夏の雨

 入道雲が窓の外の空に浮かんでいる。少し灰色になっている部分があってこれから雨が降りそうだ。僕はベランダに出て、洗濯物を取りこんだ。カラカラに乾いた衣服は夏の気候を物語っていた。
 夏はどこか懐かしい気がする。きっと多くの人がそう感じているのだと思う。僕は何度も他の人からそういうことを聞いたことがある気がする。小学校の頃の夏休みだったり、家族で行った旅行だったり、祖父母の家に行ったり、夏は思い出が作りやすいのかもしれない。でも僕はあの一度だけ体験した夏の思い出が頭からまだ離れないでいる。あの夏はずいぶん不思議な夏だった。こうして社会に出て働くようになってからも学生時代を思い出すとどこか懐かしい気分にさせてくれるのはあの夏があったからだと思う。
 あれは大学三年生の夏休みだった。学期末のテストが終わり僕は少し浮かれた気分で廊下を歩いていた。この大学の建物は少し古く、壁がところどころはがれていてコンクリートがむき出しになっているところもあった。でもどこかそれは学校の独特の雰囲気を持っていて、僕はここが気に入っていた。
 校舎からでると、外は日差しが強くて蒸し暑かった。この辺りは都会からは少し離れているけれど、ヒートアイランド現象の影響を受けているのか、たぶんここよりも暑いところはないんじゃないかと思うくらい暑かった。少し外を歩いているだけでも体から汗がにじみ出てくる。僕は校舎からコンビニやカフェの入っている建物に移った。そこには街で見かけるチェーン店がいくつかあり、大学の中にしては充実していた。僕はそこの一階の隅にある談話室に行った。僕がそこに行ったのは理由があった。なぜならそこは僕と同学年の同級生が集まる定番の場所になっていたからだ。とりあえずそこへ行けば誰か知り合いに会うことができた。この大学の独特の文化というか、各学部や各学年での結束力が強く、文化祭の行事などもとても盛り上がり、その度に同学年の同じ学部同士で準備をすることが多かった。
 僕がテスト終わりに談話室へ行くと、そこには数人の男女が集まっていた。
「悟もテスト終わったのか?」と彼らの中の一人が僕に訊いた。
「終わったよ。哲学のテストだったんだけど、書くことが多くて疲れた」
「それは大変だったな」ともう一人が言って笑った。
 僕は談話室の椅子に座り彼らと話をしていた。彼らは夏休みに旅行をする話で盛り上がっていた。
「悟も来るか?」と僕と仲の良い達也が言った。
「どうしようかな。バイトの予定が入らなければいいけど」
「せっかくだから行こうぜ」ともう一人がいい、僕はいつの間にかその旅行に参加することになった。
 彼らの中の一人の圭介が僕の座っているテーブルにやってきた。彼は同学年の中でも何かと話題になることが多かった。それは彼の女性関係のことだったり、彼が所属しているサッカー部のことだったり、彼の夜遊びのことだったりした。
「このあと時間あるか?」と彼は僕に訊いた。
「あるよ」
「ちょっと話したいことがあるんだ」
 彼はそう言って僕に目配せした。僕達は二人で席を立ち、「ちょっと出かけてくる」と圭介が彼らに言って、談話室を後にした。彼が僕に話があるなんてどうせろくな理由ではないと思った。たぶん金が尽きたから貸してほしいとかそんなことだろうという気がした。彼は夜クラブで一夜を明かしたり、同棲している彼女と海外旅行へ行ったりして割とすぐお金を使った。
 僕たちは近くの駅まで一緒に歩いて行った。夏の日差しは僕の肌を焼いた。日差しで前を見るのすらまぶしく、体はどこかだるかった。圭介の方を見ると彼は普段どうり能天気な顔をしていた。
「暑くないのか?」と僕は訊いた。
「夏って好きなんだ。暑い分には平気だけど、寒さは駄目だ」
「俺は冬の方がいいな」
