蛙と紫陽花

R18用に書きました第二弾です。

私の好きな蛙さんの事を話したいと思います。
蛙さんは、東京に住んでいる30代前半の男性です。漫画が好きで、通勤時間に少年ジャンプを読む事を楽しみとしているごく普通のサラリーマンです。仕事はシステムエンジニアで、繁忙期になると3日連続で徹夜をすることもざらにあるそうです。3年前から腰痛に苦しめられて、整骨院に通っています。そして先週、そこの整骨院の受付の女性に告白をされたそうです。すごく綺麗な女性でしたが、蛙さんは渋々断ったそうです。その理由を問うと、僕には蝸牛さんがいるから、と嬉しい事を言ってくれました。あ、蝸牛さんというのは私の事です。
私は、蛙さんの本当の名前を知りません。蛙、というのは某SNSのゲームで使っている彼のハンドルネームです。そこで、蛙さんは自分のアイコンまで蛙にしています。葉っぱの傘を両手で持った小さな赤い蛙です。初め、私は爬虫類が苦手だったのですが、蛙さんとやり取りしている内に、段々その蛙のアイコンが可愛らしく思い初め、今では自分のケータイにその画像を保存しています。本当に私は、蛙さんの事が好きなのです。
そのSNSでは、私は蝸牛というハンドルネームを持っています。蝸牛にした由来はなんでもない、私がただのんびりとした性格なので、そうつけただけです。なので、蛙さんは私の事を蝸牛さんと呼びます。私は、蛙さん以外にそのSNSでお友達を持っていません。現実でも、お友達を持っていません。なので、蛙さんは唯一無二の私のお友達という事になります。かけがえのない、お友達ということになります。
私は少々頭の弱い所があります。
突然、お友達になりませんか、とそのSNSで知らない人からメッセージが来た時に、私は喜々としてその人と友達になる努力をしようとします。だって、私には友達がいませんから。
何回か、メッセージのやり取りがあった後、今度はその人から、会いませんか、という誘いを受けます。私はやはり嬉しくなって、待ち合わせした時刻に約束の場所で水色のレースのついた日傘を差しながらその人を待っています。やがて来た人は、大体30代半ば~40代前半の男性で、首回りについた汗をタオルハンカチで拭きながら、私の方を見て、頬笑むというよりは何かを企んでいるかのように、にやにやと粘り気のある不快な笑みを返してきます。だけど、私は折角できた友達なのだから、とその不快さを必死に拭い、なるべく善良な笑顔をそちらに返します。私は、友達になりたいから、人に好かれたいから、必死に良い人になろうと努力をするのです。
大概が、ご飯を食べた後に映画を見ます。私は寡黙なため食事の最中は、あまり話しをしません。あちらが、幾つか見当違いな(少なくとも私にとってはそう思える)質問を投げかけ、私が上の空で、曖昧な相槌を打つ。やがて、薄い反応に疲れた向こうは、質問を終わりにします。その時、私は相手を失望させたと、絶望的な気持ちになり、悄然とします。気持ちが浮上しないまま、私達二人は映画館の方に足を運んで、適当に相手が選んだ映画のチケットを購入します。劇場に入り、やがて暗闇が下りてきて、スクリーンに映像が映し出された時、私の手の甲に何かの虫が這っているような感覚がし、虫嫌いな私は、さっと手を引っ込めると、ち、と舌打ちの声が上のほうから聞こえ、膝に置こうとしたその手を握りしめられました。私は驚き、声をあげる事もできなくて、映画が終わるまでそのままの状態で、握られたままの状態でいます。私には、その男性は何がしたいのかよくわかりませんでした。だけど劇場から出て、その男性が、君と行きたい所がある、と言い、タクシーを拾おうとした時、私の中にある女の勘が、悪い予感を捉えて、私は逃げ出します。
それを数回、私はこのSNSの出会いによって体験しました。
このような失敗を繰り返す度に、私は馬鹿なのかな、と本気で悩んだりしましたが、蛙さんは、馬鹿な訳じゃない、それは蝸牛さんが寂しがり屋なだけだよと慰めてくれました。では、この寂しがり屋はどうしたら治るのだろうと、蛙さんに相談した所、蝸牛さんを本当に大事に思ってくれる人に出会えばいい、とすぐに答えが返ってきました。
私は、頭を巡らしました。私を本当に大事に思ってくれる人なんて、いるのかしら。
ある事が私の頭の中にぽん、と浮かび上がりました。それは蕾のままでいた花が急に咲き誇ったように、世界中を明るくする甘く美しい考えでした。
その人が、蛙さんならどんなにいいか。蛙さんが私の事を大事に思ってくれているならどんなに私は幸せなんだろうか。本当に会いたい人は、蛙さんなんだ。蛙さんに会いに行こう。
早速私は蛙さんにメッセージを送りました。蛙さん、私、蛙さんに会いたいんです。

