ヒーローの忘れ物
最近テレビで見かける、大きな都市を襲う異形の怪物たち。放射能の影響による突然変異だとか、宇宙から隕石に乗ってやってきたとか。様々な推測はあれど、今さらそんなことはどうでもいい。破壊を繰り返しては人間に多大な被害を与えるそいつらを、まずはどうにかしなければいけない。
そこに颯爽と登場したのが、ニュースキャスター曰く、正義の仮面ヒーロー、ジャスティスである。誰も正体を知らない彼は、怪物あるところに現れてはヤツらを撃退し、そして何も語らずに去っていく。
しかし、人々の期待と尊敬を一身に浴びた正義のヒーローは、数日前の怪物との戦いで負傷し、姿を現さなくなっていた。
もし何かの間違いで神様と対面する機会があるとしたら、わたしは一ミクロンも迷わずヤツの顔面に渾身の必殺パンチをめり込ませてやることだろう。怒髪天を突いて、そのままイスカンダルをマグニチュード七くらいに揺さぶるほどの、とにかくもう言葉では言い表せないくらいの怒りやら憤りやらがさっきからずっと頭の中でぐるぐる渦巻いたり駆け回ったり――早い話、わたしは怒っているのだ。
だって今日は二週間前から楽しみにしていた合コン当日なんだよ? わたし、合コンなんて初めてなんだよ? オシャレもしてるし期待に胸を躍らせたりもしてるんだよ?
なのに何故?
「あのう、すみません」
目の前の名も知らぬ冴えない男は頭をぼりぼり掻きながら、さっきからずっとそうしているようにペコペコと頭を下げた。
二十代前半くらいだろうか。伸びに伸びた前髪でほとんど顔は見えないが、その年代っぽい声と肌をしていた。汚れた黒無地のTシャツにカーゴパンツ。なよっとした口調に似合わない引き締まった筋肉は、あちこちにひどい怪我を負っていた。かさぶたになってるから、もう治りかけっぽいけど。
まあつまりは気持ち悪いやつなのだ。
「こちらこそすみません、急いでいるのでまた今度。じゃっ」
素早く男の脇を通り抜けようとして、
「あっ、待ってください!」
新品のジャケットの襟を掴まれ、勢いもそのままに思いっきり仰向けにぶっ倒れる。したたかに打ち付けた後頭部に鈍い痛みが走り、目の前で一等星が瞬いた。
「ああっ、すみません!」
慌ててわたしを起こそうとする男の手を力いっぱい振り払い、
「すみませんじゃないわよ! わたしは今、ものすごく急いでるのっ。もういいからこれ以上わたしに構わないで!」
ふらふらと起き上がりながら怒鳴るわたしに、男はおろおろとうろたえながらも、
「そ、そうもいきません。この辺り、誰も出歩いていないので、お話しできるのはあなたしかいないんですよ」
「ど田舎ってゆーな!」
「い、言ってませんよう」
確かにこの辺は過疎化やら何やらで極端に人口が少ない。見渡す限り田んぼと畑だし、そこに人がいたとしても、『外』を知らない老人ばかりだ。若い人たちは『外』に飛び出し、わたしだって高校を卒業したら打って出るつもりでいる。
自分ではこの小さな町を田舎と呼んでいるくせに、『外』の人間にそう思われるのは大嫌いだ。我ながらいい性格してると思うよ。
「お手間はとらせません。ボクの質問に答えていただければいいんです」
男はなおも食い下がる。あーもうっ。
「分かったわよっ。ただわたしだって時間がないんだから、さっさと言ってよ」
頭をさすりながら言うと、男はとんでもないことを口にした。
「ボクは誰ですか?」
……はぁ?
