ナオの話
ひみつ 作
Neilly 編
大学生活二年目の五月に、僕はある女の子と出会った。
出会ったとは言っても、そこから新しい恋がどうこう、とかそういう感じのものではなかった。同じ高校から進学した親友のタカが、ある朝大学の構内で親指を立ててこう話しかけてきたのが始まりだった。
「おい、やったぜ。ビッグニュースがある」
いつものノリなら、僕の肩をがっちりとホールドしたその手を早く離せ、と笑いながら彼を突き放していたところだったが、彼の顔があまりにも雄弁だったので、僕は無碍に追い払うこともできなかった。大学で彼女を作るというのが彼の一大悲願であると、僕は耳にタコができるほど聞かされていたので、
「そうか、良かったね。どんな子?」
と話のステップを二段か三段ぐらい飛ばしてやった。その時聞かされたナオという名前について、ああ、この人はきっと僕の人生のレールの三本か四本ぐらい隣を交叉することもなく走り続ける人になるんだろうなあ、とかそんな事を思っただけだった。
つまるところ、僕とその女の子――ナオの間には、恋心の挟まる余地などはなからなかった。
そんな彼女の姿を初めて見る機会を得たのは思いの外早くて、その話をした数日後だった。タカが主催した飲み会の集合場所に、タカの後ろをつけてちょこちょこと歩いて来る女の子がいた。僕はなんとなく察しが付きつつも、タカに
「後ろの子、誰?」
と聞いた。
「ああ、俺の彼女です!」
そう答えたタカの口調は、クイズ番組で最終問題に答えて勝利を確信する回答者のようだった。
その酒の席には十人前後が集まった。僕はこういう場所で大騒ぎするようなタイプじゃなかったので、真っ先に一番奥の席を陣取った。すると、まるでそこが自分の予約席だったとでも言うように、ナオはするすると僕の隣に座り込んだ。自然な流れで決まった席順にわざわざ文句を言おうなんて無粋な輩はその場にはいなかったので、僕はつい数日前親友の彼女になった女の子と隣の席で酒を酌み交わす事になったのだった。そんな席順があるものか、と思った。
僕は自分で頼んだジントニックを呷りながら、しばらく彼女の事を観察していた。ナオは目だけがとても大きくて、クリッとした髪型をしていた。タカはすごいカワイイと絶賛していた割には、見た目だけだとそうでもないな、と思った。でも、仕草はとても女の子っぽくて、料理を口に運ぶたびにこれがおいしいだのこれはちょっと辛いだのと言ってコロコロと変わる表情を見たら、タカの言っていたかわいいの意味が少しわかった気がした。きっと前世はリスか何かだったのだろう。
しばらくして、フイに彼女が僕の方を向いた。
「ね、さっきからずっと静かだね?」
背が小さい女の子から上目遣いで見られるという経験は実は今までに飽きるほどあったので、そこに酒が入っていても照れさえしなくなっていた。
「おねーさんが話し相手になってあげよっか?」
そう言って彼女は悪戯っぽく笑った。おねーさん、という言葉の響きに僕はものすごい引っ掛かりを感じた。
「……キミ、年いくつ?」
「ナイショ」
「いや、タカに聞けばわかるし、隠さなくても」
「お酒頼んでるから。だからナイショ」
「……あー」
彼女はそう言いざまに日本酒をサッと飲み干した。
僅かに訪れた酩酊感を楽しむように、僕は首を縦に振った。人を惹きつけるような話し方をする子だな、と思った。
「キノシタくん、だっけ」
「あれ、知ってんの?」
「タカから聞いたー。恋愛の大先輩であり敵でもある!って言ってた」
「恋愛っつーか、うーん、そうかね」
「カノジョいるんでしょ?」
「いるけど、頼まれて付き合ってるだけだし、多分そろそろ別れる」
「えー、超ドライだね」
初めて会う子とは思えないほど、彼女はハキハキと話した。彼女と僕の共通の話題など、それこそタカの話しかなかったので、僕はタカについてある事ない事を彼女に吹き込んでやった――もちろん、実害が出ない程度に手加減はしたけれど。
話せば話すほど、彼女の手元から次々に酒が消えて行っているのにも僕は気付いていた。
「それ、何杯目?」
ちょうど僕が彼女に頼まれて、タカの高校時代の遍歴について語り終えたところだった。
「えっ、さあ、いくつだろ。わかんない」
彼女は首を傾げてくすっと笑った。酒に強い自慢をしていたタカはおろか、もはやこの中の誰よりも一番多く飲んでいるのは彼女で間違いなかった。テーブルの反対側で大いに盛り上がっている他の面子は全く気付いていないようだったが。
「キノシタくんは全然飲まなかったね。最初のジントニックとカシスオレンジだけだよね?」
意外と記憶はちゃんとあるんだな、と思った。
「無理して飲むもんでもないんじゃない」
僕は真っ当なことを言った。すると、
「キノシタくんってアレだよね、タカの友達にしてはナヨナヨしてるよね」
彼女は何の悪気もなさそうにしれっと突き刺さることを言ってきた。タカがお開き宣言をしたので、その一言が今日の最後の彼女の言葉になった。よく言えば男っぽく遠慮のない、悪く言えば単に失礼、そんな印象だった。
大学のその日最後の講義中、窓際の席の人が何やらそわそわし出した。
「……っべー、傘持ってきてねえよ」
どうやら雨が降りだしたらしい。僕も思わず顔を上げ、窓の方を見た。
梅雨入りがそろそろだとかいうことを小耳に挟んでいたので、昨日の晩のうちに鞄に折りたたみ傘を入れておいたのが役に立ちそうだ。雨が降るたびにふと考えるのだが、蒸気で美顔とかあんなものはウソだと思う。
にわかに講堂に活気が出始めた。周りの話を聞く限り、どうやら天気予報ではこの事を言っていなかったらしい。講義の終了を告げるチャイムが鳴り、僕はまず最初に迷わず折りたたみ傘を鞄から出した。ちょっとした優越感に浸りながら、僕はキャンパスの玄関口まで混み合う廊下を抜けていった。
すると、後ろからドンッとぶつかってくるものがあった。振り返ってみたが、単に知らない人が僕に衝突しただけのようだ。
