光芒を待たず - 1
序章
始まりの一言を聞いたあの日、彼は酔っ払っていた。
いや、あの日どころか、あの頃の彼に酔っ払っていない日はなかった。もちろんそのままではいけないことくらい彼はよくわかっていたし、自分の中身がぐずぐずと腐り、汚い水をまき散らしながら崩れていくような錯覚をしてさえいたが、それでもただ彼は机にへばりついてひたすら酒をあおっていた。店の親父は迷惑そうにして時々彼を追い返すこともあったが、日が照りつければ喉の渇きを癒すためにのみ、気温が上がれば暑さを忘れるためにのみ、驟雨がやって来ればやけくそになってのみ、夜になれば酔っぱらいの騒ぎ声に隠れ、胸の中の後ろめたさを忘れるためにのむ。そんな日々だった。
目の前には氷が溶けきった曇ったグラスが一つある。底の方に茶色い酒がひからび、橙色の電球の光がそれを撫でている。屋台から流れ出る肉の匂いを含んだ煙が、裸電球の明かりに照らされ薄い幕を作っているが、煙の幕はあちらが濃くなればこちらが薄くなり、こちらが濃くなればあちらが薄くなる。
そこに、あの男はやってきた。薄煙をかき分けて彼の視界に押し入ってきたのだ。
「よぉ」
彼は答えなかった。そうやって声をかけてくる人物は別段珍しくない。彼はよくも悪くも有名人で、どれだけ落ちぶれても、いや落ちぶれたからこそ面白がって、あるいは哀れんで、もしくは蔑むために彼に声をかける人間がいる。
クソが、と彼は腹の中でつぶやいてまばたきをひとつした。
「おい、死んでんのか?」
「…………」
「なぁ、おい! 答えろよ」
視界に映っているのは立派な腹だ。その腹がぽんとつきだし、砂色に変わり果てたシャツに横皺を作っている。だらしなく開いた胸元からは硬そうな胸毛が覗いていて、顔をしかめたくなるほど汚らしい。実に不愉快な画だと彼は思った。シャツはボタンが二、三とれかけているし、胸毛の上には浅黒い空白があり、その上にやはり硬そうな無精髭が見えている。分厚い唇の中に黄色い乱杭歯をおさめ、男はにやにやと笑っていた。
怠惰な腹に比べ、半袖シャツの先に突き出る腕がかなり筋張っているところを見ると行商人だろう、と彼は推測した。典型的な行商人の体格だ。だが、行商人に彼の知り合いはいないはずだった。
「ここに暇そうな奴がいるってさぁ、アカルミのおっさんが――」
「うっせぇな、忙しいんだよ」
「どこがだよ。忙しそうには見えないけどねぇ」
彼は手を払った。誰かの声を聞くだけで鈍い痛みが頭の中で主張する。しかし男は彼の痛みなど知る由もなく、ケッと鼻を鳴らした。
「儲け話があるぞ」
「……とっとと失せろ」
「いい話だと思うけどねぇ。おい、イルファン。起きな」
「…………」
「おめぇも働かなきゃいけねぇんだろ。子どもまでいるくせに」
彼は鼻から息を吐いて目玉をぐるりと動かした。彼はこの男どころか、どこのなにものにもかまっては欲しくなかった。かまってほしくないから妻も子どももほったらかして、こんなところで朝から晩まで飲んだくれているのである。妻が泣いているのは知っているが、罪悪感は不思議なことに沸き起こらない。ただ面倒なだけだ。
「おい、起きろって」
「…………」
「カシで一番切れるって言われてた男が、たった一回こっきりの挫折でこのザマかぁ? なさけないねぇ」
「失せろって言ってんだろうが!」
思わずカッとなった彼は、力任せに拳を机に叩きつけた。その拍子に派手な音を立ててグラスがひっくり返る。大声を出したせいで絞られるように頭の芯が痛んだが、その痛みに負けまいと男を睨みつけた。
値踏みするような視線。
黄色く濁った白目の中に場違いなほど澄んだ黒目がおさまっている。黒瞳を炯々とひからせ、男は彼を値踏みしている。彼に価値があるか否か、使えるか否か、それを今判断しようとしているのだ。
しかしどう判断されようと彼は動く気はなかった。それどころかこのままこの椅子の上で腐り落ちてしまいたいとすら思っていた。酒がほしい。なにもかも忘れるために酒がほしい。
ざわざわと周囲のざわめきが耳に戻ってくる。少し離れた席で引きつるような笑い声をたてていた若い男たちが彼を見ている。大声を出したからだ。こんな場所で大声を出す酔っぱらいはいつ拳銃をうちはなってもおかしくない。実際彼も目の前の男を撃ち殺してやろうかとちらりと思った。だが、今の彼には拳銃ホルダーから銃をぬく気力さえ残っていないのだった。
男は呆れたように幅広い肩をすくめ、つい、と目を細めた。黄ばんだ白目に月が映っている。
「俺は、カシどころかこの辺りで一番切れる男にしか用はないんだ」
「…………」
「お前はどうだろうね」
「……どっか行けっつってんだろ」
「強情だねぇ! なかなかいい根性してるな、気に入った……だから待てよ、寝るなって」
これ以上話していても無駄だと悟った彼はのろのろと背を丸め、額を机につけた。夜も更けてきたせいか風は冷たくなり、じっとしているといつのまにか体が芯まで冷え切ってしまうが、額に触れる木の感触は暖かい。目の前にいる不躾で不愉快な男と話すよりは、このぬくもりを貪っている方がずっとましだと彼は思った。
だが、わざとらしいため息をついた男は、また鼻を鳴らして笑った。そして、あの一言を放ったのだ。
「お前――沙森(すなもり)って聞いたことあるか」
――沙森。
その単語を聞いたことはなかったが、あるはっきりとした予感がした。彼のもとになにかを連れてくるという――それが吉凶どちらなのか、泥酔していた彼の頭では判別できなかったが、しかし予感は予感だった。彼は勘の良さを自負している。泥酔していてもそれが衰えていなかったことにこの時の彼は内心驚いていた。男は彼の驚嘆には気づかず、その先を続けた。
「これはおめぇさんが、あいつらをギャフンと言わせる、とっときのカードだ。のるかそるか、ここで決めな」
ふふん、と得意げに鼻をうごめかし男は言った。その瞳に二つの青い月がくっきりとうつっていたことを覚えている。
第一章
1
北門のそばにシンリョウジョとやらができたと聞いて、ズィヤートは怪しんでいた。新しくできるものはなんでも怪しいものばかりだ。
「だから大丈夫だって」
「ほんとかよ、なんでだよ」
「なんとなくだよ。だいたいそういうのって分かるだろぉ」
たばこをふかしていた男はバカにしたように鼻をならして、ズィヤートの足を蹴っ飛ばした。彼の顔の上をちょうど建物影が横切り、斜め半分は闇の中に沈んでいる。
強烈なコントラストを描く照りつける厳しい太陽の光の下で、彼らは僅かな日陰を分けあっていた。しかしこの男はあとから来たくせに積んである木箱に当たり前のように腰をおろし、ズィヤートを日向に押し出したのだ。そのせいもあって、ズィヤートはむくれ返っていた。
シンリョウジョ、などということばは聞いたことがない。だいたいカシの貧民街のそばに、便利なものや役に立つものができるはずがないのである。怪しい、実に怪しい。
聞いた話ではシンリョウジョに行けば、怪我になにか塗りたくられて包帯を巻かれ、何日かしたらまた来いといわれるらしい。頭が痛ければ白い粒を、腹が痛ければピンク色の粉をくれ、飲めといわれる。それは全部クスリと呼ばれているらしいが、彼らはそんなものはうまれてこのかた見たことがなかった。どうやら言われたとおりに飲めば調子がよくなるらしいが、見たことのないものはみんな怪しいものだとズィヤートは知っている。
そんなわけでみな、診療所を怪しんでいるのだった。
いや、正確に言うと怪しんでいたのだった。仲間は一人、また一人と、様子をうかがってくるとか、やっつけてやるなどといっては診療所の扉を叩きに行くのだが、しばらくするときょとんとした顔で出てきて、まぁ、多分、心配ないんじゃないか、などと不安なことを言う。なんだかよくわからないが怪しげなクスリとかいうものを飲まされているせいではないかとズィヤートは思っていた。皆が皆、口をそろえて同じことを言うなど怪しさ満点だ。絶対におかしい。
そんなふうに彼が執拗に怪しんでいるのは、自警団の団長に、診療所には気をつけろと念を押されたからである。
彼らが自警団に入ったのは十代になるかならないかの頃だが、孤児や浮浪児の彼らにとって団長は親代わりだった。団長に相談すればだいたいのことは解決したし、喧嘩の仲裁も団長がしてくれる。もちろん善悪の区別がつかない彼らは、団長に殴られることのほうがずっと多かったが、それでも絶対的な信頼をおいているものがほとんどだ。理由は団長は自分たちと同じうまれ――つまり貧民地区出身だからである。
貧民地区の人間と富裕層の人間はだいたいいがみ合っているものだし、お互いを違う人種だと思っているところがある。だが、団長は実力でひたすらにのしあがり、富裕層の人間も従わせているとかいう話だ。富裕層の人間を使う貧民地区出身者となれば、ズィヤートを含めた貧民層の人間にとっては英雄といっても過言ではなかった。その団長に直々に頼まれたというのに、あっさり手のひらを返すのは良くない――
のだが、彼には勇気がなかった。
見に行ってくればいいじゃねぇかよ、脇腹をつつかれ、彼はますます不機嫌になった。つついた仲間はにやにや笑っている。ズィヤートが小心者だと知っていて煽っているのだ。
「ズィヤートじゃ無理だって、ぜってぇ入んないで帰ってくるよ。賭けてもいいね」
「入れんに決まってんだろ!」
「どうせみんな入んねぇ方に賭けんだろぉ、賭けになんねぇじゃねぇかよ」
「だから入れるつってんだろ!」
「じゃぁさっさと行ってこいよぉ」
げらげらと笑われ、ズィヤートは憤然と息を吸った。完全に馬鹿にされている。
「……行ってくる」
「入れたら酒おごってやるよ」
「うるせぇな!」
話してきたら飯おごってやる、やっつけてきたら有り金全部くれてやるなどと皆がはやし立てている。ズィヤートは顔をしかめ、それでも足りなかったので鼻の頭にしわを寄せて唸った。昔からこんな扱いをされているが、彼ももう二十一だ。いつまでも子供扱いされるのは我慢ならない。
「ちびんなよぉ」
「うるせぇ!」
とはいえ、怖いものは怖いのだった。
肩をいからせて掘っ立て小屋まで歩いてきたものの、扉の前に立ってズィヤートは三度深呼吸をした。手のひらが汗ばみ、体が勝手に足踏みをしてしまう。苛立って彼は顔をしかめた。
できたばかりの北門から低いエンジン音をうならせている行商のトラックがひっきりなしに出入りし、ひどく騒がしい午後だ。熱い排気ガスの匂いを嗅ぐたびに胸がむかむかとするし、地面はずっと振動しているし、こんなところにいたらますます具合が悪くなってしまいそうである。しかも照りつける太陽が天頂近くに到達し、真上から執拗にズィヤートの頭を刺しているのだった。
目眩のする光。熱いというよりは痛いというほうが適切な砂漠の昼である。こんなところにいつまでも突っ立っていたら干からびてしまう――が、怖い。
ズィヤートは昔から怖がりだ。それは自分でもよく自覚している。弱虫とよく馬鹿にされるが、怖いものの側には近寄りたくないし、知らないものは遠ざけておきたい。うっかり近づくと噛み付かれるか、何もしていないのに怒られるかのどちらかだと身にしみて理解しているからだ。だが、啖呵をきってやってきた今、ここで踵を返すわけにはいかなかった。
山盛りのココヤシを積んだトラックを一台見送る。舗装されていない道の上を走っているせいで車体は左右に大きく揺れて軋み、荷物がころがり落ちそうだ。車輪が砂埃を舞い上げて世界をかすませている。
三度目の深呼吸を終え、ズィヤートはついに勢いをつけて掘っ立て小屋の戸を叩いた。トラックが通る振動に潰れてしまいそうな風体なので、拳を叩きつけると穴が空くのではないかとも思ったが、案外薄いベニヤ板がしなっただけだ。
この掘っ立て小屋は気づいたらできていたとズィヤートは記憶している。元は北門を作る際の事務所か管理施設か何かだったようで、ベニヤ板をぺたぺたと貼りあわせて作っている簡素なものだし、屋根はトタンを葺いているだけだ。窓はついているが半透明な板で塞いであるので、中はよく見えない。カシは毎朝スコールが来るので、乱雑に打ち付けてある釘やネジはすでにすっかり赤茶けており、大きなトラックが通ればあっという間にぺたりと潰れてしまいそうな家だ。
返事は、ない。
「…………」
ぐるりとあたりを見回して、彼は鼻をふくらませた。そしてもう一度、慎重に拳を叩きつけた。
返事はやはり、ない。
むっとズィヤートは眉をひそめた。朝からずっと見張っていたから、中にいるのは確実だ。だというのになぜ出てこないのか。無視をしているのか? それともなにか怪しいことをしているのか?
