透明な彼女
透子は、世界から浮かんでいるようだった。
周りから少し離れて、俯瞰から世界を見つめている。
たくさんの人々の中にいてもハッキリと分かるぐらいに人目を惹く容姿をしているのに、まるでそこにはいないかのような、そんな不思議な存在感があるのは恐らく彼女のまとう雰囲気のせいだ。
特別な女の子だった。
魔法使いのように、人の懐に潜り込んでは心を抜き取って去っていく。
相手が夢中になる頃には痕跡を残さずに煙のように消えてしまうのが、彼女の常套手段。
恐ろしいほど透き通った水をそのまま結晶化させたような彼女は、どこにいてもどこにもいないみたいで、いつも遠くを眺めていた。
その常人離れした美しさだけでも存在感があるのに、にも関わらず、スッと辺りと馴染んでしまう。
そこにただいるだけなのよ、あなたのことは脅かさないわ……そんな言葉が聞こえてくるような自然さで、なんの嫌味も圧迫感もない。
ガラス玉のようにつるっとした、青みがかった白目、真っ黒な瞳。
枝のように細い指先に、薄桃の爪がくっ付いている。
小指のリングがよりその指をさらに華奢に見せた。
煌めくゴールドの柔らかな光。
憧れを形ににしたような手足の長い体はしなやかで柔らかく、いつもいい匂いがする。
その彼女に、告白されたのは、ある麗らかな春の午後だった。
太陽の光が細く切れ切れになって、そこら中に光の粒が舞っているような、粉っぽい春の陽気。
そのボヤけた気だるい空気の中に梅の花びらがはらはらと舞う――そんな光景をぼんやり眺めていると、隣に座った透子はおもむろに髪の毛の束を耳にかきあげた。
露出した耳につけているピアスは、細い金色のチェーンの先に淡い水色の石が付いていて、動きに合わせてユラユラと揺れる。
時折光を吸いこんでキラキラとした光の粒が首筋に散るのが、きれいだ。
ピアスを開けるだけ開けて、惰性で取り替えもしない私とは大違いで……。
そんなことを密かに思っている時だった。
「好きになっちゃった」
透き通った彼女の声に、え、と私が漏らす。
恋が多い彼女の、よくあるセリフのひとつだ。
恋をいくらしても、本気になるのは難しいのね、と、いつか彼女がぽつりと言っていたことを思い出す。
「ふうん……誰を?」
私も、いつものように返した。
「……、……あなたのこと」
転がるような声で答えると、うすピンクの唇がにっこりと笑みを形作る。
丸くて白いおでこ。
いい匂い、ピンクのグロス。黒い瞳。華奢な体の柔らかな胸元。
「えっ?」
透子を形作る様々なものに不躾に視線を散乱させた後、彼女のあまりにも唐突な言葉に間抜けな声が出る。
「すきよ」
「……えっ、ちょっと待って、ついていけてない」
額に手を当てて、私は喉から押し出すように言った。
突然ひりつくような喉の渇きを覚える。水がほしい。
全く頭が回っていないことが自分でも分かるのに、透子のつけている香水だけいやによく香る。
ああ、なんていい匂いなんだろう、まるで最初から彼女の体臭のように馴染んでいるその香り。
「香澄、私じゃだめかしら」
その香りの中で透子が私の名前を呼ぶ。
自分の名前は嫌いだった。
細いだけの鶏ガラのような私の体。
山も丘もなく、なだらかでふくよかな女性らしいカーヴはどこを探しても見つからない。
水平線や断崖だらけの、私の体。
透子のように、香水の香りを含む豊満さはまるでない。
それなのに、私の名前ときたら、澄んだ香りで「かすみ」なのだ。
名前負けもいいところで、かすんでいるのはこっちの方だと言いたい。
「ちょっと待っ、……えっ?透子は私と付き合いたいの?」
混乱のさなかでようやく言葉を返す。
彼女は、今まで告白された相手をことごとく陥落させてきたであろう、極上の甘い笑みで頷いた。
女同士で付き合いたいと言われたのは、生まれて初めてのことだ。
「あなたのこと、もっとたくさん知りたいの。ほかの人が知らない、秘密のことまで」
小首を傾げる仕草には少しの嫌味もない。
愛らしい、瞳。
心臓が早鐘を打っているのが分かる。耳や首が燃えるように熱い。
「付き合って、どうする、の?」
ようやくかすれた声でそれだけ聞いた。
鈴が転がるような声で、独特の甘さを含む可憐な声で、透子は言う。
「あなたに触れたいわ」
私はその声に籠絡されて、彼女とベッドになだれ込んだ。