「すいません」
僕は反射的にそう言ったが、後ろの人は、フン、と言って颯爽と僕を追い抜いていった。なんだあいつ、と思ったが、その後ろに何人も人がつかえている。どうやらこの人混みの中を縫って早足で動いていた僕についてきていたようだ。僕が急に足を止めたものだから完全に身動きが取れなくなってしまったらしい。
自分が足を止めたのにはちょっとしたワケがあった。久々に見つける人影があったのだ。
玄関口にナオがいた。携帯電話を片手に、雨天の空を見上げている。
僕は迷わず彼女に近付いていった。
「久しぶり」
ナオは僕の方を見ると一瞬凍りついて、それからただでさえ大きな目を丸く見開いた。
「ああ、キノシタくん?よく覚えてたね」
「まあね。誰か待ってんの?」
タカは今日は学校に来る用事はないし、待ち人ではないだろうなと思いつつも、僕は一応聞いた。
「ううん、ちょっと、傘取られちゃって……そこに立ててたんだけど」
彼女は教室の外に備え付けてあったスチールの傘立てを指差した。傘がものの見事に一本もない。
「それは……見つかりそうなもんなの?」
「絶対無理」
ナオは力なく首を横に振った。
「いいやつ持ってきて取られたら嫌だからと思って、安いビニール傘にしといたの。失敗した」
僕は不思議と試されている気分になった。タカはそんな事を気にするタイプじゃないだろう。万が一彼に伝わっても問題ない。
「あのさ」
僕はナオにそう呼びかけ、一瞬間を取った。僕はこの大事な台詞を聞き返されたくはなかった。
「よかったら、傘入ってく?」
「えっ、いいの?」
「ああ、いい」
「カノジョさん、いるんだよね?ホントにいいの?」
「今あいつこの辺にいないし。それに、別に見られてもいいや」
少しの間があった。それから、ナオはにこっと笑った。
「それじゃ、お願いしようかな」
ナオは一人暮らしで、家は学校から歩きで行ける距離で割と近いのだと教えてくれた。それで僕は成り行きでナオの住んでいるその場所まで、傘一本持ったまま送っていく事になった。自分の彼氏の親友相手とは言え、大した関係でもない男にそんな事をほいほい言ってしまうなんて、かなりの親近感を抱いてくれているのか、それともよほどの無頓着か。
「コンビニで傘買い直せばいいんだけど、最近ちょっと金欠なんだよねー」
「タカに立て替えてもらっちゃいなよ。僕から連絡してやるからさ」
「えー、それはないでしょ」
笑いながらも、ああ、タカは少なくとも財布扱いされてるわけじゃないんだな、と安心感を覚えた。ちょっとした老婆心ってやつだ。
小さな傘だったし二人で持つわけにもいかないので、二人して肩を半分ずつ濡らしながら歩いた。今まで付き合ってきた彼女といる時とは違う、妙な閉塞感のない空間だった。
「キノシタくんはバイトとかしてるの?」
「いや、特にしてないかな。最近親からの圧力がちょっと来てるけど」
「えー。デートの出費とか、大変でしょ」
「そうでもないよ?頼まれて付き合ってるだけだし、俺から金払うようなことはしないわ」
「なんかそれ、前も聞いたな」
ナオは人差し指を頬に当てた。
「キノシタくん、あんまりモテそうなタイプには見えないんだけどなあ」
そして、また失礼なことを言った。僕は思わず苦笑いした。
「どこ見て言ってんの、それ」
「んー、わかんない。なんとなく」
「悪いけど、僕はどっちかって言うとモテる方だよ」
僕は少し挑戦的になりながら言い返した。女の子に「モテそうには見えない」などと言われたのは初めての事だった。
「ふーん。そういえばタカがキノシタくんは恋愛経験値高いとか言ってたなあ。てことは、結構女の子振ってるんだ」
「今ので六人目。そう」
言い終えてから、なんで僕はこんな事をナオにぶっちゃけてるんだろう、と思った。
「それで、今のカノジョさんにもあんまり興味ないんでしょ」
「まあね。見た目はかなりいい方だと思うけど、そういう問題じゃないんだよね。興味が持てないんだよ」
「自分の問題なんだねー」
「ま、そんなとこかな」
会話はそこで途切れた。往来が多い大通りの横断歩道を、二人きりでただじっと待った。手持ち無沙汰にポケットから自分の携帯を取り出して、画面を見るふりをしながら、横目でちらとナオの方を見た。
彼女は、小さく口を動かしていた。それは独り言かもしれなかったし、僕にとってはどうでもいい事かもしれなかった。車のタイヤが雨水を撥ねる音がうるさくて、それはほとんど聞き取れなかった。
しかし、その二言三言が、どうしようもなくもどかしかった。
「あのアパート。私の家」
横断歩道を渡りきると、彼女が右の方を指差した。それはもう見える距離まで来ていた。僕は、うん、と小さく頷いた。
「キノシタくんさ、誰かの事好きになったコトってある?」
「……ないかも、な」
僕はありのままを答えた。今まで付き合ってきた元カノの誰にもそんな感情を抱いた事はなかったし、それは他の女性に対しても同じだ。
「あー、やっぱり。だからキノシタくんはモテるんじゃないかな。あっ、傘ありがとね!」
「それ、どういうこと?」
もう、彼女の家の前まで来ていた。ナオはこのタイミングを完全に知っていて、それでいて図ったかのようだった。彼女は僕の傘から出て駆け足でアパートの屋根のある所まで駆け込むと、僕の方を振り返って、こう言った。
「誰かの事を好きになったら、キミも変わるよ」
僕は変に間が空くのを恐れて、ふーん、と相槌を打った。気が気ではなかったが、それでも何もせずにつっ立っているよりは遥かにマシだと思った。
「それじゃ、またね!」
僕はその晩眠れないに違いなかった。ナオの言葉の意味を考えずにはいられなかった。
それでその晩、僕は慣れた手順でカノジョに別れを切り出した。別にそれをナオのせいにするわけじゃないけれど、これを無関係と言い切ってしまうには、ナオの言葉はあまりにも強烈だった。