約束した日は快晴で、空の色は深く群青色に輝き、肌がちりちりと音を立てて焼けてしまうくらい太陽の光の位置がとても近くにあるように思えました。私はいつもの通りに、水色のレースのついた日傘の柄をくるくると回しながら、飛沫をあげる小さな噴水の近くで蛙さんを待っていました。目の前に見える駅の改札口から蛙さんは、転んじゃうんじゃないかと思うくらい慌てて走ってきて、私の姿を探し出しました。蛙さんは、まるで大学生のような格好をしていました。紺色のポロシャツにベージュのショートパンツ、下は靴ではなくサンダルで。
「初めまして」
初めてではないのに、蛙さんはそう挨拶をしました。挨拶をした時の蛙さんの笑顔は、今までの人とは違う、誠実そうな印象を受けました。この人は、絶対嘘なんかつかない人なんだ、と私はその瞬間に蛙さんを信じてしまいました。
私が、蛙さんの笑顔に見とれていると、蛙さんは、蝸牛さんですよね、と自信なさそうに私に伺いました。私はこくん、と小さく頷き、そしてなるだけ善良そうな笑顔を返しました。そうすると、蛙さんは安心したように、ほっこりとした笑顔を顔に浮かべました。あ、この人と一緒にいると幸せになれるのかもしれない。そして幸せを与えてあげられるのかもしれない。私は不遜にもそんな事を考えてしまいました。
人の美的カチカンはそれぞれ違うと思いますが、私が蛙さんをキャッカン的に捉え見ると、とてもハンサムな顔立ちをしていました。重たい前髪に隠れている瞳は黒く濡れていて大きく、鼻は筋が通っていて適当な高さがあり、頬は女の人のように膨らみ、白粉でもふったように白くキメの細かい綺麗な肌をしていました。蛙さんの顔を見ると、なんだか自分の垢ぬけない顔立ちが恥ずかしくなり、自然と顔を伏せる癖がつきました。
蝸牛さんは、イメージ通りの人ですね。と、蛙さんは街を歩きながら言いました。喫茶店の硝子窓に映る自分の姿を見て、文面から描き出される私のイメージが、こんな顔、と私は傷つきました。目は細く垂れてるし、鼻は低くつぶれて、唇は、たらこのように分厚い。私は、国語だけは得意だったので、文章だけは美しくなれる自信がありました。しかし、私の文章の力は、硝子窓に映るその醜い顔の程度だと知らされました。悔しさと恥ずかしさで唇を噛んでいると、蛙さんは私の日傘の柄に指を触れ。
「そっと日陰に佇んでいるような、静かで清らかな女性だ」
と、口の端に可愛らしい窪みをつけて、そう私を褒めてくれました。
 その言葉に、私は舞いあがりました。こんな綺麗な男の人に褒められるなんて、自分の生涯にこれほどまでの名誉があるのだろうか。単純な私は自信を持って、顔を上げて頬笑み、蛙さんを見つめると、それが合図となったのか、蛙さんは私の手を拾いそっと自分の手の中に包みこみました。蛙さんの手は、冷たい。手が冷たい人は、心が温かい証拠だと、いつも読んでいる少女漫画雑誌に書いてある事を思い出し、私は安心して自分の手を蛙さんの手に委ねていました。
 流れていく人達は、私達のことをどう見ているのでしょうか。普段は、人の目が怖いけれど、今日という日は、片方の手で蛙さんと繋がれている今は、もっと私達のことを見て欲しい!と積極的な心持になる自分がいました。どんどん気持ちが前向きに、世界が明るい方へ、拓けていくのを、体全身で感じていました。私は蛙さんに会えて、幸福でした。
 蛙さんと私は、通りすがりに見つけた、韓国料理店に入りました。以前、私が仕事終わりに、ビビンバが食べたいと呟いていた事を蛙さんはまだ覚えていたようでした。私はビビンバと、キムチチヂミを頼むと、蛙さんはノリ巻きと韓国冷麺を頼みました。蛙さんは、お絞りで手を丁寧に拭きながら。
「蝸牛さんは、左利きなの?」
不意に聞かれたので、私は、えっと間抜けな声を上げてしまいました。
「日傘持つ手が左だったから。違った?」
「ううん。左利きです。小さい頃親に矯正されたけれど直らなかった」
「そのままの方が良いよ。左利きって才能豊かな人多いって言うし」
蛙さんは、からからと冗談のように軽く笑ってから、自分の左手を出して握ったり広げたりしてみせました。
「手を握る時は、左の方が良いのかな?」
と、今度は真剣な表情でそう聞いてきました。はにかみながら私は、どちらでも、蛙さんの好きな握り方で良いです、と伝えました。
