あの日々、あの庭、そしてあの物語

1 プロローグ

「菜子(さいこ)ちゃん、あなた本当にここに住むつもり」
 縁側の方角から、菜子の母、茶子(ちやこ)の声が聞こえた。茶子と書いて、『ちゃこ』ではなく、『ちやこ』と読む。
 菜子は、もちろん、とうなずく。
 年が明けて早々の、どこか凛とした静かな寒さの日。美大を卒業してからしばらく実家暮らしだった菜子は、再び家を出ることになった。
 実家から数キロ離れた隣町に建つこの古びた家屋は、菜子の新しい家になる。
 
「わたしもねぇ、今ならこういうところは好きよ。けれど、あなたまだ若いじゃない。菜子ちゃんくらいの年の頃だったら、わたしきっと住めないわ」
 菜子のいる居間に戻った茶子は、そうぼやいた。
 茶子がそう言いたくなるのも無理はない。
 還暦ほどになるというこの家屋は、建っているのもやっとの思いという出で立ちだった。外壁の漆喰はところどころ剥がれ落ちていて、半生の歳月を感じる。
 玄関に入ってすぐ横にある戸を開けると、一間にキッチンと居間があり、そこにはシンプルなガスコンロが異様な存在感を放って佇んでいる。
 その隣には六畳の和室、襖を隔てて八畳の和室。そちらには縁側があり、庭が見渡せる。(庭、と呼ぶと庭に申し訳なく思えるくらいに手入れが滞っているけれど。)
 そんなありふれた間取りだけれど、変わったところと言えば、勝手口に建築当時にしてはめずらしく食品庫があることだろうか。
 
 そう多くもない荷物と、家具を運びいれて、引っ越しも一段落したころ、玄関のチャイムが鳴った。
 茶子が、あら、という顔をして、足早に玄関へ向かう。 

「まあ、遠方からわざわざ?」
 茶子が応対する声が聞こえてくる。
「挨拶だけでもと思いまして」
 と、知らない男の声。
「まあまあ、気を遣っていただいてどうもすみません。菜子ちゃん、大家さんが来てくれたわよ。挨拶なさいな」
 呼ばれて、菜子も立ち上がり、声のする方へ向かう。
 いかにも都会の人らしいスマートな年配の男性が、そこに立っていた。
「はじめまして、望月と申します」
 菜子は慌てて、
「鹿角菜子です」
 と頭を下げる。
 ひととおり挨拶を済ませると、望月は、
「あなたがこの家に。あなたのような若い方がこんな古い家に住んでくれるとは、なんだか申し訳ないですね」
 と、言う。
――こちらこそ格安で貸していただいて感謝している、と言いたいけれど……これってこの場合ふさわしいのだろうか。
 菜子がなんと返したものかと迷っていると、茶子が、
「ああ、そうだわ。望月さん、せっかくですからどうぞ中に入ってください」
 とすすめる。

 居間にはまだ段ボール箱がいくつか積んである。「散らかしていて……」と茶子は言い置いて、台所へ向かい慌ただしく電気ポットで湯を沸かしにかかる。
 居間の真ん中にとりあえず炬燵を置いてあるので、菜子はばたばたとコンセントを探す。
 望月が、ああ、と気づいて、ここですと教えてくれる。
 
 三人で炬燵に入り、ほっと息をついた。茶子が淹れたお茶が湯気を立てる。まだ湯呑みの準備もないので、応急で紙コップを使った。
「望月さんは、ここに住んでらっしゃったんですか」
 茶子がたずねる。
「ええ、若い頃は。ここが実家ですから。なかなか帰ってくることができないので、管理が大変で……鹿角さんが住んでくれるのなら、本当に助かります」
「そんなこと。もう戻られる予定はないんですか」
「そうですねぇ。最近この家に住んでいた父が亡くなったので、もうこことの縁もあまりありませんから。私の方は向こうに家族がいるもので。
娘が……ああ、今年二十五になる娘がおりまして。この娘が田舎暮らしに憧れてましてね、何年後かわかりませんが、こちらに帰ってきてこの家を改装して住みたいと言っておりますが、それも不確かですからね」
「そうですか」
 ぽつぽつと話して、望月は「ではそろそろ」と言って立ち上がる。
「古い家ですから、不便が多いでしょうが、どうぞよろしくお願いします」
 菜子は、こちらこそよろしくお願いします、と頭を下げてから、
「あの、わたし絵を描くので、もし汚してしまったらごめんなさい。気をつけるようにはするつもりなんですけれど」
 と付け加えた。
「ああ、そんなことは構いません」
 望月は笑って答える。
 菜子と茶子は、望月を見送ってから、再び炬燵にもぐった。
 望月が去ると、入れ替わりに昼食を買いに行っていた父が帰ってくる。
 
「菜子ちゃん、これからどうするの」
 父が買ってきた寿司で、普段より華やかな昼食をとる。
 茶子の言葉に、菜子は少し不機嫌になる。
「これからって」
「いつまでも、この状態で過ごすわけにはいかないでしょう」
 茶子のいう『この状態』とは、菜子が絵を描きつつ、アルバイトをするといういわゆるフリーターの生活のことだ。
 何度も繰り返される話題だけれど、菜子にはまだどうしたいのか、どうするのかという答えが見つかっていない。この話題が出る度に、菜子は気分を害する。
――どうするのか決まってないから、この状態なんだけど。
 と、いつも心で思う。
 絵を勉強し、描き続けているのなら、成功できるのは一握りだとしても、そこを目指すのは自然なことだろう。しかし、それを考えるとき、いつも菜子の中でひっかかるものがある。
 絵で収入を得て、生活する。それは簡単にできることではないし、自分がそうなれるとは限らない。理想であり、夢であって、目指すべき目標だとわかっている。
――でも。
 菜子は思う。
――本当にそれは、自分が望んでいることなのだろうか……
 しかし、そうは言っても可能性をさっぱり捨ててしまうこともできず、コンクールにはぼそぼそと応募したりしている。もしかしたら何かが起きて、変わるかもしれない。そうしたら、半端な自分ではなくなるかもしれない、そんな思いが奥底にある。
 誰かが、何かが。
 そんなふうにアバウトな感覚でいる時点で、前に進めないだろうということも、菜子はわかっている。
――自分はどうなりたいのだろう…
 それが見つかるまでは、ずっと『この状態』だろう。

 菜子がこの家に住み着きはじめて四日目。お昼近くに起きた菜子は、眠気覚ましに熱いお茶を入れようと、電気ポットのスイッチを入れる。
 昨晩はつい絵の制作に夢中になり、寝ついたのは明け方ごろだった。
 湯気の立つ濃いお茶を一口飲み、ほっと息をつく。
 今日は仕事もないことだし、食事でも作ろうかと思い立ち、買い物に出かけることにする。しばらくは実家からもらった惣菜を食べてしのいでいたので、台所に立つこともなかった。
 
 ふと台所の前に立ってみる。キッチン、と呼べるほど現代的ではないけれど、台所と呼ぶにはふさわしいような、そんな佇まい。
 清掃業者が磨きあげてくれたらしいシンクからも、なんとなく先人の生活の気配を感じ取ることができて、少し落ち着く。
 念のため、まだ一度も使っていないガスコンロに火をいれてみる。チチチッと音がして、火花が散り、とんとんとんと輪にそって火が移る。
――よかった、ついた。
 菜子はほっとする。
 冷えきった部屋に、少しでも火の温もりがあるだけで、ほうっと心も温かくなる。
 こんなふうに思うのは、新しい環境になって、自分でも意外だけれど、心細いのかもしれない。一人で暮らすことには、もう慣れたつもりでいても。
 菜子はふと思う。
――とにかく、生きていくには、食べなくちゃ。
 さっと顔を洗い、手早く支度をして、自転車に飛び乗った。
 
 菜子は、買い込んできた食材を冷蔵庫や戸棚にしまい、一息ついた。
お茶でも飲もうと、電気ポットのスイッチを入れる。待つあいだに、お米をといで、ざるにあげておく。
――あ、実家からもらった大根と白菜をしまわなくちゃ。
 菜子はふと思い出して、玄関に置きっぱなしになっていた野菜を食品庫に運び込む。
 食品庫には小ぶりの窓が申し訳なさそうに一つついているが、薄暗くてぼんやりとしか中の様子が見えない。電球をつければいいけれど、昼間のうちはこれだけ見えれば十分だ。
 食品庫は棚が二段になっていて、こうしてみると思いのほか広い。ウォークインクローゼットのようにも思える。
――日持ちする根菜はたくさんしまっておける。
 買い物にひんぱんに行くのを避けたい菜子にとっては、収納しておくところがあるというのは魅力的だ。
 菜子は、野菜を並べて置いていく。大根、白菜、じゃがいも……
 ふと、二段目の棚の隅に目をやる。そこには、すすけたような何かが転がっていた。
 菜子はじっと目をこらす。
――まさか、虫?
 菜子は不安に駆られながら、そのものを見つめた。菜子は比較的田舎で育っているので、自分には理解しがたい、地球外生命体のような奇妙な虫がいるということ、そして出会ってしまったときの恐怖を身にしみて知っている。そのため、得体の知れないものを見ると、まずは虫ではないかと疑う癖がある。
 ゴツゴツした形。
 おそるおそる近づいて、ほっとする。
 なるほど、生姜のようだった。
――でも、なんで生姜?前の住人の忘れもの?清掃業者の目をくぐりぬけたの?
 菜子は不思議に思うが、とりあえずそのままにしておくことにした。捨ててしまうという決断も、まだ早い気がする。
 ひととおり野菜をしまい終えて、菜子は食品庫の戸を閉める。
 建付けがあまりいいとは言えない引戸の、隙間が閉まる瞬間。
 わずかに風が起きて、菜子の顔にふっとあたった気がした。
 思わず目を細める。
 そしてそのとき、なんとなく、何かのそうっとした気配を、菜子は感じるのだった。

 冬場は日が落ちるのが早い。まだ五時にもなっていないというのに、外は煙幕におおわれたように暗い。
 菜子は夕食の支度にとりかかる。夕食といっても、料理とは呼べないような、栄養素さえとれればよいという程度のものだ。
 水気をきっておいたお米に水と調味料、細く切った具材を入れて、炊飯器にセットする。
――よし。
 菜子が炊飯のスイッチを押したときだった。

「お湯はでるかね」
 突然、背後から声がした。
「ぎゃっ」
 菜子はあまりに驚いたので、つまずいたように炊飯器にぶつかった。
 声の主と目が合う。
 老人だ。
「あんまり外が寒いと、ボイラーが凍ってお湯が出なくなるからなぁ。出るならいいんだが」
 菜子はあまりの衝撃で言葉がでない。心臓がトランポリンのように飛び跳ねている。
 腰がぬける。そんな感覚を初めて体験した。
「…だれ?」
 菜子はなんとか声をだした。
 ああ、と、その老人は思い出したように、
「驚かせてしまったかね。わたしは望月慈一郎。以前ここに住んでいたんだよ」
 そう言って、興味深そうに菜子を見る。
「ほう」
 と、目を細めてうなずいた。
 そして、菜子に背を向けて、玄関の方へ歩いて行く。
 いや、歩いてはいない。足がない。膝から徐々に足が消えている。
 菜子は目を見張る。開いた口がふさがらない。
 そもそも、足がないという騒ぎではなく、全体が透けている。
 老人がふと振り向いた。菜子と目が合う。
「あんた、インタレスチング、というやつだね、菜子さん」
 そう言って、面白そうにニヤッと笑った。
 そしてすうっと玄関に消えた。
 老人は自然に現れ、自然に消えていった。
 そう、あまりにも自然に。

 『Interesting』興味深い、面白い。

 残された菜子は、しばらく呆然としていた。ピーッとご飯が炊けた合図が鳴る。
 そこで、はっと我に返り、現実に戻る。
 その老人の振る舞いがまるで当たり前のようだったので、身の毛のよだつ恐怖というのは感じなかった。
――明らかにこの世の人ではない。前の家主と言っていた。ということは、大家さんの亡くなったお父さんということ?
 菜子は、先ほど体験した不思議な出来事に、冷静になれている自分に少なからず驚きもした。今すぐこの家を飛び出して実家に帰りたい、という気持ちは今のところ湧いてこない。
 絵を夢中で描いていると違う世界にいる感覚になる。そのときは現実がどこか一瞬だけわからなくなることもある。その感覚に慣れているから、こういう出来事に耐性があるのかもしれない。
――でも、生きている人間がこの家に侵入するより、いい。その方が怖い。あの世の人の方がよっぽどましだ。
 菜子は、一人うなずいて、中断していた食事の支度を再開する。
 炊けたばかりの炊き込みご飯のおいしそうな匂いが部屋に満ちている。
 汁物を作り、二品だけの夕食にした。
 それでも、十分に幸せな食事だ。


 それから二日ほど経った、雪の粉が舞いだすかと思わせる寒い日。
 菜子がバイト先から帰ってくると、玄関のところに人影がある。
――宅配の人?
 不審に思いながら近づくと、
「あ」
 菜子は思わず声を上げる。
 先日の老人だ。透けている。間違いない。
 望月…、望月慈一郎といっていた。
 細身で、縦にひょろっと長いその老人は、玄関の飾り柱がもう一本あったかと思うくらいに景色になじんでいる。よく見て初めて、柱の横に人がすぅっと立っているのがわかるくらいだ。
「ああ、菜子さん」
 老人が菜子に気づいて、朗らかに笑った。
「留守に勝手にあがるのも悪いかと思ってね」
 そう言って、菜子に玄関の引戸を開けてもらうのを待っている様子。
「はぁ」
 菜子は無言の圧力のままに、鍵を差し込み、戸を開けた。カラカラと音が鳴る。
 慈一郎は音もなく家の中へ消えていった。
――律儀な幽霊だな。
 菜子は、先日の衝撃はどこへ行ったか、落ち着いていた。
 自分でもどうしてこんなに落ち着いていられるのか不思議だったが、この老人が持つ親しみやすそうな雰囲気が、そうさせるのかもしれない。悪い人には見えなかった。あの世の人に、いい人も悪い人もあるかはわからないけれど。

 慈一郎はぬくぬくと炬燵に入り、テレビを見ている。
 菜子はなんだか落ち着かない。
 いちおう来客なのだから、お茶でも出した方がいいのだろうかと思案する。
――お茶……?お茶を飲むことはできるのだろうか?
 はたと思い、湯のみを出す手を止める。
――透けているから、飲めたとしても、床に……?
「あの、望月さん。お茶は飲みますか?」
 確認する。
「ああ、そんなに気を遣わんでいい。しかし、もらおうかね」
 慈一郎が言うので、菜子は急須に茶葉を入れて、湯を注ぐ。
――飲めるんだ……
 菜子は少し驚いた。
「ところで菜子さん、わたしのことはじいさんと呼んでくれんかね。慈一郎という名前だから、昔からそう呼ばれているし、その方が慣れているのでね」
 慈一郎が湯気の立つお茶をすする。湯のみそのものは机に乗ったままだが、透けた湯のみがすぅっと持ち上がる。
 なるほど。
 その様子を見て、菜子は納得する。

 呼び名について、菜子は、自分より年上だし、せめて『お』をつけて、おじいさんと呼んでもいいかと聞き、慈一郎がしぶしぶ頷いたので、話はまとまった。
 慈一郎は三十分ほどくつろいで、再びすぅっと玄関の方角へ消えていった。
 消えがけにふと思い出したように、
「ああ、菜子さん。雨やら雪やらが降ったら、雨戸を閉めた方がいい。この家の雨戸は開けるときも閉めるときもだいぶ力を使うがね。それも、慣れにちがいないがねぇ」
 そう言い残して去っていった。

 この辺りはめったに雪が降らない。けれど、その夜は降り出したみぞれのような雨が、次第に雪になった。
 翌朝には、粉砂糖をまぶしたような、うっすらとした白の世界が広がった。