翌日、学校に早めに着いて、教室の中程の窓際の席を陣取った。机に突っ伏して講義の開始を待っていると、珍しく僕に声をかけてくる人がいた。昨日聞いたばかりのナオの声だった。
「おはよっ」
ナオは何の抵抗もなく、初めて会った居酒屋で席についたときと同じように、すっと自然に僕の隣に入り込んで収まった。
「あれ、この講義一緒だったっけ」
「そうだね。私も今気付いた」
「学部何?ていうか、他の授業とかどうなってる?」
僕たちは互いの時間割を確認し合った。学部こそ違ったものの、どうやら僕とナオの受けている講義はそれなりに被っているようだった。僕はこれではタカとは全然会わないんじゃないかと聞いたら、ナオはあまり興味がなさそうに、そうだねー、と言っただけだった。
講義が始まった。ナオは人と喋っている時の明るさをどこへ置いてきたのやら、ノートに丁寧に講義の内容をまとめていく優等生の顔をしていた。妙にメリハリのある文字の書き方に普段の明朗な性格の名残がある気がした。
僕は時々板書を見ながら教科書と照らし合わせる程度のテキトーな聞き方をして、多くの時間を落書きに割いていた。いつもの事だったし、ナオが隣に来てもそれはさほど変わらなかった。ただ、隣にこうも真面目に講義を聞いている人がいる事で少しだけ背徳感を感じたのも事実だった。
講義が終わった後、ナオは自分の筆記用具を片付けながら
「あの教授、モノの喩え方が独特だよねー」
と言った。僕は細かい話はよく聞いていなかったので、とりあえず
「そうだね」
と返した。
その後、ナオは僕と被る講義がある度に僕の事を見つけては隣に座ってきた。彼女は学校の中では一人でいる事が多かったらしく、僕もクラス会に駆り出される時以外は一匹狼を貫いていたので、そんな彼女と一緒にいる時間は自然と長くなっていった。ナオは授業が終わるたびに何か一言、その授業の感想を僕に述べていった。そして僕はそれに対してほとんど毎回、そうだね、と返事を返した。唯一金曜日の最後の講義だけはタカも同じ講義を取っていたので、三人で同じ列に座って講義を受けた。どの講義でも僕の授業態度は変わらずだったし、それはナオも同じだった。ただ、僕の見る限り、タカの授業態度はナオと付き合う前に比べると格段にマシになったように思う。
ある講義の後、僕はナオといつもより長く話をした。
「あの人が最後に読んだやつ、私が書いたやつなんだよね」
「へえ、そうなんだ」
その講義はその場で意見文を書いて提出しなければならず、単位に直接関わってくるものだったので、僕は否応なしに講義を聞いていたのだった。それで僕は彼女が述べた感想について、いつもよりはっきりと肯う事が出来た。
「僕も同じような事書いたよ。少数派みたいだったけど」
「うーん。あれってマイナーなんだね」
ナオはそう言いながら首を傾げた。単位を心配するような表情だった。
「いやいや、そんな事で単位は落とされないでしょ。意見書くだけだし」
「ううん、そうじゃなくてね。やっぱ私ってズレてるのかなーって」
「じゃあ僕もズレてるよ」
ナオは笑わなかった。鞄を手にして、僕らは教室を後にした。
「大学のクラス会に行ってもね、話が合わないんだよね。女子と話してると疲れちゃう。男子と話してる方が気が楽なの。高校の時も男友達の方が多かった気がするし」
「共学だったんだ」
「そうだよ」
彼女が一人でいる事が多いのはそういう訳か、と僕は勝手に納得した。そのついでに、僕の隣にわざわざ座ってくるのも僕が男だからなのかと理解した気になった。でもナオは、
「キノシタくんはあんまり男の子って感じじゃないけどねー」
と言って、僕の想像を一発で粉々にした。本当に遠慮のない物言いをしてくる子だな、と思った。
学校がある間はそうやってかなり共有する時間が長かった彼女だったけれど、ナオとの関係はあくまで友達の彼女だった。だから夏休みが始まるとめっきり顔を見ることもなくなった。僕はまた新しくできたカノジョとのチャットメールをそれなりにやり過ごしつつ、暑い夏の大部分を冷房のガンガンに効いた部屋でぐだぐだして過ごした。
夏休みが終わる間際のある日、タカから来た連絡で僕は久々に腰を上げた。
曰く、ナオが本屋でバイトを始めた。本が安くなる優待券を送るから、何か買うなら使ってやってくれ、との事だった。本屋の場所はというと、大学から二番目に近く、指定の教科書なんかもそこそこ置いているような割と大きな本屋だった。それで僕はナオの家がかなり近所にあった事を思い出した。大学の近所で色んな人の目につくような所でバイトを始めるなんて、ちょっと彼女らしいな、なんて事を思ったりした。
僕は徒歩でその本屋まで行ったが、いざ自動ドアを開けた所でナオが今日バイトに入っているかどうかを確認していないことに気が付いて、自分の間抜けさに愕然とした。そのまま突っ立っていても開け放たれた自動ドアから店内の冷気を炎天下に放ち続けるだけになってしまうので、僕は仕方なく店内を冷やかしがてら歩き回ることにした。
店員が書架の間を歩いているのを見る度に僕はそれをこっそり目で追ったが、それがナオではないと分かる度に自分で自分の事をバカだなと思った。本屋に来て人間観察などバカバカしいにも程があると思い、僕は店を出る事にした。最後にレジを軽く目で追った。そして、そこにナオがいるのを確認してこっそり出入口の近くの週刊誌のコーナーで立ち止まった。
ナオがいた。
僕は何を思ったのか、文庫本のコーナーからめぼしいタイトルの本を一冊テキトーに抜き取って、レジに運んだ。彼女は元々そんなに長くない髪を後ろで一つに束ねてすっきりさせ、慣れた手付きでレジを一人で回していた。本を手渡し、タカにもらった割引券を見せた所で、彼女と目が合った。
彼女は何事もなかったかのように僕の持ってきた本の会計を済ませると、最後に小さく笑って手を振ってくれた。
帰ってから買った本を開いてみたが、なんだかあまり興味が持てなかった。汚さないうちに売ってしまおうと思った。
僕はなんでこんな本を買ったんだろうか?