食事をしている時は蛙さんも私も静かで、でもなぜかその沈黙が嫌ではなくてむしろ心地良くて、こんなの初めてだと私は蛙さんのことを思わず不思議そうな目で見つめていました。冷麺の汁を全て上品にすすった後、蛙さんは、器から目だけ覗かせて私の顔を見つめ返しました。
「そんなに、俺の事が好きなの?」
私は、きょとんとした後、やっと言葉の意味を掴んで赤面しました。
「冗談だよ」
「えっ」
「俺はそこまで思い上がっていないから」
器をテーブルの上に置いて、蛙さんはナプキンで口の端を拭いました。私は、自分の膝小僧を隠すフレアのスカートの裾を握りしめ、勇気を振り絞り蛙さんに自分の想いを伝えようとしました。あの、と言うのと、実は、と蛙さんが何かを告白しようとするのが同時でした。
「先にどうぞ」
と言われたので、私は躊躇なくなるべく大きな声で。
「好きです。私は蛙さんの事が、好きです」
と、周囲を気にせずに告白しました。暫く私は、目を伏せ、蛙さんの次の言葉を待っていました。何秒か、沈黙が続き、私は振られるんだ、とじわじわと負の予感が心から身体全体に広がっていきました。沈黙を破ったのは、私の告白の返事の代わりの蛙さんの告白でした。
「実は、僕、結婚しています」
私は、ぽかんと、口を開けて、蛙さんの方を見ました。えっという間抜けな言葉すら、唇から零れることはありませんでした。
「ついでに、子供もいて。今、3歳です」
子供が居る事がついでの事なのか、もっと重大な事なのではないのか、私は色々蛙さんに問い直したい事がありましたが、それは自分の語彙の少なさと気の弱さに打ち消されてしまいました。
「それではなぜ」
「君に会ったのは、君の事が気になっていたからです。こんな事を言うのは都合が良いと思われるかもしれませんが、メッセージをやり取りしている内に僕は君に淡い恋心を抱いた。だから君から誘われた時は嬉しくなった。素直に」
「でも、蛙さんは」
「僕は結婚していますが、妻との間にはもう恋愛感情はありません。ただの同居人です」
妻、と呼ぶ蛙さんの表情は、その妻の旦那にしてはあどけなさ過ぎて不自然に思えました。この人はもしかしたら、子供のように、頭には数%しか理性がなくて、目の前に美味しそうなお菓子があれば、それが売りものであったとしてもお金を払わずかぶりついてしまうのかもしれないと私は思いました。そういう私も、理性なんて欠片しかないのだけど。
 黙っている私を蛙さんは覗きこむように見て。
「もしかして、蝸牛さんはこういう事は嫌いですか」
と、聞いてきました。その問うた時の表情が、自信が無さそうで、可哀相な生き物のようで、この人は少しずるいな、と思いました。
「こういう事というのは」
「妻帯者が女の子とデートするということ」
私は黙りました。「こういう事」の答えに適切なのは「不倫」、ではないか。あえてその言葉を避ける蛙さんの真意というものはなんだろう。私は逡巡しながら、蛙さんの質問に対する適切な答えを探していました。漸く口を開き出たことは。
「こういう事に嫌いとか好きとか考えたことはありません」
だって、まさか自分が不倫相手になるなんて想像もできなかったから。蛙さんは、そうですか、そうですよね、と独り相槌を打ち、水滴のついたコップを手に取りました。
「もしかしたら、僕のことを嫌いになったかもしれないけれど、それでも僕は変わらず蝸牛さんの事が好きです」
蛙さんは、私の目をすっと真っすぐ見つめてそう言いました。淀みの無い、淡々とした口調で言いました。それがとても自然だったので、蛙さんは、他の女の子にも同じような事を言っているのかもしれない、と私は頭のどこかでそう疑ってしまいました。そして私は疑ってしまうそんな自分を責めました。だけど、蛙さんも完全に善い人ではないじゃないか、とすぐにもう一人の私が否定しにきました。蛙さんは、私の為に自分の家族を裏切っているじゃないか。たった、私の為に。
 例えようもない不安が、心を苦しめました。蛙さんは、どのくらい私の事を好きでいてくれるのだろう、と。私は、線を越えてもいいのだろうか、と。でも、もう私は知っていた。心を覆う不安は、これ以上前へ進むことへの不安で、退く事の不安はありませんでした。私は、心の中ですでに準備をしていたからです。蛙さんの、恋人として闘う準備を。