 それから慈一郎は三日か、四日に一度くらい菜子の家を訪れる。必ず菜子のいるときに、決まって三十分くらいいて、消えていく。菜子とぽそぽそと話していくときもあれば、物思いにふけっているときもあるし、持参した書物を読んでいるときもある。
 菜子も次第に慈一郎という存在に慣れて、来客という意識はすっかり薄らいでいった。

 菜子がこの家に住み着いて十日ほど経った。なんとなく家の勝手もわかってきて、なじんできたように思える。
 朝方、めずらしく早くに目覚めてしまった菜子は、いつもの日課で、電気ポットのスイッチを押す。
 台所は、氷を割ったように冷え切っている。
 ポットからしゅんしゅんと湯気がでてくるころ、やっと頭が起きだす。
 今日は仕事が夕方からなので、久しぶりに静物画を描こうかとふと思い立った。
 コンクールに出品予定の作品を制作途中だが、それには多少なりとも制約がある。それは、そのコンクールのテーマだったり、審査員の好みだったりする。
 そのため制作中は、自由に思い切り、好きなものを好きなだけ描きたくなるときがある。
 菜子は絵を描きはじめたころから、野菜や果物を描いているときが、何よりも楽しい。それは美大に行き、数えきれないくらいの絵を描き続けてきた今でも変わらない。

 菜子は、食品庫に入り、小ぶりの白菜を手に取った。菜子の実家の畑でとれたその白菜は、スーパーで売っているものよりも、多少不細工で、個性が強い。
――この感じがかわいらしくて、いい。
 菜子は満足して、制作に使っている一間の畳部屋へ向かう。
 白菜を台の上に置き、カーテンを少しずつ開けたり、閉めたりしながら光の差し込み具合を調節する。そして、角度を決め、とりかかった。

 普段は何気なく見ていて気にもとめないが、こうして対峙して、じっと見つめていると、この野菜から確かに生命を感じる。
 生きている。繊維の一本一本から、瑞々しい生命の息づかいが聞こえる。
 菜子はそれを感じるときに、とても穏やかな気持ちになる。
 あまりに艶やかに見えるので、今にも話しかけてきそうだとさえ思う。

『そんなに見られると、恥ずかしいんですけれど』
 声が聞こえて、菜子は、
――そんなことを考えていたから幻聴まで聞こえてしまった。
 と、気にもとめない。
 そのまま作業を続けていると、
『無視されると、悲しい』
 と、また聞こえた。
 菜子は、え?と思い、やっと手を止め、顔を上げる。
「……まさかとは思うけれど、わたしに話しかけてる?」
『もちろん。他に誰が?』
 菜子は仰天した。
――まさか。白菜が。白菜が、しゃべっている。
 菜子は、ついに気がおかしくなってしまったのかと自分が信用できなくなってきた。
 思わず周りを見る。
 しかし、誰かがいるはずもない。
 そんなことがあるはずがないと思ってはみたけれど、たった今、そこにいる白菜と会話が成立したばかりだ。
 夢の可能性もある。しかし、頭ははっきりしている。夢には思えない。
 菜子は、落ち着かなければと自分を叱責する。
 菜子はしばらく白菜をじっと見つめて様子を伺っていたが、白菜がそれから何も言わないので、
「……あの、どうして話せるの」
 やっと声を出して、聞いた。
『あの食品庫に入っていたから』
 白菜が、すまして言う。
 話す、とか、言う、とかそういった表現は適切ではない気がする。菜子となんらかの形でコミュニケーションがとれて、その言葉が伝わるという感覚に近い。
「食品庫」
 菜子は思い返してみる。
 数日前、食品庫に野菜をしまったときに感じた、あの静かな気配のようなもの。
「はくさ……、あなただけが話せるの? 他の野菜たちも話せるの?」
 菜子は、白菜、と言いかけて、なんだか呼び捨てみたいで気が引けたので、あなたと言い直してみた。
 その感覚が正しいのか気にしなくてもいいものなのか、判断が難しかったけれど。
『他のみんなも話せる。あの食品庫に一度でも入ったら』
 白菜は、言葉少なに応じる。
「そうなの」
 菜子はそれしか言えなかった。
――こんな事態にすぐに対処できる人って、あまりいないんじゃ……
 菜子は鉛筆を畳に置いた。いや、鉛筆が指の間をすり抜けてぽとんと落ちた。
 とても絵を描き続ける気になれなかった。
 菜子は動くに動けず、かといって、動揺しているので何を聞いたらいいのか最良の言葉が浮かばず、黙っていた。
 白菜も、じっと黙っている。
 野菜にも性格があったりするのだろうか。だとしたら、白菜はおとなしいのかもしれない。
 そんなことを考える。

 しばらく時間が経った。
 菜子は放り出された描きかけのキャンバスに目をやる。
 横たわって光に照らされた未完成の白菜。
 ここで手を止めたら、この白菜はずっとこのままになってしまう。
 菜子は、再び鉛筆を手に持ち作業を進め始める。
 コミュニケートできると思うと、白菜をじっと見つめるのもためらうものがあるけれど、次第に構わなくなった。
 筆を取り出し、何度も何度も色を重ね、のせていく。

 色づけが終わったころ、セットしておいた目覚まし時計のアラームがけたたましく鳴った。
 リリリリリ。
 バイトの時間が迫っている。絵を描き始めてしまうと、のめり込んでしまって時間の感覚がなくなる。菜子は、仕事がある日はいつもアラームをセットしてから始めるようにしている。
 白菜はけっきょくあれから何も言わない。
 この白菜を食品庫に戻す勇気がわかず、とりあえず台所のシンクの横に置いた。
――食材なのだから、いつかは料理しなくちゃ。
 菜子は気が重くなった。
――白菜に恨まれたりするのだろうか。
 不安が胸をかすめる。

――とにかく仕事に行かなくちゃ。
 それから、菜子は支度をして、出かけていった。


「料理したらいい。早く使ってやらんと」
 慈一郎はあっさり言う。
 菜子は、このような事態を誰かに相談するにも、真摯に聞いてくれそうな人が思い浮かばなかったので、この家に詳しい慈一郎に話してみようと、慈一郎がやってくるのを待っていた。
 翌日、ふらりと現れた慈一郎が、縁側に腰かけたので、そこを見計らって菜子は小声で事情を説明した。白菜に聞かれたら体裁が悪いような気がして、ぼそぼそと。

「いつかは料理しなきゃいけないと思うけれど、それって、白菜にとってどんな気持ちなんだろう」
 菜子は不安そうな顔をする。
「そうだなぁ。包丁を入れられたら痛い、となるかもしれんし、熱湯でゆでられたら熱い、となるかもしれんなぁ」
 明らかに慈一郎の目は面白がっているように見える。
「おじいさんがこの家に住んでいたとき、あの食品庫を使っていて、同じように不思議なことがあったのでは?」
 菜子が言っても、慈一郎は含み笑いをするだけだ。
――困った。
 菜子はため息をつく。
 今朝も、お茶を入れようとシンクの前を通ったとき、白菜と目が合ったような気がして、
「おはよう」
 とつい声をかけてしまった。そうしたら、
『おはよう』
 と当たり前のように返ってきて、これはまぎれもない現実だと確信したばかりだった。
 あれから、食品庫には入っていない。記憶が確かならば、あの食品庫には、白菜のほかに、大根、じゃがいも、玉ねぎがある、いるはずだ。
 それらが話しだすのだろうかと考えると、食品庫への入室には、相当な覚悟がいる。
「菜子さん、わたしが思うに、野菜は食べられてこそ本望じゃないのかねぇ。くさって捨てられるより、よほどいいだろう」
 慈一郎が持参した本に目を落としながら、なんでもないことのように言う。
「そんなに心配なら、白菜に聞いてみたらどうかね」
――聞く。
 菜子はますます不安になる。

「あの」
 その日の夕方。
 菜子は思い切って、
「あなたを八宝菜の具にしようと思うんだけれど」
 と白菜に伝えた。
『いいんじゃない』
 白菜は、あっさりと答える。
 菜子は拍子抜けした。
 菜子がまな板を準備して、包丁を手に持つと、再び声がする。
『包丁を入れられると、話せなくなる。その前に言っておきたいことがあるんだけれど』
 菜子は先を促す。
『菜子さん、食品庫に入ってないでしょう。他のみんながさみしがるから、ちゃんとかまってあげてほしい』

 白菜は、有終の美をかざり、立派な夕食になった。
 気のせいかもしれないけれど、八宝菜が妙につやつやしているような気がする。
 菜子は、白菜の生命を思った。
 そして、ゆっくりと丁寧にかみしめて、いただいた。

 人間の脳は、何事にも三日で順応できる、という能力を持っているらしい。
 菜子は、三日というわけではなかったけれど、思いのほか早く、この家で起こる不思議に慣れた。

 朝食の味噌汁の身にしようと食品庫から大根を出す。
 根が二つに割れた妙な大根。実家の畑でとれる野菜たちは、どれもこれも興味深い形をしている。そのわりにおいしそうに見えるから不思議だ。
『菜子ちゃん、今日はバイトじゃないの?』
 大根の声は、少し高い。
「そう。ご飯食べたら行かなくちゃ」
『あら、早くしなくちゃ遅れるわよ。わたしを細く切ることね。わたしを味噌汁の具にするのなら、前日の夜に米のとぎ汁につけておいたらいいのよ。灰汁がぬけるから。ちょっと菜子ちゃん、急いで。ほら、鍋を火にかけてちょうだい』
 大根は、母親のように口うるさい。
「はいはい」
 菜子は返事をして、小ぶりの鍋に水を張り、火を入れる。
 そして、大根を軽く水で洗い、皮をむき、千切りにした。
 とたんにしんと静かになる。
 野菜たちは確かに包丁を入れたり、火にかけたりすると話せなくなるらしかった。白菜の言っていたとおりだ。
 菜子は慌ただしく味噌汁とご飯をテーブルに並べ、朝食にする。
 お椀に浮かぶすきとおった大根を見つめ、少し感傷に浸る。
――話せる野菜。それを食べる。
 この一連のことにも、最初は抵抗を感じたけれど、しかし、野菜を食べる、そのこと自体はごく自然なことに思えた。
 菜子は、味噌汁を飲み干し、慌てて玄関に向かった。


 冬らしい乾いた風が菜子の頬を赤くする。
 菜子が働いている店舗は、なだらかな坂道の中腹にある。
 もとは青果を主に扱うスーパーだったが、経営難で、様々なものを扱う二十四時間営業の店舗に移行した。個人のコンビニエンスストアのようなものだ。
 流行っているかと言われると疑問だけれど、それでも田舎町のなかでも交通量が多い道路に面しているので、客足もある。
〈スポンジマート〉
 という文字が、お店の入口で踊っている。
――なぜ、スポンジなんだろう。
 菜子はいつも謎に思っているが、店長には未だに聞けていない。
 おはようございます、と言いながら店舗に入ると、
「おはよう、菜子ちゃん」
 店長の楠木が出迎えた。
「今日も寒いね。おでんが売れそうだ」
 にこにこと言う。
「そうですね」
 菜子も相づちをうつ。
「店長、おでんと言えば、今日もたまごが売り切れそうじゃないですか」
 菜子と同じ、アルバイトの笹山が会話に加わる。
 スポンジマートのおでんは、楠木の奥さんがいつも作ってくれている。少し濃い目の味付けが、家庭の味だと単身層に好評を博している。中でも「たまご」は人気商品で、最近では、夕方が近くなると、売り切れ状態になってしまう。
「そうそう、たまごね。おかげさまで。ありがたいことだよね。実は、今日はたまごを増やしてみたよ。まぁ、昨日の仕込みのとき、奥さんに文句言われながら、殻むきをせっせとして、大変だったけどね。本当、いくつむいたんだろう」
 楠木がぼやいた。
 見ると、おでんの鍋の中は、具材の半分は「たまご」と言ってもいいくらいの割合だった。
「すごい量ですね」
 笹山は驚きの声をあげた。
「やっぱり極端すぎたかな」
 楠木が不安そうに言う。
「大丈夫です、あまったら、わたし買います」
 菜子が言うと、笹山も、「じゃあ、おれも」と、乗っかる。
「頼りにしてるよ」
 楠木が笑って言った。

 実際、菜子が退社する時間になっても、「たまご」はあまっていた。それをいくつかもらって、菜子は自転車に乗りこんだ。
 走り出そうとペダルを勢いよく踏み込む。そのとき、
「鹿角さん」
 と、どこからか声が聞こえた。
 同じ時間に上がった笹山だった。
 スポンジマートのすぐ目の前にバス停がある。そこのベンチに、笹山が首をすくめて寒そうに座っている。
「どうしたの」
「バス待ってる。今日は車じゃないからさ」
 笹山は大きめの四駆を愛車にしているけれど、聞くと、今日は親に貸しているらしかった。
「バスが来るまでかなり時間あるから、おでん食べるの付き合ってよ」
 笹山が言うので、菜子は、自転車のカゴにあるおでんの入った容器に視線をやる。そこから立つほこほこした湯気を見て、うん、とうなずく。

「昨日さ、釣りの大会だったんだよね。結構いいところまでいってさ」
 釣りの世界のことをよく知らない菜子は、ふぅんとうなずく。
「いいところまでって」
「二位」
「それってすごいの」
「賞金三十万」
 菜子は「えっ」と驚く。
――釣りって、そんなに。
「一位はもっとすごいよ。でも昨日はローカルな小さい大会だったから。国内の大きい大会だったら優勝賞金百万とか、ざら」
 菜子は、笹山の趣味が釣りというのは知っていた。けれど、実は趣味ではなく、プロを目指しているのかもしれないと、笹山の言葉の抑揚から、熱っぽさを感じとる。
「もしかして、釣りで食べてくつもりなの」
 菜子は思わず言葉にしてしまう。笹山は困ったように笑った。
「そうなれたらいいねぇ。まぁ、釣りの大会行きやすいようにフリーターやってるんだけどね。でも」
 一度言葉を切って、おでんをつつく。
「家が瓦屋で、おれ一人っ子だからさ。継ぐ予定」
 菜子は、とっさに返事ができず、言葉を飲み込む。家業を継ぐという決断をするのに、どれくらい悩んだり、葛藤したりするのだろう。菜子の家はサラリーマンの家庭なので、その気持ちがわからない。
「そっか」
 とだけ、答えた。
「鹿角さんは絵を描いてるんでしょ。やっぱり、そういう道へ行くの」
「……悩んでる」
「そうか」
「うん」
 しばらく二人はもくもくとおでんをほおばる。
「そうだ」
 笹山が声を上げる。
「おれの部屋、いま殺風景なんだよね。絵、描いてよ」
 菜子は笹山の口から飛び出た意外な言葉に、驚く。
「なんで」
「絵がある部屋ってなんかおしゃれな気がするから」
 そのとき、特有の地響きがして、うまい具合にバスが来た。笹山は、「まぁ、気が向いたらでいいよ」と言い残して、去っていった。

 誰かに贈るために絵を描くという経験が、菜子にはあまりなかった。学生時代は、自分よりもはるかに技術やセンスがある友人がたくさんいたし、そんな友人に自分の描いたものを贈ろうなんて考えもしなかった。
 菜子はひたすら自分のために絵を描いてきたように思う。
 笹山の言葉は、菜子の中にふっと新しい何かを吹き込んだようだった。

 水彩画。
 菜子はそうしようと決める。イメージは出来上がっていたので、さっそく水彩紙を仕入れに出かける。こだわらなければ、専門の画材店ではなくても、手に入れることができる。
 光が差し込む海の中に、瓦と魚。
 セルリアンブルー、ターコイズブルー、コバルトブルー、ウルトラマリン・・・いくつもの青。透きとおった海。そして海底に沈むシャドーグリーンの瓦。まったり泳ぐ魚たち。淡い光。
――うーん、そのまんますぎたかも。
 菜子は出来上がった絵を見て、思わず突っ込む。笹山の言葉をそのまま絵にしたような。しかし、その笹山本人のイメージは大切にしたい、という思いが菜子にはある。
 あまり大げさにならないよう、枠だけのシンプルな額に、その絵を入れる。