新学期に入ってから、僕は少し時間割の変更があって、ナオと同じ授業を受ける機会が減ってしまった。ところが、それと反比例するように僕はナオと会話する時間が長くなっていった。僕もナオも一人暮らしをしていたので、自炊についての会話は結構盛り上がった。タカが意外と料理が上手くて、その事をナオに教えると、ナオも意外そうな顔をしていた。まあ、タカのあの見た目で台所に立てるというのを想像しろという方が無理がある。それで僕はタカに何か作ってもらうといいよ、と言った。ナオは警戒心がないのか何なのか、早速タカを携帯で呼び出して、自分の家に招く機会を取り付けた。そして、携帯をポケットにしまう直前、僕の方を向いてこう言った。
「キノシタくんも来ちゃいなよ!」
思わずナオの方を二度見したのだが――結果として、僕はナオの家にタカ共々お邪魔する事になってしまった。途中でタカと食材を買うのにスーパーに立ち寄った時、
「お前、なんで呼ばれたんだ?」
と心底不思議そうな顔をされた。ただ食事をするだけなら僕の家に呼べば良かったと思い返したが、後の祭りだった。タカにはちょっと悪い事をしたかもしれない。
ナオの家はアパートの一階だった。僕たちが来る事を知ってか知らずか、小さな1Kの部屋はかなり綺麗に片付いていた。ナオは僕たちを家に招き入れると、定位置と思われるローテーブルの前にぺたりと座り込んだ。他愛もない小話をいくつか挟んだ後、タカは意気揚々と立ちあがった。
「さて、じゃあ約束通り何か作るかな。台所借りるぜ」
「好きに使っていいよー。がんばってー」
ナオは手伝おうという気はさらさらないようだった。充電器に繋ぎっぱなしの携帯を取り出すと、テトリスを起動してそれに興じ始めた。僕はとんだ暇を持て余すことになりそうだと思ったが、幸いナオには僕を気遣ってくれるだけの余裕があったらしく、
「あ、キノシタくんってテトリスできる?」
と声をかけてくれた。
「昔やってたなあ。小学生の頃とかだけど」
ゲームのスキルを持っていてここまで役に立つこともあるものだと思った。僕はちょっとビデオゲームの事を見直した。
「これね、対戦できるんだけど、やってみない?」
僕は十年以上のブランクがあったとは言え、テトリスにはそこそこの自信があった。しかし、僕がどんなに頑張ってもナオのスピードには敵わなかった。僕なんかで相手になっているのかが不安になるほどだったが、ナオは何連勝しても楽しそうにしていたので、僕はしばらく相手をした。十回ほど立て続けて負けた所で、ナオはなんの前触れもなく突然対戦をやめて立ち上がった。そして、窓を開けて小さなベランダへと出て行った。
僕は一人で黙々と鍋をかき混ぜているタカに声をかけた。
「お前の彼女さ、ちょっと変わってるよね」
「俺もそう思う」
そう言いつつも、タカの顔はどちらかというと惚気ている感じの顔だった。
「まあ、ああいう所がかわいいんだと思うぜ」
「お前、幸せそうな顔してんな」
「そう言うお前はどうなんだよ。まだ付き合っては振ってを繰り返してんだろ?」
「……いや」
タカは鍋から目を離して僕の方をまじまじと見た。僕はつい一昨日起きたばかりの出来事を思い出していた。
「一昨日、告られたんだけど。断った」
タカは信じられないという顔をした。
「マジかよ。とうとうお前女の事が見た目だけでわかるようになったのか」
「いやいや、そんなんじゃないけどさ」
僕だって、本当は普通に恋愛がしてみたいという気持ちはあった。誰かと何となくで付き合って、その中で徐々に誰かの事を好きになってみたいとか、そういう気持ちはあった。一昨日告白してきた子は、別に僕にとって特別気に食わないところがあるとか、そういった事は何もなかった。
でも、僕の中の何かが、その子を出会い様に橋から突き落とした。この子とは付き合えない、そんな確信を持った何かが。
しばらく、鍋の中で何かが煮えるぐつぐつという音だけが聞こえていたが、タカはしばらくして、
「……なるほどなあ」
と妙に納得したような表情を見せた。彼が何を思ったのか、僕には全くわからなかった。
すると、ベランダからナオが顔を出した。
「ちょっと、冷蔵庫からツナ缶取ってくれるー?」
「何?お前ツナ缶食うの?」
タカが振り返って訝しげな笑いを見せた。
「違うー、猫にあげるんだよー」
そう言ってナオは首を引っ込めた。猫なんかいたっけか、とタカは呟いた。僕は冷蔵庫を開けて、一番上の棚から注文通りのツナ缶を手にすると、彼女のいるベランダに向かった。
外はもうだいぶ暗くなっていた。僕が窓を開けると、ナオは虫が入っちゃうから、と言ってツナ缶だけを受け取り、さらに
「あっ、お箸もとってくれる?流しの食器立てに一緒にオレンジの線が入ったやつがあるから」
と言ってピシャリと窓を閉めた。僕は言われた通りにオレンジの線が入った箸を持って、虫が入らないようにカーテンの裏側に入ってから窓を開けて外に出た。目の前はブロック塀の壁が立ち塞がるように建てられていて、見晴らしは最悪だった。
「あっ、そうそうそれそれー。ありがとう」
ナオは屈んだまま僕から箸を受け取ると、ツナ缶を片手で簡単に開けた。
どこから連れてきたのか、ナオの隣には灰色の縞模様の猫が座っていた。首輪がないところを見るとおそらく野良猫だろう。
「これ、たまに食べるとおいしいんだよね」
ナオは僕が持ってきた箸をツナ缶の中に突っ込むと、少しだけ自分の取り分としてそれを口に運んだ。その仕草はちょっとだけ猫っぽかった。
「やっぱり食べるんじゃん」
「私はちょっとだけ。あとは全部この子が食べるの」
「名前とかあんの?」
「つけてないよ。毎日来るわけじゃないし。名前付けちゃう?」
「そうだな」
僕はナオと少し距離を置いて座り、猫の方を見た。猫は全く僕に興味を示していないようで、出されたツナ缶に夢中で食いついていた。
「なんでもいいの?」