いつになく正義の心が沸き上がってきたズィヤートはぐっと腹に力を込め、今にも破れそうなベニヤ板を掌でそっと押した。まだらに錆びた蝶番に太陽の光が反射している。
ぎぃ……と嫌な音がした。扉の隙間からは涼しい風が流れ出してくる。風の中には嗅いだことのない匂いがまざっているが、隙間から見えるのは闇だけだ。
人の気配がする。
「…………」
帰ろう、と唐突に彼は思った。
仲間には散々馬鹿にされるが、相手がまずいかもしれない。いきなり撃たれるかもしれないし、飛びかかってくる可能性もある。一番ありそうなのは警察を呼ばれることだ。もし彼らがきても自警団であることを伝えれば、ネチネチと詰問された挙句解放されるとはわかっているが、しかし誰だってひとの不愉快そうな顔は見たくないものだ。
帰ろう。笑われても構わない。
「――……」
と、その時、ドス、と中からなにか重い音が聞こえた。勢い息を吸い込んだ彼は目を凝らしたが、わずかな戸の隙間から見える室内は暗く、なにが起きているのかはよく見えない。
とっさに彼は腰に下げた拳銃を引っ張りだし構えた。構えてから今は銃弾が入っていなかったのではと思ったが、手が震えて確認ができない。
「……おい――っ?」
「参ったなぁ、こんな親の仇みたいな量送ってこなくても……すみません、ちょっと手がはなせ――うわぁ!」
扉の向こうから顔を出したのは若い男だった。なぜか飛び跳ねた彼はバランスでも崩したのか無様に尻もちをついたが、両手は健気にあげて、慌てたように小刻みに首を振っている。こわばった顔は妙に幼く、髭も生えていないところをみるとズィヤートとはそれほど歳が変わらないだろう。背もそれほど高くないし、何より体つきがひょろりとしていていかにも丘上の人間然としている容貌だ。
「な、なにやってんだよ!」
「なにって、なにが、ですか、あの」
焦っているのだろうか、黒い虹彩をせわしなく左右に動かしながら、彼は細かく首を振った。確かに武器は持っていないようだ。服も半袖のシャツ一枚に長ズボン一丁と非常に見慣れた出で立ちだし、足元はサンダルで、飛び道具が出てきそうな気配はない。ズィヤートは息を吸った。
「何してんのかって聞いてんだろ! 言えよ!」
「……あのう」
「なんだよ!」
「あの、お金は、今持ってないんで、その……」
「あぁ?」
「えぇと……いや、落ち着こう」
すう、と男は息をすい、それからにこりと口元だけ笑った。
「強盗するくらい切羽詰まってるなら、理由いかんによってはお金を貸すのもやぶさかじゃないから、ひとまず撃たないでもらえるかな。それで、落ち着いて話しあおう。うん」
「なに? 強盗? 強盗が中いんのかっ?」
「中に? 中にはいないよ」
「でも今強盗って言ったじゃねぇかよ! なんなんだよ!」
「いや、君が、その……それ――」
落ち着いた様子で彼はそろそろとズィヤートを指さした。最初にひっくり返った直後の表情はすっぱりと消え、小首を傾げて不思議そうな顔をしている。ズィヤートは自分の手元を見下ろした。
確かに銃を構えている。
「俺は強盗じゃねぇよ!」
「じゃぁそれは……」
「おっ、お前が怪しいやつだから悪いんだろ!」
「僕が?」
ますます不思議そうな顔をしてぱちりとまばたきをした彼はふっと、斜め上を見上げ、眉を上げ下げした。おかしい、と顔に書いてあるが、律義にもまだ両手は頭の横だ。
「なに笑ってんだよ!」
「いや、最近同じこと言う人ばっかりくるけど、さすがに銃をつきつけられるのは初めてだなぁと思ってさ。なかなか刺激的な毎日が送れていいところだね、ここは」
「はぁ?」
「とりあえず、暑いし中にはいりなよ。そこにいると日射病になるよ。撃たないって約束してくれるなら、こっちも怪しいことはしないから」
にこにこと彼は笑っている。ズィヤートは面食らって大きく息を吸った。わけがわからなかった。
カシ。
砂漠の国マームヒトにおける百万人規模の街としては最も内陸にあるとか、物流の街とか、マームヒトの問題児だとか最凶の街だとか呼ばれ方は様々だが、カシが水脈の交差点の上にあるオアシスであることだけは誰もが認めるところだろう。白亜の沙砂漠に囲まれて非常に乾燥しているにもかかわらず百万人以上の人間を擁していられるのは、地下から沸き上がる豊富な水のお陰だった。
カシより内陸に行けばさらに乾燥は激しくなり、ぽつ、ぽつと時折砂の中に現れる小さなオアシスのまわりに小さな町や村があるだけだ。逆にカシより海側、沿岸部に行けば、この国マームヒトの穀倉地帯となっており、人々の貴重な食糧を産出する一面の麦畑が広がる。カシはその内陸地と沿岸部をつなぐ物流都市の一つだ。
浅く椀状になった砂漠の底に存在しているカシは、街自体は南西方面を頂点として、ゆったりと北東側へ広がっていく丘陵地帯の上にある。椀の底にあるという立地と、昼夜間の激しい気温差、そして潤沢な水分のお陰でいつも朝から昼にかけて雲が発生し、スコールがやってくる。周囲をぐるりと高い壁で覆っているのは野盗をおそれているということもあるが、どちらかといえば風の吹き溜まりになりやすい地形であるため、沙害を防ぐのが目的だ。
「アレルギーはない?」
「アレルギー?」
「食べたら痒くなるものとか体が痛くなるものとか」
「ねぇよ。なんだよ、わけわかんないこと言いやがって……」
よし、と頷いた青年は、いそいそと作り付けの戸棚の扉を開け、銀盆を取り出した。盆の上になにやら山盛りに薄茶色いものが乗っている。
勧められるがままに中に入ってしまったが、ズィヤートは立ち尽くして困惑していた。しかし青年はまるで気にせず、それどころかむしろ楽しそうに机の上にティーカップを並べている。
診療所があるのは北門のすぐそばだが、カシにはそれ以外に二つ門がある。北門は一番新しい門だ。元々東門と南門があったのだが、聞いた話によると一番近い東門が混雑するので、その緩和のために北門を作ったそうである。
東門が混雑するなら南門を使えばいいだろうとズィヤートは思っているが、南門では市場に行くのに時間がかかり、行商人から文句が出る、ということらしい。しかし遠いといっても砂漠の中をずっと走ってくることに比べれば大した距離ではないのだから、多分南門のそばに住んでいる連中が、混雑を嫌っているのだろう。
南門側の丘上には富裕層の住む地域があり、あまり多くない観光客もそちら側を通るバスに乗ってくる。観光客に汚い町並みを見せたくないという思惑もあるのかもしれない。
彼らから見れば貧民地区の人間は狂犬かネズミで、接触すればトラブルが起こると思っているふしがある。貧民地区の人間だって彼らのことは嫌いだ。彼らとズィヤート達貧民層の人間は水と油なのである。決して交じり合わない。
「……それ、なんだよ」
「スコーンだよ。昨日作り過ぎたんだ」
「…………」
「今紅茶もいれるから……まぁ座りなよ。あ、紅茶でいい? 僕、コーヒーは苦手で」
ズィヤートが生まれたのはカシのもっとも東側となる地区、アズラクだった。アズラクはカシの中では最も低い位置にあり、人口密度は一番高く、そして汚い。もちろん住んでいる人間もカシの中では一番貧しく、そのくせ働いていないものがほとんどだ。
ところせましと古いレンガづくりの建物が並ぶ裏通り、その間には洗濯物が昼夜問わずはためいている。路地には浮浪者が住み着いていて、うっかりしていると、泥酔している彼らを踏みつけてしまうこともある。
一方、丘の上はまるで別天地だ。土地の高さが高くなるに連れ、家と家の間に余裕ができ、砂漠の中の町だというのに頂上に近づくに連れ緑が濃くなっていく。どこの家にもきれいな芝生が生えているのだ。門の中を覗き込めば車があり、プールがあり――とにかく、丘の上と下では世界が違う。暮らす人間も違っている。
頂上の近くは市役所や警察署などがあって人は住んでおらず、ズィヤートなどは近づくのも恐ろしいほどだ。一歩足を踏み入れたら、それだけで何か文句を言われるかもしれない。警察は貧民を目の敵にしているし、殴られるくらいならまだしも射殺されたっておかしくないのだ。そんな恐ろしいところには近づかない方がいいに決まっているのだった。
が。
一見丘上の人間にもみえる診療所の主任が、今目の前でズィヤートのために菓子を並べ、しかも紅茶を淹れている。
普通は逆だ。丘下の人間は丘上の人間に使われる。話だって聞いてもらえないものだ。食べ物を恵んでもらうなどということはよほど運が良くなければありえない。
おかしい。
診療所の主任――といっても彼しかいないらしいが――は名をハジ・ヤズヂという。先程から機嫌よく事細かに来歴を話しているのでズィヤートも理解したが、カシの生まれではなく、マームヒトの北部沿岸の小さな村の出身だそうだ。沙砂漠に囲まれた小さな村で半年に一度、行商人が来るのがなによりも楽しみだという、この砂漠の国では珍しくない小さな村である。
「ここはいいところだよね、そこの門のところに行けばすぐに砂漠が見られるし」
「…………」
「刺激的な体験もできる」
二言目には嫌味である。しかしハジは涼しい顔で紅茶をカップに注ぎ込んでいるばかりだ。おそらくズィヤートは仏頂面をしているだろうに、特にそれで気分を害しているようすもない。
変な男だとズィヤートは思った。実に変な男だ。だいたい拳銃をつきつけてきた人間を家の中に招き入れ、茶と菓子を振る舞う人間がどこにいるのか。よっぽどの自信家か、さもなくばバカだ。そしておそらくこの男はバカだ。
「どうぞ。たくさんあるからいくらでも食べていいよ。それで、なんで来たんだっけ」
「……お前が怪しいやつだから」
「あぁ、そうだった! 別に毒は入ってないから大丈夫だよ。あと怪しくもないし」
クリームもあるけど、と彼は部屋の隅でなにやらうんうんと唸っている箱のなかから陶器の入れ物をいくつか取り出してきて、無造作にズィヤートに差し出した。
「ここで診療所をやれっていわれてね。病気の人とか、怪我したひととかを無料で診ることになってるんだ。お金はまったく取らない。なんでもできるわけじゃないけど、できる限りのことは――」
「お前、医者なのか?」
うーん、と彼は眉根を寄せ、斜め上を見上げた。破れたトタンの間から日がさしこみ、彼の額をかすめて机の上に刺さっている。床の上には盥がおいてあり、しずくが弾ける静かな音が聞こえている。たぶん朝のスコールのせいで雨漏りをしているのだ。しかしそんな風体のわりに、近くを通るトラックの音は意外に聞こえない。振動はあるが、時折カチャカチャと食器が音を立てる程度だ。
「医者ほどいろいろはできないけど応急処置とか薬を出したりはできるね。あんまりひどいようなら医者に紹介状は書くかもしれないけど、そっちは無料ってわけにはいかないだろうからまぁ……」
「医者ってもっとジジイじゃないのかよ」
「別に若くても医者にはなれるよ、ちゃんと資格を取れば」
「シカク?」
「資格。知識も技術も十分あるので医療行為ができます、なにかの時の責任も持てますって誰かに認めてもらうんだ。医師資格はえぇと、試験に合格したあと五年くらい実務経験積んだらもらえるんじゃなかったかな。色々タイプがあるけど、僕なんかは応急処置と輸血と一部の医薬品しか処方できない。それでやっちゃいけないことがたくさんある」
「やったら?」
「捕まる」
「死刑か?」
「さすがにそれはないと思うけど……悪質だと国外追放とかになるかも。マームヒトの場合はどうなるのかなぁ、国籍があるのに国外追放ってわけにもいかないだろうし罰金とかかな」
軽く肩をすくめてハジはスコーンをひとつ手にとった。
さきほどからズィヤートもスコーンは非常に気になっているのだが、手にとるのはまだ我慢している。もしかしたら怪しいかもしれないからだ。
カシにも医者はひとりいる。ズィヤートも一度だけ丘上の医者のところへいったことがあるが、二度と行くことはないだろうと思っていた。なにしろ診察代が貧民地区のおおよそ五十日分の生活費と同じくらいなのである。そのうえさらに怪我につける薬や病気に効く薬を出してもらうと、その倍くらいはかかる。とても頻繁にいける場所ではないし、それにあの医者は信用できない。
しかし、それは置いておいたとしても、かなりふんだくる医者と同じことを無料でやるとは正気の沙汰ではない、とようやく思い至ったズィヤートは眉間に力を込め、ハジを睨んだ。当のハジはスコーンにたっぷりとクリームを載せているところで、ズィヤートの視線には気づいていない。
「お前、そのシカクとかいうの、ほんとにもってんのか?」
「ん? 持ってるよ。第二種保健医療資格だけど、十分役に立つからって言われて……」
「言われたって誰に言われたんだよ」
「偉い人に」
「なんでだよ」
「うん。まぁ……色々とあって、社会勉強してこいって言われたから」
「偉い人って誰だよ」
「誰って言われてもなぁ……この国の首相よりずっと偉い人だよ」
「しゅ?」