「ほう、水彩画だね」
 慈一郎の声が聞こえた。いつのまにやら来ていたらしい。
「なかなか複雑な絵だねぇ」
 壁に無造作に立てかけられたその絵を、じっと見つめて、そうつぶやく。
――複雑…
 菜子はその言葉をどうとっていいのかわからない。瞬きをゆっくりとして、慈一郎が言わんとしていることを考えてみる。
「よろこんでくれるだろう」
 慈一郎は再びそうつぶやいた。菜子が、え、と思っている間に、すぅっと縁側へ消えていく。
 どうして誰かのための絵だとわかったのだろう。
――おじいさんて、不思議な人だ。
 菜子はお茶を淹れに、台所へ向かう。
――いやいや、おじいさんの存在自体が不思議のかたまりなんだけど。


 けっきょく、笹山に渡すタイミングがないまま、数週間が過ぎた。
 大きなものでもないので、バックヤードにあるロッカーに入れてある。
 ちょうど上がりの時間が重なる日があり、菜子は笹山に声をかける。
 笹山は少し驚いて、
「本当に描いてくれると思わなかったから、びっくりした」
 と言う。
 菜子は慌てて、
「家に帰ってから見て。気に入らなかったら、処分してくれてもいいし、好きにしてくれていいから」
 と付け加える。菜子は、人に絵を贈る、ということは、自分の価値観を押し付けてしまわないか、と考えてしまう。もらった人は、気に入らなくても捨てるわけにいかないから、困ってしまうだろう。どこかにしまっておくことになるかもしれない。
 この絵がほしい、と言ってくれたら、どんなにか気が楽だろう。どんなものを望んでいるかわからない人に、絵を贈るというのは、なんてハードルが高いことなのだろう…
「いや、処分しないし。うれしいよ。ありがとう」
 笹山はあっさりと言う。
 菜子はその軽い反応に、少し安心する。
 菜子は、絶対にその絵の感想を自分に言わないでほしい、と笹山に念を押す。
「なんで」
「気をつかってほしくないし、いたたまれないから」
 笹山は、なるほど、とうなずいた。
「その気持ちはわからなくもないよ」

 翌日になって、笹山が声をかけてくる。
「さっそく壁にかけたよ」
 それだけ言って、菜子が返事をする間もなく、笹山は陳列棚に向かう。
 菜子は、なんとなく想像してみる。笹山の部屋は、家が瓦屋を生業としているなら、やはり和風だろうか。砂じゅらくの壁かもしれない。そこにあの絵が飾ってある。
――そう悪くもないかも。
 飾ってくれた、というだけで(それが本当なら)、今まで感じたことのない、心からじわっと温まるような気持ちが湧いてくる。
――きっとわたし、うれしいんだ。大げさかもしれないけれど、誰かに認めてもらえたような気がして。

 なぜ絵を描くのか。
 確かに、絵を描いている人に出会ったら、そう聞いてみたくなるだろう。
 しかし、芸術家、というと大げさな気もするけれど、少しでも絵を描いたことがある人にとって、なぜ絵を描くのかということは、簡単に言葉にはできないような、難しい質問ではないかというのが菜子個人の意見である。
 絵を描くということは、生きることの意味ということに直結していて、その質問をされたら、そのことについて言及しなければいけなくなるような気がする。
 少なくとも、菜子にとってはそのくらい深い質問だ。
 なぜ描くのかということを自分なりに模索し、理解している人もいるだろう。けれど、菜子にはまだそのときが訪れていない。

「菜子さんは、なぜ絵を描くのかね?」
 バーミリオンヒュー、パーマネントイエローペール……
 今は下地作りの途中だ。
――あ、とても面白い色ができた。
 菜子は絵具と絵具が混ざりあうところを見つめて、高揚した気持ちになる。
――この色は、このままにしておきたい。
 心にある色に近づく、あるいはそのままの色になる。こんなに楽しいことはない。
 菜子がキャンバスに色をのせている様子を、座卓に腰かけて興味ありげに見ていた慈一郎が、なんでもないことのように聞いた。
 菜子は、作業を止めて、じっと考える。少しの間、時間が流れる。
「わからない」
 あきらめたように答えた。
「ほう」
 慈一郎は、納得したようにうなずいただけだった。
 菜子の中で様々な過程を経て、その答えにたどりついたであろうことがわかったらしかった。
 春を待つ雨が、風に乗って窓をたたく。
 とんとん、とんとん。
「意味なんかなくてもかまわんだろう。人それぞれだが、見つけたがる人もいるがね」
 慈一郎がぽつりと言う。
――そう、わかっている。でも、わたしははっきりとした答えを見つけたいと思っている。
 いつのころからか探している。どうしてだったか。
 そうだ、その方がなんだか、安心するからだ。
 菜子は、再びキャンバスに向かう。
 幾重にも重なる色だらけの世界と。


 春分を迎えたといっても、冬はまだ季節を次に渡したくないようで、冷える日が続く。
 それでも、カーテンを開け放した窓から差し込む日差しは、春らしいやわらかな暖かさがある。
 菜子は食品庫から人参を取り出してきた。
 今日はツナと人参のマリネにしよう、と献立をたてる。
 人参を洗い、まな板にのせる。すると、
『ねぇ』
 と声がした。
『わたしって、キュートだと思わない?』
 人参は自分のことが好きらしい。
 菜子は真面目に答えた。
「そう思うよ。でも、そう思っていても、誰かに言ったりすると、他から反感を買うかもしれない」
『知ってるわよ』
 人参は、ふんと言い返してくる。
『あのね、スーパーなんかで売られている子たちを見るとね、すらっとして美人でしょ。でも、わたしはちょっといびつで、決して美人じゃないわよね』
 いびつはいびつかもしれない、と菜子は思うが、素直にうなずくと人参の機嫌を損ねそうなので、あいまいに流す。
 なんといっても、菜子の実家の畑でとれた人参だ。スーパーで見かける人参と見た目を比べてしまっては気の毒な気がする。
――でも、美人かそうじゃないかって、野菜の場合は、どういう基準なんだろう。人参らしい形をしていれば美人というのだろうか。そのへんの価値観って。
 菜子は疑問に思う。
『でもわたし、この形、けっこう気に入ってるの』
 美意識が強いらしい人参が、意外なことを言う。
 菜子は、「へぇ」と驚く。
『でもね、食べられたらわたしはいなくなっちゃう。誰もわたしのこと覚えてないのよ。こんなにキュートだったわたしのこと、誰も覚えてない。それって、なんか悲しくない?』
――そうか。
 菜子は、人参がそんなふうに思っているなんて考えてもみなかった。
――何て言うか、人間らしい。
 思い立って、和室へ向かう。
 スケッチブックを手にして、台所へ戻る。
 まな板の上にころんと転がる人参。菜子は焦点を合わせ、描き始める。
 一本一本の線が、人参の人生をたどる。今の人参の姿を、残しておけるように、丁寧に、慎重に重ねていく。薄いところ、濃いところ。ぼかす、重ねる。光、影。
 白と黒だけの世界。

 二時間ほど経って、仕上げが終わる。
 菜子がデッサンをしている間、人参は一言も話さなかった。
「どう?」
 人参にスケッチブックを見せる。
 人参はそこに浮かぶ自分に少し驚いたようだった。初めての経験に違いなかった。しばらく見入っている。
そして、
『ええ。これはわたしそのもの。とっても気に入ったわ』
 と、満足げに答えた。
『ありがとう』
「どういたしまして」

 人参は彩り美しいマリネになった。明るくて深みがある、そんな色をしていた。


 坦々と日々が流れる。まさに桜色というべき淡い優しい色の花びらをつけ、咲き誇った桜が、気づけば、雨や風で短い命を散らし、来年の準備にとりかかった。
 起伏のない、安定しているといってもいい日々だった。その間、応募した作品が落選したり(これは毎回のことなのでそこまでの衝撃はない)、バイト先での時給が若干上がったりと、何かしらの変化はあったにしても。
 この日も菜子はいつもの日課で、洗濯物を片づけていた。暑くもなく、寒くもない、心地よいと思える風が、開け放した一間の引き違い戸から入ってくる。春という季節は短い。この春を感じる瞬間を大事にしたいと思う。
 慈一郎がふらりとやってくる。
「菜子さん、精がでるねぇ」
 そうつぶやいて、座卓に腰を下ろす。
 菜子はお茶を淹れに台所に立った。最近では、時間に余裕があるときは慈一郎としみじみお茶を飲むのが定番になってきている。
 先日、日用品を仕入れにホームセンターに行った折、陶器のセールをやっていた。それで、慈一郎にいつも出している実家から適当に持ってきたくたびれた湯呑みを思い出した。
 ふと思い立ち、物色する。こだわらなくてもいいとわかっていても、実際に一つ購入しようと意識すると、あれやこれやと手にとって細部まで見てしまう。けっきょく、第一印象で目にとまった梅の花を散らしたものに決めた。
 その湯呑みを取り出し、熱いお茶を淹れる。これは慈一郎専用の湯呑みにするつもりだった。菜子が昔から使っている湯呑みと二つ、盆に載せ、持っていく。
 慈一郎は、別段変った様子もなく、その湯呑みを手にとり、茶をすする。これといったコメントもない。しかし、一口すすったあと、その湯呑みをじっと見つめて、「ほう」と小さくつぶやいたのを菜子は見逃さなかった。満足そうにしている慈一郎を見て、菜子もほっとした。
 のんびりとくつろいだ後、菜子は、そうだ、早めに夕食の準備をしようと立ち上がる。
 慈一郎も気づいて、「ああ、もうこんな時間かね」と言ってから、「菜子さん」と呼びとめた。
 菜子が振り返ると、慈一郎が口の端を持ち上げて、にやりと笑う。
「おしゃべり好きの野菜たちとの関係は、最近どうかね」
 菜子は少し考えてから、
「良好、だと思うけど、どうだろう」
 と自信なさげに答えた。
 野菜たちと会話をしても彼らはすぐに菜子の胃に収まってしまう、そういう運命の野菜たち。人間ですら、気持ちをはかり知ることは難しいのに、それが野菜となると余計にわからない。
 菜子は、自分の中の葛藤と折り合いをつけることができないときが訪れると、何度も包丁を入れる手が止まった。野菜たちは個性的で、それぞれの感情があり、もしかしたら食べられることを切なく思う野菜がいるかもしれない。
 しかし、そうは言っても、菜子も食べなければいけない宿命だと感じている。
 それは、もう、確かなことだ。『自然』的には。
 慣れてきたとは言っても、そういうことを考えてしまう波が何度かやってくる。
――ま、考えても仕方のないことだけど。
 慈一郎は菜子の様子を見て面白そうに目を輝かせた。
「悩んでいるようだね、菜子さん。しかしねぇ、菜子さんのそういうところがインタレスチング、だと思うねぇ」
 そう言って、縁側に向かう。
「野菜は野菜、人は人。野菜くうのが人心」
 そんなことをつぶやいて、慈一郎はすぅっと消えていった。
――そう、それはわかっているけど。でも。
 菜子は頭を振って、台所に向かう。
 冷蔵庫にあったさばを思いだして、今日はさばの味噌煮にしようと考える。

 菜子の観念では、さば料理には生姜が必須だった。この家に生姜がないことには気づいていた。けれど……菜子にはアテがある。
 あの食品庫の中でいつだったか見つけた生姜。そのままにしてあるはずだった。
 冬を越えて、状態がどうなっているのか。菜子は、生姜を仕入れに外出するのも面倒に思えて、どうか無事でいてほしいと祈った。

『わしは、根生姜だったんじゃ。この世に生を受けて、かれこれ二年半くらいになるかのう』
 生姜はなんとか無事だった。ぱさぱさに乾燥しきって、シワだらけの、いかにも老成した感じを受ける生姜からは、年を重ねた貫録を感じる。見かけは小さいながらにも。
「ねしょうが?」
 菜子は、そのオーラから、なんとなく生姜を切れなくなってしまった。仕方ない、と今日の夕食に生姜を使うことをあきらめる。
『根生姜はタネの生姜じゃな。他の生姜たちは、生まれてその年に食べられてしまうが、タネの生姜はまた土の中で二度目の人生を生きるんじゃ』
「二度目…つまり長生きってこと」
『そうじゃのぅ』
 生姜がうなずく。
 そのとき、
『そうなのよ。生姜爺は食品庫の野菜たちの長なんだから』
 と、ちょうどシンク横の水切りカゴに入っていた大根が、声高に言った。
『ふぉふぉ、長、ねぇ。もうわしの寿命も長くないからのぅ。まぁ、そのときがくるまでしばしこの世にとどまって、事の行く末を見届けたいねぇ』
――事の行く末。
 菜子には何の「事」なのかわからなかったけれど、生姜はこれ以上「事」について詳しく話す気はなさそうだった。とにかく、何か心残りがあるのだろうと納得した。慈一郎のように。

 その後、生姜を調理することができなかった菜子は、仕方なく水切りカゴに入れておくことにする。結局、しばらくそのまま手をつけられず、そこは世話 好きの生姜の定位置となった。台所仕事をするとき、菜子の良き話し相手になり、生姜との付き合いはまだ続きそうだった。


「菜子ちゃん、入るわよぅ」
 玄関から声がして、ガラッと扉が開く音が聞こえた。
「ちょっと、あなた鍵かけてないの。田舎だからって油断してないでかけなさいな。危ないじゃないの」
 ぼやく声と、ぱたぱたという足音がして、近づいてくる。
 茶子だった。
 菜子は起きたばかりで、居間でぼんやりしていた。母の声が遠くから聞こえて、驚く。
 居間に顔を出した茶子を見て、
「どうしたの、こんな朝早くから」
 と、目をしばたいた。
「もう、どうしたって、あなた全然こっちに顔を出さないじゃない。まぁ、いいけど。ちゃんと生活してるか心配で見に来たのよぅ」
 そう言いながら、茶子は菜子と向かい合って座る。
「今日はバイトじゃないの」
「うん、午後から」
「そう。今朝ね、わたしが育てたキュウリがとれたのよぅ。たくさんとれたから、持ってきたの。使うでしょ」
 そう言って、菜子にビニール袋を渡す。中をのぞくと、ふわっと大地の匂いがした。いかにもとれたばかりの様子で、先ほどまで畑にいた温もりがまだ残っている。
「ありがとう」
「いいけど、早めに食べてね。まだオンシーズンじゃないけど、きっとおいしいと思う。本当、今回は頑張ったのよぅ」
 茶子はそう言って、嬉しそうに笑う。菜子は母を何気なく見て、あれ、と思う。
 こんなに精悍な笑顔をする人だったか。
 そもそも、母はいつから畑仕事を好んでするようになったのだろう。畑仕事は基本的には父の仕事だった。母は「虫が嫌」「日焼けする」と言って、避けていたはずだった。
 菜子は、首をかしげる。そう意識してみると、なんだか以前と顔つきも変わったような気がしてくる。毎日顔を合わせていると見えないものでも、こうして、離れて生活してみると、気づくことがある。
 少し話してから、「たまには家に顔出しなさいな」と言って、茶子は帰って行った。
 菜子は、とりあえずもらった野菜を食品庫に運ぶ。

