黒猫は還る
その黒猫は、真っ赤なはらわたをさらけ出して死んでいた。大きな道路の真ん中で、ボクの立つバス停から歩いて数歩の場所で、黒猫は車に撥ねられて死んでいた。
車はみんな、黒猫を避けて走る。まるで汚いものを見付けたかのように、慌ててハンドルを切る。
ボクは思う。
黒猫を撥ねた人は、どんな気分だったのだろう。怒り? 悲しみ? だけど黒猫はもっと怒ってるし、悲しんでる。車の前に飛び出した黒猫を不条理だというのなら、撥ねた車だって不条理だ。
ボクは思う。
神様はなぜ、こんな仕打ちをするのだろう。罪のない者が死に、罪人はいつまでも生き続ける。黒猫や車を不条理だというのなら、神様はもっと不条理だ。
「いつまでここにいるつもりだい?」
声がかかる。優しそうな、静かな声。だけどボクは振り向かない。声で分かる。喪服のように真っ黒なコートを着た、髪の長いおじさん。毎日ボクに声をかけてはいつの間にか消えてしまう、不思議なおじさん。いつものように、悲しそうな目でボクを見ているんだろう。
「猫……」
「猫? ああ、あの黒猫か」
「撥ねられたんだ、車に」
「そうか。それは気の毒だな」
ボクの肩に手を置き、自分のほうへと引き寄せる。
「しかし、形あるものはいつか壊れるものだ。同様に、生命あるものはいつか必ず死ぬものなんだよ。それが早いか遅いか、それだけなんだ」
ボクにそう、そっと告げる。
「分かってる。でもそれなら、ボクは天寿を全うしてほしいと思ったんだ」
「そうだな。でも、あの猫は天国に行けたんじゃないのかな」
「行く?」
おじさんの言葉に、ボクはぴくりと反応した。
「天国は行くところじゃないよ。還るところだよ」
そう言って、おじさんに振り返る。おじさんはやっぱり悲しそうな顔をして、ボクをじっと見つめていた。
「そうか。ああ、そうだな。あの猫は還ったんだ、天国に」
「うん」
ボクはまた黒猫を見やる。車たちは黒猫を避け、みんな同じように急ハンドルを切っている。
やっぱり悲しいな、と思った。
死んだことじゃない。死んであんな姿にならないと、誰にも気付いてもらえないことが悲しいんだ。
もし生きていたら、きっと誰の目にも留まることはないだろう。もちろん黒猫だって、自分が目立ちたかったわけじゃないと思うんだ。むしろその逆だったと思う。でも――
それでも、自分の存在を誰にも知ってもらえないなんて、それはちょっと悲しすぎる。誰にも気付かれることなく、誰にも愛されることなく死んでいった黒猫。もし誰かに愛されていたのだとしても、それはまた違った悲しみを生むだけなのだろう。
ボクは思う。
黒猫の死を、一体誰が悲しむのだろう。いや、悲しんでくれる人はいるのだろうか。確かに今、黒猫は死を以って自分の存在を、自分という生命があったことをみんなに伝えている。でも、黒猫を見るみんなの目はどうだ。汚いものを見るような目で見ているにきっと違いない。
それでいいの? それで良かったの?
黒猫。君はそれで満足なの?
そう思うボクこそ不条理なの?
「全ての死者が天国に還れるわけじゃない。存命中の行いによっては、地に堕ちることも……」
「還れるよ」
ボクは言う。
「撥ねられる時、ボクと目が合ったんだ。とっても綺麗な目をしていたんだ。あの黒猫は還れるよ、天国に」
ボクは車道へと、黒猫へと歩き出した。おじさんは止めなかった。
走り過ぎる車の間を縫って黒猫の傍までくると、ボクはしゃがんで黒猫のお腹にそっと手を触れた。
「痛かっただろう? でももう大丈夫だよ。ゆっくりお休み」
「みゃあ」
横手から、猫の鳴き声がした。見やると、黒猫がボクの足に自分の体をこすり付けていた。
「みゃあ」
黒猫がまた鳴いた。ボクを見上げて。ボクを見つめて。
「気に入られたようだな」
黒猫の後ろに、いつの間にかおじさんが立っていた。ボクを見下ろすその双眸から悲しみが消えていたのは、きっとボクの顔を見たからだ。
ボクは知らず微笑んでいた。
「そうだね。なんか……嬉しい」
「決心はついたかい?」
おじさんがボクに尋ねる。ボクは黒猫を見やった。
「みゃあ」
黒猫が鳴いた。
――わたしが一緒だから大丈夫だよ。
そう言ってるみたいだった。
「うん。大丈夫だよね」
黒猫に笑って、そしておじさんを見上げる。
「ついたよ、決心」
「そうか」
おじさんは微笑んで、手を差し出した。ボクはその手を取って、笑みを返す。
「じゃあ、行こうか」
「違うよ」
ボクの否定に、おじさんは振り返る。
ボクは言った。
「還るんだよ」
ボクはもうバス停には立たない。
ベンチに置かれた花束も見ない。
ボクはこれから、黒猫と一緒に還っていくのだから。
黒猫は還る