カリギュラを食った女

「ねぇ、あなた、聞いているの?」
「ああ、聞いているさ。畑が、何だって?」
「やっぱり聞いていないんじゃない。家のお庭で作っているハーブ菜園なんだけど、野良猫が荒らして困っていたのよ」
「うん、それで?」
「オレンジの皮を畑の周りにまいておいたらね、猫が近寄らなくなって」
「へぇ。なんでだろうね?」
「柑橘類の臭いが嫌いなのじゃないかしら。想像だけど」
「ふうん、そういうものかね」
 グランカッサはパンとワインをそそくさと胃袋に詰め込みながら、曖昧に応えるのだった。
 ローマ時代の朝食は実に簡素なものであったらしい。

「いってくるよ、お前」
 夫は愛する妻マリモに向かって、精一杯の笑顔とキスをプレゼントする。
 わがままな皇帝の側近として宮殿勤めする夫は気苦労が絶えないが、それを家庭でおくびにも出さないのは男が男たる故。
 だがグランカッサ戸外に赴くにあたって早朝の冷気に触れ、その敏感な鼻の感覚を刺激されて思わずクシャミをひとつ。
 続いて敷居につまずいて転びかける。
「まぁ、あなたに神の祝福を」
「あ、ありがとう」
「ね、あなた、嫌な予感がするの、今日はお出掛けしないで家にいたらどう?」
 当時西欧ではクシャミは悪魔が取り付く前兆であり、敷居につまずくのも不吉とされていたから、これはもう妻マリモにとって心配以外のなにものでもない。
「それができればどんなにいいだろうか。いってくるよ」
 いつの時代も宮仕えは辛いもの。
 ことさら彼の主人はローマ史上最悪の人物であったからなおさらに。

 ローマ皇帝カリギュラ。
 実の姉までを愛人とする色情家であり残虐を好んだ彼は、一方でその政治的手腕を評価する声も多い。
 人となりは虚弱体質で短気であったという。
 結果皇帝の機嫌を損ねることは、即死を意味していた。
 グランカッサは皇帝の護衛兵を勤めていたが、いつも粗相をしないかと毎日身も凍る思いであった。
 ただし、この日は何があったのかカリギュラ上機嫌で、今日はどうやら何事もなく終わりそうだ、とグランカッサが目論んだのは早計である。
 案の定、鏡を持っていてくれ、と皇帝に命じられたグランカッサに油断があった。
 カリギュラ、やや頭髪が薄いのを気にしていたという。
 それで鏡で髪のセットをこまめにするのだが、グランカッサ鏡を床に落としてしまった。
「あ!」
 叫んでも時既に遅く、鏡には大きなヒビが。
 当時鏡は神聖な道具であり、それを割ることは凶とされたから、これをカリギュラが責めないわけがない。
「よくぞ、落とした」
 カリギュラは、けれどもにこやかに微笑んで謝罪に恐縮しているグランカッサの肩を叩くのだった。
 側近ならみな知っている、皇帝は激怒している時ほどよく無意味に笑うのだった。

「え、夫が牢獄に?」
 グランカッサの妻は夫の友人からこの一報を聞かされて、自身気を失わなかったのが不思議でならない。
 皇帝の不興をかった罪人が許されたためしは、これまで一度たりとてないからだ。
 カリギュラはせめて兵士としての死を皇帝に陳情し、これを認められはしたが、それは闘技場において武器を持たずして飢えたライオンと戦えというものであった。
 もし勝てば命は助けると約束されたが、いかに筋骨隆々たるグランカッサとて、素手では勝負になるまい。