 翌朝、キュウリを取り出して、洗いにかかる。
 新鮮だから、塩をもみ込んだだけでいただこう、と思う。
 ふと、キュウリがまだ一言も菜子に語りかけないことに気づいた。
――あれ。
 菜子が不思議に思っていると、水切りカゴにいる生姜が口を開く。
『キュウリは水くさいんじゃよ』
「え」
『水っぽいせいか』
 菜子は、ふぅんとうなずく。
 しかし、そう言われるとなんだか気になってしまう。どんな秘密を隠し持っているのだろう。
「秘密があるの」
 菜子は聞いてみる。しかし、キュウリはじっと黙っている。お互いにじっと見つめあって、我慢比べのような状態が続いたけれど、けっきょく菜子が根負けした。
「まぁ、誰でも秘密の一つや二つあるよね」
『そうですね』
 きゅうりがやっと相づちをうった。
 生姜が言うには、野菜たちの性格は、同じ品種の野菜でも、個々によって少し違ったりするらしい。元の性格は大抵似通っているが、例外もいたりする。それは人の世界も野菜の世界もそう変わらないらしかった。
 
 茶子の育てたキュウリは、目に沁みるような緑だった。塩気のせいか、より鮮やかな発色に見える。菜子は箸で一つつまみ、かみしめる。広がるウリ独特の匂いが、この季節のように、さわやかだった。

 電話が鳴る音で目覚める。
 店長の楠木からだった。
「ああ、菜子ちゃん。朝早くに申し訳ない。突然だけど、今日から一週間ほど、臨時休業することに決まってね。急で申し訳ないけれど」
 菜子は、わかりましたと応じる。
「何かあったんですか」
「いやぁ、私事でね。確か菜子ちゃん、今日出勤だったよね。申し訳ないけれど、また来週に…」
 楠木は、次の出勤時間を手短に伝えて、電話を切った。
 随分と慌てているようだった。楠木は菜子にそう感じさせないようにつとめて余裕のある口調で話していた。けれど、動揺しているような、急いているような様子が、電話を持つ手を伝って菜子にも伝わってきた。
――どうしたんだろう。昨日までは変わった様子はなかったと思うけれど。
 菜子は不思議に思う。
 しかし、思ってもみないところで時間ができた。嬉しいけれど、少し戸惑う。
 結局、さぼりがちだった掃除をしたり、溜まっていた洗濯をしたり、普段より凝った料理を作ったり。その合間に、制作をする。
 早起きをした日は、スケッチブックを手に、自転車で公園や土手に出かける。そんなふうに気ままに過ごしていると、あっという間に日々が過ぎていった。

 週が明けて、スポンジマートに顔を出すと、やはり楠木の様子が気にかかる。
 普段と変わらない様子だったけれど、どこか陰りがある。菜子は気になって、何があったのかたずねようと思う。しかし、立ち入りすぎかも、という思いもあり、うろうろと挙動不審だった。そんな菜子の様子に気づいた笹山が、小声で教えてくれる。
「店長の弟さん、亡くなったらしいよ」
 菜子は、え、と驚く。
 聞くと、弟はひらけた人で、この日本の国風がどうしても好きになれなかった。そこで、以前留学していたこともあり、土地勘のあるニュージーランドへ渡ったらしい。そこで結婚して、妻と子供がいる。何もかも捨てて、外国へ渡ろうという、その決断力と行動力に、菜子は素直に尊敬の念を抱く。交通事故で亡くなったそうで、あまりに突然の訃報だった。
「遺骨はニュージーランドに、というのが弟さんの強い希望だったらしくて。奥さんと子供もいるから、まぁ当然って言えば当然かもしれないけど。でも、店長にとってはそれが、やっぱり寂しかったのかもしれないね。おれは店長本人じゃないから、確かな気持ちはわからないけど」
 菜子は複雑な感情だった。菜子に何かができるとか、そういう次元の話ではないというのはわかった。しかし、いつもお世話になっている楠木だから、という気持ちが湧いてくる。
「おれたちには何もできないけど。とにかくいつも通りにするのが一番だと思う」
 笹山はどこまでも冷静だった。
 菜子は、「うん」とうなずく。
 しかし、菜子は考えている。
 望まれてなくても、それが自己満足でも、何かをしたい。何もしない、そうして後悔したことが、たとえ小さいことでもいくつもあったはずだった。毎日を過ごしていると、その反省すらも流されて、忘れてしまったりする。そして、ときどき思い出しては、ああ、そうだ、と打ちのめされる。その繰り返し。

 何をするか。うーんと唸って悩む。あれこれ考えてみても、けっきょく自分には絵を描くことしかないのだと思い知る。結論が出て、よし、と菜子の表情がぱっと明るくなる。しかし、自分はニュージーランドという土地について、ほとんど何も知らないことにはっと気づく。そして再びうーんと唸り始める。どうするかと思考をめぐらせる。
 菜子のその一人芝居を、縁側でのんびりとお茶を飲んでいた慈一郎が、面白そうに見ている。

 いろいろ考えた末、菜子は大学時代の百合音という友人に連絡をとってみることにする。
 変わり者揃いの学生生活だった。もちろん彼女も変わり者の一人だ。百合音は、日本や世界各地の民族、文化に傾倒していて、その地の衣装や民芸品しかキャンバスには描きたくないというこだわりを持っていた。こだわりというより信念に近い。
 当時、大学の課題で出るテーマについては、仕方なく描いていて、彼女いわく、自分の一部がそげ落ちるような気持ちだと、憔悴しきった様子で仕上げていた。菜子は、そんなに、と驚いたものだった。
 こだわりが強いけれど、しかし絵を描くというセンスと技術には目を見張るものがある。菜子は彼女の絵が好きだった。それと同時に、なんだかもどかしい気持ちにもなったことを思い出した。
――というか、まだこの連絡先で通じるのだろうか。
 不安がかすめる。世界各地に足を運んでいる彼女が、今日本にいるのか、そこは問題だった。
「もしもし」
 驚いたことに、一度のコールで、百合音の声が聞こえた。
「びっくりした」
 菜子が思わず言うと、
「なによぅ、電話しといて」
 と百合音の笑い声が聞こえる。
 久しぶり、と言い合い、最近の近況報告をする。懐かしさについ長話になってしまう。一段落したころ、
「で、どうしたの」
 と百合音が聞く。
 菜子は、ああ、そうだと事情を説明する。
「ニュージーランド。とてもいいところだった。行ったわ。卒業して、しばらくしてからかなぁ。マオリの文化よね」
「マオリ?」
「うん。ハカという踊りが有名」
 百合音がその国の印象を決めるのは、やはりその地の民族らしかった。菜子は、へぇと流す。もしかしたら、写真や資料といっても、民族に関するものしかなかったら困ったな、とふと心配になる。
「ああ、安心して。自然がとてもきれいなところだったから、自然の写真もいっぱいとったの」
 菜子の胸中を察してか、百合音がいたずらっぽく言った。
 写真を整理してメールで送ってくれるという。菜子は、助かる、本当にありがとう、とお礼を言って、電話を切った。

 菜子は、一週間くらいは気長に待つつもりでいた。ところが、意外にもその夜にメールは届いた。
 菜子はパソコンを持っていない。実家のパソコンのアドレスを伝えたので、母の茶子から連絡があった。
 翌日、菜子は自転車を走らせ、実家へ向かう。

toサイコ

写真を添付します。こうして改めて整理してみると、やっぱりちょっと偏ってるかも。気に入ったものがあるといいけれど。
思い返してみると、一番印象的だったのは、かの有名なトンガリロ国立公園だったかもしれない。マオリ族との関わりが深いの。スピリチュアルなところです。今のニュージーランドはマオリの血も薄れてきて、純粋なマオリの血を引く人は本当に少数らしいけれど。
現地で関わったマオリ系の人からは、当然かもしれないけれど、この日本とは違う独特の風のようなものを感じました。彼はクオーターだったけれど、四分の一でも、その強烈なアイデンティティは薄まってなかった。当の本人は、自分からにじみ出る何かに、気付いていないと思う。でも、わたしにはわかったの。
今、興味ないって思ったでしょう?
でも、ニュージーランドのいたるところに、マオリの文化が息づいているの。そのことを、少しでも心に留めておいてほしいと思って。
魂のこもった絵を描くつもりなら。

fromユリネ


 百合音らしいメールだった。
 菜子は、添付された写真を一枚一枚じっと見ていく。構図にこだわって撮ったものもあれば、ふとした拍子に偶然撮れてしまったらしいものもある。しかし、どれもこれもから百合音の感性を感じる。菜子は、誰かが撮った写真を見るのが好きだ。その人そのものが表れている気がするから。
 菜子は、そのうちの幾枚かを選び、構想を練る。
 楠木の弟が見ていた風景、感じた匂い、考えたこと、関わった人たち。それらを思い描いてみる。正確に知ることは不可能だとわかっている。それでも菜子なりに考えてみる。
 考えているとき、なぜか百合音の言葉が浮かんでくる。
 日本とは違う風。にじみ出る何か。魂。
 菜子の頭の中に入り込んで、繰り返されるその言葉たちと、向き合おう、と思う。

 決めた写真を現像してもらい、畳部屋に並べる。
 さっそく、キャンバスを用意し、下地づくりにとりかかる。

 菜子はこの絵を点描で仕上げると決めていた。色と色が混ざってしまわないように、無数のドットで色を作っていく。
 今まで一度もその方法で描いたことはないので、どうなるのか菜子自身も少し不安を感じる。それでも、この絵は、どんな技法よりも鮮やかな発色で仕上がる方法で描きたかった。

 気の遠くなるような作業だった。菜子は、時間を見つけてはキャンバスに向かった。

 慈一郎がやってきて、菜子の作業を例のごとく面白そうに見ている。
「菜子さん、作風を変えたのかね。イメージチェンジかね?」
 ふんふんとうなずいて、
「季節が変わったからかねぇ」
 とつぶやく。
「まあ、そんなところ」
 菜子は、あいまいに返事をして、筆を進める。

 季節が動くのは早い。梅雨が明けると、すぐに夏がきた。ムシムシとした暑さの日が続くけれど、菜子はできるだけエアコンを使わないようにしている。今はまだ、窓を開けて、扇風機で過ごしている。
 慈一郎には、「暑い」や「寒い」という感覚がない様子だったけれど、季節感は大事にしたいらしかった。今も、そう暑くもなさそうなのに、扇風機の風を涼しい顔をして浴びている。
――そういえばおじいさん、冬場もちっとも寒そうには見えなかったけれど、炬燵に入ってたな。
 菜子は思いがけず冬の寒さを思い出し、恋しくなった。
――一瞬でもあの冷たい風が吹けばいいのに。
 作業していると、温度のことは忘れているが、一度気づいてしまうと気になってくる。
 菜子は、手を止めて、汗をぬぐう。思ったよりも汗をかいていることに少し驚く。
「おじいさん、冷たいお茶、飲む?」
 いつものように読書を始めた慈一郎に声をかける。
「そうだなぁ。お腹が冷えるといかんから、遠慮することにしよう」
「じゃ、生温いお茶を」
「生温いとは」
 慈一郎は驚愕の表情を浮かべる。
「それも遠慮するかねぇ。それなら熱いお茶がいいねぇ」
 はいはいと言って、菜子は立ち上がる。

 二人は縁側に腰を下して、それぞれの休憩時間に入った。
 柿の木には青々とした葉が茂っている。
――若葉というよりは緑が深いから、中年くらいかな。
 菜子はぼんやりと思う。年相応の落ち着きを払って、枝がのんびりと揺れる。どこからともなく、蝉の声が聞こえる。
 ジワジワ、ジワジワ。
 菜子の冷たいお茶は、あっという間に汗をかく。慈一郎の熱いお茶からは、湯気がでない。
――夏だなぁ。

 慈一郎は涼しい顔をして、熱いお茶を飲む。そして、独り言のように、
「風鈴なんか、よさそうだなぁ」
 とつぶやいてから、庭へ消えていった。


 二週間ほどして、絵は完成した。
 国立公園の自然たち、空との境目がわからないほど水色の海、どこの国の人でもない人のシルエット。そのすべてが、細かい点で色づいている。
 菜子にとっては、納得できる一枚だった。
 慈一郎は、
「群生しているようだねぇ、色たちが」
 と評した。
「群生」
 菜子はその表現が気に入って、じっと自分の描いた絵を見つめる。
 カーテンレールにかけた風鈴が、ちりんと鳴った。慈一郎が言っていたので、菜子もなんとなく気になってしまい、つい買ってしまった。しかし、当の本人は、風鈴が登場したことに気づいているのか気づいていないのか、特に気にした様子もない。
――まぁ、いいけどね。
 菜子は、風鈴をながめる。うん、確かに少し涼しくなった気がする、とひとつうなずいた。

 翌日、さっそく額に入れた絵を持っていく。
 自転車の荷台にくくり付けたそれに、菜子はなんとなく重みを感じる。
――迷惑かもしれない。気を遣わせてしまうかも。
 考えないようにしていた不安な気持ちが湧いてくる。
――勝手な気持ちを押しつけてしまうかも。それでも、もう持ってきてしまった。描いてしまった。渡さないわけにはいかない。
――でも、居たたまれなかったら、持ち帰ろう。
 小さく付け加えた。笹山に絵を贈ったときよりも、ずっと不安な気持ちになる。
 振り切るように、自転車を勢いよくこいで、お店に向かった。

「おはようございます」
 店内に入ってすぐに、楠木が品出しをしている姿が目に入る。
「ああ、おはよう、菜子ちゃん」
 楠木は、いつものように律儀に振り返り挨拶をする。
「今日も暑いよねぇ。夕方から雨って言ってたね」と言い、背を向け作業に戻る。
 菜子も「だからこんなに湿気が多いんですね」と言いながら、従業員用のバックヤードに入る。
 菜子は、扉がきちんと閉まったのを確認してから、ごそごそと額を取り出した。
 そして、慎重に壁に掛ける。
――よし。
 業務用の連絡メモが雑然と貼り付けられている壁の一角に、その絵は、居場所を間違えてしまったようにいる。少しよそよそしい。それも時間が経ったら馴染むだろうと、菜子は自分を納得させる。
――それまで、置いておいてもらえるかが問題だけれど。

 しばらく菜子は落ち着いていつもどおりの作業をしていた。しかし、楠木がバックヤードに入っていくのがわかると、とたんに緊張してきた。
 楠木の反応がとても気にかかる。心ここにあらずの状態で、値札を打つ。
 楠木がバックヤードから出てこないので、その時間がとんでもなく長く感じた。
 菜子はついに耐えられなくなって、楠木になんとか言い訳をしようとバックヤードに向かった。
 扉をそっと開けてみて、中の様子をうかがう。
 楠木はあの絵の前に突っ立っている。扉が開いたのにはっと気づいて、振り向いた。菜子と、目が合う。
「この絵は、菜子ちゃんが?」
 明り採りにつけられたらしい縦すべり窓から光が差し込んでいて、こちらを向く楠木がちょうど影になり、正確に表情を読み取ることができない。
 菜子はなんと答えたらいいのかわからなくなってしまい、少しの間、不自然な間ができる。慌てて、
「ニュージーランドの、景色です」
とだけ答える。
「うん、すぐにわかったよ」
 そう言った楠木は、事務机の上に常備してあるティッシュボックスから一枚抜き取り、驚いたことに目元をぬぐった。
 菜子ははっとして、固まる。
 普段は、泣くとか涙とかいう言葉と全く結びつかないように見える楠木だけれど、そのとき見せたその光の粒は、菜子に衝撃を与えた。
「きれいな絵だね。あいつが、弟が見てきたもの、そのものだろうと思うよ。あいつは、ここで生きた。そりゃあもう、本当に、精一杯生きてきたんだろうなぁ」
 楠木はそう短く言葉にして、黙った。
 そして、小さな声で、
「ありがとう」
と言った。
 菜子は、思いもしなかった言葉に驚いて、言葉を失う。お礼を言われるようなことをしたという感覚ではなかった。自分の自己満足だったような気がすると、胸の内で思う。
 それでも、感謝の言葉をもらえて、そしてそれが嘘ではないと思えて、じんとする。
 ありがとうという言葉に、菜子は、返す言葉が見つからず、深くお辞儀をした。そして、店内に戻った。