「なんでもいいよ、キノシタくんの好きなので」
「たろう」
「それはダメ」
「だって今なんでもいいって言ったじゃん」
「この子、メスだよ」
「それもっと早く言ってよ」
「知ってると思ったんだけどなあ。三毛猫のオスはいないんだよ」
僕は結局名付け親になるのはやめる事にした。
「キノシタくん、告白断ったんだって?」
「あれ、聞こえてたんだ」
「まーね」
猫がいかにもおいしそうに缶の中に顔を突っ込んでいるのを眺めながら、ナオは楽しそうに言った。
「女の子に興味がないわけじゃないんでしょ?」
「そりゃ、興味はあるね」
開き直って本当の事を言った。ナオはくすくすと笑った。
「タカが言ってたよ。キノシタくん、最近女の子といるのをあんまり見なくなったって」
「あいつそんな事言ってたの」
僕たちはしばらく黙って猫の様子を眺めていた。ナオは時々、指先で軽く猫の頭を撫でた。
外の道路を、トラックが一台通り抜ける音がした。
「キノシタくん、ちょっと変わったんだね」
「そうかなあ」
「もしかして、好きな人、できたんじゃないの」
「そうかなあ」
僕は雲ひとつない秋の夜空を見上げて、ぼんやりと返した。ナオは空になった缶を持って、部屋の中に入っていった。タカとナオの会話が、窓越しに聞こえてきた。
「何話してたんだ」
「猫に名前つけてたの。でも結局つかなかった」
「あいつ、そういうとこはセンスねーからな。あんまりアテになんねーぞ」
「そうだねー。私もそれ思ったよ」
タカが直々に僕を呼びに来た。夕飯ができたらしい。それはいつも通りなかなかの美味だった。僕はタイミングを見計らい、用事があるからと言って先に彼女の家を出る事にした。先月まではまだ少し明るかった時間なのに、もう外は真っ暗で、煤けた街灯が明滅を繰り返していた。
ナオは僕の事を本当に理解って話しているのか、それとも単にテキトーを言っているだけなのか、僕にはさっぱりわからなかった。
『もしかして、好きな人、できたんじゃないの』
僕はあの時、それは違う、とは言えなかった。
クラス会とかサークルの集まりとかで、僕はその後年明けまでに二人の女の子に告白されたが、どちらもハッキリと断った。そんなこんなしているうちに、冬の定期試験も終わり、春休みに入った。僕は本を買う時は必ずナオの働いている本屋に行くようになったが、なかなかナオの姿を見ることはできなかった。
そうこうしているうちに成績表が届き、僕は無事進級が決まった。タカから連絡が入ったのはその数日後だった。
彼は僕の知らぬ間に入院していた。新学期の書類を届けて欲しいとの事だった。
「お前が盲腸ってなんかキャラじゃないな」
「盲腸にキャラも何もないだろ」
病室のベッドで、タカは僕の持ってきた講義要項をめくりながら口を尖らせた。
「やっと明後日退院だよ。一週間も缶詰ってやることねーのな」
「呼べば何度でも来てやったのに。僕も暇だったし」
「見ての通り相部屋だし、あんまりいっぱいは呼べないだろ」
病室にはベッドが何基か置いてあったが、タカ以外のどのベッドもきっちりとカーテンが締められていた。
「ナオは二回来てくれたけどな」
「あー」
「招待券もらったから、それで水族館行く約束してたんだよ。それが潰れちゃってさ。しかもこれ期限今月までなんだけど、もう俺とナオと日程合わなくなっちゃってな」
ナオはタカにとってきっと今一番大切な人なんだという事を、僕はすっかり忘れていた。タカはサイドテーブルに置いてあった本から栞を抜き取った。それはまさに今話に出てきた招待券だった。
「これやるから、誰かと行ってくれば。二人分あるからさ」
「いや、別にいいよ。今僕、彼女いないし」
すると、タカはこれみよがしに溜め息をついた。
「あー、俺からこんな事言うのも何だけどさ。お前、そろそろちゃんとした彼女作ったほうがいいぞ。なんか去年辺りから段々やつれてる気がすんだよな。張り合いがねーんじゃねえの?」
「それは今までの僕の彼女に言ってくれよ。付き合いきれないんだよ」
今度は僕が口を尖らせる番だった。
「そんなに言うほどの女ってどんな奴だったんだよ」
「もう忘れた」
僕は自分が出任せを言っているのではないかと不安になった。確かに僕は半年前と比べて身だしなみにも気を使わなくなった自覚があったし、人と話す機会もめっきり減った。タカが、やつれている、と表現したのはあながち間違いじゃないな、とは思っていた。しかしそれが僕の元カノが原因かというと、僕は首を傾げることになった。もしかすると、いや確実に、原因はそこじゃない気がした。
「まあ、お前が今まで何を経験してきたかなんて俺は知らねえけど。でも、とにかくこれはもらっとけ。そんでついでに俺に何か買って来いよな」
タカはほとんど押し付けるように僕の膝に招待券を二枚重ねて叩きつけた。
「何か買ってくればいいんだね」
「おう。二枚とも使え。誰かと行ってこい」
「誰と行くかは僕の勝手だろ」
タカは親指を立てて笑っただけだった。それで僕にも、タカがこの話を善意百パーセントでしているという事がわかった。
僕は変わらないといけないんだな、と思った。
家に帰る途中、僕は携帯を取り出し、電話帳を確認した。もう使わなくなって久しい元カノのメアドがいくつか残っていて、自分の後始末の下手さに思わず笑ってしまった。とりあえず、付き合ってた時間が短い順に消していった。すると、最後に一人の名前だけが残った。僕はその子の事を少し思い出してみた――特に何が悪いとかはなかった。どこを取ってもソツのない感じの、明るい性格が魅力の子だった。
目はナオと違って小さかった。もしかするとそれが原因で彼女と別れたのかもしれなくて、僕は何を考えているんだろうと思った。
僕はこの子の事を好きになれるのだろうか――不安は不安のまま、僕は彼女に一年以上ぶりになるメールを送った。
新学期が始まってすぐ、タカは普通に学校に来られるようになった。僕はタカと示し合わせてできる限り同じ講義を取るようにしていた。