力んで腰を浮かしかけていたズィヤートは意外な単語に眉をひそめた。てっきりカシの人間の名前が出てくると思っていたのだ。丘上の人間がなにか企んでいて、丘下の人間を損なおうとしている――とおもいきや、全くあてが外れた。それどころか、ハジの言葉の意味すらよくわからない。
「……そいつ、市長より偉いのか?」
「首相? そりゃ首相はずっと偉いひとだよ」
「ちげぇよ」
「あぁ、そっちか。どうなんだろうなぁ、わかんないや。そりゃまぁえらいけど、やってることが違うし、本質的にはどっちが偉いかはよくわからないね。そもそも偉いってどういう定義で――」
「偉くないのか?」
「僕にはわからない」
またハジは肩をすくめたが、視線はスコーンの上である。まじめに話をしているように見えない。
「どっちなんだよ!」
「今度会った時に聞いとくよ」
ズィヤートはいらいらとしていた。ハジの受け答えはズィヤートの予想できる範囲のものではなく、言葉を聞く度になにごとかと頭を捻らねばならない。それが苛立たしいのだ。しかし聞いておくということなら、また今度聞きに来ればいい。
「まぁ……じゃぁいいや」
「うん、瑣末な話だ。ジャムはいる?」
「いるよ」
「クランベリーとワズローベリーがあるけど」
「どっちもいるよ! それより、なんでここに来たんだよ」
スコーンを頬張りかけていたハジは、心底驚いたというように目を丸くしてズィヤートを見た。それにしても目で語る男である。考えていることがすべてわかる。
「診療所をやれって――」
「ちげぇよ」
「診療所をやることになった理由がききたいってこと?」
「それだよ、それ。だって変だろ、医者ってさぁ、ちょっと見るだけでさ、すげぇ金とるだろ。なのにお前はただでやるっていう。どういう魂胆なんだよ」
「あぁ、それは……なかなか鋭い質問だな」
「あ?」
肩をすくめたハジは一旦眉をぐいと持ち上げ、それから白い歯を見せた。トタン屋根の隙間から漏れている午後の日差しが彼の手元を灼いている。強い砂漠の太陽はじりじりと照りつけ、まるで別の生き物のように影を地面に描き出すのだ。
「ちゃんと答えろよ! 聞いてんだろ! なんなんだよ、クソが」
「ここに来る前に少し――いや、かなり悪いことをしてね。それで今は保護観察期間中なんだ。今回カシにきたのは社会復帰のための訓練だよ。一人で監視の目が直接ないところで暮らす――」
「悪いことって何したんだよ。誰か殺したのか?」
ぱちりと目をまたたかせたハジは、さすがに表情を暗くした。重そうに唇を開いたものの言葉を発せなかったのか一旦閉じて、下唇を噛む。外はまたトラックが通ったのだろう、屋根から差し込む光が揺れ、そして静かになった。
「……そうだよ」
「…………!」
「禁止されていることをして、それで何人か死んだ。僕のせいじゃないっていう人もいるし、直接手を下したわけじゃないっていうひともいたけど――でも僕がやったことだ。犯した罪は贖わなきゃいけない」
重々しい声で、彼はひとことずつ区切りながら言った。だいたい言っていることはわかる。だが、ズィヤートは解せなかった。人殺しをするような人間はたいてい、あれは自分のせいではなかったと弁明するものだ。あいつが悪いんだよ、それでついカッとなって。そんな言い訳を何度も聞いたことがある。
さすがに笑みは顔から取り去って、ハジはしゅんとしている。クリームをたっぷり塗ったスコーンも皿の上に置いて浮かない顔付きだ。今までこんなふうに聞く人物はいなかったのだろうか。自警団の団員は目先のことしか見ていないので、菓子につられてきちんと突っ込まなかったのだろう。
「また悪いことしたら?」
「こんな生ぬるい罪じゃないだろうね、その時は」
「なんでそんなことしちゃったんだよ。バカじゃねぇのか、医者になれたのに」
「そうだね……バカだったと思う。僕は――大人のつもりだったけど子どもだったんだ。外の世界を全然知らなかったし、当たり前に知らなきゃいけないことを身につけないで、大きくなっちゃった。ずっとアカデミックな世界にいたし、しかもまわりがみんな優しい大人だったからさ、常識的な判断をする訓練はいくらでもできたんだけど、僕が甘えて逃げてて、それで許されてたんだ」
「……なんだかよくわかんないけどさ。それで、なにしちゃったんだよ。ぶっぱなしたのか? それともぶっ飛ばしたのか? ぶっ刺したのか?」
「ぶっぱなす? なにを?」
「なにをって……そんなの決まってんだろ、これだよこれ」
あぁ、と心底驚いたようにまた目を丸くして、今度はへの字に口を結びハジは細かく首を横に振った。さっきまでは随分深刻そうな顔をしていたくせにまた子どものような顔に戻っている。しかし、先程よりは少し親しみやすいとズィヤートは思った。どういうことをしたのかは知らないが、うっかり悪いことをするというのはズィヤートにも心当たりがあり、親近感を覚えたのである。
「違うよ。直接殺したわけじゃない……僕は――人形を作ったんだ」
「人形? なに?」
「そしてその人形に死にそうになっている人の魂を込めようとしたんだけど、結局いろいろあって何人か死んだんだ。人形に魂を移し替えるのはやってはいけないと決まってることだったし……たくさん、償いをしないと――……」
ズィヤートはますます眉をひそめた。沈鬱な顔をしてハジは俯いているが、しかし彼の言っていることはさっぱり理解できない。
わけがわからなくなってしまった。
ハジが道案内をして欲しいというので、監視も兼ねてズィヤートは引き受けた。ハジはそんなズィヤートの思惑にはまるで気づかず、実にのんきなものである。
「いいかげんにしろよ! 日が暮れてもつかねぇだろ!」
そう遠い場所ではないはずなのに、怒鳴るのはこれで六度目だ。一瞬でも目を離すと、するりとハジがズィヤートの視界から消えるからである。といっても逃げているわけではなく、知っている顔を見ると話しかけずにいられないらしい。
「あぁ、ごめん。昨日お腹の調子が悪いってきた人だったから……」
「調子が悪いならまた来るだろうが!」
「うん……ごめん」
「ったく、クソが……」
うん、と小さな声で答えたハジは首をすくめ、口角を不自然なほどに下げている。ごめんとは言うが、ちっとも悪いと思っていない顔である。ズィヤートは苛立ったが、これ以上怒鳴るとうっかり殴りつけてしまいそうだったのでぐっとこらえた。外で人を殴るとあとあと厄介だ。
「ところで、これを貰ったんだけど、なにか知ってる?」
「なんだよ、なにやってんだよ、なにもらったんだよ……」
「この間のお礼だって。断ったんだけどくれたから」
「だからなにもらったんだよ!」
ズィヤートは声を荒げた。ハジの受け答えは予想するものとだいたいずれている。それでいらいらするのだ。
「なんだろう……魔物の骨って言ってたけど」
「あぁ」
「知ってる? なんだか持ってるといいことがあるって話だったけど、ほんとかな」
「魔物がその石好きなんだよ」
それ、ほんと? とハジは疑わしそうに掌の中に視線を落とした。彼の掌の上には小さな石があり、太陽の光を透かして薄青い光を振りまいている。断面は平らで角が手のひらに食い込むと痛い。重さはさほどでもなく、扱いやすいのがよいところだ。
魔物の骨、と呼ばれるそれは井戸の底からよく見つかる小石のことだ。井戸の中には魔物が住み着くという言い伝えがあるし、魔物の体の中でまたたく光、いわゆる魔物の目がその小石と同じ色をしているので、魔物と結び付けられているらしい。本当に魔物の骨かどうかはわからないが、ズィヤートはきっとそうだろうと思っていた。疑う理由がない。
「なんかそれ、持ってたら余計に魔物をひきつけそうなんだけど……」
「ちげぇよ、魔物が出た時にそれ投げたら、喰われなくてすむ。あいつら、石のほうが好きなんだってさ」
「あぁ、なるほど。囮にするわけね……でもそれだったら骨っていうより食料なんじゃ――」
「持ってるからって安心すんなよ。そんな一個だけじゃすぐに食ってまた襲ってくる……」
「うん、わかった。教えてくれてありがとう。でもすごいね。僕の故郷だとこういうのなかったからなぁ。カシは魔物がよく出るって話は聞いてたけど、やっぱりいろいろ言い伝えがあるんだね」
指で小さな小石をつまみ上げた彼はそれを空にかざして、しげしげと眺めている。口元がほころんで、いやに楽しそうだ。
「それにしても魔物って軟体動物じゃないのかなぁ。骨なんかあるんだね」
「ナンタイ?」
「ぐにゃぐにゃしてるだろう。結構形がダイナミックに変わるし。僕もそんなに見たことあるわけじゃないけど、骨がありそうには見えないよね」
ピン、と小石を爪で弾きあげたハジは右手でそれをキャッチして、胸ポケットの中に無造作に石を突っ込んだ。たしかに魔物には骨がありそうにない。
「さて……ズィヤート、あとどれくらいかな。ちょっと喉が――もしかして、ここ?」
「そうだけど」
「ほんとに? ここ? あぁ……」
「ここだろ、シャディドゥのイスティラーハ。そこにも書いてある」
ほんとだ、と特に感情を込めずハジは同意したが、顔は晴れない。
それもそのはずだ。シャディドゥ地区は娼館や飲食店が集まる歓楽街だが、その中でもイスティラーハといえば高級娼館の筆頭格だった。丘上の人間の中でも特に裕福なものだけが来る店である。
昼間のためか、威風堂々とした大きな扉はぴっちりと閉められ、辺りにはひと気がない。入り口につづく短い石の階段の一番下にはゴミが乱雑に積まれ、野犬がそれを荒らしているところだった。彼らはちらりと二人を見たが、餌でも敵でもないと判断したようで、またゴミに顔を突っ込んで無心にあさっている。
夜の豪華絢爛な猥雑さが嘘のように、昼はただ空虚だった。けばけばしい電飾が輝く看板も、いまは胡散臭い安っぽい品にみえるし、女の足を模した看板も砂まみれで生気を感じられなかった。それもそのはず、強気なイスティラーハは昼間の営業をしないのである。
「三階の三〇五号室に行ってくれって言われてるんだけど、ここから入っていいのかな」
「それ、裏じゃねぇの? 裏はアパートだってよ。あいつら昼間は寝てるから」
「裏? 裏はぐるっと回ればいいのかな」
「最初から言っとけよ……」
口の中で文句を繰り返しつつズィヤートは踵を返した。ハジはまだぽかんとしたように外国風の建物を仰いでいる。この娼館は、電飾はともかく他は手抜きがなく、わざわざ切り出した石を重ねて建物を作っているのだ。入り口の広い階段には営業時間になれば赤い絨毯が敷かれるし、入ったことはないがエントランスは大理石でできているとかいう噂だ。それで、入ると正面に大きな階段があり、壁に突き当たった所で二手に分かれる。天井には大きなシャンディリアがあるとか何とか――ズィヤートには全く縁のない話だった。
「早く来いって言ってんだろ! 何回言わせんだよ!」
「あ、ごめん……結構うまいこと復興ゴシック建築を模してるなぁって思ってさ、あの窓のところか、あのエンブレムも……」
「なに?」
「かっこいい建物だなって思ったんだ」
「……バカじゃねぇのか?」
「かもしれない」
まただ、とズィヤートは思った。また白い歯を見せてハジは笑っている。その理由がズィヤートにはわからない。だからいらいらする。
細い横道を抜け、二人は建物をぐるりと回った。横道には朝方のスコールのせいかちょろちょろと水が流れているが浮浪者もなく、野犬もうろついていない。
「で」
「なに?」
「なんの用があるんだよ。女買いに来たのか?」
「違うよ。僕は女の人には興味ないし」
「…………」
「男の人にもないよ」
思わず足を止めて振り返ったズィヤートに、声を立ててハジは笑った。心の底からおかしいという顔をして、きらりと目をいたずらっぽくひからせている。だが、彼の言葉が信じがたかったズィヤートは一歩あとずさって彼を睨んだ。
「ほんとかよ」
「本当だよ。迫られた経験がないからわかんないけど、多分違うんじゃないかな」
「……じゃぁ、なんに興味あんだよ。あれか? 人形とかいうのか?」
「違うよ。何に対しても僕はそういう興味はないんだ」
軽く首を傾け、彼は肩をすくめた。そして早く前を先導してくれというように道の先を指差す。
「嘘だろ、そんなの聞いたことない」
「そういう人もいるんだよ。宇宙全土をみたらそれなりに人数いるんじゃないかなぁ。興味ないから調べたことないけど、悩んでる人もいるだろうし……」
「うちゅ?」
早く早くとハジは急かしている。色々と聞きたいことはあるが、仕方なくズィヤートは言葉を飲み込んで踵を返した。しかしやはり解せないものは解せない。男の多くは女に興味を持つが、中には男に興味があるものもいる。どちらも構わないというのも、少なくともズィヤートの知り合いにはいる。だが、どちらにもないというのは初めてだ。もしかして羊や犬の方がいいのだろうか、さすがにそれを言うと皆驚くからごまかしているのか。まったく何にも興味がないというのはどうにも解せない。それとも、もしかして自分が好きなのか?
