青をおいかける

 春乃は、どこまでも歩いていきたい気分だった。
 民家の影をすぎて、道路を渡ると、水たまりが集まってくっついたような池のほとりにでる。ここは、雪解けの春先から釣りを親しむひとたちでにぎわう。春乃も夏ごろ、父に連れられてきたことがある。いまは誰もいない。ここは、ひそやかに眠っている場所のように思えた。
 雪が降っている。白く、白が深すぎて藍色にみえるほどに、深く降り積もっている。
 春乃は積もった雪に足をとられ、よろけた。寒さは、慣れてしまってあまり感じない。感覚のない鼻先や、終わりなく降り続ける雪で、いまとても寒いに違いないと思うくらいだった。
「ねえ、大丈夫?」
 声をかけられて、春乃は飛びあがりそうになった。防寒着を着こんだ若い女性が雪にまみれて立っている。春乃がひとの存在におどろいて言葉につまり黙っていると、その女性は困ったな、という表情になる。
「吹雪いてきたし、とりあえずテントのなかに行こう。わたし、怪しくないから大丈夫。ほんとに」
 先ほどから、たしかに風も雪も強くなってきていた。少し歩くと、白の世界にぽつりと青いテントがたっていた。
 テントのなかは温かかった。携帯用コンロで火がたかれている。
「わたし、春日春乃。十三才。N中学校に通っています」
 春乃が自己紹介をすると、その女性は温めた鍋をかたむけてステンレス製のカップにお茶をそそぎながら、しっかりしてるなぁ、きっとご両親がしっかりしてんのね、と感心したように言った。
「お母さんはいない、お父さんだけ。でもおばあちゃんもいるし、なんにもさみしくないし、かわいそうじゃないよ」
 春乃は思わず、ひと息に言った。女性は気にした様子もなく、そうか、と言って、湯気のたつカップをひとつ、春乃に手わたす。それから、学生証をとりだして、春乃にみせた。
「わたしは帆波。そこのN美大に通う学生。今日は今年いちばん寒い日だっていうから、ここでいっちばんきれいな景色を描いてやろうと思って張り込み中」
「きれいな景色って、雪ばっかりだよ」
「そんなことない。ここのよさがわからないかなぁ」
 帆波は目をほそめて、スケッチブックを広げてみせる。春乃はそこに浮かんでいる色たちをみて、きれいだ、と思った。帆波が、ほらね、と目配せをしてくる。
「それは?」
 春乃が、ペットボトルを切った容器に目をとめて、不思議そうに聞いた。そこに張られている水は澄みきった群青で、氷のようなかたまりが浮かんでいた。
「水彩画だから、水がなくちゃね。飲み水を使うのは気がひけるから、雪をとかしたの」
 帆波は、この景色の透明感は、水彩絵具じゃないとだせないよね、と言う。でもこの絵、まだ完成じゃないよ。なにか足りないんだよね、こう、これだよ、そうだ、これだったのっていうやつ。
 そこで帆波は、温かいお茶をひとくち含み、飲みこんだ。
「ねえ、どうしてこんなところにきたの。おうち、遠いでしょ」
「うん、町のほう。なんか、ずっとずーっと歩きたかったから」
「青春だね。学校でなにかあったんでしょ」
「なんでわかったの」
 春乃がおどろくと、帆波は笑う。
「そのくらいの年って、たいてい家と学校しか世界がないもん」
 春乃は、そうか、と考えこむ。他にも世界はあると反発したいけれど、なるほどたしかにそうかもしれなかった。
わたしと一緒で、お母さんがいない友達がいて、でもね、その子お母さんができたんだって。今まで、お母さんがいなくても寂しくない、平気って、ふたりして話してたけど、でもその子、新しいお母さんのこと嬉しそうに話すんだよ。
 帆波は黙って聞いている。ふとふたりは、外の音が止んでいることに気づいた。テントをめくってみると、陽がさしている。凍った池のうえを蝶々が舞っていた。その色は、深い雪の色によく似ていた。
 蝶々だ。春乃がつぶやく。うそ、こんな極寒の日に、と帆波。
 ふたりはテントから出て、揺れる蝶々を見つめる。
 白い世界に一点だけ、青。生命。青い灯り。
「ついていこう」