「ほら、お土産」
隣の席に着いたタカに、僕は小さなビニール袋を渡した。
「ん?何これ」
「お前が言ったんだろ。水族館だよ」
「ああ、あれか。で、誰と行ったんだよ」
「元カノと縁戻した」
「お前そんな事できんのかよ。ちょっと見直したわ」
「なーになーに?」
ナオがタカの後ろからにゅっと首を出してきた。
「お前と水族館行けなかったじゃん。あのチケットをこいつにあげたの」
「おおー。どうだったー?あそこの巨大水槽なんか新しくなったんでしょー?」
「結構よかったよ」
僕は軽く頷いた。
やがて教授が現れ、開口一発目から全員の笑いを誘った。その日の講義はただのガイダンスだったので、予定より三十分も早く終わった。
「え、これで今日終わり?」
「そうみたいだな。バイトなんか入れなきゃよかったわ。あれがなきゃ遊び放題じゃねーか」
「バイトの日一緒にすればいいんじゃないの」
僕は誰でも思いつきそうな提案をした。すると、ナオから予想外の返事が来た。
「本屋さんでバイトしてたの、やめちゃったんだー。あんまりシフト入れなかったし、つまんなくなっちゃって」
「あ、そうだったの?」
どうりでナオを本屋で見なかったわけだ、と思った。タカは前々から知っていたのだろう。
「タカ、今日も明日もバイトなんでしょ?頑張ってね」
「おう、ごめんな。じゃ、二人とも、また明日な」
タカは急いで帰ってしまったので、僕はナオと二人で取り残された。まだ午前中だというのにこのあとの予定が何もないというのはなかなかに痛快だった。
ナオはしばらくタカが消えていった方向を見つめていたが、彼の姿が完全にいなくなったのを確認すると、僕の方に向き直った。
「学食とか、いく?」
「あ、僕もこの後学食なんだけど……」
「お、ホントに!?」
「いや、彼女となんだよね」
ナオは小さく舌を出した。
「なーんだ。じゃあ学食に行くまで一緒に行こうよ」
言われなくてもそうするのに、と思った。何を思ってわざわざ言ってくれたのだろう。
僕たちは鞄を持って教室を出た。
「実はね」
騒がしい廊下の中で突如ナオが小声になったので、僕は少し屈み気味にならざるを得なくなった。
「バイトやめた理由、つまんないとかじゃないんだ」
「どういうこと?」
「バイト先の人にね、告白されちゃったの。それで居づらくなっちゃって」
ナオはそう言うと顔をしかめた。
「だから、もうあの本屋さん使ってないんだ。タカに言って面倒なことになったらいけないと思って」
「それ、なんで僕に言ったの」
「うーん、なんていうか、誰かには言っておきたかったんだよね」
彼女は俯き気味に言った。別にタカ以外だったら誰だってよかった、とかそういう雰囲気の言葉には聞こえなかった。もう、学食のドアの手前まで来ていた。僕の待ち合わせ場所はこのドアをくぐった先にある。僕はナオに何か声をかけようとした。
「ま、気にしなくていいや。またねっ」
ナオは突然明るさを取り戻して、僕に手を振ると先に学食の中へと消えていった。僕はどうしていいかわからず、少し間を空けてから彼女の待つ席へと向かった。元々昼前の時間は空き時間だというので、先に席を取っておいてもらっていたのだ。
「お待たせ」
彼女は僕の姿を見ると、持っていた携帯をカバンに放り込んだ。人並みにオシャレはしてきていたが、一年前と比べて特別に変わった印象はなかった。少しだけ、顔に気になる部分があったが。
「さっき、誰と話してたの?」
「あれは僕の友達のカノジョ」
「ふーん」
どうやら見られていたらようだったが、彼女は僕の弁明を聞くとお構いなしで惣菜パンをちぎって食べ始めた。
「なんかさ、鼻、赤くない?」
僕が彼女を誘って水族館に行った時はこんな見た目ではなかったので、僕はこれが殊更気になっていた。
「私花粉症ひどいの」
「あー。この学校花粉症の原因多いもんね」
「そうなの。だから毎年春になるといつもこんな風になっちゃって」
彼女はそう言って目をキュッと閉じた。
「あとはネコと、モモがダメなの」
「アレルギーって事?」
「そう。どっちも好きなんだけど。ちょっとごめん」
そう言って彼女は鞄からティッシュを取り出し、僕と反対の方を向くと、鼻をかんだ。
「ホント、春が来たなー、って感じ」
「そんなつらそうな顔で?」
僕は笑った。彼女も少しだけ笑った。
「そういえばさ、さっきの子だけど」
彼女はするりと話題を戻した。僕は身構えた。
「あの子の彼氏って、私知ってる人だったりする?」
「あ、ああ」
矛先を向けられたわけではないらしいとわかり、僕は思わず呆気にとられた。
「タカって知ってるっけ。確か学部同じじゃなかった?」
「えっ、タカって、あの……私と同じクラスの?」
「多分そう」
確信はなかったが、そんな気軽に下の名前で呼ばれるような奴が二人も三人もいるとは思えなかったので、僕は相槌を打った。
彼女は、不思議そうな顔をした。
「タカ君にカノジョがいるのは知ってるけど……あんな小さい子だったっけ」
「元々あんなもんだと思うけど」
まるで、昨日見た猫又の尻尾の数を数えるように、ふわふわとした記憶を針で止めていくように。
「いや、私、アイツのカノジョ見たことあったと思うんだけど……もっと背高かったし、髪長かったし。それに染めてた気がする」
僕は自分の彼女と他人の噂話で盛り上がるようなタイプじゃなかった。彼女が言っていた話が嘘か本当かは全く定かでなかったし、それでその日タカの話は放っておいたのだが、何かのキッカケで一度点いた火が燃え広がらないはずもなく。
僕はその日来たメールでその事を思い知らされた。親友の彼女から、僕だけにメールが来るなんて、そんな事があっていいはずがなかった。
「今日暇?」
文面にして、それだけだった。僕が最後に食堂で彼女と話してから、たった四日後の事だった。
――暇だよー 何かあるの?