 お昼頃に、笹山が出勤してきて、バックヤードに入った。すぐに出てきて、レジにいる菜子のところへやってくる。
 何でもないいつものような会話をする。笹山はおそらく絵が目に入ったはずだけれど、そして、その意味するところも察したはずだったけれど、そのことについては何も言わなかった。
 菜子には、その気遣いが有難かった。

 帰り道。夕暮れの道を自転車で走る。雨の匂いを感じて、普段より強くペダルを踏む。小さな起伏の坂道はいくつかあるけれど、一つだけつわものの坂道がある。上りきって、下り坂に差し掛かる。その一瞬、風向がふっと変わったのを感じる。反射的に目を細める。
 そのとき。
 それは突然、菜子に訪れた。急に道が拓けたような感覚があった。
 同時に、浮かんだシャボン玉が割れたように、小さな光の粒がぱっとはじける。
 その粒はきらめきながら、菜子の目の前で静かに、ゆっくりと散っていった。
 
 絵を、描く。
 たった一つの何か、たった一人の誰かのために。

 そうだ。

 わたしは、そういうふうに絵を描きたい。

 菜子に目覚めたその気持ちは、今まで輪郭すらぼやけていたことが嘘のように、鮮明だった。そして、それは菜子本人が思うよりもずっと深いところに、刻まれた。


「就職することにしたの?」
 笹山が素っ頓狂な声を上げた。
 めずらしく笹山とお昼の休憩時間がちょうど重なったので、向かい合って座る。
 菜子は「うん」とうなずいた。
 笹山には、なんとなく報告した方がいいような気がした。以前笹山と人生を語ったことがあったからというのもあったのかもしれない。
「どこに」
「まだ決めてない。これから就職活動する予定」
 笹山はふうっと息を吐いた。
「驚いた。鹿角さんは、なんか、勝手にだけど、画家っていうか、そんな大げさじゃなくても、絵を描いて生きていくって思ってたから」
 笹山はそう言って、菜子の目をじっと見る。
「なに」
 菜子は居心地が悪くなって、少し身を引く。
「逃げたの?」
「え」
「遠い道のりから。あるいは、遠すぎてつかめないこともあるかもしれない恐怖から」
 笹山の目は真っ直ぐだ。彼特有の、言いにくいことをさらっと言ってしまえるところが、菜子は嫌いではない。菜子は、慎重に言葉を選ぶ。
「そういうふうに、言う人もいるかもね。いや、大半の人がそう思うかも。わたし自身も、そう疑ったりするし。でも、誰にそう思われても何でも、もう決めちゃった。
絵を職業にするっていう感覚が、わたし、なんか、うまく言えないけど、つかめなくて。でも、生活はしていかなきゃいけないと思ったから。
絵は、自分の意志さえあれば、描けるから。時間がなくても、どこにいても」
 笹山はふぅんと言ってから、少し黙る。
 そして、
「決めたんだ」
 とつぶやいてから、菜子の顔を覗き込んだ。そして、にやりと笑った。
 菜子も、にやりと笑って返した。
 笹山はわかっていて聞いたのだろう、と察する。一般的な意見を一応は言ってみた、というような様子が見てとれた。
 この件をまだ両親にも伝えていない。慈一郎にはさりげなく言ってみた。けれど、慈一郎は熱心に読書に励んでいる最中だったので、ちらりと目を上げて、「なるほど、菜子さんが決めたなら、それは最良の道に違いないだろうね」と気のない返事をしただけだった。
――まあ、おじいさんにとっては、それくらいの問題だよね。
 それは菜子にとっては拍子抜けした瞬間で、そのときなんとなく気分が軽くなった。

「鹿角さんの絵さ」
 笹山が昼食を食べ終え、いつも休憩所で誰が見るともなくついているテレビを見つめて、再び口を開いた。
「おれ、絵とか全然詳しくないし、技術的なことはわからないけど。まあ、鹿角さんの絵も上手いかそうじゃないかっていうのは何とも言えないけど、でもさ。
あのバックヤードにあった絵は、いい絵だと思う。上手いかどうかっていうのは別にして」
 菜子は、なんと反応したらいいのかわからない。
 いちおう、ほめてくれているのかと判断して、「ありがとう」と言ってみる。
 笹山も、「あれ、これっていちおうほめてるんだよな…」と首をひねっている。
「前におれにくれた絵だって、なんていうか、おれは好きだよ。絵に気持ちを感じるっていうか、この絵は生きてるって」
 笹山はそう言って少し黙る。
「なんかいい言葉が見つからないけど」
 そう付け足した。
 菜子は、思わずじんとくる。鼻がつんとして、何も言えない。しかし、自分の絵について直接感想を言われること自体が久しぶりで、なんだか居たたまれなくもある。さりげなく話題を変える。
「笹山くんは、瓦葺き、どうなの」
「瓦ねぇ。まあ、ぼちぼちかな」
 笹山はそう言って笑った。
「最近は、面白くなってきたかな。まだまだ先は長いけどね」
「そうか」
 しばらく黙る。二人は、それぞれの、これから歩いていくであろう道について、ぼんやりと思いを馳せる。


「ほら、菜子ちゃん。お皿をだして」
 茶子が忙しそうに動き回る。
 菜子も準備を手伝い、席につく。今日は久しぶりに実家で夕食を食べることになった。
 処暑に入ると、待ちかねていたように日差しが和らいだのを感じる。不思議なくらい暦のその時期は正確で、菜子は、そのことにふと気づくたびに、静かな感動を味わう。
 冷えた素麺をつつき、食事が一段落したころ、菜子は、箸を置いた。
「ねぇ、父さん、母さん」
「なぁに」
 茶子はすでに立ち上がり、食器の片付けを始めている。
「わたし、就職することにした」
「え」
 茶子の驚いたような声が聞こえた。
 父は黙って聞いている。
「せっかく高い学費払ってもらって美大まで出してもらったのに、ごめんね」
「絵はやめるのか」
 父がぼそっと言う。
「描くのはやめないけど。でも、その道で、何者にもなれないと思う。だから、ごめんなさい」
 父は、晩酌の酒を一口飲みこみ、
「そうか。そんな大げさに言わんでも。こちらに迷惑がかからなければ良し」
 と言っただけだった。
 茶子は、お皿を洗いながら、
「就職するのなら、探さないといけないんじゃない」
 と言う。
「うん。もう少ししたら、探すつもり」
「今は見つけるの大変よぅ。まぁ、決めたなら、がんばりなさいな」
「うん」
 あっさりとした会話だった。菜子は、色々と言われるだろうと構えていただけに、気が抜けた。両親ともに何か思うところはあったのかもしれない。けれど、先行きの見えない生活を送っている娘が、堅実な道を選んだことに、少なからずほっとした気持ちもあったに違いない。

「菜子さん、菜子さん」
 声がする。
 縁側から慈一郎が飛び込んできた。
「大変なことになった」
 菜子は若干くずれたパンケーキにバターを塗っているところだった。
 いつも朝食は和食派の菜子だったけれど、今日はめずらしい。
「どうしたの、おじいさん」
 菜子はのん気にパンケーキをほおばる。
 ほどよい甘さがじわっと染みる。
――たまには甘い朝食も悪くない。
 菜子が、うんうんとうなずいていると、慈一郎が悲愴な声をあげた。
「菜子さん、食べている場合じゃぁない。大変なことになったんだよ」
 慈一郎がめずらしく動揺している様子。
 菜子も、その異様な空気を感じて、ごくりとパンケーキを飲み込む。
 そして、慈一郎に向きなおった。
「庭に柿の木があるだろう」
 ああ、と菜子は思い当たる。
 柿の木。
「あの根元の土が掘り返されてるんだよ」
 そんなに慌てるようなことかと菜子は思ったが、慈一郎にとっては大事らしかった。
 聞くと、慈一郎の奥さん、つまり「おばあさん」との思い出の品を、昔そこに埋めたそうだ。
「はぁ」
 菜子は、思わず間の抜けた返事をしてしまった。
 どうしても自分の目で安否を確かめたいという慈一郎の要望で、残暑の日差しが降り注ぐ中、菜子はスコップを持って土を掘るはめになった。
 思い出のものを木の根元に埋めるという話は聞いたことがある。けれど、ドラマでも小説でもなく、実際に実行した人を初めて見た、と文句をたれながら。
 柿の木の根元は、確かに土がこんもりと盛り上がっていて、そこだけ土の色が変わっている。掘り返された形跡には違いない。
――誰が、何のために?
 菜子と慈一郎は同じタイミングで同じことを考えていたらしい。
「わからんねぇ」
 そう言って、慈一郎が首をかしげた。
 人間の仕業だとしたら、菜子にとっては恐ろしいことだ。こんな田舎町の、こんな寂れた家に、侵入者が現れたということになる。
 すぅっと、菜子の背筋に冷たいものが走る。
 スコップが固い土にぶつかり、菜子は手を止めた。
 しばらく掘り返してみたけれど、何も出てこない。石ころひとつも。
 やはり、慈一郎の大事なものは、何者かによって持ち去られてしまったらしい。
 慈一郎が、悲しそうな目をして、ぽっかり空いたまっ暗い穴を見つめる。
 そこには確かに何かがあったような気配があった。
「ねぇ、おじいさん。何を埋めたの」
 菜子は聞いてみる。
「そうだなぁ。ばあさんが大切にしていた指輪や、時計や、髪飾りなんかだったなぁ。それともう一つ、その箱に大事なものを入れたよ」
 慈一郎は意味深につぶやく。
「他人にとって価値はないが、わたしにとっては価値があるものを」
「ふぅん」
 菜子は、なんと言ったらいいのかわからず、相づちを打った。
 慈一郎にとって価値があるもの。含みがある言い方だった。しかし、それがなんなのかを聞くには、他人のプライバシーに入り込みすぎているような気がして、ためらう。
 それにしても、指輪や時計、髪飾りなんかは、単純に考えるに高価なものには違いないだろうと菜子は推測した。
――それを狙って?でも、おじいさんがあの場所にそれらを埋めたことを知っている人なんて、どこにいるんだろう。身内以外考えられない…
 そこまで考えて、菜子ははたと思う。
――まずい。深入りしたら、やっかいなことになりそう。
 菜子はぱっと顔をあげて明るく言う。
「おじいさん、なくなってしまったものは仕方ないし、元気を出して」
「ふむ。そうだが」
 慈一郎は、柿の木を見つめて、じっと考えている。
「しかし、わたしにとっては、簡単にあきらめられない理由がある。わたしの残りの人生がかかっているんだなぁ」
――残りの人生って、おじいさんの人生はもう終わってしまったんじゃ……
 菜子は、思わず心の中でつぶやく。しかし最近、初めて会ったときよりも、慈一郎の透明度が増しているような気がしている。
――おじいさんは、今どんな状態なんだろう。本人もわかってなさそうだけれど。
 菜子の心配をよそに、慈一郎は、決心した様子を見せた。
「菜子さん、あの箱を探してくれんか」
 と、熱のこもった目で菜子に訴えかける。
「はぁ」
 菜子は、ため息をつく。
――そうなると思った。
 慈一郎の手足となって動けるのは菜子しかいない。わかっていて、断れまい。
「わかった。できることはやってみる」
 菜子は、力ない声で返事をした。

 海に落ちた針を探すようなものだ。
 実際、そこまでではないかもしれないけれど、刑事でも何でもない菜子にとっては、その例えがぴったりなくらい、難しいことのように思う。
 あれやこれやと、可能性を考えてみる。
 けれど、どの考えも何かしらの問題にひっかかって振り出しに戻ってしまう。
 慈一郎は、いつものように三十分ほどいて、あとはまかせたという視線を菜子に送り、玄関に消えていった。

 掘り返された跡は、土が湿っていて、まだ新しかった。
 事件が起きてから四十八時間以内が、解決の可能性が高いと、何かで聞いたことがある。
――早い方がいい。今日はバイトも休みだから動ける。

 しばらく時間が流れた。
 菜子は煮詰まって、柿の木のもとまで行ってみる。
 柿の木は、青い実をつけている。青い葉に覆われた青い実は、まだ夏が名残り惜しそうにしているようだった。
 これから熟れていき、紅葉していくのだろう。
 菜子は、この柿の木が好きだ。いつも何かを口ずさんでいるような、音色を感じるときがある。
「ねぇ、きっと見てたんでしょう」
 菜子は、つい柿の木に話しかける。
 柿の木は、「なんのことだか」と、不思議そうに枝をかしげたように見えた。
 菜子は、「なんてね」とつぶやく。
 気づけばもうお昼過ぎだった。

 菜子は、台所に向かい、インスタントの味噌汁にお湯を注ぐ。時間がないときは、これに限る。いかにもな味が、菜子は意外と好きだ。
『のぅ、菜子さん。何かあったんじゃろ』
 生姜だ。世話焼きの生姜は、菜子の様子を見て、何かを察したらしい。
 シンクの横に置いてある水切りカゴに、生姜はいつもいる。
「実は…」
 菜子は生姜にことのいきさつを話した。生姜の手すら借りたい思いだ。

『ふむ』
 生姜は、ひとつうなずいて、
『なるほどなるほど…』
 そうつぶやいた。そして、食品庫の戸を開けてくれ、と菜子に頼む。
 菜子が、食品庫の引戸に手を伸ばした。すると、戸の向こう側から、何かがざわざわと密集しているような気配を感じた。
 菜子が戸を開けると、さぁっとその気配は去っていった。なるほど、野菜たちが聞き耳を立てていたらしい。
『お前たち、聞こえていたじゃろ。何か心当たりのある者は?』
 生姜が呼びかける。
『そんなことをするのはあいつしかいない』
 と玉ねぎ。
『そうだわ、簡単に疑っちゃ悪いけれど、他に考えられないわ』
 大根がいつになく強い口調で言い切る。
 みんなが口ぐちに言い合って、食品庫は騒がしい。
 ざわざわ、ざわざわ。
『静かにしんかい!』
 生姜が声を張り上げる。
 少し、野菜たちのトーンが落ちた。そこを見計らって菜子は口をはさむ。
「あいつらって?」
 ぴたっと話が止んで、野菜たちが一様に目を合わせた(ような間ができた。)
 そして一斉に声を合わせる。
『ハクビシン』
 それを聞いて、生姜もうなずく。
『わしもそう思う。あいつしかいんじゃろ』
「へ?」
 菜子はすっとんきょうな声を上げた。
――ハ・ク・ビ・シ・ン?
 思ってもいなかった犯人が挙がった。
『あいつの根城(ねじろ)は知っとるわ。ハクビシンらは夜行性じゃから、昼間は巣穴にいるはずじゃ。菜子さん、急ぐんじゃ。日が暮れてしまうぞ』
「えっ」
 菜子は生姜に言われるままに着替えて、あたふたと家を飛び出した。