 春乃は言ってから、帆波がじっと自分を見つめていることに気づく。
「お母さんって、思った?」
 帆波は春乃から目をそらさず、確かめるように聞いた。春乃は心が波うつのを感じた。
「なんでわかったの。なんかね、よくわからないけど、あれはお母さんかもしれないって、なんか、思ったの」
 そうだね、と帆波はうなずく。
「わたしもね、思ったの。あれは、いろんなひとの心にいる、それぞれの、もう二度と会うことができない大切なひとだって」
「ほなみさんにも、そういうひとがいるの」
「いるよ。はるのちゃんよりちょっとばかり年をかさねてるし、そういうこともあるよ」
 ふたりは蝶々を追う。息を吐くたび、もやがかかる。消える。またぼやける。繰りかえし。てんてんと足跡を残す蝶々。ゆらゆら。消える。見失う。またあらわれる。雪をかぶった木々がそびえる場所にでる。
 いなくなっちゃった、と春乃。
「うん。でもここ、絵になるなぁ。なんか、不思議」
 ふたりはしばらく、その景色を視界いっぱいに映すことに専念する。空はさきほどとはまったくちがう姿をみせて、きれいに晴れわたっている。空は、なんて遠いのだろう。見つめているうちに、春乃はそんなことを思った。
 蝶々は降りはじめの雪のように、なんの言葉も残さずに消えた。けれど、そうではなかったのだと、ふたりは知る。
 それはほんとうに静かにはじまった。地上に落ちついた雪が誰かの息で再びふわりと舞いあがったようにも見えた。陽ざしをうけ、ゆっくりと穏やかにきらめいている。
 細氷。ダイアモンドダスト。
 ふたりは言葉を失って、ただその光景を見つめる。あれ、音がない。春乃はそのことに気づく。けれど、気づかないふりをして、音が消えた時間に、ゆるやかに流されてみる。静かだった。ただ、ひたすら。
「なにかが終焉に向かうときというのは、とても美しいもの」
 帆波が口をひらいた。帆波の声は、ふたりを囲む空気にさりげなく差しこまれてから、すぐになじんだ。
 けれど、突然の静寂をやぶる声に、春乃は反応できない。帆波の言葉をもう一度ゆっくりとなぞってみたけれど、ますますよくわからない。
「ああ、そうだね、ごめん。前を向くには、終わらせる、いや、終わりにするってこと。想いを。自分でふっと終わりを見つけた、そのときの、その瞬間は、とても尊いものだよってこと。なんかうまく言えないな」
 想いを。
 陽が傾き、水辺は薄暗くなっていた。けれど、あたりの雪は街灯のように白く明るく光っている。テントに戻ると、帆波はスケッチブックに向かった。筆にたっぷりふくませた水彩絵具をしぶきのように飛ばしていく。
「完成。これあげる。もう暗くなっちゃったね。送ってあげるから、帰ろう。わたしはひと晩ここに泊まるけど」
「泊まる?」
「ああ、大丈夫、防寒グッズも防犯グッズもばっちりだよ。ま、こんな時期に誰もこんなところに来ないだろうけどね」
 テントには寝袋と食糧がたしかに用意されていた。ふたりは並んで歩きだす。
「今日はいいものがみれた。もう何年も雪国に住んでたのに、みたのははじめて。おかげでいい絵が完成できた」
 帆波が言うと、春乃はうなずいた。
「わたしもはじめて。ねえ、ほなみさんが言ってたこと、区切りをつけるってこと?」
 帆波が何も言わないので、春乃は重ねる。
「想いに」
 帆波はひっそりと笑って、うなずく。
「うん、そういうことかな」
 町の灯りが見えてくる。
「じゃあね」
「さよなら、ありがとう」
 春乃は、歩きだす。そして、立ち止まってふりかえる。
 帆波の姿はどこにもない。
 不思議なことに、春乃がつけてきた足跡しか残っていない。

青をおいかける

青をおいかける

想いをくすぶらせていた春乃は、池のほとりで女子大生の帆波に出会う。 二人は深い雪のなかで答えをみつける。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-24

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