 改札の前で彼は財布を出して切符を買った。定期券を持っていないだろうか。確か彼はここから離れたところに住んでいて、そこから電車で大学に通っていたはずだ。
「定期券持ってないのか?」
「普段はバイクで学校に通ってるんだよ。俺この前引っ越してこの近くに来たんだ」
「彼女も一緒に?」
「実はこの前別れたんだよ」
 彼はめずらしく深刻な顔をしてそう言った。こんな彼の顔を見るのは久しぶりだった。
「この前喧嘩したんだ。俺が他の女と遊んでたのがばれてね。話っていうのはそれだよ」
 彼はそう言ってポケットから煙草のケースを出した。すぐ近くの喫煙所まで行って、彼は僕にも一本渡して煙草を吸った。火を点けると白く細い煙が出て、息を吸い込むと、肺の中に煙が入った。
「俺たちはそれなりに仲良かったんだよ。でもさすがに毎日一緒にいると退屈になってくるんだ」
「和解しなかったのか?」
「俺も最初はそのつもりだったけど、なんか駄目だったんだ」
 彼はそう言って口から白い煙を吐き出した。彼の吐いた煙は空気中に広がっていき、やがて消えていった。
「とりあえずパチンコでも行かないか?」と彼は言った。
「かまわないよ。俺もこの前バイト代入ったばかりだし」
 僕たちはそう言ってそこから一駅だけ電車に乗った。そこはこの辺りでは一番の繁華街だった。駅から降りただけでも、人通りの多さといろいろな店の音であふれかえっていた。僕達はそこから五分ほど歩いてパチンコ屋に入り、そこでしばらく時間を潰した。ぼくはしばらくの間台にくぎ付けになっていた。もともとそういう性質なのか、物事にはまりやすかった。結局圭介が三万稼ぎ、僕は持ち金をほとんど失った。
「この金で遊ぼう」と彼は言って、僕たちは繁華街の奥へと歩いて行った。
 そこは彼が行き慣れている風俗店だった。安っぽい店の看板が汚いビルの前に並んでいた。僕達はそこに入り、彼が代金を払った。待合室で女の子がやってくるのを待ち、僕達は順番に店を後にした。
 僕の横には程よい肉付きの小柄な女の子がいて、彼女と一緒にホテルまで向かった。ホテルに着くと、彼女と僕は服を脱ぎ、風呂場に入った。彼女は器用で僕の体を慣れた手つきで洗った。僕はさっきよりも興奮を感じながら僕の体を洗う彼女の体を眺めていた。ふっくらとした乳房や丸い腰の辺りを見ていると胸が鼓動を打つのが聞こえた。体を拭き僕達はバスタオルを巻いてベッドのところまで行った。ベッドの上に彼女は乗り、バスタオルを体から外した。彼女の乳房は大きく下腹部は陰毛に覆われていた。僕はベッドの上で彼女としばらくの間抱き合っていた。パチンコで負けたことも今日のテストもすっかり頭の中から離れていて、僕の目の前にいる彼女のことしか考えてなかった。彼女は僕の下腹部の辺りに顔を近づけ、ペニスをゆっくりと口へ入れて行った。彼女にフェラをされながら、僕は彼女の乳房を揉んでいた。フェラが終わると、彼女は僕のペニスにコンドームをつけた。僕のペニスは興奮で固くなっていた。僕は彼女の性器を指で触るとそこは液体で濡れていて、彼女は恥ずかしそうにしていた。
「興奮してるの?」と僕は訊いた。
「はい」
 彼女はそう言って頬を赤くした。僕は彼女とベッドに横になりながら彼女の性器を指で撫でた。僕達は向き合っていて興奮している彼女の顔は赤くなっていた。こう見ると彼女に愛おしさすら感じた。でも彼女はきっと何人もの男とこうしてきたわけだし、いったいその時どんな気持ちだったのだろうか。
「仕事でもやっぱり感じるもんなの?」
「それはやっぱり女ですから」
 彼女は恥ずかしそうにそう言った。僕は彼女の性器を撫で終わると、体を起こし彼女の足を両手で広げた。彼女の性器が開かれて中が濡れているのが見えた。僕はゆっくりと彼女にペニスを挿入した。彼女の中は濡れていて温かかった。僕は少しずつ腰を動かしていき、彼女は荒く息をしていた。僕は激しく腰を動かしているうちに彼女の中で射精をした。彼女も喘ぎ声を上げながらその間に何度か達したようだった。