「あんた何言ってんの?」
「あ、いや、あんた何言ってんのって気持ちはよく分かります。でもボク、なんか記憶喪失みたいなんですよ」
き、記憶喪失う? そんな人、ドラマでしか見たことないよ。
ちょっとこの男に興味が出てきたのを悟られないように(悟られるとなんか悔しいからだ)、じゃあ警察にでも行ったら? と言おうとして、そういえば交番ってここから遠いよなあなんて思って、他の言葉を探した。
すると男は、遠くを指して言った。
「気がついたらあの山の中で倒れていたんで、多分この辺の住人だったんじゃないかと思ったんです」
それは、ここから自転車で二十分ほどの大きな山だった。ハイキングとして使われることのない、木と畑だけの山。
「それと、こんな物を持ってたんですが……」
そう言ってズボンのポケットをごそごそやって取り出したのは、あちこち尖がった、なんとも表現のしづらい幾何学的な形をした、シルバーのペンダントだった。
「ここに何か彫ってあるんですけど、ひょっとしたら何か分かるかと思いまして」
手渡されてペンダントを覗き込み、はっと息を呑む。
そこには、こんな文字が刻まれていた。
『JUSTICE』
名前がないのも会話しづらいので、当面は『太郎』と呼ぶことにした。
「太郎……ですか。ありがとうございます」
適当に名付けてやったというのに、彼はなぜかとても嬉しそうに笑った。変なヤツ。
結局、わたしは楽しみにしていたコンパを辞退した。携帯電話で友人に連絡をいれると、当然のように理由を訊かれたけれど、わたしは家族の急病というありきたりな言い訳をしてやり過ごした。
だってしょうがないじゃない。ヒーローを拾ったから行けません、なんて言えるわけないもの。
というわけで、わたしは今、家に連れてきたこの記憶喪失のヒーローと対峙しているのであった。
「それは多分、あなたが変身するときに必要な物よ」
太郎のペンダントを指差して言う。
ちなみに彼の汚い服は現在洗濯中だ。今は父のダサい上下に身を包んで、正座している。足を崩してもいいよとは言ったんだけど、彼はそうしなかった。案外厳しいしつけを受けてきたのかもしれない。わたし、この家の娘でよかった。
「エリさん、知ってるんですか?」
驚いたように太郎は身を乗り出す。
「多分って言ったでしょ。まあでも、十中八九間違いないわ」
「そ、そうなんですか」
「怪物との戦いで負傷したあなたは、きっとあの山で力尽きたのよ。空から落ちて、山の木や岩に衝突して記憶を失くしてしまったんじゃないかしら」
推測、というよりは断言に近いわたしの物言いに、太郎はなぜか黙ったまま項垂れた。
「じゃあボクはまた……戦わないといけないんですね」
見ると、彼は小刻みに震えていた。
まあ無理もないか。数日前までと違って、今は何も知らない、ただの一般人のようなものなのだ。急に「あなたはヒーローなんだから、ビルをも楽々粉砕するあの怪物と戦いなさい」と言ったところで物怖じするのは仕方がない。わたしだったら間違いなく逃げるだろう。
でもだからといって、彼の目を逸らしたままではいけない。それも分かっているから、わたしは一つ提案した。
「今日は『外』に遊びに行きましょ。何か思い出すかもしれないし」
なによりわたしが『外』を見たいしね。
バスと電車を乗り継いで二時間強。わたしたちは『外』に来ていた。
とにかくもう人とビルばっかり。右も左も分からないというより、見えない。あちこちから大音量で流れる楽曲に顔をしかめながら、わたしたちはすることもなく、ただふらふらと歩いた。
これが『外』か――期待や不安、いろんな感情を吐き出すように、大きく息を吐く。
『外』に出れば、きっと何かがあるって子供の頃から思っていた。でも実際は何があるでもなく、ただ人が流れているだけ。拍子抜けではなく、裏切りに似た空虚さが、わたしの心に冷たい風を吹かせた。
「……何か思い出した?」
隣を歩く太郎に訊くと、
「え? 何か言いました?」
耳に手を当てて訊き返してくる。周りの人たちはそんなわたしたちのやり取りを見て、クスクスと笑って通り過ぎる。自分たちが田舎者まるだしなのを改めて自覚し、わたしは恥ずかしさで耳まで赤くなった。苛立って、大声でもう一度言ってやると、
「あ、ああ、いや、まだ何も思い出せません。すみません」
太郎は頭を掻きながら、すまなそうに謝る。それがまたわたしの苛立ちに拍車をかけた。
「何を謝ってんのよっ」
「だ、だってエリさん、怒ってるから」
むかっ。
「怒ってなんかないわよ! 誰があんたなんかに無駄なエネルギー使うかってのっ」
「す、すみません」
「だから……」
そこでわたしの言葉は遮られた。
「か、怪物だあ!」
空を指し、誰かが叫ぶ。
見やると、そこには三メートルほどの異形の魔物が漆黒の翼をはためかせて浮いていた。
シルエット的にはどこかの神話に出てくる馬人間、ケンタウロスといったところか。のっぺらぼうに鋭い一本角。代わりに腹が大きく横に裂け、そこから光る牙が見え隠れしている。
初めて見た怪物をただ呆然と見上げていると、気がつけば、そこにはわたしと太郎しかいなくなっていた。さすがに怪物を見慣れている人たちは違う。対処法――つまり、逃げることを知っていた。
つい数分前まで人でごった返していたこの辺りも、今ではわたしの田舎と変わりない。人がいなければ、ビルで埋まったこの街も、ただの冷たい空間でしかないのだ。