「なんだ、貴様は、裸で陛下の宮殿に押しかけるとは無礼千万!」
 宮殿の衛兵が客を今にも叩き斬ろうとしているのに、客は堂々とこう申し述べる。
「わたしは恐れ多くもカリギュラ皇帝陛下に裸で来るようにと申し付けられて、こうして参上した者。それを殺めれば、どのようなことになるか、おわかりですか?」
「へ、陛下が? うへーっ、これは失礼をばいたしました。なにとそ、陛下にはこのことご内密にお願いいたしますぅ」
 客の口上は、まったくの偽りである。
 カリギュラはそんなことを誰にも命じていない。
 そして、この客こそグランカッサの妻マリモである。
 マリモは臆せずにどんどんと宮殿の内部に侵入してゆく。
「陛下、お招きにより参上いたしました。いずこにおわします?」
 これだけ威風堂々とした態度のマリモを制止できる人間はいない。
 誰もがふしだらな皇帝のやりかねないことだと思ったし、彼女が裸身であるから武器を所持していないのは明らかで、皇帝に危害は及ばないと安心していた。
 いや、それ以上にマリモの裸体美は素晴らしく、男女ともその神々しいまでの姿を堪能していたい、というのが案外本音だったのかもしれない。
「なにごとだ!」
 やがてカリギュラが騒動を聞きつけてマリモの前に進み出る。
 白いチュニック、赤いマントをひるがえし、頭に月桂樹の冠を厳かにかぶって。
 すると彼女は静粛にひざまずいて、こう答えるのだった。
「皇帝陛下のお招きにより、こうして参上いたしました。よもや、お忘れではありますまい」
 もちろんカリギュラの記憶中枢には欠片も存在しない。
 にもかかわらず、
「忘れるものか、さ、寝室に丁重にお通しせよ」
 と好色な皇帝は舌なめずりしながら、喉を猫のように鳴らすのだった。

「夫の命乞いなら受け付けないぞ」
 ぴしゃり、寝室の豪華なベッドの上一戦に及んだ後、カリギュラは用件のイニシアティブをとったのは流石。
「いいえ、そうではありません」
 ところがマリモはあっさりと否定する。
「では何しに参ったと言うのだ?」
「お願いに来たのは嘘ではありませんが」
「ふむ。裸で来るとは感心したぞ。でなければ門前払いだったであろうからな。さて、余を楽しませてくれた礼だ。望みを叶えてやろう」
「ありがとうございます」
「申せ」
「ライオンとの試合後、夫の体を全て私にお返しいただきたいのですが」
「何? しかし、獣にひき裂かれて、喰われて、見るも無残な姿になっているであろう」
「それでもかまいません」
「ふははははは、豪気な女だな。よかろう、許可する」
「もうひとつ」
「まだあるのか?」
「はい、試合まであと十日あると聞き及んでおりますが」
「そうとおりだ」
「毎日夫のために精がつくものを差し入れたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ほう? それは願ってもない。囚人の食費とて馬鹿にはできないからな。その旨、牢番に伝えておくとしよう」
「ありがとうございます」

 試合当日は晴天にして無風、絶好の観戦日和。
 コロセウムに押しかけた観客はされど憤懣の嵐であった。
「なんだ、あのライオンは! 武器も持たない剣闘士とまるで戦おうとしないではないかっ!」
「それどころか近寄ろうとすらしない」
「これじゃあ看板に偽りありだ。家族そろって弁当持参でやってきたのによぉ」
 作者がいい加減な事を書いているわけではない。
 殺し合いを見る事が娯楽であった時代なのだから。
 ともあれこのイベントを企画したカリギュラの顔はメンツをつぶされて真っ赤に染まり、それでもニヤニヤ笑顔をこしらえて、さながら悪魔のようであった。
 実はカリギュラ大病を患う。
 このとき、既にその病に侵されていたのかもしれない。

「あなた、あらためてお帰りなさい」
「ああ、二度と再びこの家に帰ってこられるとは思ってもみなかった」
 愛し合う二人は一度その愛を確かめ合ってから、荒い息づかいの中で語りあう。
「でも、どうして? どうしてライオンは俺に襲い掛かってこなかったんだろう?」
「私が、あなたに差し入れた食事、覚えているでしょう?」
「ああ、果物ばかりで、最後はうんざりしたけれど」
「ライオンって、猫に似ているって、前から思っていたの」
「ん? それがどうした?」
 ライオンはネコ科の生き物である。
「ひょっとしたら、柑橘系が嫌いなんじゃないかと思って」
「あ、なるほど」
 毎日グランカッサは妻の差し入れる柑橘類を口にしていた。
 喫煙する人間の皮膚からニコチンが染み出すように、グランカッサの皮膚からも柑橘系の香りが染み出したのは不思議でない。
 そうでなくても風呂が許されない囚人であれば、体に柑橘類の汁や匂いが十二分に染み付くはずだ。
 マリモの作戦勝ちである。
「ね、あなた、もう一度」
「あ、ちょっと、疲れてるから」
「いいじゃないの」
 この夜を境に、グランカッサ大いに睡眠不足と体力消耗に悩まされることになる。
「これならライオンに喰われたほうがましだった」
 とぼやいたかどうか、それは定かではないが。

       おしまい

カリギュラを食った女

カリギュラを食った女

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更新日
登録日
2015-08-22

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