「私は、蛙さんを嫌いになんかなったりしません。私には、蛙さんが必要です」

 私は、蛙さんに連れて行かれ、生まれて初めてラブホテルという所に入りました。中に入ると部屋を選ぶパネルが置いてあり、ボタンを押すと鍵が出てきます。蛙さんは慣れているように、迷うことなく部屋を選んで鍵を受け取りました。何回こういう所に来たのですか、と思わず聞きそうになった口を閉じました。幾ら馬鹿な私でも、この質問は失言であると、判断したからです。
 エレベーターで三階まで上がり、部屋に入ると、奥にダブルベッドが目に飛び込んできて、私は咄嗟にそこから視線を逸らしてしまいました。ベッドの存在が、私と蛙さんの裏切り行為が現実を帯びて私に襲いかかってくるようでした。
 私は、今まで恋人というものを持った事がありませんでした。男友達すらいたことがありません。告白もされたことはないし、した告白は一回きりでしたが、それは当然のごとく断られました。翌日学校に行くと私が告白をしたという事が学年全体に広まってしまい、皆から嘲笑を浴びせられました。不細工で馬鹿で地味で鈍くさくて内向的な私が、人を愛するなんて事、周りの皆は面白おかしく思ったようです。そういう事もあり、私は生涯で男の人に愛されることなんて、ないんだと、勝手に決め付けて生きていました。そして、セックスというものを、私は一生する事はないんだろうと思って生きていました。
 だけど、今私の前にあるのはなんだろう。今私の横にいる人は誰だろう。これから私が体験することは、ずっと自分が得られないと否定してきていたものではないだろうか。
今私は、あの時の学生服に身を包んだ子供達にこの光景を見せてあげたい。
私にだって、セックスはできるんだ。
私にだって、人から愛を受けることができるんだ。
 
 押し倒され、冷たいベッドに自分の体が沈みこまれて蛙さんの顔を仰ぐと、蛙さんは私を慰撫するかのような優しい微笑を薄暗い顔の中に浮かべました。私の体は正直強張っていました。いくら心が蛙さんを許そうとしても、体はそれに追いついていけませんでした。心と体は別なんだなと身を持って知るのと同時に、まだ未熟な自分を情けなく思いました。ゆっくりと蛙さんの上半身が私の体に近づいてきて、やがてぴったりと重ね合わさり、耳の傍に来た蛙さんの唇から、大丈夫だよ、と甘い息に乗せた声が私の鼓膜をくすぐりました。私はそれだけで子宮の奥が熱くなっていくのを感じました。今私の子宮の中にある卵子達は蛙さんの精子を強く待ち望んでいるんだということを感じました。蝸牛さんは、腕を伸ばして私との身体の間に空間をあけると、その冷たい手のひらで私の乳房を包み込み愛撫をし始めました。私は、恥ずかしくなって肩を狭めて蝸牛さんの手の甲の上にそっと手を乗せその動きを押さえると、もう片方の手も伸びてきて、小さな私の二つの乳房は、彼の手の中にすっぽりと覆われてしまいました。蛙さんの愛撫からくる当然の反応で、私の下着にはぬるぬるとした粘り気のある液体が付着するのを感じましたが、それは不思議と不快ではなく、もっと出してしまいたいと、出してしまう事で心が解放されるような気がして、そう望む自分がいました。私は性行為に対して無知でしたが、このぬるぬるとした粘液が蛙さんを喜ばすことに役立つのだとなぜか確信していました。
やがて、目の前が暗くなったと思ったら、蛙さんは私の唇に口づけをしていました。私はその瞬間、ん、と小さな吐息交じりの声を洩らしてしまいました。それは自分の声とは思えない程いやらしい響きを持っていて、こんな声を出してしまった事に心の中でそっと自分の父と母にごめんなさいと呟いてしまいました。私は、こんな時でも自分の両親の事を考えてしまいました。
固く尖った舌が私の口内を探るように入っていき、怯む私の舌を執拗に撫で回しました。唇の端から、唾液が溢れだし、つうっと一筋こぼれ落ちました。蛙さんの手が、私のスカートの中に入りだし、下着の中に入り私の性器に触れると私は、あ、もうすぐ始まるんだなとその予感に強い不安を感じました。だけど、私は戻ることはしたくはありませんでした。目の前に、せっかく私の恋人になる人ができたのに、それを壊すような事はしたくありませんでした。私はとても臆病でした。
もしも、この人と肉体関係になる事ができなかったのなら、この人は私に興味を失くし、私の前からいなくなるだろう。身体が繋がれば、私はこの人を失くしたりなんかしない。ずっとではないかもしれないが、暫くの間は結ばれていられる。
私は、眩暈のするような蛙さんの愛撫を受けながら、自然とそう頭の中で計算をしていました。こういう手段でしか男の人を自分の元に置くことのできない自分を軽蔑しながら、私達の行為は始まりました。