「あぁ、ここかぁ。こっちの入り口は普通だね。入りやすそうだ」
「…………」
「ズィヤート? どうかした? どうする、上まで来る?」
「い……行くに決まってんだろ。お前が変なことするかもしんないからなっ」
精一杯去勢を這ってみるものの、やはりハジは風のようにズィヤートの言葉を受け流し、そのうえ「へぇ、そりゃ心強いな」などと嫌味を言っている。実にいけ好かない。
ふてくされて彼は階段をのぼった。立場は変わって先導するのはハジだ。
何の変哲もない麻の白いシャツを着込んでいる彼の背中は細い。シャツはすりきれて皺だらけだが、破れていたりシミがついていたりすることはなく、その点に関しては丘上の人間とも丘下の人間とも異なっている。短く刈り込んだ頭は綺麗なたまご型をしていて、首が細いせいか妙に大きく見えるが、隣に並ぶとそれなりに胸の厚みはあり、十代ではなさそうだ。
サンマルゴ、サンマルゴとハジは繰り返しながら扉の数をかぞえている。表の娼館とは趣を意にして、こちらは普通の居住地区だ。壁も床も砂を固めたレンガでできていて、無人の廊下にそっけない青い扉が一直線に並んでいる。廊下の窓からは中庭が見えているが、昼間のためかシーツがこれでもかと干され、燦々と太陽の光を浴びて輝いているところだった。
階段の踊り場から五番目の扉に直行したハジは、微塵もためらわずに軽快に扉をノックした。
一瞬の沈黙の後、ぱたぱたと扉の向こうで軽い足音が聞こえる。ズィヤートはなんとなく居心地悪くなって身をかたくしたが、ハジは音が聞こえていないのかもう一度扉をノックした。ぱたり、と足音が止まる。
静かだ、とズィヤートは思った。話し声の一つも聞こえない。足音がこれだけ聞こえるなら、部屋の中で話をしていれば丸聞こえだろうに建物全体がひっそりとしていて、誰も住んでいないかのようだ。しかし扉には飾りが施してあったり、ドアノブになにか引っ掛けてあったり、部屋の中の荷物と思われるものを廊下に積み重ねていたりして、人が住んでいる気配はある。不気味だ。
「……はい」
隣の扉の飾りを眺めていたズィヤートははっとして顔を巡らせた。いつの間にか扉は細く開き、その隙間から目がひとつ覗いている。澄んだ白目に濡れた黒瞳。長い睫毛を正確に一回上下させ、目はなんですかと問うた。目だけだというのに、露骨に怪しんでいるのがわかる。
「こんにちは。アブダさんからマランさんの様子を見に行ってほしいって頼まれたんですけど」
「……あんたがシンヨージョーとかいうところに来たってやつ?」
「えぇ、そいつです。よろしく」
相変わらず聞いたこともない受け答えをする男である。しかもこれほど不躾な態度をとられているのに、まったく怒り出す気配がない。
「あんた医者なの? 医者ってもっとジジイでしょ、あたし知ってるんだから」
「医者じゃないですよ。お薬出したり怪我の手当はしますけど。具合が悪ければいつでも無料で――」
「あんた、マランのこと、殺しに来たの?」
声を低くして彼女は鋭く言い放った。見えているのはあいかわらず目だけだが、それだけでも怪しんでいるのがぴりぴりと伝わってくる。ズィヤートは半ば感心していたが、口は挟まなかった。
「殺しに? どうして?」
「仕事ができないから邪魔なんでしょ」
「そういうことは頼まれてないし、頼まれても引き受けないよ。僕は、具合の悪い人に簡単な手当をする、それだけだ」
ぱちりと目はまたまばたきをした。仕事中ではないからか目の周りに隈取もしていないし、まぶたに色を載せているわけでもないのに、ぐっと人を引き寄せる何か魔力のようなものを持っている目である。
「……そいつは? 後ろのやつ。そいつ、魔物飼ってるやつでしょ」
「ジュジェは魔物じゃねぇよ!」
とっさに怒鳴り声をあげてから、ズィヤートはしまったと口元をおさえた。つい、この話題を出されると怒鳴ってしまう。存外に廊下に声は響いたが、しかし建物の中は相変わらず静かだった。よほどみな、深い眠りについているのだろうか。
「ジュジェ?」
「そうよ、人間のふりしてる魔物なのよ。目が青くてほんとに気持ち悪いんだから。でもあいつのこと知らないなら、あんた、ほんとにここに来たばっかりなんだね」
「そんなに有名なの? 目が青いって――」
「ジュジェは魔物じゃねぇよ……先祖がえりだよ」
きょとんとした顔をしてハジはズィヤートを振り返った。驚いた顔をしているが、不思議なことにそれだけだ。ズィヤートは面食らって彼の顔を見返した。
「ま、いいわ。早く入って。みんな起きちゃうから」
「――……」
ハジはまだズィヤートを見ている。ズィヤートは苛立って彼を蹴っ飛ばした。
2
目はサミラと名乗った。
扉をあければ、目は少女だった。歳はまだ十代の半ばだろう。背が低く、整った顔立ちはしているがあどけなさが残っている。中性的な容貌なうえに、アーモンドアイに強気な表情を浮かべているので、服装によっては少年に見えそうだ。
ハジがたずねたマランという少女は、奥の部屋で眠っていた。廊下からは彼女のベッドのフレームがみえるだけだ。サミラが呼びかけても弱々しい返事をするだけだし、体を起こす気配もない。一瞬だけ見えた腕は痩せこけ、まるで棒のようだった。
これは助からないだろうとズィヤートは廊下の壁にもたれかかったまま思っていた。商売女は遅かれ早かれ死ぬのだ。ズィヤートの母親もそうだったので、彼はそれをよく知っている。マランはおそらくまだ十代だし、それにイスティラーハであれば管理はしっかりしているだろうに、それでも病気になって死んでいくものがいる。丘下の人間はいつも丘上の人間に殺される。弱いものは強いものに殺されるのだ。
部屋は思ったよりも窮屈な感じがする。扉を開ければ細長い板張りの廊下があり、奥まったところに寝室があるらしい。レンガがむき出しになった壁は寒々しく、そんな壁の途中に取ってつけたように扉がひとつついていて、おそらくバスルームになっているのだろう。そうかんがえると、奥の寝室もベッドが二つ、ぎりぎりおける程度の広さしかないはずだ。高級娼館の女が寝泊まりするにはいかにももの寂しい、慎ましい部屋だった。
ハジは片手に提げてきた鞄をあさって、いろいろと薬を出している。だが、それだけでは足りなかったのか診療所に戻らないと、と言った。痛みを和らげる強い薬があるのだが、持ってこなかったらしい。
ズィヤートは口を曲げてずっとその様子を眺めていた。サミラが部屋にはいるなと低い声で警告したのに腹が立って、意固地になっていたのだ。
「で」
「なんだよ」
「なんであんたまでいるのよ」
むっとしてズィヤートはかたわらの少女を睨んだ。
「俺が先に来たんだっ!」
「先に来たかどうかなんて関係ないもの、さっさとどっか行きなさいよ」
「なんでだよ!」
まぁまぁ、とまったくやる気がない調子でハジは言っているが、サミラはよほどズィヤートが気に入らないのか、頬をふくらませてきっと眦を釣り上げている。ズィヤートも鼻から息を吐いて、負けじと彼女を睨んだ。
ハジに、また往診に来るか、診療所に取りに行くかを選んでいいといわれたサミラは、意外なことにのこのこと診療所についてきた。そしてふてぶてしくもズィヤートに文句をつけている。
「そう喧嘩しないで」
「だっていやなんだもの。魔物が出てきたらどうするの?」
「ここってそんなに魔物が出るの? みんなすぐ魔物って言うけど」
「出るわよ」
ハジの差し出した紅茶を受け取ってズィヤートは口を尖らせた。
確かにカシは魔物の発生率が高い街である。噂によれば水道施設のあるカシには使われていない井戸が多いので、そこが格好の魔物のすみかになっているのだそうだ。自警団も、その名の割に仕事のほとんどは井戸浚いだし、時折魔物がでた時にそれに水をかけて退治することだったりする。一応名目上、野盗が襲ってきた場合にそれに立ち向かうということになっているが、警察がある、人口の多いカシに突っ込んでくる野盗はただのバカだ。それよりもずっと魔物のほうが話が付けられないぶん恐ろしいのだった。
魔物――
他の街では魔物などお伽話の中の生き物だと言われていることもあるらしい。行商人がよくそんなことを言っている。だが、沙の中を歩く生き物がなにものかに襲われ、体を溶かされてしまうのは事実だ。カシに出る魔物だって黒く大きな体をして、長い触手で人の手足に絡みついて、跡形もなく溶かしてしまう。数限りない人間がそれを見ているのだから、空想上のいきものなどでは決してない。
「僕も沙の中で生まれたんだけどあんまり聞いたことなかったなぁ……内陸は多いのかな」
「違うわよ、カシに人間のふりしてる魔物がいるからよ、目が青くてほんとに気持ち悪いんだから。きっとあいつが呼んでる――」
「ジュジェは魔物じゃねぇよ!」
なによ、とサミラは金切り声で叫び返した。さっきからふくれっ面でスコーンを次から次へと皿に移していることには気づいていたが、いつのまにか五つも確保している。苛立ったズィヤートは拳を机に叩きつけ、彼女を睨んだ。
「喧嘩しないで……そのジュジェって子はズィヤートの知り合い?」
「うちの四男坊だよ! クソが……もう一回言ったらぶっ飛ばしてやる」
「やってみなさいよ。あたしの体に傷つけたらどうなるかわかってんでしょうね」
「あんだと?」
ふん、と人を小馬鹿にしたように息をはき、サミラはつん、と鼻を逸らした。彼女の耳についた金細工の大きなイヤリングがしゃらり、と涼しげな音を立てる。瀟洒な金細工で、かなり値がはりそうな品物だ。引きちぎってやろうかとズィヤートは思ったが、どうにかぐっと腹に力を込めて我慢した。
サミラは商売女だ。それも高級娼館にいる女である。傷をつけたら、ズィヤートは明日の朝日を拝めないだろう。
「四男坊? でもズィヤートは先祖帰りじゃないだろう。兆候もなさそうだし……」
「血はつながってねぇよ。ビルカが昔拾ってきたから……」
「ビルカ?」
「うちの次男坊だよ」
「彼も血はつながってないの?」
「ねぇよ」
「なるほど。楽しい一家だね。次男坊ってことは長男坊もいるんだね。ズィヤートは何番目なの?」
「三番目だよ」
むっとしてズィヤートは彼を睨んだ。サミラを殴れない分、力を込めてハジを睨んだ。だがハジはあいかわらず涼しい顔をしてなるほどなぁ、などと呑気に言っている。
「両親は?」
「いねぇよ、クソが」
サミラが片目を細めている。口元はへの字に曲がり何か不満そうだ。ズィヤートは顔をしかめ、一息に紅茶を煽った。
「……先祖がえりかぁ。そりゃいろいろ大変だろうに……」
「あんた、こいつの味方すんの?」
「味方とかそういうんじゃないんだけど」
「でも魔物を呼んでるのよ」
「目が青いってだけだろう。それは先祖がえりっていって、魔物なんかじゃないよ。だから魔物を呼んだりもしないし、怖くもない」
「でもほんとに青いのよ、目が青いやつなんて見たことないもの、絶対魔物よ」
「目が青いのは外国じゃ珍しくないよ。それに、この国にきた人たちは元々いろんな虹彩の色をしてたから、先祖がえりしても全然変じゃない。確かにあんまり聞かないけど」
きょとんとしてズィヤートは彼をみやった。サミラもよほど意外だったのか目をぱっちりと開いて彼を凝視している。
確かに彼女が驚くのも無理のないことだ。ジュジェが青い目をしていると聞いて魔物を連想しないものはこれまでいなかったし、付き合いの長い自警団の連中はともかく、ジュジェはどこへ行っても魔物呼ばわりで、石や水で追い払われる。
ジュジェがやってきた時のことは、ズィヤートだって覚えている。ゴミの中で見つけたと次男坊ことビルカが小脇に抱えて戻ってきた時は、またビルカが馬鹿なことをはじめたと思っていたが、目覚めたジュジェを最初に見た時は恐ろしくて、とても近づきたくなかった。早くどこかに行ってくれと彼は思っていたが、そんなことを行ったらビルカに殴られるに決まっているので口にしなかっただけだ。
あの頃のジュジェはすべてのものに怯えきっていた。助けてくれたビルカに対しても体をふるわせ、おどおどと顔色を伺っていたし、なにを飲み食いするにしても、取りあげられるのを恐れているように一息で飲み込んでしまう。しかもやせ細った体はあざだらけだった。たぶん、生まれた時から折檻を受けていたのだろう。
だが、ハジは違うらしい。
「……あたしは、違うわ。目が青くなったりしないもの」
「今はね。でも千年くらい前にここに人類が入植した時は人種もいろいろいたし、目はもちろんだけど、髪の毛の色とか肌の色とか、顔つきも違ってたんだよ。太陽が大きくなって沙漠化した時に、南とか北の方へ移動しないで残った人たちがだんだん肌も髪の毛も目も黒くなって、今みたいになったんだ。つまり、環境に適応したってことだね。でも、時々古い血が目覚めたとしても全然おかしくないよ。実際、北とか南の極の人たちがたまにここに来るけど、見たことあるかな、肌の色が薄くて目が青かったり緑だったりするだろう。もちろん、そうじゃない人もいるけどね」
「む、昔のことなんて聞いてないもの、なによ! あんた見たの? 見てないくせにえらそうに――!」
「昔、シテで古い画像データ集を見たことある。進化の研究をしてる人がいるんだよ。環境に適応して外見が変わるのは地球系の生物特有の特徴なんだけど、最近は環境が悪くなったらすぐに別の土地とか星に移住するから、なかなか研究対象になりうる星はみつからないんだってさ」
ひゅっと妙な音を立ててサミラは息を吸い込んだ。目を吊り上げ、顔を真赤にして口をぱくぱくとさせている。ハジは困ったように笑って、まぁ落ち着いてとまた言った。
「……なによ! ばかにして!」
金切り声で唐突に叫んだサミラは、力任せに拳をテーブルに叩きつけた。その拍子にガチャンと激しい音を立ててカップが飛び上がる。
まずい。
熱々の紅茶がサミラの膝にかかってやけどなどになったら、ズィヤートとハジのせいにされるかもしれない。治療代を払えと言われるだけならまだしも、ズィヤートだってまだ死にたくはなかった。誰が好き好んで死にたがるというのだ。
が。
