったし。先生とも折り合いが合わなかった。大学にいるのがつらくて仕方なかったから、中退した」
 りりりが優の腕にぎゅっと抱きついてきた。
「つらかったのね」
 りりりの言葉はしみたが、全てはいまさらという思いがしないでもなかった。
「社会に出たら奨学金の返済が待っていた。まともに就職活動をしてなかったから、まともな会社に勤められなかった。朝早くから夜遅くまで薄給で働かされて、挙句の果てに体を壊して入院する羽目になった。その頃から精神を病んで、体調が良くなったり悪くなったりを繰り返すようになった。それ以降、仕事は無理なものはやってはいけないと医者から言われて、アルバイトやパートなどの非正規雇用ばかりを転々としていた。ここ数年はますます精神がひどくなって、家から出るのもできなくなっていて、働くこともできなくなっていた。生活保護を受給していたけど、先月打ち切りになってしまった。当然友達も恋人もできなかったし、お金もない。誰も助けてくれない。先が見えない毎日の中で頭がおかしくなりそうになっていた。そしてこの歳になり、もうお先真っ暗だ。自分は今まで何をしてきたんだと死にたい思いは日に日に強まるし、こんな自分にした世の中への恨みも日に日に強まっていくばかり。悲痛な思いは強まるばかりだ」
 りりりの細くて小さな腕が優の体に巻きついてきた。顔をわき腹あたりにうずめている。
「あなたの思い伝わったわ。世の中への怒りも分かる。でもあなたは死んではいけない。だって優はやさしいもの。今までずっと過酷な目に遭っていても、あたしに優しくしてくれた。だからこれからは幸せに生きていく権利があるわ。でも人間は全て根絶やしにしてあげる。あたしが禍つ神様たちにお願いするから」
 バスが終点に到着した。優とりりりはバスを降りると、すぐ目の前に神社の鳥居があり、その奥に社が鎮座していた。さらのその奥に断崖が見えている。
 