初めてだったから、私は自分でも驚く程大きな声を上げて苦痛を訴えてしまいました。足をばたばたして、蛙さんの固く膨張したそれを強く拒んでいましたが、蛙さんが、初めに大丈夫と耳の傍で囁いた通りに、よく濡らした私の性器の中に蛙さんの性器はするりと入りこみました。暫く蛙さんは、挿入したままじっと動かず私の体を抱きしめて、私の苦痛が少しでも引くのを待っていました。やがて私が、静かになりだすと腰をゆっくりと動かし始め、そして静かに射精をしました。
行為が終わると、蛙さんの顔には少し悲しそうな翳りが差しこみました。そして、ごろんと私に背を向けて寝転がり、シーツの上を這って、私の手を探しだし握りました。
「これ、左手?」
蛙さんは聞きました。私は頷き、遅れて、うん、と背を向けたままの彼に返事をしました。
「そっか。ありがとうね。蝸牛さん」
私は、左手であることと、ありがとうということが結びつかないので、何を言っているのだろうか、と不思議に思いましたが、暫く経って漸くありがとうの意味がわかったような気がしました。私は、丸まっているせいで歪な背骨が浮き出ている蛙さんの背に、頬を寄せて、ありがとう、と小さな声で囁きました。その声が届いたのか、わかりませんが、蛙さんは自分の胴体を抱くようにして、私の片方の腕を引き寄せました。
「蝸牛さん。蝸牛さんはそのままでいてね。俺の所から離れていかないでね」
そう掠れた声で言われた時、心の底にある澱を無理やりかき混ぜあわせられたようなざわついた気持ちになりました。なぜ、蝸牛さんは私に背を向けてそんな言葉を吐いたのでしょうか。私にはわからないけれど、わかってしまったらいけないような気がして、私は彼の肩甲骨に額をつけて彼の奥で動いて響いている心臓の音に耳をすましていました。

 私と蛙さんは生まれた環境も違うし容姿も才能も考え方も違うけれど、その本質的なものは似ているのかもしれないな、違うようで似ているから私達は惹かれ合うのだ、とわかるようなわからないような曖昧な思考で私はぼんやりと自分と蛙さんの事を捉えようとしていました。蛙さんに会えない時間は、私と蛙さんとの事を、ひっくり返してみたり、斜めにみたり、撫でまわしたりして延々とその関係について考えていました。そんな事をしても、私と彼との間を肯定的に捉えるのはできないとわかっていても、そのことについての思考を止める事ができませんでした。考えれば考える程私は自分が惨めになってきて、しまいには子供のようにえんえんと声をあげて泣いてしまったり、私は自分が壊れていく手前に佇んでいる事を常に感じていました。
逢瀬を重ねていく内に、私は自分が蛙さんの知らない内側でどんどん欲張りで我がままな女に変わっていきました。蛙さんが、デートの最中に携帯で家族と連絡を取っていると思わず、その携帯をひったくって溝に捨ててしまいたくなる衝動に駆られたり、ちょっとの間でも蛙さんが上の空であるならばその折り紙のような無機質な頬をひっぱたいてやりたくなったり、蛙さんがシャワーを浴びている間に携帯を開いて、彼の奥さんに悪戯メールをしてみたくなったり。恋に落ちると当然のように抱く嫉妬心を、制御してくれるのは自分の醜い容貌とまるでがらんどうのような何もない中身による強い劣等感でした。
 しかし、いつか蛙さんの首に腕をぶらさげて見つめあった時、私は、こんなことを聞いてしまいました。
 私は結局蛙さんにとって、二番目なんですか。
 蛙さんは、その突然の問いに戸惑ったように目を泳がせました。その反応を見て、私は取り返しのつかない事をしてしまったと、元に戻らない言葉を悔やみました。彼のまるで茎のような長く華奢な首から腕を離すと、私は、ごめんなさいと呟きました。息苦しいほどの沈黙があった後、蛙さんは。
「二番目とか思ったことはないよ。蝸牛さんはいつだって僕にとって大事な人には変わりはないのだから」
と、目を逸らして独り言のように呟きました。私は、彼の腕を掴んで、なぜこっちを向いて言ってくれないの、大事な人だけど一番ではないのね、と問い詰めたい気持ちをぐっとこらえました。全て承知の上だ。と私は心の内でそう自分に言い聞かせました。先が見えないのも、彼に家庭があるのも、一番でいられないのも、全て承知の上で私は線を飛び越えたんだ。もし私が泣いたとしても、誰が同情をくれるだろうか。私は道徳に反した行為をした。もし私が悲しんだとしても、誰が味方をしてくれるだろうか。目の前の蛙さんでさえ味方をしてくれないかもしれない。
それも全て承知の上で私はセックスをしたんだ。
 