ふわりと浮き上がった紅茶のカップは回転しかけたところでぴたりと動きを止めた。こぼれかけた茶色のしずくも宙に浮いたまま静止し、落ちてこない。それどころか一緒に飛び跳ねた皿も、サミラがせしめていたクリームのスプーンもなにもかも宙に浮き上がった状態で止まっている。
まるで時間が止まっているような――
「あんまり暴れないようにね、危ないから……」
「――……」
「かからなかった?」
よっこいせと椅子から立ち上がったハジは、まるでなんでもないことのように空中のカップを水平に戻し、机の上においた。飛び跳ねた皿もスプーンも同じように机の上に戻し、飛び散ったしぶきだけ手のひらでさっさと払う。まるで沙を払っているかのような動きだが、しかし確かにそれは紅茶だったはずのものである。
ズィヤートはぽかんとしてそれを見つめた。サミラも驚いているのか口を大きく開けた間抜け面のままハジを仰いでいる。
「…………」
そろそろと二人は顔を見合わせた。さきほどまでの激高はどこへやら、サミラはむしろ青ざめ、眉根を寄せて泣き出しそうな顔をしている。
「……あんた、魔法使うの?」
「魔法? あぁ、違うよ、これは……えぇと、ただちょっと、うーん……止まっているように見せかけてるだけさ。ほんとは普通の速さで動いてるんだけど、移動物体のトラッキングしながら空間を多次元に展開して作った空間の中を動かしてるから――まぁちょっと難しいから詳しいことは言わないけど、でも別に危ないものでも恐ろしいものでもないし、シテではこういうことする人はいっぱいいるよ、便利だからね」
「魔法じゃ、ない……の?」
「うん、違う。これは魔法じゃない、科学の応用さ」
きっぱりと言い切った彼は腰に手をあて、軽く顎をしゃくった。右手はテーブルの上に付き、左腕は軽く広げている。くつろいだ表情だが、なぜかズィヤートにはそんな彼が大きく、そして恐ろしく見えた。
「さあて、お嬢さん、あんまり暴れるのはよくないなぁ。バカになんかしてないから、よくわかんなかったらわかんないって言えばいいんだよ。それに苛々しちゃう時があるのはしょうがないけど、他のものに当たったりするのはいけないよ――」
そろそろと首を巡らせたサミラは救いを求めるようにズィヤートに視線を寄越した。が、ズィヤートだってわけがわからないのだった。
ズィヤートは口にスコーンを押し込んでいた。先ほどの出来事がまだ信じられず、なにを聞いてもみても上の空になってしまう。ここは腹をいっぱいにしてひとまず落ち着くのが一番だ。腹がいっぱいになれば大抵のことはうまくいくというのが彼の持論である。
サミラは先程のことがよほど効いたのか、大人しくハジの話を聞いている。
「……というわけで、ここに来てもらったのも、マランが聞いたらショックを受けるかもしれないからなんだ。僕には、その――……彼女を治す力がない。心の準備ができたら、サミラから少し話してあげてくれるかな。詳しい話は呼んでくれたら僕がするよ」
「……治らないの?」
「うん。残念だけど――難しいと思う」
「でも、あんた医者じゃないんでしょ。だったらわからないじゃない」
「そうだね、医者だったらもう少しできることがあったかもしれない――でも多分、治すことはできないんじゃないかと思う。辛いけど……」
キンッと鋭い音がしてズィヤートは顔をしかめた。あまりにも夢中で食べていて気づかなかったが、クリームが底をついたらしい。念のため指で隅から隅まで皿を拭い、彼はそれを舐めた。甘いクリームだが、口の中では溶けてなくなるし、消える直前にミルクの優しい味がする。どれだけ食べても口の中がベタベタにならないのも不思議だ。
「治るわ……治るわよ。医者のところに行けばいいんでしょ。丘の上にいるの。一度お客さんできたから知ってる」
「お金がかかるよ」
「そのくらい知ってるわよ! いくら掛かるの? 十ベズくらい? それくらいならお願いして出してもらうから」
「……お願いしても難しいんじゃないかな。たぶん百ベズくらいはかかると思うから」
強気な顔をして鼻を逸らしたサミラであったが、百ベズと聞いた途端ぎょっとしたように目を瞠った。一日いくらが取り分なのかは知らないが、ズィヤートより少し多い程度なのだろう。しかも彼女の性格からして金をためておくという発想はありそうにもない。こういうときに同じ性格かどうかは、なんとなくわかるものである。
「ひゃ、百ベズくらいなら……」
「それに、多分僕と同じことを言うと思うよ。シテの病院に紹介状書いてくれるかもしれないけど、そっちだともっとかかるし、移動するとなるとマランも辛いし……」
「シテに行けば治るの?」
「わからない。シテでも治らないかもしれない。もっとずっと遠くに行けば、なにか手立てがあるかもしれないけど、それもほとんど望み薄だと思う。残念だけど」
いくらかかるの? と去勢を張っている硬い声で彼女は詰問した。ハジは目をぱちぱちとさせ、ひどく言いにくそうにしている。ズィヤートは不機嫌になって、クリームを諦め、代わりに赤いジャムを掬った。
「すごく――かかる」
「どれくらい?」
仕方なさそうに息を吐き、ハジは視線を逸らした。だがすぐにきゅっと唇をむすび、またサミラに視線を戻す。顔は優しげで、サミラの不躾な態度に腹を立てている様子は伺われなかった。
「……まずシテに行くバスが二ベズ、二人だから四ベズだね。それで、どこかに泊まるとなるとふたりとも女の子だし、百ベズくらいのところにはした方がいい」
「それくらいなら、なんとかするもの。それで、病院で百ベズでしょ――」
「いや、病院にいったら、多分検査することになるから、五百から千、ものによっては三万くらいとか、入院するとなるとさらに一日三千、四千、もしかしたら一万くらいかかるかもしれない。手術をしたら十万、三十万、百万……それでも、治るとは限らない」
バスの値段を聞いた所では余裕綽々な顔をしていたサミラであるが、千と聞いたときはその金額の大きさが想像できなかったのか口を尖らせて泣き出しそうに眉尻を下げた。当たり前だ。生活するのに一日あたり一ベズあればお釣りが来るのが、丘下の人間の感覚である。
「……嘘でしょ? どうしてそんな嘘言うの? なんで?」
「嘘じゃないんだよ。どこかで諦めなきゃいけない。僕だってこんなことは言いたくないけど、でも……もう手遅れなんだ」
すう、とサミラの顔が白くなった。
それにしても尖ったおとがいをもつ美しい横顔の少女である。スコーンを頬張りながら、ズィヤートはそんなことを思っていた。高い鼻梁はきれいなカーブを描いているし、少し集めの下唇は柔らかそうで艶めかしさも覚える。弓なりになった長いまつげが彼女の感情をあらわすように震えている。質素だがものは悪くない体型を隠す衣服の上からでも彼女の華奢な肩に力が入っているのはわかる。首筋に筋が浮き、鎖骨のくぼみがくっきりと浮かび上がっているからだ。
美しい少女だ。ズィヤートが知っている中では一番美人だ。それだけ整った容姿だから、彼女はその辺りの売春宿ではなく高級娼館に入ることができたのだろう。しかしだからといってそれが彼女の幸せを意味しているとは限らない。
「嘘よ! マランは死んだりしない、私をおいてどこかへ行ったりしないもの! 嘘よ、絶対嘘に決まってるわ! あんた、医者じゃないから間違ってるのよ。いいもの、医者のところに行くから! きっと治るもの、治してくれるもの!」
ハジは口を真一文字に結んでサミラを真正面から見つめているだけだ。小首を傾げ、目を少し細めている。そういえば人形がどうのこうのという話をしていた時も、彼はそんな表情をしていた。哀しげな、というわけでもなく、苦しそうというのも適切ではなく、なんとも表現しがたい表情だ。クソとバカくらいしか語彙のないズィヤートにはその表情を適切な言葉で表現することができない。
ズィヤートはいらいらしながらジャムをすくい取り、スコーンの上にたっぷりと載せた。ジャムはてろてろと光っていて、どこからか飛んできた蝿が物欲しげにその上を旋回している。
「……そうだね、そうかもしれない」
「そうよ、きっとそうよ。百ベズ、集めなきゃ」
「念のため百五十ベズくらい用意した方がいい。点滴を打ってくれるかもしれないし、強めの痛み止めをくれるかも……僕には思いつかないいい方法も知ってるかもしれない」
「そんなに? すぐには無理よ……」
「いくらなら集められるの?」
「三十くらいなら貯めてるのがあるけど――……あと、二十くらいなら、お願いしたら、お小遣いくれる人がいると思う――……」
ぱちぱちとまばたきをしたハジはちらりとズィヤートに視線を寄越して肩をすくめた。なにが言いたいのかはよくわからないが、呆れているらしい。なにも言う気にならなかったのでズィヤートはスコーンを口の中に放り込んで、彼らから目をそらした。
「あとは……ハジもお小遣いくれない? なんでもするから」
あやうく口の中のものを吹き出しかけてズィヤートは慌てた。慌てた拍子に喉にスコーンがつっかえる。
「僕は、そういうことしないんだけど……」
「ほんとになんでもするから。百ぐらい融通できないの? 医者なんでしょ?」
医者じゃないと言ったり医者だと言ったり、都合によってころころ変わるサミラ評である。ハジは呆れたように唇を歪めているが、やはり怒り出すことはない。
「百ねぇ……」
「ほんとになんでもするから」
「そうだなぁ……一気には用立てできないけど、毎日十ずつとかなら。あぁ、いや、十はきついな、八かな。八なら」
どうにか塊を紅茶と一緒に押し込んだズィヤートは、ぎょっとして目をむいた。さきほどはっきりと興味がないといったのはどこの誰だったのか。あれは嘘だったのだろうか。たしかに考えてみればなににも興味がないというのは妙な話だが、しかしこうまでしれっと嘘をつくとは、うっかり信用してはまずい相手なのかもしれない。
「五十ずつとかじゃだめなの?」
「急には無理だよ。それに僕が一日に使っていい金額って決まってるし」
「あんた、ケチね」
「お金がないんだよ。ありそうに見える?」
不満そうに鼻から息を吐いたサミラであるが、そもそも一日八ベズも支払うような客はとんでもない太っ腹だろう。それ以上駄々をこねて前言を撤回されてはまずいと判断したらしく、じゃぁ八ベズでいいわ、となぜか居丈高に答えた。
「じゃぁ明日からここに来てくれるかな。時間って……昼でも大丈夫なのかな」
「毎日八ベズくれるなら大体のリクエストには答えるわよ」
「でも夜に働いてるんだろう。寝る時間が――」
「私はだいたい夜中ちょっと過ぎたくらいにあがるから、昼には起きるわ」
「そりゃぁ良かった。じゃぁ昼過ぎに」
「昼から? まぁいいけど……よっぽど好きなのね」
にこにことハジは満面の笑みを浮かべている。だが、ズィヤートはまだ合点がいかなかった。サミラはふてくされた顔をしているが、単にしばらく来なければならないのが面倒なだけで、依頼自体はやぶさかではないようすだ。
「一日八ベズだと、えぇと割り切れないな。まぁじゃぁ十三日来てもらおう。余ったら余ったで、それはサミラのお金だし」
「……お前、興味ないって言ってなかったっけ?」
それでほんとに百になるの? とサミラはぶつぶつ言って指折り何かを数えている。ズィヤートも計算には自信がなかったが、彼女が騙されているかどうかはどうでも良かったので、指は折らなかった。それよりもハジが前言を翻したことのほうが彼にとっては問題だったのだ。
「ん? 何の話? あぁ、そうだ。ちょうどいいからズィヤートも来てくれないかな。人手が足りなくて困ってたんだ。一ベズは出せると思う」
「俺……?」
「ハジが泣き言なんて珍しいわね」
「僕、マームヒトで働いたの初めてなんだよ」
「別にどこで働いたって変わらないでしょ」
「いやさぁ……言葉の裏がわかっちゃうんだ。文化が違えばさ、気づかないこともあるけど、全部わかる。疲れるね」
ケタケタと通信機の向こうから人の悪い笑い声が聞こえた。
視界の一番端でエメラルドグリーン正二十面体の通信機がゆっくりと回転しながら上下に揺れている。どうも今日は通信が安定しないようだ。
カシには丘のてっぺんにアンテナがあるきりで、少し丘を下ると複式搬伝網支線、通称「糸」に安定して接触することができない。北門辺りまで行けば絶望的なありさまで、どうにか増幅器と衛星受信機を駆使して最低限不便のないように環境を構築することには成功したものの、ある程度は物質にたよらねばならないようだ。
糸は現代における通信網であり、送電網であり、あらゆる仮想化物質の行き交う伝送網だ。糸へのアクセス自体は、指先にラコフデと呼ばれる肌と一体化するデバイスを装着するだけでできるようになるし、操作も直感とほとんど同じだ。空間を押したりつねったり引っ張ったり、糸を弾いたりすればよいだけだし、難しいようなら自分でいくらでもカスタマイズできる。
ラコフデと糸さえあれば実体を即座に量子化することも、逆に電子データから実体に変換することも一発だ。もし糸に余裕があれば、自分自身を量子化して即座に別の場所に移動することだって簡単にできる。「糸」が実用化されて以来、時間と距離と空間の概念はすっかり変わった。一歩先は自分の行きたい場所だし、常に隣には見えない棚がある。
「それにしてもあんたが泣きごと言うなんてねぇ、意地っ張りなのに」
「そうだっけ?」
「違うと思ってたの?」
ファトマは十年来の友人だ。最初に会ったのはハジが十二、三歳の時で、ふたりとも国際奨学生候補としてその育成スクールに入学したのだった。ハジの成績はダントツだったのでよほどのことをしない限り選考から漏れることはなかったが、彼女はトップ集団の中のひとりだったから選考試験のたびに気が気ではなかったという。国際奨学生の枠は二名。一名は確実にハジという状況で、残りの数十人で残りの一枠を取り合っているのだから、それは確かに神経をすり減らすだろう。
そんな背景があったせいだろうか、選出されてしばらく、彼女はハジに近寄って来なかった。だが、大学に入ってからは寮も一緒だったし、彼女のほうがいくつか年上なうえに世話好きなタイプであることがよかったのか、今では親しい友人の一人である。
「まぁあんまり根詰めなさんなよ。適当にやればいいのよ、適当に」