◆ 六
 針葉樹に囲まれて陰気な雰囲気の神社は、しんと静まり返っている。昼でもひんやりとした空気が漂っている。
 妖魔ヶ穴の由来が書かれた看板が立てられていて、そこには妖魔を封じ込めた神聖なる場所、としてある。
 人気がない境内はそんなに広くない。田舎の神社の割には小ぎれいにされている。参拝者が多いことから日頃の管理が行き届いているのだろう。境内のほぼ真ん中にやはり真新しい小さな社が建立されていた。
「ここよ。あたしがいつも呼び出されていた場所は」
 りりりが思い出したように声を上げた。社を中心として、灯篭が幾何学模様を描くように配置されているのを一個一個指さした。
「この灯篭が魔法陣の役割をしているのよ。だからあたしが呼び出されてもこの中から出られずに、召喚士の神主の質問に答えさせられていたのよ」
 そして社の奥の崖を指さした。大きな鉄製と思われる戸が据え付けられている。
「あそこが妖魔ヶ穴。あの中に妖魔たちが封じ込められているの。そしてその扉を開ける鍵は…」
 りりりは社を指さした。
「そこまでだ」
 不意に背後から大声で怒鳴られて、優はびっくりした。振り返ると、古風な装束に烏帽子をかぶった神職と思しき初老の男がいた。
「昨日から妖気をかすかに感じていたが、まさか本当に妖魔が来るとは思ってはいなかった。こうして待ち受けておらねば大変なことになっているところだったわ。それにしても妖魔を呼び出す石板を使ったな? どこにあったのだ?」
 神職はりりりを指差してにらんだ。りりりはべーと舌を出している。
「うちの団地の近くの池に沈んでいました。そこは元防空壕で落盤して雨水が溜まって今は池になってるんです」
 素直に説明する優の言葉に神主は軽くうなずいた。 
「そうか思い出したわ、そういえば戦時中に石板を管理していた親戚が石板を持って都会に出ていったな。おおかた空襲にあった時に防空壕に持って入ったのだろう」
「あたし、その石板を持っていた神主に呼び出されたわよ。確か昭和十八年とか言ってたわね。その時世界中で戦争が起きていて、これは妖魔の仕業ではないかとあたしに聞いてきたけどバカバカしいって言ってやったわ。いつだって人間は自分で自分を傷つける。愚かな生き物よ」
「愚かとは何事!」
 しばらく神主とりりりはにらみ合っていた。優はふたりに挟まれてオロオロするしかなかった。
「僕たち、妖魔の封印を解きに来たんです。妖魔を復活させて、世界を元に戻すんです」
 優が事情を説明したが神主に一喝された。
「バカな! 妖魔が復活したらこの世の破滅だわ! 今の話を聞いてなかったのか! この夢魔にたぶらかされたのだな? そこの男、だまされてはならぬぞ。男をとりこにして自分の思い通りにするのが夢魔の真の姿。何を吹き込まれたか知らぬが、信じてはならぬ」
「いえ、世界の成り立ちを聞いたんです。元々この世は妖魔のものであって、神々と人間によって追放されて、今は人間がこの世を支配しているのだと」
「ふん。妖魔が跋扈する世の中が正しいと言いたいのか? この世は神よりつかわされた人間が治めて当然。だから妖魔は復活してはならぬのだ」
 神主は優をさとした。
「ダメよ! 優、その神主にだまされてはダメ! 神の使いである神職はもっとも穢れた人間よ。その言葉こそ穢れてるわ。妖魔こそ正しいのよ」
 りりりが優のそでを引っ張った。
 ここに来て、優は頭が混乱し始めていた。一体どっちが正しいのかわからなくなっていたのだ。
「さあ、石板を出すのだ。このふしだらな夢魔を封じ込めてやる」
「優。鍵よ鍵を手に入れて、妖魔ヶ穴を開けるの」
 ふたりからいっぺんに言われて優はわけが分からなくなっていた。思わずカバンから石板を取り出すと、神聖な場所に来て本来の力を取り戻したのか、文字が赤く光っていた。特に「太古より世界を支配していた妖魔たち」の一節が赤黒く力強く光っている。優は石板を持って神主の方を振り向いた。
「そうだ、それを渡すのだ」
 と神主が言うが早いか、優が石板を頭上高く振り上げて神主の頭を力いっぱい打ちのめした。神主はカエルがつぶれるような悲鳴を上げてその場に倒れた。
「優やったー!」
 りりりが優に抱きついた。優は石板を持ったまま肩で息をしていた。何か取り返しのつかないことをしたような寒気を感じていた。
「優、この社を開けて。中に鍵が収められてるはずよ」
 背の低いりりりでは社の戸に手が届かないようだ。しかし戸には南京錠がかけられており、開けることが出来なかった。神主の服を調べたが、鍵は見つからなかった。
「ええい、めんどくさい!」
 りりりが気合を入れると社がバリバリと壊れてしまった。優はポカンと口を開けた。
「あたしだってこれくらいの力はあるのよ。鍵は優が取って。神の封印がかけられているはずだから、妖魔は触れることができないの」
 崩れた社の残骸をあさっていると、古びた大きな鍵があった。これに違いない。
 社の奥、断崖の前に立つと高さ三メートルはあろうかと思われる巨大な戸がそびえ立っていた。これまた大きな鍵穴に鍵を差し込み回すと、ガチャリと手応えがあった。そして優は戸に手をかけたが重くてとても動かすことができなかった。
「大丈夫。ここまでくればあとはあたしがやるわ」
 またりりりが気合を入れると、巨大な戸がゴリゴリという音を立てながら開いていった。そして現れたのは、真っ暗な穴だった。穴の中は黒い渦を巻いており、見ているだけで引き込まれてしまいそうになる。ふらふらと渦に歩み寄ろうとしてしまう優をりりりが引き止めた。「気をつけて、この穴はなんでも呑み込むのよ」
 りりりは石板を取り出すと、その中の一文を読み上げた。それは優にも解読できなかった謎の文字列だった。
「これは神の言葉よ。穢れた言葉だけど、この渦の封印を作ったのは神の妖術だから、それを破る言葉も神の言葉じゃないといけないの」
 渦の動きがゆっくりになっていったかと思うと、今度は逆回転しだした。そしてどんどん早く回りだし、渦が膨張してきた。
「優。下がって」
 りりりが優を妖魔ヶ穴から離すと同時に、膨れ上がった渦が破れてそこから大量の黒い物が飛び出した。そして勢いよく空へ舞い上がっていった。それは有角有翼有尾の妖魔の大群だった。黒いうねりはまるで大きな生き物のように大空を自由に曲がりくねっていた。
 その合間をぬって、大小さまざまな異形の者どもが次から次へと現れて、いずこへかと歩き去っていった。
 妖魔の復活だった。優は自分のしてしまったことの大きさを実感できずにいたが、事実目の前を過ぎていくのは人間ではないものたちだった。
 ズルリ、ズルリとなにか大きなものが引きずられるような音が穴から聞こえてくる。真っ暗な穴からゆっくりと触手が数本現れたかと思うと、形容しがたい肉塊が窮屈そうに穴から出ようとしていた。ブヨブヨとした肉塊は体をよじりながら穴から無理やり出てくると、その本体を見せた。三メートルはある妖魔ヶ穴よりも大きく、複数の触手と顔と思しき物が不規則に並んでおり、小さな足が数百とあった。優はこの世と思えない姿に吐き気を催した。
「お久しぶりです。クォーシスプト様」
 りりりがその巨大な肉塊に近づくと敬意を表した。
「優、邪神のクォーシスプト様よ。荒ぶる妖魔として君臨されてるとても偉いお方よ。このお方なら、優の願いを聞いて下さるわ。あたしが優のおかげで封印が解けたことを説明するから」
 りりりは巨大なクォーシスプトに何事か伝えている。人間の言語ではなかった。複数あるクォーシスプトの顔が代わる代わる何事かをしゃべっている。
「人間。貴殿のおかげで我らが復活できたのだな。礼を言おう。貴殿はなんでもこの世の人間全員が滅んで欲しいそうだな」
 クォーシスプトは複数ある頭が交代しながら優でも理解できる言葉を話してくれた。
「実を言うと、私も人間には裏切りを受けて封印された件を含めて抹殺したいとかねがね思っていたところだ。また影で操っている神々もうっとうしい。私よりももっと強大な禍つ神様や魔王様たちと共に、聖戦の火ぶたを切ろうと思っているところだ」
「お願いです。人間をこの世から消し去ってください。そして僕も殺してください」
 優は一歩前へ出て、巨大な肉塊に懇願した。
 その時、一筋の光がクォーシスプトの顔の一つに命中した。振り返ると、神主が起き上がっていて戦いに備えて気合をためている。だが、クォーシスプトは笑っている。光が命中した顔も、一瞬しかめっ面になっただけで傷ひとつついてない。
「人間。お主には私は殺せん。死ぬがよい」
 触手の先から黒い炎が神主に向けて放たれると、神主は断末魔とともにその場で黒い炎に巻かれて灰と化した。
「で、貴殿も死にたいのか?」
 触手が優の方を向いた。
「ダメ! 優は死んじゃダメ!」
 りりりが叫んだ。しかし、触手から黒い炎が優へと放たれた。すると、優の前にりりりが立ちふさがって自らが黒い炎を浴びた。その時、優とりりりは目が合った。なんなのだろう、このりりりの優しい目は。人間ですらこんな優しい目はしない。優は初めて見た気がした。一瞬ではあったが心が軽くなった思いだった。
 りりりはその場に倒れて身動きひとつしない。優の身代わりになったのだ。
 クォーシスプトは低い嗤い声を上げた。
「人間の精気を吸い取って殺してしまう夢魔が、人間の命を救うとは皮肉なものだな。面白い。人間は全員殺すつもりだったが、貴殿だけは例外としよう。だが、貴殿には我らが今まで苦渋を舐めていた世界、魔界に追放してやる。そこで苦しみもがくがいい」
 その時、妖魔ヶ穴からまた新たな妖魔が現れてきた。それこそ形容しがたい、地球上のどんな生き物にも似ても似つかないおぞましい姿だった。神経の限界を超えた姿に、優は意識を失った。 
 