 行為を終えると、僕達はベッドに横になりながら話をした。彼女は美術系の大学に通っていて、学費を出すためにこの仕事を始めたらしい。彼女はまるで当たり前のように語っていたが、実際にそんな例があるとは知らなかった。
「私の家そんなにお金ないし、東京に出て一人暮らしもするとしたらこうするしかなかったの」と彼女は言った。
「他のバイトはしようと思わなかったの?」
「初めの頃はレストランで働いていたの。でも学校も忙しくなるし、バイトも夜まであって、とてもこんな生活続けていけなかったわ」
「この仕事には慣れたの?」
「慣れて来たわよ。最近は何も感じなくなってきたわ。でも初めの頃は何度も泣いたけど」
「僕は君としているとき気持ちよかったし、君が愛おしかったよ」
「そう言ってくれるとうれしいわ。せめて喜んでくれただけでも」
 彼女はそう言っていたが、その目にはどこか寂しさがあった。
「よかったら連絡先交換しない? 君ともう少し話したいんだ」
「本当は駄目なんだけど、私もあなたといて楽しかったし、いいわよ」
 彼女はそう言って裸のままベッドから降り、バッグの中から携帯電話を取り出した。僕は脱いだジーンズのポケットから携帯を取り出し、彼女と連絡先を交換した。
 僕達はまた二人でシャワーを浴び、服を着た。僕達は玄関を出る前に二人で抱き合ってキスをした。彼女の髪をなでると彼女は嬉しそうに微笑んだ。
 店に戻ると圭介は僕のことを待っていた。僕達は店を出て、二人で夜の街を歩いた。
「どうだった?」と彼は僕に訊いた。
「よかったよ。最後には仲良くなって連絡先を交換したんだ」
「それはよかったな」と彼は言った。
 僕達は近くのレストランに入った。店の前にはイタリアの国旗が立ててあって、風になびいていた。店に入ると、店員が僕らを四人掛けの席に案内した。店の壁におそらく有名な絵画が数枚かかっていて、耳触りのよいピアノの音がしていた。店員は僕達の前にグラスに注がれた水を置いた。僕らはメニューを見て、パスタとピザを注文した。料理が来るまで僕は圭介にさっきの女の子の話をした。
「美術系の大学に通っていて、お金が無くなってあの仕事初めたらしいよ」
「それは大変そうだな」と彼は言った。
「俺たちはまだ幸せな方だよ」
「そうだな」
 そう言って彼はぼんやりと窓の外の方を眺めていた。その目には何が映っているのだろうか。彼も時折やるせないというか何かをあきらめたような目つきをすることがある。僕には彼が何を感じているのかわからないし、彼も僕が何を思っているのかわからないだろう。
 パスタとピザの載った皿が僕たちのテーブルに置かれた。ピザを切り分けてお互いの皿に載せた。僕はパスタをフォークに絡め取り口に運んだ。オリーブ油のまろやかな味とちょうどよい塩加減だった。彼もパスタをちょうど食べているところだった。
 ピザを口に運ぶと、トマトとバジルの味がよく合っていた。食事を終えると、食後にコーヒーを注文した。
「今夜家に来ないか?」と彼は僕に言った。
「かまわないよ」
 僕達はコーヒーを飲み終えると彼の家に向かった。夜の街は喧騒に包まれていた。駅に着くまで何度もすれ違う人とぶつかりそうになった。駅前には人だかりができていて、その中心には音楽を奏でるバンドが演奏をしていた。バンドの演奏を聞きながら僕達は改札を通っていった。
 彼の家はここから近かったので、二駅ほどで僕達は電車を降りた。さっきの駅からはそんなに離れてはいないのに、さっきとは打って変わってとても静かな住宅街だった。ここが東京だと忘れさせるほど、自然が多く、遠くでは虫の鳴く声がしていた。僕達は彼の家まで夜の住宅街を歩いていった。