長い指先が背中を這っていくその感覚の、なんと官能的なことだろう。
真っ白なシーツの上で体をよじる私に、透子はその長い手足を添うように絡めて器用に動きを封じる。
透子が顔を傾けるたびに、長い髪の毛がぱらぱらと束になって私の肌を柔く撫でた。
ため息のような微かな声が漏れる。
透子は巧みに、指先を、肌を、唇を、私の肌に重ねた。
まるで、表面の産毛だけを逆立てるように、微かに、しかし時としてしっかりとしたタッチで私の体を開いていく。
皮の下に筋肉や骨が埋まっているのが分かる男の胸や指先では、この感触は再現できないだろう。
柔らかに甘く、ひたすらにずぶずぶと沈んでいくような、泣きたくなるような感触だ。
透子の香水の香りが鼻先を掠める。
淡く上気した桃色の肌が纏う香水と女の香り。
私は目の前が真っ白になるような、そんな目眩を感じた。
なんて綺麗な女の子なんだろう。
「……あら、声を殺してるの?可愛いのね」
男性経験のほとんどない私の、骨と皮だけの体を、透子はゆったりとした指使いで濡らしていく。
男の人はおろか、女の子にだってこんな風に触れたことはない。
触れられたことはない。
どうすればいいか分からない私を、時に翻弄して、時に宥めるように透子は指で、舌で、導いていった。
カーテンを閉め切った部屋の中で、私と透子の甘い吐息だけが繰り返し聞こえる。
体を繋げるというよりは、抱き合って縺れると言った方が近い気がする。
何も纏わない肌と肌が触れ合うと、こんなに安堵するとは思わなかった。
しっとりと汗ばむ肌と肌の間に、甘い香りがふくよかに漂う。
透子は他の誰とこうしたのだろう。
シーツとブランケットの間で、穏やかに、時に意地悪く笑って私を翻弄する透子。
カーテンの隙間から漏れ出る光を受けて、透子の青白い白目がきらきらと光った。
授業のない日には、こうやって私の部屋で抱き合うのが習慣となった。
「そのまま、前を見ていて」
洗濯物の側で煙草をふかしていると、シーツの影から声がした。
透子と呼んだ瞬間、振り返る隙も与えず、彼女の細い指がねずみ色のスウェットを下着ごと引き降ろす。
息が喉の奥で逃げ場を失ってひゅっと鳴った。
彼女は私の足元にしゃがんでいる。まとうルームウェアの裾が柔らかく襞を作っていた。
ベランダは柵ではなく壁のタイプだったからか、私の下半身は丁度よく綺麗に隠れている。
「一度やってみたかったのよね、こういう、安いポルノ映画みたいなこと」
下半身がすっかり露出し、風に吹かれ肌が粟立つ。
煙草の火を手すりに押し付けるようにして消した。
私の動揺など素知らぬ振りで、彼女は私の脚へ、奥へ、指を這わせていく。
待って、だめ、とありがちな言葉を呟いている内に私は深い沼へと落とされてしまった。
彼女に導かれるまま沈んでいく肉欲の沼。
かつて思っていた男性とのそれはひどく深く罪深いものに思えたのに、透子が相手だと不思議に、澄んだ湖底で眠っているような、そんな感覚だった。
交わるひとつひとつの細胞。
透子と私に似ているところは一つもなかったが、体の芯から彼女に染まっていくが分かった。
終わりは突然で、陳腐だった。
夜半、路上でキスしていた私たちを、たまたま彼女の親の知り合いが見ていたらしい。
激怒した親によって、彼女は海外へ旅立つことになった。
「呆気ないね」
そう言った私に、彼女はちらと向けた視線をそっと外した。
「わたしは、まだ人間じゃないのね。自分で選ぶことが出来ないの、ただ一つのことすらね」
呟いて、ミネラルウォーターのペットボトルを傾けた彼女。
白く滑らかな喉が数回動いて、ああ、透子は別れを決意したんだ、とぼんやり考えた。
自由な彼女らしからぬ選択。元より、見つかってしまった時から、択一でしかなかったんだけれど。
違和感よりは、彼女を包む冷え冷えとした底知れぬ孤独を垣間見たようだった。
別れの挨拶一つ交わさず離れて、それきり、ぱたりと会うことはなくなってしまった。
風の噂すら私の元へは届かない。
彼女と過ごした一瞬の間、世界は虹色に輝いたような気がしたが、それは私が透明度の高い彼女を通して見たプリズムだったのか。
誰と会っても、誰と恋をしても、あの官能的な感覚は戻らなかった。
ヒリつくような焦燥感も、憧憬も、あの頃透子へ覚えた何もかもが、淡い春の痛みとなって、胸の奥にしまったままでいる。
<了>
透明な彼女