やがて秋が訪れて、雨が降りしきる日が続きました。
 「あっ」
 散歩の途中で、石階段を上がって行くと私達は、季節外れの紫陽花を見つけました。紫陽花は、そっと身を隠すようにして垣根の中に小さく固まって咲いていて、花の襞の所に溜まった雨滴がきらきらと光を放っていました。私はしゃがんで、携帯で紫陽花の写真を一枚撮りました。
「秋の紫陽花なんて、珍しいものじゃないよ」
「そうなの?」
「うん。俺の実家の周りにある紫陽花は秋に咲く」
行こうよ、と蛙さんは私の手を取り、歩くことを促しました。私は立ちあがって、偶然出会った紫陽花を名残惜しく一瞥し、蛙さんの背にまた目を移しました。
「雨に咲く花って素敵だと思う」
「ふうん。なんで」
何気なくその理由を聞かれて、私はふとついた言葉に特別な意味はない事を知り、ただ苦笑して、なんでだろう、と独り言のように言いました。そして、私は、なんで、という事をあまり蛙さんに問いかけていない自分に気付きました。なんで、という言葉は相手を非難したり否定したりする含みがあるような気がして、それを使ったら、二度とこの左手を蛙さんは握ってくれないと無意識の内に自然とその言葉を避けている自分がいることに気付きました。
柔らかく温かな雨は、私達を包みこむような優しさで、ただ降り続けていました。私はなぜ、雨に咲く花が素敵なのかその理由はわからないけれど、ただ、雨だけは私達の味方であるような気がして、そして雨のなかに咲く紫陽花は私のようだと感じていました。
 