「特に何もないよ 今タカ近くにいる?」
――いないけど
「ちょっと話したい事があるんだけど、会えないかな? 学校なら私行くから」
――家にいるんだったら暇だし俺行くけど
「そう?何時頃来れる?」
――なんなら今すぐでも行けるよー 何時がいい?
「じゃあできるだけ早く!」
携帯でそんな事を話しながら、僕の足は自然にナオの家に向かっていた。心と体と指先がバラバラになりながらも、たった一人ナオを助けたくて動いているのがわかった。
横断歩道を一本待つのが耐え切れなくて、点滅している信号に向かって思い切り走った。横から来た自転車に怒鳴られたが、そんな事はどうだってよかった。ナオの家の前まで行くと、僕は躊躇わずに右手全体で叩きつけるように呼び鈴を押した。
「あれ、早かったね」
ナオは平日の昼間だってのに、それこそ寝起きみたいなジャージを着ていた。
「入っていいよ。片付けたから」
「あ、うん。ありがとう」
ナオはにこりともせず、僕に背中を向けて部屋に戻っていった。玄関に入ると、なんだかツンと鼻にくる臭いがした。前に一度ナオの家に来た時にはなかった臭いだった。
片付けたという割には、読みかけの本が床に二、三冊落ちていたり、ゴミ箱に投げて外したと思われる紙クズが落ちていたり、なんだかパッとしない雰囲気の部屋だった。
「で、急にどうしたの?」
こんなこと聞いたって、返ってくる答えは一つに決まっていた。僕は知っててわざと聞いたのだ。ナオはちゃぶ台を挟んだ反対側で、俯き気味に応えた。
「タカが、他の女の子が好きなんじゃないかって」
早い話が、タカの浮気疑惑だった。
「どう思う……?」
「え、初耳なんだけど」
僕は今までの人生で一番しょうもない嘘をついた。ナオはテーブルに置いてあった缶を開けると、中身を啜り始めた。そして、
「キノシタくんも、いる?」
と勧めてきた。僕は右手を伸ばしてその缶を受け取り、昼間から酒盛りが始まった。
実は僕は、メールを打っている最中、途中までタカと一緒にいたのだった。噂は噂のままだったので、僕は直接聞いてみたのだ。
「お前、浮気してるって噂たってるけど」
「俺も聞いた。してない」
長年の付き合いから、タカが本当のことを言っているかどうかを判断するのにはこれで十分だった。彼の顔はどんな時でも真実をこれ以上なくわかりやすく教えてくれる。タカは浮気などしていない。
「誰と間違われたんだろうな。俺そんなに女子と二人で出歩いたりしないんだけどな」
「ナオちゃんにも伝わっちゃったんでしょ」
「そうなんだよ。こんな事頼むのも変な話なんだけど、ちょっとお前からも言ってやってくれねえかな」
「まあ、機会があったらそうするよ。ちょっと今日このあと用事あるからもう出なきゃいけないんだけど」
「あ、そうなん?じゃあ、また明日なー」
そして、僕はナオの家に駆けつけた。
僕はタカのためにも、ナオをどうにかして説得しなければならなかった。
「――それに僕さっき直接聞いたんだけどさ、あいつ……してないって言ってたよ」
「ふン」
ナオは膝に顔を埋めて生返事を返すばかりだった。彼女の表情なんかもう見ちゃいなかったけれど、その肩は小刻みに震えていた。
正直、いくら言っても無駄だな、っていうのは家に上がった瞬間から何となく感づいていた。ナオも普通の女の子っぽい所があるんだな、なんてちょっと意外に思ったりもした。
こうなった女子はだいたい妄想が止まらない。経験の浅いタカには、彼女としてのナオではなく一人の女の子としてのナオが何を求めているかなんてわかりっこないのだ。それで僕はすっかり諦めムードになってしまった。悪いのは僕じゃない。全部タカが悪いんだ。
「例えば君が僕と浮気したとして」
僕はそれを仕方ないと言うだろう。彼に面と向かって、仕方ないと言うだろう。
「今、何て言った?」
一瞬の間があって、僕は聞き返された。酒に冒されたのだろう、頭がぼんやりと熱くなってきていた。
「君も、僕と浮気すればいいんじゃない」
緩やかな吐き気が襲ってきた。カラスでももっとマシなプロポーズをするだろうと思った。そしてナオは――僕の膝に飛びついてきて、とうとう嗚咽を噛み殺すのをやめた。
あれだけ普段ふわふわと漂っているような雰囲気の彼女の体のどこにそんな涙がしまってあったのかと思うくらいに、彼女は小一時間泣き続けた。
僕らはしばらく動かなかった。ナオは泣き止んだ後もしばらく僕の膝に顔を埋めていたし、僕はそんな彼女の背中を、とん、とん、とやさしく叩いてやることしかしていなかった。お互いにそれしかできなかったわけじゃなかっただろうに、いつの間にか涙が沼を作って僕らをそこに沈めてしまったかのように、他の事を考える余地を失くしていた。
ナオの体は、温かいなあ。
たったそれだけの事を、三十分も一時間もかけて考えていた。この瞬間に限っては、僕の頭は世界で一番日本語を紡ぐのが遅かった。