「前に俺の彼女と会ったことあったよな」と彼は言った。
「確か去年の夏休みだったよ。三人で海の近くのカフェに行った気がする」
「そうだったな。たまに俺の彼女がお前のことについて話すことがあったんだ」
「どんな話?」
「大した話じゃないんだ。でもおもしろい人だって言っていた気がする」
「そうか」と僕は空を見上げながら言った。
 空には小さな星の粒が浮かんでいた。きらきらと夜の空に輝いていた。その周りには白くて薄い雲が広がっていた。
 僕達は話をしながら誰もいない道路を歩いていた。途中コンビニエンスストアや小さな畑や駐車場があって、それは僕が子供の頃遊んだ場所を思い出させた。
 彼の家は小さなマンションだった。エントランスの明かりがどこか懐かしさを感じさせた。彼は鍵で扉を開け中に入った。彼の部屋は二階でドアを開けると、中はワンルームでキッチンが端の方にあった。
「前住んでた家よりも狭いよ。なにしろあの頃は二人で暮らしていたからね」
 彼はそう言って部屋の窓を開けた。外から夏にしては涼しい風が部屋に入ってきた。部屋のカーテンが揺れ、部屋の温度が少し下がった。
「何か飲むか?」
 彼はそう言ってキッチンの隣に置いてある冷蔵庫を開けた。中にはコーラとお茶のペットボトルと缶ビールが一ダース入っていた。
「ビールが飲みたい」
 僕がそう言うと彼はビールを取り出して、僕に手渡した。僕達は小さなテーブルの前に座り、缶ビールを開けた。缶ビールはよく冷えていていつもよりおいしく感じた。部屋の外からは時折車が通る微かな音や木々の葉が擦れ合う音が聞こえるだけだった。
 僕達は部屋で向き合いながら話をした。彼は彼女と別れた経緯を僕に詳しく話した。彼の話を聞いているうちにお互いの気持ちが冷めていったことが原因らしいことが分かった。
「いったい俺はこの人生で何を求めているのかわからなくなることがあるんだ」
 彼はそう言って、缶ビールを飲み干した。空になった缶は彼の手でつぶされて、ゴミ箱のなかに放り込まれた。心地のよいカランという音を立てて、缶はゴミ箱の中に入った。
「俺は好きな女と一緒にいれて、好きな仕事ができれば幸せだよ」と僕は言った。
「そう簡単にいけばいいんだけどな。お前は上手くやっていけそうな気がするよ」
 彼はそう言って部屋に寝転がった。彼と話している間に僕は彼のビールを三本飲んでいた。少し体に酔いが回ってきたのを感じた。
 僕はその夜、彼の家に泊まった。彼はビールを飲んで寝転がって以来起き上ってこなかった。僕は部屋の窓を閉めて、クーラーをつけた。冷たい空気が部屋の中を満たしていった。彼の体に毛布を掛け、僕は部屋の隅でクッションを枕代わりにして眠った。その夜なぜか彼の彼女のことを思い出していた。あの頃は特に強い印象は持たなかったのに今はなぜか頭から離れなかった。
 朝目覚めると、彼はまだ眠っていた。僕は冷蔵庫の中を開けて、お茶の入ったペットボトルを取り出し、キッチンの棚に置いてあった使い捨ての紙コップに注いで飲んだ。冷蔵庫にペットボトルを戻し、僕は財布を持って部屋を出た。外はまだ朝で昼間よりも涼しかった。
 階段を下りて行き、エントランスを抜けると強い日差しが降り注いでいた。丸い太陽が空の中に見えた。僕は道路を歩いていき、コンビニエンスストアまで行った。店の中は外とは違ってクーラーで冷えていた。棚を順番に見て回り、ペットボトルのお茶とサンドイッチを二つずつ買った。店員は淡々と袋の中にそれを詰めていき、僕がお金を払うとおつりをレジから取り出して渡した。
 店から出ると、外がとても蒸し暑く感じた。彼の家まではそんなに距離がなかったが、歩いているうちに汗をかいた。エントランスでインターホンを押して彼を起こし、僕は中に入った。部屋のドアを開けると、彼は頭に寝癖をつけたまま、テレビの前に座り、朝のニュースを見ていた。