「うん……そっか。たしかこれは社会勉強になるね。うまく考えるなぁ……なんだか嫌がらせされてるし、尋問に来る人もたくさんいるし……」
「人気者じゃない」
「尋問に来る人たちはお菓子あげたら帰ってくれるからいいんだけどね」
ザザ、と通信にノイズが入る。ハジは顔をあげ、正二十面体を軽くゆすった。エメラルドグリーンの通信機は空中に浮かんだままくるくると回転しているだけで、通信が途絶えたわけではないようだ。ファトマは急な訪問を嫌がるし、乳幼児のいる家庭に夜中に尋ねるほどハジも非常識ではない。そういう時に音声通信は便利だが、やはり不安定さはあるものだ。
「なに? 仕事中よ、カシから連絡が入ったの!」
ファトマの背後に聞き慣れた底抜けに明るい声がまじり、ハジは笑った。あの声はファトマの夫のジョアキンだ。ジョアキンも大学の同期で、ハジの無二の友人でもある。
「どうせ天才少年だろ? この男前を追いかけてわざわざ宇宙の果てから駆けつけてくれたんだから、顔ぐらいださないとなぁ!」
「別にジョアキンに用はないよ」
「なんだとぉ? 可愛くないな」
声だけじゃ足りないってことよ、などとファトマが適当なことを言っている。ちょっと、とハジは思わず通信機を叩いた。
「よし! じゃぁ今から行くかな。転送ポイントはどこだ?」
「邪魔だから来なくていいよ、うるさいし」
「またそういうつれないことを言う! で、どうだよ。慣れたか? 暑いだろ」
「僕、生まれは砂の中だから全然平気だよ」
「あれ、そうか。じゃぁ天気も食事も問題ないな」
「うん。毎日調子がよくてびっくりする」
「死んでいく太陽も見れるし」
「うん。毎日見てる」
「そりゃ天国だな」
「そうだよ。ジョアキンにはわからないかもしれないけど、マームヒトは楽園さ。少し暑すぎるだけで、太陽が小さくなれば楽園が戻ってくる」
通信機の向こうで笑い声が二つ弾ける。
言葉は通じても、文化的な素養が同じでも、なにもかもが共有できるわけではない。たくさんの約束事とお決まりのネタのうえに会話があるのは心地よいものだ。そんなものはたいしたものではないと学生のころは思っていたが、こうしてなれない生活を始めるときには何よりも心の支えになる。ありがたい、とハジは思った。
「……楽園だといいんだけどね」
「またハジの悲観論が出たわよ」
「なんだかねぇ、ここは――……何かある気がする」
「手は出しなさんなよ」
「巻き込まれないように気をつけるけど、どうも怪しまれてる気がするんだよね。薬も止められてるみたいでなかなか来ないし。たぶん嫌がらせなんだと思うけど」
「どこだって後ろ暗いことの一つや二つあるわよ。たしかにあんたの所属じゃやりにくいでしょうけど、大人しくしてればそのうち見逃してくれるようになるんじゃない。粛々と仕事しなさい、余計なこと考えないで」
「はぁい」
ジョアキンが何か笑いながら茶々を入れている。ノイズの向こうに聞こえる懐かしい声に耳をそばだてながら、ハジはまた机に突っ伏した。
土地勘のない場所ではあるが、カシは暮らしやすいとハジは思っている。彼の故郷によく似ているし、食べ物も口にあう。なによりいちいち振り返って見る者や、じろじろと不躾な視線を向けるものがいないというだけでもずいぶん心理的な余裕ができるものらしい。
いままで大抵のことは経験になるとわりきってきたハジだが、カシの生活ははっきりと悪くないといえる。もちろん診療所があるのは治安の悪い地区なので身の危険を感じることも多々あるが、それでも毎朝起きた時に体が軽いというのはよいことだ。
さて、そんなふうに砂漠の中でオアシスを見つけたレイヨウのように元気な彼であるが、今は漂ってくる肉の匂いに気を取られていた。マランの往診ついでにサミラを迎えに行く途中で腹が減ったことに気づいたのである。
今日は朝から大忙しだった。診療所のことはここ数日で急に人々に広まったらしく、治療の必要ないものまで物珍しがってくるのだからしかたがない。とはいえ、興味津々で覗きにくるものが増えたのはよいことだろう。抗生剤を少し投与するだけで治るような病気を放置して死んでいくのが、医療のない地域の常識だ。故郷もそうだったので、彼はそれをよく知っていた。
歩きながら食べるものを買うか、それとも診療所に帰ってからにするか――彼は歩を進めながらそればかり考えていた。
普段、ハジは優柔不断ではない。だが、金銭が絡むことに関してだけは慎重になる傾向があった。これは学生時代に貧困を経験したせいなのだが、給料を貰えるようになってからずいぶん経つというのに未だにそのくせが治らない。カシは物価が安いので無料奉仕中とはいえ少しくらい散財しても食に困ることはないとわかっているのに、習慣とは恐ろしいものである。
ついに足を止め、彼は前方をみやった。前方で肉を焼きながら呼び込みをしている男がいる。油の匂いは食欲をそそり、くうくうと腹がなる。きれいとはいいがたい露天からは湯気がもうもうと立ち上り、ちょうど幼い子どもたちがその前でなにかを話しているところだった。とりわけ小さな男の子がなにやら天を仰いで泣いているが、兄と思しき少年は店主と話していてまるで気にしていない。ハジは微笑んだ。
あの様子ならまだもう少し時間がかかるだろう。急かすのも申し訳ないし、帰り道もどうせ同じ場所を通るのだ。サミラも腹を空かせているかもしれないし、どうせ食事をするなら一人でするより、誰かがいたほうがいい。診療所に戻るついでになにか買うほうがよさそうだ、と彼は決心した。そうと決めたらあとは一路、イスティラーハへ行くだけである。
よし、と口の中で号令をかけ、彼はそっと手のひらを開いた。あまり人に見とがめられないよう手のひらの上に表示されている経路を確認し、近道と表示されている方角を見遣る。
ずいぶんと細い道だ。
あまり細い道に入って強盗に遭うのはごめんだ。だがくねくねと身をよじらせている道の向こうには白い光がみえており、向かいの通りはそう遠くなさそうだった。ここを通らないとなると、およそ2ブロック分の距離を迂回せねばならない。彼は頬を爪でひっかいた。
逡巡はさして長くなかった。彼は左右を見回し、それから大股に日陰に足を踏み込んだ。いざというときに走り抜けられる距離なら何か起こってもなんとかなると踏んだのである。
道に入ると、ひんやりとした空気が首筋を撫でる。
カシにかぎらずマームヒトはどこも昼間は気温があがるが、乾燥しているせいで、日陰に入ると途端に肌寒さすら覚えるのが普通だ。この細道もたぶん一日中日が当たらないのだろう。それで夜の寒さがレンガにしがみついている。
日にさらされたせいで熱を持つ肌に手のひらをあて、ハジは顔をしかめた。道は少し上り坂になっていて、しかも地面は湿った砂になっている。足を踏み出すたびにサンダルと足の裏の間にその砂が入るのは別に構わないが、いつまでも出て行かないのは困ったものだ。
と、そのとき、きゃあきゃあという甲高い声が前方から聞こえた。
なにごとかと訝る彼の眼前を、子供がよぎっていった。追いかけっこでもしているのか、悲鳴を引き連れて子供はあっというまに消えてしまった。その後からもう一人、女の子が髪をなびかせて走っていく。やはり小さな女の子だ。
二人の姿はすぐに横道に入ってすぐに消えてしまったが、甲高い歓声だけは壁に反射していつまでも残った。声にこたえるように洗濯物が風にはためいている。平和な空気だ。子供だけで遊んでいるくらいだから、多分さして危険ではないのだろう。
幾分か安堵したハジは交差点で足を止めた。子どもたちが消えた方角にも道は曲がりくねりながら続いており、壁には無数の窓がついている。頭上には洗濯物がはためき、どこかで女が怒鳴っている声もする。多分この先には広場があって、人が集まれるようになっているのだろう。もしかすると井戸もあるかもしれない。うら寂しい通りだと思っていたが、生活空間はさらにその奥まったところにあるのだと理解して、ハジは笑った。
郷愁が胸の中にある。
彼が生まれ育ったのは砂漠のなかにぽつんとある小さな村だ。村に家は十数軒しかなく、小さなオアシスに肩を寄せ合うようにレンガをつんだ家が並んでいる。村のひとびとはみんな顔見知りで、生まれた時からの知り合いだ。よその家の子供だって家族のようなものだし、どの大人も子供を叱りつける。
豊かではなく、電気もない生活だ。周りは砂に囲まれているので、他の世界とは隔絶されているし、村人のほとんどは字が読めないから、行商人の話でしか世界を知ることができない。あの世界のなかで一生を終える自分はまったく想像できないが、五つで親元を離れたハジにとって故郷はいつだって胸を苦しめるものだった。
彼は頭を掻いた。
街の探検は少しずつだ。今はまだやらなければならないことがたくさんある。とりあえず早くマランとサミラのところへ行って――
「…………?」
砂を踏むかすかな音が聞こえたような気がして、彼は勢いよく背後を振り返った。坂道の下、忙しく人が行き交っているのは見えるが、彼を狙って虎視眈々と目をひからせている不届き者の姿はない。
「……気のせいか――――――」
ぢりりと頭の奥のほうで音が鳴ったような気がした。
何か嫌な予感。
決して触れてはいけないものがそこにあるという――警告。
思わず息をとめ、彼は視線だけをそろそろと巡らせた。首筋をなでる冷気は冷たさをまし、今自分はびっしょりと汗をかいていると彼は冷静に思った。だが、なぜ汗をかいているのか。そしてこの冷気は――
視界の端で闇がうごめいている。砂色のいびつなレンガに這いつくばるようにしてその闇が静かに彼の方へ向かって動いてきている。じんわりと空気の中に滲む水の匂い。
在る。
闇が――――――在る。
(魔物)
きらり、とアクアマリンブルーの光が瞬いたのを見た瞬間、彼は我を忘れ、叫び声を上げた。
3
おい、君、と声をかけられ彼は足を止めた。廊下の向こうからやってきた恰幅のいい紳士が片手を軽くあげ彼の方を見ている。
「水を」
ちらりと彼は今出てきたばかりの部屋の中を見た。荷物運びの最後の確認をするために一人残っていただけで、この男を待っていたわけではない。もちろん水も持っていない。
「ねぇよ」
「口の聞き方を学びたまえと言っているだろう。あそこに――みえるかね、あそこだ。この間、シテから浄水サーバというのを取り寄せてね。水道水が濾過されて、飲料用になる」
「汲んで来いってことか? 自分でいけよぉ、足がついてんだろ」
彼は男を睨んだが、男も鼻を鳴らしただけだ。
男の名はムディラクという。丘上一番の高級住宅街で医院を開いている男だ。だが、最近の本業は医者というよりも政治家だった。
つかつかとムディラクは誰もいない部屋の中に入っていってしまった。窓があるので暗くはないだろうが、わざわざ荷物が積まれている誰もいない部屋に入っていくなど目的は一つしかない。彼に話があるのだ。しかも人に聞かれたくない話だ。
彼は息を吐き、それから言われたとおり浄水サーバで水を汲んだ。ボタンがひとつついていたので勘で押してみたが、グラスが自動的に出てきて水が注がれる仕掛けになっているらしい。便利だが高そうな品だ、と彼は呆れつつ思った。
「君はあそこになにができるか聞いたかね」
「……頭がおかしい奴らの砂場だろ」
「砂場、ではないな」
彼が水を持っていってやっても、ムディラクは振りかえりもしない。おまけにグラスを受け取っても礼さえ言わず、まだ街を眺めている。彼はげんなりとしたが、文句は言わず壁にもたれかかった。
まったく、丘上の人間は誰かに何かをしてもらうのを当たり前だと思っている。彼らの理論では裕福な人間は富を貧民に分け与えているのだからそれが当然だとのことだが、礼ぐらい言ったところでなにかが減るものでもないのだし、言えばいいのではないか。こういう態度だから貧民層の人間に目の敵にされるのだ。
窓の外には夕暮れ時の街が広がっている。
遠い昔、この街を黄金の街と詠んだ詩人がいたという。時刻は夕方、そろそろ太陽も沙の中に沈む、そんな時間だ。日はかなり傾いて丘の裾野あたりにある高い建物の壁がどれも橙色に染まっている。窓にはめ込まれたガラスは虹色に輝いて宝石のようだし、白い砂を固めて焼いたレンガは黄金色に染まり、白亜の砂漠の上に燃え上がる太陽の光は美しい。
だが、一歩、その中に踏み込めば腐った泥があるだけだ、と彼は知っている。ここにはクズしかいない。なにもかもひっそりと腐っているのに、その上を黄金で覆ってごまかしているだけなのだ。
「なにか連絡はあったかね、あれから」
「なんも」
「それは結構なことだ。頼りがないのは良い知らせというし」
「あんたにはな」
「君もだろう」
彼はムディラクを睨んだ。ムディラクはどこ吹く風という顔をしている。さすが狸だ。
「あの男の調べはついたかね。なにを目的にしているのか……」
「診療所をしに来ただけだってよ。なんかあのバカどもと仲良くやってるし、あんたよりは話が通じそうだね」
ぴくり、とムディラクは眉を跳ね上げたが、顔色は特に変えなかった。彼が怒るかどうかのすれすれの辺りをいつも攻めてみているのだが、実際に声を荒らげている彼を見たことはない。意外に辛抱強いものだ。
「そんなはずがなかろう。このタイミングで……ここに来るのに自分から希望してきたのか、そうではないのかくらいはさっさと聞いてきたまえ」
「あいつらバカなんだから碌なこと聞いてこれるはずねぇだろ。あと三日でなにも出ないなら俺が行くよ」
「そうか。それなら安心だな」
窓ガラスにムディラクの顔が映っている。不愉快だと思いながら、彼は砂埃にけぶる景色の向こうを見ようと目を細めた。今は北門が霞んで見えるほどに沙が舞っている。消えかけている壁沿いに広大な空き地があるが、強い風がその場所の沙を巻き上げ、市内の方へと押しやっているらしい。アズラクなども窓ガラスのついていない家がたくさんあるのだから、これでは家の中が沙まみれだろう。実にいい迷惑である。
「で、なにが欲しいわけ?」
「なにが、というと……?」
「どっちの結論に持って行きたいんだよって聞いてんの。あいつがなんか悪いこと企んでる証拠がほしいのか、それとも」