 関係の終わりが来る前に、私の中で新たな生命が芽吹く予感がしました。生理が来なくなって2カ月が経ち、まさか、とは思ったけれど私はコンビニで妊娠検査薬を買って、検査をしてみました。その結果は陽性でした。
 私は、トイレの中で暫くその検査薬の棒の真ん中に浮かぶ印を眺めて、ぼんやりとしていました。私はこういう場合どう動いたら良いのか全くわかりませんでした。だけどはっきりとしている事は、堕胎か出産か、この二つしか私には選択肢がないという事でした。そしてこの事を誰に伝えたらいいのか。お母さんに伝えたらいいのか。蛙さんに伝えたらいいのか。それとも自分の中で抱えていくしかないのだろうか。
 お腹を撫でてみて、その奥にある命の震えを感じ取るために手に神経を集中させてみました。私の子宮の中に宿った生命は、どちらを望んでいるのだろうか。生まれて新しい世界の光を浴びることを望んでいるのか、それともこの子宮の中の暗闇のまま、何も知らないままその生涯を終わらすことを望んでいるのだろうか。ねぇ、あなたはどっちなの。
 人がそれぞれジユウイシというものを持つ権利があるとするなら、今この場でこの子にそれを与えてください。と、私はカミサマに強く願いました。そして、こんな母親でごめんなさいと、泣きながら子宮の中に宿った蛙さんの子に、謝りました。こんなことをしても、声を持たないお腹の子は、私を怒ることも許すこともできないのだと知りながらも。
 くたびれた心と体のままでも時は公正に流れ、いつものように週末は現れて、蛙さんと会う日がやってきました。蛙さんは車で私の家の近くの公園まで来て、コンビニで買ったりんごサイダーを持って、待っていてくれました。蛙さんのグレーの車を見つけて、近づくと助手席の窓が開き、そこからひょい、と蛙さんが顔を出しました。いつもと変わらぬ陶器のような白く無機質な整った顔を見ると、私は安心して、慰めのような小さな幸せを胸に感じました。ドアが開き、私が助手席に乗ると、蛙さんは私にシートベルトを締めさせながらふと顔を覗きこみました。
「風邪、引いたの?」
「いいえ。どうして?」
「顔が青いから」
その時、瞳が重なって、言葉が途切れました。言うなら今だと私は、口を開こうとしましたが、蛙さんの顔が近づき、話しを切りだそうとする唇を塞がれました。外は、この日も温かな雨がしとしとと絶え間なく降っていて、厚い雲に蓋をされ薄暗くなっている車の中で私達は深く相手の唇の中をむさぼるように、キスをし始めました。
 彷徨うように動く彼の手は、やがて私の下腹部を触り始め、私は、子供に私達の淫らな行為を勘づかれてしまうのでは、と一瞬ひやりとして、急いで蛙さんの手を止めました。蛙さんは驚いた様子で、どうしたの、と私の瞳の奥に語りかけ、今日は生理があるの、とその場でどうにか言い繕いました。蛙さんは、なんだ、と明らかにがっかりした様子で私から手を離し、それなら早く言ってくれればいいのに、と温度の無いぼそりとした声でそう言いました。顔を背けてハンドルに手をかけた時、私は次に続く言葉が自然と頭の中で浮かんできました。それは私を戦慄させるような言葉でした。
―早く言ってくれればいいのに。そうしたら俺は今日お前の所に来なかったのに。
言葉や仕草や私の体に触れる手の荒さから段々分っていた事ですが、その時はっきりと私は知りました。この人はもう私に興味を失っている。
 彼にとって私はもう性欲処理の機械でしかなくて、愛してるとか、愛してないとか、そんな事はもうどうでもよくて、全て面倒臭くて、求めているのは心ではなく穴がある肉の塊である性器でしかないのだと。
 ぞっとする程、私の頭は素早く回転し、そんなオゾマシイ言葉がどんどん出てきました。だけど、私には蛙さんが必要でした。蛙さんにとって私が性欲処理機であるならば、私にとって蛙さんは、自分の優越を満たす恋人という文字の書かれたラベルなのだと。
 いつからか、私は無意識にそんな事を思って蛙さんと会っていたことに気付きました。
 フロントガラスには幾つもの雨滴がしたたかに叩きつけられて、涙のようにとめどなくガラスの表面を流れていく様子をぼんやりとした瞳で眺めていました。
 今ここで。と、私は思いました。
 今ここで、私の体にあなたの子供がいるのと言ったら蛙さんは私の元から離れないでしょうか。
 横で蛙さんが何か話していて、知らぬ間に車が動き出して目の前のワイパーが左右に触れ始めました。雨滴はワイパーによって排除されて隅の方に流されていきました。私はゆっくりと瞼を閉じて、車の外で降り続いている雨の足音に耳を澄ましていました。さあさあさあとぬるい風を切っていく雨音が聞こえます。閉じた瞼の裏で、ふと中央におぼろげながらも青白く光るものがあって、次第にそれの縁が鮮明になっていき、やがて紫陽花の形を成していきました。その手まり状の形の中に幾つもの花びらが敷き詰めてられいて、幾つもあるその花びらの数を一枚一枚私は数えていきました。ひとつふたつみっつよっつ。蛙さんの声は段々遠くなっていき、あれ、どうしたのだろう、私は知らない間に夢を見ているのだろうか。それとも蛙さんと私の今までの関係が夢だったのだろうか。遠のく意識の中で、私は数えることをやめ、いつの間にか幻のように瞼の裏に輝く紫陽花の花をむしり取っていました。ひとつふたつみっつよっつと。それは私の子宮の中にある卵子のようで幾つむしり取っても切りがない。花びらを剥ぐことに夢中になっていた私でしたが、途中で自分の腕にひやりと冷たいものが触れる感触がしました。私はゆっくり首を捻り自分の片方の腕を見ると、大きな蝸牛が腕を這っていました。