 菜子は自転車に乗って風を切る。
 急展開だったが、野菜たちの話にどこまで信憑性があるのかはわからなかった。
 しかし、他に手がかりがあるわけでもない。
――今は生姜を信じよう。
――でも、ハクビシンが、おじいさんの大事なものを盗むってどういうことだろう。
 ハクビシンが意志を持って、それを狙う。なんだか違う世界のことみたいだ。
 わしを連れて行けと生姜が言うので、自転車のカゴにタオルをひいて、その上に置いた。荒い運転なので、自転車が上下左右に揺れ、生姜があっちに行ったりこっちに行ったりして、ころころ転げる。
『菜子さん、安全運転で頼めんかの』
 生姜が訴えかける。
「わかってる、わかってる。でも、もう少しで着くよ」
 目指しているのは、菜子が昔からブロッコリー山と呼んでいる、隣町の山だ。言葉通り、ブロッコリーにそっくりの山で、生姜によると、その山のふもと付近にハクビシンの巣穴があるらしい。
「ねぇ。どうして満場一致でハクビシンだったの」
 菜子は引っ掛かっていたことを聞いた。
 生姜が少しの間黙る。言葉を選んでいるようだった。
『なんて言ったらいいのか、野菜たちの間では、もう昔からハクビシンは天敵なんじゃ。理由はみんな知らんのじゃろうが。
いや、理由なんかはどうでもいいんじゃろ。そもそも理由なんかあったんじゃろうか。そうやって先代から教わってきたから、そうなっとるんじゃ。もうそういう歴史なんじゃな。だから、何かあったらまずハクビシンを疑う、そうなってしまっとるんじゃ。
 人間にも似たところがあるじゃろ』
 生姜は一度言葉を切る。
『しかしな、わしはそういう野菜の世界の文化や歴史に関係なく、ハクビシンが掘り返したという確信がある』
 菜子は、生姜の次の言葉を待った。
 風をきる音が響く。
『わしは、もうあの家にいて長いから、あのばあさんとハクビシンがよく戦ってたのを知っとるんじゃ』
 生姜がぽつりと言う。
『ハクビシンはとにかく果物や野菜が好きで、よくあの庭の柿やら、ばあさんの畑やらを狙って、荒らしとった。ばあさんの畑は、動物たちからそれはそれは人気じゃった。ばあさんは作物を育てるのがうまかったんじゃな。
ばあさんは、いろいろと罠を作ってはいたんじゃが、賢いハクビシンでなかなか引っかからんかった。まぁ、度重なる攻防のうちには、何度かひっかかる時もあって、その時はばあさんに絞められたりもしとった。
それでもハクビシンは、ばあさんの畑が気に入っていたのか、こりずに何度もやってきたんじゃ。その戦いも長くて、ばあさんが亡くなるまでずっと続いとった…
あれは何だったんじゃろ。二人とも意地になってたのかもしれん』
 生姜は話しながら、ころころころころとカゴの中で転がる。
――そうか。
 菜子は思う。
――もしかしたら、おばあさんとハクビシンの間に、ライバルとしての、他人にはわからない絆のようなものがあったのかもしれない。
 納得しかけて、そんなばかな、と思いなおす。
 人間と野生の動物の間に、そんなことがあるのだろうか…
 
 ブロッコリー山は、季節が移る準備をしているようにいくつもの色に彩られていた。
『ハクビシンはいつも同じ道しか通らん。だからけもの道ができるんじゃ。そこを進めば、巣穴に着くじゃろ』
 生姜が、ここを行けと道ならぬ道を示す。 
 しなった竹や、枯れ木を除けながら、道と呼べたらまだましな道を、菜子は進んでいく。
 少しすると、それらしき場所がある。
 枝や草に覆われてはいるが、その物言わぬ草木の隙間から、獣たちがそこに生活している、その存在を感じる。
 かさっと静かな音がして、菜子はさっと視線をやる。
 野生の気配。ハクビシンが二匹、姿を現した。
 菜子とハクビシンは、じっと探るように見つめあった。間に生姜もいた。
 菜子にとって、野生の動物と対峙するのは初めての経験だった。ハクビシンは胴が長い。そのため、なんとなく間延びしているように見える。強い目をしているが、敵意は感じなかった。
 見ると、ハクビシンの足元に、泥だらけの箱がある。土にまぎれて今は見る影もないけれど、以前は美しい箱だったに違いない。千代紙のような模様がうっすら見えた。
 
 どこかで、カァーとカラスが鳴く。
 その声が張りつめた空気を緩ませた。それを機に、ハクビシンがうなるような声を出す。
 生姜が応じて、なにごとか話している。
 菜子には両者が何を話しているのか、まったく理解できなかったけれど、流れるままにまかせてみた。
 二言、三言ほどの短い会話をして、事は収拾がついたようだった。
 それは生姜の様子で、なんとなくわかった。
 ハクビシンはその箱をひきずり、うっそうとした草木の中へ消えていった。

『ほい、菜子さん。帰ろうかの』
 生姜が言うので、菜子はうなずいた。

「ねぇ、なんだったの」
 帰り道、菜子が聞いても、生姜は答えない。
 自転車のカゴに再び戻った生姜は、あいかわらずころころころころ転がっている。
 そろそろ、日暮れが近い。
「ハクビシンたち、箱を持っていっちゃった。おじいさんの大事なもの」
『そうじゃの』
「いいの?」
『さあてな。果報は寝て待て、とよく言うじゃろ』
「なに、それ」
 生姜の、『菜子さん、もっとゆっくり』という必死の声が聞こえたけれど、菜子は構わずペダルを強く踏む。夕方のしめった涼しい風がとても気持ち良かった。


 それから二日が経った。
 朝早く起きた菜子は、仕事へ行く支度をする。いつもどおり、熱いお茶を淹れようと急須にお湯を注いでいると、慈一郎がすぅっと玄関の方角から現れた。
「おはようございます、菜子さん」
「おはよう、おじいさん。朝から来るなんて、めずらしい」
 菜子はそう言いながら、慈一郎の湯のみにもお茶を淹れる。
「首尾はどうかね」
 慈一郎が訪ねる。それがずっと気になっていたらしかった。
「果報は寝て待て、らしい」
 菜子が答えると、慈一郎は不思議そうな顔をする。
「ほう」
――この意味、合っているのだろうか。
 菜子は不安になるが、まあ、いい。言ったのは生姜だ。それに、菜子にだって、どうなっているのか、よくわからないのだから。
 菜子は顔を洗い、朝食を摂り、と忙しく動き回る。
 慈一郎はそんな菜子の様子を横目に、数十分のんびりして、「では、菜子さんの言うとおり、眠って待つことにしよう」とつぶやいた。そして再び玄関の方角へ消えていった。
 菜子は洗濯物を干していたので、慈一郎が去ったのに気づかなかった。
 朝は何かと慌ただしい。菜子も、やっと支度を終え、出掛けていった。


 夕方。
 マンジュシャゲの鮮やかな朱色が、夕暮れの畑に映える。菜子はこの花を見ると、なんとも言えない気持ちになる。怖さ、寂しさ。他にも、名前のつけられないような感情におそわれる。そして、わけもなく胸騒ぎがする。
 それは、マンジュシャゲが持つイメージからかもしれない。
 自転車のペダルを踏む足に力をこめ、心持ちスピードを上げて、走り抜ける。

 菜子が帰宅してしばらくすると、慈一郎が再びやってきた。
 簡単に支度した夕食を食べながら、菜子はふとマンジュシャゲの話をしてみる。
「ほう、あの花が苦手かね」
 慈一郎がお茶を飲むと、しわだらけののどぼとけが大げさにゴクリと動く。
「マンジュシャゲは、彼岸の時期に咲くからなぁ。説はいろいろあるが、なんとなく彼の世を思わせて縁起が悪いとされている。実際、毒も持っているが。菜子さんも、きっとご両親からそう教わったんじゃないかね。
 しかしねぇ、わたしは彼の世の人だが、まぁ今のところは半端な位置だがね。此の世にいる菜子さんともこうして話している。彼の世か此の世かと言われたら、わたしもマンジュシャゲのようなものじゃないかね。そう思ってみたら、あの花もそう怖くはないだろう」
 菜子は、うーん、と考える。なんだかよくわからない理屈だけれど、そう言われるとそんな気がしてくる。
「あの花には、悪い意味とは全く逆の、天上の花という意味もあるからなぁ。それに」
 慈一郎は言葉を一度切って、面白そうに目を細める。
「あの形、ユニークだと思わんかね」
――確かに。
 菜子はマンジュシャゲを思い浮かべる。確かに、宇宙の惑星がはぜたような……

「いろんな角度から見るということは大事だなぁ、何事も。最初の印象にとらわれてばかりいると、ろくなことがない。わかってはいても、人間は簡単には変われないがねぇ。そのせいで、いく度後悔しただろうなぁ」
 慈一郎は誰に言うともなく、つぶやいた。

 そんな話をして、お茶を飲んでいるときだった。
 縁側から何やら物音がした。
 菜子は不審に思って、音がした方へ向かう。慈一郎も何か予感がしたのか、すぅっとついてきた。
 縁側の網戸越しに庭を見る。
 すると、暗がりの柿の木付近に、動く影がある。
 三つ……
 菜子はすぐにあのハクビシンだとわかった。両側におそらく菜子が会ったハクビシン、真ん中に、左右から支えられながらも存在感のある、大きいハクビシン。
 親子の関係だろうか。大きいハクビシンは、苦しそうな息をしている。
 支えられていないと力尽きそうなほど、生命が心もとない。
 もう長くないのかもしれない。
 菜子は、柿の木の根元に、あの慈一郎の箱が置いてあるのに気づいた。
――返しにきてくれたのか。
 親だと思われる大きいハクビシンが、支えの手を断った様子で、両脇のハクビシンはすっと少し離れる。
 そして、大きいハクビシンは、意外にもしっかりとした一歩を踏みしめ、進み出る。
 空気が心持ち緊張した。
 部屋の明かりがぼんやりとあたって、大きいハクビシンの前足に何かが巻きついているのが見える。
――刺繍糸? いや、模様がある。花のモチーフ? リリアンで編んだものみたい。
――でも、なぜ?
 菜子は不思議に思う。
 ハクビシンの目はどうも菜子を見ていない。隣に立つ、見えないはずの慈一郎を見ているようだった。
 菜子は思わず慈一郎に視線をやる。
「そうか、そうか。申し訳ないことをしたなぁ」
 慈一郎は何やら悟ったらしかった。瞳が涙で光っている。
――えぇ?
 菜子には何が起きているのか、さっぱりわからない。
 慈一郎の言葉が聞こえたのか、聞こえていないのか、大きいハクビシンは「いいえ、いいんです」というように、首をゆっくりと振った。そして、背を向ける。両脇のハクビシンたちもそれに続くように踵を返し、大きなハクビシンを再び支えた。
 ハクビシンたちは暗がりの中の、さらに暗い方へと姿を消していった。

 あとには、状況がよく飲み込めない菜子と、感情の波の中にいる慈一郎が残された。
 帰ってきた慈一郎の探し物が、暗がりにぼんやりと浮かび上がる。
 二人は、しばらくその場にとどまった。それぞれの思いの中で。
 菜子にとっては、考える時間が必要だったし、慈一郎にとっては、思いに浸る時間が必要だった。

 柿の木の葉が一枚、ふっと枝から離れる。かさっとかすかな音を立てて、地面に舞い降りた。
 その音が響くほどの、静けさだった。

「ばあさんは、変わった人でなぁ」
 慈一郎が静寂をやぶって、口を開いた。
「すべてのものに愛というものを注いでるような人で、それはもう人間だけではなく、植物、動物にもそうだった。報われる、報われないは、もう関係なかったんだなぁ。
畑のものを食い荒らす動物たちのことも、愛していたんだなぁ。当時、わたしはあきれ返っていたがね。
ばあさんは、動物たちが畑を狙ったり、道路で車にひかれたりするのは、住むところがなくなって山から下りてくるようになったからだ、それは人間のせいだと言っていた。
山で暮らす動物にとって本当に食糧がなくなる冬場なんかは、もう盗ってくださいとばかりに、庭先に野菜をごろごろ置いたりしてなぁ」
 慈一郎は、当時を思い出したのか、面白そうに、しゃしゃと笑った。
「しかしねぇ、動物とのやりとりは楽しかったらしくて、真剣に罠を張ったりしていたなぁ。変わったばあさんだよ。
あのハクビシンも、ばあさんが好きだったんだろう。ばあさんが亡くなって、もうしばらく経つが…わたしはまさかそうとは知らず、ばあさんのことを報せなかったからなぁ。
 何かのうわさで知ったのかもしれん。悪いことをしたなぁ」
 慈一郎は、ぽつりとつぶやいた。
 聞くと、あのハクビシンの足に巻きついていたものは、おばあさんが自身で作ったお気に入りの腕輪だったらしい。
「ほとんど毎日のようにつけていたなぁ。ばあさんにとって、そりゃあ思い出深いものだったろう」
 と、慈一郎が懐かしそうに言うのを、菜子はじっと静かに聞いている。
――ハクビシンは、あの箱から、腕輪を取り出したのか。そうか、おばあさんとの思い出の何かを、形見を、探していたんだ……
 
「しかし、動物までも、その死を悼んでくれる。そんな人間は、どこを探してもいないかもしれんなぁ。こんなに有難いことはないかもしれん」
 慈一郎は、遠いところを見ている。
――そう、本当にそうだ。
 菜子は思う。野生の動物と人間が心を通わせる。不思議なことだけれど、なんて素敵なことなんだろう。

「ねぇ、おじいさん。あのハクビシン、もう長くないのかもしれないね」
「そうだなぁ」
 菜子も、慈一郎も、ハクビシンの心情を思った。
 動物に感情があるのか、という疑問は、頭の隅に置いておくことにして。
 この家には不思議なことが起こる。
 おばあさんとハクビシンの話も、菜子は信じたい。

「のう、菜子さん。今日はもう遅い。あの箱を開けるのは、後日にしようかね。無事に戻ってきたから、いつ開けたとしても変わらんだろう」
 慈一郎が言うので、菜子はわかったと応じる。
「菜子さんにお礼を言わねば」
「わたしは、ほとんど何もしてない」
「ほう。では誰が」
 誰、と言われると困る。菜子は少し迷って答える。
「……生姜?」
「ほう」
 慈一郎は、意外な答えに目をまるくした。
 そうかね、とうなずく。
「では、生姜さんに感謝しなければ」
 慈一郎はそう言い終わらないうちに、縁側の網戸をすぅっとすり抜けて、去っていった。
 菜子も、明日は早朝から仕事だったことを思い出し、風呂へ向かおうとした。
――あれ。
 ふと、気づく。夜風が湿度を含んでいる。明日は雨になるかもしれない。
 菜子は、柿の木の根元に置かれたままの箱が心配になり、家の中に運ぶ。土をはらって、湿らせたタオルで丁寧に拭いた。そのあと、乾拭きする。
「ほら、きれいになった」
 菜子は独り言を言って、その美しい金粉がまぶされた模様を見つめる。
――中が気になるけれど、これはおじいさんが開けなきゃ。
 菜子は好奇心を抑えて、箱をそっと縁側に置いた。


 それから何日かが過ぎた。
 菜子の学生時代の友人が、講師をしているワークショップがある。それを手伝わないかと、しばらく前から誘われていた。月に二回ほど、講師の補助のようなことをしてほしいという。
 菜子は、誰かに教えられるような技術や能力がまだ自分にはないと思っているし、何よりそのようなことが向いているとは思えない。新しい生活が落ち着くまでと返事を先延ばしにしていた。
 その気持ちは今でも変わってはいない。しかし、最近は、その気持ちとは別の種類の、やってみたいという前向きな思いが出てきていた。これは、菜子にとって、菜子自身もはっきりとは気づいていない変化だった。
 ワークショップを手伝わせてもらう次第になり、その打ち合わせや準備、作品制作、そして仕事をこなして、日々が駆けるように過ぎていった。
 気づけば、近所の田圃の稲が収穫時期を迎える頃になった。小金色の稲穂、濃い黄緑色の茎が、心地よい風に吹かれて、輪唱をしているように波打つ。
 もうあと一週間もすれば、季節が大きく変わるだろう。
 
 菜子はしばらく姿を見せない慈一郎が気になっていた。
 いつものペースだと三日に一度はこの家を訪れていたのに。
 菜子は縁側に置きっぱなしになっているあの箱を見るたびに、不安な気持ちになる。
――おじいさん、見るたびになんだか透明に近づいていた。もしかして、あのときがもう最後だったのだろうか……
 