「…………」
「なんとかってとこから送り込まれて、あんたのやってることを暴露しようとしてるってことにした方がいいのか――」
ムディラクは答えない。さすがに笑みは拭い去り、横目で彼を睨んでいるだけだ。
後者であるなどとムディラクが答えるわけなどなかった。彼は仮にも為政者であり、次の市長の座を狙っている男である。ここで不祥事が明るみに出れば、数十年かけた彼の野心は粉々に砕け散ってしまうのだ。バカなことをするわけはない。いや、正確にいえば、バレるような失態を犯すわけがない。
「……なにが言いたいのかね? 馬鹿げた話だ」
「ナフルのあれ、普通に考えればつじつまが合わないと思ってさ。あんたらがなにを企んでるのかいくつか考えてみたんだけど、どれもなにか足りない。たぶん俺なんかにはわかんないことが動いてんだろ」
ぴくり、と珍しくムディラクのこめかみが痙攣する。ムディラクがどんな表情をしているのか確かめようと、彼は首をゆっくりと巡らせた。窓に映っている分にはわからなかったが、目に強い光が宿っている。
「わざわざ俺を呼びつけるのも、よくわかんないしな。俺が団長の代わりになると思ってんなら、あんたも耄碌したもんだ」
ムディラクはゆっくりと呼吸をしている。この二、三年で貫禄があるように見せるためか急に体が丸くなったが、しかしそれでもシャツの下の体は鍛えられ、引き締まっている。ムディラクは単なる裕福な男ではない。その皮の下に野心を燃え滾らせている男だ。
「……なにが欲しい」
「欲しいもんなんかねぇよ。俺はただ、なんも欲しくないだけだ。変わりたくないし、変えたくない」
「――……」
「だからジュジェも渡さない。あいつを諦めんなら、口は出さないし詮索もしないよ」
ムディラクは無言で彼を凝視している。彼は肩をすくめ、沙にけぶる街を見やった。黄金の街、カシ。ここが彼の生まれ故郷だ。
会議の雰囲気はよくなかった。
というより、はっきりいって険悪だった。
中央に座る干からびきった老人は、机に手を組んで肘をつき、真正面にいるムディラクを見据えていた。カシの市長であるこの老人はムディラクのことを嫌っている。この十年ほどでめきめきと頭角を表し、一気に市政に食い込んできた彼が邪魔でしかたがないのだ。しかしそれを直接態度に出すほど、この老人は浅はかではなかった。
黙りこくっている老人をよそに喧々諤々と先ほどから人々は意見の皮をかぶった文句を言っている。
「なんだね、この計画は……お伽噺を本気にしているのか?」
「君は大人しくドブさらいをしていればいいんだ。欲を出して妙な策を考えてもやけどをするだけだぞ。尋常じゃない」
ムディラクは口元をゆるめて、その言葉を受け止めた。反発ははじめから予想されていたことだし、彼の出す案には大体いつも決まって同じ批判が寄せられる。それを強引に押し通して今までやってきたが、うまく行かなかったことなど今まで一つもなかった。彼らの文句は聞く価値がない、と彼は思っていた。
「それに――こんなことが起きれば行商人がよりつかなくなる! なにを考えているんだね、カシが死んでしまう……」
「行商人は来るでしょう。彼らは品物だけを売っているわけではないのですから、付加価値がつくなら――もちろん彼らのことだから当然つけるでしょうから、むしろ喜ぶかと思いますよ」
「商人もろとも飲み込んだらどうする気だ。品物に何かあったら補償してやらねばならないし、それに奴らは安全には敏感だぞ、危険な街には絶対に寄り付かない」
「一度来れば、しばらくその街はむしろ安全です。彼らもそれはよく知っていますよ。そもそもこの話を持ち込んだのは行商人でして――」
「君は何もわかっていないんだ! 黙って縫い物でもしていればいいのに、余計な口をだして――」
「それは聞き捨てなりませんな。私がこの街から出て行けば、カシにいる医師数はゼロになるんですよ。そうなれば、助成金も三十パーセントは削減になる。あなたにそれと同等の予算を引っ張ってくる試算がおありなんですか?」
目をほそめ、ムディラクは少し語気を強めた。さすがにこの言葉には反駁できなかったのか、立派な口ひげを生やした男はもごもごと口の中でなにか唸っただけでおとなしくなる。黒瞳がせわしなく動いて周囲の面々を伺っているが、さすがにだれも彼のことは擁護しなかった。
カシは、マームヒトの百万人規模の都市としては最も内陸にある街と呼ばれているが、しかしその規模の都市としてはもっとも貧しい街だった。沙砂漠のど真ん中にあり、乾燥が激しいせいで農業にはまったく適していない。かといって工場を作るには他の大都市と距離が離れていて、輸送費ばかりかかる。頼りになる産業は物流だけだ。
カシもかなり内陸にある街だが、ここよりさらに内陸の小さな村や町へ行くには、かならずカシを通らねばならない。まともな宿があるのもカシまでだし、それに宿を取らなくても、食料を調達して車の燃料をいれ、メンテナンスは必要だ。沙漠のど真ん中で立ち往生しようものなら死ぬしかないからである。
そんなカシが物流で栄えるのは当然だろう。
もっと多くの行商人をよびこみ物流産業で豊かになるためにはどうするか――それを考えたのが、今、ムディラクの正面に腰をおろしている老人である。彼は陣頭指揮をとり、行商人が集まりやすい街になるように改革を行った。
宿場を整理し、行商人であれば安く泊まれるようにした。物品の売買の税金をさげ、また市場を整理し、水道を整備し、人力夫を組織的に雇えるようにして、さらに車の燃料代を割引いてやれば面白いように商人たちは集まってきたものだ。行商人たちがあつまれば当然金が動くから市の財政は潤うし、貧困層も不定期ではあるが職を得られるようになり――しかしそれも天井が見えてきた、とここにいる市議会議員はみなだいたい肌感覚として知っている。
カシは今でも貧困ボーダーにいる市民が全体の八割を占め、識字率、百人あたりの医療従事者数、平均寿命、一日あたりの生活費平均そして労働者賃金はダントツのワーストワン、逆に乳幼児の死亡率、失業率は指標を記録し始めて以来トップを突っ走りつづけている。昔に比べればずいぶんましになったものだが、それでも現状のままでよいと割り切ることができないのは、よその街からうるさく口出しをされ、マームヒト、ひいてはこの星全体の足を引っ張っていると指弾されるからである。
カシのせいでマームヒトの発展は阻害されている、と人々は言う。
地球系人類が宇宙に進出したのは千数百年前くらいのことだ。いまやかなり広範囲に広がった地球系人類であるが、そのせいで他星種もしくは他生命体との接触が増えた。接触が増えれば当然摩擦も起き、友好な関係を維持できず喧嘩別れすることも、迫害をうけることもある。
そのうえ人類は少し前まで知的生命体であるという認可を受けておらず、いろいろと不利益を被っていたのだ。知的生命体として認められるには――さらにより発言力があり、まともな権利を主張できる高度知的生命体として認められるには、それなりに発展した社会を持ち、高い文明力がなければならないが、あまたに広がった地球系人類が心をひとつにするのは至難の業なのだった。
宇宙進出最初期に入植を開始したマームヒト、あるいはその星が所属するG331星系では発展が遅れている地域である。移民が一般的になった時代に比べインフラ関係の技術が古い――劣っているという意味ではなく古い――し、マームヒトのように一旦科学文明が衰退し、原始レベル寸前まで落ち込んだところもある。そもそも当時はまだ惑星改造の技術がなかったから、人が入植したのは予め人がどうにか生きていける環境のある場所だけだったのだ。
この衰退した社会を再度勃興させるのは地球系人類にとって喫緊で最大の仕事だった。この数十年であちこちに国際宇宙空港が建設され、衰退した地域の底上げが行われたおかげで、つい数年前にようやく地球系人類も高度知的生命体と認められるに至ったが、しかし地位はまだ盤石とは言いがたい。なによりどこでも根付き、あっという間に数を増やす地球系はどちらかと言えば厄介者扱いされていることが多く、認められてもそれを維持するのは大変なのだった。そんなわけで今でも地球系の中央政府は各地に助成金という餌で釣って、発展を促しているのが現実だ。
マームヒトはゲヴラフナー星の中にある国の一つだが、ゲヴラフナー星の文化レベルは5である。9から出発してようやく5に到達したものの、この十年余りはそこで足踏みをしてなかなかレベルを上げることができなかった。南北の極側の小さな国々は相応に発展したものの、中央に位置する広大なマームヒトが後れを取っているせいである。
しかも小さな村々はレベル判定の対象外となっているのだから、マームヒトの発展、ひいてはゲヴラフナー全体の足を引っ張っているのはまさしくカシだった。
「アフダルに都合よく現れるものなのかねぇ……」
ふ、とメガネの男がつぶやきを漏らした。
「ほぼ確実にあらわれますよ。安心していただいて問題ありません」
「根拠は?」
「過去の事例を洗い出して、小規模な再現実験を行ったそうです。その結果、今のところ82%の割合で成功しておるそうですな。手法を伝授していただいたので、まず間違いなくここでも成功するでしょう。規模は若干の幅がありますので多少期待はずれになる可能性もなきにしもあらずですが、過去の事例から最大の見積誤差で算出しても、お配りした資料の青の線で引いた区域に広がることは間違いありません。まぁ、私がそう聞いたというだけで詳しい者は今シテに行っておりますが」
「君は詰めが甘いから――」
顎を撫でた男はメガネを動かして顔をしかめた。そのとなりに座っているごま塩頭の男は憤然とした面持ちでさきほどからムディラクを睨んでいたが、メガネの男がふむ、と黙りこんでしまったのに乗じて、自警団のことにしてもそうだ、と口を開く。
「ろくに仕事もしない不良どもが名前だけ登録しているせいで財政は苦しくなるし、支給された銃で強盗に入ったという件は、今月だけで何件かね? だから、あれだけ反対したというのに君は……どう責任をとるつもりなんだね」
「そのリスクについてはご説明してさしあげたはずですが。そのリスクを負ってでも治安維持を優先するということで決を取ったように記憶しておりますが、私も耄碌しましたかな」
「…………」
「それにこの間の監査でも、自警団とは銘打っているが実質的には貧困層向けの職業訓練校となっていて、取り組みとしては評価できるという話だったでしょう。実際、識字率も上がりましたし」
「たしかにそうだが……」
「ええ。三パーセンも上がったのですから上々です。この調子で行けば次の十年では現状から十から十五パーセントは識字率が上昇するでしょう。この取り組みは――」
「そんな悠長なことを言っていられる場合ではなかろう。この間のシテからの視察でも三年計画の完遂をと釘をさされたし……」
「ええ。おっしゃるとおりです」
む、とごま塩頭の男は眉根をよせ、口を曲げた。ムディラクは軽く腕を広げ、ぐるりとあたりを見回した。様々な表情をしているものがいるが、だいたいは渋面をしている。いつものことである。
「これからの三年で、識字率を50%まで上昇させねばなりませんが、皆様もご存知のように、我々はその策がありません。三年で50%です。簡単にできることではないし、行商人が一番賢いような現状ではとても実現できそうもない……やはり抜本的な解決をするためにはたとえ多少の無理があっても、学のある人間を呼び込まねばならないのです」
苦々しそうな表情を見せている面々をぐるりと見渡して、ムディラクはあえてひとつため息をついた。
十年前のムディラクはもう少し若く、そして痩せていた。長年医者をやっているせいか、親しみやすい笑みを浮かべることには長けているから、彼にはじめて会った人間ならきっと温和な第一印象を抱くだろう。だが、彼がひとこと声を発せば、それは力だった。彼の声には人の首根っこを捕まえ地面にねじ伏せるような力が潜んでいるのである。
ムディラクは現市長のかたわらで、「どぶさらい」と蔑まれる貧民地区の治安維持と、カシ全体の教育問題に心を砕いて来たが、はたしてその来歴が彼の声を作ったのだろうか。それともその力を持って生まれたから、彼は今、こうしてのし上がってきたのか。
「それに……あなた方は市場を見に行ったこともないのでわからんでしょうが、昔に比べてここに寄り付く行商人は随分と減りましてな。冷凍庫の性能がさらにあがれば、カシを経由しなくても奥地へ行くことは可能になってしまうでしょう。なによりこれからインフラが整備されていけば、行商人すら必要なくなる時代が来るのです。もちろん、急になにもかもが消えるわけではありませんし、奥地へ電力を送るための基点になるのはカシになるでしょうが、流通は確実に衰退するでしょうな。時の趨勢が日の下にさらされてから慌てているようでは遅いのです。手はできる限り早くうたねば――」
「予想被害地域にナフルが入っているが、これはどうするつもりかね」
不意に市長が口を開いた。静かなかすれた声だったが、しんと水を打ったように会議室は静まり返り、時計の静かな音だけが残った。ムディラクは息を吸い、手をきちんとそろえ、書類の上に置いた。
「かなり悲観的に考えるとナフルの一部が飲み込まれますが、あのあたりは階層のある建物が多いですから、住民はまず間違いなく高い所へ避難するでしょう。おそらく人的被害は出ないはずです。出そうな地域はこの間更地にしましたし、問題ないでしょう」
「……多少ゴミを始末できるかもしれんな。だがそうなったとしても不幸な事故だ……」
市長、とすぐ隣に座っていた鷲鼻の男が硬い声で口を挟んだが、老人はピクリとも皺を動かさなかった。落ち窪んだ眼窩のなかでその干からびた容姿に似合わない獰猛な光がまたたいている。ムディラクは目を細め、その視線に答えた。
「そうですな。不幸な事故は万全な準備をしていても起こる場合がある」
「しかし君の飼い犬たちは、まずいことをすればすぐに恩を忘れて噛み付くだろう。何もないのに越したことはない。特に、ナフルのあの地区を潰したのはまずいのではないかね。あの犬の故郷だろう。あれはまだ――役に立つ」