「お、降りてきますよっ」
太郎の言葉で、はっと我に返る。
今さら逃げる余裕なんてなかった。
怪物はわたしたちの数メートル前に、音もなく降り立った。そのくせズシンと揺れを感じたのは、ヤツの殺気に圧倒されたからだろうか。
とにかく今は逃げなきゃいけない。頭では理解できても、身体は金縛りにでもあったかのように動かないし、何より、もう逃げられないと感じてしまっている。
わたし、ここで死んじゃうのかな――不吉な予感が心を支配する。
こんなことになるなら、『外』を知りたいなんて思うんじゃなかった。太郎を連れてくるんじゃなかった。関わるんじゃなかった。
怪物の裂けた腹から、ねっとりとした大きな舌がべろりと出る。どうやらそろそろお食事の時間のようだ。目がないのにどうやってわたしたちの居場所を感知するんだろう。匂いかな? いや、見たところ鼻らしきものもないし。こいつは神秘的だね。はっはっはっ。
……ど、どうしよう。
現実逃避しようにも、危機はすぐそこまで迫ってきている。でも逃げられない。絶体絶命とはこのことだ。
思い出すような楽しい過去もなく、だから走馬灯のように流れるのはいろんな後悔の念だけ。せめて今日の合コン、参加しとけばよかった。
「エリさん、退がっていてください」
突然、太郎がわたしの手を引いて自分の後ろに隠した。
「た、太郎?」
「ボクが守ります。エリさんを守ってみせます」
そう言ってペンダントを握り締める。
「で、でもあんた、変身の仕方とか……」
「はい、思い出せません」
やっぱり。
「じゃあ無理だよ! 逃げよう」
「それこそ無理です」
太郎は肩越しに振り返ると、わたしに笑ってみせた。
「大丈夫です。ボクは正義のヒーロー、ジャスティスなんですから」
「でも……」
「エリさん、あなたはボクに名前を付けてくれた」
再び正面を見据え、そして身構える。
「そんなの関係ないじゃない!」
「記憶を失くすっていうのは、いわば闇に落とされるようなものです。伸ばした手の先も見えないような真っ暗闇をさまよっていたボクに、あなたは光を射してくれた」
「違うわよっ!」
太郎の都合のいい解釈に、思わず叫ぶ。彼は驚いたように少し振り返ってわたしを見た。
「そんなんじゃない! わたしはそんな優しい人間じゃない!」
「エリさん?」
今日の合コンだって遅刻するって分かってた。みんなの白けた視線を浴びたくなかったから、慌てた振りをしてても本当は行きたくなかった。そこに太郎が現れた。記憶喪失だって聞いて、好都合だと思った。 『外』に出る理由になるって思った。『外』に出て、嫌なことを全部忘れたかった――
「わたしはあんたを利用しただけ。わたしが『外』に出るために利用しただけなんだから。わたしはあんたが思ってるような人間じゃないんだから!」
涙が溢れる。こんななよなよした男に自分の泣き顔を見られているのが恥ずかしくて、でも全然止まらなくて。
涙はまるでわたしの卑しい心のように、次から次へと溢れては、頬を伝ってぽたぽたと地面に落ちた。
「……でも、」
太郎は言う。
「でもボクは嬉しかった。あなたが自分をどう思っていても、ボクはあなたに感謝しています」
「太郎……」
「じゃあ、戦ってきます」
自分がヒーローだと知って恐怖に震えていた太郎は、もうそこにはいなかった。わたしの前で怪物と対峙しているのは、紛れもない正義のヒーローだと思った。
「行くぞ!」
地面を蹴り、躊躇なく怪物へと飛び込んでいく。
その時だった。
「待てっ!」
空から降る声に顔を上げると――
「ジャスティス参上っ!」
ニュースや新聞で見慣れた仮面の男――本物のジャスティスがビルから飛び降りてくるところだった。
勝負はあっさり片付いた。
「ジャスティス・ビぃぃぃム!」
びびびびー。
どかーん。
「うぎゃおーっ」
ひどく稚拙な表現で申し訳ないが、事実、こんな感じだった。時間にして二十秒くらい。頭の中を整理する余裕もなく、正義のヒーローは高笑いと共に去っていった。
んで。
その場にはわたしと、いろんな意味で痛々しい太郎が残っていただけだった。
「つまり」
わたしは言う。
「太郎はジャスティスじゃなかったということね。ははは」
帰りのバスの中。そう結論付けて笑い声を上げると、
「笑い事じゃないでしょうが!」
半泣きの太郎が抗議した。
「ボクがジャスティスだって言ったのはエリさんじゃないですかっ。ほんと、もう死ぬかと思いましたよ」
「良かったじゃない、生きてたんだから」
「良くないですよっ。だいたいこのペンダントだって……」
「ああ、普通にお店で売ってたね」
お土産屋さんを物色していたら、ジャスティス饅頭のとなりに一個五百円で置いてあったのを思い出す。
「……もういいです。いじけます」
そう言うと、太郎はわたしに背を向けて膝を抱えた。
わたしはやれやれと肩をすくませて、彼の意外に大きな背中を眺めた。
ねえ太郎、あんたはわたしに「名前を付けてくれて嬉しかった」って言ってたけど――わたしだってあんたが身を挺して守ってくれた時、本当に嬉しかったんだよ。
まあそんなことは絶対口にしないけどね。
「太郎」
声をかけると、
「何ですか?」
振り返りもせず、訊いてくる。
あーあ、本気でいじけちゃってるよ。
しょうがないから、わたしは彼の背中にそっと言ってやった。
「かっこよかったよっ」
緑の生い茂る小さな田舎町は、もうすぐそこまで迫ってきていた。
ヒーローの忘れ物