『菜子さん、最近忙しそうですね』
 シンクのそばにいた蓮根が話しかけてくる。
 菜子は、あっと思い出す。
――そうだ、蓮根を煮物に使おうと思って、出しっぱなしにしていた。
「うーん、そうだねぇ。今は落ち着いてきたところ」
 菜子はいつもどおり答えたはずだった。しかし蓮根は、何か心配事でも、と聞いてくる。
 以前から思ってはいたけれど、野菜たちは菜子の様子に敏感だ。
「おじいさんが」
 菜子は、つい慈一郎のことをもらす。
『慈一郎さんのことですね』
 蓮根がうんうんとうなずいた、ようだった。
『わたしは、見えるんです。たぶん、他の誰や何よりも、よく見ることができる。みんなには慈一郎さんは見えていない。でも、わたしはよく見えてしまうから、見えます。
 慈一郎さんは、まだ大丈夫。心配ない。薄くなってはきているけれど、まだ彼には思い残したことがあるはずだから。このまま召されてしまうことはない』
 蓮根が言い切る。
――召されるって。
 菜子はその言葉に衝撃を受ける。
――でも、そうだ。おじいさんは、思いが残って、ここに留まっているのだから。
 菜子は、慈一郎に、直接そのことを聞いたことはないけれど、そういうものなのだろう。
 それにしても、蓮根は、占い師のようなことを言う。
『ところで、菜子さん。まさかわたしのこの穴に何かを詰める気じゃないですよね? この穴は気管だから、詰められると苦しいんです。詰めないで。絶対に詰めないでくださいね』
 蓮根が訴えかける。蓮根の穴が気管だなんて話は聞いたことがない。けれど、本人が言うのだから、そうなのかもしれない。
――蓮根の肉詰めも魅力的。
 菜子は思うが、予定は煮物だったので、
「詰めないよ。切って煮るだけ」
 と伝えた。
 蓮根は明らかにほっとした様子だった。

 
「蓮根の煮物かね。渋いねぇ、菜子さん」
 菜子がお皿を洗っていると、慈一郎の声がした。
 菜子ははっとして、手を止め振り返る。
 慈一郎が煮た蓮根をつまんでいるところだった。透けた蓮根が、透けた慈一郎の口に運ばれる。
「ほう。なかなか味がある」
 慈一郎がつぶやく。
――味がある味って。微妙な評価だ。
 菜子は思うが、それよりも、慈一郎が久しぶりに現れたことに、いくらかほっとした。
 慈一郎の容貌は、以前と変わった様子はない。菜子は安心するけれど、考えてみれば、この世の人ではないのだから、それは当然かもしれなかった。心配していた透明度にも、変化はない気がする。
「蓮根を食べると、なんだか物事がよく見えるようになる気がするなぁ」
 慈一郎はそう言いながら、縁側に向かう。いつもどおり、そこで本を読みふけるつもりらしい。
 しかし、慈一郎はすぐに台所へ戻ってくる。
「菜子さん、菜子さん」
「なぁに。おじいさん」
「縁側に置いてあるあの箱をあけようじゃないかね」
 菜子はすぐにうなずく。
 菜子だって、それを待っていたのだ。
 
 昼間でも、陽が当たっていない場所は、もうだいぶ涼しい。
 過ごしやすい縁側で、慈一郎の思い出の品々を眺める。
 慈一郎は、「ほう、これは」、「ああ、あのときの」などとつぶやきながら、一つ一つを、まぶしそうに見つめている。
 菜子は、土の中に埋まっていたのが嘘のような、保存状態の良いアクセサリーや置き物を取り出していく。
 ふと、菜子の手が止まる。箱の一番奥に、十センチ四方の容器がある。
 手に持つと、ずっしりと重い。
――なんだろう?
 菜子が疑問に思っていると、
「菜子さん、菜子さん。それをこっちに」
 と、慈一郎が声を上げた。
 菜子はその心持ち大きな声に少し驚く。慈一郎のすぐ手前に、その容器をとんと置いた。
 慈一郎はそれをじっと見つめている。
 そして、ゆっくりと目を閉じた。
 慈一郎の胸に、様々な思いが去来しているであろうことが、菜子にも伝わってきた。
 それくらい感情を揺さぶる何かであるこの容器。
 中身がとても気になる。
 おそらくこのシンプルな容器が、慈一郎が言っていた、「価値のある大事なもの」に違いなかった。
 しばらく瞑想のような姿勢だった慈一郎が、ゆっくり顔を上げる。
 それを見計らって、菜子は聞いてみる。
「ねぇ、おじいさん。これ、何が入っているの」
「ああ、これはなぁ」
 慈一郎は一度言葉を切る。少し間があって、
「味噌だよ」
「え」 
 菜子は絶句する。
――味噌?
 どのくらいの期間か正確にはわからないけれど、少なくとも一年以上は土の中で眠っていた味噌。中身はいったいどんな状態に。
 菜子は戦慄した。
 その様子を見て、慈一郎がしゃしゃと笑う。
「菜子さん、心配することはない。味噌は元来発酵しているからなぁ。密閉されている容器に入れて、ちゃんと保存しておけば、ひどい目にはあわんさ」
――ちゃんと保存って。土の中はちゃんとしている状態に入るのだろうか。
 ますます怯える菜子だったけれど、とにかく開けてみることにした。
 覚悟して、勢いよく蓋をとる。
 菜子は、あれ、と思う。
――意外と普通の状態だ。
「のう、心配いらないだろう」
 慈一郎は、うんうんとうなずいた。

「この味噌は、ばあさんが作ったものでねぇ。ばあさんは、大抵の料理が苦手だった。でも、ばあさんの作った味噌汁だけは本当においしかったなぁ」
 慈一郎は、とつとつと話す。
「もう一度、あの味噌汁が飲みたくてねぇ」
 慈一郎は、味噌について多くは語らなかった。けれど、昔を懐かしむように目を細める慈一郎からは、その言葉以上の思いが、いくつもいくつもあるのが伺えた。
 菜子には、その全ての思いをはかり知ることはできない。
 それでも、想像することはできる。病めるとき、健やかなとき、苦しいとき、仕合わせなとき。いつの日も二人は、その味噌汁を飲んだのだろう。


「味噌汁を作ればいいんだね」
 菜子は、慈一郎が言い出す前に口にした。
 慈一郎はまさにそれを言おうとしていたというように、目を輝かせる。
「頼めるかね」
「うん」
 菜子は返事をした後に、ふとあることを思った。
 それは、ずっとあいまいにしていたことだった。しかしこのとき、確かなことだと、はっきりと感じた。

――おじいさんとの別れが、近いかもしれない。
 
 
 味噌汁は、豆腐を具にして、葉ネギを散らせただけの質素なものになった。
 慈一郎は、味噌汁の入ったお椀を感慨深そうに見つめる。しばらくそうしてから、大切なものを扱うように手に包み、一口すする。
 その様子を静かに見守っていた菜子も、一緒にいただいた。
――おいしい。
 この味噌は、菜子の舌に慣れている味とは何かが違う。それは、おばあさんの、いやもしかしたらもっと昔からの、何世代にも渡って受け継がれてきた味なのかもしれなかった。
 目を閉じると、今は亡きおばあさんを取り巻く、粛々とした暮らしの営みが浮かんでくる。いくつもの場面が駆け抜けては、塀の向こう側へ消えていく。
 未だ会ったことはない、そしてこれからも会うことはないおばあさんに、それくらい近づいたような、そんな味がした。
 この味噌汁は、料理のいろはもよく知らない菜子が作ったもので、おばあさんが作ったその味とは、おそらく離れているに違いない。同じものと言ったら、味噌だけだ。
 けれど、慈一郎は、満足そうだった。

「さて、この時期は日暮れが急に早くなるからなぁ。そろそろ行くとするかね」
 慈一郎がすぅっと立ちあがる。
「ごちそうさま、菜子さん」
――いつもは日が暮れたっているのに。
 菜子はそう思いながら、慈一郎を見やる。見てから、ぎよっとする。もうほとんど慈一郎の姿をかたどった輪郭しか見えなくなっている。目的が達せられたからなのか。
――おじいさん、消えそうだ…
 もう慈一郎はこちら側にほとんどいないのかもしれない。
 慈一郎が行ってしまう。
 今日が最後ではないかもしれない。けれど、時間がないのは確かだ。
「おじいさん」
 菜子は呼び止める。
「何かね」
「わたし、おじいさんの絵を描きたい」
「ほう。なぜ」
 慈一郎は菜子の申し出に不思議そうな顔をした。
 菜子はそれには答えず、ちょっと待っててと言って、キャンバスと木炭を持ってくる。
 慈一郎は菜子に言われるがままに、すとんと椅子に腰掛ける。
「おじいさん、いつもどおり本を読んでてくれていいよ」
「ほう」
 慈一郎は少し迷った様子だったけれど、
「それではおかまいなく」
 と言い、菜子の言葉に素直に従う。いつも持参している本をズボンのどこかからすぅっと取り出し、ページをめくり始める。

 人物画を描くのはどれくらいぶりだろうか。
 菜子は、木炭で大まかなデッサンをし、下書きを済ませる。そして、すぐに色づけに取りかかる。
――今のおじいさんを知っているのは、この世でわたししかいない。わたしにしか見えないのだから。
 おじいさんがここにいる、ここにいたということを誰かに残そう。おじいさんのために。
 菜子は、ひたすら慈一郎とキャンバスに向き合う。
 菜子が気づかないうちに、時間が淡々と流れていく。

 一段落して、ふと視線をやると、慈一郎はまだ同じ姿勢で読書をしている。
「おじいさん」
 菜子は声をかける。
「ほう、終わったのかね」
「まだだよ。でも落ち着いたからもう大丈夫」
「そうかね」
 慈一郎はうなずく。開いたページに古びたしおりを挟んでから、ぱたとたたむ。そして、そろっと立ちあがった。
「さて、行くとするかねぇ。それではまた、菜子さん」
「うん、またね。おじいさん」

 消えていく慈一郎を見送る。
 そこには、慈一郎が通ったあとの床の木目だけが、もの寂しげに残った。


 それから一週間ほどして、庭の柿の実が食べごろを迎えた。それに気づいたのは、ちょうど正午の鐘が鳴ったときだった。菜子が何気なく縁側を通った拍子に、庭の方から「こっち、こっち」と呼ばれたような気がして、振り返る。
 色に深みがでた柿の実が目に入った。
――あ、そろそろかも。
 菜子は、はたと慈一郎が言っていたことを思い出す。
 いい色になったと思っても、焦ってはいかん。その翌日が一番おいしいからねぇ。
――どうだか。
 菜子は首をかしげる。
 そのとき、ちょうど慈一郎がゆらりと現れた。現れたといっても、目を凝らしてやっと見えるという状態ではあった。
「ほう」
 慈一郎は柿の木を見て、そう言ったきり、しばらく動かない。そして、思い立ったように、
「今日は柿を食べようかね、菜子さん」
 と言った。

 菜子は柿の収穫にとりかかる。大抵の柿は、同じ木についた実でも、熟れ方がまちまちだけれど、不思議なことにこの木にはほとんどムラがない。
 おいしいときに獲るのが一番、と慈一郎が言うので、ひとつひとつ丁寧にとっていく。その様子を、縁側に腰をかけて見ていた慈一郎が、「ああ」と声をあげる。
「二、三個、残しておくのがいいねぇ」
「え」
 全部とってしまうつもりでいた菜子は、すぐに手を止める。
「木守柿だなぁ」
「こもりがき?」
「木を守る柿のことだねぇ。来年の実りを祈る意味があるらしいがね。厳しい冬を越す鳥やら動物やらのエサのためという説もあるようだが。ばあさんが毎年やっていたから、自分もやるようになってなぁ」
――木守柿。
 菜子は繰り返してみる。初めて聞いた言葉だったけれど、この柿の木に似合った言葉な気がする。
――この柿の木は、この家のシンボルツリーで、家守る木だってずっと思ってた。その木を守っているということは、この柿の実って、すごい器ってことかもしれない。
 菜子は、なんだか急にこの実が気高いものに思えてきて、手で包み込むように一層大切に扱う。菜子が真剣そのものだったせいか、その様子が大げさで、コントのようだったので、見ていた慈一郎は、面白そうにしゃしゃと笑う。
「あんた、本当にユニークだね、菜子さん」

 なるほど、よく熟れた柿は、絶妙な甘さで、のびのびとしたこの土地の味がした。
 数個を残して枝ばかりになってしまった柿の木は、さして寂しくもなさそうに、そこに立っている。また来年、再来年。そうして続いていくのを知っているかのように。
 菜子は立ち上がり、布をかけたキャンバスを持ってくる。
「ほう、できたのかね」
 慈一郎は気づいて顔を上げる。
「うん。おじいさんにあげる」
 慈一郎の肖像画が顔を出す。中央に慈一郎、周りには額縁のように、マンジュシャゲをそえた。はっと目をひく朱色が鮮烈な印象だった。
「ほう、いい顔だなぁ。ふむ、いい目をしている」
 慈一郎はにっこり笑って、うなずいた。
「マンジュシャゲは、わたしも、ばあさんも好きな花だからねぇ。これはあちらに持っていって、ばあさんに見せてやることにするかね」
「うん」
「ありがたいねぇ」
 慈一郎は心から嬉しそうに、礼を言う。

「さて、そろそろ行くかねぇ」
 少しのんびりとお茶を飲んでから、慈一郎がぽつりとつぶやくように言った。肖像画は、菜子が風呂敷のような布にきれいに包んだ。
 慈一郎はそれを大切そうに抱えて、立ち上がる。
「菜子さん、これから長い道のりだからねぇ。体を大事になぁ」
「うん。おじいさんも気をつけて」
 いつも縁側の方角か、玄関の方角に向かって姿を消していく慈一郎だったけれど、この日は、高い天へ向かって、すぅっと浮き上がった。
「礼を言うよ、菜子さん。ありがとう。それでは」
 菜子が、「あ」と思っている間に、ふっと消える。一瞬の光が起きて、はじけ飛んだように粒子になる。それはきらきらと弧を描きながら地面に舞い降りた。
 そして、大地に吸い込まれるように静かに、跡形もなく消えていった。

 久しぶりに実家へ顔を出すと、母の茶子が「ちょうどいいところにきた」と言う。この言葉があるときは大抵やっかいなことになるので、菜子は残念な気持ちになる。
「あのねぇ、今から畑に行って収穫したいのよ。ちょっとこのカゴ持ってちょうだい」
 菜子は笊のようなカゴを渡される。
「ああ、あと軍手もね」
 茶子はぱたぱたと廊下を走り回る。菜子はその様子を見て、ふうと息をつく。
――時間、かかりそう。
 濡れ縁に腰かけて待つことにした。
 よく晴れていて、いかにも秋らしい、高い空だった。菜子は目を閉じて、少しのあいだ季節を感じることにする。

 しばらくして茶子が日除けに身を包んで出てきたので、連れだって歩き始める。
「涼しくなったっていってもねぇ、紫外線って本当すごいんだから」
 言いながら、茶子はいそいそと歩く。菜子は母の歩く速さなど気にせず、マイペースだ。自然と距離があく。他人だったらこの距離に気を遣ってしまうけれど、母娘なので気にならない。
 畑に向かう道すがら、ころんと転がるどんぐりや、椎の実を見つける。幼い頃のたわいもない出来事の場面が浮かんできて、思いがけず、懐かしさに心を打たれる。
「ちょっと、菜子ちゃん。早くしなさいよぅ」
 そんな菜子の気も知らず、茶子の声が遠くから聞こえた。畑に着いたようだ。
「はぁい」
 菜子は返事をして、足早に母のいる畑へ向かった。

「今年のトマトもこれでおしまいね。季節が過ぎるって本当に早いわ」
 茶子がしみじみと言う。
「このトマトは強いのよぅ。甘くておいしいし。こんな季節まで、実がなる。すごいことだわ」
 リズムに乗るように、器用に摘み、カゴに入れていく。細長いウリのような形のミニトマト。房のように実が連なっている。果実のようで、かわいらしい。
 菜子も真似て、トマトをつまむ。反射する光が眩しい。つやつやと輝くそのトマトは、今年最後の生命を出し切ろうとしているように見える。
 二人は、もくもくと作業をする。