「朝食を買ってきたよ」と僕は言った。
「悪いな。でもこんなに早くからいかなくてもよかったのに。もう少し寝ていたかったよ」
「たまには早く起きるのも悪くないよ」
 僕はそう言って彼に買ってきたサンドイッチとお茶を渡した。彼はテレビの前から動かず、サンドイッチの袋を開けて、二口ほどでサンドイッチを食べた。僕は部屋の隅に置いてあった椅子に座りながら、ペットボトルのお茶を飲んだ。昨日の夜から何も飲んでいなかったので、喉が渇いていた。冷たいお茶は空っぽの僕の胃の中に流れて行った。
 朝食を食べ終わるとすることもなく二人で朝のテレビ番組を見ていた。アナウンサーが都内の有名な店に行き、その店の料理を紹介していた。彼も僕も特に興味があったわけではないが、暇だったので、昼になるまでテレビを見ていた。
 彼はテレビを消して、僕達は部屋を後にした。彼は僕を駅の近くまで送ってくれた。
「また来週学校で」
 彼はそう言って笑って僕に手を振った。
「またな」
 そう言って僕は駅の改札を抜けて行った。駅の構内の階段を下りてホームへ行くと、昨日の風俗の女の子からメールが来ていた。彼女の本名は逢だった。メールには今日は休みで暇だったと書いてあった。僕も休みだったと返信すると、すぐに返信が来た。今から会えない?とメールに書いてあったので僕は会えるよと返信した。すると彼女から電話がかかってきた。
「もしもし」と電話越しに彼女の声が聞こえた。
「昨日ぶりだね」
「いまどこにいるの?」
「昨日の駅から二駅離れたところにいる」
「いまからそっちに行ってもいい?」
「もちろん」
 僕は彼女に待ち合わせの場所を伝え、僕は駅の階段を上り、改札を出た。すでに圭介はいなくなっていたので、僕は近くのカフェに入り、彼女が来るのを待った。三十分ほどカフェでコーヒーを飲みながら待っていると彼女がやってきた。白いワンピースに赤いバッグを肩に掛けていた。いかにも高そうなバッグだった。
「そのワンピース似合ってるよ」と僕は彼女に言った。
「ありがとう」
 そう言って彼女は笑った。僕は昨日抱いた彼女のことを思い出した。こうしてみると、普段周りで見る同級生と変わらなかった。むしろそれよりも彼女は清楚に見えた。
 彼女とカフェテリアの中で話をした。彼女は仕事のことには一切触れず、大学生活のことや彼女の過去の話をしていた。僕も彼女に自分が送ってきた人生の一部を伝えた。
「私、芸術って何かを伝える手段だと思うのよ」
「確かにそうかもしれないね」
「だから私作品を描くときいつも何を伝えたらいいか考えているの」
「それって大変そうだね。伝えたいことを何か別の形にするのって難しそう」
「私も描いていてそう感じるわ」
 彼女は自分のしている美術が好きそうだった。明るく話をする彼女といると僕もなんだかいい気分になった。僕達は辺りが暗くなるまで話をした。その間に僕は三杯もコーヒーを飲んだ。こんな風に時間が過ぎていくのは久しぶりだった。
 帰り際に僕達は一目の少ない路地でキスをした。僕はこの先も彼女と一緒にいたいと思った。しかし彼女の仕事のことを考えると、僕はこの先どうしたらいいのか迷いが生じた。
「またね」
 そう言った彼女を見ていると愛おしさを感じた。彼女はまるで無邪気な子供のように手を振って僕と反対側のホームの階段まで降りて行った。
 僕はホームで電車を待っていた。遠くに夕焼けの太陽が沈んでいくのが見えた。街が橙色に照らされていた。僕は彼女の後ろ姿を思い出していた。

夏の雨

夏の雨

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-16

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