結局その後何をして、どんな事を話していたのか、僕はさっぱり覚えていない。あるいは、何も話さなかったのかもしれない。もとより何もしなかったのかもしれない。僕に隠しているだけで、実はナオは魔法使いで、動かなくなった僕を帰り道に転送したんだとしても全然驚かない。
僕は今、ナオが好きなんだとわかってしまった。わかってしまったというか、今まで気付かないようにしていただけなのだ。でも僕はあの時、ナオに面と向かって好きだという事ができなかった。二人きりの、誰も聞いていない、あれ以上は望めまいという空間でさえ、僕はナオに好きだと伝える事ができなかった。
それは、ナオは僕を好きになってくれる事はないという事もわかってしまったから。
タカのためにあれだけ涙を流した彼女は、きっと僕のためには涙を流してくれないだろう。そう思うと、体の芯から力が抜けていく感覚がした。倒れこまずに家まで帰ってこられたのは奇跡だなあと思った。これが虚無感ってやつなのかなあ、失恋ってこんな感じなのかなあなどと考えながら、シャワーも浴びずにベッドに倒れこんだ。
---
秋になると、僕たちは就職活動を始めた。ナオとタカは仲直りして、僕とナオの間にはほんの少しだけ距離が出来た。僕は賢く生きるために早くナオじゃない人を好きになりたかった。卒業したら、二人から離れたかった。できるだけここから遠くの会社を目指すことにした。4年生になったら、卒業に向けて論文を書かなくちゃいけなかったので、ナオもタカも僕もずっと忙しくしていたからパッタリと会えなくなった。僕はナオのことを考えなくていい時間がとても増えてほんの少しだけど楽になった。その間に僕は久しぶりに彼女を作った。ナオとは全然違う、目の小さい女の子だった。
7月になると、東京にある出版社からの内定通知が来た。ここから東京は時間がかかるので、二人とは会えなくなるなと思った。久しぶりにタカに会ったらナオと別れたって聞いた。会えない間に別の人を好きになったってことだった。僕はまたナオの家に行った。ナオはまたワンワン泣くんじゃないかなって思ったけど、そんなことはなかった。大好きな日本酒じゃなくて、コーヒーを飲みながら、仕方ないねってポツリといった。
僕はふと衝動に襲われて、ナオのことを抱きしめた。Tシャツを着ているナオを、ぎゅっと抱きしめた。そして、あの時とは逆に、僕がほんの少しだけ泣いた。ナオは僕のことを抱きしめて、キスをした。今までしてきたどんなキスよりも僕はドキドキしてしまった。
僕はそこからは何も考えられなかった。ただただナオの体を求めた。ベッドの上で、ただひたすらにナオのあたたかさが欲しかった。行為が終わって気付いたらナオは寝てしまっていた。ナオのことを抱きしめて、僕も眠りについた。暑かったけど、ナオのことを抱きしめ続けた。多分、これが最後だから。ナオと愛し合ったから、愛し合ってしまったから、多分これが最後になってしまう。思わず声を出して泣いてしまう。ナオは目覚めてしまい、僕のことを優しく抱きしめてくれる。
「キノシタくん…」結局ナオは最後まで、僕の下の名前を呼んでくれることはなかったけど。
---
次の日、僕は本物の彼女に会った。いつも通り、僕の家で、僕のベットの上で行為に至った。けれど、僕は以前ほど満足できなかった。むしろ虚無感に襲われた。ナオといたときほど、繋がれているような感じが無かった。体では繋がっているのに、心はバラバラだった。彼女は僕に対してこんなことを言った。
「ユウキのこと大好きだよ」
彼女はリラックスした声でそんなことを言う。
「違う、君じゃないんだ」――君が僕の名前を呼んだって仕方ないんだ。ナオに呼んで欲しかったその名前を呼んでいいのは、君じゃないんだ。
彼女の喉元を掴んで揺さぶった。今目の前にいる人など、ナオに比べたら物の数ではなかった。考えれば考えるほど、空回りする歯車は熱を帯び、僕の腕には力がこもった。彼女の声が疑問から抗議、そして恐怖へと移り変わるその過程は、何かとても大事なことを示しているように見えた。顔色が赤くなり、見るからにもがいていた。でも、それは僕にとって――いや、ナオにとって、大切な事ではない。大切な事ではないのだ。
ふと我に返ると、もう目の前には誰もいなかった。何も残っちゃいなかった。
結局その後、僕は一度もナオに会っていない。電話も、メールも、音沙汰なしだ。
タカとはたまに連絡を取るけど、ナオのことは向こうも話さないし、僕もナオとのあの夜のことは言っていない。僕はまた、新しい彼女を作ってはすぐに別れるようなことをしてる。
ただ、今でも僕は下の名前を呼ばれるのが苦手だ。そう呼んで欲しかった人はもう会えなくなってしまったから。僕は今もずっとナオに縛られている。誰と体を重ねても心は誰とも繋がることが出来ない。あの日、ナオと一緒になったこの心は、今もナオを求めて孤独なままだ。
『誰かの事を好きになったら、キミも変わるよ』
これは、僕というニンゲンが変わった、人生でただ一度きりの思い出話だ。
ナオの話