「わたしねぇ」
 茶子がぽつりと言う。
 ビニールシートのこすれる音や、雑草や作物がさざめく音しか聞こえない静かな空間に、母の声がこだまのように響いた。
「『どうしてこんなに晴れているのに、雨が降るってわかるんですか』って聞いたの」
「え」
 あまりに唐突だったので、菜子は一瞬手を止める。
「ああ、ごめんごめん。あなたのお父さんのおばあさん。つまりあなたのひいおばあさんにね。わたし、聞いたの」
 菜子は、曾祖母の顔を浮かべる。しかし、浮かんでこない。
「ひいおばあさんはね、あなたが生まれる前に亡くなったから、あなたはきっと知らないわね」
 茶子は菜子の心を読んだように、補足する。
「どうしたの、突然」
 菜子は、母が何を言い出すのか、わけもなく不安になる。
「そうねぇ、そのときもちょうど雨の気配がないこんな空だったから」
 茶子は空を見上げる。
 菜子もつられて、空を見る。どこまでも青いように見える空に、そこだけ染みができたようにぽつんと一つ雲が浮かんでいる。
「そうしたらねぇ、ひいおばあさんが言ったの」
 茶子が言葉をつなげる。

 どうしてわかるかだって?そうかそうか。茶子さんみたいに若くちゃ、まだわからないかもねぇ。ああ、そういう卑屈な意味じゃないよ。
 なんて言ったらいいのかねぇ。とにかくわたしくらい年をくうとわかるもんさ。
 え? どんなことでも?
 そうだねぇ。どんなことでもか。人間が一生を生きていたって、わかることは本当にわずかだね。みんな自分の育った環境、その価値観しか知らずに生きていくからねぇ。
 この世にね、生きているのは人間だけじゃない。この空も、雲も、大地も、木も、草も、花も。あの猫だって、みんなこの世界の一部さ。ふふ、そんなことは知ってると思うだろう。でもねぇ、『知っている』と、『感じる』というのは違うんだよ。
 この世ではねぇ、人間だけが唯一、理屈を考えられる。明日があるっていうのがわかる。ほかの生き物は、自分では知らず今日、このときを、生きるか死ぬか、せいいっぱい生きてる。そういう自然たちは、自然に生きてる。
 必要だから行動する。意味のないことはしない。ひとつひとつの行動が、生きるためにしていることなんだよ。
 そう考えるとすごいことだろう?
 人間だけだねぇ。何かを勘違いして、自分たちが地球で一番エライと思っているのは。
 人間はねぇ、この自然に生かされているんだよ。この大きな大きな、とてつもない自然たちにね。
 台風や地震や、そういうことが起きたら、ひとたまりもない。大ごとだよね。でもそれは人間にだけのことであって、自然にとっては何でもないことなんだよ。あくびをする、涙を流す。そんな当たり前のようなことなんだよ。
 そういうふうに考えるようになるのは、茶子さんがもっともっと長くこの世に留まって、いろいろなものが見えてきてからだろうねぇ。生きていたら、そう感じる瞬間にいつかきっと出会うだろう……
 もし、そういうときがきたら。そうだねぇ。わたしには何も言えないけれど、わたしはこう生きるしかできなかった。昔も今もね。
 わかっていても、そのまま流れにのって生きること。
 人間は選択できる。けどねぇ、人とちがう選択をするって、すごくすごく労力がいる。大変な犠牲をともなうときがある。
 茶子さんにはそんな人生、歩んでほしくないからねぇ……
 
「だいたいこんな感じだったわ」
 トマトの収穫も終わり、父のお手製らしい、不格好な木の椅子に腰をかける。
 菜子は言葉を挟まず、響いてくる声をぼうっと聞いていた。母の言葉、いや、曾祖母の言葉を。
「わたしね、最初に聞いたときは、ひいおばあさんが何を言っているのかわからなかった。なんだか支離滅裂な気がしたし。実際、少し痴呆もあったの。
でもね、何度か自分の中で繰り返すうちに、なんとなくその話が入ってくるようになって。全部に納得はできなかったけれど、でも、意味がわかるようなところもある気がして。もちろん、偏った考え方だなっていうのは、思ったの。でも……
わたしねぇ、この年になって、と言ってもまだひいおばあさんが生きていた時間とは比べものにならないくらい少ない時間だけれど。この時のひいおばあさんの話をふと思い出してねぇ、ああ、こういうことなのかなって。当時よりも、なんていうか、もっと身にしみて、それこそ、そう感じるようになったのよねぇ。
きっとひいおばあさんが若かった頃は、今と時代も違っただろうし、今とは違う苦労がたくさんあったんだろうと思うわ。長い人生の中で、いろいろなことを数えきれないくらい考えて、考えて、生きてきたのよね。
それでひいおばあさんなりに出した、しまっておきたい大切な大切な結論を、まだ若かったわたしに教えてくれたのよねぇ」
 そう話す母の瞳は、強い光を放っているように見えた。
「だからね、菜子ちゃん。あなたこの間、言ったでしょう。何者にもなれないかもしれないって。ごめんなさいって。
 別に誰もあなたに期待なんかしてないわよ。この広い大地の中で、誰もあなたのことなんか見てないし。
 だからね、好きにしたらいいの。わたしやお父さんの生活の負担にならなければね。
 そこは大事よぅ」
 冗談めかして笑う。
「それを言いたかったのよ」
 茶子は、ふぅとひとつ息をついた。

 わかっていても流れにのって生きる。この時代の、この生活の、この果てしない流れ。
 菜子は、目を閉じる。
 自分が向かおうとしているところは間違っているかもしれない。もう決めたつもりでいたけれど、どこかでずっと自信がなかった。けれど、そんなことはどうでもいいことのような気がした。
――自分で納得したんだから、どう思われても、いい。
 次に目を開けたときには、きっと世界の色は変わっている。濁りがない、そのままの、鮮やかさに。
「ねぇ、菜子ちゃん」
 茶子が思い出したように、菜子の名前を呼ぶ。
「『もしいつか、あなたが流れに逆らうと決めるような日が来たとしても、反対はしない。あなたが、その覚悟をしたなら』」
 茶子はそう言って、ふふと笑った。
「そうね、そう言ってたわ、ひいおばあさん」
 
 自転車のカゴにあふれる野菜を連れて、菜子は家路につく。
 坂道に差し掛かり、自転車を降りて、ひいていく。
 少し前から、母がどことなく変わったと思ったのはそのためだったのか。ふと菜子は思った。
 自然の流れるままに、大地を踏みしめて歩いていくということを悟った、その強さだったのか。
 茶子の話で少しひっかかったところがあった。その時はなんとなく流してしまって、気にとめなかった。それがふと浮かんでくる。
『この世ではねぇ、人間だけが唯一、理屈を考えられる。明日があるっていうのがわかる』
 
――では、あの食品庫の野菜たちは?
――もし、曾祖母の話をそのまま信じるとしたら。あの野菜たちは、誰かの言葉を借りて話しているのだろうか。
 菜子は思わず立ち止まる。
――そうだとしたら。それは、誰の言葉だろう。
 ざわっとした感触の風が吹いて、落ち葉が舞う。
 もう冬に向かう、晩秋独特の切なさを含む空気だった。


『そろそろかのう』
 生姜がぽつりとつぶやいた。
「なにが」
 菜子は、卵をフライパンに割りいれる。じゅっといい音がして、卵がふわりふわりと波打つ。
 今日の朝食はシンプルに目玉焼きにするつもりだ。
『わしの命じゃ』
「え」
 菜子は予期せず唐突に「命」という重い言葉が聞こえて、思わず息を呑んだ。
『長すぎるくらい生きたからのう。生姜という野菜にしては』
 生姜はしみじみと思いを馳せているようだった。
『じいさんも去った。わしもそのときじゃ』
 菜子は、生姜を改めてまじまじと見つめる。若かった頃の面影はほとんどないけれど、そのしわの分だけの出来事を数えきれないくらい見聞きしてきたのだろう。菜子はとたんに切ない気持ちにおそわれた。
 実は、ここしばらくの間、菜子は食品庫に野菜を入れないようにしていた。もう既に食品庫に入っていた野菜たちは、意識して早めに使うようにした。 そのため、いま食品庫は、何も入っていない、がらんどうの状態だった。
 菜子は今後も、野菜を食品庫に入れるつもりはなかった。そうすると、今ここにこうして話している生姜が、最後の、話せる野菜だった。
『菜子さん、あの食品庫に野菜を入れるのをやめたのう。なぜじゃね』
 生姜が聞く。責めるような口調ではなかった。
 なぜか。
 そのことは菜子自身にも、うまく説明ができない。
「なんだかその方がいいような気がして」
 菜子は言葉を探してみたけれど、しっくりとくるものが見つからず、それだけ答えた。
 生姜は、『そうかね』とうなずいた。安心しているようにも見えた。菜子は生姜の意外な反応に「あれ」と思う。
『じいさんも、あの食品庫に野菜を入れなかったのう』
「え」
――おじいさんが。
 菜子は慈一郎との会話を思い返す。
――そういえばおじいさん、食品庫の話題が出るときは、いつもにやっと笑って流してた。
『何が正しいか。そこはいつも、どんなときも難しいところじゃが、わしは菜子さんのその判断は、うむ、やはり、正しいと思うんじゃ。本来、野菜は人間と対話できるものじゃないからのう。あの食品庫は、わしにも詳しいことはわからないが、何か、不思議な力が宿っとる。何の力か……誰かか、何かの意思か。はたまた業のようなものだったか』
 生姜は考える様子を見せ、そして、
『わしにはわからん』
 と潔くあきらめた。
「もしかしたら、おばあさんかもしれないね」
 菜子は胸の内に秘めていたことを、おそるおそる口にした。
『ばあさんの意思か。ふむ、そうかもしれんのう』
 確かなことは何もわからない。これから先も、わかることはないだろう。
 慈一郎は、何を思って食品庫を使わなかったのか。今となってはもう知ることはできないけれど、もしかしたら菜子が感じたようなことを、慈一郎も感じたのかもしれなかった。
――おじいさんのことだから、なんとも言えないけど。
 菜子は思い直す。
――気まぐれだし。

『ところで、わしはもう食べごろを大分過ぎてしまってるからのう。筋も多い。擦って風味づけにするか、薄く切って煮込むかじゃな』
 菜子はもう決めていた。
「スライスして、さばの味噌煮に入れるつもり」
『ふぉふぉ。それはいいのう』
「いろいろとありがとう」
『なんじゃ、ずいぶんと人間らしい挨拶じゃな。わしこそ、楽しませてもらった。菜子さん、達者でな』
「うん。さようなら」
 生姜は、その会話を最後に、包丁を入れたわけでもないのにぱったり話さなくなった。本当に「寿命」だったのかもしれない。
 菜子は、朝食にするはずだった目玉焼きをなんとなく食べ損ねてしまい、さばの味噌煮にとりかかることにする。

 生姜との別れは、菜子が想像していたよりもずっと寂しかった。
 菜子は出来上がった香り立つさばの味噌煮を静かに見つめて、一口、口に含む。一口食べる毎に、気が引き締まるような味がした。
 最後の一口を食べ終えたとき、しんみりした気持ちになる。これで野菜たちとの物語は終わったのだ、と。


 本格的に就職活動に身を入れて、しばらくの日々を過ごした。大気中の空気は冷たさを増し、渇いてくる。季節はもう冬になっていた。
 何社も受け、何社も落ち、繰り返していたけれど、やっと採用の通知をもらったときには、本当に嬉しかった。
 菜子は、小規模の印刷会社に就職が決まった。

 その日、菜子は一枚の絵を描いた。自分のために。

 描き上げたその夜、菜子はそうだ、祝杯をあげようと思い立つ。湯のみに少しのお酒を入れて、上着を着てひっそりと縁側に座った。付近には街灯もないので、辺りは濃厚な闇だった。この冬の空の透明度はなんだろう。じっと眺めていると、不思議な気持ちになる。
「これからのわたしの人生に」
 菜子は、湯呑みを夜空に向かって傾けてから、一息に飲みほす。
 世界がぽっと温まる。
 

「そう、決まったんだね。おめでとう」
 楠木は、自分のことのように嬉しそうな顔をして、にっこりと笑った。でもすぐに、はっと気づいて残念そうな顔になる。
「でも、そうか。喜ばなきゃいけないところだけど、菜子ちゃん、ここを辞めることになるんだったね。寂しくなるね」
 菜子は、会社が来年の年明け早々からなので、それまではここにいさせてもらってもいいか、聞いてみる。 
「もちろん」
 楠木は、快く応じてくれた。
 
 最後のスポンジマートでの仕事の日、楠木は菜子に油絵具のセットをくれた。菜子が高くて手が出せなかったメーカーのものだった。
 菜子はつい涙腺がゆるんで、「ありがとうございます」と言う声がふるえてしまった。
 笹山も、菜子に餞別の品を用意してくれていた。
――意外。
 菜子は驚く。
 スケッチブック五冊セットだった。菜子は、またしても涙ぐむはめになった。
「画材のことはよくわからないけど、まあ、スケッチブックなら使うかなって」
 笹山が少し照れたように言い訳がましく言った。
「ありがとう、本当に」

 菜子はスポンジマートを後にして、あの誰もいなくなってしまった家へ帰る。それが本来の状態なはずだけれど、なんの気配もないしんとした空間に、未だ慣れなくもある。
 今は、あの食品庫には画材たちが入っている。畳部屋が画材であふれかえってしまい、考えた末、この場所に落ち着いた。入れたばかりの頃は、まさか絵具や筆が話しだすのではないかと思ったりもしたけれど、その様子はなかった。
 菜子は、もらったばかりの油絵具とスケッチブックをそっと置いて、静かに引戸を閉める。あいかわらず立てつけの悪いその扉は、一度ためらうように動かなくなる。力を込めて、やっと隙間がなくなる。そこには、おしゃべり好きの野菜たちはもういない。

8 エピローグ

 何年かして、大家の娘がこの土地に戻ってくることになり、菜子はあの家を出ることになった。
 今は、建ったばかりの流行りのアパートに住んでいる。キッチンもガスコンロではなく、IHで、「これで調理ができる」という、その新鮮な感覚に追い付くのにしばらく時間がかかった。あの家に住んでいたときにも不便を感じることはそうなかったけれど、今のこの暮らしに慣れてきてしまうと、文明の利器をしみじみ感じずにはいられない。
 あの家は、当初は改装の予定だったらしいけれど、けっきょく取り壊して新しく建て直すということに収まったらしかった。今ではすっかり様変わりし、時代を重ねた家屋だった頃の面影はない。
――もう、食品庫に不思議が起きることは、二度とないんだ。
 菜子は、野菜たちとの日々を、心の中にそうっとしまっておくことにした。

 その日は、よく晴れていて気持ちのいい午後だった。菜子は外回りで、社用車を運転し久しぶりにその辺りを通った。
 つい懐かしさに速度を落として、ゆっくり通り過ぎる。塀の向こうに柿の木が見える。以前はコンクリート造りの塀だったけれど、今はフェンスのようなモダンなものに変わっている。大家の娘がその木を残しておいてくれたことに、菜子は嬉しい気持ちになる。
 そのとき、ひとつの優しい風が起きて、柿の木を揺らした。
 菜子ちゃん、久しぶりね。
 そう、聞こえたような気がした。そして、何かが菜子の背中をそっと押してくれたような、そんな感覚があった。
 
――うん、一歩ずつ、一歩ずつ。
 菜子はしっかりと前を見つめて、うなずいた。
 目の前に広がる、明るかったり、暗かったり、濃かったり、淡かったり、そんないくつもの色に彩られた毎日を。

あの日々、あの庭、そしてあの物語

あの日々、あの庭、そしてあの物語

美大を卒業してから、一人暮らしをはじめた菜子。その借家での不思議な出会い。 将来をあいまいにしていた菜子は、自分の人生を見つめなおしていく。 淡々と過ぎていく日々。非現実的日常。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-24

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著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1 プロローグ
  2. 8 エピローグ