ムディラクは肩をすくめた。
「彼のためになるかと思いましてね。いつまでも過去に囚われているのはよくないことです。それに」
鷲鼻の男は眉をひそめているが、老人は枯れ木のような容貌に似つかわない黒々とした目をみひらき、ムディラクを見返している。カチ、カチと部屋の壁に張り付いている時計が音を立て、静寂を際立たせている。
「あれが噛み付くようなら、あの件の処理に使いましょう。いずれ誰かが処理をせねばならないのですから。あの犬は最後まで役に立ちます」
しん、と沈黙がおりた。緊張が空気の中にみなぎり、窓ガラスが強風のせいで時々音を立てる以外は静かだ。老人はまだ彼のことを見ていた。探るようにじっと、一点を見つめている。
「……君はもう少し情のある人間だと思っていたが」
「犬は叩いて躾けろというでしょう。それでも噛み付くようなら処分するだけですよ」
「なるほど。ところで犬といえば、あの診療所に来た男の調べはついたのか? 毎日狂犬どもが出入りしているそうだが」
「いえ、調べさせてはいますがなかなか尻尾を出さないので……」
「彼は何者なんだね? 科学技術振興機構の倫理委員会がなぜ我々に興味など持つのか……」
「無料奉仕で来ているという話でしたな。なにか違反でもしたんでしょう。もしかすると我々の目を盗んでなにか悪いことをしかねないので、引き続き警戒させておきます。まぁ、おそらく天才が故の過ちというところでしょうし、ここで何かができるとは思えないですが」
「しかし彼は――彼をあなどるのは危険だな。それにこの件に関しても彼らは不幸な事故だとは思わないかもしれない。そう判断されないように、万全の準備をせねば」
ふう、と生臭い息をひとつ吐き、老人は口をつぐんだ。しかし目はまだ彼を睨み続けている。
スクリーンに映っていた文字が薄れ、ゆっくりと部屋の中が明るくなると、あちこちからため息が漏れた。発表を終えた若い男は興奮しているのか顔を上気させている。部屋は静かだが熱気に満ちていて、彼の発表の成功を知らしめているようだ。
「では質疑応答に……」
緊張が解けたのか、発表者がほっと息をついたのが遠目でも分かった。あまり発表慣れしている様子は伺われない。まだ学生なのだろうかとも思えるほどだ。
彼がそう思うと同時に視界の端に文字がポップアップされた。ハワード・エイクン、一昨年に修士号をとった博士課程の学生とある。マームヒトへは博士号取得のための研究できているようだ。この歳で金の鉱脈を掘り当てるとは、幸運な男である。
彼は腕を組んで、まだじっとしていた。質問者がスライド映像を戻し、早口で話をしている。彼らはみな早口だ。発表者も小刻みに何度も首を縦に振って、質問の意図を汲み取ろうとしている。額に汗をかいているのがここからも見える。
「昨年は捕獲に成功したという発表をなさったと思うんですが、今回はその『魔物』から細胞を採取してクローンの生成に成功したということでよろしいですか?」
「ええと、細胞採取はまだできておりません。今回はたまたま機材に挟まれてちぎれた魔物の一部が自己修復して活動を再開したようで、ただ、ただですね、単なる部位の自己修復ではなく、活動を表すあの、我々が『目』とよんでいる部位が内部で再生されて、実質細胞分裂と同じ状態になったようです」
「大きさは?」
「ええと……そうですね、昨日、人差し指の爪くらいの大きさになりました。あ、えぇと、僕の爪は小さいのでこれくらいです!」
あわてたように発表者が声を張り上げたので、会場からはざわざわと笑いが起こった。彼は別段冗談を言おうとしたわけではないようできょとんと目を丸くしたが、会場の雰囲気には明敏に反応し、立体映像をぽん、と各人の前に表示する。思わず彼はぎょっとして手を引っ込めたが、周りの研究者はむしろ感嘆の声を上げて身を乗り出していた。魔物を実際にみたことがないから、恐怖心より好奇心がまさるのだろう。
確かに小さな魔物だ。バランスが取れないのか空中で回転しているが、時々体幹より長い触手を伸ばして何かを掴もうとしている。体の前方から生えている四本の長い触手は魔物の手であると先ほどの発表の中でも紹介されていたが、物を掴んだりするのは長い二本のほうだけで、残りの二本は体幹の移動や回転に使われるのがほとんどだと彼は知っている。こればかりは実際に動いているところを見ないとわからないだろう。この立体映像の魔物はほとんど透明で境界の定まらないぼんやりとした物体だが、中心あたりでは薄青い光が時々またたき、それに呼応するように触手が動いている。
「井戸の中よりミネラルの少ない環境なので、色は薄いですが、結構元気で……ずっと見るとだんだん愛着がわいてくるんですよ。これからまだ大きくなると思います。一般的な魔物のサイズというのはまだ統計が出せるほど目撃例がないんですが、おそらく百倍くらいには――」
どうでしたか、と隣で突然声がして彼は息を止めた。隣にさっと腰を下ろしたこざっぱりとした男は彼が驚いたことには特にコメントをせず、嫌味のないにこやかな笑みを見せている。
「あぁ、どうも……いや、なかなか面白かったです。一年でこんなに研究が進むとは思いませんでした。素晴らしい」
「いやぁ、まだまだですよ。彼の言うとおり、なんとか飼育できる環境を突き止めたという程度で、それが彼らにとって最良かどうかはわかりませんし、それに細胞核があるかどうかすらわからないんですから。この『目』も、本当に視力があるのかわからないですしね。確かに食料と思われる物を見せると反応はしますけど、反応したからといって食べるとも限らない」
「自己増殖するんでしょうか。それとも生殖器官があるのか……」
「どうなんでしょうねぇ……なにしろ痕跡がなくて。ただ今回の件からいうと自己増殖をする可能性が高いですね。まぁひとまず研究室で飼えるようになりましたから、来年にはもっと成果が出るでしょう。期待してください。しかしなんですねぇ、あの物体を溶かした水と井戸の底の泥があれば無毒化されるなんて、実地で現物を見たことがあったら思いつかないですよねぇ」
「えぇ……てっきり水をかけると消えてしまうものだと」
彼は笑顔を作って男に頷いた。男も満足そうな顔をして頷いている。
「あぁ、あとで彼を紹介しますよ。エイクンは去年のおわりにチームに参加したんですけど、今度の件はぜひ行きたいと本人が言うので、やる気があるならと思いまして。若いので時々空回りしますけど、パワーはありますから、ぜひよろしくお願いします。先入観がないぶん我々には思いつかないようなことを言ったりやったりしますから、面白いですよ。僕はちょっとまだ調整中ですが、できるだけ都合をつけていきます。こんな機会はめったにないし」
「いや、こちらこそよろしくお願いします。我々は何もできないですが、せめて場所は提供させていただきます。魔物の解明ができれば、カシの魔物被害も激減しますし……」
「いやぁ、お礼を言うのはこちらのほうです。わざわざ場所まで作っていただいて……しかし、市街地に被害が及ぶことはないんですかね? 僕はそれが心配でならなくて」
学会最大の目玉である発表が終わったせいか、会場はざわめきに満ちている。こうなることを見越していたのか、このあとは二時間ほどの昼の休憩に入るのだ。まだ発表者は質問攻めにあっているが、顔にはおさえきれない笑みが浮かんでいて、実に楽しそうだった。
「私どもも範囲が予想できてはいないんですが、今までの目撃情報から予想できる規模の三百%の面積は確保していますので、おそらく市街地には影響はないだろうと思います。ただ、もちろん――」
男がはさんだ悲観的な予想を、彼は手を地面に水平になるように振って制した。最初のころは彼らのそうやって人の話をさえぎるところは慣れなかったが、彼らも悪気があるわけではないのだ。ただ口にせずにはいられない。そういう人々なのである。
「えぇ、そうです、ご心配なさるのはそのとおりで、絶対ということはありませんから、住民には異変を感じたらすぐに高い所に逃げるように訓練させています、えぇ、そうです」
言葉に熱を込め、彼は拳を握った。魔物がでたときは高い所へ、というのはもともとカシでは常識だ。いくらか教育をしたので、最近は外国人や行商人にも高いところへ逃げるよう指示を出せるようになった。おそらく今この瞬間カシに魔物が現れても、魔物駆除をする自警団員以外にはほとんど被害が出ないだろう。
彼の言葉というよりは言葉にこもる熱量に満足したのか、男はにっこりと笑った。
「できれば当日前後二日くらいは避難勧告とか出せるといいんですけどね。人が多いので難しいとは思いますけど……ああ、やっと終わったみたいですよ、行きましょう」
来た時と同じように音もなく立ち上がった男は、彼が返事をするのも待たずに通路を突進していった。いつも彼らは走っている。しかしどれだけ走っても彼らは足りないという。走れども、走れども、彼らの興味の対象の核心へは行き着かない。一人の地球系人類が持ちうる時間のすべてをつかってもなお、森羅万象のたった一つすらも突き止めることはできないのだ、という言葉を思い出して、彼はまばたきを一つした。
「魔物――――――!」
腕を振り回し、彼は背後に飛び下がった。肌を撫でる冷気がまるで人の手のように感じられる。彼のいた空間をかすめた黒い触手は、ついでにレンガをいくつか崩してまた細道の向こうに消えた。
背後に倒れこみながら即座に簡易防御壁を展開し、ぐるりと後転する。手のひらに湿った砂が食い込み、爪の中にまでその粒が入り込んでくるが、それよりも鼻孔にねじ込まれるような濃い水の匂いにハジは焦っていた。二本の触手――魔物の手が、ハジを探すように砂の上を探っているが、細道の向こうにいるはずの体はまた出てきていない。
逃げ出すなら今だ、と彼は思った。魔物が完全にこの道に出てきてあの青い目でハジの居場所を特定すれば、すぐさま腕を伸ばして食おうとするに違いない。だが、この簡易防御壁にしてもどの程度役に立つのか、試したことがないのでわからない。
口からなにか声が漏れているような気がする。熱い息が喉を焼き、レンガから染み出す冷気が彼の足に絡みついて引きとめようとしている。彼は腕を振り回し、白い光に満ちた大通りを目指した。冷たい水の中に肉の匂いが混ざり、膜のように押し合っている。
力任せに腕をかき、彼は歯を食いしばった。薄くなる水の匂いの層が伸び切った――と思われた瞬間、破れるようにそれは左右にひき、かわりに雑多な空気が彼の体を包み込む。
通りは近い。
「魔物が――――――!」
空を切る音。
とっさに彼は背後を振り返り、腕をつきだした。考えるより先に指が糸を選びとり、眼前に迫り来る黒い影に垂直になるように空間を変形させる。鞭のようにしなった魔物の手がまっすぐにそれに向かって突き進んでくる――
「! ! !」
「魔物だ!」
ガツ、と衝撃が空気を伝わり、彼の体に面となってぶつかった。二本の触手はくねりながら防御壁に潜り込もうとしている。防御壁の左斜め上はヒビが入り、しゅうしゅうと音をたてて溶けていた。
おかしい。
そんなはずがない。
防御壁は三次元空間を二次元空間に押しつぶしただけの代物だ。見かけの動きが変わっただけで、実体があるわけではない。だというのになぜ、魔物はそれを溶かしているのだろう。おかしい。
糸を選り取り、閉空間を形成する。もっと複雑な空間を形成しなければ破られる――いや、それよりも実体を持つ何かを取り出すべきか、なにが魔物の動きを止められるのか、どうすれば。
彼はじりじりとあとずさった。混乱して正しい判断ができていないことはわかるが、背中を見せたら最後、助からない予感がしたのである。
背後から怒号が聞こえる。簡易防御壁は焦げたように黒く変色し、細かいヒビが蜘蛛の糸に似た複雑な幾何学模様を描いている。もうすぐこの壁は粉々に砕け散るだろう。砕け散った時に圧縮された空間がどんな作用を引き起こすのかは興味深いが、今はそれをとっくりと観察している場合ではなかった。壁が砕け散ると同時に閉空間を展開して、出口のない空間の中に魔物を取り込まねばならない。うまく行けば万々歳だが、失敗したらその時は一貫の終わりだ。
惜しい。
こんなに口惜しいことが世界のどこにあるのだろう。
「こっちだ! はやくしろ! はやく――!」
「あれぇ、シンヨージョのやつじゃねぇか。なにしてんだよ、あいつ」
「いいからはやくしろ! 水! 放水はじめ! なにしてんだよ! とっとと配置に着けって言ってんだろうが、クソが! まぬけ!」
背後で誰かが喚いている。こっちに来るなと彼は叫ぼうとしたが、声が出たかどうかはわからなかった。触手の一本はムキになったように執拗に防御壁を殴りつけ、罅の隙間から侵入しようとしているが、もう一本はゆらゆらと鎌首をもたげて彼を狙っているようだ。
まっすぐに来るか。
魔物に知能はあるのか。
わからない。
「ハジ! なにしてんだよ、早くどけ、死ぬぞ!」
「ズィヤート……?」
「危な――!」
光の中から黒い手が迫ってくる。手は太い腕につながりその先は光に溶けている。むんずとハジの襟首を掴んだ腕の力に彼はよろめいた。一瞬にしてすべての音が消え、視界の端でうごめく闇だけが残る。静かにひかる、青い目。彼を狙っている二本の触手が、再び空を切って迫ってくる、まっすぐに彼の元へと迫ってくる――――
「放水! 同時に投擲!」
「とーてきぃー! はじめェー!」
うわん! と耳の中で音がはじけ、彼は体をバランスをくずしてひっくりかえった。強い太陽の光が目を穿ち、めまいのするようなコントラスとの中で人の影だけが動いている。顔にかかる水しぶきの向こうを、弧を描いて飛んでいく幾つもの青い石が――
「斜め上を狙え! 第三車も放出ぅっ!」
続く
光芒を待たず - 1
第二回ハヤカワSFコンテスト第一次選考通過作を加筆修正。後半駆け足で設定が活かしきれていないのでは?と指摘されましたが、そりゃ設定の殆どを削って脇役を主役にもってこないと枚数におさまらないんですもん…Webで長編小説を読むのは大変だとおもうので分割で更新していきたいと思います