「寝てるの?これ、飲まないの?」
蛙さんの声に目が覚めて、現の自分の腕の方に目をやると、そこには蝸牛ではなく水滴のついたペットボトルが私の腕にシャツの上から触れていました。蛙さんが私の為に買ってきてくれた青りんごの炭酸ジュースでした。私は安心して詰まらせていた息を大きく吐き、彼の差しだしたペットボトルのジュースを受け取りました。
「私、さっき夢見ていたみたい」
「ふうん。どんな」
「もう忘れた」
蛙さんは、ふっと笑って、そう、と相槌を打ちました。唇の端に窪みをつけるいつもの頬笑み方です。
 夢、だ。蛙さんが私を性欲処理機だと思っている事も、私が蛙さんを恋人というラベルで見ている事も、全て悪い夢なんだ。私はそう、改めて自分に言い聞かせ、勇気を振り絞って、蛙さんに話しを切りだしました。大丈夫、私と蛙さんなら大丈夫。
「私、蛙さんの子供がいるみたい」
胸の奥にある心臓の代わりに、お腹の奥でどくんどくんという鼓動の響きが聞こえた気がしました。私の告白に、蛙さんは、目だけこちらの方を向いて、そう、と素っ気なく感情のない声を発し、またフロントに目を移しました。まるで興味のないラジオを聞いている時のように、ポケットから煙草ケースを取り出して、口に煙草を咥えました。
「それで」
とだけ言って、蛙さんは煙草に火を灯しました。冷たい反応にも怯まず私は、続けて訴えるように言いました。
「子供がいるの」
「俺にどうして欲しいの」
前の私の声に被せるようにして言った蛙さんの声は、心なしか苛立ちの色が見えていました。どうして、と問われて、私は次につなぐ言葉を見失ってしまいました。だって、私は蛙さんに特別どうこうしてもらおうなんて思っていなかったから。ただ、傍にいて欲しいと、それだけを思っていたから。
 煙草の先から、くすんだ白い煙がゆらりと身をくねらせ低い天井に向かって伸びて行きました。蛙さんは、煙草を持った手を軽くハンドルに触れさせながら。
「まさか蝸牛さんがそういう人だとは思わなかった」
と、一言心底失望したような口調で言いました。私はその意味がわからず、え、と聞き返しました。
「何が目当てなの。お金?」
「待って。どう言う事」
「蝸牛さんはお金が目的のようには思えないな。ただ単に俺の事を脅したいだけか」
「そんな」
「いいよ。別に俺は驚かない。前にもそういう事あったからね。でも蝸牛さんだけは違うんだと思っていた。それには失望したよ」
 ―前にもそういう事あったからね。
 あぁ、蛙さんは私が初めてではないんだ。当然のことですが、私は初めて知った時のように、その事に衝撃を受けて、途端に悲しくなりました。最初の不倫ではなくて、何番目かの不倫なんだ。私はそういう人と、好き合い、付き合い、そしてそういう人の子供を身ごもったのだ。なんていう馬鹿なんだろう。私は。
 こういう場合、私は泣けば良いのでしょうか。疑いの目を向けることによって、自分が背負わされる責任を回避しようとするこのずるい男の人の前で泣くことで、少しでも自分に有利に働かせるようにすれば良いのでしょうか。恋愛ってこんな風に打算し、相手と自分を騙しながら事を運ばせるものなのでしょうか。私にはわかりませんでした。わかりたくもありませんでした。きゅっと下唇を噛んで私は胸の前を絞めるシートベルトを外し、車から降りようとしました。蛙さんは、何も言わず、ドアを開ける私の後ろ姿を見ていました。一言、行くなと言って欲しかった。
今まで、私は望むものを少なくしてきました。今でもそんなに多くはありません。けれどひとつだけ、私は蛙さんに求めていることがある。必要として欲しい。そんな単純で簡単なことを、求め望んでいる。
 幾らでも、必要であると私が訴えたなら蛙さんは素敵な事を言ってくれたでしょう。でもそれが心からのものではなければ私のからだとこころの中は充足しない。いつも彼の口から吐き出される言葉の真偽を探っていて、それに疲れを感じている自分がいました。情事の時も、私の体の部位をひとつひとつ丁寧に検分していくような指先の巧みな動きを感じながら、私は蛙さんはほんとうの気持ちで、この行為をしているのかと疑いながら身を彼の手の中に心と身を委ねていました。そういう事を積み重ねて、私は、限界の縁まで辿りついてしまったようです。
 車を降りた私は、容赦なく叩きつける雨粒の鋭利さに耐えながら、車道の真ん中を歩いていました。丸めた背中のほうから、幾つものクラクションが聞こえ、私は今、道を走ろうとしている人達に迷惑をかけているんだと感じました。しかし、視界の端に見える白線の向こうには、私に気にもかけず悠々と走っている車があります。ふと白線の向こうに誰かが呼んでいる気がしました。それは、あの散歩の時出会った、潜むように生きる紫陽花でした。今、私は、白線を越えようとしています。蝸牛のような緩慢な動きで白線の向こうに行こうとしています。蛙さんと関係を結んだ時のような不安は不思議とありません。あるのは、胸が焦がれるような憧憬です。白線の向こうにあるのは自由でしょうか、中途半端な生でしょうか。あんなに大好きだった蛙さんの言葉が聞こえない今は、どっちでも良い。
ただ、白線の向こうに憧れて、今私は踏み越えようとしています。

蛙と紫陽花

確かこれを書いたのは二年ほど前だったと思います。
楽しみながらというよりも苦しみながら、書いていたと思います。
今読み返してみると、主人公の妄想的な解釈が多く、書いた本人もちょっと疲れてしまいます。
前回の「影追い」と同様、暗く重たいものですが、あえて晒してしまいました。
次はもっと明るいものが書けるようになれたらいいと思っています。

蛙と紫陽花

  • 小説
  • 短編
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2015-08-16

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