◆ 七
 暗い。暗い、暗い。真っ暗な世界だった。どこまでも暗く、一体どこからどこまで世界が広がっているのかすらわからなかった。
 とてつもなく広いような気もするし、手を伸ばせば端に届く狭さかも知れない。
 優は上下左右も分からない世界でただひとり漂っていた。
 眠っているような、目が覚めているような、夢うつつの状態に似ていた。ああ、これは睡眠薬で頭がぼんやりしてるのに似ている。優は思った。時間の感覚も分からない。一体いつからここにいるのかすらもう分からない。そもそもここには時間の流れなどあるのだろうか。覚めない夢を見ているかのようだ。
 この気の遠くなるような世界がまさに魔界なのか。ここから出る方法というのはないのだろうか?
 どこを見ても暗い空間が広がっているだけで、何も見えない。出口などありそうもない。
 仮に出口があったとしてもここから出られるのかすら分からない。足を動かそうとしても動いているのか分からないし、手を動かしても何も触れない。そもそも今両足は地面に立っているのかすら分からない。
 ふと優は、今自分は生きているのか、死んでいるのか? という疑問を抱いた。もし死んで死の国があるとしたらこんな感じなのだろうか? いや死の国ならば、ほかの死者もいるはずだ。ここだけ特別な世界なのだ。
 そうか妖魔たちはこの魔界にずっと閉じ込められていたのだな。そして人間や神々に怒りを募らせていたのだな。今頃妖魔たちは人間や神と戦っているのだろうか。
 妖魔という言葉で、りりりのことを思い出した。彼女はどうなったのだろう。自分の身代わりになって死んでしまったのだろうか? 彼女が見せたあの目は一体なんだったのだろう。心が通いあった瞬間だったように思うのは自分だけなのだろうか。
「死にたい」
 しばらくすると優はその言葉しか出てこなくなってきた。しかし死ぬことはできなかった。死への渇望が強まるほどに、実現できない現実に落胆することしかできなかった。ここには薬もなければ、飛び降りる場所もなければ、首を吊ることもできない。手首を切ることも舌を噛み切ることもできない。
 生きることも、死ぬこともできない。
 そういえば、あの石板はどうなったろう? 優はふと思い出した。
 誰かあの石板を使って自分を呼び出してはくれないだろうか? そして自分を殺してくれないだろうか?
 優はそう願うようになっていった。
 もし。もし、りりりが生きていて、彼女が自分を呼び出したらどうなるだろう? その時はあの目が合った時のことを聞こう。その時が来るまで、この魔界で夢うつつでいよう。
 眠ることも起きることもできない、つらいこの真っ暗な世界で。

妖魔紀行譚

 この短編は、当初作品化する予定のないものでした。
 2015年6月に知り合いの同人サークルに、前作「サキミキユキ」を寄稿したあと、同年19月にもまた同人誌即売会に参加されるということで、急きょ何か用意できる作品はないものかと考えたら、この「妖魔紀行譚」を作れないものかと作成しました。
 元々この作品は「サキミキユキ」内の設定上のもので(本文には関係ない)、アイデアだけが頭の中にあったものです。
 コンセプトは中年男と美少女のストーリーが書きたかったという、ただそれだけのものです。耽美的な表現が出来ていれば最高なのですが、これが今の自分の限界です。
 「サキミキユキ」を書き終えたあと、ずっと温めていたアイデアの長編作品を作っている最中に、割り込む形で「妖魔紀行譚」を書いたためか、少々長編のアイデアが入ってしまったような気もします。もし、長編が完成して目にする機会がありましたら、この短編は「習作」的な役割をしているのだと思っていただけたら幸いです。
 本格的に書き始める作業に入ってから、完成までかなり速いペースで作ったので、設定上無理があったりおかしなところや、ツッコミどころなどあるかと思います。でもそれを含めて楽しんでいただけたら嬉しいです。何より、限られた時間内で作品を完成させられた自分自身が自信につながりました。
 今後も、物語を書く上で役に立つ事を願って締めたいと思います。
 最後まで読んでいただき誠にありがとうございました。
   2015年8月吉日

妖魔紀行譚

かつてこの世は妖魔が支配していて、人間はその奴隷だった。 優は謎の石板で呼び出した妖魔りりりとともに、魔界に封印された妖魔たちを復活させるために「妖魔ヶ穴」へと向かう。 自殺志願者であり、この世を憎む優はりりりとの契約で、妖魔が復活したあかつきには人間をこの世から滅亡させ、自分も殺して欲しいと頼む。 果たして彼らの目的は果たせるか? ※この作品は「小説家になろう」さんにも重複投稿しています

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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